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説教「少年イエスの言動から見えてくるもの」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章41〜52節

2021年12月26日(日)降誕節第一主日 主日礼拝

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

本日の福音書の日課の箇所ルカ2章の終わりは、12歳のイエス様が両親と共にエルサレムの過越祭に参加した後で一緒に帰らなかったため、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという場面です。神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。この出来事はよく見ると、私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。特に母マリアとイエス様のやり取りがそのカギになっています。今日はこのことを見てみましょう。

その前にこの出来事を見るとイエス様のこの世での生涯がどういうものかがよりわかるので、それを見ておきましょう。イエス様の言行録である福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあります。マルコ福音書とヨハネ福音書ではイエス様の記述は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まります。双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後は今日のルカの箇所で12歳の時の出来事が記されているだけで、あとはマルコやヨハネと同じように洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年前後のこととされているので、この12歳の時の出来事が幼少期と大人期の間の長い空白期の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでも、その前後のイエス様の様子や状況が少し見えてきます。

一つは、マリアとヨセフは毎年過越祭に参加していたことが大事です。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、エルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?これは、旅行が家族単位のものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味を持ちます。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、また誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたことがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端がうかがえます。

しかしながら、この12歳の時は勝手が違いました。今までになかった予想もしなかったことが起きてマリアとヨセフはパニックに陥ったのです。
この出来事の後のイエス様の様子はどうでしょうか?51節に「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけないようにしようと心がけていい子に生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

洗礼者ヨハネが登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に対して抱く愛顧も増していった」です。「愛された」と言ってもいいのかもしれません。いずれにしても、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年だったのでしょう。その彼が、人間と神の間を切り裂いている罪と死の問題を解決するために自らを犠牲にしなければならなくなったのでした。

2.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。これは私も経験上、特別支援の息子が4回ほど迷子になったことがあるので痛いほどよくわかります。2回は大きなお店の中で店内呼び出しをしなければなりませんでした。2回目の時は息子に先を越され、悦才くんのお父さん、悦才君がお父さんをインフォメーションで待っています、すぐ来てください、と言われて、私が迷子扱いになったようでした。店の外に出なければ大丈夫なので、出ないでくれと必死で祈りながら探しました。ところが3回目と4回目の時は外でした。これは本当に恐怖でした。4回目の時は携帯があったので話しながらお互い近づいて最後は落ち合うことが出来ました。バッテリーがなくなる前に見つかるようにと必死で祈りました。3回目の時は携帯がなく、しかも日が沈んで暗くなり始めてしまい、警察に届けなければなりませんでした。ただ、息子は家に帰る道順を覚えていたのでマンション前で待っていた母親に抱きかかえられてゴールインでき事なきを得ました。暗くなって人通りも少なくなった時に、子供が泣きながら歩いていたら今の時世何が起きるか考えただけで気が気でなく、私は本当にパニック状態でした。

マリアとヨセフの場合は携帯も交番もありません。1日分の帰路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。その間の二人の思いはどんなものだったか考えただけで心が苦しくなります。エルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を一人の少年を捜し出すというのは雲をつかむような話です。丸3日以上の二人の気持ちを考えただけでこちらの胸も張り裂けそうになります。イエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶよりも苦渋の表情を見せました。なぜなら、見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。両親はなんだこれは、と呆気に取られて大いに困惑したでしょう。彼らに再会の喜びは起きなかったのも無理はありません。

そこでマリアの問いに対するイエス様の次の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言っていません。そういうふうに訳すと、あなたたちは捜す必要はなかったんですよ、なのにどうして捜したですか、と言っていることになります。イエス様はそんなことを言っていません。じゃ、何を言っていたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」その意味はこうです、あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」ということなのですが、「父の家」とはイエス様の本当の父である神の家、すなわちエルサレムの神殿を指します。ところが、ここの訳も訂正が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。神殿もそうした事柄の一つですが、他にもあります。何でしょうか?それを見る前にまず、ここの文を直訳すると「私は父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」です。それでは、「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か見てみましょう。

エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としては12歳です。言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でも祈りをし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰上の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの時、律法学者の話を耳にして言語的に語彙的に接点が今までになく多くあったと思われます。以前は抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時はいろいろ耳に入ってきて何が問題になっているかいろいろわかったでしょう。
さて、どんなわかりかたをしたでしょうか?イエス様は神のひとり子です。天の父なるみ神のもとにおられた時はどのような姿かたちを取られていたか私たちは全くわかりませんが、マリアから生まれ出て人間の姿かたちを取りました。12歳の彼の言語能力と語彙力は30歳や40歳の学者よりは限られているかもしれませんが、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはひょっとしたらほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年ごろになったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言っていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。神は彼の父で、しかもこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思は被造物である人間なんかよりよくわかっています。それで公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。イエス様の言葉は学者が使うものとは違うけれど、抽象的な言葉や言い回しで誤魔化すことがなく、全てをわかっているので質問も答えもストレートだったでしょう。人々はこの子は理解があると驚いたのは当然です。

ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなく、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力があります。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」人間の知識人との差は歴然としていたのです。

3.捜しに行かなくてもイエス様は聖書と礼拝を通してそばにおられる

ここでイエス様を捜す、見出すということについて私たちの場合はどうか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時、また私たちに起きてくる苦難や困難の時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。ここで、どちらに祈るのがいいのか、両方に祈らなくていいのか?といういうことについて一言述べておきます。どちらか片方に祈っても、キリスト信仰者は次のように祈るので結局は両方に祈ることになります。祈る相手が父なる神の場合は必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」ということで他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主ですということを父に知らせます。では、なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の罰を代わりに受けて下さったからです。そして死から復活されたことで私に復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さり、その道をいま共に歩んで下さるからです。助けを祈り求める相手がイエス様の時は、イエス様が約束した通り、祈りを父なる神に取り次いでくれることを肝に銘じて祈ります。

さて、このように祈っても苦難や困難がなかなか終わらないと、イエス様は世の終わりまで一緒にいると言ったのに、一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?キリスト信仰では、救い主イエス様がそばにいたら苦難や困難はない、それらがあるのはそばにいないからだという見方はありません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。そばにいるのに苦難や困難がなくならないのはなぜか、ということにはキリスト信仰はあまり注意を払いません。祈り願い求めているのに助けがないのはなぜかという質問をたてて答えを得ようとすると、日本のコンテクストではすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰ではそういう問いのたて方はしません。苦難困難がなくなるのにどれだけかかるかはわからない、もちろん早く終わるにこしたことはないが、別に早く終わらなくても、それらがなくなる方向を目指してイエス様が一緒についていってくれるからそれでいいという信仰です。

イエス様が一緒についてくれていることがどうしてわかるのか?そこは彼がマリアに言った言葉「私は神に関わる事柄の中にいなければならない」を思い出しましょう。神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。捜しに行くまでもありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちは独りぼっちでこの暗闇のような世の中で立ち往生はしないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

うさぎのププちゃん、本当のクリスマスを見つける

今年もコロナのためスオミ教会のクリスマス子ども料理教室は開けません。パイヴィ宣教師は去年に続いてビデオで料理教室を開くことにしました。今年はヨウル・トルットゥを作ります。 ちょうどトルットゥが焼き上がった時、突然教会に姿を現わしたのはうさぎのププちゃん。さあ、これから何が起こるでしょうか?お楽しみに!

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説教「マリアの静かな大胆不敵」 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2021年12月24日 クリスマス・イブ

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれます。世界中の全てのキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される箇所です。「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教する人は毎回テキストから新しい発見をします。私も今回はイエス様を出産したマリアの表向きは静かではあるが内面に大胆不敵さが見れたので、そのことに焦点をあててみようと思います。

 まずイエス様の誕生の出来事のあらましを見てみましょう。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、そこのナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、あなたに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子であり、ダビデの王座に就く王となり、その王権は永遠に続く、と告げます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデ家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。グーグルマップで調べたらナザレからベツレヘムまで156,7㎞あり徒歩で31時間かかると出ました。(ちなみに自動車で2時間5分、電車で3時間45分、自転車なら9時間2分だそうです。)身重のマリアは間違いなくロバに乗せたでしょう。日中明るい時に歩きどおしで3日はかかったでしょう。マリアにとっては辛い旅だったと思います。そうまでして行かねばならなかったのは、それ位、皇帝の命令は絶対だったということです。

 さてベツレヘムに着いてみると、同じ勅令のためだったでしょうか、町は旅人でごった返しして宿屋は一杯でした。マリアは今にも子供が生まれそうです。ヨセフが必死になって宿屋の主人にお願いする様子が目に浮かびます。そこで宿屋併設の馬小屋に案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは布で包まれて馬の餌を置く飼い葉桶に寝かせられました。天地創造の神のひとり子で神の御許にいた時は神聖な輝きを放っていた方は人間の救い主となるためにこのような生まれ方をしたのでした。

 このイエス様誕生の場面はよく、微笑ましい、何かロマンチックな出来事のように描かれます。子供向けの絵本の聖書を見ますと、「きよしこの夜」の歌のごとくすやすや眠る赤ちゃんイエスとそれを幸せそうに見守るマリアとヨセフ、3人の周りを馬や牛やロバが微笑んで見守るという挿絵が多いと思います。しかし、馬小屋で出産するというのは、そんなに微笑ましいものではないと思います。妻のパイヴィの実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。最初の頃は興味本位で行きましたが、その後は子供たちが行ったきり出てこないので連れ戻すために仕方なく行きました。牛舎は牛の水分補給や栄養摂取がコンピューターで管理され、乳搾りも機械化されていますが、臭いだけはどうにもなりません。牛はトイレに行って用を足すことをしないので、全て足元に垂れ流しです。汚物は床下の汚水槽から外の貯蔵池に流れていきます。ベツレヘムの馬小屋はそういう作り方はしていなかったでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。

 それでも、その時のマリアとヨセフの気持ちとしては、ただただホッとしたというものだったでしょう。場所はともあれ雨露しのげる屋根の下で赤ちゃんを出産させることができた、赤ちゃんを包んで寝かせてあげる床も出来た、本当に助かったというのが素直な気持ちだったでしょう。なんでまたこんな場所で、と不貞腐れたりブツブツ文句言うなんてことはなかったでしょう。赤ちゃんを無事に誕生させられたことに心が一杯になっていたでしょう。そういうマリアとヨセフの気持ちを考えれば、イエス様の誕生というのはまさしく闇と汚れに満ちた周りの事物を背後に追いやってしまう位の光の出来事と言ってよいでしょう。

2.

 マリアとヨセフが劣悪な環境を気にせずに誕生した赤ちゃんのに心を傾けられたのは、出産を無事済ませられたことだけではありませんでした。彼らには既に、この赤ちゃんはどういう者か、天使のお告げを聞いていたのです。その子は神聖な神の子で、将来ダビデの王座について永遠の王権を打ち立てると言われていました。また、人間を罪の支配から救い出すとも言われていました。永遠の王権を打ち立てるというのはどういうことなのか?それは、ユダヤ民族を支配するローマ帝国を打ち破って民族自決の王国を復興させ、それが未来永劫まで続くということなのか?ならば、人間を罪の支配から救い出すとはどういうことか?確かに旧約聖書には、罪という神の意思に反しようとする性向が人間に備わってしまったことが記されている。人間が罪を持つようになってしまったために神の御許にいることが出来なくなって神との結びつきが切れてしまい死ぬ存在になってしまったことも記されている。人間を罪の支配から救い出すというのは、人間が神との結びつきを回復して神の御許に戻ることが出来るようになることを意味するのか?ということは、人間は死を超えた永遠の命を持てるということなのか?そのようなことを成し遂げる者がユダヤ民族の王国を再建するのとどう結びつくのか?一方では人間全ての救いについて言って、他方では一民族の解放について言っていて話がかみ合わないのではないか?

 今、布に包まれて飼い葉おけの藁の上ですやすや眠っている赤ちゃんを見ていると、民族の解放者か人間の救い主かわからないが、そういうことはとても遠いことに感じられます。もちろん、神のみ使いからそう言われた以上は、この子にはこれから何か大変なことがいろいろ起こるのだろう。ローマの皇帝の権力は絶対だし、今いるユダヤの王はローマの傀儡のくせに空威張りの権威を振りかざしている。この子は将来それらを相手に一戦交えることになるのだろうか、想像もできないことだ。考えただけでも恐ろし。しかし、マリアは天使の言った通り処女のまま赤ちゃんを生んだではないか、それで万物の創造主の神がこの子と私たちのことに目を注いでおられることはわかった。神に注視されていることがわかると、将来に対する心配は馬小屋の暗闇と汚れが背後に退いたようたように退きます。マリアとヨセフは生まれたばかりの赤ちゃんをそれこそ闇の中に輝く光のように見続けていたでしょう。

 その時です。周囲が騒がしくなり、光と闇の静寂を破って大勢の人たちが馬小屋に入ってきました。先頭にいた羊飼いたちが言いました。「ここだ!ここだ!その赤ちゃんはここにいるぞ!天使が言った通りだ、布に包まれて飼い葉おけに寝かされている!」羊飼いたちの他にも人がいたことは18節からわかります。羊飼いたちは大声で言ったのか、声を押し殺しながら言ったのかはわかりません。イエス様が起きて泣き出したのか、起きずにすやすや眠り続けていたのかもわかりません。いずれにしても羊飼いたちは自分たちに起こったことをマリアとヨセフそして一緒に来た人々に話し始めました。

 郊外の野原で羊の番をしていた時でした。神のみ使いが突然、私たちの目の前に現れて、神の栄光の輝きが私たちを覆いました。恐れおののく私たちにみ使いは言いました。「恐れることはない。旧約聖書を持つイスラエルの民全員に大きな喜びの知らせを告げよう。今日ダビデの町で救い主がお前たちにお生まれになった。その方はメシアであり主である。その印として、お前たちは布に包まれて飼い葉おけに寝かせられた赤子を見つけることが出来るだろう。」天使がそう言うと、今度は大勢の天使が現れて神を賛美して言いました。「いと高き天には栄光、神に。地には平和、御心に適う人に。」すると天使たちは天に帰っていなくなり、辺りはまた静かな闇に変わりました。しかし私たちは、すぐベツレヘムに行って神が知らせてくれたことを見に行こうと羊ともども出発しました。飼い葉おけと言うから、どこか馬小屋に違いありません。でもどこにあるかわからないので、町の人たちを起こしながらやっと探し当てました。

 一緒について来た人たちは羊飼いの言うことにただただ驚くばかりです。メシアが馬小屋にいると言うからついてきたら、何だ赤ん坊じゃないか!いや、天使が言った通りのことが起きたのだから、やっぱりメシアじゃないか?みんな半信半疑です。イエス様を出産したマリアはどうだったでしょうか?「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(19節)。」この箇所のギリシャ語原文の意味合いは少し違います。正確を期すると原文の趣旨はこうなります。「しかし、マリアはこれら全ての事柄を一つも漏らさず総合して考えて心の中に保管していた。」「これら全ての事柄」とはイエス様の誕生にまつわる全ての事柄、最初の天使のお告げから高齢のエリザベトの妊娠そして今回の羊飼いたちに起こったことの全てです。それを全部を総合して考えたというのはマリアは事の全体像を理解したということです。つまり、マリアはイエス様の誕生の背景に神の何か周到な計画があるとわかったのです。それを心の中に保管していたというのは、どういうことか?今マリアの周りでは羊飼いたちが、天使の言ったことは本当だった、と大喜びしていて、その他の人たちは半信半疑でいるという正反対な状態にいます。そうした中でマリアは彼らに対して口を開かなかったということです。羊飼いと一緒に喜び合うこともせず、半信半疑の人たちに説明や説得することもせず、マリアはただ、全ては神の計画によるものとわかったことでよしとして静かに赤ちゃんを見つめていたということです。

 メシアという言葉について。当時はユダヤの人たちにもその意味は明確ではありませんでした。それなのでこの時マリアが、この子はメシアです!と言わなかったのは賢明でした。いずれ、イエス様がどういうメシアであるかはっきりするのですから。今はただ、神は羊飼いを通してもお告げをして下さった、この子を通して神の何か計り知れない計画が実現することがわかった、その計画の具体的な内容はまだわからないが、自身の計画を実現させるために神は間違いなくこの子と私たちと共におられ、私たちのことを絶えず見守っていて下さる、そのことがわかった。それで十分でした。その時のマリアは神への信頼が一層強まり、何も恐れることはないという心でした。このように何かとてつもなく大きなことをわかっていながら口数が少なく物静かというのは圧倒させるものがあります。逆に何もわかっていなくて口数が多く騒がしいというのは軽い感じがします。

3.

 創造主の神はこの私に目を注いで下さる、私が歩む道で具体的に何が起こるかは先立って何もわからない、しかし、神が私と共にいて私を守り導いて下さることは確かなので心配はいらない。これがこの時のマリアの静かな大胆不敵さの内容でした。私たちも同じような静かな大胆不敵さを持つことが出来るでしょうか?それは、イエス様が私たちにとって本当の意味でのメシアになることで出来ます。

 先ほども申し上げましたように、当時メシアの意味は旧約聖書を持っていたユダヤ民族の間でも明確ではありませんでした。それは民族を外国支配から解放してくれる王様なのか、それとも一民族を超えた全人類を共通の敵である罪と死から解放してくれる救い主なのか。この世に人間として誕生された神のひとり子イエス様は後者であることを明らかにしました。

 イエス様はこの世にあった時、まず旧約聖書の内容を正確に人々に教えました。彼の教えの中で最も大切なことの一つは「神の国」でした。それは今ある天と地が終わって新しい天と地が創造される時に現れる国です。その時、死者の復活が起きて、復活の体と永遠の命を与えらる者は神の国に迎え入れられます。イエス様は数多くの奇跡の業を行い、将来の神の国がどのような国であるかを人々に垣間見せました。黙示録で預言されているように、飢えも渇きも病も痛みも苦しみもなく、この世での全ての無念が晴らされて全ての涙が拭われるところです。しかし、イエス様は神の国について教えただけではありませんでした。なんと、人間が神の国に迎え入れられるようにすることもやってのけたのです。人間がそこに迎え入れられるのを不可能にしていた罪の問題を人間のために解決して下さったのです。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。イエス様は人間の罪を全て背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれ人間が受けないようにと盾になって下さったのです。あとは、人間の方が、イエス様は本当に自分を犠牲にしてまで私の罪を神に対して償って下さったとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪の償いを済ませた者にしてもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを回復してこの世を生きられるようになります。この結びつきは自分から手放さない限り失われることはありません。

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。日々の生活と人生の課題の中で神の意思に反することに気づかされる時があります。その時はいつもイエス様の十字架のもとに戻って罪の赦しに留まる自分を神に確認してもらいます。このように神のひとり子が自分を犠牲にしてまでこの私に良いもの大切なものを与えて下さった恩義に恥じないように生きようと心がけ続けていけば、この世から別れた後、復活の日に復活の体と永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。

 このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、自分に対する神の計画の全容が明らかになります。神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになります。自分が置かれた道は神の国に通じるものです。神は私たちをそこに至らせたいので、順境の時であっても逆境の時であっても神との結びつきは変わらずにあります。いつも神に見守られているのです。道を進んでいく時に、具体的にどんなものに遭遇するかは先立ってはわかりません。人間はいつも事後的に神の導きと見守りがあったと気づくだけです。そのため見えない先のことを考えると少し不安になります。しかし、神の計画の全容ははっきりしています。それは周到な計画で、具体的に遭遇すること一つ一つを全て合わせたものよりも遥かに大きなものです。だから具体的に何かに遭遇する前に静かに大胆不敵にしていられるのです。マリアと全く同じです。願わくば、出来るだけ多くの人が、マリアのような静かな大胆不敵さを持てて、この不穏と悪に満ちた世にあっても「腰に帯を締め雄々しく」していられるように。イエス様という大元の光を見つめながらその光を映し出す「世の光」となれますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「マリアの信仰と私たち」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章39-45節

主日礼拝説教 2021年12月19日待降節四主日
ミカ5章1-4a節、ヘブライ10章5-10節、ルカ1章39-45節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は待降節第四主日です。来週の金曜日がクリスマス・イブ、クリスマスはその翌日の土曜日です。キリスト教が伝統的に国民大多数の宗教になっている国ですとクリスマス・イヴもクリスマスも休日になるのですが、事情が異なる日本ではそれらは日曜日や祝日に重ならない限り平日です。それで教会によってはクリスマス礼拝は平日ならば行わず、待降節第四主日の礼拝をクリスマス礼拝を兼ねて行っているところもあります。本スオミ教会もそのようにしてきました。クリスマス・イブの前に救い主の誕生を神に感謝する趣旨の説教は少しあべこべと思われるかもしれませんが、それでも本日の聖書の日課に基づいてイエス様のご降誕の意味を明らかにすることはできます。

 本日の福音書の箇所は、神の御子イエス様を産むことになるマリアが洗礼者ヨハネを産むことになるエリザベトを訪問する場面です。この出来事は私たちの信仰にとって大切なことを二つ教えています。一つは、神はまことに人間の造り主であるということです。神が私たちを造られて命と人生を与えたのは、単に私たちを無造作に大量生産しているのではありません。私たちが気づこうか気づかまいかに関わらず、神は私たち一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっているのです。神が私たちのことを母親の胎内に宿り始めた時から知っているというのはこのことです。それはエリザベトとマリアの妊娠と出産の出来事からも明らかです。後でそのことを見ていきましょう。もう一つ私たちの信仰にとって大切なことは、マリアの信仰がどのようなものであるかを知ることです。エリザベトがマリアに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました(1章45節)。この言葉がマリアの信仰を知るカギになっています。このことも後でみてみましょう。

2.私たち一人ひとりに対する神の計画

 まず、神は人間の造り主であり、私たち一人一人に命と人生を与えたのは私たちに一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっていることについて。このことをエリザベトとマリアの妊娠から見ていこうと思います。

 エリザベトとマリアの妊娠は神の特別な力が働いて起こりました。エリザベトは普通ならもう出産は無理と言われるくらいの高齢者、マリアの方は処女でした。神は御自分の計画を実現するために、これら妊娠不可能な女性たちを通して必要な人材を準備したのでした。エリザベトから誕生したヨハネは「神のもとに立ち返る洗礼」を人々に勧め施しました。それは、人間には神の意思に反する罪があることを人々に自覚させ、罪の赦しを神に願う心を抱かせるためでした。そして、罪の赦しそのものは、イエス様がゴルゴタの十字架の上で死なれた時に実現しました。創造主の神は、このような役割を果たさせるためにヨハネとイエス様をこの世に誕生させました。神は、二人が胎児だった時から二人のことをご存知だったのです。

 それでは、私たちの場合はどうでしょうか?神は、私たちが胎児だった時から私たちのことをご存知だったのでしょうか?私たちにはエリザベトとマリアの胎児のような神の救いの計画を実現する役割などありません。それならば神は私たちのことをイエス様やヨハネほどには知らなかったということでしょうか?いいえ、そうではありません。天と地を造られ人間をも造られた神は私たちのことをみな同じように胎児の時から知っている、このことは詩篇139篇に次のように謳われていることから明らかです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」(13ー16節)。

 このように人間の造り主である神は、胎児の時から私たち一人一人のことをご存知です。人間の方がその真実を知らないか、知ろうとしないのです。それならば、神は私たちにも何か計画を備えたのでしょうか?イエス様とヨハネのものとは異なりますが、もちろん、私たちにも神の計画があります。どんな計画でしょうか?それは、人間全てに共通する計画と、一人ひとりに備えられた個別の計画の二つがあります。

 まず、人間全てに共通する計画とは、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取って、その救いの持ち主となることです。神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」とは何か?それは、次のような救いです。創世記に記されている通り、人間は造られた当初は神の意思に沿い、神の御許にいることができる良い存在でした。それが悪魔に巧みに誘導されてしまったために神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。そのため神聖な神のもとにいられなくなり、神との結びつきを失って生きなければならなくなってしまいました。神との結びつきを回復できるためには人間の内に宿る罪の問題を解決しなければなりません。しかし、それは人間の力では除去することは出来ず、人間は100%神の意思に沿った生き方も出来ません。何か宗教的な儀式や修行を行ってそれで清められた、神の意思に沿う生き物になれたと勝手に思い込んでいるだけです。イスラエルの民は罪の償いのために牛や羊などの動物の生贄を神殿に捧げるという贖罪の儀式を行っていました。しかし、本日の使徒書の日課ヘブライ10章の中で言われるように、そうした儀式は民が罪から遠ざかる生き方が出来るようには何の役にも立っていなかったのです。それで神は、うんざりだ、もういい加減にしろ、と言うのです。

 しかし、人間がどんなにちぐはぐなことをしていても、創造主の神の御心は人間がまた自分との結びつきを持てて生きられるようにすることでした。それで罪の問題を神の方で解決してあげようと、ひとり子をこの世に送ることにしたのです。人間の乙女マリアを通して人間の姿かたちを持つ者としてこの世に生まれさせ、イエスという名をつけさせました。神はこのひとり子イエス様に旧約聖書について人々に正確に教えさせました。また、将来天地が新しく再創造される日に現れる神の国がどのような国であるかを数多くの奇跡の業をもって人々に垣間見せました。そして最後には全ての人間の罪を自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを果たして下さったのです。実に神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。

 本日のヘブライ10章で言われるように、神が天のひとり子に人間の姿かたちを取らせることをしたのは、動物の生贄に代わる贖罪を果たさせるためだったのです。神聖な神のひとり子の犠牲です。人間の罪を償う生贄の中でこれほど神聖で完璧なものはありません。それで、ヘブライ10章10節で言われるように、未来永劫これ一回限りの犠牲なのです。新共同訳では「ただ一度」と何気なく訳されていますが、ギリシャ語のエファパクスεφαπαξという単語の意味は「これ一回限りで」です。英語で言ったらonce and for allです。only onceではありません。このイエス様が果たした犠牲を受け取った人は、神との結びつきを得るために別の犠牲はもう金輪際何も払わなくてよいのです。

 それでは、イエス様の犠牲を私たちはどうやって受け取ることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子を用いて実現した罪の赦しは自分のためになされたとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けること。そうすると彼の果たした罪の償いがその人に覆いかぶさります。その人は罪を償われたことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを持てるようになっています。この結びつきは、自分から離脱しない限り、いつも変わらずにあります。順境の時だろうが逆境の時だろうがいつもあります。

 このように変わらぬ神との結びつきを持ててこの世を生きるようになると、行き先も定まります。どこに向かうのか?イエス様が十字架の上で死なれた後、父なるみ神は想像を絶する力で彼を復活させました。これによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの道に置かれて歩むようになります。何が起きようとも、いつも変わらない神との結びつきを持って歩むのです。この世から別れる時が来たら、復活の日に目覚めさせられて、使徒パウロがコリント15章で言う、神の栄光を映し出す朽ちない体、復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。これこそが、神がひとり子を用いて実現した「罪の赦しの救い」の全容です。神が一方的に整えて下さったので人間はただそれを「お恵み」のように受け取るだけです。信仰と洗礼をもって自分のものにできるのです。

 以上のことが全ての人間に共通した神の計画です。これの他に個人個人に対しても神の計画があります。それが何であるか、どうしたらわかるでしょうか?神さま、私にふさわしい仕事は何かお示し下さい?とお祈りして、すぐ答えがあるでしょうか?人間はとかく印を求めがちです。もちろん、何か不思議なことが起きて、これはもう神の御心としか言いようがない、ということもあるでしょう。しかし、いつも起きるとは限らないし、もし何か不思議なことが起きても、それが本当に聖書の神の意思という保証もありません。どうしたらよいでしょうか?

 私のささやかな助言ですが、神のお墨付きということはあまり考えず、自分が関心があること、なりたいもの、やりたいこと、使命感を感じることは追及してよいと思います。ただし、追及する際にルールがあります。神の意思に沿っているか、反していないか確認することです。具体的には十戒を任務遂行、目標達成の際のルールにすることです。何かことを成し遂げる際に、創造主の神に特化して自分の思いや願いを打ち明けたり感謝を捧げているかどうか、安息日を守っているかどうか、人々に敬意を払っているかどうか、人を傷つけていないか、不倫はしていないか、偽証や改ざんはしていないか。もし任務遂行や目標達成の際にこれらに反することが出てくれば、選択肢は2つです。任務や目標を神の意思に沿うものに変革するか、ないしは変革不可能であれば任務や目標自体を変えるということです。最初目指したことをやめるというのは自分が失われる感じがして痛いことですが、先ほども申しましたようにキリスト信仰者は何が起きても変わらない神との結びつきがあります。それさえあれば何も失われるものはありません。神は必ず次のものに導いて下さいます。神の意思をルールにする限り、神のお墨付きがある、やりたいこと目指すことは定まってきます。

3.マリアの信仰と私たち

 次にマリアの信仰を見ていきましょう。エリザベトが言った言葉(ルカ1章45節)がマリアの信仰を理解するカギです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 まず、「幸い」という言葉について注釈します。それは時間が経てば薄れてしまう、この世的な幸福や幸運ではありません。不変で持続可能な幸福です。SDGsに加えてもいいくらいのものです。先ほど、キリスト信仰者というのは神との結びつきを持って永遠の命に至る道を歩んでいると申しました。「幸い」とは、神との結びつきがあるので今の世と次に到来する世の双方にまたがることができるということです。それなので、たとえ逆境に陥っても、この結びつきとまたがりは自分から離脱しない限りそのままあるので、その人は「幸い」のままです。マタイ5章の有名な山上の説教でイエス様自身が言われるように「幸いな」人とは霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。イエス様の言葉をよく目を見開いて読めば、どれも今の世と次に到来する世の双方にまたがっていることが見えてきます。これとは逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、神と結びつきもなく二つの世のまたがりもなければ幸いはありません。

 マリアの場合は婚約中の妊娠という、当時のユダヤ教社会の目から見て不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画を実現するためならば、とそれを受け入れました。神の人間救済計画とは人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも幸いなのです。

 エリザベトの言葉に戻ります。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、この訳です。英語のNIVは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じでした)。独、フィン、スウェーデンは「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言う。日本語と英語は「神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。またしても聖書の翻訳における日米同盟と欧州連合の対決ですが、どっちが正しいでしょうか?

 私は両方を合わせてみるとマリアの信仰がよくわかると思います。ドイツ・北欧の訳ですと、マリアがどうして「幸い」かということについて理由を言います。信じたマリアは幸いだ、なぜなら(οτι)神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ、と言います(実はこれは山上の説教でのイエス様の言い方と同じです!「悲しんでいる人は幸いだ。なぜなら(οτι)彼らは慰められることになるからだ(4節)」)。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだとだけ言います。

 ドイツ・北欧の訳で一つ問題なのは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、マリアは一体何を信じたのかがはっきりしないということです。英語・日本語では、信じた内容を「神が言ったことが実現することを」とはっきり言っています。それを信じたマリアは幸いと言います。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?

 それは、本日の日課の直前にあるマリアと天使ガブリエルの対話を見れば明らかです。神の子を産むことになると天使から告げられて、マリアはまだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能かと聞き返します。これは一見すると、エリザベトの夫ザカリアが天使の告げたことに対して言った反論と同じように聞こえます。しかし、マリアの場合は最後に「お言葉通り、この身に成りますように」と言って天使が言ったことを受け入れます。これがマリアが「信じた」ことです。つまり、マリアは、事がその通りになるという事の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいです、と受け入れた、これがマリアが「信じた」ということです。

 信仰には二つの面があります。まず、神が起こると言うことを信じる、とか、聖書に起こったと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという面があります。それと、ここでのマリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の向かう先を委ねること、それくらい神を信頼するという面があります。このように信仰は事柄の真実性を信じることと神を信頼するということの二つの面を持っています。そいうわけでドイツ、北欧の「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。ドイツ、北欧の訳はこちらの面が表に出てきます。

 もちろんマリアの信仰には事柄の真実性を信じる面もあります。そのことを確認しましょう。マリアが旅立ったザカリアとエリザベトの家が町は、ユダ地方の山間部にあるということなのですが、どの町かは不明です。ただ、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあります。とても一人の娘が出来る旅ではありません。誰か付き人をつけたと考えるのが妥当です。ロバに乗って仮に時速5キロ位で進めるとして、日中の明るい時間だけだから10時間くらいでしょうか、100キロ進むのには最低2、3日かかります。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、それだけの日数の二人分以上の旅の準備をしなければなりません。そうしたことはルカの記述には一切触れられていません。読む側としてはどうしてそんな旅行が出来たのかと余計な心配をしてしまいます。人によってはそんなことはあり得ない、マリアのエリザベト訪問は作り話だなどと意地悪なことを言う人もいます。しかし、書き手のルカとしてはマリアの旅支度は読者に伝えるべき本質的なことではなかったのでしょう。伝えるべき本質的なことはマリアとエリザベトが会ってやり取りをしたことだったので、それで十分だったのです。実を言うと、ギリシャ語原文では天使のお告げからマリアの出発まで数日かかったということと、その間マリアは今か今かという思いでいたことが言われています。旅の準備をしていたことを示唆する表現です。日本語や英語の訳でははっきり出てきませんが、フィンランド語やスウェーデン語の訳でははっきり出ています。

 天使のお告げを聞いて早くエリザベトのもとに行かねばという気持ちになったマリアは、ルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使からベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印だと告げられました。羊飼いたちは、まだ見ていないのに天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じでした。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をして整うや急いで出かけて行ったのです。

 このようにマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと、神に全てを委ねる信頼の両方がありました。これがマリアの信仰の大事なポイントです。そして、この両方を兼ね備える信仰はアブラハムにも見られるものです。父祖伝来の土地を離れて私の示す地に行きなさいと言われてアブラハムは神を信頼して出発しました。高齢でもう子供は無理と諦めていたのに、お前の子孫は夜空の星のようになると言われてそれを信じました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のお恵みの中に生きる私たちキリスト信仰者も、聖書のみ言葉に立って、その両方を持って旅立つことが出来ますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「洗礼の結ぶ実」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書3章7-18節

主日礼拝説教 2021年12月12日待降節第3主日
ゼファニア3章14-20節フィリピ4章4-7節、ルカ3章7-18節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の怒りの日

 今日の説教題「洗礼の結ぶ実」を見て、あれっ、「聖霊の結ぶ実」の間違いじゃないのと思われた方もいらっしゃると思います。使徒パウロはガラテア5章で「聖霊の結ぶ実」と言っていて、それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であると言っています。実は「洗礼の結ぶ実」も同じことです。洗礼がどんな実を結ぶかがわかると「聖霊の結ぶ実」もよくわかるようになると思います。

 今日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネが出てきます。呼び名のごとく人々に洗礼を授けました。大勢の人たちが洗礼を受けにきました。人々は神の怒りの日が来ることを恐れ、神の怒りから免れる手立てになると思って洗礼を受けに来たのです。神の怒りの日というのは、旧約聖書の預言書のあちこちに「主の日」なる日が来ると預言されていますが、それと同じ日です。神が怒りを込めて裁きを行うという日です。誰をなぜ裁くかと言うと、まず、ユダヤ民族内部の神の意思に背く人たちです。もし背くのが民族全体ならば全員です。罰の与え方としては、強大な大国を呼び寄せてユダヤ民族を攻めさせて滅ぼしてしまうということがあります。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚がその例です。さらに、ユダヤ民族を滅ぼして得意がっている外国も滅ぼされます。その例は枚挙にいとまがありません。

 紀元前6世紀終わりにバビロン捕囚が終わり囚われの民が祖国に帰還できてエルサレムの町と神殿を再建します。その後の時代になると、神の怒りの日はユダヤ民族や周辺民族だけに関わるものではなくなって全人類に関わるスケールの大きなに理解されるようになります。その背景には、旧約聖書の預言書に終末論の見方がはっきり出るようになったことがあります。イザヤ書の終わりの方65と66章を見ると、天地創造の神は今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造するという預言があります。またダニエル書7章や12章では、この地上の歴史が終わる時、神と共に人類を裁きにかける「人の子」が到来して、死者の復活が起きて神の栄光を受けられる者と受けられない者の選別が行われるという預言が出てきます。これがいわゆる最後の審判です。今日の洗礼者ヨハネの言葉からも明らかなように、神の怒りは神の意思に沿う者と沿わない者を選別し、沿わない者は永遠の炎の中に投げ込んでしまうという怒りです。

 このようにユダヤ民族を主役にして考えられていた神の怒りの日は全人類に関わるものになりました。しかし、それは旧約聖書を貫く観点からすると当然なことでした。というのは、人間はユダヤ民族かどうかに関係なく全員が創造主の神に造られ、最初に造られた人間が神の意思に背くようになって罪を持つようになってしまった、だから罪は全ての人間に受け継がれている、そういう人類普遍の観点が聖書に貫かれています。ひとつ参考までに、本日の旧約の日課ゼファニア3章を見てみます。15節「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた」は、一見するとユダヤ民族を虐げる敵対民族を撃退するということでバビロン捕囚からの解放を預言しているように見えます。「お前に対する裁きを退け」も、神がユダヤ民族に罰としてバビロン帝国を送って攻撃させたという神の裁きが撤回されたことを意味しているように見えます。しかし、ヘブライ語のミシュパートは日本語訳の聖書ではよく「裁き」と訳されますが、辞書(Holladayのです)を見るとjudgementの意味は出ていません。ここでの使える意味は「訴訟」とか「告訴」です。その意味でいくと、人間と神の間を引き裂く力である悪魔が人間のことを、この者は罪がある、だから裁くべきだ、と神に訴えるのです。その悪魔の告訴が退けられ、人間の敵である悪魔が追い払われるという預言になります。こうなるとゼファニアのこの箇所はユダヤ民族を超えて人類普遍なことになります。どのようにして悪魔の告訴は退けられたのか?イエス様が成し遂げたことによってです。それについては後ほど詳しくお話ししましょう。

 さてヨハネはユダヤの荒野から出てきて「悔い改めよ、神の国は近づいた」と大々的に宣べ始めます。旧約聖書の内容を知っていた人たちはこれはイザヤ書40章(特にギリシャ語訳の)の「荒野の叫ぶ声」だと察知しました。神の国が近づいたということは新しい天と地が再創造される日が近いということだ、そうすると、今ある天と地はもうすぐ崩壊する、神の裁きもすぐ来る、これは大変だ、と思ったのでしょう。それで人々はこぞってヨハネが勧める「悔い改めの洗礼」を受けに来たのです。ヨハネの洗礼を受けたら神の怒りを免れて永遠の炎に投げ込まれずに済んで神の国に迎え入れられると考えたのです。ところがヨハネは、自分の洗礼にはそんな力はないと認めました。もうすぐ自分よりも偉大な方が来られ、その方は聖霊と火で洗礼を授けると言ったのです。その方とは言うまでもなくイエス様のことです。イエス様が設定する洗礼こそが神の怒りを免れる洗礼であると。聖霊と火が伴うイエス様の洗礼とはどんな洗礼でしょうか?そのことをこれから見ていこうと思います。

2.ヨハネの洗礼からイエス様の洗礼へ

イエス様の洗礼をよくわかるために、もう少しヨハネの洗礼がどういうものか見てみます。ヨハネは洗礼を受けに来た人にかなり厳しいことを言います。お前たちは蝮から生れ出た者だなどと。「悔い改め」に相応しい実を結べ、結ばないと火に投げ込まれる、つまり、神の怒りをもろに受けると言います。「悔い改め」に相応しい実を結ぶとは具体的には何をすることでしょうか?取税人に対しては、定められた額以上を取り立てるなと言います。このことから、当時は定められた額以上に取り立てていたのが普通だったことがうかがえます。兵隊たちには市民から強奪するな、貰っている給与でよしとせよと。当時は強奪は日常茶飯事だったのでしょう。一般市民に対しても、自分が持つ物を持たざる者に分け与えよ、と言います。これからするに当時は、持たざる者はほおっておけばいいというような、今風に言えば新自由主義的な自己責任論がまかり通っていたのでしょう。蝮から生れ出たと言われるのも無理はありません。

 ここで、ヨハネはこれらの行いを洗礼の条件にしたことが見て取れます。12節を見ると、取税人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとにやって来て、私たちは何をすべきでしょうか?と聞きます。それに対してヨハネは規定以上に取り立てるなと命じます。神の怒りから免れようと洗礼をもらいにやって来て、受ける前にそのように言われたら、普通だったら、はい、その通りにいたします、と約束して受けることになるでしょう。そうすると、定められた行いをすること、ないしはすると約束することが洗礼の条件としてあります。これら悔い改めに相応しい行いを行って相応しい実を結んだことを示してから、ないしはそれを約束してから洗礼を受ける、そうすれば洗礼が中身を伴ったものになる、逆に行いなしで洗礼を受けたら中身を伴わない形だけのものになってしまうということです。その意味で、ヨハネの洗礼は正しい行いとセットになって有効性がある洗礼と言うことが出来ます。

 ヨハネの洗礼はまた、「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」とも言われます(ルカ3章3節)。悔い改めにふさわしい正しい行いをしてヨハネから洗礼を受けると罪の赦しに至ると言うのです。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているのですが、それは行いをして洗礼を受けたら即罪が赦されるのか、それとも行いをして洗礼を受けたら将来罪の赦しを得られる軌道に乗るということなのか、どっちの意味も可能です。ここではどうも罪の赦しは将来のことのようです。というのは、ヨハネは自分の後に自分より強力な方が来られる、その方は聖霊と火を伴う洗礼を行うと言うからです。その方とは言うまでもなくイエス様です。ヨハネの洗礼では即罪の赦しは得られない、イエス様の洗礼で得られるようになることを意味したのです。それなので、ヨハネの洗礼は罪の赦しに至る軌道に乗せるものだったのです。

 それでも人々はヨハネから洗礼を受けると即罪の赦しを得られると信じて受けにきました。そう信じる背景には、当時のユダヤ教社会には水を用いた清めの儀式があったことがあります。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、それは本当はあり得ないことでした。マルコ7章の初めにイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートたちとの論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。宗教エリートたちが重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。その目的は外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法の掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので神の意思に沿ったり実現することには程遠く、将来最後の審判をクリアーして神の国へ迎え入れられることを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。

 人間は自分の力では罪の汚れを除去できないというのがもう真理ならば、どうすればいいのか?除去できないと、最後の審判の時に神聖な神を前にしてなす術がありません。この人間にとって行き止まりの状態を突破するために神が編み出した方策は次のものでした。ひとり子をこの世に贈り、本当だったら人間が受けるべき罪の罰、神罰を全部彼に受けさせて人間の罪の償いをさせる、この身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、神がひとり子を犠牲に供したのはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると彼にしてもらった罪の償いはその人のものになります。その人は神のひとり子に罪を償ってもらったのですから、神からは罪を赦された者と見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから、神と結びつきを持ってこの世を生きることになります。

 さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。神との結びつきを持って進む道は、永遠の命が待っている神の国に至る道です。たとえ、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、復活の体という神の栄光を映し出す体、朽ちない体を着せられて神の国に迎え入れられることになります。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物のように与える罪の赦しはまだ確立していません。それなので、ヨハネから洗礼を受けても、それは罪の赦しに至る軌道に乗せるものにしかすぎませんでした。これとは別に神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要でした。イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しがそれだったのです。

3.聖霊の結ぶ実、洗礼の結ぶ

 イエス様が設定する洗礼には、ヨハネの洗礼のように良い実を結ぶという条件はありません。イエス様のことを救い主とわかって信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができ神から罪を赦された者として見てもらえるようになる。これがイエス様の洗礼です。何か良い業をして洗礼を受けるということはありません。そんなことしたらイエス様が果たしたことは何か不足があることになってしまいます。神から罪の赦しを頂くにはイエス様の十字架の業だけでは足りないということになってしまいます。そういうわけでキリスト教会の洗礼というのは実に、神から罪の赦しを頂けるためにはイエス様がこの私に果たして下さったことで十分ですと観念することと言っても過言ではないでしょう。本当に罪の赦しは神からのお恵みとして頂くものなのです。それじゃ、キリスト信仰者は良い実は結ぶ必要はないのかという疑問が起こると思います。この疑問に対する答えを見つけましょう。

 ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2ー3節)、罪からの浄化を意味します。しかし、本当に罪から浄化されるでしょうか?

 実を言うと、洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、精錬されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われるかもしれません。洗礼受けても罪を持ち続けるのなら、最後の審判をクリアーできないじゃないか、キリスト教会の洗礼には意味がないのか、と言われてしまうかもしれません。

 洗礼には意味があります。洗礼を受ける前と後で決定的な違いが起こります。それは、罪の側ではなく神の側に立って生きるようになることです。神に背を向ける生き方でなく神の方を向いて生きるようになることです。十戒の掟は、なんじ殺すなかれにしろ、なんじ姦淫するなかれにしろ、そういうことをしないで済んだら合格というような甘いものではありません。イエス様が言われたように、兄弟を罵ったら同罪、異性をみだらな目で見たら同罪になるほど天地創造の神は私たちの心の有り様まで問うてくるのです。キリスト信仰者になれば、神の意思に敏感になるので心の中に神の意思に沿わないことが出てくるとすぐ気がつきます。その時、どうしたらいいのか?洗礼を受けたくせに神の意思に反することに心を許してしまった、イエス様の尊い犠牲を汚してしまったので神は失望し怒るだろう、そう思って落ち込むしかないのでしょうか?いいえ、そうではありません。そういう時のキリスト信仰者の立ち振る舞い方はこうです。まず神の意思に反するものがあると気づいたら、見て見ぬふりをせず、すぐ神のみ前に跪きイエス様は私の救い主です、彼の尊い犠牲に免じて罪を赦して下さいと祈ります。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じて赦すから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい」と、ヨハネ8章でイエス様があの女性に言ったのと同じ言葉を私たちに言って下さいます。そして、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが間違いなくあることを確認させて下さいます。私たちは、あの十字架が歴史上打ち立てられた以上は赦しは間違いなくあり、その赦しの中に留まって自分からはみ出さない限り、神との結びつきは失われることはなく、復活の日に至る道を迷うことなく進んでいることがわかります。あの十字架が打ち立てられて洗礼を受けた以上はそうなのです。このように人間に罪のあることを気づかせるのも、また、ゴルゴタの十字架を目の前に見せて洗礼の時の立ち位置に戻してくれるのも、みんな聖霊の働きによるものです。

 キリスト信仰者の人生は、洗礼の時に注がれた聖霊の働きに自分を委ねて罪の自覚と神からの赦しを得ることを繰り返していく人生です。この繰り返しということが大事です。というのは、繰り返しは私たちが罪の側ではなく神の側に立って生きることそのものだからです。まさに罪から贖われた者の生き方です。火の精錬、罪からの浄化も同じことです。洗礼を受けて一気に精錬された、浄化されたのではなく、洗礼を受けることで精錬されていくこと浄化されていくことに身を投じたのです。罪の自覚と赦しを得ることを繰り返してきたということは、イエス様が果たしてくれたことを最大限活用したということです。そうなると最後の審判の時、神としてもあなたが神の側に立って生きてきたことを認めないわけにはいきません。その時、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて、精錬と浄化の長いプロセスは完了します。もう自覚すべき罪もなく赦しを得る必要もなくなります。

 パウロがガラテア5章で「聖霊の結ぶ実」と言っているものは、まさに洗礼を受けた後、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返していくうちに実ってくるものです。洗礼を受けた後で自分自身を聖霊が働く場にすると実ってくるものです。だから「洗礼の結ぶ実」と言っても同じです。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が言われていますが、これら漢字で書かれた単語は言葉としてはわかるのですが、まだ抽象的すぎると思います。それらをもう少し具体的にわかりたいと思えば、ローマ12章でパウロが教えていることを見ればよいと思います。

 悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。

 以上、~しなさいと命令文ばかりで、これでは自分の力で頑張って実らせなければならない感じがします(少し細かいことを言うと、ギリシャ語原文は全部が命令形で書かれていません。一部は~しなさいと命令文ですが、大部分は分詞形で書かれています)。パウロの趣旨は、頑張ってこうせよ、ではありません。洗礼を受けて聖霊を与えられて、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返す生き方をすれば、こういうふうになるのが当然なのだ、それを忘れるな、とリマインドしているのです。リマインドされて、どうもパウロの言うことが遠くに感じられるのであれば、それは罪の自覚と赦しを得ることを繰り返すことを怠っていたと気づかなければなりません。怠ったまま、パウロが言っていることをしようとすると苦しくなります。というのは、パウロの上記の教えの中には、お気づきのように、その通りにすれば自分が不利になるようなこと、お人好しが過ぎることがあります。それでそれらのことをやろうとすると仕方なくやる、嫌々することになっていきストレスがたまります。

 ところが、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返していくと、たとえお人好し路線でも神の意思がそうならばそれでいいという感じになります。それで当然のことになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

12月のスオミ教会・料理クラブは11日に開催されました。今回はクリスマスの季節フィンランドの家庭でもよく作られる”プッラのヨウル・クランシ(クリスマス・リース)”です。

初めにいつものようにお祈りをしてスタート。まず、プッラの生地を作ります。パン生地なので良く捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵です。その間に中身の準備をします。レーズンとチェリーを細かく切って、砂糖にシナモン、クローブなどのスパイスを混ぜてスパイス・シュガーにします。プッラの生地が大きく膨らんだらクランシ(リース)を形作るタイミング。生地をロールにして切り型にのせます。それから二回目の発酵にさらします。

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生地が発行している間、フィンランドのクリスマスの過ごし方についてのビデオを見て一休み。発酵したクランシをオーブンに入れて焼き始めると教会はクリスマスの香りで一杯になりました。

焼きあがった「ヨウル・クランシ」を切って分けます。北欧のクリスマスのホットドリンク「グリョッギ」と一緒に頂きました。ふっくらしたプッラと温かいドリンクを味わいながら、フィンランドのクリスマスとイエス様の誕生についてのお話を聞きました。

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料理クラブが終わると教会の玄関前のイルミネーションが輝き出し、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!

次回の料理クラブは新年のあと1月に開催します。日程等くわしくは教会のホームページの案内をご覧ください。次回は何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されたクリスマスをお迎え下さい!

 

料理クラブ2021年12月11日クリスマスのお話

今クリスマスがどんどん近づいています。店にはもう一か月以上前にクリスマスケーキや飾り物が並び始めました。クリスマスのイルミネーションもあちこちで見られます。この季節になるとフィンランドの多くの家庭ではクリスマスの準備をします。大事な準備の一つはクリスマスのお菓子を作ることです。クリスマスの季節になると普段あまりお菓子を作らない家庭でも、お菓子を焼いて家中はシナモン、グローブなどのスパイスの香りがします。これはクリスマスの香りとも呼ばれます。

フィンランドではクリスマスのお菓子の種類は多くてその中で、お菓子パンはクリスマスのテーブルの目を引く物です。お菓子パンも種類が多く今日作ったヨウル・クランシも普通です。パンの中身にはドライフルーツ、アーモンド、ナッツ、クリスマスのスパイスが入って美味しい高価なお菓子パンになります。ヨウル・クランシの形は普通は丸くて真ん中に穴があります。

kuusenpalloフィンランドではクリスマスのお祝いの過ごし方には長い伝統があります。家族それぞれに親の世代から受けついだ過ごし方を守ります。家族のクリスマスの過ごし方を守ることでクリスマスの雰囲気を高めます。

わたしたちがフィンランドにいた時もクリスマスの過ごし方は毎年同じでした。ある年のクリスマスの前に一つ大変なことが起こりました。ちょうどクリスマスの二日前に博明の腰が痛み出してもう歩けなくなりました。初めに市の病院に行きましたが、そこでは治すことは出来ませんでした。私は娘と息子と一緒に博明の状態を病院に見に行ったら、ちょどその時博明は大学病院に連れていくために救急車に運ばれるところでした。子どもたちはそれを見て少しショックを受けて、娘は「今年クリスマスは私たちには来ない」と言って泣き始めました。息子もつられて泣き出してしまいました。博明は大学病院に運ばれましたが、その夜タクシーに乗って家に帰ってきました。完全に治ってはいませんでしたが、私たちは家で家族皆でクリスマスのお祝いをすることが出来ました。

この出来はとても印象に残りました。特に娘の言葉「今年クリスマスは私たちには来ない」が耳に残りました。その意味は、私たちは例年と同じように家族皆でクリスマスのお祝いが出来ない、だからクリスマスの雰囲気にならないので、クリスマスは来ないという意味でした。しかし、どうでしょうか。クリスマスは私たちの状況に関係してあるでしょうか。そうではありません。クリスマスのお祝いは聖書に書いてあるメッセージから生まれます。それは私たちの状況やクリスマスの準備で作った雰囲気と関係なく、毎年同じメッセージから生まれます。

今から2千年前の一番初めのクリスマスの出来事を聖書で読むと、クリスマスの深いメッセージが伝わってきます。聖書には最初のクリスマスの出来事、天の神様の一人子イエス様の誕生について書いてある有名な箇所があります。「ルカによる福音書」の2章1-20節です。11-12節をみると、一番初めのクリスマスの夜に野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れたことが書いてあります。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。』」tenshi

この一番最初のクリスマスに、この世の救い主がお生まれになりました。それは神様のひとり子イエス様でした。イエス様がお生まれになった時、私たちのクリスマスのような素敵な雰囲気があったでしょうか?イエス様はどこで生まれましたか?ベツレヘムという町の馬小屋でお生まれになりました。ロバや馬や牛がいる馬小屋は汚くて臭くて寒い場所だったでしょう。その時旅をしていた母マリアとヨセフには泊まる場所は他にありませんでした。他の宿屋はもう一杯でした。このように救い主イエス様は素敵な雰囲気なんか何もない場所でお生まれになりました。しかし、救い主のイエス様が本当に私たち一人一人のためにお生まれになったということは、私たちにクリスマスの本当の喜びを与えてくれます。この喜びのメッセージは、雰囲気とか、クリスマスの準備やいる場所に関係なく、世界の全ての人々、喜んでいる人たちにも悲しんでいる人たちにも、クリスマスの準備をする人たちにもしない人たちにも皆に与えられました。クリスマスは必ず毎年クリスマスのメッセージを通してお祝いします。クリスマスのメッセージを聞いたら、あとはイエス様を自分の救い主として受け入れるだけです。

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イエス様を自分の救い主として受け入れると、天使が羊飼いに言った「恐れるな」という言葉は私たちにもその通りになります。生活の中には心配や怖いことが沢山あると思います。今世界中で広がっているコロナ感染、自然災害などは怖いことです。自然災害は私たち人間の力では解決は出来ません。しかしクリスマスのメッセージ「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。」これを心で受け取ると、天使の言葉「恐れるな」は私たちの毎日の生活の中で実現すると思います。

クリスマスにお生まれになった救い主は私たちと共に歩んでくださると、聖書に約束さています。だから何も怖がる必要もありません。

今年のクリスマスが皆さんにとって喜びを与えるお祝いになりますように。

宣教師の週報コラム 礼拝の意味

新聞のコラムにアランというフランスの哲学者(本名エミール=オーギュスト・シャルティエ)の次の一文が掲載され目を引きました(朝日10月24日「折々のことば」)。

「礼拝の規則は、さまざまな動きに規律を与えて、あらゆる情念、あらゆる情動を鎮めるものだ。」

私たちルター派教会の礼拝は、ご存じの通り定められた礼拝式文に従って執行されます。教派によっては、形式に取らわられずに自由な形で行っているところもあります。恐らく若者はそういうやり方がしっくり行くのかもしれません。それででしょうか、ルター派に限らず伝統的な教派は若者があまり集まらず高齢化が進んでいるように思われます。

不思議なことにフィンランドでは、もちろん国教会の普通の主日礼拝はどこも閑散としていて高齢者が目立ちますが、SLEYの礼拝は国教会の式文に従うにもかかわらず、またそのメッセージも国民の多数派から呆れかえられる位に保守的なのにどこも満員御礼で若者や子供連れの若い家族で一杯になります(コロナ禍の今は少ないですが)。どうしてでしょうか?

SNS旺盛時代の今、あらゆる情念やあらゆる情動が野放し大放出になっています。そうした中、心のさまざまな動きに規律を与える礼拝は魂を鎮めて安らぎと落ち着きを与える意味があると思います。

SLEYの礼拝に、「喜びのミサRiemumessu」という音楽をふんだんに使った聖餐式礼拝があります。奏楽はゴスペル・ロックバンド、司式の言葉は全てポップ調のメロディーで歌いますが、式の内容は罪の告白、赦し、聖書日課、説教、信仰告白、教会の祈り、奉献、聖餐式、祝福と伝統的な式文そのままです。SLEYの夏の全国大会の土曜日夕方の野外礼拝で7,000~8,000人位に聖餐を授ける礼拝の時にいつも用いられます。翌日日曜日の聖餐式礼拝は通常の形で行いますが人数は変わりません。

宣教師の週報コラム

Janne Karaste, Suomen lippu, valokuva, CC BY-SA 3.0

12月6日はフィンランドの独立記念日

12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年恒例の大使館でのレセプションは昨年はコロナ禍で中止になったが今年は開催された。 (3日金曜日にあり行ってきました。一足早くクリスマス料理を味わってきました。)

フィンランドの12月6日は独特な雰囲気のある日であったことをよく覚えている。冬の薄暗い日中、家ではパイヴィが子供たちとせっせとピパルカックを作り、晩になると大統領官邸でのレセプションのテレビ中継を見たものだ。その日のテレビ番組は第二次大戦の出来事を特集する番組が圧倒的に多く、フィンランド人はいかに独立したかよりも、いかに独立を守ったかの方に関心があるのかと思ったものだった。

それは理由のないことではない。1919年の独立当時のフィンランドは国内は分裂状態で、独立後も、左右イデオロギーの対立、都市部と農村部の対立、フィンランド語系とスウェーデン語系の対立が激しく、今風に言えば「分断国家」であった。それは徐々に解消に向かうが、それを一気に解消したのが第二次大戦での(当時の)ソ連との戦争であった。外的な脅威に対して国民が一致団結したのである。

戦時中の標語に、祖国(isänmaa)自由(vapaus)信仰(usko)の3つが守られるべきものとして唱えられた。「祖国」とは日本風に言えば「兎追いしかの山」であり、「自由」とは自由と民主主義の政治体制であり、「信仰」とはルター派教会である。フィンランド人は国家的困難によく耐え乗り越え、M.ヤコブソンが言ったように、第二次大戦に参戦した欧州の国で英国とフィンランドのみが占領を免れ戦前の国家体制を維持できた国だったのである。

「戦前の国家体制の維持」と聞くと、大方の日本人は顔をしかめるかもしれない。なぜなら、日本のそれはかつて丸谷才一が言ったように、お上に盾をついたと言いがかりをつけられないかビクビクしなければならない体制だったからだ。しかし、フィンランドは戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。(そんな国がなぜ最後はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)

フィンランドの例は、「国を守る」という時、 情緒面だけでなくvapausの重要性も示していると言える。なぜなら、それはこの国は守るに値する国だと理知的に確信できる根拠になるからだ。 それと、uskoがvapausと両立することも重要であることは言うまでもない。日本では愛国心を育む道徳教育が義務教育で必修になったが、準備段階でこのような視点で考えられただろうか?

さて、今のフィンランド人に守るべきものは何かと聞いて、上記の3つは果たして出てくるだろうか?思うに、「信仰」が危ういかもしれない。というのは、1990年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属していたが、以後国民の教会離れが急速に進み出し、現在は70%を割ってしまっているからだ。戦時中は大統領から国民に至るまで上記の3つが守られるよう懸命に神に祈ったものだ。ソ連との交渉に臨む代表団がヘルシンキ中央駅を出発する時、見送りに来た群衆が一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら」を歌って送り出した気概はもうないのだろうか?(2020年12月6日初掲載)

今年はビュッフェはセルフサーヴィスではありませんでした。 フィンランドの伝統的なクリスマス料理です。 デザートもこのようにかわいく盛り付けてくれました。

説教「真っ直ぐな心を持つと神の救いが見えてくる」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書3章1-6節

主日礼拝説教 2021年12月5日待降節第二主日
マラキ3章1-3節、フィリピ1章3-11節、ルカ3章1-6節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ― 主の再臨を待ち望む心

先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。クリスマスまでの4つの主日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は2千年以上前の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主をお贈り下さった天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスを迎えお祝いします。

待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申し上げましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることを忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。待降節やクリスマスを過ごして、ああ今年も終わった、また来年、と言って済ませてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心があるか確認して一年間それを維持してまた確認するという具合に再臨に向けて気を緩めず備えなければなりません。

とは言っても、主の再臨の日というのは、この世の終わりの日、今ある天と地に替わって新しい天と地が再創造される日、さらには最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは父なるみ神以外は誰も知らない、とイエス様は言われます。それゆえ、その日がいつ来ても大丈夫なように、不意をつかれないようにいつも「目を覚まして」いなければならないと教えられたのです。

先週の礼拝説教でこの、主の再臨に向けて目を覚ましているというのはどういうことか、お話ししました。それは、この世の終わりはいつなのか、最後の審判はいつなのか、などと心配して怯えて生きることではないと。それは、この世で生きる自分には創造主の神の意思に反する罪が宿っている、それを自覚して神から罪の赦しを繰り返し頂くこと、それが主の再臨に向けて目を覚ますことであると申しました。また、罪の自覚と赦しの頂きを繰り返していくと、人間関係において自分をヘリ下させたり、正しいことのために損をする役割を引き受けたりすることがいろいろ出てくるが、そうすることも目を覚ますことであると申しました。そういう生き方になればなるほど最後の審判は有罪判決を受ける場ではなくなって無罪判決を受けて神の国に迎え入れられる場になる、だからそういう生き方をする人はヘリ下ることや損をすることを別に何とも思いません。

このように最後の審判をクリアーできることが視野に入ってくるので、罪の自覚と赦しを繰り返し頂く人生、損を顧みないお人好し人生、そうした人生はイエス様の再臨を待ち望む心がある人生です。再臨を待ち望むから再臨に向けて目を覚ましているのです。主の再臨さん、どうぞいつでも来て下さい、そういう気持ちで今は手元にある課題や果たすべきことを果たしていくのです。そう言うと、この世が終わると言う時に課題なんかやってられるか、と言う人もいるでしょう。しかし、宗教改革のルターは次のように言っていました。この言葉はルター本人が言ったかどうか異論がありますが、ルターなら間違いなく言いそうだという言葉です。ある人が「ルター先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えはこうでした。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」

明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?

それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという、本当は新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論なのです。永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完結したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。例えば、この世で悪と不正に対して戦うことが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。ルターの明日この世がおわるという時にリンゴの木を植えるの大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に対して戦うこと、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。

以上から、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来ることが明らかになったと思います。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来ると言ってもいいでしょう。

2.神の救いを見ることができる真っ直ぐな心

前置きが長くなってしまいました。今日は福音書の日課を中心に説き明かしをしていきます。本日の箇所は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。ヨハネはエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこに留まりました。その日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。

ここでヨハネの洗礼は復活されたイエス様が命じた洗礼とは異なることについて述べておきます。イエス様の洗礼は、受けると神から罪の赦された者として見てもらえるようになるという洗礼です。ヨハネの洗礼はまだそこまで行かず、神さま、私には罪があります。赦して下さい、と告白することで神に背を向けていた生き方をやめてこれからは神の方を向いて生きますという印です。罪の赦しを実際に与えるのはイエス様の洗礼です。

大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。ルカは、旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことはこのことだったとわかって、それを引用して書き出しました。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

洗礼者ヨハネの活動は、イエス様の到来に備えて人々に罪の自覚を呼び覚まして罪の赦しを願い求める心を起こすことでした。そのような心を起こすことで人々がイエス様を受け入れるように準備することでした。

ところがイザヤ書の引用を見ると、心を準備するということは見えてきません。見えてくるのは、谷を埋めて山を低くし、曲がった道をまっすぐに、でこぼこの道は平らに、と言っていて、あたかもイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているようにみえます。人々の心の準備を整えるのではなく、イエス様が活動しやすい環境を整えよと言っているようにみえます。

ところが、このイザヤ書の個所は目を見開いて見るとやはり心の準備のことを言っていることがわかります。まず、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っていますが、これは、~せよ、と命令形です。その次に「谷は全て埋められ、山と丘はみな低くされる」と言っていますが、ここからは全部未来形で将来に起こることを言っています。つまり、道筋を真っ直ぐにせよ、そうすれば、谷は埋められ、山は低くされ、人は皆、神の救いを見ることになるだろう、と命令したことをすれば、そういうことが起こるだろうと言っているのです。

そこで命令した後に起こることを見ていくと、「山と丘は低くされる」と言います。「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人や心を意味し、それをヘリ下させるということです。人の心を暗に言っていることがわかります。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っているのか見えてきません。ところが、イザヤ書40章4節のヘブライ語原文を見ると、ここのところは「埋める」という動詞は使われておらず、「高くする」という動詞(נשא)です。ヘブライ語では「谷底を高くする」という言い方で、低くされた者を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。

次に「曲がった道はまっすぐに」とありますが、ルカ福音書のギリシャ語原文、イザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで道と解する必要はありません。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味します。それが「まっすぐになる」というのは、単語の意味を調べると(מישור)、真っ直ぐな、公正な、正しい、義に満ちたという意味があるので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っています。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命令して、その後に、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道について言っているようですが、実は心のことを言っていて、心が神の救いを見るのに相応しくなかったが相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があります。

3.神の近づきを妨げる心の中の障害物

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や神が贈る救い主が遠方から私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。

私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物は何でしょうか?それを私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。これが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(6章23節)。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。

これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう考えて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのです。

神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の力で罪を自分から除去することができません。出来ない以上、人間は罪にまみれ罪の力に服したままで、それでは神との結びつきを失ったままこの世を生きることになります。この世から別れた後はもう永遠に自分の造り主のもとに戻れなくなります。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。

このようにして遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に贈ることで、そしてその彼を通して私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復してこの世を生き抜いて、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるようにするためでした。

4.神の側について生きる

それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?

それは私たちが、このような神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けて行われたもので、だから、この自分に対しても行われたのだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受けることで神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道は真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。洗礼を受けることでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分にその通りになって、それで自分は罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見なしてもらえます。神から罪を赦された者として見なしてもらえるというのは、もう罪の側について生きるのではなく、神の側について生きるということです。

神の側について生きるということについて。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したということではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見ていてくれるのか、不安になることが沢山出てきます。しかし、キリスト信仰者というのは、自分の内にある罪に気づいたとき、見て見ぬふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。キリスト信仰者は実にこうしたことを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくのです。

このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。このようにイエス様の十字架の死と死からの復活により頼んで生きてきた者は最後の審判の時、「お前は神の側について生きてきた」と裁き主から認められます。まさに神の救いを見ることになるのです。

5.歴史のただ中で生きる人間に働きかける神

最後に、本日のルカの記述から聖書の神は人間の歴史そのものと歴史のただ中で生きる人間に働きかける神であることについて述べておきます。ルカは洗礼者ヨハネが活動を開始した時を「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」であったと記しています。

ここから明らかなようにルカは、天地創造の神というのは人間の歴史にも働きかける神であるという旧約の信仰を受け継いでいます。旧約聖書を繙くと、誰々王の治世何年に神の言葉が誰々に降った、という言い方が沢山出てきます。神は天地創造を行った後は天の御国に引きこもって、あとは堕罪に陥った人間が勝手にしていればよいなどと御国で隠居生活を送っていたのではありませんでした。神は堕罪に陥った人間が再び自分のもとに戻れるようにしようと決意し、そのために時と場所と民族を選び、あとは人間の歴史の流れと共に歩み、絶えず自分の意思や御心を人間に発信し続けました。そしてその時が来た時、すると決めていたことを実行に移したのです。人間を罪と死に支配された状態から救い出すためにひとり子を犠牲に供することに踏み切ったのです。このような計り知れない知恵と力と愛を持つ神は、とこしえにほめたたえられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

クリスマスカレンダー 「私のクリスマスの旅」

今日は、アドベントという「待降節」に入ります。アドベントはクリスマス 前の4週間を意味します。12月1日(水)からはこのページに『私のクリスマスの旅』というクリスマスカレ ンダーを公開します。大人も子どももみんな、 カレンダーの物語を読みながらクリスマスを楽しんで迎えましょう。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ
翻訳:パイヴィ・ポウッカ & 杉本輝世