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説教「いと高き方の力に包まれて」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章26-38節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.2020年の待降節ももう第四主日です。今度の木曜日がクリスマス・イブ、金曜日がクリスマスです。この期間、私たちの心は2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きたメシア・救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝してクリスマスをお祝いします。今年の待降節の礼拝の説教で私は特に、キリスト信仰者にとってクリスマスというのは過去の出来事を記念するお祝いに留まってはいけないということを強調してきました。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。そういうわけで私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければならないのです。イエス様が再臨する日というのは、聖書によれば今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それは、また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは、父なるみ神以外は誰もわからないのだとイエス様は言われました。それで大切なことは、「目を覚ましている」ことであると教えられました。

とは言っても、イエス様の再臨というのは気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、なんだか微笑ましい話に聞こえますが、再臨となるとこの世の終わりとか最後の審判とか死者の復活とか物騒なことがつきまといます。誰もそんな日を待ち望まないでしょう。

しかし、キリスト信仰者は、その日は特別な意味を持つ日だと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を通して聖霊を注がれたので自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。これを繰り返していくことで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられます。そこではもう罪の自覚を持つ必要はありません。それなので、キリスト信仰者は主の再臨が待ち望むに値するものであるとわかるのです。

以上から、主の再臨を目を覚まして待ち望む者は次のことを肝に銘じていなければならないとわかります。自分には神の意思に反する罪があるという事実から目を背けないで、たえず神のもとに立ち返る生き方をすることです。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。

 

2.主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておきべきもう一つのことを本日の福音書の個所から学んでみようと思います。本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となると告げていました。天使が言わんとしていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じそうなることを受け入れなさいということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていて受け入れ難いものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさいということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置くというのはあまりしたくないものです。ましてや、そうすることで余計な困難や試練を抱えてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに人の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理が本日の福音書の箇所の説き明かしから明らかになります。

このガブリエルという天使ですが、ダニエル書にも登場します(8章と9章)。神に敵対する者が跋扈する時代が来るが、それは必ず終焉を迎える、とダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまたマリアのところに来る6カ月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。

ガブリエルがマリアに告げたことは、彼女がまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊すなわち聖霊の働きで神の力が及んで男の子を産むということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続くということも告げました。その子につける名前として「イエス」が言われます。「イエス」と言うのは、ルカ福音書が書かれているギリシャ語ではイェースースΙησουςと言います。ところでマリアがガブリエルと会話した言葉は恐らくアラム語というヘブライ語に似た言語です。その言葉ではィエーシューアישועといいます。それは旧約聖書のヘブライ語ではユホーシェアיהושעといい、これはモーセの後を継いでイスラエルの民をカナンの地に導いた指導者の名前です。日本語ではヨシュアと言います。それは文字通り「主が救って下さる」という意味です。つまり、旧約聖書の「ヨシュア記」のユホーシェアがアラム語でィエーシューアになって、その後でルカが福音書をギリシャ語に書いた時にイェースースになって、それが日本語ではイエス、英語ではジーザスになったということです。以上、キリスト教雑学辞典でした。

さて、ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くということについてですが、世界史の教科書にも出てきますが、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいました。捕囚が終わってユダヤ民族が祖国に帰還した後はもうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書の中にダビデの王国は永遠に続くという神の約束があるため(サムエル下7章16節、詩篇45章7節、イザヤ9章6節、ダニエル7章14節)、ユダヤ民族の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。

しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建設される国家ではなく、天の御国のことだったのです。ヘブライ12章や黙示録21章で言われているように、今のこの世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、唯一揺るがないものとして立ち現われる神の国がその永遠の王国だったのです。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことだったのです。そこで王として君臨するのは、まさしく死から復活した後に天に上げられて今のところは父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。

イエス様は、人間として見た場合どこの家系に属するかと言えば、ダビデの子孫のヨセフが育ての父親だったので、ダビデの家系に属することになります。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。イエス様はマリアから誕生する以前から既に父なるみ神のもとに神のひとり子として存在していました。そのことはヨハネ福音書1章に述べられています。「イエス」という名前はマリアのお腹を通って人間の体を持って付けられた名前です。父なるみ神のもとにいた時には人間的な名前は何もありません。それでヨハネはそのひとり子をギリシャ語でロゴスと呼んだのです。ロゴスは「言葉」を意味します。つまり、神のひとり子は神の言葉としての役割を果たすというのです。天地創造の時、神は「光よ、あれ」と言葉を発していって全てのものを創造しました。それで神の言葉の役割を果たすひとり子は天地創造の時に既に存在していて父と共に創造の業を行っていたのです。そのことがヨハネ1章で語られています。その神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってマリアのお腹から生まれてきたというのがクリスマスです。マリアが処女のままイエス様を産むことになったのは、神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってこの世に登場できるようにするためだったのです。

 

3.それではなぜ天の御国におられる方がわざわざ人間の体を持ってこの地上に来なければならなかったのでしょうか?それはひと言で言えば、人間の救いのためでした。「救い」というからには、何からの救いなのかをはっきりさせなければなりません。聖書によれば、人間と創造主の神との結びつきが失われてしまったので、それを取り戻すことが救いです。それではなぜ失われてしまったかと言うと、創世記3章にあるように最初の人間が造り主である神の意思に反して罪を持つようになってしまったからでした。その結果、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べる通り(ローマ6章23節)、人間は罪がもたらす死に服従する存在になってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金を積んでも死から自分を買い戻すことはできません。そこで創造主の神は人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画を立ててそれを実行しました。これが神による人間の救いです。

それがどのような計画でどのように実行されたかと言うと、神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪から来る神罰を全て受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの丘での十字架の死でした。父なるみ神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が私たちを罪と死のもとから神のもとに買い戻す代価となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペトロ1章18~19節)。さらに神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。それで今度は人間の方がイエス様こそ救い主であると信じて洗礼を受けると、この神のひとり子が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、神からは罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたので、もう神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。神との結びつきを持ってこの世を生きるというのは、永遠の命が待つ神の御国に至る道に置かれてその道を歩むことです。順境の時にも逆境の時にもいつも変わらぬ神との結びつきを持って歩みます。この世を去った後も、新しい天地創造の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を付与されて神の御国に迎え入れられることになります。

人間が罪の償いと赦しを得られて神との結びつきを持てるようなることが神の救いの計画だとわかったとしても、そのためになぜ神のひとり子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか?それは、償いが果たされるために誰かが犠牲にならなければならなかったからです。その償いは人間には不可能です。人間が神罰を受けてしまったらもうそれでお終いです。他人の罪を償ってあげるどころか自分の罪さえも償って生き続けることは出来ません。それで神は人間の罪の償いを人間にさせるのではなく、自分のひとり子を神聖な生贄として捧げることにしたのです。

ひとり子が犠牲を引き受けるとき、天の御国にいたままでは行えません。人間の罪の神罰を全て受けるという以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法が効力を有しているところにいる存在にならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は当然、律法の上に立つ方です。上に立ったままでは罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。それで神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。フィリピ2章6~8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子を惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして私たちが神との結びつきを持って生きられるように日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。

 

4.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初それを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)です。ギリシャ語原文をもう少し直訳すると、「神が言われることは(ρημα)神の方から全て不可能ではなくなる」です。どうしてそんなに自信満々でいられるかというと、神の力というものは34節で言われるように「いと高き方の力」だからです。これももう少し直訳すると「最も高いところの方の力」です。最も高いところの方ですので、他のものは全てこの方より低いものとなります。そうなると、あらゆるものの力はこの方の力に及びません。そのような私たちの想像をはるかに超える力を「最も高いところの方の力」と呼ぶのです。そのような力がマリアを「包んだので」(ギリシャ語では「覆った」)、神の言葉の役割を果たす方が人間として生み出されることが出来たのです。

この「最も高いところの方」の力はイエス様の死からの復活の時にも働きました。そのことがエフェソ1章19~21節で言われています。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」ました。ここで「力」という言葉が2回出てきますが、ギリシャ語原文では4回出てきます。そのうち3つは力を意味する3つの別々の言葉です。ドュナミス、クラトス、イスキュスです(もう一つは関係代名詞)。それらの力が働いてイエス様を死から復活させたという言い方です。日本語に訳すのは大変です。「神が力の力の作用をもって、私たち信仰者に向けられる力の強大さがどれだけ桁外れのものであるかを悟らせて下さるように。その力の力の作用をもって、神はキリストを死者の中から復活させたのです」。

いずれにしても、マリアの処女受胎もイエス様の死からの復活も、何か、ちちんぷいぷいのおまじないで起きたというようないい加減な話ではないのです。当時の人たちは、本当に想像を絶する力が働いて起きたということがよくわかっていたのです。それが記述の仕方に出ているのです。そして、私たちにとって重大なことは、エフェソ書の中で言われているように、この想像を絶する力が神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者に向けられているということです。

そう言うと、神の想像を絶する力が自分に向けられているのなら、どうして自分や自分の周囲にそんな力が働いていると感じさせないことばかりなのか?そういう疑問が出てくると思います。神の力など本当は何も働いていないのではないかと疑う人も出てきます。この問題は、マリアに何が起こったかを見ていくと神の力に包まれる(覆われる)というのはどういうことか分かってくると思います。

マリアはガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と答え、神の意思に従うと言います。この従いは、天地創造の神のひとり子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。

神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは最高の名誉である反面、人間の目からすれば、最悪の恥になることもあるという一例になったのです。さらにイエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレに戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に「この子は神の子です、天使がそう告げたんです!」と弁明したところで人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも黙って言われるままにした方が賢明ということになったかもしれません。

いずれにしても、マリアとヨセフは社会的に辛い立場に置かれたのです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的にはおめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神の意思に従っていれば、神は共におられのです。神の意思に従う時、人間的には辛い状況になっても、実はその状況そのものが、神が共におられ神の力に包まれている(覆われている)ことの証しなのです。マリアは順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいるという生き方に入っていったのです。「神様が一緒にいてくれても逆境になるんだったらイヤ!」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」という生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。

キリスト信仰者といえども、この世にいる限り、神の力に包まれている(覆われている)とは感じられないことばかりです。しかし、神の意思に従う限りは、そう感じられない状態にあるということが逆に神の力に包まれている(覆われている)ことの証しになっている、このことがマリアの生き方から明らかになります。この逆説的な状況は、復活の日にきれいに解消されます。というのは、神の想像を絶せする力に包まれて(覆われて)生きた者は、その日その力によって復活させられるからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

子どものクリスマス料理教室、動画

パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にクリスマス・スパイスクッキー「ピパルカック」を作って、クッキーに飾りつけをしましょう。 出来上がった後でフランネル劇「世界の最初のクリスマス」という聖書のお話も聴きましょう。

 

 

「ピパルカック」フィンランドのクリスマスクッキー

マーガリン 125g
砂糖 100g
シロップ ¾ dl
シナモン 小さじ1
ジンジャー 小さじ1/2
クローブ 小さじ1/2
オレンジの皮から作ったパウダー 小さじ1 (ポメランシ)
卵 1個
塩 小さじ1/2
小麦粉 250 g
重曹 小さじ1

アイシング
粉砂糖 ½ dl
水で薄めたレモン汁 小さじ 3―4

作り方

1. 上記材料のうち、マーガリンから「オレンジの皮で作ったパウダー」までを鍋に入れて温める。煮立ったら火を消す。
2. 1.のものを冷ます。それに卵を加えて、ミキサーで混ぜる。
3. 小麦粉に重曹を混ぜて、混ぜた粉を皿にふり、2.に少しずつを加えて混ぜる。
4. 生地を一晩冷蔵庫に置いておき、次の日、生地を厚さ2-3mm位に伸ばして、型でクッキーを抜く。
5. クッキーを180―200℃のオーブンで6-7分位焼く。
6. アイシングを作る。ボールに粉砂糖を入れて、それに少しづつ水で薄めたレモン汁を入れて、良く混ぜる。アイシングをビニール袋に入れて、袋の一つの角に小さく切って、アイシングを絞りだす。

 

クリスマスカレンダー 「エートゥ君、おじいさんとアドベントの天使たち」

アドベントという「待降節」に入りました。アドベントはクリスマス 前の4週間を意味します。12月1日からは、このホームページで「エートゥ君、おじいさんとアドベントの天使たち」というクリスマスカレンダーを公開します。大人も子どももみんな、 カレンダーの物語を読みながらクリスマスを楽しんで迎えましょう。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ

クリスマスカレンダー

説教「冬の闇夜を照らすイルミネーションよりも素晴らしく輝く光」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章6-8、19-28節

主日礼拝説教  2020年12月13日(待降節第三主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 洗礼者ヨハネとその洗礼について

 本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々が迎え入れるように導いた人です。少し歴史的なことを述べておくと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。ルカ3章によれば、それはローマ帝国皇帝ティベリウスの治世15年、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。皇帝ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の人で西暦14年の9月に即位しました。治世15年というのは即位年を含めて数えるのかどうか不明なので、洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。

 ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。

 ヨハネのもとに大勢の群衆が集まって罪を告白して洗礼を受けました。先週も申し上げましたが、当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに到来したと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる過渡期とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かろうと、罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのでした。

 当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所の中でも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言のためにユダヤ教社会では神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。

 先週の説教でもお教えしたように、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週の日課のマルコ1章の中でヨハネも認めたように、それが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けられるのは自分の後に来られるメシア救い主しかいないのだ、と。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。それで、ヨハネは人間に主の道を整えさせる働きをしたのでした。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

2.イエス様が贈られた聖霊を伴う洗礼について

 洗礼者ヨハネの活動は普通は、イザヤ書40章3節の預言が実現したものと見なされます。それは、「荒れ野で叫ぶ声がする」と書いてあるので、ヨハネがユダヤの荒れ野で叫ぶように宣べ伝えたことと重なるからです。ところが、先週の説教でも見ましたように、そのように書いてあるのは旧約聖書のギリシャ語版で、ヘブライ語版はそう書いてありません。叫ぶ声はただの叫ぶ声で、荒れ野で叫ぶとは言っていません。「荒れ野」は、主の道を整える場所になっています。ギリシャ語版では、荒れ野で叫ぶ声がして、その声が「主の道を整えよ」と叫んでいる。ヘブライ語版では、叫ぶ声が「荒れ野で主の道を整えよ」と叫んでいる。どうしてそんな違いがあるのかということについて、先週も少し申しましたが、旧約聖書がどのようにして出来たかという大問題にかかわるので時間の限られた説教では割愛します。大事なことは、大元にあるヘブライ語の旧約聖書はどちらにでも取られる書き方をしていたということです。

 ギリシャ語版に基づいて見ていくと、洗礼者ヨハネは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫んで、人々に罪の自覚を呼び覚ましました。そして、来るべきメシア救世主から聖霊を伴った洗礼を受けられるように導きました。罪の自覚とメシアの洗礼の待機の印としてヨハネの洗礼がありました。このようにしてイザヤ書40章3節の預言は実現しました。

それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の想像を絶する力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、これで彼の十字架の死がなぜ起こったかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったということでした。そのことは実は旧約聖書に既に預言されていて、それらの預言が何を意味するのかがイエス様の十字架と復活の出来事で明らかになったのでした。

神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。イエス様の死からの復活が起きたことで、そこに至る扉が開かれて、キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。

 ところが、罪を赦された者と見なしてもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚がなくなったわけではありません。神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づかされるようになります。行為では盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんなどしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神はがっかりして愛想を尽かして見捨てるかと言うと、そうはならないのです。どうしてかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが微動だにせずあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は微動だにしない十字架を基にしているので、自分の過去の嫌なことが来て台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。

 罪の自覚の呼び覚ましとその後に続く罪の赦しが一つになっているというのは聖霊の働きです。聖霊が働かなければ罪の自覚は生まれません。自覚が生まれないと罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったらそれは絶望にしかなりません。それは聖霊の働きではありません。罪の自覚と赦しが一つになっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことによって信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることが聖霊の目的だからです。そのような聖霊は、まさにイエス様が贈られた洗礼を通して与えられるのです。

 聖霊が働くままにさせて神との結びつきが強まっていけば、内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。そのような罪を悪魔は用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪には結びつきを失わせる力がなくなっているとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を十字架で受けたのですから。十分過ぎるほどの償いはなされたのです。しかも、イエス様は死から復活させられたので、彼に罪を償ってもらった者には罪は本当は力を及ぼせないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に対して、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は本当は死んでいるのだ。」

 人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に私たちが遭遇する苦難や困難もあります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。イエス様の犠牲を脇に置いて自分が何かをして神を宥めねばと何かをやってしまったり、または、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を受けたという、それくらい神が私たちのことを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っていると考えるのは間違いです。それならば、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものから、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?とても難しい問題です。一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆になるという考えは捨てることです。そのかわりに、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、ということはうよく言い聞かせることです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向けながら、言い聞かせをすることです。

3.冬の闇夜を照らすイルミネーションよりも素晴らしく輝く光

写真はヘルシンキのアレクサンダー通りのクリスマスイルミネーション写真はヘルシンキのアレクサンダー通りのクリスマスイルミネーション。 “Aleksin jouluvalot” by Suviko is licensed under CC BY-NC 2.0

キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていくことであると申し上げてきました。しかしながら、そう言うと今度は、この世にはいかに神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あることに気づかされます。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光についてヨハネ福音書の本日の日課のひとつ前の個所で述べられています。

それは1節から8節までの個所です。そこではイエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられています。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間の光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を直訳すると「人間の光」です。その「人間の光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとしても、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

さて、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、この光を証しするために遣わされたと言います(6~8節)。人々はヨハネ自身がその光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。

この光がどれだけ素晴らしいものか、今まで申し上げたことではまだ抽象的すぎて遠い感じがすると言う人もいらっしゃるかもしれません。それならば、もう少し具体的に身近に感じられるようにお話ししてみましょう。

今はクリスマスシーズンということで、あちこちにイルミネーションが見られます。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。ネットを見ると、どこのイルミネーションがきれいかランキングなんかもあります。私たちの家族もそれを見て今年はどこのを見に行こうかなどと話し合って出かけます。今年は人が多いところは行けませんが。とにかくイルミネーションは闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。

闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間がライトを持たずに歩いたという不用意によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じで、それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。

ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っているのです。闇の目的は、人間から神との結びつきを失わせようとすることです。そして、その闇が支配下に置けなかった力強い光は、まさに人間から失われていた神との結びつきを取り戻してあげることを目的としています。取り戻したらそれが失われないようにし一層強められるようにする目的を持っています。

その光は、イエス様の十字架と復活によって現れました。それは闇が支配下に置けない位、力強い光です。

なぜなら、闇が死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。

それなので、キリスト信仰者は、冬の闇夜を照らすイルミネーションを見た時、目的を持たない光がこれだけ素晴らしいのならば、私たちのために目的を持つ光の素晴らしさはいかほどのものだろうと予感し期待に胸を膨らませることができるのです!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご報告

穏やかな12月の土曜日、
家庭料理クラブは、大人気のクリスマスのお菓子、ピパルカックとヨウルトルッティを作りました。

最初にお祈りをして始まりです。

沢山のスパイスの入ったクッキー、ピパルカックの香りは、教会中に溢れ、可愛く焼き上がったヨウルタルトと、クリスマスの暖かな飲み物のグロッギがテーブルに並ぶと、クリスマスが近いことを感じ、嬉しい気持ちになりました。

パイヴィ先生からは、ピパルカックのお話や、聖書のお話を聞かせて頂きました。

皆様、素敵なクリスマスをお過ごし下さい。

 

料理クラブ2020年12月ピパルカックの話

フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。クリスマスの季節になると、どの家庭でもクリスマス料理やお菓子の準備をします。今日皆さんが作られたピパルカックとヨウルトルットゥは、フィンランドの伝統的なクリスマスのお菓子です。今日はピパルカックについてお話したく思います。

フィンランドでは、クリスマスが近づくと家中にクリスマスの香りがすると言われます。クリスマスの香りとは、どんな香りでしょうか?普通それはピパルカックの香りです。ピパルカックを焼いているとき、シナモンなどのスパイスの香りが家中に拡がるからです。

ピパルカックは伝統的なクリスマスクッキーですが、フィンランドでどのように始まったでしょうか?このことを調べたら、ピパルカックは実はフィンランドのものではなく、フィンランドに伝わってきたものということがわかりました。ピパルカックのもとは昔エジプトではちみつで作られたクッキーでした。それが水兵を通してエジプトからヨーロッパに伝わって、ドイツで今のものに近いものが作られるようになりました。ドイツではちみつの代わりにお砂糖を使い、バターと香辛料を生地に入れるようになりました。ドイツからフィンランドに伝わって、最初は修道院で作られました。修道院で作ったピパルカックは普通の人々に売られ、利益は修道院の収入になりました。レシピは牧師館にも伝わってそこでも作られるようになりました。レシピは非公開で普通の人たちには教えないようにしていましたが、メイドのエプロンのポケットを通して一般の家庭にも伝わっていきました。1800年頃から一般の家庭でも作られ始めて、クリスマスのクッキーの一つになりました。

現在ピパルカックのレシピはいろいろあります。材料は大体同じですが、材料の量やスパイスは変化します。それでピパルカックの名前も変わります。例えば「おお祖母さんのピパルカック」とか「昔のピパルカック」などがあります。今日のレシピは「パライステン・ピパルカック」です。1920年頃トゥルクの近くのパライネンという町から始まったレシピです。

クリスマスの前にピパルカックを作るとクリスマスの雰囲気が高まります。クリスマスにはほかにもいろんな準備をしてクリスマスの雰囲気を作っていきます。クリスマスの準備は料理やお菓子だけではなく、飾りつけやイルミネーションもあります。クリスマスの季節はフィンランドでは一年で最も暗い季節なので、クリスマスの準備をすることやイルミネーションを付けることで人々の気持ちも周りも明るくなります。「クリスマスは光のお祝い」という言い方もあります。しかしクリスマスの本当の光はクリスマスの準備やイルミネーションの中にはありません。それはどこにあるでしょうか?

写真はヘルシンキのアレクサンダー通りのクリスマスイルミネーション。 “Aleksin jouluvalot” by Suviko is licensed under CC BY-NC 2.0

旧約聖書のイザヤ書に光について次のように書いてあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝く。」イザヤ書9章1節です。これは、天と地と人間を造られた神様がイスラエルの民に語った言葉です。どんな意味でしょうか?イスラエルの民は神様の前で悪いことを沢山していたので、それは暗闇の中を歩むことと同じでした。しかし天の神様はイスラエルの民が光を見て歩めるようにしてあげようと、その気持ちを預言者イザヤに伝えました。それはどんな光でしょうか?神様は特別な人を私たちに送られて、その人が光輝く人になるとイザヤは言いました。この「光」は周りがよく見えるようになるための光ではなく、もっと深い意味ある光です。この光は2千年前の初めてのクリスマスの夜に現れました。その時、神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれたのです。イエス様はこの世の光としてお生まれになりました。イザヤの預言が実現したのです。

現在の私たちはかつてのイスラエルの民と同じように神様の前で悪いこと罪を犯します。私たちも暗闇の中で歩んでいるのです。だからイザヤの預言は私たちにも向けられていて、神様のひとり子イエス様は私たちにも光としてお生まれになったのです。天と地と人間を造られた神様が私たち人間を救うためにひとり子のイエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は私たち人間の悪いこと罪を全部十字架の上まで背負って、そこで神様の罰を受けて死なれました。そして3日後に神様の力で死から復活されました。イエス様の十字架と復活のおかけで、世界中のみんなの罪が全部許される道が開けました。そしてこの世でも、またこの次の世でも、いつも永遠に神様が私たちとともにいて下さるようになりました。私たちはこのことを信じて受け入れると、私たちは心の中にイエス様の光をいただくのです。一番初めのクリスマスの時に天使が野原で羊の番をしていた羊飼いに現れて、イエス様がお生まれになったことを一番初めに彼らに知らせました。天使が羊飼いたちに現れた時、「主の栄光が回りを照らし」ました。イエス様を信じて受け入れると、私たちも神様の栄光の内に毎日歩むことができます。

ピパルカック、ヨウルトルットゥ、イルミネーションはクリスマスの雰囲気を暖かくします。しかし、イエス様がこの世に光としてお生まれになったという知らせは本当のクリスマスの喜びを与えて、私たちの心を温め、私たちが歩む道を毎日照らしてくれます。今年のクリスマスが皆さんにとって光のクリスマスになりますように。

 

説教「この世という荒れ野の中で主の道を整え生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章1-8節

主日礼拝説教2020年12月6日 待降節第二主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会の新年の二回目の主日です。新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救世主のこの世への降臨を待つ期間です。カタカナ語ではアドヴェントと言います。この期間、私たちの心は、2000年以上の昔に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救世主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救世主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、キリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、それじゃまた来年、と済ませるのではなく、毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は再臨の日がいつかは誰にもわからないと言われました。彼が再臨する日というのは、今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それで、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。

もちろん、私たちはこの世では、神から取り組みなさいと与えられた課題がいろいろあります。世話したり守るべきものがあればそうする、改善すべきことがあればそうする、解決が必要な問題があれば解決に努める。先週の説教でも触れましたが、宗教改革のルターも教えるように、キリスト信仰者というのは、片方ではそうしたこの世でしなければならないことをし、片方では主の再臨を待ち望む心を持っているのです。その心を持っていることが目を覚ますことです。

とは言え、イエス様の再臨というのは実は気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、一見おとぎ話みたいで可愛らしい出来事です(本当はそうではないのですが)。ところが、再臨となると先ほど申しましたように、この世の終わりとか、最後の審判とか死者の復活とか想像を絶する出来事がつきまといます。先ほど朗読した第二ペトロの日課の個所でも、創造主の神が今ある天と地に代えて新しい天と地に造り直すことが預言されていて、「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」などと言っています。誰もそんな日が来ることを望まないでしょう。

しかし、キリスト信仰者は、そのような日に目を背けず、それは自分にとって大事なことと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、イエス様を救い主と信じ洗礼を通して聖霊を注がれたキリスト信仰者は、自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。キリスト信仰者の人生は、この世を去るまではこうした罪の自覚と赦しの繰り返しです。しかし、そうすることで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を与えられて神の御国に迎え入れられます。もう罪の自覚を持つ必要はありません。

それから、この世で罪を圧し潰す側について生きると、いろいろ損することや不利益を被ることが出てきます。この世は、別に大勢に影響ないからいいのだとか、誰も見ていない、多くの人がやっているからいいのだとか、果ては、神はそんな厳しいことは言っていない、などと言います。せっかくイエス様の犠牲と復活のおかげで新しい命を得て、神と結びつきを持って生きられるようになったのに、この世はそれを失わせようとします。しかし、パウロがローマ12章で教えるように、キリスト信仰者は不利でも損でもいいからこの世の基準に倣わないで生きていきます。そして、イエス様の再臨の日に全てが逆転します。なにしろ、基準を出してくるこの世そのものがなくなってしまうのですから。今のこの世で神の意思に従って損していたことが、次に到来する世では得になります。逆もまたしかりです。

以上のことを思えば、キリスト信仰者にとって主の再臨とはやはり待ち望むに値するものであると言ってもよいでしょう。

2.

前置きが長くなりました。今日の福音書の日課を見ていきましょう。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したことが記されています。福音書の記者のマルコは、洗礼者ヨハネの登場はイザヤ書40章3節の預言の実現であると考えて、それを引用して書きました。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

聖書を注意深く読む人は、あれ、これはさっき読んだ引用元のイザヤ書40章3節とちょっと違う、と気づくでしょう。実はこれは少し大きな問題なので、後で改めてお話しします。いずれにしても、マルコは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫ぶ声は洗礼者ヨハネのことだったと見なしたわけです。

洗礼者ヨハネが人々に命じた、主の道の整え、道筋を真っ直ぐにすることとはどんなことだったのでしょうか?ユダヤ地方やエルサレムの町から大勢の人が来てヨハネに罪を告白してヨルダン川の水で洗礼を受けました。これが主の道を整えることでした。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを表す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、罪を告白して「罪の赦しに導く」悔い改めの洗礼を受けたのです。水を浴びるので罪から清められることを象徴しました。

ところが、ヨハネは洗礼を授けたものの、自分の後に来る方つまりイエス様が本当に神の怒りが及ばないようにする力がある方だと言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。どうしてイエス様の洗礼には神の怒りが及ばないようにする力や来るべき大変動を乗り越えさせる力があるのでしょうか?それは、イエス様の洗礼には、彼がゴルゴタの十字架で自分を犠牲にして人間の罪を神に対して償ったという、罪の償いをその人に注ぎ込むものだからです。洗礼を受けた人はイエス様に罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたので神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。

さらに、イエス様は死から3日後に神の途轍もない力によって復活させられました。これによって、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る扉も開かれました。洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそれを歩むことになるのです。その道の歩みで、先ほども述べたように、罪の自覚と赦しを繰り返しながら進み、主の再臨の日が来ると、罪を圧し潰す側にいて生きていたことを認められて神の国に迎え入れられます。イエス様の洗礼にはそのような力があるのです。彼の洗礼に聖霊が伴うということについて。聖霊とはそもそも洗礼を受けた者が罪の自覚を持つようにと促し、自覚を持てば今度は心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが微動だにせずにあることを知らせてくれる方です。それで聖霊が伴わなければ、罪の自覚は生まれず、罪を圧し潰す生き方も出来ません。逆に、罪の自覚は生まれても心の目をゴルゴタの十字架に向けさせることがなかったら、絶望に陥ってしまいます。そのように聖霊は信仰者が神との結びつきを失わずにそれを一層強める働きをして、信仰者を主の再臨の日に備えさせてくれるのです。

ヨハネの洗礼にそのような力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせる印でした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。

3.

そうすると、イザヤ書の預言は洗礼者ヨハネがユダヤ地方やエルサレムの人たちに、イエス様を迎える準備の洗礼を授けたことで完結したことになります。ところが、預言はそこで完結していないのです。

イザヤの預言をよく見てみましょう。マルコが引用した預言はこうでした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

引用元のイザヤ書40章3節はこうです。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」

よく見比べると、マルコの引用では、叫ぶ声は荒れ野で叫ぶことになっています。引用元は、声の場所はどこと言っていません。「荒れ野」は声がする場所ではなくて、道を備える場所が荒れ野です。マルコの引用では、主の道を整える場所はどことは言っていません。「荒れ野」はあくまで声がする場所です。それなので、この声はユダヤの荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネを指すことになったのです。ところが引用元の文では、声がする場所は何も言われていません。それでもし、これをそのまま引用してしまったら、叫ぶ声がヨハネの声だと自信をもって言えなくなります。さて、マルコは、叫ぶ声の主が洗礼者ヨハネだと言いたいがために、元の文を改ざんして「荒れ野」という言葉を「道の整え」から切り離して「声」の方にくっつけたのでしょうか?イエス様にまつわる出来事はみんな旧約聖書の預言の実現だと言いたいがためにそういう小細工をしたのでしょうか?

そういうことではないのです。イザヤ書のヘブライ語の原文を見ると、確かに、声がする場所は何も言われていません。「荒れ野」は主のために道を備える場所です。マルコの引用では「荒れ野」は声がする場所になっています。実を言うと、マルコはイザヤ書のこの個所をギリシャ語版の旧約聖書に拠っているのです。旧約聖書にはヘブライ語版だけでなくギリシャ語版もあるというのは、紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国が地中海地域の東半分を征服して、地域のギリシャ語化が進んだことが背景にあります。ヘブライ語よりもギリシャ語がわかるユダヤ人のために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたのでした。イザヤ書40章3節で「荒れ野」が叫ぶ声の場所になっているというのはギリシャ語版なのです。

そうすると、翻訳者が間違ったのかと言うと、そうとも言えないのです。これはヘブライ語の旧約聖書がどのようにできたかという大問題になるのでここでは立ち入りません。簡単に言うと、翻訳者たち(伝説では70人いた)が目の前にした、動物のなめし皮に刻まれたヘブライ文字の羅列はどっちにも取れる書き方だったのです。「荒れ野に」(במדבר)という言葉は、叫び声がする場所と見ることも出来たし、道を整える場所とも見ることも出来たのです。(私個人の感想では、ヘブライ語のテキストを何度も見るとやはり、道を整える場所ではないかなと思われるのですが、でも声の場所も捨てがたく、とても悩ましいところです。)

そういうわけで、マルコはギリシャ語版に忠実に従っただけで、翻訳者たちも間違いを犯したわけではないことがわかります。そうすると、イザヤ40章3節は、叫び声が荒れ野でしたと言って、それが洗礼者ヨハネを指し、彼の活動をもって実現したということになります。そうなると、この預言は過去に完結したことになって後世には関係ないことになります。しかし、実はそうではないのです。もう一つの理解の可能性、「荒れ野」は主の道を整える場所と考えたら、現代を生きる私たちに関わる預言になるのです。

4.

イザヤ書40章から55章までの部分は額面通りに取ると、紀元前6世紀にバビロン捕囚の憂き目にあったユダヤ民族の祖国帰還を預言する内容になっています。荒れ野に道を整えるというのは、まさに中近東の荒野を通って、蜜と乳が溢れる祖国に帰還する道ということになります。40章2節で、民の苦役の時は満了になった、民は犯した罪に対して二倍の苦汁をなめたのでその償いは十分過ぎるほど果たした、ということが言われています。これは、イスラエルの民がかつて神に背き続けて罰として国滅ぼされ異国の地に連行されて辛酸をなめたことを指すと普通は解されます。このようにイザヤ書40章の預言は、バビロン捕囚期のユダヤ民族からすれば、もうすぐ祖国帰還が近いという希望の預言でした。それは実際に紀元前6世紀の終わりにその通りになりました。

ところが、祖国に帰還できてエルサレムに神殿を再建したものの、ユダヤ民族は立て続けに大帝国の支配下に置かれ続けました。ダビデの子孫が王となって諸国民が創造主の神を崇拝に集まって来るという預言には程遠い状況でした。しかも、エルサレムの神殿で行われる神崇拝は本当に神の意思に沿うものか疑問視する見方も強まりました。それで、イザヤ書の預言は祖国帰還なんかで実現したのではなかった、40章5節で荒れ野に主の道を整えると全ての人の目の前に主の栄光が現れるという預言はまだ実現していない、だから道を整えるというのは過去の祖国帰還のことではなく、もっと別の大きなことなのだという理解になっていきます。イザヤの預言で神が意図したのはそれだったのです。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。

イエス様の十字架の死と死からの復活の後で、イザヤ書の預言は特定民族の歴史上の期待を超えた、もっと大きな普遍的なことを意味していたことが明らかになりました。全ての人間が万物の造り主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようにと、そのために神のひとり子が私たちに贈られました。そのひとり子が私たち人間に代わって罪の償いを神に対して果たしてくれて、死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さったのでした。イザヤ書40章の冒頭で、罪の罰を倍以上受けて神にそれでもう十分と受け入れられたことが言われていました。これはまさしく、神のひとり子の神聖な犠牲の死のことだったのです。

洗礼者ヨハネが人々に道を整えよと命じたのは、心にイエス様を迎える準備をしなさいということでした。そのために罪の自覚を抱かせて、救い主を受け入れるしかないという心にして、もうすぐ聖霊を伴って洗礼を授ける方が来られるので心配しないで待ちなさい、というものでした。

私たちキリスト信仰者にとって、主の道を整えるというのは、本説教の最初でも申しましたような、罪の自覚と赦しを繰り返しながら神との結びつきを強め罪を圧し潰していく生き方をすることです。その時、この世がいろいろなことを言って、そのような生き方から離れさせようとします。それでこの世はまさしく主の道を整える場所なので、「荒れ野」になります。この世の中で神との結びつきを強める生き方をすることが、荒れ野の中で主の道を整えることになります。だから、イザヤ書40章3節の預言は私たちに向けられた預言なのです。そのようにしてこの世という荒れ野を進む私たちを父なるみ神は守って導いて下さることもイザヤ書40章で次のように約束されています。

10節「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」主のかち得られたもの、主の働きの実りとは、イエス様が果たしてくれた償いを洗礼を通して自分のものとしたキリスト信仰者のことです。それがこの世にあって御もとに従い、御前を進むのです。

11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって小羊を集め、懐に抱き、その母を導いて行かれる。」神との結びつきを持って生きる者は、このように守られて導いてもらえるということです。それでは、どこに導いてもらえるのか?罪を圧し潰す側についていれば、この世が仕掛ける障害物はみな、谷が埋められ山と丘が平らにさせられるように倒されて行きます。そして最後に、

5節「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に(יחדו同時に)見る。」罪を圧し潰す側にいた者も、それを邪魔した者もみな一緒に主の栄光を見る日が来ます。その日はまさにイエス様の再臨の日です。

ここで一つ忘れてはならない大切なことがあります。本日の使徒書の日課第二ペトロで言われていたように、神の意思は多くの人がイエス様の救いに与り、罪を圧し潰す生き方に入れるようにすることです。そのために再臨の日を延ばしてくれているのです。でも、それはいたずらに延ばすことでもないと言われています。まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼を受けていない人たちが、洗礼者ヨハネの呼びかけに応じた人たちのように心の中で主を迎え入れる準備が出来るように、父なるみ神に祈らなければなりません。

6、7節「人間は全て草のよう。その華やかさ威光は野の花のよう。草は枯れ、花は散る。なぜなら神の一息が吹きかけられたからだ。」人間はそのままの状態では神の前に立たされる時、枯れて散ってしまうだけです。

8節「草は枯れ、花は散る。しかし、神の言葉は永遠に保たれる。」この永遠に保たれる神の言葉を自分のものとする者は枯れることもなく散ることもなく、同じように永遠に保たれます。「神の言葉」とは、イエス様を介して永遠の命に至るという福音であり、またヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様そのものなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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宣教師の週報コラムから「今日はフィンランドの独立記念日」

Janne Karaste, Suomen lippu, valokuva, CC BY-SA 3.0 12月6日の今日はフィンランドの独立記念日。毎年恒例の大使館でのレセプションも今年はコロナ禍のため最初は招待客を50人に絞って、私とパイヴィもその中に入れて名誉なことと思ったが、 案の定、大使からメールが来てそれも中止となった。

フィンランドの12月6日は独特な雰囲気のある日であったことをよく覚えている。家ではパイヴィが子供たちとピパルカックを作り、晩は大統領官邸でのレセプションのテレビ中継を見たものだ。その日のテレビ番組は第二次大戦の出来事を特集する番組が圧倒的に多く、フィンランド人はいかに独立したかよりも、いかに独立を守ったかの方に関心があるのかと思ったものだった。

それは理由のないことではない。1917年の独立当時のフィンランドは国内は分裂状態で、独立後も、左右イデオロギーの対立、都市部と農村部の対立、フィンランド語系とスウェーデン語系の対立が激しく、今風に言えば「分断国家」であった。それは徐々に解消に向かうが、それを一気に解消したのが第二次大戦での(当時の)ソ連との戦争であった。外的な脅威に対して国民が一致団結したのである。

戦時中の標語に、祖国(isänmaa)自由(vapaus)信仰(usko)の3つが守られるべきものとして唱えられた。「祖国」とは日本風に言えば「兎追いしかの山」であり、「自由」とは自由と民主主義の政治体制であり、「信仰」とはルター派教会である。フィンランド人は国家的困難によく耐え乗り越え、M.ヤコブソンが言ったように、第二次大戦に参戦した欧州の国で英国とフィンランドのみが占領を免れ戦前の国家体制を維持できた国だったのである。

「戦前の国家体制の維持」と聞くと、日本人は顔をしかめるかもしれない。なぜなら、それはかつて丸谷才一が言ったように、お上に盾をついたと言いがかりをつけられないようビクビクしなければならない体制だったからだ。しかし、フィンランドは戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた。(そんな国がなぜ最後はドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)

さて、今のフィンランド人に守るべきものは何かと聞いて、上記の3つは果たして出てくるだろうか?「信仰」が危ういかもしれない。1990年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属していたが、以後国民の教会離れが急速に進み、現在は70%を割ってしまっているからだ。戦時中は大統領から国民に至るまで3つが守られるよう懸命に神に祈ったものだ。ソ連との交渉に臨む代表団がヘルシンキ中央駅を出発する時、見送りに来た群衆が一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら」を歌って送り出した気概はもうないだろうか?

説教「君は主の再臨を待ち望むことができるか」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書13章24-31節

主日礼拝説教2020年11月29日 待降節第一主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.今日は教会の新年

今日は待降節第一主日です。教会のカレンダーではこの日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を見守り、皆様自身も神の愛と恵みの中にしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みとご健康を神が豊かに祝福して下さるように。

スオミ教会では待降節第一主日に讃美歌307番の「ダビデの子、ホサナ」を歌っています。これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統がありまして、今もほとんどの教会でそうしていると思いますが、まず、朗読される福音書の日課が決まっています。イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉です。ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ている言葉で、もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

その福音書の個所が朗読される時、歓呼の直前で朗読は一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり始めます。そこで教会の会衆が一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。

しかしながら、今年は残念なことにコロナの第三波のためにフィンランドも今20人以上の集会が禁止されてしまったので、教会に行けない人たちは自宅でテレビの中継かインターネットのライブを見ながら歌うしかないでしょう。スオミ教会もそうなのですが、しかし、来年こそはまた大勢で集まって一緒に歌うことが出来るように父なるみ神にお願いしましょう。(そこでお知らせですが、待降節第一主日の礼拝の後、スオミ教会のホームページにフィンランドのどこかの教会の「ダビデの子、ホサナ」の斉唱の場面を載せています。今年は過去の録画をお見せすることになりますが、いつもこんな雰囲気なんだなと味わっていただけたらと思います。)

2.主の再臨は本当に待ち望みたい日なのか?

前置きが長くなってしまいました。本題に入ろうと思いますが、実は本日の福音書の日課で困ったことが起きてしまいました。それは、例年ですと福音書の日課は先ほど申しましたように、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。マルコ11章、マタイ21章、ルカ19章の個所が毎年交替で待降節第一主日の日課になっていました。それで「ダビデの子、ホサナ」を歌ってきました。

ところが、今年の日本のルター派教会に定められた待降節第一主日の日課は先ほど朗読しましたように全然違う個所です。マルコ13章のイエス様の預言のところからです。イエス様の預言は今のこの世が終わる時に彼が再臨するという、いわゆる終末についてです。それでマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれます。先週は聖霊降臨後最終主日で福音書の日課も定番の、マタイ25章の最後の審判についてでした。このように教会のカレンダーの最後の主日は最後の審判をテーマにして自分たちの信仰を自省して、新年の今日は景気よく「ダビデの子、ホサナ」を歌って明るく始めよう、そう期待していたのに、さすがに私も、なんだこれは、話が違うじゃないか!と思わず唸ってしまいました。誰が何の基準で決めたのか追求したい気持ちでしたが、そんな時間もなく、不本意ですがこの決められた日課に従って今日の御言葉の解き明かしをしてまいります。これはきっと、自分の思いや期待を引き下げて父なるみ神の思いに服させるための訓練なのでしょう。

ただ、よく考えて見ると、待降節に主の再臨やこの世の終わりについて心を向けるのは、あながち場違いなことではありません。待降節というのは神のひとり子が人として天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた日、クリスマスのお祝いを準備する期間です。クリスマスのお祝いの準備というと、フィンランド人ならすぐ、大掃除と飾りつけ、クリスマス料理や菓子、プレゼント、カード、家族の集まりということが人々の頭を支配します。しかし、本当の意味でのクリスマスのお祝いの準備は、今から2000年以上も昔ベツレヘムの馬小屋でおとめから生まれるという形を取った救世主メシアの到来、これを待ち望むということです。

既に過去に起こったことなのに、今それを待ち望むというのはどういうことか?それは、2000年以上前にメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いとすることです。マリアに抱かれた赤子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナと同じように待ち望むことです。大掃除や料理等は「待ち望む」ことに色を添える付属品のようなものです。もちろん、なかったら寂しい感じですが、しかし仮になくても「待ち望む」ことをしてクリスマスの礼拝を感謝と喜びを持って行えればそれで待降節の目的は達せられたというものです。そこで、同じように「待ち望む」人たちと一緒に礼拝をしたりお祝いをしたら、喜びと感謝はもっと大きくなるでしょう。

しかしながら、クリスマスが終わったらどうなるでしょうか?もう、「待ち望む」季節は終わった、また来年、ということでしょうか?実はそうではないのです。イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられました。彼は再び降臨すると約束されました。最初の降臨は馬小屋で起こり、みすぼらしくほとんど誰にも知られないものでした。次の降臨すなわち再臨は、本日の福音書の個所でイエス様自身が言われるように、誰も目も開けられないような神の栄光の輝きを放ち天使の軍勢を従えて全世界が目撃するものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造し、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられるか入れられないかの最後の審判が下されるという想像を絶することが起きます。

それなので私たちが今生きている時代というのは、実はイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間なのです。再臨の日がいつなのかはイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にもわかりません。だからその日がいつ来ても大丈夫なように目を覚ましていなければならないとイエス様は言われます。その日がいつ来ても大丈夫なように目を覚ますとはどういうことでしょうか?目を覚ましていれば、そのよう想像を絶する天地の大変動が起こっても大丈夫でいられる、そんな目の覚まし方があると言われるのです。

しかし、そうは言っても、誰もそんな日を待ち遠しいなどとは思わないでしょう。イエス様が再び来てくれるのはありがたいが、今ある天と地が崩れ去るとか、最後の審判とかがあるんだったら来ない方がいい、というのが人情でしょう。しかし、聖書の観点は、今ある天地は初めがあったように終わりもある、そして終わりがあっても神は創造主なので前と同じように新しく造られるという終末論と新創造論が合わさったものです。そういう聖書の立場に立ったら、この世の将来はそうなると観念するしかありません。しかも、新しく造られた天と地に誰が入れるか入れないかという問題について、神は神聖で義なる方なので人間がこの世でどんな生き方をしたかを問うてくる。そこで、自分はそんな遠い未来の前にこの世から去るから関係ないと言っても、まさにその遠い未来に死者の復活が起こり、再臨の主はその時点で生きている人と死んだ人を裁かれます。まさに、伝統的なキリスト教会の信条集の中で唱えられている通りです。

さあ、大変なことになりました。今の時代はイエス様の再臨を待つ時代だという。しかし、それは最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の馬小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話と全然違います。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、いくら避けられないものはいえ、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の正直な気持ちではないでしょうか?出来れば自分の生きている時代には起きないでほしいというのが。しかし、本日の使徒書の日課第一コリント1章7節で言われるように、キリスト信仰者とは主の再臨を待ち望む者なのです。どうしてそんな日を待ち望むことができるのでしょうか?

3.神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていれば

そこでルターが主の再臨の日を迎える心構えについて教えているので、まずそれを見てみましょう。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21章34ー36節)

これについてのルターの教えは以下の通りです。

「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、これらのことがあなた方の心を支配して、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならない。』

 我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくない。人生に二つの手があると考えてみよう。左手ではこの世の人生を生きるべきである。右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて言葉に表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。この世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように振る舞っているだろう。しかし、キリスト信仰者たちよ、あなたたちがキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はない。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間である。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出され、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実として明るみに出されるからだ。

 以上、「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、というルターの教えでした。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。もし殺人や姦淫を犯していたら、ちゃんと神の前で赦しを祈り求めイエス・キリストの御名によって赦しを与えられた者として相応しく生きたかどうかが問われます。イエス様はまた、行為で行わなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、誰も神の前で自分は潔白です、やましいところはありません、などと言えません。

 神は人間が神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に神の意思に反するもの、すなわち罪をもつようになってしまったので、そうなれないのです。そこで神は人間を神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った時には復活の日に眠りから目覚めさせて復活の体を与えて永遠に神の国に迎え入れてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられて本当は人間が受けるべき神罰を受けて死なれ、私たち人間の罪の償いを神に対して下さいました。罪を償われた人間は罪と罪がもたらす永遠の死から贖い出されます。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価にして人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。神はそれくらいのことをしてもいいと思う位に私たちのことを価値あるものと見なして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、死を超えた復活の体と永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間のために開かれました。

このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償い私を罪の支配から贖うためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人のものになっています。罪が償われたから、神からは罪を赦された者としてみなされるようになります。神から罪を赦されたというのは、神はもうあなたの過去の罪を問わない、だからあなたはイエス・キリストの義を衣にしてそれを纏って生きていきなさい、ということです。神は私たちキリスト信仰者をその衣を纏う者として見て下さいます。これで最後の審判は大丈夫です!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにと、それでイエス様は自らの命を投げ捨ててまで神罰を受けられたのです。私たちとしては神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け取るだけで神の目に適う者にされたのです!それで神の前に立つ時、「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。イエス様以外に私には主はいません」と弁明することができます。

実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限り、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられます。神の前で何も恐れる必要はないのです。「イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主です。それでこの神の恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきました。」

このように言っても、これは誰も否定できない真実です。やましいところは何もありません。まさに潔白な良心です。

4.やはり、主の再臨の日は待ち望むに値する日なのだ

そこで問題になるのは、神によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまうことです。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さなくても心の中に現れてくることです。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。そのような時はどうしたらよいのでしょうか?

その時は、すぐそれを神に素直に認めて赦しを祈り願います。神への立ち返りをするのです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている、十字架のイエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道を進んでいきます。

このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指しているのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは一層強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。これが目を覚まして生きることです。霊的な目の覚ましです。このように霊的に目を覚まして生きていれば、最後の審判の時に主は信仰者が罪を破綻させる側についていたことを認めて下さいます。その時、本日の使徒書の日課第一コリント1章8節の御言葉「主は最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」が本当にその通りになります。「非の打ちどころのない者」とは原文のギリシャ語(ανεγκλητους)では「罪に定められない者」、「罰を受けない者」という意味です。この世の人生の歩みにおいて罪の自覚に苛まれ続けたキリスト信仰者は、ここでもうその自覚を持つ必要がなくなります。なんという至福でしょうか?それが起きる主の再臨の日はやはり来てほしい日ではないでしょうか?

それから、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てきます。というのは、そのような生き方をするとパウロがローマ12章で命じることが当然のことになってくるからです。悪を嫌悪せよ、善にしっかり留まれ、お互いに対して兄弟愛を心から示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たち者たちと共にいることに熱心になれ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和に暮らすことがキリスト信仰者にかかっているという時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が破られた状況を神の怒りに委ねよ、復讐は神のすること神が報復するからだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、それをすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝ってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。

このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しを繰り返せばこんなふうになっていくとわかってはいても、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることもあります。しかし、主の再臨の日、信仰者は、あの時はいろいろ迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、と本当にわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり「待ち望む」日なのです。先ほど見たように、ルターは再臨の日のことを「永遠の幸いを得る瞬間」と言っていました。真にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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吉村宣教師が説教で紹介していた、フィンランドの教会の待降節第1主日の礼拝で「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)。是非、雰囲気を味わって下さい!

来年の待降節では是非スオミ教会で歌いましょう!

 

 

12月の手芸クラブのご報告

アドベントに入り、クリスマスツリーの飾られた教会で、手芸クラブは開かれました。

コロナ渦の為、テーブルを長くして、間隔を取り、一列に並んでの開催になりました。

初めての編み物に挑戦の方や、大きなマフラーを根気よく完成されたり、ルームシューズの完成形が見えて喜んだりと、まちまちの参加者は、パイヴィ先生から優しくご指導頂きました。

編み物の後は、クリスマスのお話を聞かせて頂きました。

次回の手芸クラブを楽しみにしています。


手芸クラブの話2020年12月

この前の日曜日、アドベントの期間に入りました。キリスト教会では、クリスマスの前の4週間をアドベントと呼びます。日本語では待降節と言います。アドベントは「クリスマスを待つ」という意味がありますが、クリスマスを迎える準備をする期間です。フィンランドではクリスマスは、一年で最も暗い季節における光と温かさのお祝いです。フィンランド人は、アドベントになるとクリスマスの準備で忙しくなります。
クリスマスの季節は楽しいことが多い、特別な雰囲気があるとても素敵な季節です。クリスマスの準備にすることは、クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマス料理やお菓子を作ることがあります。それぞれの家族にあるクリスマスの伝統は子供たちに伝わっていきます。クリスマス料理を子供たちと一緒に作ったら、家族の味は世代から世代へと伝わっていきます。子供たちはお母さんが作ったクリスマス料理の味を覚えて、同じように作りたいと思うからです。

もう一つとても大切な準備があります。それは、クリスマスを迎えるための心の準備ということです。それはどんな準備でしょうか?それは、アドベントの期間に教会の礼拝に参加したり、聖書を読んだりして、クリスマスの意味を考えることです。フィンランドでは毎年アドベントになると「美しいクリスマスの歌kauneimmat joululaulut」という行事がどの教会でも行われます。この行事は、教会が一杯になるくらいに人が多く集まるので、とても人気があります。そこで何をするかというと、集まった人たちが皆一緒にクリスマスの歌を沢山歌います。歌うことを通してクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめます。今年は残念ですが、クリスマスの歌を歌うために教会では集まることは出来ませんが、多くの教会はこの行事を外で行ったり、オンラインで行います。

人々は、アドベントの期間に様々な準備をして、自分でクリスマスの雰囲気を作ります。しかしながら、クリスマスは本当は雰囲気のことではありません。クリスマスの本当のメッセージがクリスマスをつくるのです。クリスマスのメッセージとは、一番最初のクリスマスの日の真夜中に、野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れて言った言葉です。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この一番最初のクリスマスの時、この世に救い主がお生まれになりました。救い主イエス様は私たち一人一人のためにお生まれになったということが、「ヨハネの手紙1」の中で次のように言われています。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

クリスマスの一番大事なことはクリスマスのための準備や雰囲気ではありません。重要なのはクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめることです。最初のクリスマスの時にお生まれになったイエス様とは何者で、なぜこの世に送られたのかを心の中で考えてみることは大切ではないでしょうか。イエス様が送られた神様は人間の罪を赦して下さる神で、私たち人間にそのような愛を示してくださいました。私たち人間が罪の力から救われるためにイエス様をご自分のもとかた遅られ、イエス様は母マリアから人としてお生まれになりました。このように初めてのクリスマスには神様の人間に対する愛が表れました。この愛は、私たちに喜びと感謝と賛美の気持ちを与えてくれます。クリスマスは、本当に喜びと感謝のお祝いです。皆さんにとって、今年のアドベントとクリスマスが神様の与えて下さる喜びであふれる時になりますように。

説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

主日礼拝説教 2020年11月22日 聖霊降臨後最終主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は聖霊降臨後最終主日ですので教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってましたとばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。私などいつも、待降節までまだ1週間あるのにと思ったものです。しかも近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。

誰も、最後の審判の時に自分が神からどんな判決を下されるか、そんなことは考えたくないでしょう。本日の福音書の個所はまさに最後の審判のことが言われています。説教者にとって頭の重いテーマではないかと思います。あまり正面切って話すと信徒は嫌になって教会に来なくなってしまうのではないかと心配する人もいるかもしれません。しかし、聖書にある以上は取り上げないわけにはいきません。そういうわけで今日はこの礼拝を通して皆さんと一緒に自分たちの信仰を自省することができればと思います。

本日の福音書の箇所ですが、最後の審判について言われていますが、これはまたキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助けるように駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て支援に乗り出して行きます。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、地域の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派を越えてキリスト教のあり方そのものに関わります。善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だってイスラム教徒だって果てはヒューマニズム・人間中心主義を標榜する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すればみんなこぞって神の国に入れると言ってしまったら、ヨハネ14章6節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言えば、本日の箇所は善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も信仰による救いを教えていることがわかります。これからそのことをみてまいりましょう。

2.イエス・キリストの兄弟グループ

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場では人々のグループは二つではなく、実は三つあります。何のグループか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτων)なので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは」となります。つまり、第三のグループとしてイエス・キリストの兄弟グループもそこにいるのです。主は兄弟グループを指し示しながら、羊と山羊の二グループに対して「ほら、彼らを見なさい」と言っているのです。

それでは、このイエス・キリストの兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような程度の低さも意味します。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。

それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えが得られます。そこでイエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、伝道に派遣します。その際、伝道旅行の規則を与えて、迫害に遭っても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒を受け入れる者は使徒を派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41ー42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ18章6節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことを言っているので、「小さい者」は子供を指しません。使徒たちです。

使徒とは何者か?それは、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめよ、自分が行う業をしっかり見届けよ、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという良い知らせ、つまり福音を命を賭してでも宣べ伝えよ、と選ばれた者たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。イエス様は弟子のことをどうして「小さい」とか「取るに足らない」などと言われるのか、それは、彼が別の所で弟子は先生に勝るものではないと言っているのを思い出せばよいでしょう(マタイ10章24節、ルカ6章40節)。

マタイ10章では、使徒を受け入れて冷たい水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。

3.使徒たちが携えてきた福音を受け取ること

これで、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを一般的に社会的弱者・困窮者と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは怒ってしまうかもしれません。支援の対象は福音を宣べ伝える使徒だなどとは、なんと視野の狭い解釈だ、と。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう一般の弱者・困窮者の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということです。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。あとでそのことも明らかにしていきます。

それから、子供を助けるということに関して聖書が果たした重要な役割についてひと言述べておきます。古代のギリシャ・ローマ世界には生まれてくる子供の間引きが当たり前のように行われていました。この慣習に最初に異を唱えたのがユダヤ人でした。なぜなら旧約聖書に基づいて人間は全て創造主の神に造られ、人は母親の胎内の中にいる時から神に知られているという立場に立っていたからでした。続いて旧約聖書を引き継いだキリスト教が地中海世界に広まるにつれて間引きの慣習は廃れていきました。この歴史的過程とそこで影響を与えた聖書の個所やその他のユダヤ教・キリスト教の文書についての研究もあります。代表的なものとしてE.コスケン二エミが2009年に出した研究書があります(”The Exposure of Infants among Jews and Christians in Antiquity”)。私の記憶では、その中で本日の福音書の個所は分析の対象に入っていなかったと思います。

さて、使徒というのは、イエス様の教えをしっかり聞きとめ、彼の業をしっかり見届けた者たちです。さらに彼らは、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方で福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。そのような例は使徒言行録にも見ることができます(17章のヤソンとその兄弟たち)。

その意味で支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。

4.キリスト信仰の隣人愛

これで、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らを支援したのは彼らが携えてきた福音を受け入れたからであることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントだとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の時代には受け入れて守ってあげるのは、福音を携えてきた使徒たちでした。使徒たちがこの世を去った後は受け入れて守ってあげるのは、使徒たちが携えてきた福音ということになります。もし仮に使徒たちが生きているとしたら、私たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。

 ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて復習しておきましょう。福音とは、要約して言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻してもらったという、素晴らしい知らせです。どのようにして神との結びつきを取り戻してもらったかというと、人間は堕罪の時以来、神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなりました。この世を去った後も自分の造り主である神の御許に永遠に戻れなくなってしまいました。そこで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部負わせてゴルゴタの十字架の上で彼に神罰を下し、人間の罪を人間に代わって償わせました。あとは人間の方が、これは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だと信じて洗礼を受けると彼が果たした罪の償いが自分のものになります。罪の償いが果たされたのだから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。罪が赦されたのだから神との結びつきが回復して、その結びつきを持ってこの世を生きることになります。この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。以上が使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。

 人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかると、もう神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかればわかるほど、自分の利害がちっぽけなこともわかって、自分の持っているものに執着しないで、それを他の人のために役立てようという心になっていきます。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に沿うように生きるという時の「神の意思」について述べておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つです。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。何か願い事があればこの神にのみ打ち明けて祈り、他の何ものにもそうしないこと。感謝することがあれば同じようにこの神にのみ感謝し、他の何ものにもそうしないこと。悲しいこと辛いことがあればこの神にのみ助けを求め、他の何ものにも求めないこと。これが神を全身全霊で愛することです。このような愛は、神から受けている恩寵がわからないと持つことは出来ません。

隣人愛の方は、キリスト信仰では、神への全身全霊の愛を土台にして実践することになります。それなので隣人愛を実践するキリスト信仰者は、神を唯一の神としてしっかり保たれているようにしているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取って将来は神の国に迎え入れられるようになることを望んでいます。キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。

5.福音に対する態度決定の問題

以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の恩寵の前では自分の利害などちっぽけなものになって自分の持っているものに執着しなくなってそれを他の人のために役立てようとします。またキリスト信仰者になると神の意思に敏感になるので自分には罪があると自覚するようになり、まさにそのために十字架に立ち返り、罪の赦しの恩寵を自分の内に新たにします。そこでまた自分の利害がちっぽけなものになり、他の人のために役に立とうとします。

ここで次のような疑問が起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?そもそも聞いていないので態度を決めること自体できなかったのに、お前は福音を受け入れなかった、だから地獄の炎に投げ込まれるのだ、というのはあんまりではないか?

 そこで福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、最後の審判の時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たち、つまり殉教者たちです(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13ー15節)。「それ以外の者たち」とは殉教者以外の人たちですが、どんな人たちがいるかと言うと、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守らねばならない極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。それから信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、ひとつには洗礼を受けたがそれが何の意味も持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

洗礼を受けたがそれが意味を持たない生き方をした人たちについて、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。

次に福音を伝えられたが洗礼を受けなかった人について、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に心の中で改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。

最後に福音そのものが伝えられなかった人たちについては次のようなことが考えられます。人間はこの世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねることになると気づきます。それに気づくと、その大いなる者は果たして自分を受けとめてくれるのかどうか心配が起きます。自分には至らないことがいろいろあって、その大いなる者は受け入れてくれないかもしれない、しかし自分の力ではもう治すことが出来ない、誰かに執り成してほしい。そのように一瞬でも思えればイエス様との出会いはすぐ目の前です。

この時イエス様を受け入れる素地が出来たと言えるのですが、さて神はどう思われるか?やはり、イエス様を受け入れること自体がないとダメと言われるのか?素地だけでは不足だと?これらことは私たちにはわからないことなので、その人の処遇はもう神に任せるしかありません。

この世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねる時、その大いなる者は自分を受け入れてくれるかどうかという問題について、実はキリスト信仰者というのは心配する必要がない者たちです。どうしてかと言うと、次のように祈ることが出来るからです。父なるみ神よ、私はイエス様が果たして下さった罪の償いと赦しを衣のように纏って、剝ぎ取られないようにしっかり纏ってきました。その衣の神聖さの重みで私の内に残っている罪を日々圧し潰してきました。神よ、これが私の全てです。今あなたにお委ねします。どうかお受け取り下さい。このようにキリスト信仰者はこの世を去る時に誰に対して何を言うべきかということがはっきりしているのです。

6.おわりに

最後に、このイエス様の教えについて一つ忘れてはならない大事なことを述べておきます。それは、先週の3人の家来のたとえと先々週の10人のおとめのたとえが警告の教訓話であると申し上げたことです。同じことが本日の個所にも当てはまります。つまり、山羊のようにならないために今からでも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、イエス様が果たした罪の償いをまだ自分のものにしていない人たちに対しても早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方を始めなさい、ということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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