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ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月16日の日課から
「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」 (詩篇14篇1節)
「これが自然な状態の人間とその理性の言い草だ。それらは、目で見ること耳で聞くこと感覚で感じることを超えることができない。見たり聞いたり感じることができないと、すぐ次のように言って神を否定してしまう。『ここには神はいない、何かいるとしたらそれは悪魔だろう。』 これが高等教育機関が照らし出す光である。本当は、それらは人間を創造主の神のもとに導くことをしなければならないのに、地獄の底に沈めてしまうことをするのだ。人間の自然な状態の光と神の恵みの光は決して一つにはなれない。
自然な状態の人間は見て聞いて感じてわかろうとし、信じる前に確信を得ようとする。ところが、神の恵みは見て聞いて感じる前に信じるように導く。それゆえ、自然な状態は自分の光が届く範囲から出て行くことができない。これに対して神の恵みは暗闇の中に導いていく。しかし、神の御言葉の後について来なさいと言って導いてくれるので、周りがどう不安を掻き立てるものに見えようがそんなことにお構いなく、大丈夫だという気持ちで導きについて行けるのである。このように神の恵みは御言葉と固く結ばれ、それなしにはあり得ない。自然な状態がそれを偽りだと言っても、そうなのだ。まさに信仰が信仰たるゆえんは、神の御言葉にのみしがみつくことにおいてである。目には見えなくとも御言葉が約束しているものならばしがみつく、それが信仰である。しかしながら、同時に信仰は御言葉を台無しにしようとするものにも多く直面する。それらは、御言葉の約束が無効で空虚だと思わせようとするのだ。
人間の自然な状態が愚かなものと呼んで避けようとするものを信仰は正しい道と呼ぶ。信仰は、自然な状態が自分を賢いものと思うなら勝手に思わせ、その目に愚か者に映るなら喜んでそれで構わないとし、それが踏み込めないところに堂々と入っていく。そのようにして信仰はキリストのもとに到達して彼を見いだすのだ。」(以上ルターの説き明かし)
これぞ、ルターの「御言葉の神学」!