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説教「鳩のように素直に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書10章16節~33節

 

先週の聖書に続いて、今週はマタイ福音書10章16~33節です。 表題でわかりますように、「迫害を予告する」となっています。

先週の10章15節までは、イエス様が12人の弟子を選んで伝導に遣わすことを命じられました。 この時、イエス様は、異邦人の地に行ってはならない、と言われています。 ユダヤの民への福音を宣べ伝える事でした。 そして、病人をいやし、死者を生き返らせなさい。金、銀は何も持って行くな、という命令でした。

ところが、今日のところでは、16節に「わたしは、あなた方を遣わす」と言われて、「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と予告されています。

5~15節までのところでは、異邦人の所へは行くな、でしたが、18節を見ますと、彼らは異邦人に証しをすることになる。

次に、病人をいやしたり、死者を生き返らせなさいどころではない。弟子たち自身が迫害にあい、生きるか死ぬか、という深刻な状況となる派遣です。 21節を見ますと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という、恐ろしい予言です。 そして最後のところでは、22節には「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とあります。 だから、今日の派遣の予告のところでは、これから弟子たちの上に起こって来るであろう、迫害に対して、どう戦っていったらいいか、という戦いの予告なのです。

まず、あなた方は、狼の群れの中に羊を送り込むようなものだと、断言されています。ここに、どんなことが言おうとされているか。 この言葉を聞いて誰でも思うことは、狼の群れに羊を送り込まれたらどうなりますか。狼は獣の中でも肉食の群れですから、羊は食いちぎられて、むざんな最後となってしまうでしょう。 ここを原文にそって言いかえますと、「見よ!私は狼の真っただ中に行く羊のように、あなた方を送り出す」とイエスは言っておられるのです。 17節以下は、激しい迫害が待っている、そういう迫害が想定されて言われている言葉です。 これは、イエス様が復活されて昇天された後、やがて弟子たちがユダヤだけでなく、異邦人の地にまで、福音伝道が開始された後に発生して来る、迫害の戦いに身を置く事になる。

さて、この戦いに耐え忍んでいく時、どうすべきかを予言として語られているのです。この状況は、たとえて言えば「狼の群れに羊を放り込むような状況だ」 と、マタイは表現して記しているわけです。このことをまず前提にして、この言葉の意味を少し深く見ていきたいと思います。 この場合、たとえで言われている「狼の群れ」というのは、17~18節で言われているように、「人々を警戒せよ。彼らは、あなた方を地方議会に引渡し、彼らの会堂で鞭打つであろう。又、あなた方は私のため、総督や王たちの前に連行される。」

これでわかるように、戦いの相手はサンヘドリンと言われた、イスラエルの最高議会の権力者たちです。70人の議員がいて、地方には同じように30数人の議員で成った議会があった。地方の住民は、直接的には彼らの権力の手の下に支配されていたわけです。そしてユダヤ教の祭司長たちです。 弟子たちがこの群れに対して、「あなた方が十字架につけたイエス・キリストこそ、よみがえって救い主となられたメシヤである。」と、福音宣教を叫んだところで、彼らが従順にその声に服して信仰にはいるでしょうか。 ユダヤの民は、イエス様の言葉に耐えきれず、むしろ、まるで狼が羊を食いつくすように、ありとあらゆる悪しざまな仕打ちを、用意するであろう。

その時弟子たちは、狼の間にいる羊のように生きなければならない。 ユダヤ教の戦いの手口は、「目には目を」「歯には歯を」の思想である。 そこで、弟子たちであるキリスト者は、彼らと同じであってはならない。 憎しみに対し憎しみ、悪口に対し悪口、暴力に対し暴力をもって返す、これと同じような仕方、武器をもって戦うな!と命じておられるのであります。 これが羊の意味です。無防備、無抵抗、敵を愛するのみ。

21世紀に生きる私たちの世界は、どうでしょうか。 エジプトやイラクでは、政府、反政府に宗教がからんで内戦が続いています。イスラエルとパレスチナも何十年と戦い続けています。武力をもって相手と戦い、武力をもって返してきます。憎しみをもって憎しみを返す悲劇が続いていきます。 日本の現状はどうでしょうか。平和憲法のもと、無防備で戦争は決してしません、と宣言して来ましたが、そうは言っても周りから、武力をもって戦いを挑んで来ています。もう堪忍袋の緒が切れてしまって、武力に対して武力の構えをして来ました。これから注目すべきは中国と韓国の動き、そして北朝鮮はどうなっていくでしょうか、微妙な政情になってきました。今年、いろんな事が起こってきますでしょう。

さて、イエス様は弟子たちを、無力な羊のように狼の群れにほうり出される。この危険な只中でどうなっていくのか、イエス様ご自身は充分承知の上で、気をつかって見守っておられます。そして、次のように言われます。「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。 ここに出て来る、蛇のようにということと、鳩のようにということが、どうしてもむすびつかない、よくわからない。 どうして、蛇と鳩を出して言われるのか、わからない。 鳩は平和のシンボルとして見られます。蛇は人間が一番きらう生き物。特に女性はきらいでしょう。

蛇のように賢くありなさい。当時のユダヤ人たちは、キリスト者に対してほんの少しでも弱点を見つけるやいなや、自分たちに有利になるように、情け容赦なく襲いかかって来る、そういう敵対者の中にいることになる。 ですから、敵対者を鋭く観察し、一寸のすきも与えない。すばしこく対応して耐え忍ぶすべを持っていなさい、という警告でしょう。 蛇のように機敏に立ち回って危険を乗り越えて進みなさい、というイエス様の教訓の予言です。 次に「鳩のように素直になりなさい」と言われます。 「素直になる」という部分で用いられているギリシャ語は、「アケライオス」といい、「混ぜる」という動詞の否定形で、「混じり気のない」とか「純真な}というのが元の意味であるというのです。 そうすると、この反対は、多くの種々雑多のものが混じっている状況ということになります。 想像してみて下さい。この世の人間は、争いがたえない戦いがうずまいています。戦いの矢先に立たされる時、決断を迫られるわけですが、何を判断の基準にしたらいいか、様々な思いが入り混じって混乱し、迷わざるをえない。 「鳩のように素直であれ!」というのは、これらの反対ですから、心を単純にしてまっすぐに進め、キリスト者はひたすら主の言葉だけを基礎に置いて、主のみこころのままに信じて進み行け、ということです。 もちろん、そこに具体的な状況の中で、事をするどく認識し、分析し、賢くふるまうこと。そして最終的には、そこで、いかなる事態が起こって来ようとも、 しっかりと主の御心の一点に向かって、信ずる道を断固として進みなさい。 まことに単純にして明快です。そうすると、最後には主の御旨に従ったのですから、主が責任をとって解決して下さる。そうすると勇気が与えられるのです。

キリスト者が迫害され、苦しみ、戦いの中でいかに対処すべきか、ということを、イエス様は予言の言葉で教えておられる。 しばしば、大きな危険を招き、時には殉教の死をも覚悟しなければならない道であったのです。 この教えで大切なことのもう1つは、一寸のすばしさを持って正しいことを機敏に対応していく、蛇の姿と同時に子供の無邪気さで親しまれていく、無心の 愛をもつ鳩の姿とを同時に備えていなさい。というのがイエス様の教えです。 時に賢くふるまい、時に純真な心と愛を土台にすえた、この二つの対比を合わせ持って、困難を乗り越える事を示されているのです。 弟子たち、そして私たちすべてのキリスト者は、どんな時代の困難に遭遇しても、神を知っている。 この世の人や、物や金に頼らない、神にのみ御国への希望を持って耐え忍ぶのであります。

21節から22節を見ますと、そこには具体的な激しい困難の様が予言されています。たよりとする聖なる家庭の中で、両親と子供を結ぶきずなが断ち切られる。弟子たちは、すべての者を自分たちの敵にまわし、すべての人に憎まれる。それは、ただ、イエス様の御名のために、そうなる。 世界に向かって、イエス様をすべてのものの主として証しするからであります。 しかし、終わりまで耐え忍ぶ者は救われるであろう。 すばらしい救いの約束であります。 ハレルヤ、アーメン。

 

聖霊降臨後第五主日  2014年7月13(日)

説教「力を頂く」マルッテイ・ポウッカ牧師、

マタイによる福音書9章35~10章15

 



人間には、それぞれ、いろいろな タレント、また、いろいろな職務があります。その一つ一つは、この社会のためにいいものです。教師も、運転手も、政治家など、どれもこの社会がうまく動くために必要なものだと思います。


始めに

イエス様ご自身も、神様のご計画に従うとても大切な仕事をして下さいました。



マタイ9:35
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

イエスがなさった仕事の内容は、どんなものなのでしょうか。

イエスの御業というのは
まず、イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに世の中に影響を及ぼしつつあることを示しているのです.
たとえば、イエスがナインの寡婦の息子を甦らせた出来事があります。これは、ルカ7:2-17を読んでみてください。 
また「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)とあります。



この青い空の下にいろいろな苦しみがあります。 けれども、イエスは人間の苦しみをお知りになりました。

マタイ9:36
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

イエスは、愛をもって、弟子たちにこう言われました。

マタイ9:37
「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」

次に

そして、イエスは神様の計画に従うご自分の仕事を続け弟子たちをお選びになりました。

マタイ10:1−4
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」
十二使徒の名は次のとおりである。

まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」

この弟子たちのなかにも、いろいろな職務を持った人がいました。そして、イエス様に招かれて、イエスに従いました。性格も職業も違う弟子たちはイエスの教えを学んだり教えられたことを実行したりし始めました。

最後に

イエスのエンパワーです

イエスは神様のみ子として人間の弱さをよくご存知です。それにも、私たち罪人の弱い人間に仕事と、力と、助言を与えて下さいました。


 
マタイ10:8。
「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

ですから、神様に頂いたプレゼントを人々に分かち合いましょう、福音を伝えましょう。イエスのエンパワーによって。

このような教えが書いてあります。
救い主の命令によって、福音は全ての国の民に宣べ伝えられなければなりません。

教会はこの活動に、宣教の事業を通して参加します。
ルーテル教会は「彼らはみな一つになるように」との主の望みを成就するために、他の教会と協力しています。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。

また、
マタイ10:4。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」


すべての人が福音の素晴らしいメセージを聞きたいわけではありませんが、神様はこの世の全ての人を大切にして下さって、愛して下さいます。そして、イエスは全ての人の救いのために死んで下さいました。これは永遠の命の希望の元です。それを分かち合いましょう。そのために、祈りつつ、神様の約束して下さった力を頂きましょう。




 祈りましょう  
天の父なる神様。二千年前イエスは12人の人々を弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたは弟子たちに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。私たちは、どんな痛があっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください 私たちは色々な才能と職務を頂いています。 どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。知恵と力も与えて下さい。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてください。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますよう に。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。アーメン。

 

ポウッカ先生の送別会

 ポウッカ先生を囲んで懐かしい思い出に話は尽きませんでした。また、今度は是非お二人でこられることを願ってやみませんでした。 

 

 

吉村博明 先生のフインランド便り

「スオミ教会とその礼拝に繋がる皆様」

私たちがフィンランドに来て早くも2週間以上が経ちました。皆様にはお変わりありませんでしょうか?今そちらはポウッカ先生のもとで元気に礼拝を守られていることと思います。さて、先週6月27日から29日までの三日間に渡って、ラハティ市で開催されたSLEYの全国大会に出席したので、挨拶を兼ねてその様子を簡単にお知らせしたく思います。ラハティ市は、国際的なスキー競技大会がよく開催される、ウィンタースポーツのメッカです。郊外にある3つの大きなスキーのジャンプ場は市のシンボルにもなっています。27日、現住地のトゥルク市を車で出発するや、全行程210キロの半分少しを行ったところで、車が故障してしまいました。至急レッカー車を呼んで修理工場に運んでもらい、さて果てしなく続く森の中の国道に取り残された私たちは、タクシーを待っていました。ちょうど偶然にもSLEYの大会に向かっていた元日本宣教師のリーッタ・ポホヤンパロさんに見つけられて、彼女の車で到着することができました。私たちは、リーッタさんのことを、「神様がボルボを運転する天使を送ってくれた」と言って笑いあいました。

 三日間の大会の参加人数は、まだSLEYからの発表は出ていませんが、例年と変わらなければ2万人前後でしょう。フィンランドの人口は500万ですので、大きな数字と言えます。大会は今年で140回目となります。 大会の行事プログラムの詳細は、私たちが帰国した時にお話しいたしますが、私の役割は、28日土曜日の午前のプログラムで5千人位の聴衆の前で、日本の伝道についての基調報告を行いました。あと、日本のミッション展示資料室の案内役が金曜日と土曜日の2時間ずつ。それから、日本福音ルーテル教会からの招待客の白川事務局長と本郷教会の安井先生に通訳する仕事もあったのですが、私の体調がすぐれないこともあって、それはかわってもらいました。29日日曜日は午後のプログラムで、派遣される宣教師たちの按手式があり、主の聖壇の前で、かつ1万人近い会衆が見守る中で、家族一緒に按手を受けました。これ以上は長くなるので、帰国した時にゆずることとしたく思います。少しでも雰囲気が伝わるように写真を二枚ほど添付します。土曜日の夕礼拝とその聖餐式の列の写真です。

 大会後は、私たちは全国各地の支援教会の訪問を行います。一番北はトゥルク市から600キロほどいったオウライネン、一番南はトゥルクから半径50キロ内の諸教会、あとはトゥルクから300~400キロ北に行ったパイヴィの実家の地方です。今のところ、12の教会の訪問が決まっていて、一つは日曜日に当たってしまったので礼拝説教をすることになっています。今残念なことが起きてしまいました。フィンランドは今、10~15度位の寒い夏で、パイヴィがひどい風邪を引いてしまい、明日予定されていたマルッティラ教会の訪問行事は中止となってしまいました。また新しい日にちを決めなければなりません。パイヴィの健康状態もお祈りにお覚え下さい。

 それでは、日本も天候不順な日が続いている由、皆様もくれぐれもお大事になさってお過ごしください。スオミ教会に繋がる皆様一人一人の上に、天の父なるみ神からの祝福が豊かにあるようにお祈り申し上げます。

 主にあって

 吉村博明

説教「主が探される」マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書9:9-13

 


女性はたいてい洋服とか飾りが好きですが、道具の好きな人もいます。特に男性はたいていそうでしょう。私も、何も考えないで店に入って、少しすると、新しい スクリュードライバーとか「マきた」をもって出てきます。「あなたはもう道具をたくさん持っていますけれども、今度の買い物は本当に必要ですか。」と質問されたら、なかなか答えが見つかりません。新しい道具が本当に必要な場合もあることはありますが・・・。とにかく、時々ショッピングするのは楽しみです。新しい道具を見つけると嬉しいものです。 
では、神様は何を探されるでしょうか。 
神様は私たちを探していらっしゃいます。 
私たちが神を知り得るのは、神が私たちに御自身をお示し下さるからです。 
神は愛をもって私たちに近づき、私たちを御自身の御許に引き寄せられます。聖書にはこう書いてあります。 
「遠くから、主はわたしに現れた。/わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」(エレミヤ31:3)。 
「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に 話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ7:17)。 
 
私は道具を店で探しましたが、今日の聖書の箇所で、イエスは人間を探していらっしゃいます。イエス様の愛というのは、私たちには理解できないほどすばらしいと思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

9.9.イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 
マタイは即座に立ち上がりました。『すばらしい先生が私を招待してくださいました』と思ったでしょう。そして、どんなに喜んだことでしょう。 
10.イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 
みな大喜びでした。イエスは大勢の人々と共に食事をしておられました。 
彼らは、自分たちは愛されているという感じがしたに違いありません。 
 
しかし、他の人たちはそれが気に入りませんでした。 
11.ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
ファリサイ派の人々は『私たちは偉い』と考えていたでしょう。そして、イエスはそれをご存知でした。神様の御子だからです。 
12.イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」 
 
さて、ある友達の話をいたしましょう。 
私が前に働いていた教会の友人のラッセという男性は私にこんな話をしてくれました。先ほどのみ言葉の意味がよくわかる具体的な例として、この話を考えてみてください。 
そのとき、ラッセはおおよそ四十歳で、外見は何も問題がないようでしたが、内心はとても暗く、酒癖が悪く、自分でも幸せな生活ではないと告白していました。 
ラッセはある日、信徒説教者の話をききました。その説教者は私の家内の父でした。その話の中にこの聖書の一節が出てきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」この言葉を聴いて以来、ラッセは自分は「別の世界」に入ったと言いました。彼は神様の国に入ったのです。そして、彼の生活はすっかり変わって、心の平安と人生の目的が見つかりました。奇跡でした。その後、ラッセは自分自身も神様の国のことを人々に話し始めました。心の希望が生まれたのです。 
   
聖書の箇所に戻りましょう。 
13.『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」 
こうしてイエスはファリサイ派の人々に答えて、神様の恵みについて教えてくださいました。 
イエスが教えられた神の御恵みはどんなものなのでしょうか。 
 
イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何の価値も無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。 
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。 
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。 
イエスの考え方はファリサイ派の人々と全く違いましたね。 
 
イエスはマタイを友達として愛されました。そして、弟子にされました。マタイはそれからイエスと共に働きました。私の友人のラッセも神様のみ言葉によって神様の国のために働き始めました。そして、私たちも自身も、神様の道具としてイエスと共に働くことができるのです。 
 
今、神様の恵みによって、わたくしたちは喜ばしい自由な心をもっています。 
キリスト者は、強制の下にいやいやながらしたり、または報酬を目当てにしたりするのではなく、むしろ、自らすすんで「喜びのある自由な心」から、神の御旨を遂行します。 
「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩篇100:2)。 
「喜ばしい自由な心をもって働け」

(マルティン・ルター)。 


イエスのみ業によって喜びましょう。 
ローマ5:11.それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して(とおして)和解させていただいたからです。 
 
私は新しい道具を探しました。そして、何か見つかったら喜びました。神様は、新しい人とか神様から離れて生き続けた人が見つかると天国で大喜びをされるのです。 
 
祈りましょう 
天の父なる神様。二千年前イエスはマタイを弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたはマタイに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。どんな痛みやがあっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください。どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてくださ い。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられ るように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますように。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。

アーメン。 
 
 
 


 

パイヴィ・ポウッカ:「この青い空の下に」

パイヴィ・ポウッカ先生が私たちのために「この青い空の下に」を解説して下さいました。この曲は賛美歌ではありませんがフインランドの人々の愛唱歌のようです。スオミ・キリスト教会でも愛唱歌として、ことあるごとに歌われて来ました。少し長いですけれどどうぞ一読下さい。

この青い空の下に

1.
この青い空の下に
頭上高く広がる青い空と人間が住むこの美しい世界は誰もまねのできない傑作だと思います。冬の後だんだん緑に移り変わる自然、春の花の芳しい香りと喜びを歌う小鳥は皆神様の素晴らしい御業について語っています。

周りの景色を上から、例えば、展望台とか岡の頂上とか飛行機の窓から見ると、世界の美しさはより深く感じられます。もちろん、ロケットから青い地球に感動した人もいますが、それはわずかな宇宙飛行士の特権ですね。この青い空の下に、人類の歴史の中で様々な人間が何億人も生まれました。人々は大勢ですが、天地万物の視点から考えると一人の人はほんの小さな者です。例えば、飛行機が地上から少し上がっていくと、人の姿はもう見えなくなってしまいます。しかし、小さい者なのに、私たちは皆掛け替えのない価値を持っています。あなたも私も聖なる神様の栄光を表すために作られた者です。残念なことですが、私たちはその栄光を少しか輝かすことができません。

お生まれになった彼
しかし、この青い空の下に神様の栄光を完全に表す方もお生まれになりました。それ以前も、それ以後も、その方のような者はこの地上で生きたことがありません。その方はもうこの世界が創造された時からおられました。そして、神様のもとからこの世に来られました。私たちのところに来られた方は神様の御子でした。

希望、新しい命与えて下さった。
なぜ神様の御子は人の世界にいらっしゃったでしょうか。人は、この世に神様から素敵な命をいただきました。けれども、罪のせいで人生はめちゃめちゃになってしまって、人々は苦しんでいました。思い上がった私たちは創造物であることに満足せず、神様のように善悪をわきまえる者になりたかったのです。

自由に我を忘れた私たちは、人々を愛され、人々にとって最も良いことを考えて下さる神様でなく、大きな利益を約束した蛇の誘惑に耳を傾けました。すると、悪魔が心に入り込んで、私たちは不従順な心から禁止された木の実を食べました。そして、その結果はご存知の通りです。私たちはプライドと不信心のために大事なことをなくしてしまいました。心の純潔を失いましたし、神様との関係も切られてしまいました。そして、様々な罪が生活の中に入りました。恥、恐れ、不調和、疑い、責め合う事、病気、苦しみ、そして、最もひどいこととして、死も人生の幸せをそこない始めました。

こんな不幸に陥った私たちのことをご覧になった神様は、希望と新しい命を与えるために御自分の御子を世に派遣されました。

この青い空の下に
その御子、イエス・キリストは、高く青い空の下にお生まれになりました。本当の神で本当の人間であるイエスは喜びと悲しみ、笑い声と泣き声がある世に来られました。神様が私たちをこれほど愛しておられるという素晴らしいことが理解できたら、私たちの驚きは絶えないでしょう。

苦しい人のため。
イエスは苦しい人のために来られました。私たちは自分の経験から、人生は幸せなことばかりではないということがよく分かっています。仕事があることは人の喜びですが、仕事の多さに疲れたり、責任の重さに圧倒されたり、疲労で病気になったりする恐れがあります。足下の地面が実際に崩れたことや、津波で流されてしまったことを経験した人もいます。更に、罪への自責心と怠慢による重荷に悩んで落ち込むこともあるでしょう。

2.この青い空の下に
この青い空の下に様々な人生があります。人は地理的な豊かさの中で、例えば、熱帯雨林や砂漠、山々や森林の中で神様から頂いた命を生かしています。住むために、また世話をするために与えられた地球で、私たちは家を建てたり、子供を育てたり、動物を飼ったり、木を植えたりしますね。

十字架をたてたよ
ある日、この地球にまた一本の木が立ちました。それは種とか苗から育った木ではありませんでした。それは重い罪を犯した人に罰を与えるために人間が作った、拷問と死の十字架でした。私たちは、私たちの元に来られた神の御子も強盗人物としてそこにくぎで打ちつけました。けれども、人の計画の通りになりませんでした。全ては急に覆りしました。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。(イザヤ書/ 53 章 4~5節)

嵐が吹く寒い夜も
私たちは真理と罪についての教えを聞きたくなかったので、イエスを十字架につけて殺そうとしました。けれども、イエスは十字架の死を通して、罪の夜に身震いしている、また人生の嵐で弱くなる私たちの救い主になりました。それを受け止める人は安心できました。
人生での全てのものが倒れても、十字架の出来事は確かです。

支えの十字架で
イエスの十字架は皆を驚かせました。
イエスの死は普通の死ではなかったのです。
十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
(ペトロの手紙一02 章24 節)

十字架は私たちを支えてくれるものになりました。

この青い空の下に
イエス・キリストの十字架のおかげで、この青い空の下に想像もできないことが行われました。人類の歴史で一番大きい出来事でした。

希望の木たてたよ。
死の木は命の木になりました。イエスの十字架は新しい可能性と希望を与えました。人にとって、一番危ない敵、つまり罪と死と悪魔の力に打ち勝ちましたから。
彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ書/ 53 章 5節)

3.
この青い空の下に
頭上高く広がる青空の下で、私たちは命のあるかぎり、毎朝目を覚まして新しい日を迎えます。

今日も種を蒔いて
今年も
春空の下で、私たちは食事を得るために種を蒔きます。神様の御言葉の種を蒔くこともできます。その種を惜しまずに、たっぷり周りに蒔きましょう。それには命と力が
ありますから。

死にはもはや力はない
この世界に住んでいる間、私たちは罪と病気におかされていますが、神様の許し、助けと恵みによって生きていけます。死にはもう力はありません。それは滅ぼされました。

イエスは死に打ち勝ち
イエスは死に打ち勝たれました。この勝利を確かなものにするために、神様はイエスを復活させて下さいました。

この青い空の下に
この青い空の下にいる私たちはもう死を恐れなくていいです。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は
/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書 43 章 1 節)

神様は天国への扉を私たちに開いて下さいましたから、人生の歩みは天の父なる神様の下に行く道です。

聞こえる愛の声
あなた、私と世界の全ての人を愛しておられる神様はこのようにおっしゃいます。

「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから
移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書/54 章~10 節)

明日に向かってひらく希望の花ひらく!!!

Päivi Poukka
15.06.2014

 

説教「良い実」 マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書7:15−29

 

 


私たちは毎日いろいろな話を聞きますね。ラジオでも、テレビでも、または商店街でも話が聞こえます。「これを買ってください」とか「私を選挙の時選んでください」というようことはいつものことです。 
 
イエスの時代にもいろいろな話が聞こえました。当時、ラジオとかテレビはまだ存在しませんでしたので、全部ライブだったでしょう。 
預言者たちも話しました。良い話も悪い話もありましたので、区別するのは非常に難しかったと思います。では、どうやって、それを区別すればいいのでしょうか。

 
イエス様はこのことについてこう教えられました。 
15。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」 
 
これはイエスの警告でした。何かを聞く時、よい話でも気をつけなければなりません。つづいで、イエスはこうアドバイスして下さっています。 
16−20。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実 を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このよう に、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 
 
「実を見ると、分かります。」このアドバイスはリンゴについての話ではありませんね。では、どんな実がイエスの言われる良い実なのでしょうか。 
 
このような教えが書いてあります。 
 
御霊の結ぶ果実についての教えです。 
キリスト者は、なお罪人ですが、信仰によってキリストに連なっているために、御霊の実を結ぶことができるのです。愛はそれらの実のうち最も大きな実です。 
神はまた教会建設のためには特別な恵みの賜物を信者に与えられます。 
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。 
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13:13)。 
 
このような実があるなら、預言者は、自分の栄光とか利益のためではなくて、神様の栄光のために働いるということです。そして、神様の御心による実は当然にこのような良い実なのです。 
 
今日の聖書の個所に戻りましょう。 
21。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 
良い行いは、信仰の実です。信仰によって、神様の御心に従う行いがあらわれます。信仰によって、イエス様は、心の中に住んでいらっしゃるからです。 
 
信仰によって、奉仕への贖いの心が生まれます。 
 
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。 
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。 
 
そして、行いだけではなくて、心の態度も大切です。 
 
では、キリスト信者のあるべき態度はどのようなものでしょうか。 
 
キリスト者は、その行う行為が神の御心にかなうだけでなく、全生涯の方向において神の御心にかなうような生活を送らなければなりません。 
私たちは神の恵みによってのみ生きているのですから、謙遜でなくてはなりません。また全ての賜物および職務を、神からいただいているのですから、あらゆる点で、忠実でなければなりません。そして、自分の運命を神の御手から受け、試練と苦難との中に、忍耐を覚えなければなりません。 
キリスト者は、あらゆる点において、真理を守り、またその良心に神の御声を聞いているのですから、人の批判と審判とを気にかけません。 
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(マタイ12:33)。 
 
神様のみ心が分かるために、または良いみを結ぶために、次のような生き方がふさわしいと思います。 
 
信仰生活において、 
 
まず、キリスト者は、その信仰を強め、信仰生活を続けていくために、神の御言、主の晩餐、祈り、そして聖徒の交わりを、忠実に重んじなければなりません。 
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2:42)。 
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありません」(ヘブライ10:25)。 
それから、祈りを忘れませんように。すべての祈りに、神様は御心によって答えて下さいます。 
 
 
次に、建物を建てることを考えてみましょう。それは複雑なことです。この教会の皆様がご存知のように、建物を建てる時、間違えてしまう可能性も大きいでしょう。急ぎすぎると、悪い結果をもたらします。そして、後で直すのは厄介な事です。 
 
建物に比べると、人間の人生は比べられないほど複雑なものだと思います。では、どうすればいいのでしょうか。 
 
教の聖書の個所に戻りましょう。 
 
24−27。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を 襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れ て、その倒れ方がひどかった。」 
 
 
御言葉の上に人生を建てるのは正しい案です。神様はこの世も私たちも作ってくださったからです。ですから神様は私たちの人生の出来事をよくご存知です。 
 
人生をみ言葉の上に建てれば、私たちは良いみを結ぶことが出来ますし、その上、何よりも大切な永遠の命の希望を持つことが出来ます。 
 
キリスト者の希望というのは時代の混乱の最中にあり、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。 
「被造物だけでなく、『霊』の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23-24)。 
「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。 
私たちは、信仰によって救われます。信仰は希望の元です。そして、希望を持って、この世の中で、良い実を結びましょう。そして、福音を伝えましょう。

 
祈りましょう。 
天の父なる神様。あなたのみ恵みを感謝します。あなたは愛する天の父でいらっしゃいます。私たちは、 どんな痛みや病(やまい)があっても、あなたのところに行くことが出来ます。感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっていま す。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください。福音をどうすれば世界へ伝えることができるのか私たちを一人 一人を導いてください。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてください。あなたの御言葉がわかるように、あな たの御心(みこころ)に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、地震や津波からの復興のために苦しんでいる人を助けられるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますように。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。アーメン。

 

説教「世界宣教への宣言」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書28章16節~20節

今日の御言葉は、イエス様が弟子たちに与えられた、最後の言葉です。

マタイ福音書28章16節を見ますと、「さて、12人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」と、あります。
弟子たちがガリラヤに行ったのはなぜか。弟子たちはこの時、主が復活されたと聞いて、さて、これから主人がいない生活をどう過ごしたらいいか。
自分の故郷に帰って、生きていくしかないじゃないか、そんな思いをそれぞれ持っていたでしょう。

イエス様が復活された時、すでに墓に来ていたマグダラのマリヤたちに、ガリラヤに行くようにいわれたのでした。
28章6節のところで天使が告げています。「あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り復活なさったのだ」。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる』」。

婦人たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。するとイエスが、行く手に立って「おはよう」と言われたので、夫人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
イエスは言われた。「恐れることはない。行ってわたしの弟子たちに、ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

復活の直後のイエス様が、婦人たちに大事なこととして、ガリラヤへ行くように、弟子たちにしっかり伝えなさい、とはっきり言っておられるわけです。
ガリラヤへ集まるように命じて伝えておられる、ということは、大切な、大切な、弟子たちへの最後の宣言を、言おうとされてのことであります。
そして、話は今日のみことばの16節へと続くんですね。
弟子たちは、復活されたイエス様の指示どおり、ガリラヤへ行ったのです。
ガリラヤの地は、イエス様が福音宣教を始められた場所でありました。エルサレムはまだ、弟子たちの身の危険があるということもあったでしょう。
マタイ福音書には、イエス様が昇天されたことについては、書いていない。
マタイの最後は、イエス様が弟子たちへ、福音宣教の命令を下されたことで終わっています。ですからマタイにとって、この福音書の大事なことは、ここにあったのでしょう。

弟子たちは、イエス様が指示しておかれた山に登った。
ここにイエスが指示しておかれた山、というのは、どこのことか分からない。
とにかく山に行くように、という指示です。こういう場合の「山」というのは、ガリラヤ湖のほとりと全然ちがって、山には何となく神秘的な空気がある。
それは、神的顕現の場、といった意味が含まれているでしょう。神性な神がおられる山、という場所です。
モーセがシナイ山で、十戒を授けられました。
又、イエス様は、山上で重要な教えをされました。山上の垂訓といわれる山でした。
又、イエス様の姿が変貌をとげられたのも、高い山でした。
ですから復活のイエス様が、最後の弟子たちへの福音宣教の命令を下される場は、神の顕現を含んだ神秘的な山であった、ということです。

弟子たちは、復活のイエス様の顕現に接して、御前に拝聴したにもかかわらず、なお「疑う者もいた」と、マタイは記しています。
イエス様の弟子でさえ、心の中では疑う者もいた、ということ。それほどイエス様の復活を信じることは、容易なことではなかったということを、言外に語っているということでしょう。
この世の人間の中には、イエス様の復活を信じることができる人と、信じることのでいない人もいる、ということ。

この部分を少しくわしくみると、彼らはひれ伏したが「疑う人もいた」と読む説もあります。つまり、復活されたイエス・キリストの顕現によって、信仰に導かれる者と、なお、疑う人々もいる、ということです。
しかし大切なことは、使徒言行録1章13節によれば、この11人の弟子たちは、みな、エルサレムに再び集まっている。たとえそこに、まだ疑う人がいたとしても、最終的には全員が信仰に導かれたことが、暗黙のうちに前提されている、と考えた方がいい、ということです。

さて、18節には、「イエスは近寄って来て言われた。」とありますから、イエス様は、どこまでも弟子たちを愛してやまない、そして、彼らに重要な宣言を命令していかれるのでありました。
「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行ってすべての民を、わたしの弟子にしなさい」。
天の父なる神の御計画に従っていかれた、御子なるイエス様です。
人間の罪のあがないとなって、十字架の死をとげ、三日目に父なる神が、イエス様を死からよみがえらされた。
今度は、そのイエス様に神は、天と地の一切の権限を授けられたのです。
天と地の一切の権能です。天上の、すべての、諸々の霊たちも尊重するような権威と力です。又、地上のあらゆる支配と統治の力です。

主イエスは、十字架の死と復活を通って、あらゆることに勝利された。
その一切の権能を受けて今度は、「だから」あなた方は、イエス様の復活の勝利の福音を宣べ伝えていきなさい。これは、弟子たちへの課題です。
この、「だから」という接続詞が重要な言葉となって、弟子たちに与えられていったのです。
これは又、すべてのキリスト者、信徒への課題であります。
復活された主イエス様が、いつもいて下さる。
天の父なる神から授かった、天地一切の権能をもって働いて下さる。
だから、「あなた方は、これから、あらゆる国民を弟子としていきなさい」。

「弟子になる」ということは、イエス様に学び、その御旨に従う者になる、ということです。その内容は二つあります。第一は、「父と、子と、聖霊の名によって、バプテスマを授ける」ということ。
そして第二には、「わたしが、あなた方に命じた、すべての事を守るように教えなさい」ということです。
「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける」という表現は、新約聖書の中では、ここにしか出てこない。これが後に、教会で行われるようになった洗礼式の定式となっていく言葉であり、神からの権能です。
しかも、「父、子、聖霊」という三位一体の神の教義学上の重要な要素となる言葉となっていった。

これは又、紀元325年の、ニカイア信条において、宣言されることになっていったのであります。キリスト教に対する、いろんな異端の宗教との戦いで、はっきり宣言される形となりました。
バプテスマが、信徒の間で行われるようになった当初は、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」であったことを、使徒言行録に出ています。
たとえば2章38節、8章16節、10章48節、19章5節、22章16節などの記事が証言しています。
この定式は直訳すれば、「イエス・キリストの御名の中にバプテスマされる」となります。イエスと生死を共にする一体関係に導かれる、という趣旨であったということです。

そのことをパウロは、ローマ人への手紙6章3節以下で語っています。
「あなた方は知らないのか、キリスト・イエスに結ばれるために、バプテスマを受けたわたしたちが、皆、又その死にあずかるために、バプテスマを受けたことを。
わたしたちは、バプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかるでしょう」。

ここに、パウロによって簡潔に、的確に示されています。つまり、イエスの死に合わせられることによって、その復活の生命にあずかることが、福音の恵みである、ということであります。しかも、バプテスマによって新しい生命に生きるという望みは、死をこえた彼方への望みということにとどまらず、すでに、この地上の生活において「新しき生命に歩む」という内容をもつことを、パウロは示したのであります。

弟子たちは、洗礼と並んでもう一つ、すべての者にイエス様の言葉を与えなければならないという、命令を受けました。「わたしが、あなたがたに命じた、すべての事を守るように、教えなさい」。(20節)
福音書にしるされている、イエス様のすべての教えを守ることが、弟子となるということです。
そして、最後の最後の宣言は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と、言われました。
なんと言うすばらしい、マタイ福音書のむすびでしょうか。

人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

三位一体主日

6月14日のスオミ教会家庭料理クラブの報告

6/14 スオミ教会家庭料理クラブの報告

sinappi シナッピ フィンランドのマスタードスオミ教会家庭料理クラブはシナッピ(フィンランド風マスタード、「sinappi」)を作りました。

吉村先生ご一家がフィンランドに帰国されているため、 お祈りを教会役員さんにしていただき、料理クラブはスタートです。

最初は、デザートになるリンゴのキ―セリ作りから、omenakiisseli ジュースにとろみを付けて、冷やして食べる今回のキ―セリは、入手しやすい、リンゴとオレンジジュース!煮始めると、鍋からの爽やかで甘い香りが、牧師館に広がり、出来上がったキ―セリは、冷蔵庫で試食タイムまで冷やしておきました。

次はシナッピ作り、カラシパウダーの強い辛みに、苦戦しつつも完成、今回は、先に仕込んでおいたシナッピを試食していただきました。

フィンランドの聖書日課を読んでいただいて試食タイムはスタートです。

今回のメニューは、マッカラ(ソーセージ)に ディルを添えた新じゃがの茹でたもの、そしてキ―セリです。

7/12の料理クラブの試作品「牧師館のパン」も添えて、試食会は始まりました。

花付きのディルの強い香りに、フィンランドの夏の景色を思いだしたり、お料理話ややフィンランド旅行の楽しい計画を聞かせていただいたりして、試食会は終了しました。

参加の皆さま、最期まできれいに後片付けして下さいまして、有難うございました。

次回は7/12 13:00~ 黒ビールを使った、ほんのり甘く香ばしい 「牧師館のパン」を予定しています

説教「聖霊の働き」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書7章37-39節、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下ったのであります。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。クリスマスに、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちの救いのために神が人間となって来られたことを喜び祝います。復活祭には、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、十字架の上で御自分を犠牲の生け贄として捧げて死なれるも、三日後に父なるみ神の力によって復活させられて、私たちのために永遠の命への扉を開いて下さったことを祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が約束されていた聖霊が、彼の昇天後に天のみ神のもとから送られたことを喜び祝います。聖霊は、ルターの小教理問答にもあるように、私たちがイエス・キリストの福音を読んだり聞いたりする時に、私たちの内に信仰を生み出す力を持つ方です。そして、私たちが神の御言葉に拠って立つ正しい信仰にとどまれるように私たちを日々守り導いて下さる方です。

 聖霊降臨祭は、またキリスト教会の誕生日と言われます。そのことは、先ほど朗読されました使徒言行録の2章を続けて読んでいきますとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証しを行い、神のもとに立ち返る生き方をするように勧めます。これらの言葉を聞いて心を突き刺された(2章37節)群衆は、すぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

それにしても、聖霊が使徒たちに注がれた時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(3節)た、というのは、本当に不可思議な現象です。このことについては、かつて洗礼者ヨハネが、自分の後に来る救世主は聖霊と火によって洗礼を授ける、と預言していましたが(マタイ3章11節、ルカ3章16節)、その通りになったのであります。マラキ書3章では、将来到来する救世主のことを、金や銀から汚れを除去する精錬の火である、とたとえられています(2~3節)。聖霊を受けるというのは、罪の汚れた力を除去することが一緒になっているので、それで汚れを除去する炎を浴びせることと同じと見なされます。

ところで、私たちが洗礼を受ける時にも聖霊を授かりますが、その時私たちは、洗礼を受ける者が炎をあてられるような現象は普通目にしません。しかしながら、洗礼が授けられる時、私たち人間の目にはそう見えなくとも、父なるみ神の目からは、まさに炎で精錬をするようなことが起きていると見えるのでしょう。罪の汚れた力が焼き尽くされると見えるのでしょう。それでは、そうした神の目ではなく、私たち人間の目から見た場合、聖霊を授かった者にはどんな変化が起きたと見えるでしょうか?それについては、イエス様の次の言葉があります。

「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3章8節)。

ここでは、風の作用と聖霊の働きが似ているということが言われています。(興味深いことに、ギリシャ語でもヘブライ語でも、風を意味する単語と霊を意味する単語は同じです。)私たちの目には空気は見えません。しかし、空気が移動して風となって、木々を吹き抜けていくと、枝がしなり、葉がざわめいて、ああ、風が吹いたんだな、と空気が移動したことがわかります。聖霊を授けられた人も同じで、それまではイエス・キリストとか天のみ神とか、口にもしなかったり考えもしなかった人がある日突然、考えたり話題にするようになる。また、それまではイエス・キリストと聞いても、世界史の授業や教科書から、ああ、そういう人物が歴史上存在していたんだな、と知識として知っていた人が、ある日突然、実はイエス様は自分の救い主だったのだ、とわかるようになる。そのようにして、イエス様が現代を生きる自分と直接関係のある存在になる。そういう時、その人に聖霊が働いたことがわかるのです。人間は誰も、聖霊が働くことなくしてはイエス様を自分の救い主とわかることはできないのです。聖霊が働かなければ、単なる知識に留まるのです。

さらに、「ヨハネの第一の手紙」4章で、何が天のみ神に由来する霊で何がそうではない霊であるかを判別する決め手になるかというと、それは、イエス様のことを正確に教えているかどうかにかかっている、と教えています。例えば、イエス様は、もともとは天の父なるみ神のもとにいて神と同質であったひとり子で、それが人間と同じ肉をまとってこの世に来た、この真理を公けに言い表す霊が神に由来する霊であります(2節)。

 以上のように、聖霊とは、私たちを罪の汚れから洗い清めてくれたり、神の意思やイエス様のことについて、正確な知識を与えて下さる方であります。本日の福音書の箇所では、こうした聖霊の働きについて、別の視点から教えていますので、それを見ていきたいと思います。

 

2.本日の福音書の箇所で、イエス様は、「生きた水」について語ります。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?何か不思議な水です。その意味を明らかにしましょう。

 まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、と言われる。つまり、イエス様が渇きを癒して下さるということです。「渇いている」と言うのは、霊的に何かを熱望しているということ、つまり救いを求めているということです。それでは、救いとは何かと言うと、端的に言えば、天の父なるみ神としっかり結びついて生きられるということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主としっかり結びついていることで、この世の人生の歩みで神から守りと良い導きを与えられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神のもとに永遠に戻ることができる、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がそうした霊的な熱望である救いを叶えてくれるということであります。救いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部自分一人で請け負って、十字架の上でその罰を全て受けて、人間の身代わりとなって死なれたのです。さらに、死から復活させられたことによって、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。こうして人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神からはイエス様の犠牲に免じて罪を赦しを得られ、こうして神との結びつきを取り戻すことができるようになったのであります。

本日の福音書の箇所はまた、このようにしてイエス様によって渇きを癒され救いが叶えられた人は、今度はその人自身から「生きた水」の急流がほとばしるようになると言います。それでは、その「生きた水」とは何か?これについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのであります。そういうわけで、「生きた水」、「生きている水」というのは、人を「永遠の命に向かわせる水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」であります。

本日の福音書の箇所によれば、このイエス様が与える「生きた水」は、イエス様を救い主と信じる人たちに与えられる聖霊を意味するということでした。そこで、「生ける水」と聖霊を結びつけて考えると、イエス様の教えは次のように要約することができます。人がイエス様から「生ける水」を受けて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いを叶えられて、イエス様を救い主と信じるようになり、聖霊を受けることになる。すると今度は、聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊は、信じる者を霊的に潤しながら、渇きそうになったらすぐ癒してくれて、まるで信じる者を永遠の命まで押し流してくれる。以上がイエス様の教えの主旨です。まさに、イエス様を救い主と信じる者においては、聖霊は、その人の核心ないし要のようなものとなって、その人を内側から永遠の命という目標に向かわせようとする働きをしている、ということであります。それはそれで素晴らしいことではあります。しかし、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?どうもそうとも思えません。しかし、天の父なるみ神の目から見れば、一度聖霊を受け取って信仰を持って生きる者は、外面上はどんなことが起きても、聖霊を水源としてその人の内面から湧き出る水は、永遠の命を目指して絶えることなく流れていくのであります。そうしたことが、どうして可能なのか、以下に見てみましょう。

 

3.人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を授かっても、まだ肉を纏って生きています。そうである以上、実はまだ神への不従順と罪を内にもったままです。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか、キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体何なのか?そういう疑問を抱かれると思います。罪と不従順を相変らず抱えているのに何が決定的に変わったかというと、それは次のようなことです。人が父なるみ神の御前で、「はい、あなたの御ひとり子イエス様は私の罪を請け負って私が受けるべき罰を受けられて私の身代わりとなって死なれました。彼の身代わりの死の上に私の今の命があります。だから彼こそ真に私の救い主です。」こう信じて告白すれば、神はその人に、「よくぞ、私がイエスを用いて整えた救いを信じて受け入れてくれた。お前は罪びとだが、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦そう」と言って、その人を永遠の命に至る道に置いて下さります。そして、それからは神から良い導きと助けを得られながら、この世の人生を歩んでいくこととなります。罪というものを人間が神に対して抱えていた借金や負債のように考えると、神はそれを一方的に、イエスの犠牲に免じてなかったことにしてやる、と言って帳消しにして下さったのです。私たちの神に対する負債は、言わばイエス様の流した血が代償となって帳消しにされたのですから、私たちの新しい命はとても高い値がつけられているのです。

こうして、神と人間との結びつきが回復することになりました。罪と不従順は残っているにもかかわらず、罪を赦されて神との結びつきができた以上、罪にはもはや人間を最終的に牛耳る力はないのです。私たちを最終的に牛耳る方は、本来は私たちの造り主である神なのです。イエス様を救い主と信じることで、人間は罪の支配下から神の庇護下に戻させられるのです。

ここで、この世に働くいろいろな力とその背後にある悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは、堕罪の時からそうでした。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者をやっぱり救いようのない罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は、自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきた時は、ルターは次のように答えなさいと言っています。「そう、確かに私は罪びとだ。だが、まさにこのような私が神と結びつきを持てるようになるために、あの方は十字架の上で死なれたのだ。だからあの方は私の真の救い主であり、あの方を送られた神は私の愛すべき父なのだ。」これこそ、天の父なるみ神が私たちから一番聞きたい言葉なのです。

ところで、この世に働く力が、罪とは別の問題で、信仰者を惑わして神への疑念を抱かせることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。その時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などお前もさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

確かに、神としっかり結びついて生きるなどというと、順風満帆の人生が保証された感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についていると言うのですから。そうなれば、こわいものなしです。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども、不幸や苦難に陥ることにかけては、信仰者でない人たちとあまり大差はありません。それにもかかわらず、信仰者はどうして、苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それは、キリスト信仰者は、命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの後に来る天の御国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているという自覚があるからです。この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならない、とわかっているのです。イエス様を救い主と信じ、彼の十字架の死と死からの復活のおかげで大きな人生を歩めているとわかれば、神は苦難困難の時にも目を離さずに見守っていて下さるということが当たり前になるのです。そして、神は時宜にかなった助けを与え下さる、と心静かに忍耐して待てるようになるのです。

以上のように、イエス様を救い主と信じる信仰によって回復した神との結びつきは、信仰人生の途上で、小さくなったり弱まったり感じてしまうことがありますが、それは人間の目から見て勝手に感じられることであって、神の目から見れば何にもかわっていないのです。イエス様を自分の救い主と信じる信仰に立ち続ける限り、周りでどんなに嵐が吹き荒れようと、神との結びつきには何の変更もありません。人間は、目で見たこと耳で聞いたこと肌で感じたことが判断の元になりがちです。しかしながら、こと救いとか罪の赦しとか神との関係のような事柄に関しては、目や耳で捉えたり感じたりしたことを超える把握ができないといけません。しかし、それは人間の力ではできないことです。それを可能にしてくれるのが聖霊の働きなのです。最初にも申し上げましたように、知識として知っていた歴史上の人物のイエス・キリストが、突然今を生きる自分の人生をつかさどる救い主になったというのは、これは聖霊の働きによるのです。ところで聖霊は、聖書の御言葉と密着して私たちに働きかけますから、兄弟姉妹の皆さん、聖霊の働きかけをこれからもしっかり受けることが出来るために、聖書はしっかり読んでまいりましょう。

 

4.ルターは、イエス様の言葉「わたしはあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11章28節)の解き明しで、聖霊の働きを受けた者は重荷が軽くされるということを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「イエス様は、『わたしはあなたがたを休ませてあげよう』と言われた。これは、まさにあらゆるものの上に君臨する方が口にすることができる言葉である。いかなる天使も、この言葉で言われていることは自分には果たせないと認めざるを得ないであろう。人間は言うに及ばず、である。この言葉をもって、イエス様は、自分が罪も死も律法も義も命も至福も全てを支配していることを宣言しているのである。そのようなことが可能なのは、まさに神だけである。神は、我々の罪という重荷を、赦しを与えることで取り除いて下さる。さらに、我々の抱えるその他の労苦をも軽くして、我々に喜びと安心を与えて下さる。

我々の良心が罪のために苦しめられる時、神から罪の赦しを与えられて天の御国を継ぐ者にしていただいと告げ知らされること以上に、我々の魂が平安を得ることはない。さらに、神が我々に平安を与えて下さるのは、罪が我々を重苦しくしたり我々の心を引き裂こうとする時だけに限らない。神は、我々が陥る他のあらゆる苦難困難の時にも、我々の傍から離れるつもりはないと言われるのである。神は、飢饉の時も、戦争の時も、絶体絶命の時も、その他我々が直面するであろうありとあらゆる過酷な試練においても、我々を見捨てることはないと言われるのである。

罪が人間を天の御国と正反対の方向に沈めようとする力は、人間が背負う重荷の中で最も重いものである。もし神の御子イエス・キリストが聖霊の働きをもって助けて下さらなければ、誰もこの重荷から解放されることはない。聖霊は、イエス様が父なるみ神にお願いして私たちに送っていただいた方である。聖霊が我々に働く時、我々の心は喜びに溢れ、罪が我々の心を引き裂こうとした事柄はどうでもよいこととなり、また、神が我々にしなさいと言われることをしっかり行わなくてはという気持ちにしてくれるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように       アーメン

 

2014年6月8日 聖霊降臨祭の聖書日課 ヨハネ7章37-39節、ヨエル3章1-5節、使徒言行録2章1-21節