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主日礼拝説教 2026年6月7日(聖霊降臨後第二主日)
ホセア5章15節-6章6節、ローマ4章13ー25節、マタイ9章9-13、18-26節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は、イエス様が徴税人のマタイにつき従うように命じ、マタイはその通りにした、そして自分の家にイエス様と弟子たちを招いた、他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも一緒の食事の席についた、そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されたという出来事です。当時は招かれて一緒に食事をするというのは家族並みの近い関係になったことを意味しました。
徴税人は当時のユダヤ教社会のなかで罪びとの最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしたからでした。なぜ、占領された国民から、占領側に仕える仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけて、「定められた以上を取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のためのみならず、自分の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれたのは当然でした。
イエス様は、神由来の権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は伝統的な権威に挑戦する危険人物なのかと気が気でなりません。このように大勢の人に支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪びとと同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪びとは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格はない、と。
イエス様が罪びとを招き受け入れる仕方はよく見ると、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入るプロセスを先取りしています。今日はそれを明らかにします。きっと、この出来事は私たちの身に覚えにあることがわかってくるでしょう。それと、本日の福音書の日課には12年間出血の病が治らなかった女性を癒したことと、ユダヤ教社会のある指導者の娘を生き返らせた奇跡もあります。これらもよく見ると、信仰に入った者が信仰者としてこの世を歩むとどういうことになるかということを先取りするように示しています。このことを説教の終わりで述べようと思います。
ファリサイ派の批判に対して、イエス様は次の言葉を返しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(12ー13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と罪びととの関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪びとの抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪びとを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪びとを招くため」と言われますが、罪びとを招くとはどういうことなのか?まさか一緒に飲み食いすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを明らかにしていきましょう。
当時、徴税人は罪びとの最たるものと見なされていましたが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は少し勝手が違います。例えば、ルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちに混ざって徴税人たちも洗礼を受けにやって来ました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人が出てきます。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人のことを考えれば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。ここが重要です。
このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。ここが大事なポイントです。イエス様と一緒に食事の席についた徴税人その他の罪びとは生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時はもう元罪びとだったのです。しかしながら、宗教エリートはこの変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪びとです。どうしてでしょうか?
それは、罪の赦しが宗教エリートが重視する、戒律的な手順を踏まえておらず、イエスという一個人を通して赦しが与えられてしまったからでした。それでは、エリートたちが教えたこと守れと言っていたことが一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスがやっていることは神が認める罪の赦しなんかでない、罪びとたちの新しい生き方も本当ではないという見方になってしまうのです。イエス様の招きや受け入れには本当に罪の赦しがあり新しい生き方をもたらすものであるというのは、旧約聖書の神の言葉に基づいているのです。
イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」
罪びとたちが罪の赦しを得て新しい生き方を始めたのに、それを疑う宗教エリートに向かって、この言葉の意味を学びなさいと言いました。私たちもその意味をわからなければなりません。ここからが正念場です。
ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『誠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語のエレオス「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉はヘセド「誠実」です。ヘセドは辞書によるとfaithfulnessで、日本語では「誠実」とも「忠実」とも訳せます。以前の説教では「忠実」にしましたが、やっぱり「誠実」がいいと思いました。私たちの新共同訳ではヘセドは「愛」と訳されていますが、これは後で述べるように正しくありません。
元の言葉は「誠実」なのにイエス様が引用すると「憐れみ」に変わってしまいました。この変化の意味がわかると、イエス様の招きと受け入れが罪びとの生き方を変えたことがわかります。まず、ホセア書のホセアは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまった、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになってしまった、これではいくら生け贄を捧げても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神の意思に沿う生き方をしますという儀式なのに、心は改めず儀式さえしていればOKと自己満足に陥ってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらないと言われたのです。
それでは、神は生け贄に換えて何を民に求めたかと言うと、それがヘセド「誠実」なのでした。民の神に対する誠実さとは、神に背を向けた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きるということです。これが神に対して誠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されているのが正しくないと言うのは、ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになってしまったことを結婚相手の不倫にたとえることがあるからです。そういう背景を考えるならば、ヘセドは相手を裏切らないという意味、辞書にある「誠実」がピッタリなのです(ちなみにフィンランド語訳の聖書は「誠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。
マタイ福音書はギリシャ語で書かれていて、イエス様はホセア書6章6節を引用した時にエレオス「憐れみ」と言ったことになっています。出来事の現場ではイエス様はアラム語という言葉で話しをしています。イエス様はアラム語で「憐れみ」を意味する言葉を発して、それが後にギリシャ語に訳されてエレオスになったわけですが、イエス様はなぜヘブライ語原文の「誠実」を「憐れみ」という別の言葉に置き換えたのでしょうか?
実はこの変換には背景があります。イエス様の時代の200年前位に旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。そこでホセア書6章6節の「誠実」ヘセドは「憐れみ」エレオスと訳されたのでした。つまり、この個所の「誠実」という言葉を見てそれを「憐れみ」の意味を含ませる考え方が当時のユダヤ教社会の中に出てきたのです。ファリサイ派に反論する時にイエス様はそっちを取ったのです。どうしてか?こういうことです。ホセア書で神は、民には「誠実」が欠けていると指摘しました。生贄の捧げよりも神に対する誠実が必要なのだと。そしてイエス様は、宗教エリートには「憐れみ」が欠けていると指摘したのでした。罪びとが神のもとに立ち返って神に誠実な者になれるためには戒律に従って生贄の捧げを命じるのは意味がなく、罪びとに「憐れみ」を示すことが必要なのだ、それを自分は罪びとを受け入れて招くことで示しているのだということなのです。これが、イエス様がヘブライ語の「誠実」をギリシャ語の「憐れみ」に置き換えたからくりです。兄弟姉妹の皆さん、このことを通してでも聖書はまことに奥が深い、侮れない書物であることがおわかりになったでしょう。
ところが話はここで終わりません。からくりがわかったからと言って満足してはいけません。なぜなら、イエス様が示した「憐れみ」は当時の罪びとを越えて全ての人間、現代を生きる私たちにも及んでいるからです。次にこのことを見てみましょう。イエス様が示した「憐れみ」は、罪びとを受け入れて招くことでした。受け入れられて招かれた罪びとたちは、今度は神に背を向けていた生き方を止めて神に対して誠実な者に変わりました。イエス様の罪びとを受け入れて招く「憐れみ
は、受け入れられて招かれた者の側に生き方の変化をもたらす力を持っていました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。この同じ奇跡の業は時代を超えて今を生きる私たちにも及んでいるのです。徴税人のように何か具体的な悪行はなくとも、私たち人間はみな神聖な神の目から見たら、神の意思に反しようとする性向、罪を持つ「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に背を向けていた生き方をやめ、神のもとに立ち返り、神の意思に沿うように生きようという心になる、つまり神に対して誠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?
イエス様の憐れみの招きは、彼が十字架の死と死からの復活を遂げた時に本格的に始まりました。イエス様は私たちが持ってしまっている罪を全部引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで神の罰を受けて死なれました。私たちが罰を受けないで済むように私たちに代わって受けられて、私たちの罪を償って下さいました。神は一度死なれたイエス様を途方もない力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちに切り開いて下さいました。そこで、私たちがこれらのことは本当に起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされるようになって、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるのです。そして、永遠の命が待つ神のみ国に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩めるようになるのです。
このように神は私たち人間を憐れんで、ひとり子を贈って私たちが歩むべき道と進むべき方角を照らし出して下さったのです。かつて道を誤ってそれぞれの方角に向かっていた羊の群れのようだった私たちは、罪のゆえに神との結びつきを失うという病に冒されていました。それをイエス様は担って下さり、彼が受難で受けた傷によって私たちは癒されたのでした。まさにイザヤ書53章の預言の通りです。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたことが、この神の憐れみの招きを受け入れたことなのです。それで私たちはもう、神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きようと志向する者になったのです。神に対して誠実な者になったのです。イエス様と同じ食事の席につける元罪びとなのです。
このように神の憐れみの招きを受けて神に誠実な者になると、この世の歩みはどんなものになるか、福音書の日課のもう二つの出来事が先取りするように示しているので、最後にそれを見ておきましょう。
12年間出血の病に苦しんでいた女性は、イエス様の衣に触れたら治ると信じてそうしました。それに気づいたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。それを言った直後に女性は健康になりました。ギリシャ語の原文の「救った」はギリシャ語の特有な現在完了形で、その意味は「過去のある時点から今のこの時まであなたは救われた状態にあった」です。過去のある時点とは、イエス様を救い主と信じ出した時点ですので、「あなたは、私を救い主と信じる信仰に入った時から今のこの時まで救われた状態にあった」という意味になります。女性が治る前にこの言葉が言われたことに注目します。治る前です。つまり、救われるというのは必ずしも病気が治ることではないのです。もっと広い意味があるのです。イエス様を救い主を信じる信仰に入ったら、病気だろうが健康だろうが神との結びつきは変わらずにあり、天の御国に向かう道を歩んでいることにも何ら変わりはないということです。もちろん、この出来事は、まだイエス様の十字架と復活に基づく憐れみの招きが出てくる前のことですが、将来の信仰の有り様を先取りしているのです。
指導者の娘の生き返らせも同じです。「娘は死んではいない、眠っているだけだ」と言うのは、イエス様にとっては、彼を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の日に眠りから目覚めさせられて天の御国に迎え入れられるのだから、この世からの死はその日までの眠りにすぎなくなります。この出来事もまだイエス様の復活が起きていない時のことですが、天の御国に至る道に置かれてその道を歩む私たちにはその通りのことなのです。それで、この出来事もキリスト信仰の有り様を先取りしているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
桑の実とホトトギス
〈 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 創世記1:20〉
私の朝の散歩道には三本の桑の木があります。最初の木は尾根緑道の桜美林教会の少し先に、二本目はその先の小学校の校庭を見下ろすあたりに、最後の木は尾根緑道を離れた家の近くの公園にあります。この季節になると三本の桑の木にたわわになった桑の実をおやつ代わりに摘みながら歩いています。ジューシーな桑の実は散歩の折に喉の渇きを潤してくれる素敵な実でもあります。今朝(6/2)も最初の桑の木で摘まんでいたら遠くの方からホトトギスの啼き声が聞こえてきました。今年、初めて聞くホトトギスです、去年は残念ながら聞き逃してしまいました。ホトトギスの啼き声を聞く度に徒然草の第百七段の先輩の女官たちが新入りの若い男をからかう話を思い出します。録音しようとカメラをいじっていたらいつの間にか聞こえなくなったいました。
5月の手芸クラブは27日に開催しました。梅雨になる前の爽やかな天候の朝に開催することができました。
今回のテーマはビーズ刺繡です。最初に作品のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。モデルを見る参加者の方々から、「素敵な色合い」、「可愛いわ」、「きれいな形ね」と感心の声をあがりました。モデルとビーズの種類は沢山あって、どんな色や模様の作品をするか決めるのは簡単ではありません。決まったら、次は作品に合う布かフェルトを選んで、それからビーズを縫い付けていきます。針は細くビーズも小さくて目が疲れやすい作業ですが、それでも皆さん楽しくおしゃべりしながら一生懸命ビーズを増やしていきます。次第に形が見えてくると、お互いにそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い!」とお互いにほめたたえます。
今回もあっという間に時間が過ぎてしまいました。皆さん、もう少し続けたい気持ちがありましたが、細かい作業なので目や手は思った以上に疲れています。未完成のものは自宅で続けることができます。完成したら、カバンやブラウスに取り付けて素敵な装飾になるでしょう。そこで、コーヒータイムで一息入れることにしました。今回は参加者の方が持参して下さった珍しい果物「山桜梅」と「桑の実」を味わいました。みんなで「甘くて美味しい!」と言いながら楽しみました。あわせて、フィンランドのコーヒーブレッド(Pulla)も味わって楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの伝統的な「名前の日」についてと、聖書に出てくる、あらゆる名前にまさる名前についてお話を聞きました。
手芸クラブは夏の間6月から8月までお休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!
今日はビーズ刺繡のテクニックを使って素敵なアクセサリーを作りました。ビーズ刺繡は古くからある手芸のテクニックの一つです。昔は布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付けて服などの価値を高めました。今でもビーズ刺繡は人気があり、このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品が作られます。フィンランドのラップランドに住む先住民族のサーミ人の民族衣装も鮮やかな色彩のビーズ刺繡で作られています。
真珠はアクセサリーとしては高価なものですが、安価なビーズでもこのように真珠に負けない素敵なアクセサリーができます。しかも、安心して着用できます。例えば、ビーズのネックレスが切れてしまっても大きな損失になりません。しかし、子どもにはそうではないかもしれません。私の娘は小さい頃ビーズのネックレスをもらって、それをとても気に入っていました。毎日首にかけていました。ただ、ビーズはゴムに通してあったので、ある日ネックレスを首に掛けようとしたら、ぷつっと切れてしまいました。娘は悲しくて泣いてしましました。その後ビーズを大事に取っておいて、それを使って人形のネックレスを作りました。その人形にHelmi(ヘルミ)という名前をつけました。
フィンランド語のHelmiは真珠を意味します。それは女性の名前でもあります。古い名前ですが、2000年代の初めに女の子の名前として人気がありました。Helmiは女性の名前の中で最も美しい名前の一つとも言われています。
フィンランドには名前を大切にする伝統があります。フィンランドのカレンダーには、全ての日付の下に何人かの名前が書かれています。それをその名前の人たちの「名前の日」と言います。自分の名前の日になると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の後にその日の名前が読み上げられます。Helmiの名前の日は5月7日です。私の名前パイヴィの日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もお祝いされます。
「名前の日」には誕生日のようにカードを送ったり花を贈ったりします。職場でもコーヒーとお菓子を出してお祝いすることが多いです。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚の人たちを覚えてお祝いする機会が増えるのです。
聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名前を呼ぶ。」
フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と私たち人間を造られた神様は私たちのことを忘れたりしません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼して頼りにするのと同じように神様を信頼して頼りにすることができるのです。そうすれば親から得られる安心よりも大きな安心が得られます。
私たちは時々、他人のことを悪く考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それは神さまの目から見て悪いことですが、私たちは自分は神さまの目に届かないところにいると考えて何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちはいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。子供は頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れたと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神さまから隠れたい、目の届かないところにいたいと思っても、神さまは私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちに向かって名前で呼びかけます。神さまが名前で呼ばれたら、私たちは隠れている場所から出るでしょうか?
私たちは神さまから隠れたり逃げる必要はありません。神さまは私たち人間のために素晴らしい計画を立てて実現されました。その計画とは、一人の方の名前、神さまのひとり子イエス様の名前を最も偉大な名前にするというものです。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。
「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」
どうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前が与えられたのでしょうか?それは、イエス様を通して神さまが私たち人間を救ってくださったからです。私たちの救いはイエス様の十字架の業によってのことです。イエス様が十字架の業を通して私たちと世界の全ての人々を救ってくださったので、イエス様の名前はあらゆる名前にまさる名前になったのです。
私たちは神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。イエス様を救い主と信じていれば、神さまは私たちを見捨てることはなくいつも一緒にいて下さいます。神さまは私たち一人一人のことを名前で呼ぶくらいによくご存じで、ひとり子イエス様を贈って下ったくらいに私たちを愛しておられるのです。それで神さまは私たちが信頼しても大丈夫な方なのです。
歌 全ての名前にまさる唯一の名前がある。
ホタルブクロ
〈15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15・16〉
桜美林教会の生垣の土手に今年もホタルブクロが咲いていました,薄紫色のホタルブクロに交じって真っ白いホタルブクロを見つけました、初めて見る新顔のホタルブクロです。このまま、此処に根付いてくれるといいなと思っています、此処の土手は季節の草花を咲かせてくれるので楽しみな場所です。 (風吹くや釣鐘動く花の形/正岡子規 )
主日礼拝説教 2026年5月31日 三位一体主日
創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、いろんな国の言葉で神の偉大な業について群衆の前で証し始めました。弟子の一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され始めました。先週はそれを記念する日でした。それで、父、御子、聖霊の三者がそろったので今日は三位一体を覚える主日です。
皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝します。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表しています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない、神の目に相応しい者にしていくということです。
これら三つの人格と役割は別々であっても、全部一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。それなので、キリスト信仰で普通、神の愛と言っている愛は三位一体から出てくるものです。三位一体から出てくる愛とはどんな愛なのか?今日はこのことについて見ていきます。
本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる個所です。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。」
三位一体から出てくる愛がわかるために、まず、洗礼が父と子と聖霊の御名によって授けられるというのはどういうことかを見てみます。次にイエス様が世の終わりまでいつも共にいて下さると言っていることについて。彼は聖霊降臨の10日前に天に上げられました。今天の父なるみ神の右におられる方がどうやって地上にいる私たちと共にいられるのか、それについて見ていきます。これらのことを見ていけば、三位一体から来る愛がわかってくると思います。
父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるとはどんなことか?先ほど述べたように、キリスト信仰の神は、創造の業を行う父、人間を罪の支配下から贖う御子、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊が一緒の神です。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるというのは、洗礼を通してこの三位一体の神に結びつけられるということです。そして、結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていくことになります。そして、今のこの世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられる者になります。
神を三位一体の神と信じるキリスト信仰に入れるかどうかのカギは、実に自分のことを「神に創造された者」という自覚が持てるかどうかにあります。どうして自分が神に造られた者であるという自覚が三位一体のキリスト信仰に入れるか否かのカギになるのでしょうか?
それは、自分が神に造られた者との自覚を持つと、では、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけないという立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。そのことが創世記3章に記されています。人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、その言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わるようになってしまった。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、この世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。
しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげたいと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間に切り開いて下さったのでした。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。
ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入れても踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊の出番となります。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれるのです。聖霊はまさに信仰者を弁護し、真理を示してくれるのです。その時、私たちは再び神の大いなる恵みの業にひれ伏して、神の意思に沿うように生きようという心を新たにするのです。イエス様が命じたことを守ることができるようになるのは、実にこうした聖霊の働きがあってのことなのです。
このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖われることです。加えて、造られて贖われた人間が天の御国に向かう道を進む力と支えを得られるようになることです。私たちを三位一体の神に結びつける洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れるという神の約束の当事者にするものなのです。
ここで少し脇道に入ります。先ほど、三位一体の神を信じる信仰に入れるかどうかは「神に創造された者」という自覚があるかどうかがカギになっていると申し上げました。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きず、問いが起きなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわからない。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。
ところが、今日では神の創造を信じることが難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからです。生物は長い時間をかけて単純なものが複雑なものに進化していく、そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は造り主がどう思っているなんて気にしないで自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。自分と神との関係はどうなっているか、うまく行っているのかいないのか、などと考える必要はなくなります。イエス様の十字架と復活の業も必要なくなります。さて、天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。
このことについて私は3年前の三位一体主日の説教で旧約の日課創世記1章から2章の初めまでの個所をもとに説き明かしをしました(2023年6月4日の説教)。そこで、神の創造は、時代遅れの考え方ではない、今日において重要な意味があるということを述べました。どのように述べたかはここでは繰り返しませんが、2点だけ触れておきます。一つは天と地とその他のものを創造されたのが6日間だったことについてでした。それは、創造には6段階あって、それぞれの段階を1日と呼んでいると見れば、天地創造の時間的流れは別に問題はないのではないかということでした(神は時間数にして144時間で全てを創造したかについては、神には不可能なことはないから、その可能性も残しておきますが、1日が今のように24時間の長さになるのは、4段階目に太陽と月が今の配置になる位から始まるのではないか、それ以前は長さは違っているのではないかという見方も可能です。5段階目の創造は明らかに両生類と爬虫類で、「怪物」とは恐竜のことを言っているのではと思われます。6段階目は哺乳類と人類の段階です。)
もう一つは、天地創造のところだけでなく聖書の他のところも見ると、神の祝福は人間だけではなく動物にも及んでいるということです。例えば、イザヤ書11章を見ると動物も人間と共に神の国にいることが言われています。ところが、聖書はもっと踏み込んで動物の救いについて述べません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架と復活の業が行われました。人間が贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐が必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだとしても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。いずれにしても、聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。そういうわけで、天地創造は救いを人間を超えて生態系にも及ぼしているのだと予感することで十分と思います。それなので、天地創造は時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点を与えます。自分は神に創造されたと自覚したら、神との関係はどうなのか考えることになります。その時、神が贈ってくれた贖い主がおられる、彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きようとするのは自然なことになります。とやかく言われてするということではなくなります。進化論からはどんな倫理的な視点が出てくるでしょうか?弱肉強食のような視点にならないでしょうか?
話が脇道に逸れましたが、次に、天に上げられたイエス様はどうやっていつも世の終わりまで私たちと共にいることができるのかを見てみましょう。
まず、イエス様が天に上げられたのに呼応するように聖霊が降ったことを思い出しましょう。洗礼を通して私たちに与えられる聖霊が、イエス様が私たちと共におられることを真実にするのです。イエス様は十字架の業を果たすことで私たちに罪の赦しという恵みを与えてくださいました。先ほど述べたように、聖霊は私たちがその恵みの中に留まって生きられるようにしてくれるのです。罪の赦しの恵みに留まって生きるというのは、イエス様が共におられるということです。
さらに、私たちには聖餐式があります。イエス様が天に上げられることを預言した詩篇110篇の中で、神の右に座す者つまりイエス様はメルキセデク級の大祭司であると言われています。ヘブライ人への手紙の中で言われるように、イエス様は自分自身を犠牲の生贄に捧げて全ての人間の罪を償い、人間を罪の呪いから未来永劫に贖って下さった「大祭司中の大祭司」です。聖餐式は、この完全な償いと贖いを実現した大祭司イエス様と交わる場なのです。
さらに、イエス様が私たちと共におられるというのは、私たちがイエス様を頭とする体の部分であるということがあります。詩篇110篇1節で神が御子に次のように述べているところがあります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」パウロはエフェソ1章20~23節の中でこの個所を引用して、イエス様が再臨するまでの期間はキリスト信仰者にとってどんな期間であるかを教えています。イエス様を死から復活させて御自分の右の座に着かせた神は彼を「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれました。支配、権威、勢力、主権とは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。この世のどんな大国がどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。
ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」は教派的、組織的な教会ではなく目に見えない世界大の教会で、キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、聖書の御言葉、全体として罪の赦しの恵みを目指す御言葉が響き渡る体です。次に、洗礼を通してその部分になれる体です。そして、体の部分である信仰者は聖餐式を通して罪の赦しの恵みを全身全霊に満たして神との結びつきを、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういうわけで、キリスト信仰者はイエス様を頭とする体の部分としてイエス様と結びついているのです。
そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは支配、権威、勢力、主権に対してイエス様のように勝っているかと言うと、そうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実です。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったことは真理なのに、罪の誘惑はやまないという現実です。全てに勝るイエス様に繋がっている筈の信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?
それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろう、天の御国なんか入れないようにしてやろうという力が働いているところです。さらに、人間が造り主の神に心を向けられないようにしてやろう、神と結びつきを持てないようにしてやろうという力が働いているところです。これらがイエス様の足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっとこの世で作用し続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、キリストの体は全身が天の御国の中に置かれます。私たちキリスト信仰者は、このことを見通すことできればイエス様が今のこの世の終わりまでいつも共におられることはその通りであるとわかって、この世で何も恐れるものはなくなるのです。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その13 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」 の2月7日の日課から) 『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから 。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく) 『事を自分の重荷にとどめるな。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされ てしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して 神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私 の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上 、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言っ てこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手く いきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せて きます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなた の助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅 々まであなたの目を注いで下さい。」 これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねら れた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられる かについての心配は神のすることであって、私たちのすることではない。 このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い 主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない 者たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は 、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を手放さず、神は嘘をつかない方だから 御言葉はその通りだと信頼して前に進む。』(以上、ルターの説き明かし、2025年6月8日 の週報に掲載したものを修正) 牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、 ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放 り出す」です。英語、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も それで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめ。ギ リシャ語の「与格・メレイ・ペり・属格」は、上記4カ国語は「神は面倒を見る、世話を 焼く、ケアをする」です。日本語訳では上記のルターのような力強い説き明かしはできな いのではないでしょうか?もったいない話です。
庭の野草
〈15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15・16〉
白州の家の小さな庭にも年毎に色々な野草の花が咲きます。去年はアジサイ、一昨年はギボウシ、その前はカワラナデシコ、もっとその前は・・・・・忘れました。今年はなんとヤマオダマキが咲いていました。ヤマオダマキは確か以前にも咲いたことがありました。こうして見ると草花は互いに譲り合って咲く順番を決めているのかもしれませんね、競い合うよりもずうっと良いと思いました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年5月24日(日)スオミ教会
聖書 使徒言行録2章1~21節
説教題:「聖霊に満たされて」
今日の礼拝はペンテコステを記念する礼拝です。ペンテコステの日、聖霊が爆発的に弟子たちと各地から集まっていた者の上に降ったのであります。
使徒言行録2章1~21節を見ますと、「五旬祭の日が来て一同が一つになって集まっていると突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ彼らが座っていた家中に響いた。」五旬祭の日に集まっていたところに出来事が起こった。五旬祭というのは出エジプト記34章22節に「あなたは七週の祭り、すなわち小麦刈りの初穂の祭りを行わなければならない」とあるところから小麦の収穫感謝祭を毎年行っていたのでした。これはイスラエルの三大祭りの一つで過ぎ越しの祭りが終わってから五十日目に当たっていました。これをギリシャ語の第五十という言葉から「ペンテコステ」というようになったようです。この祭りのために多くの敬虔なユダヤ人たちが各地から毎年エルサレムに上京するのが常であったのです。この日「皆の者」が集まっていた。この皆の者とはルカによれば十二弟子よりも更に広い意味で用いられて、1章15節にあるように百二十人程の人々が一つになっていたとあります。
2~4節を見ますと「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こって彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ/\ に現れ一人/\ の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ”霊”が語らせるまゝに他の国々の言葉で話し出した。」ここにはルカの凄まじい聖霊が降った様子がリアルに描かれて表現されています。よく注意して読みますと激しい風が吹いたわけではありません、炎の舌が現れてはいません。激しい風のような音、舌のようなもの炎のようにと表現されています。ともかく、普通にはあり得もしなかった凄まじい出来事が起こっています。五旬祭という多くの人々が一同に集まっているところに一体何が起こったのでしょうか。イエス様の死と復活の後にイエスに従う一同の者たちの上に聖霊が与えられたのであります。聖霊は神の霊であります、またキリストの霊であります。それはキリストを通して神を信ずる者に与えられる神の力として働くのであります。
この聖霊の第一の特徴は一人々自ら神の前に罪びとであると感じさせること。第二には聖霊はイエスが誰であるかを明らかにする。即ちイエスはキリスト、救い主であることを明確に示す。第三には神に従う者を慰め。癒し、弁護し導く、といった働きをするものです。
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パウロはコリント第一の手紙12章3節で「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えない。」と書いています。さて、4節で聖霊が降ってこの聖霊に満たされるまゝに他の国の言葉で話し出した。それでもう大混乱です。5~7節を見ますと「さて、エレサムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたがこの物音に大勢の人々が集まってきた。そして誰もが彼らの自分の故郷の言葉が話されているのを聞いてあっけにとられてしまった。」
この光景を目にして群衆は驚き言いました。「見よ!今、話しているこの人たちは皆ガリラヤ人
ではないか。それだのに私たちが各々生まれ故郷の国語を彼らから聞くとは一体どうしたことか。彼らは不思議がった。」ルカは9節から12節のところで地方から来ていた地名を延々と大事な事として書いています。9節「私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、エレネに接するリビア地方に住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいればユダヤ教への改宗者もいるのに彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆、驚き戸惑い「一体これはどういう事なのか」と互いに言った。
此処に大勢の集まった人々をルカは5節で「天下のあらゆる国から帰って来ていた」と表現しています。当時、ローマ帝国に支配されていた天下のあらゆる国々を東の方の小アジアからローマ、ギリシャ、そして西のエジプトに至る国々の名が記されているのです。群衆の多くはエレサムを中心とするパレスチナ地方以外の国々に滞在していた経験なユダヤ人、また他に数多くの異邦人も加わっていたという事です。ペンテコステに聖霊が降った、そこにこのように各国のユダヤ人そして異邦人がいたと言うことはルカは言い換えますと全世界の人々がやがて自分たちの国語でイエスの福音を聞く日が来ることを象徴していたということであります。
初代のイエス様の弟子たちが一同に聖霊を受けた時、彼らは群衆たちの生まれ故郷の国語でキリストの事を語った。どうしてそのような事が出来たかそれはわからない、聖霊の導きによる神の力がドーンと彼らに臨んだからであります。この事は実際おこったのです、ルカは主イエス様の救いの福音がやがて全世界へと伝えられ広がって行く事を特に望んでいたのであります。そのことは聖霊を受けた時,神を信じる者は他国の人にも分かるようにそして私たちの働きとキリストの福音とを力強く説き明かすことが出来るようになるということであります。弟子たちは計り知れない神の力と聖霊を受けて世界中の人を象徴して集まった民に福音をその国の言葉で語ったのですから、いよいよこれから聖霊の導きと語るべき福音の力を受けて全世界へと遣わされて行く事になります。そのため神様は五十日という準備を弟子たちになさいました。その準備は只管祈ることでした。そして、イエス様は甦って生きて何時でも私たちと共に働いて助けて下さるという確信を持つように強い心の準備をなして下さったのです。
ところが、ペンテコステの出来事が何もかもうまく行くとは限らない。中には必ず人間的な邪魔をする者が現れるのです。13節を見ますと「しかし、あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言って嘲る者もいた。」とあります。すると、ペテロは十一人と共に立って声を張り上げ話始めた。「ユダヤの方々、またエレサムに住む全ての人たちに知っていただきたい事があります・・・・。」ペテロの説教の目的はナザレ人イエスはキリストつまり救い主メシアである事を証明することでした。この事の証明のために説教の半分近くを旧約聖書を引用して話しています。まず、ペテロは語ります。神様がイエス様を通してあなた方の中で行われた数々の力ある業と奇跡と記しとによりイエス様は神から遣わされた方であること、更にこのイエス様を律法学者や祭司長たちによって十字架の処刑で殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死から解放し甦らせたこと。イエス様の死と復活の出来事を確証するためペテロは旧約聖書の詩編16編を引用し、またヨエル書も引用してこのことが既にイスラエルの歴史の中で預言されていたこと。その予言通り救い主としてイエスに預言は成就したのである。パウロ自身はその目撃者であること。
更にペテロは25節から角度を変えてユダヤ人の最も尊敬していたダビデ王とを比較して立証してゆきます。ダビデは預言者であってダビデの墓もある。イエスは神から復活させられた救い主メシアであられるのだ。この「キリスト・メシアによる福音」こそがペンテコステの日に起こったキリスト教の誕生となっていったのです。
今日、世界は戦争と経済不安の中に揺れ動いています。その背景にイスラエルのユダヤ教、イランを始めとするイスラム教、ヨーロッパ北欧諸国とアメリカのキリスト教、これらの戦いです。ユダヤ教とイスラム教、その他日本の仏教などがイエス様は預言者にすぎないメシアではないとイエス様を救い主とは信じません。キリスト教会はイエス様こそ十字架に死に甦って生きて働き給う真の救い主という、この福音が決定的に違う、キリスト教会の土台、基本の教えの中心であります。
ペテロは命を懸けて神の真実を証しして叫ぶのであります。36節で叫びます。「だから、イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい、あなた方が十字架につけた、このイエスを神は主、またキリストとしてお立てになったのである。」このイエスはヨエルや他の預言者たちが預言したところの主でありキリストであった。今もなお聖霊の働きがあるということはこのキリストの復活の力の何よりの証拠ということです。ペンテコステの出来事はこの時だけで終わってしまったわけではない。それは今でも続いている。同じ聖霊の力によって、同じ福音の伝達によって多くの人は神の支配のもとに一つの所に集められているのです。この日本の地に於いても長い時間と年月を超えて聖霊は働いて下さり神のみ業がなされているのであります。第二イザヤと言われている預言者がイザヤ書43章19節で預言しています。「見よ新しいことを私は行う。今やそれは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私を崇める。荒野に水を、砂漠に大河を流れさせ私の選んだ民に水を飲ませるからだ。私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らなければならない。」そして、更に44章2~3節で預言しています。「恐れるな、私の僕ヤコブよ、私の選んだエシュルンよ、私は乾いた地に水を注ぎあなたの子孫に私の霊を注ぎあなたの末に私の祝福を与える。」43章19節で「見よ、新しいことを神がなさる」というのはどういう意味か。この第二イザヤの預言は直接的にはイザヤ時代バビロンに囚われの身であったイスラエルの民を祖国イスラエルに帰すという新しい大きな業を起こすと言っているのです。44章3節の「あなたの子孫に私の霊を注ぐ。」神は人類の歴史の中で聖霊が新しい大きな業をおこして行かれるのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン