9月20日(日)聖霊降臨後第16主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年9月20日(聖霊降臨後第十六主日)

ヨナ3章104章11節、フィリピ1章2130節、マタイ20章116節

説教題 「神の国への入門講座

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、イエス様のブドウ畑の所有者と日雇い労働者のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中を働いた人たちが夕暮れ近くの最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だっので、それに対して所有者に不平を言う。所有者は、朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。1デナリオンというのは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか。もっとな話です。それに対して所有者は、「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることに対してお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしているのを正しくないと言って覆すつもりなのか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。

これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金ということで、先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が1,000円ちょっと、それで12時間働いたら12,000円です。12時間働いた人がその額をもらった時に、おい、聞いたか、1時間の奴らも同じだってよ、なんて聞かされたら心穏やかではなくなるでしょう。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて一番苦労した者は一番短く働いて一番楽した者と同じ扱いを受けても当然と思わなければならないということなのか?でも、このたとえに何の自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が12,000円もらえたのは一番長く働いた人のおかげということはありません。専ら所有者が自分はそうすると決めてそうしただけです。一番長く働いた人は最初に同意した額は減らされたりしていません。

ここでのイエス様の趣旨は、所有者の給与の払い方を私たちの現実の生活にあてはめよ、ということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国はブドウ園の所有者にたとえられると言います。「天の国とは天地創造の神、万物の造り主がおられるところです。「神の国とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。

「神の国」がブドウ畑の所有者に、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の意思、考え方が貫かれている国だということです。つまり、ブドウ畑の所有者のような考え方をするお方が「神の国」を体現しているということで、この所有者は神を意味します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、ということを教えているのです。そういうわけで、本説教ではそのことについて以下の3つの点に注目して見ていこうと思います。まず、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか期間の長短は問題ではないということ。次に、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。最後に、神の国に迎え入れられる者になったら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。そういうわけで本説教は神の国に迎え入れられることについての基本をお教えします。、まさに神の国への入門講座です。

2.イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたのが早い遅いは関係ない

神の国に迎え入れられるとはどういうことでしょうか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観に結びついています。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。死生観は、人間はそういう罪を持つがゆえに神聖な神から切り離された状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神から離れた状態でこの世を生きなければならなず、この世を去った後も最後の審判の時に神聖な神の前に立たされた時に申し開きが出来ないということです。そこで神が、これではいけない、人間が自分と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。

それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして人間の罪の問題を解決したのでしょうか?それはまさに、彼に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は計り知れない力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることを天地に示し、その命に至る扉を人間に開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。

そしてこの後は、人間がこれらの出来事は自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その時、その人は罪を償われた者と神から見られ、まさに神から罪を赦してもらった状態に置かれます。それで神聖な神の目に適うものとなって神との結びつきを持ってその道を歩むことになります。最後の審判の時も、イエス様を救い主と信じる信仰を持って生きていたことが決め手となって神の国に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。それを人間に命を賭してまで整えて下さったイエス様は真に救い主です。

ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。ある人は、親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。別の人は、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受ける場合があります。子供の時からずっとキリスト信仰者である場合、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合があります。どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者として生きた期間が長かったから迎え入れられやすいとかそういうことはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。

そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取らないということがわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっているので、誰も信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆に、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあなたも私と全く同じ値で与ることが出来て本当に良かった、そう言ってくれます。

ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、何らかの事情でイエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があうということです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れられはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れようと思います。

3.人間の能力や業績によるのではなく神のお恵みで迎え入れられる

次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは、実は前の章、19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞いたところです。イエス様は十戒のうち隣人愛に関する掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。

このイエス様と青年の対話の中で、若者が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。ここでは話が善い「こと」から善い「方」へ、事柄から人格へ変わるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は「善い」は神だけが持つ、「善い」を体現しているのは神しかいないと言い換えるのです。つまり、そもそも「善い」を体現していない人間が神の国に迎え入れられるような「善い」ことが出来ると考えるのは外れているというのです。「善い」ということについて考えたり口にする場合、神が出発点にならないといけないのに、青年は人間を出発点にしているのです。

このように、神のもとだけに「善い」がある、神が「善い」を体現しているということを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければいけないのです。

イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。この神が「善い」方ということが本日のたとえの中にまた出てくるのです。本説教の最初でも申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方とも元のギリシャ語では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまうのですが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられることは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈られて彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解き放って永遠の命に向かってしっかり歩めるように全てを整えて下さったということです。

4.罪と戦うという仕事

神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくと言ったら、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?そのように言われるかもしれません。それなら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れの時にみんなを集めてお金を渡してもいいのではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがあるということではないのか?そのしなければならないこととは何か?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって教会の礼拝に通い、ちゃんと献金をして人助けや慈善活動をすることか?それが、若い時からずっとしてきた人と晩年になってからするようになった人を神は同等に扱って下さるということなのか?

もちろん、そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあって出てくるものです。それがないと、教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、根本的なこととは何かと言うと、それは、キリスト信仰者には罪と戦うという仕事があるということです。

パウロが「ローマの信徒への手紙」で教えているように、人間は洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられます。古い自分が死んで新しい自分が始まるのです。この新しい自分とはまさに罪との戦いに身を投じる自分です。ローマ8章13節でパウロは「もしあなたがたが聖霊の力によって体の行いを日々、死なせていくならば、あなたがたは永遠の命に与る者として生きる」と教えています。新共同訳では「体の行いを絶つならば、生きる」と訳されて、「絶つ」などと言うと一気に断ち切ってしまうみたいですが、ギリシャ語の時制は日々そうするということです。動詞も「絶つ」ではなく、文字通り「死なせる」です。「生きる」という動詞も未来形なので永遠の命に向かう生き方を意味します。それで、「体の行いを日々、死なせていくならば、永遠の命に与る者として生きる」というのが正確な意味になります。これが罪と戦うということです。

「体の行いを死なせる」というのはどういうことか?ルターがそれを的確に説き明かしていますのでそれを皆様にお聞かせします。

「この聖句でパウロは、キリスト信仰者にはまだ死なせなければならない罪の汚れが体に宿っていることを認めている。自然のあるがままの状態では、そのような「体の行い」はいつも生じてきてしまうのだ。それは神の意思に反しようとするあらゆる欲望や誘惑である。例えば、神の意思や御言葉に意を介さない傲慢さ、心の冷たさ、辛い時に神を恨み背を向けること、神に対する反抗心、隣人に対する復讐心、妬み、憎しみ、利己的な心、ふしだらな生活などである。こうしたものはキリスト信仰者の肉と血にも宿っていて、信仰者といえどもたきつけられたり苦しめられたりする。そればかりでなく、人間的な弱さのために、また油断してしまったために不意をつかれることもある。もし、これらに対して立ち向かおうとせず、パウロが言うような「体の行いを死なせる」ことをしないでいると、これらの罪は一線を越えて人間を占拠してしまうことになる。

聖霊の力を借りて罪を死なせていくというのは、次のようにすることである。まず、罪は罪であり神の意思に反することであると自分自身はっきりさせて、自分にはそれがあるという弱さを認める。自分に罪が芽生えてその欲に火が灯ったと気づいたら、すぐ罪ではなく神の御言葉をもって信仰者としての自分に立ち返る。神の御言葉とは、罪を神罰に値するものであると言い、同時にイエス・キリストの十字架のところでそれは償われていると言う御言葉である。キリスト信仰者はこのようにして罪の赦しを信じる信仰で強められて罪と戦うことができるのであり、罪の言いなりにならず、欲望が行為に現れることを圧しとどめることが出来るのである。」

以上がルターの教えです。「体の行いを死なせる」とは、内に宿る罪が行為や言葉となって現れてくるのを圧しとどめることと考えられています。このような生き方はパウロがローマ12章2節で言っている、この世に倣わない生き方です(μη συσχηματιζεσθε τω αιωνι τουτω)。理解・意志が一新された者として神によって変えられていく生き方です(μεταμορφουσθε τη ανακαινωσει του νοος…..)。その結果、何が起きてくるかと言うと、パウロはガラテア5章で聖霊の結ぶ実を結ぶようになると言います。どんな実かと言うと、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と言われています。どれも素晴らしく聞こえますが、これらは日本語の漢字に置き換えられているのでギリシャ語のもとの意味が正確に伝わっているか怪しいところもあります。それなら、聖霊の結ぶ実は具体的に何であるかを見てみるといいです。いろいろありますが、ローマ12章にその例が列挙されています。悪を憎み善から離れない、兄弟愛を持って互いに愛し尊敬をもって互いを優れた者と思う、希望を持って喜び苦難を耐え忍びたゆまず祈る、迫害する者を呪わずその者の祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、身分の低い人と交わり自分を賢い者と自惚れない、誰に対しても悪に対して悪を返せず全ての人の前で善を行う、他者と平和に暮らすことが自分次第であるという時は必ずそうする、復讐は神の怒りに任せて敵が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませる等々です。こうしたことが、神の御言葉の上に立って罪を死なせる戦いをしていくうちに実のように出てくるというのです。

パウロはまた洗礼を受けるとイエス・キリストを衣のように着せられると言いますが(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)、そのような神聖な衣を着せられたら、内側に宿る罪は圧し潰されていきます。罪は私たちの肉を足掛かりにして抵抗しようします。それで罪との戦いが生じてしまうのです。罪と戦うというのは、神聖な衣が罪を圧し潰していくのに自分を委ねることです。つまり、イエス様という衣を手放さないで、しっかり纏い続けるということです。そうすれば、苦しい戦いかもしれないが、勝利が約束されている戦いです。最後の審判の時に神聖な神の前に立たされる時、至らないところがは沢山ありましたが、頂いた衣はしっかり纏ってきました、と言うことが出来ます。それは、纏った期間が長くても短くても関係ありません。

4.洗礼を受けても罪と戦っていない人たちはどうするのか?

最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまった場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題で、キリスト教会が分かれてしまう一つの原因にもなります。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親が皆が皆、イエス様が救い主と教えたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。

その場合はどうしたらよいのか?これはもう、わかっていない人にあなたが受けた洗礼というのはイエス様の衣を着せられたということで、それがわかって罪と戦わないと神聖を冒涜してしまう危険なことだ、しかし、わかって戦えば大きな祝福があるということを教えていかなければなりません。

まさにそのための活動があるのです。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけの団体ではありません。その組織は海外伝道部と国内伝道部の二本立てです。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道は、まだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに気づかない人に気づかせることです。両方行っているのです。最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、30年前にはルター派の国教会に属する人は90%以上いたのが今では70%を下回る勢いです。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきているというのが現状です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

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