お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
次回の手芸クラブは、かぎ針編みのスマホケースを作ります。かぎ針編みの基本の編み方を使って編みます。それでも表情豊かな可愛いらしい模様のケースが出来ます。是非、素敵なスマホケースをご一緒に作りましょう。
前回のバンド織のキーホルダーをご希望の方はそれを作ってもよろしいです。
手芸クラブではその他にも自分の好きな編み物もすることができます。 おしゃべりしながら楽しく作りましょう! 持物持物: 綿糸 100g 糸に合わせてかぎ針 参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
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日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」5月7日の日課
キリスト信仰者はじたばたしない、往生際が良いのだ(その1)。
「今日立てるものは全てあなたの決定による。なぜなら全てのものはあなたに仕えるものだからだ。」(詩篇119篇91節 フィンランド語訳の聖書による)
(注意 日本語訳は「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなたの僕です」。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは、日本語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書にはその意味はなく、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です(辞書はHolladayのConcise Hebrew and Aramaic lexicon)。日本語訳は意味不明なのでフィンランド語訳に従いました。ただし、フィンラン語訳には「なぜなら」がありません。ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)
『一般に、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、この御言葉を前にして理性は顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい近い存在であるということをわからないからだ。そのことを我々は信じられなければならない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られないと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前に跪かねばならないことになると既に決定を下していたのだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさ喜び祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。
同じことは我々の死にも当てはまる。我々が死に臨む時、それはあたかもそこに永遠に埋没してしまうかのように思える。しかし、まばたいた瞬間に今の天と地が終わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「ああ、私は永遠に生ける者になっている!」
以上のことを神は我々に聖書の中で数多くの事例をもって示しているではないか。神は低い者を高くし、高い者を低くされる方だ。全てのことはそうされる方の御言葉の通りに進む。それは、我々が神を除外して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを最終的には神の御心に委ねるしかないと観念し全面的な信頼を寄せられるようになれるためなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りにならないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』
主日礼拝説教 2025年5月11日 復活後第四主日
使徒言行録9章36節ー43節、黙示録7章9節ー17節、ヨハネ10章22ー30節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について述べます。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10章27ー28節、後注1)。イエス様の羊は、彼の声を聞き分けて従い、永遠の命を与えられて、この世においても次に到来する世においても滅ぼそうとする者から完全に守られている。そのような羊とは誰のことか?それは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者のことです。
イエス様の「声を聞き分ける」とはどういうことか?死から復活して天に上げられたイエス様の肉声を私たちは直に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った言葉は、弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。もしイエス様を自分の救い主と信じないで、ただ単に歴史上の人物に留めて福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史的な物語、または一種の道徳説話集にしかすぎなくなります。しかし、イエス様を自分の救い主と信じて読むと、それはこの自分を形作って命と人生を与えてくれた創造主の神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻してくれた救い主メシアの言葉になります。まさに彼が私たちに語りかける言葉になるのです。聖書の福音書以外の書物についても、使徒たちの手紙は復活の主が彼らに託したご自分の意思の集大成です。旧約聖書も、神のひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらした神がどのような方であるかを前もって明らかにした書物群です。総じて聖書はイエス・キリストが至るところにいる書物です。聖書を繙くと、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに彼のことを知ることができるのです。
イエス様はまた、彼の羊つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いのイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。ということは、私たちが日々何を考え、何をし、どんな状況に置かれて何を必要としているか全てご存知です。そして、何ものも彼の手から羊を奪い取ることはできないと言われる通り、信仰者を守る決意でいます。人生歩んでいろんな苦難や困難に遭遇するとキリスト信仰者と言えども、自分は本当に守られているのだろうかと疑いを持つことがあります。しかし、永遠の命を与えてくれた以上、その命が本当のことになるまで守り導くと言うのです。羊の方は彼の声を聞き分ける、つまり聖書の御言葉を心に留めてイエス様に従っていけば、永遠の命が本当のことになる地点までちゃんと送り届けてあげると約束しているのです。
本日のもう一つの聖書の日課、黙示録の7章では小羊の血で衣を白くされた大勢の群衆が登場します。天使はヨハネにこの光景を見せることで、イエス様がキリスト信仰者を日々守り導き目的地まで送り届けてくれることは間違いないと示しているのです。今日は、黙示録のこの個所を通してヨハネ福音書にあるイエス様の約束が本当であることを見ていこうと思います。
黙示録は、今ある天と地が消え去って新しい天と地が創造される時、その前後を通して何が起きるかについて記した預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。時は、今ある天と地がまだある時でしょうか?それとも新しい天と地が創造された時でしょうか?黙示録という書物は時間の流れが複雑です。出来事の順序が前後しているようなことが沢山あります。異なる時間に起こることが同時に起こっているようなこともあります。なので、この群衆が出てくる場面は新しい天と地が創造される前のことか後のことかについてはここでは考えないことにします。
神の座する玉座と小羊の前に白い衣を身に着けた大群衆が集います。いろんな国民や民族の中から集まった、今風に言えばグローバルな集団です。彼らは何者か?天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。
「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか赤くなってしまうではないか?
イエス様が流された血で衣が白くされるとは次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと身代わりの犠牲の生け贄になって血を流して死なれました。つまり、イエス様は私たちの罪をご自分の血を代償にして償って下さったのです。だから私たちは、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。そうすると罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者とみなされてそれで神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。イエス様が復活を遂げて切り開いてくれた永遠の命への道を私たちは神との結びつきを持って歩むことができるようになったのです。
私たちに償ってもらわないといけない罪があるなんて、身に覚えはないと言う人もいるかもしれません。しかし、私たちは神に造られた最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向を受け継ぐようになってしまったというのが聖書の観点です。神の意思を凝縮したものに十戒があります。人を傷つけるな、妬むな憎むな、真実を曲げるな、夫婦関係を守れ等々いろいろあります。私たちは、行為で反することはしなくても、心の中で反したり言葉やその他の表現の仕方でこれらに反することをしてしまいます。それで私たちは皆、神のみ前に立たされたら罪を持つ者なのです。
聖書はそのような罪は洗い落とさねばならない汚れであると言います。例えばゼカリヤ3章に汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩があります。天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、天使はそれでヨシュアから罪を取り去ったと言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、民が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということが普通に行われるようになりました(レビ記17章11節)。
しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の御前に立たされてやましいところがない、潔癖だと言える者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの定めにせよ、それらは実は真の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ本番ではなかったのです。「ヘブライ人への手紙」9章で、エルサレムの神殿やそこでの礼拝儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われています。「まことのもの」が来たら無用になると言うのです。神殿では罪の償いのために生け贄の捧げを繰り返し繰り返し行っていました。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償うという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。
こうしてイエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されたと見てもらえるようになった人は、かの日に神のみ前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じて生きてきました、神聖なあなたの前で私がすがれるのはイエス様しかいません、と言えば、神は、わかっている、心配はいらない、とおっしゃって下さるのです。このように人間が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのは、神の目に相応しい者になれているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が果たしてくれた償いと、それをその通りですと受け入れる信仰のおかげでなれたのです。ヘブライ9章で、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜいみかけの清めにすぎない、イエス様の血こそ人間の良心を死んだ業から清めると言われます(9~10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ていると言われます。ローマ13章14節では、洗礼の後でも残存する罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われます。
このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。
白い衣を着た群衆というのは、イエス様の血で衣を白くされることを自分の事にしたキリスト信仰者のことです。彼らは「大きな苦難を通って来た者」です(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録が書かれた背景を考えると迫害を指すと考えられます。しかし、迫害以外にも「大きな苦難」はあります。ここで注意しなければならないことは、迫害による殉教にしろ、何か別の苦難のために命を落としたにしろ、神の御許に迎え入れられるのは、信仰者自身が流した血のご褒美・見返りではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分からそれを手放さない限りみな同じように神の御許に迎え入れられるのです。
この衣を白く保ち、手放さずにしっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えてみたく思います。
何が白い衣を汚し、それを手放させようとするのか、二つのことが考えられます。一つは、罪が頭をもたげてしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。
まず、白い衣を汚そうとしたり手放させようと力はまさに罪の力です。私たちは、イエス様の果たされた私たちの罪の償いと彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され罪の支配から解放されました。にもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを持ってしまうことがあります。言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。罪は十字架の上でイエス様と一緒に断罪されたのだから、本当は人間と神との結びつきを失わせる力がなくなっています。それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪が頭をもたげたら、それを罪として認め、本気で跳ねのけるしかありません。心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで断罪されたことを思い出します。それを思い出されてしまった罪は地面にたたきつけられます。その瞬間、衣を手放させようとした強風はやみます。神は私たちがこのように衣をしっかり纏っていることを見て、よしとされるのです。その時、私たちは汚れがついてしまったのではと心配した衣は以前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気づきます。
そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能で、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がないと私たちをあきらめムードにして手放させようとしているのです。イエス様が果たした償いの業と彼が纏わさせてくれた白い衣は、私たちに罪が頭をもたげようがもたげまいが全く無関係に同じ力強さ同じ輝きを誇っているのです。
もう一つ、白い衣を手放させようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。難しいことですが、一つ忘れてならないことは、イエス様が果たした償いの業と彼が私たちに纏ってくれた衣に力がなくて、私たちが苦難と困難に陥るのを阻止できないということではありません。
「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時があると言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが罪の赦しの恵みに留まり、聖書の御言葉から絶えずイエス様の声を聞き、聖餐に与ることをしていれば、何があっても失われず保たれているのです。
天の長老は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています(後注2)。はて、群衆は一通り苦難を通って来た後で天の神のみ前にいるのだから「通って来た者」と言った方が正確ではないか?(後注2)なぜ「苦難を通って来た者」ではなくて、「現在、苦難の中から来る者」なのか?
これは、天の長老とヨハネの視点が将来のところから今のこの世に戻って、今この世で苦難を通っている人たちを念頭に置いているからです。ヨハネが目の前で見せられている終末の出来事は遠い将来のことで、そこから過去を振り返って見れば「苦難を通って来た者」になります。ところが現在形で「今、苦難の中から来ている者」と言うと、ヨハネの同時代のこの世で苦難を通っている人を指すことになります。加えて、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことになります。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通過している苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に群衆が集まっている現実があって、二つの現実が紙一重のようになっていることに気づくのです。衣を白くしてくれた小羊は私たちを命の水の源に連れて行ってくれる、そこは太陽の灼熱のような苦難や困難はなく、神が全ての涙を拭って下さるところである、そのような場所が今の現実のすぐ反対側にもうあるのです。復活の主が必ずそこへ連れて行って下さるのです。まさに、ヨハネ福音書の日課の個所のイエス様の言葉、私たちに永遠の命を与え、私たちは彼の手のうちに守られ何ものも私たちを彼の手から奪い取ることはできないというのは真にその通りなのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注1)ヨハネ10章29章はとても厄介な個所なので今回は扱いませんでした。
新共同訳では「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神がイエス様に与えたものです。
フィンランド語訳では「羊たちを私に与えてくれた父は他の何よりも偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神です。
さあ、偉大なものは神なのか?神が与えたものなのか?英語訳(NIV)とドイツ語訳(ルター訳)はフィンランド語訳と同じです。スウェーデン語訳は新共同訳と同じです。この違いの原因は、ギリシャ語の原文がどっちにも取られるものだからです。私としては、「全てのものより偉大なもの」と言ったらやはり神が来るのが自然ではないかと思います。少し時代が下ったギリシャ語の写本もそのように修正(?)を施しています。
(後注2)13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。それなので、答え方も分詞の現在形ερχομενοιでなく、アオリストのελθοντες(現在完了形ελελυθοτες?)の方が普通だったら筋が通るのではないかと思いました。だからここは普通ではないことがあるのです。
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月29日の日課
日本語で死期が近い状態を言い表す時、少し無作法な言い方ですが、「片足を棺桶に突っ込んでいる」などと言います。 宗教改革のルターは、キリスト信仰者とは左手をこの世に引っかけて右手は次に来る世に引っかけて生きる者だと言います。それは、片足を棺桶に突っ込んでいるようなレームダック(死に体)の状態なのでしょうか?いいえ、キリスト信仰では事情は全く逆であることを、ルターが次のように説き明かしています。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」(ルカ21章34節)
『これは、まことになくてはならない警告だ。我々は決して忘れてはならない。もちろん、主は飲み食いすることを禁じたりはしない。主は言われるだろう、「飲むがよい、食べるがよい。神はそれをお前たちにお許しになる。生活の糧を得るためにあくせくせよ。しかし、だからと言って、それらのことがお前たちの心を支配してしまって私の再臨に思いを馳せなくなってしまうようなことがあってはならない。」
我々キリスト信仰者は人生の目的を永遠的でないこの世的なことに定めてしまうのは相応しいことではない。我々は自分自身の半分、つまり左手をもってこの世の人生を生きるべきだ。もう半分、つまり右手をもって主の再臨を心から待ち望むべきだ。その日、主はあらゆる王を超えた陛下の威厳と栄光を伴ってて再臨される。
今ある天と地が終わりを告げる日まで、人は家を建て結婚式の祝宴を催し屈託のない日々を送っている。他には心に留めることは何もないかのように。しかし、主は言われる、「汝ら、キリスト信仰者として生きる者よ、今の世に終わりがあることを忘れるな。神を畏れかしこむ心を持って生き、神の前に立たされる日には大丈夫、私を救い主と信じているからやましいことはないと言い聞かせられる良心を保て。そうすれば、その日は何も心配はない。」
我々はその日をいつどこで迎えることになろうとも、その日は我々にしてみればまことに幸いな日なのである。なぜなら、神を畏れかしこむ心を持ってその日を迎える我々は、まさにイエス様を救い主と信じる信仰がもたらしてくれた神の守りに包まれてその日を迎えられるからである。』
主日礼拝説教 2025年5月4日 復活節第三主日
使徒言行録9章1節-20節
黙示録5章11節-14節
ヨハネ21章1-19節
(なんだか説教題は文系の学生の卒論のテーマみたいになってしまいましたが、内容的にはまさしくそれなのでこの説教題でいきます。)
本日の福音書の日課は復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロと他の6人の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。
まず、イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きます。「子たちよ」というのはギリシャ語原文で大人の男たちに呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。なので、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。「ないんだろ?」と聞かれて弟子たちは「そうだよ。ないんだよ」と答えたのでした。答えを受けてイエス様は「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドバイスします。
このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は処刑された男の仲間だと知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまい、自分たちで食べ物を探すしかない状況になってしまった。彼らは空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかると助言しました。そして、見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。
まさにこの時、弟子たちは、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が脳裏に蘇ったでしょう。ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。夜通し漁をしたにもかかわらず何も獲れなかったと言うペトロにイエス様は沖に漕いで網を下ろしてみなさいと命じました。そうしたら舟が沈まんばかりの魚がかかったという出来事です。福音書の記者ヨハネが、あれは主だと叫びました。それを聞くや否やペトロは一足先に復活の主に会おうと湖に飛び込もうとします。が、自分が裸同然であることに気づきます。これでは失礼にあたると思ったのか、慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロらしい行動様式ではないでしょうか?
こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。イエス様は、「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを準備してもらって、弟子たちの喜びはいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい励まし力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる通りです。
食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。それは表面的な意味です。本当はもっと深い意味があります。
イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。
「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる愛の形を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφια、愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時はフィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。
それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーと同じ愛の形です。アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということになります。
そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない位の強い愛はないと思います。
それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういう愛だと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、神は人間を何の危険から守るためにどんな自己犠牲を払ったのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てないようにしていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられないようにしていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。その犠牲がゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いが私たちの償いになり、私たちは神から罪を赦された者と見なされ、こうして神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。
イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、他の弟子が見捨てても私はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「人間的な愛で愛しています」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで聞かず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?あんまりです!という様子が窺われます。
ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロを信用していたのです。どうしてかというと、ペトロの答えの後で「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。三回繰り返すことで、イエス様を愛することは牧会の基礎であるということを心に刻みつけたのです。
それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人であると言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、イエス様を愛することになると言うのです。
それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去ったら今度は復活させられて神の御許に迎え入れられるようにすることです。
そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に持つ神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうです。それで信仰者を苦難や困難から助ける時は、神との結びつきがしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。
イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、隣人が信仰者でない場合でも苦難や困難から助ける時は、神との結びつきを持てるようにすることが視野に入ります。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは覚悟に入れる必要があるでしょう。宗教改革のルターは、財産や命を失う可能性すらあると言っているほどです。これが、イエス様に対する自己犠牲の愛ということです。
ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」このイエス様の言葉を見てみましょう。
キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。
ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのかと。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのかと。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?
それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。
このような神の真理を胸張って証しするように生きようとすると、いろんな反対に遭遇します。というのは、この世というのは本質的に造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。それで、もし神の真理など取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しくされたということをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。
私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えだと勘違いしてしまいます。それなので言葉や行いや生き方を持って証しをすることは良心・信条の自由が存続するためにも大事です。
最後に、本日の使徒言行録の日課の個所で復活の主がパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を信仰をもって読んだり聞いたりする時、また聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。臨在するというのは、ただボーっと突っ立っていることではありません。私たちの境遇や状況を自分事として受け止めて事を動かそうと影響力を及ぼすことです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。
今日の福音書の個所でも、イエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っていました(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)。まさにその時に現れました。そしてアドバイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を取り戻して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。
(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。
4月の手芸クラブは23日に開催しました。暖かい雨の日で梅雨を思わせる陽気でしたが、今は色んな花が咲いているので、とても美しい季節です。
今回の作品は前回に続いてバンド織りのキーホルダーです。はじめに前回と同じように参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。
それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく今回初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。慣れた方々はもう少しレベルアップしてハートなどの模様も作られました。皆さんは自分が作っているものに集中していましたが、他の方が作っているものにも興味があって少し見に行ったりしました。その時は、かわいい!きれい!素敵な色合いね!と感心し合う声があちこちから聞こえてきました。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。イースター・パイナップル・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、ハートやそれに関連してイースター復活祭の後に起こった出来事についてお話がありました。
次回の手芸クラブは5月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は前回に続いて、織物のNauha を作りました。皆さんと今日も素敵なNauhaを織ることが出来て、嬉しいです。今日はNauhaに可愛いらしいハートの模様も作りました。少し難しかったですが、織れるようになると、もっとたくさん作りってみたいという気持ちになります。次はどんな模様が織れるようになるのか楽しみです。
ハートのシンボルはあちらこちらで見かけられ、様々なことを象徴しています。例えば愛、友情、感謝、信頼などを象徴しています。最近は、友達同士がメールやメッセージでハートの絵文字を使って相手を喜ばせるのも、普通になっています。ハートは色んな意味を持っていますが、最も一般的なのはやはり愛でしょう。
聖書には愛について沢山書かれています。この前の日曜日はイースター復活祭のお祝いでした。スオミ教会でも盛大なお祝いを行いました。これからお話するのは、イースター復活祭の後に起こった出来ことです。イースターの前にイエス様が十字架で亡くなられましたが、三日後週の初めの日に天の神さまの力で蘇らせられたのです。その後イエス様は何度も弟子たちの前に現れました。弟子のペテロにも現れました。ペテロはイエス様が十字架に付けられる前にイエス様の裁判様の様子を遠くから見ていましたが、イエス様の弟子であることを人の前で三回も否定してしまいました。
次の場面はティベリアス湖という湖のほとりで起きたことです。そこにペテロもいました。イエス様は弟子たちに食事を用意して一緒に食べました。その後、イエス様はペテロにこう尋ねました「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペテロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。イエス様はかつて、ペテロが自分のことを知らないと言ったことをよくご存じでした。イエス様はこの質問「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」をペテロに三度も繰り返されました。ペテロはイエス様が不信感を抱いていると思い過去のことを思い出して悲しくなりました。同時に自分の愛は不完全であることにも気づきました。ペテロは自分の弱さもよく知っていたのです。完全な愛を持っておられるのはイエス様だけだということもペテロは理解していました。
もし私たちがペテロの立場にいたら、どう感じるでしょうか。私たちもペテロと同じように弱く、自分の愛の不完全さに気づくでしょう。その時、イエス様の質問を逆に「イエス様は私たちを愛しているか」と考えてみると良いでしょう。聖書はこの質問に明確な答えを示しています。新約聖書のヨハネの第一の手紙4書10節には次のように書かれています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
神さまの愛は、人間の愛と比較することは出来ません。神さまの愛は無条件の愛でとても深いのです。私たちは神さまが教えて下さることを忘れてしまったり、神さまの御心に従って生きることが出来ません。私たち人間の愛は不完全です。そのことが、嘘をついたり、悪いことを話したりすることを通して現れてきます。イエス様の弟子たちも同じような弱さをもっていました。それにも拘わらず、神さまはそんな弱い私たちを愛して下さいます。
神さまの愛はどのように現れたのでしょうか。それはイエス様の十字架の出来事を通してはっきり示されました。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人の救い主になられたのです。これより深い無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々に対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはその愛をただ受け取るだけでよいのです。ここに、神さまの私たちや世界全ての人々に対する愛があるのです。
イエス様がイースターに復活されて弟子たちに現れた時、彼らはやっと神さまの人間に対する愛、救いのご計画を理解することが出来ました。私たちはイエス様のお姿は見えませんが、
聖書を読んだり、み言葉を聴いたりすると神さまの愛を信じることが出来るようになります。その時、私たちは弟子たちと同じようにイエス様の愛に包まれます。
今日はハートの模様のNauha を作りました。これからハートの印を見る時にイエス様の深い愛のことを忘れないように行きましょう。
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月17日の日課
「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(第二コリント5章15節)
『自分の益のために生きる生き方は呪われよ!神から頂いた賜物が大きなものであると気づけば気づくほど、我々は自分を低い者へと自らヘリ下させて他者に仕えることができるようにしなければならない。正しいキリスト信仰者は、キリストが行ったように全ての人に仕え、神から頂いた賜物のゆえに偉ぶるということがなく、他者を見下すことをしない者である。しかし、我々は、死ねばミミズの餌にしかなれない惨めな存在でありながら、与えられた賜物がちっぽけなものだったら動転して、自分たちこそ仕えられなければならないと騒ぎ立てるだろう。つまり、全ての人は自分たちに仕えなければならないのであって、自分たちは仕えなくていいというのだ。
他者に仕えて助けてあげるというのはキリスト信仰者にとって自然なことである。たとえ我々が神の召しによって社会的に高い地位につけ名望を博そうとも、生き方自体は他者の益を中心にしなければならない。高い地位につければつけるほど、それに応じて自分を一層低くし他者の益の増進に務めなければならない。
神も、ひとり子イエス・キリストを通して、我々を罪と死と悪魔と地獄とあらゆる不運から救い出して、我々の上に恵みを豊かに注いで下さったのだ。この恵みのゆえに我々は、律法を守らないとこれらのものから救い出してもらえないという律法主義を脱することができたのだ。神が先手を打って我々を一方的に救い出して下さったからだ。恵みを通してお与えになった賜物に関して神が我々に求めているのは、神が我々に対して振る舞ったように隣人に対して振る舞いなさいということに他ならない。』
「神が我々に対して振る舞ったように隣人に対して振る舞え」というのは普通、神が私たちの罪を赦されたのだから、私たちも互いに赦さなければならないと理解されると思います。しかし、もっと深いことがあります。神がイエス様を通して確立した「罪と死と悪魔と地獄とあらゆる不運からの救い出し」を隣人に及ぼすことがそれです。つまり、キリスト信仰者が「罪の赦しの恵み」に留まれるように励まし支えること、そして、まだ恵みの外にいる人たちをそこに導いてあげることです。
杜若・カキツバタ・Kakitsubata
<15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。 16 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15・16>
近くの池に今年もまた杜若が咲いていました、何時咲くかと先週から幾度も様子を見に行っていましたが恐らく今朝(29日)早くに咲いたのでしょう。間もなく五月で夏になりますね初夏の花と言えばこの杜若と卯の花(ウツギ)ですが先日みた卯の花はまだ蕾でした。アヤメ・ショウブ・カキツバタ?なかなか判断が難しいです。アヤメ→乾燥した所、畑など・ショウブ→水気の多い所、田圃など・カキツバタ→水のある所、池など。と覚えておけば便利です。春先のフデリンドウから始まってヤマフジ、カキツバタ、キリと青系の花を追いかけてきましたが好きな青色に惹かれたせいでしょうか。
かきつはた佐紀沼の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年ぞ経にける (カキツバタが咲く沼に生える菅を笠に縫い立ててかぶる日を待っているうちに年月が経ってしまった。)万葉集11:2818 詠み人知らず
子ども料理教室は4月19日に開催しました。この日はちょうどイースター/復活祭の前日だったので、みんなでイースター・パイナップル・マフィンを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にマフィンの生地を作ります。小麦粉などの粉類を計ってボールに入れ、別のボールにはヨーグルト、卵などを入れてよくかき混ぜます。さっそく「美味しそうな香りね!」との声が聞こえてきました。粉類をヨーグルトと卵のボールに少しずつ加え、子どもたちはさらに一生懸命かき混ぜました。だんだん生地の感じになってきます。そこで、パイナップルを細かく切って生地の中に入れてさらに混ぜて、これで生地の出来上がりです。子どもたちは生地を一つ一つマフィンカップに入れて「どんな味になるかなぁ」と楽しそうです。鉄板はあっという間に生地のマフィンカップで一杯になりました。それからオーブンに入れて焼き始めます。
マフィンを焼いている間にイースターエッグの飾りつけをしました。可愛らしい模様のラッピングで卵をくるんでお湯の中に入れると、ラッピングはピタッとくっつきます。くっつく度に「わー不思議!」、「可愛い!」との声が聞こえてきます。可愛い模様のイースター・エッグが沢山出来上がりました。
ここまでは作ることが多くて少し一休みします。そこでイースター/復活祭の時に何が起こったかをみんな一緒に聖書のフランネル劇を観ました。イースターの前の週イエス様は私たち人間が救われるために多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。しかし、次の週の始めの日、日曜日にイエス様は神さまの力で死から復活したのです。イースターの時、私たちはこの出来事を覚えて喜んでお祝いするのです。そしてイエス様を復活させて下さった神さまを感謝するのです。
フランネル劇が終わる頃、マフィンの香りが教会中に広がっていました。マフィンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味になったかはこれからの楽しみです。今回は子どもの家族の他にも大人の方々のご参加もありました。それでマフィンも沢山できあがりました。
みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったマフィンをいただきましょう!子供たちは食べることに集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい歓談の時を持ちました。子どもたちはみな友達になって食べ終わってからも楽しそうに遊びました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。
今フィンランドでも春の季節が深まってきています!5月の料理クラブではフィンランドの伝統的なドーナツ「ムンキ」を作ります。表面はサクサク、中身はソフトな甘いムンキの秘密はプッラの生地で作ること。
全国どこのカフェでも味わえる、フィンランド人の大好きなドーナツ風プッラです。「ムンキ」は特に5月1日のお祭り「ヴァップ」に欠かせません。それを味わえなかったらヴァップのお祝いにならないと言われるくらいです。そんなフィンランドの春の風物詩ムンキを一緒に作って味わいませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1750079478iamg@1750079478arumi1750079478hsoy.1750079478iviap1750079478 まで。