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説教「神の守りと導きは、たとえないように見えても、実はしっかりあるのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章1-8節、第二テモテ3章14節ー4章5節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様を救い主と信じる信仰に立って旧約聖書を読むとどうなるか?

 本日の使徒書の日課、第二テモテの3章15節を見ると、パウロは弟子のテモテに次のように言っています。お前は子供の時から神聖な書物を知っていて、それらの書物はイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵を与えてくれる、と。新共同訳では「神聖な書物」のことをご覧のように「聖書」と訳していますが、これは誤解を与える訳です。「聖書」と言ったら、今私たちが手にしているこの分厚い本です。旧約聖書と新約聖書が一緒になっている本です。ところが、パウロがテモテをはじめあちこちに手紙を書き送っていた当時は、まだ新約聖書は出来ていません。イエス様の言行録を収めたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書が出来るのはもう少し先のことです。書かれたもので出回っていたのは、パウロをはじめとする使徒たちの手紙くらいでした。イエス様の言行録はと言うと、直接の目撃者である使徒たちが自分たちの口で宣べ伝えていました。宣べ伝えの核心部分は、まさに自分たちが目撃したイエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の預言が実現したということでした。使徒たちが晩年の頃ないしこの世を去る頃になって、イエス様の言行録が書き留められて福音書が出来上がりました。そういうわけで、それ以前は「神聖な書物」と言ったら、それは専ら旧約聖書を指したのでした(後注)。

その旧約聖書を、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵が与えられる。これはどういうことか?まず、「救い」とは何か?それは、イエス様が人間の罪の償いを神に対して代行して下さった、それで、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを頭から被せられて、罪を赦された者として神に見てもらえるようになる。そうして、罪が人間に入り込んだ堕罪の時に断ち切れてしまった神との結びつきが回復する。そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神から守られ導かれて生きられる。この世を去った後、最後の審判の日に神の前に立たされても大丈夫でいられる。なぜなら、イエス様を救い主と信じる信仰を肌身離さず携えて生きたので、それで罪を赦された者として認められて神の御国に迎え入れられる。以上が、キリスト信仰で言う「救い」です。

第二テモテ3章15節は、旧約聖書をイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと、この救いに導いてくれる知恵が与えられる、と言います。本日の旧約聖書の日課はヤコブが神と格闘した出来事でした。ヤコブは負傷しても神から祝福を受けるまでは神にしがみついて離しませんでした。天地創造の神が一人の人間と取っ組み合いをするなどとは想像を超える出来事です。実は3年前このことについてどう考えたらよいかお教えしました。今回はそれを繰り返しません。この旧約聖書の出来事も、パウロによれば、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読めば、救いに導く知恵を与えてくれます。本日の説教では最初に、福音書の個所をもとにイエス様を救い主と信じる信仰を深めてみます。その後でヤコブの格闘の出来事から救いに導いてくれる知恵を頂きましょう。

 

2.やもめと裁判官のたとえ

 本日の福音書の個所は、イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。この教えは弟子たちに語られますが、その目的は弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調したのでしょうか?それは、弟子たちも私たちも、神に守られ導かれているとは言っても、この世ではそう思えなくなるような厳しい現実があり、そういうものに直面していくうちに神の守りや導きなんかないと思うようになってしまうからです。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義に圧倒されてしまって、あきらめ心になって、神に解決を祈り求めることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていました。このことをイエス様が深く心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります(8節)。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に再臨される日、果たしてこの地上には気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならないのです。ここで、イエス様の教えをじっくり見て、やはり祈りは何があっても絶やしてはいけないのだ、ということを体得していきましょう。

まず、登場人物について見ていきます。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικια)という単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが沸きます。この裁判官は本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物と描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うよりも、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

 次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中で未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成人した息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ12章40節を参照)。

 さて、ある未亡人が何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζω)という意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)です。

 ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」イエス様がよく用いる論法に「~ですら~するならば、神はなおさらそうするであろう」というのがあります。神は明日にも枯れてしまう野の草花ですらこんなに美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、というマタイ6章28~30節の文句は皆さんもよくご存知でしょう。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの正義の実現のために動いたのだ。ましてや、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずにいつまでもほうっておくことなどはありえない、神は速やかに裁いてくださるのだ。ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回も使われ、正義の実現と祈りを絶やさないことが問題になっているのです。

 

3.神をおいて正義を完全に実現される方はいない

 不正を働く者が他者に害を及ぼすと、正義が損なわれます。その場合、国の法律や司法制度が作動して、不正を働いた者には処罰、害を被った者には補償を実現します。それがないと正義がない状態になります。不正を被るというのは、信仰を持っていようがいまいが関係なく被ってしまうものもあれば、信仰を持つがゆえに被ってしまうものもあります。キリスト信仰では、十戒という神の意思が確固としてあるので、周りでそれに反することがあれば、自分はそれに組しないとか、場合によってはそれに反対する姿勢をはっきり示すことが出てきます。もちろん、十戒の中には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「偽証するな」などのようにキリスト信仰者でなくても共有できる正義もあります。だた、天地創造の神を唯一の神として全身全霊で愛せよ、とか、神の名を汚すな、とか、安息日を神聖な日にせよ、とか、共有しないものもあります。キリスト信仰者でない者同士の間でさえ意見や利害の対立が生まれたり、そこから相手を打ち負かしてやろうという野望が出てきたりします。これにキリスト信仰者が入り込んだら、摩擦や軋轢の原因がさらに増えることになります。パウロの時代のようにキリスト教徒が社会の圧倒的少数派であれば、これはもう痛い目に遭わせてやろうという格好の標的になります。

それに対してキリスト信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのか?それをパウロはローマ12章で訴えるように教えています。悪に対して悪で報いるな、悪人善人に関係なく全ての人に対して善を行え(17節)、周りの人と平和な関係を保てるかどうかが我々信仰者の肩にかかっている場合は迷わずそうせよ、相手がどう出ようが、少なくとも自分からは平和な関係を崩すな(18節)、悪を被った時は自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、なぜなら復讐は神のすることであり、報いを行うのは神だからだ(19、20節)。ここの日本語訳で「信仰者は復讐してはいけない、復讐は神がすることだ」と言っている「復讐」ですが、ギリシャ語原文では、やもめと裁判官のたとえで言っていた「正義を実現する」と同じ単語(εκδικησις)です。つまり、信仰者は悪を被った時、悪を行った者に完璧な償いをさせて完全な正義を実現するのは神であるとわきまえなければならない。信仰者は神に代わって自分で完璧な償い、完全な正義を実現しようとしてはならない。じゃ、キリスト信仰者は悪を被ったら何をするのか?それは、完璧な償い、完全な正義は最後の審判の時に神が実現するということに全てを託して、今は悪を行った者が飢えていたら食べさせ、喉がかわいていたら飲ませるだけだ、ざまあみろと言ってはいけない(20節)。以上のようなパウロの教えに対して、そんな馬鹿な!なぜ、そんなお人好しでなければならないのか?そういう声が上がるかもしれません。

これは、悪を行う者がなんだ悪をしてもこんなによくしてもらえるんだったらやっても構わないんだなどと、いい気にさせるために行うのではありません。そうではなくて、その者がいつかイエス様を救い主と信じる信仰に入る可能性があるから行うのです。イエス様が十字架にかかったのは、その人の罪も神から赦されるためでした。ただ、その人がイエス様を自分の救い主と信じていないから、神から赦しを頂いていないだけです。イエス様も言うように、神が善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、悪人にしたい放題させるためではなく、その者が神に背を向けた生き方を方向転換する可能性を与えているのです。もし悪人に太陽を昇らせず雨を降らせず滅んでしまったら、元も子もありません。逆に方向転換のための猶予を与えているのに、それに気づかず同じことを繰り返していれば、最後の審判に向かって自分で自分を窮地に追い込んでいることになります。まさに「燃える炭火を頭に積むことになる」(20節)わけです。

このことは、イエス様が「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と言っている「選ばれた人たち」ということが関係してきます。「選ばれた人」とはイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を指します。イエス様の罪の償いを頭から被せられて、神から罪を赦された者となって神との結びつきに生きる者です。そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか?そういう問いも出ます。しかし、今の時点で信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論づけるのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくとも、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目では全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音伝道のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているので、それを受け取る人が一人でも増えるように信仰者は働きかけていかなければなりません。

 

4.キリスト信仰者は永遠の視野をもって正義のために祈る

  正義の実現ということについて、キリスト信仰者は、それを完全に実現するのは神であって人間ではないと観念していることがわかりました。正義の完全な実現は最後の審判の時に果たされます。このように神が実現される完全な正義というのは、最後の審判ということがあるので、この世を超えた永遠という視野をもってしないと見えてきません。実はこのことを2週間前の説教でお教えしました。その時の福音書の個所はイエス様が金持ちとラザロの話を使って教えたところでした(ルカ16章19~31節)。イエス様は、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には最後の審判の時に必ず解決されると言います。復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。

 黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われています。これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと言われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあって、それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。

キリスト信仰者が神の正義が実現するようにとあきらめずに祈れるのは、それをこの世を超えた永遠という視野において見ることが出来るからです。この世では不完全だった正義が完全に実現する時がこの世が終わった後に必ず来る。あきらめずに祈るというのは、このことを信じていることを証しする行為です。祈りが、単に神に対するお願い事という殻を破って、神は約束を実現される方であるということを証しする行為になります。またはそれを自分に言い聞かせる行為になると言ってもいいでしょう。逆に、あきらめて祈らなくなるというのは、この世の不正義に圧倒されて神は約束を実現される方ということを見失うことです。もちろん永遠という視野も失ってしまいます。あきらめずに祈る者は、正義が実現するのは必ずそうなるという思いで祈るので、いつ起きてもおかしくないという一種の臨戦態勢にいます。イエス様が「神は速やかに正義を実現される」と言ったのは、神がイエス様の再臨をこの日と決めて行動を起こしたら、全てのことは一気に速やかに進むということです。

 

5.困難の時にも神は共にいて守り導いて下さる

 以上、イエス様を救い主と信じる信仰をもって生きる者は、この世を超えた永遠の視野を持っており、神が正義を完全に実現する時が必ず来ると確信して、この世の不正義がなくなるように昼も夜も祈り続けることが出来るということを見てきました。このような永遠の視野を持つキリスト信仰に立って、ヤコブの格闘の出来事を見たら、果たして救いに導く知恵が得られるでしょうか?

ヤコブの人生を振り返ってみますと、神の言うとおりにすればするほど一層困難を抱えてしまうような生き方でした。父親からもらえるはずの祝福をヤコブに奪われた兄エサウは、弟を生かしてはおけないという位の復讐心に燃え上がりました。ヤコブは故郷を捨てて逃げます。その時、神がヤコブに約束しました。「見よ、私はお前と共にいる。お前が行く先々でお前を守り、必ずお前をこの地に連れ帰る。なぜなら、私は、お前に約束したことを果たすまで決して見捨てないからだ」(創世記28章15節)。ヤコブは神が約束を果たす方と固く信じました。次から次へと困難が降りかかってもヤコブが神にしがみついて生きたことは、ぺヌエルでの格闘に見事に象徴されています。負傷してもヤコブは祝福を受けるまでは神にしがみついて離そうとせず、それで神も祝福を授けたのでした。やがて逃亡から長い年月の後、ヤコブは兄エサウと劇的な和解を遂げて故郷に帰ることができました。数々の困難があったのですが、全てが終わった後で全体を振り返ってみると、神は約束通りずっとヤコブと共にいて守り導いたことがわかります。困難はありましたが、それは神が離れたとか見捨てたということではありませんでした。人間の観点では理解しがたいのですが、困難の時にも神は共にいて守り導いていたのです。困難は神が見捨てたことを意味しなかったのです。神は自ら立てた約束を必ず守る方だからです。

さて、キリスト信仰者がヤコブの格闘の出来事を読んだ時、何を掴み取るでしょうか?間違いなく、神は困難の時にも平穏時となんら変わらず共にいて守り導いて下さる方であるということでしょう!そうなると、困難に陥っても、不正義を被っても、神が見捨てたなんて全く思いもつきません。逆にそれらは、祈りを一層強くするきっかけになるだけです。まさに、旧約聖書から救いに導く知恵をまた一つ得たことになります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)使徒たちが手紙を書き送っていた頃の旧約聖書というのも、果たして今私たちが手にしているものと同じかどうか定かでない部分があります。ヘブライ語の旧約聖書に含まれている書物とギリシャ語訳の旧約聖書に含まれている書物に違いがあることからそれが伺えるし、また、死海文書で有名なエッセネ派は啓示思想を表わす書物を幅広く権威あるものと見なしていました。

交わり

高木 賢先生(SLEY)の「交わり」-(その3)を掲載します。

しかし、神様が光の中にいるように
私たちも光の中を歩くならば、
私たちは互に交わりをもち、
この方の御子イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめます。
(「ヨハネの第一の手紙」1章7節)

キリスト信仰者は御言葉と聖礼典の力によってイエス様を信じて生きています。

彼らは互いに支え合い、悲しんでいる人を慰めます。

また、共に励まし、理解し、喜び、嘆きます。

彼らはまた互いに助言し合い、注意し合います。

聖書研究会:吉村博明 宣教師

今回はパウロの手紙の核心部分である7章の解説です。テーマは「律法が罪の自覚を生んでも構わない、おかげで罪の赦しの恵みに追いやられるだけだ」でした。先生は3章から7章までを通読することを進められました。

 

 

 

 

 

説教:木村長政 名誉牧師

 コリント信徒への手紙 10章14~18節

                                2019年10月13日(日)

 

 今日の聖書は、コリント信徒への手紙10章14~18節までであります。前回の聖書のことばの事を少しふれていきます。

 前回では、10章になりまして、「兄弟たち、次の事は、是非、知って欲しい。+.」と書き出して、モーセによる、エジプト脱出という大変な出来事を語っていきます。5節を見ますと、「彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒野で、滅ぼされてしまいました。」とあります。

 神が選び給うた民が、神の御心によって導いた、にもかかわらず、大部分は滅ぼされてしまいました。そうして、「これらの出来事は私たちを戒める前例として起こったのです。」と書いています。

 この後、パウロは、コリントの教会の中で起こっている、いろんな、よろしくない問題を具体的に延々と述べてきました。

 そうして、結論的に、時の終りに、どうなるか、と言う、希望にもふれたのでした。

 さて、今日の御言葉は、14節以下です。

 「私の愛する人たち、」と、教会の兄弟たちに、熱い思いで訴えていきます。

 こういうわけだから、『偶像礼拝を避けなさい。』 又、又、これまで、この手紙に書いてきた、テーマであります。

 ですから、コリントの教会には、それ程、とても複雑でむつかしい根強い問題がいっぱいあったからでしょう。

 パウロは、これと戦っている。コリントの町中、いろんな偶像が氾濫している。教会の人々の中にも、偶像に供えた物を食べねばならないような状況がたびたびあったのでしょう。そういう時、信仰ある彼らは、悩みました。どうしたらいいのだろう。

 供えられた食べ物の事だけでなく、結局は、偶像礼拝の問題でありました。

 いろいろな議論の果てに、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と言うのでありました。

 一番大事なことは、キリストによる信仰生活は、真の神を拝む生活をする、ということであります。

 十戒の第1番目の戒めは、「あなたは、わたしのほか、何ものをも、神としてはならない」とあります。(出エジプト記20:3)

 それから、私たちが、いつも祈ります主の祈りの冒頭の言葉は「天にいます、私たちの父よ」と、呼びかけています。神様のことを、天にいらっしゃる父よ。と呼びかけることによって、神は私たちのまことの父であります、と言っているのです。

 それなら私たちは、神の、まことの子です。

 ちょうど、愛される子供たちが、その愛する父に向かって、何の遠慮もなく、無心に、信頼しきって物事をたのむ、、何の心配もなく、たより切っているのであります。

 神に対して遠慮しないで、絶対的信頼をもって祈るように、とすすめておられます。

 これがルターが、小教理問答で解説している言葉です。

 すなわち、神を信頼しきって拝むこと、を強調しています。信仰生活とは、神を神として、拝むことであります。

 ところが毎日の生活の中には、神を神と思わない、別に関心を持たないですむんだと考えてしまいます。或いは、神でないものをいつのまにか最も大事にして、神のように拝んでいる、そういう誘惑がいっぱいあるのです。

 それで、パウロは、くどいように「偶像礼拝は避けなさい。」と言っています。

 ここでの「避けなさい」という言葉は、いかにも弱いような気がします。

 なぜ、偶像礼拝と戦いなさい、とか、偶像礼拝を攻撃しなさい、と言わないのか。と思う程であります。もとの字は、逃げるという字であります。偶像礼拝から逃げなさい、と言うのであります。

 「逃げなさい」と言う中には「偶像礼拝に参加するな」或は、「警戒せよ」、或は、「逃げ出せ」といった意味等、いろいろ訳するものもあります。

 しかし、偶像礼拝というのは、ある意味では、人間に生れついたようなものであります。

 偶像礼拝は、結局、自分が大事、自分中心、自分を神のようにしてしまうのです。

 人間はみな罪ある者である、と聖書は言います。罪があるというのは、神を神としない、神でないものを神とすることでしょう。

 それなら、偶像と戦うということは、どういうことになるのでしょう。

 それは、偶像を敵として戦うよりは、真の神を、神として礼拝する、ということの方が大切なことになって来るでありましょう。

 神を神として拝む生活を励む事であります。

 それができれば、どこにでもある偶像礼拝の危険から、まぬがれる事が出来るのであります。

 偶像礼拝にはかかわらぬように、逃げることが最も大切なことなのであります。

 この重要な問題について、パウロは決して、押しつけがましいことを言うつもりはありませんでした。

そのためわざわざ一言、つけ加えているのであります。「賢明なあなた方に訴える。わたしの言うことを自ら判断してみるがよい」というのであります。彼らの理解を求めていくことから、すすめていくのであります。

 真の神を拝む生活で、何を食べ、何を飲むことがよいのか。そこでパウロは、話を一転して、キリストの血を飲み、キリストのからだを食べるという、聖餐の話へとすすめるのであります。

 聖餐にあずかることが、真の礼拝になる、ということであります。

 パウロは自分たちにも飲むべき杯がある、と申しました。それを、私たちが祝福する「祝福の杯」と申しました。

 聖餐というものがどういうものか、もうわかっているということです。

 パウロはここで、これは祝福の杯で、私たちが祝福するものである、と言いました。この杯は、神が、私たちを祝福するためにお与え下さったもので、私たちもそれをいただくことで、それを祝福する、というのであります。

 複雑な言い方ですけれども、これは、実際には、その杯をいただく事にちがいありません。しかし、それをただ、いただくと言わないで祝福する、というのであります。

 それは、つまり、祝福にあずかるということです。

 このように、杯を受けることは、キリストの血にあずかるということです。キリストの血にあずかって与えられた救いを、一層確かなものにするということであります。同じことが、私たちのさくパンについても言えるのです。

 このパンも、祝福のパンであり、私たちはそれを祝福するのであります。このようにして、キリストのからだにあずかるのであります。

 そうであれば、杯を飲み、パンをさく聖餐は、それによって私たちがキリストに救われ、キリストと結びつく者となることであります。

 そのようにして、偶像への供え物とちがって、同じように飲むもの、食べるものでありますが、全くちがった神礼拝をすることになるのであります。

 礼拝とは何か、ということから、ここでは、まことに具体的に、聖餐こそは、礼拝の中心であり、正しく聖餐が行われるところにのみ、礼拝があることを示しているのであります。

 17節になりますと、分かりにくいようですが大切なことが語られていきます。

 17節の前に<なぜならば>という字があって、その理由を17節でのべているわけです。

 分かりにくいのは、「偶像礼拝を避けなさい」と、強調していることと、キリスト者が聖餐式にあずかることを持ってきている。それがどうつながるのか、よくわからない。

 ここには、まず、パンは1つであると言っています。そのパンは言うまでもなく、私たちのさくパンであり、キリストのからだであります。それに対して、私たち信仰者は大勢です。それなら、ここで示される事は、ひとりのキリストと、多くの信者という事です。

 しかも、多くの信者が、パンをさくことによって、このひとりのキリストとひとつになる、ということなのであります。

 私たちは、多くいてもキリストのからだにあずかることによって、ひとつになるのであります。

 しかもそれは、ただ1つにまとまるということではなくて、キリストのからだにあずかるということなのであります。それが<なぜならば>と言われていることで示されている理由なのであります。

 そうすると、これが理由としてあげられているのは、私たちが、キリストのからだにあずかることの意味をはっきりさせたいということにちがいありません。

 キリストのからだにあずかることは、キリストの血にあずかることと共に、それによって、私たちが救われている保証を得ることであります。聖餐式のたび毎に、キリストに救われていることを、確信する。これが信仰生活の中心でありましょう。

 しかし、ここには、もう1つの意味が書いてあるのです。

 それは、私たちは大勢だが、キリストのからだはひとつである、ということが示していることであります。キリストのからだにあずかる者は、キリストのからだの一部になるのであります。

 ここに、信仰のまことに不思議な面がある、ということを忘れてはならないと思います。

 私たちはこうして教会生活をしているのですから、大勢いても、ひとつにまとまる必要があると考えています。そのため、いろいろな工夫をする教会もありましょう。しかし本当は、もし聖餐によってキリストのからだにあずかっていれば、それだけで、私たちはもう1つになっているのであります。お互いに名前は知らなくても、話をしたこともなくても、私たちはもうひとつなのであります。それは、キリストのからだによることであり、それに基づく信仰によることであります。

 キリストのからだにあずかることによって、ひとつにせられていることを信じるのであります。

 これは、偶像への供え物の話から始まっているのであります。

 そこでは、偶像への供え物を食べるということと、聖餐において、キリストのからだであるパンと、血である杯にあずかることとでは、ここに決定的なちがいがあることが分かってくるのです。

 偶像への供え物は、ただの供え物に過ぎない。

 しかし、キリストという食物は、私たちをキリストの体である教会にするのであります。

 そういう形において、偶像礼拝を避けるのであります。

 そうしてみると、偶像について議論したり、何らかの意味で戦うよりも、実は、キリストに救われて、そのからだである教会に連らなることで、すでに「偶像礼拝を避けている」ことになるのであります。

 誰れが、このような戦いを予想したでありましょうか。それは戦いというよりは、信仰者の生き方なのであります。

 教会がこのような意味と力とを持つものであること。

 聖餐がどういう力を持っているのか知れば知るほど、神様からの恵みはすばらしいものであります。                <アーメン・ ハレルヤ>

 

 

交わり

 

高木 賢先生(SLEY)の「交わり」-(その2)を掲載します。

「キリスト信仰者同士の交わりは神様からの尊い賜物です。

それが家族の中や複数の家族の間で実現する時、

それとともに『私たちは同じ信仰を持つ人々の集まりに属している』

という気持ちが様々な形で強められていきます。

主の真の教会はキリスト信仰者の一致団結に基づいて築かれます。

実のところ、

ルター派の信仰告白書(「ルーテル教会一致信条書」)に書いてあるように、

キリスト信仰者たちこそが教会なのです」

久しぶりに子供たちの声を聴きました、人間同士の集いには子供も欠かせませんね。

説教「キリスト信仰者の自己肯定感」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書17章1-10節

主日礼拝説教 2019年9月29日(聖霊降臨後第十七主日)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様が弟子たちを相手に教えを述べているところです。4つの教えがありますが、それぞれどう関連しあっているか、わかりにくくバラバラな感じがします。

最初の教えは、信仰をつまずかせることが起きるのは避けられない、そして信仰をつまずかせる者は不幸である、と言います。ここでイエス様は面白い言い方をします。他人の信仰をつまずかせる者にとって有益なことは、人をつまずかせることではなくて、首に碾き臼をかけられて海に投げ込まれることである、と言います(後注1)。碾き臼とは穀物などを挽いて粉にする臼で石で出来ています。とても重いです。「投げ込む」はギリシャ語原文の動詞は現在完了ですので、投げ込まれてそのままの状態です。海底に沈められてそのまま出てこない方がその者にとって有益である、と言うのです。なぜ有益なのかと考えると、その者が沈められないで出てきたら他人の信仰をつまずかせたという汚名を自ら着せることになります。それで最後の審判の時に創造主の神の前に立たされたら、もう一巻の終わりです。そういう汚名を自ら着せる位なら、海底にひっそり沈んでいた方がその者のためであるというわけです。

信仰をつまずかせるとはどういうことか?まず信仰とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。それをつまずかせると言うのは、イエス様が救い主でなくしてしまうことです。信仰者が信仰者でなくなるようにすること、そういうことをする者は海底に沈められた方が良いと言う位に重大なことだと言うのです。イエス様を一度救い主と信じた後でそうなくなること、またなくなるようにすることがなぜそんなに重大なことなのか?現代に生きる人たちには不可解かもしれません。宗教の自由というものがあります。何を信じようが信じまいが、個人の自由である、勝手である、と。かつて若気の至りでイエス・キリストを救い主などと言ってしまった時期があったが、その後の人生でいろいろあって、信じても良いことはそんなになかった、とか、別の何かを信じたらそっちの方が良かった等々、そんなふうにイエス様が過去の人物になってしまったという人もいます。そういう人たちは、何が何でもイエス一筋というのは自分を縛り付ける不自由だと考えているでしょう。しかし、イエス一筋をやめるというのは本当は、自由を手にしてもそれはそんなに大したものではなかったと気づいて悔やまれるくらいの大損なのだ、ということを後ほど見ていきます。

信仰をつまずかせるものについて教えた後に、信仰を同じくする者が罪を犯したら、ちゃんと戒めなさい、それで赦しを乞うたら赦してあげなさい、という赦しについての教えが来ます。7度罪を犯しても、7度赦しを乞うたら、そのたびに赦してあげなければならない。マタイ18章を見ますと、ペトロがイエス様に、赦すのは7回までいいのか、つまり8回目以降はないということか、などと確認するところがあります。それに対してイエス様は7の70倍までだと答えます。つまり、赦しは際限なく与えられなければならないと言うのです。現実に490回も悪さを繰り返す人はいないと思いますが、こちらは痛いつらい思いをして、相手は以後気をつけます、赦して下さい、と言って、それで赦してあげても、そんなことの繰り返しだったらいい加減あきれてしまいます。謝罪に重みが感じられなくなって、もう赦す気がなくなってしまうでしょう。しかし、イエス様は赦しを乞われたら赦しなさいと言うのです。なんだかキリスト信仰者はお人好しの馬鹿みたいな感じがしてきます。どうしてイエス様はそんなことを教えるのでしょうか?このことも後で見ていきます。

次に来る教えは、弟子たちが「信仰を増して下さい」とお願いしたことに対して、イエス様が不可解な答えをします。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθεςπιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。イエス様の答えから推測するに、弟子たちの質問の趣旨は、大きな業が出来るようになるのが信仰の大きさの証しになるので、そんな大きな信仰を与えて下さいということです。それに対するイエス様の答えは、お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、目の前の桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。からし種というのは、諸説ありますが、1ミリに満たない極小の種でそれが3~4メートル位にまで育つと言われています。そこでイエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、極々小だ、と言っていることになります。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、これでは、お前たちの信仰は小さすぎて救いようがないと言ってることになってしまいます。イエス様は何か勇気づける話はできなかったのでしょうか?イエス様の真意は一体なんだったのでしょうか?これも後で見ていきます。

そして4番目の教えです。召使いを労わない主人についてです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか、企業だったらブラックと同じではないか?そんな疑問が生まれます。本当にそうなのか、これも見ていきます。

 

2.キリスト信仰者の自己肯定感

 わかりそうで実は難しい4つの教えの4番目のものから見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで言われている「命じられたこと」というのは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、本日の個所の4つの教えは全部、信仰について弟子たちに教えるものだからです。この4番目の教えもそうです。それで、「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇い主と雇われ者、親と子、先生と教え子の関係のことではありません。

神が人間に命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということにつきます。信仰者はそういうことが出来ても、神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないで当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても、顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。自分がいても意味がないということになれば、自己肯定感なんか生まれないでしょう。

ところが、神は、私たちへの労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても全然平気と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、まず御自分のひとり子イエス様をこの世に送られました。そこで、私たちが持っている罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていたのですが、それを神はイエス様を使って回復して下さったのです。どのようにして結びつきを回復したかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命があることを示され、そこに至る扉を私たちに開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、この完璧な罪の償いを頭から被せてもらって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。神のひとり子が果たして下さった罪の償いを手放さずしっかり身につけてこの世を生きていくと、創造主の神の前に立つかの日には、何もやましいところはない者として堂々と立つことができる。本当は失敗だらけで至らないことが沢山あったのだが、その度に心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを乞うた。そうすると、一度打ち立てられた罪の赦しはびくともせずそこにあるとわかり、神への感謝に満たされて再び命の道に戻ることが出来た。命の道とはまさに、繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道の歩みを神は義と見て下さり、かの日に神の前に堂々と立つことが出来るのです。

まさに、ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰の中で歩んだおかげで、神の前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神に注目されるようなことを仕出かす前に。逆にそれどころか、神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はイエス様を贈って下さったのだ。

これらのことがわかると、やるべきことをして労われて誉められたというのとは全く逆に、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになります。だからキリスト信仰者は、後は神に命じられたことをただするだけ、別に神から労われたり誉められなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を使ってして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さった、これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しなくても平気でいられる位の自己肯定感です。

もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることも、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の間から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところに創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。だから、人間同士のすることで神の意思に沿わないことが出てきた時も、別に人間からほめられなくてもいいや、と言って、神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、先ほども申しましたように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。

そのように考えると、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の間から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価される注目されるということを見極めて、それに自分を一生懸命あわせなければなりません。自己肯定感のためにやっていたはずのことが窮屈な思いをさせることにならないでしょうか?、

イエス様の4つの教えの2番目のもの、何度も罪を犯す兄弟を何度でも赦すこともキリスト信仰者の自己肯定感と関係してきます。私たちは、父なるみ神から、ひとり子を犠牲に供しなければならない程の罪を赦してもらった。そこまでしないと、私たちは創造主の神の前に立たされて大丈夫ではいられないのです。神がひとり子を犠牲にする位の罪の償いと赦しを得ることが出来たら、もう兄弟の罪は色あせます。赦しを乞われたら、何度でも赦してあげなければなりません。先ほども申しましたように、キリスト信仰者自身、それこそ毎日罪の赦しを確認してもらわなければならない位、神に対してやましいところがまだあるのです。神から毎日赦してもらいながら、自分は他人を赦せないというのはなしです。

ここで一つ難しいことがあります。それは、もし相手が赦しを乞わなかったらどうするか、その場合は、赦さなくていいのか、ということです。ここで思い出さなければならないことは、使徒パウロがローマ12章で「復讐は神のすること」と言っていることです。私たちとしては、悪を行った者が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませなければならないということです。ざまあみろ、飢えて死ね、は神が私たちに求めていることではないということです。私たちとしては、悪を行った者が神のもとに立ち返る生き方に入れるように手立てを考えなければならない、これが神の意思です。それがどんな結果に至るかは、神に任せて、私たちとしては神の意思に沿うことをするだけということです。

 以上、4番目と2番目の教えを見ましたが、ここから、1番目の教え、信仰をつまずかせることがどうして重大なことかということは、これはもう明らかでしょう。イエス様を救い主と信じる者からその信仰を引き離してしまうというのは、神の前に立たされる日に堂々と立つことができなくなるようにしてしまうことです。神からやましいところはないと見なしてもらえる術を失わせてしまうことです。キリスト信仰者から根本的な自己肯定感を奪い去ることです。これを重大ではないと言ったら、何が重大と言えるでしょうか?信仰者をそのような状態にしようとする者は海底に沈んだままで表に出てこない方が、その者のためにもよいのです。

 

3.からし種のように成長する信仰

 最後に3つ目の教えを見てみます。信仰の成長についてです。初めにも申しましたように、イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうものに思えます。

ここは次のように考えたらよいと思います。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」となっています。それを続く文と一緒に考えると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示していることになります。それで、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、実際にはないことを前提に言っているので、高校の英文法式に言えば、事実に反することを意味する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去は使われておらず、素直な仮定法現在です(後注2)。つまり、ここのところは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことが起きるだろうし、もし持っていなければ起きないだろう」という、中立的なことを言っているだけです。どんなことが起きるかというと、ここの部分は仮定法過去になっているので、「(そんなことは誰も命じないだろうが)目の前の桑の木に命じるようなことを仕出かして、木の方も素直に言うことを聞くであろう」です。

それではイエス様の趣旨は何だったのか?少し整理してみましょう。からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。さて、弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種のことを思い出しなさい、極小なものから立派な木が育つではないか、お前たちの信仰も同じだ、極小のものが立派なものに育つのだ、大きくして下さいと言って一挙にハイ大きくしてあげました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注3)。

このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から立派な木に育つからし種と同じなのだ、成長するものなのだということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように信仰も成長すると勇気づけているのです。それでは、信仰が成長して、不思議な業を行えるようになるのか、行えなければ成長したことにならないのか?奇跡の業は、神の恵みの賜物(χαρισμαカリスマ)の領域ですので、みんながみんな行えるものではありません。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。奇跡の業を行える者が持たないような恵みの賜物も当然あります。だから、人目を引く業があるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけません。人目を引かない業もあるからです。残念ながら、信仰者といえども人目を引くものに基づいて判断しがちです。

それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神の前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところは何もないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。恵みの賜物は異なっていても、これだけは全員同じです。

最後に、「信仰が成長する」と言いましたが、正確には「信仰にあって私たちが成長する」ということでしょう。信仰はイエス様を救い主と信じる信仰で、それ自体は大きくなったり小さくなったりしません。誰にとっても同じ内容、大きさです。問題はそれを受け取った私たちが、それを手放さずにしっかり携えてこの世を生きられるかです。私たちの成長が試されるのです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出す。その繰り返しです。その繰り返しをすることが、信仰にあって成長することです。信仰に自分を適合させて成長することです。適合すればするほど成長し、最後はからし種の立派な木のようになります。その時が復活の日なのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)日本語訳では「投げ込まれる方がましである」ですが、ギリシャ語原文のλυσιτελει αυτωは「彼にとって有益である」です(ηが後にあるので「より有益である」)。

(後注2)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。

(後注3)εχετε

ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk-SvenskOrdboktillNyaTestamentetochdeapostoliskafäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。

 

 

交わり

毎回送られてくるSLEYの Ken Takaki先生からのメッセージに「交わり」の意義について述べられていました。 

「キリスト信仰者同士の交わりはとても大切です。

それはキリストにある交わりです。

教義と信仰告白における交わりです。

このような交わりの範囲内で真の友情が形作られます。」

このメッセージはまだ続きます、これから何回かに分けてお届けしたいと思います。

 

 

説教「イエス様は復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書16章19ー31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。

まず、話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזרという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けをずっと求めている人がいたことに気づいていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富に対しては主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだ不十分です。本日の箇所は次の3つのことも教えています。まず天国や地獄というものについて、それから神の正義ということについて。これらは以前の説教でもお話ししましたが、3つ目のものは今回見えてきたものでして、それは何かと言うと、イエス様の死からの復活の出来事は信じる者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。少しわかりにくいですが、どういうことが後ほど見ていきます。最初に2つのことを少しおさらいします。

 

2.キリスト信仰の天国と地獄について

 天国や地獄などと言うと、人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だ、などと思う方がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかどうか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。

そこで万物の創造主である神とそのひとり子のイエス様は、天国と地獄についてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、本日の福音書の箇所を見るだけでもいろいろなことがわかってきます。

 実は本日の箇所は、よーく見ると、あれちょっとおかしいなと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着くというように理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。

 「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみましょう。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4ー6節)。これが最後の審判です。これに続いて、天と地が新しく創造されて古いものに取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。復活を遂げた者たちが一堂に会する神の国、これが天の国、天国です。

こうしてみると、天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる時になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところとなります。そういうわけで「陰府」というのは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われる反面、でもそうなると、復活や最後の審判が起きていなければなりません。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判の日は来ていません。そうすると「陰府」でなければならないのですが、金持ちは眠りについておらず、まさに地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?

この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVはハーデースαδηςをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見るとこんなことを言っています。ギリシャ語原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、そう断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で、「地獄」とは区別されています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、地獄とはしっかり区別されています。

どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。その時はじめて全人類が対象となる天国への迎え入れと地獄への落し入れが起きます。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、と頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。その場合、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかったのでしょう。

それでは、その大事なこととは何か?それは、冒頭でも申し上げましたように、一つは神の正義についてで、もう一つはイエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これからこれらについて見ていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。

 聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。ルター派の信条であるアウグスブルグ信条も同じです。

 日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。

 

3.神の正義

以上、天国と地獄について見てきました。ここから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになるのは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。

黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さいます。倍返しどころではありません。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。

 

4.旧約聖書の精神

もうひとつ大事な事は、イエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これについて見ていきましょう。

イエス様はアブラハムの口を借りて言います。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」モーセと預言者というのは旧約聖書のことを意味します。これを読むと、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、耳を傾けないままである」というように捉えられます(耳を傾けないのは旧約聖書のこと?蘇った死者のこと?)。これはちょっと違います。ギリシャ語原文では、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、確信には至らない、納得には至らない」です。英語訳、ドイツ語訳、スウェーデン語訳の聖書もそう訳しています(フィンランド語訳はちょっと変わっていて「信じるには至らない」です)。

「死者の復活を目の当たりにしても確信、納得には至らない」と言う時の「確信、納得には至らない」とはどういうことか?金持ちはアブラハムにラザロを兄弟のところに送って下さいとお願いしました。死者が生き返ったのを見たら、兄弟は悔い改める、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになる、そういう効果を期待したのでした。ところが、アブラハムの返答は厳しかった。彼らに関しては死者の復活を目の当たりにしてもそんな効果はない、自分たちの生き方の間違いを確信、納得するには至らない、というものでした。そうなので、期待するような悔い改めは起こらないということです。旧約聖書に耳を傾けない者は、寝ぼけているのと同じ状態なので、死者の復活を目の当たりにしても寝ぼけ眼で見るだけです。

ところが、旧約聖書に耳を傾ける者が死者の復活を目の当たりにすると効果は甚大で、自分の生き方の間違いを確信、納得する。しっかり神の方を向いて生きる。旧約聖書に耳を傾ける者にどうしてそのような効果があるのでしょうか?

旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように耳を傾けようとすると罪の問題を心の奥底まで見なければならなくなります。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うと、もう自分には神の意思に沿えるものが何もなくなってしまいます。そうなると神の御前に立たされる日がとても恐ろしいものになります。ところが旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを約束します。どんな約束か?人間が神の御前に立たされて恐れたり委縮しないで済むようにと、人間の罪を人間に代わって神罰を受けて償って下さる方が来られると約束します(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、自分の罪深さが神の御言葉によって暴露されてしまい悲しみに陥るということです。しかし同時に、神の力と計らいで人間は罪から贖われるという約束に希望を託することです。旧約聖書に耳を傾けるというのは、このような悲しみと希望の精神に立つことです。

さて、この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。十字架の死を遂げることでイエス様は私たちの罪の償いを果たして下さり、さらに死から復活されることで、人々に復活の新しい体と死を超えた永遠の命も本当にあるということを示されました。それだけではありません。私たち人間が、これらのことは本当に歴史上起こったと信じて洗礼を受けると、即イエス様の罪の償いを頭からすっぽり被せられて、神からは罪を赦された者と見なされるようになります。同時に永遠の命に至る道に置かれ、今後はその道を歩むことになります。

このように旧約聖書に耳を傾ける人とは、自分には神の意思に反するものがあるという不都合な真実に目を向けられる人です。同時にその人は旧約聖書には罪からの贖いが実現するという慰めの約束があると知っている。不都合な真実に目を向けると同時に慰めの約束が果たされる日を忍耐して待っています。これが旧約聖書の精神です。イエス様の十字架と復活を耳にした時、約束が果たされたことを知ります。そしてそれからは、不都合な真実に直面しても約束の実現が既にあるので、真実から逃げなくとも慰めを得られます。イエス様の復活が信仰者の心に旧約聖書の精神を一層根付かせるのです。

 
創造主である神の目に至らない自分の真実に目を向け、

罪から贖われるという神の約束を思い出そう。

神はひとり子を犠牲にしてその約束を果たして下さったのだ!

イエス様は死から復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

交わり

フインランドの兄弟姉妹からの贈り物、ムーミンカップを前に各々お気に入りのキャラクターを手にして童心に帰っていました。きょうはこの後早稲田会堂の祝福式があります。スオミ教会が辿り着く最終目的地に向けての新たな船出での日でもあります、いかなる困難にも神様から与えられた航路を信じてこの世の荒波を乗り切って行く覚悟を新たにしました。

早稲田会堂祝福式

スオミ・キリスト教会早稲田会堂の祝福式が徳野昌博牧師(日本福音ルーテル教会東教区長・小石川教会牧師)のもとで執り行われました。市ヶ谷教会、武蔵野教会、保谷教会の兄弟姉妹の方々と浅野牧師(市ヶ谷教会・武蔵野教会)のご出席もいただきました、フインランドからもたくさんのお祝いのメッセ―ジをいただいて晴れやかな新会堂のスタートでした