説教、木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙第1 4章6〜7節

第15回
コリントの信徒への手紙第1  4章6〜7節

 前回4章5節までを見てきましたので今回は6節からです。6〜7節で1区切りであります。8〜9節からは又、奇妙な展開になっているようです。

まず、6〜7節を読んで一言でまとめて言いますとここで、パウロが言おうとしていることは、他の人を見下げて、高ぶることがないように、ということであります。

教会の中であっても、信仰生活の中であっても、人は. 案外. 他愛ないもので、小さい自分であるにもかかわらず、人からさげすまされたら、耐えられないものです。そして、何か1人前の人間のように、思わずにはいられないのであります。ふだんは、特に威張るわけではないけれど、何かいったん事があれば、そのことが出てくるのです。

毎日の生活で、いちいち他の人と比べているわけではありませんが、無意識にも自分を大きく見せようとしてしまう心があるものです。自分を他の人と比べて生きているのです。一寸の虫にも5分の魂という言葉があります。小さな、小さな存在と見えても、その中に秘めた魂がある。

私たちは、自分の値打ちを主張しながら生きていきたいと、しているのです。

抽象的な言い方になりましたが、パウロにとっては、具体的な事として、コリントの教会の中で、派閥争いで、混乱しているのです。

わたしはパウロにつく、とか、わたしはアポロにつく、と、自己主張のうず巻いている事情が、その背景にあったのであります。それで6節を見ますと「兄弟たち、あなた方のためを思い私自身と、アポロとに当てはめて、このように述べてきました。誰でも1人の人を持ち上げ、他の人をないがしろにし、高ぶる事がないように。と言っているのであります。

私たちも、考えてみると自分で気がつかないところで、他の人をないがしろにしたり、いつしか高ぶったりしてしまっているのではないでしょうか。

信仰者の生活においても、最も重要なことは自分を誇らないことです。

パウロはきびしく問いかけてきました。「いったい、あなたを偉くしているのは、誰なのか」と。

ここで「偉くしている」という字はふくれ上がっているという意味だそうです。

得意になって、自分が偉いもののように思ってふくれ上がっている、と、いうのでしょう。自分を誇らない、ということは、自分でふくれ上がらない。ということになります。

人々は一様に謙遜ということを言います。ふくれ上がらないことです。

パウロはこのことを自分とアポロに当てはめて、言うのです。教会の中での生活はどうであろうか。

自分では威張ってはいないかも知れない。しかし、パウロだけが偉い人なんだ、とか、いや、アポロの方が優れている。とか言い合って、党派的な争いになっている。それは結局、自分を偉く見せようと、することになるのではないか。あの人と自分だけが特別に親しい、と言いたいのであります。

教会の中の生活で、信仰者は、何を基準にして自分を生かし、人を、はかろうとするのでしょう。それはいうまでもなく、神でありましょう、神の国に、どう映るか、という事であります。 それなら誰も自分を優れている者だとすることはできません。
神の前にはどんな」ごまかしも、できません。神はある人を高くし。ある人を低くされる、ことは、あり得ないことだからです。

よく神の前にすべての者が平等である、と言いますが、それはお互いの間にちがいがない、ということではなくて、すべての人には、各々に差があるものです。それを、神様だけは、同じように、とり扱われることが、おできになる。それを知って、私たち信仰者もその事を知らねばなりません。それを知る時、まことに謙遜になることができるのではないでしょうか。

もう1つ大切な事は、人が自慢するものは何か、ということです。

自分には、こういうものがある、こうゆうものを持っている、それをどこから得たか、ということです。

持っているものを誇る、としたら、それは、どこから得たか、という問題になります。そのことをパウロは7節で、するどく述べています。「あなたを他の者たちよりも、優れたものにしたのは、誰ですか。いったい、あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、いただいたのなら、なぜ、いただかなかったような顔をして、高ぶるのですか」。ここのところは何げないことのようですが、大切なところです。別の口語訳で言いますと、「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。みんなもらったものでしょう。ということです。もし、もらっているなら、なぜ、もらっていない、かのように誇るのか」となります。これは、もう、パウロの怒りですね。

人間は自分を知ること、ほど下手なことはありません。自分が本当は何であるのか。

自分は愚かな者でしかない、と知ろうとはしないのです。  この問題を徹頭徹尾、見つめたのが、旧約聖書の有名なヨブ記であります。誰でもよく知っている物語です。

神に愛され、大きな家族と多くの財産を持っていたヨブです。ところがー朝にしてヨブは、次々と一切を失うことになってしまいました。自分、自身、1人になってしまいます。それでも、自分自身の身の上に病がおそいかかり、苦しみに会います。

そうして、ついに、ヨブは、自分の信仰からの叫びで言いました。「わたしは、裸で母の胎を出た、また、裸でかしこに帰ろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。と言うのです。(ヨブ記1章20節)この最後の「主が与え、主が取られたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。 

人々は、このヨブの言葉に感動します。私もいつも感動します。なかなか言えるものではありません。しかし、ここに1つ見落としていることがあるんです。それは、ヨブがそのような境地に達したのは、いつのことかということです。話は実に簡単に書かれています。ヨブが一切のものを失った時、すぐにも、この言葉が、口をついて、出てきたかのような気がして読みます。しかし、もし、そうなら、ヨブ記の大半を占めるヨブとその友人たちとの論争はなかったはずです。

実はヨブがその信仰に立ち返るために、どれだけの手順が必要であった、か、です。

ヨブは確かに優れた人物であったことでしょう。しかし、自分の家族、自分の財産を一挙に失って、呆然とする、ことはなかったでしょうか。ふつうなら、もう、気が狂うような、いかり、悲しみ、失望感におち入ります。神様は何故このようなことをなさるのか。ヨブは苦しんだでありましょう。そして、ヨブは祈ったことでしょう。ヨブはもう絶望したでしょう。そうして遂に、「自分は裸で、生まれてきた。そして、又、裸で帰るのだ。ということを心底から言いあらわすことができた。のであります。

私たちは、今、いろんなものを持っています。自分の持っているものは、どこからきたか、と問うて、そう、あっさりと、自分のものは何1つない、自分は裸できたのだから裸で帰ろうと言えるでしょうか。

本当は私たちの生命も体も心も、まことに、くすしき業で創られたもの、であって、自分のものである、等と、とても言えない。

しかし頭で考えて、どうも、そうしか、言いようがないと思う。このことを、腹の底から、そう感じてそのように生活しているか、と言うと全く違う。頭では自分は何もないのだ、裸同然でしかない、とうは思っても、やはり、自分のものだし。自分がつけ加えてきたものであるはずだ。と思うのです。

教会の中の兄弟姉妹 であるといっても、自分のものをあげられるか、神様は互いに愛し合いなさい。と言われているのに、神のみ前に立って全身全霊をもって、それを言い表す等、とてもできるものではありません。

自分という、この体と心の主人は、やはり、自分のものだと、思っているのではないでしょうか。

そうであれば、ここに、パウロが7節で書いているように、「もし、もらっているなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのか」という言葉は、まことに痛烈な言葉です。

すべての人間に悔い改めを迫るものがあります。決して単純な話ではありません。それなら、どうすればいいのか、ということです。

私たちのもっているものが、みな、受けたものであって、ほんとうに自分のものと言えるものは、何もないのです。少し考えれば誰も分かることです。

しかし、ほんとうに、そうだ、とは、なかなか思えないものです。何故でしょう。そこには、私たちの罪の問題があるからです。私たちの罪は自分のことしか考えることができない。神のことに向いていないのであります。それを罪と言っています。自分中心にしか、ものを見ることが、できなくなってしまった。この自分が問題なのです。

それを解決しなければ、分かり切ったことであっても実際には嘘の生活をすることになるのです。

そこで、パウロが書きました、この手紙の6章20節でこの問題に対して。解答を与えているのです。

それを見てみましょう。「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。だから自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。ということであります。Lこれは、キリストによって救われた者のことを言っています。あなた方は罪人であったが、キリストという代価を払って買いとられたようなものである、
丁度、この当時、多かった奴隷のように、1人の主人から他の主人に買いとられたようなものである。

罪という主人から、キリストという主人に買い取られたのである。従って、今は、神のものになっているのである。あなたの持っているものも、誇りも、あなた自身も、神のものである。自分のものではない。

神の創造の事実を信じることができない者が、今や、キリストの救いによって、キリストのものとせられた。この事実が信じられるようになるのです。そうするともはや、自分勝手に自分の生活、自分の持ち物を用いることは許されないのであります。

あなたは、キリストのものとせられたのだ。だから自分で威張ってみたり、それによって争いをすることはできない、はずであります。

この現実を正しく見ることができるようになって、あなたの生活は大回転をすることになるのであります。

最後に、洗礼を受けてクリスチャンになった者は。もはやキリストの十字架と復活によって買い取られ、すべてが、神のものと、せられたものでありますから、あなたはもはや何もない、持ちものも、体も心もあなたの時間も、いっさいは神のものであります。ですからこの神に礼拝すべきであります。

6章20節をもう1度見て終わります。

「あなた方は、代価を払って、買い取られたのだ。だから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい。」

               アーメン、ハレルヤ!

 

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