説教「聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書20章27-38節

主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日)
聖書日課 ヨブ19章23-27a節、第二テサロニケ2章1-5、13-17節、ルカ20章27-38節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト信仰の復活について

 本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。

 ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。

 本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ6517節、6622節、黙示録2011節、221節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」1227ー28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

 黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。

 また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。

 ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。

 このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。

「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」

 このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。

 復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

 復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。

 そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

2.イエス様の論点(1)- この世での有り様と復活の有り様

以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。

 人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。

 以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。

3.イエス様の論点(2)-「神に対して生きる/神のために生きる」とは?

 イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。

 ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。

 イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。

 それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

 次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ61011節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

 ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。

 そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。

4.神は復活に向かう者の神

 イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。

 兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

 

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