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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年8月30日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書16章21~28節
説教題:「イエス、死と復活を予告」
今の時代”人生百年”と言われます。戦後の日本、敗戦直後の物のない時代でも人生五十年、或いは六十年とも言われていましたが今や百歳になる老人が彼方此方です。考えて見ると、自分の人生何年とか自分の未来に何時この世での終わりを迎えるのか誰にも決められないし又自分の運命など何もわからないのです。ところで、今日の聖書で主イエス様は驚くなかれ、これから自分がどういう苦しみの中で死んでゆくのかという事を弟子たちに予告されているのです。
マタイ福音書16章21節から見ますと。「この時からイエスはご自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活する事になっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」これを聞いた弟子たちはもう吃驚です。誰が考えても当然でしょう。弟子たちは自分たちのこれまでの人生を、つまり職業を捨て家族を捨て収入もないこれからどうなってゆくかも分からない自分全てをイエス様に預けて弟子となったのです。全てをかけて頼りにしている主人、師匠がもうすぐエレサムで苦しみを受け殺されると言うのですから決してそんな惨い事があってはならないと大変な驚きともう反発でしょう。イスラエルの民を苦しめている権力者たちと戦って/\死んでしまうんだと言うのとは全く違う。イエス様はどのようにして、誰によって殺されるのかと言う事まで具体的に弟子たちに自分の運命を示されたのです。これまでイエス様を中心に弟子たちがやっている事、民衆の病を癒し考えらえない奇跡の業を起こして神の力神の業を示してゆかれる感動的な神の国の教え。これを見て聞いた大勢の群衆がイエス様について行っている。この大衆の動きを一番恐れて見ているユダヤ教の指導者とローマ帝国の皇帝たちからイエスを殺そうと命を狙っている連中から間もなくエレサムで殺されるんだ!イエス様ご自身がその事を分かって弟子たちに告白し弟子たちに覚悟を決めさせておられるわけです。イエス様のなさっている教えや業が余りにも活動が大きくなりそのうちに民衆の暴動が起こりかねない、といったローマ帝国の権力者たちの恐れと言った事より、もっと/\大事な事が此処で展開されているのです。暴動の社会民衆の動きよりイスラエルの民が長年待ち望んでいた救い主メシアこそがイエス様ではないかという問題です。弟子たちでさえイエス様の姿と活動の全ての中に我らの真の救い主メシアであられると内心期待していた事でしょう。
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今日の聖書の箇所の前のところの16章13節以下のところで「イエスはフィポ・カイサリア地方に行った時、弟子たちに『人々は人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」人々の言っている事を聞いて15節にイエスが言われた「それではあなた方は私を何者のだと言うのか」。シモン・ペテロが「あなたはメシア生ける神の子です」と答えたのです。それに対して20節を見ますと、「それからイエスはご自分がメシアである事を誰にも話さないようにと弟子たちに命じられた。」とあります。そうして今日の聖書でイエス様の運命の予告です。ですから弟子たちも皆んなイエス様こそメシアであられる、とこれからのイスラエルの救いを期待していたところへ、いきなり自分は苦しみを受け殺されるのだと言うのですからペテロをはじめ弟子たちはもう吃驚です。16章22節以下に「するとペテロはイエスを脇へお連れして諫め始めた。『主よとんでもないことです、そんな事があってはなりません。』ペテロはイエス様を「メシア、救い主」と告白したのです。イエス様に予告されてもイエス様の言葉を理解せずイエス様が受難の道に進まれる事を阻止しようとしました。それは主イエス様の道行きがペテロたちが期待したメシアの道とはあまりにもかけ離れたものであったからでありましょう。23節を見ますと、イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神の事を思わず人間の事を思っている。」と。主イエス様はこのように厳しくペテロを叱りつけられています。何故、このような言葉で言われたのか、次の24節以下で言われている「私について来たい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが私のために命を失う者はそれを得る。」と言って、ペテロに対して此処までの言葉を言って叱っておられるのです。「あなたはメシアです」と告白したペテロにそように告白する事も大切な事は確かですが自分の事を誰にも言うなと厳しく戒められた。その意味は主イエス様が更に言われている。「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うのでなければ軽々しくそのような事を口にするな」。このように仰せになっているのです。「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱られたペテロに更に言われる。口先だけの告白でなく人の子であるイエス様の苦難の道を死に至るまでペテロも共にする事をイエス様はペテロに求めておられるのであります。「自分を捨てて、自分の十字架を背負え」と言うのは自分を否定せよ、自分に死ねと言う事であります。パウロの言葉で言えばそれは霊の導きに従って生きる事であります。ガラテヤの信徒への手紙5章22節~25節で次のように言っています。「霊の結ぶ実は愛であり喜び平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。私たちは霊の導きに従って生きるなら霊の導きに従って前進しましょう。」弟子たちの実際の望みはメシアであられるイエス様に苦しみの中にあるユダヤの民を開放してくださる事であったのです。それをイエス様は私と共に苦しみの道に従って来いと説得しておられるのです。私のために命を失う者は永遠の命を得るのだ。26節「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」最も大事なことは27節で言われます。「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るがその時、各々の行いに応じて報いるのである」だから、この世にあっては辛い言葉でも「自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」このことは主イエス様のために、また福音のために命を失うこと、それはイエス様に従うことです。
みんなが牧師になれと言うのではない。キリスト者は皆、主イエス様のため、福音のため、イエス様を証しする事であり人生の究極の目的とする事です。何故、この事をイエス様は私たちに命じられるのでしょうか。それは、この事こそが命を救う事に通じるからであります。この命はもはや単なる自然的生命ではありません。死によっても途絶える事のない新しい命であります。パウロはロマ書6章4節で次のように言っています。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られその死に預かる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。」その新しい命を死に打ち勝って甦り給うた主イエス様が与えて下さるのです。受難の主イエス様に従う者の道は世の目には受難の道でしかありません。しかし、主イエス様のため、福音のために命を捨てる者はそこで新しい命を与えられる事を知らされ驚きと感謝であります。それはまた、主イエス様の十字架の死に根底から支えられている事を知っている人生でもあるのです。
人知ではとうてい測りに知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
老鯉(LaoLi)
<9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。10 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道の書1:9、10。11>
「解剖台上のミシンンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」これは原作C.ボードレール(訳ロートレアモン)の「マルドロールの歌」の詩の一節です。この歌を切っ掛けに美術界に於けるシュールレアリスムの運動が始まりました。私の方は俎板ならぬ手術台の上に乗せられた老いた鯉と大きなモニタリング画面、それと対峙している二人の医師と手元の操作パネル。さらに二本の湾曲したアームが天球儀のように下の装置を覆いかぶさるように据えられています。その真下に老鯉が一匹横たわっています。やがて二本のアームが忙しく動き出したました。一本は縦方向に他の一本は横方向に動きます。それぞれにアームにはセンサーパネルが取り付けられています。突然、天頂からセンサーが私目掛けて急降下してきました。額の数センチ手前でピタリと止まりまたすぐ天頂目掛けて移動して行くと今度は横から滑るように他のアームが伸びて来て私の胸の辺りでピタリと止まりまたすぐに横にスライドして行きます。二本のアームが上下左右に天球儀の表面なぞる様に移動しながら私の胸の辺りを探っていました。やがて全てが止まり静寂の中で二人の医師が何やらぼそぼそと会話しています。思えばこれとよく似た装置がウクライナの戦場でも活躍しています。大きなモニタリングは小さなノートパソコンのサイズに、操作パネルは玩具のコントローラーに医師の代わりに兵士が、センサーパネルはカメラと爆弾を携えたドローンに老鯉の代わりに互いの戦車や兵士です。一方は人の命を救うために、もう一方は殺戮と破壊を目的に。なんと不条理な世界でしょうか。老いた鯉は手術台の上で大人しくなされるままに横たわっていました。会話が終わると再び天球儀が忙しなく動き回りました。暫くしてまた全てが止まって今度は胸の辺りに何か熱い物が注入されたような感じがしました。全てが終わり医師が私の所へきて13本目のステントが所定の位置におさまった事を告げてくれました。13本、凄いですね内訳は脳に8本、首(頸動脈)に1本、冠動脈に4本です。我ながら凄いなと感心していました。冒頭に載せた歌は偶然の出会いに美を感じさせていましたが現代の偶然の出会いに美を感じるでしょうか。ドローンに出会った兵士は死の恐怖を感じますし手術台に横たわった老鯉もまた恐怖を感じていました。(今回は此処まででこの後の集中治療室での修羅場についてはまた機会があればお話したいと思っています。)
サンゴジュ
〈主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 へブル書13:5〉
教会の近くの鶴巻公園にサンゴジュを見つけました。卒業後、憧れの設計事務所に入り初めての住宅の設計を任されました。図面が完成した後でクライアントの奥さんから生垣には何が良いか尋ねられました。咄嗟だったのでまごついていましたらすかさず脇から上司がサンゴジュが宜しいでしょうと言いました。この時初めてサンゴジュの木を知りました葉が大きく密生していますので目隠しにもなるので生垣に適しています。以来、個人的には好みの木ではありませんでしたが久し振りに見たサンゴジュはオレンジ色の実をたわわに実らせていました。今まで見たことのないサンゴジュの姿に改めて興味が湧いてきました。当分、この道を通って教会通いが続きます、サンゴジュとの再会が楽しくなりそうです。
2026年8月23日スオミ教会礼拝説教
マタイによる福音書16章13−20節
説教題 「信仰も教会も宣教も律法ではなく福音」
田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
1、「今日のメッセージ」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
今日の福音書は、信仰は律法ではなく、恵みであり福音であるということ。教会も律法ではなく、恵みであり福音であるということ。そして宣教も律法ではなく、恵みであり福音であることを教えてくれています。
2、「人々はイエスが生ける神の御子キリストと告白できない」
イエス様は弟子たちに尋ねるのです。13節からですが、
「13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。」
「人の子」と言う言葉は、イエス様がご自分を言い表すためによく用いている言葉です。福音書以外ではあまり見られませんが、福音書ではおよそ80回も用いられています。イエス様は真の救い主であり真の人であることを示す言葉でもあります。イエス様はここでご自身について人々はどのように言っているのかをまず尋ねるのです。弟子たちは答えます。14節
「 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 」
世の人々は、イエス様が病気の人々を癒したり、悪霊を追い出したりしたことはよく知っていました。5千人以上の人々を5つのパンと2匹の魚だけで養ったことも知っていました。あるものは直接、それらを見たり聞いたりしたことでしょう。だからこそ人々はイエスのもとに集まってきていましたし、そこでイエス様が語る神の国の福音を聞いたのでした。
しかし群衆の多くの人々は、イエスを真の救い主、神の御子であるとはいいませんでした。彼らにとってはイエス様は、洗礼者ヨハネに並ぶもの、あるいはエリヤやエレミヤなど旧約の偉大な預言者の一人としてしか見ることができませんでした。確かに彼らは偉大な預言者であり尊敬されていました。しかし彼らは神でも救い主でもありませんでした。彼らは皆、私たちと同じ罪人でした。人々のあるものは、ヨハネにせよ旧約の預言者たちにせよ、彼らを神に遣わされた存在として見ていたでしょう。彼らはイエスを見てもそのような存在とは見ていたでしょう。しかし、イエスこそ真の神が約束し指し示してきた真のメシアであると誰も告白できなかったのでした。
3、「弟子たちの告白」
しかしイエス様は弟子たちに問うのです。15-16節
「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
A,「「あなたはメシア、生ける神の子です」の告白は経験や能力の度合いによる?
イエス様は今度は弟子たちに聞くのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 それに対して、弟子のリーダー的な存在であったペテロが答えるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。
弟子以外の人々は、イエスは真の救い主とは答えることができませんでした。しかしペテロは答えることができました。ではなぜペテロはそう答えることができたのでしょうか?それはほんのわずかな期間、イエス様と一緒に歩んできたのでわかってきたからなのでしょうか?そのように徐々に学んできたからなのでしょうか?そしてそれはペテロや弟子たち自身にそのように学ぶ力があり、そのように告白する力があったからなのでしょうか?人の目には確かにそのように見えるかもしれません。何か人間の側で説明できる、時間の長さとそれに関係する理解力など、物理的なものの蓄積が、つまり人間に経験や能力の度合いが高まることによって、このような告白に導いたのだ。そう見えるかもしれませんし、そのように教える説教もあるかもしれません。
B,「人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
しかし、この後、そのことについて、そうではないことをイエス様がはっきりと答えているのです。17節
「 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
イエス様は言うのです。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
「ペテロ、そのわたしを生ける神の子、救い主と告白するその信仰の告白をあなたに現したのは、あなた自身から出たものではないのです。わたしの天の父によるもの、その信仰告白は神があなたに現したものなのだ。」それがイエス様が伝えた真実でした。ペテロも他の弟子たちも、まわりの人々と何ら変わりません。長く過ごした中で、彼らが経験を通して自分たちで理解力を養ってきて自分でその知識に至った、彼らにはそのような力があった、周りの環境や経験がそうさせた、と言うことではないのです。彼らも、天の父によらなければ「あなたはメシア、生ける神の子です」とは決して告白できないのです。確かにペテロの口からその言葉は出ました。そう、信仰の告白は人の口から出てくるものです。その通りです。しかし、そうであっても、その告白は人の力によって現されるものではないとイエス様ははっきりいうのです。事実、弟子以外の周りの人々もイエス様を体験してきたのです。しかしできなかったでしょう。弟子たちも彼らだけではそれと変わらないのです。しかし父なる神が弟子たちに現してくださったからこそ、ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。それが神の前に真実なことなのです。もちろん、共に過ごしてきたことは関係ないと言うことでありません。しかし、それはその共に過ごしてきた時間で、弟子たちが自らの力で学び理解してきたということではありません。「人間ではなく」とある通りに。共に過ごしてきた時間に、イエス様が自らでは悟ることも信じることもできない弟子たちに、そのみ言葉と聖霊を通して働いていたからこそ、この告白に神が導いて神が現したと言う意味で、この共に過ごした時間は意味と価値があったのです。
C,「信仰は神の賜物。行いによらない」
そう、これはパウロが教えていることに一貫しています。エフェソ2章8−9節
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
信仰は、私たち自身から私たちの力で信じるようになったと言うものではないのです。信仰は律法ではないのです。信仰は、恵みとして神から与えられた神の賜物なのです。信仰が神の賜物であり恵みであるからこそ、そして聖書がそう約束しているからこそ、私たちが「信仰によって救われた」と言う時に、それは確かに恵みによって救われたと確信を持っていえるでしょう。もし信仰が自分たちの力で信じなければならない律法であるとするなら、みなさん。救いは人のわざになってしまいますよ?全ては私たちの力、私たちの努力になりますよ?それだと、教会で「救いはキリストの恵みです」と何度教えられても矛盾するのです。信仰は律法ではなく賜物、恵みであり、律法ではなく福音であるからこそ、私たちの救いは神の恵みによるのだと証しできるのです。そのような信仰、そのような信仰告白が、私たち自身からではなく、神が私たちにも恵みとして現してくださっている。これまでも。今日のこの日も。そしてこれからも。素晴らしい事実ではありませんか。まさに私たち自身には起こり得ないことが、私たちに起こっている。これは正しく神の奇跡です。神の奇跡が私たちに正しく起こっているのです。
4、「信仰告白の上に、主の教会を主ご自身が建てる」
そして、イエス様の教えはさらに恵みの上にさらに恵みを伝えています。18節以下
「 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」
イエス様は、わたしは「この岩の上にわたしの教会を建てる」といいます。この岩の上とは、ペテロ一人を指す言葉ではありません。ペテロは確かにリーダー的存在であったかもしれません。そして、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネをとりわけ愛したと、確かにあります。しかし、12人の中でペテロだけ別格の地位を与えたわけではありません。イエス様は12人の使徒を任命し遣わしたのでした。悔い改めず自ら命を絶ったイスカリオテのユダの後にマッテヤが建てられ、その12人を、使徒として遣わし、その使徒たちの上に教会が始まっていきます。ペンテコステの朝、説教をしたのはペテロでしたが、12人が異国の言葉で話しました。そのようにまさに教会と宣教は父なる神、イエス様と聖霊によって、ペテロをはじめとする12人の、神から現された岩のごとき信仰告白の上にはじまっていくのです。
皆さん、私たちの教会と宣教。それは、人のわざではなく、キリストが教会を建てるのです。教会は人の作り出す組織や建物ではなく神の賜物の上に神が建てる神の恵みなのです。ゆえに、その宣教も神の宣教、キリストの宣教であり、キリストの福音の力が全世界に広がっていく神の恵みの現れなのです。なぜならイエス様が、使徒達に現した信仰の告白の上に自ら教会を建てられるとイエス様が言っているからです。
同じように私たちの信仰告白も、私たち人間の力によるものではなく天の父によるものです。読んでいただいた今日の使徒書の箇所、ローマ12章でパウロは確かに「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と言っています。しかしそのところでパウロは「献げる」と言うことを、律法としての信仰のわざとして教えていないでしょう。3節では「わたしに与えられた恵みによって」とあり「各自に与えてくださった信仰」とあるでしょう。そう私たちは応答していきます。信仰によって生きます。しかしその信仰は決して律法ではありません。信仰は自分で掴んだり作り出したり達成したものではない。それはできないのです。聖書が約束する通り、信仰はどこまでも賜物であり恵みであり、信仰は律法ではなく福音なのです。イエス様はその御自身が与えた信仰の上にご自身の教会をイエス様が建てると言われているのです。そしてそれはイザヤでも約束されていることです。今日の旧約聖書のイザヤの言葉。そこで主はイザヤを通して、「あなた方が自分で平安を得なさいとか、自分で荒野を楽園にしなさい」とは決して言っていないでしょう。イザヤ51章3節「主が慰める」と言われる。「主が」荒野を楽園にすると言っているでしょう。主が私たち人間の力によるものではなくどこまでも、「わたしに聞け、耳を傾けよ」と主がその言葉で「主に始まり主がなす」と約束している、だからこそ6節「わたしの救いはとこしえに続きわたしの恵みの業が絶えることはない。」と励ますことができるでしょう。これが教会に約束されていることなのです。その変わらぬ神の恵みと真実があるからこそ、イエス様はそれは黄泉の力も対抗できないと言い、つまりその教会の歩みも、全て主が助け、守り、すべて与えてくださることを伝えているのです。
5、「鍵の権能」
そして、イエス様は教会に「鍵を与える」といいます。権能を与えると言われます。皆さん、教会の福音のわざ、教会が何であり、教会が何のために存在し、教会が何をなすかわかりますか?もちろん、隣人愛も大事なこと。社会で良いわざをしていくこと、困った人を助け、弱った人を力付けることも教会において大事なことです。しかしそれは世の人々や教会以外の様々な団体もするようなことです。しかしクリスチャンの良きわざは、単なる熱心から出る人のわざとは違います。エフェソ2章10節に「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。その言葉の通り、教会の真の良いわざとは、主が与えて下った福音と信仰から溢れ出る主のわざであり、私たちはそのために用いられている存在。主が与える福音によって力を与え、主が私たちを用いて主のわざを行なっているのです。だから、私たちは自分を誇りません。イエス様は
「良いことをしても「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17章10節)
と言っています。そう、真の良いわざは、福音と信仰から溢れ出る神が私たちになさる信仰のわざです。イザヤはさらに切り出された岩、アブラハムとサラを見よといいます。二人はまさに罪人に与えられた信仰とその恵みの歩みの記録であり、その賜物としての信仰のゆえにアブラハムはその信仰を義と認められました。私たちと同じ罪深い人間が、神からの信仰を受けて歩んだ証です。同じように私たちも神から福音を受けるからこそ私たちの信仰からもその福音の証しが溢れ出てくるのです。ではその受ける福音とは何か?それはまさに、ここにある通り、罪の赦しです。教会に与えられた鍵とは、罪の赦しの宣言です。私たちはまさに教会においてイエス様によって罪赦されたからこそ救われた。教会を通してイエス様が私たちを罪から解いてくださった。罪の縄目から。鍵の権能を用いて。洗礼において、説教で、聖餐で、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」とイエス様が言ってくださり、罪の赦しを与えてくださり、それを受けるからこそ私たちは喜んで、この素晴らしい平安を喜びを、神の愛を、罪の赦しを隣人に分かち合い与えたいと出ていくことができます。それは人間の自分中心な愛ではありません。本当の隣人愛となっていきます。その全ての源は私たち自身にはありません。この十字架、この罪の赦しの福音からこそ宣教も隣人愛も溢れ出てくるのです。だからこそイザヤを通して主は「わたしにきけ」と言っているでしょう。パウロも、「神に喜ばれる聖なるいけにえ」と言っています。神が喜ばれる生贄は、前回の通り、砕かれた悔いた心でそのまま福音を受け取る信仰だと学びました。ですから、このローマ12章の言葉は、律法のようで律法ではない。これが可能になるのは、まず福音をそのまま受け取るからこそ、このことは可能になるのです。だからこそパウロは「与えられた恵みによって」と繰り返し述べていることを忘れてはいけません。決して私たちの意志の力とか私たちが搾り出す努力とかでこれをしなさいと言っているのではないのです。どこまでも真の生贄、砕かれた悔いた心で、神の憐れみを、十字架の罪の赦し、福音をそのまま受け取ることから始まります。その信仰、信頼からこそ、この真の礼拝、神が喜ばれること、良いことがわかり、各々が与えれれた賜物に従って、強いられてではない、喜んで、平安のうちに隣人に仕えていくことができ証ししていくことができるのです。それは律法ではなく福音から溢れ出る泉です。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰告白の上にイエス様が建ててくださっている、真の教会の姿であり現実なのです。
今日もイエス様は私たちに変わることなく福音を差し出し、そのまま福音を受けるように、宣言してくれています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。主が用いてくださいます。ぜひ平安のうちに今日もここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2026年8月16日スオミ教会礼拝説教
マタイによる福音書15章21−28節
説教題 「主の手から溢れる憐れみを受ける幸い」
1、「はじめに」
今日の福音書は、主イエス様の憐れみと恵みは溢れ出るほど大きく、私たちはそのイエス様からの恵みをそのまま受け取るだけでいい、その信仰の素晴らしさを教えてくれています。
この15章は、イエス様のところにやってきたファリサイ派との議論から始まっています。ファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちが、習わしとして清めのために食事の前に手を洗わないのはなぜかとイエス様を問い詰めます。それに対して、イエス様はファリサイ派に、神様は十戒で「父と母を敬え」と教えているのに、あなた方教師は自分たちで勝手に解釈した慣習を作り出し、結果として父と母を敬わないことを人々にさせているのではないかと、彼らの矛盾を指摘するのです。イエス様は彼らを偽善者とさえ呼び、そして、旧約のイザヤの預言を引用して、「8『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」と言ったのでした。それはファリサイ派の人を躓かせ反感を抱かせたのでした。そんな出来事の後です。21節、こう始まっています。
2、「カナン人の女の叫び」
「21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」
イエス様は「ティルスとシドンの地方に」行かれたとあります。ティルスとシドンの地方は、現在のイスラエル北部からレバノンの沿岸地域にあたります。そこでの出来事です。22節こう続いています。
「22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。」
カナン人は、かつてその偶像礼拝ゆえに神の怒りをかって裁きを受けた人々です。イスラエル人から見ると異邦人です。そんな異邦人の女が出てきてイエス様に助けを求めます。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」
ダビデの子、それは約束の救い主、メシアの呼び名でした。この異邦人であるカナンの女はイエス様のことを聞いていたのでしょう。そしてイエスが約束された救い主であることを信じていました。そして叫びます。「憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と。イエス様に縋るのでした。何より彼女は「憐んでください」と言います。彼女は自分がダビデの子である救い主イエス様から、憐みを受けなければならないような存在であることを知っているのです。カナン人の歴史、神に背き偶像礼拝に走り、神の怒りを受けた、罪深い民であることを知っているのです。彼女はそのように自分は卑しい罪深い存在であることを認めているのです。しかし彼女はイエス様はキリストであると信じていました。キリストは憐れんでくださるお方であると。
その信仰がまずこの言葉に見ることができるでしょう。しかしです。23節
「23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」
まずイエス様は彼女に答えません。彼女は叫び続けます。弟子たちはそれを見て彼女を追い払うようにお願いします。イエス様はそこで口を開きます。
3、「この時の目的と宣教全体の計画」
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
イエス様は何て冷たいんだと思うでしょうか。確かにそう見えます。しかしこの言葉はある意味事実です。イエス様は最初はイスラエルの人々へと神の国の福音を伝えていました。しかし、この事実もこのイエス様の言葉も決してイエスが世に来られた究極の目的ではありません。この時点でのイエス様の使命でした。しかしそれはイエス様の宣教や計画の全体ではなく一部分、あるいはある段階での使命、目的であったと言えるでしょう。なぜなら、イエス様の誕生を祝った、東方の賢者たちは異邦人であり異教の民であったでしょう。しかし神は、そんな彼らを星を用いて導き、そして礼拝者として受け入れることが神の計画でした。そして、事実、イエス様はイスラエルだけでなく、ローマ人、そして世のすべての人々のために十字架にかかって死なれるでしょう。それだけではない、イエス様は天にあげられる前にこう言っています。マタイ28章19−20節
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
イエス様の宣教の究極は、すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて弟子とすることでした。それはルカによる福音書と使徒の働きにも一致しています。イエス様は、約束の聖霊を受ける時に、クリスチャンは地の果てまでキリストの証人となると約束しました。その通り、聖霊を受けた時に、使徒達は様々な国の言葉で話だしペテロの最初の説教で宣教は始まって行きます。そしてイエス様の約束した通り、教会は散らされますが、その散らされたクリスチャンによって、エチオピアの宦官が洗礼を受けます。ローマ人将校コルネリオのもとにペテロは遣わされコルネリオと家族は洗礼を受けるでしょう。そして更なる人の思いを遥かに超えた神様の計画は、キリストを迫害するものの頭であったパウロを異邦人へと遣わすとイエス様ご自身が召し出して遣わしているのです。ですから、イエス様の救いの計画、福音の宣教の真の目的は、イスラエルだけではない、全世界の人々への宣教であり救いなのです。しかし、マルコの福音書の並行箇所であるマルコ7章27節を見ると「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」と「まず」と、ありますように、この時は、まだイスラエルへ向けて語る時であったと言うことなのです。
それでも彼女は、そんなことはわからないでしょうから、突き放されたように思って当然でしょう。けれども、25節です。
「25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」
彼女は諦めません。引き下がりません。イエス様に求めます。イエス様の憐れみを彼女は信じるのです。しかしです。イエス様はそれでもこう答えます。
「 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 」
イエス様は、このカナン人の彼女を「子犬」に例えているように聞こえます。それは侮辱的な言葉とも言われたりしますが、あるいは、これは諺のような言葉であるため、必ずしも彼女を指して「子犬」と言っているのではないとも言われています。その真偽はイエス様にしかわかりませんが、いずれにしても彼女にとってはなおも突き放す言葉なのです。しかし彼女はそんなイエス様の言葉にこう答えるのです。
4、「カナン人の女が見ていた自分と神の憐れみ」
「27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
これに対してイエス様は言うのです。
「28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。」
イエス様は彼女の言葉を聞き、その信仰を「立派だ」と賞賛されました。では、そのイエス様が賞賛された彼女の信仰とは、いったい、どんな信仰でしょうか?ある人々は、これは主への謙遜が教えられており、私たちが主へいつでも謙遜を表すことが信仰なんだと解釈して教えます。しかし、これは私たちへ求められている単なる謙遜の勧めなのでしょうか?その謙遜の態度をイエス様は「立派だ」と言ったのでしょうか?ここでは「この彼女の謙った態度は素晴らしい、謙りなさい、謙遜になりなさい」と言う道徳を教えているのでしょうか?つまり、それは謙遜を求めるという私たちへの律法です。そのように、ここでは、そのような謙遜であるべき、謙遜になるべきという律法の信仰を教えているのでしょうか。
みなさん、このイエス様の賞賛する信仰、ここで教えられていることは、決して私たちへの単なる謙遜の勧めや律法ではないでしょう。イエス様の賞賛は、彼女のどこまでもダビデの子の憐れみに縋りたい思い、「主よ、カナン人の私ですが、神の怒りを受けた民の末裔ですが、こんな罪深い私ですが、主よ、どうか私を、娘を、憐んでください。」その思いです。彼女は実に「食卓から落ちるパン屑」でも受けたいと言います。つまり、聖書に約束されている通りに、その救い主は憐れみの神であり、その憐れみはこぼれ落ちるほどあることを彼女は見ているでしょう。「ダビデの子、憐れみの救い主はこんな異邦人の神の怒りであった民さえも憐んでくださる。いや、どうか憐んでください。その子供へ現された溢れるばかりの憐れみからこぼれ落ちるわずかなパン屑の如きわずかな憐れみでさえも欲しい。そのこぼれ落ちる恵み、憐れみでも娘は助かる、それでもイエス様の憐れみを喜んで受ける」、そんな彼女の信仰ではないでしょうか。
5、「真の謙った心」
しかし、みなさん「主よ憐んでください」の信仰は、それはもちろん、謙った心があるからこその言葉です。しかし、聖書では、その謙りは、私たちが神の憐れみを受けるために、その前に、自分たちで絞り出し、作り出さなければならないような心としては書かれていないでしょう。いやむしろ神の前では私たち人間は自分たちで謙った心、そして悔い改めは自ら作り出すことはできないものです。つまり、やはり、憐れみを受けるために、その前に、何かしなければいけない律法を要求されているのではないと言うことです。
今日の旧約のイザヤ56章6−7節の言葉にこうありました。
「6また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」
主はイザヤの時代からすでに異邦人への憐れみと救いを計画し約束していました。そして、その約束は「わたしの契約を固く守るなら」とあります。それはただ「神の律法を守るなら」と言うことではないでしょう。神はむしろ私たちが律法を守れないからこそ救い主キリストを真の人として送ると計画し約束してくださったでしょう。ですから「契約」、つまり、神様から異邦人を含めての人類への約束を守るなら、つまり福音ではありませんか。その福音を守る、つまり、その約束をしっかりと受けて賜物としての信仰に生きることです。そうすれば異邦人も皆、主の家の喜びの祝宴に連なるのだという意味です。ですからこのイザヤの約束は律法の要求ではなく福音を約束しているでしょう。では7節の後半はどうなんだと思うでしょう。
「彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。」
これは「生贄を捧げろ」と、律法ではないか、そう思うでしょう。しかしイザヤ書を見ると主は真の生贄、真の捧げ物についてこう言っています。57章15節
「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
66章2節にもこうあります。
「これらはすべて、わたしの手が造りこれらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」
そして詩篇でもはっきりとこうあります。51篇19節
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」
これはダビデがバト・シェバとの罪を犯した時に、預言者ナタンを通しての神の言葉によって罪に気付かされ打ちのめされた時の詩篇です。それはダビデが、自分が罪を犯している時に、預言者ナタンを通して神の言葉を受ける前に、自分で罪に気付いて謙った、悔い改めた、というその言葉ではありません。まさに罪に浮かれその最中にいるときに、神がナタンを遣わし、律法のみ言葉を与えた、そのみ言葉を通してこそ罪を知らされ、この言葉に導かれています。
このように、主に喜ばれる、主への真の生贄は、打ち砕かれた悔いた謙った心です。しかしそれは決して私たちは自ら搾り出すことはできません。私たちは自分が神の前に罪人であることも知らないし、気付かさないし、認めることもできません。しかし神がみ言葉を通して、律法の言葉を通して示してくださるからこそ知ることができ、悔い改めに導かれます。打ち砕かれた悔いた心は、神のみ言葉と聖霊のわざです。神のみ言葉が私たちに語り、私たちは悔い改めのために導かれるのです。
6、「悔い改めに導かれるからこそ十字架は救いの光となる」
確かに、そのように、私たちが聖書を通して罪を知らされるのは、神の厳しい語りかけではあるのです。その時は確かに打ちのめされます。ペンテコステの日の朝のペテロの説教を聞いた群衆が経験したように、心が刺し通されるようなものです。
しかし、だからこそです。このようにただ神の前に、悔いた砕かられた心に導かれ、自分は神の前にただ罪深い存在、その罪の前に何もなすことのできない、救いのために、何も持てるものではない何もできない自分であることを知るからこそ、「神よ、憐んでください」と、その思いが心から出てくるでしょう。悔いた砕かれた心に導かれるからこそ、その心への溢れ溢れるばかりの神の憐れみがわかるのです。
私たちへの福音は、十字架のキリストです。その十字架のキリストとそのキリストの義のゆえに、罪が赦される事、キリストがこの十字架と復活のゆえに、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と罪の赦しを与えてくださり平安のうちに遣わしてくださる、それこそいつまでも変わることのない私たちへのプレゼント、それが福音です。しかしその十字架の真の意味、そこにある神の愛、そして、与えられる罪の赦しも、私たちが神の前にどんな存在かを知らなければ決してわかりません。そう神の前にどこまでも罪深い存在、ただただ憐れみを受けなければいけない存在である、そのことです。しかし神がみ言葉を通して、心を砕き悔いた心を与えてくださるからこそ、私たちは心から「主よ憐んでください」と求めることができる。そしてそのイエス様の手から溢れるばかりに、こぼれ落ちる、いや、今や主から一人一人の手に与えてくださる、わずかなこぼれ落ちるものではないイエス様が一人一人に差し出してくださっているその福音の恵みを感謝と喜びを持って受け取ることができる。そしてそこにこそイエス様の救いを見て、私たちはここから安心して出ていくことができるのではないでしょうか?今日のみ言葉が語ってくださっている私たちへのメッセージです。
今日もイエス様は変わることなくこう宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひその福音、そして聖餐をそのまま空っぽの手に受け取り、安心してここから遣わされていきましょう。
臭木(kusagi)
〈43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。 44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。ルカ6:43,44 〉
散歩道の途中の藪の手前に白い小さな花をいっぱいつけた木があります。時々立ち止まって観察しています、近寄って花の香りを嗅いだら香水の香りによく似た香りでジャスミンの香りでした。調べてみたら「臭木(くさぎ)」と言う木でした。藪の所に最初に侵入する先駆植物です、この木も藪の先端に生えていました。花が終わると丸い小さな黒い実をつけます、根元の赤いガクと黒い実のコントラストは鳥たちの格好の餌のシグナルとなって多くの鳥たちがやって来ます。秋の林を歩くとこの実によく似たゴンズイと言う木を見かけます。樹木も子孫を残すために色々な工夫を凝らしていますね。ところで、木の名前の「臭木」は枝や葉を傷つけると強い不快な臭気を発することからつけられたようです。
2026年8月9日 礼拝説教
マタイによる福音書14章22−33節
「主イエスの恵みのうちに遣わされる幸い」
1、「遣わされるとは?律法か?」
今日の福音書では、イエス様は弟子たちだけで彼らを船に乗せ遣わします。それは弟子たちにとって弱さと恐れを覚えた派遣でもありました。今日の第二に聖書朗読ローマ10章15節でパウロは、「良い知らせ、福音を伝えるもの」、つまり、説教者、牧師、宣教師の「その足はなんと美しいことか」とイザヤ書52章7節の言葉を正しく解釈して引用して伝えています。またそれはただ説教者だけではなく、使徒の働きの1章、天に昇られる前にイエス様が「あなた方は地の果てまでわたしの証人」となりますと言われたように、キリストの証人として救われ、召命を与えられたクリスチャン一人一人のことでもあります。クリスチャンは皆、キリストを証しするために遣わされている一人一人であり、キリストを証しするクリスチャン一人一人の「その足もなんと美しいことか」とパウロは示してくれています。
私たちは牧師であってもそうでなくても、皆、イエス様によって召され、イエス様によって世に遣わされています。私であれば牧師、説教者として、そして全てのクリスチャンはキリストの証し人としてです。
しかし皆さん。その「派遣」、遣わされれるということ。それは律法でしょうか?どうでしょう?「あなた方は遣わされています」という時、皆さん、どう感じますか?何かを自分たちだけで達成しなけれなならないと、重荷だと感じるでしょうか?何もできないと感じるでしょうか?あるいは、私には無理だと感じるでしょうか?
今日の福音書。最初、イエス様は弟子たちだけで船に乗せ行かせています。弟子たちだけで遣わしました。しかしここを見ていくときに、イエス様は決して弟子たちを一人にしないということ、そしてその派遣は決して律法ではない。むしろ彼らはいつでもイエス様に思われ、祈られ、そしてイエス様が共にいて、イエス様が彼らを助け、導き、そして、イエス様がその航海、歩み、働きをなしてくださる。遣わされる、ということは、決して律法ではない、そのように「遣わされる」とは、どこまでもイエス様の恵みのうちにある福音なんだということを教えてくれているのです。22節、こう始まっています。
2、「弟子たちだけ、強いて」
「22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 」
イエス様は弟子たちだけで船に乗せ向こう岸へと行かせます。しかも「強いて」です。そこに偶然ではないイエス様の意図が思わされるのですが、それは、一人、山に登り祈るためでした。イエス様はしばしばこのように山に登り一人で祈ってきました。それは、ご自身が人となられたその目的である、ご自分がかけられる十字架への備えであったことでしょう。しかしそれだけではありません。そのイエス様の十字架と復活は、全ての人々の贖いとなるためであり、救いの約束の実現のためでした。そしてその救いは、やがて遣わされる使徒達の信仰告白の上に建てられる教会で、福音の説教と洗礼と聖餐を通して全ての人々へ与えられるものです。ですから、イエス様の祈りはまさに教会と宣教のための備えでもあったでしょう。二週先にマタイ16章で見て行きますが、イエス様はすでに罪の赦しの宣教が使徒達の信仰告白の上に立つ教会から始まることを約束しています。そして、ヨハネ17章のイエス様が十字架にかけられる直前の祈りからもわかるように、まさに、イエス様が一人で祈る時の祈りは、使徒たちのため、教会のため、そして全ての弟子たち、キリストの証人であるクリスチャン一人一人のために祈ってくださっていたことを窺い知ることができるのです。
ですから、この場面、強いて船に乗せ弟子たちだけで遣わしているようには見えます。確かに目に見える現象的にはそうでしょう。しかし、イエス様は弟子たちのために祈るために一人で山に登ったのですから、決して弟子たちのことを見捨てたのではない、忘れたのでもない、軽んじているのでもないのです。ひと時、見えなくなっても、イエス様の思いと祈りの中に弟子たちはしっかりとあるのだということを忘れてはいけません。
3、「イエス様の目的」
そして、この弟子だけで遣わすことには、さらなる意味があるでしょう。24節こう続いています。
「24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」
弟子たちは逆風、ヨハネの福音書の6章を見ると「強風」ともありますが、その風ゆえの波、大きな波に悩まされていました。行きあぐねていたのです。しかも夜です。周りは真っ暗で強い風と大きな波です。進むのは非常に困難であったでしょう。もう岸から離れているので戻ることも簡単ではないことでしょう。そして、弟子たちの中には漁師もいました。船の漕ぎ方は知っているとはいえ、自然の恐ろしさも漁師だからこそよく知っていたでしょう。風と波で、漁師でさえも進むことができない。皆、怖かったのではないでしょうか?漁師ゆえの経験や理屈を頭から振り絞っても、まさに「悩まされ」るしかない状況がわかるのです。
ここにイエス様が彼らだけで行かせたのは祈るためだけではないことを窺い知ることができます。この後の出来事からもわかりますが、イエス様は彼らが弟子たちだけでこの波と風が強い状況でも向こう岸まで渡ることを達成しなさい、成し遂げなさいと、送り出し遣わしているのではないでしょう。イエス様はむしろ船に長けた漁師たちでも悩むほどの風と波を知っていたことでしょう。そしてこの今日の出来事でのイエス様の目的は何ですか?それは、33節にこうあります。
「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」
とあります。そう、まさにイエス様はこの日、この時、弟子たちだけで何かイエス様の命令を成し遂げることを望んでいるのではないでしょう。イエス様の目的は、弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」とイエス様を崇めること、イエス様をこそ信じ、信頼し、求めるように、そのイエスこそキリストであるという信仰をますます強めることです。ですから、わかるのです。弟子たちだけで行かせたのは、まさに彼らだけではできない、イエス様なしには、イエス様の御心や計画を前に、どこまでも不完全であり、時に悩み、時に恐れ、時に壁にぶつかる、そして時に無力さを覚える。時に不信仰になる、その現実、神の前での自分たちの罪深い現実と何もできないことを知るようにさせることにあるのではありませんか?その弱さや不完全さを知るからこそ私たちは「イエス様、憐んでください、助けてください」と求めるでしょう。それが「本当に、あなたは神の子です」という告白へとつながります。自分の罪深さを知ることなく、「イエス様、罪深い私を憐んでください、罪を赦してくてください」とはなりません。そのこと無くして、十字架の本当の意味も、十字架に現された神の愛もわかりません。しかし自分の罪深さを知るからこそ十字架の救いはわかり「本当に、あなたは神の子です」になるのです。そう、そのための導きなのです。
4、「イエスは安心させるために」
ですから、イエス様は決して弟子たちを忘れてはいません。そのように風と波に何もできない弟子たちのところにイエス様は不思議なしるしを現しながら、来られるのです。
「25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」
イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られたのは、まさにご自身こそ真の神であり救い主であることを示すための一つのしるしですね。しかし、暗闇の中に突然現れたイエス様に、彼らは亡霊だと思い、恐怖と叫び声を上げたのでした。「悩み」というのが軽いものではない、追い詰められた心の様が現れているような反応です。しかし幸いです。イエス様は決して悩ませ、恐れさせようとして弟子たちのところにやってきたのではないでしょう。そして、そんな弟子たちに「あなた方は自分たちで何もできないではないか、役割を果たせないではないか、向こう岸へ渡りきれなかったではないか」と言わないのです。もし弟子たちだけで行かせたことが、彼らが彼らだけで達成しなければいけない律法として行かせたのであるなら、イエス様は「ダメじゃないか、達成できないじゃないか」と叱り責めることでしょう。しかしどうでしょうか。イエス様を見てください、イエス様の声を聞いてください。27節
「 27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
イエス様は弟子たちに会った時、「向こう岸まで渡りきらないからダメだ、役目を達成できないからダメだ」とは言わない。恐れていることも「恐れていてダメじゃないか」とも言わないですね。はっきりと書いています。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
感謝ではありませんか。ここにイエス様の彼らへのメッセージがあります。弟子たちだけは無力です。遣わされても自分たちでは達成できません。色々なことに悩まされます。恐れます。弟子たちは不完全で罪深い一人一人です。それは使徒の時代も決して変わりません。しかし、そんな弟子たち、使徒達を派遣した方の遣わされた一人一人への変わらない言葉がここにあります。
イエス様はなぜ世にこられましたか。安心させるためです。ヨハネ3章17節にある通り、私たちの罪を責めるためではありません。裁くためではありません。私たちに律法で重荷を負わせ何かを達成させるためでもありません。罪を赦すため。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と安心を与え、その平安のうちに「行きなさい」と遣わすためです。それはエリヤの時代も変わりません。エリヤも遣わされました。しかしエリヤでさえも弱さで打ちひしがれました。そして列王記上19章10節、14節と2度も
「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
と繰り返し叫ぶほどです。しかし主はそんなエリヤをさらに鞭打って果たせとは言わないでしょう。「エリヤ、あなたではない。わたしがする」と、主ご自身が全て計画し果たすと約束を与え遣わすでしょう。そしてその通りに主はなされるのです。パウロも「良い知らせを伝えるものの足は美しい」と確かに言います。しかし、パウロはその前後、伝えるため証しするために派遣はしても、口に信仰告白を与え救いを与えるのは神の言葉だ、キリストの言葉に聞く事だと、み言葉の力、神の力、神がなすものだととパウロは言っているではありませんか。その「良い知らせを伝えるものの足は」、神のなす神の宣教(missio Dei)のために神が召し神が用いているだけであり、成すのは神だと言っているのです。派遣は決して律法ではない、宣教も決して律法ではない、派遣も福音、恵みであり、宣教も福音なのです。
5、「ペテロが成すのではない、主と主の言葉がなす」
この後のペテロのエピソードは象徴的です。28節から
「28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」
ペテロの28節の言葉は見ようによっては敬虔な言葉に見えます。熱心な言葉でもあります。イエス様がいれば自分でもできるだろう。信仰的にも見えます。しかし、半分は、自分がなそう、自分にもできるという意志もそこにはあるでしょう。なぜなら、イエス様の「きなさい」という言葉がペテロをも事実、湖の上を歩かせるのですが、まさに周りの強い風、沈みかけたという現実に、イエス様の言葉への信頼ではなく自分でできるかどうかと意思や感情が心を支配するでしょう。それによって沈みかけるのです。そう湖の上を歩くのは、彼の熱心さや彼から出る敬虔さ、意思の強さや情熱ではないのです。彼自身の力ではありません。それをなさせるのはイエス様の言葉でした。しかし、まさに自分の何かに頼ることへの不安と恐れの中で、自分の意思や熱心さや情熱や行いの無力さ不完全さを知るからこそ、ペテロから「主よ、助けてください」の言葉が出てくるのです。そう、イエス様が望んでいるのは、「私は湖の上を渡りきりました。あなたのように歩きました。」という自信ではないのです。イエス様による派遣に必要なのは、自信ではないのです。神の前に弱さ、無力さ、罪深さ、恐れる自分、不完全な自分、何もできない自分を、むしろ認めることです。砕かれた心で悔い改めることです。それこそ神は喜ばれるとも聖書にはあるでしょう。その心で「主よ助けてください」「主よ憐んでください」と叫び、主イエス様にすがり頼り求める信仰です。そのような「主よ助けてください」「主よ憐んでください」こそ何よりも敬虔な言葉、叫び、信仰の告白だとも言えるでしょう。そしてイエス様はその恵みによってご自身の真の目的である信仰と賛美にこそ彼らを導かれているではありませんか。33節
6、「結び:派遣」
今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を語り目にみえる福音を与え、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様が私たち一人一人に差し出してくださっている福音をそのまま受け取り、平安のうちに遣わされて行きましょう。
ホルトの木
〈わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。ヤコブの手紙3:12〉
近くの商店街の入り口に何の木か分からずに見過ごしていた木があります、近くに多くのクスノキがあるのでそれの仲間と思っていたのかも知れません。過日、朝の散歩でその木に不思議な花が咲いているのを見つけました。長年見ていましたが花を見たのはこれが初めてでした、家内も余程珍しかったのか一輪採ってきました。調べてみたら”ホルトの木”でした。ホルトとは江戸時代にポルトガルの事をホルトと呼んでいました。平賀源内がこの木をポルトガルのオリーブの木と間違えて名付けたようです。確かに実はオリーブの実に似ていますが全く別種で日本の在来種の木です。何時も何気なく見過ごしていた木が源内先生のミスリードの木だったとは、つゆ知らずでこれも灯台下暗しでした。