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木瓜(boke)
<それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。 使徒言行録14:17>
季節の花の木瓜を探していました、毎年咲いている場所を知っていましたので何時もの散歩コースを少し変えてみました。しかし、何れも蕾だけで開花には至っていませんでした諦めて帰路のコースを少し変えてみましたら家のすぐ近くに満開の木瓜が咲いていました。どうも、最近は灯台下暗しが多いようです。木瓜は平安時代に中国から来た外来種です、その朱色は古来から日本人に好まれてきました、木瓜の花を見ると如何にも春が来たなと思っています。
2月の手芸クラブは25日に開催しました。週の初めは春一番が吹きましたが、この日の朝は雨が降り肌寒い一日となりました。
今、春が近づく季節ですが、今回は1月に続いて足元を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」を編みました。今回はまた「ストール」や「スマホケース」を編み続けられる方々もいらっしゃいました。このようにスオミ教会の手芸クラブではその日のテーマだけでなく、ご自分の編みたいものを編んでも大丈夫なのです。
はじめにお家で頑張って編んできたものをみんなで見せ合います。「きれいな色ね」、「模様が素敵」、「暖かそう」、「柔らかい」などとお互いにほめたたえます。それからみんなで編み始めます。皆さんとても上手でおしゃべりしながらどんどん編んでいきます。レッグウォーマーやストールは完成まで時間がかがるので、お家や次の手芸クラブでも続きをすることができます。
春に向かって暖かくなっていきますが、まだ寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたレッグウォーマーやストールが必要になるかもしれません。ご自分で編まれたものだから特に暖かさを身近に感じるのではないでしょうか。
今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。
編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れます。先週フィンランドはラスキアイスプッラの時期だったので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後でフィンランドにある手工芸センターやそのセンターのスローガン「幸せを呼ぶ手芸の一時」についてと、聖書が教える幸せについてお話を聞きました。今回も楽しい歓談のひと時でした。
次回の手芸クラブは3月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は1月に始めた編み物の続きをしました。編み物は手芸クラブではこれまで何回もテーマにしました。フィンランドでは編み物は最も人気のある手芸の一つで、年配の人たちだけではなく若者も楽しんで編んでいます。以前にもお話したようにフィンランドでは毎年編み物の競争も行われ、多くの人たちが参加します。また靴下のデザインを作成して編むコンテストも開催さえれます。このような行事はフィンランド全国にある手芸工芸センターを通して開催されます。センターの働きの目的は手芸工芸の伝統を大切に守り続けることです。センターでは様々な講座や行事が開かれ、手芸のアドバイスを行ったりします。また、センターでは織機を借りることも出来るので、織物を織ることも出来ます。センターは毎年、全国的な工芸のテーマも選びます。今年のテーマは「パッチワーク」です。
手芸工芸センターでは「幸せを呼ぶ手芸の一時」というスローガンも決めました。このスローガンにはどのような意味があるのでしょうか。それは、手芸が私たちの日常生活の中で大切な役割を果たし、手作りの作品には特別な価値があることを表しています。手芸は多くの人たちに愛されている趣味の一つです。新しい手芸のテクニックが出来るようになったり、美しい作品が完成したりすると喜びを感じます。また、手芸をしている時間は日常生活から少し離れることが出きて、良いリフレッシュにもなります。それでこのスローガンのように手芸は幸せを呼ぶ一時と言えるのでしょう。
皆さんにとって幸せとはどのようなものしょうか。幸せな人とはどんな人でしょうか。お金持ちで大きな家に住み、家の自動車が何台もある人のことでしょうか。職場で高い地位にある人でしょうか。権力を持っている人でしょうか。
私たちは皆幸せを願って生きています。私たちは幸せを自分自身の中から見つけることができるでしょうか。確かに、幸せは日々の生活のさまざまな出来事を通して感じることができます。しかし、それは深いものでしょうか?長く続くものでしょうか。
聖書にも幸せにについて書かれています。旧約聖書の詩編に次のようにあります。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。
「神様のそばにいることは私の幸せです」とは天と地と人間を作られた神様と共に生きることを意味しています。それは一時的に幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になれば、生活の中で様々なことが起こってもその土台は揺らぐことがありません。では、私たちはどのようにして神様と共に生きることができるでのしょうか。聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様はお祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちは神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源になります。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。神様が私たちを見捨てるということはないからです。
フィンランドのある聖歌に幸せについて歌うものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。聖歌の言葉は簡単ですが、意味は深いです。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのぞいでくださった、それでボクは幸せさ。」
私たちが天の神様と共に生きることができるのは、神様の一人子であるイエス様の十字架の御業のおかげです。私たち人間は聖歌に歌われているように弱さや罪を持っています。そのために私たちは神様から離れてしまうようになります。しかし、私たちを愛する天の神様はイエス様を通して神さまのもとへ帰る道を備えて下さいました。この救いの道は世界の全ての人に与えられています。私たちがイエス様がなさったことを全て信じて、この救いの道を歩むようになれば、それが私たちの幸せの源となるのです。
今、この世界には必要なものが十分に与えられない人たちが大勢います。しかし、そのような人たちも、先ほどの聖歌のように喜びを持って歌うことができます。イエス様の十字架の御業を素直に信じることが出来れば、歌の中で歌われる幸せを得られます。
手芸の時間も私たちに小さな幸せを与えてくれます。しかし、日々の生活の中で「神様がそばにいることは私の幸せ」ということを覚えて、それが私たちの幸せの源になりますように。
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月8日の日課から) キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。 「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇 118篇1節) 『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは 神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が 本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば 燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の 中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句 は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈 しみは永遠にあるのだから。」 この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと 誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます ように。」 これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである 。』(以上ルターの説き明かし) このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)
主日礼拝説教 2026年3月1日
創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられることが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救って神の国に迎え入れられるようにするということ。これらは以前にもお教えしましたが、今日は新しいことも入れて述べていきたく思います。
その前に、ファリサイ派というグループについて。彼らは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわった人たちでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべしと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
そこにイエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々の注目を集めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本当の意図はそこにあるのだと、神のひとり子として自分の父の意図を人間に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば神に認められるのだ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、彼らの中には、このやり方でいいのだろうか、神の国つまり天国に迎え入れてもらえるのだろうかと疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような疑問を持った人だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。ニコデモにイエス様はいきなり言われます。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)
「新たに生まれる」ということについて注意が必要です。「新たに」の元にあるギリシャ語はアノーテン、この基本的な意味は「上から」、「天国から」という意味です。それでここは、「上から生まれる」、「天国から生まれる」、つまり「天国を出身地として生まれる」という意味にもなるのです。さて、「新たに生まれる」でしょうか?「天国から生まれる」でしょうか?英語訳聖書NIVとスウェーデン語訳とルタードイツ語訳は「新たに生まれる」です。フィンランド語訳は「新たに、そして上から生まれる」と両方をあてています。
私はこう考えます。イエス様はこの後で、君たちは地上のことを教えても信じないのだから、天国のことを教えても信じるわけがない、と言っています。イエス様は天国の視点で述べている、なので、彼は「天国から生まれる」という意味で言っている。しかし、ニコデモは、どうやってもう一度母親の胎内に入って生れることができようか、と言っているので、彼は「新たに生まれる」と解してしまっている。それで話がかみ合っていないのです。(ここで一つ厄介なことは、この出来事はギリシャ語で書かれています。それでギリシャ語を元にして二人のやり取りを理解しようとしているのですが、彼らが実際に会話した言葉はアラム語です。どんな言葉を使ったかはわかりません。手元にあるのはギリシャ語の文章なのでそれを基にするしかないのです。)
さて、イエス様は「天国から生まれる」ことはどういうことかをはっきりと教えます。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。
イエス様が教える「天国から生まれること」とは実に「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきた時はまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた肉的な存在が、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが「天国から生まれること」であり、それが「新しく生まれる」ことになるのです。
それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
なにかとても意味深なことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。風も空気も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。強さによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?
さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架や復活の出来事は起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれることもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。
困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上の事柄について正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天上の事柄を教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。
イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうなることで神の国に迎え入れらえるようになること、これらのことが、どのようにして起こるかについて明らかにします。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、「人の子」はある事を成し遂げた後でまた天に戻るということを意味しているのです。そして、その成し遂げる事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で蛇を作って旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じ掲げることと人を救うことが自分を通しても起こると言うのです。どのようにして起こるのでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることでした。イエス様はなぜ十字架にかけられたのか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持って生きられるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。
それで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて万物の造り主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。天国と神の国は同じことです。洗礼を受けて聖霊を注がれて「天国から生まれた」たキリスト信仰者は天国を出身地として生まれた者です。それで、信仰者にとってこの世の人生は実に、天国という生まれ故郷に帰る道を神との結びつきを持って進むことに他ならないのです。
洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがわかりました。それでは、それはどうイエス様の風のたとえと結びつくでしょうか?前にもお教えしましたが、聖書の元の言葉、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。このたとえでイエス様は両方をひっかけているのです。彼が教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。
これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまると言うのです。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちもあるし声もするから実在するのはわかります。しかし、信仰者は聖霊と同じように肉的な人には見えないわからない独特な意思に従って人生を歩みます。だから、肉的な人から見たら、キリスト信仰者は風と同じように実在するのはわかるが、その行動様式、立ち振る舞いを起こしている原動力はわからないのです。それでは、キリスト信仰者の原動力は何か?私は、それは内なる霊的な戦いと考えます。
キリスト信仰者の内なる霊的な戦いとは、キリスト信仰者は天国から生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めたように、「他人のものを妬んだり欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんか別にどうでもいい、などと言ったら、イエス様の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。
まさにここが聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲になったおかげで、あの方を真の救い主と信じるあなたの信仰を神は義として下さるのです。それで神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたからではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はご自分のひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先回りして赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。
神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」
この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。それで神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。ところが、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そして、この繰り返しが終わる日が来ます。天と地が新しく再創造される復活の日です。その日、神の御前に立たされた時、繰り返しをしたことは実は罪に与しない生き方、罪に反抗する生き方を貫いてきたことの証しとして認めてもらえるのです。この時、天国を出身地として生まれたキリスト信仰者は天国に帰り着いたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
一枚の絵
先日、I兄の葬儀に参列して思う事多々ありました。その中に一枚の絵を思い浮かべていました、それはA.ベックリンの描いた「死の島」という絵で亡くなったばかりの死者が連れて行かれる島です。死後についてはM.ルターによると誰も知らない所で最後の審判が来るまで寝かされているそうです、その言葉とこの絵がダブって見えました。死後に行き着く所がこのような何処か幻想的な甘美な雰囲気のある島ならば、それも良いなと思いながらI兄のお棺を見つめていました
マタイによる福音書4章1−11節
「荒野の歩み。み言葉と御霊に導かれて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は、このイエス様が荒野で受けられた誘惑の記録からのメッセージに共に耳を傾けていきましょう。まず、このイエス様が受けられた誘惑ですが、確かに悪魔からの誘惑とは言われます。その通りではあるのですが、しかし1節には新共同訳ですと「霊」に導かれとあります。これは新改訳聖書ですとはっきり「御霊」とあります。ESVバイブルでも大文字の頭文字で「Spirit」とありますので、霊は「聖霊」のことを指しています。つまりこの「荒野の誘惑」は三位一体の主なる神である「聖霊」によって導かれたものでした。ですからこの誘惑は悪魔の悪戯な思いだけでただ突然湧き出たものではありません。主が荒野へ導き、そして知っていたであろう悪魔がすることを許可し、そのままさせたということがわかります。そしてそうさせたことには、この誘惑を受けること、しかし御子がそれに勝利すること、どのように勝利するか、そしてそれら全てのことがこのように聖書を通して世に、時代を超えて、今日もこの朝に説教され伝えられ証されることには、神の私たちへの御心が現されているということに他なりません。その究極の御心は、紛れもなく、世の罪を負うために人となられた御子は、人間がその罪ゆえに陥る根本的で強力な三つの誘惑さえも私たちのために経験され負われるということであり、そしてそれに対し御子キリストこそ必ず勝利されることを示しているでしょう。そしてその勝利は、私たちの核心である、この十字架と復活によるのですから、キリストの十字架と復活こそ罪と悪魔に対する私たちのための勝利なのだという全人類への救いの約束のメーセージが込められています。しかし、このメッセージはまだキリストを受け入れない全人類に対してはもちろんですが、同時に、いやそれ以上に、すでに罪の縄目から解放され信仰が与えられ信仰の道を歩んでいるクリスチャンと教会に語られているものでもあります。それは「荒野に導かれ歩むキリストの教会はまさに荒野の誘惑と試練を通して、そして、そこにおられるキリストにあって勝利がある」という神の御心です。
2、「信仰の道は、荒野の道、試練の道」
まず第一に注目したいのは、この誘惑の直前の3章16−17節をご覧ください。そこには何が書かれているでしょうか?
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
そこにはイエス様が洗礼を受けられたことが書かれているでしょう。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の父の祝福の声もあります。これらのことの直後なのです。イエス様は「洗礼を受けられて」そのすぐ後にこの荒野の誘惑に導かれています。そして1、2節こう始まっています。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
荒野と40という言葉は旧約のある出来事と重ね合わさります。それは、イスラエルの荒野の40年です。出エジプトはイスラエルがエジプトの奴隷の縄目から神様の恵みとみ言葉の力によって解放されたまさに救いの出来事でした。しかしその救いの出来事である出エジプトの後の出来事が荒野の40年です。つまり救われた民、まさに神の恵みを覚えて歩む信仰の生涯が始まった「後」の40年でした。しかしまさにイスラエルが導かれた信仰の歩みが、「荒野の」40年でした。それは大きな試練でした。その道が神はモーセにみ言葉を与え確実に導く道なのですが、空腹など困難の連続に直面します。そしてその度毎に、彼らは恵みと約束を忘れ、疑いが起こり、不平が起こりました。つまり、それは誘惑の40年でもあったのでした。そのことに重ね合わさるのです。このイエス様が聖霊によって導かれる荒野の誘惑は、もちろん全ての人間がその罪深さゆえに受ける誘惑の面もありますが、まさに何より「信仰者の」「教会の」歩みや誘惑を指していると教えられます。それはこの場面でも神の恵みである、洗礼という恵みによって始まります。神はキリストに言われたように、実に洗礼を授けられた私たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださっています。そのように聖霊によって導かれて私たちクリスチャンの信仰生活は始まり、教会は歩み始めます。しかしその御霊が導く信仰の歩みは、誤解しやすのですが、人間が合理的に楽観的に計画し思い描くなんでも上手くいく、思い描いた理想通りになっていき、成功に満ち溢れていく、そんないわば「栄光の神学」の道ではありません。それは救われたイスラエルの民がそうであったように、そしてイエス様が御霊に導かれてこの箇所で示し語りかけるように、聖霊とみ言葉による私たちの信仰の道は、荒野の道のりであり、試練の道であり、誘惑の道である。そのことをまず教えられます。
3、「それは本当か?」
そこに誘惑する者、サタンがやってきます。そして三つの試みを仕掛けます。この誘惑は実に賢く巧妙であり、人間の罪深さや弱さを刺激します。まさに罪人である人間が陥る代表的な誘惑をもちろん表しているのですが、同時に、義人であり同時に罪人であるクリスチャン、教会が受ける誘惑でもあります。サタンは言います。3節。
「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエス様は空腹を覚えています。そこに「石をパンにする」という誘惑です。しかし誘惑する者の意図は「空腹をパンで満たせ」という単純なものではないと言えるでしょう。確かにパンは人間にとって必要な基本的な必要に他なりません。あらゆる物質もまた神の被造物であり神から世に与えられた必要なものです。それは確かなことです。しかしここで誘惑する者は「神の子なら」と誘惑します。それは3章17節の天からの父なる神様の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う父なる神の声のことを取り上げているでしょう。
誘惑するものは言っているのです。「その「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が本当なら」と。その言葉が本当かどうかを証明してみよと。石をパンに変えその空腹を思いのまま、欲望のまま満たすことによって証明してみなさいと。この「もし〜なら」という神とその言葉に疑いを起こさせる言葉にこそ悪魔の誘惑の本質があるのです。
教会も「必要」や「不足」ということについて誘惑を受けます。「満たされていない」時も「満たされている」時もどちらも誘惑があります。しかし全ての必要はそれはどこから来るでしょうか?「私たちが働いて得るものだ、努力の対価なんだ。」ーもちろんそうです。しかし教会の必要、クリスチャンの必要は全て、それは物質的な必要やそのような私たちの行う奉仕など働きや努力なども含めて、それらは私たちが搾り出す自分の功績ではなく、全て神様が与えてくださるものに他ならないでしょう。イエス様が山上の説教で言っている通りです。しかし「不足を覚える時」は「満たされていない」「足りない」と言ってしまう。もちろん悪いことではありません。その時、足りなさを覚え、与えてくださる神様に求めるのが私たちの信仰なのですから。だから祈ります。しかしそうではなく「満たされていない」「足りない」ーただそのことに右往左往してしまう。その危機感ばかりに取り憑かれてしまい、互いの裁きあいに終わってしまう。そのようにして神の言葉の真実さを信じること、頼ること、求めること、待ち望むことを忘れてしまう。それは荒野のイスラエルが陥った過ちでした。そして人間は高慢ですから、「満たされている時」も誘惑に陥りますね。同じように、神が与えてくださった全てであるのに、教会の良い結果は人間の功績や教会の誇りにしてしまう、それは現代の成功や繁栄に走る教会が陥っている高慢の過ちです。「自分の教会はこんなに大きい、こんなに成功した、こんなに人が来ている。経済的に潤っている。もっと大きな教会を建てられる。それは自分たちが熱心にやってきたからだ、誰々先生のカリスマのおかげだ、私たちの、あの先生の人柄のおかげだ、等々」ー福音宣教も教会も全て、キリスト中心で、どこまでもキリストのみ言葉と聖霊のみわざで自分たちは用いられているに過ぎないのに、そしてイエス様もルカ17章で「自分たちは不束な僕です」すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言っているのに、自分たちの組織力や人の功績と誇りに変えてしまう。まさにソロモンが陥った誘惑です。パン、物質は必要なものです。必要を覚えること自体は何も悪いことではありません。当然のことです。しかし、そこに誘惑がある。神の言葉、神の祝福、神の恵み、それは本当か、それが本当ならと、自分自身の空腹、足りなさ、あるいは達成した、成功した、満足した、等々の基準、自分中心の基準で神の言葉を「もし」と測ってしまうのなら、疑いも、,自慢高慢も尽きません。悪魔はそこをついています。そして人間は罪深いですから、そうなると自分の願うままに、石をパンに変えてでも空腹を満たそう、あるいは、満たすことができる、あるいは、満たしてきた、と勝手に思い描き期待します。まさにパウロが警告した人間が求める空想話です。まさに空腹なもの、不足を覚えるものには、神のわざへの信頼ではなく人間のわざへ信頼する栄光の神学は最善の方法になります。しかしそこに誘惑があるのです。4節
4、「神の口から出る一つ一つの言葉」
「イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
教会にとって大事なことはなんでしょうか?罪の世は、確かに必要が思いのままに満たされ自分を誇ることが最高の満足かもしれません。満たされないことに不満を言い右往左往するのもそれも罪の世の現実です。しかし、私たち教会には、クリスチャンには、それ以上の素晴らしい命の道があるでしょう。
「神の口から出る一つ一つの言葉」です。それこそが天地万物を創造し、私たちを生きるものとしました。確かにパンに代表される物質的な必要は大事です。私たちの必要も大事です。しかしそのパンや物質が、あるいは私たちの必要や心配や誇りが、天地万物を創造し、私たちを生きるものとしたのではないでしょう。神の口から出る一つ一つの言葉でしょう。それこそが、必要なものを全て満たします。そのように約束してくださっています。イエス様は弟子達に「明日の心配は無用だ」と神の口から出る一つ一つの言葉を持って約束しています。そしてその神の口から出る一つ一つの言葉が、堕落の時からすでにその罪からの救いを約束しました。また、主は、その自身のみ言葉がその約束の通りに実現するのだと繰り返し、アブラハムを励まし、ダビデを励まし、さらには、預言者を通して試練にある民をも励ましました。そして主はみ言葉をもってその通りに救い主を送るのだと約束し、その言葉の通りに御子イエス様を人として世に与えてくださった、そして十字架に従わせたでしょう。そして私たちの方からではない、その言葉である方が私たちのところにきて、私たちに語りかけてくださったからこそ私たちはイエス様の福音の素晴らしさを知った。その言葉こそ信仰を与えてくださり、その言葉が真実で力であるからこそ洗礼を聖餐を、救いの恵みを今日も与えてくださる。その言葉こそが、荒野の試練の日々であっても、日々生かし、日々罪赦され、日々平安を覚え、今日もここから遣わされていく。教会が覚え立ち返らされるのは、そのことでしょう。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。
と。第二、第三の誘惑もじっくり見ていくと非常に沢山のことを教えられるのですが、実は誘惑するものの誘惑は同じ攻め方です。そこでも「もし」と、人間の欲求、ここでは救われたものにさえ、教会にさえ起こる欲求、人間的な必要をさらに求める貪欲さを攻めてきます。第二の誘惑は悪魔もみ言葉を用いて「こう書いてある」というのですが、「もしそうなら」と自分が基準となって自分の欲求の通りにしようとする、み言葉を疑い試す誘惑が実にあからさまです。み言葉を神の言葉としてその通りに信頼し委ねるのではない。あるいは、書かれていないこと、わからないことはそのまま神に託し信頼するのではない。人間中心に自分の側の願望や欲求に合わせて「もしこうなら」とみ言葉を都合の良いように解釈してしまう誘惑、歴史的にも今もそのような誘惑に屈した神学や教えが教会を支配しています。それはサタンの巧妙な誘惑に屈しています。第三の誘惑はどうでしょう。まさに手に取りたい現実、成功や繁栄が目の前にあります。世の繁栄、自分の繁栄、教会の繁栄、しかし神がなす、神が与える、神のみ言葉が実現した栄光でも繁栄でもない、自分達の力や組織力で得ようとする繁栄と成功に神の栄光を見ようとする。地上の栄華への願望です。しかしそれは、まさにみ言葉の前に身を屈め平伏しているのではありません。第三の誘惑に屈してしまっています。
5、「イエスの与える勝利の道」
イエス様は全て聖書のみ言葉を「こう書いてある」と示すだけです。人間の都合のいい解釈を加えるのではない、神の言葉はその通りですと、神の約束、神がなすこと、神が与えて満たしてくださることに、期待し、信頼、祈り、待ち望む、委ねる。それが荒野の道である信仰の歩みにおいて、イエス様が示してくださっている勝利の道であることを教えてくれているのではないでしょうか?事実、イエス様の十字架の道は、ただパンだけで満足したりさせたりの地上の王国だけの道ではありませんでした。霊の糧として真に魂を満たすために福音を与え罪の赦しと平安を与える「天のいのちの道」であったでしょう。神は十字架にかけられるイエスを御使いの軍勢を送って助けることができます。しかしゲッセマネでイエス様は「御心ならこの杯を取り除けてください。しかしあなたの御心が行われるように」と祈り、神の救いの御心であり計画である十字架に黙ってかけられるでしょう。事実、神もそれを御心とされました。そのようにイエス様は、地上の繁栄と栄華に神の政治的な王国を建てたのではありませんでした。まさにこの十字架にこそ神はご自身の栄光をあらわされたではありませんか。人間の、自分たちの望むようになるところに神がおられ、神の栄光があるのだと見るのは、栄光の神学です。しかしそれは自分たちの栄光を望み、期待し、求め、見ているだけであり、誇っているだけです。まさにサタンの誘惑に屈してです。しかし教会は、このイエス様の十字架のこそ真のいのちのパンがあり、私たちへの御心があり、そして栄光がある、私たちの栄光ではなくキリストに栄光があると信じます。それが私たちの信仰です。それはみ言葉に書いてある通りであり、み言葉の約束が真実でその通りになった、これからもその通りに実現するからこそです。そのキリストとみ言葉に信頼し生きるからこそ、今日も、これからも私たちは、キリストにあって勝ったのです。誘惑に。試練にです。そして、このイエス様の試練の歩みが御霊に導かれ、御霊によって仕えられているように、私たちクリスチャンの歩み、教会の歩みもまた、荒野の試練を通してこそ、そしてそこにおられるキリストにあってこそ、み言葉と聖霊の豊かな働きによって日々聖さにあずからせてられていく、世にあって隣人のために用いられていく、そのように今日もここから遣わされていくのです。イエス様は今日も私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様からイエス様が与えるみ言葉と聖餐を受け取り、イエス様だけが与えることができる特別な平安をいただいて、ここから遣わされて行きましょう。・
覚悟と胆力を養うキリスト信仰
武道家であり言論人でもある内田樹氏は武道の技術向上と宗教的成熟には相関関係があると主張する。AI情報によれば、氏は「武道も宗教も、個人的なエゴ(我執)や、勝敗・巧拙にこだわるマインドを解除することを目指す」と説く。また、評論家の池上彰氏は、宗教を「よく死ぬための予習」であり、どう生きるかを考える糧と捉えているとのこと(これもAI情報)。
今まで礼拝の説教や週報コラムでルターの聖書の説き明かしを数多く紹介してきたが、どれもが、姿勢や心意気として、覚悟と胆力を身につけさせるものではないかと思っていた。そんな中でマスコミのどこかで二人の識者の発言を耳にして何か相通じるものがあると思い、AIに確認した次第。
礼拝の説教では毎回、「復活の日」にイエス様が眠りから目覚めさてくれることや、彼が整えてくれたものを受け取って手放さずに生きてきたことが最後の審判で神の御前に立たされた時に重要な意味を持つことを説いている。なので、スオミの礼拝は「よく死ぬための予習」をしていると思う。
宗教と武道の相関関係については、内田氏の言う宗教とは修行に大きな意味を置く仏教を指していることは言うまでもない。キリスト教、特にルター派は、信徒に修行や苦行や難題を課して、それを実行して神に義とされるような救いを排する。そこで一つ気にかかる聖句はローマ8章13節「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」だ。「生きる」とは死を超えた永遠の命に与かれることを意味する。体の仕業、つまり肉体が欲すること、神の意思に反することだが、これを断ち切れば永遠の命に与かれる、救われると言っているように聞こえる。
しかし、そういうことではない。「断ち切る」はギリシャ語原文では「死なせる」。しかも動詞は常態を意味する現在形。エイッ!ヤーッ!と気合を入れて自分の力で一気に欲望を断ち切ることではない(その意味ならば動詞はアオリストになる筈)。「日々、神の意思に反する業や思いを死なせていく」ことである。どういうことかと言うと、キリスト信仰者が自分の内に罪があることを日々自覚して、赦しと希望はイエス様の十字架と復活の業にのみある、その業の力が罪に無力な自分を覆いつくすように自分を日々とことんヘリ下させる、そうすることで自分の内に残る罪は内になだれ込む赦しと希望の重圧を受けて日々圧し潰されていくという死なせ方である。キリスト信仰者はたとえ腕力がなくとも武道家にも引けを取らない覚悟と胆力を持つことができるのではないか。そのことを、これから何回かにわたって紹介するルターの説き明かしからも知ることができればと思います。
↑この藪の中にいる。
ルリビタキ
< 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 マタイ6:26>
小山田緑地を歩いています。緑地の外れに休耕地の水田跡がありその上を木道を渡してあります。過日、その木道の上でカメラを構えて頻りに向かいの藪を覗っている人を見かけました。撮り終えたようなので何がいるのですかと尋ねましたらにっこり笑って画像を見せてくれました。青い鳥が写っていましたのでカワセミと聞くとルリビタキと教えてくれました。成程、カワセミより明るい空色でした。此方も負けじと愛用のカメラで藪をめがけて撮りました。ルリビタキは藪に入ったり出たりで忙しそうに飛び回り動きが速いので私のカメラでは追いつきませんでした、悲しいかな此方のカメラは彼の望遠レンズつきの高級なカメラと違いますので全く撮れていませんでした。でもこれ以来、小山田緑地の散歩の時は此処にきてルリビタキの観察を楽しんでいます。(此処に揚げたのはネットから借用したものです。)
今年最初の家庭料理クラブは2月7日に開催しました。天気予報は一日雪のマークでしたが、雪は降らず参加者の皆さんは無事に教会にいらっしゃることが出来ました。今回の料理クラブは、フィンランドの「ルーネベリの日」の二日後でしたが、「ルーネベリロールケーキ」を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにアーモンドパウダー、片栗粉などの粉類を計ります。今回の生地は小麦粉を入れることがなく小麦粉アレルギーの方にも味わっていただけるお菓子なのです。次に卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てて、白い泡になってから粉類を中に加えると生地が出来ます。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間に生地の焼き香りが広がって、ケーキに焼き上がりました。クッキングシートに潰したクッキーをかけてその上にケーキをひっくり返して冷まします。
ケーキを冷ましている間に今度は中身を作ります。材料を計ってクリームを泡立てます。それから本格的にケーキ作りに入ります。冷めたケーキの上にシロップを塗ってラズベリージャムを全体に拡げます。その上にさらに泡立てたクリームを拡げます。そして、いよいよケーキをロールにします。ケーキが割れないように注意しながら少しずつロールします。ロールしたケーキをしばらく冷蔵庫で冷やしてから切ります。一個一個お皿の上にのせてクリームで飾り付けをして、その上にラズベリージャムをのせると、「可愛い!」「きれい!」の声があがりました。これで「ルーネベリロール」の出来上がりです!
早速みんなでテーブルのセッティングをして席に着き、出来たてのルーネベリロールケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わうと、たちまち「美味しい!」「美味しい!」嬉しそうな声があちこちから。「アーモンドとラズベリージャムがとても良く合う!」という声も。
今回も楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの有名な作家ルーネベリと彼に由来するルーネベリ・タルトについて、そしてルーネベリが残した詩の言葉「神は試練をお与えになるが、決して見捨てることはない」とこの詩が基づいている聖書のみ言葉についてのお話も聞きました。
参加者の皆さんが帰宅する時刻は地面は白い雪で覆われていなくてよかったです。皆さんご無事にお家に帰られたでしょう。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは2月5日は「ルーネベリの日」です。ちょうど二日前がその日でした。フィンランドでは新年が終わると、お店や喫茶店でもルーネベリ・タルトが並ぶようになります。そして、「ルーネベリの日」になると大勢の人たちはこのお菓子を買って美味しく味わいます。もちろん多くの家庭でも作られます。
では、「ルーネベリの日」とはどんな日なのでしょうか?以前お話ししたことがありますが、まだ聞いてない方もいらっしゃるので、少し紹介します。ルーネベルイは、フィンランドの有名な作家で1804年に生まれました。彼は、詩もよく書き、最も有名な詩はフィンランドの国歌です。美しいその詩は多くのフィンランド人を励ましてきました。彼は60曲近い讃美歌集の詩も書きました。今フィンランドの教会で使っている賛美歌の中にはルーネベリが書いたものがまだ沢山のっています。
ルーネベリは甘いお菓子が大好きで特にこのタルトが大好物でした。彼はこの甘いお菓子を朝食でも食べていたそうです。現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が少し長めの円筒状で、ラズベリージャムを上にのせます。面白いレシピの一つは、生地にピパルカックを入れます。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れると美味しいお菓子が出来上がるのです。最近はつぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。今日皆さんと一緒に作ったロールケーキもそれです。またロールケーキの他に、マフィンやさまざまななケーキの形のものも作られるようになり、生地に入れる材料も多様化しています。ルーネベリ・タルトは2月5日を過ぎたら喫茶店や店から姿を消しますが、ルーネベルの町ポルヴォーの喫茶店では一年中食べられます。
このようにルーネベリは後世にルーネベリ・タルトの伝統を残しました。しかし、彼が後世に残したものはこの冬のお菓子の伝統だけではありません。季節に関係なく、いつも読まれる詩や小説、そしていつも歌われる沢山の讃美歌を残しました。
ルーネベリが書いた作品の中では天の神様は信頼できる方であることがよく言われます。ここで彼が書いた有名な詩の言葉を紹介します。それは「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」という言葉です。これはフィンランドでは昔、人々の生活の中でよく聞かれた言葉です。
聖書の中にはこの言葉通りの出来事の例が沢山あります。旧約聖書の中で最も有名なのはヤコブの息子ヨセフの話です。ヤコブには息子が12人いました。その中でもヨセフを特にかわいがりました。それを見た兄たちはヨセフをねたむようになりました。ある日、兄たちはヨセフを井戸に投げ込んでしまいました。しばらくすると、外国の商人のキャラバンが通りかかったので、兄たちはヨセフを井戸から引き上げて、売りとばしまいました。その結果、ヨセフはエジプトに連れて行かれたのです。
ヨセフはエジプトで多くの困難に遭い、牢屋にも入れられました。しかしそのような時でもヨセフはいつも神様から知恵と助けをいただいて乗り越えることができ、最後はエジプトの王に認められて国の最も位の高い行政官に任命されました。それから何年か後、多くの国々で雨が降らず作物もできない大飢饉が起きました。エジプトは、ヨセフの指導のおかげで前もって食べ物を沢山たくわえていたので、人々は困ることはありませんでした。その時ヨセフの兄弟たちと父親のヤコブが食べ物を分けてもらうためにエジプトに行きました。そこで、ヨセフに出会ったのです。ヨセフは兄たちが自分に対して行った悪いことを全て赦して、父と兄弟たちがエジプトに住めるように整えてあげました。
このように神様はヨセフを見捨てることなく、いつも見守って下さったのです。困難や試練の時は、神様が共にいらっしゃるとはなかなか思えないでしょう。しかし神様が決めた時が来ると、神さまはヨセフを助けて下さったのです。ヨセフは困難や試練の中にあっても、いつも神様を信じて、神様に助けを祈り続けました。神様が本当に見守って導いてくれたことは、後になってわかったのです。
私たちも人生の歩みの中で様々な試練に直面します。しかしそれは神様が私たちを見捨てたということではありません。神さまは遠く離れた存在ではなく、いつも私たちのそばにいて下さいます。私たちは決して完璧な人間ではなく、時には神さまのみ心に反することをしてします。それでも神さまは私たちを見放したり見捨たりすることはありません。私たちが神さまの元に立ち返るなら神さまは赦しを与えてくださり私たち一人一人と共にいて下さるのです。それは神さまが私たちや世界の全ての人々を愛しておられるからです。その愛のゆえに、神さまはいつも私たちをご自分の元に招いておられるのです。
ルーネベリの言葉を聞いたりタルトを食べたりする時にはこのルーネベリが書いた言葉「神は試練をお与えになりますが、決して見捨てることはありません」を忘れないようにしましょう。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2026年2月15日(日)スオミ教会説教
聖書:マタイ福音書17章1~9節
説教題:「イエス、栄光の姿に変貌」
今日の礼拝は変容主日礼拝であります。今日の聖書ではイエス様のお姿が三人の弟子たちの前で突然驚くべき姿に変わってしまったと言う出来事であります。マタイ福音書17章1~2節を見ますと「六日の後、イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」。まず、イエス様は弟子たちの中でも最も信頼し、頼りにしているペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名だけを連れて高い山に登られた。イエス様は彼ら三人を大事な場面で特別に選んでおられます。例えば会堂司ヤイロの娘を生き返らせた時にも三人を連れて行かれています。(マルコ5:37~40)また、ゲッセマネの祈りの時にもイエス様は他の弟子を園の入り口に残してこの三人だけを連れて園の中央に進まれ十字架の苦難へと向かわれる前の神への激しい祈りをされました。(マタイ26:37~46)これから起こる、この世では理解出来ないイエス様の変貌の出来事を、メシアの受難と聞き始めた他の弟子たちの中には心が動転して誤解する者もいるでしょう。そこでイエス様は信頼できる三人なら後に他の弟子たちに説得できるだろうと言う確信のもとに三人だけを特別に選ばれて連れて行かれたのであります。選ばれた証人たちの前で変貌は起こりました。この時、山上で起こった出来事はどんな不可思議であったとしても疑う事の出来ない事実です。証人の一人ペテロは彼の第二の手紙1章16節以下で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちはキリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18節、私たちは聖なる山にイエスといた時、天から響いて来たこの声を聞いたのです。」イエス様が三人の弟子を連れられて登られた「高い山」は恐らくヘルモン山であったと思われます。標高3000m以上のヘルモン山の中腹で出来事はで起こりました。此処で何が起こっているかと言う事ですが、此処には以前に「弟子たちはイエスの栄光をみるであろう」と約束されたその約束が確かなものとして証された、実証された、そう言う出来事であります。その約束された栄光の姿は2説~3節にありますように「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモーセとエリヤが現れイエスと語り合っていた。」その驚くべき光景は宇宙的な深い見方から申しますと、此処では「天の世界との交わりが啓示された。」神からの神秘の中でこの世に表された交わりと確認でありました。それは人間の目で見る事の出来ないような此の世の常識を遥かに越えた驚くべき光景が展開されたのです。天空の雷雲から一瞬ピカピカと稲妻の光が輝いたと言った程度のものではありません。外部からの別の光が必要ないほど地上の自然のあらゆる光を凌ぐところの眩い輝きの中に主イエスは立たれていた。しかも弟子たちは目の前で空中高くそのみ姿を仰ぎ見たのであります。このイエス様のみ姿は私たちの知っているどんなものよりも高く上げられ全く新しい形で表されたのであります。そこには此の世とは次元の違う只中に展開されているその光景を弟子たちは見せられているのであります。マタイ13章43節に約束されている、「彼らは父のみ国で太陽のように輝くであろう」と言うその言葉通りの事がイエス様の上に起こっているのであります。同じ事がヨハネ黙示録にも1章12節~16節にあります。イエス様のこの変貌は単にイエス様の人格が新しくなった、と言った事に留まらない。更に此処に於いて旧約聖書時代にまで時代が遡って神に仕えた預言者たちが現れて空中のイエス様との交わりが現れたのであります。3節に「見よ、モーセとエリヤが彼らに現れてイエスと語り合った。」昔の預言者たちは今、沈黙して現れたのではなく主イエス様と語り合っているのです。この光景を弟子たちはどのように見たのでしょうか。
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弟子たちの時代より遥か千年以上の昔にシナイ山で十戒を頂いたモーセが現れている。イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、旧約聖書の律法の代表者と言ってよいモーセであります。又、イスラエルの民がメシア待望の中で大預言者と仰いだエリヤも現れている。旧約聖書のマラキ書3章23節を見ますと「見よ。私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マラキのこの約束の故にイスラエルの民がエリヤを待望したのです。こうして、この偉大な信仰に生きた二人はその最後が秘儀に満ちています。つまり、人生の終わりは謎に包まれています。モーセは独り山の上で神のみ傍近くに死んだ。エジプトからイスラエルの民を救っ年の旅の末、モーセはカナンの地に入ることなく死んでいます。それで人々はしばしば「神はモーセを天に取り去られた」と言ったのです。又、エリヤは人生の最後はどうであったかと言いますと嵐の中にみ使いによって火の車に乗って天高く引き上げられた。この二人の人生最後の姿はなんという神秘に満ちたものではありませんか。神秘に満ちて天に引き取られたモーセとエリヤが今、空中でイエス様と出合っていると言うのであります。そこでは何が語り合わされているのでしょうか。恐らくイエス様のこれから向かわれる十字架の道についてその決断の確認でありましょう。三人の弟子はと言いますと、この幻想的なモーセ、エリヤ、イエス様の天高く空中で話し合われている光景に驚きと喜びに満たされました。ペテロはイエス様の栄光の姿にどんなに感激しつつ、この光景がそのままであって欲しいと何が何だかよく分からず、4節を見ますとペテロはイエスに言った「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしい事です。お望みならば私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため。もう一つはエリヤのためです。」テロが語っているうちに、見よ!そこに光輝く雲が彼らを覆った。すると、見よ!雲から声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて恐れおののきひれ伏したのあります。イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を光輝く雲が覆ってしまった。この光輝く雲はかつてモーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の神の印でありました。(出エジプト記13章21節にあります)更にこの雲の中から神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声があったのです。この声はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も「これは私のみ心に適う愛する子である」と言う御声を天からあったのと同じです。(マタイ3:17)イエス様はこれからご自分の人生の方向を十字架の受難の道に向けられることを決心をされて天からの確認の御声を聞かれたのです。この事はイエス様の心の内に天の神の御心と一つにされた聖霊がここに啓示されて、神の栄光がイエス様の体にはっきりと現わされたのであります。天の空中での「イエスの変貌」のこのみ姿はまさに十字架の死から蘇られたみ姿を予め三人の弟子に示されている出来事であります。弟子たちは神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖に襲われたのであります。その時イエス様は弟子たちに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れる事はない。」今や、イエス様は再び僕の姿をとって弟子たちと共におられた。こうして彼らは”如何に高くイエス様が彼らの上に聳えたっておられるか”と言う事を心に深く刻んで経験したのでした。更に神の栄光を身近に感じる事が出来たのであります。モーセとエリヤの中に立たれたイエス様は後にゴルゴダの丘で二人の犯罪人の間に立って罪の全てを負って十字架の死を遂げられる。そこには栄光のイエス様は何一つ無いのであります。しかし、私たちは蘇られ天の御国へ返られた栄光の中にあるイエス様を心に信じてやがて神の御国が主と共にある喜びを持って生きたい。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン