お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
今フィンランドはリンゴやベリーの季節です。今回のメニューは、フィンランドの多くの家庭で作られるリンゴ・ケーキです。リンゴ・ケーキはいくつか種類があり、今回のものは生地にシロップやオートミールを混ぜてしっとり感を持たせます。リンゴも厚切りにし、黒砂糖、シナモン、カルダモンなどのスパイスで味付けしたものを生地の中に押しこんでいきます。そうすることで生地全体の風味が一層リッチに引き立つのです。バニラアイスを添えたりバニラソースをかけて味わえば、お口の中に贅沢感がひろがることうけあい!そんなリンゴ・ケーキをご一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,800円です。 どなたでもお気軽にご参加ください。 お子様連れでもどうぞ! お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1762425875iamg@1762425875arumi1762425875hsoy.1762425875iviap1762425875 まで。
この秋の最初の手芸クラブは9月24日に開催しました。暑い日がずっと続きましたが、やっと秋を感じさせる涼しい朝を迎えることができました。
今回の作品はクロスステッチの刺繡です。初めにモデルを見て自分の作りたいものとそれに合う糸を選びます。それから作りたい模様の形を色鉛筆で書いてから刺繡に入ります。クロスステッチには少し細かいことがあるので難しく感じられるところもありましたが、皆さん一生懸命頑張りました!
だんだん可愛い模様が見えるようになると、「可愛い!」「素敵!」「色合いがきれい!」などの声があちこちから聞こえてきました。今回は参加者の皆さんが刺繡に興味をもっていたので積極的で賑やかな雰囲気でした。楽しくおしゃべりしながら可愛い刺繡の模様がどんどん大きくなります。刺繡は完成まで時間がかかります。来月も続けたいと希望する声があがりました。それで来月は今回の続きをすることに決めました。
クロスステッチ刺繡は細かい作業を要求するので目が疲れます。それでは、コーヒータイムで一休みしましょう!今回はコーヒーブレッドPullaの他にも、下関に里帰りされた参加者の方がお持ちになられたお土産「ふぐのおかき」と別の参加者の方が育てられたフィンガーライムという珍しい果物などもテーブルを飾りました。それらを皆で一緒に味わいながら話し弾むコーヒータイムになりました。
その時にフィンランドの家の壁飾りによく刺繡されてある文章に関連して、聖書の「放蕩息子」の教えや天の神さまのもとには私たちの帰る家があるということについてお話を聞きました。
次回の手芸クラブは10月29日に開催予定です。開催日が近づきましたらホームページに案内案内を載せますので是非ご覧ください。
刺繡はフィンランドで何世紀にもわたって親しまれてきた手芸の一つです。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。スオミ教会の手芸クラブではいつもクロスステッチのテクニックを使って刺繡をしましたが、刺繡のテクニックは本当は数えきれないくらい多いです。ある本には200のテクニックが載っています。私たちにはまだまだ習得するテクニックがたくさんあります。
フィンランドでは刺繡で作る壁飾りはスウェーデンから伝わり、昔からよく作られました。それらは、家のすぐ目に入る場所によく掛けられました。壁飾りとはどんなものでしょうか。普通それは、周りに刺繡で作られた可愛い飾りがあり、中央には色んな文、格言などが刺繡されています。文は普通は、心を慰めたり励まするものです。多くは聖書や讃美歌の一節です。例えば「神の恵みは朝ごとに新しくなる」「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」です。
壁飾りに刺繡された言葉は家や家庭の大切さをよく表しています。私の実家には母が自分の母(私のおばさん)からもらった壁飾りがあります。そこには「勤勉は幸せの母」と刺繡されていました。母はいつも家庭の為に一生懸命働いていたので、これは母にピッタリの言葉でした。
もう一つよく知られている言葉は「家は黄金のように貴い」です。外から家に帰ると、ホッとしたり安心したりするでしょう。家は安らぎのある場所なので、「家は黄金のように貴い」は家の壁飾りに相応しい言葉でしょう。皆さんは壁飾りにはどんな言葉を刺繡するでしょか。
今日の聖書のお話は「家」に関係するものです。聖書は家について多くのことを教えています。私たちにはこの世にある家の他にもう一つの家があることを教えます。それは天と地と人間を造られた天の神さまのもとにある家です。神さまはそこで私たちのために場所を準備下さって、私たち一人一人をも含めて世界の全ての人たちご自分のもとに招かれるのです。しかし神さまは神聖なお方です。私たちは神さまの御心に沿わないをしてしまいます。そんな私たちを神さまは迎え入れて下さるでしょうか。
ここでイエス様が話された「放蕩息子」という有名なたとえの教えを紹介したいと思います。ある家に息子が2人いました。それは雇い人が沢山いる裕福な家でした。弟の方はある日、外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、お父さんが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞こうとしません。父親は自分勝手な息子を悲しく思いましたが、財産を兄弟に分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。
息子はそこで華やかな生活をしました。高価な服を着て美味しいものを食べ、お酒を飲んで毎日遊んでばかりいました。しかし、いつかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって、彼は食べ物に困り始めました。
それで息子は仕事を探し、豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹は空んたままでした。きたなくて冷たい豚の餌を食べたいと思うほどでしたが、持ち主は認めませんでした。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分父親は受けて入れてくれないでしょう。それで、雇い人の一人にしてくれるようにお願いしようと決めました。父親の前で言う言葉を考えました。
そして、懐かしい家が見えてきました。すると、最初父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、体中汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親のが走りくる姿に驚きました。その時、考えていたことを言おうとしましたが、父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま考えていた言葉を言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」しかし最後の言葉「雇い人の一人にして下さい」を言おうとすると、父親はそれを遮って家来たちに盛大なお祝いの準備をするように命じました。それからこう言ったのです。「息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」
父親は罰ではなく息子を愛をもって受け入れたのです。このたとえに出てくる父親とは神さまのことで、息子とは私たちのことを表しています。私たちも神さまの元に立ち返るなら神さまはこの放蕩息子と同じように必ず大喜びで私たちを自分の家に迎え入れて下さるのです。神様のもとに帰る人は皆、神様の子どもなのです。
壁飾りの他にも刺繡したテーブルクロスやクッションは家の雰囲気を温かくし、私たちを喜ばせてくれます。それらを目にする時、神さまのもとにある「家」を思い出しましょう。神さまは私一人一人をそこに招いてくださるのです。
コスモスと甲斐駒ヶ岳
<1 たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。 2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。 詩編121>
6月以来の山梨県北斗市白州です。初夏の時は白州は至る所に夏の花が咲いていましたが、此度の白州は路傍のコスモスが主役となり道行く人を楽しませてくれていました。山の団十郎、甲斐駒ヶ岳も昼下がりの秋の日を浴びて眠たそうでした。
主日礼拝説教 2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)
アモス6章1、4-7節、第一テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所でイエス様は実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?
金持ちが贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に全身傷だらけの貧しい男が横たわっていました。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のラザロは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロという名前は、旧約聖書によく登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでのことはほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちによって天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人は誰でも、ああ、イエス・キリストは利己的な生き方はいけない、困っている人を助けてあげなければいけないんだと教えていると思うでしょう。なんだか当たり前の道徳に聞こえます。そんな教えは別にキリスト教でなくたって他の宗教にもあるぞと言う人もいるかもしれません。
しかしながら、ここのイエス様の教えは「利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ」が中心的なことではありません。中心的なことは「神に背を向けた生き方を方向転換して神を向いて生きよ」です。利己的な生き方をしない、困っている人を助けるという道徳は方向転換をした後で派生して出てくるものです。そして、方向転換のカギになっているのが旧約聖書とイエス様の復活であると教えているのです。ここのところが、道徳の問題でキリスト教が他の宗教・信条と違ってくる点です。似たような道徳を説いているようでも、組み立てられ方が全然違うのです。
少し余談になりますが、私が大学の神学部で勉強していた時、何かのセミナーである学生が今日の個所をテーマに発表をしました。彼によると、この金持ちとラザロの話にはネタがあって、それはエジプト由来の話であった、その内容は同じように金持ちが貧しい人を助けてあげず死後に立場が逆転するという話で、金持ち一般に対する戒めであった。この話はユダヤ教社会にも伝わってよく知られていて、イエス様はそれを自分の意図に沿うように改作したというのが発表の主旨だったと思います。ただ、どんな意図で改作したかはペーパーが手元にないのでもうわかりません。しかし、今回説教の準備にあたって、セミナーのことを思い出しながら日課の個所を何度も読み返してみたら、なるほどと私なりにイエス様の意図が見えてきました。それは、説教題にあるように、旧約聖書の精神と復活の信仰の両方があると神の方を向いて生きる方向転換が起こるということです。今日はそのことを見ていきましょう。
まず、今日の教えの中で天国や地獄が出てくることについてひと言。人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて時代遅れのやり方だ、と言う人がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこに行くのか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかという問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かないよ、死んだらそれで終わり、消えてなくなると考える人もいるでしょう。その場合は、この世での生き方が次の世での有り様に関係するというのはナンセンスです。なぜなら、次の世がないのですから。人によっては、死んだら魂か何かが残ってみんなどこか安逸な場所に行くと考える人もいます。その場合、この世での生き方と次の世での有り様にはあまり関連性はありません。なぜなら、みんな安逸の場所に行けるのですから。人によっては、新しく別の人間ないし動物に生まれ変わると言う人もいます。この場合は関連性があります。もし、今の生き方に何か問題があれば次はなりたくない動物や虫になってしまうからです。
キリスト信仰の場合はどうでしょうか?十戒という神の意思を凝縮した掟集があります。それを守らないと地獄に堕ちると言うことでしょうか?そうとも言えるし、そうとは言えないという両面がキリスト信仰にあります。キリスト信仰はこの世での生き方と次の世の有り様の関連をどう見るかについては終わりで明らかにしようと思います。
本日の個所で一つ、おやっと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄ではなく「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかし、永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。
新約聖書の観点では、天国とか地獄というものは将来イエス様が再臨する時、死者の復活とか最後の審判とか天地の再創造が起こる時、その時点で生きている人と前に死んで眠りについていた人が起こされて到達する地点ということになります。なので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにつく、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な出来事が始まっていると教えています。壮大な出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。
そういうわけで、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は地獄と言った方が正しいのではないか。しかし、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判も天地の再創造も起きていません。そうするとやはり「地獄
でなく「陰府」かなと思うのですが、金持ちは眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。これは一体どういうことか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。一例として、英語NIVはハーデースをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では「陰府」を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、などと断っているくらいです。
どうしてイエス様は、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?一つ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。もう一つ考えられることは、もしこの話の元にエジプト由来の教えがあったのであれば、イエス様はその骨格をそのまま用いて、元の話にはない新しいことを教えたことになります。聞き慣れた話だと思って聞いていた人たちは突然、別世界に連れて行かれた感じになったでしょう。ここがイエス様の凄いところだと思います。それでは、その大事な新しいこととは何か?そのことを次に見ていきましょう。
金持ちはアブラハムにラザロを送って指先の水で焼き付く舌を冷やさせてくれるよう頼みます。
アブラハムは、お前は前の世で良いものを十分味わった、ラザロは悪いものを十分味わった、だから今ラザロは大いなる慰めを受け、お前は大いなる苦しみを受けるのだと言います。ここからも、聖書の神にとって正義は重大な関心事であることがわかります。今の天と地の下で正義が損なわれて放置されることがあっても、神はそれをそのままで終わらせない、必ず決着をつけられる。最終的に決着がつけられるのは最後の審判です。そこでは「命の書」と呼ばれる、全ての人間の全ての事柄が正確に記録されている書物が開かれて判決が下されます。どんな有能な裁判官も太刀打ちできない完璧な判決です。
さて金持ちは、自分のことはもう決着済みと観念して、今度はラザロを兄弟たちのところへ送って下さいとお願いします。そうすることで兄弟たちが自分と同じ運命に陥らないようにするための警告になると思ったからでした。
ところがアブラハムは、彼らには律法と預言書、すなわち旧約聖書があるではないかと返します。そこにある神のみ言葉に聞けば、わざわざ死者など送らなくとも警告は伝わると。
しかし、金持ちはそれは上手くいかないと認めて言います。「父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」つまり、兄弟たちは旧約聖書に聞いていないのです。「悔い改める」とはギリシャ語のメタノエオーという動詞で、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになる方向転換を意味します。方向転換のために神のみ言葉に聞くことが必要なのだが、実際は聞いていないから、死んだ者を送ってやれば兄弟たちは恐れて考え直すと考えたのです。
ところが、アブラハムはそんなことは起きないと言います。なぜなら、「もし、モーセと預言者(つまり旧約聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
この言葉は重大です。よく耳を開いて聞きましょう。これはアブラハムの言葉ですが、イエス様が作った話の中のアブラハムなので、イエス様がアブラハムの口を通して言わせたイエス様の教えです。「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。ここでイエス様はご自分の復活のことを意味しているのです。ここのイエス様の真意はこうです。「もし、旧約聖書に耳を傾けならないのなら、たとえ死者の復活が起こっても、方向転換の悔い改めは起こらないだろう。」この教えが重大なのは、この教えが向けられているのは金持ちとその兄弟だけではなく、これを聞き読む全ての人に、私たちに向けられているからです。もし、私たちも旧約聖書に耳を傾けないならば、イエス様の復活が起こったところで、私たちに方向転換の悔い改めは起こらないのです。逆に言えば、もし旧約聖書に耳を傾けるならば、イエス様の復活が起こったことで方向転換が起こるのです。旧約聖書に耳を傾けるとどうしてそのような効果が生まれるのでしょうか?
旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように、十戒の掟を心の奥底まで守れているかどうか問うことになることです。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うのです。そうすると、自分には神の意思に反する罪があることがはっきりし、神の御前に立たされて「命の書」を開かれる日は恐ろしい日になります。ところが、旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを私たちに約束するのです。どんな約束か?人間が神の御前に立たされても大丈夫でいられるように、人間の罪を人間に代わって償って下さる方が来られるという約束です(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、まず、自分には神の意思に反する罪があることを十戒によって暴露されて絶体絶命の状態に置かれることです。しかし同時に、神の計らいで人間は罪から贖われるという約束を与えられて希望の状態に置かれることです。つまり、旧約聖書に耳を傾けるというのは、罪の自覚に基づいて希望を持つことです。
この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。イエス様が死から復活された時、あの方は旧約聖書に預言されていた、死が最終的な力を持ちえなかった神のひとり子であることがわかりました。それではなぜ神のひとり子とあろう方が残酷にも十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも旧約聖書に預言されていたこと、神の送られた方が人間の罪を償うために人間に代わって神罰を受けられたことが十字架の形で実現したとわかったのです。
これらのことが明らかになると、今度は人間の方が、これらは神が私のためになされたと受け止め、イエス様こそ真の救い主であると信じて洗礼を受けると、果たしてもらった罪の償いは自分にとっての償いになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者とみなされ、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むことになります。神の方を向いて生きる方向転換が起きたのです。旧約聖書の精神と復活の信仰が結びついて起きたのです。それからは、この神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みに留まる限り、神との結びつきはずっとあり、順境の時も逆境の時も変わらずあります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて約束通りに復活の体を着せられて創造主の御許に永遠に迎え入れられます。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆様、私たちキリスト信仰者はこんな途轍もないことをして下さった神に対して、ただひれ伏して感謝する他ありません。その時、神の意思に沿うように生きるのが当たり前になります。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するが如く愛するのが当たり前になるのです。そこでは、神の掟は永遠の命を獲得するために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。
このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意思に沿う生き方を志向する者ですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意思に反する罪があることに気づかざるを得ません。気づいた時はがっかりします。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、自分が復活に至る道に踏みとどまっていることがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意思に沿うように生きようと志向します。このように方向転換したキリスト信仰者は何度も何度も軌道修正をしながら復活の日に向かって歩んで行くのです。これが、本日の使徒書の日課、第一テモテ6章でパウロが言う「信仰の立派な戦い」です。同じ個所でパウロはまた、キリスト信仰者は永遠の命に到達するように神に召されたと言っています。説教の冒頭でキリスト信仰は今の世の生き方が次の世の有り様に影響すると考えるのかどうか問いました。実にキリスト信仰では、次の世の有り様が既に定められているので、それに合わせるように今の世を生きるのです。影響の向きが逆なのです。これが、パウロがガラテア6章で言う、キリスト信仰者は「新しく創造されたもの」カイネ―・クティシシスの意味です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
盗人萩(nusubito hagi)
「憎まれっ子世に憚る」の譬えではありませんが、厄介な盗人萩が今年は異常に繁殖して裏の叢にも道の両脇にびっしりと咲いて通りかかる人々を困らせています。本来の萩はどういう訳か今年は不作で寂しい限りです、萩の鮮やかな紅色に対して盗人萩は桃色で花の時期は可愛い花ですが先端の種が曲者で枯れるとうっかり触れるとその種が纏わりついて叩いてもなかなか取れない厄介ものです。
最近フィンランド事情(その1)
今年夏のフィンランド一時帰国中に現地のニュースや社会的話題で目にとまったものをいくつか紹介します。
まずは、法改正で小中学校の生徒たちが授業中にスマホを使用できないように学校側が管理する権限を与えられ、そのことが新学期を前にして新聞で大きく取り上げられていた。対面コミュニケーション増進のため休み時間も預かるような運用をする学校も。今年は子供の水死事故が多く、水泳教育の必要性が広く議論された。そう言えば、フィンランドの学校の体育には水泳はなかったと思い出された。
8月半ば米ロ首脳がアラスカでウクライナ停戦問題について会談したのを受けて、ホワイトハウスで欧州主要国との話し合いが行われた。英独仏伊EU首脳と並んでストゥッブ大統領も招かれていた。冒頭トランプ大統領から「ヤングでパワフルな男」などと評され、ジョークで返す余裕さ。フィンランドが1944年にソ連軍の大攻勢を食い止めて休戦に持ち込んだ経験が買われているのだろう。
ただ、現在は経済はあまり好調でないようで来年は上向く見通しだが、失業率はEUではスペインに次ぐ悪水準の9%超。Fitch Ratingsの国債信用度の格下げもあって10億ユーロの歳出削減の重圧。財務省の予算案策定でいきなり移民難民の社会統合支援が槍玉にあげられ移民難民の受け入れ是非の議論に発展。他方でフィンランドも少子高齢化の波が押し寄せている現実も明らかに。出生率は1,25(日本は1,2)、移民受け入れが仮に今の水準で続いても2040年から総人口は減少に転じる予想。2030年までに小中学生は10万人減り、500校が統廃合になると。日本創生会議の「消滅可能性都市予測」を彷彿させる議論が今起きている。きっと官界学界あげて先を往く日本の動向を注視していることだろう。
ここで、教会で仕事する者として目を引いたニュース・話題は、若者の間でキリスト教回帰が見られること。フィンランドは1980年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属する“キリスト教国“だったが、その後キリスト教離れが進み、人口550万人の国で毎年5~6万人が教会を脱退、現在は60%すれすれまで落ちた。ところが、最近の傾向として10代20代の若者の間で洗礼を受けたり(つまり親が無宗教なため洗礼を受けていなかった)、信仰を告白する者が増加していることが統計的にも明らかになってきていると。このことについては次号にて少し詳しく紹介します。乞うご期待。
葛の花(kuzu no hana)
〈わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。 申命記11章14節〉
秋の花を代表する葛の花がようやく咲き出しました。今年は猛暑が続いたせいか秋の花が遅いですね、萩はどうした事か不作に終わったようです。代わりに盗人萩が異様に増えています、夏の猛暑は自然界にも影響が大いにあったようです。葛は古くから日本人に愛されてきた植物です、花は乾燥させて煎じて飲むと二日酔いの薬になり、蔦はほぐして糸にして織ると葛布となって愛されてきました、また根は粉にして菓子などに使われてきました、風邪予防の葛根湯は我が家の常備薬として今でも薬箱に収まっています。序に秋の七草について覚えやすく、オスキナフクハと覚えておくとよいそうです。(オミナエシ・ススキ・キキョウ・ナデシコ・フジバカマ・クズ・ハギ)
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年9月21日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書16章1~13節
説教題:「不正な管理人の譬え」
本日の福音書はルカによる福音書の16章1~13節まであります。ルカは15章でイエス様が三つの譬え話をされた事をかいています。失われた子羊を見つけ出すまで探す羊飼いの譬え話と無くした銀貨を探し出す女の譬え話、そして有名な放蕩息子の譬え話です。どれも分かり易い譬えであります。ところが、今日の16章では一転して「不正な管理人」の譬え話は理解するのに容易ではない話です。ある学者はイエス様が語られた譬え話の中で一番難解な譬え話ではないかと表現しています。
何故かと言いますと不正を働いた管理人を信仰の模範とするようにとイエス様が褒めておられるからであります。どうして褒めておられるのか理解に苦しむから難しい。イエス様が16章のこの譬え話を話されている相手は弟子たちです。弟子たちがこれからこの世に出て行って神様の働きをして行く使命を持って伝道して行く場合にこの世の激しく困難に満ちた中でどのような心構えが必要かを教訓として話されているのです。現代の私たちの教会がこの世にあってどのような心構えで伝道して行くのか、またキリストの証人として、どう生きていったら良いのかを、これらの課題への教訓でもある、と思います。さて、この譬え話の主人公は「不正な管理人」と言われています。別の言葉で簡単に言いますと、彼はなかなかずる賢い管理人であった。ある神学者の研究では彼は奴隷であったという。しかし、大変に賢い奴隷であった。主人は奴隷であった彼に全財産を管理する大切な責任を委ねたわけです。それだけ彼を信用したのでしょう。随分、思い切った事をしたと言って良いでしょう、彼はこの主人の信頼に一生懸命応えて働いたことでしょう。イエス様の時代、パレスチナでは大地主と言われる人が多くいたのです。この譬えで語られる主人もそういう大地主の一人でありました。主人としてやるべき仕事もすべて管理人の手に任せていたのでしょう。ところが、この管理人は長年やって行く中に、まぁ上手くご、まかしていたわけです。横領の罪を重ねて行ったということであります。しかし、それが長く続くわけがありません。他の誰かの色々な告げ口でこの事が主人の耳に入りました、上手くごまかしていたつもりでも横領していた事がばれてしまったわけです。そして、彼はついに解雇されるはめになったのです。さあ・・そこで困った!彼はこのばれた悪事に対して反省はしたでしょう、がすぐさま自分の身に起こったこの事に対して素晴らしい一つの考えを巡らして行くのです。彼が主人のもとから追い出されるまでの短い期間にどうにかしなければならない。彼は帳簿を偽造する、という事を考えついたわけです。そして負債を背負っている者一人々を呼びまして実際に負っている負債の額よりもはるかに少ない額に書き直すという事をさせたのです。パレスチナでは地代を地主に払う場合はお金で支払うのではなく、その借地から採れた穀物とか油とか、そうした借地から収穫される物の一部をもって地代として支払うということをしていたのです。本来なら主人はあれだけ信頼して任せていたのに不正をして横領していたのが知れたのですから、この裏切者に対してそれ相当の罰を加えるのが当然でしょう。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めたのです。此処がこの譬えを理解するのが難解なところです。主人は何故このような不正を褒めたのでしょうか。ここでの管理人のやった事には二つの彼にとって有利な面があったのです。一つ目は、負債をしていた者は油100バトスを借りていたわけですが、それを半分の50バトスで良いとなったわけです。そうするとこの管理人に対して大変有り難いと思うでしょう、助かったのです。二つ目は負債者をそういう風にうまい具合に書き換える事によっていわば管理人も横領の罪を犯すわけですがそれに応じて書き換えてもらった負債者もまた言わば共犯者になってしまう、共犯者として巻き込んでしまうわけであります。そして、最悪の事態には体の良い強請りができる。こういう二つのまことにずる賢い事を考えたのです。しかし。その結果はどうなったか、と言いますとこれがみんなばれてしまったのです。
ところで、この主人はいくらか悪戯好きの太っ腹の人だったようでありまして余り厳しく裁くという事よりも主人は管理人に対してその『賢さ』、また『抜け目のなさ』に彼を誉めたのです。この譬え話を語られたイエス様は弟子たちに何を教えておられるのでしょうか。8節の後半を見ますとイエス様は「この子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている。」と言われています。この譬え話をもってイエス様はどんな意味を含めて譬え話の中に語り示して行おうとされているのか、と言う事であります。主人というのはこの譬え話で神様のことです、或いはイエス・キリストの救い主の事をであります。この世の子らは此処にあります正しく賢く振る舞ったあの管理人の姿でしょう。そして光の子らというのは神様を信じているキリスト者であり、また私たち一人一人信仰を持った信徒であります。不正な管理人が象徴的している現代のこの世はどうですか、科学はこの凄く発達しても戦争の飽くなき殺し合い、詐欺が横行し、インターネットの発達は考えられない程、世の中便利にはなっても政治に悪用されて国や経済までも狂ったり歪んだりしてしまっている。
私たちの生きているこの世の泥沼のような中で光の子であるキリスト信徒は清く正しく貧しくとも耐えて神の御国への希望をもって生きよ。その場合に神様は賢く振る舞い一生懸命に生きよ。正直に生きようとすれば、騙されたり損をしたり思い通りにならない、報われない現実があります。キリスト者としてこの世の現実に生きてやがて最後に人生の総決算を神の前で迫られる。現実の自分の思い、教会で教えられる神様の言われる通りに生きようとする時、帳尻が合わない、ここに心の葛藤が起こります。そういう私たちの姿はまさに信仰と言うものとこの世の現実の中でずる賢しく生きねばならない。そこで不正な管理人のように抜け目のないずる賢しさに精一杯生きようとする。光の子らもそれを模範としなさい。そこで私たちの主人である神様が褒めておられるその意味は何であろうか。誤解しないで注意深く聞く必要があります。ここで信仰者はこの世の曲がりくねった不正に満ちた中で少しでも良いことをして帳尻を合わせようととするならそれは道徳の問題になり修養して行く律法主義者になってしまうでしょう。イエス様はこの譬えの中ではそういう事を決して言っておられない。イエス様は9節で「不正の富を用いてでも友達を作りなさい。」と言っておられるのです。友達を作りなさい。そうしたら富が無くなった時、その友人があなた方を永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。キリスト者である私たちが生きてゆく場面々で出会った人々、その行い、それは神様があなたに与えられている材料であるわけです。その材料を用いて友人を作ることによって、それは神様の愛の結晶として現れてくる。信仰の作品として実を結ぶことになるのです。あなたは気づいていないかも知れないが、神様の愛の結晶は実を結んで思いもよらない所で花を咲かせて発展していますよ。そうして、あなたの人生の総決算で天の父なる神様の前で「よくやったね」と言ってくださる。自分でも気づかなかった信仰の証しの全ての全てを神様はちゃんと知っておられて総決算をされます。神の御国の終末での救いを、私たちはその一点に限りない希望をもって、心の葛藤をしつつ精いっぱい生きれば良いのであります。 アーメン
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
お花畑
<「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:6〜8) >
山に行くと高山植物などの群生しているところを度々目にします、こういう所をお花畑と呼んでいます、概してこういうお花畑の花は1,2種類の花に限られています花の数は多いいけれども種類は少ないですね。此処に挙げた草原は標高2000mの通称「草月平」と呼ばれているところです。若いころ7回ほど登った飯豊連峰の一角で私が一番好きな場所でした。春、夏、秋の高山植物が一斉に咲いて高山植物の花園と思っていました、山の上でこのような花々を見た後に下界の花屋で見る花の何と貧相なことよ、と思っています。山で見る花はどの花も人に媚びることなく堂々して清楚で可憐であります。飯豊連峰は新潟、山形、福島の3県にまたがる大きな山地で夏でも至る所に残雪が豊富で一旦稜線に出ると標高差の少ない山道を漫歩出来ます。また行きたいと思っていますが齢85歳では叶わぬ願いでしょう。