ニュースブログ

2026年3月15日(日)四旬節(受難節)第四主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン 

             2026年3月15日(日)スオミ教会説教

聖書:ヨハネ福音書9章1~41節

説教題:「生まれつき盲人の奇跡」

今日の福音書、ヨハネ福音書で大変長いですが読んだだけでわかります。まず、1~12節を見ますと、此処ではイエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人を見てこの人の目が見えるようにして下さった。と言う奇跡の業をなさいました。その、癒された業のいきさつを6節~7節に記しています。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、シロアム”遣わされた者”と言う意味の池に行って目を洗い、すると目が見えるようになって帰ってきた。」イエス様が病人を癒したり驚くべき奇跡の業をなさった時はたいていイエス様の力によって出来事が起こっています。ところが、此処でのイエス様はわざわざ唾をしてその唾で土をこね、そのこねた土を目の見えない彼の目に塗って、それをシロアムの池で洗いなさい。と言われています。どうしてイエス様の一言の言葉ではなくて今までとが違った手作業をいくつも踏んで行われているのでしょうか。この奇跡の業をなさったのが”安息日”でありました。当時のユダヤ教の掟によれば”安息日には全ての仕事を休む”と言う事になっていました。ところが、イエス様のこの盲人になさった奇跡の業は安息日にはしてはならない三つか四つの労働であったわけです。つまり、掟を破っていると言う事で此処にファリサイ派の人々が騒いだわけです。イエス様はユダヤ教の掟を知らなかったのではない、ご承知の上でなさった。そこで、ユダヤ教のファリサイ派の人々が先ず見えるようになった盲人を呼んで尋問しています。

問題は「彼の目を開けてくれた人物」はどんな人なのか、と言う事です。17節で盲人は言います。「私の目を開けてくれた人、あの方は預言者です」。ここで彼が「預言者だと思います」と言う意味の彼の本当の預言者は旧約聖書にある職業での預言者ではない。16節でこう記しています。「どうして罪ある人がこんな印を行う事が出来るだろうか」。正直にそのまま言っていますね。33節では目が見えなかった彼が言っております。「もし、あの方が神から来た人でなかったら何一つ出来なかった筈です。」彼は全身で自分に起こった出来事を現わして、あの方は神から来た人です、とまで言っています。そういうところから見ますと彼の言った「預言者だと思います」と言うのはまさに「神から来た超自然的な人物である」と言っているのです。ファリサイ派の人たちの中で色々と意見が分かれます。いったいどう考えるべきか。そうして遂に18節~23節にありますように、見えるようになった彼の両親を呼びつけて尋問しています。確かに息子は生まれつきの盲人であったのか、確かめています。更には「どうして生まれつき見えなかった息子が見えるように治したのか」「一体だれが治したのか」と問い詰めています。すると両親は「本人に聞いてください。もう大人ですから」と答えています。それが両親の自然の気持ちでしょう。そして、彼らはどうしてもすっきりしない。埒があかないので24節以下でもい一度盲人であった彼を呼びつけまして「神の前で正直に答えよ、私たちはあの者が罪ある人間だと知っているのだ」。ここまできますと彼らはイエス様を安息日に掟を破った罪人だと頭ごなしに言ってきます。元盲人であった彼はきっぱりと反論して言います。恐らくファリサイ派の人々がどんな酷い事をしかねないユダヤ教の人々である事もしった上で、彼にしてみれば命がけで反論します。「あの方が罪人かどうかは私にはわかりません。ただ、知っているのは目の見えなかった私が今は見える、と言う事です。」ここで彼はまさにありのまま神の前で告白しいる言葉です。あの、お方イエス様が成して下さった神の業によって自分の身に起こったこと。生まれつき見えなかった真っ暗な世界が、今は素晴らしい光の世界に何もかもが輝いて見えているというこの事実を喜びを持って証しているのであります。話の経過は私たちは読めばよくわかる話です。

著者のヨハネは何故こんなにもユダヤ教のしつこい尋問の事を長々と詳しく書いているのだろうか。18~23節のところで両親を呼びつけている場面で特にくどくどと記しているのです。特に問題なのはこの両親が「本人に聞いてくれ」と言い逃れたと言う事です。これはよく考えれば、ごく当たり前の事です。言い逃れでも、何でもない本人が一番よく知っている事です。両親がその場にいたわけではありません。息子が飛んで来て”眼が見えるようになったよ”と喜び勇んで両親にもとへやって来たのです。それで「あれに聞いて下さい、もう大人ですから」自分の事は自分で話すでしょう」と両親が言っていますが、問題はそう言わざるを得ないようです。著者のヨハネは22節でこう記しています、「両親がこう言ったのはユダヤ人たちを恐れていたからである。」ユダヤ人たちは既にイエスをメシヤである、と公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていたのである。両親が「もう大人ですから、本人にお聞きください。」と言ったのはそのためである。イエス様の時代にはまだイエスに味方する者はユダヤ教から破門するぞ、と言うような決定はなされていなかった。とこう考えた方が自然でしょう。だから、福音書でも古い時に書かれたマルコやマタイにはそうした記事は出てきません。ずうっと後の時代に書かれたヨハネ福音書だけが、此処の箇所にもう一つ12章42節で書いているのです。そこで、22節の文章は正確にはイエス様の生きていた時代、と言うよりもずうっと後の紀元1世紀終わりの頃、つまりヨハネがこの福音書を書いている当時の状況を織り込んだ文書ではないか、と進歩的な神学者たちは解釈した、恐らくそうでしょう。紀元1世紀の末の頃にはもうキリスト教とユダヤ教とがはっきり違う宗教だと考えられるようになっていた。そのような状況の中でイエスを信じるか、迫害を恐れてしまうかと問われている。目が見えるようにして頂いた彼は必死に告白しています。29~34節を見ますと、ファリサイ派の人々が言っています。「我々は神がモーセに語られた事は知っているが、あの者が何処から来たのか知らない」。彼は答えて言った。「あの方が何処から来られたか、あなた方がご存知ないとは実に不思議です。あの方は私の目を開けて下さったのに。神は罪人の言う事はお聞きにならないと私たちは承知しています。しかし、神を崇めその御心を行う人の言う事はお聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開ける人がいるなどと、これまで一度も聞いた事がありません。あの方が神のもとから来られたのではなければ何もお出来にならなかったはずです」。彼はありのまヽの真実を述べてます。こう言った彼をついに外へ追い出した。35節以下を見ますと、イエス様は彼と出会って「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った「主よ、その方はどんな人ですか」彼はまだ盲人であった時、イエス様の顔を見ていませんので、自分の目の前の方がどんな方かわからなかったのですね。かれは言う「その方を信じたいのですが」。

すると、イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ」。彼はどんなに嬉しかったでしょうか。彼の人生は180度、全く新しい世界に生きる事が出来るようになったのです。だれでも、まことに主イエス様と出合う人は全く新しい霊の世界に、その人の魂そのものが神の霊の世界にまで至る事が出来るようになるのです。彼は、「主よ信じます」と跪いたのでした。ヨハネがこの福音書を書いている時代のキリスト者たちはユダヤ教からの迫害に会って外に追い出されたり捕えられ殺されるような時代の只中で「イエスこそ、私の救い主、主キリストである」と命をかけて告白し戦っていった信仰者への励ましの福音であります。彼は生まれつき見えない真っ暗な世界から今は「見える」と言う彼が全身で受けた恵みの事実だけを告白しているのであります。イエス様がなして下さったこの奇跡は一つの象徴としてこの業を彼に起こさせ、そして私たちへのメッセージは肉体の目が見える世界から「信仰によって」霊的な目が開かれ、それにまことの霊の御国の光輝く栄光の世界を見る事が出来る希望が与えられているのです。此の世の物の世界では見えない暗黒から霊の世界が見えてくることこそイエス様が望んでおられる奇跡の意味です。神の世界から、此の世の人間へと遣わされて神の御国が見えるように霊の目が開かれるように。イエス様はあらゆる教え、奇跡の業を成して行かれたのであります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その4
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」2月18日の日課から)
『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』 (マルコ10章23節)
『誰も自分の力で救いを勝ち取ることはできない。そうなのは、原罪が我々にもたらした
被害のためなのである。それがゆえに我々の自然の本性は造り主の神よりも造られた被造
物に執着してしまうのだ。
人間には、信頼を寄せ喜びを頂く神がいなければならない。人間は真の神か偽りの神か
のいずれかを持つ。我々の自然の本性が、賜物を与える神ではなく、与えられた賜物の方
に執着する時、人間は不可能にもかかわらず自分の力で救いを勝ち取ろうとする。そのよ
うな時、神は御手をもって介入する。神は繰り返し人間をヘリ下させて屈服させる。そう
するのは、人間が次の真理を口にすることができるようになるためなのだ。「私には神が
与えて下さった多くの贈り物がある。しかし、そこからのみ喜びを見出そうとする位に愛
しいものにしてはならない。私はそれらを神がお認めになる間だけ用いることにしよう。
一つには神の栄誉のため、二つには自分の必要のため、三つには隣人の役に立つために。
もし神が贈り物を与えることをやめると言われれば、私は失うことから生じる困難や恥を
耐え忍ぼう。私にとっては、贈り物を与える神を失うよりも贈り物を失うことの方が良い
からだ。」
我々をこのような心意気にするために神は全てを手中に収め、替わりに我々に御言葉を
お与えになる。与えられた御言葉を通して聖霊が働き、我々を古いものから新しいものへ
と変えるために。そうでなければ、救いも何も全てが失われるであろう。』 (以上ルタ
ーの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)

「神のみことばは かたく世に立ちて
み霊とたまもの わがうちに溢る。
わがいのちも わが妻子も
取らばとりね、神の国は
なおわれのものぞ。」

ルターの作詞作曲による讃美歌から
教会讃美歌450番4節

DSC_3767

歳時記

<1われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。2 われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。 詩編137:1・2>

春になると何時も気になるのが清掃工場の柳です。散歩の度に観察していましたら先日(3月8日)に漸く葉芽が開き遠目にも新緑の息吹が感じられました。芭蕉の句に「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな 」更に放浪の歌人、種田山頭火も歌っています、「柳ちるもとの乞食になつて歩く」。藤原定家も後鳥羽上皇と柳の事で争いました、定家の家の庭に植えてあった柳を上皇が自分の家の庭にへと勝手に引き抜いて行きました。定家は悔しくて歌で訴えました、「道のべの野原の柳したもへぬあはれ嘆きの煙くらべに」。上皇はそれが気に食わなかったと見えて定家を歌会の出席を拒んだとあります。柳は昔から人々に愛されてきた木でした。銀座の柳も新宿中央通りの柳も・・残念ながら今では見る事も出来ません、移り気な人の心を柳はその細枝を風に靡かせていました。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

3月の料理クラブは14日(土)13時から開催します。

季節は春になりました。フィンランド人も春になると多くの人たちが自然の中にに出かけます。今回の料理クラブのメニューは、ハイキングのお伴としても人気のあるLihapiirakka(ひき肉パン)です。パンの中身はスパイスで味付けした炒めひき肉とチーズ。ケチャップやピクルスを添えても美味しく味わえます。パンは油で揚げるのが多いですが、料理クラブではオーブンで焼き上げます。フィンランドの喫茶店のショーケースでもよく見かけるLihapiirakkaを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1773577008iamg@1773577008arumi1773577008hsoy.1773577008iviap1773577008  まで。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その3

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月27日の日課から)

『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』 (マタイ422節)

『ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が主イエスの呼びかけに応じて全てを捨てて従って行ったのを聞いて、キリスト信仰者も同じように財産、家、妻子を捨てて行かなければならないのかと思うかもしれない。しかし、そういうことではない。心のどこかで家、財産、妻子を捨てていなければならないということなのだ。つまり、家族と共に暮らし、彼らのために糧を取得し、彼らの世話をするのは神の定めである以上そうするのであるが、それと同時に心のどこかで捨てていなければならないということなのだ。もし実際に捨てるべき時が来たら、全てのものを神に委ねなければならない。これがまさしく神のゆえに全てのものをいつでも捨てる用意があるということである。このような思いでいることができれば、あなたはもう全てを捨てていることになる。心は囚われた状態になってはいけない。心から独占欲、執着心、依存心を洗い清めなければならない。

 このようにすれば、財産があっても、心で捨てることが出来ている。そして実際に捨てるべき時が来たら、あとは神の名においてそうするのだ。ただしそれは、「私は別に妻子や財産なんかなくても良いのだ」などと無感情のようになって捨てることではない。そうではなくて、次のような切ないとも言えるような思いを持つことなのだ。「神さま、あなたがお許しになる期間、私はそれらを自分の許に留めます。あなたがお許しになる期間、彼らを世話することであなたにお仕えします。」

 自分の心の状態はどれかよく注意しなさい。何を持っているか持っていないか、それが沢山あるかないかといったことに心が占拠されないようにしなさい。今自分のもののように見える財産があっても、それを脇に置いておきなさい。あたかも最初からそんなものはなかったかのように、あるいは、いつでもなくなってしまうもののように。そうすることで私たちは常に神の国に結びついているのである。』(以上ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)

所有するものをさも所有していないかの如く振る舞うというのは、ボンフェッファーの著作のどこかにもあったと記憶しています。

「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほめたたえられよ」ヨブ記121

今自分のもとにある人は神が許された期間あるものなのだとわかれば、それは一層愛おしいものになって、その人と一緒にいる時間は貴重なものになって、一層大切にするのではないでしょうか?

 

DSC_3767

2026年3月8日(日)10時半 四旬節第三主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年3月8日 四旬節第三主日

出エジプト記17章1-7節、ローマ5章1-11節、ヨハネ4章5ー42節

説教題 「聖霊は心の中で湧き出る泉の如く」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られる話の一つです。イエス様と女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われます。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の中に泉が湧き出てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何のたとえでしょうか?

本日の個所にはもう一つたとえがあります。刈り入れをする人と種をまく人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて麦畑が黄金色なのを見なさい、と言いました。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、労苦を分かち合うなどと言います。

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」にたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょうか?イエス様のたとえの教えは、字面を追って一瞬わかったような感じにはなりますが、では、それらは何を指していますかと聞かれたら、はた、と困ってしまうことが多いです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すか明らかにします。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなります。

2.刈り入れをする人、種を播く人、他の者たちの労苦

まず、本日の出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行はユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる地域でした。それが、紀元前8世紀に東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連行され、逆に東から異民族がサマリア地方に強制移住させられて来ました。それで同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、サマリア人の女性が言うようにエルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して交流を避けていたのです。そのことはサマリア人の女性の発言からもよく伺えます。

イエス様一行はサマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統では(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

さて、弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのようにやってきたのです。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は驚いて、なぜサマリア人を忌み嫌うユダヤ人が自分に水を求めるのか、と聞き返します。そこから二人の対話が始まります。やりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来ると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水と考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去りました。人目を避ける境遇にあることを忘れてしまいました。それほど人々に知らせないではいられなかったのです。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに弟子たちが食べ物を買って戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注目します。イエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。刈り入れまで4カ月あると言っておきながら、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

イエス様が目を上げて見よと言ったのは実は、畑のことではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言いました。そこで今いる場所よりも高い所にあるシカルの町を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たのです。これは、将来起こることを先取りしています。つまり、イエス様が天に上げられた後で使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出ることです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記録された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ実にたとえられているのです。

イエス様は、自分の食べ物とは神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらには死から復活することで死と罪を滅ぼして人間を罪の支配下から解放することを意味します。この使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように自分にとって大事なことなのだとイエス様は言うのです。

それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで「別の者たちの労苦」が出てきます。「別の者たち」と複数形になっています。つまり労苦とは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いを成し遂げることを意味します。父とみ子の労苦です。それを目撃した弟子たちは、迫害にも屈せず命がけで証言し記録に残して伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。こうして救いを受け取った人たちは豊かに実る実になり、救いを伝えた弟子たちは実を集め刈り取る者であり、救いは父と子の労苦なのです。

3.生きた水 聖霊

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと聞くと、水が動物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えて次に到来する世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」です。

この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉になって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。そもそも泉とは、地下水が地表に湧き出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まると池になりますが、それは泉ではありません。掘らないでも自然のまま地下から水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、溢れ出る水は小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を飲むと、そのような水が絶えず湧き出る泉が飲んだ人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。でも、具体的にはどういうことでしょうか?イエス様の与える水が飲んだ人の中でこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

この問いの答えがヨハネ7章にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。」
(37~39節)

ここで言われている”霊”とは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。これが神の栄光を受けることです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられる出来事があり、それに続いて聖霊がこの世に降るという出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。このようにイエス様が与える水とは実に、十字架と復活の出来事の後でこの世に下って来る聖霊のことなのです。

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が湧き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように「他人のものを妬んだり欲したりしてはいけない」と十戒の中で命じられて、それが神の意思だとわかっているのに、そうしてしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまう。心の奥底まで100%神の意思に沿えることが出来ない自分に気づかされてしまうと。それではどうしたらよいのか?心の奥底まで100%沿えるようにしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていない自分に気づいてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか?

まさにここで洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来るのです。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところを示してくれます。ゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様が向けられるべきところです。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前はそのことを信じたからイエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

こうして聖霊の働きで心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを思い起こし、神の意思に沿うように生きようと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうと。このようにキリスト信仰者は、聖霊のおかげで、絶えず神との結びつきを保つことができ、順境にあっても逆境にあっても神から常に同じ守りと良い導きを得てこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、神との結びつきを持って去ることができ、復活の日が来ると復活させられて神のみ許に永遠に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神と戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。だから、罪の赦しは恵みなのです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立っていられるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。さらに、神との平和な関係をお恵みとして頂いている限り、私たちに降りかかる試練は誇りに思うことができるとまで言います(3節)。どうしてそこまで言えるのか?理由は、一度神との平和な関係に入ったら、試練は忍耐をもたらすものになり、忍耐は鍛えられた心をもたらし、鍛えられた心は希望をもたらすようになるからだ、と言います(3~4節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化してしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛は一寸も変わらないと示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるのです。このことをもっと自覚しましょう。人によっては、究極の希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、と言う人がいるかもしれません。しかし、もし希望がこの世に関するものだけだったら、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望があって、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注1)Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ5章2節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5章1~11節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。

「百万人の福音」吉村牧師の論考が掲載されています。

ちょっと気の早い話ですが..。
今は受難節、聖週金曜日はまだです、復活祭はまだまだです、主の昇天日に至ってはまだ
まだのまだ..。なのに、2月に発売された「百万人の福音」はもう主の復活から昇天まで
を特集しています。その中で気の早いスオミ教会の牧師もイエス様の昇天について何か書
いています。今年の昇天日は5月14日ですが、それまでに5~6月号が出てしまうので、ご
興味ある方は今のうちにお求め下さい(読むのは後の方が宜しいかと)。フィンランドの
ルター派の中の保守的なグループにいるとこういう考え方、教え方をするという一例です

受難節の皆様の歩みの上に父なるみ神から恵みと平安とが豊かにありますように。