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2026年3月8日(日)10時半 四旬節第三主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年3月8日 四旬節第三主日

出エジプト記17章1-7節、ローマ5章1-11節、ヨハネ4章5ー42節

説教題 「聖霊は心の中で湧き出る泉の如く」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られる話の一つです。イエス様と女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われます。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の中に泉が湧き出てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何のたとえでしょうか?

本日の個所にはもう一つたとえがあります。刈り入れをする人と種をまく人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて麦畑が黄金色なのを見なさい、と言いました。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、労苦を分かち合うなどと言います。

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」にたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょうか?イエス様のたとえの教えは、字面を追って一瞬わかったような感じにはなりますが、では、それらは何を指していますかと聞かれたら、はた、と困ってしまうことが多いです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すか明らかにします。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなります。

2.刈り入れをする人、種を播く人、他の者たちの労苦

まず、本日の出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行はユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる地域でした。それが、紀元前8世紀に東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連行され、逆に東から異民族がサマリア地方に強制移住させられて来ました。それで同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、サマリア人の女性が言うようにエルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して交流を避けていたのです。そのことはサマリア人の女性の発言からもよく伺えます。

イエス様一行はサマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統では(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

さて、弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのようにやってきたのです。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は驚いて、なぜサマリア人を忌み嫌うユダヤ人が自分に水を求めるのか、と聞き返します。そこから二人の対話が始まります。やりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来ると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水と考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去りました。人目を避ける境遇にあることを忘れてしまいました。それほど人々に知らせないではいられなかったのです。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに弟子たちが食べ物を買って戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注目します。イエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。刈り入れまで4カ月あると言っておきながら、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

イエス様が目を上げて見よと言ったのは実は、畑のことではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言いました。そこで今いる場所よりも高い所にあるシカルの町を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たのです。これは、将来起こることを先取りしています。つまり、イエス様が天に上げられた後で使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出ることです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記録された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ実にたとえられているのです。

イエス様は、自分の食べ物とは神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらには死から復活することで死と罪を滅ぼして人間を罪の支配下から解放することを意味します。この使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように自分にとって大事なことなのだとイエス様は言うのです。

それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで「別の者たちの労苦」が出てきます。「別の者たち」と複数形になっています。つまり労苦とは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いを成し遂げることを意味します。父とみ子の労苦です。それを目撃した弟子たちは、迫害にも屈せず命がけで証言し記録に残して伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。こうして救いを受け取った人たちは豊かに実る実になり、救いを伝えた弟子たちは実を集め刈り取る者であり、救いは父と子の労苦なのです。

3.生きた水 聖霊

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと聞くと、水が動物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えて次に到来する世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」です。

この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉になって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。そもそも泉とは、地下水が地表に湧き出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まると池になりますが、それは泉ではありません。掘らないでも自然のまま地下から水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、溢れ出る水は小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を飲むと、そのような水が絶えず湧き出る泉が飲んだ人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。でも、具体的にはどういうことでしょうか?イエス様の与える水が飲んだ人の中でこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

この問いの答えがヨハネ7章にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。」
(37~39節)

ここで言われている”霊”とは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。これが神の栄光を受けることです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられる出来事があり、それに続いて聖霊がこの世に降るという出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。このようにイエス様が与える水とは実に、十字架と復活の出来事の後でこの世に下って来る聖霊のことなのです。

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が湧き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように「他人のものを妬んだり欲したりしてはいけない」と十戒の中で命じられて、それが神の意思だとわかっているのに、そうしてしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまう。心の奥底まで100%神の意思に沿えることが出来ない自分に気づかされてしまうと。それではどうしたらよいのか?心の奥底まで100%沿えるようにしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていない自分に気づいてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか?

まさにここで洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来るのです。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところを示してくれます。ゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様が向けられるべきところです。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前はそのことを信じたからイエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

こうして聖霊の働きで心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを思い起こし、神の意思に沿うように生きようと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうと。このようにキリスト信仰者は、聖霊のおかげで、絶えず神との結びつきを保つことができ、順境にあっても逆境にあっても神から常に同じ守りと良い導きを得てこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、神との結びつきを持って去ることができ、復活の日が来ると復活させられて神のみ許に永遠に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神と戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。だから、罪の赦しは恵みなのです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立っていられるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。さらに、神との平和な関係をお恵みとして頂いている限り、私たちに降りかかる試練は誇りに思うことができるとまで言います(3節)。どうしてそこまで言えるのか?理由は、一度神との平和な関係に入ったら、試練は忍耐をもたらすものになり、忍耐は鍛えられた心をもたらし、鍛えられた心は希望をもたらすようになるからだ、と言います(3~4節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化してしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛は一寸も変わらないと示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるのです。このことをもっと自覚しましょう。人によっては、究極の希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、と言う人がいるかもしれません。しかし、もし希望がこの世に関するものだけだったら、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望があって、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注1)Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ5章2節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5章1~11節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。

「百万人の福音」吉村牧師の論考が掲載されています。

ちょっと気の早い話ですが..。
今は受難節、聖週金曜日はまだです、復活祭はまだまだです、主の昇天日に至ってはまだ
まだのまだ..。なのに、2月に発売された「百万人の福音」はもう主の復活から昇天まで
を特集しています。その中で気の早いスオミ教会の牧師もイエス様の昇天について何か書
いています。今年の昇天日は5月14日ですが、それまでに5~6月号が出てしまうので、ご
興味ある方は今のうちにお求め下さい(読むのは後の方が宜しいかと)。フィンランドの
ルター派の中の保守的なグループにいるとこういう考え方、教え方をするという一例です

受難節の皆様の歩みの上に父なるみ神から恵みと平安とが豊かにありますように。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

3月の料理クラブは14日(土)13時から開催します。

季節は春になりました。フィンランド人も春になると多くの人たちが自然の中にに出かけます。今回の料理クラブのメニューは、ハイキングのお伴としても人気のあるLihapiirakka(ひき肉パン)です。パンの中身はスパイスで味付けした炒めひき肉とチーズ。ケチャップやピクルスを添えても美味しく味わえます。パンは油で揚げるのが多いですが、料理クラブではオーブンで焼き上げます。フィンランドの喫茶店のショーケースでもよく見かけるLihapiirakkaを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1775224092iamg@1775224092arumi1775224092hsoy.1775224092iviap1775224092  まで。

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その2

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」27日の日課から)

『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ57節)

(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel & Fridrichsen)を見ると「投げつける、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそう訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)

『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神に投げつけてしまうのだ。投げつける時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」

これこそ神の御心に適う対処法である。神が我々にしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって我々のすることではない。

キリスト信仰者はこのように他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を投げつけてもよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱きかかえて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめて、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む(以上ルターの説き明かし)。』(週報コラム202568日に掲載したものを少し修正)

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歳時記

木瓜(boke)

<それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。 使徒言行録14:17>

季節の花の木瓜を探していました、毎年咲いている場所を知っていましたので何時もの散歩コースを少し変えてみました。しかし、何れも蕾だけで開花には至っていませんでした諦めて帰路のコースを少し変えてみましたら家のすぐ近くに満開の木瓜が咲いていました。どうも、最近は灯台下暗しが多いようです。木瓜は平安時代に中国から来た外来種です、その朱色は古来から日本人に好まれてきました、木瓜の花を見ると如何にも春が来たなと思っています。

手芸クラブの報告2026年2月25日

2月の手芸クラブは25日に開催しました。週の初めは春一番が吹きましたが、この日の朝は雨が降り肌寒い一日となりました。

今、春が近づく季節ですが、今回は1月に続いて足元を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」を編みました。今回はまた「ストール」や「スマホケース」を編み続けられる方々もいらっしゃいました。このようにスオミ教会の手芸クラブではその日のテーマだけでなく、ご自分の編みたいものを編んでも大丈夫なのです。

はじめにお家で頑張って編んできたものをみんなで見せ合います。「きれいな色ね」、「模様が素敵」、「暖かそう」、「柔らかい」などとお互いにほめたたえます。それからみんなで編み始めます。皆さんとても上手でおしゃべりしながらどんどん編んでいきます。レッグウォーマーやストールは完成まで時間がかがるので、お家や次の手芸クラブでも続きをすることができます。

春に向かって暖かくなっていきますが、まだ寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたレッグウォーマーやストールが必要になるかもしれません。ご自分で編まれたものだから特に暖かさを身近に感じるのではないでしょうか。

今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。

編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れます。先週フィンランドはラスキアイスプッラの時期だったので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後でフィンランドにある手工芸センターやそのセンターのスローガン「幸せを呼ぶ手芸の一時」についてと、聖書が教える幸せについてお話を聞きました。今回も楽しい歓談のひと時でした。

次回の手芸クラブは3月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2026年2月

今日は1月に始めた編み物の続きをしました。編み物は手芸クラブではこれまで何回もテーマにしました。フィンランドでは編み物は最も人気のある手芸の一つで、年配の人たちだけではなく若者も楽しんで編んでいます。以前にもお話したようにフィンランドでは毎年編み物の競争も行われ、多くの人たちが参加します。また靴下のデザインを作成して編むコンテストも開催さえれます。このような行事はフィンランド全国にある手芸工芸センターを通して開催されます。センターの働きの目的は手芸工芸の伝統を大切に守り続けることです。センターでは様々な講座や行事が開かれ、手芸のアドバイスを行ったりします。また、センターでは織機を借りることも出来るので、織物を織ることも出来ます。センターは毎年、全国的な工芸のテーマも選びます。今年のテーマは「パッチワーク」です。

手芸工芸センターでは「幸せを呼ぶ手芸の一時」というスローガンも決めました。このスローガンにはどのような意味があるのでしょうか。それは、手芸が私たちの日常生活の中で大切な役割を果たし、手作りの作品には特別な価値があることを表しています。手芸は多くの人たちに愛されている趣味の一つです。新しい手芸のテクニックが出来るようになったり、美しい作品が完成したりすると喜びを感じます。また、手芸をしている時間は日常生活から少し離れることが出きて、良いリフレッシュにもなります。それでこのスローガンのように手芸は幸せを呼ぶ一時と言えるのでしょう。

皆さんにとって幸せとはどのようなものしょうか。幸せな人とはどんな人でしょうか。お金持ちで大きな家に住み、家の自動車が何台もある人のことでしょうか。職場で高い地位にある人でしょうか。権力を持っている人でしょうか。

私たちは皆幸せを願って生きています。私たちは幸せを自分自身の中から見つけることができるでしょうか。確かに、幸せは日々の生活のさまざまな出来事を通して感じることができます。しかし、それは深いものでしょうか?長く続くものでしょうか。

聖書にも幸せにについて書かれています。旧約聖書の詩編に次のようにあります。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。

「神様のそばにいることは私の幸せです」とは天と地と人間を作られた神様と共に生きることを意味しています。それは一時的に幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になれば、生活の中で様々なことが起こってもその土台は揺らぐことがありません。では、私たちはどのようにして神様と共に生きることができるでのしょうか。聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様はお祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちは神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源になります。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。神様が私たちを見捨てるということはないからです。

フィンランドのある聖歌に幸せについて歌うものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。聖歌の言葉は簡単ですが、意味は深いです。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのぞいでくださった、それでボクは幸せさ。」

私たちが天の神様と共に生きることができるのは、神様の一人子であるイエス様の十字架の御業のおかげです。私たち人間は聖歌に歌われているように弱さや罪を持っています。そのために私たちは神様から離れてしまうようになります。しかし、私たちを愛する天の神様はイエス様を通して神さまのもとへ帰る道を備えて下さいました。この救いの道は世界の全ての人に与えられています。私たちがイエス様がなさったことを全て信じて、この救いの道を歩むようになれば、それが私たちの幸せの源となるのです。

今、この世界には必要なものが十分に与えられない人たちが大勢います。しかし、そのような人たちも、先ほどの聖歌のように喜びを持って歌うことができます。イエス様の十字架の御業を素直に信じることが出来れば、歌の中で歌われる幸せを得られます。

手芸の時間も私たちに小さな幸せを与えてくれます。しかし、日々の生活の中で「神様がそばにいることは私の幸せ」ということを覚えて、それが私たちの幸せの源になりますように。

牧師の週報コラム

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」2月8日の日課から)
キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。
「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇
118篇1節)
『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは
神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が
本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため
の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば
燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の
中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句
は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈
しみは永遠にあるのだから。」
この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと
誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ
と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます
ように。」
これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し
くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく
て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである
。』(以上ルターの説き明かし)
このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき
れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな
い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように
なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)

2026年3月1日(日)10時半 四旬節(受難節)第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年3月1日 

創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節

説教題 「キリスト信仰者の出身地は実は天国だったのだ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられることが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救って神の国に迎え入れられるようにするということ。これらは以前にもお教えしましたが、今日は新しいことも入れて述べていきたく思います。

 その前に、ファリサイ派というグループについて。彼らは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわった人たちでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべしと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々の注目を集めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本当の意図はそこにあるのだと、神のひとり子として自分の父の意図を人間に知らせたのです。

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば神に認められるのだ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、彼らの中には、このやり方でいいのだろうか、神の国つまり天国に迎え入れてもらえるのだろうかと疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような疑問を持った人だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。

2.「新たに生まれる」とは「天国から生まれる」こと

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。ニコデモにイエス様はいきなり言われます。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 「新たに生まれる」ということについて注意が必要です。「新たに」の元にあるギリシャ語はアノーテン、この基本的な意味は「上から」、「天国から」という意味です。それでここは、「上から生まれる」、「天国から生まれる」、つまり「天国を出身地として生まれる」という意味にもなるのです。さて、「新たに生まれる」でしょうか?「天国から生まれる」でしょうか?英語訳聖書NIVとスウェーデン語訳とルタードイツ語訳は「新たに生まれる」です。フィンランド語訳は「新たに、そして上から生まれる」と両方をあてています。

 私はこう考えます。イエス様はこの後で、君たちは地上のことを教えても信じないのだから、天国のことを教えても信じるわけがない、と言っています。イエス様は天国の視点で述べている、なので、彼は「天国から生まれる」という意味で言っている。しかし、ニコデモは、どうやってもう一度母親の胎内に入って生れることができようか、と言っているので、彼は「新たに生まれる」と解してしまっている。それで話がかみ合っていないのです。(ここで一つ厄介なことは、この出来事はギリシャ語で書かれています。それでギリシャ語を元にして二人のやり取りを理解しようとしているのですが、彼らが実際に会話した言葉はアラム語です。どんな言葉を使ったかはわかりません。手元にあるのはギリシャ語の文章なのでそれを基にするしかないのです。)

 さて、イエス様は「天国から生まれる」ことはどういうことかをはっきりと教えます。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。

 イエス様が教える「天国から生まれること」とは実に「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきた時はまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた肉的な存在が、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが「天国から生まれること」であり、それが「新しく生まれる」ことになるのです。

3.キリスト信仰者は天国を出発点として天国に帰る

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 なにかとても意味深なことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。風も空気も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。強さによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架や復活の出来事は起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれることもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。

 困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上の事柄について正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天上の事柄を教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうなることで神の国に迎え入れらえるようになること、これらのことが、どのようにして起こるかについて明らかにします。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、「人の子」はある事を成し遂げた後でまた天に戻るということを意味しているのです。そして、その成し遂げる事というのが次に来ます。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で蛇を作って旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じ掲げることと人を救うことが自分を通しても起こると言うのです。どのようにして起こるのでしょうか?

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることでした。イエス様はなぜ十字架にかけられたのか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持って生きられるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 それで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて万物の造り主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。天国と神の国は同じことです。洗礼を受けて聖霊を注がれて「天国から生まれた」たキリスト信仰者は天国を出身地として生まれた者です。それで、信仰者にとってこの世の人生は実に、天国という生まれ故郷に帰る道を神との結びつきを持って進むことに他ならないのです。

4.勧めと励まし

 洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがわかりました。それでは、それはどうイエス様の風のたとえと結びつくでしょうか?前にもお教えしましたが、聖書の元の言葉、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。このたとえでイエス様は両方をひっかけているのです。彼が教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまると言うのです。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちもあるし声もするから実在するのはわかります。しかし、信仰者は聖霊と同じように肉的な人には見えないわからない独特な意思に従って人生を歩みます。だから、肉的な人から見たら、キリスト信仰者は風と同じように実在するのはわかるが、その行動様式、立ち振る舞いを起こしている原動力はわからないのです。それでは、キリスト信仰者の原動力は何か?私は、それは内なる霊的な戦いと考えます。

 キリスト信仰者の内なる霊的な戦いとは、キリスト信仰者は天国から生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めたように、「他人のものを妬んだり欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんか別にどうでもいい、などと言ったら、イエス様の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 まさにここが聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲になったおかげで、あの方を真の救い主と信じるあなたの信仰を神は義として下さるのです。それで神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたからではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はご自分のひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先回りして赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。それで神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。ところが、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そして、この繰り返しが終わる日が来ます。天と地が新しく再創造される復活の日です。その日、神の御前に立たされた時、繰り返しをしたことは実は罪に与しない生き方、罪に反抗する生き方を貫いてきたことの証しとして認めてもらえるのです。この時、天国を出身地として生まれたキリスト信仰者は天国に帰り着いたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

一枚の絵

先日、I兄の葬儀に参列して思う事多々ありました。その中に一枚の絵を思い浮かべていました、それはA.ベックリンの描いた「死の島」という絵で亡くなったばかりの死者が連れて行かれる島です。死後についてはM.ルターによると誰も知らない所で最後の審判が来るまで寝かされているそうです、その言葉とこの絵がダブって見えました。死後に行き着く所がこのような何処か幻想的な甘美な雰囲気のある島ならば、それも良いなと思いながらI兄のお棺を見つめていました

2026年2月22日(日)四旬節第一主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイによる福音書4章1−11節

「荒野の歩み。み言葉と御霊に導かれて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日は、このイエス様が荒野で受けられた誘惑の記録からのメッセージに共に耳を傾けていきましょう。まず、このイエス様が受けられた誘惑ですが、確かに悪魔からの誘惑とは言われます。その通りではあるのですが、しかし1節には新共同訳ですと「霊」に導かれとあります。これは新改訳聖書ですとはっきり「御霊」とあります。ESVバイブルでも大文字の頭文字で「Spirit」とありますので、霊は「聖霊」のことを指しています。つまりこの「荒野の誘惑」は三位一体の主なる神である「聖霊」によって導かれたものでした。ですからこの誘惑は悪魔の悪戯な思いだけでただ突然湧き出たものではありません。主が荒野へ導き、そして知っていたであろう悪魔がすることを許可し、そのままさせたということがわかります。そしてそうさせたことには、この誘惑を受けること、しかし御子がそれに勝利すること、どのように勝利するか、そしてそれら全てのことがこのように聖書を通して世に、時代を超えて、今日もこの朝に説教され伝えられ証されることには、神の私たちへの御心が現されているということに他なりません。その究極の御心は、紛れもなく、世の罪を負うために人となられた御子は、人間がその罪ゆえに陥る根本的で強力な三つの誘惑さえも私たちのために経験され負われるということであり、そしてそれに対し御子キリストこそ必ず勝利されることを示しているでしょう。そしてその勝利は、私たちの核心である、この十字架と復活によるのですから、キリストの十字架と復活こそ罪と悪魔に対する私たちのための勝利なのだという全人類への救いの約束のメーセージが込められています。しかし、このメッセージはまだキリストを受け入れない全人類に対してはもちろんですが、同時に、いやそれ以上に、すでに罪の縄目から解放され信仰が与えられ信仰の道を歩んでいるクリスチャンと教会に語られているものでもあります。それは「荒野に導かれ歩むキリストの教会はまさに荒野の誘惑と試練を通して、そして、そこにおられるキリストにあって勝利がある」という神の御心です。

2、「信仰の道は、荒野の道、試練の道」

 まず第一に注目したいのは、この誘惑の直前の3章16−17節をご覧ください。そこには何が書かれているでしょうか?

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 そこにはイエス様が洗礼を受けられたことが書かれているでしょう。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の父の祝福の声もあります。これらのことの直後なのです。イエス様は「洗礼を受けられて」そのすぐ後にこの荒野の誘惑に導かれています。そして1、2節こう始まっています。

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

 荒野と40という言葉は旧約のある出来事と重ね合わさります。それは、イスラエルの荒野の40年です。出エジプトはイスラエルがエジプトの奴隷の縄目から神様の恵みとみ言葉の力によって解放されたまさに救いの出来事でした。しかしその救いの出来事である出エジプトの後の出来事が荒野の40年です。つまり救われた民、まさに神の恵みを覚えて歩む信仰の生涯が始まった「後」の40年でした。しかしまさにイスラエルが導かれた信仰の歩みが、「荒野の」40年でした。それは大きな試練でした。その道が神はモーセにみ言葉を与え確実に導く道なのですが、空腹など困難の連続に直面します。そしてその度毎に、彼らは恵みと約束を忘れ、疑いが起こり、不平が起こりました。つまり、それは誘惑の40年でもあったのでした。そのことに重ね合わさるのです。このイエス様が聖霊によって導かれる荒野の誘惑は、もちろん全ての人間がその罪深さゆえに受ける誘惑の面もありますが、まさに何より「信仰者の」「教会の」歩みや誘惑を指していると教えられます。それはこの場面でも神の恵みである、洗礼という恵みによって始まります。神はキリストに言われたように、実に洗礼を授けられた私たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださっています。そのように聖霊によって導かれて私たちクリスチャンの信仰生活は始まり、教会は歩み始めます。しかしその御霊が導く信仰の歩みは、誤解しやすのですが、人間が合理的に楽観的に計画し思い描くなんでも上手くいく、思い描いた理想通りになっていき、成功に満ち溢れていく、そんないわば「栄光の神学」の道ではありません。それは救われたイスラエルの民がそうであったように、そしてイエス様が御霊に導かれてこの箇所で示し語りかけるように、聖霊とみ言葉による私たちの信仰の道は、荒野の道のりであり、試練の道であり、誘惑の道である。そのことをまず教えられます。

3、「それは本当か?」

 そこに誘惑する者、サタンがやってきます。そして三つの試みを仕掛けます。この誘惑は実に賢く巧妙であり、人間の罪深さや弱さを刺激します。まさに罪人である人間が陥る代表的な誘惑をもちろん表しているのですが、同時に、義人であり同時に罪人であるクリスチャン、教会が受ける誘惑でもあります。サタンは言います。3節。

「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 イエス様は空腹を覚えています。そこに「石をパンにする」という誘惑です。しかし誘惑する者の意図は「空腹をパンで満たせ」という単純なものではないと言えるでしょう。確かにパンは人間にとって必要な基本的な必要に他なりません。あらゆる物質もまた神の被造物であり神から世に与えられた必要なものです。それは確かなことです。しかしここで誘惑する者は「神の子なら」と誘惑します。それは3章17節の天からの父なる神様の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う父なる神の声のことを取り上げているでしょう。

 誘惑するものは言っているのです。「その「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が本当なら」と。その言葉が本当かどうかを証明してみよと。石をパンに変えその空腹を思いのまま、欲望のまま満たすことによって証明してみなさいと。この「もし〜なら」という神とその言葉に疑いを起こさせる言葉にこそ悪魔の誘惑の本質があるのです。

 教会も「必要」や「不足」ということについて誘惑を受けます。「満たされていない」時も「満たされている」時もどちらも誘惑があります。しかし全ての必要はそれはどこから来るでしょうか?「私たちが働いて得るものだ、努力の対価なんだ。」ーもちろんそうです。しかし教会の必要、クリスチャンの必要は全て、それは物質的な必要やそのような私たちの行う奉仕など働きや努力なども含めて、それらは私たちが搾り出す自分の功績ではなく、全て神様が与えてくださるものに他ならないでしょう。イエス様が山上の説教で言っている通りです。しかし「不足を覚える時」は「満たされていない」「足りない」と言ってしまう。もちろん悪いことではありません。その時、足りなさを覚え、与えてくださる神様に求めるのが私たちの信仰なのですから。だから祈ります。しかしそうではなく「満たされていない」「足りない」ーただそのことに右往左往してしまう。その危機感ばかりに取り憑かれてしまい、互いの裁きあいに終わってしまう。そのようにして神の言葉の真実さを信じること、頼ること、求めること、待ち望むことを忘れてしまう。それは荒野のイスラエルが陥った過ちでした。そして人間は高慢ですから、「満たされている時」も誘惑に陥りますね。同じように、神が与えてくださった全てであるのに、教会の良い結果は人間の功績や教会の誇りにしてしまう、それは現代の成功や繁栄に走る教会が陥っている高慢の過ちです。「自分の教会はこんなに大きい、こんなに成功した、こんなに人が来ている。経済的に潤っている。もっと大きな教会を建てられる。それは自分たちが熱心にやってきたからだ、誰々先生のカリスマのおかげだ、私たちの、あの先生の人柄のおかげだ、等々」ー福音宣教も教会も全て、キリスト中心で、どこまでもキリストのみ言葉と聖霊のみわざで自分たちは用いられているに過ぎないのに、そしてイエス様もルカ17章で「自分たちは不束な僕です」すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言っているのに、自分たちの組織力や人の功績と誇りに変えてしまう。まさにソロモンが陥った誘惑です。パン、物質は必要なものです。必要を覚えること自体は何も悪いことではありません。当然のことです。しかし、そこに誘惑がある。神の言葉、神の祝福、神の恵み、それは本当か、それが本当ならと、自分自身の空腹、足りなさ、あるいは達成した、成功した、満足した、等々の基準、自分中心の基準で神の言葉を「もし」と測ってしまうのなら、疑いも、,自慢高慢も尽きません。悪魔はそこをついています。そして人間は罪深いですから、そうなると自分の願うままに、石をパンに変えてでも空腹を満たそう、あるいは、満たすことができる、あるいは、満たしてきた、と勝手に思い描き期待します。まさにパウロが警告した人間が求める空想話です。まさに空腹なもの、不足を覚えるものには、神のわざへの信頼ではなく人間のわざへ信頼する栄光の神学は最善の方法になります。しかしそこに誘惑があるのです。4節 

4、「神の口から出る一つ一つの言葉」

「イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 教会にとって大事なことはなんでしょうか?罪の世は、確かに必要が思いのままに満たされ自分を誇ることが最高の満足かもしれません。満たされないことに不満を言い右往左往するのもそれも罪の世の現実です。しかし、私たち教会には、クリスチャンには、それ以上の素晴らしい命の道があるでしょう。

「神の口から出る一つ一つの言葉」です。それこそが天地万物を創造し、私たちを生きるものとしました。確かにパンに代表される物質的な必要は大事です。私たちの必要も大事です。しかしそのパンや物質が、あるいは私たちの必要や心配や誇りが、天地万物を創造し、私たちを生きるものとしたのではないでしょう。神の口から出る一つ一つの言葉でしょう。それこそが、必要なものを全て満たします。そのように約束してくださっています。イエス様は弟子達に「明日の心配は無用だ」と神の口から出る一つ一つの言葉を持って約束しています。そしてその神の口から出る一つ一つの言葉が、堕落の時からすでにその罪からの救いを約束しました。また、主は、その自身のみ言葉がその約束の通りに実現するのだと繰り返し、アブラハムを励まし、ダビデを励まし、さらには、預言者を通して試練にある民をも励ましました。そして主はみ言葉をもってその通りに救い主を送るのだと約束し、その言葉の通りに御子イエス様を人として世に与えてくださった、そして十字架に従わせたでしょう。そして私たちの方からではない、その言葉である方が私たちのところにきて、私たちに語りかけてくださったからこそ私たちはイエス様の福音の素晴らしさを知った。その言葉こそ信仰を与えてくださり、その言葉が真実で力であるからこそ洗礼を聖餐を、救いの恵みを今日も与えてくださる。その言葉こそが、荒野の試練の日々であっても、日々生かし、日々罪赦され、日々平安を覚え、今日もここから遣わされていく。教会が覚え立ち返らされるのは、そのことでしょう。

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。

 と。第二、第三の誘惑もじっくり見ていくと非常に沢山のことを教えられるのですが、実は誘惑するものの誘惑は同じ攻め方です。そこでも「もし」と、人間の欲求、ここでは救われたものにさえ、教会にさえ起こる欲求、人間的な必要をさらに求める貪欲さを攻めてきます。第二の誘惑は悪魔もみ言葉を用いて「こう書いてある」というのですが、「もしそうなら」と自分が基準となって自分の欲求の通りにしようとする、み言葉を疑い試す誘惑が実にあからさまです。み言葉を神の言葉としてその通りに信頼し委ねるのではない。あるいは、書かれていないこと、わからないことはそのまま神に託し信頼するのではない。人間中心に自分の側の願望や欲求に合わせて「もしこうなら」とみ言葉を都合の良いように解釈してしまう誘惑、歴史的にも今もそのような誘惑に屈した神学や教えが教会を支配しています。それはサタンの巧妙な誘惑に屈しています。第三の誘惑はどうでしょう。まさに手に取りたい現実、成功や繁栄が目の前にあります。世の繁栄、自分の繁栄、教会の繁栄、しかし神がなす、神が与える、神のみ言葉が実現した栄光でも繁栄でもない、自分達の力や組織力で得ようとする繁栄と成功に神の栄光を見ようとする。地上の栄華への願望です。しかしそれは、まさにみ言葉の前に身を屈め平伏しているのではありません。第三の誘惑に屈してしまっています。

5、「イエスの与える勝利の道」

 イエス様は全て聖書のみ言葉を「こう書いてある」と示すだけです。人間の都合のいい解釈を加えるのではない、神の言葉はその通りですと、神の約束、神がなすこと、神が与えて満たしてくださることに、期待し、信頼、祈り、待ち望む、委ねる。それが荒野の道である信仰の歩みにおいて、イエス様が示してくださっている勝利の道であることを教えてくれているのではないでしょうか?事実、イエス様の十字架の道は、ただパンだけで満足したりさせたりの地上の王国だけの道ではありませんでした。霊の糧として真に魂を満たすために福音を与え罪の赦しと平安を与える「天のいのちの道」であったでしょう。神は十字架にかけられるイエスを御使いの軍勢を送って助けることができます。しかしゲッセマネでイエス様は「御心ならこの杯を取り除けてください。しかしあなたの御心が行われるように」と祈り、神の救いの御心であり計画である十字架に黙ってかけられるでしょう。事実、神もそれを御心とされました。そのようにイエス様は、地上の繁栄と栄華に神の政治的な王国を建てたのではありませんでした。まさにこの十字架にこそ神はご自身の栄光をあらわされたではありませんか。人間の、自分たちの望むようになるところに神がおられ、神の栄光があるのだと見るのは、栄光の神学です。しかしそれは自分たちの栄光を望み、期待し、求め、見ているだけであり、誇っているだけです。まさにサタンの誘惑に屈してです。しかし教会は、このイエス様の十字架のこそ真のいのちのパンがあり、私たちへの御心があり、そして栄光がある、私たちの栄光ではなくキリストに栄光があると信じます。それが私たちの信仰です。それはみ言葉に書いてある通りであり、み言葉の約束が真実でその通りになった、これからもその通りに実現するからこそです。そのキリストとみ言葉に信頼し生きるからこそ、今日も、これからも私たちは、キリストにあって勝ったのです。誘惑に。試練にです。そして、このイエス様の試練の歩みが御霊に導かれ、御霊によって仕えられているように、私たちクリスチャンの歩み、教会の歩みもまた、荒野の試練を通してこそ、そしてそこにおられるキリストにあってこそ、み言葉と聖霊の豊かな働きによって日々聖さにあずからせてられていく、世にあって隣人のために用いられていく、そのように今日もここから遣わされていくのです。イエス様は今日も私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様からイエス様が与えるみ言葉と聖餐を受け取り、イエス様だけが与えることができる特別な平安をいただいて、ここから遣わされて行きましょう。・

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン