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説教「罪の負い目も、疑う人目も、吹き飛ばせ!」神学博士 吉村博明 宣教師

主日礼拝説教 2019年6月30日聖霊降臨後第三主日

 

 サムエル下11章26節-12章13節、ガラテア2章11-21節、ルカ7章36ー50節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課サムエル記下11章から12章の個所は、ダビデ王が犯した罪について語られています。この個所は私たちに罪というものがどんなに重大なものであるかを教えています。大抵は、罪という言葉を聞いたら、犯罪のように他人を傷つけたり損害を与えたりすることを思い浮かべるのではないでしょうか?そういうことが起きたら、処罰や謝罪や補償ということが出て、それが罪の償いということになります。この理解でいくと罪は人と人との間の問題ということになります。キリスト信仰では、罪は神と人との間の問題になります。人間を造られた神と神に造られた人間の間の問題です。もし誰かを傷つけたり損害を与えてしまったら、それは十戒の「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「隣人を妬んだり、そのものを狙おうとするな」等々、神が定めた掟に反することになります。人間に対して害を及ぼしたということに加えて、神の意思に背いたということになります。人間に対する害については法律に基づく処罰や償いがあるでしょう。神に対する害については、どんな処罰や償いがあるでしょうか?罰として神が災いや不幸を起こすということが頭に浮かぶかもしれません。

もちろん、聖書の神は、人間が神の意思に背けば、もちろん罰することを厭わない方ではありますが、もっと大事なことは罰と同時に人間が神の意思に従って生きられるようにしようとする方でもあります。お前はこの罪を犯した、だからこの不幸を与えてやる、地獄に落としてやる、思い知れ、と言って完結してしまうのではありません。そうではなくて、お前がもう罪を犯さないようにしてあげよう、犯した罪のためにお前が前に進めなくなってしまうことがないようにしてあげよう、というのが聖書の神です。そのことは、本日の旧約の日課のダビデ王の出来事からも福音書の日課の罪を犯した女性の出来事からもわかります。私たちが前に進めなくなるようにする重荷として、旧約の日課は罪の負い目、福音書の日課は人の非難する目について言っています。私たちの父なるみ神はそれらの重荷から私たちをどう解き放って下さるのかを見ていきましょう。

 

2.罪の負い目を吹き飛ばせ!

 まず、ダビデ王の罪の出来事をみていきましょう。何が起きたか出来事の全容を知るためには本日の個所の前の11章のはじめから見なければなりません。サウル王に続いてユダヤ民族の王となったダビデは、国の安全を脅かす周辺諸国との戦争は連戦連勝という破竹の勢いでした。それは、本日の個所の12章7

8節の中で言われるように天地創造の神の大いなる祝福があったからでした。神自身が言われるように、ダビデが国王の地位につけたのも、サウル王のものや王国の領域も受け継げたのもみんな神のおかげである、何か不足があれば神はかき集めるようにして与えるつもりだ、と言うくらいダビデを祝福したのです。

ところがある日、一人の軍人ウリヤの妻ベト・シェバに一目惚れして、夫が前線にいる間に関係を持ってしまいます。今の日本でよく耳にする不倫です。そしてベト・シェバは妊娠してしまいます。神から必要なもの欲しいものを欲しいだけもらえるような立場にいながら、それでもまだ足りないと言わんばかりに、ダビデは神の意思、「姦淫するな」に背いてしまったのです。宗教改革のルターも言っていますが、人間というのは神から与えられる物を享受していくうちに、心が贈ってくれた方から離れて贈られたもの自体に密着してしまう、そういう恩知らずになってしまう。まさにそのことがダビデにも起きてしまったのでしょう。神から与えられることに慣れてしまって、いつしか贈り主である神のことは忘れて贈られた物はあたかも自分の能力や偉大さのおかげで自分の懐に当然の如く流れ込むようになったのだ、そういう心境だったでしょう。そうなると、欲しいものは何でも手に入れて当然という気持ちになります。ダビデに限らず、名声を博した人、高い地位に昇りつめた人の多くはそうなる危険が高いです。贈り主なんてもう眼中にありませんから、贈り主の意思なんて関係ありません。遠慮なしにどんな手段を使っても手に入れればいいだけです。

ダビデはまさにそのようにして人妻を手に入れました。ウリヤをわざと戦闘の激しい前線に送り込んで戦死させて、ベト・シェバを自分の妻にしました。前線から知らせを告げに来た使者とのやり取りを見ても、ウリヤの戦死に何か不自然なことがあると気づかれないようにする話しぶりです。しらじらしいと言ったらありません。

ところが、神は自分の意思が踏みにじられたことをそのまま見過ごすことはしませんでした。踏みにじったのは、自分が民の指導者に選んで祝福を与え続けた男です。神は早速、ダビデの目を覚まさせるために預言者ナタンを送りました。ナタンは王に一つのたとえを聞かせます。ある町に羊・牛の大きな群れを所有する金持ちの男と、雌羊一匹しか持たずそれを大事に育てた貧しい男の二人がいた。金持ちは客に食事を振る舞わなければならなくなった時、自分の所有する群れを惜しく思って、貧しい男から雌羊を取り上げて、それを食事に提供してしまいました。この話を聞いたダビデは自分のことを言われているとも気づかず激怒し、その金持ちは神の意思に背くもので死に値するとさえ言います。これは奇妙なことです。自分は人妻を強奪するようなことを仕出かしても、他人の卑怯なやり方に関しては神の意思に背くなどと言って憤慨するくらいの倫理観は持ち合わせていたのです。これが救いになりました。「王よ、その金持ちはほかでもない、あなたです」と言われ、ダビデは目の前に鏡を突き付けられたのも同然でした。そこには自分がそう叫んだ、「死に値する」男が映っていました。自分の激怒は神の思いなのだということがわかりました。

ダビデは自分がしたことは自分の造り主である神を失望させ怒らせることであると真剣に分かりました。「私は神に対して罪を犯しました」と告白します。神はダビデが罪を悔いていることを受け入れ、これから彼に何をするかをナタンを通して告げます。「神自らがあなたの罪を不問にされる。あなたは死ぬことはない。」(新共同訳では「罪を取り除く」ですが、ヘブライ語の単語עברは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味があります。辞書(W.L.HolladayのConciseですが)もここのところは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味と言っています。)神はダビデが罪を悔いていることを偽りがない、真実と認めて彼の罪を不問にすることにしました。神がダビデの罪を不問にしたことがどこでわかるかと言うと、本当ならダビデの犯した罪は神に対する罪として命を落とさなければならない性質のものであったが、それは免れるというのです。つまり、神はダビデの罪を赦すことにしたのです。

これで一件落着のように見えますが、実はそうではありませんでした。本日の日課の個所は13節で終わって、ダビデは罪を赦されて死を免れてめでたしめでたしですが、実は次の14節でダビデの罪の赦しは限定的だったことを思い知らせることが起こります。ナタンの口を通して語られる神の言葉は14節まで続きますので、そこまで見ていきます。せっかくのハッピーエンドを興ざめにしてしまい恐縮なのですが、より深い真実に到達できるために敢えてそうする者です。

ナタンは、ダビデが死を免れることに加えて、ベト・シェバが産んだ赤子は死ぬと告げます。実際、赤子は誕生七日目に死んでしまいます。ダビデは神が考えを変えることを期待して祈り断食をしますが、無駄に終わりました。これは一体どういうことでしょうか?罪を犯した本人は死を免れるのに、まるで子供が親の罪の犠牲になったようです。確かに神にとって罪というのは償いのためには本人に犠牲になってもらわなければならないほどのものです。それにしても子供を犠牲にするというのは、神は少し無慈悲で残酷にすぎませんか?赤子の死の事実はダビデに罪の赦しは限定的だったと思い知らせたでしょう。確かに生きることは許されたが、自分の罪の償いのために誰かが犠牲にならなければならないことは動かなかったのです。そして、それを赤子が引き受けなければならなかったのです。赤子の死はダビデに罪の負い目を痕跡のように残したでしょう。神がこのように罪を罰せずにはおられない方であるならば、私たちが神の意思に背いた後で何か不幸が起きたら、それは私たちの心に罪の負い目を残すでしょう。また、特に背いたことに思い当たりがなくても何か不幸が起きたら、これは何の罰だろうか?自分の何の罪が原因でこのようなことが起きてしまったのか?と悩み、影のような罪悪感を抱え込むことになります。

兄弟姉妹の皆さん、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、まさにこの無慈悲で残酷に見える神がひとり子のイエス様を私たちに贈って、私たちが罪悪感や負い目から解放されるようにして下さったということです。確かに神は罪に対して完全な償いを求める非常に厳しい方です。しかし、その神がイエス様を私たちに贈って、彼に全ての人間の罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。これは、私たちが罪の罰を受けないで済むようにするためでした。無慈悲で残酷に見える神は実はひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに私たち人間のことを大切に思って下さるのです。これが私たち人間に対する神の愛です。無慈悲で残酷に見えるのは罪に対して罰を下そうとするからですが、私たちを愛して罰を免れさせたいから、ひとり子を犠牲にしたのでした。そうすることで、私たちが罪に染まらない、かつ罪を引きずらない者に生まれ変わる道を開いて下さったのでした。

イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後は、罪を不問にして赦すことは限定的ではなく、全面的なものになりました。イエス様の償いの業はそれくらい徹底したものだったからです。そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、たとえ不幸に遭遇しても、イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は罪の罰ではないというスタンスになります。そうなると、自分の責任を詮索して前に進めないということがなくなります。これは神の業が現わされる起点なのだというスタンスになり、苦難困難の中に乗り出していき、そこに神の業を一つ一つ見出していきます。ここにはもう罪悪感も負い目もありません。また、キリスト信仰者が罪を犯してしまい、それが不幸の発生に結びついてしまった場合でも変りはありません。イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は神の罰ではなくなって、神の業が現わされる起点になります。

以上から無慈悲で残酷に見える神が、実はひとり子を犠牲にしてもいいと思う位に私たちのことを愛しているということわかったのではないかとが思います。この愛を注がれた者が今度は感謝に満たされて人目を気にせずに前に進もうとすることが、本日の福音書の日課の出来事によく示されています。次にそれを見てまいりましょう。

 

3.疑う人目を吹き飛ばせ!

 イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれています。これは一体どういうことでしょうか?イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたと思われます。

出来事の流れを一つ一つ注意して見ていきましょう。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。女性がしていることを一部始終見たシモンは内心呟きます。39節の仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。

シモンの心の呟きを見て取ったイエス様は、この女性の行為が何を意味するのかを教えようと、一つのたとえを話します。多額の借金を抱えた人と少額の借金を抱えた人が返済に困ってしまった時、貸主から借金を帳消しにしてもらった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、どちらが、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいと強く思うのはどちらだろうか、ということです。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。

そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したのではと十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということです。

イエス様は、この女性の献身的な行為は、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えます。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのです。

ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦さて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということです。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を行っていた、ということです。「罪を赦す」というのはどういうことか?先にも述べましたが、繰り返しますと、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまう。その時、その人が神の怒りを買うことをしてしまったと認めて悔いる。これを神が受け入れると、神はその罪を不問にする。事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、だから、あなたはもうしない新しい生き方をすぐ始めなさい、私はそれを支援するから。そう神に言われること、これが罪の赦しです。

ところが、赦す神とは逆に、女性の悔い改めを認めず、彼女の犯した罪をいつまでもねちねち問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのない情けのない態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを認めず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。

しかしながら、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神のみ子イエス様と父なるみ神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神しかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判となる言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」

以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったことをみました。女性は、周囲の赦しのない、辛い荒波の中ではあるが、父なるみ神と御子の支援と応援を受けて新しい人生を始めることができるようになりました。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れました。

 

4. おわりに

 兄弟姉妹の皆さん、ダビデの罪の赦しは限定的になってしまい罪の負い目を残してしまいました。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しは全体的で完全なものになり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は罪の負い目を持たないで済むようになりました。

イエス様に罪の赦しを宣言された女性は、感謝と献身の気持ちに満たされ、疑う周囲の目を意に介しない勇気を持つようになりました。十字架と復活の出来事が起きる前でもこのような勇気を得たのです。その後でイエス様を救い主と信じ洗礼を受けた私たちに同じ勇気が与えられないことがありうるでしょうか?

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

交わり

 

交わりの席で吉村先生から移転先の教会についての発表がありました。最終的な教会が決まるまでの暫定的な会堂ですがここで教会の力を蓄えてその次のステップを目指したいと思います。

説教「喪失の悲しみから復活の希望へ」神学博士 吉村博明 宣教師、列王上17章17ー24節、ルカによる福音書7章11ー17節

主日礼拝説教 2019年6月23日聖霊降臨後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 今日は教会のカレンダーでは聖霊降臨祭から数えて第二の主日です。先週が聖霊降臨後の第一主日でした。聖霊降臨で父・御子・御霊の三つが出そろったということでしょうか、教会のカレンダーでは三位一体主日とも定められています。これから教会のカレンダーは毎週「聖霊降臨後第何主日」と続いて、クリスマスの準備期間である待降節まで続きます。今年は聖霊降臨の主日は11月24日まで24回あります。その次の12月1日が待降節の第一主日、これが教会のカレンダーの新年になります。その日までまだ23週間もあります。梅雨が終われば暑い夏が来て、本格的な秋になるまでは残暑も続くでしょう。その間の私たちの毎日の歩みは山あり谷ありかもしれません。もちろん途中で、緑の牧場や水辺のほとりもあるでしょう。私は、スオミ教会の礼拝が皆様の心と霊にとってそういう憩いと安らぎの場になることを願っています。少し気が早いですが、待降節第一主日にはまた「ダビデの子、ホサナ」(後注1)を一緒に元気よく歌いましょう。その日を目指して、一日一日を父なるみ神の見守りと導きに信頼して歩んでまいりましょう。

本日の旧約の日課は、紀元前9世紀にイスラエル王国で活動した預言者エリアが死んだ子供を生き返らせる奇跡を行った話です。福音書の方は、死んでこれから埋葬されようとしていた青年をイエス様が生き返らせた奇跡についてです。両方とも子供に先立たれた母親の悲しみが言われていて、両方とも母親は未亡人です。夫に先立たれ、残された子供も失った時の悲しみは相当なものでしょう。未亡人たちはその悲しみを経験した後で、それぞれエリアとイエス様に助けられました。どちらもよく似たような話ですが、聖書をよく目を凝らして読むと違いもあります。そのことについては後ほど見ていきます。

私たちが、もし最愛の人に先立たれて悲しみのどん底に落ちたら、本日の日課の出来事のように、その人が生き返って悲しみがなくなるということが起こるでしょうか?イエス様を救い主と信じる私たちは、そういう奇跡が起こる可能性は信じていますが、奇跡である以上は一般的には起こらないことも知っています。もし一般的に起きたら、それはもう奇跡ではないからです。それじゃ、そのような状況に陥ったら、どうしたら良いのか?どうやって悲しみを乗り越えられるのか?不幸な出来事を忘れることが出来て悲しみが消える日を待つのか?でも、悲しみは消えるでしょうか?なかなか消えないのではないでしょうか?そうなると肝心なことは、たとえ悲しみは残ってしまっても、後で生まれてくる喜びもしっかり味わえるようになることではないでしょうか?つまり喜びを味わえないようにしてやろうとする悲しみの破壊力を弱体化させることです。悲しみが消え去らないものならば、そういうふうにするしかないでしょう。しかし、それは時間のかかることです。どうしたら、その時間を短く出来て、早く日常が回るようになれるでしょうか?悲しみは残っても、新たに生まれてくる喜びもしっかり味わえるようになっていけるでしょうか?

この問いに対する答えは本日の旧約と福音書の日課から見つかるかどうかと言うと、大方の人は見つからないと答えるでしょう。というのは、二人の未亡人は確かに子供を失って悲しみのどん底に陥ったが、結局は子供を生きて返してもらったからです。もうどん底にはいないのです。生きて返してもらえなかった親たちにとって、今日の日課は意味がないではないか、という疑問が起きます。もっともな疑問です。しかし、私は、この二つの話は、たとえ喪失の悲しみは残るにしても、それを覆い包んでいって悲しみを弱めて日常がまた回転し出す、そういう導きの力を教えていると思います。それを以下に見ていこうと思います。

 

2.不幸 - 罪に対する神罰の結果か?神の業が行われる起点か?

 最初に旧約の日課を見てみましょう。エリアは旧約聖書の代表的な預言者の一人です。紀元前10世紀にダビデ-ソロモンの王国が南北に分裂しますが、その北王国で活動した人です。北王国の王様が天地創造の神を捨てて異教の神を崇拝するようになってしまい、エリアはそれを正そうと奔走し迫害も受けます。本日の日課のところは、エリアが神の指示に従い、国外に出てシドン地方のサレプタというところで未亡人と男の子の住む家に滞在を始めました。当時、地中海東部を干ばつが襲い、飢饉が起こっていました。未亡人の家も食べ物がなくなり、最後の小麦粉でパンを焼いたら後は餓死するだけというところまで追いつめられていました。そこにエリアが来て、壺の小麦粉は使っても使ってもなくならないという奇跡が起きました。これを見た異邦人の女性はきっとイスラエルの民の神、聖書の神は真の神とわかったでしょう。

ところが一難去ってまた一難。男の子が重い病気にかかって息を引き取ってしまいました。未亡人のエリアと神に対する態度は一変します。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(列王上17章18節)。「あなたは私にどんなかかわりがあるのでしょうか」というのは、「あなたは私に一体何をするつもりなのか?」ということです(後注2)。つまり、「私の所にやってきて、私の罪を明るみに出して私の息子を死なせるなどとは、私に一体何をするつもりなのか?」

この未亡人のように、不幸の原因を自分が罪を犯したので神が罰を下したという考え方はよくあります。特にサレプタの未亡人の場合、なくならない小麦粉の奇跡を見せられて、聖書の神の偉大さがわかったばかりでした。その後で息子が死ぬという不幸が起きてしまいました。きっと、この畏れ多い偉大な神は私の罪を見出して、その罰として息子を死なせたのだ、と考えたのでしょう。しかし、自分の罪のために犠牲になるのが当の自分ではなく最愛の子というのはどうにも受け入れ難いものです。エリアに対する未亡人の言葉には明らかに抗議が見て取れます。エリアは神に祈り、それを聞き遂げた神は男の子の息を吹き返させました。これで不幸とは神の罰が下った結果でないことが明らかになりました。そうではなく、不幸とは、天地創造の神を畏れ偉大な神と信じる者にとっては、神の業が行われる起点になるということが明らかになりました。未亡人がエリアのことを「神の人」と二回言いますが、最初、奇跡の前に言った時は神のことを罪を見つけて裁く方という理解でした。奇跡の後は、信じる者が不幸に陥ったとき憐れんで助けてくれる方という理解でした。

サレプタでの出来事のポイントは、天地創造の神を真の神と受け入れると罪の自覚が生まれるが、それでも起こる不幸は神罰ではないということ、そうではなくて、神の業が行われる起点であるということです。ところで、サレプタの未亡人の場合は、神の業は息子を生き返らせてもらう奇跡でした。それでは、亡くなった人が生き返らなかったら、不幸を起点にした神の業は何も起こらなかったということでしょうか?そういうことではないと思います。たとえ亡くなった人が生き返らなくとも、神の業は違う仕方で起きる、それは生き返りに比べたら物足りなく見えるかもしれないが、それでも悲しみの破壊力を弱めるものになる、そういう神の業もあると思います。そのような神の業をわかるために福音書の日課のイエス様の業を見てみましょう。

 

3.人間の根底的な苦しみとその解決

  イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方の境に近くにあるナインという町で死んだ者を蘇らせる奇跡を行いました。イエス様が死者を生き返らせる奇跡は、福音書に記録されている例としては、ガリラヤ地方のカペルナウムという町で、ユダヤ教会堂の会堂長ヤイロの娘を生き返らせたこと(ルカ8章40ー56節、マタイ9章18ー26節、マルコ5章21ー43節)と、エルサレムの近くにあるベタニアという町でマルタ、マリア二姉妹の兄弟ラザロを死後4日目に生き返らせたことがあります(ヨハネ11章1ー44節)。

ナインでの奇跡の出来事の次のようなものでした。イエス様が弟子たちや他に付き従う大勢の人たちと一緒に町の門の近くまで来る。ちょうどその時、中から門を通って外の墓地に向かう葬列が出てくる。亡くなったのは若者で、それは母親にとっては一人息子、しかも、母親は未亡人でした。町の人たちが大勢葬列に加わって歩いて行く。イエス様の言葉「もう泣かなくてもよい」から明らかなように、婦人は悲しみに打ちひしがれて泣きながら歩いていたでしょう。イエス様は葬列に近寄り、棺に手を触れます。棺を担ぐ人も葬列自体も立ち止まりました。そこで思いもよらないことが起こります。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14ー15節)。母親は、一度死んで失った息子を生きて取り戻すことができたのでした。

 ここで一つのことに注意します。それは、イエス様が他で生き返らせの奇跡を行った時は肉親から助けを求められて行っていますが、ナインでは誰もイエス様にお願いをしていません。イエス様は、お願いされる前にさっさと奇跡を行いました。お願いされなくても奇跡を行うきっかけが、本日の箇所の中で言われています。それは、「母親を見て、憐れに思った」というところです。目の前に悲劇の現実があることを自分の目で確認し、それに対して憐れに思った。憐れに思うというのは、ギリシャ語のσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイという動詞ですが、心に訴えかけられる、それで憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、同情する、という意味です。イエス様が泣いて悲しんでいる母親を見て、本当に可哀そうに思った、それがイエス様をして奇跡の業を行わせたということです。私たちも、苦難や困難に陥った人を助ける時は、彼らの苦しみや悲しみに心を傾けることから始まります。可哀そうに思う、気の毒に思う、こうした心の有り様が他者を助ける出発点になります。その点については、イエス様も全く同じでした。私たちが救い主と信じる神のひとり子は、私たちが苦難や困難に陥った時にその心を本当に私たちの苦しみや悲しみに寄せて下さる方です。苦難や困難に陥るというのは、イエス様に見放されたということではありません。その時イエス様は、今のところは父なるみ神の右に座しているとは言っても、彼の心は騒ぎ、ナインの未亡人を可哀そうに思ったと同じように私たちのことも可哀そうに思うのです。

 イエス様が「他者の苦しみや悲しみに心を傾ける」 、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、ということを意味するギリシャ語の言葉σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイですが、これは彼が奇跡を行う場面でよく使われます。例えば、マタイ14章で、イエス様を追ってきた大勢の群衆を「見て深く憐れみ」(14節)、彼らの中にいた病人たちを癒されました。15章では、三日三晩飲まず食わずにいた4000人の群衆のことを、イエス様が「かわいそうだ」と言って(32節)、手元にあった7つのパンと少量の魚で全員を満腹にする奇跡を行いました。20章では、イエス様はエリコの町で二人の盲人から、目が見えるようにして下さい、と執拗に嘆願されます。その時、「深く憐れ」んだ(34節)イエス様は二人の目を見えるようにします。これらはギリシャ語ではみんなσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイです。

他の奇跡の場面では、苦難困難に陥っている人たちを前にしたイエス様の心の動きは詳しくは記されていませんが、以上の例からだけでも、イエス様はそうした人たちに対して、いつも深い憐れみの心、可哀そうに思う心を持って、それに突き動かされて奇跡の業を行っていたことは否定できないでしょう(後注3)。私たちの主は、まことに私たちのことを心に留められて、私たちの苦しみや悲しみをさも自分自身の苦しみ・悲しみのように受け止めて下さる方です。

それならば、イエス様はなぜ、私たちが苦難や困難に一切遭遇しないで済むようにしてくれないのか?また、遭遇してしまった時は、どうして早くそれから抜け出られるようにして下さらないのか?ちょっと贅沢な疑問ですが、このことを考える時に、ひとつ注意しなければならないことがあります。それは、もしイエス様の任務が、苦難や困難に陥った人たちを憐れんで奇跡の業で助けてあげることだとすれば、なぜ彼はそれを途中でやめてしまったのか、ということです。イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方とそれらの周辺地域で実に多くの人々を奇跡の業をもって助けました。不治の病を治し空腹を満たし無数の悪霊を追い出しました。ところが突然、彼はこうした巡回救援活動を止めて、行けば死が待っていると自分でもわかっているエルサレムを目指して歩み始めるのです。イエス様が十字架に架けられたのが大体西暦30年頃とすると、年齢的に30少しいった位です。まだまだ働き盛りです。もっとあちこちを回って救援活動を続けられた筈です。それこそ、地中海の東海岸地方だけでなく、南はアフリカ、北は今のヨーロッパ、東はアジアへと、世界各地で病人を癒し空腹を満たし悪霊を追い払っていた方が、はやばやとエルサレムで死刑になってしまうよりは、人類のためになったのではないでしょうか?

ところがそうではないのです。ゴルゴタの十字架に架けられることの方が、人類のためになったのです。そっちを実行するために、イエス様はエルサレムに向かう道を歩み出したのです。それは、病気や飢えや他のあらゆる苦しみが助けてあげるのに値しないということではありません。そうではなくて、そうした苦しみ全ての根底にある苦しみから人間を救い出すということをイエス様は目指したのです。

人間の根底的な苦しみとは、人間が堕罪以来、自分の造り主である神との関係が断ちきれた状態に置かれたということです。そのため、人間はこの世の人生では、神との結びつきをもって生きることができず、この世から去った後も、神との関係は断ち切れたままで、造り主である神のもとに戻ることができず、永遠に滅びに陥ってしまう。しかし、神の側で、人間をそういう状態に陥らせないようにしようと思われた。人間が神との関係を回復できて、この世の人生では神との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、たえず神から見守りと導きを得られるようにしてあげよう、と。この世を去ることになっても、その時はひと眠りの後で目覚めさせ、この世での肉体に替わる新しい復活の体を着せて自分のもとに引き上げあげよう、そうして、造り主である自分のもとに永遠に戻ることができるようにしてあげよう、と。

しかしながら、神聖な神と罪を受け継ぐ人間の断ち切れた関係を回復させるためには、神から切り離す原因となった罪から人間を解放しなければなりません。そこで、神がやったことは、神のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て受けさせて身代わりとして死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにする、ということでした。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させて、人間に永遠の命への扉を開きました。サレプタの未亡人は、自分の罪のために子供が犠牲にさせられたと勘違いしましたが、私たちの場合は、私たちの罪のためにこともあろうに天地創造の神のひとり子が犠牲にさせられたのです!人間は、イエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、イエス様の身代わりの犠牲による罪の赦しにすっぽり包まれて、そこから神との結びつきを持ってこの世を生き始めます。そこで苦難や困難に遭遇しても、それは神の罰の結果ではない、むしろ神の業が行われる起点なのだという態度になります。

このように、エルサレムに向かう道を歩み出したイエス様は、人間を助けることを途中でやめたのではなかったのでした。そうではなくて、本当に人間を助けるために十字架の道を選んだのでした。もちろん、病気や飢えや悪霊から人間を助けることも大事です。しかし、イエス様は人間と神の結びつきが失われていることをまず解決しなければならないと考えて道を選んだのでした。これで、イエス様を救い主と信じる者にとって、苦難や困難は神の罰の結果ではなくなって神の業が行われる起点になりました。それでは、最愛の人を失ってしまった悲しみが苦難・困難の場合、最愛の人が生き返ってこないならば、一体何が神の業になるのでしょうか?

 

4.喪失の悲しみから復活の希望へ

 その問いの答えを探す時、イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を行ったのは何のためだったのかを考えるとよいでしょう。ただ未亡人を可哀そうに思って助けてあげただけだったでしょうか?エリアの生き返らせの奇跡とイエス様のそれとでは違いがあります。エリアは子供を生き返らせる時に神に祈り、それを聞いた神が生き返りを起こしました。神に生き返らせてもらったということです。ところが、イエス様の場合は「娘よ、起きなさい」とか「ラザロ、出てきなさい」とか、今日の個所のように「若者よ、起きなさい」

とか、全部自分の命令で生き返らせています。神の力を仲介したエリアと違って、イエス様は自分が生き返らせる力を直に持っていることを示しました。将来の復活の予行練習みたいなものと言ってもいいかもしれません。

イエス様は人々に教えていた時、「終わりの日」に自分を救い主と信じる者を「復活させる」と公言していたことを思い出しましょう(ヨハネ6章39節、40節)。終わりの日の復活とは、この世を去った者たちが最後の審判の日に眠りから目覚めさせられ、イエス様の犠牲を受け入れて罪の赦しを得た者には神が「お前は義とする」と宣告される、そして、新しい朽ちない復活の体を着せられて懐かしい人たちと一緒に天の御国に迎え入れられる、これが復活です。そうすると、生き返りの奇跡で生き返らせられた人たちは復活したのではなく、生き返った後は寿命が来るまで生きたというにすぎず、この世を去った後は復活の日の目覚めまでは眠っているのです。生き返らせの奇跡は復活ではありませんでしたが、それをすることでイエス様が復活させると言っていることが口先だけでなく、本当にその力を持っていることを思い知らせることになりました。

キリスト信仰とその中にある復活信仰に立つと、亡くなった方は復活の目覚めの日までは眠りについているという立場になります。そして再会の日まで祈り・感謝を捧げたり思いを打ち明けたり人生の出来事を報告する相手はあくまで天の父なるみ神という立場になります。ところが、日本の大方の人は、仏壇などがありますので亡くなった方がそういう相手になって常にコミュニケーションを取れていつでも身近にいる存在になります。復活信仰だとコミュニケーションの相手は私たちの造り主である神だけになって寂しくなってしまうと思われるかもしれません。それでは喪失の悲しみは癒せないと言われるかもしれません。しかし、祈りを捧げる相手が創造主の神であればあるほど、愛する方と復活の日に再会できるという希望が強められていきます。確かに愛する方を失って神への感謝ということは遠のくかもしれないが、復活の日の再会の希望が強まれば、亡くなった方と共に過ごした日々の思い出がとても美しい麗しいものに変わり、それはきっと高価な芸術作品の絵画以上になるでしょう。この素晴らしい過去が神への感謝になり、それと将来の復活への希望が合わされれば、亡くなった方が今静かに眠っていても不安になることはなくなります。キリスト信仰の場合、まさにそこに、悲しみは残っても、日常は回り、新たに生まれる喜びも味わえるという神の業が働くのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


後注1.「ダビデの子、ホサナ」は、フィンランドやスウェーデンでは待降節第一主日の礼拝で歌われることが伝統になっている讃美歌です。教会の「新年」を元気よく始める雰囲気に溢れる歌です。

 

後注2.(ヘブライ語とギリシャ語が分かる人にです。)列王記上17章18節のヘブライ語の文מה-לי ולךを見た人は、マルコ1章24節で悪霊がイエス様に言った言葉τι ημιν και σοι;とヨハネ2 章4節でイエス様が母マリアに言った言葉τι εμοι και σοι;を思い出すのではないでしょうか?ヘブライ語の文、ギリシャ語の文ともにシンタックススが同じだからです。意味はマルコ1章24節は「我々とお前の間に何があるのか?」⇒「お前は我々に何をするつもりなのか?」、ヨハネ2章4節は「私とあなたの間に何があるのか?」⇒「あなたは私に何を求めるのか?」同様に列王上17章18節も「私とあなたの間は何があるのか?」⇒「あなたは私に何をするつもりなのか/何を求めるのか?」。

 

後注3.ラザロの生き返らせでは、σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは使われず、かわりにενεβριμησατο τω πνευματι και εταραξεν εαυτον(ヨハネ11章33節)という言い方がされています。新共同訳では「心に憤りを覚えて、興奮した」とありますが、何に憤ったのかわからないし、すぐ後でイエス様も一緒に泣いてしまうので(35節)、ここはやはりイエス様が本当に可哀そうに思ったのだと考えた方がいいと思います。

講壇交換により武蔵野教会にて行なった説教です:神学博士 吉村博明 宣教師

主日礼拝説教 2019年6月16日(三位一体主日)むさしの教会

イザヤ6章1-8節、ローマ8章1-13節、ヨハネ16章12ー15節

 

説教題 なぜ神は三位一体なのか?

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の世界三大一神教の類似性ということがよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約旧約聖書を全く独自の仕方で用いています。しかしながら、神学的には三つの宗教が同じ種に属するという話には無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体ですが、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っている宗教同士でさえ、三位一体がキリスト教と他を切り離しているのです。共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間には類似性など論じる可能性はもっとなくなります。

 キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の8章22ー31節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロサイ1章14ー18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1ー3節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

 

2.どのようにして三位一体なのか、ではなく、なぜ三位一体なのか?

 三位一体とは、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人の神になるのかということに目が行ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を一度に備えた一人の神でなければならないのか、ということを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神に対して不従順になって罪を犯し、死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったということは、罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。

このように神と人間との間には果てしない溝が出来てしまいました。しかし、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにすべく、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」、ギリシャ語の動詞βασταζωは「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神との結びつきから切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそこに至る道に置かれる、そして、神に見守られて導かれてその道を歩めるようになったこと、以上のこと全てが真理だとわかって受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。どれも人間の理解力、理性では理解できないことだからです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとする力が働いています。イエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さる、これが真理なのに、そんなに甘くはないぞと言って、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、私たちは、本日の福音書の箇所で前のところ(ヨハネ14章26節)でイエス様が「弁護者」である聖霊を送ると言われたことを思い出さなければなりません。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架での人間の罪の償いが自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

キリスト信仰者はこの世の人生でこれを何度も何度も繰り返して自分の内に宿る罪を圧縮していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

このように聖霊は私たちが神の真理にしっかりとどまれるように応援し助けてくれます。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文です(οδηγησει υμας εν τη αληθεια παση)。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊です。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の力や罪と戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束された聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。

13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもあると言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。

 

3.三位一体の神だから私たちと共におられる

 このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間を罪と死の支配から贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになるということです。本当に三位一体はすごいことです!私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものだからです。

最後に、父なるみ神とひとり子は天の御国におられるとは言えども、三位一体の神は私たちの近くにおられるという不思議なことを確認しておきましょう。スオミ教会の三位一体主日の礼拝説教で毎回見せているものですが、ここにこんな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています。この三角形全体が三位一体の神です。まず、イエス様が地上に贈られる以前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります。ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を繙くと、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、聖霊降臨の時からです。

さて、イエス様が地上に贈られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6ー7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました。

さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4ー15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。)ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。

イエス様は、しっかり約束を守りました。良かったですね。

聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント12章3節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

説教:浅野直樹 牧師(市ヶ谷教会)

 

ヨハネ16章12-15節 三位一体主日 2019/06/16

 

■三位一体主日

教会の暦は三位一体主日を向かえました。ペンテコステで聖霊の力が注がれたので、これで父と子と聖霊の三位が出揃ったということで、伝統的にペンテコステの次の日曜日を三位一体主日としています。これで一年の半分が過ぎたことになります。

 

■聖書から学び聴くとは

わたしたちはこうして日曜日ごとに教会に集まって神様を礼拝します。そして聖書の言葉を聴いています。そしてそれを自分のライフスタイルに取り入れています。それがとても大きな特徴であり、これを自分自身の生き方としています。今の言い方なら、そういう信仰生活を自分のアイデンティティーとしています。まさしく自分らしさがここにあります。そこに価値を見いだしているのです。そこに自分が生きている意味を見いだしているのです。

 

■そしてイエスの言葉に耳を傾けるのはなぜかというと、キリストの言葉がこの世の価値観と神の国の価値観を橋渡ししているからであります。人間社会に生きる私たちは、どうしてもこの世の価値観に左右されます。左右されるどころか、むしろ普段はこの世の価値観に従って生きているのです。この世の価値観を無視して、まるで仙人のように世を捨てて世俗を離れて生きることはできません。たとえ修道院に入って生活するにしても、必ずそこにはこの世の価値観が存在します。

この世の価値観を受け入れながらも、それに則して生きていることを良しとしながらも、この世の価値観だけが自分のいのちを決めると考えることには納得していないのです。この世の価値観だけでは計れない別次元の価値観があると思わずにはいられないのです。それをだれも言葉にできないのです。うまく説明できないのです。

 

■ナザレのイエスという男もまたこの世の価値観を持って生きていました。イエスは決して仙人や世捨て人ではありません。社会の中を人々と共に生きたのです。楽しく過ごすことも人とおしゃべりすることも大好きで、そういう意味ではごく普通の人でした。

 

■けれどもナザレのイエスはもうひとつの価値観をもっていました。ひとことでいうならばこの世ではなく、それは神の国の価値観です。そしてその価値観を自分の考えとして語るだけでなく、そのように生きた人だったのです。

 

■それだからイエスの言葉は信じるに値するのです。イエスは神を語りました。神の愛を語りました。神の義を語ったのです。そして神の愛がどういうことなのかを教えました。たとえ話にしてそれをわかりやすく教えてくれました。神の義が何かを人々に示し、それを差し出してくれました。赦しがあることを示してくれました。癒しがあることを示してくれました。聖書に書いてあるそうしたイエスの言葉と働きのひとつひとつは、この世の価値観に照らしてみて納得できるものもあれば、この世の価値観では推し量れないものもあります。推し量れないものはいくつもありますが、なかでも最たるものといえば、やはり十字架でしょう。イエスが語り、そして示した神の国の価値観こそ、わたしたち人間が見失ってはならない価値観です。

 

■きょうの福音書ではイエスが霊について語っています。いうまでもなく神の霊、聖霊のことです。ヨハネ福音書では「真理の霊」という言い方で表されています。「真理の霊」という言葉は、ヨハネ福音書に特徴的な言葉です。他の福音書には出てきません。ヨハネ福音書14章から16章にかけて三回でてきます。「言っておきたいことは、まだたくさんある」と言っています。この部分はイエスが十字架にかけられる直前の出来事ですから、これは自分の運命を悟ったイエスが12人の弟子たちに語る最後の説教、すなわち遺言ということになります。

 

■真理の霊、すなわち聖霊について、それが何かと尋ねられても、私の言葉で説明しようとすれば失敗することになります。聖書を頼りに考えるよりほかにありません。

「今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

さきほども触れたように、これは十字架へと向かう直前の会話です。「今、あなたがたには理解できない」こととは、まさしくこのあと起こる出来事、十字架を指していると言えます。そしてこのあと起こる出来事をことごとく明らかにするのがこの真理の霊、聖霊だとイエスは語ります。

 

■弟子たちにとってイエスのことがことごとく理解できたのはいつだったでしょうか。イエスが復活したときだったでしょうか。違います。復活したキリストと出会ったときでしょうか。いえいえ、それもあやしいです。なぜなら目の前に復活のイエスがいるというのに、彼らはそれがイエスだとわからなかったのですから。それがイエスだと気づいたのは、ひとつには、イエスがパンを裂いたときでした。イエスがパンを裂いたとき、エマオへと向かっていた二人の弟子は、最後の晩餐のイエスの言葉を思い出します。そして復活のイエスが生きていることに気づきます。まさにそのとき、真理の霊が働いたのです。そして主イエスが復活し、真理の霊として今も生きておられることを悟ったのです。

 

■真理の霊が働いて、イエスのことをことごとく理解できるようになったのは、いつどんなときだったのか、もうひとつ取り上げたいエピソードがあります。それはイエスが復活した日の夕方のことでした。ヨハネ福音書20章に出てくる出来事です。復活のイエスが彼らが集まっているところへやって来て、シャロームと声をかけ、手と脇腹の傷跡を見せたときです。そのときイエスは弟子たちに向かってあるこことをします。

22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけられて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。』」とても象徴的に、まさしくここでイエスは弟子たちに聖霊を与えたのです。弟子たちは聖霊を受けてことごとく悟ります。その力を得て遣わされていったのです。

 

■真理の霊が働いて悟りを得ることは、弟子たちだけに起こったことではありません。きょうの使徒書にあるパウロの言葉の中にも見て取れます。パウロはこう言います、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放しました。」霊の法則という言い方が出てきました。パウロはこれを罪と死の法則と区別します。

きょうの説教の冒頭で、これは私の言葉でしたが、この世の価値観と神の国の価値観という言い方をしました。ふたつの価値観の違いをそのままパウロの言葉に置き換えられるとは思いませんが、感覚的に近いのではないかと思っています。

 

■どうやらパウロはふたつの法則の狭間でもだえ苦しんでいたようです。この世を生きている限り、罪と死との法則から誰も逃れられない。そのことをパウロはとても苦しみました。私たちはパウロのことを聖パウロなどと呼び聖人扱いしますが、パウロにしてみればとんでもないというでしょう。パウロでさえも、自分の罪から自由になれなかったからです。彼は律法学者です。自分の罪をきれいに消し去ろうと思って、一所懸命律法を守り実行しようとするのですが、やはりできないことを思い知らされるのです。こうした点はルターにもそのまま当てはまります。ルターも法律を勉強しそういう考え方が得意な人でしたから、その点もパウロにとてもよく似ています。そして自分の罪の問題に頭を抱えどうすることもできなかったのです。

 

■パウロもイエスとの出会いから、イエスのことをことごと悟ることができました。そしてイエス・キリストを伝道するようになり、罪と死の法則と関わりをもたないもうひとつの法則として霊の法則という理解に至ったのです。

 

■霊の法則という捉え方をパウロができたのも、真理の霊が働いたのです。パウロははっきりとこう言います、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」パウロはこう断言するのです。ファリサイ派の律法学者としてどうすることも出来なかった罪の問題を、イエス・キリストがいっきに解決したのです。ルターの場合は、これに匹敵する出来事はいわゆる「塔の体験」という事件でしょう。

 

■真理の霊が働いたのです。聖霊がパウロをそしてルターをことごとく悟らせたのです。そして罪からの解放への道が開けたのです。聖霊が働いているから、私たちに赦しの道が示されたのです。

 

説教:木村長政 名誉牧師

 聖霊降臨祭(赤)創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~12節、ヨハネ16章4b~11節、使徒言行録2章1~12節

「聖霊が降って、全地の民に」

 今日の礼拝は、世界中のキリスト教会が、特別な礼拝をしています。

 聖霊が弟子たちの上に降った、という出来事が起こったのであります。

 使徒言行録2章1~4節を見ますと、

 「五旬祭の日が来て、一同が1つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、1人1人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」とあります。

 イエス様の弟子たちが五旬節の日に、皆が集まっている所に突然聖霊が降ったのです。

 ここで言っている五旬祭というのは、特別な日でした。過越の祭の日曜から数えて50日目の日曜のことです。

 「七週の祭」とも呼ばれました。もともとは小麦の収穫を祝う日でありました。ですから「刈入れの祭」とも呼ばれていました。

 余り重きをなさない祝日でしたけれども、モーセがシナイ山で十戒を授かったことを記念して祝日と見なして以来、大きな重要性を持つようになったと言われています。

 ですから、ここで、五旬節の日に祭のため多くの人々が地方からエルサレム神殿に集まっていたのです。そうして、神からの驚くべき出来事が起こりました。新しい恵みが、弟子たちの上に臨んだということであります。

 この日に「みんなの者が一緒に集まっていた。」とあります。原文では「一緒に」という言葉と「同じ所に」という二つの副詞が、たたみかけるように重ねて出てきています。それだけ、ひと所に一緒に集まっていたということが強調されているということです。

 教会は、キリストを中心として、キリストの救いに預かった者たちが集まって祈りをいっしょにするのであります。

 キリストからさずかった愛を、互いに交わすために、集まっているのであります。信仰の必然的な姿がここにありました。

 復活の姿を弟子たちにあらわされたイエス様が昇天されて以来、弟子たちはひそかに1つ所に集まってひたすら祈りをしていたと思います。それは、聖霊が下るという天からのとてつもない大きな恵みに浴するための準備として、彼らはひたすら思いを1つにしていたことでしょう。

 著者ルカは、このことをとても重視して書いているわけであります。神の恵みの舞台は整いました。そして、想像できないような出来事が起こったのであります。2節を見ますと、「激しい風が吹いてきたような音が、家いっぱいに響きわたった」とルカは書いています。

 皆さん、想像して見て下さい。神様が起こされる御業というものは理屈や説明をこえて、想像の世界、霊の次元の世界が突然にあらわされたのです。

 神の霊が目には見えない力で、全身の体にはっきり感じとれる激しい現象が、皆の者の上に降ったのであります。それだけではありません。

 更に「舌のようなものが炎のように分かれて現れた。その炎の舌は1人1人の上にとどまった。」と

3節で言っています。どんな光景でしょうか、皆さん、想像してみて下さい。聖霊の力の中で満たされている者は1人1人ちがって、ふるえ上がっているのではないでしょうか。驚きと恐怖、また自分をはるかにこえた次元のちがう世界に動かされるまま、語らされるままに、聖霊に満たされている。

1人1人ちがった聖霊降臨という奇跡の只中に用いられているわけです。

 ユダヤ人たちの伝承によりますと、あのシナイ山において、神の言が70の舌に分かれて、世界の70の国民はそれぞれ自分の国の言葉で、この十戒を聞いたという。ルカは、ユダヤ人たちがこの伝承をよーく知っている、そのことを含めて、舌のようなものが炎のように分かれてのぞんだという表現で書いています。

 そして更に4節を見ますと、聖霊に満たされた人々は、他国の言葉で語りはじめた、とあります。これは他国の言葉でもあり、異言を語り始めた、とも読める、という解釈もあります。それ程異状な光景で、語る者と聞くものだけは心がはげしく通じ合っているとでも言える光景です。

 ルカはすでに1章8節のところで、イエス様は召天される時、弟子たちに向かって言われた。

 「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまでわたしの証人となる。」

 聖霊が降る時、受ける力というのは、病をいやしたり、悪霊を追い出したりするような奇跡をなす力であるよりも、むしろ言葉による能力の力を言っているのであります。

イエス様が召天されて、彼らはこれからいったいどうしたらいいか途方にくれていた。そういう彼らの上に、霊的な力が与えられた。そして彼らは、新しい言葉を与えられて、しゃべり出した。

 それは民族の境を越えて、全地の民にわかる言葉で喜びのおとずれを宣べ伝えたのです。

 「これからイエスの証人となるのだ。」という具体的内容であります。そのことが起こった。

 全身にものすごい風の音がひびきわたり、聖霊が降った。ものすごいことです。もう何といったらいいか、想像を絶することです。

 4節からルカは次のように書いています。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままにほかの国の言葉で話し出した。さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に、大勢の人が集まって来た。そして誰もかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」

 弟子たちは、ふだん魚をとっていた人とは全くちがって、霊に満たされてしゃべり出した。語らせるままに福音をそれぞれの故郷の言葉でしゃべり出したのです。それを聞いた人々は、メソポタミアからエジプトに至るまでの人々であって、彼らは離散している「ディアスポラ」と呼ばれたユダヤ人でありました。

 自分の生れ故郷の言葉で、イエスの弟子である使徒たちが話している。何ということだ!彼らは胸打たれ、感動したのです。

 今まで聖地エルサレムから遠く離れて、霊的にはいつも孤独感の中に、見捨てられたように感じていた。離ればなれのユダヤ人たちの魂に今、神の言葉が、自分自身のふるさとの言葉として注ぎ込まれたのであります。

 このようにして、彼らの魂がとらえられ、神の恵みの中に招かれていったのであります。

 9節以下には、ルカが、その故郷の言葉を聞いた人々の地名を面々として記しています。

 なぜこのように、こまかく地名を書いているのでしょうか。

 ここに列挙されている地で、ユダヤ人がどんなにつらい迫害を受けて、耐えてきたか、ルカは

伝承の資料でよーく知っていました。

 パルディア・メディア、エラムから始まって、これらの地はカスピ海の周辺にあった地名です。

 メジアはカスピ海の西南にあり、メソポタミアは、バビロン捕囚にあったイスラエルの民が、うき目をつぶさになめた土地です。

 エラムはその東にあって、カッパドキアは小アジアといわれ現在のトルコの東部にあります。私はその近くまで、パウロの伝道した地を訪ねました。カッパドキアは今でも、多くの人が訪れ、奇妙な岩石がにょきにょきとつき立って、その岩穴に、ユダヤの民は苦しい生活をせざるをえませんでした。

 ポントは、その北にある黒海沿岸の地帯にあります。

 次のアジアと言うのは、小アジア西部にあってローマ帝国時代アジジ州のことです。

 フルギアとパンフリアも同じ小アジアの西南部にあって、ここに挙げられている1つ1つの地域にユダヤの民が離散の後、その土地で苦しんで苦しんだ歴史が含まれているからルカは、その1つ1つの地名に万感の思いをこめて記しているわけであります。

 そうして、ルカは11節で「ユダヤ人と改宗者」という言葉で、これらの列挙した人々を宗教的な観点から総まとめしています。

 ここにあるユダヤ人と、ユダヤ人の改宗者、クレテ人とアラビヤ人とを除くと、あとには12の名が残るという。12というのは、1つの完全数と見なされ、言いかえると、全地の民に向かって今や、福音が宣べ伝えられ始めた、ということです。ルカは何としてもこのことを強調したかったのであります。ルカは福音書も使徒言行録も異邦人向けに書いています。

 しかもローマが12番目に挙がっており、この使徒言行録もパウロのローマ伝道で終わっているのであります。

 「あなた方は、地の果てまで、イエスの証人となる。」というこの約束の言葉が、すでにここに実現の第一歩を踏み出している、ということを、パウロは万感の思いに満ちあふれて、私共に示しているのです。

 1章6節に、弟子たちが「主よ、イスラエルのため国を復興なさるのは、この時なのですか」と、たずねる時、恐らく、まずエルサレムを中心とするイスラエルの復興を待ちのぞんで言ったでしょう。

 ところがここでは、むしろ、死の陰に座する民のもとへ行け、という指示を受けたのです。

 そして事実、10節から11節に列挙されている地方に、福音は伝道されていったのです。

 ポントは、パウロの協力者アクラの出身地でした。

 アジア、フルギヤ、パンフリヤはいずれもパウロの伝道の活躍した地域でした。

 エジプトからは、伝道者アポロが起こされました。

 クレテ島にはパウロの弟子、テトスが派遣されました。

 このような福音前進の跡がここですでに先取りされて予告されているのであります。

 これが、聖霊降臨によって神の恵みがもたらされたメッセージであります。

                                            アーメン    

6月のフィンランド家庭料理クラブのご報告

雨のないどんよりとした梅雨入り後の土曜日、
「スオミ教会家庭料理クラブ」はミューズリーの入ったパンと野菜たっぷりのスープを作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。

ドライフルーツに種やオートミールがミックスされたミューズリーと、
ライ麦粉や小麦粉を、ミルクで捏ねた生地は、低い丸い形に成型されて
たっぷりの発酵時間を取りました。
次は野菜スープ作りです、
ジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモにカリフラワー、カボチャに人参を
大きな鍋でゆったり煮て、柔らかくなったら、ブレンダーで滑らかにして、
塩やスパイス類で味を整え、クリームを加えて完成しました。
器に盛るときカッテイジチーズを入れて、熱々のスープを注ぎます。

お待ちかねの試食タイムは、焼きたての湯気の上がるパンに
マーガリンを塗り、口にいれると粉の美味しさとミューズリーの香ばしさに、
ほんのりした甘さが美味しく、スープも頬張っていただきました。

一段落したころ、パイヴィ先生からは
長い夏休みに入る前の終業式で歌われる賛美歌のお話と、
夏の美しい景色と歌声を、タブレットで楽しませて頂き、聖書の一節を聞かせて貰いました。
夏休みを待つフィンランドの方々の、喜びが伝わって来ました。

最後まで綺麗に後片付けをしてくださって、ありがとうございました!
夏休みシーズン前の最後の家庭料理クラブは無事に終了しました、
参加の皆様お疲れさまでした。

料理クラブの話6月8日

今の季節になると、フィンランドでは小学校や中学校の終業式で毎年歌われる賛美歌があります。この初夏の自然の美しさについて歌われる賛美歌は「初夏の賛美歌Suvivirsi」という歌です。博明はこの歌を日本語に訳して、一番の内容は次のようになります。「花咲き誇る季節来たり、どこもかしこも色とりどり、死に枯れし身にみ霊吹けば、愛と許しに目覚めさるる。」

二週間前の日曜日に日本に住んでいるフィンランド人の集まり、スオミ会がありました。夏の前の最後の集まりだったので、そこでも「Suvivirsi」を歌いました。久しぶりに歌ったので、とても懐かしく、印象に残りました。

この賛美歌はフィンランドの学校で夏休み前の終業式の時に歌われます。私が学校の生徒だった時にも、ヨハンナと悦才がフィンランドの小学校に通っていた時にも終業式で同じように歌われました。

学校の終業式でこの賛美歌を子供も先生も親も一緒に歌うと、多くの親は涙を流します。それはどうしてでしょうか?そのとき多くの親は自分の子供の頃を思い出すからです。自分が小学校中学校の生徒だった時、毎年この賛美歌を歌った。そして父兄席にいる親も一緒に歌っていたのを覚えている。それが今、自分は子供の親になって、目の前で自分の子供がこの懐かしい歌を歌っている。そのことで涙が出てしまうのです。このように親から子供へ伝わっていくものがあるというのはとても大事だと思います。

この初夏の賛美歌の最初の1番から3番は初夏の美しい自然や渡り鳥について歌われます。私はこの賛美歌を歌うと聖書のマタイによる福音書6章に書いてある御言葉を思い出します。この箇所でイエス様は、神様が私たちをどのように見守って養って下さるかということについて教えます。神様は、働きもしない花や鳥にも生きるための必要な食物を与えてくださることを教えます。神様はまた、人間にも必要なもの、ご飯、飲み物、衣服などを全部与えてくださいます。それで、私たちに与えられる生活の必要なものは全て神様からの贈り物です。ご飯や住まいや衣服などは私たちにとって当たりまえのようになっていて、神様に感謝することなど忘れてしまいます。でも、神様はどうして私たちをこのように守ってくださるのでしょうか?私たち人間は良いから、神様は返しに私たちに良いことを与えて下さるのでしょうか。そうではありません。それは、私たちが神様のことを知るようになって、信じるようになるためです。神様が私たち人間をどれほど愛して下さっているか、それを神様は全世界の人々に伝わってほしいと思っています。

生活に必要な良いものは、いつかは無くなるかもしれません。しかし、神様と人間の間に、死を超えて永遠に続く繋がりができる可能性があります。そのような神様と人間の繋がりはどのようにして得られるでしょうか?それは、神様の子イエス様の十字架や復活の出来事を通して得られます。イエス様は私たちの罪を全部十字架の上に背負って持って行って下さって、そこで死なれました。しかし、3日目に死から蘇られました。この出来事のおかけで、私たちの罪が全部許されて、この世の中でも、またこの世の次の世でも、いつも永遠に神様が一緒にいてくださるようになりました。このように神様は本当に人間を愛して下さっているのです。

賛美歌「花咲き誇る季節来たり」は多くのフィンランド人にとって懐かしい、安心感を与える歌です。しかし、イエス様を通して得られる神様との繋がりはもっと深くて長く、永遠まで続きます。この繋がりを神様は私たちに贈り物としてくださいました。これらのことを神様に感謝していきましょう。

「僕は二つの国の国民なのさ」

一日教会祭

6月2日、市ヶ谷ルーテルセンターにて中央線沿線の7つのルーテル教会による「一日教会祭」が開催されました。スオミ教会からは毎年、フィンランドの讃美歌や聖歌をコーラスで披露しています。今年はゴスペル・シンガーソングライターのペッカ・シモヨキによる「僕は二つの国の国民なのさ - 地上の国と天の国の」を歌いました。「フィリピの信徒への手紙」3章20節の聖句「されど、我らの国籍は天に在り」を題材にした歌です。

歌詞を皆で協力して歌える形に和訳してみました。クリスチャンの心意気がよく表れている歌です。是非お聴きください!(下の開始ボタン(黒三角)をクリック)。 

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1.足元のこの国も 果てしない天国も
  いつだって 僕らと共さ
  この国も大切な友だちさ いつかは別れ告げ
  主イエスのみ手つかむ
     地に足つけて生きよう
     その目は天国見据え
     わかるさ どこに行くか
     国籍 天に在るさ
2.爽やかな風薫り 耳あらう潮騒
  舞い落ちる白雪も見た
  駆け足で時は過ぎ 暗闇が近づく
  恐れるな 復活は夢じゃない
     地に足つけて生きよう……(繰り返し)
3.固い土掘り起こし 争いに撒くのさ
  福音の平和の種を
  鋤を置く時が来て 収穫の日まぢか
  おかえりと真の家に着く
     地に足つけて生きよう……(繰り返し)

P.シモヨキ本人が歌っているフィンランド語版もどうぞ!( ここをクリック )。

一日教会祭では、フィンランドの民族楽器カンテレの演奏グループ「ピエニタウコ」の友情出演もありました。毎年、清楚な音色で観客を魅了してくれます。

スオミ教会婦人会が毎年焼き上げるフィンランドの菓子パン「プッラ」は今年も好評のうちに110個が見事に完売でした!

説教「信仰は、賭けだ!」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録1章1ー11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節

主日礼拝説教 2019年6月2日 昇天主日

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

Gebhard Fugel [Public domain]

 本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。イエス様の昇天日から10日後に、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日が聖霊降臨日になります。カタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということは昨年の説教でお教えしたところです。今回もその教えには変更はありませんが、本日の第二の日課であるエフェソ1章の中に、昨年お教えしたことを深めることを発見しました。何かと言うと、死んだ人間に新しい復活の体を着せて蘇らせることとその者を創造主である神の御許に引き上げるということ、これはイエス様に起きましたが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。しかし、神はそのエネルギーを行使する力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせた。それだけではない。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも行使される。つまり、信仰者も将来イエス様と同じように復活して天の父なるみ神のもとに上げられる。しかも、同じ神の力は今私たちが生きているこの世でも信仰者の後ろ盾になって働いている。そういうわけで、信仰者は前方も後方もしっかり守られているので何も恐れたり心配する必要はない。エフェソ1章の本日の個所をよく読むと、そういうことがわかってきます。なんだかわくわくしてきますね。

そういうわけで、本日の説教では最初に、イエス様の昇天とは何だったのかということについて毎回お教えしていることのおさらいをして、神の想像を絶するエネルギーと力が私たちにも働いていることを見ていきたいと思います。

 

2.イエス様の昇天

  私たちの新共同訳の聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。

そういうわけで、新共同訳の「雲」はただの上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎません。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来ると預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、天使が弟子たちに言います。イエス様は今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、つまり、天に上げられた時と同じように天の雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。

 ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国

 天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。果たしてそんな天空の国の存在するのか?このことも前回お教えししました、おさらいします。

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?恐らく見つからないのではと思います。

というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。さて、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の立場は、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなりません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様ということになります。

キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生というのは実は、この現実の世界だけでなく創造主である神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったのは人間の人生から天の御国が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

それでは、イエス様を私たちに贈ることでどうやって人間が二つの人生を合わせた大きな人生を持てるようになるのかと言うと、以下のような次第です。

人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てません。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまってから、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、罪が天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。

そのために神は、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆います。神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになります。その人の心に自分の命と人生は神のひとり子の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、この世を去ることになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

 

4.信仰は、賭けだ!

 イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜ天に上げられなければならなかったのか?この間の復活祭の礼拝説教で、復活の体というのは神の栄光を現わす神聖な体なので罪に満ちたこの世には相応しくない、天の御国こそが相応しい場所とお教えしました(4月21日)。それなら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、しばらくの間地上に留まったのか?それは本日の使徒言行録やルカ福音書の日課にもあるように、弟子たちに復活の目撃者・証言者になってもらうためでした。また、人間の救いはメシア・救世主の受難と復活に基づいているというのが旧約聖書の奥義であると教えるためでした。

イエス様の昇天について、本説教では別の角度から考えてみます。聖書の立場では、神に造られた現実の世界は初めがあったように終わりもあります。終わりの時は最後の審判があり、死者の復活が起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、新しい天と地の中で天の御国が実現するために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。

そうなると、このイエス様が天の御国に上げられてから再臨するまでの長い期間は一体何なのか?聖書の観点からすれば、それは、神のひとり子の身代わりの受難と死からの復活という出来事に対してあなたはいかなる態度を取るのか?人間がそれを問われる期間になりました。

人によってはこれは素晴らしいことだ、イエス様を救い主として受け入れ信じます、ということがすぐ起きるかもしれません。しかし、そう簡単ではないという人たちも多いでしょう。なにしろ、復活したイエス様を目にすることもなく、ただ聖書に書かれたこと、弟子たちの目撃録や彼らがイエス様から教えられたことだけが手掛かりだからです。実物を目にすることが出来たらすぐ納得できるのに、天になんか行ってしまったので「信じる」などというイチかバチかの賭けのようなものになってしまった。目で確認できない不確かなものに賭けることはできないと言って信じない人もいるでしょう。あるいは、自分には聖書に書かれたことよりももっと確かなものがあると言う人もいるでしょう。例えば宗教がそれだったりしますが、それも目で確認できるものではないのに、その人にとっては慣れ親しんだものなので目で確認できるに近い確実さを感じるということでしょう。他方でキリスト教徒の中にも、不確かなものを信じるなんて現代に相応しくないと言わんばかりに、復活や昇天は文字通りに取るべきではない、人間の思いや願いをそのような出来事に仕立て上げたにすぎないなどと心理分析みたいなことをする人もいます。分析ですから、言葉は明瞭で目で確認するのと同じくらい説得力があります。それを聞く人の多くは、信じる信じないの苦悶なしにすんなり受け入れるのではないかと思います。

私は、「信じる」というのはやはりイチかバチかの賭けのようなものであると思います。それで、イエス様というのは天地創造の神のひとり子で人間にとってメシア・救世主であると信じている人はそれに賭けたということになります。復活や昇天も心理的出来事でなく、文字通り起こった出来事と信じている人はそれに賭けているのです。心理的出来事にしている人は、もし文字通りの出来事でなかった場合に備えて安全策を取っていると言えます。賢いやり方です。しかし、賭けている人こそ信じているのです。

信じている人はどうして賭けられるのでしょうか?これは確かだ、賭けるに値すると思って賭けているわけですが、その確かなもの、値するものとは何でしょうか?それについて私は、二つのことをあげてみたいと思います。一つは、人がこの世を去る時、神は自分をしっかり受け取って下さるという、神の意図に対する信頼。もう一つは、神は意図するだけでなく実際に受け取る力も持っているという確信です。

まず、神の意図に対する信頼について。人がこの世を去る時、それは自分を何か果てしない大いなるものに委ねる瞬間となるので、果たしてそのものは自分をしっかり受け取ってくれるだろうか?自分に何か足りないもの欠けているものがあって受け取ってもらえないだろうか?と不安になります。聖書は、まさにこうした問題とその解決を言葉で明らかにしています。つまり、足りない欠けているというのは、神の意志に反する罪を持ってしまい、神の神聖さ、神の目に相応しくされるための義を持っていないことです。この問題は先ほども述べましたように、父なるみ神がイエス様を用いて解決して下さいました。イエス様を救い主と信じることによって罪の赦しを衣のように被せてもらっている、罪は残るが、この衣を手放さないようにしっかり掴んでいるというのは罪に反抗して生きることです。神はそれをよし、と言って受け取って下さるのです。

次に神は私を受け取る意図だけでなく、そうする力も持っているという確信についてです。復活や昇天というのは科学技術や物理学の常識ではありえないことです。それが起こるためには常識を超えた、想像を絶するエネルギーとそれを行使できる力がなければ出来ません。エフェソ1章の19節と29節をよく読むと、使徒パウロはまさにそうした想像を絶するエネルギーと力が必要とされることをよくわかっていたことが見て取れます。ギリシャ語原文を見ると「神の力」の「力」いう言葉が3つの違う単語で言われています(δυναμις, κρατος, ισχυς)。それぞれ日本語でどう訳し区別するか考えたのですが、それぞれの詳細な意味内容がわからないため出来ませんでした。ただ、はっきりしていることは、「神の力」は一つの単語だけでは把握しきれないスケールを持つということです。「神の力」のスケールについて「膨大な大きさ」(υπερβαλλον μεγεθος)と言われています。さらに同じ個所でエネルギーという言葉も2回(ενεργεια, 2回目は関係代名詞ηνとして)、エネルギーを行使するという動詞も1回使われています(ενεργεω)。

そのような想像を絶するエネルギーと力を持つ者を考えると、それは万物を造られた神以外にはありえなくなります。パウロは、神がそれらを用いてイエス様の復活と昇天を実現したと言います。パウロは、復活と昇天をまさに物理学的な現象の延長上に捉えていると言えます。ちちんぷいぷいのおまじないの世界の出来事なんかではないのです。

エフェソ1章19ー20節でもう一つポイントとなることがあります。それは、イエス様に起こったエネルギーと力の行使が、彼を救い主と信じる者たちにも起こるということです。つまり、信仰者にも、イエス様に起きた復活と昇天が起こるというのです。

この神の力は、将来の復活の日に行使されるだけではありません。今この世の人生の段階でも、信仰者の後ろ盾になって襲い掛かる悪い力に負けないように後方支援してくれています。エフェソ1章21節から23節を見ると、神の右に座したイエス様はあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に立ち、それらを足蹴にしています。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実にある国の権力だけでなく、霊的な力も含みます。その力は、人間が神との結びつきを回復するのを邪魔し、命と人生についても天の御国は持てないようにしようとします。

それらの力は今天の父なるみ神の右に座しているイエス様に対しては何もなしえませんが、天の下にいる私たちには攻撃を仕掛けてきます。しかし、キリスト信仰者は何も恐れることはありません。エフェソのこの個所で言われるように、信仰者はイエス様を頭に戴く体を構成しています。洗礼でこの体に結ばれ、御言葉と聖餐によって結びつきを保ち強めています。ただ、頭は天の父なるみ神のところにあり、体はその下のこの世にあります。だから体は攻撃を受けます。しかし、忘れてはならないのは、私たちの頭は既に復活と昇天を遂げた部分です。体の部分である私たちはその頭と結びついているので、将来の復活の日にやっと頭と同じ天上のレベルになります。パウロは体のことを「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」と言います。わかりやすく言えば、「私たちに欠けているものは何もないという位に私たちを満たして下さる方、つまりイエス様の力が隅々まで行き渡っている」体です。私たちはイエス様に結びついている限り、大きな人生を生きる上で何の心配もなく全く大丈夫なのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


後注

 フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

説教「神との平和に立ち、心に平安を保ち、人との平和を目指す」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章23ー29節

主日礼拝説教 2019年5月26日復活後第五主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。それならば、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば、国が複数の民族から構成されていて、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう安心した暮らしなど出来ません。そんな時、権力者以外は誰も自分の国が平和だとは思わないでしょう。

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心した暮らしができると約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数ありました。キリスト信仰者といえどもそうしたものに常に巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがイエス様のこの御言葉を解き明かしているところが大いに参考になります。それを以下に引用します。

「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がなくて心が落ち着いているという平和ではない。それとは逆に不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。

『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とはどんな平和か?それは、外面的な揺れ動きを引き起した原因となった害悪が消滅するという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうしたものに取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束された平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない時に比べて、こっちの方が心の中で勇気と喜びが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。

人間の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるなどということは到底理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえない、そう考える理性はそのような状態にあって心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。どのようにしてか?それは、我々の臆病な心を恐れない心に、良心の咎に苛まれた心を晴れ晴れした心に変えて下さることによってだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体が怯えるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」

以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても、内面的には平和があるというルターの教えでした。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語原文のエイレーネーειρηνηという言葉が、外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係していると思われます。聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーが外面的な「平和」を意味する時も内面的な「平安」を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉もギリシャ語同様に外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、それで特に区別しないで同じ言葉を用いていると思います。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?せっかく「平安」という言葉があるのに「平和」と訳したら、これは内面の「平安」を意味するんだと言い聞かせて読まなければなりません。

興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものは、まさに内面的な平安(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)を用いています。

2.神との平和

 以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には心の中に勇気と喜びが失われないばかりか増し加わることさえして、揺るがない安心を持つことが出来ることであるとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。

どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは全然難しくありません。イエス様が与えると言っているものを、ありがとうございます、と言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると、今度はイエス様が与えると言っている平和とは何か、どこにそれがあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ないので、次にそれを見ていきましょう。

イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事があり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪深さ対する神の罰を身代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだ、とわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。

このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活のイエス様が扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道に置かれてその道を歩めるようになります。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世を去ることになっても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に引き上げてもらえて、そうして自分の造り主である神の御許に永遠に戻れるということです。

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、人間の想像を超えた救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間に罪が入り込んだために失われてしまいました。その失われたものが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に用いることで打ち立てられたものでした。

この壮大な事実を目の前にした人間が、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったのだ、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするだけだったのではないんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

3.神との平和に基づく心の平安

 しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか、と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなることもあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈の気持ちになることもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることが始まります。

そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるというのか?そういう疑問を持つヨブに対して神は最後に、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。一見、何の関係があるのかと問い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のようなことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

神の目がしっかり注がれているということを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。

ここからわかってくることですが、神は全ての人間に目を注いでその境遇を知って満足するというような無責任な傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにしようと、それでひとり子をこの世に送って犠牲に供することを惜しまなかったのです。神は、私たちがどんな境遇に置かれても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのなら、それは神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも皆、私たちを力づける神の立派な支援です。

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い出させて下さいます。その思い出させに自分を委ねてしまい、思い出せばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。

 まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安です。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。

4.人との平和を目指す

 神との平和に立ち心の平安に満たされたら、次は人との平和な関係の構築が待っています。マタイ5章9節でイエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。「平和を実現する」とはどんなことをするのか?ノーベル平和賞をもらえるくらいのことをしなければならないなら、自分には無理だ、ということになってしまうでしょう。しかし、人との平和な関係というのは、身の回りの人たちのことでも全く構わないのです。ローマ12章18節でパウロは次のように勧めます。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ここのギリシャ語原文が少し厄介なのですが、訳文では見えてこない深い意味があります。「周りの人と平和な関係を持てるかどうかがあなたがたの肩にかかっていて、それを背負うことが可能ならば、それを背負って全ての人と平和に暮らしなさい(後注)。」つまり、背負うことが出来る場合は、平和な関係を築きなさい、出来ない場合は築けなくてやむを得ない、ということです。どういうことか、以下、詳しく見ていきます。

ローマ12章をみると、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはならない、とか、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ、とか、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ、とか、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とかあって、なんだかキリスト教はお人好しで真面目にやったら損をして馬鹿を見る宗教に見えてきます。ここで一つ申し上げると、社会には秩序や法律があるので、犯罪や過失が起こったら、法律に基づいて処罰や補償をしなければならないのはキリスト教でも当然なことです。ただし、その場合でも、復讐とか仕返しの観点は持たないということです。社会や秩序に傷が出来たので、それを修復するとか再発を防ぐとかそういう観点で処罰や補償が考えられるのではないかと思います。そんなことでは被害者の気が収まらないではないかと言われてしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には神との平和という土台とそれに根差した心の平安があるため、「気が収まらない」という気持ちはぎりぎりのところで抑えられていると思います。

このように神との平和に立って心の平安を持てれば、ちょっとやそっとのことで損したとか馬鹿を見たという感じはしなくなります。それらを持っている限りは人との平和の関係を築くことは大丈夫です。パウロが「背負うのが可能ならば」と言う時、神との平和と心の平安があれば「背負うのは可能」です。それでは、「背負うのは不可能」という場合はどんな場合でしょうか?それは、襲い掛かる悪が信仰を捨てるように強要する場合です。つまり、神との平和とそれに基づく心の平安そのものを手放せということです。そうなると相手と平和な関係を築けなくなるのはやむを得ないことになります。果たして、信仰を捨てることを強要する相手とは平和な関係は築けないでしょうか?仮に、キリスト信仰者が信仰を捨てて、強要した側がよしよしよくやったと満足して対立がなくなったとします。そのようにして得られた平和は本当に平和でしょうか?良心の自由を踏みにじることで成り立つ平和は、魂のない静寂にしかすぎず、それは本当の平和ではありません。

信仰を捨てることを強要する相手と本当の平和な関係を築くのは全く不可能なのでしょうか?実は可能になる場合もあります。それは、相手がキリスト信仰者になって、神との平和とそれに基づく心の平安を持つようになる時です。そんなのは理想論で絵に描いた餅だと言われるかもしれません。でも、あれだけ執拗にキリスト教徒を迫害し続けたローマ帝国がいつしか皇帝自らキリスト信仰者になったのです。他にも歴史には同じような事例が一杯あったと思います。どうしてそんな逆転劇が可能だったのか?少なくとも一つ言えることがあります。それは、キリスト教徒が見かけの平和を選んでいたら、そのようなことは決して起こらなかったということです。ここからもわかるように、神との平和に立ち心の平安を持つということは、身の回りの人間関係にインパクトを与えるだけでなく、歴史をも動かす力を秘めているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注(ギリシャ語が分かる人に)

新共同訳は「できれば、せめてあなたがたは」と、他の人はどうでもあなたがたは頑張って平和に暮らしなさい、ですが、英語(NIV)は”If it is possible, as far as it depends on you”と平和に暮らすことが条件づけられます。ルター訳も同じで”Ist’s möglich, soviel an euch liegt”、フィンランド語訳とスウェーデン語訳もそうです(”Jos on mahdollista ja jos teistä riippuu”/”så långt det är möjligt och kommer an på er”)。

そのような訳になるのはτο εξ υμωνのεκをgenerisかexitusかoriginisのいずれかに考えているということだと思います。τοはaccusativus limitationisということでしょう。(δυνατονの主語というのはありえないでしょうか?)