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歳時記

 

過日、元スオミ教会の教会員であった青木さんがバッハのロ短調ミサ曲のコンサートに行かれその感激をFBに投稿されていました。この曲はマタイ受難曲と並ぶバッハの傑作で私もよく聞いています。 手持ちのCDは山梨の家に置いてあるのでyoutubeでカールリヒターの盤で視聴しました。敬虔なルター派教徒のバッハがカトリックのミサを音楽で表現したロ短調ミサ曲は一部にプロテスタントの典礼も取り入れたためにカトリックの典礼でも使用できないものになってしまいました。しかし音楽としては大変素晴らしく聞くたびに感動を覚えます。曲の構成はキリエ・グローリア→クレド(ニケア信条)→サンクトゥス(ここにプロテスタントの典礼を用いた)→「オザンナ(聖なるかな)」「アニュス・デイ(神の小羊)」「ドナ・ノビス・パチェム(平安)」私たちの礼拝の流れとよく似ている事に気づき少し驚いています。2時間あまりの大曲ですが興味がおありでしたらどうぞ。カール・リヒター+ミュンヘンバッハ管弦楽団+ミュンヘンバッハ合唱団の組み合わせは最高ですね。wunderwar!

手芸クラブの報告

この秋の最初の手芸クラブは9月25日に開催しました。今まで暑い日がずっと続いていましたが、やっと少し涼しくなってホッとした朝でした。

今回の手芸は編み物です。冬に備えてフィンガーレスの手袋を編みます。参加者の皆さんは好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。初めにフィンガーレスの出来上がり例を見て自分の作りたいものを選びます。今回編み物は初めてだったので、編み物のいろいろな基本を練習してから始めました。フィンガーレス手袋を編む時、初めは作り目を四本の編み棒に作ります。それから四本の編み棒を付け編むと丸いものになります。始めは手首のところを表編みと裏編みを交互に編みます。十段になってから毛糸の色を変えます。編み物は完成まで時間がかかるので、今回は手首のところでストップしました。参加者の皆さんは編み物にとても集中したので、時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。次回はフィンガーレス手袋の続きを編みます。

テーブルのセッティングをして皆で席に座ると肩も目もリラックスできました。フィンランドの今の季節にピッタリなフィンランド風アップルケーキをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きます。今回の話は、フィンランドで贈り物として頂いた素敵な靴下に教会の模様があることや、教会とはイエス様が船長でおられる船であるという内容でした。

次回の手芸クラブは10月30日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2024年9月

暑い日々が終わって涼しくなりました。今フィンガーレス手袋を編むのは早いと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、涼しい秋はもうすぐです。今フィンランドではもう涼しい秋になって朝の空気は冷たく感じます。この季節に多くの人たちは自転車で学校や仕事に通いますが、少し寒いので、手袋やフィンガーレスが必要です。今フィンランドではフィンガーレスを編み始めるのは少し遅いですが、日本では今は寒い季節に備えて良いタイミングだと思います。もちろん編む速さによりますが、編み物は完成までしばらくかかります。今日始めたフィンガーレス手袋は寒くなるまで完成すると思います。そのように頑張りましょう。

フィンランドでは編み物は夏の手芸でもあります。女性たちは寒い冬の準備のために暖かい靴下や手袋を編みます。今年の夏私たちは一時帰国して私たちの日本での働きを支える教会を訪問しました。一つ訪問した教会はフィンランドの真ん中辺にあるレイスヤルヴィという町でした。そこでの集会の終わりに私たちはこのような暖かい素敵な靴下をもらいました。模様もとても多いです。靴下のデザイナーはその集会にも参加されたレイスヤルヴィ教会の会員でした。そこで女性は模様の意味を説明してくれました。靴下の真ん中の二つの模様は特別です。一つはレイスヤルヴィの教会、もう一つはレイスヤルヴィの町の紋章を表しています。デザイナーはどうしてこの模様を選んだのでしょうか。これらはレイスヤルヴィの道しるべだからです。このデザイナーにとってレイスヤルヴィと教会は大切だからこの模様にしたのです。靴下にあるハートの模様はそれを象徴します。もし皆さんがデザイナーでしたらどんな模様にするでしょうか。

私は初めて教会の模様がある靴下をもらってとても嬉しかったです。フィンランドでは教会は地域のシンボルです。フィンランドの国民の60パーセント以上はフィンランドの国教会のメンバーで、教会に深い帰属意識を持っています。教会は人々の人生の中で重要な役割を果たします。フィンランドでは赤ちゃんが生まれたら多くの赤ちゃんは幼児洗礼を教会で受けます。洗礼を通して赤ちゃんは教会のメンバーになります。子どもは15歳になると、教会で堅信礼の儀式を受けます。多くの親戚も参加します。これは若者にとって大事な節目です。教会では後、結婚式や葬式も行いますので、人生において教会は多くのことに関わっています。教会は儀式を行う場だけではありません。教会は毎週礼拝を行いそこで聖書を通して神さまのみ言葉を述べ伝えます。神さまはみ言葉を通してご自分自身のことを私たちに教えて神さまの元に導いて下さいます。み言葉を通して私たちは神さまの意思が分かるようになります。

フィンランドの南西部にある教会は会堂に大きな帆船の模型が吊るして飾ってあります。船はどんな意味でしょうか。教会とは海で揺れる船のことを意味します。教会という船には乗客も乗って船長はイエス様です。聖書の中にはイエス様と弟子たちがガリラヤ湖を船で渡った時の有名な話があります。イエス様が弟子たちと船に乗ってしばらくしてから嵐が起きて船は沈みそうになりました。弟子たちは怖くなりましたが、イエス様は船の中で寝ていました。弟子たちはイエス様に「先生、私たちがおばれてもかまわないのですか。」と言って起こしました。Nheyob, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons イエス様はどうしたでしょうか。イエス様は起きて、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、湖は静かになりました。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

船は天候の良い日に海で真っ直ぐ進んで行きますが、嵐の日も来ます。その時進みは難しく行くべき方向も分からなくなります。私たち人間も海の上に浮かぶ船に乗っているようなものです。私たちの人生の中にはいろんな時、生活は問題なく穏やかな時ですが、嵐みたいな試練がある時もあります。私たちは弟子たちと同じようにパニック状態になるかもしれません。イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」イエス様は弟子たちと同じ船におられ風を静めたので、弟子たちは安心しました。イエス様は私たちと一緒にいて下さると、私たちも安心できます。このようにイエス様が共にいて下さると、試練が来ても、それは軽くなるのです。

イエス様は共にいることを私たちにも約束しています。私たちはイエス様を受け入れてイエス様は天の神さまの独り子であると信じることが出来ると、イエス様はどんな時があっても私たちと共にいて下さいます。新約聖書ヨハネ黙示録には次の言葉があります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってそのものと共に食事をし、彼も、また私と共に食事をするであろう。」ヨハネの黙示録3章20節

レイスヤルヴィで頂いた素敵な靴下は足を温めてくれますが、イエス様を信じることを通してイエス様と繋がりがあるから靴下は心も温めてくれます。

牧師の週報コラム 

フィンランドの「道の教会」

日本の地方の一般道を車で走ると「道の駅」に出くわします。農産物をはじめ地域の食材や特産品の売店があったり、喫茶店や食堂もあったり、場所によっては温泉にも入れます。 高速道路のサービスエリアと違って、まさに地道に地方を旅している雰囲気を味わえ、立ち寄ってみたくなる施設です。

夏のフィンランドの地方を車で走ると「道の教会」に出くわします。フィンランド語でTiekirkkoと言い、スウェーデン語系住民が多い地方ではVägkyrka、夏の期間、道路庁の公認の道路標識としてあちこちに立てられます。「道の教会」とは、旅行や仕事で移動中の人が、標識のある教会に立ち寄って自由に見学してもよし、座って心を落ち着かせる時を持つのもよし、というフィンランド国教会の夏のオープンドア・イベントです。時間帯によってはオルガン等の演奏を聴かせる教会もあります。すべて無料です。

夏の前にホームページにその年の「道の教会」が告知されます。今年は260程の教会が指定されました。フィンランドは町の郊外に出ると、小さいながら牧歌的で可愛らしい教会が無数にあります。南西部には中世の時代に建てられた石造りの教会が多く、それ以外の地域では17001800年代に建てられた木造りの教会が沢山あります。

それらの教会を訪れると、大抵は人はまばらか、誰もいない時もあります。売店もカフェも何にもありません。サウナもです。とにかく静かのひと言につきます。石造りの教会はやや暗くひんやりし、木造りの教会は明るく暖かい感じがします。中に入ると自然に聖卓へと足が進みます。周りの壁の装飾や絵画、石造りの教会なら壁画そして天井など上下左右を見回しながらゆっくり進みます。聖卓の前で立ち止まり、正面の十字架あるいは宗教画を見上げた後、回れ右をして戻ります。途中、少し長椅子に座ってみようかという気分になります。座っていると時間が停まったような感覚になり、都会の喧騒や心の中の騒がしさが静けさに呑み込まれてしまったことに気づきます。さて出発しようかと立ち上がろうとするのですが、慌てる必要はない、もっと座っててもいいのでは、という声が心の中でするかのようです。教会は赤ちゃんの洗礼から10代の若者の堅信礼、結婚式、葬式まで人の一生と共にあります。人の一生を包み込む神の祝福に触れることができたからでしょう。

2024年9月29日(日)聖霊降臨後第十九主日 主日礼拝  説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教

2024年9月29日 聖霊降臨後第十九主日

民数記11章4~6、10~16、24~29節

ヤコブ5章13節~20節

マルコ9章38~50節

説教題 「救いを勝ち取るために良い業をするのか?救いを得たからするのか?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日の福音書の日課には二つの異なるテーマがあります。一つは、38節から40節まで、キリスト信仰者ではなくてもキリスト信仰に好意的肯定的な態度を取る人のことを神はどう見るかという問題です。

 イエス様の弟子グループに入っていない人がイエス様の名前を使って奇跡の業を行っていました。弟子たちは、グループに入っていないのだからやめさせるべきと考えましたが、イエス様はやめさせるべきではないと。イエス様グループに反対しない者はグループの側に立っている、つまりキリスト信仰に反対しない者は信仰の側に立っているというふうに聞こえます。

 さらに40節では、イエス様の弟子たちに水一杯を飲ませる者は神から報いがあると言います。相手がキリスト信仰者だという理由で飲ませる、と言っていることに注目します。キリスト信仰者に助けの手を差し伸べるのが何か問題になる状況が前提されています。言うまでもなく、迫害の状況です。困っているキリスト信仰者を助ける方は困っていないので迫害を受けていない、ということはキリスト信仰者でない人です。キリスト信仰者でない人があの人はキリスト信仰者だとわかって助けると報いがある。報いというのは、善いことをしたら、ご褒美に何かいいことがあるというようなこの世的ご利益ではありません。マタイ5章11節で「天には大きな報いがある」と言っているように、「報い」とは、将来、天の御国、神の国に迎え入れられることです。さて、キリスト信仰者でなくても信仰者を助けたらそれで天国に入れるということになります。そうなると、イエス様を救い主と信じる信仰以外にも道があることになります。本当にそうなのでしょうか?このことを後で見ていきます。

 もう一つのテーマは41節から50節まで。信仰を躓かせるもの、つまりキリスト信仰者を神の意思に反するように導いてしまうものがあることについてです。そういう者は重石を抱き合わせにして海に投げ込んでこの世から消してしまうのがいい、その方が信仰者が神の意思に反するようになるよりもはるかによい、と言います。しかし、実際にはそういう海への投げ込みは起こりません。イエス様は、ただ、その方がましだ、と言っているだけです。海に投げ込まれた方がよさそうな者たちが大手を振っているのがこの世の現実です。なので、キリスト信仰者はそういう者と手を合わせて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わなければなりません。イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは

り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。とても極端なことを言っているように聞こえます。果たして私たちキリスト信仰者は、体の部分を切り取らずに五体満足の状態で天の御国に迎え入れられることができるのでしょうか?このことも後で考えてみます。日課の最後は塩について言われています。キリスト信仰者が神の意思に反しようとするものと戦うこと、これが、自分の内に塩を持っているということです。このことも説教の終わりで見ていきます。

2.信仰の告白としての良い業

イエス様の弟子のグループに入っていない人がイエス様の名前を使って悪霊を追い出していました。弟子たちはやめさせようとしましたが、イエス様はそのままにしておいてよいと言われました。その理由は、「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」でした。これは、どういう意味でしょうか?直ぐ後でイエス様の悪口は言わないということは、一時したら言うようになるということなのか?イエス様はそれでもいいと言っているのか?ここのギリシャ語の原文はとても微妙です。可能性を表す助動詞の未来形がさりげなく使われているからです。この助動詞がある場合とない場合でどう意味が異なるかを考えながら、この個所を何十回も読み返してみました(後注)。恐らく次のようなことではないかと考えるに至りました。「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で私の悪口を言う可能性はない。」つまり、すぐ後で悪口を言う可能性はないが、一時したら言う可能性がある。言う可能性があるということは、言わない可能性もある。つまり、一時したら必ず悪口を言うようになるとは限らない。悪口を言わないまま続く場合もあるということです。イエス様の反対者になる可能性はあるが、イエス様と一緒になる可能性もあるということです。

 イエス様の反対者になる可能性としてどういう場合が考えられるでしょうか?神は何らかの理由で弟子でなくてもイエス様の名前を出したら奇跡を起こさせることをされました。しかし、神はそれをやめさせることも出来るのです。やめさせられたらその人はイエス様に背を向けるようになるでしょう。いつ神はやめさせるでしょうか?それは、その人がいい気になって、自分が何か言えば全部イエスは聞き従ってくれると錯覚するようになった時です。

 実際、イエス様の名前を出しても、奇跡が起きないという事例が使徒言行録19章にあります。ユダヤ人の祈祷師たちが悪霊に取りつかれている人に「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言いました。すると、悪霊は次のように言い返したのです。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして悪霊に取りつかれた人が祈祷師たちに襲い掛かったのです。イエス様を救い主と信じる信仰がなければ、イエス様の名前を出しても効果はなく、逆に危険なのです。

 イエス様に属していなくても彼の名前を使って奇跡を起こした人が反対者にならないでイエス様に属するようになるというのは、どういう場合でしょうか?それは、その人がイエス様の名前を使うと神の力が働くのを目の当たりにして、この名前の持ち主は一体どんな方なのだろうと真面目に考えるようになることです。その方は十字架と復活の業を遂げた救い主であるとわかって、イエス様を救い主と信じるようになることです。神がどういうわけかこの私を選んで奇跡の業を起こさせたことに対して畏れ多い気持ちになって信仰に入ったということです。このようなプロセスに入らないで、ただイエス様の名前を使って奇跡を行い続けることは神の意図するところではありません。遅かれ早かれ打ち切られるでしょう。

 以上は、イエス様に属する者ではなかったが、属するようになる可能性があることについてでした。次に、キリスト信仰者でなくても、信仰者が困っている時に助けてあげると天の御国に迎え入れられるということについて見てみます。17世紀の日本のキリシタン迫害の歴史を見るまでもなく、迫害というのはいつも恐ろしい位に徹底していています。キリスト教徒や宣教師を匿ったり世話をしたことが発覚したら、キリスト教徒でなくても全く同じ拷問を受けます。こういうふうに迫害というのは、水一杯を飲ませることさえ命にかかわることなのです。それにもかかわらず、相手がキリスト信仰者だとわかって、命にかかわるとわかって助けてあげるというのは、天の御国に迎え入れられるという報いに値するのだと言う。これは、善い業を行ったらキリスト信仰者でなくても救われるということなのでしょうか?私たちルター派の場合、救いは善い業に基づかない、救いを果たしたイエス様を救い主と信じる信仰に基づく、それとイエス様がもたらした救いを洗礼を通して自分に注ぎ込むことに基づくということを強調します。この考え方とどうかみ合うでしょうか?

 この問題で一つ思い出したことは、ルカ福音書23章でイエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられた時、犯罪人の一人が神を畏れてイエス様を救い主と信じる言葉を口にしたことです。これを聞いたイエス様はその人も神の国に迎え入れられると告げました。信仰を告白することが神の国という報いと結びついているのです。そこでキリスト信仰者でない人が自分に降りかかる危険を顧みずに信仰者を助けるというのは、どういうことか考えてみます。イエス様はそれが神の国の報いと結びつくと言っています。つまり、神はこの助ける業を信仰の告白と同等に見なされるのです。ここで注意すべきことは、信仰を告白することは、救いを得るためにする業ではないということです。イエス様を救い主と信じます、なぜならイエス様は罪がもたらす滅びから私を救って下さったからです、私に救いを与えて下さったからです、それで信じますというのが信仰の告白です。救いを得るためにする業ではありません。救いを得たからする業なのです。ルカの犯罪人は、イエス様は罪がもたらす滅びから救い出してくれる唯一の方だと信じ、それ以外のことは見えなくなったのでした。マルコの危険を顧みないでキリスト信仰者を助けることは、真に恐れるべきものは創造主の神であって、迫害を行う権力者やそれに加担する社会ではないということがわかったということです。迫害を受けているキリスト信仰者を見て、神こそが真に恐れるべき方だとわかる、それで助けることは信仰の告白になるのです。それでこの助けは人道支援ともヒューマニズムとも違うものなのです。

 ここで少し脇道に逸れますが、マタイ12章30節でイエス様は、私の側についていない者は私に反対している、私と一緒に集めない者は散らしていると言い、イエス様と一緒にいない者を反対者扱いします。この言葉は、イエス様が悪霊を追い出している時に、イエス様に反対するファリサイ派の人たちが、あいつは悪霊の頭の力を使って追い出していると中傷した時の反論です。今日のマルコのイエス様の名前を使って悪霊を追い出している人の場合は、キリスト信仰に入る前の段階のことで、イエス様はその人が信仰に入る可能性があることを言っていました。マタイの場合は、イエス様が言うように、ファリサイ派は聖霊を冒涜しています。既にこの時点でイエス様に背を向けてしまっているのです。それで、厳しい言い方になったのでしょう。

3.イエス様が五体満足で天の御国に入れるようにして下さる

次に信仰に躓きを与えるもの、神の意思に反しようとさせるものとどう戦うかについて。最初に申し上げたように、この世は神の意思に反するように導く力が沢山働いています。それなので、キリスト信仰者はそういう力と結びついて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わないといけないのです。どう戦えばいいのでしょうか?イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは切り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。しかし、汚れた部分は切り取って残ったきれいな部分だけで天の御国に行くことは可能でしょうか?それは不可能です。なぜなら、人間は全身全霊が神の意思に反するもの、罪に染まってしまっているというのが聖書の立場だからです。いちいち切り取っていたら、何もなくなってしまう位に染まってしまっているのです。イエス様もそのことはわかっています。人間は自分の力で救いを得ることは出来ないということをイエス様はこの極端な言い方で教えているのです。私たちは救いのために自分の力では何もできないと思い知ります。

 だから、父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。私たちが罪の罰を受けないで済むようにひとり子に罪を負わせて代わりに罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。しかもそれで終わらず今度はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様が打ち立てた罪の償いと罪の赦しを自分のものにすることができます。そして永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきの中で歩むようになります。この世にある限り、肉を纏う私たちの内にはまだ罪が残りますが、そんなのおかまいなしに、洗礼を通してイエス様の無罪(むつみ)、神聖さ、義を衣のように頭から被せられます。この神聖な衣をはぎ取られないように、しっかり掴んで歩むのがキリスト信仰者の人生です。この衣を手離さないでしっかり纏い続けることが、罪に反対して生きていることの証になります。たとえ、神の意思に反することが出てきてしまっても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、あそこに罪の赦しがあるとわかります。あの方のおかげで体の部分を切り取らなくてよいと安心し、感謝に満たされます。このように罪の赦しという神の恵みに留まることが出来れば、罪の鋭い棘はどんどん鈍くなっていきます。まさにイエス様の神聖な衣を被せられて、その重みで罪を圧縮していくのです。イエス様の神聖な衣をしっかり纏っている限り、私たちは何も切り取る必要はなく、五体満足で天の御国に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の日課の終わりのところで塩について言われていました。「火で塩味をつけられる」というのは、その前にある地獄の火とは全く異なる火です。人が塩を持てるようにする火です。その塩を持てれば互いに平和に過ごすのが当然になると言うのです。塩は何を意味するのでしょうか?パウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、キリスト信仰者とはイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められた者、洗礼を通してイエス様の十字架の死と復活に結びつけられて罪に背を向け永遠の命に向かって生きるようになった者であると言います。そのキリスト信仰者がこの世でどういう心と態度を持つようになるかについて同じ手紙の12章で詳しく述べられています。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、自分で復讐はしない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々あります。今日の日課の終わりと同じ、全ての人と平和な関係を保てということもあります。そういう心と態度のことです。これらは、キリスト信仰者はしなければ神に認められないと言っているのではなく、神に認められたからこのような心と態度を持つようになるのだ、忘れるなという注意喚起です。こういう心と態度が塩です。火で塩味を付けるというのは、恐らく洗礼を暗示していると考えられます。洗礼者ヨハネは、イエス様は聖霊と火を持って洗礼を授けると予告しました。聖霊降臨の時、弟子たちの上に炎のような舌が分岐して下ったとあります。洗礼を通して、私たちの全身全霊は新しい心と態度を持つように焼き直されたのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこの塩が備えられていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)

原文は以下の通り。可能性を表す助動詞がδυνησεταιあります。

ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και δυνησεται ταχυ κακολογησαι με

原文からこのδυνησεταιを取りのぞいたら次のようになります。

ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και ταχυ κακολογησει με こちらの方が、「奇跡の業を行った直ぐ後でイエス様の悪口を言わないが、一時したら悪口を言う

の意味がはっきりすると思います。原文のようにδυνησεταιがつくとどう違ってくるかということを考えに考え、説教文にあるような見解に達しました。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム 

教会の日曜礼拝は人生という旅路の休憩所

この夏フィンランド滞在中、トゥルク市にあるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)のルター教会の礼拝に参加した時のこと。 礼拝中に牧師が二人の信徒を前に呼び出して、会衆の前で質問。「あなたはなぜ教会の礼拝に参加するのか?」一人は大学生の女性、もう一人は小さな子供がいる30代の父親。

大学生の答えは、友達に会えること、若者が多い教会なので新しい友達が出来ることも期待している、と。因みにルター教会の礼拝出席者数は200300人位あり、(クリスマスシーズンを除く)通常の礼拝ではフィンランドで最も礼拝出席者が多い教会の一つである。ヘルシンキ市にある聖心教会(これもSLEY)はさらに多く300400人位。しかも、どちらも若者や子供連れ家族が年配者より多い。私が90年代にルター教会に通っていた頃は100人位で年配者の方が多かった。世代交代が見事に成功したのだ。90年代以後、フィンランド国民の教会離れが進み、国教会所属率は80%台から60%すれすれまで落ち、多くの教会の礼拝は人がまばらになってしまったのとは全く対照的な展開を遂げた。

若い父親の答えは、自分にとって人生とは天の御国を目指して歩む旅のようなもの、その旅路の中で日曜礼拝は荷物を下ろして休憩できる場である、聖書の御言葉と聖餐式を通して霊的な栄養を得て、また荷物を背負って歩み出せる、一週間後また休憩所で一息つけるんだとわかって歩めるのは素晴らしいと。

父親の答えには多くの聖書の御言葉が凝縮されている。大海原に船出して嵐に遭遇しつつも神に助けられて望みの港に到着するという詩篇107篇、実際に嵐を鎮める力を示したイエス様(マルコ4章など)、旅人の出発から目的地到着まで神が守って下さるという詩篇121篇、神に贖われた者たちが危険から守られて大路を進み、嘆きと悲しみが消え去る目的地に歓喜の声で迎え入れられるというイザヤ35章、苦難の時も良い羊飼いに守られ野原や水辺で憩う時を持ちながら目的地に進むという詩篇23篇、自分はその羊飼いであると証ししたイエス様(ヨハネ10章)、復活の日に復活に与ることを目指してひたすら走るというパウロ(フィリピ3章)、そして「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というマタイ1128節の主の言葉などなど。

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歳時記

< 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩篇103:15・16>

葛の花

家人が一輪の葛の花を摘んできました。手に取りその臭いを嗅ぐと驚くほど素晴らしい香りでした。そう、春に咲いていた桜の「駿河台匂い」の香りに近いかもしれません。駿河台匂いは仄かな香りでしたが葛の花はもっと自己主張の強い香りです。残念なことに花の命は儚くすぐに萎んでしまいました。先日思い切って葛の葉の採取に膝の痛みと相談しながら小散歩に出かけました、幸い膝はおとなしくしてくれていたので採取は成功でした。採取した葛の花をコップに挿してそのふくよかな香りを楽しでおります。花房を丹念に見ると先端の明るい銀鼠色の蕾が下に向かって次第に紫色を帯びた深みのある色になり最後に開花して紅紫色の花弁になります。この見事な色のグラデーションが葛の花の深みを帯びた紅紫色にしているのは蕾時代の銀鼠色のせいかもしれないと独り合点しています。余談ながら葛からは葛粉、葛布など古来から日本人の生活に欠かせない大事な植物でした。

<葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり  釈迢空 >

2024年9月22日(日)聖霊降臨後第十八主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教

2024年9月22日 聖霊降臨後第十八主日

エレミヤ11章18~20節

ヤコ3章13節~4章3、7~8a節

マルコ9章30~37節

説教題 「道徳論や人権論とは異質なキリスト信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様と弟子たちの一行はエルサレムに向かって南下する旅をしています。今日の日課の出来事は、一行がガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来た時の話です。少し前にイエス様は自分がエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕らえられて殺される、しかし、三日後に復活すると予告していました。それを聞いて驚いたペトロがそんなことがあってはならないと反対すると、イエス様はペトロを厳しく叱り、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている、と言われました。弟子たちにとってイエス様は期待のヒーローでした。イエス様の権威ある教えを聞いて無数の奇跡の業を味わった人たちも思いは同じでした。当時ユダヤ民族はローマ帝国に支配されていたので、いつかそれを打ち倒してかつてのダビデ王の王国を復興させてくれる王の到来を期待していたのです。イエス様に注目が集まったのも無理はありません。

 私たちは、メシアという言葉が救世主を意味すると知っています。もともとの意味は「香油を頭に注がれて聖別された者」で、ユダヤ民族の伝統では王様がメシアの代表格でした。それでイエス様の時代、メシアを民族を超えた全人類の救世主と考える向きはほとんどありませんでした。なので、イエス様をメシアと言って担ぎ出してしまうと、ローマ帝国から反乱者と見なされて弾圧されてしまいます。神が定めた救世主の目的を果たすまでは邪魔されてはいけないのです。十字架と復活の出来事が起きる前、なぜイエス様は自分がメシアであることを公けにするのに消極的だった理由がわかります。ガリラヤ地方に来た時、人々に知られたくなかったのも、このように理解できるでしょう。。

 本日の福音書の個所で、イエス様は再び自分の受難と復活について予告します。弟子たちは恐れて何も言えません。このイエス様の驚くべき予告を聞かされた弟子たちは混乱してしまったようです。これから、ユダヤ民族の将来にとって何か途轍もないことを起こす偉大な方が、自分は殺されてしまう、しかし復活する、などと言われる。これは一体何なんだ?この方は自分たちが考えるような偉大な方ではなかったのか、それともやっぱり偉大な方なのだが、それは自分たちが考えるのとは違う偉大さなのか?それで、誰が偉い者かという議論が起こったと考えられます。

 それに対するイエス様の答えはこうでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、子供を真ん中に立たせて抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 これを読んだ人は、ああ、イエス様は、人間謙虚さが大事、高い地位にふんぞり返っている者は偉くもなんともない、自分を低くして他人に仕える者が本当に偉いのだ、と道徳論をぶっていると思うでしょう。子供を受け入れなければならないと言っているは、聞く人によってはイエス様は子供の人権擁護の先駆者だと考える人もいるかもいれません。しかし、そういうことではないのです。聖書とは、キリスト信仰について教える書物であると同時に、読む人をキリスト信仰に導く神の御言葉です。イエス様のことを道徳論者とか人権擁護者に理解する読み方は、別にキリスト信仰がなくても読める読み方です。イエス様を道徳論者とか人権擁護者に仕立て上げると、古今東西無数にいる道徳論者や人権擁護者の一人にすぎなくなります。

 私たちキリスト信仰者は聖書をキリスト信仰なしで読むことはしません。信仰をもって読む者です。それで、今日の福音書の個所も、道徳論、人権論とは全く異質なものが見えてくるのです。今日の説教では、この異質なものを明らかにしようと思います。次の3つのことに焦点を当てて明らかにします。一つは、キリスト信仰にとって「仕える」とは何なのか?二つ目は、「わたしの名のために子供を受け入れる」と言う時の「わたしの名のために」とはどんな意味なのか?三つ目は、キリスト信仰にとって「受け入れる」とは何なのか?

2.キリスト信仰にとって「仕える」とは

イエス様は一番先になりたい者は一番後になりなさいと言い、一番後になるとはみんなに仕えることであると言いました。本当に偉大な者とは人々に仕えられてふんぞり返っている者ではなく、逆に全ての人に仕える者が偉大なのだと。ここで「仕える」とは具体的に何をすることでしょうか?お仕えする相手の要望に聞き従い、お世話をすることでしょうか?召使いのようになることでしょうか?全ての人々に対してそのようなことができるでしょうか?一人や二人だったらできるかもしれませんが、人数が多くなるにつれ難しくなり、全ての人というのは不可能です。

 ここで、全ての人に仕えることをしたのはイエス様本人であったことを思い出しましょう。イエス様はどのようにして全ての人に仕えたでしょうか?それは、彼が予告した十字架の死と死からの復活をもってしたのです。どうして、十字架と復活が全ての人に仕えることになるのか?それは、人間が創造主の神に対して、その神聖な意思に反しようとする性向を持ってしまっている(聖書はそれを罪と呼びます)、そのために人間が神との結びつきを失ってしまった、それで人間は神との結びつきを失ったままこの世を生きなければならず、この世を去った後も神のもとに戻ることができない状態になってしまった、この状態から人間を救い出すために神はひとり子のイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせたのでした。人間が持ってしまっている神の意思に反すること、つまり罪の神罰を人間が受けて滅びてしまわないために、イエス様が身代わりになって受けて死なれたのです。これがゴルゴタの十字架の出来事でした。しかし、事はそれで終わらず、創造主の神は今度はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。

 そこで、今度は人間の方が、これらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、それでその人は神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も結びつきは失われず、復活の日が来るとイエス様と同じように復活させられて神の御許に永遠に戻れるようになったのです。これが、イエス様が全ての人に仕えたということです。

 それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者にとって人に仕えるとはどういうことになるでしょうか?イエス様は、罪の赦しの救いを全世界的に打ち立てました。しかし、人間は信仰と洗礼を通してそれを自分のものにしないと、打ち立てられた救いの外側に留まってしまいます。人間の救いを計画した神とそれを実行したひとり子イエス様の願いは、全ての人がこの救いを自分のものにすることです。なので、キリスト信仰者にとって人に仕えるというのは、人々が救いを自分のものにできるように働きかたり、考えたり、祈ることが仕えることになります。まさに神が全ての人に仕えたことを受け継ぐことです。

3.「わたしの名のために」の意味

次にイエス様が子供を受け入れる時に「わたしの名のために」と言っていることに注目します。「私の名のために子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか?「~のために」はいろんな意味があります。「合格するために一生懸命勉強する」と言う時は目的とか目標です。イエス様の名前が子供を受け入れる目的、目標になっているというのは意味が通るでしょうか?「悪天候のために遠足は中止です」と言う時は原因とか理由の意味です。イエス様の名前が子供を受け入れる原因とか理由になっているというのも意味が通るでしょうか?「家族のために仕事を頑張る」と言う時は何かに利益をもたらす、何かを支えてあげる意味になります。イエス様の名前は私たち人間が何かをして支えてあげなければならないようなか弱いものでしょうか?このように、日本語で何となくわかったような気分でいたことが、少し突き詰めて見ると実は何を意味しているのかわからなくなることが多くあります。

 聖書でそうことが起これば、すかさず原語のテキストを見てみます。ギリシャ語でエピ(επι)という前置詞が使われています。これが「~のために」と訳されているのですが本当でしょうか?エピに続く単語は属格、与格、対格のいずれかの格変化をします。格に応じて意味も変化します。今日の個所のエピには「私の名前」が続きますが、「名前」は与格です(ονομα⇒ονοματι)。古典ギリシャ語の文法書によると(後注1)エピに与格が続くと、まず場所を表す意味や時間を表す意味があります。「私の名前」は場所でも時間でもないので当てはまりません。そこでもう一つ、比喩的な意味というのがあります。その中にもいろいろな選択肢がありますが、それらを見比べて一番当てはまると思われたのは、「~に依拠して」とか「~という条件の下で」という意味です(後注2)。イエス様の名前に依拠して、イエス様の名前という条件の下で子供を受け入れるということ。つまり、子供を受け入れる時、イエス様以外の名前には依拠しない、イエス様以外の名前を条件にしない、他でもないイエス様の名前に依拠して子供を受け入れる、イエス様の名前を条件にして受け入れる。それでは、イエス様の名前に依拠して、その名前を条件にして子供を受け入れるとはどういう受け入れなのでしょうか?

4.キリスト信仰にとって「受け入れる」とは

ここでイエス様が成し遂げられた救いを思い出します。イエス様は自分を犠牲に供することで神に対する人間の罪を人間に代わって償って下さいました。人間が神罰から免れて神との結びつきを持てるようになる可能性を打ち立てたのです。さらに、死から復活されたことで死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を人間に切り開かれました。イエス様の名前に依拠して、名前を条件にして子供を受け入れるというのは、まさに子供をイエス様が成し遂げた救いの中に迎え入れるということです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにすることが出来る、永遠の命、復活の命に至る道を歩むことが出来る、子供だからまだ無理だとか、早いとか、そんなことはない、大人のキリスト信仰者はそれをわかって、子供も救いの中に迎え入れなさいということです。

 このような教えは、当時のギリシャ・ローマ世界にとって革命的なことでした。というのは、十字架と復活の出来事の後で罪の赦しの福音が地中海世界に宣べ伝えられていきますが、そこは子供や女性の地位が何もないような世界でした。確かに古代ギリシャ・ローマは進んだ文明も持っていましたが、生まれたばかりの赤ちゃんの間引きは日常的に行われていました。最初ユダヤ教がそれに異を唱えました。人間は神に造られた、母親の胎内の時から神に知られているという視点に立っていたからです。キリスト教も同じ視点を受け継ぎました。キリスト教が長い迫害時代の後、ローマ帝国内で地位を確立すると間引きの風習は禁止されました。イエス様は、子供たちにも天使がついていて神の御顔を仰いでいると言われました(マタイ18章10節)。大人についている天使と何ら遜色はないというのです。これも当時の人たちには衝撃的に聞こえたでしょう。

 このように「受け入れる」とはイエス様の成し遂げた救いの中に迎え入れることだと言うと、それは別に子供に限ったことではないかと言われるかもしれません。その通りです。イエス様の成し遂げた救いは大人子供関係なく全ての人のために打ち立てられました。それを神はどうぞ受け取って下さいと全ての人に提供して下さっているのです。人はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してそれを受け取ります。救いが「全ての人に」向けられているということを如実に示しているのが、子供を受け入れなさいというということなのです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにできる、永遠の命、復活の命に至る道を歩める、だからイエス様の打ち立てた救いは本当に全ての人に向けられているのです。赤ちゃんや小さな子供の場合は先に洗礼を受けて救いを受け取ります。それから両親と教会が、あなたの受けた洗礼はこういう意味があるんですよ、と教え育てて、イエス様を救い主と信じる信仰を意識化していき、堅信礼へと導いていきます。(世の人はこれを聞いて、子供の人権侵害だと騒ぐかもしれません。宗教2世の問題を引き起こすものだと。悲しい世になってしまいました。)

 子供をはじめ救いの外側にいる人たちをその中に迎え入れる者は、もう既にイエス様を受け入れており、イエス様を送られた神を受け入れています。それが、外側にいる人たちを迎え入れることで、イエス様と神を受け入れていることが一層証しされるのです。

4.勧めと励まし

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも、イエス様が打ち立てた罪の赦しの救いは全ての人に提供されていることを覚えて、まだ受け取っていない人たちが受け取ることができるように働きましょう。とは言っても、今はいろんな宗教団体が社会問題を引き起こす時世ですので、誤解や警戒を生まないように何ができるだろうかと悩んでしまいます。しかし、あなたの信仰について教えてほしいと言う人が出たら、しめたもの、何も遠慮することはありません。ペトロの次の言葉の通りにしなさい。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(第一ペトロ3章15~16節)。教えてほしいという人がなかなか出なくても、慌てる必要はありません。皆さんが、神と結びつきをもって人生を歩んでさえいれば、順境の時も逆境の時も神から変わらぬ守りと導きを受けているんだという生き方をしていれば、そして将来いつの日か自分もイエス様の復活に与ることになるんだという希望を持っていれば、それを雰囲気を感じ取った人が興味を持って聞いて来るようになるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注1 私が使用している古典ギリシャ語の文法書は、Jerker Blomqvist & Poul Ole Jastrup著の”Grekisk/Grækisk gramatik”です。用いている辞書は、Ivar Heikel & Anton Fridrechsen編の”Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”。

後注2 比喩的な意味の他の選択肢は、~に対する命令、(感情表現の動詞と一緒に)その感情の原因、~しようとする意図・目的。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

今日の交わり

吉村牧師ご一家がフインランドから戻られ、三鷹教会の高村牧師夫妻が赤ちゃんの藍埜ちゃんを連れて礼拝に参加されて、久しぶりに賑やかな交わりのひと時を持ちました。感謝です

2024年9月15日(日)聖霊降臨後第十七主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

[私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにあるように。アーメン]

                                            2024年9月15日(日)

説教題 「主よ、あなたこそメシアです」

聖書 マルコ福音書 8章27~38節

今日の聖書はマルコ福音書の8章です。27節を見ますと「イエスは弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。」とあります。フィリポ・カイザリア地方へ、なぜ弟子たちを連れて行かれたのでしょうか。フィリポ・カイザリアと言えばエルサレムやガラリヤ地方から見れば、もう外国のような地方です。

私はイスラエル・トルコのパウロ伝道の跡を訪ねました際、フィリポ・カイザリアにも行きました。ガラリヤ湖の小高い山に「山上の垂訓」の教会があります。イエス様が大切な説教をされた有名な所です。マタイは5章から7章にかけて記しています。その山上の垂訓の教会の近くには世界でも珍しい花がいっぱい咲いている花園があります。世界中から植物学者が来て珍しい品種を調べているのです。その花園をずうっと北へバスで1時間ほど走って行くとバリアスの滝とかヨルダン川の源流を辿って行った先にフィリポ・カイザリア地方があります。ガリラヤ地方から遠く離れた地にイエス様はどうして弟子たちを連れて来られたのでしょうか。それまでナザレの家族から出て、いよいよガリラヤを中心に神の御子としての本来の活動を始められた。神の国の教えを語られ、病人を癒し群衆が何時も押し寄せて来た。マルコ8章の始めを見ますと「群衆が大勢いて何も食べる物がなかったのでイエスは弟子たちを呼び寄せて言われた『群衆が可哀そうだ、もう三日も私と一緒にいるのに食べ物がない、空腹のまま家に帰らせると途中で疲れ切ってしまうだろう。』・・こうしてイエス様は4000人の群衆に<七つのパンと僅かな魚で彼らを満腹させる>と言う全く考えられない驚きの奇跡の出来事をなさっています毎日々寝る時間もなく病人を癒し奇跡を起こし多くの人々が何時も周りに押し寄せて来ていた。そこでイエス様はこうした群衆から離れて弟子たちだけを連れてユダヤ人たちからも遠い地に来られたと思われます。そこにイエス様にとって一つの区切りをつける時を持たれたのではないでしょうか。そしてマルコはこの福音書の半分のところにフィリポ・カイザリアへ弟子たちを連れて行かれた事を書いているのです。ですからイエス様にとって大事な一区切りの時を持つことで前半のクライマックスを持ってきているのです。マルコは、さあ後半の始めに31節以下の所からイエス様の使命を弟子たちに打ち明けられて行きます。十字架への道です。さて、イエス様はフィリポ・カイザリアに向かって旅する途中で弟子たちに質問されたのであります。「人々は私のことを何者だと言っているか」と言われた。すると弟子たちは答えています。「洗礼者ヨハネだ」と言う者もいます。他に「エリヤ」と言う人もいます。「預言者の1人だ」と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」弟子たちに向かって尋ねられるのです。それでは・・・と言う、この問いに世間の人々は色々と言っています。それはそれで・・・ともかく、では「あなた方はどうなんだ」。とイエス様の本心はここにあったのです。

このことは弟子たちにだけではなく現在の私たち1人々に対してもイエス様と言うお方を教会だけではなく日常のあらゆる生活の最中でも「私にとってイエス様はこういう大切なお方です」と言える信仰の告白を問うておられるのであります。エレサムの神殿や教会の礼拝ではない、フィリポ・カイザリアに向かって行かれる旅の途中です。「あなた方は、私を何者だとと言うのか」と尋ねておられるのです。ここで最も重要なのは主イエス様ご自身が私どもの告白を求めておられる、という事実なのです。「あなた方は、私を何時も日常の中でもどのような方として思っているのか、信じているのか」と、主イエス様はその答えを聞きたいと思っていらっしゃる。どうお答していくか実に重大な問題なのです。愛し合っている夫婦の間で、親子の間で、親しい友人たち信頼している仲間たちの間で、もし「私のことをどう思っている?」と聞かれ、どう答えるでしょう。イエス様が問われる。「私どもが主イエス様を自分でどう信じ、どう告白しているか」教会の礼拝の中では信仰の告白をしています。しかし、いつも「あなたは、私が真実に救い主である、と今信じていますか」と言う問いの前に繰り返し何時も立たされているのではないでしょうか。

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さて、ペテロは弟子たちを代表すかのようにイエス様の問いかけに答えました。「あなたこそメシアです」当時のユダヤ人たちは皆メシアが現れるのを期待していました。ですからペテロもイエス様のことをそうだと考えて言った、ということでしょう。「イエス様こそメシアです。」と告白しています。口語訳の聖書では「キリストです」となっていました。メシアと言うのは「香油を塗られた者」という意味です。旧約聖書では王や預言者が神から任命される時、香油を塗ったところからメシアという名前が起こっていました。そして「救世主」を表すようになったのです。そのギリシャ語がキリストです。ペテロは当時のユダヤ人たちが待望していたメシアを考えていたのでしょう。あなたこそ旧約の時代から待ち望んだ「救世主」であられます。と告白したのです。ペテロはイエス様の「あなたはどう思うか」という問いの前に自分の信じているままに答えたのであります。「あなたは私にとってメシアである救い主です」私たちも主の前に、いつも旅の途中であろうと、日常生活の様々な問題であってもイエス様を呼び求め「あなたこそ私の救い主です」と主イエス様がいつでも私の内にいて下さっています、ことをしかと心に留めていたいのです。最後に大切な言葉がイエス様から言われます。30節を見ますと「するとイエスはご自分の事を誰にも話さないように、と弟子たちに戒められた。」とあります。これはちょっと考えると不思議なことと言われています。なぜイエス様はご自分の事、つまりメシアである事を誰にも話さないように戒められたのでしょうか。ペテロをはじめ弟子たちはみな心からあなたこそ神から遣わされたメシアであられます。みなあそう思っています。ですから家族を捨て自分の人生を全てイエス様に預けてついて来ているのです。私たちの心から信頼しているイエス様を「メシアであられます」と言ってもよいではないでしょうか。ところがイエス様は誰にも話さないように、と言われたのです。なぜそう言われたのか、この事は謎として学者たちが議論するところであります。信仰のない学者は、こう言います。「これは後に教会が付けた句であってメシアであることが復活された後になって判ったから付け加えたに過ぎない。イエス様が生きていらっしゃる間はそんなことは判らなかったことだ。だから秘密にされていた。この説はあまりに付け足したで、とても考えられないことでしょう。では、イエス様が戒められた意味は何なのでしょうか。ここでイエス様が「戒められた」と訳されている、この語は悪霊を戒める、とか嵐の湖を鎮める時に言われた用語と同じものであります。実はこの語が旧約聖書では神が天地を創造なさる、とか権威を持って力あることをなさる、という意味のヘブル語をギリシャ語に訳す際に用いられとぃる、というそういう背景から考えますと、例えば天地や新しい生命を創造する神の力、神の意志、或いは紅海を二つに分けられたような神の力を表す言葉として使われています。そのような神の言葉の持つ力をイエス様も持っておられる事を指すのが「戒める」という言葉なのです。<私は聖書学者ではありませんが尊敬する素晴らしい牧師、学者である先生の説教で解説しておられます。>このように「戒められた」という言葉の中にイエス様は限りない主であることが力強く示されている。ということです。

ここでイエス様が「あなた方は、私を何者だと言うのか」と尋ねられ、ペテロが「あなたはメシアです」と答えました。自分で尋ね、ご自分が聞きたいと願っておられた答えをお聞きになったのに、かえって誰にも言うなと戒めた、という事はおかしな話のように思われるかも知れません。だのに、どうして普通の話のような口調で“誰にも内緒だぞ”と言うた程度ではない、嵐の海を静まらせ,紅海の海をま二つに分けられる神の力を秘めた力強い戒めの言葉で「誰にも言うな!」。弟子たちが内心震え上がるような権威に満ちた顔をもって戒めておられるのです。当時のユダヤ人たちは長い間、歴史の中で待望していたメシア、目の前にはローマ帝国の圧政の下で苦しめられているけれども自分たちは特別な神の民である、この苦しみを開放してくださる救い主がきっと今に現れる、ペテロたちも同じような心を抱いていた、そういうメシアが主イエス様だ。今に社会が、世の中がひっくり返るような神の力をもって救ってくださるにちがいない、こういうメシア観でありました。それは人間が勝手に想像し期待している救い主メシアであるかもしれない。しかし、主イエスは違う!

全ての民が救われる、ことをイエス様は考えておられた。ですからうっかりペテロが自分の考えに従ってユダヤ流のメシア理解を宣言するというのでは困る。だから力強い神の力をもって戒められたのであります。イエス様は確かに告白を求めておられるのですが彼らの考えの中にある内容についてはイエス様は、そうかと任されるままでは決してない。正しい告白をここで与えようと思われて、しかと戒められた。人間の言い方では危ないのであります。事実ペテロはイエス様の前にどういうふうになったか31節を見ますとその事がわかります。「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。するとペテロはイエスをわきにお連れして諫め始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。・・・・。」イエス様ご自身のま近に苦しみと死が迫って来ている運命を話されたのであります。ペテロが戒めると「サタン!引き下がれ」と激しい口調で叱られています。イエス様がどのような意味でメシアであられるのか弟子たちにその深い真実の意味は判っていない。イエス様の十字架の苦難と死に至ってはじめてはっきりされて来る。全ての人間の罪を十字架の上で流れる御血と肉の痛みで贖われてメシアとしての救い主であられる。ペテロたちが「あなたこそ、みんなが待望している救い主メシアです」と告白してもイエスご自身の十字架の死を持っての救い主というイエス様の内容の次元が全く違っているのであります。その時まで判らない、秘められた神の救いの御業であるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン