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牧師の週報コラム

平穏の時も動揺の時も聖書の御言葉を基として生きる

先日Facebookでフィンランドの知り合いの牧師が「ダニエル書3章16~17節を忘れるな」とだけ記していました。 捕囚の民の若者が、異国の王から金の像を拝め、さもないと炎の炉に投げ込むぞ、と脅された時の若者たちの答えです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

多くのキリスト信仰者は、信仰者として態度を示さなければならなくなった時、自分がこう振る舞うのはキリスト信仰の立場に立っているからだ、とはっきりさせてそう振る舞うべきか、それとも、周りとギクシャクするのは気が進まない、そう振る舞わないのが賢いやり方ではないか、どっちにしようかという場面に立たされます。私の場合、そのような場面に立たされた時はいつもこの聖句が身近にやって来たので賢くならなかったのでした。「そうでなくとも」というのは、神が助けてくれない場合もあると認めています。しかし、そんことは自分が神を信じることと何の関係も影響もないと言っているのです。

私たちの家族に特別支援の子供が生まれた時、最初は本当に情けない位に動揺しました。足元の地盤が砂のように崩れ落ちていく感じでした。しかし、ヨブ記2章10節の御言葉が身近にやって来ました。敬虔な信仰者ヨブにありとあらゆる不幸が襲い掛かり、最後は一人残った妻からも、いつまで無垢を装っているのか、さっさと神を呪って死んだ方がましではないか、とさえ言われてしまいました。ヨブは次のように答えました。「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか。」 以前素通りしていた御言葉でしたが、ヨブ記の終わりにある神とヨブの対話を知る者には全てを打ち砕いて全てを再建する言葉として響いてきたのです。足元に新しい地盤、以前よりも固い地盤が築かれたと思いました。それで、その時「不幸」だと思っていたものが、ただの「大変なもの」に変わっていったのでした。

激しく動揺するような事態に陥った時、聖書のどの御言葉が自分を支えてくれるか。それは、平穏な時に日ごろから聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて吟味することを積み重ねていれば、動揺の時に相応しい御言葉が目の前に飛び込んでくると思います。その時になって慌ててページをめくっても恐らく手遅れではないかと思います。なので、少し怠けていた方はそうならないために聖書を開きましょう。

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは3月9日(土)13時に開催します。

パイナップル・ココナツケーキ

 

料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。

今年もイースターの季節がやってきました!3月の家庭料理クラブは「パイナップル・ココナツケーキ」を作ります。カルダモン風味のしっとりケーキの上にパイナップルをたっぷりのせてイエロー色豊かなイースター・カラーを演出します。フィンランドでは「ココナツのトッピングはケーキの風味を王冠のように高める」と言われるくらいです。本当にその通りであることを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。パイナップル・ココナツケーキ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、
まで。

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月10日に開催しました。週の初めは東京でも大雪でしたが、週末に向けて暖かくなり雪も融け、春の近づきを感じさせました。

今回作るものは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並ぶラスキアイス・プッラです。今回も申し込まれた方が多く、すぐキャンセル待ちの状態になってしまいした。ラスキアイス・プッラは日本でも最近知名度が高まっているフィンランドの代表的なプッラの一つです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、「コーヒー・ブレッド」用のプッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかいマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地が出来上がりました。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。ここで一休み。あちこちから楽しそうな話し合いの声が聞こえていきました。もう少しすると美味しいラスキアイス・プッラが出来ることが皆さん、楽しみのようです。生地はあっという間に大きく膨らみました。

それからラスキアイス・プッラの形作り。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めたら皆さん、上手になってきれいなプッラが次々と鉄板に並べられていきます。それから二回目の発酵です。今回は小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。

ラスキアイス・プッラの中身を準備しているうちにプッラはあっという間に大きく膨らみました。それをオーブンに入れて焼きます。少し経ってオーブンの中を覗いてみると、皆さん嬉しそうな声で「わぁー、また大きく膨らんでいる!」「形がきれいね!」きれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティングをします。

冷めてきたプッラを半分に切り下半分にラズベリーのジャムをのばしてその上にホイップ・クリームをのせます。その上にプッラの上半分をのせてラスキアイス・プッラの出来上がりです!

出来たてのラスキアイス・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきます。

皆さんと一緒に美味しい満ち足りた雰囲気で歓談の時を過ごしました。同じ時にフィンランドの「ラスキアイネンの日」や受難節の期間に開催される「日常の喧噪から離れる」というイベントについて、それからイエス様が教えられた休息の必要性についてのお話も聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月9日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

フィンランドのラスキアイネンの話2024年2月

今日はフィンランド人が大好きなラスキアイス・プッラを作りました。フィンランドでは新年が終わってしばらくするとラスキアイス・プッラがどのお店や喫茶店でも販売されます。ラスキアイス・プッラの販売期間は大体2か月くらい、ラスキアイネンの日までだけです。ラスキアイネンの日が近づいてくると、もちろん多くの家庭でもラスキアイス・プッラを作ります。ラスキアイス・プッラの種類は中身によって二つあります。今日作ったのはジャムと生クリームが中身ですが、アーモンドペーストと生クリームの中身もあります。今年はどっちの方が美味しいかなぁといつも話題になります。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。それで今年のラスキアイネンの日は来週の火曜日となります。

フィンランド人はラスキアイネンの日をどのように過ごすでしょうか?フィンランドではラスキアイネンの頃から太陽が出る明るい時間が少しづつ長くなって晴れる日も多くなります。sori, CC0それで、雪の中をそりですべって「下る」ことをしたり、美味しいラスキアイス・プッラを味わうことが伝統的な過ごし方です。大人も子供も寒い外でそりで滑って、その後で暖かい部屋でラスキアイスプッラと暖かい飲み物を一緒に楽しみます。多くの町ではいろんなイベントもあり、子供たちを馬や馬のそりに乗せたり、スケートをしたり、スキーの競争もしたりします。もちろん、そこでもラスキアイスプッラと暖かい飲み物はつきものです。

ラスキアイネンの日が過ぎると受難節に入ります。この期間フィンランドの教会では「日常の喧騒から離れる」というイベントがあちこちで行われます。これは自然の中にある教会の宿泊施設で行い、だいたい金曜日の夜から日曜日の夕方まであります。参加者は自然の中で散歩したり、部屋で静かに時間を過ごしたり、一緒にお祈りしたり聖書を読んだり讃美歌を歌ったりします。もちろん一緒に食事をします。そこではスマートフォンやパソコンは使いません。参加者は日常の忙しい騒がしい生活から離れて、日常から距離を置いて自分を静かに見つめて、聖書をもとにいろいろ考えたりするので、体を休めるだけでなく魂にとっても良い休息の時になります。私は参加したことはありませんが、このような、何もあくせくする必要がない時間を持つことは心身ともに良いことだと思うので、いつか参加してみたいです。

Marcílio José Soares, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

聖書にも、イエス様が時々、人々から離れて静かな場所に行って祈る場面が沢山あります。マルコの福音書1章35節には次のように書いてあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエス様は起きて、人里離れたところへ行き、そこで祈っておられた。」イエス様が静かな所に行かれたのは天の神さまにお祈りするためでした。そのために静かな場所が必要でした。その後で別の町や村に行って神さまのことを人々に教えに行かれたので、静かな場所でお祈りするのは心の準備にもなったのです。

イエス様はまた、静かな場所で休むことは自分だけでなく弟子たちにも必要と考えました。ある時弟子たちがイエス様の所に戻って来て、自分たちが町々で人々に教えたことを報告しました。多くの人たちが神さまについて興味を持って信じるようになったので、弟子たちはイエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちが集まってきました。務めは沢山あっても、イエス様は弟子たちと一緒に休んだのです。イエス様は弟子たちに肉体的な休みが必要であることをよく知っておられたのです。私たちも同じように休みが重要です。イエス様がその例を示しています。

私たち人間は肉体的な休みのほかに魂の休みも必要です。魂の休みはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えられました「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節です。イエス様はだれでも自分のもとに来るように招いておられます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様は彼のもとに行く人に休みを与えて下さると言われます。

もし私たちがイエス様のことを、神さまが救い主として贈って下さった方だと信じることが出来れば、心の中に平安を得ることができます。このようにイエス様に繋がっていれば、彼を贈って下さった神さまを信頼することができ、全てのことを自分で抱えないで神様の御手に委ねることが出来ます。そこから心の中に平安が生まれるのです。これが、イエス様が与えて下さる魂の休みです。

イエス様は世界の人々だれにでも「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。私たちにもいつもそう声をかけて下さいます。

魂の休みの場として、教会の日曜礼拝は一番重要な場所です。そこでも私たちは、日常の喧騒から離れて、聖書の御言葉を聞いたり、讃美歌を歌ったりお祈りしたりします。それも、天の神さまのみ前で心を静める時です。そこで神さまとの繋がりが強くなります。それで、礼拝は新しい週の心の準備の時にもなって、一週間を歩む力になります。礼拝も、「日常の喧噪から離れる」イベントなのです。

フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。この受難節を通して私たちは自分の生活や時間の使い方を考えることにもなります。これは大事な準備の期間です。

牧師の週報コラム

聖書とチャットGPT

 ある国のルター派の神学校の授業をオンラインで担当することになり、教える科目の一つが「外典論」。 それで、旧約聖書の古代ギリシャ語訳の書物リストが必要になった。旧約聖書は、ギリシャ語の方がヘブライ語よりも書物数が多い。従って、それを基にするカトリック教会の旧約聖書の書物数は、ヘブライ語を基にするプロテスタント系よりも多いのだ。書物リストを講義用のレジメに入れたいが、パソコンで一つ一つ打ち込むのは面倒。そこで、今世間を騒がしているチャットGPTとやらを使ってみようと思い立った。リストを出してもらって、それをコピー&ペーストしてレジメに貼り付ければ簡単だろうと。早速、「Septuagintの書物リストを出して」と入力。Septuagintは旧約聖書のギリシャ語訳の英語名(レジメは英語なのでチャットも英語)。

 何だか、「鏡よ、鏡よ、鏡さん」みたいだなと思う間もなく、ツラツラツラとリストが出てきた。それをすぐコピペ。しかし、レジメを確認してビックリ。トビ記とかユディット記とか短い物はあるが、マカバイ記のような長編が欠けているのだ。念のために「カトリック教会の旧約聖書の書物リストも」と聞くと、それも同じ。そんな馬鹿な!どうしたものか途方に暮れ、ほんの試し心で「LXXの書物リストを出して」と入力してみた。LXXとはSeptuagintを意味するローマ数字だ。すると、ちゃんと全部出てきたのだ!

 そこで聞かずにはいられなかった。「同じ質問をしたのに、名称を変えたら違う答えになるのはなぜ?」 すると、「混乱させてしまって申し訳ありません。」 なんと謝ってきた。なんでも、異なる伝統には異なる書物リストがあるので、などと言い訳も添えて。質問に正面から答えていない。まるで「犬の頭が西向けば尻尾は東」と言うのと同じくらいに空虚な文句である。「僕は異なる伝統のリストなんか興味はない。今出てきた一番大元にあるリストが欲しいのだ。」 「わかりました。」 「じゃ、カトリック教会のリストをもう一度だして」 「もちろんです!」 これで全部揃って一件落着。「ありがとう」と入力すると、「どういたしまして。また何かお聞きになりたいことがありましたら、是非聞いて下さい。」 少し至らなかったが、なかなか謙虚ではないかと感心した。

 そこで教訓。チャットGPTに聞く時は無知識で聞くのは危険だろう。この答え、大丈夫かな、と思えるくらいの最低限の知識と、少しでもおかしいなと思ったら遠慮せずすぐ食いつく姿勢も重要。裏金問題を新聞記者に質問されて「答えないと言っているのに頭悪いね」と言った国会議員がいたが、そんなレベルの低い世界の話ではないのだ。

 さらに一つ余計なことかもしれないが、付け加えると、何かを聞く時、出てきた答えを吟味する時、答えを何かに用いようとする時、倫理的態度を確立している必要があると思う。「殺すな(=人を傷つけるな)」、「盗むな」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「妬んで欲するな」という態度が確立していないと大変な世の中になるだろう。それはSNSの弊害を見ても明らか。

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歳時記

白鷺・シラサギ

谷戸池の水質浄化作業が功を奏してきたのか、最近水底が透けて見えるようになりました。 鳥たちもいち早く気がついたのでしょうか小魚を狙ってやって来るようになりました。カワセミの隣では新顔のシラサギが佇んでいました、もの思いに耽っているのでしょうかそれとも餌の小魚を狙っているのでしょうかわかりません。何れは他の野鳥たちもやって来ると思います、その日が待ち通しいです。

<天が下のすべての事には季節があり、 すべてのわざには時がある。伝道の書3:1>

スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回は2月28日(水)10時―13時の開催です。

バンド織キーホルダーを作ります。

次回の手芸クラブは先月に続きバンド織のキーホルダーを作ります。前回と違う模様も出来ます。

フィンランドの民族衣装に使われるバンド織りで、北欧のウールを使った可愛いキーホルダーをご一緒作りましょう。

織の道具はお貸しします。

手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!


参加費 1000円

お子さん連れの参加も大歓迎。

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み

03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

 

 

歳時記

山茶花・サザンカ

花の乏しいこの季節に次から次へと花を咲かせる山茶花が目につきます。 しかしその山茶花もそろそろ終わりに近づいてきました。木の周りは落ちた花びらで赤い敷物を敷いたようにも見えます。これ程目立つ花なのに万葉集には何故か一句も出て来ません。調べてみたら本来の山茶花の自生する北限は日本のようで万葉時代の大和盆地には自生しなかったからのようでした。山茶花がお終いになるといよいよ椿の出番ですね、山茶花は椿科椿属の一種で椿の親類でもありました。

<天が下のすべての事には季節があり、 すべてのわざには時がある。伝道の書3:1>

2024年2月11日(日)主の変容主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書9章2−9節

「変容の栄光のうちに指し示されるのは何か?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今朝与えられている聖書の御言葉は、イエス様の姿が白く光り輝く姿に変わられた「主の変容」と呼ばれる出来事です。この出来事は並行箇所であるルカの福音書9章では「栄光に包まれ」とか「栄光に輝く」とか書かれている通りに、イエス様がその姿をモーセとエリヤと共にその「神の栄光の内」に、3人の弟子へ、そしてその3人を通して私たちへと表されている出来事でもあります。そしてこの出来事はこの前の箇所と深く関係しております。この前の8章の後半部分では何が書かれているかと言いますと、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねています。イエスからの大事な質問でした。そこでペテロは「あなたはメシアです」と答えました。マタイの福音書の方では「あなたはメシア、生ける神の子です」とペテロは答えており、イエス様はその「信仰の告白」を明らかにしたのは人ではなく天の父なる神ご自身であるといい、さらにはその神の与えた岩の如き信仰告白の上にイエス様はご自身の教会を建てるという約束と、その教会に地上で繋ぐことも解くこともできる鍵を与えるという約束を与えています。その直後に、マタイもマルコも共通していますが、イエス様はご自身が苦しみを受け、殺されることと三日目に復活することを伝え始めるのです。「救い主が苦しんで死ぬ」なんて理解できないペテロはイエスを諌めますが、イエス様はペテロを「下がれサタン」と厳しい言葉で叱責し、そして、自分に従う者は自分を捨て自分の十字架を背負って従いなさいと伝えているのです。その後の出来事が今日の箇所になり、今日のこの「変容」の出来事はそれまでの一連の出来事から続いているのです。いわば、イエスの「あなた方はわたしを何というか」「わたしは誰であるのか」という問いの、弟子たち、そして私たちへの、天の父なる神からのさらなる確証とも言える回答が、この「変容」に表されているとも思われるのです。2節から見ていきますが、その日から六日目、こう始まっています。

2、「姿が彼らの目の前で変わる」

「2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

 イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていくと言う場面は福音書にはいくつか記録されていますが、それはイエス様にとっては「ゲッセマネの祈り」の場面など鍵となる場面が多いです。今日のところもそうでした。そこでは2節の終わりからこう続いています。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

 マタイの福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17章2節)とあります。 そのような、イエスの姿が変わる、しかも顔が太陽のように輝き、衣も白く光った、というのはこれまで見たことのない光景であったのでした。

 4つの福音書全てが証しし、そしてフィリピ書のパウロの言葉からも分かるように、イエス様は「神の身分でありながら〜自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ〜人間の姿で現れ」た、私たちと同じ肉体、同じ姿となられ共に生きられた「真の人」でした。ですから、真の人となられ生活しているイエス様がそのようなあり得ない姿に変わるなどなかったことであり、弟子たちも当然、見たことがなかったのです。しかもそこには、

3、「エリヤがモーセともに栄光に包まれ」

A,「栄光の中で」

「4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

4節

 とあるのです。エリアもモーセも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにとっては偉大な預言者ですが、過去に存在していたけれども今や地上には生きていない偉大な預言者でした。ですから、そのイエス様の光輝く光景のみならず、天に登った偉大な預言者が現れイエスと話しているという、3人にとっては普通ではない、信じがたい出来事が目の前に広がっていたのでした。ペテロの目には、5節以下の言葉に分かる通り、これは「素晴らしい」出来事でしたが、6節、どう言えば良いか分からなかったとある通りに、彼には何のことか理解できない素晴らしい出来事でありながらも同時に、「非常に恐れていた」とある通りに「恐ろしい光景」でもあったのでした。そのように人間には計り知れず理解できない光景ではあったのですが、神の前にはこの出来事には意味がありました。ルカ9章では、先ほども引用したように、これは天からの「神の栄光の中で」現され証しされた一つの出来事でした。しかし注目したいのは、ルカ9章31節の言葉です。

B,「イエスがエルサレムで遂げる最期について」

「31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

 天の神からの栄光の現れ、しかしそこで3人が会って話していたのは、

「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」

 であったのです。つまり十字架の死でです。みなさん「神の栄光」と「十字架の死」。一体それはどう繋がるでしょう。人の目には一見、相容れない言葉のように見えます。もちろんイエス様にあっては一貫していました。先ほども見ました。イエス様は、この直前から、ご自分が受けられる苦しみと死、そして、復活のことをはっきりを伝え、自分が歩む道、目的を伝えていました。「十字架を負って」と十字架をも示してもいます。他方、弟子たちはその時は何のことかわからず、ペテロはイエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ、それに対し、イエス様から「下がれサタン」と厳しく叱責されました。叱責されてもそれでもペテロは理解できなかったことでしょう。そして、この素晴らしい変容の光景も理解できませんでした。しかし目には輝かしい光景に「素晴らしい」と感動し、幕屋をそれぞれのために建てようと彼は言うのでした。彼はその目に見える神の栄光の現れを見たまま素晴らしいと「肯定的に理解」しているのです。

 しかし、その「人の目」の前に広がる神の輝かしい光景、天からの栄光が現れる素晴らしい出来事ですが、しかし「人の目の栄光の素晴らしさ」とは裏腹に、その栄光の本質、核心、中心は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後、捕えられ苦しみを受けられ死ぬと言うことでした。まさに十字架の出来事を、モーセとエリヤに話し、語っているのです。そしてこの後、事実、神がイエス・キリストにおいて実現する神の栄光、神の救いと勝利は、まさしく、イエス様が苦しみを受け死なれる十字架と復活にこそ現されていくでしょう。そのことこそ4つの福音書が共通して証し、パウロをはじめ使徒たちが聖書に書き記した証しに他なりません。

C,「人が素晴らしいと思い、見ようとする栄光」

 世の中の、いや、クリスチャンでもそうかもしれませんが、「栄光」という言葉に錯覚させられるのです。「人の目」にあっては「栄光」というのは、何か、自分たちの目に見ることができ、人間の価値観や理想や願望に照らして、その通りになった華やかで輝かしい繁栄や成功に「栄光」があるように思い描いたり、予想したり期待するものです。そして、人間がその心に描き出す栄光に基づいて、その栄光がなることを待ち望んだり、期待したり、実現しようと頑張ったり、そして、その通りになったり自分の力で実現するところに、神の栄光があるとか、神がそこにいるのだとか、神の祝福があるのだと、勝手に決めつけてしまっていることは実は少なくありません。そのような人間中心の栄光のための教会運営や、宣教や伝道、そして教会成長などがむしろ賞賛され、緻密で合理的なハウツー理論まで備えて、当たり前のように、それが聖書的で敬虔であるかのように教会が立法的に導かれるのは、よく耳にすることです。しかし、それはヒューマニズムや理性や感情中心を超えることのない、人間の自己実現、律法主義に過ぎないものです。神が指し示した、福音に、つまり、イエス・キリストとその十字架と復活に根ざしていないのです。罪深い人間は残念ながらその性質ゆえに、目には見えない御言葉の真理や力よりも「しるしを求める」とあるその通りに、そのような目にみえる華やかさ、しかし的外れなところに栄光を見ようとするのです。

D,「神の栄光の中にある、イエスが遂げようとするものは何か?」

 しかし、天の父なる神がイエスに、そして、イエス様のもとに遣わしたモーセとエリヤとの会見の場に現した栄光の真の意味、そしてその通りに実現した栄光はどこに実現し現わされるでしょうか?それは、このイエス様の苦難と死、十字架と、そして復活に現されたでしょう?今日の箇所も、その前の出来事も、そしてこの後に続いていく頂点も、四つの福音書が示し、使徒たちがその手紙で伝え指し示しているのは、まさにそのこと、栄光は、人間が誰も予想も期待もできなかった「十字架と復活においてであった」と言うことではありませんか。ここに聖書の伝える逆説があるのです。

4、「聖書が伝える逆説的な神の恵みのわざ」

 実に、ここに登場するモーセとエリヤも偉大な預言者ではありますが、彼らを通して現された神の栄光もまた人の目には逆説的であり、それは「苦難のうちに、苦難を通して」現された神の栄光であり、神の臨在と神のわざであることに共通しているでしょう。イスラエルのエジプトにおける奴隷からの解放、その後の荒野の40年、そこでのモーセは神でもなければ、完全な超人でも聖人でもなく、弱気な自信のない一人の罪人でした。「他の人を遣わして欲しい」と彼は神の召しを何度も拒みました。苦難の人生であり、苦難のリーダーシップでした。しかし神はそんな彼の罪深さと苦難のうちにこそおられ、そんな彼を通して、彼を用いて、罪深い反抗する民を導かせました。苦難の荒野を進ませ、そのようにして神は、人の期待や予想や思いを遥かにこえて、苦難の中に栄光を現されました。そのモーセがまさにイスラエルの民に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」申命記18章15節)と指し示したのが、まさにここで会見するイエス・キリストに他ならないでしょう。そして、エリヤもまた、神は彼にバアルの預言者に勝る真実をあらわしてくださったのにも関わらず、王アハブを恐れ荒野に逃げ叫びました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上19章4節)と。最後は天に上げられた彼ではありますが、彼も神でも聖人でもなく、彼も一人の人間、罪人であり、弱さを覚えていた苦難の人でした。しかし、神は、その苦難の中にあって、一人の罪人であっても、神ご自身が恵みによって選んだ、信仰者であり預言者であるエリヤを通して、そしてその苦難を通してこそ神の栄光を現してこられたのでした。さらに言えば、今日の箇所の出来事の後、イエス様が9節で言われた「人の子が死者の中から復活する」という救い主には起こり得ない死ということに戸惑った弟子たちは11節で「救い主の前にエリヤが来る」と約束されているのはどういう意味かとイエスに尋ねています。弟子たちはなおも「栄光の出来事」と「メシアの死」が繋がらないし理解できないのです。しかしイエス様は、その「来たるエリヤ」は、この変容の場面のエリヤではなく、バプテスマのヨハネのことを意味していることを教え「人々はそのエリヤであるヨハネを好きなようにあしらった」、つまり、殺したことに預言がすでに成就していることを教えています。まさにそのバプテスマのヨハネも「人の目」には見窄らしい荒野の預言者でその最後も悲惨で壮絶でしたが、そこに預言の約束の通り神の栄光は実現しているのです。そしてそこでは、12節にあるように、同じ聖書が「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」と伝えているのはなぜなのかと、聖書は、神はそのように救い主の苦難にこそ栄光を現されることを伝えているではないかと、人間の予想や思いとは逆の、やはり「神の逆説の真理と救い」を示していることがわかるのです。

5、「神の栄光、救い、勝利、真実さはどこへ現されるか?神はどこへにいるのか?」

 皆さん。「神の栄光、神の救い、神の勝利と真実さ、そして神はどこにおられるのか?」聖書ははっきりと伝えているのです。人は目に見える人間の思いにある繁栄や栄光にそれらのことを探し求めようとします。しかし、神はそれらのことを、そこにではなく、まさに人間は誰も思いもしなかった、予想もしなかった、探さなかった、むしろ皆が目を閉ざし、見たくない、避けたい、私たちの罪のための、私たちの負うべきであった、その罪の報酬である、しかし私たちが決して負うことのできない、苦難と死である、この十字架と復活にこそ現されたのです。それが神の御心、計画であった、天からの福音、良い知らせではありませんか。そして、そのように「私たちが」ではなく「神が」、「私たちに」ではなく、その「御子に」私たちが負うべきものを負わせたからこそ、しかもそのことをただ信じ受け取るだけで、私たちは罪の赦しと新しいいのちがただ恵みのみによって与えられ、恵みだからこそ喜び安心することができるでしょう。イザヤ53章が私たちに示している通りです。

「1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

(イザヤ書53章1節)で始まり、こう続きます彼には「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」(同2−5節)しかしこう続きます。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。〜8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(同5−8節)しかし最後にこうあります。「10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」(同10節)

 神が私たちに現された栄光、救い、勝利、真実さ、そして愛も憐れみも、みなここに、イエス様の十字架と復活にこそあります。そして私たちはどこに神を探し、求め、見出すでしょう。私たち人間が自分の力で頑張って成功し完全になった所に、あるいは、思い描いた理想や繁栄を実現した所にではありません。罪深い私たちのために、その間に来られ、その私たちの罪のための、この地上の苦難の十字架にこそキリストはおられ神の栄光を実現し愛と救いを現されたように、今も私たちの苦難の中にあって、罪深さの中にあって、日々悔い改めつつ、神にただ「憐れんでください」と十字架と復活の約束と事実を信じ、十字架と復活のイエス様を信じすがるその時に、イエス様はそんな私たちの間にこそ今もいてくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださるのです。

6、「「これに聞け」:神は人に幕屋を建ててもらう必要がない。」

 最後に短くもう一つの幸いのうちに遣わされていきましょう。ペテロは栄光の3人に口を挟んでいいます。5節

5「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

 しかし神はそれをそのようにさせず言います。

「7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

 皆さん。感謝ではありませんか。神であるイエス様は人によって仮小屋、つまり幕屋を備えられる必要はありません。人が備え建てる幕屋に住まわれるのでもありません。つまり神は人によって仕えられ、何かを準備されたり作り上げられなければ何もできない方ではありません。むしろ、イエス様は言っているでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10章45節)と。イエス様は私たちに仕えるために来ました。「私たちがまず」仕えるのではなく、「イエス様がまず」仕えてくださり、その究極が自分の命を捧げるため、十字架で死ぬためでした。イエス様がその十字架のゆえに、今日もここで最大限に私たちに仕えてくださっている、その恵みが先にあってこそ、私たちはここで礼拝しているでしょう。だからこそここでも天の神の声はペテロや弟子たちに「まずあなた方が語れ、礼拝しろ、仕えろ。何かしろ。何か条件をクリアしろ」とは決して言いません。神は言われます。それより何より

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

と。あのイエス様ご自身の洗礼の時の天からの言葉であり、そしてあのマルタとマリヤの姉妹の場面(ルカ10章38−42節)でも、マリヤはただ唯一の必要なことをしているとイエス様が言われたこと、それは「イエスの言葉に聞くこと」。それこそ神が何より私たちに求めており、それこそが必要な唯一のことなのです。それはまず神が、イエス様が御言葉を通して仕えてくださるからこそでしょう。それが礼拝の意味です。「私たちが」まず神に仕える、「私から神へ」のサービスが礼拝ではありません。「神が」まず私たちに仕えてくださる。「神から私たちへ」の御言葉によるサービス、それが礼拝なのです。そのようにイエス様が御言葉を語り仕え、私たちがその言葉を聞くからこそ、私たちは感謝を持って応答する、祈る、賛美する。遣わされていく、それも礼拝ですが、全てはイエス様がまず仕えてくださるからこそです。今日もイエス様は御言葉を持って私たちに仕えて下さり、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひイエスに聞き、福音を受け取り、平安のうちにここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

牧師の週報コラム

何が面白い説教か?

超教派の福音伝道者として活躍中のS氏とお互いの伝道の課題について話し合う機会を持った。 彼はもともとは大学生伝道の第一人者で、現在はいろいろな教会を訪問して説教や聖書の学びの奉仕をされている。その伝道手腕は各地で高く評価され、ある神学校で教鞭も取られている。

 S氏曰く、奉仕先の教会の中には沈滞気味のところもあり、そこでは説教を始めるや否や、あちこちで眠りこけてしまう人たちが出て、彼らの手や膝の上から聖書が次々と床に落ち、分厚い本だから床にあたる音の凄まじさといったらなく、まるで悪魔から、神の言葉なんかやめろと抗議されている感じになりますと。そこで、そういう教会ではどんな説教が受けるだろうかという話になった。

 まず、牧師の武勇伝。自分がどれだけ社会や隣人に尽くしたかを話すとみんな目を輝かせて聞くだろう。自分に材料がない場合は、他人の武勇伝を紹介する(某教会の牧師はノーベル平和賞の受賞者の業績や生立ちをずっと話して聞かせたそうだ。きっと聖書の個所はマタイ59節だっただろう)。

 次に、自分の知識博識を披露する。アリストテレスはこう言った、カントはこう言った、フロイトは、孔子は、親鸞は等々、古今東西の哲学者、宗教者、心理学者の思想や理論、名言・格言を散りばめる牧師もいたと聞いたことがある。「神学大全」ならぬ「博学大全」(そう言えば、中野区の哲学堂公園にはこうした古今東西の思想家の銅像が並んでいる。イエス・キリストもその一人。神の子メシアから引き降ろされてしまった。まさに現代のグノーシス主義)。

 以前、某教団の牧師・代議員会議に顔を出した時、そこでの礼拝の説教で牧師が最近読んで感銘を受けた本について紹介をした。説教の最初から終わりまで。皆さん興味津々で聞き入っていたことは言うまでもない。そして、締めくくりの言葉はこれ、「今日の聖書の個所でイエス様がおっしゃりたいことは、こういうことだったのではないでしょうか?」 日本では牧師は神に近い聖職者だから、これを言えば効果てきめん、みなその通りだと信じるだろう。

 かく言う私も、ルターを時々引用するが、それは説教で述べてきたことの総括としてだけ。ごく稀に著名な神学者(J.Jeremias とか E.P.Sandersとか)に言及したこともあるが、それはこんな大学者でもこんな変なことを言う、困ったものだ、という悪例としてだ。私としては、会衆に受ける話を創るつもりはなく、むしろ御言葉に包まれて眠って頂いた方がいいくらいだ。ただし、聖書は落とさないようにしっかり持っていましょう。

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2024年2月4日(日)顕現後第五主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年2月4日 顕現節第四主日

イザヤ40章21ー31節
第一コリント9章16ー23節
マルコ福音書1章29ー39節

説教題「創造主の神に見守られていれば大丈夫」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様にとって教えを宣べ伝えることが先決

今日の福音書の個所を呼んで、皆さんは、あれ、イエス様は困っている人に少し冷たいくはないかと思わなかったでしょうか?今日の個所を注意して見てみましょう。

まずイエス様は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ取りました。丁度その時、悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々は、イエス様は権威ある教えだけでなく、霊的な力もお持ちであることがわかりました。イエス様のうわさはその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきました。ここまでは先週の個所でした。

そして今日の個所が続きます。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいました。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。

イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂で教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い一日になりました。本当にお疲れ様でした、と言いたくなります。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いたその途中か、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。

ここが、あれっ、イエス様は少し冷たいな、と思わせるところです。もう少しペトロの家に留まって癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったのです。もちろんイエス様には苦しんでいる人たちを助けたい気持ちはありますが、ただ、病気を治して信じるようにもっていくというご利益路線ではありませんでした。マタイ6章33節でイエス様は、何よりもまず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えられて与えられる、と教えています。健康になりたいとか切実な願いがあるのはわかるが、それでもまず神の国と神の義を求めるべし、それに続いて神は必要なものを整えて下さる。キリスト信仰ではご利益を求める前にまず心が神の国と神の義に向けられていることが大事なのです。神の国は、イエス様の宣べ伝えた教えの中で一番大事なものでした。神の義に関しては、イエス様は後の使徒たちに比べるとそんなに語っていませんが、言葉に言い表さなくてもイエス様の教えは人間の心を神の義に向けさせるものでした。それでは、神の国、神の義とは何かを次に見ていきましょう。

2.イエス様が宣べ伝えた教え ― 神の国と神の義

神の国はイエス様の教えの中心です。人間が神の国に入れるようになるためにはどうしたらよいか?そのためには、人間が神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者でなければならない、それが神の義を持つということです。どうしたら神の義を持つことができるか?この質問の答えは、天地創造の神がひとり子をこの世に贈った理由がわかればわかります。

まず神の国について確認します。本教会の説教でも何度もお話ししましたが、今日もまた振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られた創造主であるというのが聖書の立場です。万物の創造主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことです。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。なので、キリスト信仰では神の国すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。死んだらすぐ天国に行かないのです。神の国に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。それなので、亡くなった人たちは復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているということになります。復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。

 ところで、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはまだこの世の終わりを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論とは違う意味で言ったのでした。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章では、そこに迎え入れられた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 しかしながら、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証するな等々、十戒の掟があります。たとえ外面的にはそのような悪を行わなくても、心の中で人を見下したり憎んだり異性をふしだらな目で見たりしたら神の意思に反する罪を持っているのです。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留っているのです。また、いくら十戒の掟を外見上守っても、何か宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできないのです。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様だったのです。イエス様は私たち人間が受けるべき罪の罰を私たちに代わって十字架の上で受けてられて死なれました。まさに私たちが罰を受けないで済むようにして下さったのです。それで私たち人間が、彼の十字架の死は自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が十字架で果たしてくれた罪の償いがそのまま自分にその通りになる、罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者と見なされるようになる、神から罪を赦されたから神と結びつきをもってこの世を生きられるようになる、これが神の義を持つということです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰で神から義なる者と認められるのです。

さらにイエス様が神の想像を絶する力で死から復活されたおかげで永遠の命に至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰で神から義と認められた者は、永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。順境の時だろうが逆境の時だろうが神との結びつきは何ら変わりません。たとえ、この世を去ることになっても神との結びつきを持って去り、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。

このようにイエス様にとって最も大事なことは、人間が神の義を持てるようになって神の国に迎え入れられるようにすることでした。それで神の国と神の義が彼の教えの中心にあったのです。しかも、教えることだけではありませんでした。自ら命を賭してまでして十字架と復活の業を遂げて、人間が実際に神の義を持てて神の国に迎え入れられる条件を整えて下さったのです。神がイエス様を通して私たちに与えて下さった信仰が御利益信仰にならないことがよくわかります。病気が治ってそれがもとで信じることになったら、また病気になったら信仰の土台は揺らぎます。創造主の神が与える信仰は、病気だろうが健康だろうが全く関係ないものなのです。

3.悪霊の言うことには耳を貸すな

本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節で、イエス様が多くの悪霊を追い出した時、ものを言うことを許さなかった、なぜなら、悪霊はイエス様のことを知っていたからだ、というところです。これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?同じようなことが先週の個所にもありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」悪霊はイエス様が神の神聖な方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にするなと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊に話をすることを許さなかったというのは一体どういうことでしょうか?

悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。しかし、それは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、神の国への迎え入れということが全然ないからです。キリスト信仰者の場合、神の国への迎え入れがあるから信仰告白するのです。それなので、イエス様が神の神聖な者、神の子であることを悪霊に語らせないのは、信仰告白と逆方向に向かうような暴露はするなということです。ところで、イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、その言うことに私たちは耳を貸してはならないということも意味します。ここでもイエス様が私たちを悪霊から遠ざけて関係を持たないようにして下さっていることがわかります。

4.創造主の神に見守られていれば大丈夫

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むのはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。「裁きは神に忘れられた」はちょっと変です。裁きはないのがいいに決まっていますから、これでは嘆きになりません。ヘブライ語のミシュパートは「正しい決定」が元の意味で、そこから派生して「正義」の意味があります。なのでここは、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。神に見放されたと思って嘆いているのです。いわゆる、神が隠されてしまった状態です。しかし、外見上は神は隠されてしまったように思えても、実はまさにその時、神はすぐそばにいて一緒にいて下さるというのが聖書の立場です。それはあたかも、曇りの日に太陽が雲に遮られて見えないのと同じです。太陽が見えないからと言って、太陽が消滅したとは誰も考えません。雲に遮られて見えないだけとわかっています。それでは、それと同じように、神が隠されてしまった時に神がすぐそばにいて一緒にいて下さることをわかるでしょうか?イザヤ書40章の終わりの部分はそのことを教えています。

まず神は創造主であることを思い出しなさいと強い調子で言います。「お前たちは知ろうともせず聞こうともしないのか、初めから告げられてはいなかったのか、理解していなかったのか、地の基の置かれた様を?

(強い調子はヘブライ語原文ではっきり表れています)。また、神は「天をベールのように広げ、天幕のように張られ」、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主である」と。そして、「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」と言われます。これなどは、神がつむじ風の中からヨブに語りかけた口調を思い起こさせます。そうなると私たちとしては、おっしゃる通りです、としか言えません。その創造主の神が何をなさるか、預言者が証しします。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。

主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて、それでいつも神に守られ導かれながら神の国への迎え入れを目指してこの世を進んで行きます。この結びつきは、病気だろうが健康だろうが全く変わらない結びつきです。なので神が隠されたような時でも実はそばにいて共にいて下さっていることは当然のことになっています。つまり、私たちはいつも神に望みを置いているのです。だからこの道を歩む力をいつも与えられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。