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2025年11月9日(日)聖霊降臨後第22主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年11月9日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会

ヨブ19章23-27a節

第二テサロニケ2章1-5、13-17節

ルカ20章27-38節

説教題 「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世の人生を終えたら何が待っているかという問いの核心となる答えです。キリスト信仰の死生観そのものと言ってもよいでしょう。

サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とするエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 サドカイ派の人たちが吹っかけた議論とは、7人の兄弟が順番に同じ女性と結婚したという話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持つことになるのか?ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういうことが起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。真に巧妙な吹っかけ方です。

 これに対するイエス様の答えは反対者に有無を言わせないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。まず、人間のこの世での在りようと復活した時の在りようは全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。

2.復活の在りよう

 まず、第一の論点の復活の在りようを見てみましょう。人間は復活すると、この世での在りようと全く異なる在りようになる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない在りようになる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の在りようと同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな在りようになるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が終わった後の新しい天と地の世になります。そこで、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような存在になり、第一コリント15章でパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者をイエス様は「神の子」であると言います(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなります。つまるところ、サドカイ派は復活を正しく理解していなかったのです。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。

 ところで、キリスト信仰の復活を考える時、次の3つのことを忘れないようにしましょう。第一の忘れてはならないことは、今見たように、復活の在りようはこの世での在りようと異なるということです。

 二番目に忘れてはならないことは、復活の時、神の御許に迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということです。それを決める最後の審判があるということです。

 三番目に忘れてはならないことは、復活と最後の審判は将来、一括して一斉に起こるということです。人間一人一人死ぬたびに起こることではありません。そうすると、じゃ、死んだ人たちはみんな復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところが我が国では、人は死んだら高いところかどこかに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が多いです。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから下を見下ろしても、その時はもう今ある天と地はなくなっています。あるのは新しく創造された天と地と唯一残る神の国だけです。

 そうなると、死んだ人が本当に眠ってしまったら、誰が見守ってくれるのかと心配する人が出てくるでしょう。これもキリスト信仰では見守ってくれるのは亡くなった人ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。この方が私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、先祖の祟りだの、何とか霊の呪いだのと言われても慌てなくなり、霊的な恐れや不安を抱かずに生活できるようになるでしょう。

 そこで、神の国への迎え入れは復活の日まで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに向かって、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになります。それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。実は聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

3.神は復活に与かって生きる者の神である

 次にイエス様の答えの第二の論点、復活があることの根拠に神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ったことについて見てみましょう。出エジプト記3章6節で神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んでいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。イエス様はこれを引用した後でたたみ掛けるようにして言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。

 このイエス様の言葉はわかりそうでわかりにくいです。実は、これを正しく理解できないと、イエス様の答えの第二の論点が理解できません。まず、「神は生きている者の神」と言う時の、「生きている」の意味ですが、これはただ単にこの世で生存している者のことではありません。イエス様が、特にヨハネ福音書で、「生きる」と言う時はきまって永遠の命、復活の命に与かって生きることを意味していたことを思い出しましょう。それなので「生きている者」とは、永遠の命、復活の命に与っている者のことです。永遠の命に与かっている者には、復活の日を待たずして神の御許に迎えられた者と、復活に至る道に置かれて今それを歩んでいる者の両方が含まれます。それで、「生きている者の神」とは、既に神の御許に迎え入れられた者と今そこに向かって歩んでいる者の双方にとっての神です。

次の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」生きているという意味になります。実はここはそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、この理解はこの復活の個所とかみ合いません。文脈から浮いてしまいます。文というものは、それ自体は正しくて意味を成すことを言っていても、置かれた文脈とかみあっていなかったら意味を成しません。

 それでは、この言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「全ての人」というのはここでは全人類のことではありません。これは、35節と36節に言われている、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」のことであり、復活に与かる神の子のことです。従って、「全ての人」とは「復活に与かる全ての人」という意味です。

 次に、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は素直に訳して「神のために」とします(後注1)。参考までにドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)です。英語訳聖書NIVはto him「彼に対して」でした。フィンランド語訳は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)でした。少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。

 そこで、「神のために生きる」というのはどういう生き方かがわからないといけません。イメージとして神さまにお仕えする生き方が思い浮かぶでしょう。それでは、神に仕える生き方とはどんな生き方でしょうか?それがわかる鍵がローマ6章10~11節にあります。パウロが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神のために生きている、と言っているところです(日本語訳では「神に対して生きている」ですが、ギリシャ語では今日のイエス様の言葉同様、「神のために生きている」です)。

 パウロはローマ6章で、罪に対して死んで神のために生きるということをどう教えていたでしょうか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられる。それと同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、私たちの内にある、罪に結びつく古い人間も十字架につけられるので、私たちは罪の言いなりになる状態から離脱します。そして、イエス様は死から復活されたので、もう死が彼を支配することはありません。確かにイエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が彼に対して力を及ぼせなくなっただけでなく、洗礼を通して彼と結びつけられた私たちに対しても及ぼせなくする出来事だったのです。イエス様が罪に対して死なれたというのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与える死だったということです。そのことが十字架の出来事をもって未来永劫にわたって確立されたのです。

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは神のために生きることになると言います(ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるとは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様だけでなく洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまるのです(後注3)。それでは、キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるというのはどういう生き方か?パウロは、それは全身を罪の道具に替えて神の義を現わす武器にするのだと教えます。全身を神の義を現わす武器にするとは、具体的にはどういうことか?それは、本教会の説教でも繰り返し教えています。イエス様がもたらしてくれた罪の赦しのお恵みの中にしっかり留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。このように罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることは罪を踏みつぶしていく生き方であり、神の義を現わす生き方になるのです。復活に与かるのに相応しいとされた全ての人たちは、このようにしてこの世を神のために生きるのです。そして復活の日には、もう踏みつぶす罪はなくなり、完全に神の栄光を現わす器になっているのです。.

4.勧めと励まし

 最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか、ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて見てみます。神がモーセにこのように名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はかつてアブラハムとイサクとヤコブの3人に対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時が来たのです。神はその約束を与えた3人の名を引き合いに出したのです。もちろん、ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活の場合もそうです。アブラハムの神が私たちの神であるならば、私たちも復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神のために生きる」の「のために」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

フインランドからのプレゼントの讃美歌掲示板です。重いボードでしたが牧師が手荷物で運んで来て下さいました、礼拝時の讃美歌が一目でわかります。

牧師の週報コラム 

フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う

キリスト教会では古くから111日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。加えて112日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の111日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。

日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。日本では遺骨や位牌に魂が入っていると信じられるせいか、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。

キリスト信仰では、亡くなった方は思い出として残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するということになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。日本人の場合は尊重するのは故人の今ある魂とか霊になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出だけになってしまったら、故人との繋がりがなくなってしまうと心配してしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身は復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。それなので、キリスト信仰では墓は良き思い出の象徴であり、復活の再会の希望を確認する場になります。

全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。(2023115日のコラムに加筆修正)

 

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の料理クラブは11月15日(土)13時の開催です。

フィンランド的なパン「サンピュラ」を作ります。今回はオートミールをたっぷり含み、白ゴマ黒ゴマでトッピングしたオートミール・セサミ・サンピュラです。オートミールもセサミも栄養素が豊富なのでフィンランドでは健康的な食卓パンに数えられます。パンはふっくらとしていて、バターやマーガリンだけでも香ばしく美味しく頂けます。もちろん、ハムやチーズを挟んでサンドイッチにも最適です!

そして、パンのおともにフィンランドの秋の季節によく作られるキノコのスープも作ります。色んな種類のキノコを加えてクリームチーズで煮立てると、奥の深いまろやかな味のスープが出来上がります。

フィンランドのオートミール・セサミ・サンピュラとクリームチーズ風味のキノコスープをご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1764872258iamg@1764872258arumi1764872258hsoy.1764872258iviap1764872258 まで。

歳時記

虫の声

<主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。詩編 104:24>

「涼風 秋草を動かし蟋蟀鳴きて相随・・」。難聴になって以来、自然界の音。雨、風、鳥、蝉・・などの音と縁が切れて久しいのですが不思議に秋の虫の声だけは普通に聞こえています。数少ない自然界の音を慈しみながら大事にしています。子供の頃に歌った「虫の声」と言う唱歌には色々な虫が出てきますね。耳を澄ませてその声を聞き分けようとしましたが虫の種類が少なくなったのか聞き分ける事が出来ませんでした。何時頃からでしょうか虫たちの世界にも自然淘汰が起こっているようです。秋も深まりその虫たちの声も少なくなってきました。フランスの詩人は秋の事を「小さな死」と表現していました。虫たちの声が次第に鳴き細りゆき小さな死が増える毎に秋の深まりが濃くなって行きます。

一番
「あれ、松虫が鳴いている。 ちんちろちんちろ、ちんちろりん。 あれ、鈴虫も鳴き出した。 りんりんりんりん、りいんりん。」
「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」 

二番
「きりきりきりきり、こおろぎや。 がちゃがちゃ、くつわ虫。」
「あとから馬追い追いついて。 ちょんちょんちょんちょん、すいっちょん。」
「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」 

2025年11月2日(日)全聖徒主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

 

主日礼拝説教 2025年11月2日 全聖徒主日 スオミ教会

 

ダニエル書7章1~3、15~18節

エフェソ1章11~23節

ルカ6章20~31節

説教題 「復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書ルカ6章の日課はマタイ5章と同じ「幸いな人」についての教えです。教えの主題は同じですが、見比べるといろいろ違いがあることに気づきます。一般に4つの福音書を見比べると同じ教えや出来事の書き方が違っていることがよくあります。これはどういうことでしょうか?以前にもお教えしたですが、以下のようなことです。ルカ福音書の記者はその冒頭で、自分は信頼できる目撃者の証言や書き留められたものを集めて書き上げたと言います。つまり、自分は目撃者ではないと明らかにしているのです。マタイ福音書の方は、言い伝えによると12弟子の一人のマタイ、つまり目撃者が書いたことになっています。しかし、彼が今の形で全部書き上げたというよりは、彼が残したことを土台にして彼の取り巻きか後継者が追加資料を加えて完成させたと見るのが妥当ではないかと思います。このように、ルカもマタイも今の形になる前にいろいろな資料が土台にあるのです。それでは、それぞれの違いはどのようにして生まれたのでしょうか?

 福音書を完成させた人が手にした資料は、その手に渡るまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そして最後にそれらをまとめて完成させた人がいます。そうした流れの中で、各自の観点で短く要約したりとか逆に解説を加えて長くしたということが起こります。もしそうだとすると、完成品は史実を正確に反映していないのではという疑いが起こるでしょう。

 ここで忘れてはならない大事なことがあります。伝えた人、書き留めた人、完成させた人は自分の観点で短くしたり長くしたりしたとは言っても、彼らはみな共通の観点を持っていました。共通の観点とは次の4つから成ります。まず、イエス・キリストというのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であるということ。第二に、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。第三に、そのイエス様が死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。そして第四に、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これら4つのことを共通の観点としてみな持っていたのです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。この観点はイエス様の教えと出来事がなければ生まれませんでした。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めて福音書を完成させたのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性を損なうものではありません。違いの根底には同じ出来事、同じ教えがあるのです。それに、いろんな記述があることで同じ出来事と教えをいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあってもみな同じ信仰の観点で書かれていることを忘れないようにしましょう。それらを皆等しく神の御言葉として扱い、いろんな角度を総合した全体像を予感することが大事です。教会の礼拝で福音書をもとにしてする説教とは実は、今日はルカの角度から全体像に迫ります、ということに他なりません。

2.復活の視点と「幸い」

 ルカ福音書とマタイ福音書にある「幸いな人」の教えは共に人間的に見て好ましくない状態が将来逆転することを述べています。好ましくない状態についてルカは経済的な格差に焦点を当てています。将来とは復活の日のことです。今日は全聖徒主日、イエス様を救い主と信じる信仰を抱いてこの世の旅路を終えた人たちを覚える日であり、彼らと相まみえる日に思いを馳せる日です。復活の視点はこの日に相応しいテーマです。

 「幸いな人」の教えの中に復活の視点があることがわかるために、まず「幸い」とは何かを考えてみます。どうして「幸せ」と言わず、「幸い」なのでしょうか?「幸せ」はこの世的な良いものに関係します。「幸い」はこの世を超えたことに関係します。皆さんもご存じのように聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。よく終末論と言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正解でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちをメンバーとします。黙示録で言われるように、そこは神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道を進む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。

 この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、復活に至る道に置かれてそれを進むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏は満たされ涙は拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。これは創造主の神の約束です。だから今の境遇は陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われて快活に笑う自分が見えるのです。

 もちろん、復活の日を待たずともこの世の段階で貧しさや空腹や涙から脱することは出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ、空腹、涙と同じ陽炎です。このように、この世の不運だけでなく幸せもみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。

 「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。一つ注釈しますと、ギリシャ語の原文は「あなたがたは不幸である」という言い方ではなく、「お前たちに災いあれ」という言い方です。英語のwoe to youで、ドイツ語もフィンランド語もスウェーデン語も同じ言い方です。どんな災いが降りかかることになるのかと言うと、将来飢えるようになり泣くようになるなどと今の境遇が逆転することが未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。

 こんなことを言うと、この世で裕福になったりお腹一杯食べたり笑ったりしてはいけないみたいで、もう誰もイエス様の言うことなど聞きたくなくなるかもしれません。ここで次のことに気づきましょう。イエス様は不運な境遇それ自体が「幸い」と言っているのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにすることできる、これが幸いなのです。同じように裕福、満腹、笑いそれ自体が災いではないのです。そのような人も信仰に生きて復活を自分のものにすれば、この世の有り様は消えて復活の有り様に替えられるのです。しかし、裕福、満腹、笑いの中にそうさせない力が特に働くので、そういう人たちはとても注意しないといけないのです。

 それはどんな力でしょうか?26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことを聞かず、偽預言者を賞賛してその言うことを信じた時代がありました。偽預言者のように人間にちやほやされてまるで神のお墨付きを得たような気分に浸ることが災いになるのです。そのような人は神よりも人間を頼りにする人です。神の御前に立たされる日が来たら、神から言われてしまいます。お前は私よりも人間を頼りにしてきたのだから、私抜きで神の国に入ってみよ、と。同じように裕福、満腹、笑いにも神以外のものに頼るものを求めさせる力が働きます。だから、そういう人は注意しないといけないのです。

 イエス様はこれらの教えをつき従って来た人々に宣べました。彼らに対して「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言い、「富んでいるあなたがたには災いあれ」と言うのです。つまり、彼の周りで聞いている人たちの中に貧しい人も裕福な人もいて、両者に復活の視点を提供しているのです。神の正義はこの世での不正義を逆転させるものなので、今大変な境遇にある人には最終的には大丈夫になるという希望を与えてこの世を雄々しく生きる勇気を与えます。逆に今満足な境遇にある人には注意しないと将来大変なことになるぞと警告を鳴らしてへり下って生きる賢明さを与えます。

3.復活の視点と正義

 次にくる教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝の敵を愛せよ、汝を憎む者に良くしてあげよ、これは実行は難しくとも理想としてなら受け入れてもいいと多くの人は考えるでしょう。ところが、その後がもっと大変です。汝を呪う者を祝福せよとか、汝を侮辱する者のために祈れとなどと。極めつきは29節、汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分の愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちも殴ってやろう、となってしまわないか?

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを破る者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰も信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、どうしたらよいでしょうか?実は、イエス様はこれらの教えを通しても、キリスト信仰者は物事を復活の視点で見ることを教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様はどんな視点に立ってこれらを教えているのかを見抜けなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 敵を愛せよ、頬を差し出せという教えについて。これは、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。マタイ5章にも同じ教えがあります。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っています。これを聞いた人は、神の心の広さに驚くでしょう。しかし、こんなに気前よくしたら悪人は、しめしめ神は罰など下さないぞ、とつけあがらせてしまわないだろうか?これではあまりにも正義がなさすぎるのではないか?

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることは、旧約聖書のエゼキエル書18章と33章からも明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。先ほども申しましたように、神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 汝のものを取られるに任せよというのも、私たちが神から頂いた賜物に固執してしまって賜物を与えてくれた本人を忘れてしまうから、そんな賜物は取られてしまった方がいいのだと極端な言い方で教えているのです。

 そうすると一つ大きな問題が出てきます。こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、及ぼされた危害そのものには何もしなくてもいいのかということです。神から頂いた賜物を固執などせず神の御心に沿うように用いていたのに不当な仕方で取られたらそのままでいいのか?そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけない、盗んではいけないというのが神の意思である以上は、それらを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論は起きます。そんな程度では納得できないということが出てきたかと思うと、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分な補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分な罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それが出来るのは、復活と最後の審判の時に神が完全な正義を実現されると信じるからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげようという優しい気持ちがあるからかもしれません。しかし、受けた危害が大きければそんな気持ちは消えてしまうでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

4.勧めと励まし

 十字架と復活の出来事が起きる前にイエス様の教えを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活と完全な正義に至る道に置かれてそれを歩み始めたのです。神から罪の赦しを頂いたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が肥大化するのを抑える力になるはずです。それなのに、私はあいつを裁く、絶対に赦さない、などと言ったら、神は何のためにひとり子を犠牲にしたのかとがっかりするでしょう。私がお前にしたようにお前も周りにすべきではないか、お前に対して恨みを持つ人にそれをなくしてほしいと願うなら、お前がそうしなければならない、そう神は言われるでしょう。イエス様の教えと行動は神の視点、復活の視点をもって見れば見るほど、私はできない、絶対できないと言い張る頑な心を柔和な心に変えてくれるはずです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1016日の日課から

「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」 (詩篇141節)

「これが自然な状態の人間とその理性の言い草だ。それらは、目で見ること耳で聞くこと感覚で感じることを超えることができない。見たり聞いたり感じることができないと、すぐ次のように言って神を否定してしまう。『ここには神はいない、何かいるとしたらそれは悪魔だろう。』 これが高等教育機関が照らし出す光である。本当は、それらは人間を創造主の神のもとに導くことをしなければならないのに、地獄の底に沈めてしまうことをするのだ。人間の自然な状態の光と神の恵みの光は決して一つにはなれない。

自然な状態の人間は見て聞いて感じてわかろうとし、信じる前に確信を得ようとする。ところが、神の恵みは見て聞いて感じる前に信じるように導く。それゆえ、自然な状態は自分の光が届く範囲から出て行くことができない。これに対して神の恵みは暗闇の中に導いていく。しかし、神の御言葉の後について来なさいと言って導いてくれるので、周りがどう不安を掻き立てるものに見えようがそんなことにお構いなく、大丈夫だという気持ちで導きについて行けるのである。このように神の恵みは御言葉と固く結ばれ、それなしにはあり得ない。自然な状態がそれを偽りだと言っても、そうなのだ。まさに信仰が信仰たるゆえんは、神の御言葉にのみしがみつくことにおいてである。目には見えなくとも御言葉が約束しているものならばしがみつく、それが信仰である。しかしながら、同時に信仰は御言葉を台無しにしようとするものにも多く直面する。それらは、御言葉の約束が無効で空虚だと思わせようとするのだ。

人間の自然な状態が愚かなものと呼んで避けようとするものを信仰は正しい道と呼ぶ。信仰は、自然な状態が自分を賢いものと思うなら勝手に思わせ、その目に愚か者に映るなら喜んでそれで構わないとし、それが踏み込めないところに堂々と入っていく。そのようにして信仰はキリストのもとに到達して彼を見いだすのだ。」(以上ルターの説き明かし)

これぞ、ルターの「御言葉の神学」!

 

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スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回は2025年10月29日(水)10時~13時に開催します。

フィンランド風の刺繍を作ってみませんか。

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次の手芸クラブは、前回に続いて刺繡はフィンランド風の刺繡をします。

刺繡はフィンランドでは何世紀にもわたって親しまれている手芸の一つです。今でも多くの人気があります。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。

今度もクロステージのテクニックを使います。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

参加費: 1000円

shugeikurabu手芸クラブではその他にも自分の好きな手芸を行っても宜しいです。

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み  moc.l1764872258iamg@1764872258arumi1764872258hsoy.1764872258iviap1764872258
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

shugeikurabu

 

歳時記

金木犀(Kin mokusei)

<また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 エフィソ5:2>

春の駿河台匂いと秋の金木犀とは何れ劣らず馥郁たる香りを楽しませてくれます。教会の行き帰りの途中に大きな二本の金木犀の木があります、過日その前を通りましたら金色の花が零れんばかりに咲いていました。車を停めてもらい窓を開けると金木犀の香りが車内いっぱいに広がりました。

(裏山の 径(みち)をのぼりて 木犀の 香を嗅ぐころぞ 秋はれわたる― 斎藤茂吉)

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2025年10月26日(日)聖霊降臨後第20主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

 2025年10月26日

福音ルーテル・スオミ・キリスト教会礼拝説教

ルカによる福音書18章9〜14節

「神様、罪人のわたしを憐れんでください

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1、「はじめに」

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  今日の箇所の前のところでイエス様は、父なる神様は私たちの祈りを必ず聞いて下さるお方であるのだから、私達はいつでも祈るべきであり、失望してはらないと教えています。そこでイエス様は不正な裁判官の例えを用いて、そのような不正な裁判官であっても、その裁判官にどこまでもしつこく頼むならば、裁判官はその重い腰を上げて裁判をするだろう。不正な裁判官であってもそうであるなら、まして、私達を愛して下さり、子として扱って下さる神様は私達の声を、願いを、祈りを聞いて下さらないわけがあろうかと教えたのでした。その神様への「祈り

についてのメッセージが今日のところでも続いていきます。イエス様は二人の人のことを例に取り上げて、祈りについて、そしてそこにある信仰について教え始めるのです。

2、「自分を正しいと自惚れる人々」

  まず、このお話は、9節にある通り、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。「自分は正しい、自分は間違いがない、悪い所は何もない」と言う人がイエス様のまわりにいた。そしてその人々は、他の人、つまり、彼らから見て、周りの正しくない人、間違っている人を見下しているのを、イエス様は見たり、その人の声を聞いたりしていたのでした。確かに15章の有名な放蕩息子の譬えを話した時にも、イエス様は罪人と呼ばれる人達と食事をしている時でした。その時、周りのユダヤ人たちは、それを見てそのようなイエス様を蔑んだたとありました。さらに16章でも、イエス様がそのような罪深い小さな人々こそを愛するように教える中で、周りの金持ちなどは、それを嘲笑ったともありました。そのように自分たちこそ正しいと自認して、そうでない人を見下す人々が、絶えずイエスのまわりにいた、あるいは社会の中には当たり前のようにいたのでしょう。そんな彼らにイエス様はある二人の人の話をするのです。10節からですが、

2、「祈るために神殿に上る二人」

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

 二人の人は祈るために神殿に上って来ました。二人とも祈るためにやって来たのです。一人はファリサイ派の人。つまりそれは旧約聖書を幼い時から非常に良く勉強していて、聖書の律法を厳しく守っている人でした。そしてユダヤ社会では地位が高く、世間からは立派な人達と見られている人達でもありました。他方、もう一人は、徴税人です。徴税人たちは、不正を働いて富を得るものとして、罪人として嫌われていました。彼らはユダヤ人でしたが、外国からの支配者であるローマの皇帝のために税金を集めている人達でした。ユダヤ人たちはローマに支配されていることを良く思っていませんでしたから、「嫌なローマのために税金を集めている人

とまず見られるのです。しかし、それだけで罪人と呼ばれていた訳ではありません。それだけでなく、さらに彼らは、本来集める額よりも多く集めて、その多く集めた分を自分の懐にいれていることをみんな知っていたのでした。ですから、罪人と呼ばれて、蔑まれ、嫌われていたのです。 ユダヤ人たちはそのような罪人である徴税人と交わることを忌み嫌いました。

  このファリサイ派の人と徴税人の二人が祈りにやってきました。

A、「ファリサイ派の人の祈り」

ファリサイ派の人はこう祈ります。11節ですが

「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」

  彼は、まさに「自分は正しい」と思っています。そして「自分はこんなに、これだけのことをしている」「神の律法をこんなに守っている」と、自らと自分の行いを誇っているでしょう。しかし彼は他の人々や、なによりその隣の徴税人と「比べて」祈ってます。そして「この彼のような罪を自分は犯していない」「だから正しい」というアピールです。そのように彼の正しさの基準はその徴税人、人との比較にあることがわかります。もちろん神様の律法もよく知っていたでしょう。しかし律法云々よりも、彼は「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。これは新改訳聖書ですと、「ことのほか、この取税人のようではないことを感謝します」と強調の言葉で述べられています。

 彼は神に祈っていながら、大事なことを見落としているのです。それは何でしょうか?それは彼は「人の前」のことは見ていても、「神の前」にあっての自分は見えていないということです。彼はどこまでも「人との比較」のことを言っています。「人と比べてどうであるか。人とくらべて正しい、悪くない」と。ですから、断食しているとか、献金しているとかも、それは人とくらべてこれだけしているということを言っているのです。それは神の前ではなく、どこまでも人の前でのことに過ぎないでしょう。ですから、彼は、神に祈っているようで、実は神様に祈っていません。神様に向いているようで、神様に向いていません。人と比べて自分を誇ることだけしか向いていないといえます。むしろ自分を誇るために、徴税人を利用し、神さえも利用しているとも言えます。そして「神の前」ということはまったく、彼の心にはありません。むしろ、もし私たちが「神の前

にあるなら、あるいは神の前の自分を知るなら、私達は誰一人何も誇れるものはないのです。だれと何を比べようとも、どんなに人の前で立派な振る舞いし社会の貢献ができ一人当たりも良く世間に評価されていたとしてもです、全ての人は、誰一人漏れることなく、皆神の前には罪深い一人一人だからです。本来、祈りのための神殿は、その罪のための全焼のいけにえをささげに来る礼拝の場所であり、「神の前にあって

、罪を告白する場所でもあったはずでした。ですから、彼はそのような神殿とか礼拝とか、祈りさえも、まさに自分を誇るために利用しているに過ぎないのでした。なにより「神の前」ということがすっぽり抜けてしまっているのです。

  この「神の前」ということが抜けてしまう時に、信仰も、祈りも、どこまでも「人の前」になってしまいます。神に聞いてらうのではなく、人に見せるため、聞いてもらうため、人に評価されるためになってしまいます。そしてやはり「人と比べて」の信仰や祈りにもなってしまうでしょう。人はこの「人と比べる」ということで安心を求めます。そしてそれは一瞬は安心するのかもしれません。けれども、神の前」を忘れて、人と比べることによって得られる安心は、不安定な安心であり、長続きしません。そしてやっぱり不安にしかなりません。それ不安定さと不安の結果として、このパリサイ人のように、隣人を、裁いたり、批判したり、蔑んだりになってしまっているのがわかるのではないでしょうか。

B、「徴税人の祈り」

  しかし他方、徴税人はどうでしょうか?13節

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」

 目を天にも向けない。そして自分の胸をたたきます。胸の痛みです。それは肉体や内臓の痛みではありません。それは「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい」と。罪ゆえの心の痛みでした。聖書には、罪ゆえの痛みを「心を刺し通される」とか、「心が砕かれる」というような表現がありますが、罪は、心に、何かが刺さるような強い痛みを起こすものです。徴税人は悪いことをしてしまいました。しかし彼は神の前にあって神の前に立つ事ができないのです。見上げることができません。しかし彼は「神の前」にあることを何よりも意識して、知っています。そしてその時、何より、彼はその神の前にあって、自分の罪深さしか見えて来なかったのでした。その痛みと恐れと告白なのです。憐れまれるに値しないような自分しか見えません。絶望的な自分です。しかし彼は、その罪の告白に、この罪人をどうか憐れんで下さいとだけ祈るのでした。いやそう祈ることしかできなかったのでした。

 こんな二人、こんな二人の祈りでした。

3、「義とされて家に帰ったのは」

  そんな二人について話しイエス様はこう続けます。14節ですが。

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」

  イエス様はいいます。この徴税人こそ義とされた。ファリサイ派ではないと。ファリサイ派の祈りではなく、この徴税人の祈り、告白こそ、神に受け入れられた。いや、義と認められた。そういいます。正しいとされたというのです。私達人間や、社会の目から見るなら、ファリサイ派の人の方が、社会的にも評価されるのではないでしょうか。人は誰でも、これだけのことをしましたとアピールして、自分を良く見えるように装います。そして世もそれを求めます。それを評価します。人は心の中が見えません。だから人は心を隠し、外面的に自分は正しいとアピールするのです。時にはこのファリサイ派の人のように自画自賛さえします。残念ながら多くの場合、現代でもどの国でも偉い人や地位のある人の方がそのようなことが見られます。政治家は特にそうです。それは宗教家でさえも、牧師にさえも見られることです。当時にユダヤ社会中でもそのようないい人、立派な人、正しい人、信頼できる人は、このファリサイ派の人の方だと、見ていたのです。大体の社会の人の評価はそうかもしれません。しかし、イエス様は、神の視点は全く逆です。義と認められて家に帰ったのは、「ファリサイ派の人ではありません」と、わざわざ言っています。徴税人が義と認められて家に帰ったとイエス様はいいます。なぜでしょう。 「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」といいます。しかしそれは何より、「神の前にあって」ということです。人の前に何をしたか、何ができるかは、神の前にあって、あるいは何より、ここでは「義と認められるために」、つまり「救いのために」は、全く重要なことではないというのです。行いを見るなら、パリサイ人のほうが言うまでもなく立派であり、取税人のしてきたことは、罪です。しかしどんなに人の前で立派に振る舞うことができ、社会に貢献でき周りに評価され尊敬されても、神の前にあっては、その自分の行いを誇って、自分の罪が見えないことは、救いのために何の役にも立たないのです。それどころか高ぶりの罪とさえ聖書は見ます。神の前では、ファリサイ派の人のようであってはならない、むしろ神の前に、自分の罪を認めることこそが、神様はなによりも求めておられる。そして外側を飾り、装うのではない、人と比べるのでもない。むしろその罪を認め、苦しむ心、神にのみ憐んでくださいと、ただすがる心を神様は決して責めるのでも、裁くのでも、更に苦しめ、大きな罰を加えられると言うのでも決してない。むしろ、神様は、それこそを義と認めて下さる。むしろその罪を赦し、正しい者として、再び立たせ、家へ、社会へと送り出してくださる。遣わしてくださる。そのような神様の心を、イエス様は私達に伝えているのです。

4、「砕かれた悔いた心を神は侮らない」

  聖書は一貫してその神様の心を私達に伝えています。詩篇51篇18〜19節にはこうあります。

「もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

これは新改訳聖書ではこうあります。

「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」

  と。神の前に、砕かれた悔いた心こそ、神へのささげものとして喜ばれるとダビデは歌っています。イエス様は、マタイ6章のところで、祈りにおいても、人に見られるような祈りではなく、やはり「隠れたところにおられるあなたの父に」と、人の前ではなく、「神の前」ということをイエス様は教えて下さっています。さらにマタイ7章では、隣人に対しても、兄弟の目の中のちりに目を付けるが、自分の目の中の梁に気がつかないものを、イエス様は偽善者と言っています。そして、なにより「自分の目の梁を取り除くように」と教えました。やはりパリサイ人のような「人の前」で人と比べ自分を誇り隣人を裁くのではなく、この取税人のように「神の前」に自分の罪を認める悔いた心をイエス様は教えているのです。そのような自分の目の梁は自分では取り除くことはできません。しかしその梁はこのキリストの十字架のゆえにこそ完全に取り除かれます。罪はキリストの十字架のゆえにこそ赦され、罪人が義と認められるのです。事実イエス様自身は、そのような人の前だけの立派な人を招くためではなくて、神の前に罪に痛み苦しみ、悔いる者を招くためと言っています。ルカ5章31−32節

「「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」(ルカ5:31〜32)

5、「神の前にあって真に平安に立てるように」

 私達はみな「神の前

にあるものです。アダムとエバは堕落した時に、神の前から隠れ、神の声を避けようとしましたが、彼らがそうであったように私たちは誰も神の前を避けることも隠れることもできません。その「神の前

にあって、私達はみな、この取税人のような罪人です。このファリサイ派の人も同じ罪人です。しかし神様はその罪人を裁くためにイエス様を送ったのではありません。救い主として送りました。罪人を招いて、一緒に食事をし、愛を表し、悔い改めさせるためにです。その神の前にあって、私達は自分を誇ることは空しいことです。人と比べて安心することも、結局は意味のないことです。私達は、神の前にあって、何より、そのままの罪深い自分を告白して、「神様、この私を、憐れんで下さい」と、神様に頼り、求める声を、神様はなにより喜んで下さり、受け入れて下さいます。そのような私たちをも罪を赦し義と認めて下さいます。ですから、今日もイエス様は宣言してください。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。今日も神様は私たちをこの福音の約束と十字架と復活における実現で再び新しく立たせて、平安のうちに私達を家族へ、社会へと、新たにつかわしてくださるのです。ぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン