説教「十字架の言こそ力」木村長政 名誉牧師、コリントの信者への手紙Ⅰ 1章18~19節

第4回 コリントの信者への手紙Ⅰ 1章18~19節

今日の礼拝では1章18~19節のみ言葉を聞いて見ましょう。前回の1章10~17節までの結論はキリストの十字架が空しくならないため、ということでありました。更に言えばこの手紙のひとつの願いはキリストの十字架が空しくならないように、ということであります。この手紙には多くのことが書いてあります。一貫したことを述べるのでなく、コリントの教会が持っている問題を次々に取り上げていくような書き方であります。しかしその問題についてもパウロが願っていたことは「キリストの十字架が空しくならないように」ということでありました。聖書がいつも願っていることはそのことでありました。従って18節にあります言葉「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが救いに預かる私たちには神の力である」この言葉は聖書の内容を代表する大宣言であった、と言って良いでしょう。18節のはじめに「なぜならば」と言う字が入っています。十字架の言を空しくしてはならない「なぜならば」十字架の言こそは神の力であるからである、というのであります。十字架の言こそは私たちの唯一つの力である。それゆえに何を行うにも十字架が空しくならないようにするのである、ということです。そこで17節を注意深く見てみますとキリストが私を遣わされたのは洗礼を授けるためではなく福音を知らせるためであった。しかもキリストの十字架が空しいものになってしまわぬように言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。この中ほどに「しかもキリストの十字架が空しいものなってしまわぬように」と言っています。

ところで18節の方では「十字架の言」というのであります、言というのであります、なぜそうなのでしょうか。それは言のない十字架は力にならないからです。だから十字架の言が大事なのです。キリストが十字架にかかられた時カルバリーの丘には三本の十字架が立ちました。キリストを真ん中に二人の盗賊が同じようにつけられたのであります。今日私たちは真ん中の十字架が他の二本の十字架とは比較にならない力を持っていることを知っています。しかし当時、例えばたまたまその辺りを通りかかった人がはたして三本の十字架が違うということを知ることができたでありましょうか。その人にとっては三本とも全く同じもので、何の違いもない犯罪者の十字架であるように見えたでしょう。ただ主イエス・キリストがどういうお方であったかを知っていた人だけがその違いを知ることができたでありましょう。人々が興奮しわめき騒いでいる中で主イエスに向かって立っていたローマの軍隊の百卒長だけがこのように息を引き取られた主イエスを見て「まことにこの人は神の子であった」と言われました。マルコ福音書15:39節にあります。これは今日の私たちの気持ちを代表するものであります。百卒長がどれだけキリストについて知っていたか分かりません。しかし彼は彼なりに裁判の場からの主イエスのご様子を見ていて「まことにこの人は神の子であった」と叫んだのでありましょう。十字架はただの飾りではありません、神の御子が私たちの罪のために死んでくださったのであります。それならばここに死なれたお方が神の子であり、その御子が私たちの罪のために死なれたのである、というこの事が分からなければこの死は一人の犯罪者の死となってしまうのであります。そのためには十字架の言が必要なのであります、十字架の意味が分からなければなりまsぜん。それもただ一度知る、というのでなくて幾度となくそれを知りそれを知るごとにそれによって与えられるものを悟るものでなければなりません

 

例えば机の上に十字架を置きます、それは悪いことではないでしょう。その時どのようにして十字架を見つめるのでしょうか。そこで十字架の言を聞くのであります。十字架の言を考えるそして祈るのであります、祈りの中で更に何かが与えられていくのでありましょう。十字架の言という場合、この言は漢字の二文字(言葉)の葉を取り除いた言という一文字で言います、聖書では特別な意味ある重要な言葉であります。ヨハネ福音書1章1節に出ています「始めに言があった。」この場合の言は主イエス・キリストのことを指しているのです。十字架の言、というものは第一には十字架の意味である。しかもその意味は御子が罪人のために死んでくださった、ということでありました。そうであればそれはただの意味ではなく特別の主張を持ち人々に訴えるようなものである、と言わねばなりません。それはただの話ではなくて人を救うことを告げるものであると言わねばなりません。そうすると十字架の言というのは人間の救いについて語るということになります。救いを語るということであればそれはただの話をすることではなくて、どうしてもこれを伝えてその人を救おうと言う事になるのであります。十字架の言が救いの言葉であるとすればそれはどういうことになるのでありましょう。第一に十字架の言を語る人自身がそれを救いの言葉であると認めなければならないでしょう。自分が十字架の言によって救われている、というのでなければならない。十字架の言を語る者は自分がそれによって救われたことを語るのであります。自分の救いであります。

例えばサマリヤの女が昼の暑い時井戸水を汲みに来て主イエス様に出会いました、主イエスと出会って井戸水の事からこのお方がメシヤだと知らされ救われたのです。自分が救われたことを語り他の人々に伝えていったのであります。上手には説明できないかもしれない、しかし自分はそれによって救われた、と語るのでなければ誰も信用してくれないでしょう。そうして見ると十字架の言は十字架の証しいうことになるのであります。それと共に全ての人に対してその人が救われなければならないことを告げなければならないでしょう。救いが必要なのにそんなものは関係ない、と思っている人にそれを悟らせねばなりません。証ししなければならないのであります。これが十字架の言であります。聖書はそのことを良く知っています、そこで十字架の言をただの言葉とせず、滅び行く者と救われる者とに分けて考えようとします。ある人にとってはいきなり滅びとか、救いとかいうことが突然なことかもしれません。しかし十字架の言がただの言葉でなくて人々に訴えるべき言葉であるとすればそれが救いの言葉になることは当然であります。まだ救いを必要としていないかも知れない、しかしこの言葉は救いを与えることを目的としています。人生の暮らし方とか生活の知恵とか、ということを問題にしているのではありません。あなたは救われなければなりません、ということをパウロは言おうとしているのです。そのことを別な言葉で言えば滅び行く者と言うことになるでありましょう。

キリストは十字架において私たちの罪のために死なれたのであります。それならここは滅び行く者と言わないで罪ある者と言えば良いのではないか。「滅びる」などという言い方は大げさであると思われるかもしれません。或いは古い言い方であると言われるかもしれません。しかし聖書はこれの方が罪ある者の実際の姿であると言うのであります・なぜなら罪があるというのは人間の状態ではありません。神の前に自分がどういう者であるかということなのであります。自分の罪に対してどういう責任をとるかという最も厳しい問いで問われている。その時その罪の責任を果たすことが出来なければ滅びるしか他はないことに気づくのであります。死は肉体の滅びになりましょう、しかしそれだけでなく罪の責任を問われそれに答えることが出来なければ一切の滅びになることが分かるのであります。十字架の言はそれを告げるのであります。しかしもしそのことに気づかないとしたら十字架の言ほど愚かしいことはない、十字架の救いほど愚かしいことはないでありましょう。

 18節で言っているように十字架の言はまことに滅び行く者にとっては愚かなのであります。それに対して救いにあづかった私たちにとっては十字架の言こそ強力な力であると宣言するのであります。「私たち」と言っているようにこれは実際に救いを受けた者の証言であります。理屈でもなければ説明でもありません。救いを受けてその力を知った者がそのことを証ししているのです。力という字はダイナマイトと言う字に用いられた字です、救いを受けた者から言えばこれは何もかも吹き飛ばしてしまうような力でありました。罪についての悩みもその恐ろしさもそれから出る不安も、どれもこれも消し飛んでしまって無くなってしまった、と言いたいのあります。この神の力こそがどんな人間の知恵や賢さをも打ち破る力でありました。教会の伝統と働きは救われた者の信仰の告白であります。    

アーメン・ハレルヤ

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