説教「キリストに仕える」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙 4章1~5節

第14回 コリントの信徒への手紙、礼拝説教2月25日

今日の御言葉は4章からであります。パウロはここで
自分が使徒として伝道しているその使命をまず語っています。1~5章を見ますと、
「人は私たちを、キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」と書いています。
パウロは伝道していく上で、伝道者自身の身分を明らかにすることが大切であることをよく知っていました。ですから自分の信仰を証するたびおりにふれこのことをはっきり示していきました。
伝道者は普通の信仰者と全く同じ立場にありながら神の言を取り次ぎ、神についての業を示し、神の奥義を管理している者であると言っているのです。
神に仕える者です、と言うのです。厳密に言えば、これは神より低い者です。という字です。パウロは神に仕えて、神の仕事をする人間であるにちがいありませんが、何より、神よりは低い者と言う事が言いたかったのであります。
詩篇8篇5節に有名な言葉があります。
「人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神より低く造り、なお栄光と威光を冠としていただかせました。」とあります。
人が神より低く造られているということは信仰生活において重要なことです。
パウロは、まずそれを言って、つづいて、自分たちが神の奥義の管理者であると言います。
管理者というのは、家の中のことを取り仕切る者ということであります。
パウロはよく、奥義という字を用います。奥義といっても信仰に何か秘伝のようなものがあるわけではありません。奥義は福音以外にはありません。神が人間を救うために御子をおつかわしになったということ程の奥義はないのであります。
伝道者の仕事は一つしかありません。それは福音を伝えることであります。パウロは言います。自分には誇るべきものは何一つありません。ただ、誇るべきことは福音だけであると。それも自分のものではありません。神のものです。自分のもののように扱うことはできないことであります。
福音を伝えることはそう簡単なことではありません。福音を信じさせねばならないからです。信じる人間の方にはいろいろその人によって事情が違います。
それに応じて、伝えなければならないのであります。有能な管理人が家の中を取り仕切るように福音による生活をするように導き、福音を生かすように取り仕切る。これは困難な問題であります。
彼は、何も特殊な人間ではない、ただこの任務を与えられているのであります。しかも今自分が伝道してきたコリントの教会の中には争い合っているのです。1章12~13節にみてきましたように、「わたしはパウロにつく、いやわたしはケファにつく。わたしはキリストにつく」といって派閥争いで混乱しているのです。
そういう背景を背負ってパウロは管理者として取り仕切らねばならない。
管理者にとって最も必要なものは何でしょうか。それは忠実なことであります。
イエス様は」主に仕えて忠実であった僕をほめられました。信仰生活は単純な生活ではありません。神に仕える生活であります。神の御喜びになるようにするのが信仰者の生活であります。従って善でありながらかつ忠実な生活をすべての信仰者に求められているはずであります。
信仰者にとって」大切なことは神に対してどうであるかということでしょう。それなら、神に対して忠実であるかどうか、誰が定めるのでしょう。自分が正しいかどうか外から見たのでは分かりません。
誰が、定める権威を持っているのでしょうか。パウロはここで、まことにきびしいことを言っています。3節です。
「わたしにとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。しかし、ここでパウロが言っていることはそんな生易しいことではなかったのであります。
パウロはここで「ただ神がさばく」とは言っておりません。自分が自分を省みて何らやましい事がないとしてもそれで義とされるわけではない、と言っているのです。これが大切なことです。大事なのは「義とされる」ということであります。
義とされるといっても、信仰に入ることについて事情を知らない人はただ神を信じることである、とか 神に従う生活である・・・といった程度にしか考えないでしょう。しかし、信仰生活を知っている人はそうではない。信仰を持つということは神によって救われることであることを知っております。しかも救われるというのは、
「神によって義とされる」或いは、「信仰によって義とされる」ことであると分かっているはずです。
パウロがここで言っているのは「義とされる」というのは信仰生活に入る始めのことだけでなく、いつでも、毎日の生活の中で義とされている。私たちの力となってくれている。望みなのです。
人の目も世間の目も何も恐れることはない。そんなものが、わたしを義として救ってはくれないからです。自分を罪から救い、まことの平安を与えてくれることはできない。裁く力もない。世間の人は自分たちと同じ罪人です。世間の人が、いろんな事を言ったり、批評しても、どうせ同じ罪人で50歩100歩大したことはないのです。自ら、清くない者が他の人を裁いても意味のないことです。それより、自ら全く清くかつ人を清くする力を持っている方こそまことに裁くことのできる方であります。
そこでパウロは最後の所で言います。「私を裁く方は主である」と。
主イエス・キリストのみ自ら、清くあるだけでなくその十字架によって他の人を清くすることができる義とすることができるお方であるのです。
そうすると自分を裁くということについて全く態度が変わってくるのではないでしょうか。裁く主はただ主イエス・キリストだけである。そこでパウロは又言うのです。
「だから主が来られるまでは何事についても先走りをしてさばいてはいけない」と言うのです。
ここで言う「先走りをするな」というのは、あわてるな というのではなくて、主の来られるのを待つということです。
裁きは主に委ね、主が来られるまで待つということなのです。
その本当の意味は自分が定めてしまわないで主がお定めになるのを待つということではないでしょうか。やさしく言えば、まことのさばきというのは自分で自分を決めつけることではなくて全く神にお任せすることであります。
このことは実はどんな良心的なことよりももっときびしいことであると言えまし
ょう。
真実のすべてを御存じの神にゆだねることです。同時にこの神は自分を救って下さる神様でもありますから、心安らぐことであるとも言えます。
パウロは続いて5節後半の部分で言っています。
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し人の心の企てを明らかにされます。その時、各々は神からおほめにあずかります。」
これは驚くべきことであります。神の裁きにおいては隠されていることも皆明るみに出されるということです。良心の目に見えないことでも神の目にはあきらかであるのです。
しかしここではそれだけでなく、ほまれもあたえられるであろうと言っています。
神のさばきがある。私たちは恐ろしい事しか考えません。しかし、ほんとうに調べるのであればそこにほまれが与えられても不思議ではないでしょう、というのです。
神にすべてをゆだねるのであります。救って下さる神に一切をゆだねるようにすることであります。それなら裁きはこわいことではなくて平安であると言ってもいいのではないでしょうか。
私たちの一生は考えようによってはまことに短くひとときのようです。大切な自分に与えられた生活を主に委ねきって信仰生活を全うすることはすばらしいことであります。
アーメン、ハレルヤ!

 

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