説教「死の陰を蹴散らす光を見よ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ4章12―23節

主日礼拝説教顕現後第三主日)イザヤ8章23節9章3節、第1コリント1章1018節、マタイ4章12―23節

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、いろんなことが詰まっているので、統一したテーマのもとで説教するのが難しいです。それでも、旧約の日課と重ねて何度も読み返すと少し方向性が見えてきました。うまく出来るかどうか自信ありませんが、やってみます。「イエス様は光」というのが統一したテーマというか、コンセプトになるのではないかと思いました。イエス様はどんな光かと言うと、本日の旧約の日課イザヤ書9章の言葉を借りれば、私たち人間はこの世では暗闇の中を進んでいるようであり、CC0死の陰の中に住んでいるようなものである。そこにイエス様という光が現れ、そのおかげで暗闇の中を歩くような危険はなくなり、死の陰なる暗さも消えて何も恐れる必要はなくなるということです。どうしてそんなことが言えるのか、見ていきます。

まず、出来事の流れを見てみます。イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの霊、聖霊が彼の上に降るということが起きました。これはイザヤ書の預言の実現でした(同書11章2節、42章1節)。その後でイエス様はユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けました。悪魔はイエス様に肉体的な苦痛だけでなく、それから逃れられるために旧約聖書の御言葉を逆手にとって、イエス様がひれ伏すように仕向けました。しかし、全て失敗に終わりました。イエス様は神のひとり子ですから、父の御言葉を正確に理解しています。悪魔の曲解は全てお見通しです。悪魔は退散しました。

悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ユダヤ地方の北のガリラヤ地方に移動し、そこで活動を開始しました。ガリラヤ地方とは、イエス様が育ったナザレの町があるところです。なぜガリラヤに移動したのか?洗礼者ヨハネが投獄されたことが言われています。ヨハネを投獄したのは領主ヘロデとありますが、これはイエス様が生まれた時にその命を狙ったヘロデ王とは別人で、その息子のヘロデ・アンティパスのことです。父のヘロデはローマ帝国の支配の下でユダヤ民族の王としての地位についていました。息子のヘロデ・アンティパスの版図はもっと狭まり、北のガリラヤ地方だけの領主でした。王よりもランクが低いわけです。洗礼者ヨハネはこの領主アンティパスの不倫を咎めたために投獄されたのでした。ヨハネは後に首をはねられてしまいます。イエス様は、ヨハネが投獄されたと聞いて、ガリラヤにやって来たのです。新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、事実は逃げたというより、アンティパスの本拠地に乗り込んで来たというのが真相です。

しかしながら、育ち故郷の町ナザレを活動拠点とはせず、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。その辺の事情はルカ4章16~30節に記されています。

さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。「悔い改めよ、神の国が近づいた」という言い方で人々に教え始めました。教えるだけでなく、人々の病を癒すような多くの奇跡の業を行いました。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書にある預言の成就であったと言われています。活動開始の時、弟子になる者たちを選びました。本日の個所ではペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、4人ともガリラヤ湖で漁をする漁師でした。みなイエス様に声をかけられるや、生業を捨てて後についていきます。特にヤコブとヨハネは「舟と父親を残して従った」とあります。救世主が一声かけたら、生業も親も捨てて行ってしまうものなのか?弟子になれるんだったらそれ位は当たり前だなどと言ったら、なんだか世間を騒がす宗教みたいです。この点については、以前の説教で、ルターが教えていることをもとにしてお話ししたことがあります。基本的なことは今も変更ありませんが、今日はまた新しい視点を付け加えてお話ししようと思います。

 

2.闇を照らし、死の陰を蹴散らす光

 まず、イエス様がガリラヤで活動を開始したことが、イザヤ書の預言の成就であるということについて見てみましょう。

マタイ福音書には成就した預言の文句として、イザヤ書8章23節と9章1節を引用しています。ちょっと端折った引用ですので、この2節の全文を見ることが大事です。

「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

ヘブライ語の原文から見て、この訳には注文をつけたい点もありますが、細かいことは抜きにして話を進めます。この預言は、これが語られた紀元前700年代に関わることがあります。それに加えて、700年たった後に起きるイエス様の出来事に関わることが含まれます。さらにはイエス様の出来事がその後の時代を経て現在にまで関わっていることも含まれています。とても重層的な預言です。一つ一つ解きほぐしていきましょう。

紀元前700年代、かつてのダビデの王国が南北に分裂して二つの王国が反目しあって200年近く経ちました。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、南の兄弟国ユダ王国を攻めようとしました。ユダ王国は王様から国民までパニックに陥りますが、預言者イザヤが現れて「攻撃は成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と言います。実際、イスラエル王国とその同盟国は東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまい、ユダ王国に対する攻撃は実現しませんでした。イザヤの預言の言葉で辱めを受けた「ゼブロンの地、ナフタリの地」というのは、もともとはユダヤ民族の12の部族のうちのゼブロン族とナフタリン族の居住地域で、北のイスラエル王国の版図です。それが、アッシリア帝国に蹂躙されてしまったのです。

しかしながら、預言の言葉は滅亡に終わりません。「後に、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。」

これは、異民族に蹂躙されてしまったこれらの旧ゼブロン、旧ナフタリの地域が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに受けるかということについては9章1節から言われます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」預言はさらに続きます。その光を見た人々は大きな喜びに包まれる。それはさながら刈り入れの時を祝うようであり、戦争に勝って戦利品を分け合う時のようである、と。戦利品を分け合うというのは物騒な話ですが、戦争が日常茶飯事な時代でしたから喜び祝うことのたとえとして使われたのでしょう。ただし、死の陰を照らす光が現れる時、戦争がなくなると言います。本日の日課を超えますが、4節です。「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」順序が逆になりましたが、「ミディアンの日」と言うのは、士師の時代のイスラエルの指導者ギデオンが小部隊でミディアン人の大部隊を敗走させた出来事を指すと考えられます。士師記7章です。

イザヤ書9章の預言はまだ続きます。本日の日課を超えていますが、大事なので見ていきます。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている「平和の君」とは誰のことを言うのか?

紀元前700年代、ゼブルンの地とナフタリの地にまたがる北王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その後、南王国は次は自分たちの番かと固唾を飲む状況が続きました。本日の日課の個所の少し前に国民が精神的にも追い詰められていた状況がずっと述べられています。それが8章23節で「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない」ということなのです。

 そこで、蹂躙されたガリラヤ地方がまた栄光を受けるとはどういうことなのか?ひとりのみどりごが生まれるとは誰のことなのか?南王国はヒゼキア王の下でアッシリアの大軍を寸でのところで撤退させることが出来ました。みどりごはヒゼキア王のことだったのか?しかしながら、南王国も大筋はそのまま神の意思に背き続け、紀元前500年代にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。みどりごはヒゼキア王ではなかった。では、誰か?紀元前500年代終わりにエルサレムの町と神殿の復興が行われましたが、一時期を除いてユダヤ民族はずっとかわるがわる外国の支配下に置かれ続けました。そうしていくうちに、イザヤ書の預言にある「苦悩の中にある」とか、「闇の中を歩む」とか「死の陰の地に住む」というのは、一民族が外国の支配下にある屈辱な状況を意味するのではなく、もっと人間の根源的な苦しみを意味すると気づかれるようになります。そうなると、生まれてくるみどりごも、民族を復興させる英雄ではなくなり、民族に関係なく人間そのものを救う救世主であるとわかるようになります。そもそも、旧約聖書の人類誕生の出来事に照らしてみれば、それこそが正しい理解になるのです。その理解が出てきた頃にイエス様がこの世に贈られてきました。

 

3.神の国への迎え入れ

 イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。

 神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々が大勢出ました。彼らは、将来この世が終わりを告げて天と地が新しくされる時に到来する神の国というのは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

 この問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせました。どうしてそのようなことをしたかと言うと、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。そこで人間の方が、十字架の出来事の意味はそういうことだったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならないと思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

以上のような次第で、「闇の中を歩む者に光が現れ、死の陰の地に住む者に光が輝いた」という預言は、2000年前のガリラヤ地方の人たちに向けられたものではありません。神に対する不従順と罪を持つがゆえに、神との結びつきを失ってしまった全ての人間、この世を去った後に永遠の命が待つ神の国に入れない全ての人間のことを言っているのです。それが、闇の中を歩むことであり、死の陰の地に住むことです。ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ地方などと日本には縁遠いローカルな地名が登場します。それは、その光であるイエス様がたまたまその地で活動を開始したからにすぎません。イエス様は、十字架の死と死からの復活をもって、創造主の神の栄光を現わし、世の光となられました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はこの光を向いて歩みます。もう死の陰の地に住んでおらず、闇の中を歩みません。

 

4.心で捨てる

 イエス様が4人の漁師に弟子になるように呼びかけ、彼らは生業も家も捨てて付き従って行きました。そうなると、私たちもイエス様の弟子になるのなら、同じようにしなければならないのか?ルターは、そういうことではない、と教えました。彼によれば、行為に表さなくても心で捨てていれば、それでもう4人の漁師と同じくらいにイエス様の弟子であるというのです。「心で捨てる」とは一体どういうことか、彼の教えを今一度引用してみます。

「この4人の漁師の話を聞いた君は、財産や妻や子供は捨てなければならないのか、という思いにとらわれるかもしれない。しかし、そういうことではない。心で家や土地や妻や子供たちを捨てなければならないということなのだ。彼らと一緒に暮らし、彼らのために生活の糧を獲得し、神の定めに従って彼らの世話をしていても、心で彼らを捨てていなければならないのだ。もし行為で捨てなければならない時が来たら、神のためにいつでも捨てることが出来なければならない - そう考えることが出来れば、君は心で捨てたことになるのだ。心が囚われ人のようになってはいけない。心から独占欲、強い執着心、強い依存心を洗い落としていかなければならないのだ。

このようにすれば、仮に財産があっても、内面でそれを捨てることができるのだ。万が一、実際に行為をもって捨てなければならない時が来たら、神の名においてそれを行うのみ。ただし、それは、妻や子供や財産なんてものはない方がいいんだな、などと投げやりな態度で捨てるのではない。そうではなくて、ああ、本当は、神がお許しになれば、もっと自分の手元において世話をしたかったんだ、世話をすることで神にお仕えしたかったんだ、そう考えて捨てるのだ。

自分の心の状態をよく注意しなさい。何を所有しているかとか、いないかとか、多く持っているかとか、いないかとか、そういうことで頭を悩ませないように。今自分のもののように見える財産があっても、それをわきに追いやっておきなさい。あたかも最初からなかったかのように、あるいは、いつでも失うつもりでそうしなさい。そうすることで、我々は常に神の国に結びついているのである。」

実に厳しい教えです。行為で捨てなくても「心で捨てる」と言うのは、何か冷たい感じがします。しかし、ルターは面白いことに、親や子供や伴侶というのは天地創造の神が与えたものであるがゆえに、まさに世話をし仕えるためにあるのだ、だから、ないがしろにしてはならない、と言う。これは冷たい感じと逆で、愛がしっかりあります。親や子供や伴侶というのは本当は神からの贈り物である。だから世話をして仕えなければならない。そうする責任を、与え主の神に負っているのである。贈り物が素晴らしいと、それが愛おしくなるのは当然だが、与えられたというのは、世話をするように任されたということなので、自分の好き勝手にしていい所有物ではないだ。だからこそ、与えられている期間は永遠ではなく限られた時間なのだ。だからなおさら一生懸命に世話をしなければならない。いつかは自分のもとを立ち去ると意識しているからこそ、今一生懸命に世話をするということになっていく。不思議なことに、心で捨てると言っていたことが、こんなふうに愛を持つことになるのです。それは、神が介在しているからです。もし神が介在しておらず、それで「心で捨てる」なんて言ってしまったら、もう世話も何もなくなります。

私たちはどちらかと言うと「心で捨てる」ということはあまり意識していないので、自分から「行為で捨てる」なんてことも想像できないのではないでしょうか?ところが、「自分から」行為で捨てることはしなくても、そうすることを余儀なくされることがあります。例えば、愛する人に先立たれた時などはそうでしょう。その人を無理やりに手放さなければならなくなったからです。「心で捨てる」ということを前もってしていなかったら、急激すぎる現実の変化に心はついていけないのではないでしょうか?

「心で捨てる」ということが意味を持つのは、別れる相手が他人の場合だけでなく、自分自身の場合にも当てはまると思います。私たちは年齢を重ねたり健康上の変化を経験すれば、変化の前の若い自分、元気な自分と別れなければなりません。もちろん病気の場合は、ちゃんと治療して治れば、また元気な自分に戻りますが、年齢や老いの場合は後戻りできません。スピードは人それぞれですが、人生は別れに次ぐ別れです。

そして最後はこの世との別れが待っています。誰もが、このあまりにも大きすぎる別れに際して全てを手放させなければならないことを観念します。人生には別れに次ぐ別れがありましたが、この無数の別れのやっと最後の局面にて、天地創造の神、聖書の神のみが自分に唯一残されたものになりました。その神にこの自分を全て投げ出すように委ねるのであるが、果たして受け取ってもらえる保証はあるのか?キリスト信仰では、その保証があることが強調されます。何がその保証なのか?人間の罪が赦されるようにと人間に代わって罪の償いを果たしてくれた御子イエス様がその保証です。そして、その彼を救い主と信じることも保証になります。さらに洗礼を通して罪の赦しを汚れのない白い衣のように被せてもらうことも保証です。それからは雨の日も風の日もその衣が剥がされないようにしっかり握りしめて纏い続けました。これがあれば父なるみ神は必ずや私をしっかりと受け取って下さる、そう信じて全く大丈夫です。

兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰は、まさに神に自分を投げ出す勇気と神は必ず受け取って下さるという安心を与えてくれます。まさに死の陰を蹴散らした光を見て信じた者は、その勇気と安心を持つことが出来るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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