ニュースブログ

10月11日のフィンランド家庭料理クラブの報告

リンゴのケーキ秋の日差しが、牧師館のカーテン越しに心地よい季節の到来を知らせてくれてる、
土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは「リンゴのケーキ」を作りました。

最初に、パイヴィ先生によるお祈りからスタートしました。

りんごのケーキ今回は果物屋さんが太鼓判を押してくれた、美味しい紅玉を使い、18㎝の丸型を2人一組で1台ずつ焼きました。

パイヴィ先生からも、リンゴや、食にまつわるお話を沢山聞かせていただきました。
北国のフィンランドで、収穫できる果物の種類は少なく、
可愛らしい実をつけたリンゴは、庭先にはもちろん、森の中や街中でも見かけます、
お菓子やジャム、ジュースなどに加工されて、食卓をたのしませてくれます。

リンゴのケーキ焼き上がったケーキは、たっぷりのバニラソースを添えて、美味しく頂きました、
ご参加下さった皆様、有難うございました。
きれいに後片付けもしていただき、お疲れさまでした。

 

11月の料理クラブは、教会行事が重なるため、
3週目の土曜日、11月15日 13:00~になります。
「ジャガイモのクッコ」を予定しています。

皆さまのご参加をお待ちしています。

説教「赦しについて」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書18章21節~25節

今日の聖書は、「赦しについて」であります。 ルカ福音書では、17章に短く記してあります。

教会の信徒である兄弟が罪を犯した場合、戒めなさい。そして、悔い改めれば赦してやりなさい。 こういう指示があって、続いて、一日に七度罪を犯しても、その度に悔い改めを口に表すなら、赦してあげなさい。

マタイ福音書においては、弟子たちを代表して、ペテロがイエス様にたずねています。15~18節のところでは、罪を犯した兄弟に対して、忠告するに当たっての指示でしたが、ペテロは、どこに赦しの限界を設けるべきでしょうか、という点に移っています。 ペテロは問いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。 ここには、自分の罪を認めて悔い改めたなら、という条件がいっさいない。

ユダヤ教の「赦し」の考えで、ラビの伝承によれば、人が他の人に罪を犯した場合、相手に赦しを乞うということが、神の赦しにあずかるための、条件とされていた。 つまり、神の赦しにあずかるためにも、人にわびることが必要である、とされた。自然のことです。

ところで、ペテロの質問の中には、悔い改めの条件も、又、ユダヤ教のような神に対する赦しの思いも、この限界を越えて「無条件の赦し」を問題としています。これは驚くべきことでした。 しかも、「赦しは七度までですか」と言ったのです。 ラビの伝承によれば、人が罪を犯した場合、神は三度までは赦してくださるけれども、それ以上の赦しはない。 ペテロも弟子たちも、ユダヤ教のこのことは知っていたでしょう。その上で、三度までを2倍して、なお一つ加えて目いっぱい七度までですかと言ってみたのです。ペテロの大胆な、新しい息吹を感じさせる、おどろきの質問でした。 しかしながら、イエス様のペテロに対しての答えは、もっと驚くべきものでした。22節「イエスは言われた。『あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。 これは、七の七十倍といった数字で数えるようなものではなくて、これは「無限に赦せ」ということにほかならない。

そこでイエス様は、一つのたとえ話で確かなものとされたのです。23節以下で、「天の国は、次のようにたとえられる」と話されました。

ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済を始めたところ、一万タラントンを借金している家来が、王の前につれて来られた。しかし返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も又持ち物も、全部売って返済するように命じた。

さて、この話の中の借金をした家来の額が、一万円とか100万円くらいの額ではないこと、巨大な額であることに注目しなければなりません。 では、どれ位の額であったか。 1タラントンというのは6000デナリでしたから、6000万デナリということになります。1デナリは、当時の労働者一日分の給料と見なされていました。とすると、分かりやすくこれを一万円としたら6000億円という、とてつもない額になります。数字だけ言っても、これはどれ位のものか分からない。

少し分かりやすくするために、この当時の王の年収を見ますと、ヘロデ・アンティパスが、その所領ガリラヤとペレアから得た年収は、200タラントンであった。これはヨセフスという人が書いた「ユダヤ古代誌」に記しています。 又ヘロデ・ピリポが得た年収は100タラントンであった。又、列王記上10章14節を見ると、ソロモン王のもとには年間、666タラントンの金が入って来た、という。

これらのことから比較しても、1万タラントンという借金が、どれ程のものかが分かります。ヘロデ・ピリポ王の100倍です。 これは、たとえ話であります。現実にこの巨額の借金を、どのようにしたか等、考えたら不可能なことでしょう。 たとえの意味として、無限の負債を表現していると言えます。 要するにこの僕にとって、これは返済不可能な負債であった、ということです。 そこで主人は、この僕に全財産を売り払って返済することを命じた。当然のことでしょう。その当時の制度の通り命じたのです。

皆さん、どうでしょうか。この家来のようになったらどうしますでしょうか。

26節を見ますと「家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部お返しします』と、しきりに願った」。 27節です。すると「その家来の主君は、憐れみに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」。 私たちは、この主君の言葉におどろきます。巨額の借金を全部帳消しにする、ということです。なんと言うことでしょうか。

この家来は主君の前にひれ伏して懇願しています。「どうか待ってください」。 ここの原文を直訳で言うと、次のようになるというのです。 「私に対して寛大であって下さい」と言ったのです。そうして「皆、お返しします」と言っているところを見ると、彼はなんとかして負債をつぐなおうと考えたのでしょう。免除なんて全く念頭になかったでしょう。

ところが思いもかけず主人は、この家来の巨額の負債を全部帳消しにしてやったのです。ここのたとえで示されていることから、ここで私たちは、主の犠牲が払われて、私たちの罪の全部が帳消しにされた。負い切れない罪のすべてを、帳消しにしてもらって、神のみ前に罪なき者として立つことができるのです。 この神の御国での、赦されている恵みというものを、深くふかく、もっとよく知って、理解して、受け入れて了承していくと、どんなに主の恵みがありがたいか、感謝にあふれます。

私たちが、ここでしっかりと覚えなければならないと思うのは、主君は、憐れに思って彼を赦した、とあります。 ここには、いかに深い神の憐れみというものがあるか、すべては、神の支配のもとにあります。神の憐れみの支配によるものであります。 私たちは礼拝のたびに、キリエを唱えます「主よあわれんで下さい。」、「キリストよ、あわれんで下さい。」私の罪の赦しの憐れみです。計り知れない、深く、大きな、神の憐れみと恵みです。

ところが、この赦しにあずかった僕は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、捕まえて首をしめ、「借金を返せ」と迫った。 百デナリという金額は大きな負債にちがいないが、全く返済できぬほどの巨額ではない。この男は、あの主人に巨額の負債全部をゆるされたことを忘れて、相手を獄に入れた。 すると仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に事件を残らず告げた。 そこで主人は、その僕を呼び出して言う。「この不埒な僕め、お前が頼んだから私はあの負債をみな免じてやった。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れむべきではないか」。

仲間の負債を赦してやらなかったこの僕の中に、私たちもどうしても、赦さない根性が根付いてあります。 神に対しての、人間の中にある負いきれない無限の罪の負債がある。それに比べ、仲間同志の負債など、ちっぽけなもの。それでも赦せないでいる。 神様の限りない憐れみによる赦しがあっているのに、人間の非情な冷酷さがこのたとえで際立って示されいます。

最後に、この無限の赦しがあるゆえに、神は私たちに全き自己放棄を求めておられる。 どこまでも友をゆるし、、愛をつらぬいてゆく事を、求めておられるのです。 このことを実際行ったら、この世は全き無秩序になっていくのではないか、という疑問が生まれるかもしれない。 しかしこれについては、パウロがローマ人への手紙に明快に記しています。 その言葉に希望の光を見たいのです。 ロマ書12章19節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐するのは私のすること、私が報復する」と主は言われる。

紀元前2世紀~1世紀にハスモン王朝の時代、イスラエル12部族の中でガド族への遺言のように言い伝えられた遺訓というものが、次のようにあります。 「互いに、心から愛し合いなさい。もし誰かがあなたに罪を犯したら、その者とおだやかに話し、心に悪だくみを抱いてはならない。もし悔い改めて、それを言い表したなら赦しなさい。しかし、たとえ悔い改めを拒否しても、怒ってはならない」。そして最後は次の言葉で結ばれている。 「しかし、もし恥知らずで悪事を続けたとしても、心からゆるし、復讐は神にまかせなさい。」 この最後の「復讐は神にまかせよ」という言葉をパウロは、ローマ人への手紙の12章の言葉に含めているのです。 義なる神が厳然として、その審きを貫徹して下さる。 だからキリスト者は、安んじて、神の御手に委ねることであります。 この義なる神の愛に支えられてこそ、キリスト者はこの無限に赦す心を、聖霊の賜物として頂くことができるのであります。  アーメン。

 

聖霊降臨後第17主日  2014年10月5(日)

説教「罪を犯した兄弟にどう向き合うか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章15-20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節で、問題が当事者同士で解決できなければ、教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者であることは明らかです。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、教会に属する者が別の者に罪を犯したとき、キリスト信仰者は、どう対処すればよいのでしょうか?

 その前に少し断線しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に対して罪を犯すということがありうるのでしょうか?イエス様の問題提起はちょっとびっくりさせます。しかし、使徒書簡をみるまでもなく、キリスト教会は誕生期からいろいろな問題を抱えていたようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立が生じた時、その解決を当時キリスト教と全く無縁であったローマ帝国の法廷に委ねることが行われていたことがうかがえます。それについて使徒パウロは、問題の解決を信仰を持つ者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7~8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。当時はまた、貸した金に利子をつけることも行われていたようなので(マタイ25章27節)、きっと、ちゃんと既定の額を返してくれなかったとか、逆に法外な額を要求されたとか、そういう問題があったのでしょう。この問題は、十戒の第6の掟「汝、盗むなかれ」に関わります。どっちが盗人か白黒つけられれば、どっちが罪を犯したかが明らかになります。しかしパウロは、すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということを見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教会の性のモラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6~9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の一夫一婦制に基づく性モラルです。当時の地中海世界の性モラルはこれとは異なっていて、今風に言えば「多様な」性モラルでしたから、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。余計なことですが、現代世界は、キリスト教会の内外を問わず、イエス様の教えた性モラルと相いれないモラルが蔓延していると思います。真のキリスト教徒にとっては試練の時代です。いずれにしても、この問題は、十戒の第7の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。

 第6や第7の掟に関わる罪だけでなく、この他にもいろいろな罪が信仰者の相互関係を損なっていたと考えられます。例えば、金銭上のトラブルや性関係の乱れには、ほとんど必ずといってよいほど、悪口や中傷や事実を捻じ曲げた噂がつきものです。これなど、第8の掟「汝、偽証するなかれ」に関わります。

 

2.こうした信仰者同士の罪の問題はどのように解決すべきでしょうか?本日の福音書の箇所はどう教えているでしょうか?15節から17節をみると、イエス様は次のように教えています。罪の被害を被った信仰者はそれを犯した者に対して、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは罪である。我々の神の意思に反することである

とはっきり教え戒めるべきである、と。もし罪を犯した者が、「おっしゃる通りです」と聞き入れて、罪を悔いて赦しを願えばこれを赦してあげる。そうすることで、被害を被った信仰者は、信仰の兄弟を得ることになる。つまり、赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。こうして信仰の兄弟姉妹の関係が築かれるのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪の被害を被った信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で「こんちくしょう、あの野郎」と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って、「君が行ったことは罪なのだ。我々の神の意思に反することなのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは、罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと見なされる、と言うのです。教え戒めて、相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたということになります。しかし、教え戒めても聞き従わない場合は、罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じ神の意思が、先ほど朗読された旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7~9節の中にも表されています。

以上から、「二人だけのところで教え戒める」の意味がわかりました。それは、単に信仰の兄弟が仲直りしてめでたしめでたしになるための手続きではない。そうではなくて、罪を犯した者にそれが罪であると認識させて、その上でそれを悔いて赦しを求めるように導くということであり、被害を被った者はその導きをする重要な役割を持つということです。罪を犯した者が悔いて赦しを願う時、被害を被った者は赦しを与えなければならない。赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。そうして、真の信仰の兄弟姉妹関係が築かれる。神の民から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのようなことを言います。罪を罪として包み隠さず、当事者に対して明白にし、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていく、ということであります。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

次に進みましょう。残念なことに、「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?つまり、自分は何も罪を犯していないとか、あるいは自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり罪に値することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。天地創造の神は、十戒の第八の掟「汝、偽証するなかれ」で端的に表しているように、真実を愛し偽りを憎む神です。「君が行ったことは第三者がみても罪に値するものだから、それはもう真実として受け入れなければならない」ということになれば、罪を犯した者は次の二つの選択肢の前に立たされます。つまり、罪を認めて悔い、赦しを願って、赦しを得る道に入るか、それともあくまで耳を貸さない態度を取り続けるか。前者を選べば、真の信仰の兄弟姉妹関係を築く道に入ります。しかし、後者を選べば、話は次の段階に進みます。

ここで一つ注意することがあります。証人を立てるというのは、罪を確認するという場合もありますが、逆に罪を犯していないと証言する場合もあります。被害を被ったと主張する者が、相手を陥れるためか自分を有利に仕立てるためか目論んで、話を誇張したり捻じ曲げたり、でっちあげたりする可能性もあるからです。その場合は、そちらの方が罪を犯した兄弟になります。いかなる場合であっても、神は真実を愛し偽りを憎む方であることには変更はありません。

さて、いよいよ証人を立てても、罪を犯した信仰者が耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は、教会、教会全体の集まりないしはその代表者の集まりのいずれかになると思うのですが、それに委ねられることになる、とイエス様は教えられます。ここで、罪を犯した信仰者が罪を認めて悔いそして赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエス様は教えます。異邦人とは、天と地と人間を造られて御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人たち、神の民に属さない人たちを指します。徴税人とは、ユダヤ民族に属しながら、当時占領者であるローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後まで非を認めない信仰者は、こうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」を注意してみます。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ」という意味です。つまり、あなたは教会に留まる者であることは変わりないが、それに対して罪を犯した者は形式上は教会に属しているが実質上は教会の外部の者となってしまった。何度も赦しの機会が与えられたにもかかわらず、自分で自分を外部の者に追いやってしまっている。これはもう神の目から見てももうお手上げな存在だ、勝手にするがいい、ということです。日本語訳のように「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」と言うと、罪の被害を被った者に対する「見なしなさい」という命令になります。しかし、ギリシャ語原文では、被害を被った者に対する命令文ではありません(二人称単数ではなく三人称単数の命令形です)。罪を犯した者が差し出された手を振り切って自分でそうしている以上は、「異邦人か徴税人のようになってしまえ」と、神に突き離されているのです。それでは、罪の被害を被った者はどうすればよいのか?罪を犯した兄弟を異邦人か徴税人と同様に見なすことでしょうか?

そうではありません。本日の福音書の箇所に続く21~22節を見ると、これは次主日の箇所になりますが、ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか、7回までか、と尋ねます。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦しなさい、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。罪を犯した兄弟がまだ罪を悔いることも赦しを願うこともしない段階で、その者を赦すとはどういうことなのでしょうか?後でそのことについて見てまいりますが、その前に、これまで述べてきた兄弟を教え戒める手続きの教えと、ペトロとイエス様の赦しの回数についてのやり取りの間にある18~20節をしっかり見てみましょう。

 

3.18節をみると、使徒たちが地上で禁じたり罰したりすることは、天の国でもお墨付きを得ている、逆に地上で認めたり赦したりすることも、天の国でお墨付きを得ているということで、使徒たちに教会生活、信仰生活の規律設定の権限を委ねる内容です。人が罪を犯したかどうか、もし犯したならば、赦しを得られるかどうかということについて、使徒たちに決める権限が与えられている。つまり、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になった使徒たちは、神の意志がなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。そうであるからこそ、罪を犯した者に対して、罪は罪であるとはっきり言わなければならないのです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はそうではなく、これも18節の使徒たちの権限の教えの続きです。これをギリシャ語原文に忠実に訳すと、「お前たちが追い求めている事柄に関して、お前たちのうち二人がこの地上で合意すれば、その合意された事柄は天の父なるみ神の力で実現されたものとなる」ということです。18節で、使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言ったことに加えて、そのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だ、と言うのが19~20節の意味であります。願い事が何でもかなうという意味ではなく、教会内のいろいろな問題について、何が神の意志に沿っているか反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、地上でもその通りになるという意味であります。

 

4.以上から、18 ,20節は、教会内のいろいろな問題を神の意志に沿うように解決する際、使徒たちに大きな決定権が与えられており、それをしっかり行使しなければならない、と教えていることが明らかになりました。つまり、神の意志を明確にし、それに反していることは反しているとはっきり言わねばならない、ということです。そこで、自分で自分を教会外部の立場に追い込んでしまった信徒にどう向き合うかという問いの答えが来ます。21節でペトロがイエス様に質問します。「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。」「そのとき」というのは、まさに、イエス様が神の意志を地上で明らかにする使徒の権限について教えた「そのとき」なのです。ペトロの質問に対するイエス様の答えは、繰り返し罪を犯す兄弟に対して、赦しの回数に制限を設けるなというものでした。イエス様は、この無制限の赦しというものをわからせるために、続く23節から「仲間を赦さない家来のたとえ」を話すのであります。

これらの教えは次主日のテーマですので、ここでは立ち入りませんが、本説教のテーマとの関連で申し上げれば、イエス様の教えの中で次のことが重要な点です。キリスト信仰者とは、天文学的とも言える莫大な借金を帳消しされた人と同じような憐れみを受けている存在であるということです。罪の赦しが莫大な借金の帳消しにたとえられるのであります。最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと決めました。そこで、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化すべく、ひとり子イエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにした。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなった。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血であった。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして支払って下さったのです。しかし、それだけで終わらず、神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さった。人は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになる。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

これが、キリスト信仰者が莫大な帳消しの憐れみを受けているということです。まさにそのために、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が罪を犯した時、それは自分が受けた莫大な借金の帳消しを思えば、兄弟姉妹の負債など比べものにならないはした金にしかすぎないことがわかり、こだわるのも馬鹿馬鹿しくなる、というのであります。ルターも、信仰の兄弟姉妹から何か被害を被ったとしても、そんなものは小さな火花のようなもので、唾を吐きかければすぐ消えてしまうものだ、と言っています。神が自分に対して大きな赦しを与えた以上は、自分は兄弟姉妹に対して赦しを与えないということはあってはならないのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すというのは、罪を承認することではないということです。15~20節で明らかになったように、罪は罪として神の意志に反するものとして、罪を犯した者に対して明確にしなければならない。しかし、もし犯した者が罪を悔いもせず赦しを願うこともしない場合、どうすればそうすることができるようになるかを考え、神に祈り、その実現のために何かをしなければならない。そんな人は神から大きな罰を受ければいい、などと思ってはいけない。そうではなくて、どうすれば神の罰を受けないですむようになるかを考えなければならない。なぜなら、その人もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人だったのだから。きっと弱さや何かの迷いで道を誤ったのだろうと思わなければならない。先主日の福音書の箇所にあった「99匹と1匹の羊のたとえ」でイエス様が教えたことは、たとえ自らの誤りで神から離れてしまう道に迷い込んだとしても、神としてはその人が神のもとに戻るのを望んでいるということでした。そうである以上は、罪の被害を被った者は、罪を犯した者が神のもとに立ち返れるように神に願い祈り、可能な限り、また機会を捉えてそうなるように助けてあげる、これが、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すことです。

以上が、罪を犯した兄弟姉妹にどう向き合うかという問題の答えになります。要約すると、まず、神の意志に反することは、そうであるとはっきりさせなければならない。それと同時に、罪を犯した者がまだ罪を悔い赦しを願うことをしない段階でも、その者を赦さなければならない。ただし、赦すというのは、罪を承認するということでなく、その人が神のもとに立ち返れるよう心から祈り願い、それを支援するということです。

 

4.以上は、教会内、キリスト信仰者同士の間での罪の問題でした。それでは、罪を犯す者が教会外の者、キリスト信仰者でない場合は、信仰者はどう向き合ったらよいのでしょうか?

この問題は本日の説教のテーマには直接関係はないのですが、一言だけ申しますと、神が御子イエス様を用いて実現した人間の救いは、実は全人類に対して、どうぞ受け取って下さい、と提供されているものです。それを受け取った者がキリスト信仰者です。世界には、いろいろな事情でそれを受け取っていない人が大勢います。神が御子イエス様をこの世に送ったのは全ての人が救いを受け取るためでした。だから、それを既に受け取った信仰者はまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るようになるために各々働きをしていかなければなりません。その意味で、先ほど申し上げた「赦す」ということは、相手が信仰者でない場合にもあてはまるのであります。罪を犯した相手に対して、あいつなど神の罰を受ければいいのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、どうすれば罰を受けないですむようになるかを考えてあげなければならない。罪を犯した信仰の兄弟姉妹の場合は、神のもとへの立ち返りを願い祈り、そうなるよう働きかけをしなければならないと申しました。相手が信仰者でない場合は、働きかけは一層困難とは思いますが、少なくとも願い祈ることは誰にでもできます。先主日の使徒書の箇所であった「ローマの信徒への手紙」12章14節で、使徒パウロは「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と教えていますが、その通りです。

しかしながら、相手の人が神の罰を受けないようにと願い祈っても、その人がこちらの祈り願いを無にするような挙動を取り、それについて悔いることも赦しの願いもあり得ないという態度を取り続ける場合はどうするか?これは、本日の使徒書の箇所「ローマの信徒への手紙」12章の終わりでパウロが教えていることが重要になると思います。まず、神は、最後の審判の時に最終的に、悔いも赦しの願いもしなかった者に対して、その者がもたらした悪について全責任を負わせる。それゆえ、信仰者は復讐や報復に心を奪われてはならない。全ては神の怒りに任せる。そのかわり、信仰者は、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなければならない。そうすることで、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。つまり、敵に対してただ善を行う。もし敵がそれでも悪を続ければ続けるほど、最後の審判の日にその者が負う責任は一層重くなるだけで、自分に下される罰を自ら重くするだけである。このように、最後の審判の日に最終的に悪は滅びる。他方で、もし敵になされた善がその者の心を動かして、罪の悔いと赦しの願いをもたらせば、その時一つの悪が滅びる。つまり、善をもって悪に報いる限りは、悪はいずれにしても必ず滅びる運命にあるということであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 聖霊降臨後第16主日

 

 礼拝の中でSLEYから派遣されたミルヤム・ハルユさんの歌唱と吉村ヨハンナさんのヴァイオリン演奏が行われました。

 

 

説教「神が子供の信仰を価値あるものとみなす理由」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章1-14節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供たちを連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人でした(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)。イエス様が神と子供の関係を何か特別なことのように見ていたのは当時としてはとても革新的なことだったでしょう。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を神は断じて許してはおけないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。

 

 2.まず弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問します。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨しました。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国を統治・君臨することになる王イエス様の側近になれるのは、果たして誰か?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、子供のように、イエス、子どもたち突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えます。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできない、と言われたのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。それとあわせて、神の国に入れるための条件「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、これもみていきたいと思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた神がおられるところです。それは天の国とか天国とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われることもありますが、本当はそれは、人間が五感や理性を用いて認識や把握ができるこの現実世界とは全く別の世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後で、自分の世界に引き籠ってしまうことはなく、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。神の現実世界に対する介入・働きかけの中で最も重要なものは、御子イエス・キリストを御許からこの世界に送って、彼を十字架の上で死なせて、そして三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でありました。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまったのです。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されている通りです。

そうした悲劇が起きた後で神は人間に対して、身から出た錆だ、勝手にするがよい、と見捨てるようなことはせず、なんとか人間を助けてあげよう、人間がまた神との結びつきを持ててこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、この世から死ぬことになっても、その時は自分の許に戻れるようにしてあげよう、と決意し、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様を用いて行ったことは、まず、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪の問題を最終的に解決することでした。すなわち、人間の罪を全部イエス様が張本人であるかのようにして彼に全部負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたということです。その結果、イエス様はとてつもない苦しみの中で死を遂げました。しかし、話はそれで終わらず神は今度は、イエス様を死から蘇らせて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれたのです。

このように神は、御自分と人間との結びつきの回復という大事業を、イエス様を用いて実現してしまったのです。あと人間の側ですることと言えば、これらのことがまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神が実現してくれた救いを自分のものにすることができるのです。救いの所有者となって、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。神との結びつきを持って生きられるので、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時神は御手をもって御許に引き上げて下さり、こうして人間は永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのです。ただし、キリスト信仰者になったと言っても、もちろんまだ肉を纏って生きていますから、罪をまだ持っています。しかし、「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい、罪を犯さない生き方が出来るよう助けて下さい」と神に祈り求めれば、神は「我が子イエスを救い主と信じる以上は、彼の犠牲の死に免じてお前を赦してあげよう」と言って赦し、私たちが新しいスタートを切れるようにして下さるのです。このような慈愛に満ちた父なるみ神は、永遠にほめたたえられますように。

キリスト信仰者は、このような神に絶えず心の目を向けて自己吟味をし、神との結びつきを大切にしながら日々の人生を歩む者です。向かうところは死を超えた永遠の命が待っている神の国ですが、このように歩む者はこの世の人生の段階にて既に神の国の一員として迎え入れられているのです。ところで、神の国は、今はまだ目に見える形にはありません。しかし、それが目に見えるようになる日が来ます。それが、復活の日と呼ばれる日です。その日はまた、今の現実世界が終わりを告げる日でもあり、最後の審判の日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、神が今ある天と地にかわって新しい天と地を造る天地大変動の日が来る。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今の現実世界にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、主イエス様が再臨され、信仰を守り抜いた者たち全て、その時点で生きていた者と死から復活させられた者とをあわせて、神の国に集めて王として君臨します。

その時の神の国はまず、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに集められた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり等々。こうした奇跡は、この限界だらけの現実世界を超える力を持つ神の国を人々に味わさせるものだったと言えるでしょう。少し話が脇道にそれますが、ある教会の全国総会で、「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この現実世界の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に入れるようにすることだと思います。

 

3.神の国が以上述べたようなものであることは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、まだはっきり理解されていませんでした。そのことは、当時のユダヤ教社会において、メシアと言う言葉の意味がいろいろな仕方で理解されていたということにもあらわれています。先週の説教でも触れましたが、メシアとは、一方ではかつてのダビデ王の末裔でイスラエルを外国の支配下から解放し栄光ある王国を再興してくれる待望の王を意味していました。他方では、この世はやがて滅び、それにかわって森羅万象が新しくされた世が到来する、その時、信仰を守り抜いた者たちと復活させられた者たちを一緒に集めて君臨する、そういうこの世と新しい世の橋渡し的役割をする王がメシアであるという考え方もありました。マルコ8章やマタイ16章に、イエス様が自分の死と復活を預言すると、それを打ち消そうとしたペトロはイエス様に強く叱責されてしまいます。ペトロがメシアの意味を現世的な民族的英雄と考えていたことがうかがえます。それで、メシアが受難の末に死んでしまうなんて受け入れがたいことだったのでしょう。先にも触れたヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の預言を聞いた後で、神の国が到来したら息子を側近にして下さいと懇願します。母親は、神の国が現世的なものでなくて、復活を伴う新しい世の王国と理解したようです。しかしながら、身分の序列があると考えていたので、これも現世的な王国をイメージしていたことがうかがえます。

 以上のように、イエス様の死と復活の出来事が起きる前、人々は、神の国とそこに君臨するメシアについて正確な考えを持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問しました。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない。」「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では、「立ち返る」という意味の動詞στρεφωで、それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申し上げたように、神がイエス様を用いて実現して下さった救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。逆に、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお返しの必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎え入れられるのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として、神の実現された救いを受け取る、こうして人は神の国に入ることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は、その神の国の中で一番偉い者は誰かということについて答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べました神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて業を鍛えても、人間は死を超えた永遠の命は持てない、神の方で整えてくれなければならない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。(この文のギリシャ語の原文は少し厄介です。新共同訳のようなδεξηται~επι τω ονοματι μουという結びつきで考えないで、τοιουτο επι τω ονοματι μουという結びつきでみると、訳としては、「このような私の名に拠り立つ子供を一人でも受け入れる者は、私を受け入れるのである」という意味になります。つまり、イエス様を救い主と信じる子供を受け入れて、その子の信仰をしっかり守り支える者は、イエス様をしっかり受け入れて信じているのである、という意味です。次に来る6節とのつながりで考えると、こちらの方がいいのではないかと思われます。)この「受け入れる」ということですが、よくある理解の仕方ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。どんな意味かと言うと、次の6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいかは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様は、「神の御前にいる守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えているのです。子供だからと言って、その信仰を軽く見てはならないのであります。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語スキャンダルのもとの言葉です。

「つまずかせるもの」は、私たちをどうつまずかせるのか?先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いの所有者となって、この世にありながら既に神の国の一員に迎え入れられて、約束された永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これをすれば君は素敵な人生を送れるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合に、です。キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が流した尊い血が身代金になって自分を罪と死の支配から解放してくれたということが最大の自由であって、この世が誘惑する「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」が次々と打ち出してくる新しい人間像、先端をゆく人間像に目移りしてしまう危険があります。その意味で、本日の箇所でイエス様が「つまずかせるもの」への警告を大人よりも子供に向けているのは理由のあることなのです。(イエス様は、「つまづかせるもの」について教える前と後では、「お前たちは」と言って弟子に向かって教えていますが、「つまづかせるもの」のところでは、「お前は」と言って一人の相手に言っています。)

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰を外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なる神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか、神によって見つけられますように。

4.それでは、本日の福音書の箇所を理解したところで今度は、大人の信仰と子供の信仰の問題について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。さらに、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しないと、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の意志などというものは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。ただ、正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、再洗礼を受ける必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、その人の人生の歩みの途上で受けるということが多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地でで起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではなり、全てを客観的に眺める立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供を、キリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、他方では自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

聖霊降臨後第15主日の聖書日課 マタイによる福音書18章1-14節、エレミア15章15-21節、ローマ12章9-18節

9月13日のフィンランド家庭料理クラブの報告、「人参パン」

心地よい季節の到来に、皆さま、夏の疲れは大丈夫でしょうか?

家庭料理クラブは、夏休みのあと、秋のコースがスタートになりました。

今回は、すりおろし人参とミルクで捏ねた「人参パン」を作りました。

人参のパン、フィンランド、パン、porkkanaleipäたっぷりの人参と
最後に加えたドライトマトがアクセントの、手作りならではのパンに仕上がり、
キャベツのさっぱりサラダとサーモンを添えて、
試食会を楽しみました。

次回10/11は
「リンゴのケーキ」を予定しています。

 

説教「使徒の伝統に立たずしてキリスト信仰は立たず」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13~20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所はとても難しいです。一回読んでなんとなくわかった感じになっても、それで油断してはいけません。次のような疑問点やどう理解してよいかわからない点は、皆さまはお気づきになられたでしょうか?

まず、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」とは、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今のこの世が終わる時、神の国が到来し、それを統治する主体です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに質問するのです。弟子たちの答えは、「人の子」を洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、旧約の預言者エリヤだとかエレミアだとか言う人もいる、また他の預言者の名をあげる人もいる、というものでした。このように、「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、では弟子たちはイエス様のことを誰だと考えるのか、と尋ねます。質問が、「人の子」についての人々の見解から、イエス様ご自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは、少し飛躍がすぎないでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っていると答えた後だから、続く質問としては、では、弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、という方が自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - 一体これらは、どうつながっているのでしょうか?

 もう一つ理解に苦しむ点は、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと禁じたことです。メシアとは、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者をさし、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、油注がれた者משיחは、イスラエル民族の現実の王様の印でした。これが、バビロン捕囚の後になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエル王国を再建する待望の王をさすようになります。さらに、紀元前3,2世紀頃からユダヤ教社会のなかで、この世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだしました。そうした時、メシアとは、終末の時に現れて、信仰を守って生き抜いた者たちを苦難から救い出して、死から復活した者とあわせて一緒に新しい世に迎え入れる救世主と考えられるようになります。(ペトロが「あなたはメシアです」と答えた時、それは、こうした終末の救世主を意味していたのか、それともイスラエル王国を再建するダビデ家系の王を意味していたのか、これは一つ興味深い質問となりますが、今は立ち入らないでおきます。)

どちらをとるにしても、なぜイエス様は、メシアであることを人々に話してはならないと命じられたのか?無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問として、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、ペトロを教会の基にするとか、彼に天の御国の鍵を渡すとか言われます。イエス様がメシアであることを神にわからせてもらって、なお且つ将来形成されるキリスト教会の中心人物にしてやる、というようなことを言っている。ペトロにそれほどまでの権威を与えるというのはどういうことなのか、という疑問です。

 四つ目の疑問は、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのか?

他にも細かい点でいろいろな疑問がでてくると思いますが、本日の説教ではとりあえず以上述べた4つの大きな疑問点に絞って、それらの解明に努めていきたいと思います。これらを解明することで、本日の福音書の箇所が今日を生きる私たちに何を教えているのかを明らかにしていきたいと思います。

 

2.まず、最初の疑問点。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねたと思いきや、今度はイエス様自身についての弟子たちの見解を質問したのはどういうことか?これを解明する重要な鍵は、「人の子」とは何かということを明らかにすることです。ところが実は、「人の子」とは何かということは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学界にとってもやっかいな問題で、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めにも触れましたように、「人の子」はダニエル書の7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味からすれば「年齢を無限に重ねた者」、すなわち天地創造の神を指します。さて、「人の子」は、この神から王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国の統治者になります。これがダニエル書の預言です。

紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの時代に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことを新しい世に登場する王とか、ずばりメシア救世主とみなす思想が現れます。他方で、本日の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は、「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者リストにイエス様を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。イエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は、自分に降りかかる受難を知っていいました、つまり自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。しかし、イエス様の受難をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で、結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシアであり神の子でもあるので、ペトロの答えは間違っていません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されるのです。つまり、迫害を受けるという意味で、自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという最初の質問の答えをここで示すのです。

さらに、これに続いて24節から28節にかけて、イエス様は永遠の命に入れるための条件について教えます。その条件とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。その信仰を守り通した者は、たとえ信仰のゆえに命を落とすことがあっても、復活の命を与えられて永遠に生きられるようになる(25節)。人間は死に及んで誰も命を取り戻すための代価は支払えないが、イエス様を救い主と信じる信仰で新しい永遠の命に入ることができる(26節)。これに続いて、「人の子」が天使と共に到来する、と言われていますが(27節)、今の世が新しい世にとってかわる時、すなわち復活の時、「人の子」であるイエス様が再臨して、信仰を守った者たちと復活した者たちを集めて、新しい国、天の御国の王として君臨するということであります。

 以上から、マタイ16章の13節から28節までをひとまとまりにして読むと、イエス様は、十字架と復活の出来事をまだ目にしていない弟子たちに、「人の子」とメシアの意味を明確にし、加えて自分がそれであることを教えたということが明らかになります。実際、13節から28節までの記述は、イエス様一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時の出来事で、もともとひとまとまりになっているところです。それで、本日の箇所のように細切れにしないでひとまとまりにして読んだ方が、意味がわかってくるのであります。

 

3.本日の箇所の二番目の疑問点は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と現世から永遠の命の世界へ橋渡しをする救世主と考える思潮、があると申しました。イエス様は確実に後者の救世主だったのですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまで救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないかと思わせるところがあります。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そのようなメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配から脱したい愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早期に起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起きることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、彼を逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。それをヨハネは「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は、「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べたのです(ヨハネ12章23節)。時が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、人間を罪の支配下から贖い出すための犠牲の生け贄としてエルサレムに入られました。最後の審判をつかさどる天地創造の神に捧げられる無傷かつ完璧な生贄として入られたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現すべき贖いの業を妨げてしまう危険があったのです。イエス様がメシアであることを公にしてはならないと命じたことは、このような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなったのです。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.三つの目の疑問に進みましょう。ペトロは、イエス様がメシアであることを神にわからせてもらいました。それで、なお且つ将来誕生するキリスト教会の中心人物にしてやる、とまで言われました。どうしてペトロにそれほどまでして権威を与えるのでしょうか?

 この問いの答えの鍵は、17節のイエス様の言葉にあります。イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは人間を意味する熟語なので、日本語訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、誰かがペトロに教えるかわりに神が教えてくれた、という意味にとられてしまいます。ここはそういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされてそれに服さないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、それでは人間はイエス様の正体を理解できない、ということです。人間は神から注がれる霊的な影響力に服さない限り、イエス様の正体はわからない、ということであります。

ペトロがイエス様のことを、メシアです、生ける神の子です、と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではなかったようです。皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる前に主を見捨てて逃げてしまいました。しかし、十字架と復活の出来事の後、全てが一変しました。霊的な影響力に最終的に服することは聖霊降臨の時に実現しました。それ以後は、ペトロも他の使徒たちも、どんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する人の子であると公けに宣べ伝え始めたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表した時は、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

十字架と復活の出来事の後、特に聖霊降臨の後、人間が神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかということを見ていきます。神は最初の人間アダムとエヴァの時の堕罪の出来事以来、人間と神との関係が壊れてしまったことを深く悲しみ、これを回復させようと考えた。つまり、人間がこの世の人生を神との結びつきの中で歩めるようにしよう、絶えず神から良い導きと守りを得られるようにしよう、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を持って御許に引き上げて人間が永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と決めた。それを実現するために、ひとり子イエス様をこの世に送った。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪と不従順をあたかもイエス様が全ての張本人であるかのようにして彼に全部背負わせて、罪からくる罰を全部イエス様に身代わりに受けさせて十字架の上で死なせた。しかしそこで全ては終わらず、今度は神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれた。このように人間の救いは、神がイエス様を用いて全部実現してしまった。神はこの実現済みの救いをどうぞ受け取りなさいと言って人間に提供している。もし人間が、これらのことは自分自身のためになされたのだとわかって、それでイエス様は真に自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、この実現済みの救いを受け取ったことになるのです。これが、神の霊的な影響力に服するということであります。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言ったのは、どういうことか?それは、教会とはまさに、霊的な影響力に服して最早単なる血と肉の塊だけではなくなった者たちから形成されるもの、ということです。これは洗礼を受けた人たちを指しますが、まだ洗礼を受けていないが礼拝に参加する人たちも教会の形成に関係があります。そうした人たちは、本日の箇所のペトロのように、まだ洗礼は受けていないが神からの霊的な影響力が及ぼし始まっていて、イエス様がただ者ではないとわかり始めて、教会に足を運ぶようになった人たちです。このように、ペトロを基にして教会を建てると言うのは、ペトロという特定の個人を基にするということではなくて、ペトロに起こったような、神からの霊的な影響力に服するということが土台になると言っているのであります。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」という意味です。日本語の訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。どういうことかと言うと、ルターも教えていますが、人間は死ぬと復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠る。そういう安置所が陰府ということになります。人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも圧倒する力を持っている。ところが、イエス様を自分の救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を得られて神のもとに引き上げられる。つまり、固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう信仰者から構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 

5.最後に四つ目の疑問をみてみましょう。天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのでしょうか?まず「地上で解くこと」からみていくと、これはギリシャ語の原文では「地上で許可すること」(λυω背景にアラム語のשרא)になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」とはギリシャ語の原文を忠実にみると、「地上で縛りつける、禁止する」という意味で(δεω背景にアラム語のאסר)、これは「地上で許可する」ことの反対ですので、天の御国への入国を許可しないということになります。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに天の御国の鍵が渡されたことの意味がはっきりするのであります。

しかしながら、ここで注意しなければならないのは、ペトロにそのような大事な鍵が渡されたのは、これもペトロという特定の個人に渡されたということではなくて、神からの霊的な影響力に服する者として与えられたということです。本日の出来事のところで、ペトロは、最終的ではありませんでしたが、神からの霊的な影響力に服しました。最終的に服することになったのは、十字架と復活の後の聖霊降臨の時ですが、それは他の使徒たちも皆一緒だったことを忘れてはなりません。彼らも皆、一緒に神からの霊的な影響力に服することになったのです。従って、イエス様がペトロを教会の基にするとか、天の御国の鍵を彼に渡すと言ったからと言って、他の使徒たちには意味がないということにはなりません。マルコ3章14節に記されているように、12使徒というのはイエス様とたえず共にいるようにと召された者たちです。なぜ、たえず共にいるのかというと、イエス様の教えと業と出来事をつぶさに間近に見聞きする目撃者となり、それを後に公に証言するためでした。裏切ったユダの後に、マティアが使徒として補充されましたが、その選出の条件は、イエス様が洗礼を受けた時から天に上げられた日まで、いつも共にいて主の復活の証人になれる人ということでした(使徒言行録1章12~26節)。実に使徒たちは皆、イエス様に関して対等な証人なのであります。

そういうわけで、ペトロに権限が与えられたと言っても、イエス様の名をかりてなんでも好き勝手に決めることはできません。他に11人の対等な目撃者が目を光らせているので、自分の決めることはちゃんと主の教えと意志に従ったものでなければなりません。他の11人はチェック機能を持っていたでしょう。そうなるとペトロの権限というものは教会の独裁者などでは全くなく、責任ある代表者というのが正確な任務だったと言えます。そういうわけで、目撃者、証言者として特別な地位にある使徒たちは、また目撃者、証言者としてお互いに対等な地位にあったのです。

ところで、使徒たちの命を賭した証言を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人が次々と出始めました。使徒たちの証言は、新しい信仰者によって受け継がれていきました。最初は口伝えが主で、次第に書き記されるようになりました。そうした目撃録・証言録の伝承の集大成として福音書が誕生しました。使徒たちはまた、キリスト信仰そのものについて、またキリスト信仰者の生き方についていろいろ教えました。それが使徒書簡になりました。旧約聖書はと言えば、それは使徒たちにとって、イエス様が神の子、メシア、「人の子」であることを理解したり確信できるために必要な書物でした。そういうわけで、福音書、使徒書簡、旧約聖書から構成される聖書という大書物は、文字通り使徒の伝統の結晶なのであります。そのような聖書を開いて自分で読む時、また誰か他の人が読んだり解き明かしをするのを聞く時、開いた聖書から神の霊的な影響力がその人に対して働き始めます。私たち信仰者は洗礼を通して神の霊的な影響力に服することになった者たちであります。しかし、この世にはこの影響力からも私たちを引き裂こうとする力に満ち満ちています。兄弟姉妹の皆さん、使徒の伝統の結晶である聖書を絶えず繙くことを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第14主日の聖書日課 出エジプト6章2~8節、ローマ12章1~8節、マタイによる福音書16章13~20節 

説教「主よ、あわれんで下さい」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書15章21節~28節

今日の聖書は、表題にありますように「カナンの女の信仰」ということです。 ユダヤの女性が登場するのではなくて、カナンの女であります。

21節を見ますと「イエスはそこを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、その地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ、とあります。

イエス様は、ユダヤ地方での福音宣教で、パリサイ人や律法学者といった人々との戦いに決裂して、弟子たちをつれてガリラヤよりずーっと北にあります、ツロとシドンの地方に退かれたのでした。 イエス様の生涯において、この旅が、どんな意図をもってなされたか、これは充分意味のあることであったでしょう。

これまでイエス様は、ガリラヤ湖の畔を中心に病気の人々を癒したり、多くの人々にはパンを施したり、といった救いの活動をなさってこられたのであります。しかし、イエス様にとっては、こうした救援活動をすることが、究極の目的ではありませんでした。 一方、北方にあるツロやシドンは、悪名高い、偶像崇拝の町でありました。どうしてイエス様は、わざわざこの悪名高い異邦人の町へ旅されたのでしょうか。

ツロの町については、旧約聖書イザヤ書23章1~7節に出てきます。又エゼキエル書26章から28章にかけて出てまいります。或いはヨエル書4章4~8節等にも記されています。 そこでは、ツロとシドンは滅ぼされるという予言です。 シドンについては、北イスラエルの王アハブの時代に、アハブ王がシドンの王女イゼベルを妃として迎えたために、この地のバアル崇拝となり、イスラエルは大きな禍いをもたらした、という事情が起こりました。これは、列王記上16章31節を見ますと分かります。 もっと昔にさかのぼって、士師時代にイスラエルの民は、シドンの神々に仕えた、という記述があります(士師記10章6節)。 そういう異邦人の地へ行かれたその訳は、結局のところわかりません。神からの御示しによる、としか言いようがないのかも知れません。 少なくとも、この地域に救いをもたらすためではなかった(マルコ7章24節)。

イエス様は群衆とはなれて、弟子たちと静かに、神の御旨の本質を深く、語りたかったのではないでしょうか。 間もなく、自分はこの世を去っていく。残った弟子たちに、福音宣教の重大な課題をしっかりと伝え、将来に備えての霊的訓練を、じっくりしておきたかったのではないでしょうか。 イエス様はここにおいて、弟子たちとの霊的交わりの重要さを、深く感じておられるのであります。

又、別の面から見ますと、イエス様の十字架と復活の後、昇天され、弟子たちはこの重大なキリストの福音を、西の方面へ、エジプトへと広められ、又、東の方面には、エラム、メソポタミヤといった世界へ、広められていったのであります。けれども主流としては、何と言っても、北の方面へと進められていったのです。 北の地、異邦人の地へと教会は広められて、アンテオケを中心に小アジアに教会は伝道され、時にパウロは主に、異邦人伝道につくのでありますが、このアンテオケを基地にして三回の伝道旅行をし、エルサレムへの往復も、彼らはツロとシドンの地方を通過したのでありました。こうしてみるとこの地方は、初代福音宣教の前進基地として、重要な役割を担ったことになります。

イエス様が、そういう時代の先の、歴史的事実を予想して、このツロとシドンの地方へ来られたのか、それはむずかしいところで、ただ、神様の御計画のうちになっていったのであります。 例えば、私たちのこのスオミ教会が、遠いフィンランドの教会の方々の、熱い伝道の思いをこめて、なぜ、東中野のこの地に宣教師の先生方を送って下さって、福音伝道がなさているのか、まことに不思議なことであります。 そのことが、やがて将来、何十年か何百年の後に、どのような重要な意味をもつ教会となっていくのか、私たちにはわかりません。神様の御経綸の中に成り行くことであります。人の目には隠されている。 しかし、確かにその布石はすでに打たれている、後の歴史的事実を見ます時、私たちは深い驚きを覚えるのであります。

イエス様御自身としては今、この異邦人の地ツロとシドンという地方へ、弟子たちをつれてこられ、大切なひとときをすごそうとされているわけであります。

ところがここに、思いもかけず一人のカナンの女が登場して参ります。そして、イエス様に助けを訴えるのであります。 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫んでくるのです。 娘が悪霊に、ひどく苦しめられています。助けて下さい、と叫び続けます。恐らく重度の精神障害を負っていたのでしょう。 彼女の夫については、何も記されていないところからみると、この障害の子供のため、離別されたと思われます。 これからどう生きたらいいのか、将来の不安と、困窮のどん底で、彼女はイエス様の中に、神のみ力を見ていますので、その救いを求めて必死に叫びをあげているのです。 彼女は異邦人でありますが、イエス様に向かって「ダビデの子、主よ」とよびかけています。私たちは、彼女の叫びに驚かれます。

神学者シュラッターの解説を見ますと、イエスを呼び止めた異邦人の女は、イエスに「ダビデの子」という、王としての名前で呼んだ。 ユダヤ人からは、そうたびたび受け入れられなかった名であります。 彼女は、たた単に、イエスの偉大な業をなさることを聞いていったにちがいない。イエスこそ、自分の娘を助けることができるお方と、見たのである。 シュラッターの解説です。

待望の人が、今ここに現われたと、彼女は信じたことでしょう。 しかしイエス様は、彼女の叫びに一言もお答えにならなかった。弟子たちは、彼女の必死の叫びにうるさくて、ついにイエス様に願って言った。「彼女を追い払って下さい。叫びながらついて来ます」。 この時の弟子たちの態度の中には、異邦人に対する差別と、女を軽蔑するまなこで見ていることが、露骨に出ています。

弟子たちの求めに応じて、イエス様はこの女性に語られた。 「わたしはただ、イスラエルの家の、失われた羊にだけ遣わされたのだ」。 このことはマタイ10章6節で、12人の弟子を電動に派遣された時にも、言っておられたことでした。 「異邦人の道に行ってはならない。むしろイスラエルの家の、失われた羊のところへ行きなさい」。 イエス様の目は、しっかりと神の委託に目を向けておられるのです。それでも、なお、彼女はイエス様の前にひれ伏しまして「主よ、どうかお助け下さい」と言っています。 彼女は、イエス様の言葉でもそこを去らなかった。それどころか、遠くから叫ぶより、もっと大胆に近寄って来て、全身全霊を込めてイエス様の答えが、彼女のねがいを満たしてくれるように望んだのです。

こうしてこの場面は、以外な展開を見ることになります。 イエス様にとっては、彼女に強要されて、御自分の道を脇に追いやることは、できない。26節で、イエスは応えて言われた。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはならない」。 イエス様の本来の使命は、まず、イスラエルの救いのため、全力を挙げねばならない。異邦人にまで救いはやれない、と。 それを、子供とパンをもって、たとえて言われた。

本来、子供たちに与えるパンを、小犬にはやれない、とカナンの女を小犬よばわりにされて、軽蔑のひびきすらする言葉です。 しかし、カナンの女はなおも、切実な願いを込めてイエス様に迫りました。彼女は、イエス様のそっけない返事に反発することなく、心を低くして、まずイエス様の言葉を受け止めています。 その上になお、願いを重ねていく必死の姿に、私たちは心うたれます。 そうして彼女な言っています。「主よ、そうです。しかし小犬でも、その主人の食卓から落ちるパンくずは、いただくのです」。

そうです。主人は子供にはパンを与えます。でも、主人の食卓から落ちるパンくずは、いただけるのでしょう、と、彼女は言っているのです。 私たちは、彼女のこの深い、叡智に裏付けられた熱い言葉に、胸打たれます。 もし子供が飢えて、小犬が満腹するというのなら、あってはならないことでしょう。しかし、子供も充分に与えられ、落ちたパンくずで小犬も食べられるなら、救われるのです。 彼女は、イエス様の御力がユダヤ人にも、異邦人にも、すべての者のために、豊かに溢れるように、と信じたのです。彼女は、このお方なら、イスラエルの民のために仕えると共に、異邦人を助け、イスラエルの約束を満たすと共に、異邦人の女の願いも聞きとどける、という、両方の事が同時におできになる、と信じたのであります。

イエスは彼女に言われた。「女よ、あなたの信仰は見上げたものだ。あなたの願うとおりになれ」。すると彼女の娘は、その時癒された。 イエス様は、彼女の信仰を、見上げたものだ」と言われます。 この異邦人の女は教養もなく、聖書もない、神学もなかったが、イスラエルの教師たちが分からない謎を、解くことができたのであります。

聖書には、<神は御自分の御国のために、イスラエルをお造りになったが、それと同時に、その栄光は地上に満ち溢れる>と、記されている。 この二つが、どのようにして一緒に見出されるようになるか、将来の大きな謎であります。 しかし、神様の御旨は必ず成っていくのであります。 アーメン

 

  聖霊降臨後第13主日  2014年9月7(日) 

説教「イエス様の励まし言葉と強い信仰」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書14章22-33節

 By Jojojoe (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) or GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], via Wikimedia Commons私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.イエス様が水の上を歩いてきたという本日の福音書の箇所は、5千人以上の人たちをわずかな食糧で満腹させた奇跡のすぐ後に続く、奇跡の出来事です。本日の説教では、この出来事の際、イエス様が言われた二つの言葉に焦点をあてて、私たちのキリスト教信仰とはいかなるものか、またいかにあるべきものかということについて考えてみたいと思います。

 二つの言葉の最初のものは、水の上を歩いてやってきたイエス様を幽霊だと勘違いしてパニックに陥った弟子たちにイエス様が言われた言葉「安心しなさい」です。これは、ギリシャ語原文で、θαρσειτεという動詞ですが、「気を強く持ちなさい」とか「しっかりしなさい」とか「元気を出しなさい」という励ましの言葉、元気づけの言葉です。イエス様は、この同じ言葉を他の箇所でも使っています。ひとつはマタイ9章2節で、身体が麻痺して寝たきり状態の人を人々がイエス様のもとに運んできたとき、イエス様は寝たきりの人に(日本語では)「元気をだしなさい」と言いますが、これが同じ動詞θαρσειなのです。つまり「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」と言われたのです。もうひとつは、マタイ9章22節で、12年間出血状態が続く女性がこうすれば治ると信じて、イエス様の服に触れた時、イエス様は彼女に(日本語では)「元気になりなさい」と言いますが、これも同じ動詞θαρσει「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気をだしなさい」です。不治の病で苦しむ人や恐怖におびえる人に「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気をだしなさい」というのはどういうことか。励ましの言葉、元気づけの言葉としてちゃんと働いているのか。実は、これが驚くべき仕方で働いているのです。このことを後ほどみてみましょう。

二つ目の重要な言葉は、ペトロがいったんは水の上を歩けたのに、大風に気づくやいなや溺れ始め、イエス様が彼を引き上げた時に言った言葉「信仰の薄い者よ」です。これはギリシャ語で、ολιγοπιστοςといいますが、文字通り「信仰の弱い者」「信仰の薄い者」です。同じ言葉は、イエス様の山上の垂訓で野の花や空の鳥を指して「思い煩うな」と教えられるところで使われます。「何を着ようか、何を食べようか」ということに心が向いてしまう人たちに、「信仰の薄い者」と言って叱咤し、まず神の国と神の義を求めよと教えます(マタイ6章30節)。それでは、何が薄い信仰で、何が薄くない、強い信仰でしょうか。ペトロは結局は溺れてしまったが、それでもある距離は水の上を歩くことができた。しかし主に言わせれば「信仰の薄い者」であります。私たちだったら、ある距離はおろか最初の一歩でもう沈んでしまうでしょう。そうしたら信仰の薄さはどうしようもないほどになってしまいます。キリスト信仰者の目標は、水の上を歩き通せるくらいの強い信仰を目指すことでしょうか。それができないと、信仰が薄いのだと言って恥じていなければならないのでしょうか。実は、全くそんなことではないのです。それなら強い信仰とは本当は何か?どうしたら、それを持つことができるのか?

 そういうわけで、イエス様の「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という励ましの言葉と、「信仰の薄い者」という言葉の意味について、今日はみていこうと思います。

 

2.まず、その前に少し脇道にそれますが、本日の箇所の出来事の情景を詳しく見てみます。情景をできるだけ正確に把握することは、イエス様の言葉の意味を的確に理解する上で重要です。

 5千人以上の人たちの空腹を満たした後、イエス様は弟子たちに、舟に乗って先にガリラヤ湖の対岸に行っていなさい、と命じます。弟子たちは出発し、イエス様は群衆を解散させた後、山に登って一人で祈りを捧げます。時刻はすっかりもう夜だったでしょう。そうしているうちに、いつしか強い風が湖地方に吹き始めます。弟子たちが乗った舟は、向かい風のもたらす波に進行を妨げられて悪戦苦闘している。新共同訳によると舟は陸から「何スタディオン」離れていたとありますが、ギリシャ語原文では「たくさんのスタディオン」です。2,3スタディオン程度ではない。1スタディオンは約192メートルということですので、仮に10スタディオンであったとすれば大体2キロ程離れているということになります。

その時、山を下りられたイエス様が、湖の上を歩いて舟に接近します。何者かが水の上を歩いて近づいてくるのを弟子たちが確認したのが、「夜が明けるころ」(25節)。これもギリシャ語原文では「第4夜警時」、つまり、ローマ帝国の軍隊の夜の時間の数え方で、日の入りから日の出までを4つの時間帯にわけた最後の時間帯です。日の出を仮に6時とすると第4夜警時は、午前3時から6時の間ということになります。案外、丑三つ時に近かったのかもしれません。

 弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえたとありますが、おびえたと言うよりは、ギリシャ語では「驚愕した」という意味の動詞εταραχθησανで、強いパニック状態に陥ったことを指しています。

 さて、水の上を歩いて来た者が幽霊でなくイエス様とわかって、ホッとした時、ペトロがイエス様に命じさせて水の上に乗り出します。「イエスの方に進んだ」(29節)とありますが、これもギリシャ語原文に即せば、イエス様のところにほぼ到達したと解することができます。実際、ペトロが溺れ始めた時にイエス様は手を差し出して引き上げたのだから、それくらい近くまで行ったことは明らかです。それでは、ペトロが水の上を歩いた距離がどれくらいだったか推測できるでしょうか?水の上に立っているイエス様と舟の間の距離はどれくらいだったかというと、少なくとも夜の暗さの中でも人間が近づいてくるのが確認でき、かつ声も聴き分けられる位の距離ということになります。風と波があったことを考えれば、そんなに長い距離ではなかったでしょう。それでも、仮に50メートル位としても、ペトロはその大半を歩いたことになります。しかも、大風と波はまだ止んでいなかったので、ペトロはその中を歩いたことになります。溺れかけたペトロをイエス様は支えるようにしてか、または抱きかかえるようにしてかして舟に乗り込むと、風は止みました(32節)。以上が、本日の箇所の出来事の情景把握です。

 

3.それでは、本日の箇所の重要な言葉をみてみましょう。まず、「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」

「元気を出しなさい」を意味する言葉θαρσειです。

 初めに申しましたように、この言葉は、元気づけ、励ましの言葉です。日本語では、元気づけ、励ましの言葉は、「がんばれ」が一般的です。東日本大震災後、「がんばれ」をはじめ数多くの励まし言葉が使われてきました。電車やバスやタクシーなど公共の交通機関にも「がんばろう、日本!」のステッカーが貼られていました。ところで、当時話題になったことの一つに、この「がんばれ」という言葉は、被災者の人たちにはかえって重荷となって逆効果になる危険があるということでした。それを聞いて私は、ありえることだと思いました。というのも、「がんばれ」は、スポーツや受験勉強のように、優勝するとか合格するとか目標や達成の手段がはっきりしているとき、有効な言葉だと思うからです。目標の達成のために練習時間や勉強時間を増やすとか、練習や勉強の内容を高度にしていくとか、自分に負荷を課して、時間と力を投入して取り組み、ひとつひとつ乗り越えていく、そのことが「がんばる」ことでしょう。ところが、被災された人々にとって「がんばる」は何を意味するでしょうか。もちろん家や職場や財産を失った人にとっては、それらを再興することが目標となりましょう。しかし、長い時間と多くの労力をかけて築き上げたものを再興するというのは並大抵のことではありません。中には何十年かかってもやり遂げるという決意をもって取り組む不屈の精神の人もいます。頭が下がる思いです。しかし、皆が皆そういう人ではありません。特に、肉親を失った人たちには、肉親を取り戻すことは目標にはなりえないので、がんばりようがなく、心に空いた穴というものは相当なものだったろうと思います。本当に、励まし、元気づけの言葉はかけてあげなければならないが、どんな言葉をかけてよいのか。元気になってもらいたい以上、空虚な言葉は出したくないし、ましてや重荷に感じるような掛け声は避けなければならないし、その意味で、大震災は、励まし、元気づけの言葉を日本全体で真剣に考えさせた機会だったと言えます。

 さて、イエス様がかけた励まし、元気づけの言葉をみてみましょう。初めに申しましたように、イエス様は、「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という意味の言葉を三回使っており、二回は不治の病を患っている人に対して、三回目は本日の箇所で、パニック状態に陥った弟子たちに対して、使われました。ここで、イエス様の励まし、元気づけの言葉にはいつも元気づけの根拠が一緒に述べられていることに注目する必要があります。

 まず、マタイ9章の初めでイエス様が全身麻痺の寝たきり状態の人に励ましの言葉をかけた時をみてみます。イエス様はその人とその人を運んできた人たちの信仰、イエス様以外に助けられる方はいないという信仰を見ました。その後でこの励ましの言葉をかけるのですが、それと同時に「お前の罪は赦される」とも述べます(9章2節)。これを聞いた律法学者は、罪を赦せるのは神以外にないのに、この男は自分を神と同等扱いしている、神を冒涜する者だと非難する。これに対してイエス様は、自分が下す罪の赦しの宣言は口先だけの言葉ではない、実際その通りになる力をもった言葉である、そのことを示すために、寝たきりの人に「起き上がれ」と命じます。そして、その人はその通り動き出し普通の身体になります。まさに、イエス様の言葉は口先だけのものではなく、力を持ったものであることが示されたのです。

ここで注意しなければならないのは、イエス様が励まし、元気づけの言葉をかけた時、「病気が治るから元気を出しなさい」と言ったのではないということです。イエス様が言われたことは、「お前の罪は赦されるから元気を出しなさい」ということだったのです。その人の病気が治ったのは、罪の赦しの宣言の後に続くイエス様と律法学者のやりとりの成り行き上のことだったのです。

罪が赦されることが、どうして励まし、元気づけの根拠になるのでしょうか?私たち人間は、最初の人間アダムとエヴァ以来、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。最初の人間の不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。死ぬということが、人間が罪と不従順を受け継いでいるということのあらわれなのです。人間は、自分の力で死の支配下から脱することができないように、自分の力で罪と不従順を自分から消すことはできません。神はそのような人間を憐れんで、人間がこの世の人生を神との結びつきを持って生きられようにし、この世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのです。神がイエス様を用いて行ったことは、人間の罪と不従順から生じる罰を人間にではなく、全部身代わりにイエス様に負わせて十字架の上で死なせたのです。さらに、一度死んだイエス様を、今度は復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。

神がなされたこれらのことを、それはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、その人は神との結びつきを回復して、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。この世の人生の順境の時にも逆境の時にもたえず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を差し出して御許に引き上げて下さるのです。まさに、本日の福音書の箇所で、イエス様が水中に沈みだしたペトロに手を差し出して引き上げたようにです。

これらのことは全て、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人なら、どんな境遇におかれてもそうなるのです。たとえ不治の病に侵されても、です。イエス様が寝たきりの人に「お前の罪は赦される」と言ったのは、病気を治した後ではありません。まだ病気の状態の時に言われたのです。どんな境遇、状況におかれても、イエスを救い主と信じる信仰に生きるお前は永遠の命に至る道にしっかり置かれていると宣される。これが、励まし、元気づけの根拠になっているのです。

同じマタイ9章で、イエス様は12年間出血状態で苦しんでいる女性にも、同じ励まし、元気づけの言葉を同じ仕方でかけます。その時、イエス様は(日本語訳では)「あなたの信仰があなたを救った」(9章22節)と言いますが、ギリシャ語の原文では「あなたの信仰があなたをもう既に救っているのだ」という意味です。この言葉の後で女性は健康になります。つまり、イエス様を救い主と信じた日に遡って女性はもう救われていた、まだ出血状態が続いていた時にもう救われていた、ということなのであります。イエス様を信じて永遠の命に与る者になったことを思い出させることが、励まし、元気づけの根拠になっています。そこまで言われれば、今すぐ病が治るかどうかは、さしあたって焦眉の問題ではなくなり、癒されたとしても何か付け足しのようなものになります。天のみ神が永遠の命に与らせてやると約束した以上、それは揺るがないことだから、その時がいつ来るかは神にお任せしてとりあえず今を生きよう、というような心になっていきます。

イエス様の励まし、元気づけの言葉は本日の福音書の箇所でパニック状態の弟子たちに述べられますが、その時、イエス様は、「ここにいるのは私だ」と言われます。ここでは、イエス様がそばにおられること自体が励まし、元気づけの根拠になっています。私たち人間が神との結びつきをもって永遠の命に与れるために、神が計画されたことを、自分を犠牲にしてまで実現される主がそばにおられる、死の力を無力にして永遠の命に至る道を切り開いて下さった主がそばにおられる、これ以上の励まし、元気づけの根拠はあるでしょうか?

もちろん現代を生きる私たちには、弟子たちのように目に見える形ではイエス様はそばにおられません。しかし、見えない形でイエス様は信じる者のそばにおられます。彼の語った教えと成し遂げた業は聖書に収録されています。彼の到来と神の計画の実現についての預言も聖書に収められています。実に、聖書の御言葉を読み聞きすることを通して、私たちは弟子たちと同じくらいイエス様の近くにいることになるのです。聖書の重要性を侮ってはいけません。またイエス様は、聖餐式の時に私たちを覆うようにいらっしゃり、御自分の血と肉をパンとぶどう酒の形で私たちに与えて下さいます。私たちはそれを摂取するたびに、洗礼の時に始まった主と共に歩む人生の歩みがしっかりしたものになっていきます。さらにイエス様は、私たちの祈りをひとつ残らず、いつも聞きとげ、父なるみ神に執り成して下さいます。まさに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28章20節)」と約束された通りです。

以上みてきたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は、いかなる境遇や状況にあっても、励ましや元気づけの根拠をしっかり持っているのです。日本の人たちも、同じ根拠が持てるよう祈って止みません。

 

4.最後に、もう一つの重要な言葉「信仰の薄い者」について。何が薄い信仰、弱い信仰で、何が強い信仰か、考えてみましょう。

 イエス様の「来なさい」という言葉を聞くや、ペトロは水の上に足を乗せました。情景把握のところで触れましたように、まだ湖は風と波で荒れている最中です。そして、ペトロはイエス様の手の届くところまで到達しました。ところが、「強い風に気づいて怖くなり」(30節)ます。ギリシャ語原文では「強い風を見て怖くなり」です。つまり、その時点までは、「来なさい」と言われたイエス様が前方に見えただけで、周囲を轟轟とどろかせている風や波はペトロの眼中になかったのです。その時ペトロは、足下の水は自分を支えきれないという自然法則の圏外に置かれたのです。ところが、最後になって、それまで見えなかった風と波が目に入った途端、自然法則の圏内に戻ってしまいました。水の上に立っているイエス様ではなくて、風とか波とか人間の五感や理性で把握できるものに目が行ってしまい、そうなると今度は、自分の能力や努力によって水の上に立たなければならなくなります。これは、人間の理性のなせる業です。しかし、自然法則の圏内に置かれていれば、どんなに踏ん張っても力を込めても、沈むものは沈んでしまいます。(もちろん、自然法則の圏内にいながら、別にイエス様を見なくても、人間の努力や能力で達成できることも沢山あります。ただ、それらが神の祝福を受けるものかどうかは別問題ですが。)

ところが、人間が永遠の命に至る道に置かれるというのは、水面歩行の時と同じくらいに人間の能力、努力、理性が成しえないことなのです。加えて、その道をちゃんと歩けているか心配になった時、大丈夫歩けていると安心させてくれることも、また、この世の人生が終わる時に本当に永遠の命に入れてもらえることも全て、人間の能力、努力、理性では成し遂げられないことなのです。まさに、ただひたすらイエス様の方を向いて行くことで、これらのことは成し遂げられるのです。周囲がどんなに荒れ狂った状況で、自分の力は無でしかないと観念するような時、イエス様の方を向いて行くことで、成し遂げられるのです。これが強い信仰です。逆に、どんなに能力や努力や理性が優れた人でも、イエス様を見ていなければ、これらのことは不可能なのであります。これが弱い信仰です。人間が永遠の命に至る道を歩けるかどうかという点からみて、ペテロの水面歩行の成功と失敗は、真に示唆に富んだ出来事です。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

聖霊降臨後第12主日の聖書日課 王上19章1-21節、ローマ11章13-24節、マタイによる福音書14章22-33節

説教:高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた「本日の聖書の箇所の説明」を星野哲郎兄が代読いたしました。イザヤ書55章1〜5節、ローマの信徒への手紙9章1〜5節、マタイによる福音書14章13〜21節

8月24日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

「イザヤ書55章1〜5節」、「ローマの信徒への手紙9章1〜5節」、「マタイによる福音書14章13〜21節」

(はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学修士)

 それでははじめに、本日の使徒書である「ローマの信徒への手紙9章1〜5節について説明します。

本日の使徒書の日課の箇所は、キリスト教会とユダヤ民族との関係を扱っている「ローマの信徒への手紙」9〜11章の冒頭部分に当たります。

9〜11章は、私たちに大問題を突きつけます。パウロはユダヤ人として、彼自身もその一員であるユダヤ民族の行く末について述べます。彼は、イスラエルの民が福音を拒絶する有様を実際に自分の目で体験し、深く心を痛めました。考えてみると、これは奇妙な状況でした。罪深い人間を救おうとする神様の歴史への関わりは、神様がこの世を造られた時以来、目に見える形で続いてきました。神様は、御言葉を通して、ユダヤの民に、御自分について知らせる啓示を与え、救いの約束を授けてくださいました。にもかかわらず、ユダヤの民は、その大多数が、キリスト教会の一員になろうとはせず、教会の外側に留まり続けました。これが「異邦人の使徒」パウロにとってどれほど辛いことであったか、すでにこの9章の始めの言葉から感じ取ることができます。パウロは次のように言っています。

「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

(ローマの信徒への手紙9章1〜3節)

パウロの親戚や友人たちは、彼の伝える福音に注意を向けようとはしませんでした。現在でも、多くのキリスト信仰者は、自分の親戚や友人に関して、 それと同じこと、すなわち、なぜ彼らは福音を受け入れないのか、を問わずにはいられません。神様が罪深い存在である人間を救ってくださる出来事は、歴史の中で、今この瞬間も起きているし、また、これからも起こり続けます。人間の歴史においてイスラエル民族がどのような役割や意味をもっているかについては、私たちが生きている現代においても、様々な相反する意見が述べられています。そして、「ローマの信徒への手紙の9〜11章で、パウロは、これらの疑問を、感嘆するほかない鮮やかなやり方で、じっくりと掘り下げていきます。この難問に対して真正面から取り組んだ彼は、最も深く暗い場所から、神様の最も偉大な善き御心を見いだします。

9章1〜5節において、パウロは、ユダヤ人をめぐる問題を提示します。福音伝道は、異邦人(つまり、ユダヤ人以外の民族)の間では成果を挙げましたが 、ユダヤ人の間では順調に広がって行きませんでした。パウロにとって、これは辛いことでした。モーセは、不平ばかり言っているイスラエルの民の代わりに自分が見捨てられるように、神様に願い出たことがあります。それは、神様から派遣された預言者として、反抗的な神の民から不平不満の集中砲火を浴びる辛い立場にあったモーセの心情が吐露された瞬間でした。それでは、旧約聖書の「民数記」に記されているその出来事を読みましょう。

「さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。

また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。

マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。

モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。そして、モーセは主に言った、「あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。わたしがこのすべての民を、はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに、あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか。わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。」

(民数記11章1〜15節)

パウロもモーセと同じようなことをここで願いますが、それは実現しませんでした。本来神様の御国に属する民であるはずのユダヤ人にとって、神の御子イエス•キリストが十字架で流された血によって、全世界のすべての人間、(つまり、そこにはユダヤ人も全員含まれます)、のすべての罪を身代わりに引き受けて、義なる神様の御前でその罰をすべて受けてくださった、という福音は、とうてい受け入れられないものでした。そして、この状況は、今日に至るまで変わっていません。ユダヤ人伝道は、現在も許可されている範囲内で行われてはいますが、それでも一年の間にごくわずかのユダヤ人がキリストを信じるようになるのがやっとという状態です。そして、これほどまでに徹底して福音を拒絶する態度は、他の民族では見られない現象です。

 それでは次に、本日の福音書の日課である「マタイによる福音書14章13〜21節について説明します。

14章13節で、「イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。」、とあります。イエス様が耳にした「このこと」とは、洗礼者ヨハネの斬首の出来事を指しています。それについて、今日の聖書日課のすぐ前の箇所を読みましょう。

「そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。」(14章1〜12節)

イエス様は、ガリラヤとペレア地方の領主だったヘロデ•アンティパスが洗礼者ヨハネを殺害したのを聞いて、その魔の手から逃れるために退いたのではありません。そうではなく、天のお父様との祈りの時をもつために、自分ひとりで寂しい所へ行かれたのです。祈りには静かで平和な場所が必要だからです。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩でイエス様のあとを追ってきました。この有様は、旧約聖書の「出エジプト」の出来事を思い起こさせます。イスラエルの民はモーセのあとを追って、エジプトを出立し、荒野へと旅立ちました。そして、神様は、預言者モーセを通して、イスラエルの民を養い教えてくださいました。このモーセは、旧約聖書の「申命記33章1節」で「神の人」と呼ばれています。それと対応するように、今日の箇所では、神の御子イエス様が自分に従って来た大勢の群衆を荒野で癒し、養ってくださいました。旧約聖書で、荒野を彷徨するイスラエルの民を、神様が天からの食べ物であるマナによって養ってくださったように、「マタイによる福音書」では、イエス様が大勢の群衆に食べ物を与える奇跡を行われました。20節の「みんなの者は食べて満腹した。」という表現もマナの奇跡を思い起こさせます。

もう一つの旧約聖書の箇所も、この出来事の意味を考える上で大切です。それは、「列王記下4章38〜44節」です。それを読みましょう。

「エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

 (「列王記下4章38〜44節」)

 これらの出来事で、「神の人」と呼ばれる預言者エリシャは、食中毒になった人々を癒し、また、大勢の人々に食べ物を与える奇跡を行いました。イエス様がなさった奇跡との類似は明らかです。

 本日の箇所、「マタイによる福音書14章20節では、「パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。」、とあります。この12という数字は、イエス様が選ばれた12人の使徒を思い起こさせます。この出来事では、使徒一人一人にそれぞれ一つのかごが与えられていたわけです。 モーセの指導の下に荒野を歩んだ旧約のイスラエルの12部族に対して、新しいイスラエルの民は、イエス様を信じて人生の荒野を渡って行く大勢の人々の群れを指しています。ですから、使徒たちは、この新しいイスラエルの12部族を指導して面倒を見る訓練を受けているとも言えましょう。

キリスト教会において、牧者は、使徒の職を受け継ぐ存在です。彼らは、聖礼典(つまり、御言葉とその解き明かしである説教、洗礼および聖餐)を通じて、この世という荒野を歩むキリスト信仰者を霊的に養い強める責任を負っています。

本日の箇所、「マタイによる福音書14章19節で、イエス様は、「群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」、とあります。たしかにこれは、礼拝での聖餐式の御言葉を思い起こさせます。

ついてきた大勢の群衆を憐れんで、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの手で食物をやりなさい」、と命じられました。しかし、弟子たちにはわずかの食べ物しかありませんでした。それでも、主はすべての人を満腹にさせてくださったのです。それと同様に、教会の牧者が教会に集う人々に差し出せるもの(たとえば、聖書の御言葉、パン一切れと葡萄酒一滴など)は、取るに足りないものに見えるかもしれません。しかし、主なる神様は全能であり、これらのものを通して大いなる罪の赦しの奇跡を行い、信仰を持ってそれに与る者を霊的に満たしてくださいます。ですから、このような主が教会に集う人々と共にいてくださることを感謝して覚えましょう。

それでは、「祈りの静かなひととき」をもつ大切さを学んで本日のお話を終えたいと思います。

「マタイによる福音書」14章22〜23節にはこう書いてありました。

「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

山の上で、群衆から離れて、イエス様は天の御父様と共におられました。私たちにとっても、これは大切な模範となります。このような祈り方は、神様の子ども誰もがもっている特権です。この特権は、イエス様のゆえに私たちに与えられています。それを、私たちはちゃんと利用しているでしょうか。神様と二人きりになるために、他のすべてから自分を引き離しているでしょうか。

日々の終わりのない忙しさの中で、私たちはこの静かなひとときを必要としています。このひとときは、山頂で過ごす時に似ています。そこでは、何が小さくて何が大きいか、はっきり見ることができます。眼下には靄や幻影がたちこめています。モーセがネボ山の頂上から神様がイスラエルに与えると約束されたカナンの地を見渡したように(「申命記」32章49節)、「祈りの山」の頂からさらに上を眺めると、「天の御国」という約束の地が遥か彼方に見えます。祈りの山頂にて、私たちは自分自身をありのままに見つめることができます。そして、自分が罪の赦しの恵みを必要としている存在であることがわかります。また、自分や他の人たちの人生を通して神様の御心が実現していく様子が、普段よりもはっきり見えるようになります。祈りとは、神様と共に過ごすことであり、神様のうちで憩うことです。

「祈りの山」から日々の生活の中に下りていくと、この世的なもののむなしさに気がつきます。このように祈りを通して、私たちは神様の子どもとして生きていく上で必要な新たな力を得ます。

私たちは、神様との静かなひとときを探し求めることを通して、他のすべてを一旦脇へ置いて、神様の御前に一人たたずむ心の準備をします。そのような時に、祈る人が神様に優しく抱かれながらすやすや眠ってしまうこともあるかもしれません。それは、いたって自然なことなのです。

人は祈りを怠ると、多くのものを失うことになります。神様の子どもは、今日もこれからも、祈りの中に日々を過ごすことが大切です。ですから、主よ、どうか私たちが祈ることができるように助けてください。アーメン。

説教「天の国のたとえ」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書13章44節~52節

今日の御言葉には、「天の国のたとえ」の話が三つ記されています。 一つは、「宝が畑に隠されている」たとえです。宝を見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。そして、宝を手に入れることができた。

二つ目のたとえは、「良い真珠を求める商人」のたとえです。 この商人は、高価な真珠を一つ見つけると、行って、持ち物を売り払って、これを買う。

イエス様は13章のはじめに、「良い種と毒麦のたとえ」を語られて、これと対をなす形で、この二つの譬えを語られています。

この二つを包むようにして、三つ目の「47節からのたとえ」で、まとめられています。 もう一度、ゆっくり二つのたとえを見てみますと ある人が、畑に隠された宝を見つけると、持ち物をみな売り払って、その宝の畑を買う。又、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をみな売り払って、その貴重な真珠を買う。

この二つの譬えで言おうとされていることは、この両方とも、天国というものは、何ものにも替えがたい、宝のようなものである。と、言われているのです。これとよく似た言葉が、旧約聖書「箴言」3章15~19節にあるのです。 その箴言からの言葉を見ますと 「知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物もこれと比べるに足りない。その右の手には長寿があり、左の手には富と誉がある。その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。 知恵は、これを捕える者には命の木である。それをしっかり捕らえる人は、幸いである。 主は、知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。」とあります。

この箴言では、「知恵」というものが何物にもまさる宝とされている点で、マタイで語られる「二つのたとえ」と同じであります。

さて、44節のたとえの奥義を少し考えましょう。 イエス様は、しっかりと宣言されているのです。どんなものより計りがたいほどの、高い価値のあるものが、あなたのすぐそばにあるのだ。それは静かに隠されているが、あなたといっしょにある。 それを見出したら、突然、宝を見出した人と同じような幸せを経験するだろう。 他の者たちがそれを見出さなくても、又多くの人たちがその畑に行きながら、何の特別なものを認めなくても、宝はある。

神様が招いておられる価値は、少しも変わらない。 たとえ、多くの人々に軽視されたとしても、あくまでそれは宝であり続ける。 だから、今、イエス様によって、天の父からもたらされる宝を知って、理解して、自分のものにするように、と示されるのです。 同時に、イエス様は、私たちがこの宝を手に入れることができるに至る道を、示されています。 彼は、宝が隠されている畑を、どんな価を払ってでも手に入れるため、自分のすべてのものを売り払ってでも、とにかくその畑を買うことなのだ。 他の、すべてのことを後回しにする時のみ、神様から賜物を見出すのだと、イエス様は言われる。

それは、私たちにとって、ほかのすべての幸福より以上に、価値があるので、真っ先にそれを求める。そのためには、どんな犠牲も喜んでする、そのことをイエス様は要求なさっているのです。 もし、そこに神の国のことと並んで、更にこの世の楽しみや、栄えを求めたいという二心あるなら、かえってそれを失ってしまうであろう。 そのような人は、御国を見出すものを与えられない。なぜですか?と言っても、それは神様のうちに秘められた秘技であります。

神様は、自分を捨てる自己放棄することを通して、私たちを豊かにして下さる。同様に又、神様は、死ぬことを通して生き生きと、命を得させて下さる。 又神様は、すべてを犠牲にできるような、献身を要求されるのであります。 ですからイエス様は、自分の古い持ち物に愛着しないで、宝の畑を得るために、それを犠牲にすることの賢さを、考えるようにと、命じられるのです。 愛着していた古いものいっさいを、すてることはまことに辛いことです。 しかし、畑に隠されている宝は、それまで富に向けていた一切を越えて、豊かに豊かに満たしてくれるものであります。 主イエス・キリストに対する信仰と、神の御国への望みを、しっかりと見据えていかねばならない。

バークレーという神学者は、こう言っています。天国に入るためには、どんな犠牲を払ってもよい、ということである。天国に入る、というのは、神のみこころを受け入れて行こう、ということです。 人が宝を発見するように、ある時、突然自分に対する神のみこころは、これだ、 という確信が閃くことがある。 これを受け入れるためには、今まで大切に思っていた目的や、野心をすてて、イエスに従うということです。

さて、次に45~46節にあります「高価な真珠を探す商人」のたとえ話です。

よく、ことわざに「豚に真珠」といいます。豚にどんなに美しい真珠を見せても、その価値はわかりません。 真珠を扱ったことのない私など、豚と同じかもしれません。 その真珠が高価なものか、安っぽいものか区別がつきません。

イエス様の時代、真珠を特別に尊いものと、考えていました。更にだれでも、美しい真珠を持ちたいと願っていました。 それは、金としての価値があったばかりでなく、「美しさ」という価値が高かったからであります。

ここに、良い真珠を手に入れたいと願っていた真珠商人がいて、二度とお目にかかることのないような、素晴らしい真珠に出会ったら、その真珠を得るためなら、それがどんなに高価であってもひるむことなく、持ち物を全部売り払って、その高価な真珠を買うことでしょう。 そこには、どんな犠牲を払ってでも、手に入れたいのであります。

このように、イエス様の弟子になる人は、天の御国こそは、所有しなくてはならない高価な真珠であって、そのためには喜んで、すべてのものを捧げるべきものでありましょう。

次に、三つ目のたとえが、47~50節に記されています。 いろんな種類の魚を、網ですくい上げ、「良いものは器に、悪いものは外に投げ捨てる」という、世の終わりの神の審きが語られています。 ガリラヤの漁師たちも、よく見ている光景でありました。漁をするのに、二つの方法があったといいます。 一つは、網をパーっと広げて、おもりを先端につけた網が沈んで、それを引き上げると網に魚がとれるという。 もう一つは、このたとえで言われているようですが、地引網の方法で広げて、長い網を舟で引き上げていくと、その網には種々雑多なものや、大小様々な種類の魚が網にかかって、すべて引き上げられる。 引き上げる最中に、いろんな種類のものがあっても、無用なものを捨てるという選別はできない。その選別は岸辺で行われる、ということです。

ここで、イエス様は弟子たちに、これから使徒として働き、その業を行っていく上で、大切なことを示しておられるのです。 弟子たちはやがて、各地に神の御国の福音を担って出て行く。そして彼らは、すべての人をキリストに招く。すべての人に御国を示すことをゆるされている。 そうした中で、人々は真剣に悔い改めるだろうか。神の福音に、いつまでも留まり続けるだろうか。或いは、人々に対する自分たちの働きは、無駄に終わらないだろうか。 このような疑いで苦しむ必要はない、ということです。

漁師がその湖で捕えた魚を引き上げている最中に、すぐに選り分けることができないように、福音の仕事をしている間、そのことを決定するのは、彼らではない。神が決定されることです。 そこで、ふさわしくない者は、どんな策略をめぐらしても、神の国を手に入れることはない、ということです。 なぜなら収穫の仕事が終わったあと、神のさばきが効力を発し、選別が行われるからであります。

弟子たちは、これからのすべての働きにおいて、収穫にふさわしいものを、今すぐに計ることができない。 世界の行き着く、完成した時、はじめて教会を形づくっている者のうち、誰が天使によって、神の食卓の招きにあずかるかを、彼らは見ているでしょう。 弟子たちは未来になって、彼らの業の確証をみるでありましょう。 私たちの教会での働き、信仰の生きた姿も、この世の完成した時、天の御国へと招かれるでありましょう。

ハレルヤ・アーメン。

 

聖霊降臨後第10主日  2014年8月17(日)