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花いちもんめ
<人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。出エジプト記 21:16 >
散歩の途中で道の真ん中に椿の花が転がっていました、その花を見ていたら遠い昔に妹や女の子たちが手をつなぎながら二組に分かれて”はないちもんめ”を歌いながら前後に行ったり来たりしながら遊んでいました。わらべ歌には難解な歌詞が多いですね、”かごめかごめ”も確かに難解な意味が込められています。”はないちもんめ”には江戸時代の飢餓の際の悲惨な口減らしや人さらい、人身売買など意味が込められている怖いわらべ歌でした。私の子供の頃は人さらいと言う言葉がまだ生きていました、実際にあったか否かは知りませんが。
「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」
主日礼拝説教2026年3月29日 枝の主日
イザヤ書50章4-9a節、フィリピ2章5-11節、マタイ21章1-11節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。
受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、神に「救って下さい」とお願いする意味があります。加えて、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語なら、さしずめ「王様、万歳」でしょう。そのホーシーアンナ―は当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。
ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書の大元の言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に異国の地でアラム語化していきます。祖国に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝では一応ヘブライ語の聖書が朗読されましたが、会衆が理解できるようにアラム語で解説していました。群衆がイエス様を迎えた時、ヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。後にマタイ福音書がギリシャ語で書かれた時、マタイは群衆のアラム語の音声をそのままギリシャ文字に変換してホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を繙くと当時の群衆の生の声を聞くことができるのです。マタイは現場のリアルな雰囲気を後世に伝えたかったのです。
そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者が凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて軍馬にまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。王に相応しくない感じがします。イエス様はどうしてロバなんかに乗って来たのでしょうか?
実は、この出来事は旧約聖書のゼカリヤ書の預言が実現したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」に注目しましょう。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、ヘリ下ってロバに乗って来る者」です。王様というのは普通、軍馬にまたがって威風堂々とやって来る者だが、預言の王はロバに乗ってやって来ることでヘリ下った者であることを示すというのです。マタイはこの個所を引用した時、なぜか「柔和でロバに乗って来る者」と書き換えました。預言の王はロバに乗ってやって来ることで柔和な者であることを示すというのです。どうして「ヘリ下り」が「柔和」に変わってしまったのか?新約聖書には旧約聖書を引用する時、引用元と違ってくることがよくあります。そういう時は、まず旧約聖書のギリシャ語版を見るとよい。マタイはギリシャ語で福音書を書いたから、旧約聖書の引用もそっちを見たのかもしれない。案の定、ギリシャ語のゼカリア書9章9節は「柔和でロバに乗ってやって来る者」でした。
マタイはイエス様がどんな王であるかを特徴づける時、「ヘリ下り」よりも「柔和」の方を重要視したのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。彼がイエス様を特徴づける時、「ヘリ下り」も「柔和」も両方大事な言葉でした。それはマタイ11章29節のイエス様の言葉からわかります。そこでイエス様は、労苦する者、重荷を負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私の軛を負い、私から学びなさい。私は「心から柔和でへり下った者」だからだ、そうすれば、あなた方は魂に休息を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休息を得られるカギはイエス様の柔和さとへり下りにあるとわかっていたのです。
ここで、「柔和」と「ヘリ下り」の意味を考えてみなければなりません。なんとなくわかったような気がしますが、イエス様を特徴づける言葉として具体的にどんな意味があるのか?それがわかればイエス様のことをもっとよくわかるようになります。
二つの言葉の意味をイエス様に即して理解する鍵は、本日の使徒書の日課フィリピ2章の中にあります。そこでパウロは当時キリスト教徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用します。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところです。そこはギリシャ語原文では段落が別になって詩の形になっていて引用であることを示しています。日本語訳ではそれは見えてきません。
パウロがここでこれを引用した意図はこうです。キリスト信仰者というのは、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指す者だ、争いや虚栄心に走らず、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向ける者なのだ、と思い起こさせます。これらが柔和の意味です。私たちの救い主がそういう柔和な方だった以上は私たちもそうあらねばなりません。パウロの意図は、イエス様がそういう方であったことはキリスト賛歌からも明らかだ、今それをここで引用するからよく自己反省しなさい、ということです。それで引用したのです。
「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
ここで「ヘリ下り」の意味がはっきりします。イエス様は天地創造、全知全能の神と同等の立場を捨てる位のヘリ下りをされました。そして、人間の救いのために残酷な十字架刑を受け入れる位のヘリ下りをされました。この世界でこれ以上のヘリ下りはありません。ヘリ下ったイエス様は神の人間救済計画を実現するために最後まで神の意思に従順に従いました。まさに自分の利害を中心に考えず、他人の利益のために立ち振る舞ったのです。ヘリ下りと神の意志への従順がイエス様の柔和を形作るのです。このようにヘリ下りと柔和というのはお互い結びついています。しかも、パウロはこのヘリ下りと柔和はイエス様だけでなく、彼を救い主と信じるキリスト信仰者にもあると思い起こさせます。なぜなら、キリスト信仰者にはキリストにある励ましや愛に満ちた慰め、聖霊の交わり、救われたことによる慈しみと憐れみの心がある、だから、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指し、争いや虚栄心に走らずに、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向け考えるようになるのは当然なのだ、というのがフィリピ2章の初めでパウロが言おうとしていることです。
しかしながら、ロバに乗ってエルサレムに入って来るイエス様を見た群衆は、彼を柔和でへりくだった王とは思ってはいませんでした。みんな、彼をイスラエルの民をローマ帝国の支配から解放してくれる民族の英雄と見ていたのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦します。彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様は自分のことをダニエル書7章に出てくる終末のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者としたり、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称し、指導層の反感を高めていきます。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けてしまいました。その段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。
イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こりました。旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる出来事が起こりました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様の十字架と復活の出来事を出発点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様が死に引き渡されても、そのままで終わってしまわなかったのは、彼が神の子だからだ、と理解されるようになります。では、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が自分の内に持ってしまっている罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。神聖な神の目に適う僕が人間が受けるべき神罰を自ら引き受けて人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命が実在することがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれたのです。
そこで今度は人間の方が神のこれらの取り計らいを自分事として受けとめてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を歩むことになります。その行き先は永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
ロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした表面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超える永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。
終わりに本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちキリスト信仰者の心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持ってこの世と次に来る世の両方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも神の意思に従っている、それで自分には何もやましいことはないとわかっている、自分は神の側に立っているとわかっているので何も怖くはありません。暴行されたら痛いし辛いが、神を裁判官にした裁判において自分は潔白そのものである、そういう内容です。神を裁判官にした裁判ということは8節と9節で言われます。
8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」神がイエス様を死から復活させたので、イエス様は罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。それでイエス様の潔白は人々の前で証明されます。
「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことです。それで、よしわかった上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、というのです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨で続きます。
「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」そこは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。
9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」
「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にすぐそばにいて味方になって下さることを確信している様子がうかがえます。
この確信は私たちキリスト信仰者も持てます。今の日本では、さすがに暴力に訴えてまで信仰を捨てさせることはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷はあると思います。しかし、十字架と復活の主を救い主と信じる以上、神の裁判では潔白です。なので、何も動揺せず何も恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、へりくだって他の人を自分より優れた者とし、自分の利害を脇において他人の利益を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、これらを淡々と続けていけばいいわけです。
ところで、非難や中傷は人から来ず、信仰者の心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、そのヘブライ語の意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配はいりません。確かに私の内には神の意思に反する罪がある。しかし、それはイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、これを思い出せばいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放さない、と悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から、どうぞ、と差し出されて、それをありがとうございます、と受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前の方こそ、イザヤ書50章9節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は51章9節にも出てきます)、そう言ってやればよいのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注1 ギリシャ語のモルフェ―が日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥ―ロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もありまる。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。
礼拝後、ポウッカ牧師夫妻監修のヴィア・ドロローサの鑑賞と讃美歌を共に賛美しました。枝の主日に相応しい交わりでした。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その5
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)
『私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。』 (詩篇118篇21節、フィンランド語訳の聖書に基づく)
『神の大いなる恵みは、まず第一に、み言葉をもって我々の業を裁きにかけ、我々の神聖さ、知恵、力を無にすることに現れる。なぜそういうふうに言えるのかと言うと、それは、我々が罪深さから来る罰に気づくためであり、良心が恐れを抱くためであり、あらゆる心配事が堰を切って押し寄せて来るのに気づくためだからである。神はこのようにして我々をとことんヘリ下させて、我々の自尊心や自己の業績と博識に対する過信を一気に消し去るのだ。このへり下させは、たとえこの世の人生の段階で起きなくとも、どんなに遅くともこの世の人生が終わる時に必ず起こる。この世の人生でこのヘリ下りを何度も経験し耐え抜ける者は、しかも、神は私にとってこれが一番良いことだからそうされるのだとわかって感謝する者は、預言者イザヤの言葉をもって歌うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに怒りを燃やされたが、その怒りを取り下げ、わたしを慰め励まして下さったからです。」(イザヤ書12章1節、フィンラン語訳の聖書に基づく)
神の大いなる恵みは、第二に、我々を慰め励まして、我々の霊と内なる新しい人が日々成長し、肉と古い人が日々衰退するように助けて下さることに現れる。神は時の進むに応じて我々に一層大きく豊かな賜物を与えて下さり、神を前にしても神と結びついた者として雄々しくしていられ喜びに満ちた勝利者に我々をして下さる。冒頭の詩篇のみ言葉はまさに神の大いなる恵みの両面に与かった者が口ずさみ歌う言葉なのだ。「私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。」
見よ、神は我々をヘリ下させて高く上げて下さる、我々を罪びとに定めて義なる者として下さる、我々が敗者になることを許し勝利を与えて下さる、我々が泣かずにいられなくなるようにし喜びに溢れて歌えるようにして下さる、我々を死に引き渡し生きる者にして下さる。』(以上、ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました。)
私たちはこの世を去る時、業績や博識や財産や名誉には何の力もない、とことんヘリ下った状態になります。神の大いなる恵みに与かる人生はその訓練になると言えます。業績云々がないと言う人には訓練は妬みや卑屈を削ぎ取る意味があると思います。業績云々が大きければ大きい程、訓練は大変かもしれませんが、そこで得られるヘリ下りはこの世を去る時の真の力になるのではないかと思います。
花大根
<28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 マタイ6:28・29>
尾根緑道に花大根の季節がやって来ました。毎年、同じ場所に群れになって咲いています。野菜の大根の花は白い花ですが花大根の方は菫のような紫色ですね。江戸時代に中国からの渡来種ですから比較的新しい野草です。現役で働いていた頃、成城学園前駅が地下ホームになる前は駅の手前は切通しの崖のような斜面でした。その斜面に季節が来ると一面に花大根が咲き春到来を楽しみにしていました。娘もこの花が好きで学生時代は摘んで来ては机に飾っていました、花屋の花よりもこの様な野の花に美しさを感じるのは嬉しいことです
主日礼拝説教 2026年3月22日(四旬節第五主日)
エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。これを読んだ人は、ああ、イエス様は何と愛に満ちたお方なんだろう、悲しみにくれる姉妹を助けるために死んだ兄を生き返らせて下さったのだから、と思うでしょう。死んだ人を生き返らせる位の強い愛を示されたのだ、と。しかし、これを自分に当てはめて考えたら同じことが言えるでしょうか?イエス様は、もし私の愛する肉親が亡くなって悲しみに打ちひしがれた時、祈ってお願いしたら生き返らせてくれるのだろうか?もし、生き返らなかったら、イエス様は私のことをラザロやマルタやマリアよりも愛していないということなのだろうか?だから生き返らせてくれないのか?
このような疑問は、一見筋が通った疑問に聞こえますが、実は筋違いです。イエス様がラザロの病気のことを「神の栄光のため」と言ったことに注目しましょう。普通それは、イエス様がラザロを生き返らせたことが神の栄光の現れと思われます。ところがそれはまだまだ浅い理解です。本当はもっと深い意味があります。ラザロの生き返らせの奇跡と神の栄光の深い本当の意味を理解しなければなりません。本日の説教でそれを明らかにしてまいります。
深い本当の理解に入る前に予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を具体的に記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、ほとんどの人は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られた創造主の神、私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた生ける神であるというのがキリスト信仰です。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話に聞こえますが、聖書の観点とはそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活は眠りから目覚めることと同じと見ているからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。それと当時の日数の数え方は最初の日も入れて数えるので、今ふうに言えば3日です。イエス様が3日後に復活したというのも今ふうに言えば2日後です。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったのです。そして今は、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の本当の深い理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみます。
イエス様を前にしてマルタは開口一番、こう言いました。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはそれを打ち消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して疑っていません、ということです。これは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と暗に言っているのです。つまり、マルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」とは言いませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉から明らかです。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく将来の「復活」のことを言われる、ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせてはくれないのだ、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることは疑っていません。ただ、それは遠い将来のことです。「生き返り」ならば、今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味します。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。
それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえこの世から別れても復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けます。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を信じて洗礼を受けると永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになります。イエス様を信じて生きると神に守られ導かれながらその道を歩みます。そして、復活の日が来たら永遠の命を持って生きることになります。それで永遠に死なないのです。
それでは「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、イエス様が復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方だと信じることです。イエス様がそういう方であることは、彼の十字架と復活の業を通してはっきりします。彼の十字架の死は私たち人間が内に持ってしまっている罪を私たちに代わって神に償うための死でした。彼の死からの復活は、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて私たちにそれを歩ませるための復活でした。イエス様を復活と永遠の命を与えることが出来るお方だと信じて安心が得られればそれでもう信じているのです。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と関連付けて述べました。「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだという理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。ギリシャ語の現在完了のマルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟って信じるようになりました、ではないのです(その場合はアオリストのエピステウサになります)。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。
このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている、もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかってはいた、しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。
ところが、イエス様との対話を通して復活と永遠の命の希望がマルタに戻ったのです。イエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは簡単には消えませんが、一度こういうプロセスを経ると希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まって生きるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではありません。それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまった、それを確認させられて強めてもらったのでした。そうなれば将来の復活は少なくとも心の中では実現してしまったのも同然です。兄ラザロとの再会が現実味を帯びた瞬間です。イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みに留まって生きるキリスト信仰者についても同じです。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者にとって復活はもう半分以上実現しているのです。
イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼にすれば死など復活の日までの眠りにすぎないことと、彼こそ復活の目覚めをさせる力があること、この2つを人々に前触れ的にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声が私にも聞こえて私も起こされるんだ、と誰もが予見したでしょう。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!これで、イエス様がラザロの病気は神の栄光のためと言った意味がわかったでしょう。神の栄光とは、ラザロを生き返らせたことよりももっと大きなことを意味したのです。まず、悲しみにくれるマルタとの対話を通して、失われかけていた復活の信仰を確認させて強くしてあげました。そして、生き返らせの奇跡の業を通して、イエス様を信じる者にとってはこの世からの死は眠りにすぎず、その眠りから目覚めさせる力はイエス様が持っていることを人々に具体的にわからせました。これが神の栄光です。このことは、当時の人々だけでなく、全ての時代のイエス様を信じる人々に当てはまりませう。もちろん、私たちにもです。もし、私たちの復活の信仰が揺らぐようなことがあれば、イエス様はマルタにしてあげたように私たちの信仰を確認させて強くして下さいます。マルタの場合はイエス様との対話を通してでしたが、私たちの場合はイエス・キリストについて証言している聖書の御言葉を通してです。以上が神の栄光の全容です。
最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つは、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書は皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。私たちに死を超える復活と永遠の命を与えることができる途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。
もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている所に行くのは危険ですと押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。
「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」
分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある、それが危険とどう関係するか考えてみなさい、太陽が照る日中は明るいから転んだりぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、君たちが私というこの世の光を目で見て、私も君たちの中にいると言えるくらいに私に結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。もちろん、私たちは当時の弟子たちと違ってイエス様を肉眼の目で見ることはできません。それでも、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を心の目で見れれば、イエス様というこの世の光を持てることになり、神の守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになって危険に晒されてゴールに到達できないのです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初は生地作りです。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。よく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。
発酵させている間に中身を作ります。ひき肉を炒めて味付けをして冷まします。最後にすりおろしたチーズを加えると「美味しそう」との声が聞こえてきます。生地が大きく膨らんだのでLihapiirakkaの形作りをします。生地を伸ばして丸い型を抜き、生地の上に中身をのせて閉じていきます。
皆さん、一生懸命にLihapiirakkaの形を作って鉄板にどんどん並べていきます。Lihapiirakkaの列が沢山できました。それをオーブンに入れて焼きます。しばらくすると美味しそうな香りが漂ってきました。味わうのが待ち遠しくなります。焼き上がったLihapiirakkaは、最後に溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。
お皿にサラダをきれいに盛りつけてピックルスを添えて焼きたてのLihapiirakkaを味わいました。たちまち、「美味しい!」「美味しい!」と嬉しそうな声があがりました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。今キリスト教会は復活祭の前の受難節の季節なのでその過ごし方やお祈りについてお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは4月18日に予定しています(ご注意 4月は月の第三土曜日になります)。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランドの伝統的なLihapiirakkaを作りました。Lihapiirakkaには様々な種類があり、パイ生地で作る大きいものや小さいもの、そして今日みたいなパン生地で作るものもあります。今日作ったパン生地のLihapiirakka はロシアからフィンランド全国に広がり、1950年頃ファーストフードとしてキオスクでも販売されるようになりました。油で揚げて作るのは伝統的ですが、最近では少し健康的なバージョンとしてオーブンで焼くことも多くなっています。今日もそのタイプのものを作りました。Lihapiirakka はハイキングやお花見など出かける時のお伴にもぴったりで、これからの季節にちょうどよい軽食の一品ではないでしょうか。
今フィンランドでは季節が春に向かて進んでいます。雪が溶けて地面はぐちゃぐちゃで木はまだ枯れているように見えますが、フィンランドの人々はもうすぐ春の花が美しく咲くことを楽しみにしています。この季節になると、フィンランドのカレンダーでは「受難節」という期間に入ります。これはイスター・復活祭に向けた準備の期間です。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも残っていることを意味します。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化をつけることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を控えたりすることがあります。このように受難節を通して人々は自分の生活や時間の使い方を見直すことをするのです。しかし、受難節にはもっと深い意味があります。
それは、イースター・復活祭の前の40日の間、イエス様が十字架につけられた苦難を覚えて心の中で思いめぐらす期間であるということです。この期間にイエス様が歩んだ苦難の道について聖書の教えを読んだり聞いたりしながら、心を静めて天の神様にお祈りすることも多くなります。クリスチャンはお祈りする時イエス様がそばにいて聞いて下さることを知っています。
しかし天の神さまにするお祈りとはどのようなものでしょうか?
キリスト教で祈りとは心の中で天の神さまとお話しすることです。聖書の中には決まった形の祈りも教えられていますが、もちろん自分の言葉でお祈りしていいのです。祈りの中で私たちは天の神さまに感謝の言葉を述べたり、困った時に助けをお願いしたりするからです。
新約聖書の「マルコによる福音書」にはバルティマイという盲人の人のお祈りの話があります。それを紹介したいと思います。これはイエス様が弟子たちと一緒にエリコという町に来て、それから出発しようとした時に起こりました。道端には盲人のバルティマイが座っていました。バルティマイはイエス様がそこを通りかかると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んで祈りました。多くの人たちは彼を黙らせようとしましたが、彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と祈りました。その時イエス様はどうされたでしょうか。祈りを聞かずに通り過ぎてしまったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。イエス様は立ち止まってバルティマイを呼び寄せて「何をしてほしいのか」とお聞きになりました。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。すると、盲人は見えるようになり、イエス様に従っていきました。
私たちはこの盲人の男性と同じような希望がない状態になることがあるかもしれません。このような時、私たちはどうしたら良いでしょうか。そのような時は、私たちもこの盲人と同じようにイエス様にお祈りすることができます。イエス様は私たちのお祈りも聞いて下さり、私たちのところに立ち止まって、尋ねてくださいます。「何をしてほしいのか。」イエス様が私たちが必要なことが全てご存じですが、尋ねることで私が勇気をもって願いや必要なことを自分の言葉で言うようにするのです。
私たちも願うこと困ったことや悩みがいろいろあります。それらをお祈りを通してイエス様に伝えることは、その全てをイエス様の御手に委ねることになります。すぐにお祈りした通りになるかどうかは分かりませんが、イエス様は必ず聞いてくださいます。そして祈ったことの結果や時間はいつもイエス様が決めて下さいます。そのようにイエス様を信頼することができると、私たちの心は軽くなり、静かな平安に満たされます。
このように受難節はイエス様の苦難を心の中で思いめぐらすことと彼を信頼して祈ることを通して心を静めて平安を得る期間です。皆さんの心も静かな平安に満たされますように。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その4 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月18日の日課から) 『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』 (マルコ10章23節) 『誰も自分の力で救いを勝ち取ることはできない。そうなのは、原罪が我々にもたらした 被害のためなのである。それがゆえに我々の自然の本性は造り主の神よりも造られた被造 物に執着してしまうのだ。 人間には、信頼を寄せ喜びを頂く神がいなければならない。人間は真の神か偽りの神か のいずれかを持つ。我々の自然の本性が、賜物を与える神ではなく、与えられた賜物の方 に執着する時、人間は不可能にもかかわらず自分の力で救いを勝ち取ろうとする。そのよ うな時、神は御手をもって介入する。神は繰り返し人間をヘリ下させて屈服させる。そう するのは、人間が次の真理を口にすることができるようになるためなのだ。「私には神が 与えて下さった多くの贈り物がある。しかし、そこからのみ喜びを見出そうとする位に愛 しいものにしてはならない。私はそれらを神がお認めになる間だけ用いることにしよう。 一つには神の栄誉のため、二つには自分の必要のため、三つには隣人の役に立つために。 もし神が贈り物を与えることをやめると言われれば、私は失うことから生じる困難や恥を 耐え忍ぼう。私にとっては、贈り物を与える神を失うよりも贈り物を失うことの方が良い からだ。」 我々をこのような心意気にするために神は全てを手中に収め、替わりに我々に御言葉を お与えになる。与えられた御言葉を通して聖霊が働き、我々を古いものから新しいものへ と変えるために。そうでなければ、救いも何も全てが失われるであろう。』 (以上ルタ ーの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)
「神のみことばは かたく世に立ちて み霊とたまもの わがうちに溢る。 わがいのちも わが妻子も 取らばとりね、神の国は なおわれのものぞ。」
ルターの作詞作曲による讃美歌から 教会讃美歌450番4節
柳
<1われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。2 われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。 詩編137:1・2>
春になると何時も気になるのが清掃工場の柳です。散歩の度に観察していましたら先日(3月8日)に漸く葉芽が開き遠目にも新緑の息吹が感じられました。芭蕉の句に「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな 」更に放浪の歌人、種田山頭火も歌っています、「柳ちるもとの乞食になつて歩く」。藤原定家も後鳥羽上皇と柳の事で争いました、定家の家の庭に植えてあった柳を上皇が自分の家の庭にへと勝手に引き抜いて行きました。定家は悔しくて歌で訴えました、「道のべの野原の柳したもへぬあはれ嘆きの煙くらべに」。上皇はそれが気に食わなかったと見えて定家を歌会の出席を拒んだとあります。柳は昔から人々に愛されてきた木でした。銀座の柳も新宿中央通りの柳も・・残念ながら今では見る事も出来ません、移り気な人の心を柳はその細枝を風に靡かせていました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2026年3月15日(日)スオミ教会説教
聖書:ヨハネ福音書9章1~41節
説教題:「生まれつき盲人の奇跡」
今日の福音書、ヨハネ福音書で大変長いですが読んだだけでわかります。まず、1~12節を見ますと、此処ではイエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人を見てこの人の目が見えるようにして下さった。と言う奇跡の業をなさいました。その、癒された業のいきさつを6節~7節に記しています。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、シロアム”遣わされた者”と言う意味の池に行って目を洗い、すると目が見えるようになって帰ってきた。」イエス様が病人を癒したり驚くべき奇跡の業をなさった時はたいていイエス様の力によって出来事が起こっています。ところが、此処でのイエス様はわざわざ唾をしてその唾で土をこね、そのこねた土を目の見えない彼の目に塗って、それをシロアムの池で洗いなさい。と言われています。どうしてイエス様の一言の言葉ではなくて今までとが違った手作業をいくつも踏んで行われているのでしょうか。この奇跡の業をなさったのが”安息日”でありました。当時のユダヤ教の掟によれば”安息日には全ての仕事を休む”と言う事になっていました。ところが、イエス様のこの盲人になさった奇跡の業は安息日にはしてはならない三つか四つの労働であったわけです。つまり、掟を破っていると言う事で此処にファリサイ派の人々が騒いだわけです。イエス様はユダヤ教の掟を知らなかったのではない、ご承知の上でなさった。そこで、ユダヤ教のファリサイ派の人々が先ず見えるようになった盲人を呼んで尋問しています。
問題は「彼の目を開けてくれた人物」はどんな人なのか、と言う事です。17節で盲人は言います。「私の目を開けてくれた人、あの方は預言者です」。ここで彼が「預言者だと思います」と言う意味の彼の本当の預言者は旧約聖書にある職業での預言者ではない。16節でこう記しています。「どうして罪ある人がこんな印を行う事が出来るだろうか」。正直にそのまま言っていますね。33節では目が見えなかった彼が言っております。「もし、あの方が神から来た人でなかったら何一つ出来なかった筈です。」彼は全身で自分に起こった出来事を現わして、あの方は神から来た人です、とまで言っています。そういうところから見ますと彼の言った「預言者だと思います」と言うのはまさに「神から来た超自然的な人物である」と言っているのです。ファリサイ派の人たちの中で色々と意見が分かれます。いったいどう考えるべきか。そうして遂に18節~23節にありますように、見えるようになった彼の両親を呼びつけて尋問しています。確かに息子は生まれつきの盲人であったのか、確かめています。更には「どうして生まれつき見えなかった息子が見えるように治したのか」「一体だれが治したのか」と問い詰めています。すると両親は「本人に聞いてください。もう大人ですから」と答えています。それが両親の自然の気持ちでしょう。そして、彼らはどうしてもすっきりしない。埒があかないので24節以下でもい一度盲人であった彼を呼びつけまして「神の前で正直に答えよ、私たちはあの者が罪ある人間だと知っているのだ」。ここまできますと彼らはイエス様を安息日に掟を破った罪人だと頭ごなしに言ってきます。元盲人であった彼はきっぱりと反論して言います。恐らくファリサイ派の人々がどんな酷い事をしかねないユダヤ教の人々である事もしった上で、彼にしてみれば命がけで反論します。「あの方が罪人かどうかは私にはわかりません。ただ、知っているのは目の見えなかった私が今は見える、と言う事です。」ここで彼はまさにありのまま神の前で告白しいる言葉です。あの、お方イエス様が成して下さった神の業によって自分の身に起こったこと。生まれつき見えなかった真っ暗な世界が、今は素晴らしい光の世界に何もかもが輝いて見えているというこの事実を喜びを持って証しているのであります。話の経過は私たちは読めばよくわかる話です。
著者のヨハネは何故こんなにもユダヤ教のしつこい尋問の事を長々と詳しく書いているのだろうか。18~23節のところで両親を呼びつけている場面で特にくどくどと記しているのです。特に問題なのはこの両親が「本人に聞いてくれ」と言い逃れたと言う事です。これはよく考えれば、ごく当たり前の事です。言い逃れでも、何でもない本人が一番よく知っている事です。両親がその場にいたわけではありません。息子が飛んで来て”眼が見えるようになったよ”と喜び勇んで両親にもとへやって来たのです。それで「あれに聞いて下さい、もう大人ですから」自分の事は自分で話すでしょう」と両親が言っていますが、問題はそう言わざるを得ないようです。著者のヨハネは22節でこう記しています、「両親がこう言ったのはユダヤ人たちを恐れていたからである。」ユダヤ人たちは既にイエスをメシヤである、と公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていたのである。両親が「もう大人ですから、本人にお聞きください。」と言ったのはそのためである。イエス様の時代にはまだイエスに味方する者はユダヤ教から破門するぞ、と言うような決定はなされていなかった。とこう考えた方が自然でしょう。だから、福音書でも古い時に書かれたマルコやマタイにはそうした記事は出てきません。ずうっと後の時代に書かれたヨハネ福音書だけが、此処の箇所にもう一つ12章42節で書いているのです。そこで、22節の文章は正確にはイエス様の生きていた時代、と言うよりもずうっと後の紀元1世紀終わりの頃、つまりヨハネがこの福音書を書いている当時の状況を織り込んだ文書ではないか、と進歩的な神学者たちは解釈した、恐らくそうでしょう。紀元1世紀の末の頃にはもうキリスト教とユダヤ教とがはっきり違う宗教だと考えられるようになっていた。そのような状況の中でイエスを信じるか、迫害を恐れてしまうかと問われている。目が見えるようにして頂いた彼は必死に告白しています。29~34節を見ますと、ファリサイ派の人々が言っています。「我々は神がモーセに語られた事は知っているが、あの者が何処から来たのか知らない」。彼は答えて言った。「あの方が何処から来られたか、あなた方がご存知ないとは実に不思議です。あの方は私の目を開けて下さったのに。神は罪人の言う事はお聞きにならないと私たちは承知しています。しかし、神を崇めその御心を行う人の言う事はお聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開ける人がいるなどと、これまで一度も聞いた事がありません。あの方が神のもとから来られたのではなければ何もお出来にならなかったはずです」。彼はありのまヽの真実を述べてます。こう言った彼をついに外へ追い出した。35節以下を見ますと、イエス様は彼と出会って「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った「主よ、その方はどんな人ですか」彼はまだ盲人であった時、イエス様の顔を見ていませんので、自分の目の前の方がどんな方かわからなかったのですね。かれは言う「その方を信じたいのですが」。
すると、イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ」。彼はどんなに嬉しかったでしょうか。彼の人生は180度、全く新しい世界に生きる事が出来るようになったのです。だれでも、まことに主イエス様と出合う人は全く新しい霊の世界に、その人の魂そのものが神の霊の世界にまで至る事が出来るようになるのです。彼は、「主よ信じます」と跪いたのでした。ヨハネがこの福音書を書いている時代のキリスト者たちはユダヤ教からの迫害に会って外に追い出されたり捕えられ殺されるような時代の只中で「イエスこそ、私の救い主、主キリストである」と命をかけて告白し戦っていった信仰者への励ましの福音であります。彼は生まれつき見えない真っ暗な世界から今は「見える」と言う彼が全身で受けた恵みの事実だけを告白しているのであります。イエス様がなして下さったこの奇跡は一つの象徴としてこの業を彼に起こさせ、そして私たちへのメッセージは肉体の目が見える世界から「信仰によって」霊的な目が開かれ、それにまことの霊の御国の光輝く栄光の世界を見る事が出来る希望が与えられているのです。此の世の物の世界では見えない暗黒から霊の世界が見えてくることこそイエス様が望んでおられる奇跡の意味です。神の世界から、此の世の人間へと遣わされて神の御国が見えるように霊の目が開かれるように。イエス様はあらゆる教え、奇跡の業を成して行かれたのであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン