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歳時記

その後のソメイヨシノの実

〈このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 詩編13

クローン桜のソメイヨシノにも実がなる事もあるという事を先刻知りました。その後その実を見に行ったら成程、立派な実になっていました、試食してみるととても甘く種もありました。その中から五粒ほど種を取り出窓の鉢に植えてみました。さて、果たしてどうなるか見ものです。

 

2026年6月28日(日)10時半 聖霊降臨後第五主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年6月28日(聖霊降臨後第五主日)

エレミア28章5-9節、ローマ6章12-23節、マタイ10章40-42節

説教題 「キリスト教徒で何が悪い!」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課は二人の預言者エレミヤとハナンヤの対決場面でした。時は紀元前590年代、ユダ王国は強大なバビロン帝国に攻められて首都エルサレムは陥落。バビロンの王は自分の言うことに聞き従う者を王に仕立てて一旦引き返します。エレミヤは、国民に向かってユダ王国はバビロンによってさらに徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えました。その時ハナンヤが現れて、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻るなどと逆のことを宣べ伝えたのです。国民はエレミヤの預言にあきあきしていたので、ハナンヤの預言を聞いて、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。それに対するエレミヤの反論が今日の個所です。

 実際に歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ほどなくしてユダ王国は再度バビロン帝国の攻撃を受けて、エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は町も神殿も完全に破壊されて滅亡します。全てエレミヤの預言した通りになったのです。

 神はエレミヤに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだのでしょうか?エレミヤ書を通して見ると、そこには滅亡だけでなく国の復興についても預言されていることに気づきます。民が連行された異国の地で心から神に立ち返ってその名を呼び求め祈りを捧げるならば、神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(29章11~14節)。実際、歴史はそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャの王の勅令によって祖国帰還が認められます。エレミヤが預言した通りになったのです。

 イスラエルの民のバビロン捕囚と祖国帰還という出来事から、神は人間に対して二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。神は罪を忌み嫌いそれに対して神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神についての真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事や歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとするように変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。

 本日の説教では、まず、この神の真理を礎にして生きる生き方はどんな生き方かということを本日の使徒書の日課ローマ6章から見てみます。次に、その生き方をこの日本で生きるとどういうことになるかということを本日の福音書の日課マタイ10章をもとに見ていきます。

2.神の真理を礎にして生きる生き方

 神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあるという神の真理、この真理が如実に現れたのが、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事でした。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、人間が天の神のもとに迎え入れられる道を切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この真理を礎にして生きる生き方はどのようなものになるでしょうか?

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。そして、イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死ぬ

のだと。これは、罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。

 罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるのみだと言います。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになります。罪に背を向け神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態になったのです。ただし、いくらイエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態になってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという外見上のことが残っているだけです。実質的なことはもう既に起きたのです。

 それなので、神の真理を礎にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨したらあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそういう状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を思い出すといいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人の持っているものを妬んで、それを損なったり自分のものにしようと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。

 こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからですが、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者ではなくなっているのです。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。それはまだ復活の体を纏っていないので無理もないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるか、その真実を知ってそれを自覚して生きることが大切になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫でいられる状態、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを信じて償いを自分のものにした人は神の義を持てるのです。

 ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたのだから、解放は神のお恵みです。人間が神の掟を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。だから「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っているのでなかなか出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、この朽ちる肉を纏ったまま神の真理を礎にして生きるとそうならざるを得ないのです。そういうわけで、この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。

3.日本で神の真理を礎として生きる

 福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教えは、預言者を預言者だから受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人だから受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子だから冷たい水一杯を与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。一つ注意すべきは、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみな預言者ではないということです。神の意思に沿っていないといけません。神の意思は聖書に記されています。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理を礎にして生きる人です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える人です。

 マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。つまり、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を受け入れて世話をする人は、それらの者が将来神から受ける報酬と同じ報酬を受けるというのです。ローマ帝国の迫害期にそのようにパウロを初めとする使徒たちを世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時もそうでした。例えば、密告に対する報奨金制度がありました。この制度のもとで聖職者や信者だけでなく彼らを世話したり匿った人もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人と同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世ではポジティブな意味で神から同じ報酬を受けられるのです。

 日本で世話する人がされる人と同じ立場に置かれるというのは、江戸時代だけではありませんでした。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、フィンランドのミッション団体SLEYの宣教師8人が帰国の機会を逸して戦争中ずっと日本に留まらなければなりませんでした。当時キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、自由に伝道や礼拝が出来なくなっていました。礼拝をしても当局が差し向けた目つきの鋭い男たちがやって来て、説教の最中に質問と称して言いがかりをつけて礼拝を妨害したこともありました。ゾルゲ事件の影響でしょう、宣教師が町中の人たちからスパイ呼ばわりされたこともありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれました。彼らの面倒を見たり面会をした日本人の信徒たちは周囲から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられました。そういうことが江戸時代ではなく、三世代位前の日本で実際にあったのです。

 現代の日本ではこのようなことはなくなりました。日本には数多くのキリスト教系の学校や施設があり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教の存在や果たす役割はとても大きいです。それでは、もう同じ報酬を受けるという状況はなくなったと言えるのか?最後に少し考えてみましょう。

4.勧めと励まし

 日本の総人口の中でキリスト教徒が占める割合は1パーセント未満です。社会の中での存在や役割は大きいとは言っても、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。それについては宗教学や社会学、文化人類学のいろいろな説明があると思います。一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神に合わないというような議論があります。。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。この見解はいかがなものか。暴力と武力で消滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは原因と結果のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。

 キリシタン禁制の時に日本人は全員どこかの寺に所属するという檀家制度が始まりました。所属する寺があり、そこに墓があるというのは私はキリスト教ではありませんと証明するためだったのです。最近、線香をたくことはいつから始まったのかAIに聞いてみました。答えは、仏教が日本に伝わった時に始まったが、最初は線香が高価なものだったので貴族などに限られていた、しかし、江戸時代初期に一般民衆に広まるようになったと。「江戸時代初期

とあったので、線香をたくことと檀家制度は関係があるかと聞いたら、ありますと。檀家制度の下で祖先の霊を弔うことが重要になり、そこに中国から線香を安く大量に作る技術が伝わって線香が広く普及するようになったと。つまり、檀家制度と線香をたくことは、キリスト教の否定と裏表の関係だったのです。

 もちろん、現代では檀家制度と線香にキリスト教否定の意味があるとはあまり意識されていないでしょう。菩提寺がある人も線香をたく人も、子供をキリスト教系の幼稚園や学校に入れたり、キリスト教式で結婚式を挙げたりします。江戸時代だったら拷問ものです。しかし、キリシタン禁制から400年の時が経ち、日本人には死者の霊を祀るという霊性が深く根を下ろすようになったと思います。仏教の儀式を通して仏壇や位牌や骨壺などに亡くなった方の魂が入っていると信じられます。仏壇や墓の前で目に見えない相手に話しかけたり、願いごとを打ち明けたり、見守りを感謝したりしてコミュニケーションを保ちます。そして、そういうことがキリシタン禁制のずっと前からあったかのごとく、日本の歴史そのものであるかのようなイメージが持たれるようになりました。

 そこに、キリスト教がやってきて、亡くなった方は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、眠っているから何もしない、だから、墓や仏壇のところでたたずんで焼香や供え物が来るのを待ったりしない、それに私たちを見守ってくれるのは私たちの造り主、天の父なるみ神だけだ、などと言ったら、なんと思いやりのない宗教だ、と言われてしまうでしょう。キリスト教が伝統的な国では亡くなった方を追悼する式をメモリアルサービス、思い出の礼拝と言います。それが日本語でしばしば「慰霊祭

と訳されます。メモリアルサービスでは、亡くなった方の霊を慰めることはしません。慰めるも何も、亡くなった方にはもう何もなしえないので、メモリアルサービスしかないのです。このようにキリスト教では亡くなった方との関係は、その方の思い出(メモリー)を何ものにも代えがたい貴重なものとして大切にするということに尽きます。これが亡くなった方に関するキリスト教の思いやりの形です。それでキリスト信仰者は、その方と過ごせた過去の日々を神に感謝し、将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて神に祈りながら今を生きるというスタンスになるのです。

 そういうのはキリスト教が伝統的に強い欧米の考え方で、日本人には合わないと言われるかもしれません。しかし、檀家制度や線香をたくことが確立する以前の日本で多くの日本人がキリスト教徒になったという事実はどう考えたらよいでしょうか?彼らは、日本人に相応しくないことをしていたのでしょうか?当時の日本は下剋上でまさに諸行無常の世でした。その中で、力によらない真の正義とか諸行無常に代わる永続的なものを求める心が人々の中にあったとしても不思議ではありません。キリスト教がそれにマッチしたのではないかと思います。ただし、明治期のキリスト教受容は、欧米の圧倒的な力の差を見せつけられて、自分たちもああなりたいということがあったのではないかと思います。(第二次大戦後の受容はどうでしょうか?)

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!確かに、キリスト教は欧米を経由して入ってきました。しかし、聖書の内容は欧米の文化文明の教本なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエントと地中海世界を舞台に選んで人間を救おうという意思とそのための計画を知らしめたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後の世界に伝えようとしたのが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。先ほど述べた神の真理を礎にして、復活の日を目指して、体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが欧米化なのか?これのどこが日本人に相応しくないことなのか?和辻哲郎は第二次大戦直後に著した「鎖国」という本の終わりで、キリスト教を壊滅させたツケは今次の敗戦という形で回って来たのだというようなことを言っているくらいです。キリスト教徒で何が悪い!日本にとって何にも悪いことはないのです!むしろ、今の日本にとっても必要すぎるものなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その2)

「アウグスブルグ信仰告白」は教文館から出ている「一致信条集-ルーテル教会信条集」(1982年)の中に収められている。それを学びの時のテキストに用いているが、はっきり言って日本語の文体がわかりにくいところが多く、何度か読み返さないと先に進めないことがよくある。フィンランド語訳を読むとスッと頭に入るのに。それで、学びの時はいつもフィンランド語訳とラテン語原文を脇に置いている。

ChatGPTに「日本語訳はわかりにくい」とコメントしたところ、「それは格調高いから」などと返って来た。何を寝ぼけたことを!大学受験の高校生の英文解釈の答案のような日本語を格調高いなどとは笑止千万(今の高校生の日本語力と英語力は昔よりも向上しているでしょう)。それで、ChatGPTにラテン語の訳を頼むのはやめた。

Lithon社が2015年に出した「アウグスブルク信仰告白」はスッと頭に入る訳である。ところが、それはラテン語版ではなくドイツ語版の訳。両者はいろいろ違いがあり、20条もラテン語版にはあるがドイツ語版にないものがあったりして厄介である。フィンランド語訳の解説に「神学用語の観点からするとラテン語版の方が正確なので優先させるべき」などとあるので、結局は自分で頑張るしかない。

ラテン語能力は、神学部時代の23年前に中級までは行ったが、上級はまさに「アウグスブルグ信仰告白」を独習して、持ち込みなしで試験を受けるというもの。折しもアラム語の授業も受けていて、二つの同時履修は、二人の幼い子供を抱え、妻は仕事という身では無理(他にも履修科目はある)。それで上級は断念(ただ、アラム語がわかるようになったおかげで修士論文と博士論文が書けた)。しかし、まさか今になって上級の知識が必要になるとは夢にも思わなかった。なので、学びの時はフィンランド語訳を基準にしてラテン語文をチラチラ覗いて、これはこれ、と照合するのが精一杯。

20条の日本語訳で私が一番困ったのは、bona operaの訳。教文館のでは「よい行い」。「行い」では広すぎて、礼儀正しいことや心がけが良いことも入ってしまい、20条で言わんとしていることから離れてしまうのでは?英語ではworks、ドイツ語ではWerkenである。仕事みたいに、やるべきこと、達成すべきことなのだ。ドヴォルザークの「新世界」の「遠き山に日は落ちて」の中に「今日のわざをなしおえて」とある、あの「わざ」なのだろう。しかし、日本語で「業」と言ったら、仏教の「業(ごう)」の思考が紛れ込むリスクも。「務め」と言ったら、行き過ぎだろう。Lithon社のでは「行為」と言っている。これだと、「行い」の範囲を狭められるか。でも、まだ何か足りないような気がする。そこで一工夫したのは、bonus「よい」の意味を「神の御心に適う」に定めてしまうこと(私の辞書にbonus「適っている」の意味あり、辞書はラテン語-スウェーデン語)。それで、bona operaは「御心に適う行為」に。そういうわけで、これからは20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語版をチラチラ覗きながら、教えることにします。

歳時記

楮(kouzo)

<あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。 テモテⅡ4:13

何時もの散歩道には楮の木が何本かあります。この季節になると小さな赤い実つけます、木苺より水気が少なく少し粘質の実です。先日、この木の下に行ったら赤い実が枝いっぱいになっていました。摘まんで味見をしましたら少し埃っぽい感じでした。楮は三椏、雁皮と並んで和紙の材料になります。ルーブル美術館の絵画の修復に和紙が用いられる事を知りました、和紙の特質である、「長期的な耐久性があること」「作品を化学的に傷めないこと」「必要であれば将来取り外せること」などといった条件 を満たしているからだそうです。楮、三椏、雁皮、等の特色については、楮は繊維が長く太いため、非常に丈夫な紙になります。三椏は繊維が細く、上品で滑らかな仕上がりが特徴です。そして、雁皮は「紙の王」とも称され、美しい光沢と防虫性を備えていますが、栽培が難しく非常に希少な原料とされています。因みに聖書に使われる紙は最初に葦によって作られたパピルスでしたが後に木材パルプから作られるバイブルペーパーと呼ばれる独特の紙です、薄いながらも非透明である事が特徴です。冒頭にあげた”テモトへの手紙”にもあるように羊皮紙はパピルスよりも耐久性がありましたが矢張り高い湿度や日光によって劣化もしました。

2026年6月21日(日)10時半 聖霊降臨後第四主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年6月21日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書10章24~39節

                    

説教題:「自分の十字架を担って神に従う」 

今日の聖書はマタイ福音書1024節から39節まで、であります。この箇所を見ますと読んだだけでは何の事を語ろうとされているもかよく分からない。24節から見ますと「弟子は師に勝るものではなく僕は主人に勝るものではない」ここまでは何となく分かります。次から分からなくなってゆきます。「弟子は師のように僕は主人のようになればそれで十分である。」・・・・

さて、今日のこの聖書の言葉はどういう場面でイエス様はどんな気持ちで語っておられるのでしょうか。34節だけ見てもイエス様はもの凄い事を言われています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たからである。」それで、111節を見ますと「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え宣教をされた。」とマタイは締めくくって書いています。マタイは728節のところでも同じように書いています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになったからである。」つまり、マタイは5章から7章までに神の国の事、そこでの生活に関する事を教え10章では神の国の伝道に関する教えを、特に12人の弟子への訓練として非常に厳しく語っています。イエス様は12人の弟子を選んで105節で「イエスは12人を派遣するにあたり次のように命じられた。」それで、5節から15節までは、伝道の仕方を教えられ、次には16節から23節で伝道者の忍耐が教えられ、今日の聖書の箇所で24節から33節に至って伝道者の勇気が教えらています。一言で言いますと、この世の権力からイエス様の神の国と救いの福音を語る時、必ず迫害を受ける。だから、「恐れるな、死を覚悟で福音の真実を語り、明らかに広めよ」という勇気です。以上が今日のみ言葉が分かる背景の全容であります。34節以下は厳しい言葉ですがこの福音の伝道によってこれを受け入れる人々への心構え、教えであります。さて、初めの24節~25節で言われている事は「弟子は師に勝るものではない」そして「僕は主人に勝るものではない」という二つの文章は共にユダヤの諺のような言葉でイエス様はこの諺をもってきて違った意味で用いられたと言う事です。ルカ福音書640節では「弟子は師に勝るものではない。しかし、誰でも十分に修業をつめばその師のようになれる。」こう言っています。ヨハネ福音書1316節では「はっきり言っておく、僕は主人に勝らず遣わされた者は遣わした者には勝りはしない。それなのに主人でさえ僕の足を洗ったのだから僕は尚更互いに仕え合うべきである。」と言う事です。イエス様はその両方が一つに結び合わせた形で用いておられます。弟子たちは一方では私たちから献身したのであり他方では主イエスから召し寄せられた者です。当然、先生のようになりたいと願っていても又どれほど苦労をしても主人以上にはなれるわけがないのです。先生が「ベルゼブル」と呼ばれているのなら自分たちもそう呼ばれたはずです。ベルゼブルと言うのは悪魔の頭と言われてファリサイ派の人々がその名をイエス様のあだ名のように読んでいたわけです。それは悪霊を追い出されたからでした。ですから、キリスト者もキリストの如くなりたいと願ったとしてもその主人のようにはなれない。弟子たちが派遣されて伝道してゆく中で色々な苦難に合い謗られても主人であるイエス様の悪霊を追い出すほどの力、働きが出来るかどうか、矢張り主人の助けが必要でしょう、又イエス様は必ず助けてくださいます。ピリピ人の手紙129節にはこうあります。「あなた方にはキリストを信じる事だけではなくキリストのために苦しむ事も恵として与えられているのです。」ここに弟子たちに教えられているように、私たちキリスト者も信仰を持って生きる時、色々な苦しみがあります。これはキリスト者のこの世に於ける定めなのです。何故ならこの世が神に敵対しているからです。キリストに従う信仰者は色々な迫害を受ける、ですからマタイは10章でイエス様の励ましの言葉を書いています。「人々を恐れてはならない」。26節以下では「キリストの福音は迫害を恐れてどんなに隠そうとしても隠しきれるものではない。私が暗闇であなた方に話す事を明るみで言え。耳で囁かれた事を屋根の上で広めよ。」ここで言われている言葉も一種の諺として、言われている言葉をイエス様は用いて語られています。福音書には度々イエス様が群衆には譬え話しか話さずに、弟子だけにはあからさまに教えられた例があります。又、奇跡や教えを見聞きした人に「誰にも言うな」と口止めされた事もあります。そのようにイエス様はまず少数の選ばれた人の間で密かに教えられました。こうしたものが26節で言っておられる「覆われたもの」或いは隠されたもの、又は耳打ちされたものに当たるのです。

このようにイエス様が教えられたもの耳打ちされたものはそこに福音の真理があるから必ず明るみに現わされ神の力が露わに発揮されて行くのであります。ですから、あなた方は恐れずどんな権力の下であっても宣べ伝えて行きなさい。28節から雀と髪の毛の事を引き合いに出して言われています。28節を見ますと「体を殺しても魂を殺す事の出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る方を恐れなさい。」これははスイスの宗教改革者ツブィングリが戦死した時にこの言葉を叫んで殉教の死を遂げたと言われています。この言葉は殉教者の最後の慰めと励ましとなったのです。イエス様は言われる、「まことに恐るべき方は神様である」と言う事です。29節以下で言おうとされている事は雀のような小さな小鳥さえ神のみ心なしには落ちないのである。次に頭の髪の毛を誰が数えられるか、しかし神の国に於いては数えあげられておられる。そうして更に主イエスは言っておられる。一羽の雀でさえ許しなしには落とされない神、そのあなたの父である神から愛されている神の子よ!あなた方は殺されることはないのだ。いとし子の髪の毛、一本/\ をも慈しんで美しくしてやりたい、という親心で天の父は見守ってくださっているのだ。私たちは神の子である以上、どんな苦しみの迫害にあっても殺されることはない。たとえ、死ぬにしてもその死は神様には尊い値打ちのある有意義な死であります。主のために死ぬにしても父らしい神の愛を確信して死ぬのであります。32節から33節のところで言われているのは、父の前で告白することを父は受け入れて下さるであろうと言う事です。ここに「天の父の前で」とあります。ルカ福音書の方では12章8節から9節のところで「神の天使たちの前で」となっています。ですから、誰でも人々の前で自分を「私の仲間である」と、つまりキリストの仲間、クリスチャンであると明らかに言い表す者は神と天使たちの居並ぶ前でキリストも「私の仲間である」と言おう。ですから、此処には神様と天使たちが居並ぶ天に於ける大法廷の光景が語られているのであります。キリスト者はこの世の地上で苦しめられ裁判にかけられ殺されような事があっても天上の神様の前での大審判の法廷に於いては「自分の仲間」としてキリストが認めて下さり救って下さるのであります。あなた方がこの世でキリストを仲間とはっきり堂々と告白するならキリストは天の法廷で命がけで「私の仲間である」と告白してくださいます。天に於いて私たちをキリストは迎え入れて下さるのであります

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キリスト者の死は神の前で尊いだけではなく主キリストにも喜ばれる死でもあります。使徒言行録6章、7章を見ますとステファノの殉死に至る出来事が延々と記してあります。ステファノはユダヤ教徒の激しい罵りと攻撃に会ってもイエス・キリストこそメシアであり救い主である事を証し説教します。そのため、遂に石で打たれてもステファノは聖霊に満たされ、7章55節を見ますと「天を見つめ神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て言った。天が開いて人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と、こう叫びながら人々の投げつける石で殺され眠りについた。「主イエスよ、私の霊を受け入れて下さい」と言って息を引き取ったのでした。(59節)34節から39節に至ってイエス様は大変厳しい警告を述べられています。34節「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。」ここで言われる「私が来たのは~だと思ってはならない」というのは5章7節にもあります。これは来るべき者が来た時に人々が抱く誤解を防ぐための言葉です。旧約聖書の時代から来たるべきメシアが平和をもたらしてくれる事を度々預言していました。メシアのことを「平和の君」とも呼んでいました。9章5節「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それで、イエス様の教えと数々の奇跡の業にイスラエルの民はこの方こそメシアとして来られた者と期待し始めた、当然の事でしょう。しかし、イエスは言われる「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな、平和ではなく剣を投げ込むために来たのである。」平和の君が来られると、述べ伝えられているのに、どうして家族の者までが敵となって争い迫害し合うような事になるのか。私は剣を投げ込む、と言われる「剣」というのは何でしょうか。それは家族の如く最も親しい者の間に生ずる争いと敵意の事です。35節と36節で言われる言葉は旧約聖書ミカ書7章6節から引用された言葉であります。7章6節「息子は父を侮り娘は母に嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」(最後まで読むと恵み、慈しみであります)

預言者ミカはその中で紀元前8世紀のイスラエルが「彼らの最も良い者も茨の如く、最も正しい者も茨の生垣のように」荒れ果てて罪と罰に沈んでいる報いとして「彼らの見張り人の日、即ち刑罰の日が来る」と言っています。(4節)今や「彼らの混乱が近い」。その混乱は「隣り人」も「友人」も「あなたの懐に寝る者」もあてにならない混乱である。(5節)その挙句6節に見た家族同士の敵対で無秩序となる。イエス様はこうしたミカの預言の言葉を引用してこうした無秩序と混乱を来たらせると警告されているにすぎません。平和の君が来たのにその福音の言葉を受け入れない罪に対する神の刑罰、そして家庭秩序や社会秩序が裁かれ徹底的な混乱に突き落とされるという戒めのメッセージです。イエス・キリストは平和をもたらすために来られました。しかし、その平和の訪れる前に徹底的な混乱が起こる。そうして後にクリスマスの主はみ心に適う者の上に平和をもたらしてくださる方であります。最後に38節~39節のみ言葉を見ましょう。「自分の十字架を担って私に従わない者は私に相応しくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はかえってそれを得るのである。」私たちはこの世で苦難に会う時は僅か束の間です。しかし天のみ国で永遠の命にある喜びと希望を持って生きる信仰こそまことの幸せであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

牧師の週報コラム

アウグスブルグ信仰告白20条と現代

礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、それで500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと考える者である。

20条は内容的に三つに分けられる。一つ目は、「信仰の教理」と「行いの教理」の対比。前者は、人間が神から義と認められる(神から見て正しい者、神の目に適う者と認められる)のはイエス・キリストを自分自身の救い主と信じる信仰によるという教理。それに対して後者は、神の掟や教会が決めたことを「善い行い」として行うことで神から認められるという教理。ルター派は前者を掲げ、後者を排する(「行い」は「業」と言い換えてもよいのではないかと思う)。

二つ目は、「信仰」と「知識」の対比。聖書に書いてある、イエス・キリストを巡る出来事は歴史的事実だと信じても、それはまだ知識にすぎず信仰ではない。それらの歴史的出来事、特に十字架と復活の出来事が自分にどんな効能をもたらすのか、その効能を信じるのが信仰である。その信仰から神を深く信頼する心が生まれ、その信頼がある限り悩み苦しむ心は慰めと励ましを得る。

三つ目は、ルター派は「行いの教理」を排したが、「信仰の教理」は信仰者が全く異なる土台に立って善い行いをする者に変える。歴史的出来事の効能を信じる信仰と一体となって聖霊が働き、心をそのように改革する。善い行いとは実は「信仰の教理」の帰結なのだ。「行いの教理」では心は何も改革されないのだ。

20条では、悩み苦しむ良心の戦いがなければ「信仰の教理」を自分のものにすることはできないと言われる。自分は神の目に適う者ではないのでは?という恐れの自覚があるところでのみ「信仰の教理」は真の心の平安と神への信頼をもたらすからだ。政治家でも一般市民でも、何か宗教を信奉する者が例えば平気で嘘をつき苦しむ良心の戦いを戦わずにその宗教の集会や儀式を続けるのは、「行いの教理」の成れの果てである。

今やAIは全人類の知識の集積となり、人間の問いや悩みに応えるばかりか、創造めいたことも始め、人間にとって神よりも身近な存在になりつつある。しかし、いくらAIが、聖書の神は御子の受難を通して死の苦しみを味わった、と知識で知っていても、自分ではその苦しみを味わあない。また、「信仰の教理」や良心の戦いについて知識はあっても、自分でその戦いは戦わない。なので「信仰の教理」を自分のものにしていない。近年、聖書の歴史的出来事について、理性にそぐわないものを事実ではないとし、出来事の効能を無効化する傾向がある。それはキリスト信仰を知識の集積に置き換えてしまわないだろうか?それに20条はまた、キリスト信仰の義は社会的正義や哲学が構想する正義とは別物であるとも言っている。

以上のようなことを考えさせる20条を次回から本コラムで紹介します。

 

歳時記

山とAI

121:1 (京まうでの歌) われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや
121:2 わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる
121:3 ヱホバはなんぢの足のうごかさるるを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし
121:4 視よイスラエルを守りたまふものは微睡こともなく寝ることもなからん
121:5 ヱホバは汝をまもる者なり ヱホバはなんぢの右手をおほふ蔭なり
121:6 ひるは日なんぢをうたず夜は月なんぢを傷じ
121:7 ヱホバはなんぢを守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ並なんぢの霊魂をまもりたまはん
121:8 ヱホバは今よりとこしへにいたるまで 汝のいづると入るとをまもりたまはん
詩編121

尾根緑道の桜美林教会前のテラスにベンチが四脚並んでいます。私の好きなベンチは左から二番目のベンチです。何故ならばそこから丹沢を眺めると正面に丹沢で一番高い蛭ヶ岳と日本一高い富士山とが並んで見えるからです。丹沢の右端に以前から気になる双耳峰の山がありました、或る日その山を写真に収めて帰宅後AIにその山の名を尋ねましたら「この写真の山は丹沢の大山です」と答えてきました。まさかと思いました大山は双耳峰ではありません、しかも大山は丹沢の左端の山です、AIの仕組みは如何なるものかは知りませんが山に関しては全くあてにならないものと知りました。やむを得ずFacebookで山好きの人たちに尋ねましたら早速それは道志の「今倉山」と教えてくれました。道志山塊の山が見えていたとは嬉しかったですね、また一つ楽しみが増えました。

 

2026年6月14日(日)10時半 聖霊降臨後第三主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年6月14日スオミ教会礼拝説教
マタイによる福音書9章35ー10章8節
「弱り果て打ちひしがれる私たちへの神の国の福音」

田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。ア
ーメン。
1、「全ての人々へ御国の福音を宣べ伝えるため」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
このマタイによる福音書の9章では、イエス様が、ガリラヤの町々を巡り、イエスに
助けを求めて訪れる病の人々を癒し、悪霊に憑かれている人々を救ったことが書かれて
います。それはガリラヤをくまなく回り行われたのでした。35節、こう始まっていま
す。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆ
る病気や患いをいやされた。 」35節
イエス様は、ガリラヤの町や村を「残らず」回られます。それは行ってない町や村が
ないように、つまり助けを求めている人々がいる町や村を見落とすことがないようにと
、イエス様はすべての人々を心に留めておられることが伝わってきます。しかし何より
そのように町や村をくまなく回られる目的はここにある通り、「会堂で教え、御国の福
音を宣べ伝え」るためでした。「神の国の福音」、それこそまさに全ての人々への神の
国、救いのメッセージでした。確かにイエス様はご自身に癒して欲しいとやってくる人
々の病を癒し、悪霊につかれている人々から悪霊を追い出したりされたことは福音書の
最初の方、ガリラヤ地方を回っているところでは多く記されています。しかし、この後
、見ていくとわかる通り、イエス様の十字架が近くなるにつれてその記述は少なくなり
ます。なぜならしるしを示すことそれだけがイエス様の目的ではなく、十字架と復活こ
そイエス様が人となられた目的の中心です。ですからもちろん、奇跡はイエス様が真の
神の子、真の救い主であることを示すための証しとしてご自身の御心のままに現されて
きたのですが、全ての人々にそれが現されたのではありませんでした。もちろん、この
後、12の弟子たちにその権威が与えられて弟子たちも癒しの奇跡を行います。そして
、使徒の時代も、しるしはありました。もちろん今も奇跡はあります。しかしそれは全
ての人々へではありません。それは神が御心に従って定めて行われることです。しかし
、まさに「全ての人々のために」イエス様が止めることなく行い続けてきたのは、神の
国の福音を宣教することでした。それはまさしく全ての人々のための救いの良き知らせ
であり、恵みです。何より、そのために世にこられ人となられたという十字架の死は、
全ての人々の罪のための十字架でありその死であったでしょう。そして、そこに現され
た救いのための「キリストの義」は、それは誰でも差し出されたままそのまま受けとる
時に、誰でも義と認められる「全ての人々への救いの恵み」でしょう。使徒達もそうで
す。しるしも行いました。しかし何よりもイエス様が彼らに託された使命は、福音を宣

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教し、洗礼を授けることであったでしょう。このマタイの福音書の最後の宣教の恵みの
命令でこうあるからです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべ
ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あな
たがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。」
その約束の通りに、弟子たちは約束の聖霊を受けて、全ての人々をイエス様の弟子と
するように父と子と聖霊の名によって洗礼を授けていきました。地の果てまで福音を伝
え、福音を与えていったのです。ですから、10章の初め、5、6節で、12人の弟子たち
を召し権能を与え遣わすときに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の
町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい
。」とあるのですが、ある人々は「イエス様は異邦人を除外しているではないか、サマ
リヤ人を除外しているではないか、ユダヤ人だけではないか」と、言うのです。しかし
、そんなことはないでしょう。これはこの時の弟子たちの役割を述べているのであり、
異邦人やサマリヤ人の救いのためには神様の計画がしっかりとあるのです。事実、イエ
ス様は、ヨハネの福音書では、あえてサマリヤの道を通り、ヤコブの井戸のところでサ
マリヤの女に素晴らしい神の国の福音を宣教しているでしょう。そして何より先ほども
触れた宣教の命令にあるでしょう。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。そし
てその通り、使徒行伝にある通り、異邦人についての計画を持ってイエス様はローマの
隊長コルネリオにペテロを遣わし、そしてパウロに現れ、異邦人へイエスを伝えるため
に召命を与え遣わすでしょう。そのようにパウロは、地中海地方のユダヤ人だけではな
くむしろ異邦人の民へ向かって神の国の福音を宣教していきました。そして聖書には書
かれていませんが、外典や歴史の書では、他の使徒達も、東の方の異邦人たちへ宣教を
していったとも言い伝えられています。イエス様が世にこられ人となられ十字架にかか
って死なれたその目的は全ての人々の罪からの救いです。神の国の福音こそ全ての人々
のために与えられている神の義であり救いであり、平安です。私たちの罪の赦しと新し
いいのちと真の平安は、しるしや経験にあるのではない、私たちの何か行いや律法にあ
るのでもありません。イエス様が残すことなく伝えられた神の国の福音、このイエス・
キリストの十字架と復活の福音にこそあるのです。
2、「飼い主のいない羊のように」
次に、その神の福音を伝えているとき、36節以下、こう続いています。
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深
く憐れまれた。」36節
イエス様は群衆を見てですが、彼らが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひ
しがれている」と見たのでした。深い憐みの心で、です。ただ、これまで群衆に霊的な
指導者がいなかったわけではありませんでした。35節でわかる通り、イエス様は「会
堂に入り」、神の国の福音を伝えています。ユダヤ人の会堂で旧約の律法と詩篇と預言
書の巻物を開いて福音を説教したのでした。つまり普段はそこで同じように聖書から教
える人々がいたのでした。それは教師たち、つまり律法学者たちやパリサイ人たちでし

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た。しかし、9章を見ていただくとわかる通り、彼らはことあるごとに感情のまま、あ
るいはユダヤ社会でこれまで守られてきた慣習や規則に基づいてイエスに反発していま
す。9章2節でイエス様が中風の人に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と
いった時に、3節、ある律法学者達が「この男は神を冒涜している」と思っているのを
イエス様は見抜いています。また、9節以下、徴税人のマタイを召し出しマタイがイエ
ス様を招いて食事をしているのを見てファリサイ派の人々は11節で「なぜ、あなたの
先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。それに対して語った有名
な福音の言葉は12節以下、
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れ
みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来
たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12−13節)
でした。そして今日の箇所の直前では、悪霊に取り憑かれていた人々をイエス様が救っ
た時も、ファリサイ派の人々はイエスを指差し「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出
している」と言いました。このように、羊である群衆に飼い主、霊的な指導者がいなか
ったわけではありません。会堂で教える教師達がいました。しかし彼らは律法や預言書
から福音を語るのではなく、どこまでも律法、というよりはむしろ、彼らの習慣や規則
に基づいて律法を解釈した行いによる義の教えを語っていました。そして、その彼らの
解釈する律法の要求を行なっているかどうかが彼らの教えの基準であり、人々やイエス
や弟子達を評価する基準でもあったのでした。さらに言えば彼らがイエスへ反対するの
は「妬み」からくるものでもありました。イエス様は聖書から神の国の福音を説教しま
した。それは羊を神の国へと導く羊飼いは、律法だけではなく何よりも福音によって導
くと言う大事な真理とその使命に従っているでしょう。事実、私たちは律法の言葉だけ
ではなく、その先に「あなたの罪は赦されています」という福音の言葉を聞くからこそ
、神の国、救いを確信し「平安のうちに」ここから行くことができるでしょう。そのこ
とを考えてみてください。群衆は、福音ではなく律法だけで教えられていました。しか
しそれは弱り果てるのです。ただ打ちひしがれるのです。事実どうでしょうか。もし教
会が律法だけの説教、あるいは、福音が先にあっても結局は私たちの律法のわざや行い
に救いや信仰生活がかかっているような説教をされるなら、それによって強められるで
しょうか?何より平安があるでしょうか?確かに律法は一時の促しとなり、駆り立てる
ことがあるかもしれません。「ああ頑張らなければ」と立ち上がらせることがあるかも
しれません。しかし私たちの行いに神の前での全てのふさわしさや祝福や成功が、神の
国がかかっている、とか、あるいは、まず私たちが完全に律法を実現すれば教会に、私
に祝福がある、救いが確かになる、イエス様に愛される、等々、と教えられて、そこに
喜びがありますか?救いの確信がありますか?救いを喜べますか?平安がありますか?
それでもイエス様は愛だと信じられますか?そもそも私たちがそのようにまず行いが求
められるとするなら、それを完全に果たすことができますか?完全に答えることができ
ますか?律法学者達やファリサイ派の人々は「自分たちはそれが完全にできている」と
言う自負はあったでしょう。しかし自負でしかありません。神の前では皆不可能でしょ
う?不完全で罪深い現実だけが突きつけられます。そう、結局は、律法によって遣わさ
れる歩み、まず私たちの行いが先になければならないと、律法で促され強いられ遣わさ

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れる教会もクリスチャンの歩みも、結局は弱り果てるのです。律法は罪を気づかせるた
めに必要ですが、救うことはありません。責めるだけです。だから打ちひしがれるので
す。そのように律法によって遣わされる歩みは、信仰も礼拝の出席も奉仕も皆、ただ重
荷になる。疲れ果てます。どんなに外面は立派で、どんなに功績を残し、多くの大きな
教会へと成長させ、多くの人々を導いたと自負する教師であっても、律法で導く会堂、
教会は、あるいは、会衆は、飼い主のいない羊達と同じことなのです。律法学者たちや
ファリサイ派の人々は表向きは立派な人々だったことでしょう。しかし、イエス様はそ
のような教師たちの律法の教えで導かれる会衆を見て会衆が弱りはて打ちひしがれるの
を見て深く憐れまれたのでした。律法の教えに弱り果て打ちひしがれた羊たちに必要な
のは神の国の福音、罪の赦しの福音であったのでした。それこそ人々に本当に必要なこ
とでした。中風の人にもイエス様は「病が去り良くなれ」と言うのではなく、「あなた
の罪は赦される」と言っているでしょう。中風の人に癒しも必要でしたが、それよりも
何よりも必要なのは全ての人々が弱りはて打ちひしがれる罪の苦しみからの解放、神の
前での罪の赦しとそれによる平安なのです。それは全ての人々に必要なことです。だか
らこそイエス様は全ての人々のために十字架にかかって死なれるではありませんか?
3、「収穫、そして、働き手とは?」
そのことが、37節以下につながっています。
「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫の
ために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」」37−38節
A,「収穫とは?」
収穫とは、全ての人々が罪の赦しを受けることです。そして全ての人々に罪の赦しの
福音と平安がイエス様によって差し出され、多くの人々がそれをそのまま受け取り救わ
れ平安になることです。それがご自身の十字架によって実現することを指し示していま
す。その収穫のことです。しかもその収穫は多いとイエス様は言います。それは全世界
を指しています。しかしその働き手、伝えるものは少ない。その通りです。弟子たちが
選ばれ遣わされていきますが訓練中です。そして、そこから使徒達が選ばれやがて聖霊
を受けて教会の時代が始まり福音は全世界へと広がっていくでしょう。そのために働き
手は最初は少ないのですから、世界に広がっていくためにさらに必要だとイエス様は言
うのです。
B,「どんな働き人か?」
ではそれはどんな働き人でしょうか?私たちはこの所をどう教えられるでしょう。確
かに「み言葉の」説教者、教会の牧会者、献身者が与えられるように祈りなさい、そう
教えられているのだと思うかもしれません。その通りです。それは間違いありません。
しかし、さらに踏み込んで言うなら、どんな説教者、牧会者でしょうか?ただ「み言葉
」を伝えればそれでいいのでしょうか?律法も神のみ言葉です。つまり、律法もみ言葉
だから、律法で私たちを派遣する説教者、牧会者でも良いということでもあるのでしょ
うか? 教会の歴史においていつの時代も、そして今でも、律法で教え、律法で教会を
建てあげ、律法を説教の「最後の言葉」「派遣の言葉」として、会衆を遣わす教会は存
在します。福音を語っているようであっても、福音は最初の言葉であり、最後の派遣の

5 /

言葉は律法で終わり遣わす説教は実は少なくありません。もちろん、律法も大事な神の
言葉です。しかし律法は福音への道標、案内係であり、決して救いの言葉ではありませ
ん。律法は私たちに罪を示し、私たちが律法によって罪が示され刺し通され、自分では
どうすることもできない、神よ憐んでください、兄弟よどうしたら良いでしょうか、と
叫ぶしかないところに、絶望と悔い改めに導く言葉です。しかしその罪を認め悔い改め
る時にこそ、十字架の福音が明らかになります。そこにこそイエス様は福音を語ってく
ださり、「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。まさ
に福音こそ、神の国の門を開き、救いの道を通らせてくださるいのちの言葉です。弱り
果てたものに命を与え、打ちのめされたものに罪の赦しを宣言し立ち上がらせます。そ
して平安のうちに「行きなさい」と遣わすのはこの福音の言葉でしょう。そう律法と福
音の言葉、しかも律法が最後ではなく福音こそ最後の言葉、派遣の言葉として説教し教
えるようにとイエス様は「働き人」を求めておられるのではないでしょうか?律法で派
遣する働き人の群れは、まさに飼い主がいない羊のようなのです。イエス様はただみ言
葉を伝える働き人ではない、律法と福音の言葉で、福音を最後の言葉、派遣の言葉とし
て説教する働き人をみているのです。そのために「祈りなさい」なのです。
4、「働き人も収穫も律法ではない」
最後に、イエス様はその「働き人が必要だ」ということさえも教会の律法にしてない
のは幸いです。とかくあるところでは「牧師がいない、献身者がいない」、だからと主
に求め期待する希望を告白し祈るのではなく、ただ目に見える現象だけで「いない、い
ない」「組織が危ない」などなど、危機感と強迫観念に駆られ、何とか教会があるいは
牧師が、誰かが牧師になるように献身者を起こさなければダメなんだ、と律法的に駆り
立てるような教団や教会の声を聞くことがあります。しかしそうではありません。イエ
ス様ははっきりと言っているでしょう。
「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
と。つまり「働き手」を送ってくださるのは、教会や牧師や、その努力や力や説得力
のわざではなく、あるいは誰かが力や意志を振り絞って律法的に立ち上がることでもあ
りません。送ってくださる、建ててくださる、与えてくださるのは、どこまでも主イエ
ス様です。み言葉と聖霊です。しかも「収穫の主」とあるように収穫をするのも人では
なく主です。つまりみ言葉と福音のわざとして、働き人を主が起こしてくださり送って
くださるのです。そして収穫、人の救いも人ができるのではなく、救うのも信仰を与え
るのも、どこまでも収穫の主のみです。だからこそ律法の心ではなく福音を信じ、私た
ちが希望と信頼を持って主に祈り求め、主にのみすがることが何よりも神の前に価値が
あり、ふさわしいことなのです。ぜひ福音を信じ祈っていきましょう。今日のイエス様
は私たちに福音の言葉を宣言をして使わしてくださいます。「あなたの罪は赦されてい
ます。安心していきなさい」と。平安のうちに遣わされていきましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリス
ト・イエスにあって守るように。アーメン。

牧師の週報コラム

牧師の週報コラム ― 古い歌を新しい歌に(その2)
ギター教室に通っている息子が次の課題曲に選んだのは、Eテレの「おかあさんといっし
ょ」で歌われている「ありがとうの花」。レッスン中、何度も聴かされているうちに、こ
んな歌詞で歌ったらどうだろうと退屈しのぎに言葉を紡いでいたら、以下のようなご機嫌
な子供讃美歌になりました。まだ微調整が必要ですが、取りあえず歌ってみて下さい(サ
ビの部分は、a、bと二つあります)。
1.イェスさまとでしたちが こぶねにのって
おおきなみずうみに のりだすと
あらしにおそわれて しずみそうになり
イェスさまがしかると あらしはおさまった
a. しゅは わたしのひつじかい   b. しのかげのたに ゆくときも
わたしに かけるものはない    わたしは なにもおそれない
まきばみぎわで やすませて    しゅがいっしょに あゆむから
たましいを いやされる        なにも こわくないよ

2.おおぜいのひとたちが おなかをすかせてる
いつつのパンだけじゃ たりないよ
イェスさまが しゅくふくし わけあたえてみると
びっくり みんなにたりたんだ
(a. または b. または両方)

3.ザアカイはわるいひと こころのよわいひと
けんりょくをかさにきて おかねをためこんだ
イェスさまにであったら こころはつよまって
こまってるひとたちに ぜんがくわたしたよ
(a. または b. または両方)

4.ひゃっぴきのこひつじが かこいにかえると
ひつじかいはおおあわて いっぴきたりないよ

2
のとやまをかけめぐり やっとみつかった
かたにかついで よかった、よかったと
(a. または b. または両方)