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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。 アーメン
2023年11月12日(日)
題:「救い主えお迎える用意」
マタイ福音書25章1~13節
来年は、たつ年となります。私の年です。「人生100歳の時代」と言われています。年を重ねて行くと、自分の人生の最後の幕引きを考えるものです。人は誰でも、この世での人生を終え、肉体は死んでも霊魂は、次の新たな世界へと、新しい出発を始めます。聖書の言葉を通して、次の世界への道を神様が示してくださいます。
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天の御国はどういうものか、イエス様は様々な譬えを用いて語っておられます。今日の聖書で「1
人の「おとめ」の譬えを話しておられます。マタイ福音書25章を見ますと、「そこで、天の国は、次のように譬えられる」こう言ってユダヤでの婚姻の状況で花婿を迎える10人のおとめの譬えが語られます。さて、この譬えを理解するには、ユダヤの結婚手続きを知っておく事が必要です。ユダヤでは男女が結婚するのには三段階の手続きがありました。題1は、男性と女性の双方の両親が息子、娘らの結婚の約束を取り交わすものです。題2は、ユダヤの結婚式です。それは通常、花婿の家で幾人かの証人たちの前で行われ、その席上、花婿から花嫁の父に結納が贈られました。
この日から二人は法律上の正式の夫婦ですが、まだ一緒にすごしません一年の後、一緒にすごし始めることになります。いよいよ第3段階で二人の目出度い喜びの婚宴です。普通は大勢参加できるよう、夕刻から始まります。まず、花婿は親族か友人の家で身支度を整えます、その間、自宅は女中たちの手で婚宴の会場をしつらえます。夕刻、花婿と花婿の友だちは花嫁の家へ迎えに行きます。そこで花嫁の友だちは花嫁を美しく着飾り花婿の家の婚宴の席へと導きます。その行列は松明とランプとで照らし出され沿道の家々から花嫁の美しさをたたえ祝います。賑やかな行列が会場に着くと宴会が開かれ、幾日もの間、歌と踊りと酒とで目出度い時を祝いました。これが通常行われていたのです。ところで、イエス様の譬えでは「10人のおとめ」は花婿を迎え出る女たちです。その場面について、色々議論がありますが、通常とは違って花嫁の家で宴会が開かれる場合もありました。ここでも花婿が花嫁の家に来て婚宴を催すので、花嫁の家の玄関で花嫁の
代理として花婿を迎えようとしていた花嫁の友人たちのことが「10人のおとめ」であります。(なぜ、おとめが10人であったか、は当時の習慣であったかもしれません。)この譬えで大事なことは「10人のおとめ」のうち5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であったことです。では、5人の「思慮深さ」はどこにあったのでしょうか。イエス様譬えの終わりに「だから、目を覚ましていなさい。その日、その時があなた方にはわからないからである。。」と結んでおられます。(13節) これは24章42節でも言われている言葉ですが、この「思慮深さ、賢さ」が文字通り「目を覚ましていた」ことにあると、考えると。25章5節を見ますと10人が10人とも居眠りをして寝てしまった、とあります。無理もありません、花婿が来るのが遅すぎて「夜中」になってしまったからです。ですから、「寝てしまった」こと自体は非難の的として語られていません。恐らく、ここでは、花婿の到着が予想以上に遅かったことを強調しているのです。そして、突然、出迎えの支度をしなくてはならなかった、この驚きを力説するための表現です。イエス様は24章42節で「目を覚ましていなさい」と言ったのを「用意をしていなさい」と言い換えらえています。「だから、あなた方も、用意していなさい、人の子は思いがけない時に来られるからである」。
25章10節でも「思慮深いおとめ」は「用意の出来ていた、おとめ」と言い換えられています。ですから、おとめたちの「思慮深さ、賢さ」とは、たとえ、一時は居眠りするにせよ、よそ事に心を奪われるにせよ、ともかく「花婿だ、出迎えに出なさい!}と言う、叫びが、終末前兆として告げ示された時、出迎えられる「用意をしている賢さ」の事です。では、「用意」は、どういう点にあったのでしょうか。それは、思慮の浅い女たちは、あかりを持っていたが「油を用意していなかった」といことです。しかし、思慮深い女たちは、自分たちのあかり、と一緒に入れ物の中に「油を用意していた」この点にあります。<もう少し申しますと>5人のおとめの賢さは、二つの点に現れています。第1には、花嫁の友として、花婿を迎えるには「あかり」を灯す事が絶対必要であり、それが結局、油があるか、無いか、にかかっている、と理解していた点です。よくわかって実行しています。第2には、花婿が何時来るか、わからないので別の器に油を用意した、それほど花婿の来る時、出迎える時、に対して慎重な備えをとっていた、ということです。では、「あかり」や「油」は何の比喩なのでしょうか。明らかに「あかり」というのは花嫁の代理として花婿を迎える資格を与えられている者です、それが、彼女たちを、他の女たちから区別する目印なのです。さて、私たちキリスト者として、他の人たちと区別できる印といったら何でしょうか。私どもは、日曜日に教会に行って礼拝します。又教会が洗礼を受け聖餐式にあずかったりします。目に見える印でしょう。それに対して、その「あかり」を照らす根源となる力、たとえで言う「油」は言うまでもなく、内的な目に見えない信仰です。聖書で言われる「聖霊」のことと言っていいでしょう。<つまり>賢いキリスト者は主の再臨を待つ、日々の生活において、まず目に見える信仰生活、教会生活をし、そして目に見えない聖霊が働いて下さる信仰に生かされている実感を感謝することでしょう。次に賢さの第2は、いくら再臨が遅れても、いつでも備えをしていること、それの忍耐と希望をいだいて待つことであります。
パウロは、聖霊の油によって、照らされる「あかり」を聖霊そのものに見立てて、テサロニケ第1の手紙で5章19節に「御霊を消してはいけない」と警告しています。更に、テモテへの第2の手紙3章1節と5節には「終わりの日には、人々は信心深い様子をしながら、その実、信心の力を否定するようになります」とあります。聖霊の油の切れた人は、今は信仰を形の上だけ、保っているが、中身はギスギスした、戒律主義的な、見せかけにすぎません。次に他の浅はかな5人のおとめたちの会話を見ますと、「その日、その時がわからない」と言っても、前触れがないわけではない。」6節には「さあ!花婿だ!迎えに出なさい」と叫ぶ声がした、ことによって暗示されています。その時、5人の愚かな女はランプの油がなくなりつつ、あるのを見て、他の5人に油を求めます。すると、賢い女の返事はこうでした。「私たちと、あなた方とに足りるだけは多分ないでしょう。店に行ってあなた方の分をお買いになる方が良いでしょう」(19節)彼女たちの言葉は、いかにも意地悪な返事のようにも聞こえます。この返事の言葉は、率直に言って、こう訳すべきだ、と言います。「いいえ、駄目です。私たちとあなた方とには足りません」。このように、はっきり、足りない、と分かっているので、買いに行ってもらう外に仕方がないのです。たとえ同情心があっても、油を分けてあげるほどの余裕がないのです。だから、言われた方も、そう意地悪とはおこらないでしょう。自分たちが明らかに不注意でしたから。早速、買いに走りますが、もう夜中です、店など開いていません。彼女たちは,締め出されるほか仕方がありません。<言い換えますと>聖霊は信者から信者へと、おいそれと分け与えられるものでは」ありません。使徒言行録8章20節には「神の賜物が金で得られる等と思っているのか」。と言っています。「神の賜物は、金では買えないし、兄弟姉妹の間で取引する事もできません。」直接、神の言葉に従って神に祈りを求めることによってだけ、恵が与えられるものです。パウロはロマ書12章3節でこう言っています。神が各自に与えられた信仰の量(はかり)に従って慎み深く思うべきである。(口語訳)「つまり、それぞれに、聖霊の賜物を量(はかり)に従って分け与えられておられます。」つまり、一人びとり、神からいただいている油はその人自身になくてはならぬものです。「私たちとあなた方とには足りない、余りはないのです。聖霊の油は信者一人びとりが、各自養い、育て、貯えておかねばならないものです。マタイ福音書7章14節には、「命の至る門は狭く、その道は細い」とあります。つまり、富を抱えたままで、そこに入るより、駱駝が針の穴をくぐる方がたやすい。それほど門は狭い、ということです。聖霊の油を豊かに持つ友に兄弟姉妹のよしみで、一緒に連れ込んでもらう事は出来ない、それほど狭いということです。クリスチャンの信仰はこの点、徹底的に個人的であります。1人1人の神との関係です。1人1人立たねばならないのです。ですから、主を迎える備えに於いては1人1人が自分自身に信仰を確かめていなければなりません。ヨハネ黙示録3章11節、フィラデルフィアにあてた手紙にこうあります。「私はすぐに来る。あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」。信仰は命、宝のような命、それを他人をあてにして、眠ってはならない。人に分けてやろう等とうぬぼれてもならない。1人びとりが誰にも頼れない。誰にも奪われてはならない。これなしには、私は生きてはいけない。そういうものを宝のように固く守って、用意すべきであります。次に、愚かな点は神の賜物の不足を女たちが終わりの時まで忘れていて、そのために求め始めたのが遅すぎた、という点です。終末の日まで、今は恵みの日、救いの日です。終末には確かに前触れがあります。マタイ福音書24章33節に「すべて、これらの事を見たなら人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」。前触れがあってから何とかしようと思って眠っていてはなりません。店の閉まらない間、光のある内に油を買い求めておくべきです。この意味するところは、普段から、み言葉を聞き、神に祈ることであります。終わりの日では遅すぎます。終わりの日、はまだまだ先のことと思ったりします。
若い人は自分がいつ死ぬか、考えてもいません。元気なお年寄りは、自分はこんなに元気だ、自分が死ぬなんて考えたくない、そうすぐには来ないと思いたい。しかし、いつ、どんな状況で、その日、その時が来るか誰にもわからない。この世での終わりの日,死はその人にとっての終末であります。今日のみ言葉の譬えの終わりに25章10節「愚かなおとめたちが買いに行っている間に花婿は到着し5人の花婿と一緒に婚宴の席に着き、戸が閉められた。後になって他のおとめたちが来て「ご主人様、ご主人様開けて下さい」と言ってもわたしはお前たちを知らない。と言われる。神様の恵みの手段は用意の出来ていない者には戸が閉められる。今日という日、終わりの日がいつ来ても用意が整えられ聖霊を求めていることこそが私たちにも警告されているのであります。
人知ではとうてい測り知ることの出来ない、神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う
キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の11月4日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。
日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。それに、キリスト信仰では、見えない誰かに語りかける時、相手は父なるみ神と御子イエス様以外にはありません。日本人の場合は、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、お墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。
キリスト信仰では、亡くなった方は思い出の中に残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するというふうになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。かの地では「故人の思い出に蝋燭の火を灯す」という言い方をします。日本人の場合は尊重するのは故人の今身近にいる霊とか魂になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出になってしまったら、今は故人との繋がりがなくなってしまうと心配する人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身、復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。
全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。
追記 全聖徒の日の前日のフィンランドのテレビニュースを見た時、墓石会社の人のインタビューがありました。今フィンランドは教会離れ聖書離れが進んでいるが、まだ故人の思い出を尊重する伝統は続いている、ただし、将来この伝統が続くかどうかはわからない、などと話していました。聞くところによると、最近国教会に属するクリスチャンの中にも、亡くなった人は今空高くどこか雲の上にいて下にいる私たちを上から見守ってくれているなどと言う人も出てきているそうです。それはキリスト教的ではありません。この世の人生を終えた方は今、神のみぞ知るところにいて復活の日まで安らかに眠っていて、その日に目覚めさせられるというのがキリスト教の復活だからです。
主日礼拝説教 2023年11月5日 全聖徒主日
聖書日課 黙示録7章9-17節、第一ヨハネ3章1-3節、マタイ5章1-12節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今年の日本のルター派教会の全聖徒主日の聖書日課は変則的に旧約聖書の箇所がなく代わりに黙示録の7章が定められています。著者のヨハネが遠い未来の出来事を天使から見せられる場面です。万物の創造主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれない位の大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まる場面です。そして、福音書の方は、マタイ5章のイエス様の有名な「山上の説教」の初めです。「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前、地中海東岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えたことです。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神から啓示を受けて、今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられたことです。この二つは一見何の繋がりもないようですが、実は繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今日はそのことについて見ていきます。
まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の創造主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」「神と小羊のもの」と言ってしまうと、あれっ、私たちのものではないの、ということになってしまいます。ギリシャ語の文法書によれば、「救いは神と小羊のところにある」とも訳せるので、そう訳します。救いは神と小羊以外のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。まさに救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こった時のことです。神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。
そう言うと一つ疑問が起きます。あれっ、ここはまだ7章じゃないか?最後の審判と復活は20章に出てくるし、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられも21章のことではないか?実は黙示録というのは、最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章がそうです。復活を遂げて神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面です。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の話の流れは単純な一直線ではありません。大事なことは、このような垣間見せがあるおかげで、最終目的地に至る途上でどんな苦難や困難に遭っても、私は今垣間見せてもらった場面の当事者になるのだ、今そこに向かって進んでいるのだ、と励ましと力づけを得られるのです。
この場面を見せられたヨハネは、これら純白の衣を纏う者たちはどうなるかについて聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけではありません。マルコ4章のイエス様の種のたとえにも出てくる迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのも、イザヤ書25章8節の預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」
これを語る長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が実現したと言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時に預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。
さて、これらの神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。
イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えます。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いな人というのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスμακαριοςの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと言うのとどこか違います。どう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えないことでも、「幸い」であるということもあるのです。それで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。
そこで、イエス様のこの教えを最初に聞いた群衆は9つのタイプの人が神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らにはちんぷんかんぷんの教えだったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神から愛顧を受けられる人のことだからです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。だから、イエス様の「幸いな人」の教えは全然かみ合わないのです。
それでも群衆は、出だしがちんぷんかんぷんだから、もうやめた、とはならないで、まだまだ続く山上の説教を最後まで聞いていきます。どうして彼らは最初で帰ってしまわず、最後まで聞いたのでしょうか?それは、イエス様の教え方がとても力強いので何かとてつもないことを言っているとすぐわかったからです。どこが力強いかと言うと、心の貧しい人たちは幸いである、正しい訳は「霊的に貧しい人たちは幸いである」です、そう言ったあとで、どうしてそういう人たちが幸いなのか、その根拠を述べるのです。「なぜなら神の国はその人たちのものだからだ」と。新共同訳では「なぜなら」が抜け落ちていますが、ギリシャ語原文ではあります。霊的に貧しい人は幸いである。なぜなら、神の国はその人たちのものだからだ、それで幸いなのだと。他のタイプも皆同じです。
悲しんでいる人たちは幸いである。なぜなら、彼らは慰められるからだ、柔和な人たちは幸いである、なぜなら、彼らは地を受け継ぐことになるからだ、と幸いであるという根拠を述べることで、霊的に貧しいこと、悲しんでいること等々、ユダヤ教社会の伝統から見て、あまり幸いと言えない状態なのが後で大逆転するようなことが起こる、それで幸いだと言うのです。普通だったら、律法を守る人は幸いである、なぜなら神はその人を祝福して下さるから、と言うところを、全く別次元の幸いについて教えているのです。群衆は、一体なんなんだ、この教えは?そういう驚きが起こったことは想像に難くありません。
ところで、律法を守るというのは、神の意思に沿うように生きるということです。そのように生きて守って、その見返りとして神に見守ってもらう、もし神の意思に反する罪があれば赦しを頂いて神との関係をしっかり保って再び神から見守られて祝福を与えられて生きる、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。それでは、人間はどのようにして罪を赦されて神とそのような結びつきを持てるのでしょうか?ユダヤ民族の場合は、エルサレムの大きな神殿での礼拝が罪の赦しを実現するとして行われていました。律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、神の意思に反した罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
そこに神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られて歴史の舞台に登場しました。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。人間の造り主である神はお前たちが心の底から神の意思に沿う者であることを望んでおられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。神が預言者たちを通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式はもう形だけのものになってしまって心の中の罪を野放しにしてしまっている。それなので私が本当に神の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。本当の罪の赦しを与えられた時、お前たちは本当に神の意思を心に留められるようになる。その時お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。これがイエス様の教えの趣旨でした。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。
この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰が伴う洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。これが「幸いな者」です。その幸いな者が、霊的に貧しかったり、悲しんでいたり、柔和だったり、義に飢え乾いたり、憐れみ深かったり、心が清かったり、平和を実現したり、義のために迫害を受けたり、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに悪口を叩かれたりするのです。そうしてそれらが幸いなのかと言うと、全てが大逆転する神の国を今既に自分のものにしていると言える位、確実にそこに向かって進んでいるからなのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまることなのです。イエス様が山上の説教をしたのはまだ十字架と復活の出来事の前でしたので聞いた人たちが理解できなかったとしても無理はありません。しかし、十字架と復活の後で全てはキリスト信仰者の生きざまを言い表しているとわかるようになったのです。
このように「幸いな者」は、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰を携えてこの世のいろんなことに遭遇しながら、神の国への迎え入れを目指してこの世を進んでいく者です。しかしながら、「幸いな者」になったとは言っても、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。それで、神の小羊の血が私たちに被せられた衣の白さを保ってくれます。
キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、神に対してだけでなく隣人に対しても自分を小さく低くすることができるようになります。それが柔和さとか憐れみ深さとか心の清さということになります。ただ、現実の人間関係の中で自分を小さく低くすることができなくなることがあります。それで柔和さや憐れみ深さや心の清さを失ってしまいます。しかし、ゴルゴタの十字架に戻る度にまた霊的に満たされます。「平和を実現する人」とは、何か戦争を終結させたり、紛争の根を絶やす活動、今世界で一番求められる活動です、そんな崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、自分が霊的に満たされているとわかれば、自分を小さく低くすることができるのです。
そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神のみ前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの滅び去った古い世で神の意思に反することが自分にあった。人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行いや言葉に出すことはなくとも心の中で持ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだ。何度も何度も十字架のもとに立ち返った。ひょっとしたら、弱さのために行いや言葉に出してしまったこともあったかもしれない。いや、あった。しかし、それを神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。本当にイエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。神さま、本当にイエス様を救い主と信じる信仰が私にとって全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に留まった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」
そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶでしょう。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」
η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!
幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!
Μακαριοι οι λευκαναντες τας στολας αυτων εν τω αιματι του αρνιου!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
スオミ教会におけるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の牧会と伝道について
今から10年近く前のこと、日本の教会関係者がフィンランドを訪問して牧師同士の交流の機会を持ちました。 まだ東日本大震災から間もない頃でした。日本の牧師がフィンランドの牧師に尋ねました。フィンランドの牧師たちは原発反対運動をしないのですか?していない、との答えに、日本側は、どうしてしないのですか?その聞き方が少し強い調子だったせいか、フィンランドの牧師は少しぶっきらぼうに「私の仕事は人間を天国に送ることだ。」日本側は、こりゃだめだ、という雰囲気になりました。
もちろんフィンランドの牧師も、牧師が原発反対運動をしてはいけないという意味ではなかったと思います。ただ、日本の牧師先生の言い方が、反対運動しないと牧師に値しないという雰囲気があったので、自分の本来の仕事はこれなのだという答えになったと思います。
「天国に送るのが仕事」などと聞くと、大抵の日本人は不気味な感じがすると思います。それは、日本人の死生観に復活の信仰がないからです。この世の人生は復活の日を目指して歩む旅路だと考えるキリスト信仰者にとっては別に変でも何でもなく当たり前のことです。
スオミ教会の牧師として、またSLEYの宣教師として、スオミ教会は聖書の御言葉を正しく教え聖礼典を正しく執行する教会であることを信徒の皆さんが信頼して繋がって下さることを願っています。確かにスオミは、ハレルヤ!ハレルヤ!と叫び合うような熱気はないし、また多くの教団のように社会改革の先頭に立とうとする教会でもありません(ここで、かつて政治学者の丸山真男が発表論文を本にまとめて「後衛の位置から」というタイトルを付けたことを思い出しました。自分は「前衛」とは違う立場であるということを表明したのでしょう。)
この激動の時代の中にあって、一人ひとり置かれた境遇は異なり向き合う課題は異なるが、将来の復活の日を目指してこの世を歩み、いろんなことに遭遇し悩み考えながらも、聖書の御言葉と聖餐から歩む力と勇気と愛を受け取る、信仰の兄弟姉妹と一緒に受け取る、そうやって一緒に復活の日を目指して歩む、それがスオミ教会なのだと考えています。この一緒の歩みを支えるのが牧会、この歩みに一人でも多くの方が加われるようにするのが伝道と考え、任にあたってまいりたいと思います。
スオミ教会の新しいシンボル - 白樺の十字架
この秋最初の子ども料理教室は10月28日に開催しました。この日の朝も太陽が青空に輝き、清々しい気持ちで一日を迎えることができました。今回作るのはフィンランドのオートミール・パンです。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。オートミール・パンはイーストで発酵させるので、今回は一つの生地は先に発酵させて準備したので、もう大きく膨らんでいました。それですぐパン作りを始めることができます。テーブルの上に置いた生地をお子さんが一生懸命こねて細長く丸め、それからパンの大きさに切っていきます。その後は楽しい形作りです。丸形、細長い形、お子さんの年齢から取った数字の6の形など、いろんな形のパンがあっという間に鉄板を一杯にしました。これから二回目の発酵をします。
お子さんはやる気一杯、自分でも生地を作ってみたくなったので、新しい生地を初めから作り始めました。材料をレシピの通りに測ってボールに入れて小麦粉を少しずつ加えていきます。お子さんは生地をこねるのがとても楽しそう。柔らかい生地の出来上がりです。新しい生地を作っている間に発酵させたパンは大きく膨らみました。それをオーブンに入れます。パンを焼いている間に上にのせるハム、チーズ、きゅうりのカッティングをします。
もう一つの生地も大きく膨らんだので、それもパンの形にして鉄板の上にどんどん並べていきます。ちょうどその時、オーブンがある台所からパンの香りが教会中に広がりました。パンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味に焼き上がったのかな。
味わう前に聖書のお話「五つのパンと二匹の魚」のフランネル劇をみんなで一緒に観ました。イエス様はたった五つのパンと二匹の魚で5千人の人たちに十分な食べ物を与えました。イエス様はそのパンと魚を手にとって、天を見上げて神様に感謝の祈りをさざけました。すると、イエス様のお話を聞きに集まってきた人たちは皆お腹一杯に食べることができたのです。それだけではありませんでした。食べ残しを集めると12の籠が一杯になる位の量になったのです。神さまは私たちが思っている以上のことをして下さるというのがイエス様の奇跡の業であることがよくわかるお話でした。
フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをして自分で形を作った焼きたてパンを頂きます!パンを真ん中から二つに切って、間にマーガリンを塗ってハム、チーズ、トマトをのせてサンドイッチにしたり、二つに切ったパンのそれぞれの切り口にハム、チーズ、トマトをのせてオープンサンドにしたり、皆さんの好みに合わせて頂きました。美味しく食べながら、幼稚園の話や趣味の話など楽しい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。
ヨハネ8章31節〜36節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。今日のこの福音書は、イエス・キリストが、信仰とは何か、真理とは何か、そして自由とは何か、そしてそれがどのように私たちにあるのか、を私たちに伝えてくれています。それらの言葉はいずれも聖書では、救いに結びつく大事な言葉であり、また福音でもあるのですが、それが救いのための大事な福音であるがゆえに、悪魔が何より絶えず攻撃し惑わす言葉でもあり、人間の側で都合よく理解され、正しく理解されなかったり、歪められたりする言葉でもあります。
A,「何を信じる信仰?」
聖書の伝える「信仰」。それは何を信じる信仰でしょう。それはキリストは世界に政治的社会的な変革をもたらす救い主であるという「信仰」でしょうか?イエス様の時代にも、キリストはローマからの圧政から解放してくれる政治的なメシヤという期待がありました。あるいは、信仰とは、人間の側で律法や聖書の約束を精一杯行い実現し完全に果たせば救われ神に受け入れられるという律法としての「信仰」でしょうか?これもイエス様の時代には、ファリサイ派の人々やユダヤの宗教指導者たちはそう信じ、そう教えてもいました。8章の最初では、彼らはまさに姦淫の現場で一人の女性を捕まえて石打ちにすべきではないかと言っているように、守られないものは救われないし殺されなければならないし、そして守っている自分たちは救いに一番近いし、誰でも裁くことができると信じていたし、そうすることが彼らの「信仰」でもあり信じる救いでした。そのような理解は現代のキリスト教会にさえあり、福音や救いはまだ十分ではなく不完全であり、自分たちが約束やその未完成な福音を実現し果たすことによって福音も救いも完成させるのだ、それが信仰、救いであり、そのように信仰は律法であり、救いは人間の意志の力と努力による協力で人が完全に果たされなければならないのだという教会やクリスチャンも少なくなりありません。あるいは、もう単純に、人間中心の期待や願望の通りに実現するように信じる信仰、その通りになったら信じるというご利益信仰のような「信仰」という理解も多いことでしょう。しかし、そのような信仰がイエス様の伝える信仰なのでしょうか?
B,「聖書の伝える真理とは?」
では、「真理」とは何でしょう。この相対主義的で個人主義的な傾向の強い現在は、真理という言葉は非常に立場の狭い言葉です。「真理は他者を排除するものだから、教会でもあまり言わない方が、あるいは強調しない方が良い」と教える教会やクリスチャンは沢山あります。そして言うのです。真理は人それぞれ、多種多様なんだと。今日のところで「真理は自由にする」とあり、真理は救いに関わるものであるのですが、その真理も、そのような現代の世の受け入れられやすい風潮に従ってそのような多種多様な「真理」を聖書は伝えているんだと、人間に都合の良い解釈に変えてしまい、どんな宗教のどんな真理でも自由にするんだ、結局は登山口やルートが違うだけで、どの真理から登っても、同じ頂上の救いに至るんだと平気で教え信じる教会やクリスチャンもいます。しかし聖書の伝える真理とは果たしてそうなのでしょうか?
C,「聖書の伝える自由とは?」
では今度は、「真理はあなたたちを自由にする」、その「自由」とは何でしょうか?これもさまざま理解される言葉です。自分中心で、自分の欲望の通り、好き勝手にできること、それが自由である、世の人々はそのように考えることでしょう。同じように、キリスト教会やクリスチャンの間でも、そのように好き勝手に感情のままに行動できること、聖書を解釈できることが自由だという人もいますし、あるいは、それに少し高尚な理由づけを加え、宣教や伝道、愛や隣人愛などを掲げて、その名の下に、しかし人間中心に、人間に都合よく、自由に聖書を解釈することや、自由に感じるままに感じ取ることが聖霊の働きなんだ、と非常に巧妙に、最もらしく聞こえるように自由を主張する人々もいます。しかしそれが聖書の言う自由なのでしょうか?
このように、信仰、真理、自由、それらは、救いに関わる大事な言葉であるのに、このように多種多様に理解され多種多様に用いられ、かつそれが「人の前」では支持されてもいますが、しかし、それは「神の前」では、イエス様が「ああそうか、良かった」と喜ばれる状況では決してありません。なぜなら、イエス様は、今日のこのところで、そのような罪深い人間の風潮やトレンドとは真逆の、何を信じることが信仰であり、真理とは何か、その真理が自由にするという「自由」とは何なのかを、私たちに教えてくれているからです。
今日のところの一節前の30節には、「 30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。しかし、8章11節までの姦淫の女性の話の後にイエス様が教えていることは、12節からにせよ、21節からにせよ、かなり難解です。21節以下などは、イエス様だけが知っている、ご自分が今まさに十字架にかかって死ぬことや、そしてイエス様は父と一つであるという三位一体を示すようなことを伝えており、27節では彼らは「悟らなかった」とも記されています。さらには、今日の箇所の後の37節ではその「信じた」と言っている人々を指して「あなた方は私を殺そうとしている」とさえあるのです。ですから、ここに「人々が信じた」とあるのは、おそらく、革命者であるメシアをイエスに見ていた人々と同じように、あるいは、試しにきたファリサイ派の人々ように、非常に表面的なものか偽りのものであったことでしょう。というより何よりも、人間は口でいくらでも「信じる」と口にできたとしてしも、イエスの示す真理には、罪深い肉の思いのままでは、自らでは決して理解することも到達することもできない人々の姿もまたここには表されているのです。
そのような人々へです。31節、イエスは教えるのです。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
A, 「み言葉によって真理へ」
まず教えられるのは、私たちは自ら、自らの力や意思では、決して真理を悟ることも到達することもできません。しかし、イエス様はここで、私たちがそのように自ら真理を悟り到達「しなければならない」ということも教えていないでしょう。つまり「私たちが自ら真理に至らなければいけない、そうでないと救われない、そのように自ら真理に至って自ら自由になりなさい」、というのが聖書の教え、イエス様の教えではないことがここにわかると言うことです。イエス様はそんな悟りの遅い、あるいは表面的な、打算的な信仰者であってもその彼らのためにこそ、そして、人は自らでは悟ることは決してできないからこそ、彼らに「わたしの言葉に留まるならば」と言う大事な言葉を言ってくださっているでしょう。「わたしの言葉をあなた方が自ら悟り理解したら、あなたたちは本当にわたしの弟子です」とは言っていません。「留まるなら」と言っています。英語のESVですと「abide in My word」とありますが、「abide」は我慢する、耐えるという意味の他に「住む」という意味もあります。そのように、イエスの教えることをそのまま聞き、そのまま受けとり、そしてそこに縋り、しっかりとしがみつき、イエスの言葉が心に住まい続ける時に、私たちの力ではない、そのイエス様の言葉とそこに働く聖霊によって「真理を知る」ようになるという恵み、イエス様のみわざをイエス様は教えていることがわかるのです。これはとても感謝な平安のメッセージです。この後見ていくように、真理は多種多様ではなく、イエスが与える唯一の救いの真理を伝えます。それが自由にする真理です。しかしそれは決して私たちが自ら得なければいけないということではないのです。人間の側で、頑張ってその真理を理解したらわかったら、救われるという律法をイエス様は決して伝えていません。どこまでも「わたしにとどまるなら」です。皆さん、真理を知ることは律法ではありません。真理は、イエス様のみ言葉にあり、イエス様の教えにあり、そこに留まり聞くことによって、イエス様が教え、悟らせてくださる恵みであり福音であるということなのです。
B,「何からの自由か?:誰でも罪の奴隷である」
しかし次にその真理とそして自由です。それは、先ほども言いましたように、多くのそれぞれの真理があってどの異なる登山道を通っても結局は同じ頂上の救いに至るという多元主義者がいうような多種多様な真理のことをイエス様は言っているのではありません。32節「32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 と言った後、それを聞いていた人は、まだ目が開かれていません。むしろイエス様が言おうとしている「自由」の意味を、彼らは人間的な視点での自由でしか判断できません。33節
「33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
「誰の奴隷になったこともない」と、彼らは「自由」という言葉を、物理的な身体的な束縛以上のことでは理解できないのです。そして「なぜ自由になるというのか」と自分たちは何者にも束縛されていないかのように彼らは答えるのです。ちなみに彼らは物理的には実際はローマと皇帝と親密なヘロデに服従させられているのにも関わらず自由だと言っているのですから、その言葉が彼らの虚飾と自尊心で言っている「強がり」であることも窺い知ることもできます。しかしイエス様はここで、そのような物理的肉体的な束縛や奴隷状態のことではなく、むしろ「神の前」にあっては人は何の奴隷であり、そして真理は何から自由にするのかを、はっきりと教えます。
「34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
イエス様は、言います。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷であると。ある人は言うかもしれません。「私は罪を犯していない」と。確かにここに聞いている人は、日本の刑法に触れることはしていないでしょうし、道徳に反することもしていない人であるかもしれません。しかしここでイエス様がいう「罪を犯すもの」はまさに神の前にある律法、十戒に照らしてあなたは罪を犯したことはないかを問うているのです。この8章の初め姦淫の女の出来事の7節ではイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 と言った時に、律法学者たちやファリサイ派たちは「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」ました。彼らは、表向きは立派で律法を守っていると自負する人々ですから、そのような犯罪とか犯したことはない人であったかもしれませんが、しかし、彼らも十戒に照らすときに、これまで全く背いたことがない、罪を犯したことがないとは誰も言えなかったのです。それはアブラハムの家の子孫だからと家柄や地上のいかなる権威でさえも抗うことのできない現実です。37節を見ると
「37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」
そう、「信じる」といっているアブラハムの子孫である彼らのこれから成そうとする策略までも見通して、未来に至るまでも、あなた方は罪を犯さないものではないとイエス様は言っています。「信じると言っているあなた方が、わたしを殺そうとするのだ」と人間がいかに罪に縛られていて自由ではないかをイエス様は言っているのです。私たちも人の前では刑法や道徳に触れることはしていないかもしれません。「罪人だと言われても、私はそんなに悪くはない。そんなに罪罪、言わないでよ。気分が悪い」と言うかもしれません。しかし、誰でも、私自身も、十戒の前に照らし出されるときに、私たちも誰一人、姦淫の女に石を投げることができないものです。確かに行為として盗んでいません。殺していません。姦淫していません。しかし心の中の罪は計り知れません。そして何より、イエス様が十戒を要約して律法全体がこれにかかっているとして「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神を愛しなさい、隣人を愛しさなさい」(マタイ22章36−40節)と命じていることを、私たちは誰も完全に果たせていると言える人はいません。神よりも隣人よりも自分が中心で、自分を何よりも愛するものです。創世記3章などの罪の根源である初めの人の誘惑に照らすなら、私たちは誰でも、神のようになれるという誘惑に負けて自分を神のようにする自己中心な存在ではありませんか。私自身がそのようなアダムの子孫である紛れもない罪人であり、まさに罪に縛られてどうすることもできない存在であることを認めざるを得ません。ヨハネはその最初の手紙1章でこのように私たちに教えています。
「8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。〜10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1章8節、10節
私たちは罪人です。罪があるのです。罪の奴隷であるのです。ヨハネは罪がないと言うなら、真理も、神の言葉も、私たちのうちにはないと、今日のところに重なるように言っているでしょう。しかし、それは同時に、教えられます。私たちが神の言葉から、何に縛られ、何の奴隷であるかがわかるからこそ、その束縛から解かれなければならないことがわかり、だからこそ神の与えようとしている救いの真理がわかるようになる。その神の言葉が私たちのうちにあって真理に導いてくださるのです。そしてその時に、その自由は何であるのかも見えてくるでしょう。そう、イエス様が伝える自由は、人間が好き勝手に欲望のままに何でもできる自由では決してない。それは神とその言葉によって、罪の奴隷、罪の束縛から解かれ自由とされると言うことなのです。
C, 「イエスが伝える「真理」とは」
さあ、その神がイエスを通して与える、罪の束縛から解放する「真理」は、皆さん、もう明らかでしょう。イエス様はそのために預言で約束され、約束の通りに世にこられ、そして初めからこのことを真っ直ぐと見て、教えてきたでしょう。そうです。真理とはこの私たちの罪のための贖いである十字架と復活に他なりません。イエス様はそのためにこの地上に人としてお生まれになります。イエスはただ、道徳的な模範なんだと教える教会もあるかもしれません。私たちが自分たちの努力や意志で律法に従い律法を果たし義となるための模範を示すために来たと。しかし、それでは誰も自由にしません。イエス様が人となられたのは、私たちの罪の奴隷からの解放であり、それはそのご自身の肉体に、私たちの底なしの罪と私たちが本来負わなければならなかったその罪の報いである死と罰を、代わりに受けることによって、神の前にイエス様が罪に定められる代わりに、私たちに罪の赦しを与えるためではありませんか。そのように神はこのイエス様の十字架にあって「あなたに罪はない。義である」と罪の赦しを宣言することによって、私たちを神の前にあって罪の束縛から解き放ってキリストにあって本当に自由にするためにこの真理を与えてくださっているのです。そして、その真理も自由もどのように私たちに来るのか?それは、どこまでも御言葉を通して与えられるのであり、み言葉を通して罪を認めさせられ悔い改めさせられ、そこで人は刺し通され痛みがあり絶望するのですが、それで終わりではない、まさにその時にこそこの真理、どこまでもイエス様がしてくださった一方的な罪の赦しをそのまま信じ受け取るだけで「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」とイエス様は宣言してくださるのです。先ほどの罪を示すヨハネの手紙の言葉にはこのような言葉もしっかりとあります。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1章9節)
そして、第二の聖書日課の箇所ローマ3章24節でもパウロは教えています。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」
さらには、パウロはその悔い改めも、信じる信仰さえも、そのまま受け取ることさえも、それは、私たち自らの努力とか行いとか意思の力とかによるものではないことまでも教えています。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」フィリピ2章8−9節
みなさん、このみ言葉を通して、恵みによって真理を知る信仰が与えられ、その信仰によって誰でも自分の罪が赦され、罪の束縛から解放され、「あなたの罪は赦されています」「正しい」と宣言され、自由とされる。安心していくことができる。それはどこまでも一方的な神のわざ、神の恵みである。律法ではない、福音であるのです。
昨今、この真理も自由も信仰も、人間中心に考えられることによって、律法か放縦か、いずれかに偏った聖書の教えがされます。しかし、それらは律法であっても放縦であってもいずれも人の行いに依存しているのですから、どこまでも福音ではなく律法による歩みです。個々の人間自らが一生懸命獲得する真理、自由、信仰であるか、あるいは人間が好き勝手に解釈していい真理、自由、信仰であるのか、いずれかです。それはどちらも間違いであり、イエス様が与えると言われた真理も自由も平安もありません。ルターの宗教改革運動も、当時の腐敗した、人中心の間違った教えから、真の神中心、キリスト中心の「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」に立ち返り、真の真理、自由、信仰、そして平安を教会と人々に回復することでした。その改革の精神は、昔の単なるノスタルジーで今は関係ないことでしょうか?あるいは、現代風に新しく再解釈していくものなのでしょうか?そんなことはありません。今も決して失われてはいけないものではないでしょうか。私たちはいつでも永久に変わることも朽ちることのない十字架と復活の主イエス・キリストの言葉に立ち返り、すがり、留まることができ、聖書から「人が何を聞きたいか」ではなく「神が何を伝えているのか」を聞けることこそがクリスチャンの幸いでありいのちの歩みでしょう。その真理こそ今日も私たちを自由にするのです。そしてそのキリストが与える真理と自由に与るからこそ、私たちはルターが「キリスト者の自由」で「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何者にも従属せず、キリスト者はあらゆるものの、最も義務を負っている僕であって、全てのもののに隷属している」と言っているように、真の自由と平安のうちに、今度はキリストの自由な奴隷として、本当に自己中心や自己愛などの罪な動機や思いに縛られないキリストの平安と喜びに満ちて、真に隣人に仕えていくよう用いられていくのです。
だからこそ、今日も神の前に罪人であることを認めさせられ刺し通され悔い改めに導かれる私たちですが、だからこそ十字架と復活の福音の言葉を語り、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださるイエス様の声を聞き、自由にされ、平安のうちにここから遣わされて行こうではありませんか。
今回はフィンランドの「クリスタル・コーヒー・ブレッド」を作ります。フィンランド語で「Kristallipulla」と言います。 バニラシュガーが沢山入っている「クリスタル・コーヒー・ブレッド」は多くのフィンランド人にとって最も人気のある美味しいコーヒー・ブレッドの一つです。フィンランドはこれから寒くなって気温が氷点下に下がると、木の枝の水滴が凍って水晶のように輝きます。トッピングのバニラシュガーが輝いて見えるのでこの名がつきました。
是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1766983237iamg@1766983237arumi1766983237hsoy.1766983237iviap1766983237 まで。 電話03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 www.suomikyoukai.org
この秋の最初の手芸クラブは10月25に開催されました。10月の終わりなのに寒くなく秋の爽やかな朝にスオミ教会に集まりました。
今回の作品はかぎ針編みです。かぎ針編みのテクニックを使って作ったペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きをモデル用に準備しました。最初にそれを見て参加者の作りたいものを選びます。今回は参加者の皆さんは小物入れに興味を持ってそれを編むことにしました。
まず、好みの色の糸を選びます。それからかぎ針編みの基本を思い出しながら作っていきます。初めは鎖編みでスタートして、それを丸くしてから1段から3段まで長編みと鎖編みの繰り返しをします。編んでいる内に四角の形になります。最後に四角の周りに小編みをして一枚目が出来上がりました。皆さんは可愛い色の四角を上手に2枚編みました。残りの2枚はお家で編んでもよいし、次回いらしたときに編んでも宜しいです。残りの2枚が出来てから小物入れになるように組み合わせをします。お家で仕上げられた方もいました。
今回は編み物に集中したためか、時間はあっという間に過ぎて、いつの間にかコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。歓談の時を持ってから、フィンランドの「編み物会」やお祈りについてのお話がありました。
次回の手芸クラブは11月29日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
この間私たちのミッション団体の雑誌を読んだ時、フィンランドの教会の「編み物会」ついて面白い記事がありました。その記事について少し話したく思います。
フィンランドでは「編み物会」という教会の活動が1800年代後半にとても盛んになりました。会の名前は「編み物会」ですが、そこに集まった女性たちは編み物だけではなく色んな手芸もしました。女性たちは教会に集まって、手芸をしたり、いろいろ話し合ったり、コーヒーや紅茶を飲んだりして、聖書の教えも聞きました。この時代、多くの女性たちの生活は家に限られていたので、「編み物会」は女性たちにとって大事な社交の場になりました。「編み物会」は、ただ集まって楽しい時を過ごすことだけが目的ではありませんでした。この活動はもっと深い意味がありました。女性たちは「編み物会」で作った手芸品をバザーで販売して海外ミッションの為にお金を集めました。教会の海外伝道すなわちミッションを支えるという役割を果たしたのです。
フィンランドのルター派の国教会は、多くの宣教師をアフリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジアに派遣してきました。この働きのためにはお金が必要です。フィンランドの教会ではクリスマスやイースターの前にバザーが行われます。女性たちはバザーで「編み物会」で作った手芸品を売って、得た収入をミッションのために寄付しました。このため「編み物会」の名前も「ミッション編み物会」とも言われます。
私とパイヴィが日本に派遣されたこの13年間、日本では牧師というのはキリスト教会の中では絶大な権威があることがよくわかりました。 以前、赴任していた教会で、牧師先生の聖書の教えがどうも良くなく、新奇をてらいたいのか、聖書で言われていることと明らかに関係ないことを関係あるように言われる。しかし、信徒さんたちは皆、「聖書のプロ」が言うことだから真理だと思って受け入れる。ある人は講義のごとく賢明にノートを取っている。本当に聖書はそんなこと言っているのかな?と疑問を抱く瞬間があっても、すぐああ、そういう理解の仕方もあるんだ、さすが牧師先生!と牧師の方を持ち上げてしまう。(また、人間味溢れることを示すためか、牧師同士や信徒と一緒に酒を飲むなど、権威のソフト面を怠らない人もいました。)
このような日本における牧師の権威を考えると、今回、牧師の按手を受けた者として聖書を教えるというのは大きな危険が伴うことをよく自覚しています。どうしたらいいのか?ルター派の牧師としてなすべきことははっきりしています。律法と福音の説教を続けるのみです。牧師の中には説教の中で罪に言及しなかったり、したとしても過去の遺物か、ただのお飾り言葉になってしまう人もいます。キリスト教徒になったとは言っても、私たちがどれだけ神の意思に反する存在であるか、それを心に思い起こさせることはせず、そのまま神の愛とか恵みとか言ってしまうのです。しかし、ルター派の律法と福音の説教は、自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか思い起こさせた返す刀で信仰者の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。その瞬間、信仰者はキリストの償いの業のゆえに罪の赦しは本物で、自分はそれを受けていると確信でき、これからは神に背を向けず神の意思に沿うように生きようという心になります。それが律法と福音の説教です。そういう心を生み出すことをせずに神の意思に従わせようとするのが律法主義です。
聖書の御言葉には耳障りのいい言葉だけでなく耳の痛い話も沢山あります。耳障りのいい話だけ集めて教えるのは確かに信徒さんたちの人気と信望を勝ち得る最短の道ですが、耳の痛い話があってこそ神の愛と恵みが本当に神的なものであること、人間的なものを越えているとわかる道です。まさにそれがルター派の説教が目指すところのものだと考えます。
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主日礼拝説教 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日
聖書日課 イザヤ45章1-7節、第一テサロニケ1章1-10節、マタイ22章15-22節
説教をYoutubeで見る
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方はこの世の権力の頂点に立つ者、他方は万物の創造主である神。イエス様は私たちキリスト信仰者に、この世の権力と創造主の神という二つのものにどう向き合うべきかについて教えています。どう向き合うべきか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。
まず、この言葉が出てくる原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか。」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。このことについては後でまたお話しします。
それでは、どうしてイエス様の反対者はそんな質問をしたのでしょうか?ここには、とても大きな歴的背景が横たわっています。
ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。民族の実力者にヘロデというユダヤ民族出身でない者がのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から領主に格下げになりました。本日の日課の中にヘロデ派というのが出てきますが、ヘロデ王朝の支持者で、要はローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後、同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。ユダヤ民族の完全な解放をもって「神の国」が実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。
まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。
先ほど反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。
さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らはちっぽけに「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。
イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」というふうにもっと広い意味になります。そこで、このやり取りの流れを思い出すといろんなことがわかってきます。
イエス様と反対者のやり取りは、その前にあったイエス様の3つのたとえの教えの続きとして出てきました。3つのたとえの教えとは、マタイ21章28~32節の二人の息子のたとえ、33~41節のブドウ園と農夫たちのたとえ、そして22章1~14節の王子の婚宴のたとえです。3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。
少し脇道にそれますが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が民族に関係なく全ての人間を罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールが「神の国」でした。イエス様が教えた「神の国」が正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。
当時の宗教エリートたちは「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、やって来たのです。そこでこの皇帝への納税の質問をしたのです。
さて、3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りで、一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。
それと、「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ27章58節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。
以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さないので地上の国に引き渡してはならない、譲り渡してはいけない。「神の国」にかかわることを地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。
「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。
キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主です、と信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたのでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きるキリスト信仰者は、私のようなもののために神はひとり子を犠牲にすることも厭わなかったと神を畏れかしこみ、これからは神に背を向けずにその意思に沿うように生きようと志向するようになります。
しかしながら、そういう志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に信仰者の内に駐留するようになった聖霊がすぐ信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪はあそこで赦されている。だからこれからは罪を犯さないように」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時もあります。その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。
このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に立ち返ることを何度も何度も繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」に迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。
キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを絶えず十字架に立ち返りながら「神の国」を目指します。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、今は敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢でしなければならないことをするのが当然になるということです。
キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ役割を果たします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心にした信仰の生き方ができれば別に皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が人間にとってベストな政治体制と考えられるようになった現代、ローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのはなんだかはやりません。まるで、現在、世界各地で民主主義に挑みかける権威主義体制を擁護するように聞こえてしまうかもしれません。イエス様は専制君主や権威主義を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、ローマ13章の教えを見てみます。
そこでパウロはこの世の権威や権力に従うべしと教えています。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はなんと物分かりがいい連中だと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。パウロは、俺の権力が神のお墨付きと言ってくれたぞ、と。
ところが、この「神によって立てられた」というのは大変な裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ人ではない異民族の人なのに聖書の神が彼を覇者の地位につかせるというのです。なぜ神はそうするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは歴史上、実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。紀元前538年に祖国帰還が実現します。イザヤ書45章7節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は地上の権力者の上に立つという観点でみたら、ここは「神は国に繁栄をもたらし滅亡をもたらす方」と訳した方がいいと思います。
このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させました。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。
この世の権力に従うことと神の意思に従うことが衝突しなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録4章19節)。これがこの世の権力に従う時のキリスト教徒の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。
信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。
この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体とは異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これがキリスト信仰の死生観です。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちにしろ、ということです。
キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。