説教「鳩のように素直に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書10章16節~33節

 

先週の聖書に続いて、今週はマタイ福音書10章16~33節です。 表題でわかりますように、「迫害を予告する」となっています。

先週の10章15節までは、イエス様が12人の弟子を選んで伝導に遣わすことを命じられました。 この時、イエス様は、異邦人の地に行ってはならない、と言われています。 ユダヤの民への福音を宣べ伝える事でした。 そして、病人をいやし、死者を生き返らせなさい。金、銀は何も持って行くな、という命令でした。

ところが、今日のところでは、16節に「わたしは、あなた方を遣わす」と言われて、「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と予告されています。

5~15節までのところでは、異邦人の所へは行くな、でしたが、18節を見ますと、彼らは異邦人に証しをすることになる。

次に、病人をいやしたり、死者を生き返らせなさいどころではない。弟子たち自身が迫害にあい、生きるか死ぬか、という深刻な状況となる派遣です。 21節を見ますと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という、恐ろしい予言です。 そして最後のところでは、22節には「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とあります。 だから、今日の派遣の予告のところでは、これから弟子たちの上に起こって来るであろう、迫害に対して、どう戦っていったらいいか、という戦いの予告なのです。

まず、あなた方は、狼の群れの中に羊を送り込むようなものだと、断言されています。ここに、どんなことが言おうとされているか。 この言葉を聞いて誰でも思うことは、狼の群れに羊を送り込まれたらどうなりますか。狼は獣の中でも肉食の群れですから、羊は食いちぎられて、むざんな最後となってしまうでしょう。 ここを原文にそって言いかえますと、「見よ!私は狼の真っただ中に行く羊のように、あなた方を送り出す」とイエスは言っておられるのです。 17節以下は、激しい迫害が待っている、そういう迫害が想定されて言われている言葉です。 これは、イエス様が復活されて昇天された後、やがて弟子たちがユダヤだけでなく、異邦人の地にまで、福音伝道が開始された後に発生して来る、迫害の戦いに身を置く事になる。

さて、この戦いに耐え忍んでいく時、どうすべきかを予言として語られているのです。この状況は、たとえて言えば「狼の群れに羊を放り込むような状況だ」 と、マタイは表現して記しているわけです。このことをまず前提にして、この言葉の意味を少し深く見ていきたいと思います。 この場合、たとえで言われている「狼の群れ」というのは、17~18節で言われているように、「人々を警戒せよ。彼らは、あなた方を地方議会に引渡し、彼らの会堂で鞭打つであろう。又、あなた方は私のため、総督や王たちの前に連行される。」

これでわかるように、戦いの相手はサンヘドリンと言われた、イスラエルの最高議会の権力者たちです。70人の議員がいて、地方には同じように30数人の議員で成った議会があった。地方の住民は、直接的には彼らの権力の手の下に支配されていたわけです。そしてユダヤ教の祭司長たちです。 弟子たちがこの群れに対して、「あなた方が十字架につけたイエス・キリストこそ、よみがえって救い主となられたメシヤである。」と、福音宣教を叫んだところで、彼らが従順にその声に服して信仰にはいるでしょうか。 ユダヤの民は、イエス様の言葉に耐えきれず、むしろ、まるで狼が羊を食いつくすように、ありとあらゆる悪しざまな仕打ちを、用意するであろう。

その時弟子たちは、狼の間にいる羊のように生きなければならない。 ユダヤ教の戦いの手口は、「目には目を」「歯には歯を」の思想である。 そこで、弟子たちであるキリスト者は、彼らと同じであってはならない。 憎しみに対し憎しみ、悪口に対し悪口、暴力に対し暴力をもって返す、これと同じような仕方、武器をもって戦うな!と命じておられるのであります。 これが羊の意味です。無防備、無抵抗、敵を愛するのみ。

21世紀に生きる私たちの世界は、どうでしょうか。 エジプトやイラクでは、政府、反政府に宗教がからんで内戦が続いています。イスラエルとパレスチナも何十年と戦い続けています。武力をもって相手と戦い、武力をもって返してきます。憎しみをもって憎しみを返す悲劇が続いていきます。 日本の現状はどうでしょうか。平和憲法のもと、無防備で戦争は決してしません、と宣言して来ましたが、そうは言っても周りから、武力をもって戦いを挑んで来ています。もう堪忍袋の緒が切れてしまって、武力に対して武力の構えをして来ました。これから注目すべきは中国と韓国の動き、そして北朝鮮はどうなっていくでしょうか、微妙な政情になってきました。今年、いろんな事が起こってきますでしょう。

さて、イエス様は弟子たちを、無力な羊のように狼の群れにほうり出される。この危険な只中でどうなっていくのか、イエス様ご自身は充分承知の上で、気をつかって見守っておられます。そして、次のように言われます。「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。 ここに出て来る、蛇のようにということと、鳩のようにということが、どうしてもむすびつかない、よくわからない。 どうして、蛇と鳩を出して言われるのか、わからない。 鳩は平和のシンボルとして見られます。蛇は人間が一番きらう生き物。特に女性はきらいでしょう。

蛇のように賢くありなさい。当時のユダヤ人たちは、キリスト者に対してほんの少しでも弱点を見つけるやいなや、自分たちに有利になるように、情け容赦なく襲いかかって来る、そういう敵対者の中にいることになる。 ですから、敵対者を鋭く観察し、一寸のすきも与えない。すばしこく対応して耐え忍ぶすべを持っていなさい、という警告でしょう。 蛇のように機敏に立ち回って危険を乗り越えて進みなさい、というイエス様の教訓の予言です。 次に「鳩のように素直になりなさい」と言われます。 「素直になる」という部分で用いられているギリシャ語は、「アケライオス」といい、「混ぜる」という動詞の否定形で、「混じり気のない」とか「純真な}というのが元の意味であるというのです。 そうすると、この反対は、多くの種々雑多のものが混じっている状況ということになります。 想像してみて下さい。この世の人間は、争いがたえない戦いがうずまいています。戦いの矢先に立たされる時、決断を迫られるわけですが、何を判断の基準にしたらいいか、様々な思いが入り混じって混乱し、迷わざるをえない。 「鳩のように素直であれ!」というのは、これらの反対ですから、心を単純にしてまっすぐに進め、キリスト者はひたすら主の言葉だけを基礎に置いて、主のみこころのままに信じて進み行け、ということです。 もちろん、そこに具体的な状況の中で、事をするどく認識し、分析し、賢くふるまうこと。そして最終的には、そこで、いかなる事態が起こって来ようとも、 しっかりと主の御心の一点に向かって、信ずる道を断固として進みなさい。 まことに単純にして明快です。そうすると、最後には主の御旨に従ったのですから、主が責任をとって解決して下さる。そうすると勇気が与えられるのです。

キリスト者が迫害され、苦しみ、戦いの中でいかに対処すべきか、ということを、イエス様は予言の言葉で教えておられる。 しばしば、大きな危険を招き、時には殉教の死をも覚悟しなければならない道であったのです。 この教えで大切なことのもう1つは、一寸のすばしさを持って正しいことを機敏に対応していく、蛇の姿と同時に子供の無邪気さで親しまれていく、無心の 愛をもつ鳩の姿とを同時に備えていなさい。というのがイエス様の教えです。 時に賢くふるまい、時に純真な心と愛を土台にすえた、この二つの対比を合わせ持って、困難を乗り越える事を示されているのです。 弟子たち、そして私たちすべてのキリスト者は、どんな時代の困難に遭遇しても、神を知っている。 この世の人や、物や金に頼らない、神にのみ御国への希望を持って耐え忍ぶのであります。

21節から22節を見ますと、そこには具体的な激しい困難の様が予言されています。たよりとする聖なる家庭の中で、両親と子供を結ぶきずなが断ち切られる。弟子たちは、すべての者を自分たちの敵にまわし、すべての人に憎まれる。それは、ただ、イエス様の御名のために、そうなる。 世界に向かって、イエス様をすべてのものの主として証しするからであります。 しかし、終わりまで耐え忍ぶ者は救われるであろう。 すばらしい救いの約束であります。 ハレルヤ、アーメン。

 

聖霊降臨後第五主日  2014年7月13(日)

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