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説教「死の陰を蹴散らす光を見よ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章12―23節

主日礼拝説教(顕現後第三主日)イザヤ8章23節―9章3節、第1コリント1章10―18節、マタイ4章12―23節

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、いろんなことが詰まっているので、統一したテーマのもとで説教するのが難しいです。それでも、旧約の日課と重ねて何度も読み返すと少し方向性が見えてきました。うまく出来るかどうか自信ありませんが、やってみます。「イエス様は光」というのが統一したテーマというか、コンセプトになるのではないかと思いました。イエス様はどんな光かと言うと、本日の旧約の日課イザヤ書9章の言葉を借りれば、私たち人間はこの世では暗闇の中を進んでいるようであり、CC0死の陰の中に住んでいるようなものである。そこにイエス様という光が現れ、そのおかげで暗闇の中を歩くような危険はなくなり、死の陰なる暗さも消えて何も恐れる必要はなくなるということです。どうしてそんなことが言えるのか、見ていきます。

まず、出来事の流れを見てみます。イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの霊、聖霊が彼の上に降るということが起きました。これはイザヤ書の預言の実現でした(同書11章2節、42章1節)。その後でイエス様はユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けました。悪魔はイエス様に肉体的な苦痛だけでなく、それから逃れられるために旧約聖書の御言葉を逆手にとって、イエス様がひれ伏すように仕向けました。しかし、全て失敗に終わりました。イエス様は神のひとり子ですから、父の御言葉を正確に理解しています。悪魔の曲解は全てお見通しです。悪魔は退散しました。

悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ユダヤ地方の北のガリラヤ地方に移動し、そこで活動を開始しました。ガリラヤ地方とは、イエス様が育ったナザレの町があるところです。なぜガリラヤに移動したのか?洗礼者ヨハネが投獄されたことが言われています。ヨハネを投獄したのは領主ヘロデとありますが、これはイエス様が生まれた時にその命を狙ったヘロデ王とは別人で、その息子のヘロデ・アンティパスのことです。父のヘロデはローマ帝国の支配の下でユダヤ民族の王としての地位についていました。息子のヘロデ・アンティパスの版図はもっと狭まり、北のガリラヤ地方だけの領主でした。王よりもランクが低いわけです。洗礼者ヨハネはこの領主アンティパスの不倫を咎めたために投獄されたのでした。ヨハネは後に首をはねられてしまいます。イエス様は、ヨハネが投獄されたと聞いて、ガリラヤにやって来たのです。新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、事実は逃げたというより、アンティパスの本拠地に乗り込んで来たというのが真相です。

しかしながら、育ち故郷の町ナザレを活動拠点とはせず、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。その辺の事情はルカ4章16~30節に記されています。

さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。「悔い改めよ、神の国が近づいた」という言い方で人々に教え始めました。教えるだけでなく、人々の病を癒すような多くの奇跡の業を行いました。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書にある預言の成就であったと言われています。活動開始の時、弟子になる者たちを選びました。本日の個所ではペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、4人ともガリラヤ湖で漁をする漁師でした。みなイエス様に声をかけられるや、生業を捨てて後についていきます。特にヤコブとヨハネは「舟と父親を残して従った」とあります。救世主が一声かけたら、生業も親も捨てて行ってしまうものなのか?弟子になれるんだったらそれ位は当たり前だなどと言ったら、なんだか世間を騒がす宗教みたいです。この点については、以前の説教で、ルターが教えていることをもとにしてお話ししたことがあります。基本的なことは今も変更ありませんが、今日はまた新しい視点を付け加えてお話ししようと思います。

 

2.闇を照らし、死の陰を蹴散らす光

 まず、イエス様がガリラヤで活動を開始したことが、イザヤ書の預言の成就であるということについて見てみましょう。

マタイ福音書には成就した預言の文句として、イザヤ書8章23節と9章1節を引用しています。ちょっと端折った引用ですので、この2節の全文を見ることが大事です。

「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

ヘブライ語の原文から見て、この訳には注文をつけたい点もありますが、細かいことは抜きにして話を進めます。この預言は、これが語られた紀元前700年代に関わることがあります。それに加えて、700年たった後に起きるイエス様の出来事に関わることが含まれます。さらにはイエス様の出来事がその後の時代を経て現在にまで関わっていることも含まれています。とても重層的な預言です。一つ一つ解きほぐしていきましょう。

紀元前700年代、かつてのダビデの王国が南北に分裂して二つの王国が反目しあって200年近く経ちました。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、南の兄弟国ユダ王国を攻めようとしました。ユダ王国は王様から国民までパニックに陥りますが、預言者イザヤが現れて「攻撃は成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と言います。実際、イスラエル王国とその同盟国は東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまい、ユダ王国に対する攻撃は実現しませんでした。イザヤの預言の言葉で辱めを受けた「ゼブロンの地、ナフタリの地」というのは、もともとはユダヤ民族の12の部族のうちのゼブロン族とナフタリン族の居住地域で、北のイスラエル王国の版図です。それが、アッシリア帝国に蹂躙されてしまったのです。

しかしながら、預言の言葉は滅亡に終わりません。「後に、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。」

これは、異民族に蹂躙されてしまったこれらの旧ゼブロン、旧ナフタリの地域が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに受けるかということについては9章1節から言われます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」預言はさらに続きます。その光を見た人々は大きな喜びに包まれる。それはさながら刈り入れの時を祝うようであり、戦争に勝って戦利品を分け合う時のようである、と。戦利品を分け合うというのは物騒な話ですが、戦争が日常茶飯事な時代でしたから喜び祝うことのたとえとして使われたのでしょう。ただし、死の陰を照らす光が現れる時、戦争がなくなると言います。本日の日課を超えますが、4節です。「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」順序が逆になりましたが、「ミディアンの日」と言うのは、士師の時代のイスラエルの指導者ギデオンが小部隊でミディアン人の大部隊を敗走させた出来事を指すと考えられます。士師記7章です。

イザヤ書9章の預言はまだ続きます。本日の日課を超えていますが、大事なので見ていきます。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている「平和の君」とは誰のことを言うのか?

紀元前700年代、ゼブルンの地とナフタリの地にまたがる北王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その後、南王国は次は自分たちの番かと固唾を飲む状況が続きました。本日の日課の個所の少し前に国民が精神的にも追い詰められていた状況がずっと述べられています。それが8章23節で「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない」ということなのです。

 そこで、蹂躙されたガリラヤ地方がまた栄光を受けるとはどういうことなのか?ひとりのみどりごが生まれるとは誰のことなのか?南王国はヒゼキア王の下でアッシリアの大軍を寸でのところで撤退させることが出来ました。みどりごはヒゼキア王のことだったのか?しかしながら、南王国も大筋はそのまま神の意思に背き続け、紀元前500年代にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。みどりごはヒゼキア王ではなかった。では、誰か?紀元前500年代終わりにエルサレムの町と神殿の復興が行われましたが、一時期を除いてユダヤ民族はずっとかわるがわる外国の支配下に置かれ続けました。そうしていくうちに、イザヤ書の預言にある「苦悩の中にある」とか、「闇の中を歩む」とか「死の陰の地に住む」というのは、一民族が外国の支配下にある屈辱な状況を意味するのではなく、もっと人間の根源的な苦しみを意味すると気づかれるようになります。そうなると、生まれてくるみどりごも、民族を復興させる英雄ではなくなり、民族に関係なく人間そのものを救う救世主であるとわかるようになります。そもそも、旧約聖書の人類誕生の出来事に照らしてみれば、それこそが正しい理解になるのです。その理解が出てきた頃にイエス様がこの世に贈られてきました。

 

3.神の国への迎え入れ

 イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。

 神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々が大勢出ました。彼らは、将来この世が終わりを告げて天と地が新しくされる時に到来する神の国というのは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

 この問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせました。どうしてそのようなことをしたかと言うと、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。そこで人間の方が、十字架の出来事の意味はそういうことだったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならないと思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

以上のような次第で、「闇の中を歩む者に光が現れ、死の陰の地に住む者に光が輝いた」という預言は、2000年前のガリラヤ地方の人たちに向けられたものではありません。神に対する不従順と罪を持つがゆえに、神との結びつきを失ってしまった全ての人間、この世を去った後に永遠の命が待つ神の国に入れない全ての人間のことを言っているのです。それが、闇の中を歩むことであり、死の陰の地に住むことです。ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ地方などと日本には縁遠いローカルな地名が登場します。それは、その光であるイエス様がたまたまその地で活動を開始したからにすぎません。イエス様は、十字架の死と死からの復活をもって、創造主の神の栄光を現わし、世の光となられました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はこの光を向いて歩みます。もう死の陰の地に住んでおらず、闇の中を歩みません。

 

4.心で捨てる

 イエス様が4人の漁師に弟子になるように呼びかけ、彼らは生業も家も捨てて付き従って行きました。そうなると、私たちもイエス様の弟子になるのなら、同じようにしなければならないのか?ルターは、そういうことではない、と教えました。彼によれば、行為に表さなくても心で捨てていれば、それでもう4人の漁師と同じくらいにイエス様の弟子であるというのです。「心で捨てる」とは一体どういうことか、彼の教えを今一度引用してみます。

「この4人の漁師の話を聞いた君は、財産や妻や子供は捨てなければならないのか、という思いにとらわれるかもしれない。しかし、そういうことではない。心で家や土地や妻や子供たちを捨てなければならないということなのだ。彼らと一緒に暮らし、彼らのために生活の糧を獲得し、神の定めに従って彼らの世話をしていても、心で彼らを捨てていなければならないのだ。もし行為で捨てなければならない時が来たら、神のためにいつでも捨てることが出来なければならない - そう考えることが出来れば、君は心で捨てたことになるのだ。心が囚われ人のようになってはいけない。心から独占欲、強い執着心、強い依存心を洗い落としていかなければならないのだ。

このようにすれば、仮に財産があっても、内面でそれを捨てることができるのだ。万が一、実際に行為をもって捨てなければならない時が来たら、神の名においてそれを行うのみ。ただし、それは、妻や子供や財産なんてものはない方がいいんだな、などと投げやりな態度で捨てるのではない。そうではなくて、ああ、本当は、神がお許しになれば、もっと自分の手元において世話をしたかったんだ、世話をすることで神にお仕えしたかったんだ、そう考えて捨てるのだ。

自分の心の状態をよく注意しなさい。何を所有しているかとか、いないかとか、多く持っているかとか、いないかとか、そういうことで頭を悩ませないように。今自分のもののように見える財産があっても、それをわきに追いやっておきなさい。あたかも最初からなかったかのように、あるいは、いつでも失うつもりでそうしなさい。そうすることで、我々は常に神の国に結びついているのである。」

実に厳しい教えです。行為で捨てなくても「心で捨てる」と言うのは、何か冷たい感じがします。しかし、ルターは面白いことに、親や子供や伴侶というのは天地創造の神が与えたものであるがゆえに、まさに世話をし仕えるためにあるのだ、だから、ないがしろにしてはならない、と言う。これは冷たい感じと逆で、愛がしっかりあります。親や子供や伴侶というのは本当は神からの贈り物である。だから世話をして仕えなければならない。そうする責任を、与え主の神に負っているのである。贈り物が素晴らしいと、それが愛おしくなるのは当然だが、与えられたというのは、世話をするように任されたということなので、自分の好き勝手にしていい所有物ではないだ。だからこそ、与えられている期間は永遠ではなく限られた時間なのだ。だからなおさら一生懸命に世話をしなければならない。いつかは自分のもとを立ち去ると意識しているからこそ、今一生懸命に世話をするということになっていく。不思議なことに、心で捨てると言っていたことが、こんなふうに愛を持つことになるのです。それは、神が介在しているからです。もし神が介在しておらず、それで「心で捨てる」なんて言ってしまったら、もう世話も何もなくなります。

私たちはどちらかと言うと「心で捨てる」ということはあまり意識していないので、自分から「行為で捨てる」なんてことも想像できないのではないでしょうか?ところが、「自分から」行為で捨てることはしなくても、そうすることを余儀なくされることがあります。例えば、愛する人に先立たれた時などはそうでしょう。その人を無理やりに手放さなければならなくなったからです。「心で捨てる」ということを前もってしていなかったら、急激すぎる現実の変化に心はついていけないのではないでしょうか?

「心で捨てる」ということが意味を持つのは、別れる相手が他人の場合だけでなく、自分自身の場合にも当てはまると思います。私たちは年齢を重ねたり健康上の変化を経験すれば、変化の前の若い自分、元気な自分と別れなければなりません。もちろん病気の場合は、ちゃんと治療して治れば、また元気な自分に戻りますが、年齢や老いの場合は後戻りできません。スピードは人それぞれですが、人生は別れに次ぐ別れです。

そして最後はこの世との別れが待っています。誰もが、このあまりにも大きすぎる別れに際して全てを手放させなければならないことを観念します。人生には別れに次ぐ別れがありましたが、この無数の別れのやっと最後の局面にて、天地創造の神、聖書の神のみが自分に唯一残されたものになりました。その神にこの自分を全て投げ出すように委ねるのであるが、果たして受け取ってもらえる保証はあるのか?キリスト信仰では、その保証があることが強調されます。何がその保証なのか?人間の罪が赦されるようにと人間に代わって罪の償いを果たしてくれた御子イエス様がその保証です。そして、その彼を救い主と信じることも保証になります。さらに洗礼を通して罪の赦しを汚れのない白い衣のように被せてもらうことも保証です。それからは雨の日も風の日もその衣が剥がされないようにしっかり握りしめて纏い続けました。これがあれば父なるみ神は必ずや私をしっかりと受け取って下さる、そう信じて全く大丈夫です。

兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰は、まさに神に自分を投げ出す勇気と神は必ず受け取って下さるという安心を与えてくれます。まさに死の陰を蹴散らした光を見て信じた者は、その勇気と安心を持つことが出来るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

読書会:木村長政 名誉牧師

 

木村先生の読書会「放蕩息子の帰郷」(ナウエン著)もそろそろ大詰めになってきました。今回はレンブラントの絵に描かれた3人の登場人物のうちの三人目の父親についての解釈でした。

説教「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の小羊」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章29-42節 

主日礼拝説教 2020年1月19日顕現後第二主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエス様のことを洗礼者ヨハネはそう呼びました。小羊とは可愛らしいですね。皆さんも、動物園や農村で見たことがあれば、白い毛の衣に身を包み、まだ大人の羊になっていない段階で親羊に寄り添うようにしている姿を思い浮かべただけで純で無垢な感じがします。それが、小羊は小羊でも世の罪を取り除く小羊で、しかもイエス様がそれだと言う。それは一体どういうことか?世の罪を取り除くとは何なのか?世の中には悪いことが沢山ある。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪までになって法律に基づいて処罰されるということが沢山ある。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪を取り除くということなのか?イエス様が取り除きをされるのか?される時、小羊のようにされるというのは、どういうことか?悪や犯罪を取り除くのならば、例える動物としてはライオンとかもっと雄々しいものを考えた方がピッタリなのでは?けな気で可愛らしいが弱々しい小羊に例えるのはどういうことなのか?洗礼者ヨハネの言葉は、字面だけ追えば、分かったような気になりますが、実は考えれば考えるほどわからなくなります。 

そういうわけで、本日の説教はこの「イエス様は世の罪を取り除く神の小羊」ということを徹底的に見ていきたいと思います。

 

2.

 「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は、何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えた。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っておられた。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも、「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」(後注)と言っていますし、5節でも「母の胎内にいる時から私を御自分の僕として形作られた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか、何を考えているか、神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても、神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。

聖書の神は造り主であるほかに、自分の意思をはっきり示される方でもあります。十戒という掟があります。それは、造り主である以上は、その方が拝む対象であるとか、その方の名を汚すようなことをしてはいけないとか、週一日は仕事の手を休めてその方に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。まだこの他に、父母に敬意を払えとか、殺すなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、他人を陥れるようなことは言ってはならないとか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿っていて、神の目に適うということになります。

ところが、人間ですから完全ではなく弱さや隙があります。それで、掟を破ってしまったらどうなるか?神の意思に反し、神の目に適わなくなってしまい、神の失望と怒りを買って罰を受けてしまう。それで、神の意思に反したことの償いをしなければならなくなります。償いを神が受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。それで、神との関係が改善されます。私たちは悔いていますと言うのなら、その気持ちを動物を生贄に捧げることで表しなさいということになりました。旧約聖書のレビ記の4章をみると、掟を破ったのが祭司だったり、共同体全体だったり、その代表者だったり、個人だったりに応じて、牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記の16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられます。

ここで、神に背いたのは人間だから人間が罰せられるべきで、動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、人間が神から赦しを得てもう一度やり直すことができることが目指されているのです。罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず、元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだというのです。

聖書の世界の外を見ても、人間が何か超自然的な相手に捧げものをするということはあります。例えば、何か不幸が起これば、そういう超自然的な相手の怒りを買ったとか祟られたなどと解釈して、その相手を宥めたりご愛顧を引き出すために、動物の生贄とまでは行かなくとも、何か捧げものをしたり、お祓いや清めの儀式をします。もちろん、不幸が起こる前に、起こらないようにと前もってそういうことをします。旧約聖書みたいに動物を犠牲の生贄に供することをしない宗教であれば残酷ではないと言えるかもしれません。しかし、その場合、神の意思が重大なものとしてある、ということはどうやってわかるでしょうか?それに背くことは命に係わる重大なことなのだ、というような重大さはどうやってわかるでしょうか?

こういう、創造主というものがあって人間はその意思に背くと創造主との関係がだめになる、それで背いてしまったら償いをして関係修復をしなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。また、聖書の世界の外でも、不幸が起きないように超自然的な相手を宥めるということがあります。こうしたことは現代を生きる人たちにとっては、未開の人間のやることで馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。でも、そう思っている現代人でも、これをしないと、霊か何かの機嫌を損ねて良からぬことが起きる、などと言われたら、やはり不安になってやるのではないでしょうか?

 

3.

 聖書の中で犠牲の生贄を捧げるというのは、他の宗教と同じように不幸が起きないようにするという側面もあります。しかし、それよりも、もっと深い側面があります。神に造られた自分と造り主との関係はうまくいっているのか、関係がしっかり保たれているのか、ということを見つめ直す時、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのか、と自分を神の意思に照らし合わせて見つめ直します。自分は神をしっかり拝んでいるか、その名を汚すようなことはしていないか、週一日を神のことに心を割く日としていているか、父母に敬意を表しているか、殺していないか、自分のにしろ他人のにしろ夫婦関係を守っているか、盗んでいないか、他人を陥れるようなことは言っていないか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしていないか、それらの型にしっかりはまっているかどうかということがとても大事になります。不幸が起きませんように、ということよりも、神の意思に沿う人間でいられますように、というのが大事なのです。造り主の意思に背くというのは、造り主と一緒にいられなくなることを意味します。造り主あっての自分です。造り主と離れ離れになることほど恐ろしいことはありません。それなので、痛みや不幸を伴うものであっても、神の意思に沿うように生きることが出来るのであれば、それでいいのだ、という心構えになります。

動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能なものでないことが明らかになりました。イスラエルの民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されてしまいました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになっていきます。心は変わっていなくても儀式をこなせば赦されるのだというようことは、聖書の世界に限りません。はじめは心をこめて儀式が華やかで大掛かりなものになったかもしれません。それが、心はこもっていないくせに、儀式が華やかで大掛かりなこと自体が心がこもっていることの証しのようになるということがあると思います。そういう心の変化を伴わない儀式を目の当たりにした神ははっきりと、生贄を捧げても何の意味があるのか、そんなものを持ってこられてもうんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。つまり神は、外見上だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。例えば、人を殺していなくても、罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくても、ふしだらな目で異性を見たら、同罪である、と。

神は、御自分が造られた人間がなんとかして自分の意思に沿うようになって、造り主である自分と一緒にいることができるようになるために、つまり心が変わるように、何か別の方法を採らなければならなくなりました。それは、イザヤ書53章で予告されました。そこでは、人間の罪を自ら負って自分を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。そして、このイザヤ書の予告は全てイエス様が具体化させました。彼は罪となんのかかわりもない、神聖な神のひとり子だったのに、私たち人間の罪を全部引き取って、それを全部十字架の上にまで運び上げ、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように神の罰を私たちに代わって受けられたのでした。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように、人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。

しかも、犠牲に供されたのは動物ではなく、神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神聖な神のひとり子が人間の罪を償う犠牲の生贄になった、これは本当のことであり、そのひとり子イエス様は本当に救い主だった、そう分かって、彼をそのような者と信じると、神から彼の犠牲に免じて罪の赦しを頂けるようになりました。そこで聖書の世界の外に対しても、不幸の原因を取り除こうとして超自然的な相手のご機嫌を宥めようと捧げものや儀式をしている人たちに、天地創造の神のご機嫌を未来永劫に宥める捧げものがなされた、それがイエス様である、彼を救い主と信じれば、天地創造の神がいつもそばについていてくれるようになる、と言うことができるのです。

 

4.

 かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなってしまい、神の批判の的になったと申しました。それでは、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂いたら、心の変化はしっかりあって神の意思に沿うように生きることが本当にできるのでしょうか?

それは本当にできます。まず、イエス様が十字架の上で死なれた時、罪が力を失ったことを知りましょう。動物の生贄の場合は、毎年捧げなければならないものでしたので、それで得られる罪の赦しは有効期限というか、賞味期限があったことになります。動物の贖罪の効力は限定的でした。翻って、イエス様の犠牲は未来永劫に渡って罪が赦される桁違いの償いでした。罪は本当に人間を神から引き離す力を失ったのです。それだけではありません。一度死なれたイエス様を父なるみ神は死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることが示されました。しかもその時のイエス様の有り様は、永遠の命を包み込む復活の体でした。遠い将来、死者の復活が起こる時、復活させられる者はこういう有り様なのだということが示されたのです。なんと楽しみなことではありませんか!

こうした、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体というものが、自分のものになるということは、これは頭で考えて理解しようとしても、受け取ることは難しいです。それらのものは、あまりにも大きすぎて、理解という小さな門を通り抜けることは出来ません。あたかも、駱駝が針の穴を通過できないようにです。それでは、これらのものを受け取って自分のものに出来るためにはどうしたらよいのか?そのために洗礼があります。ルター派の立場で言えば、正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時に水に対して聖書の御言葉を語ると、水はただの水でなくなって洗礼を実現する手段になります。それを用いて洗礼をすると、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体がすっと自分のものになります。まるで駱駝が針の穴を通ったようにです。正確を期して言うと、永遠の命と復活の体に変わるのは将来の復活の日ですので、洗礼ではそれが約束されるということです。洗礼を通して、永遠の命と復活の体をゴールにする道に置かれて、その道を歩み始めるということです。

このように洗礼は本当に奇跡的なことですが、聖餐式も同じです。正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時にパンと葡萄酒に対して聖書の御言葉を語ると、パンと葡萄酒はただのパンと葡萄酒でなくなって聖餐を実現する手段になります。これを「私は洗礼を通して罪が力を失ったことと、永遠の命と復活の体を受け取りました」と洗礼の賜物をわかっている人が聖餐を受けると、それらの受け取ったものはしっかり根をおろします。罪は力を失ったままで、永遠の命と復活の体に向かう道を踏み外さずに歩み続ける力を得ます。

このように生きる者にとって、神の意思に沿うというのは体の一部になっています。それで、神の意思に背くというのは、体や心に傷がつくようなもので、健康が失われたのと同じです。そこで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者はもう神の意思から離れることが全くないのか、と問われると、やはりあると言わざるを得ません。それは、肉や心の弱さのためであり、また自分の中の罪は力を失ったとは言っても、この世には人間と神の間を引き離そうとする力が沢山働いているという現実があります。隙があれば、いつでも弱さにつけこまれます。そこで、神の意思に沿わないことがあると気がついたら、すぐ神に赦しを願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかけられた主に向けさせて下さいます。そしてこう言われます。「お前の罪はあそこで償われている。お前が犯した罪にはもうお前を私から引き離す力はない。わが子イエスを救い主と信じるお前の信仰とイエスの犠牲に免じてお前は罪を赦され、私としっかり結びついている。だから安心して行きなさい。もう罪を犯さないように。」神はそうおっしゃって下さるのです。

 

5.

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に世の罪を取り除く神の小羊です。私たちの罪を償い、私たちを罪の支配から贖い出して下さった犠牲の小羊です。旧約聖書の世界の犠牲の生贄は人間が準備するものでしたが、この小羊は神が準備したので真に「神の小羊」です。また、以前の犠牲では罪の力を消すことはできませんでしたが、この犠牲はそれを消すことができました。それが神聖で完璧な犠牲だったからでした。それで真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業により、罪からは神と人間の間を引き裂く力が失われて、永遠の命と復活の体に向かう道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼により、罪が力を失った状況に置かれて、その道を歩む人たちが出てきました。罪は完全に面目を失い、世の罪が取り除かれた状況が打ち立てられました。しかし、まだ大勢の人が罪が無力の状況に置かれていません。永遠の命と復活の体に至る道も歩んでもいません。せっかく、その状況と道が打ち立てられたという現実があるにもかかわらず。問題は、人々がその状況の外側に留まることをやめて、その中に入って来れるかどうかです。それで、福音伝道の必要性は決してなくなりません。「世の罪を取り除く」と言う時、「取り除く」はギリシャ語原文では現在形なので常態として行っているということです。2000年経った今も「取り除く」ことは続いているのです。「取り除いて下さった」と言ったら、過去か完了の形にしなければなりませんが、それは気の早い話です(後注2)。それなので今も世の中には神の意思に反することが沢山あるわけで、その意思に沿うように世を変えていこうとする働きが続けられていきます。神の意思に反することをやめてそれに沿うようにしようと方向転換する人たちはいつも現れてきます。神の意思に沿う生き方をすることは、反する生き方からあざ笑われますが、「かの日にはこの自分も復活させられるんだ」という希望を持つ人にはこの世の嘲りなどどうでも良いことです。兄弟姉妹の皆さん、真にイエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」です!

ιδε ο αμνος του θεου ο αιρων την αμαρτιαν του κοσμου.

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注 ヘブライ語分かる人に)細かいことかもしれませんが、1節でも5節でも前置詞はבではなく、מןが使われています。大学のヘブライ語の先生がこういう細かいことをうるさく言う人だったので。

(後注2 ギリシャ語分かる人に)これをアオリストの分詞を用いて、ο αρας την αμαρτιαν του κοσμουにすれば、「世の罪を取り除かれた」ですが、「取り除かれた」のは将来のことでもよいわけで、その場合は「(将来)取り除きを完了させる」という意味になります。でも、ここはαιρων現在の分詞ですので、常態として「取り除いている」です。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご報告

2020年の最初の料理クラブは、あいにく冷たい雪交じりの雨の日の開催でしたが、それでも8名の方が参加されました。

料理クラブは、最初にお祈りをして始めます。

今回はフィンランドの食卓パン「サンピュラ」と田舎風サラダ「マーライス・サラーッティ」を作ります。初めにパンの生地を作り、温かい場所に置いて発酵させます。その間にサラダに入れるポテトをフライパンで焼いて冷ましておきます。

パンの生地はあっという間に大きくふくらみました。生地を丸い形に分けて鉄板に並べます。そこで二回目の発酵をさせます。その間にサラダの材料を刻んで、ボールに材料の段を重ねていきます。レッドオニオンとサーモンを上にのせると、きれいな色のサラダの出来上がりです。オーブンからはパンが焼きあがる香りが部屋中に拡がりました。

試食の時間です。オートミールとライ麦粉が入った焼きたてのパンは香ばしく、いろんなスパイスと酸っぱさのある田舎風サラダによくマッチしました。

参加者の皆さんお疲れ様でした。

次回の料理クラブは2月になります。詳しいことはホームベージをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年1月18日 フィンランドのパンの話

今日は皆さんと一緒にフィンランドのパン「サンピュラ」を作りましたので、フィンランドのパンについて少しお話ししたく思います。パンはフィンランド人の食卓の中で最も大事な食べ物です。特に私の父くらいの年令の人はパンの大切さをよく知っています。もしパンがなかったら、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な一部です。かつてパンは店で買うものではなくて、いつも家庭で作られました。それで、パンの味もそれぞれの家庭の味になりました。

フィンランドは、パンを作る習慣によって東と西の二つの地方に分かれていました。東の地方では、柔らかくて厚めのパンでしたが、西の地方のパンは薄くて、円形の形の真ん中に穴があいていました。作る回数も違っていて、東の地方では毎週パンを作る曜日がありましたが、西では一年に2,3回しか作りませんでした。ところで、西の地方ではどうしてパンの真ん中に穴を作ったのでしょうか?それは、その穴に棒を通してパンを天井にかけたからでした。棒にかけたパンは涼しい場所に置かれて保存されました。このようにしてパンは長持ちしたのです。そのようなパンはフィンランド語でレイカレイパ、訳すと「穴のパン」と呼ばれます。

現代のフィンランド人の毎日の食事の中でパンはまだ重要な食品の一つです。2018年フィンランド人はパンを一人当たり41キロ食べました。それは毎日一人当たり4個食べることになります。フィンランド人の食事の中のパンの重要性は、例えば毎年「パンの週」という行事があることでもわかります。それは大てい毎年9月にあって、テーマも毎年変わります。去年のテーマは「オートミールを食べよう」でした。その目的は、この行事を通して多くのフィンランド人がオートミールの健康的な影響を知るようになること、そしてオートミールが入っているパンをもっと食べるようになることです。最近オートミールはフィンランドでは健康食品の一つにもなりました。オートミールには、ミネラルやビタミンの他に体に良い繊維や油が入っています。オートミールに入っている繊維は、体の糖分やコレストロールのバランス、そして腸管や心臓にもよい影響があると知られています。最近フィンランドではオートミールが入っている新しい食材が増えて沢山売られるようになりました。

オートミールが入っているパンに少しマイナスなこともあります。例えばオートミールが入っているパンはあまり長く持ちません。それから、他のパンに比べてボロボロにくずれやすいということもあります。それは、オートミールにはねばり強さがないためです。

食事のパンは私たち人間にとって大事なものですが、新約聖書の「マタイによる福音書」にはイエス様がパンについて言われた有名な言葉があります。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言っているところです。イエス様はこの言葉をどんな意味で言われたのでしょうか?イエス様は、私たち人間にとって肉体的な栄養になる食べ物は大事だけれども、それに加えて魂のための霊的な栄養も必要だと教えているのです。パンや他の食べ物は私たちが生きるために重要なものです。これらは毎日食べていると、得られるのが当たり前の感じがしてしまいます。でも、これは本当は神様が良いみ心を示して私たちに与えて下さるものなのです。それで、私たちは食べ物のことで神様に感謝しなければなりません。

さらにイエス様は、パンよりもっと大事なものがあると言われます。それは、食べ物を与えて下さる神様の口から語られる一つ一つの言葉です。神様の口から出る言葉とはどんな言葉で、どこで聞くことができるでしょうか?聖書を読むと神様の言葉に触れることが出来ます。聖書を読むと、神様はどんな方なのか、神様の人間に対する愛がどれだけ大きいかを知ることが出来ます。神様の人間に対する愛は、たとえこの世が終わっても終わらないくらい強い大きな愛であると聖書は教えています。その強い大きな愛についてイエス様は次のように教えました。「神は、その独り子のイエスをお与えになったほどに、この世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章16節にある有名な言葉です。パンが私たちの体に栄養を与えるならば、神様の言葉は私たちの魂に栄養を与えてくれます。だから、人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出る言葉で生きるのです。神様の御言葉を信頼して心で受け取ると、心は毎日力づけられます。

歳時記

近くの「漱石山房記念館」

 

早稲田の地に越してきてからまだ日も浅く周辺の土地の事情が分からなかった。早稲田は夏目漱石のゆかりの土地である。手元にある正岡子規の「墨汁一滴」という日記の中に次のような一節があるので紹介したい。「余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士(とじんし)の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。(五月三十日)」・・・・早稲田から関口の方へ歩いたのならば当然教会の所在地である鶴巻町を通ったかも知れないと一人空想に耽っています。

説教「伝えられた教え」木村長政 名誉牧師、コリント信徒への手紙 11章2~16節 

 

2020年1月12日(日)

  今日は昨年からの続きで、コリント信徒への手紙11章2~16節です。これまでに8章から10章まで、パウロは何について語ってきたかと言いますと、「偶像礼拝」について、異常な程に、しつこく、長々と書いてきました。なぜ、それほど、この問題が重要だったのか、ということです。偶像を拝むうちは、まことの神を拝まない、ということになります。従って、それは、礼拝を正しくしていない、ことになります。それで、パウロは、11章から14章にわたって、「礼拝を中心にした話」を、語っていくことになります。 まず、今日の聖書で、2節から10節までを読みますと、私達の常識では考えられない様なことが書いてあって、全く、おどろかされます。パウロは、いったい、何を言おうとしているのだろうか。

 3節を見ますとこうあります。「ここで、あなた方に知って欲しいのは、すべて、男の頭は、キリスト。女の頭は男、そしてキリストの頭は神である。ということです。4節には、男は誰でも、祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、その頭を侮辱することになります。」とあります。 どういうことでしょうかね。そうして、礼拝する時の服装に至るまで、こまかく、パウロは、教会の人々に、教えていることになります。 男と女の頭の上に物をかぶるのかどうかの当時の伝説にもとづいた習慣を 、少し、きびしく教訓として、示しているわけであります。とても、私たちの現代の習慣では、考えられないことであります「あなた方が何かにつけ、私を思い出し、わたしがあなた方に伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。」と、こう言っています。ここで言っている「伝えられた教え」というのは、少し難しく言えば、伝統であります。それは引き渡されたものであります。 教会の礼拝の根拠となっているものは、引き渡され、受けついだものなのであります。それは、今日も、今、御霊の導きによって、行われるものであります。それと同時に、過去の遺産でもあります。例えば、私たちは、ルター派の教会の遺産の流れの中にあります。しかし、それは、ただ歴史上の1つの流れによっているのではなく、そのもとは、主イエス・キリストにあります。

 23節では、「わたしは、主から受けた」と言っています。それは、聖餐式のことであります。聖餐は礼拝の中心でもありますし、礼拝そのものが、主から、言伝えに基づいたものである、と言っているのです。そして、パウロは又、こう書いています。礼拝について知っていてもらいたいものは、礼拝者たちの秩序であります。神の前に、すべての人が、神に造られたものであり、又、罪人であります。人間の間に、ちがいというものはなくなってしまい、平等です。そして神の前に立つ者は、等しく、罪人なのであります。或は、神に愛されているということです。しかし、その他の意味では、人はそれぞれ顔、形のちがいをもっています。その人の持って生まれた才能もそれぞれちがいがありその運命もちがっています。それらは神によって、定められた秩序をあらわすものです。

 ここにパウロは書いています。「あなた方に知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」ちょっと分かりにくい感じです。特に女のかしらは男であるというのは何でしょう。男女の不平等を言っているのではないかとも考えられます。しかし、ここで、男女が等しいかどうかを言っているのでなくて、神の前に於て、礼拝する人間の秩序を語っているのでありましょう。

 7節を見ますと、「女は男の栄光である」と記されていますし、11節では「主にあっては、男なしに女はないし、女なしに男はない」と書いてあります。つまり、ここでは、男女が平等であるかどうかを言っているのではなくて、礼拝に於てどういう秩序が必要であるかが語られている、と言うべきでありましょう。ですから、男と女の問題だけでなく、神と、キリストと、男と女ということについて、語っていることが分るのであります。

 礼拝に出る者は、しばしば、自分の好き勝手な気持が支配するものであります。つまり、気分しだいで行動する場合があるものです。日曜日に教会へ行こうか、イヤ、他にやる事や行事がいっぱいある。イヤ、余り行く気もしない。等々あります。しかし礼拝が神に対して行なわれるものであるなら、それは、最も秩序だった、整えられたものであるはずであります。神と人間の関係は言うまでもないことですが、人と人とについても、神の前にあるものにふさわしくなければならないはずであります。

 この手紙においては、パウロの時代に、教会に実際にあった事が書かれています。かぶるものを、かぶるのがいいか、髪の毛は切る方がいいのか、長い方がいいのか、ということまで、やはり問題であったのでしょう。現代でもこうした影響を多少なりとも受けている教会もありましょう。大事なことは、その風習を、どうとりいれるかということではなくて、この当時の教会が、このようなことをした理由であり、その背景にある信仰であります。ここに男と女についていくつかの事が記されています。しかし、それらのことの、大切なことは、創世記に記されている、神が人をお造りになった、ということであります。このことは、礼拝そのものの基になることであります。人間は造られたものとして、造り主を礼拝するものであります。それが礼拝の基本であります。それと共に、礼拝の秩序もそこから出て来ると、言えるのであります。

 礼拝というのは、人間が神に対して、わたしはあなたに造られました、わたしはあなたに救われました、と告白して、神を賛美することである、と言ってもいいのであります。

 ちょっと、ここで、どうしてもわからないのは、「男が女のかしらである、女が男から造られた」というややこしいことが言われている。これは旧約の創世記の記事によっていることです。男が1人でいるのは適当でないと言って、共に生きるものとして女が造られた、従って、男が女から出たのではなく、女が男から出たのである、と8節に言われるのであります。これは明らかに自然の生活とはちがっています。ほんとうは、自然の生活で、男は女から生まれるにちがいないのであります。創世記を書いた人が、そんな事を知らないはずはありません。それは誰でも知っている事だからです。では、しかも、あえて、この事を書いたのは、むしろ、女なしに生きることのできない男の生活を書いた、とも言えるのではないでしょうか。従って、それは、男と女とがどのように生まれるのかということではなくて、むしろ、男を生かすために、神が女を与えられたということではないでしょうか。

 かぶるものをかぶる事についても、その背景には、神が人をご自分に似せて造られた、ということがあります。男は神に似せているものであるから、かぶりものの必要はないと考えられるので、男の

特別な優越を語るのではなくて、神の創造の御業から考えたことであります。ですから、女は男の栄光とも言われるわけであります。6節には、「もし、女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったり、そったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。」とあります。ある人は、これは、婦人の髪の魅力が、ある人たちを引きつけて、礼拝の妨げになったためではないかと言っています。しかし、それも1つの説明に過ぎないでありましょう。礼拝においては、神以外のものに心ひかれてはならないはずであります。

 又、10節には、9節の、女は男のために造られたという事を受けて、それだから、女はかしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは、「天使のためである」と書いてあります。ここに、権威と言っているのは、守りのことである、と言われています。人の自然的な弱さを守るための守りであるから、ということになります。それが天使のためである、というのは、天使がいつでもいい天使ばかりを考えると分かりにくくなります。天使は、良くない天使もあるのです。ここでは、そういう天使に対して身を守るため、ということでありましょう。

 礼拝を正しく守るために、教会員のこまかい服装に至るまで問題としていた、当時の教会が苦労していたということを覚え、現代の私たちも礼拝に対して改めて考えていくべきでありましょう。

                              <アーメン・ハレルヤ>

 

交わり

 暮れから冬休みで里帰りしていたヨハンナさんが明日フインランドへ戻ることになりました。今年は例年になく暖冬だった東京と寒冷の地フインランドとの環境の違いが心配です、しかしこの心配は年寄りだけのものであって若いヨハンナには何でもないことなのかもしれません。食事のあとしばしのお別れを交わしました。

聖書研究会: 神学博士 吉村博明 宣教師

今年最初の聖書研究会です。テーマは昨年に続き「ローマ信徒への手紙」です、先生は私達キリスト教信仰者にとってたいへん重要な箇所である1章から8章までをおさらいということで読み返されました。

説教「イエス様の途方もなさに与って生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-18節

主日礼拝説教 2020年1月5日降誕後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところですが、特に冒頭の5節まではそれを詩的な口調で表現しています。詩的というのは、新約聖書が書かれている元の言語であるギリシャ語で読むと、エン(εν)、エーン(ην)の音が繰り返されていることに気づきます。偶然そうなったのか、著者のヨハネが意図してそうしたのかわかりませんが、韻を踏んでいるように聞こえます。それを一つお聞かせします(エンεν、エーンηνを少し強調して言います)。

Εν αρχη ην ο λογος,

και ο λογος ην προς τον θεον,

και θεος ην ο λογος.

ουτος ην εν αρχη προς τον θεον.

παντα δι’ αυτου εγενετο,

και κωρις αυτου εγενετο

ουδε εν ο γεγονεν

εν αυτω ζωη ην,

και η ζωη ην το φως των ανθρωπων

και το φως εν τη σκοτια φαινει,

και η σκοτια αυτο ου κατελαβεν.

 

 皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。途中の6ー7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質を一層明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。1~18節のうち特に最初の5節は真理が詩的な口調で語られていると言えます。それは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を広くして大いなるものを受けとめられるようにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を広くする力に触れられるようにしていけたらと思います。

 

2.天地創造の前からいた神のひとり子

 「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても幅広い意味を含みます。もちろん、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話でして、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念でした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場です。生み出す大元にあるのはあくまで神とう立場です。哲学では、大元は人間の頭ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づかなければなりません。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。人間をはじめとする被造物が時間が始まってから造られたのとは異なります。

さらに、「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖作用を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは、まだ天地創造がない、まだ時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」ということがあるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」と言うことができ、また、生み出した方を「父」と呼ぶことができる、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節で「ことばは神であった」と言われるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

 

3.永遠の命に導く光

  4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。しかし、父なるみ神は人間にそれを再び取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにしてあげようと、それでひとり子を御自分のもとからこの世に贈られたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」であるというのは、一つには暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示す役割を果たすことがあります。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯して闇の力に対抗できる力として働くこともあります。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。罪はそのままにしておけば人間が永遠の命を持てなくしてしまうものなので、まさに呪いそのものです。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。さらに、一度死なれたイエス様を父なるみ神が復活させたので、死を超える永遠の命の扉を開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。

悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。そういうわけで、先ほどの訳の問題は、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリな訳ではないかと思います。

 

4.ことばが肉となる

父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を永遠の命から切り離す罪の呪いから人間を解放して再びその命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。ただし、「あの方が本当に罪を全部請け負って償って下さったんですよ」と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 

5.イエス様の途方もなさに与って生きる

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、私たち人間が失っていた永遠の命を再び持てるようにと、永遠の御許からこの限りある世に来ることが出来るために肉となられました。それでイエス様は見かけは私たち人間と同じ姿形をして人々と共にありました。しかし、その姿形にはこのような途方もないことが凝縮されていたのです。一体誰がそのことをわかったでしょうか?わかるようになったのは、十字架と復活の出来事が起きてからでした。出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらにイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。これを聞いてイエス様を救い主と信じるようになった人たちは皆、この途方もないことに与るようになりました。なにしろ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、肉体的な誕生に加えて、霊的に誕生することになったからです。ヨハネ3章でイエス様が教えている通りです。この世を去る時には肉体的に誕生した命は終わりますが、霊的に誕生した命はそのまま続きます。この世にいながら、命を二つもっているようなものです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖書を通してこのような途方もない方と出会ったのであり、その方を受け入れてその途方もなさに与って今を生きているのです。このことが皆さんにとって勇気と力と元気のもととなって、この新しい年も歩むことができますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。

 

交わり

きょうの教会ランチはライスカレーでした、いささかか持て余し気味だった正月料理のあとのカレーは懐かしく美味しかったです。食後はクリスマスの飾りつけを片付けました。