宣教師館の窓から 「さよならの力」は復活の信仰にあり、 吉村博明 宣教師

窓

桜の開花が近づいた頃、新聞や電車の広告に伊集院静氏の新刊「さよならの力」が目に留まった。氏が執筆している「大人の流儀」シリーズの第7巻で、同シリーズは既に160万部売れていると言う。私も、「さよなら」には、別離がもたらす辛い現実に足を踏み出させる力があると思っている。ただ私の場合、そう思うのは、キリスト信仰と関係があるからとわかっているのだが。もし伊集院氏がキリスト信仰者でなければどういう道筋で「さよならの力」を見いだしたか興味がわき、それで本を手にした。氏がキリスト信仰者でないことは、本書の内容からすぐわかる。

青年期に弟を事故で失い、大人になってからは妻を病気で失った伊集院氏は、深い喪失感の中で苦しみ抜いて考え続けた結果、次のことに思い至る。「いつまでも俺が不運だ、不幸だと思っていたら、死んでいった人の人生まで否定することになってしまう。短くはあったが、輝いた人生だったと考えないといけない。」(p.183)

他にも同じような知恵ある言葉があるので引用する。「たとえ三つで亡くなった子供だって、その目で素晴らしい世界を見たはずです。だから『たった三つで死んでしまって可哀想だ』という発想ではなくて、『精一杯生きてくれたんだ』という発想をしたい。そうしてあげないと、その子の生きた尊厳もないし、死の尊厳も失われてしまうのです。

やがて、歳月は、私たちに彼等、彼女たちの笑ったり、歌ったりしているまぶしい姿を、ふとした時に見せてくれるようになります。」(p.186)

長い間、去って行った人たちが、どこかで独り淋しくうつむいているのではと憂えていた感情が、今は、彼、彼女の笑顔が浮かぶ時さえある。」(前書き中)

これらの言葉を生み出した背景には、氏の個人的な体験のほかに、東日本大震災をはじめとする近年日本を襲った自然災害の犠牲者や被災者に対する氏の共感があることは言うまでもない。

もちろんキリスト信仰にあっても、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱く。ただし、キリスト信仰の場合それは、死者が復活させられる日が来るという復活の信仰と表裏一体になっていると私は考える。どういうことかと言うと、人間は死ぬと、宗教改革のルターも言うように、復活の日が来るまでは安らかに眠る。痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時を持つ。そして復活の日が来ると、朽ちない復活の体を着せられて、天の御国に迎え入れられる。

そして、そこは、懐かしい人たちとの再会が待っているところである。
亡くなった人は復活の日が来るまでは眠っているだけなので、仏教で言われるように仏の世界に到達するための修行の旅に出るということはない。亡くなった人が仏の世界に到達できますようにと、一生懸命香を焚いて釈迦を宥める必要もなく、お腹が空くだろうか喉が渇くだろうかなどと心配する必要もない。安らかに眠っているのだから。

そう言うと、キリスト教は死者をほったらかしにする冷たい宗教と言われてしまうかもしれない。しかし、キリスト信仰では、亡くなった人の過去の思い出を何ものにも替え難い大切なものとして心にしまっておく。その人と共に過ごした日々を与えてくれた天地創造の神に感謝する。神が与えて下さった日々だから、思い出はなおさら貴重なものとなる、と言うか、亡くなった人は安らかに眠っているだけなので、関わりを持てるのは過去の思い出しかなくなってしまうのだ。それも、飛び切りの、いつまでも輝きを失わない思い出が全てになるのだ。そういうわけで、キリスト信仰は過去の思い出以外には何も残らないと観念してしまうのであるが、仏教では亡くなった後もその人とコミュニケーションや結びつきを懸命に保とうとすることが大きく異なるのではないだろうか。加えてキリスト信仰では、亡くなった人がこの世にいる者たちを見守ったり、助けたり導いたりすることもない。その役割は全て天地創造の神に任せられているからだ。

過去の思い出だけでは空虚さを満たせないのではないか、亡くなった人とのコミュニケーションや結びつきを保ち続けないと生きていく力が生まれないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、復活の信仰がある限り、そんなことはないと思う。復活の日、それまで「思い出」という形にしかすぎなかった懐かしい人が再会の時、体を伴った現実の人に変わり、かつて引き裂かされてしまったものが縫い合わされて、神に全ての涙を拭ってもらう(黙示録21章4節)、そういうふうに信じるのが復活の信仰である。そういうわけでキリスト信仰者というのは、亡くなった人の思い出を何ものにも替え難い貴重なものとして心に抱き、その人と共に過ごした日々を神に感謝し、復活の日の再会の希望を抱いて今を生きる者なのである。

伊集院氏は素晴らしい思い出の大切さを強調する一方で、お母上が仏壇の前で亡き次男に語りかけることに違和感を覚えない。また、思い出の人が自分の身体の中に生きていてそれが生きる力を与えているとも考える。キリスト信仰から見れば、まだ「さよなら」と言いきれていないのではないか、と思われるかもしれない。見えない相手に語りかける場合、キリスト信仰では天地創造の神以外にはないからだ。復活の信仰がないところでは、思い出を大切にすることと、亡くなった人とのコミュニケーションを保とうとすることは両立するということか。それから、キリスト信仰では、思い出の人が身体の中に内在化することもない。というのは、生きる力を与えるのはあくまで三位一体の神だからだ。

亡くなった人の素晴らしい思い出を大切にすることと、復活の信仰がしっかり結びついていることをよく示す例として、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の最終場面をあげることができる。この小説は、いろんなジャンルの小説が合体したような壮大な小説で、いつだったか村上春樹氏がインタビューで自分は三回読んだと言っておられた。(私はまだ二回である。ところで「騎士団長殺し」の各章のタイトルが長めなのは「カラマーゾフ的」?)。

問題の最終場面とは、カラマーゾフ家の三兄弟の運命がそれぞれ決まった後のところである。無頼漢の長男ドミートリイは本当は無実なのだが父親殺しの判決が下ってしまいシベリア流刑となる。無神論者の次男イワンは理性を超える神の摂理を受け入れられず、宗教からの自由を追求すればするほど逆に別のものに束縛されるジレンマに陥り、ついには精神に異常をきたしてしまう。三男のアリョーシャはロシア正教の信心深い青年で、兄たちの運命を見届けたら故郷の町を出て行こうと決心する。

最終場面は、イリューシャという結核で死んだ少年の葬儀である。柩の埋葬を終えて参列者は墓地からイリューシャの自宅へ向かう。中学の同級生たちは皆、大泣きに泣いている。実は彼らはかつてイリューシャをいじめていたのであるが、アリョーシャが間に入るようになってから次第に態度を変え、病気の可哀そうな同級生を励ましてあげようとしだす。しかし病状は好転せず、少年は死んでしまう。

イリューシャの思い出の場所にさしかかった時、アリョーシャと少年たちは立ち止まる。そこでアリョーシャは思い出の尊厳ということについて話し始める。今みんながイリューシャを本当に愛していたことがよくわかった、彼のことを決して忘れないようにしよう、本当に素晴らしい少年だった、と。すると同級生たちは皆口々に、あの子は父親の名誉のために一人で大勢に立ち向かった勇敢な親思いの本当に高潔な少年だった、と言う。そこでアリョーシャは、みんながイリューシャのこと、この葬儀の日のことをしっかり覚えていれば、将来大人になって何か悪いことをしそうになった時、それを思い止まらせる力になる、とさえ言う。あの時自分はあんなに素晴らしい少年を知っていたではなかったか、そして彼のことを一生忘れないようにしようと誓い合ってみんなの心が一つになったではなかったか、それを思い出せばきっと悪いことを思い止められる。そんな力があるのだ、と。そしてアリョーシャは続ける。

「この善良な素晴らしい感情で僕たちを結びつけてくれたのは、いったいだれでしょうか、それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカ(イリューシャのこと)にほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生き続けるのです!」少年たちは口々に忘れないことを誓う。その時 少年たちの目には「涙が光っていた」のであるが、この涙は先ほどの埋葬の後の涙とは別の新しい涙だったに違いない。

ここで一人の少年が突然、驚くべきことを言う。それは、まさに思い出を大切にすることと復活の信仰が結びついていることを示すものであった。驚きなのは、それを言ったのがコーリャという少年で、彼は同級生グループがイリューシャをいじめた時にも励ました時にもリーダー格だった。大人顔負けの頭の良いませた少年で、このまま行けば自己の能力を過信する無神論者になってもおかしくはなかった。その彼がアリョーシャに向かって、こんなことを言ったのだ。

「僕たちはみんな死者の世界から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」

感激してしまったアリョーシャは答える。
「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです。」

「ああ、そうなったら、どんなにすてきだろう!」と叫ぶコーリャ。
ここでアリョーシャは少年たちに向かって、さあ、イリューシャの家に葬儀の会食をいただきに行こう、みんなが大好きなホットケーキが出されても、うしろめたい気持ちを持たなくていいんだよ、と促す。アリョーシャと少年たちは皆、元気よく手をつないで歩き出す。こうして、この壮大な小説は幕を閉じる。

・・・・・・・・・・     ・・・・・・・・・・ 

イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことについては、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とラザロ(ヨハネ11章)の例が詳しく記されている。両方の場でイエス様は、死んだ者は「眠っているにすぎない」と言って生き返らせる。もちろんヤイロの娘の場合もラザロの場合も、将来の復活の日に起こる蘇りが起きたのではない。娘もラザロもその後寿命が来て「眠り」についたのであり、今は本当の復活の日を待っているからだ。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったかと言うと、それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはいないということを前もって具体的に人々にわからせるためであった。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
― 兄ラザロの死を悲しむマルタにイエス様がかけた言葉(ヨハネ11章25節)

「この世のたび 終わるそのとき
主のみ国に うけ入れたまえ。
わがからだは 墓に在りて
いと安けき 眠りにつかん。

終わりの日に 墓はひらかれ
眠れるもの よみがえらさる。
わがからだの 朽ちぬものに
変えらるるは いともうれし。」
― 教会讃美歌366番「愛のいずみ」4節と5節

「カラマーゾフの兄弟」からの引用は、新潮文庫の原卓也訳による。

新規の投稿