説教「神の知恵」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章20~25節

第5回

コリントの信徒への手紙Ⅰ   1章20~25節「神の知恵」

今日与えられた御言葉は私たちに励ましを与えてくれる言葉です。神の救いを語ってくれる言葉です。<こういう言葉は何度読んでもいいところです>神の救いの見事さに心打たれるものがあります。では、まずゆっくり味わいながら読んでみましょう。20節です、「知恵ある者はどこにいる、学者はどこにいる、この世の論者はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」ここには神の救いの御業の見事さ、それに対して人間の業と知恵の惨めさとが鮮やかに示されています。この世は自分の知恵で神を知ることができないと言っているのです。私たちが求めたいのは神様から力が与えられることです。そして勇気と希望が与えられることでしょう。しかし、ここでは神の救いが人間の力に比べられているのです。十字架の言には神の力がある、と18節で告げていました。それなら人間の知恵や力はどこにあるのでしょうか、それをいきなり「知者はどこにいるか、学者はどこにいるか」と問うてきます。知者と言うのはただ知識を持った人、ということではありません。神の知恵であります。その知恵は人の救いになるのだ、と言っているのです。

世の中にはこうしたらあなたの人生は幸せになりますよとか、こうした人生もあります、といった知恵はいくらでもあります。しかし十字架の知恵に比べたらそれは物の数ではない、と言っているのです。学者というのも世間で言う学者ではありません。コリントはギリシャ文化や貿易の最も盛んな栄えた町でしたから学者と言われた優れた人も多くいたでしょう。しかしここでは律法の学者となっています、またある訳では聖書の学者のことと書いてあるといいます。聖書と言う場合この時代、もちろん旧約聖書のことであります。いずれにしろ神のことについて知っている専門家というに違いありません。それならば神のことについて知っているといっても、そんなことは十字架の前にいかに空しいかということであります。神のことについて知っていると言う者はどこにいるか、いや彼らは神を本当に知ることができない者たちではないかということであります。この世の論者というのは、この世にあってこの時代あって、いろいろと議論をしたがる人々ということでしょう。ある訳では物を書く人や評論家と訳してあります。こういう仕事をしている人々がそのまま悪いわけではないでしょうか。十字架の救いにおいて神がなさったことに比べたらその知恵において、その力において、いかに貧弱なことでありましょう。それは多くのことを語りながら結局は救いを与えることはできないからであります。神様は十字架をお与えになってこれらのものを愚かしいものとしてしまわれたのです。人間は多くの知恵を持っているつもりであります。それらの知恵に時として感動してしまう程のこともありましょう。しかし神からご覧になればそれらのものは愚かしいのであります。なぜなら救いを与えることができないからであります。

ローマ人への手紙1章18~20節を見ますと「人間は神を知ることができたのに神を知るに至らなかった」と書いてあります、なぜか。18節にこうあります。「不義によって心理の働きを妨げる、人間のあらゆる不信心と不義に対して神は天から怒りを現されます。」それで今日の聖書のコリント第Ⅰ1章の方の21節では「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」とあります。ここのところをある訳ではこう言っています。神は理性の助けによって神を知る力を与えておられた。しかしそれはできなかった、ということをもうすでに含めて言っているわけです。人間は長い間理性と言うものを持って神を求め続けてきたということも言えるでしょう。しかしそれと同時にそのようにして神を知ろうとするのには神が見えるはずである、ということがなければなりません。人はみなそう思って神を探し求め神について語ってきたのであります。しかし神を見出すことはできなかったのであえります。なぜでしょうか。それは人間には罪があるからであります。神を知るというのはその辺の物を知ることとは違います。人を知るように知るのは神を知ることは神を愛することと同じであります。ですから神を求めようとする者に罪があっては神を知ることができないのであります。罪ある者は神の前に出ることができません、従って神を知ることができないのであります。この世は自分の知恵によって神を知るに至らなかったのであります。ここには自分の知恵と書いてあります、理性も神から与えられたものであるにちがいありません。しかし人間はそれを神の下さった知恵として用いず、つまり信仰によって用いることをしないでこの世の知恵として用いました。その故にこの世の知恵を持っては神を知ることができなかったのであります。旧約聖書は人間が自分たちの力で神にまで至ろうとして神の怒りに会ったことを書いています。バベルの塔です(創世記11章)同じようなを人間は繰り返ししていると言ったら良いでしょう。21節を見ますとこの世は神を知ることができない、それは神にふさわしいことである。そこで、であります。

この「そこで」の文字は大切な文字であります。字の通り訳せばなぜならばそういうことだから、とでも言うべきところであります。簡単な「そこで」ではなくて、それにはこういうわけがある、それゆえに、とその後に言うことの重要さを示している言葉ばなのです。「そこで」の次に神がお喜びになった、という字が来ます。ある訳では決心されたとなっています。そういうわけなので神は宣教の愚かさをもって人を救うことをことを喜んで決意されたとなる。人間がその知恵を持っては神を知ることができなかった、そこで神は宣教の愚かさを用いられた。それが宣教の理由である、ということになります。宣教の愚かさと書いてありますが宣教とは説教と言う字であります。人間が言わば人知の限りを尽くして神を知ろうとして果たし得なかったのであります。それに対して神はただ福音の説教で救いを与えようとされたのであります。しかもただ救うとは言っていません、信じる者を救うのであります。キリストを信じる者を救うのであります。実はキリストをお遣わしになってご自身を現されたのです。人がその罪のゆえにどうしても神を知ることができないのを、神はキリストによる救いによって罪人を救うという方法でご自分を人にあらわされたのであります。こうして人は救われる、と共に神を知ることができるのであります。宣教は説教のことであると言いました、その説教は福音の説教、つまり福音を告げることであります。宣教という字は宣言することであります、説教の内容は何でしょうか。イエスという人が子として神の子として来られ罪人のために十字架につけられたのであります。まことに単純な話であります。神を求める知恵に比べて実に簡単な報告です。神がなさったことの報告であります、事実の宣言です。それは人には愚かにしか見えないかも知れません、しかしここにこそ神の知恵があるのです。

コリントにはユダヤ人とギリシャ人、いろいろな人種の人々が集まっていましたがこの二つの民族が主な代表でありました。そしてユダヤ人はしるしを求める、ギリシャ人は知恵を求めると言っています。しるしのことを、ある訳では奇跡による証明と言っています。ユダヤ人は神に選ばれた民であると誇り神の恵みを受けながら神のなさることを信じることができませんでした。それで彼らはいつも神の恵みが与えられているということの証拠を求めていました。それに対してギリシャ人は知恵を求めました。それは哲学でした、人間の理性に基づいて事を考えることこそ彼らの生きがいでありました。それは全ての人間の考え方を代表しているようなものです。しかしこういう人間にとって神の救いである十字架はどう見えたでありましょうか。しるしを求めて止まないユダヤ人にとっては一人の人間が神としてこの世に来た、そして十字架につけられるというようなことは奇跡的な証明どころかとんでもない信じがたいことと思われました。神の子が十字架にかかる等ということは神を汚すことになると考えたのです。ギリシャ人にとって十字架はどうでしたか、いうまでもなく愚かな話であります。ひとりの人が罪のために死ぬなどと言う事は理屈にあわないことであります。彼らが十字架を侮ることもよくわかります。

しかし私たちは十字架につけられたイエス・キリストを宣言し続けるのです、ここにのみ救いがあることを知っているからであります。これこそは召された者自身にとっては神の力また神の知恵であるキリストだからであります。24節でそれを言っています。今まで救われる者、信じる者といっていたのにここでは「召された者」になりました。救われるのはキリストの救いを信じるからであります。しかしどうして信じることができるようになるのでありましょうか。自分から進んで信じたのでありましょうか。実はそうではありませんでした。私たちも信じられなかったのであります、ためらったのです、決断がつきません。しかし神様が呼んでくださったのであります、神様が招いてくださったのであります。神に召されたにすぎないのであります。それで十字架のキリストがどんなに強力な力か、どんなに深い知恵をか、を知ったのであります。ここまで示されてみて私たちもしみじみパウロと共に言わざるを得ません。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」。十字架は孤独な救い主の業のように見えます、しかし十字架こそはあらゆる人間のどんな力よりも強いものではないでしょうか。十字架は理屈に合わないと軽蔑します、しかし神の言葉がそこに生きているのであります。   アーメン

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