2022年10月16日(日)聖霊降臨後第19主日 主日礼拝

説教 木村長政 名誉牧師
祝福 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン

「やもめと裁判官のたとえ」   2022年10月16日(日)

ルカによる福音書18章1~8節    スオミ教会礼拝。

今日の福音書は、読んだだけで、その内容についてはすぐ、わかる、たとえ話です。たとえの内容はわかりやすいのですが、このたとえの話で、イエス様は何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカ18章1節で、こう書いています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに『たとえ』を話された。」イエス様は弟子たちが気を落とさず絶えず祈れ、と言っておられる。弟子たちのこれから先、ずうっと先まで、生涯かけてイエス様の福音を宣べ伝えて行かなければならない。大切な大切な使命を果たして行くのに、幾多の困難が山ほどあるだろう。その困難と迫害の只中で絶えず祈れ、と教えておられるのです。

そこで、イエス様はやもめと裁判官のたとえ話を持って語られたのであります。2節をみますと、「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。ところがその町に一人のやもめがいて裁判官の所に来ては『相手を裁いて私を守って下さい』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権力を持っています。政治をする為政者も又権力を持っていて、たいてい権力を持つとその力をひけらかして自分の力でどうにでもなるという誇りや高慢になります。そうして差別や偏見の目を持って不正なことも平気でやってしまいます。

このたとえの裁判官もそうとうの悪のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから、想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。

又、この裁判官は「人を人とも思わない。」のです。人間らしい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重と言った感覚は全くゼロに等しいのです。しかもそういう人が権力を持ち、この町を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定する役なのです。

旧約聖書 申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは、裁きを曲げてはなりません。人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからです。ただ、公義のみを求めなければなりません。」これが正しい裁判官、また政治をする人のありかたです。さらにパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。

「彼は善を行うために立てられた神の僕なのです。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」と、これが理想的な裁判官、政治家のあり方です。

しかし、理想であって現実のこの世では権力を我が物にして自分の力を過信して行く、ついに恐ろしいほどの人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない、高慢な、我がままで正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない。自分のために固着するしかない。権力は民衆を恐れ神を忘れ自己達成を目指す、やがて腐敗しはじめます。権力の上には神がいて神の支配のもとでないと崩壊します。いつの時代でも戦争で多くの命が踏みにじまれて悲惨な世の中はいつもある。現代の世界で独裁者が権力をふるっています。まさにプーチン大統領もそうです。やがて滅んで行くでしょう。これが現実の私たちの生きている世界、この世です。

さて、たとえ話では、その町にやもめがいて裁判官のもとに行って「私の訴訟相手を裁いて私を守て下さい。」と言っています。このやもめの姿は無力な私たちの姿のようです。このやもめは賄賂を使う金もなければ、つてもない、助けてくれそうな人もない、全く無力です。それに今彼女は訴えられています、被告です。日本に初めてキリストの教えを広めようとした宣教師の人々も迫害にあい苦難を受け、神に召されました。権力には無力です、弱い者です。

やもめの彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。唯一つ、正義の神様がいます。このお方が必ず正しいことを通して下さる。この信念があります。パウロはコリントの第2の手紙12章9節でこう書いています。

「私の力は弱いところに完全に現れる。」彼女が持っているもの、この状態は決してあるべき姿ではない、という確信です。

主の祈りにあります。「御心の天になる如く地にもなさせ給え。」という祈りです。彼女はただこの祈りを持って悪い裁判官に立ち向かいました。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きて行けないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。いかなる権力にもひるまず、訴えている。その根底には実にそのことが自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけでは生命の問題とはならないのでう。裁判官は長いこと彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。

この純真な要求は聴き入れられない。幾度も、幾度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もし、この要求が生命の問題にまでなっていなかったら、途中であきらめるか、自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官はなぜ聴き入れようとしないのか。それは、「神を畏れず、人を人とも思わないからです。正義の感覚など、微塵も持ち合わせていないからです。」この裁判官がついに聴き入れたのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけでは悪魔に対抗することは出来ません。悪魔はいつも、もっと巧みな理論を用意しています。

そこに、しばらく聴き入れない期間があります。そのような期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。(※裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。)私たちの祈りも神様にすぐ聴き入れられない期間というものがあります。そういう時があるのです。裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし、今その裁判官がその後自分自身で言いました。「私は神を畏れないし、人を人とも思わないが、このやもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。そうすれば、とことんまでやって来て私を苦しめることがなくなるだろう。」

イエス様のたとえ話は5節までです。そうして6節で主イエスは即ち言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい。」イエス様は問われます。「彼の言うことを聞きましたか。」他でもない、この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをする、と言うのです。その不思議な事実を聞くのです。ここでは、極悪の地上の裁判官が正義の神になぞられているのです。では、何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは悪い裁判官がついに正義の神の裁判を行うという不思議な事実をです。

この裁判官は依然として「私は神を畏れないし、人を人とも思わない。」がと念を押すように言っています。つまり、彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急にやもめの祈りを聞いて、その熱心さに涙を流して悔い改めた。」とは書いてありません。権力者の利己的な動機などは変わりません。しかし、彼は「この、やもめは私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう。」と言い始めるのです。「うるさくて、うるさくて、俺を煩わすから。」と言っているのです。

裁判官を正義の裁判官に変えることは出来ない。それは人間の仕事ではありません。しかし、驚くことに、この権力の利己主義を通しても神の正義が実現して行くのです。しかし、絶えず、ぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し、ただ、それのみによって動かされるのです。

旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々は、その苦役のゆえに、彼らの叫びは届きました。神は彼らの、呻きを聞き

アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの民をかえりみて下さいました。」

神が働いてくださったのです。

悪い裁判官が世界を動かしているかにみえます。しかし、そうではありません。人間には、その時その時でいっぱいあります。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・信仰、不信仰・・あらゆるものを貫いて、ただひとつ、神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書の箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ。」

神は夜、昼、神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや、神は速やかに裁きをして下さるでしょう。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を思い出すでしょうか、8節で問うておられる。これは、信仰の課題です。週末の時、どうなっているか、私たちにはわからない。神の遅き、というものは遅いのではない。神は速やかに裁きをされる、と約束しておられるのです。それは又、人の速さは速いのではない。

神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀の最大の神学者、カール・バルトが言っていることです。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主、イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って、今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただ、この神に基ずくのです。たとえ、天地が崩れ去るとも、崩れることのない土台の上に立っているのです。

ある時は、神は私たちから全てを奪って行くかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうかと思える。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。それは突如として与えられます。気付かないうちに、ある時突如としてです。神は必ず働いて下さる。

神様はいないか、に見えます。神は時として沈黙し給う。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うのです。それは、その民が神に選ばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて、神が御旨をなさるのです。神様の側でなさることであります。私たちは、あの貧しいやもめと共に、ただ感謝であります。

                                          <アーメン・ハレルヤ>

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

新規の投稿