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説教「目撃者の勇気 真実に生きる勇気」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章1-14節、使徒言行録4章5-12節

主日礼拝説教 2018年4月15日 復活後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
1.ペトロの弁明

皆様お気づきのように、日本のルター派のキリスト教会のカレンダーでは、復活祭から聖霊降臨祭までの2ヶ月弱の期間、主日礼拝で朗読される聖書の日課に旧約聖書がありません。通常ですと、第一の朗読に旧約聖書、第二の朗読に新約聖書の使徒書簡、第三の朗読に新約聖書の福音書の三つが読まれます。ところが復活祭から聖霊降臨祭までは第一の朗読は旧約聖書ではなく、かわりに新約聖書の使徒言行録です。ちなみにフィンランドのルター派教会では第一の朗読は旧約聖書のままです。どうしてそういう違いがあるのかはわかりませんが、スオミ教会の聖書日課は日本のカレンダーに従っていますので、使徒言行録の日課も解き明しの対象にしていきます。

使徒言行録は、復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降り、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が躍動感一杯に描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。本日の日課の箇所は、聖霊が降った出来事からまだ間もない頃、ペトロとヨハネがエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕えられて尋問を受けた出来事です。なぜ、捕えられたかと言うと、3章に出来事の発端があります。ペトロが、エルサレムの神殿で奇跡の業を行います。足の不自由な物乞いに向かってイエス様の名前を口にした途端にその人の足が治ってしまったのです。驚いている群衆を前にペトロは、イエス・キリストという名前自体にこのような奇跡を起こす力がある、その名前を持つ方を素直に受け入れれば名前に備わっている力がこのように発揮される、ということを述べます。加えて、国の指導者たちはイエス様を十字架刑で殺してしまったが、父なるみ神は彼を死から復活させられた、自分たちはその復活されたイエス様の目撃者であると証言します。

このように言われると、イエス様の十字架刑というのは、執行した時こそ指導者たちは自分たちの権威を脅かす危険人物を抹殺できたと思っていたのが、イエス様の復活によって覆されてしまったことがわかります。しかも、神は初めからイエス様の受難を見越していて彼を死から復活させるおつもりだった、ということであれば、指導者たちが自分たちの意志と力でやったと思っていたことは全て、神の計画を実現するために駒のように動かされていたに過ぎなかったということもわかります。そうなると、群衆としても、神に逆らうことなど不可能だ、何をやっても全部お見通しで神の良いように持って行かれてしまう、逆らえれば逆らうほど袋のネズミになってしまうと観念せざるを得ません。ペトロの説教の後で、男性だけでも5,000人がイエス様を信じるようになったと記されています(4章4節)。

しかしながら、群衆がイエス様を信じるようになったのは、神に逆らうことは愚かなことと観念したからだけではありません。ペトロは、群衆に対する説教を次のような勧告で締めくくります。3章の25ー26節です。「お前たちは神が先祖と契約を結ぶ時、かつてアブラハムに言われたことが出発点にあることを覚えているか?神はアブラハムに『お前の子孫を通して、地上の全ての民族は神から祝福を受けることになる』と言われたのだ。それゆえ、神がイエス様を死から復活させられたのは、まずイスラエルの民に属するお前たちのためであった。今のままではお前たちは、イエス様を十字架刑に処してしまった側についてしまうことになる。それでは、イエス様がこの世に送られたことはお前たちにとって呪いになってしまう。しかし、お前たちが悪を断ち切るならば、イエス様が送られたことは祝福になる。この祝福はお前たちから始まって全世界の民族に及ぶことになる。

大体このようなことをペトロは述べました。群衆は、神のひとり子を十字架にかけるという、まさに神に対する反逆行為が祝福に転換して、かつそれがアブラハムに約束された全世界の祝福になるとわかったのです。全知全能の神に逆らうことは出来ないという観念と過ちを祝福に転換できるというチャンス。こうなったら、常に神がついていて復活させられたイエス様を神のひとり子であると信じないわけにはいかないでしょう。

イエス様の十字架は、一見すると、自分の権威を守りたい指導者たちの神に対する反逆行為と見ることができますが、実はそれよりももっと大きい、本質的な意味があります。それは、神と人間の関係が崩れてしまった原因である罪の問題、それを解決したことです。それが、イエス様の十字架の本質的な意味です。神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を次のように解決しました。まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせたのです。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じれば、その瞬間に罪の償いがその人に起こって、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになったのです。その人には、自分の命はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれます、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるのであり、順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを受けていると信じることができ、また、万が一この世から死ぬことになっても、その時こそ神は御手をもって御許に引き上げて下さると安心することができます。今の世にあっても次の世にあっても神との結びつきは変わりません。これがアブラハムの子孫であるイエス様を通して全世界の民に与えられる祝福だったのです。

以上のようにイエス様の十字架とは、人間が神の祝福を受けるための神の側での犠牲行為であり、それが起こることは既に旧約聖書の中で預言されていました。ただ、具体的にいつ何年に、どんな形で起こるかは記されていませんでした。それが約2,000年前の具体的な歴史状況の中で起こりました。ユダヤ民族がローマ帝国の占領下に置かれていた時、民族の指導者たちが占領者に気づかいながら伝統と権威を保持できているという状況の中で起こったのです。そういう状況だったから、神のひとり子の犠牲は、ローマ帝国の厳罰である十字架刑という形をとって実現したのです。

本日の使徒言行録の箇所で、指導者たちはペトロとヨハネを尋問します。自分らが処刑に委ねてしまったイエスが実は神のひとり子、旧約聖書に預言された救世主であったなどと広められてはたまりません。自分たちこそが旧約聖書の伝統の権威ある守り手だと思っているのに、そんなことを言われたら権威はガタ落ちです。ここからもわかるように、指導者たちは旧約聖書がユダヤ民族を超えて全人類に意味を持つことを把握できていませんでした。尋問されたペトロは全く怯みません。彼は真理を述べます。それは大体次のような内容でした。「足の不自由な人が癒されたのは、その人がイエス・キリストの名前を聞いて、その名前が冠せられた人物をそのまま受け入れたことによる。ただし、癒しそのものは名前自体にそうする力があるためで、受け入れたことでその力が現れたにすぎない。このようにイエス・キリストの名前にははかりしれない力が秘められているが、力の中で最大のものは何と言っても、罪の償いと赦しを確立した力である。そしてそれを受け入れる者に対していつも神と共にいられる永遠の命を与える力である。」

それでペトロは弁明の締めくくりで、イエス様をおいて他に救いはない、人間を救うことが出来る名前はイエス様の名前以外にこの世には与えられていない、と結んだのです(4章12節)。

ここの大事なポイントは、イエス様の名前は神の前で人間の罪を赦し永遠の命を与える力、つまり人間を救う力を持つということです。ただ、そう言っただけでは、救いは目で見たり手で触ったり出来ないので口先だけのものにしか聞こえないでしょう。それで、イエス様の名前には本当に力があるということを具体的に示すために、足の不自由な人を群衆の前で癒したのです。

弁明の中でペトロはまた、イエス様の十字架と復活の意味を明らかにするために、旧約聖書詩篇118篇22節の預言「家を建てる者が捨てた石が隅の親石になった」を引用します。その意味は次のことです。「ユダヤ教社会の指導者たちは、『これをすれば、あれを守れば、神の目に相応しいものとされる』と言って、人間の業に基づく救いのシステムを構築してきた。そこに、そのシステムは間違っていると主張するイエス様が登場したが、指導者たちは石を捨てるように彼を排除してしまった。しかし、イエス様は死から復活させられて、神の目に相応しくなれるのはこの自分を救い主と信じることによってである、そういう救いのシステムを作り上げてしまった。

つまり、イエス様があたかも新しい建物の土台になったわけです。

 

2.目撃者の勇気 真実に生きる勇気

本日の日課のペトロとヨハネの尋問は、キリスト信仰者が権力側から受ける尋問の最初のものでした。使徒言行録のこの後は、尋問のみならずイエスの名を宣べ伝えてはならないという警告・脅しそれに迫害ということもどんどん増えていきます。それもキリスト教が地中海世界に広がるにつれて、ユダヤ教社会の権力者だけではなく、ユダヤ教と関係のないローマ帝国の権力者にまで拡大します。他方でイエス様を救い主と信じる人たちも、ユダヤ民族から他の民族へと広がって行きます。そうした進展と拡大が使徒言行録によく記されています。

ペトロを初めとする使徒たちが、度重なる尋問や迫害にもかかわらず、怯まずにイエス様のことを宣べ伝え続けた理由として、本日の箇所でも言われますが、「聖霊に満たされた」(4章8節)ことが挙げられます。もちろん、イエス様の出来事を自分の目で目撃したということも、彼らに勇気を与えたでしょう。目で見た以上は、そんなことはなかったと言うことはできないからです。しかしながら、聖霊は、イエス様の十字架と復活の出来事の真の意味を信仰者に明らかにします。一見、権威に楯突いた者の処刑にしか見えなかった出来事が、実は神の人間救済計画の実現だったとわかるのは、聖霊が働いたからです。まず出来事を目撃することで、それが弟子たちにとって動かせない事実になる。それに加えて出来事の真の意味を聖霊から知らされる。こうなると、イエスの名を宣べ伝えるなと言われても、それは無理な話です。自分たちが目で見た出来事には、天地創造の神が全ての人間に与えたがっている大事なものがあるとわかっているからです。

自分がこの目で目撃したことには大きな意味がある、とわかる。そうなると、それを見ていないとは言えなくなります。そんなことは見なかったことにしろ、起こらなかったことにしろ、言う通りにしないとどうなっても知らないぞと圧力をかけられて、その通りにしたら嘘をつくことになります。なんだかある国の国会論戦での関係者の発言内容が頭に浮かびますが、たとえ名誉と地位を失うことになっても、身を危険に晒すことになっても、目撃したことが持っている大事な意味のゆえに見たことは見たと言う、これは真実に生きることです。そしてそれは勇気のいることです。その勇気が使徒たちにはありました。ただし、イエス様の復活の前はありませんでした。イエス様が十字架にかけられた時、皆逃げてしまったのですから。しかし、復活された主に再び会えたことと聖霊の力を受けたことで十字架の意味がわかりました。わかった以上は、真実を曲げることは出来ません。

さて、私たちはどうでしょうか?私たちは十字架の意味はわかりますが、出来事を目撃していません。弟子たちと立場が異なります。しかし、出来事の大事な意味がわかった目撃者たちの目撃録が聖書に収められているのです。彼らは記録の専門家ではありませんから、記述は荒っぽいかもしれません。しかし、私たちは聖書を読み聞くことで目撃者たちと同じ視点、観点を持つことが出来るのです。ということは、目撃者と同じ真実に生きる勇気を持てるのです。これが本当かどうか、試しに本日の福音書の箇所ヨハネ21章をよく目を見開いてみてみましょう。

 

3.復活したイエス様とガリラヤ湖で出会う

 本日の福音書の日課はヨハネ21章の出来事、復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。そこで弟子たちは夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いてきて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。

 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはまだわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。どんなやり取りがあったのかを見てみましょう。

イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きますが、ギリシャ語原文で「子たちよ」というのは、実は複数の大人の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。そういうわけで、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。

このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の仲間であると知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

まさにこの時、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事がペトロの脳裏に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には舟が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと同じことが今また起きたのだ。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」この結論を先に口にしたのは、この福音書の記者であるヨハネでした。ペトロは、ヨハネが「主だ!」と言うのを聞くや否や、復活の主に相まみえるべく湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペトロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れています。

ペトロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペトロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。

こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で自分自身、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と言われる通りです。

 このように、ヨハネ21章の出来事の記述は、福音書記者ヨハネ自身の目撃したことに基づく生き生きした記述であることがわかります。この記述はイエス様の復活が実際にあったという証言にとどまらず、キリスト信仰者にとって多くのことを示唆するものです。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹の只中で、イエス様が助言して、それに従うと、予想を超えることが起きました。そしてイエス様に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。イエス様が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さいました。

この出来事からもキリスト信仰者は、イエス様は自分を信じる者を決して見捨てないということを知ることが出来ます。残念ながらこの世では信仰者といえども、苦難や困難から逃れることはできません。というのは、この世は本質的に、造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。しかし、私たちが苦難や困難に遭遇しても、イエス様はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、まさにその時に現れました。そしてアドヴァイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。これらのことがわかれば、目撃者でない私たちも目撃者たちと同じように真実に生きる勇気を持つことができます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

4月14日 スオミ教会家庭料理クラブのご報告

キャベツのキャセロール色とりどりの春の花が咲く穏やかな土曜日の午後、
家庭料理クラブは「キャベツのキャセロールとジャガイモのサラダ」を作りました。
出盛りの淡いグリーンのキャベツは、なんと大きなボウルに山盛り三杯、
茹でて使いますが、他の材料を加えて三台のキャセロール型に収まるのか、
少し心配になりました。

ジャガイモのサラダは、ピクルスを使ったさっぱりしたお味、
新じゃがの風味も生きた、美味しい一品の完成です。

特別にパイヴィ先生の焼いて下さった
「マーラスレイパ」の差し入れもあり、牧師館は、豪華な食卓になりました。

春の花お料理が出揃い、お祈りをして試食会のスタートです。

会話も進み、賑やかな食卓も一段落したころ、
パイヴィ先生から、フィンランドのキャベツの種類や、
色々な料理法の説明を受けたり、復活されたイエス様のお話を聞かせて頂きました。

参加の皆様、綺麗に最後まで片付けてください
まして、ありがとうございました。またご一緒出来るのを、楽しみにしています。


2018年4月14日キャベツとイースターの話

キャベツのキャセロールキャベツのキャセロール

キャベツのキャセロールはフィンランドの家庭料理の伝統的な料理の一つです。それをオーブンで焼いていると、外から家の中に入ったら、キャベツの香りでご飯は何かすぐ分かります。キャベツが好きな人ならご飯が待ち遠しくなりますが、キャベツがあまり好きではない人は少しがっかりかもしれません。今日料理教室に参加された皆さんは、キャベツはお好きだったでしょうか?

キャベツのキャセロールは作るのはあまり難しくありません。作る段階は、キャベツを茹でること、ひき肉を炒めること、そして最後にキャセロールをオーブンで煮込むことの三つです。美味しいキャベツ・キャセロールを作るのに大事なのはオーブンの中で長く煮込むことです。焼く時間が長ければ、美味しい出来上がりになります。今日は時間が限られているので、煮込む時間はあまり長くありませんでしたが、美味しいキャセロールができたのではと思います。

キャベツキャベツはフィンランドでは昔から育てられて、今もよく使われる野菜の一つです。残念なことに、キャベツの料理は最近、家庭で作られることが減っていると言われています。フィンランドではキャベツの種類は、新キャベツ、夏キャベツ、秋キャベツ、冬キャベツと4つあります。6月から7月の中ごろまでの新キャベツと夏のキャベツの葉っぱは柔らかくて、キャベツの玉も軽いです。秋と冬のキャベツは固い感じで、玉も重いです。キャベツは健康にもとても良い食材です。カロリーは低く、繊維、ビタミン特にビタミンC,E、K,そしてミネラルが沢山入っています。カロリーが低いため、キャベツを使うダイエットで体重を減らす方法がフィンランドの雑誌に時々紹介されます。

フィンランドではキャセロールの他にどんなキャベツの料理が作られるでしょうか?一番一般的なものはキャベツのスープです。スープにはキャベツの他にひき肉か羊の肉や人参などを入れます。羊の肉はキャベツの料理によく合います。他には、スープと似ていますが、キャベツの煮込み、キャベツロールがあります。もちろん、キャベツのサラダも作られます。ところでもう一つフィンランド独特のキャベツの料理があります。それはハパンカーリという、発酵させたキャベツです。臭いは強く、味も酸っぱくて漬物みたいです。これは家では作るのが難しく、店で売られています。

日本では新キャベツが店に出るのは3月の終わり頃です。ちょうど日本のきれいな春の季節の時です。春はキリスト教会のカレンダーではイースター・復活祭の季節です。スオミ教会でも2週間前にイースターのお祝いをしました。イースターというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。これから、イエス様の復活の後に何が起きたかについて聖書に書かれていることをお話したく思います。

十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや自分の教えをよく聞いていた婦人たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れて、幽霊だと思いました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を受け入れて、心が平和に満たされていきました。

「あなたがたに平和があるように。」これは、イエス様が弟子たちの前に現れた時に一番初めに言われた挨拶の言葉でした。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時弟子たちは皆恐くなって、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。

神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。旧約聖書のイザヤ書の53章には、「彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられる」と預言されていました。イエス様が受けた苦しみによって与えられた平和とはどんな平和でしょうか?イエス様は神様のひとり子としてこの世に送られました。神様のことについて人々に教え、聖書のヘブライ人への手紙2章また困っている人や苦しんでいる人たちを奇跡の業で助けました。イエス様は十字架にかけられて死なれましたが、それは、私たち人間が持っている、神様の目から見て悪いことを全部背負って、私たちのかわりに神様の罰を受けられたのでした。しかし、神様は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への道も開かれました。それで、イエス様を信じると罪が赦されて、神様との間に平和な関係が生まれることになったのです。これが、イエス様が受けた苦しみによって与えられた平和です。歴史の一番最初のイースターの日に起きたイエス様の復活によって、平和の約束が実現されたのです。

イエス様が弟子たちに言われた平和の挨拶は、この世の全ての人々、私たちにも向けられています。何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。

説教「希望の墓」マルッティ ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書20章1−18節

 

この写真を見て下さい.これはエルサレムでとった写真です.墓です.

聖書を読むとイエスは葬られたということが分かります。その時、とくにイエスの母、弟子達と他の親しい人々はとても悲しかったと思います.愛されたイエス様は死んで、葬られ増した.希望が消えて、大悲しみでした.とくにその時の母マリアの気持ちを考える、と言葉が足りないと思います。

私たち人間の生活にはいろいろな悲しみがあります。たとえば仕事を失うこと、病気になること、また思い描いていた計画がすっかり変わることもあるかもしれません。未来を予言するのは難しいです。その中で、一番深い悲しみは、親しい人を失うことではないでしょうか。人生の望みがなくなる場合もあると思います。 希望と人生の喜びが消えてしまいます。

マリアは最愛の人を失った、そう考えていたでしょう。『最も愛するイエスがなくなった』のです。喜びと望みを失ったことでしょう。

聖書を開きましょう。

今日の聖書の箇所には、マリアの悲しみ、そして、奇跡と希望について書かれています。

初めに、悲しみについて少しお話したいと思います。今日の箇所を読みましょう。

1.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

イエスは葬られました。信仰告白には「死んで葬られ」と表現されています。イエスと親しかった一人の女性の将来についての計画は「大きな質問」に変わったことでしょう。いったい何をするべきなのでしょうか。

次に聖書には奇跡について書いてあります。

弟子たちは走りました。

3.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
4.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

弟子たちは驚きました。墓が空っぽだったからです。

7. イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
8. それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

弟子たちは奇跡を見て、信じました。神様は何でも出来るということを表す奇跡でした。  

 
最後は、希望です。

私たち人間はイエスの教えを少しずつしか理解できません。マリアもその一人でした。  

 9.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
10.それから、この弟子たちは家に帰って行った。  

 マリアは泣いていました。慰めの神様はこのこともご存知でした。

 11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
12.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
14.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった
15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

マリアには、何が起こったのか、まだ完全に理解できませんでしたので、更にもう一つの言葉が必要だったのです。

16.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

イエスが現れて、マリアは何が起こったのかがやっと理解できて、喜びました。悲しみが消え去りました。主を見たからです。希望と喜びが与えられました。失った希望が戻ったと思います。

私たちも主にお会いする希望を持っています。

それが、キリスト者の希望です。

時代の混乱の最中にあって、キリストの教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

 解放というのは、何でしょうか。

罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

このイエスの御業によって、私達は死と悪魔の力から解放されました。ですから、この生活のなかに色々な苦しみや悲しみがあっても、永遠の命の希望があります。空っぽな墓は希望のしるしです。  

***** 

祈りましょう

天の父なる神様。マリアは悲しみましたが、イエスに出会って、喜びました。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってください ました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。

私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあ なたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。 

説教「イエスと共に」Martti Poukka牧師、マルコによる福音書11章1−11 節

礼拝の締め括りにフインランド賛美歌15番を演奏してくださいました。

今年の2月16日から24日まで、イスラエルに旅行しました。とても面白かったです。色々な聖書の場所を見ましたし、良い歴史についての話を聞きましたし、美しい景 色を見ながらバスにも乗りました。そして、ナザレに行った時、生きているろばを見ました。もちろんたくさん写真をとりました、そして、このろばの親のの親 の親の事を考え始めました。今でもある地域では、ろばは色々な農家の仕事をやっています。体が強い動物だからです。昔もそうでした。でも、ある昔の 子ろばは、とても大切な仕事をするために選ばれました。それは、イエスのための仕事でした。

今日の聖書の箇所を読みましょう。

初めに

1.一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

2. 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。

3。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

このみことばは神様のご計画を表しています。神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を世の救い主としてお送りになりました。四福音書はその救い主の生涯と御業とのよい音信を伝えています。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

聖書の箇所に戻りましょう。

4.二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。

5。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。

6。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

子ろばはイエスに大切な仕事をもらいました。それは、ろばの力で、イエスを運ぶ仕事です。

次に

8.多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

9.そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。

多分人々は.預言者の言葉を思い出しました。ゼカリヤ書/ 09章09節
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

イエスと子ろばの事は、昔から預言されていたことです。

イエスとろばは、やっとエルサレムに到着しました。

11。こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

イエスは、神様のご計画に従って、神殿の境内を見た後、また旅をつづけました。神様の計画による仕事がまだまだ残っていたからです。

子ろばは、イエスに大切な仕事を頂きました。私達人間もそうです。

マタイによる福音書/ 28章18節

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

19。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

20。あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

こ れは、弟子達が聞いた言葉でしたが、私達にとっても大切な御言葉です。イエスは、私達の仕事も必要として下さいます。その仕事は、子ろばにとっては足と力 でした。私達にも、色々な賜物(タレント)があります。それは、神様に頂いた賜物(タレント)です。そして、それは福音のために使うべきものです。

このような教えが書いてあります。

「奉仕への贖い」

神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、 すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きる のではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(第二コリント5:14-15)。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)。

「信仰は、活発で、勤勉な、力強いものですので、絶えず善い業をしないでいることは不可能です」(マルティン・ルター)。

キリスト者の人生には、目的がありますし、希望もあります。それは、イエスの十字架による永遠の命の希望です。

この希望について、このような教えが書いてあります。

キリスト者の希望

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

私達も、子ろばのように、希望を持って、イエスと共に教会のために働きましょう。

祈りましょう

天の父なる神様。子ろばは、あなたの御子イエスと共に働きました。これは、あなたの計画の通りだったのです。あなたは、人間を救う計画を作ってくださいまし た。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力は理解できませんが、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいま す。ですから、全部の約束も守ってくださいます。

聖書を読んで、イエスが復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜 びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいまし た。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。

今日もあなたの教えを聞けるように導いてください。私た ちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてく ださい。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。子ろばは、足と力をもって働きました。私たちがあな たの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、 私たち一人一人に教えてください。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出

来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン


説教、木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙第1 4章6〜7節

第15回
コリントの信徒への手紙第1  4章6〜7節

 前回4章5節までを見てきましたので今回は6節からです。6〜7節で1区切りであります。8〜9節からは又、奇妙な展開になっているようです。

まず、6〜7節を読んで一言でまとめて言いますとここで、パウロが言おうとしていることは、他の人を見下げて、高ぶることがないように、ということであります。

教会の中であっても、信仰生活の中であっても、人は. 案外. 他愛ないもので、小さい自分であるにもかかわらず、人からさげすまされたら、耐えられないものです。そして、何か1人前の人間のように、思わずにはいられないのであります。ふだんは、特に威張るわけではないけれど、何かいったん事があれば、そのことが出てくるのです。

毎日の生活で、いちいち他の人と比べているわけではありませんが、無意識にも自分を大きく見せようとしてしまう心があるものです。自分を他の人と比べて生きているのです。一寸の虫にも5分の魂という言葉があります。小さな、小さな存在と見えても、その中に秘めた魂がある。

私たちは、自分の値打ちを主張しながら生きていきたいと、しているのです。

抽象的な言い方になりましたが、パウロにとっては、具体的な事として、コリントの教会の中で、派閥争いで、混乱しているのです。

わたしはパウロにつく、とか、わたしはアポロにつく、と、自己主張のうず巻いている事情が、その背景にあったのであります。それで6節を見ますと「兄弟たち、あなた方のためを思い私自身と、アポロとに当てはめて、このように述べてきました。誰でも1人の人を持ち上げ、他の人をないがしろにし、高ぶる事がないように。と言っているのであります。

私たちも、考えてみると自分で気がつかないところで、他の人をないがしろにしたり、いつしか高ぶったりしてしまっているのではないでしょうか。

信仰者の生活においても、最も重要なことは自分を誇らないことです。

パウロはきびしく問いかけてきました。「いったい、あなたを偉くしているのは、誰なのか」と。

ここで「偉くしている」という字はふくれ上がっているという意味だそうです。

得意になって、自分が偉いもののように思ってふくれ上がっている、と、いうのでしょう。自分を誇らない、ということは、自分でふくれ上がらない。ということになります。

人々は一様に謙遜ということを言います。ふくれ上がらないことです。

パウロはこのことを自分とアポロに当てはめて、言うのです。教会の中での生活はどうであろうか。

自分では威張ってはいないかも知れない。しかし、パウロだけが偉い人なんだ、とか、いや、アポロの方が優れている。とか言い合って、党派的な争いになっている。それは結局、自分を偉く見せようと、することになるのではないか。あの人と自分だけが特別に親しい、と言いたいのであります。

教会の中の生活で、信仰者は、何を基準にして自分を生かし、人を、はかろうとするのでしょう。それはいうまでもなく、神でありましょう、神の国に、どう映るか、という事であります。 それなら誰も自分を優れている者だとすることはできません。
神の前にはどんな」ごまかしも、できません。神はある人を高くし。ある人を低くされる、ことは、あり得ないことだからです。

よく神の前にすべての者が平等である、と言いますが、それはお互いの間にちがいがない、ということではなくて、すべての人には、各々に差があるものです。それを、神様だけは、同じように、とり扱われることが、おできになる。それを知って、私たち信仰者もその事を知らねばなりません。それを知る時、まことに謙遜になることができるのではないでしょうか。

もう1つ大切な事は、人が自慢するものは何か、ということです。

自分には、こういうものがある、こうゆうものを持っている、それをどこから得たか、ということです。

持っているものを誇る、としたら、それは、どこから得たか、という問題になります。そのことをパウロは7節で、するどく述べています。「あなたを他の者たちよりも、優れたものにしたのは、誰ですか。いったい、あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、いただいたのなら、なぜ、いただかなかったような顔をして、高ぶるのですか」。ここのところは何げないことのようですが、大切なところです。別の口語訳で言いますと、「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。みんなもらったものでしょう。ということです。もし、もらっているなら、なぜ、もらっていない、かのように誇るのか」となります。これは、もう、パウロの怒りですね。

人間は自分を知ること、ほど下手なことはありません。自分が本当は何であるのか。

自分は愚かな者でしかない、と知ろうとはしないのです。  この問題を徹頭徹尾、見つめたのが、旧約聖書の有名なヨブ記であります。誰でもよく知っている物語です。

神に愛され、大きな家族と多くの財産を持っていたヨブです。ところがー朝にしてヨブは、次々と一切を失うことになってしまいました。自分、自身、1人になってしまいます。それでも、自分自身の身の上に病がおそいかかり、苦しみに会います。

そうして、ついに、ヨブは、自分の信仰からの叫びで言いました。「わたしは、裸で母の胎を出た、また、裸でかしこに帰ろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。と言うのです。(ヨブ記1章20節)この最後の「主が与え、主が取られたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。 

人々は、このヨブの言葉に感動します。私もいつも感動します。なかなか言えるものではありません。しかし、ここに1つ見落としていることがあるんです。それは、ヨブがそのような境地に達したのは、いつのことかということです。話は実に簡単に書かれています。ヨブが一切のものを失った時、すぐにも、この言葉が、口をついて、出てきたかのような気がして読みます。しかし、もし、そうなら、ヨブ記の大半を占めるヨブとその友人たちとの論争はなかったはずです。

実はヨブがその信仰に立ち返るために、どれだけの手順が必要であった、か、です。

ヨブは確かに優れた人物であったことでしょう。しかし、自分の家族、自分の財産を一挙に失って、呆然とする、ことはなかったでしょうか。ふつうなら、もう、気が狂うような、いかり、悲しみ、失望感におち入ります。神様は何故このようなことをなさるのか。ヨブは苦しんだでありましょう。そして、ヨブは祈ったことでしょう。ヨブはもう絶望したでしょう。そうして遂に、「自分は裸で、生まれてきた。そして、又、裸で帰るのだ。ということを心底から言いあらわすことができた。のであります。

私たちは、今、いろんなものを持っています。自分の持っているものは、どこからきたか、と問うて、そう、あっさりと、自分のものは何1つない、自分は裸できたのだから裸で帰ろうと言えるでしょうか。

本当は私たちの生命も体も心も、まことに、くすしき業で創られたもの、であって、自分のものである、等と、とても言えない。

しかし頭で考えて、どうも、そうしか、言いようがないと思う。このことを、腹の底から、そう感じてそのように生活しているか、と言うと全く違う。頭では自分は何もないのだ、裸同然でしかない、とうは思っても、やはり、自分のものだし。自分がつけ加えてきたものであるはずだ。と思うのです。

教会の中の兄弟姉妹 であるといっても、自分のものをあげられるか、神様は互いに愛し合いなさい。と言われているのに、神のみ前に立って全身全霊をもって、それを言い表す等、とてもできるものではありません。

自分という、この体と心の主人は、やはり、自分のものだと、思っているのではないでしょうか。

そうであれば、ここに、パウロが7節で書いているように、「もし、もらっているなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのか」という言葉は、まことに痛烈な言葉です。

すべての人間に悔い改めを迫るものがあります。決して単純な話ではありません。それなら、どうすればいいのか、ということです。

私たちのもっているものが、みな、受けたものであって、ほんとうに自分のものと言えるものは、何もないのです。少し考えれば誰も分かることです。

しかし、ほんとうに、そうだ、とは、なかなか思えないものです。何故でしょう。そこには、私たちの罪の問題があるからです。私たちの罪は自分のことしか考えることができない。神のことに向いていないのであります。それを罪と言っています。自分中心にしか、ものを見ることが、できなくなってしまった。この自分が問題なのです。

それを解決しなければ、分かり切ったことであっても実際には嘘の生活をすることになるのです。

そこで、パウロが書きました、この手紙の6章20節でこの問題に対して。解答を与えているのです。

それを見てみましょう。「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。だから自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。ということであります。Lこれは、キリストによって救われた者のことを言っています。あなた方は罪人であったが、キリストという代価を払って買いとられたようなものである、
丁度、この当時、多かった奴隷のように、1人の主人から他の主人に買いとられたようなものである。

罪という主人から、キリストという主人に買い取られたのである。従って、今は、神のものになっているのである。あなたの持っているものも、誇りも、あなた自身も、神のものである。自分のものではない。

神の創造の事実を信じることができない者が、今や、キリストの救いによって、キリストのものとせられた。この事実が信じられるようになるのです。そうするともはや、自分勝手に自分の生活、自分の持ち物を用いることは許されないのであります。

あなたは、キリストのものとせられたのだ。だから自分で威張ってみたり、それによって争いをすることはできない、はずであります。

この現実を正しく見ることができるようになって、あなたの生活は大回転をすることになるのであります。

最後に、洗礼を受けてクリスチャンになった者は。もはやキリストの十字架と復活によって買い取られ、すべてが、神のものと、せられたものでありますから、あなたはもはや何もない、持ちものも、体も心もあなたの時間も、いっさいは神のものであります。ですからこの神に礼拝すべきであります。

6章20節をもう1度見て終わります。

「あなた方は、代価を払って、買い取られたのだ。だから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい。」

               アーメン、ハレルヤ!

 

説教「信じるとは、心の目で見ること」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章13-21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに 

東日本大震災からちょうど7年が経ちました。東京にいる私たちも、本当に立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々を心に留める日です。礼拝の後半部分で教会の祈りの部があります。その時に苦難の道を歩まれた方々のためにお祈りいたしましょう。本日の説教では、聖書の箇所の解き明しに努め、私たちの造り主である神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはいかに応えて行くべきかということを御言葉から明らかにしていきたいと思います。その明らかになったことを心に刻んで、また明日から始まる平日の日常に戻って、自分自身の課題に取り組んだり、また私たちを取り巻く時代のいろんな問いかけに向き合ってまいりましょう。

 そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書3章13-21節にあるイエス様の言葉を解き明かすことが中心ですが、これは実は本日の旧約の日課、民数記21章4-9節と使徒書の日課、エフェソ2章4-10節とも密接に結びついています。これらの3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉がよくわかってきます。ヨーロッパ中世の神学者で名前は忘れましたが、聖書は聖書に拠って解釈される、と言った人がいます。聖書の箇所で難しいところがあっても、聖書内の別の箇所と結びつけたり照らし合わせたりしてみるとわかるということです。いたずらに聖書外部の知見を持ちこんで、もともと神が意図していなかったことをさも神の意思であるかのように言うのではなく、聖書の良き解釈者はあくまで聖書であるという姿勢で行くのが、全知全能の神の意思に近づける近道です。

 そういうわけで、本日の説教ではヨハネ3章13-21節の解き明かしを、民数記21章4-9節とエフェソ2章4-10節と突きあわせながら行っていきます。そこでは、三つのことが大事なこととして見えてくると思います。一つは、信じるというのは心の目で見るということ。二つ目は、信仰とは神から与えられたものを受け取って生きること。三つ目は、隣人のために祈ることの大切さです。

 

2.信じるとは、心の目でみること

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1-21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、人間が霊的に生まれ変われるということについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。

本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、先ほど読んで頂いた民数記21章の日課にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度にも渡って民を苦境から助け出したにもかかわらず、一時すると民はそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に対する反抗の罪を認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを仰ぎ見る者は、「炎の蛇」に咬まれても命を失わないで済むようになりました。

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分のことを同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見ると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。

 民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」שרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ヘブライ語の辞書を見ると、確かに「炎の蛇」と書いてありますが、「猛毒の蛇」はありません。訳した人たちはきっと、古代人というのは蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんな考え方で辞書にはない言葉を使ったんではないかと思われます。「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ理性的に捉えた方が良いと考えたのでしょう。欧米人にはどうもそういうところがあるように思われます。しかし、彼らが作った辞書にせっかく「炎の蛇」とあるのだから、ここはもう少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。

モーセは神から「炎の蛇」を作りなさいと言われます。そこで彼がとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱でまさに「炎の蛇」です。しかし、冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。なんの力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。

イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神に対して罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは、冷たくなった蛇の像でした。それは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。神が与える罪の赦しは、罪が持つ死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見た者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。

これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間の内に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼に全ての人間の全ての罪を負わせて、十字架の上で罪の罰を受けさせました。まさにイエス様が、全ての人間の罪を人間に代わって償って下さったのです。さらに、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせになる形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされてその力が無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに永久に戻れなくなるようにする力です。その力が打ち砕かれ、無力と化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。ところが、一度滅ぼされたイエス様の方は三日後に神の力によって死から復活させられました。それによって、永遠の命への扉が人間に開かれました。罪の方はと言えば、もちろん復活など許されず、滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

このように神はイエス様を用いて全ての人間の全ての罪の償いをして下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。ところが、人間の方が、この神の整えて下さったものを受け取らない限り、償いも贖いも人間の外部によそよそしく留まっているだけです。せっかく準備ができているのに、それと無関係でいることになります。真にもって勿体ない話です。それでは、神がイエス様を用いて準備して下さった償いと贖いはどのようにして受け取ることが出来るでしょうか?

 それは、十字架にかかっているイエス様を心の目で見ることです。かつてイスラエルの民は、悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見ました。そして蛇の像が表わしていた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが、私たちはイエス様の十字架をイスラエルの民のように肉眼で見ることはできません。それは2000年前に立てられたものです。それゆえ、心の目で見なければなりません。心の目で見るというのは、まず思い浮かべることです。私たちは、思い出や愛する人を目の前にいるかのように思い浮かべたりします。イエス様の十字架の場合はもう一つあって、十字架に何があるかを知っていて思い浮かべるということです。イエス様の十字架に何があるかというと、私たちの罪があります。あそこで項垂れて死なれたイエス様がおられる。彼の肩や頭には私の罪が重く圧し掛かっている。イエス様はあそこでそれを私に代わって償って下さったのだ。そのようにわかって思い浮かべると、十字架のイエス様を心の目で見たことになります。それが出来た人はもう、イエス様を自分の救い主と信じてそう告白することができます。その時、罪の償いと罪からの贖いはもう外部によそよそしくあるものではありません。その人の中に入って、その人の中でその通りになります。まさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。

3.信仰とは、神から与えられたものを受け取って生きること

  十字架のイエス様を心の目で見ることができる人には、罪の償いと罪からの贖いが起こることがわかりました。罪が償われて、罪から贖われるというのは、神から罪を赦してもらったということですから、そうなると神との結びつきを回復できたことになります。なぜなら、罪がその結びつきを壊していたのですから。神との結びつきを回復できた人は、それからはその結びつきを持ってこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時もいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は手を取って引き上げられて永遠に御許に戻ることができるようになります。不思議なことに、この結びつきを失ってしまった原因は人間にあるのですが、神がそれをひとり子を犠牲にしてまで取り戻して下さったのです。これが、神の愛と言われるものです。人間はただ、神が「こっちで準備は全部したから、あなたは受け取りなさい」と差し出して下さるものを受け取るだけで良いのです。

 エフェソ2章8節で使徒パウロは、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」と述べますが、まさに救いとは、人間の方では神の気を引くようなことは何もしていないのに、神の方がただ人間を憐れんで一方的に「受け取りなさい」と言って差し出してくれている、それを受け取ることです。まさに神から人間への「お恵み」を受け取ることです。しかし、先にも申し上げましたように、人間がこの差し出されたものを受け取らないでいると、それは外側によそよそしくあるだけです。それを心の目で十字架のイエス様を見て受け取ってはじめて自分のものになり、それからは、神との結びつきを持って今の世と次の世の両方を貫く人生を歩むことができるようになります。この、神から与えられるものを受け取って生きることが「信仰」です。パウロは、救いは恵みによる、信仰による、と言って、二つなければならないことを言いました。「信仰による」(ギリシャ語原文では「信仰を通して」)がなければ、神が差し出すものは受け取られておらず、外側によそよそしくあるだけです。「恵みによる」がなければ、人間は救いを自分の力で得ようとして、それを信仰と呼ぶようになってしまいます。信仰とは神から与えられるものを受け取ることに徹することなのです。

信仰をそんな受け身で考えていいのか、と疑問をもたれるかもしれません。そんなことでは神からの贈り物を自分だけで消費する、利己的な人間になってしまうのではないか、という疑問です。私としては、神がひとり子を用いて準備して下さったものというのは、受け取ることに徹すれば徹するほど、利己的な人間から離れていくのではないかと思います。というのは、十字架のイエス様を心の目で見ることができると、魂は大きな解放感と深い厳粛さを同時に味わうことになります。神に対する負い目である罪を償ってもらったこと、罪の支配から贖ってもらったことはなんとも言えない大きな解放感をもたらします。同時にその解放が神のひとり子の尊い犠牲によるものであるというのは厳粛な気持ちにさせます。この全く異なる二つのことが同時にあることが大事です。厳粛さだけでは重苦しく暗くなるだけです。解放があるから喜びがあります。また解放感だけでは軽々しくなります。厳粛さがあるから軽はずみなことには走りません。キリスト信仰者というのは誰しも、こうした解放の喜びと厳粛さを同時に兼ね備えていると思います。バランスの取り方は人それぞれでしょう。

解放も厳粛も神の成し遂げたことから来ていますから、それらが魂に響いているキリスト信仰者は、神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。それでは、神の意思とはなんでしょうか?それは十戒にあります。先週の説教で少し詳しくお話ししました。それから、イエス様が十戒の主旨を二つにまとめて、神を全身全霊で愛することと隣人を自分を愛するが如く愛することが大事だと教えています。それと照らし合わせながら十戒をみます。また使徒パウロは具体的な場面でそれらをどう実践するかについて教えています。悪に対して悪で報いるな、とか、少なくとも自分の方からは他人と平和を保つように努めよ、とか、正義の実現のためと言っても復讐は正当化されない、償いも謝罪も何もなかったことについても神が最後の審判で決着をつけるからそれに委ねよ、等々。これらは、キリスト信仰者のこの世での立ち位置を教えています。

エフェソ2章10節でパウロは、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と述べています。「善い業」とは具体的にはどんな業なのかを考える時、今申し上げたこと、つまり、神が与えて下さるものを一所懸命に受け取るとそこから神の意思に沿うように生きようという心が生まれる、ということを思い起こしてみると良いと思います。もともと人間は神に造られたものとして、神との結びつきをもっていましたが、それが罪のために失われてしまった。それをイエス様が自分を犠牲にして回復して下さった。「イエス・キリストにおいて造られた」というのは、イエス様を救い主と信じることで、この世を生きる新しい命が与えられた、まさに新しく造られたことを意味します。その時、神の意思に沿うように生きようという心が生まれますが、それはもともと神が人間を造った時にあったものでした。それは堕罪で失われてしまいましたが、また回復したのです。まさに神が天地創造の時、「前もって準備してくださった」ものを、イエス様を救い主と信じることで回復したのです。

それから、新共同訳で「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と言っていることについて。ギリシャ語原文では「善い業を行って歩む」とは言っていません。「善い業の中で歩む」です。「善い業の中で」というのはわかりにくいですが、要は、善い業と結びついているということです。実際に行って行為として現れる場合もあれば、神の意思に沿うように生きようという心の有り様も含まれます。

4. 隣人のために祈ることの大切さ

 ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(18-21節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいかについて教えています。信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と述べます。これは一見、イエス様を信じない者は地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔しないでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。みんながみんな、この世を去った後は永久に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪以来からある滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。

3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を整備して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いとして、そうでない者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果はいつも沿っていないので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせるということです。善行もしたかもしれないけれど、罪もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊で神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目につくように明るみに出すためなんかではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善行も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなり、神の前で自分を誇ることができなくなります。

翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。

しなければならないことは、はっきりしています。とにかく福音を宣べ伝えることです。ただ具体的にどうすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。人によっては、宣べ伝えなどに貸す耳など持っていないでしょう。そのような人については、お祈りをします。ただ、お祈りの仕方は、いきなり「イエス様を救い主と信じるようにして下さい」ではなく、その方が抱える具体的な課題や問題の解決を父なるみ神にお願いするのが良いのではと思います。それに続いて、その方の心の目が開かれて十字架のイエス様に気づくように、と付け加えます。どうしてそういうふうにした方が良いかというと、神という方は具体的な問題や課題を通してよく御自分の力や導きを示される方だからです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教「罪よ、お前は私にふさわしくないのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、出エジプト20章1-17節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.十戒は誰に与えられたのか?

CC John Taylor www.flickr/photos/jbtaylor本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、不正や偽りを結びつけて神の名を唱えたり、神の名を引き合いに出して誓ったりしてはいけない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける時とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけない、ということです。そして、第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を欲してはならない、つまり、他人のものなのに自分のものにしたいと思ってはならない、ということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。そうすると、十戒はモーセを通してイスラエルの民に与えられたとは言っても、本当は人間全体に与えられたと言ってよいのではないか?しかし、そう言えるのはあくまで第4から第10までの掟だけで、神と人間の関係を律する最初の3つの掟は、やはりユダヤ教や十戒を継承したキリスト教に関係するものではないか?そうすると、やはり特定の集団に与えられた規範ということにならないか?ここで、もう少し詳しくそれぞれの掟を見ていくことで、このことを考えてみたく思います。

 まず、人間同士の関係を律する7つの掟を見てみます。第4の掟は「父母を敬え」です。「敬え」とは具体的には、自分を生み育ててくれた親に感謝の気持ちを忘れず、自分が大人になって親が高齢者になったら、よい晩年を過ごせるように支えてあげることが考えられます。親が体調不良になった場合は、誰もが医者や看護師や介護士になれないので、専門家の力を借りながら、肉親として出来ることで支えてあげる、ということになるでしょう。

ところで、親が子供の利害や尊厳を侵害する場合はどうすべきでしょうか?そういう時でも敬わなければならないでしょうか?大事なことは、十戒というのは、ある掟を犠牲にして別の掟を実現するということはなく、全ての掟が実現されるように守られねばならないということです。それで、DVのような深刻な場合は、第5の掟「殺すな」がそういう「親を敬え」を偽りの「敬い」であると明らかにしてくれます。別の例では、子供がキリスト信仰者になって、親からやめろと言われた時はどうしたらよいか、ということがあります。「はい、やめます」というのが親を敬うことになるのか?そうではないと思います。意見を異にする親に対しては敬意をもってまさに敬う態度で自分の立場を説明するということに尽きると思います。親に対して、何も知らない愚か者め、と高ぶってはいけないし、逆に親に何か悪いことをしているというような罪悪感に囚われる必要もありません。ここは、ダニエルがバビロン帝国の王ネブカドネツァルから異教の神の像を拝め、さもないと火の中に投げ込むぞ、と脅された時にどういう対応をしたかを思い出すと良いでしょう。新共同訳の訳によく表れているように、ダニエルは王に対して敬意を払う口調で自分の立場を述べて、終わりに「拝むことはしません」と言ってのけます(ダニエル書3章16-18節)。日本語には敬語があるので、王に対して敬意を払う感じがよく出ています。

ところで、第4の掟をよく見ると、父母を敬うことが何をもたらすかについても書いてあることに気づきます。「そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(注 ヘブライ語の接続句למעןは結果の意味も目的の意味も両方持ちます。新共同訳では結果の意味に訳しているので「敬えば、長生きできる」です。スウェーデン語訳の聖書も同じ訳です。ところが、英語訳NIVとフィンランド語訳の聖書は「長生きできるために父母を敬え」と目的で訳しています。)「主が与えられる土地に長く生きることができる」と言うのは、一見すると、神がイスラエルの民にカナンの地を与えるという約束を思い起こさせ、その地での長生きを言っているのだと思わせます。ところが、ここで「土地」と言っているヘブライ語の単語אדמהですが、これは、ふつう神がカナンの地を与えると言う時の単語ארצと違います。それは、畑地というような何か生業を営む土地一般です。加えて、「長く生きる」という動詞ארכוןも詳しく見ると「人生を長くすることができる」、つまり、不幸や災難に見舞われて人生を短く終わらせることがない、という意味です。ただ単に時間的に長く生きるということではなく、今はやりの言葉で言えば、クオリティー・オブ・ライフを持って生きられるということです。そういうわけで、「主が与えられる土地で長く生きることができる」というのは、神が人間を誕生させて生活させてくれる場所で、平和で幸せな日々を送れるようになるという意味です。

 そうすると、第5の掟以下も同じことが言えます。殺すな、不倫するな、盗むな、他人を貶めるようなことは言うな、他人のものに欲望を抱くな、ということは皆、守ることで平和で幸せな日々を末永く送れるようになると言うのです。「神があなたに与える土地」も、生活の場所を神が人間に与えてくれると考えれば、これはもうイスラエルの民を越えて、全ての人間に当てはまります。

そういうわけで、十戒の人間同士の関係を既定する7つの掟は、全ての人間に向けられ、全ての人間が平和で幸せな人生を送れるために、天地創造の神が与えた掟であるとわかります。ところが、初めにも申しましたように、十戒の最初の部分、第1から第3の掟は神と人間の関係を既定する掟です。まず、十戒の出だしの部分で神は自分のことを、民を奴隷の国エジプトから導き出した神である、と言います。これの意味することは、神というのは意志を持ち、計画を立てて、それを歴史の中で実行に移すという、まさに生きている神であるということです。金銀銅や木材石材で作られた像にはそのような力も命もない、という意味です。まさにそこから第1の掟、天地創造の神以外の神を拝んではいけないというのが出て来るのです。これなどは、他の宗教や無神論の人から見たら、これはユダヤ教やキリスト教に関係するもので、自分たちには関係ない、と言うでしょう。

 せっかく第4から第10までの掟は本当に全ての人間にとって大事な規範なのに、第1から第3までをくっつけてしまったら、結局はユダヤ教やキリスト教という特定の集団のための道徳的規範になってしまうのではないか?十戒が普遍的な規範になるためには、むしろ第1から3までを切り離して、残りの7つでやっていくのがいいということになるでしょうか?

イエス様はそのようには教えませんでした(マルコ12章28-31節等)。イエス様は、神と人間の関係を律する3つの掟について、その趣旨は全身全霊をもって神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はその趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は、隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟も、その趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。そのことがあるのでルターは、第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではなく、助けを必要とするものを助けなければならないことも含まれると教えたのです。また、第6の掟についても、隣人の夫婦関係がしっかり保たれるように支援してあげることも含まれると教えました。イエス様はさらに、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどう結びつくかも教えています。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。

さて、十戒はユダヤ教とそこから生まれたキリスト教にだけ関係する規範でしょうか?それとも全ての人間に与えられた規範でしょうか?これからそのことを見ていきますが、結論を先に言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の前と後で十戒の性質が異なるということです。十字架と復活の前は、十戒とそれに付随するその他の掟はユダヤ教社会の存続という目的のためにある、と言ってもよいものでした。ところが、十字架と復活の後は、十戒ははっきりと全ての人間に与えられる規範になったのです。以下にこのことを見ていきます。

 

2.イエス様という神殿

 十戒が、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、全ての人間に与えられる規範になったということについて、それを理解する手掛かりとして、本日の福音書の箇所のイエス様の言葉が役立つと思います。それは、イエス様が自分のことを神殿である、と言っているところです。

 本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には羊や牛が売買用に用意されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。あわせて、罪のゆえに壊れた神と人間の関係の修復、また罪の赦しを与えることができるのはまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復してくれたり赦してくれたりして当然というような、傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。

 イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうして激怒したかと言うと、本来ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞εγειρωが使われています。神殿というのは本当ならば、人間が罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となって神との結びつきを失ってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、また、この世から死んでも、その時は永遠の命を持つ者にして永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげよう、と決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は、不従順と罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子イエス様に負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。

 イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24-28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪された時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が自分の造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきをもって生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子イエス様が流した血でした。

 そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを自分のものにした者ということになります。ただ、そうは言っても、罪や神への不従順に陥る危険にはいつも遭遇します。それでは、キリスト信仰者が罪に陥ってしまったらどうなるのか?イエス様の身代わりの償いは台無しになってしまうのか?その人は罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?いいえ、そうではありません。もしその人がすぐ我に返って父なるみ神に、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈れば、神は、本当にイエス様の身代わりの犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいイエス様の犠牲は完全なものなのです。こうして、その人はまた永遠の命に向かう道に戻ることができ、歩み続けることができます。このように罪に陥ることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、十字架の死を遂げて復活したイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを完全に実現し、神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

 

3.罪よ、お前は私に相応しくないのだ

 ここで十戒に戻ります。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。彼の有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は、人間に内面の潔白性を要求しているのです。もし、全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のようなものなのです。

 神聖な神がこのような完全さを要求するものであれば、それに対して人間はどうするでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を下されてしまうと恐れて神から逃げるか、または人間の本性を理解できない神の方がどうかしていると反発するか、のいずれかでしょう。しかし、いずれをとっても、神に背を向けて生きることになってしまいます。

 ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は、神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。それは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金のようにして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのおかげです。信仰者自身はまだ罪あり汚れありの状態ですが、罪なき汚れなきイエス様を白い衣のように頭から被せられて、それを肌身離さずしっかり掴まっているので、神の御前に立たされても大丈夫なのです。

 ただ、そのように見てもらっている信仰者からすれば、自分の内に残っている罪はなんともバツが悪いものです。神聖な神は罪の汚れを憎み、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、イエス様のおかげで自分は大丈夫でいられるというのですから。しかし、まさにここが大事な点なのです。以前だったら自分は罪があるから神に相応しくないという自覚だったのが、今は、イエス様のおかげで神に相応しいものにかえてもらった、それで、罪の方こそ自分に相応しくないのだ、という自覚に変わりました。その時、十戒が完全に守られている状態が自分にあることに気づきます。これは実に奇妙なことです。自分は守り切れていないのに、神のひとり子イエス様と結びついていれば守り切れる者として見なされる。そうなると、あとはもう自分をその見なされている状態に合わせて行くしかありません。それはどのようにして起こるでしょうか?

まず、十戒に照らして自分には罪があることに気づかされます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを受けます。それで再び神の方に向き直って永遠の命に至る道を歩み始めます。自分には罪が残存しているのにイエス様のおかげで神に受け入れられている、それで罪の方こそ自分に相応しくない、という自覚が戻ります。しかし、また守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで、罪の告白をし、赦しを受ける。そして、神に受け入れられていることを確認する。こうしたことが、この世を去る時までずっと繰り返されます。ルターが教えているように、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って、罪を宿す肉が朽ち果てる時ということになります。この繰り返しが、十戒を守り切れている状態に自分を合わせて行くということです。毎日毎日一生かけて合わせて行きます。イエス様にしっかり繋がっていれば、難しいことはなにもありません。

 そういうわけで十戒は、イエス様の十字架と復活の後は、まさにイエス様と抱き合わせになって、ワンセットになって全ての人間にどうぞと提供されているのです。これを受け取らない手はありません!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

3月10日の家庭料理クラブのご報告

咲く花は春なのに、吹く風は冷たく、フィンランドの春を感じるような土曜日の午後、スオミ教会家庭料理クラブは「カレリアンピーラッカ」を作りました。
最初にお祈りをしてスタートです。

今回は、九州~の参加のご家族を含めて、参加は16名、牧師館は賑やかな雰囲気に溢れ、生地を作り、伸ばし、プーロをのせて形を作り、着々と作業が進み、鉄板に乗せたピーラッカは、 オープンで次々と焼かれました。
 トッピングは、サーモンとディル、たまごバターが用意され、コーヒーや紅茶と一緒に、賑やかな試食タイムとなりました。

ピーラッカだけや、具材をのせて、オープンサンドふうにしたりと、バリエーション豊富な食べ方を教えていただき、焼きたてのピーラッカに沢山の手が延のびていきます。

一段落してから、ピーラッカの話や聖書のお話を聞かせて頂きました。

参加の皆さま、最後まできれいに後片づけしてくださり、ありがとうございました。

 

2018年3月10日カルヤラン・ピーラッカ、パイヴィ先生

カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まった食べ物です。第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られたので、そこに住んでいた人々は自分の故郷を去らなければならなくなり、フィンランドの各地に移住しました。それで、カルヤラン・ピーラッカはカルヤラの人々を通してフィンランド全国に広がりました。フィンランド人は最初、カルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。というのは、彼らはパンとおかゆは別々に食べるものと考え、カルヤラン・ピーラッカのように二つを一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。それでも、フィンランド人もだんだん食べるようになって、いつの間にか全国に広がって行きました。そして、かつてカルヤラン・ピーラッカはカルヤラ地方の伝統的な食べ物でした。それがフィンランド全国にとっても伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。カルヤラン・ピーラッカは、普段の日にも、お祝いの時にも出されます。また、フィンランドのどの食料品店でもカフェでも買うことができます。

カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、普通の家庭料理で使われるものばかりです。パンを作る時に使うライ麦粉で、皮を作ります。皮の中にいれるのは米のお粥ですが、フィンランドでは昔から、お米はお粥にして食べていました。こうして、カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、戦争の後、食糧が不足していた時でもほとんどの家にありました。このように特別な材料ではなく、どの家にもある材料で美味しいものが出来るのは大事です。カルヤラン・ピーラッカはまさにその一つです。カルヤラン・ピーラッカを作るとき、難しいことは、皮になる生地を伸ばすことと、中身の回りに皮をしめていくことです。カルヤラ地方の人たちは、カルヤラン・ピーラッカを作るのがとても上手です。フィンランドでは、毎年夏になるといろいろなお祭りやイベントが開催されますが、カルヤラン・ピーラッカを上手に作る競争もあります。そこでは、誰が一番早くて、きれいなカルヤラン・ピーラッカを作れるかが競われます。いつもカルヤラ地方出身の人が優勝します。カルヤラ地方の人たちにとって、きれいなピーラッカが出来るのは当たりまえのことなのです。他の地方のフィンランド人はなかなかきれいなピーラッカを作れませんが、練習すれば上手になります。

料理クラブの案内にも書きましたように、カルヤラン・ピーラッカは、そのまま食べてもいいし、バターやマーガリンをぬって食パンのように食べてもいいし、チーズやハムや切った野菜やスモークサーモンをのせてオープンサンドにしても美味しく食べられます。あと、フィンランドではゆで卵をすりつぶしてバターを混ぜた「卵バターmunavoi」を塗ったりします。このように色とりどりのバリエーションが楽しめるので、パーティーやお祝いの時にも出されます。カフェや食堂でもサンドウィッチと一緒に並んでいます。普通の家にある、高くない材料から、こんなにいろんな、色とりどりの食べ方が出来て、フィンランドの代表的な食べ物になったというのは驚きです。ところで、イエス様は、野の花の美しさについて次のように述べています。「栄華を極めたソロモン王でさえ、野の花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこんなにも美しく装って下さる」(マタイ6章28-30節)。お金をかけた豪華な食事がソロモン王の衣装と同じとすれば、カルヤラン・ピーラッカは神様が装ってくれる、美しい野の花と同じなのかもしれません。

聖書の神様は、何もないところから素晴らしいものをお造りになれる方ですが、そのことは聖書の最初から出てきます。天地創造の出来事です。神様は、何もないところに向かって、「光あれ」と言って光を造られ、同じように天と地それに海を造られました。それから草や木、太陽と月と星、生き物、そして最後に人間を造られました。神様は、自分が造られたものひとつひとつを確認して、良いものであると言いました。天地創造の時つくられたものは皆、神様の目にかなう良いものだったのです。

聖書の神様は、何もないところから素晴らしいものを造るだけではありません。素晴らしいものが素晴らしさを失ってしまった時でも、再び素晴らしさを持てるように助けて下さる方なのです。人間は初めは良いものとして造られましたが、罪を犯すようになって、神様の栄光の輝きを失い、神様のもとから離れなければならなくなってしまいました。そこで神様は、人間が再び素晴らしさを持てるために何をしたでしょうか?まず、ひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、人間が罰を受けないで済むようにと、人間の受ける罰を全部イエス様に負わせて、十字架の上で死なせました。このイエス様を受け入れた人は、素晴らしさを再び持てるようになり、神様を目指して歩むようになったのです。

このように神様は、何もないところから素晴らしいものを造られ、さらに、素晴らしいものが素晴らしさを失わないように助けて下さる方です。このような神様がいる人は、自分は野の花くらいと思っていても、実際は栄華を極めたソロモン王以上に装ってもらえるのです。豪華でなくても豊かにして下さいます。こんなに素敵な神様は他にいるでしょうか。

2月の家庭料理クラブのご報告

ピーチパイ

そこはかとなく、春の気配を感じさせてくれる穏やかな土曜日の午後、
ピーチパイ家庭料理クラブは「ヨーグルト風味のピーチパイ」を作りました。
最初にお祈りをしてスタートです。

春を感じさせてくれるピーチパイ、
たっぷりの黄桃を入れて、レモンとヨーグルトのほどよい酸味のクリームを乗せたパイは、本来は冷めてからですが、今日はアツアツをフーフーしながら、美味しく頂きました。

さっぱりなパプリカときゅうりのクラッカー乗せを添えて、おしゃべりは弾みました。

パイヴィ先生から、フィンランドの果物事情や、聖書の神様が与えて下さる「大切な果物」についてのお話も聞かせて貰いました。

参加の皆様お疲れさまでした、
是非美味しいピーチパイを、ご自宅でも作って下さい。

料理クラブの話2018年2月10日

来週の水曜日はヴァレンタイン・デーです。皆さんはこの日に何か特別なことをする予定があるでしょうか?ヴァレンタイン・デーが近いのに、今日はチョコレートケーキではなくピーチパイを作りました。このパイは、家族の方たちや友達を喜ばせるためにヴァレンタイン・デーに作っても良いのではないでしょうか?フィンランドでは、ピーチパイは春が近づくとよく作られるパイの一つです。前の年の夏に採って冷凍庫に保存していたイチゴやブルーベリーなどのベリーは、春が近づくと残り少なくなります。それで、ベリーの代わりに缶詰めの果物を使ってお菓子やパイを作ります。黄色の桃は春の明るい雰囲気を良く表すので、春を迎える時に作るお菓子にピッタリ合います。

日本では2,3月になると、桃の木は白とピンク色の花できれいになりますね。そして秋の収穫の季節になると、美味しい桃が実って食べられます。日本人は桃を、このように一年に2回、花と果物で楽しむことが出来るので、うらやましいです。桃フィンランドは寒すぎて桃の木は植えられません。フィンランド人は生の桃をあまり食べたことはありません。時々店で輸入の桃は売られますが、固いのであまり美味しくありません。しかし、フィンランドでも缶詰めの桃は売っています。

ところで、桃は何科の植物でしょうか?それはパラ科の植物で、桜、アーモンド、バラの親せきです。桃の木は中国で一番初めに育てられて、そこから日本や地中海の国々に広がりました。現在はアメリカ、カナダとオーストラリアでも育てられています。桃の中身は白か黄色です。白は元々の桃の色です。面白い事に、イギリスのエリザベス女王はいつも白い桃しか食べないと言われています。白い桃は長い輸送にもよくもち、大きな種は取りやすいので、黄色い桃よりも多く育てられるそうです。

フィンランド人にとって桃は果物の中で高価なものの一つです。皆さんにとっては、どんな果物が高価なものでしょうか?果物には健康によいビタミン、ミネラルが入っているので、毎日食べると栄養のバランスにもよいのです。このように天と地を造られた神様は、私たちの健康のために、また私たちを喜ばせるために色んな種類の果物を与えてくださいます。

聖書には神様が与えて下さる大切な果物について書いてあります。それは、「神様の霊が結ぶ実」という果物です。新約聖書の「ガラテヤの信徒への手紙」5章22節に次のように書いてあります。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。

つまり一つの実に9つの違う味があるのです。桃や他の果物にも違う味があります。甘い、酸っぱい、苦いなど、いろんな味があります。この神様の霊が結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という、普通の果物の味と違って、全部は良い味です。これらの味は全部、神様が与えて下さるものです。

それでは、神様の霊が結ぶ実とはどんな意味でしょうか?神様の霊が結ぶ実は、神の独り子イエス様の性質を現します。イエス様はどんな方でしょうか?イエス様は世界で一番最初のクリスマスの日にお生まれになりました。お母さんは人間のマリアでしたが、神様の霊の力が働いて生まれたので、人間でもあり、また神様の子でもありました。空腹を覚えたりのどが渇いたり涙を流したり、人間と同じ必要や感情を持っていました。同時に治らない病気の人をいやしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、嵐を静めたり、沢山の奇跡の業を行って、多くの人々を助けました。またイエス様は罪を何も犯しませんでした。これは人間にはできないことです。しかし、イエス様は十字架で死ななければなりませんでした。それは、私たちの罪を全部十字架の上運んで、私たちが罰を受けないようにと代わりに罰を受けて死んで下さったからです。しかし、それで終わりませんでした。亡くなられた後、イエス様は復活されました。イエス様の復活のおかげで、私たちにも死を超えた永遠の命が与えられるようになりました。これらのことから、イエス様の私たちに対する愛がとても大きいことがわかります。

私たちがイエス様を信じることが出来れば、私たちはイエス様に結ばれます。そしてイエス様に結ばれていると、私たちも神様の霊が結ぶ実を得られます。イエス様も次のように述べておられます。

「わたしはぶどうの木、
あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ。」
ヨハネ福音書
15章5節

説教「キリストに仕える」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙 4章1~5節

第14回 コリントの信徒への手紙、礼拝説教2月25日

今日の御言葉は4章からであります。パウロはここで
自分が使徒として伝道しているその使命をまず語っています。1~5章を見ますと、
「人は私たちを、キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」と書いています。
パウロは伝道していく上で、伝道者自身の身分を明らかにすることが大切であることをよく知っていました。ですから自分の信仰を証するたびおりにふれこのことをはっきり示していきました。
伝道者は普通の信仰者と全く同じ立場にありながら神の言を取り次ぎ、神についての業を示し、神の奥義を管理している者であると言っているのです。
神に仕える者です、と言うのです。厳密に言えば、これは神より低い者です。という字です。パウロは神に仕えて、神の仕事をする人間であるにちがいありませんが、何より、神よりは低い者と言う事が言いたかったのであります。
詩篇8篇5節に有名な言葉があります。
「人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神より低く造り、なお栄光と威光を冠としていただかせました。」とあります。
人が神より低く造られているということは信仰生活において重要なことです。
パウロは、まずそれを言って、つづいて、自分たちが神の奥義の管理者であると言います。
管理者というのは、家の中のことを取り仕切る者ということであります。
パウロはよく、奥義という字を用います。奥義といっても信仰に何か秘伝のようなものがあるわけではありません。奥義は福音以外にはありません。神が人間を救うために御子をおつかわしになったということ程の奥義はないのであります。
伝道者の仕事は一つしかありません。それは福音を伝えることであります。パウロは言います。自分には誇るべきものは何一つありません。ただ、誇るべきことは福音だけであると。それも自分のものではありません。神のものです。自分のもののように扱うことはできないことであります。
福音を伝えることはそう簡単なことではありません。福音を信じさせねばならないからです。信じる人間の方にはいろいろその人によって事情が違います。
それに応じて、伝えなければならないのであります。有能な管理人が家の中を取り仕切るように福音による生活をするように導き、福音を生かすように取り仕切る。これは困難な問題であります。
彼は、何も特殊な人間ではない、ただこの任務を与えられているのであります。しかも今自分が伝道してきたコリントの教会の中には争い合っているのです。1章12~13節にみてきましたように、「わたしはパウロにつく、いやわたしはケファにつく。わたしはキリストにつく」といって派閥争いで混乱しているのです。
そういう背景を背負ってパウロは管理者として取り仕切らねばならない。
管理者にとって最も必要なものは何でしょうか。それは忠実なことであります。
イエス様は」主に仕えて忠実であった僕をほめられました。信仰生活は単純な生活ではありません。神に仕える生活であります。神の御喜びになるようにするのが信仰者の生活であります。従って善でありながらかつ忠実な生活をすべての信仰者に求められているはずであります。
信仰者にとって」大切なことは神に対してどうであるかということでしょう。それなら、神に対して忠実であるかどうか、誰が定めるのでしょう。自分が正しいかどうか外から見たのでは分かりません。
誰が、定める権威を持っているのでしょうか。パウロはここで、まことにきびしいことを言っています。3節です。
「わたしにとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。しかし、ここでパウロが言っていることはそんな生易しいことではなかったのであります。
パウロはここで「ただ神がさばく」とは言っておりません。自分が自分を省みて何らやましい事がないとしてもそれで義とされるわけではない、と言っているのです。これが大切なことです。大事なのは「義とされる」ということであります。
義とされるといっても、信仰に入ることについて事情を知らない人はただ神を信じることである、とか 神に従う生活である・・・といった程度にしか考えないでしょう。しかし、信仰生活を知っている人はそうではない。信仰を持つということは神によって救われることであることを知っております。しかも救われるというのは、
「神によって義とされる」或いは、「信仰によって義とされる」ことであると分かっているはずです。
パウロがここで言っているのは「義とされる」というのは信仰生活に入る始めのことだけでなく、いつでも、毎日の生活の中で義とされている。私たちの力となってくれている。望みなのです。
人の目も世間の目も何も恐れることはない。そんなものが、わたしを義として救ってはくれないからです。自分を罪から救い、まことの平安を与えてくれることはできない。裁く力もない。世間の人は自分たちと同じ罪人です。世間の人が、いろんな事を言ったり、批評しても、どうせ同じ罪人で50歩100歩大したことはないのです。自ら、清くない者が他の人を裁いても意味のないことです。それより、自ら全く清くかつ人を清くする力を持っている方こそまことに裁くことのできる方であります。
そこでパウロは最後の所で言います。「私を裁く方は主である」と。
主イエス・キリストのみ自ら、清くあるだけでなくその十字架によって他の人を清くすることができる義とすることができるお方であるのです。
そうすると自分を裁くということについて全く態度が変わってくるのではないでしょうか。裁く主はただ主イエス・キリストだけである。そこでパウロは又言うのです。
「だから主が来られるまでは何事についても先走りをしてさばいてはいけない」と言うのです。
ここで言う「先走りをするな」というのは、あわてるな というのではなくて、主の来られるのを待つということです。
裁きは主に委ね、主が来られるまで待つということなのです。
その本当の意味は自分が定めてしまわないで主がお定めになるのを待つということではないでしょうか。やさしく言えば、まことのさばきというのは自分で自分を決めつけることではなくて全く神にお任せすることであります。
このことは実はどんな良心的なことよりももっときびしいことであると言えまし
ょう。
真実のすべてを御存じの神にゆだねることです。同時にこの神は自分を救って下さる神様でもありますから、心安らぐことであるとも言えます。
パウロは続いて5節後半の部分で言っています。
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し人の心の企てを明らかにされます。その時、各々は神からおほめにあずかります。」
これは驚くべきことであります。神の裁きにおいては隠されていることも皆明るみに出されるということです。良心の目に見えないことでも神の目にはあきらかであるのです。
しかしここではそれだけでなく、ほまれもあたえられるであろうと言っています。
神のさばきがある。私たちは恐ろしい事しか考えません。しかし、ほんとうに調べるのであればそこにほまれが与えられても不思議ではないでしょう、というのです。
神にすべてをゆだねるのであります。救って下さる神に一切をゆだねるようにすることであります。それなら裁きはこわいことではなくて平安であると言ってもいいのではないでしょうか。
私たちの一生は考えようによってはまことに短くひとときのようです。大切な自分に与えられた生活を主に委ねきって信仰生活を全うすることはすばらしいことであります。
アーメン、ハレルヤ!