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主日礼拝説教 2026年6月28日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会
エレミア28章5-9節
ローマ6章12-23節
マタイ10章40-42節
説教題 「キリスト教徒で何が悪い!」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の旧約聖書の日課は二人の預言者エレミヤとハナンヤの対決場面でした。時は紀元前590年代、ユダ王国は強大なバビロン帝国に攻められて首都エルサレムは陥落。バビロンの王は自分の言うことに聞き従う者を王に仕立てて一旦引き返します。エレミヤは、国民に向かってユダ王国はバビロンによってさらに徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えました。その時ハナンヤが現れて、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻るなどと逆のことを宣べ伝えたのです。国民はエレミヤの預言にあきあきしていたので、ハナンヤの預言を聞いて、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。それに対するエレミヤの反論が今日の個所です。
実際に歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ほどなくしてユダ王国は再度バビロン帝国の攻撃を受けて、エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は町も神殿も完全に破壊されて滅亡します。全てエレミヤの預言した通りになったのです。
神はエレミヤに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだのでしょうか?エレミヤ書を通して見ると、そこには滅亡だけでなく国の復興についても預言されていることに気づきます。民が連行された異国の地で心から神に立ち返ってその名を呼び求め祈りを捧げるならば、神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(29章11~14節)。実際、歴史はそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャの王の勅令によって祖国帰還が認められます。エレミヤが預言した通りになったのです。
イスラエルの民のバビロン捕囚と祖国帰還という出来事から、神は人間に対して二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。神は罪を忌み嫌いそれに対して神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神についての真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事や歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとするように変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。
本日の説教では、まず、この神の真理を礎にして生きる生き方はどんな生き方かということを本日の使徒書の日課ローマ6章から見てみます。次に、その生き方をこの日本で生きるとどういうことになるかということを本日の福音書の日課マタイ10章をもとに見ていきます。
2.神の真理を礎にして生きる生き方
神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあるという神の真理、この真理が如実に現れたのが、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事でした。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、人間が天の神のもとに迎え入れられる道を切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この真理を礎にして生きる生き方はどのようなものになるでしょうか?
使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。そして、イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死ぬ
のだと。これは、罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。
罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるのみだと言います。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになります。罪に背を向け神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態になったのです。ただし、いくらイエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態になってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという外見上のことが残っているだけです。実質的なことはもう既に起きたのです。
それなので、神の真理を礎にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。
それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨したらあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそういう状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を思い出すといいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人の持っているものを妬んで、それを損なったり自分のものにしようと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。
こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからですが、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者ではなくなっているのです。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。それはまだ復活の体を纏っていないので無理もないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるか、その真実を知ってそれを自覚して生きることが大切になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫でいられる状態、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを信じて償いを自分のものにした人は神の義を持てるのです。
ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたのだから、解放は神のお恵みです。人間が神の掟を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。だから「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っているのでなかなか出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、この朽ちる肉を纏ったまま神の真理を礎にして生きるとそうならざるを得ないのです。そういうわけで、この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。
3.日本で神の真理を礎として生きる
福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教えは、預言者を預言者だから受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人だから受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子だから冷たい水一杯を与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。一つ注意すべきは、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみな預言者ではないということです。神の意思に沿っていないといけません。神の意思は聖書に記されています。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理を礎にして生きる人です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える人です。
マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。つまり、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を受け入れて世話をする人は、それらの者が将来神から受ける報酬と同じ報酬を受けるというのです。ローマ帝国の迫害期にそのようにパウロを初めとする使徒たちを世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時もそうでした。例えば、密告に対する報奨金制度がありました。この制度のもとで聖職者や信者だけでなく彼らを世話したり匿った人もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人と同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世ではポジティブな意味で神から同じ報酬を受けられるのです。
日本で世話する人がされる人と同じ立場に置かれるというのは、江戸時代だけではありませんでした。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、フィンランドのミッション団体SLEYの宣教師8人が帰国の機会を逸して戦争中ずっと日本に留まらなければなりませんでした。当時キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、自由に伝道や礼拝が出来なくなっていました。礼拝をしても当局が差し向けた目つきの鋭い男たちがやって来て、説教の最中に質問と称して言いがかりをつけて礼拝を妨害したこともありました。ゾルゲ事件の影響でしょう、宣教師が町中の人たちからスパイ呼ばわりされたこともありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれました。彼らの面倒を見たり面会をした日本人の信徒たちは周囲から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられました。そういうことが江戸時代ではなく、三世代位前の日本で実際にあったのです。
現代の日本ではこのようなことはなくなりました。日本には数多くのキリスト教系の学校や施設があり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教の存在や果たす役割はとても大きいです。それでは、もう同じ報酬を受けるという状況はなくなったと言えるのか?最後に少し考えてみましょう。
4.勧めと励まし
日本の総人口の中でキリスト教徒が占める割合は1パーセント未満です。社会の中での存在や役割は大きいとは言っても、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。それについては宗教学や社会学、文化人類学のいろいろな説明があると思います。一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神に合わないというような議論があります。。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。この見解はいかがなものか。暴力と武力で消滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは原因と結果のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。
キリシタン禁制の時に日本人は全員どこかの寺に所属するという檀家制度が始まりました。所属する寺があり、そこに墓があるというのは私はキリスト教ではありませんと証明するためだったのです。最近、線香をたくことはいつから始まったのかAIに聞いてみました。答えは、仏教が日本に伝わった時に始まったが、最初は線香が高価なものだったので貴族などに限られていた、しかし、江戸時代初期に一般民衆に広まるようになったと。「江戸時代初期
とあったので、線香をたくことと檀家制度は関係があるかと聞いたら、ありますと。檀家制度の下で祖先の霊を弔うことが重要になり、そこに中国から線香を安く大量に作る技術が伝わって線香が広く普及するようになったと。つまり、檀家制度と線香をたくことは、キリスト教の否定と裏表の関係だったのです。
もちろん、現代では檀家制度と線香にキリスト教否定の意味があるとはあまり意識されていないでしょう。菩提寺がある人も線香をたく人も、子供をキリスト教系の幼稚園や学校に入れたり、キリスト教式で結婚式を挙げたりします。江戸時代だったら拷問ものです。しかし、キリシタン禁制から400年の時が経ち、日本人には死者の霊を祀るという霊性が深く根を下ろすようになったと思います。仏教の儀式を通して仏壇や位牌や骨壺などに亡くなった方の魂が入っていると信じられます。仏壇や墓の前で目に見えない相手に話しかけたり、願いごとを打ち明けたり、見守りを感謝したりしてコミュニケーションを保ちます。そして、そういうことがキリシタン禁制のずっと前からあったかのごとく、日本の歴史そのものであるかのようなイメージが持たれるようになりました。
そこに、キリスト教がやってきて、亡くなった方は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、眠っているから何もしない、だから、墓や仏壇のところでたたずんで焼香や供え物が来るのを待ったりしない、それに私たちを見守ってくれるのは私たちの造り主、天の父なるみ神だけだ、などと言ったら、なんと思いやりのない宗教だ、と言われてしまうでしょう。キリスト教が伝統的な国では亡くなった方を追悼する式をメモリアルサービス、思い出の礼拝と言います。それが日本語でしばしば「慰霊祭
と訳されます。メモリアルサービスでは、亡くなった方の霊を慰めることはしません。慰めるも何も、亡くなった方にはもう何もなしえないので、メモリアルサービスしかないのです。このようにキリスト教では亡くなった方との関係は、その方の思い出(メモリー)を何ものにも代えがたい貴重なものとして大切にするということに尽きます。これが亡くなった方に関するキリスト教の思いやりの形です。それでキリスト信仰者は、その方と過ごせた過去の日々を神に感謝し、将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて神に祈りながら今を生きるというスタンスになるのです。
そういうのはキリスト教が伝統的に強い欧米の考え方で、日本人には合わないと言われるかもしれません。しかし、檀家制度や線香をたくことが確立する以前の日本で多くの日本人がキリスト教徒になったという事実はどう考えたらよいでしょうか?彼らは、日本人に相応しくないことをしていたのでしょうか?当時の日本は下剋上でまさに諸行無常の世でした。その中で、力によらない真の正義とか諸行無常に代わる永続的なものを求める心が人々の中にあったとしても不思議ではありません。キリスト教がそれにマッチしたのではないかと思います。ただし、明治期のキリスト教受容は、欧米の圧倒的な力の差を見せつけられて、自分たちもああなりたいということがあったのではないかと思います。(第二次大戦後の受容はどうでしょうか?)
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!確かに、キリスト教は欧米を経由して入ってきました。しかし、聖書の内容は欧米の文化文明の教本なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエントと地中海世界を舞台に選んで人間を救おうという意思とそのための計画を知らしめたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後の世界に伝えようとしたのが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。先ほど述べた神の真理を礎にして、復活の日を目指して、体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが欧米化なのか?これのどこが日本人に相応しくないことなのか?和辻哲郎は第二次大戦直後に著した「鎖国」という本の終わりで、キリスト教を壊滅させたツケは今次の敗戦という形で回って来たのだというようなことを言っているくらいです。キリスト教徒で何が悪い!日本にとって何にも悪いことはないのです!むしろ、今の日本にとっても必要すぎるものなのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その3)
私は、アウグスブルグ信仰告白20条は内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと思います。同告白のフィンランド語訳を読んだ時にそれを強く感じました。それで今回、同20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語原文をチラチラ覗きながら訳してみました。紙に書いたものをコーヒータイムの時に読み上げます。(このコラムの後に添付します。)
殆どはフィンランド語訳に引きずられた訳ですが、ラテン語に関していくつか申し上げますと、
・ bona opera「善い行為」は、先週のコラムで述べたように、「御心に適う行為」と意味を特定化しました。
・ 17項のcertamen perterrefactae conscientiae「恐れ脅える良心の戦い」は何を意味するのか?良心の平安を得るための戦いではないかと考えて解説的に意訳しました。
・ 36項のprimi aut secundi praecepti「第一あるいは第二の掟」は、イエス様が十戒を二つにまとめたもの、神を全身全霊で愛するという掟と隣人を自分を愛するが如く愛するという掟のことと解しました。
・ あと、最後の歌ですが、ラテン語版とフィンランド語訳では内容が異なっています。フィンランド語訳の解説によると、歌はVeni Sandte Spiritus(来たまえ、聖霊よ)の一つのバリエーションとのこと。ラテン語版の方は、聖文舎の日本語訳がそれで、同じ歌の一部とのこと。どうして違う内容なのかは調べていないのでわかりません。紙には両方載せておきます。
20条にはよく、恐れる心、脅える良心、脅える魂などと、平安が失われた状態の問題が出てきます。これは、一義的には、神の意思に反するもの、罪が自分にあることを自覚して、神の怒りや裁きを恐れる心を意味します。そのような心は、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることで平安を得ます。それでは、罪以外が原因で心に平安がなくなった時は、どうなるのか?私は、これもイエス様の十字架と復活の業が平安を与えてくれるものであると考えます。私たちは、罪と関係なくて困難や苦難に見舞われて、心が心配や恐れに覆われてしまった時は、神は目を注いでくれない、私のことを無関心でいる、神は私に背を向けた、という疑いを持ちます。しかし、その場合でも、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることができれば、まず、そういう疑いはなくなります。そして、試練は神と一緒に通り抜け乗り越えるプロセスに変わります。
アウグスブルグ信仰告白 第20条 信仰と神の御心に適う行為について
1)彼ら(ルターの改革に賛同する教師たち)が神の御心に適う行為を禁じているなどと言って我々のことを非難するのは間違いである。
2)彼らが、いかなる生活の仕方や行為が各人の召命において神を喜ばせるものであるかを説明する時、あらゆる生活様式と義務について有益な仕方で教えきたことは、彼らの十戒について論じた書物や同じテーマに属する他の書物が証明している。
3)これらの事柄について、説教者たちは以前はほんの少ししか教えなかった。彼らはただ子どもじみた不必要な行為を勧めてきた。定められた聖日を守ること、特別に決められた断食、同胞団の結成、巡礼、聖人崇拝、ロザリオの使用、修道院に入ること、その他類似の事柄がそれである。
4)こうしたことについて、我々に反対する者たちは注意を喚起されてきた。彼らは今ではこれらのことを止めつつあり、もはや以前のようにはこれらの無益な行為について説教することはなくなった。
5)彼らはまた信仰について語り始めるようになった。それについては、驚くべきかな、以前は彼らは沈黙していたのだ。
6)彼らは、我々は行為のみによっては義なる者になれないと教えている。しかし、彼らは、信仰と行為を結びつけて、我々は信仰と行為によって義なる者になれると言っている。
7)この教理は、彼らの古い教理よりは許容できるもので、またより多くの慰めを与えてくれるものである。
8)教会の中心的な教理でなけらばならない「信仰の教理」がこれほどの長い間忘れ去られてしまったため、- 説教では信仰による義認が完全に沈黙させられ、代わりに「行為の教理」が教会内で多すぎるほど論じられてきたことは全ての者が認めなければならない - そのために我々に属する者たちは信仰について諸教会に次のように注意を喚起してきたのだ。
9)第一に、我々の行為は神との和解をもたらすことはできず、また罪の赦しや恵みや義を見返りとして得させることもできない。我々がそれを達成できるのは、キリストのおかげで我々は恵みの中に受けいれられると信じる時、まさにその信仰を通してのみ達成できるのである。そのキリストは、唯一の仲介者、和解の道具として立てられた方であり、彼を通してでなければ父なる神との和解は得られないという方なのである。
10)それゆえ、行為によって恵みを見返りに得るということに信を置く者は、キリストがご自分について「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)で言っているにもかかわらず、彼こそが見返りであることと彼の恵みを排除し、神のもとに至る道をキリストなしに人間の力で探し求める者である。
11)この「信仰の教理」はパウロがいたるところで論じているものである。「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのである。救いはあたたちから出てくるものではない。神の贈り物である。行為から出てくるものではない」等々(エフェソ2章8節)。
12)誰も我々がパウロの新しい解釈を作り出したなどと非難する口実を得ることができなくなるために、この教理の全ては教父たちの証しの中に土台があることを示そう。
13)アウグスティヌスは多くの書物の中で行為の見返りの役割に反対して、恵みと信仰による義が正しいと論じている。
14)アンブロシウスも著書『異邦人の召しについて』やその他のところで同じことを教えている。同著書の中で彼は次のように言う。「義認は恵みによって起こるものなのに、もし前提にあるのだと言って行為の見返りということに依拠してしまったら、キリストの血による贖いは無価値になり、神の赦しの憐れみは人間の行為の陰に隠れてしまうであろう。そうすることで義認は与える方が見返りなど無関係に自由に与える贈り物ではなくなり、行為者が見返りに得る報酬になってしまうのである。」
15)この教理はたとえ信仰の経験の浅い者からは軽蔑されても、敬虔で神を畏れて震える良心は、まさにそれこそが最大の慰めと励ましを与えてくれると経験を通して知っているのだ。なぜなら、良心はいかなる行為をもってしても平安を得ることはできないからである。そうではなく、キリストのおかげで神との関係が保たれていると良心が本当に納得した時に、この信仰を通してのみ平安を得ることができるからである。
16)パウロは次のように教えている。「われわれは、信仰によって義とされたのだから、我々には神と平和な関係がある」(ローマ5章1節)。
17)この教理全体は、恐れ脅える良心が平安を得るための戦いの武器としてあるのであって、その戦いがなければ把握することができないものである。
18)それゆえ、信仰的に無経験な人々または世俗的な人々がキリスト信仰の義は社会正義ないし哲学が構築する正義以外のものではないと夢想する時、自分たちの粗悪な理解力を露呈するのである。
19)良心は以前、「行為の教理」に煩わされていて、福音から何の慰めも励ましも聞くことができななかった。
20)そのような良心に駆りたてられて、ある人たちは荒野へ行き、あるいは、修道士の生活をすれば見返りに恵みを得られると期待して修道院に入った。
21)別の人たちは、恵みを見返りに勝ち得て罪を償うことができるための別の行為を考案した。
22)それゆえ、このキリストを信じる「信仰の教理」を提示し新装することは真にもって必要不可欠だったのである。それは、恐れ苦しむ良心から慰めと励ましが欠け落ちてしまうことがないようにするためであり、恵みと罪の赦しと義はキリストを信じる信仰にあって得られるということを良心が知るためであった。
23)さらに人々の注意を喚起しよう。「信仰」という言葉は単に歴史的知識を意味するものではない。そのような知識は神を信じない者や悪魔でさえ持っている。「信仰」は歴史的出来事に向けられるものだけでなく、それらの出来事の効用、すなわち罪の赦しの表明にも向けられる信仰を意味する。この教理によれば、キリストを通して我々には恵みと義と罪の赦しがあるのだ。
24)さて、キリストを通して自分には恵み深い父があると知っている人は、本当に神のことを知っているのであり、自分が神に世話されているとわかっており、神に助けを呼び求める者であり、異邦人のように神なしで存在する者ではない。
25)悪魔と神を信じない人たちはこの教理、すなわち罪が赦されることを信じることができない。このため彼らは、神が敵であるかのように神を憎む。彼らは神に助けを叫び求めることもせず、神から良いものが与えらえることを信じもしない。
26)アウグスチヌスも読者に「信仰」の概念についてこのように注意を喚起しているのであり、聖書の「信仰」という言葉を習得された知識として捉えてはならないと教えている。そのようなものは神を信じない者も持っているからだ。そうではなくて、脅える魂を慰め励ましてくれる信頼として捉えるべきであると教えているのだ。
27)我々に属する者たちはさらに、御心に適う行為をすることは必要であると教える。それらは、することで恵みを見返りとして得ることができるなどと信頼するがために行ってはならない。そうではなくて、行うことは神の意思だから行わなければならないのだ。
28)ただ信仰によってのみ罪の赦し、すなわち恵みを手にすることができる。
29)そして、信仰によって聖霊が受け取られるので、心はすぐ新しくされ、新しい方向性を得て、その結果、神の御心に適う行為に自分を合わせることができるようになるのである。
30)アンブロシウスもこのように教えているではないか。「信仰は御心に適う意思と正しい行為の親である。」
31)というのは、聖霊がなければ人間の力は神を信じない心の動きに満たされしまい、神の御前で御心に適う行為を生み出すには弱すぎるからだ。
32)加えて、人間の力は悪魔の支配下にあり、悪魔は人間をあらゆる罪に、神を信じない考え方に、そして明白な悪へと駆り立てる。
33)このことは、哲学者たちの辿った人生から見て取ることができる。彼らは、自分では申し分のない生き方をしようとしたのであるが、それに成功しなかったばかりでなく、多くの明白な悪に手を染めてしまったのだ。
34)人間は、信仰と聖霊なしで生きようとする時、また、人間的な力だけで自分を律しようとする時、こんなにも弱いのである。
35)この教理を、御心に適う行為を禁じているなどと言って非難してはならないことは明白である。それどころか、いかなる仕方で御心に適う行為をすることができるかを示しているので感謝されなければならないのである。
36)というのは、信仰がなければ、人間の本性は第一の掟にしろ第二の掟にしろその行為を行うことができないからである。
37)信仰がなければ、人間の本性は神に助けを叫び求めることもせず、神から助けが来ることを待つこともせず、十字架を忍耐強く背負うこともしない。その代わりに人間の支援を求め、それに信頼する。
38)信仰と神に対する信頼が離れ去る時、心を支配するのはあらゆる種類の欲望と人間的なはかりごとである。
39)そのためにキリストは言われる。「私なしでは、あなたたちは何も成しうることができない」(ヨハネ15章5節)。
40)そして教会も次のように歌うのである
「もしあなたがあなたの霊を取り上げるならば、
無垢な者は存在せず、
あるのは空っぽで貧しい人間だけ。」
「あなたのみ力なしには
人の中には何もなく
無害なものは何もない」
その後のソメイヨシノの実
〈このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 詩編1:3〉
クローン桜のソメイヨシノにも実がなる事もあるという事を先刻知りました。その後その実を見に行ったら成程、立派な実になっていました、試食してみるととても甘く種もありました。その中から五粒ほど種を取り出窓の鉢に植えてみました。さて、果たしてどうなるか見ものです。
アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その2)
「アウグスブルグ信仰告白」は教文館から出ている「一致信条集-ルーテル教会信条集」(1982年)の中に収められている。それを学びの時のテキストに用いているが、はっきり言って日本語の文体がわかりにくいところが多く、何度か読み返さないと先に進めないことがよくある。フィンランド語訳を読むとスッと頭に入るのに。それで、学びの時はいつもフィンランド語訳とラテン語原文を脇に置いている。
ChatGPTに「日本語訳はわかりにくい」とコメントしたところ、「それは格調高いから」などと返って来た。何を寝ぼけたことを!大学受験の高校生の英文解釈の答案のような日本語を格調高いなどとは笑止千万(今の高校生の日本語力と英語力は昔よりも向上しているでしょう)。それで、ChatGPTにラテン語の訳を頼むのはやめた。
Lithon社が2015年に出した「アウグスブルク信仰告白」はスッと頭に入る訳である。ところが、それはラテン語版ではなくドイツ語版の訳。両者はいろいろ違いがあり、20条もラテン語版にはあるがドイツ語版にないものがあったりして厄介である。フィンランド語訳の解説に「神学用語の観点からするとラテン語版の方が正確なので優先させるべき」などとあるので、結局は自分で頑張るしかない。
ラテン語能力は、神学部時代の23年前に中級までは行ったが、上級はまさに「アウグスブルグ信仰告白」を独習して、持ち込みなしで試験を受けるというもの。折しもアラム語の授業も受けていて、二つの同時履修は、二人の幼い子供を抱え、妻は仕事という身では無理(他にも履修科目はある)。それで上級は断念(ただ、アラム語がわかるようになったおかげで修士論文と博士論文が書けた)。しかし、まさか今になって上級の知識が必要になるとは夢にも思わなかった。なので、学びの時はフィンランド語訳を基準にしてラテン語文をチラチラ覗いて、これはこれ、と照合するのが精一杯。
20条の日本語訳で私が一番困ったのは、bona operaの訳。教文館のでは「よい行い」。「行い」では広すぎて、礼儀正しいことや心がけが良いことも入ってしまい、20条で言わんとしていることから離れてしまうのでは?英語ではworks、ドイツ語ではWerkenである。仕事みたいに、やるべきこと、達成すべきことなのだ。ドヴォルザークの「新世界」の「遠き山に日は落ちて」の中に「今日のわざをなしおえて」とある、あの「わざ」なのだろう。しかし、日本語で「業」と言ったら、仏教の「業(ごう)」の思考が紛れ込むリスクも。「務め」と言ったら、行き過ぎだろう。Lithon社のでは「行為」と言っている。これだと、「行い」の範囲を狭められるか。でも、まだ何か足りないような気がする。そこで一工夫したのは、bonus「よい」の意味を「神の御心に適う」に定めてしまうこと(私の辞書にbonus「適っている」の意味あり、辞書はラテン語-スウェーデン語)。それで、bona operaは「御心に適う行為」に。そういうわけで、これからは20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語版をチラチラ覗きながら、教えることにします。
楮(kouzo)
<あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。 テモテⅡ4:13>
何時もの散歩道には楮の木が何本かあります。この季節になると小さな赤い実つけます、木苺より水気が少なく少し粘質の実です。先日、この木の下に行ったら赤い実が枝いっぱいになっていました。摘まんで味見をしましたら少し埃っぽい感じでした。楮は三椏、雁皮と並んで和紙の材料になります。ルーブル美術館の絵画の修復に和紙が用いられる事を知りました、和紙の特質である、「長期的な耐久性があること」「作品を化学的に傷めないこと」「必要であれば将来取り外せること」などといった条件 を満たしているからだそうです。楮、三椏、雁皮、等の特色については、楮は繊維が長く太いため、非常に丈夫な紙になります。三椏は繊維が細く、上品で滑らかな仕上がりが特徴です。そして、雁皮は「紙の王」とも称され、美しい光沢と防虫性を備えていますが、栽培が難しく非常に希少な原料とされています。因みに聖書に使われる紙は最初に葦によって作られたパピルスでしたが後に木材パルプから作られるバイブルペーパーと呼ばれる独特の紙です、薄いながらも非透明である事が特徴です。冒頭にあげた”テモトへの手紙”にもあるように羊皮紙はパピルスよりも耐久性がありましたが矢張り高い湿度や日光によって劣化もしました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年6月21日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書10章24~39節
説教題:「自分の十字架を担って神に従う」
今日の聖書はマタイ福音書10章24節から39節まで、であります。この箇所を見ますと読んだだけでは何の事を語ろうとされているもかよく分からない。24節から見ますと「弟子は師に勝るものではなく僕は主人に勝るものではない」ここまでは何となく分かります。次から分からなくなってゆきます。「弟子は師のように僕は主人のようになればそれで十分である。」・・・・
さて、今日のこの聖書の言葉はどういう場面でイエス様はどんな気持ちで語っておられるのでしょうか。34節だけ見てもイエス様はもの凄い事を言われています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たからである。」それで、11章1節を見ますと「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え宣教をされた。」とマタイは締めくくって書いています。マタイは7章28節のところでも同じように書いています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになったからである。」つまり、マタイは5章から7章までに神の国の事、そこでの生活に関する事を教え10章では神の国の伝道に関する教えを、特に12人の弟子への訓練として非常に厳しく語っています。イエス様は12人の弟子を選んで10章5節で「イエスは12人を派遣するにあたり次のように命じられた。」それで、5節から15節までは、伝道の仕方を教えられ、次には16節から23節で伝道者の忍耐が教えられ、今日の聖書の箇所で24節から33節に至って伝道者の勇気が教えらています。一言で言いますと、この世の権力からイエス様の神の国と救いの福音を語る時、必ず迫害を受ける。だから、「恐れるな、死を覚悟で福音の真実を語り、明らかに広めよ」という勇気です。以上が今日のみ言葉が分かる背景の全容であります。34節以下は厳しい言葉ですがこの福音の伝道によってこれを受け入れる人々への心構え、教えであります。さて、初めの24節~25節で言われている事は「弟子は師に勝るものではない」そして「僕は主人に勝るものではない」という二つの文章は共にユダヤの諺のような言葉でイエス様はこの諺をもってきて違った意味で用いられたと言う事です。ルカ福音書6章40節では「弟子は師に勝るものではない。しかし、誰でも十分に修業をつめばその師のようになれる。」こう言っています。ヨハネ福音書13章16節では「はっきり言っておく、僕は主人に勝らず遣わされた者は遣わした者には勝りはしない。それなのに主人でさえ僕の足を洗ったのだから僕は尚更互いに仕え合うべきである。」と言う事です。イエス様はその両方が一つに結び合わせた形で用いておられます。弟子たちは一方では私たちから献身したのであり他方では主イエスから召し寄せられた者です。当然、先生のようになりたいと願っていても又どれほど苦労をしても主人以上にはなれるわけがないのです。先生が「ベルゼブル」と呼ばれているのなら自分たちもそう呼ばれたはずです。ベルゼブルと言うのは悪魔の頭と言われてファリサイ派の人々がその名をイエス様のあだ名のように読んでいたわけです。それは悪霊を追い出されたからでした。ですから、キリスト者もキリストの如くなりたいと願ったとしてもその主人のようにはなれない。弟子たちが派遣されて伝道してゆく中で色々な苦難に合い謗られても主人であるイエス様の悪霊を追い出すほどの力、働きが出来るかどうか、矢張り主人の助けが必要でしょう、又イエス様は必ず助けてくださいます。ピリピ人の手紙1章29節にはこうあります。「あなた方にはキリストを信じる事だけではなくキリストのために苦しむ事も恵として与えられているのです。」ここに弟子たちに教えられているように、私たちキリスト者も信仰を持って生きる時、色々な苦しみがあります。これはキリスト者のこの世に於ける定めなのです。何故ならこの世が神に敵対しているからです。キリストに従う信仰者は色々な迫害を受ける、ですからマタイは10章でイエス様の励ましの言葉を書いています。「人々を恐れてはならない」。26節以下では「キリストの福音は迫害を恐れてどんなに隠そうとしても隠しきれるものではない。私が暗闇であなた方に話す事を明るみで言え。耳で囁かれた事を屋根の上で広めよ。」ここで言われている言葉も一種の諺として、言われている言葉をイエス様は用いて語られています。福音書には度々イエス様が群衆には譬え話しか話さずに、弟子だけにはあからさまに教えられた例があります。又、奇跡や教えを見聞きした人に「誰にも言うな」と口止めされた事もあります。そのようにイエス様はまず少数の選ばれた人の間で密かに教えられました。こうしたものが26節で言っておられる「覆われたもの」或いは隠されたもの、又は耳打ちされたものに当たるのです。
このようにイエス様が教えられたもの耳打ちされたものはそこに福音の真理があるから必ず明るみに現わされ神の力が露わに発揮されて行くのであります。ですから、あなた方は恐れずどんな権力の下であっても宣べ伝えて行きなさい。28節から雀と髪の毛の事を引き合いに出して言われています。28節を見ますと「体を殺しても魂を殺す事の出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る方を恐れなさい。」これははスイスの宗教改革者ツブィングリが戦死した時にこの言葉を叫んで殉教の死を遂げたと言われています。この言葉は殉教者の最後の慰めと励ましとなったのです。イエス様は言われる、「まことに恐るべき方は神様である」と言う事です。29節以下で言おうとされている事は雀のような小さな小鳥さえ神のみ心なしには落ちないのである。次に頭の髪の毛を誰が数えられるか、しかし神の国に於いては数えあげられておられる。そうして更に主イエスは言っておられる。一羽の雀でさえ許しなしには落とされない神、そのあなたの父である神から愛されている神の子よ!あなた方は殺されることはないのだ。いとし子の髪の毛、一本/\ をも慈しんで美しくしてやりたい、という親心で天の父は見守ってくださっているのだ。私たちは神の子である以上、どんな苦しみの迫害にあっても殺されることはない。たとえ、死ぬにしてもその死は神様には尊い値打ちのある有意義な死であります。主のために死ぬにしても父らしい神の愛を確信して死ぬのであります。32節から33節のところで言われているのは、父の前で告白することを父は受け入れて下さるであろうと言う事です。ここに「天の父の前で」とあります。ルカ福音書の方では12章8節から9節のところで「神の天使たちの前で」となっています。ですから、誰でも人々の前で自分を「私の仲間である」と、つまりキリストの仲間、クリスチャンであると明らかに言い表す者は神と天使たちの居並ぶ前でキリストも「私の仲間である」と言おう。ですから、此処には神様と天使たちが居並ぶ天に於ける大法廷の光景が語られているのであります。キリスト者はこの世の地上で苦しめられ裁判にかけられ殺されような事があっても天上の神様の前での大審判の法廷に於いては「自分の仲間」としてキリストが認めて下さり救って下さるのであります。あなた方がこの世でキリストを仲間とはっきり堂々と告白するならキリストは天の法廷で命がけで「私の仲間である」と告白してくださいます。天に於いて私たちをキリストは迎え入れて下さるのであります
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キリスト者の死は神の前で尊いだけではなく主キリストにも喜ばれる死でもあります。使徒言行録6章、7章を見ますとステファノの殉死に至る出来事が延々と記してあります。ステファノはユダヤ教徒の激しい罵りと攻撃に会ってもイエス・キリストこそメシアであり救い主である事を証し説教します。そのため、遂に石で打たれてもステファノは聖霊に満たされ、7章55節を見ますと「天を見つめ神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て言った。天が開いて人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と、こう叫びながら人々の投げつける石で殺され眠りについた。「主イエスよ、私の霊を受け入れて下さい」と言って息を引き取ったのでした。(59節)34節から39節に至ってイエス様は大変厳しい警告を述べられています。34節「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。」ここで言われる「私が来たのは~だと思ってはならない」というのは5章7節にもあります。これは来るべき者が来た時に人々が抱く誤解を防ぐための言葉です。旧約聖書の時代から来たるべきメシアが平和をもたらしてくれる事を度々預言していました。メシアのことを「平和の君」とも呼んでいました。9章5節「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それで、イエス様の教えと数々の奇跡の業にイスラエルの民はこの方こそメシアとして来られた者と期待し始めた、当然の事でしょう。しかし、イエスは言われる「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな、平和ではなく剣を投げ込むために来たのである。」平和の君が来られると、述べ伝えられているのに、どうして家族の者までが敵となって争い迫害し合うような事になるのか。私は剣を投げ込む、と言われる「剣」というのは何でしょうか。それは家族の如く最も親しい者の間に生ずる争いと敵意の事です。35節と36節で言われる言葉は旧約聖書ミカ書7章6節から引用された言葉であります。7章6節「息子は父を侮り娘は母に嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」(最後まで読むと恵み、慈しみであります)
預言者ミカはその中で紀元前8世紀のイスラエルが「彼らの最も良い者も茨の如く、最も正しい者も茨の生垣のように」荒れ果てて罪と罰に沈んでいる報いとして「彼らの見張り人の日、即ち刑罰の日が来る」と言っています。(4節)今や「彼らの混乱が近い」。その混乱は「隣り人」も「友人」も「あなたの懐に寝る者」もあてにならない混乱である。(5節)その挙句6節に見た家族同士の敵対で無秩序となる。イエス様はこうしたミカの預言の言葉を引用してこうした無秩序と混乱を来たらせると警告されているにすぎません。平和の君が来たのにその福音の言葉を受け入れない罪に対する神の刑罰、そして家庭秩序や社会秩序が裁かれ徹底的な混乱に突き落とされるという戒めのメッセージです。イエス・キリストは平和をもたらすために来られました。しかし、その平和の訪れる前に徹底的な混乱が起こる。そうして後にクリスマスの主はみ心に適う者の上に平和をもたらしてくださる方であります。最後に38節~39節のみ言葉を見ましょう。「自分の十字架を担って私に従わない者は私に相応しくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はかえってそれを得るのである。」私たちはこの世で苦難に会う時は僅か束の間です。しかし天のみ国で永遠の命にある喜びと希望を持って生きる信仰こそまことの幸せであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
アウグスブルグ信仰告白20条と現代
礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、それで500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと考える者である。
20条は内容的に三つに分けられる。一つ目は、「信仰の教理」と「行いの教理」の対比。前者は、人間が神から義と認められる(神から見て正しい者、神の目に適う者と認められる)のはイエス・キリストを自分自身の救い主と信じる信仰によるという教理。それに対して後者は、神の掟や教会が決めたことを「善い行い」として行うことで神から認められるという教理。ルター派は前者を掲げ、後者を排する(「行い」は「業」と言い換えてもよいのではないかと思う)。
二つ目は、「信仰」と「知識」の対比。聖書に書いてある、イエス・キリストを巡る出来事は歴史的事実だと信じても、それはまだ知識にすぎず信仰ではない。それらの歴史的出来事、特に十字架と復活の出来事が自分にどんな効能をもたらすのか、その効能を信じるのが信仰である。その信仰から神を深く信頼する心が生まれ、その信頼がある限り悩み苦しむ心は慰めと励ましを得る。
三つ目は、ルター派は「行いの教理」を排したが、「信仰の教理」は信仰者が全く異なる土台に立って善い行いをする者に変える。歴史的出来事の効能を信じる信仰と一体となって聖霊が働き、心をそのように改革する。善い行いとは実は「信仰の教理」の帰結なのだ。「行いの教理」では心は何も改革されないのだ。
20条では、悩み苦しむ良心の戦いがなければ「信仰の教理」を自分のものにすることはできないと言われる。自分は神の目に適う者ではないのでは?という恐れの自覚があるところでのみ「信仰の教理」は真の心の平安と神への信頼をもたらすからだ。政治家でも一般市民でも、何か宗教を信奉する者が例えば平気で嘘をつき苦しむ良心の戦いを戦わずにその宗教の集会や儀式を続けるのは、「行いの教理」の成れの果てである。
今やAIは全人類の知識の集積となり、人間の問いや悩みに応えるばかりか、創造めいたことも始め、人間にとって神よりも身近な存在になりつつある。しかし、いくらAIが、聖書の神は御子の受難を通して死の苦しみを味わった、と知識で知っていても、自分ではその苦しみを味わあない。また、「信仰の教理」や良心の戦いについて知識はあっても、自分でその戦いは戦わない。なので「信仰の教理」を自分のものにしていない。近年、聖書の歴史的出来事について、理性にそぐわないものを事実ではないとし、出来事の効能を無効化する傾向がある。それはキリスト信仰を知識の集積に置き換えてしまわないだろうか?それに20条はまた、キリスト信仰の義は社会的正義や哲学が構想する正義とは別物であるとも言っている。
以上のようなことを考えさせる20条を次回から本コラムで紹介します。
山とAI
〈121:1 (京まうでの歌) われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや 121:2 わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる 121:3 ヱホバはなんぢの足のうごかさるるを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし 121:4 視よイスラエルを守りたまふものは微睡こともなく寝ることもなからん 121:5 ヱホバは汝をまもる者なり ヱホバはなんぢの右手をおほふ蔭なり 121:6 ひるは日なんぢをうたず夜は月なんぢを傷じ 121:7 ヱホバはなんぢを守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ並なんぢの霊魂をまもりたまはん 121:8 ヱホバは今よりとこしへにいたるまで 汝のいづると入るとをまもりたまはん 詩編121〉
尾根緑道の桜美林教会前のテラスにベンチが四脚並んでいます。私の好きなベンチは左から二番目のベンチです。何故ならばそこから丹沢を眺めると正面に丹沢で一番高い蛭ヶ岳と日本一高い富士山とが並んで見えるからです。丹沢の右端に以前から気になる双耳峰の山がありました、或る日その山を写真に収めて帰宅後AIにその山の名を尋ねましたら「この写真の山は丹沢の大山です」と答えてきました。まさかと思いました大山は双耳峰ではありません、しかも大山は丹沢の左端の山です、AIの仕組みは如何なるものかは知りませんが山に関しては全くあてにならないものと知りました。やむを得ずFacebookで山好きの人たちに尋ねましたら早速それは道志の「今倉山」と教えてくれました。道志山塊の山が見えていたとは嬉しかったですね、また一つ楽しみが増えました。