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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス・キリストは歴史的にも世界的にも有名人です。彼が何者かはこのスオミ教会の礼拝の説教でも毎週お話ししています。今日の説教では、まず最初にイエス・キリストという名前を見てみます。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていて役に立つと思います。「キリスト」というのは、新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとはメシアのことだったのです。そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう思想が出てきます。聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は本名の苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われたので付けました。それでこちらは本名です。そういうふうに、イエス様の名前はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。
本日の旧約と福音書の日課を見ると、まず旧約のイザヤ書7章に「おとめが身ごもって男の子を生む」という預言があります。その子がインマヌエルと呼ばれるということでインマヌエル預言とも言われます。インマヌエルとは、ヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוで、「神が私たちと共におられる」という意味です。福音書のマタイ1章の方は、その預言がついに実現する時が来たことを記しています。おとめマリアに聖霊の力が働いて身ごもりました。誰が生まれてくる子供をインマヌエルと呼ぶのかと言うと、ヘブライ語原文のイザヤ書では母親です(後注1)。しかし、母マリアがイエス様のことをインマヌエルと呼んだかどうかは、今日の福音書の日課の中には記されていません。ただ、ルカ1章にマリア賛歌と呼ばれる下りがあり、そこにマリアが神を賛美して述べた言葉があります。それを見ると、神はへりくだった心の者や神を畏れる者を本当に助けて下さるということがマリアの言葉として言われています。まさに神はそうした者たちと共にいる、文字通りインマヌエルな方なのだということが明らかに見て取れます。
このように、本日の旧約と福音書の日課はイエス様の名前について述べています。以上述べたことは名前の言葉についての辞書的な意味でした。これが、日課の御言葉を解き明すことで、イエス様の名前は私たちと私たちの命にとって大事な言葉であることが明らかになります。以下そのことを明らかにしていきたいと思います。
まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史状況の中で言われた言葉でしょうか?ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣のアラム王国と結託して、兄弟国のユダ王国を攻撃しようと計画したのです。この知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから大丈夫だ、落ち着け、そうアハズ王に伝えよ、と命じます。
そして今日の日課の個所となります。初めは神とアハズ王とのやり取りですが、王は預言者の言葉を聞いても確信を持てなかったことが伺えます。イスラエルとアラムの共謀は実現しないと言われても、何を根拠にそう言えるのか、そこまで言うのなら証拠として神は何かしるしを見せろ、大体そんなやり取りがあったことを伺わせます。しるしというのは、大抵は奇跡的な出来事を意味します。
それに対して神は、パニック状態にあるアハズ王に次の言葉を述べます。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」陰府というのは、死んだ者が安置される場所です。怯えてしるしを求める王に神はこう述べたのですが、どういう意味でしょうか?こういうことです。「そんなにしるしが見たいなら、自分で陰府にまで下って探し求めてみよ、あるいは、天にまで上って探し求めてみよ、そうすればきっと見れるだろう。しかし、お前はそんなところへは行ける筈がない。私を信じていればそんなところまで行く必要もない。なのに、お前はそこまで私の言うことを信じられないでいる。本当に呆れかえった」ということです。
これに対してアハズは恐れおののいてしまって、もうしるしなど求めません、しるしを見せてくれたら信じてやるなどと神を試すことももうしません。それに対してイザヤは、「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」と言います。ここでの「もどかしい思い」とはどういう思いか分かりにくいと思います。問題となっているヘブライ語の単語(לאה)は「~を無力だと思う」という意味もあると辞書に書いてあります。それでいくと、すっきりします。「お前たちは人間を無力だと思うことではもの足りないのか?神をも無力だと思うのか?」(後注2)。
そこまで信じられないのなら思い知らせてやろう、ということで、神は次のように言います。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
先ほども申しましたように、インマヌエルとは「神が我々と共におられる」という意味です。この言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は大帝国アッシリアに滅ぼされ、二国の計画は頓挫すると述べます。このことは、古代オリエントの歴史の教科書にも記されている通り、紀元前8世紀にその通りになります。
さて、このおとめから生まれるインマヌエルという子供は誰をさすのでしょうか?イエス様で良いでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王は歴代の王たちと違って神のもとに立ち返る生き方をし、預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王だったからです。そして、アッシリア帝国が大軍を引き連れて今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になりますが、ヒゼキヤ王は神の力で打開できると信じる姿勢を貫きます。アッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18
5千の兵を失って総退却となります。列王記下19章35ー36節、イザヤ書37章36ー37節に記されています。(因みに、アッシリア側の年代記には退却したとは書かれず、生意気なユダヤ民族を十分懲らしめたから占領しないで帰還した、というような書き方をしているとのことです。昔の大本営発表みたいです。)
このようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれました。それで、このインマヌエルはヒゼキヤ王をさすのだと考えられたのです。
ところが、それではヒゼキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。実は、イザヤ書7章14節の預言の「おとめ」という言葉、へブライ語の「アルマーハ」עלמהという言葉は、「若い女性」、特に子供を産む前の若い女性という意味があります(後注3)。はっきりと処女の意味は持ちません。それでヒゼキヤ王は、父親のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのです。
そうなるとは、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」とキリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?
実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インマヌエル預言」はヒゼキヤ王で完結したとは考えられなくなったことも出てきました。神の民を苦境から救い出すインマヌエルはこれから出てくるのだ、ヒゼキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだ、という見解が出てくるのです。というのは、ヒゼキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国に今度はバビロン王国から使者が来ます。バビロンは約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を連行することになる国です。ヒゼキヤ王は使者たちに王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいます。しかし、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。そして、ヒゼキヤ王の次に即位したマナセ王は神の意志に背く宗教政策をとってしまいます。それは、列王記下24章3ー4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまいました。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのです。
イザヤ書も終わりのほうになると、神が自分の民を最終的に救う日は新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と言われます。天と地が新しく創造し直されると言うのであれば、その時の救いの担い手も普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。生まれる男の子はちょっとやそっとの男の子ではない、と。まさにその時、「若い女性」と訳されたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味が深まりだします。単なる「若い女性」が子供を産むということではなく、「若い女性」が「子供が生まれる前」の状態を保ったまま子供を産むという、まさにおとめが産むという理解が生まれます。こうした理解の変化があったことを示す出来事があります。それは、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהがはっきり「おとめ」を意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたことです。
このように、インマヌエル預言は最初に語られたアハズ王のコンテクストを飛び越えて、イエス様の誕生を指すものになっていったのです。しかしながら、ヒゼキヤ王のことも意味したと言うのも、必ずしも間違いではないと思います。というのは、聖書の神の預言は、イエス様のこと終末のこと新しい世のことを預言をする時でも、預言が語られた時代に直接関係があるような言い方をします。そのため、もっと将来のことを言っているのが見えにくくなります。しかし、時代に直接関係あることは起こったように見えても、少し経つとそれは実現ではなかった、本当の実現はもっと後のことなのだとわからせるものばかりです。時代に直接関係あること、例えば、アッシリア帝国の撃退とかバビロン捕囚からの解放というものは、預言の本当の実現ではない。だけど、神は預言を実現する力がある方で、預言が口から言い出しっぱなしだけのものではないことを歴史のあちこちで示すものだったと言うことが出来ます。そういうわけで、旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という壮大な視点を併せもって理解する必要があります。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」にしてしまったものもあります。国名はあげませんが、ちょっと早まったかと思います。)
さて、ヨセフは婚約中のマリアが妊娠したことを知りました。これは普通だったらショックを受けて、裏切り行為として相手を公けに非難するに値するものだったでしょう。ところがヨセフは「表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。どうしてでしょうか?マリアが可哀そうだからでしょうか?そうだったら、ヨセフを「正しい人」とは言わず「憐れみ深い人」と言うべきだったではないでしょうか?
ルカ福音書1章を見ると、天使がマリアに聖霊の力が働いて妊娠して男の子を産むことになると告げます。まだ妊娠前のことです。そして妊娠しました。どうしてそうなったか、ヨセフに伝えたでしょう。男の人によっては、そんなのは言い逃れだ!相手は一体誰なんだ!」と逆上して、事を表ざたにしたでしょう。ところがヨセフはそうしなかった。なぜでしょう?それは、マリアの言うことを信じたからでした。これは本当に神の意思によるもので、聖霊の力が働いたのだ、と。そうするとマリアは裏切ったのではないので一安心ですが、それでも生まれてくる子供は自分の子供ではない。自分の家系の一員に迎え入れられない。そうなると婚約破棄しかありません。しかし、表ざたになると、みんながみんなマリアの言うことを信じないだろう、無実なのに不倫の汚名を着せられてしまうだろう。それで事が表ざたにならないようにするしかない。兄弟姉妹の皆さん、このヨセフの行動をよく見て下さい。マリアの言うことを信じ、これは神の御心によるものと信じる。しかし、自分の子供でない以上は自分の家系に加えられない。ならば破断するしかない。しかし、マリアが無実の罪を着せられないようにしなければならない。本当に難しいかじ取りだったと思います。本当に正しく振舞ったと思います。
ヨセフが破断の結論に至った時でした。天使が現れて、マリアに言ったことと同じことを言って確認を与えます。この子供は聖霊の力が働いて宿った、と。加えて、破断の必要はない、と言いました。つまり、生まれてくる子供をヨセフの家系の一員にしなさいということです。ヨセフはダビデの末裔だったので、これでイエス様は、人間として見ればダビデの家系の出身になりました。本日の使徒書のローマ1章で言われている通りです。日本語訳で「肉によれば」と言うのは、「人間として見れば」ということです。同じ個所で、「霊として見れば」神の子であると言われています(後注4)。
天使はマリアに言ったのと同じようにヨセフにも生まれてくる子供にヨシュア/イエスという名前を付けなさいと言います。ヨセフにはその理由も言いました。「この子は自分の民を罪から救うからである」。ヨシュアの名前の意味は先ほども申しましたように、「主が救って下さる」でした。主は何から救って下さるのか?たいていの場合は、敵国から守ってくれるとか侵略者から解放してくれるというようなことを考えます。その場合は、神が守り救うのはユダヤ民族ということになります。ところが旧約聖書という書物は、神の守りや救いは一民族に限定されない、普遍的なものであると明らかにしています。詩篇130篇8節に「主はイスラエルを全ての罪から贖う」という聖句があります。天使の言葉「この子は自分の民を罪から救う」とは、この聖句のことを言っているのです。人間を罪から贖うというのは、人間を罪に支配されている状態から解放するということです。「贖う」というのは、何か代償を払って買い戻すということです。生まれてくるイエス様が何か代償を払って人間を罪の支配下から買い戻して自由にしてくれるというのです。果たしてそんなことが起こったのでしょうか?
それは実際に起こりました。創世記3章に記されていますが、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で人間の内に罪が入り込み、人間は神聖な神から引き裂かれて死ぬ存在になってしまいました。全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっていて、そこから抜け出られないということの現れになっています。
そこで神は人間がこの世では自分との結びつきを回復して、それを持って生きられるようにしよう、この世を去ることになっても、復活の日に復活させて新しい体を与えて永遠に自分のもとにいられるようにしよう、と考えました。それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪の神罰を受けさせて人間の罪の償いをさせました。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命を打ち立てました。死は目の前に永遠の命を突き付けられて絶対的な力を失いました。人間をひたすら死に向かわせようとする罪もその力を失いました。あとは人間がこれらのことは本当に自分のためにも起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受けると、その人は罪の償いを受けた人となって、神から罪を赦された者と見てもらえて、神との結びつきを回復します。同時に永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。その道を歩む限り、死も罪もその人を支配する力を失っています。その人は本当に罪と死から贖われて神に買い戻されたのです。贖いの代償は何だったでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で流した血でした。神のひとり子の犠牲です。それ以上高価なものはないという位の神聖な犠牲です。私たちは、神の目から見てそれくらい価値のある者と見なされたのです。このことがわかると、この新しく頂いた命と人生を損なうような生き方も神に背を向けるような生き方もできなくなるでしょう。
イエス様は十字架と復活の業によって、人間を罪と死から救って下さいました。そこで、詩篇の聖句と天使の言葉を見ると、救うのはイスラエルと言っています。やはり、民族中心なのでしょうか?そうではありません。罪と死の問題は、創世記を見るまでもなく、民族の区別などまだない時に人類一般のこととして起こりました。だから、その解決も人類全てに及びます。新約聖書でも「イスラエル」はユダヤ民族ではなく、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者の集合体の呼び名になっていきます。
兄弟姉妹の皆さん、イエス様は十字架と復活の業によって私たちを本当に罪と死の支配から贖って下さいました。まことにイエス様は、「ユホーシュアッ」יהושעです。
イエス様は、マタイ福音書の最後で言われます、世の終わりまで毎日私たちと共にいる、と。私たちが御言葉に聴き、それを繙く時、私たちはイエス様の声を聞きます。私たちが祈りを捧げる時、イエス様は私たちの声を聞いて下さいます。私たちが聖餐を受ける時、イエス様はそこに臨在しています。まことにイエス様は、「インマーヌーエル」אל עמנוです。
最後の審判の時、イエス様は、私たちが洗礼の時に被せられた罪の償いという白い衣を肌身離さず歩んできたことを覚えていて下さり、私たちに復活の体を与えて下さる「キリスト/メシア/マーシーァハ」משיחです。
イエス・キリスト・インマヌエル!
Ιησους Χριστος Εμμανουηλ!
!יהושע משיח עמנו אל
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)イザヤ7章14節のקראתは女性・三人称・単数です。マタイ1章23節ではギリシャ語に訳されたイザヤ書が引用され、そこではインマヌエルと呼ぶのは「人々」です。
(後注2)辞書(Holladyの”Concise”です)によれば、לאהは、「~を疲れさせる」という意味もあり、イザヤ7章13節がその例であると言われています。「~を無力だと思う」の例として、エレミア12章6節などが挙げられていますが、私としてはこの意味の方がイザヤ7章13節の意味がすっきりすると思います。
(後注3)辞書Holladyの”Concise”にそう出ています。
(後注4)その「霊」に「神聖」αγιωσυνηςという名詞の属格形がつくという形で限定しています。形容詞が使われていないのが面白いですが、これは「人間として見れば」に対比する形をとったのでこのような言い方になったと考えられます。
12月11日、吉村宣教師が東中野キングスガーデンにて「子供の人権と聖書」という大きなテーマのもと、「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」という絞ったテーマで講演を行いました。このリンクよりご覧ください。
東中野キングスガーデンはキリスト教系の老人ホームで、1階のオープンスペースにて講演や様々な教室その他幅広いイベントを行っていてコミュニティーセンターの役割を果たしているところです。
クリスマスの日を来週に控えてK兄が讃美歌の歌唱指導を務めてくれました。聞いているとみるみる内にみんなの歌が上手になりました、プロの仕事の素晴らしさに感じ入った次第でした。
クリスマスの飾り付けも素敵な、移転した早稲田のスオミ教会での家庭料理クラブは、お祈りをしてスタートです。
作業はグループに別れて始まりました、事前に塩とスパイスで絞めたスライスしたサーモンで、クリームチーズのフィリングをロール状に包み、冷凍庫で休ませます。
次は、クリスマスのスパイスの香りのチョコレートケーキ作りです。
材料の計量をして、ハンドミキサーで泡立て生地を作り、焼いてる間に、コーヒーやココアを使ったクリーム作りと、作業は進み、焼き上がった生地を冷まして、イチゴでデコレーションされたケーキは、ゴージャスで可愛い出来上がりになりました。
サーモンロールをカットして、フィンランドらしくジャガイモや、ヨウルリンプー(クリスマスのパン)も添えられ、華やかで豪華なテーブルは完成しました。
試食会も一段落した頃、パイヴィ先生から、フィンランドのクリスマスやツリーに飾られる星のお話も聞かせて頂きました。
参加の皆様お疲れ様でした、素敵なクリスマスをお過ごしください。
クリスマスはフィンランド人にとって一年で最も大きなお祝いです。クリスマスの前の4週間の期間をアドベント、日本語で待降節と呼びます。アドベントはラテン語からきた言葉で「主イエス様をお迎えする時を待つ」という意味があり、クリスマスを迎える準備をする期間です。この前の日曜日にアドベントの期間に入りました。それはアドベント第1の日曜日でした。明日はアドベント第2の日曜日です。この期間になると、フィンランド人はクリスマスの準備で忙しくなります。クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマスの飾り物やイルミネーションをつけること、クリスマス料理を作ることなどをします。
クリスマス料理はフィンランド人にとって、クリスマスの雰囲気を高めるものの一つです。フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。クリスマスの季節になるとどの家庭でもクリスマスの料理やお菓子の準備をします。子どもたちもクリスマス料理やお菓子を作ることに興味を持つので、よく親と一緒に作ります。それで家族のクリスマス料理の味は世代から世代へと伝わっていくのです。
フィンランドのクリスマスの食卓には魚の料理の種類も多いです。今日皆さんと一緒に作ったサーモンロールはその一つです。それは近年よく作られるようになりましたが、まだそんなに伝統的でないかもしれません。伝統的なクリスマスの魚料理はいわしやニシンのビネガー漬けです。ビネガー漬けはビネガー、砂糖、塩やスパイスを使うので長く持ち、クリスマスの季節の食卓によく出されます。魚料理の他に伝統的なクリスマス料理は、豚肉のオーブン焼き、人参やジャガイモのキャセロール、生野菜や茹で野菜のサラダなどがあります。クリスマス料理の他に、もちろんお菓子も、クッキーやケーキなどを作ります。今日皆さんと一緒に作ったケーキの中に入れたシナモン、クローブ、ジンジャーなどの調味料は他のクリスマスケーキやクッキーの生地に入れるので、これらの調味料はクリスマスの香りがをするとも言われます。
クリスマスの季節はフィンランドでは一年で最も暗い季節です。明るい時間はフィンランドの南の地方で5-6時間だけです。このためにクリスマスが近づくと電気のろうそくとイルミネーションを家庭でも町でも飾ります。多くの町でクリスマス・ストリートのイルミネーション点灯のイベントがあります。これは大きなイベントで大勢の人が集まります。イルミネーションが点灯される通りは町の一番にぎやかな通りで、明かりはとてもはなやかです。町のあちらこちらできれいなクリスマスの飾りも見られます。私たちが住んでいたトゥルクという町はクリスマスのイルミネーションやクリスマスの雰囲気が有名でクリスマス・タウンとも呼ばれます。ちょうど1週間前にトゥルク大聖堂の前に高さ22メートルのクリスマス・ツリーが立てられてライトがつけられました。沢山の人たちが見に集まってきました。ランプは全部で720個あるというので全部いっぺんにつけた時、きっときれいだったでしょう。この写真をよく見ると、クリスマス・ツリーのてっぺんに星が輝いています。星はクリスマスの飾り物の一つで、クリスマス・ツリーの他に家の窓にもよく飾られます。星はクリスマスの飾り物として大きな意味があります。それはどんな意味でしょうか?
星は、世界で初めてのクリスマスの出来事に深い関係があります。初めてのクリスマスはいつだったでしょうか?それは神様のひとり子であるイエス様が誕生した時です。クリスマスはそこから始まったのです。
救世主の誕生は旧約聖書にも預言されていました。それで多くの人々はこのことが起こることを待ちのそんでいました。この初めてのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の学者たちが不思議な輝きをする星を確認しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印と考え、今のイスラエルの地に旅をして、エルサレムまでやってきました。そこで、その時王だったヘロデに「新しく王になるためにお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその星を見たので拝みに来ました」と言いました。ヘロデ王はとても驚き、自分の地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤのベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。それはその子を殺すためでした。学者たちはそのことを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が先立つように見え、それを目指していくとイエス様がお生まれになったベツレヘムの馬小屋に着きました。学者たちが中に入ると、イエス様は母マリアの腕に抱かれて安心そうに眠っていました。学者たちは世の救い主となる方が王様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたことに驚きましたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導きがあったので、神のみ心を知ることが出来ました。
クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年たった今の私たちにも大きな意味があります。私たちも世界で初めてのクリスマスにお生まれになったイエス様のもとに導かれることが出来ます。どのようにして出来るでしょうか?それは聖書の御言葉を聞いたり読んだりする時です。聖書の御言葉は私たちにはベツレヘムの星と同じ役割を果たします。聖書を読むと、イエス様はこの世の全ての人々の救い主としてお生まれになったことが分かります。このメッセージを受け入れる時、クリスマスの本当の喜びを得られます。クリスマス料理やイルミネーションや星の飾りはクリスマスの雰囲気のために大切なものですが、クリスマスの季節が終われば片つけたりしてなくなります。しかし、聖書の御言葉は季節に関係なく私たちに喜びと感謝の気持ちを与えてくれます。
本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが活動を開始したことについて述べています。ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その治世の第15年ということです。彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。それで、西暦28年か29年の出来事いうことになります。いずれにしても、洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。
洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の国は近づいたのだから」でした。まず、「天の国が近づいた」ということは何のことか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が天国と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地にいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?
「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章には次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされてしまわないものとして現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが預言されています。
キリスト信仰に特徴的なこととして、この世には終わりがあるという立場をとります。しかし、この世が終わってもそれで終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が来るから今のは終わるという立場です。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。迎え入れられる者は「復活の体」という創造主の神の栄光を現わす体を与えられて迎え入れられる。この壮大な大変動の時にイエス様が再臨して最後の審判を執り行う。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。
さて、そんな夢のような国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?そもそも神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?今私たちのまわりにある天と地は当時と全く同じではないか?新しい天と地などまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。
実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の存在と活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、イエス様が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。
洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、生き方を方向転換して、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。
そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたはもともと自分の造り主である神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。
ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21ー22節、26章20ー21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、人々は神の怒りと裁きから免れるために神への不従順と罪を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。
人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考たと思われます。しかし、ヨハネの洗礼の意図は別のところにありました。どういうことかと言うと、マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらない、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、復活させられて神の御国に迎え入れられません。この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に担わせて彼に罪の償いをさせる。その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いがその人のものになる。それでその人は罪を赦された者と神に見てもらえるようになる。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23ー24節とコロサイ3章9ー10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。あとは、この白い衣を手放さないようにしっかり纏うことで内に残っている罪を押しつぶしていきます。パウロが言うように、洗礼を受けた者は聖霊を受けているので、その聖霊の支援を受けながら肉から生じる罪の思いや行いを日々死なせていく、そうすれば復活の日に復活させられて神の国に迎え入れられるのです(ローマ8章13節)。
ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物として与える罪の赦しはまだありません。ですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点にしかすぎません。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、先ほど申しました、イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2ー3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまって白い衣をしっかり纏う限り、罪は人間を神の国への迎え入れを邪魔する力を失っている。その意味で人間は罪から浄化されるのです。
そういうわけで、ヨハネの洗礼は罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ実現する罪の赦しの救いを受け取れる器になれる、ということでした。預言者イザヤが述べた、道を平らにする、まっすぐにする、というのはこのことでした。もし、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。
こうして人間は、イエス様が罪を償って下さったおかげと、その彼を救い主と信じる信仰と洗礼によって神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになりました。死からの復活が起こる日に復活の体を与えられて神の国に迎え入れられるようになりました。
ところで、復活の体を与えられて神の国に迎え入れられると言われても、何かかけ離れすぎて縁遠い話に思われるかもしれません。クリスチャンが伝道する時によく口にする言い方に「イエス様を信じましょう、そうすれば天国に行けます!」というのがあります。もちろん正しいことを言っているのですが、天国つまり神の国がどうして素晴らしいのか、どのように素晴らしいところか、それを言わないと空しいスローガンになってしまわないでしょうか?「天国に行けます」というのは、聞きようによっては、イエスを信じたら死んでしまう、縁起でもない、と思われてしまうでしょう。
天国が素晴らしいところというのは、何か綺麗な花が一杯に咲いている楽園をイメージするというような感覚に訴えてわからせることがあると思います。最初の天地創造の時にエデンの園がありました。次に起こる天地創造の時はどうでしょうか?黙示録21章と22章をみると神の国は都市のように描かれています。光はもはや太陽の光ではなく神の栄光の輝きです。その国のなかを輝く川が流れ、岸には「命の木」なる木がありますが単数形なので1本です。神の国には今私たちが美しいと感じる自然に類する自然はあるのでしょうか?それとも、同じ自然ではないかもしれないが、今の自然から美しいと感じるその「美しい」がもっと完成された「美しい」になっている。それで、今感じる「美しい」はその完成された「美しい」の前触れのようなものということなのか?もし、そうならば、私たちは神が最初の天地創造の時に造って下さったものの中にある「美しい」をもっと見つけ出して大切にする、そうすることで天国が感覚的に身近になるのでと思います。
聖書の観点は、天国をこのように感覚的だけではなく認識的に捉えるということもあると思います。「認識的」というのは正確な言葉ではないかもしれません。どういうことかと言うと、本説教のはじめで、神の国というのは、この世の労苦が全て労われて無念の涙を含む全ての涙が拭われて死も心配も嘆きも苦しみもない国、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全にされる国と申しました。正義の問題については前回と前々回の説教でお話ししました。少し振り返りますと、正義というのは、この世の段階で人間同士の間で実現するのはとても難しい、一筋縄ではいかない。もちろん、損なわれたら回復しなければならない。そのために国や社会には法律や司法制度があり、国と国の間には国際機関がある。しかし、出来事を全て隅々まで100%詳細に正確に客観的に把握できる人はいません。それで、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるとか、逆に本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求められることが起こる。人間同士が行うことは不完全で不釣り合いなことばかりです。
聖書の立場は、全ての人間の全てのことを知っている全知全能の神とそのひとり子のイエス様が下す判決が釣り合いがとれた完全なものである。だから、私たちがこの世で正義の実現を努力するにしても、全ては最後の審判の時に決着がつけられるということに託さなければならない。このことがローマ12章のパウロの教えからわかります。最後の審判での正義の実現に全てを託すと、キリスト信仰者はこの世では次のような姿勢にならざるを得ない。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返すことはしない、迫害する者のために祝福を祈る、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、相手を自分より優れた者として敬意をもって接する、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐せずに神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、神の正義実現に全てを託すとこういう生き方になるとパウロは教えます。正義の回復や実現のために努力はしても自分自身は神にならないということです。そうならないのは、最後の審判で完全な正義が実現することに全てを託しているからです。
そこで、神の国で完全に実現している正義とはどんなものなのか?「釣り合いが取れた」だの「完全」だの、言葉で飾らないでもっと具体的に言えないのか?具体的なことは天国がやって来ないとわかりません。それでも、本日の旧約の日課イザヤ書11章の預言を見ると、完全な正義が実現する神の国が垣間見ることが出来ます。本説教の締めとして、それを垣間見てみましょう。
まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡することを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒れ果てて民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できましたが、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、ダビデ家系から出てくるイエス様が登場したのです(後注)。
そのイエス様が最後の審判で裁きを下す時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も、助言も、力も、知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が正義を実現する判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。
「弱い人のために正当な裁きを行い」というのは、ヘブライ語原文を直訳すると「立場の弱い人たちのために『正義をもって』(בצדק)判決を下す」です。「この地の貧しい人を公平に弁護する」も、「この世のへりくだった人たちのために『ストレートに』(במישור)判決を下す」です。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。王様が自分の決定を告げる時、杖で床を打つと臣下の者たちは「ははー」と畏まります。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」というのは、「口から吐かれる息(ברוח)が強風のようで有罪判決を受ける者たちを永遠の死に吹き飛ばす」という意味になります。「永遠の死」については、本日の福音書の洗礼者ヨハネが「永遠に消えない炎」と言っています(ヘブライ語の辞書はHolladyの”Concise”です)。
最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼性のある」という意味です。最後の審判者を見れば、そのいで立ちは文字通り正義を体現し、信頼しきって大丈夫な方だとわかるものということです。
6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩の美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。まさに神を知らないことが一掃されるので、正義に反することも一掃されています。正義が隅々まで行き渡っています。
10節「その日」というのは、旧約聖書では「その日」、「主の日」、「神の怒りの日」という言い方でよく出てきます。それはバビロン捕囚の前の時代なら、敵が攻めてきて国が亡びる日という理解がされましたが、バビロン帰還の後の時代は、私たちの今の時代も含めて、それは今の世が終わり新しい世が来る時、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時を指します。その日に、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、イエス様の出身民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。
最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。兄弟姉妹の皆さん、私たちが目指して進む旗印はこれではっきりしたでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン
(後注)ただし、イザヤ11章1節の「切り株」はגזעで、6章13節のמצבתהとは違っています。
交わりの食事のあと前回からの続きで「ローマ信徒への手紙」8章18~38節までを学びました。神の霊を注がれたクリスチャン、神の国を相続する神の子・・・・いろいろと難解であるけれど深い教えがあることを吉村先生は丁寧に解説してくださいました。
フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第一主日の礼拝で必ず「ダビデの子、ホサナ」が歌われます。キリスト教会の新年の幕開けを元気に迎えるに相応しい歌だと思います。スオミ教会でも今皆さんと一緒に歌いました。フィンランド語やスウェーデン語では「ホサナ」は「ホシアンナ」ですが、この言葉は詩篇118篇25節にある言葉「主よ、どうか救って下さい」ヘブライ語のホーシィーアーンナァהושיעהנאに由来します。それで、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書でも本日の福音書の個所の群衆の歓呼は「ホシアンナ」になっています。どうして日本語の聖書と讃美歌では「ホサナ」になっているかと言うと、恐らくヘブライ語のホーシィアーンナァをアラム語に訳したホーシャーナהישע־נא 用いているのではと思います。アラム語というのは、イエス様の時代の現在のイスラエルの地域の主要言語です。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それなので、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語だった可能性が高いです。どっちの言葉にしても、もともとは「主よ、どうか救って下さい」の意味だったのが、古代イスラエルの伝統では群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉として用いられるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳!」になるでしょう。
とすると、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?
同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事でした。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、今回は旧約の日課イザヤ書2章とローマ13章も用いて解き明かしを深めていこうと思います。
まず、イエス様のこの行為は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。本日の旧約の日課イザヤ書2章でもそのような平和な世界が到来することが言われていました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。」これを読むと、本当に世界中の戦車や戦闘機や軍艦を一斉にスクラップにして、全世界の核兵器やミサイルも全部どこか、アリゾナの砂漠でもゴビ砂漠でもシベリアのツンドラ地帯でもどこでもいいから一ヵ所に集めて全世界の人たちが注視する実況中継の前で一斉に解体・分解したら、どんなにかせいせいすることか。そんなことされては困ると言う人もいるかもしれません。兵器の解体、スクラップ化を妨げる要因は何かを列挙して、それらを一つ一つを除去する手立てを考えるというのは、新兵器をどんどん開発することよりも難しいことなのでしょうか?
話がそれました。旧約聖書の「世界の平和」についての預言に戻ります。そういう平和な世界を打ち立てる者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、ロバに乗ってやってくるという預言がありました。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。民衆の期待が高まったのは無理もありません。彼らが考えていた預言の実現というのは、ダビデ家系の者が王となって神の偉大な力を得てユダヤ民族を占領者ローマ帝国から解放してイスラエルの王国を再興するということでした。それが成就すると今度は、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムの神殿に上って来る。このような理解が預言に対して生まれたのは、先ほどのイザヤ2章の3節の預言「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」これがあることは言うまでもありません。
後世の私たちから見たら、そんなことはイエス様のエルサレム入城の後に起きなかったと事後的にわかるので、預言は見事に外れたと言うでしょう。しかし、当時の人たちは預言をまさにユダヤ民族の解放と諸国民のエルサレム神殿参拝の日である理解していたので、ロバに乗って凱旋するイエス様を見て、ついにその日が来たと思ったのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?華々しい凱旋は、全くの期待外れの結果で終わってしまいました。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。まず、神殿から商人たちを追い出して、当時の神殿体制に真っ向から挑戦しました。また、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのに占領者の軍事介入を招いてしまう、そういう懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に預言されている終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と見なしている、これも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。
イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、何か人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。それは、イエス様が神の力で死から復活させられたことです。これによって死を超えた永遠の命が打ち立てられたことが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活ということが本当に起こるものであることが明確になりました。死の力を上回る命があるということがはっきりしたのです。死の力を上回るものが現れた時、人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。
どのようにして、そうしたことが起きたかと言うと以下の次第です。創世記に記されているように、最初の人間が創造主の神に対して不従順になり罪を自分の内に入り込ませてしまった。その結果、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまった。それを神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受けて死なれた。まさにイザヤ書53章にある、人間が神罰を受けないで済むようにするために神の僕が自分を犠牲にするという預言が実現したのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死は永遠の命を突き付けられて自分がもう絶対的な者ではないことを思い知らされました。人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。
そこで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、死は絶対者でない、罪も存在する意味がない、という状況の中に置かれることになります。そこでは、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神からは罪を赦された者として認めてもらえます。罪を赦されたのですから、神との結びつきが回復しています。進むべき道として、死を超える永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むことになります。罪がキリスト信仰者に神罰が下るようにとそそのかしても、既に罪を償われて赦されてしまったので、神罰の下しようがありません。このようにして人間は罪の支配から脱することが出来るようになりました。永遠の命に向かうので、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、死もその人には何もなしえまえせん。
このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム凱旋は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあるということが明らかになりました。罪と死からの解放、造り主との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命の獲得、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。
イエス様の十字架と復活の業によって全人類にとっての課題が解決されたと言うのなら、ゼカリア書9章やイザヤ書2章にある、世界の完全な平和についての預言はどうなるのでしょうか?十字架と復活の出来事が起きて、そのような世界が果たして実現したでしょうか?人類の歴史を見渡せば、戦争が起きて終わって、少し和平が続いて、また戦争が起きるという繰り返しでした。武器のスクラップ化ということも、弓矢や刀の時代なら簡単に考えることができますが、現代のように装備、技術、規模とも途方もないものになってしまっては、そう単純なことではないのではないか。そうなると、預言された完全な平和というのは、ますます実現困難に見えてしまいます。
兄弟姉妹の皆さん、実は、聖書で言われる、武器が存在しない世界、誰も戦争の仕方を学ばない世界、それくらい完璧な平和というのは、これは今の世の次に来る新しい世での平和のことです。父なるみ神が今ある天と地に替えて、新しい天と地を創造し、そこに唯一揺るがない神の国が現れる。この神の国にある平和がゼカリア9章やイザヤ2章で言われている完全な平和です。聖書の立場に立つと、今の世が終わる終末というものがあります。その時、イエス様が再臨して、「生ける人と死んだ人を裁く」という最後の審判があります。審判の結果、神の国に迎え入れられる人たちは神の栄光に輝く復活の体を着せられて祝宴の席に着き、この世の全ての労苦の労いを受けます。イザヤ書2章を読むと、諸民族がエルサレムに向かって進むとか「ヤコブの家」とか、ユダヤ民族に結びつく言い方がされるので、どうしても同民族の解放について言っているという理解になりやすい。しかし、イザヤ書の預言を黙示録と重ね合わせて読むと、実は預言は終末と新しい世のことを先取りして言っているとわかります。黙示録の方でも神の国を「天のエルサレム」などと呼びますが、それは名称だけのことで、現在中東にある都市とは関係はありません。
このように聖書では武器が全く存在しない、戦争の知識もないという信じられない平和な世が預言されています。そこで、この平和は今の世の次に来る新しい世の状態であるというのが聖書の立場だとすると、今の世ではそういう完全な平和は無理ということなのか?そうしたら、この世で平和の実現を求め努力することは意味がないのか?どうせ次の世で実現するのなら、今は別に何もしなくてもいいという考えになってしまわないか?聖書はこの世の平和問題について消極的な態度なのか?等々、いろんな疑問や反論が出るでしょう。
この問題については、先週の説教でお教えした、完全な正義の実現ということを重ね合わせて考えてみたらよいと思います。この世では完全な正義は実現しない。例えば、とても大きな悪や害を被ったのに、その解決を目指してどんなに頑張っても得られる償いは小さすぎるということがある。また、他人に与えてしまった害に対してあまりにも法外な補償や謝罪を要求されることもある。そうしたことは、日々のニュースからでも、また自分の身の回りからでも、よく起こるとわかるでしょう。このように、人間同士の間で実現しようとする正義はどうしても偏ったり、不釣り合いなものになってしまう。しかし、神は最後の審判の時、不完全で未解決だった正義の問題に決着をつけるので、神の国は完全な正義で覆いつくされる世界となる。黙示録21章4節で、神は「彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる」と言われる時、その涙とは痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。文字通り「全ての」涙です。ギリシャ語原文でも「全ての」πανとついています。
神は最後の審判の時に無念の涙を含む全ての涙を拭って完全な正義を実現すると言われる。それじゃ、この世ではそういう正義は実現しないということなのか?もしそうなら、正義の実現のために努力するのは意味のないことになってしまうのか?実はそうならないということを先主日の説教でお教えしました。その時、ローマ12章でのパウロの教えが鍵になると申しました。もう一度みてみますとパウロは、悪を憎め、ただし悪に対して悪で返してはならい、迫害する者のために祝福を祈れ、相手を自分より優れた者として敬意を持って接しろ、高ぶらず身分の低い人たちと交われ、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣け、自分で復讐しないで神の怒りに任せろ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませろ等々、そういうふうに教えました。神が正義を完全に実現するということに全てを託すと、そういう生き方になるのです。次の世に実現するからと言って、この世で何もしないで手をこまねいているわけではありません。不正義や不正には当然対抗していく。しかし、その場合、正義を振りかざして逆に不幸をまき散らさないようにするための神の知恵がここにあります。
完全な平和の実現もこれと同じです。預言にあるような完全な平和は次の世に実現するものである。だから、今この世にいる間は、ローマ12章の神の知恵に従って、平和に反することに対抗していかなければならない。知恵に従えるのは、神が平和を完全に実現することに全てを託しているからです。さらにローマ12章の18節をみてみると、パウロは全ての人たちと平和な関係を持つことを勧めています。他の人たちとの平和な関係を持てるかどうか、それがあなたがた次第であるならば是非そうしなさい、と教えます。つまり、キリスト信仰者は少なくとも自分から平和を崩すようなことはしてはいけない。それじゃ、相手がどんな出方をしても、こっちは何もしないで言いなりか?と言うと、そうではない。最後の審判の時に全てが決せられるということに全てを託して、この世では神の知恵に従って不正や悪に対抗していくということです。
次の世での完全な正義と平和の実現に全てを託して、この世ではその正義と平和を遠くに見据えるようにして生き、神の知恵に従って不正や悪に対抗していく、これを本日の旧約の日課イザヤ2章は「主の光の中を歩く」ことと言います。使徒書の日課ローマ13章では、この光についてもう少し具体的に述べられています。
12節の「夜は更け、日は近づいた」。「日」とはお日様が出ている「日中」ですが、ここでは新しい天と地が創造されて復活の体を着せられた者たちが神の国に迎え入れられる日のことです。神の栄光の輝きに満ちた光の日中です。従って「夜」は、復活の栄光の前の時代なので、今のこの世の時代です。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」今はまだ新しい天と地の創造が起きていない「夜」の段階であるが、この「夜」はもうすぐ終わる。だから、キリスト信仰者は約束されているのだから疑わずに、今はもう復活させられて神の栄光を現わす者になっているかの如く、そのような者としてこの「夜」が終わりつつある最後の時代を生きようということです。
この「夜」が終わる時代にあって、「日中」の復活させられた者として生きるためには「光の武具」を身に着けることが必要である。この世というところは、神との結びつきを持つ者や将来復活させられる者を見つけたら、すぐ引き離そうとするからです。キリスト信仰者が身に着けるべき武具はエフェソ6章にリストがあります。帯として神の真理、胸当てして神の正義、履物として平和の福音を告げる準備、盾として信仰、兜として救い、剣としての霊がそれです。これらの武具は神がキリスト信仰者にちゃんと取り揃えて下さるものです。信仰者は自分が纏っているこれらの武具をいつも確認しなければなりません。そうすることで、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いない」ようになります。この文は、私なら意訳して「肉の言うことに耳を傾けたり聞き従うと欲望が欲望を生む状態となる」とするでしょう。これが闇の行いです。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみが言われています。肉の言うことに耳を傾けて聞き従ってしまうと、こうした闇の行いに走って行ってしまいます。夜が終わって明るくなったらその人は存在する場所がありません。しかし、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを白い衣のように被せてもらうことは、今からでも間に合います。夜は必ず終わります。急がないといけません。
夜の闇は深くても
夜明けは必ず来る。
だから今のこの闇の残りの時間は、
もう光の中にいるつもりで生きよう。
もう闇の行い、肉の思いへの従属はやめよう。
夜が明けた時に手遅れにならないために。
だから、今から光の中にいるつもりで生きよう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
アドベント初日の日です。教会もすっかりクリスマスの飾りつけも済み降誕の日を待ち望んでいます。幾つのなっても待ち望むということは楽しいものですね。
先月日本を訪問したニー二スト・フィンランド大統領を歓迎するレセプションが在京フィンランド大使館にて開催され、Sley宣教師の吉村夫妻も招待されました。以下はそのことについてスオミ教会の週報(10月27日付)に掲載された報告です(個人名は伏せました)。
この度の天皇の即位式に出席するためフィンランドからニー二スト大統領が来日し、その前日の月曜日(21日)、在京フィンランド大使館にてレセプションが催されました。私たち宣教師夫妻も招待されました。皆様も御存じのように、SLEYは日フィン外交関係の樹立以前(今年でちょうど100年)からだけでなく、フィンランドが1917年に独立する以前から日本伝道を始めたという、日フィン関係のパイオニア的存在です。そのため大使館も一目置いているのです。
レセプションは、最初は大統領をはじめ来賓のスピーチ、その後は立食形式のディナーとなり、大統領と特に話したい勇気ある人は自由に話が出来ました。大勢の人が並ぶ中、私とパイヴィも順番を待ちました。
大統領の前に立って、まず自分たちがフィンランドの国教会のミッション団体の宣教師である旨を名乗りました。すると、私たちの順番の前に、1940年代に孤児として宣教師に育てられた御婦人がいたと言及されました(大岡山教会教会員のHさんのこと)。「その宣教師は私たちの団体の宣教師だったのです」とパイヴィ。私も、SLEYが1900年から日本伝道を始め、まさに30~40年代は国粋主義の嵐の中で宣教師は大変な苦労をしたが、戦後は「民主的な」国となり、自由に妨害されることなく福音伝道を続けている、と述べました。大統領は「あなたたちは価値ある仕事をされている(Te teette arvokasta työtä!)」と述べられました。私たちもお礼を述べ、短い会見は終わりました。
日本の暗い近現代史に触れた上での、この労い言葉には、含蓄があるのではと思われました。
写真 Markus Rantala (Makele-90) – Oma teos, CC BY-SA 3.0, リンク, cropped
本日は6月9日の聖霊降臨祭から数えて第24の主日で、今年のキリスト教会のカレンダーの1年の最後の主日です。それなのでキリスト教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に贈られたクリスマスの出来事に向けられます。私たちは、2000年近い昔の遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた、あの赤ちゃんの誕生をお祝いし、私たちの救世主になる方をこのようなみすぼらしい形で贈られた神の計画に驚きつつも、そこに人知では計り知れない深い愛を覚えて感謝します。
今日の教会のカレンダーの1年最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び到来する、ただし今度はみすぼらしい姿ではなく神の栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る、そして、伝統的なキリスト教会で唱えられる使徒信条や二ケア信条にあるように「生きている人と死んだ人を裁く」ということです。まさに最後の審判のことです。裁きの結果、天の御国に迎えられる者たちは神の栄光を現わす復活の体を着せられて迎え入れられる、そういう復活が起きる時でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時にその分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつなのかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外に誰もわかりません。そのためイエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように常時、神から与えられた自分の務めをちゃんと果たしていなさいと教えられるのです(34-38節)。
このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判に今一度、心を向けて、いま自分は神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の生き方を振り返るという趣旨の日です。とは言っても、フィンランドを見ても、教会員の大半は「裁きの主日」の礼拝など行きません。礼拝が終わったことを告げる教会の鐘が鳴るや、待ってましたとばかり、町々のクリスマス・ストリートが華やかなイルミネーションを伴ってオープンします。(ヘルシンキのアレクサンテリン・カトゥ通りのクリスマス・ストリートも今日の14時オープンだそうなので、時差を入れたらあと10時間ちょっとです。)私としては、待降節まで待つのが筋ではないかなと思うのですが。そのように、趣旨が実際に活かされているとは言い難い現状があります。それでも、自分の生き方を振り返って今後の方向を考える時、聖書という権威ある書物に照らし合わせてみるのはいつの世でも意味があると思います。
本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。本日の説教はこの預言の解き明かしを中心に進めていきますが、旧約の日課イザヤ書52章と使徒書の日課第一コリント15章も解き明かしに欠かせません。
このイエス様の預言は少々複雑です。というのも、彼の十字架と復活の出来事のすぐ後に現在のイスラエルの地域に起こる出来事を預言しているかと思えば、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事を預言することもしているという、二つの異なる預言が入り交ざっているからです。一方では、私たちから見て既に過去になった出来事が起こる前に預言されている。他方で、今の私たちから見てこれから起こる出来事の預言も入っているのです。
まず、この複雑な預言を解きほぐしていきましょう。以前にもお教えしたことなので、復習の意味で見ていきます。イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃の時にその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。
まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れて人々を誤った道に導く、しかし、彼らに惑わされてつき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。8節で言われていますが、偽救世主は「世の終わりの時が近づいた」などと言って不安を煽るのです。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こるものではあるが、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わりになるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に恐れる必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。
その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者は怯える必要はない、と言われるのです。そんなこと言われても、そういうことが起こったら、恐れたり怯えたりしないでいられるでしょうか?そうならないでいられる何か勇気のもとがあるでしょうか?それががなかったら、怯えるなと言っても空振りです。しかし、イエス様の観点は、キリスト信仰者はそういう勇気のもとがある、だから怯えるな、というものです。何がそういう勇気のもとか?それが本説教を通して明らかになると思います。
さてイエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、以上のように答えました。それなので、偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が神殿破壊の前兆のように聞こえます。他方で、12節を見ると「これらのことが起こる前に」迫害が起こると述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害は、権力者によって信仰者が連行されて自分の信仰の申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者による迫害ならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は私の救い主です」と名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている、だから髪の毛一本たりとも神の御手から洩れることはないのだということ。
神はお前たちから一寸たりとも目を離さず、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。試練の中で忍耐することを通して、天の御国の命を勝ち取ることが出来る、そう19節で言われます。忍耐するというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に留まるということです。信仰を捨てさせようとする試練の中で忍耐して信仰に留まって、天の御国に迎え入れられて永遠の命を勝ち取ることが出来る。もし、御国への迎え入れと永遠の命の勝ち取りということが本当に起こらなければ、迫害に耐える意味がなくなります。そうしたことは本当にあるのでしょうか?このことも本説教を通して明らかになります。
ここでイエス様の預言に戻りましょう。出来事の順番は、まず迫害が起こって、それから偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。本日の個所の後になりますが、20節からは質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここでよく注意しなければならないのは、迫害が起きて混乱と天変地異があって神殿破壊が起こっても、預言はこれで完結したのではないということです。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起こると言っています。つまり、イエス様の主眼は質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起こるが、その後にも起こるということです。
そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨する。太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言と結びついています。天体の大変動が起きて今ある天と地が新しい天と地にとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。さらに「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残る神の御国が現れるということが預言されています。
ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言いいます。「解放」とは何からの解放なのでしょうか?迫害でしょうか?戦争や自然災害や疫病や天体の大変動がもたらす恐怖や苦しみ痛みからの解放でしょうか?このことも本説教を通して明らかになると思います。
さて、イエス様の預言は当たるでしょうか?本当にこの世の終わりが来て、新しい天と地が創造されたり、最後の審判が起きたり、復活が起こるのでしょうか?
エルサレムの神殿の破壊は歴史上、実際に起こりました。その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。神殿破壊からもう1900年以上たちました。その間、戦争や大地震や偽救世主は無数にありました。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教徒迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。ご存知のように、この日本でもありました。現代世界でも国や地域によっては迫害はあります。歴史上、そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということもたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないと結論を下してもいいのでしょうか?
よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。これも以前の説教で申し上げたことですが、太陽には寿命があります。太陽には出来た時と終わる時があるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張して燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、少しでも膨張し始めたら、地球への影響は甚大です。他にもまだ解明されていない天体の変動も起きる可能性だってあります。そういうわけで、今ある天と地は永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。
それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるのか?それは、万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。
万物には造り主がいるという立場をとる聖書は、さらに一歩踏み込んで、造り主と造られた人間の関係がどうなっているかも問います。関係がうまく行っているのかいないのか、ということです。聖書は、うまく行っていないという立場です。なぜかと言うと、最初に造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪を自分の内に入り込ませてしまったからです。それで人間と神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまった。だから、人間が代々死んできたというのは、代々罪を受け継いできたからに他ならないという立場です。
本日の旧約の日課イザヤ書52章3節で「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」とあります。ヘブライ語原文を直訳すると、「あなたたちはタダで自分を売り飛ばした。金銭をもってしても自分を買い戻すことはできないであろう」ともっとシビアです(後注)。「自分を売り飛ばす」というのは、お金に困った人が自分を奴隷として売るということです。この個所では、人間が罪と死に売られてそれらの奴隷になったことを意味します。しかもこの場合は代金の支払いなしですから、大損もいいところです。罪と死から自分を買い戻してそれらから自由になりたいと思っても、お金で買い戻すことは出来ない。詩篇49篇9節でも「魂を買い戻す値は高く、とこしえに払い終えることはない」と言われています。人間が罪と死から買い戻されてそれらから自由になるという時、買い戻す先は神しかいません。もともと神のもとにいた自分を売り飛ばしたわけですから。人間はどうやって自分の造り主である神のもとに買い戻されることができるでしょうか?
その買い戻しを神は、ひとり子イエス様をこの世に贈って行って下さったのです。イエス様は全ての人間の罪を自分で引き受けてそれをゴルゴタの丘の十字架の上にまで背負って行き、自分があたかも全ての罪の張本人であるかのようにして神罰を受けて死なれました。このようにして私たち人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。しかも、神は一度死なれたイエス様を復活させて死を超える永遠の命を打ち立てました。死は、太刀打ちできないものを突き付けられたのです。そもそも、死の目的は、人間が造り主である神と永遠に切り離された状態にすることでした。それが、人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、罪の償いを白い衣のように頭から被せられ、神から罪を赦されたものとして見てもらえるようになった。そうなると、その人は神との結びつきが回復してしまい、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む者になります。死は、その人が永遠の命に向かうことを阻止する力がなくなったのです。そして、人間を死に追いやる役割を持っていた罪も、いっくら信仰者に道を歩まらせて死に追いやろうとしても、信仰者が信仰にとどまろうとする限り、追いやることができない空振り空回りの状態です。まさに、本日の使徒書の日課第一コリント15章54-55節に言われている通りです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」パウロは、罪のことを「死のとげ」と呼んでいます。
ただし、罪は空振り状態とは言っても、律法というものがあり、それが私たちの内に罪があることを暴露し続けます。56節で「罪の力は律法です」と言っているのはこのことです。信仰者といえども、外面上は言葉や行為で罪を犯さないとは言っても、内にある罪、悪い思いは律法によって暴露されます。しかし、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪の赦しはあそこに打ち立てられていると再確認できれば、自分が罪と死から解放されるために捧げられた犠牲はなんと大きいものだったか思い知らされ、とても厳粛な気持ちになります。これからは罪を犯さないようにしなければと思いを新たにします。このようにすればするほど、罪は空振りを続けるしかなくなります。罪の償いの十字架と永遠の命が打ち立てられた以上は罪と死は本当に力を失ったのです。イエス様を救い主と信じる信仰者は罪と死が力を失った状況の中に置かれているのです。
そこで、このような聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるか見てみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなると考えるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないので、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもなく、全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活も起こりません。せっかく復活しても居場所がないわけですから。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになって全部なくなってしまいます。創造主の神などいない、と言うとそうなります。ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体(第一コリント15章35-49節)を着せられる、本日の個所によれば、その体は朽ちることもなく死ぬものでもないので、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分が、この世からの死を超えて、ずっと続いていくことがわかります。そうすると、本説教の初めで申しました、この世の終わりの前兆が起きても恐れないでいられる勇気のもとがあるかということも、有り様が変っても続いていく自分が約束されていることがそれだということになります。
他方で、有り様が変っても自分が続いていくということに関して、こういう考えをする人もいます。聖書で言うような最後の審判なんか持ち出さないで、死んだ人は全員そのまま天国に行けるという考えです。そういう人から見たら、最後の審判で誰が天国に迎え入れられ誰が入れられないかなどと言うのは、教会の言うことを聞かないと地獄に落ちるぞと脅して人を教会に縛り付けようとすることになります。確かに、全員がそのまま天国に行けれということであれば、この世でどんな生き方をしたか心配する必要もなく、自分が新しい有り様で続いていけることになります。
ここで少し考えてみましょう。そういう考えだと、正義の実現はどうなるでしょうか?聖書の立場に立つと、最後の審判で天の御国に迎え入れられるとされた人たちは、その御国で目から涙をことごとく拭われる、そう聖書では約束しています(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)。この涙は、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされる。こうしたことがないと、正義の実現はこの世の段階に全て任されてしまうことになります。でも、それはとても難しいことです。日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにも起こることですが、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるということが往々にしてあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めることもあります。人間同士が行うことは、不釣り合いなことばかりなのです。
そこで、全ての人間の全てのことを知っている創造主の神が下す判断こそ釣り合いがとれた完全なものである、最後はそこに託してそれを待たなければならない、そうパウロがローマ12章でまさにこのことを教えています。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる、という教えです。神の正義実現に託してそれを待つと、こういう生き方になるのです。人間が正義を掲げて逆に不幸をもたらさないための知恵がここにあります。それは、神の審判に委ねそれを待つということが土台にあります。
最後の審判とそれに続く天の御国への迎え入れということに関して、審判も新しい世もない、全ては滅んで消えるというのは、正義の実現を全て人間同士の間で解決するように任せることになります。そこでは、神の審判など土台に置くパウロの教えは馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。なんてお人好しなんだ、と。また、全員が天国に入れるというのも、これと同じことになると思います。神の審判がないのですから、正義の実現はこの世のことだけになります。こうして見ると、天国も何もなく全ては消滅するという立場と、全員が天国に入れるという立場は深いところでは繋がっていると言えないでしょうか?
兄弟姉妹の皆さん、本日の使徒書の第一コリント15章のところでパウロは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の朽ちない死なない体を着せられることについて述べた後、次のように結びます。そういうふうに新しい有り様に変えられるのだから、この世ではしっかりと信仰に立って揺らぐことがないようにしなさい。その場合、主の業に溢れるようになりなさい、と。日本語訳では「励みなさい」などとそつなく訳していますが、ギリシャ語原文では「主の業で溢れかえりなさい」です。主の業というのは、まさに先ほど申しました、悪に対して悪を返さず、敵が飢えていたら食べさせる等々の業です。それらは、神の審判に全てを委ねそれを待つということが土台にあってできるのです。そして、パウロの結びの言葉はこうです。それらの業は労苦を伴うが、主に結びついている者には無駄に終わることはない。どうしてそう言えるかと言うと、最後の審判で神の釣り合いの取れた完全な正義が実現するからです。キリスト信仰者だったら、ひとり子イエス様を贈って下さった神の正義ですから文句なしに受け入れます、と言います。
(後注)イザヤ書52章3節の神の言葉について、否定辞לאがבכסף(銀/金銭によって)にかかると考えると日本語訳のようになります。חגאלו(買い戻す)にかかると考えるとシビアな意味になります。 イザヤ書の本日の個所52章1~6節はとても興味深いです。イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放が人類の罪と死からの解放のプロトタイプのようになっているからです。神は将来、人間を罪と死から解放する意思を示すが、それが口先ではないとわからせるために手始めとしてイスラエルの民を捕囚から解放するというようなことです。それは、あたかも、イエス様が全身麻痺の人を前にして、最初、罪の赦しを宣言して、宗教エリートから神への冒涜だと批判された後すぐ、その人を歩けるようにしたことを想起させます。全身麻痺の人を癒せば結果が目に見えるので、イエス様には奇跡を起こす力があるとわかります。でも、あなたの罪は赦されたと言っても、目に見えた効果はないので、信じない人には口先だけにしか聞こえません。それで、罪の赦しの宣言をした後に癒しを行ったことで、イエス様の言うことは口先ではないと思い知らされます。この二つの事例の連関性を明らかにするためにイザヤ書52章4~5節の解き明かしが必要です。ここにもいろいろなことが含まれていると思います。ただ、解き明かしをそこまでやったら、説教が際限なくなってしまいます。それで今回はしないでおきました。