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スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年11月1日 全聖徒主日
黙示録7章9-17節
第一ヨハネ3章1-3節
マタイ5章1-12節
説教題 「キリスト信仰者が幸いなのは、秘められたものを持っているから」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日の福音書の個所は有名なイエス様の「山上の説教」の出だしのところ、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いというのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと考えるのとどこか違います。そういうわけで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。
ところで、このイエス様の教えを最初に聞いた群衆は果たして9つのタイプが神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らはわからなかったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われいるように、律法をきちんと守って神から愛顧を受けられる人のことです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。このように律法を守って生きて、その見返りとして神から愛顧を受ける、もし神の意思に反する罪を犯したらエルサレムの神殿で動物の生贄を捧げる贖罪の儀式を行って赦しを頂く、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。イエス様はそういったことには触れず、心の貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作る人、義のゆえに迫害される人、イエス様のことで悪く言われたり迫害される人が幸い、神の目から見て幸せと言うのです。これは一体どういうことか?今日はイエス様が教える「幸い」について見ていきましょう。
2.
このイエス様の「幸い」の教えをギリシャ語の原文に沿ってじっくり見ていくと、日本語の訳では見えてこないことが見えてきます。それが見えると、この教えをもっとよく理解できるようになります。
まず、「~する者は幸いである」と言った後に、必ず「なぜなら」という言葉が続きます。日本語訳では抜け落ちていますが、「悲しんでいる者は幸いである。なぜなら彼らは慰められることになるから」とイエス様は言っているのです。つまり、悲しむこと自体が幸いなのではなく、逆転が起きるから幸いなのです。だから、今悲しんでいるのは将来慰めに取って代わられる前触れに過ぎないということです。
次に日本語訳で見えないことは、「なぜなら」で始まる文の動詞が未来形ということです。慰めも、地の受け継ぎも、義の渇きの満たしも、憐れみを受けることも、神を見ることも、神の子と呼ばれることも全て将来必ずそうなるとイエス様は約束されているのです。ここで問題になるのは、では、その将来とはいつのことか、逆転が起きるのはいつかということです。それについてはこの説教の終わりで明らかになります。ここの一つ注意すべき点は、慰めや地の受け継ぎなどは将来起こることなのに、心の貧しい人と義のゆえに迫害される者が神の国を持つのは現在形です。将来ではなく今の時点で持っているということです。それゆえこれらの者は幸いであると。神の国を今持っているというのはどういうことか、これもこの説教の終わりで明らかになります。
もう一つ日本語訳で見えないことは、新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、「~される」という受け身の文がある時、誰によってそうされるかと言えば、それは大抵は父なる神が隠された主語になっているということです。なので、慰めるのも、義の渇きを満たしてくれるのも、憐れみを授けるのも、神の子と呼ぶのも全部神がそうされるということです。そういうわけで、幸いな者というのは、今は人の目から見て惨めとか取るに足らないような状態にあっても、将来は全てが逆転する、神の取り計らいでそうなると信じる者なのです。まさに神の視点で幸せ、幸いな者なのです。
さらに、もう一つ日本語訳で見えないことはがあります。それは、最初の「心の貧しい人」です。ギリシャ語原文では「霊的に貧しい人」で、心を意味するカルディアではなく霊を意味するプネウマという言葉です。英語、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語ルター訳でも「霊的に貧しい」と訳しています。どうして日本語が「心の貧しい」になってしまったのか、大体理由はわかりますが、後の8節に出てくる「心の清い人」はギリシャ語は「心」を意味するカルディアです。しかし、この3節は「霊」を意味するプネウマを使っています。なので、ここに「心」を当てはめるのはよくないと思います。それで、これからは「霊的に貧しい人」と言い換えます。
そうすると、「霊的に貧しい人」とはどんな状態なのかを考えなければなりません。「心が貧しい」と言うと、「あの人は心の貧しい人だ」などと批判することがあります。それで「心が貧しい」というのは人間同士の間での何か至らない状態を意味します。「霊的に貧しい」というのは相手が人間ではなく神を前にしての自分の至らない状態を意味します。それでは、神を前にした至らない状態とはどんな状態でしょうか?それを理解する鍵は、旧約聖書にあります。イエス様の言葉も使徒たちの言葉も、全てが旧約聖書を土台や背景にしていると言っても過言ではありません。イエス様や使徒たちの言葉が難しい時は旧約聖書のどこかに鍵があると思って探すことが大事です。難しくない、簡単だ、わかったと思っても、旧約聖書の背景を考えないで自分たちの常識や理想の中で考えたら、それはもうイエス様や使徒の言葉ではなくなります。
「霊的に貧しい」に関係する旧約聖書の個所はいろいろあります。イザヤ書66章2節で神は言われます。「私が目を注ぐのは、貧しい者、打ち砕かれた霊、私の言葉を恐れる者。」神のみ言葉は人に罪があることを明らかにします。そのみ言葉によって霊が打ち砕かれて貧しい状態になるのです。(注目 新共同訳では「貧しい者」が「苦しむ者」になっています。しかし、ヘブライ語のアーニーはHolladyのConcise lexiconによると「貧しい」が基本的な意味です。「苦しむ」はありませんでした。違う訳をするから「霊的に貧しい」の意味を探る手掛かりを失ってしまいます。)同じように、詩篇34篇19節「主は打ち砕かれた心の近くにいまし、とことんヘリ下った霊を救われる。」詩篇51篇19節「神への捧げ物は打ち砕かれた霊、打ち砕かれてとことんヘリ下った心を神は軽んじることはしない。」イザヤ57章15節「私は高く聖なる所に住み、とことんヘリ下る者、ヘリ下る霊と共にあり、ヘリ下る者たちの霊を修復し、うち砕かれた心を修復する。」
どうして神は打ち砕かれてヘリ下った霊や心を求めるのでしょうか?これは、イスラエルの民が神殿で行う贖罪の儀式が機能していないことが背景としてあります。人間はどのようにして神の意思に反する罪を神から赦してもらって神の愛顧の中で生きることができるか?イスラエルの民はエルサレムの神殿での礼拝が罪の赦しを実現すると考え行っていました。律法の規定に従って贖罪の儀式を毎年のように行っていました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
ところが、この贖罪の儀式は、民の心を罪の赦しを受けるのに相応しい心に変えていなかったのです。民のつもりとしては生贄を捧げているので罪は赦されている。しかし、神から見れば、神の意思に反する罪はそのままです。儀式が形だけのものになってしまって、本当の悔い改めは起きていないのです。それで神はそんな捧げものはうんざりだ、見たくもない、生贄に代えてお前たちの打ち砕かれてヘリ下った霊と心を持ってこい、そうしたらそれを修復してあげるから、ということになったのです。
3.
まさにそのような時に神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られてきたのです。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。私が預言者たちを通して伝えたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式は形だけのものになってしまい、心の中の罪に対しては何もなしえていない。それなので私が本当に私の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。そうすると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それはお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しになるからだ。これがイエス様の「幸いな人」の教えの真相です。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡して全ての人間の罪の罰を人間に代わって受けられることによってでした。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。
あとは人間の方がイエス様が命じた洗礼を受けると、使徒パウロが明らかにしたように、その人はイエス様の十字架上の死と死からの復活に結びつけられます。イエス様の死に結びつけられると自分の中にある罪が人間を永遠の滅びに陥れようとする力を失います。イエス様の復活に結びつけられると永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるようになります。その人はイエス様は真に自分の救い主だという信仰に満たされています。イエス様のおかげで罪を償われたので、神から罪を赦された者として見てもらえ、神との結びつきを持てるようになります。その人は、パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられたのです。本日の黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことです。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。しかしながら、キリスト信仰者といえども、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それは神の意思に反する罪を内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。その時、神はこの者の衣は神の小羊の血で白くされたままであると確認します。私たちに被せられた衣の白さを証明してくれるのです。
キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、詩篇24篇4節で言われるような「心の清い者」になります。「潔白な手と清い心を持つ人はむなしいものに魂を奪われない」。また、神によって霊的に満たされていると、自分の力によるものではないと自分でわかるので他人に対して高ぶったりしません。逆にヘリ下るようになります。それが柔和さや憐れみ深さになります。「平和を実現する」とは、何かノーベル平和賞を受けられるようなことを考えてしまうかもしれませんが、もっと身近なところにあることを忘れてはいけません。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、イエス様のおかげで自分には欠けているものがないとわかれば、そういうお人好し路線が当然になるのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまるタイプなのです。
4.勧めと励まし
9つのタイプが全てキリスト信仰者に当てはまるものとすると、信仰者は神から慰められることになります。同じように、地を受け継ぐことになり、神から義の飢え渇きを満たしてもらえ、神から憐れみを受けることになり、神を目で見ることになり、神から子と呼ばれるようになり、天の御国の報酬は大きなものになります。
それでは、慰められたり満たされたりするのは将来のいつなのでしょうか?キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りの繰り返しです。そうなると、慰められるのも満たされるのも無数にあることになります。一回終わっても、また次が来るので、どれも最終的なものではありません。しかし、最終的な慰めと満たされの日が来るのです。それは、復活の日、創造主の神が今ある天と地に替えて新しく天と地を創造する日、そこに永遠の神の国が現われて、復活を遂げた者たちがそこに迎え入れられる日です。その日、繰り返しの人生は終了して完全な慰め、完全な満たされが起こります。柔和な者が地を受け継ぐことになるというのは、かつては約束の地カナンから追い出されずに永遠に居住できることを意味しました。キリスト信仰者にとって「地の受け継ぎ」は、永遠の神の国への迎え入れを意味します。神の国から追い出されずに永遠に居住できることを意味します。そうすると、霊的に貧しい者、義のゆえに迫害される者が今、神の国を持っていると言うのは矛盾するのではないか?神の国を持てるのは今ではなく将来と言ったほうが正しいのではないか?
いいえ、そうではないのです。確かに神の国への迎え入れは将来のことですが、神の国は罪の自覚、赦しの願い、赦しの受け取りを繰り返して生きる者のものに既になっているのです。なぜなら、この繰り返しは、罪の赦しという神の恵みに留まる生き方だからです。迎え入れはまだなので、秘められた状態で神の国を持っているのです。迎え入れの時に顕在化した神の国を受け継ぐのです。つまり、こういうことです。人は洗礼を受けることで神の国を秘められた状態で持ち、復活の日に顕在化した状態で持つのです。この世の人生の中でも神に慰められ満たされることはありますが、それは最終的なものではなくその都度その都度のものです。それが、復活の日に最終的に完全に慰められ満たされるのです。本日の黙示録7章と後に来る21章で言われます。またそれらを預言したイザヤ25章でも言われます。その時、神は私たちの目から全ての涙を拭い去って下さると。この世の段階で拭いきれなかった涙も、痛みや苦しみのだけでなく無念の涙も含めて全ての涙が拭われるのです。このことをわかっているキリスト信仰者はだから、この世で何があっても大丈夫、平気という気持ちでいられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒 」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。加えて11月2日をキリスト信仰を抱い て亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは通常は11月最初の土曜日が 「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日で す。今年は11月最初の土曜日が11月1日の後に来てしまうため昨日の10月31日が「全聖徒 の日」に定められました。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持っ て行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入って いるロウソクです。 日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います 。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾る だけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語り かけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。日本では遺骨や位牌に魂が入っ ていると信じられるせいか、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、墓 や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。 キリスト信仰では、亡くなった方は思い出として残るので、故人の思い出/メモリーを尊 重するということになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をとも し火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。日本人の場合は尊重するのは故人 の今ある魂とか霊になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなの で、尊重するのが過去の思い出だけになってしまったら、故人との繋がりがなくなってし まうと心配してしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復 活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた 日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような日々とその方を与えて 下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自 分自身は復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。それなので、 キリスト信仰では墓は良き思い出の象徴であり、復活の再会の希望を確認する場になりま す。 全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のとも し火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさ せます。(2023年11月5日のコラムに加筆修正)
今フィンランドは冬に向かって日々寒さが増す季節になりました。キノコやベリーを森で採る季節はそろそろ終わりです。フィンランドではキノコもベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。今回の料理クラブでは”Sieni piirakat”キノコ・パイを作ります。色んな種類のキノコを入れてよく、ハムやパセリを添えるとキノコの風味が一層引き立ちます。さらにスライス・トマトとチーズをトッピングにしてふっくら森の香りがする美味しいパイの出来上がり!一つ食べたらやめられなくなること請け合いです!そんな風味豊かなキノコ・パイをご一緒に作ってみませんか?
参加費は一人2000円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、
まで。
フィンランド人宣教師の恵みのレシピ」
パイヴィ宣教師がスオミ教会のフィンランド家庭料理クラブで教えてきた料理のレシピと料理にちなんだ聖書のメッセージから24つを選んで本にまとめ上げました。「幸福度世界一」の国からの心とおなかを満たすレシピ集です。
全国のキリスト教書店にて好評発売中。定価1,430円
スオミ教会にて著者割引の1,100円で購入できます!
西池
〈地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。 創世記8:22〉
この池の正式な名前は知りません。単に我が家から西にあるから名付けただけです、地図上には調整池と記してあります。一号遺跡の南側にあった谷戸を堰き止めて作った人造池です。この池に今秋もアオサギがやってきました、アオサギは留鳥で渡り鳥ではないとされていますが夏の間は何処かに行ってしまいます。近くの三つの池のアオサギも同じように消えてしまいます。アオサギは孤塁を好むようで一つの池に一羽だけで二羽以上いるのを見た事がありません。片足立ちで佇んでいる姿は哲人の風貌を感じさせます。それでも時折鋭い嘴で素早く小魚を突くのを見ると矢張りただ物ではない鳥だと思いました。
ルター、アイデンティティー、キリスト信仰
米国の著名な政治学者F.フクヤマは著作“Identity”の中で、近代のアイデンティティーの概念の成立にとってルターがいかに重要な役割を果たしかについて論じている。ただし、ルターのアイデンティティーの理解は純粋に神学的なものだったという点で現代の人々の間で普通に用いられているアイデンティティーの理解とは異なるということにも注意を喚起して次のように述べる。
「しかし、マルティン・ルターは現代のアイデンティティー理解とは遠く離れた地点に立っている。確かに彼は「内なる自己の自由」に祝杯をあげた。しかし、この「自己」には一つの次元しかなかった。すなわち信仰という次元だ。それで、この「自己」は神の恩寵を受け取る自己なのである。従ってルターのアイデンティティー理解には二者択一しかない。人は聖書の神を選ぶ自由を持っているかいないかだ。それゆえ、彼から見れば、人はヒンズー教徒や仏教徒になることを選ぶという自由はないのであり、また人の真のアイデンティティーは性的少数者としてクローゼットから出てくることがそうだと主張することでもないのだ。」(paperback版28~29ページ、少し吉村の意訳)
フクヤマの論じ方から、ルターにとって、この内なる、そして本物の自己とは神との関係の中でのみ成り立つものであることがわかる。しかしながら、当時の教会は聖書の神の言葉に基づかない慣行や教えが沢山あり、それが内なる本物の自己の阻害要因となってしまった。それで内なる本物の自己の実現のために教会は改革されねばならないという構図になる。政治学者から見た宗教改革の構図だ。
それでは、アイデンティティーの概念がルターのような一元的なものではなくなって、現代のように多元化したのはどういう経緯でか?フクヤマはフランスの啓蒙主義哲学者J.J.ルソーの役割を強調する。ルソーはアイデンティティーからルターの神学的な枠を取っ払ったのだ。それで、内なる本物の自己は聖書の神と無関係になってなんでもありになった。ヒンズー教徒でも仏教徒でも性的少数者でも。
このように内なる本物の自己は多元化しても、そのような自己の実現を阻害する要因が制度としてまた伝統として社会に存在すれば、そのような制度や伝統は自己の実現にとって邪魔者でしかないので改革されるか打破されねばならない。まさにルターにとって当時の教会がそうであったように。しかし、ここで注意すべきことがある。ルター的なアイデンティティーの理解では内なる本物の自己の中心には神があった。それに対して、ルソー的な内なる本物の自己にはそれがなくなった。では何があるのか?内なる本物の自己には「自分」があることになったのだ。つまり、「自分」が神に代わって内なる本物の自己を規定するようになったのだ。果たして「自分」は内なる本物の自己を規定することが出来るくらいに確かなものなのか?翻ってキリスト信仰者は、内なる本物の自己は神のひとり子の十字架上の贖罪と死からの復活という神の取り計らいによって規定されていることで良しとするのだ。
10月の手芸クラブは21日に開催しました。10月なのに夏が戻ったような蒸し暑い一日でした。
今回は少し早めにクリスマスに向けてフィンランドのクリスマス・オーナメント「オルキ・タハティ(藁の星)」を作りました。材料はフィンランド直送の天然の藁です!
初めに星のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。それから水で柔らかくした藁を星の形に合わせて8本か12本の束にします。束をパールピンでプレートに取り付けてから星の形に作ります。プレートのパールピンはどんどん増えていきますが、形はまだはっきり見えてません。それでも、参加者の皆さんは楽しくおしゃべりをしながら赤や白い糸で藁を結んでいくと、星の形がはっきり見えてきました。皆さんの手の動きは早くて藁の星はあっという間に出来上がりました。それぞれの個性的な形の星を作り上げると、「わあ、可愛い!」「なんて、きれいな形!」と嬉しそうな声が上がりました。
今回も楽しくおしゃべりしながら藁の星を作って時が経つのを忘れてしまうほどでした。あっという間にコーヒータイムの時間になりました。
テーブルのセッティングをして、フィンランドのお菓子パン「Pulla」をコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの酪農で子牛のためによく作る藁の「避難場所」や聖書が教える私たち人間の「避難場所」についてのお話を聞きました。
次回の手芸クラブは11月25日に開催予定です。開催日が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
今日はまだ10月ですが、少し早めにクリスマスに向けて皆さんと一緒にクリスマス・オーナメントを作りました。11月の手芸クラブでも同じテーマを予定しているので、今年のクリスマスは皆さんのご自宅は様々な藁のオーナメントで飾られることになりそうです。
藁はさまざまな用途を使われてきた伝統的な素材です。昔はオーナメントだけではなくマットを織ったり布団の中身として使ったりしました。また藁は農業や庭の植物の栽培にも利用される重要な素材です。
私は農家で育ったので、農業で藁がどのように使われていたかをよく目にしました。昔は牛や子牛の休む場所を乾燥した状態に保ち、柔らく快適にするために刻んだ藁を敷きました。実家の牧場では乳牛の乳しぼりの仕事が終わってから子牛の為に新しい藁を敷いてあげました。その時、子牛たちはもう待っているような様子でした。藁を敷くと、子牛は飛び跳ねたり走り回ったりして大喜びでした。それから藁の上に横になり気持ちよさそうに眠りました。子牛たちは母親から離れたので少し不安だったのかもしれません。でも、藁が敷かれた寝る場は暖かくて、安心して眠りました。藁で作った休む場所は子牛たちにとって避難所のような安心できる場所でした。
私たちも子牛と同じように暖かくて安心できる場所にいたいと願っているのではないでしょうか。特に不安を感じる時にそのように願うでしょう。私たちが生きている世界ではさまざまな変化が起こります。戦争や自然災害など、私たちに不安を感じさせる出来事も沢山あります。自然災害が起きれば私たちは安全のために指定された避難所に行くでしょう。
しかし私たちが不安を感じるのはそのような非常事態の時だけではありません。悲しみ、試練、病気、混乱など、さまざまなことが私たちの心を不安におとしれます。そのような時はどうすればよいでしょうか。私たちを不安から守ってくれる安全で安心できる避難場所はどこにあるでしょうか。
旧約聖書の詩編にはそのような避難場所についてこのように書いてあります。 「神様のそばにいることは私の幸せです。 神様は私の避難場所。 私は神様の御業を全て語り伝えます。」 詩編73章28編。
このダビデの言葉によると私たちの避難場所は天と地と人間を造られた神さまです。それはどういうことでしょうか。私たちは天の神さまと繋がりを持つことによって避難場所にいるのと同じ安心感を得られるのです。神さまと繋がりを持つことが出来たら神さまは私たちのそばにいて下さることになります。
それでは私たちはどのようにして神さまのそばにいて神さまとの繋がりを持つことができるでしょうか。それは神さまを心から受け入れて信じることによってです。聖書のみ言葉を読んで、天の神様にお祈りして、神様は必ず祈りを聞いてくださると信じることが出来れば神様がそばにいて下さるという安心感を得られます。み言葉と祈りを通して神さまとの繋がりが強められます。さらに、神さまが私たちを救ってくださるという計画も明らかになって神さまに対する信頼が生まれます。この信頼があると、生活の重荷も軽く感じられるようになります。
私たちの歩む道はいつも平らとは限りません。悲しみや困難や試練に直面することもあります。しかしそのような時にも天の神様が共にいて下さるとわかっています。問題の解決も、神さまに対する信頼があるので、いつ、どのように解決されるかは神さまの御手の中にある、だから大丈夫という安心があります。
ひよっとしたら神様は私たちが信頼して一緒に歩むために試練や困難を与えられるのかかもしれません。しかし、神様は私たちに喜ばしいことも沢山与えてくださいます。だから私たちはそれらは神さまの贈り物としてその一つ一つを感謝して受け取ります。
私たちにはさまざまな状態がありますが、どんな状態にあっても神さまに信頼すれば、神さまは私たちにとって安全な避難場所となります。その避難場所は揺らぐことがなく私たちの生活の確かな土台になります。
天と地と人間を造られた神さまが私たちの避難場所になって下さったら、私たちは暖かな藁の休む場で眠る子牛のように安心に包まれます。
フィンランドの聖歌の中にこのような歌があります。 「神さまのもとに避難する者は、ほかと比べないよい安全な場所に身を置くことになります。その人は、天に輝く星のようであり、また、母鳥の翼の下にいるひなのようです。」 (フィンランド語の賛美歌の歌詞)