ニュースブログ

2025年10月26日(日)聖霊降臨後第20主日 礼拝

司式 吉村博明 牧師 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団) 聖書日課 エレミヤ14章7~10、19~22節、第二テモテ4章6~8、16~18節、ルカ18章9~14節 説教題 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 讃美歌 121、240、122、259、450 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

イエス様が十字架にかけられたことで、あなたの大いなる愛が示されました。どうか私たちが、あなたから愛と恵みをいつも注がれていることを忘れず、あなたを信頼してこの世の人生を歩めるようにして下さい。そして、復活の日に御国の栄光を仰ぎ見る希望が萎えてしまわないように私たちを支え導いて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。  アーメン

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1016日の日課から

「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」 (詩篇141節)

「これが自然な状態の人間とその理性の言い草だ。それらは、目で見ること耳で聞くこと感覚で感じることを超えることができない。見たり聞いたり感じることができないと、すぐ次のように言って神を否定してしまう。『ここには神はいない、何かいるとしたらそれは悪魔だろう。』 これが高等教育機関が照らし出す光である。本当は、それらは人間を創造主の神のもとに導くことをしなければならないのに、地獄の底に沈めてしまうことをするのだ。人間の自然な状態の光と神の恵みの光は決して一つにはなれない。

自然な状態の人間は見て聞いて感じてわかろうとし、信じる前に確信を得ようとする。ところが、神の恵みは見て聞いて感じる前に信じるように導く。それゆえ、自然な状態は自分の光が届く範囲から出て行くことができない。これに対して神の恵みは暗闇の中に導いていく。しかし、神の御言葉の後について来なさいと言って導いてくれるので、周りがどう不安を掻き立てるものに見えようがそんなことにお構いなく、大丈夫だという気持ちで導きについて行けるのである。このように神の恵みは御言葉と固く結ばれ、それなしにはあり得ない。自然な状態がそれを偽りだと言っても、そうなのだ。まさに信仰が信仰たるゆえんは、神の御言葉にのみしがみつくことにおいてである。目には見えなくとも御言葉が約束しているものならばしがみつく、それが信仰である。しかしながら、同時に信仰は御言葉を台無しにしようとするものにも多く直面する。それらは、御言葉の約束が無効で空虚だと思わせようとするのだ。

人間の自然な状態が愚かなものと呼んで避けようとするものを信仰は正しい道と呼ぶ。信仰は、自然な状態が自分を賢いものと思うなら勝手に思わせ、その目に愚か者に映るなら喜んでそれで構わないとし、それが踏み込めないところに堂々と入っていく。そのようにして信仰はキリストのもとに到達して彼を見いだすのだ。」(以上ルターの説き明かし)

これぞ、ルターの「御言葉の神学」!

 

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スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回は10月29日(水)10時~13時に開催します。

フィンランド風の刺繍を作ってみませんか。

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次の手芸クラブは、前回に続いて刺繡はフィンランド風の刺繡をします。

刺繡はフィンランドでは何世紀にもわたって親しまれている手芸の一つです。今でも多くの人気があります。小さなクロスステッチで作った花などの模様は服やインテリアに可愛らしい趣きを増やします。

今度もクロステージのテクニックを使います。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

参加費: 1000円

shugeikurabu手芸クラブではその他にも自分の好きな手芸を行っても宜しいです。

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み  moc.l1761497052iamg@1761497052arumi1761497052hsoy.1761497052iviap1761497052
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

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歳時記

金木犀(Kin mokusei)

<また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 エフィソ5:2>

春の駿河台匂いと秋の金木犀とは何れ劣らず馥郁たる香りを楽しませてくれます。教会の行き帰りの途中に大きな二本の金木犀の木があります、過日その前を通りましたら金色の花が零れんばかりに咲いていました。車を停めてもらい窓を開けると金木犀の香りが車内いっぱいに広がりました。

(裏山の 径(みち)をのぼりて 木犀の 香を嗅ぐころぞ 秋はれわたる― 斎藤茂吉)

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牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1013日の日課から

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7章3節)

「もし君が寝ぼけてさえいなければ、他の者に君ほどの多くの罪があることを見ることはないだろう。それでも君は他の者を見ると、多くの罪、例えば1年分ないし2年分の罪が見えると言うのか。君自身には2年どころか一生分の罪があることが見えないのか。とりわけ、他の人たちに知られていないあの恥ずべき数々の所業を。さらに忘れてならないことは、もし隣人に何か悪いものが見えたとしても、それでその人を拒絶してはならないということだ。そうではなくて、その人の良い面にも目を向け、君が神から頂いた賜物をもってその人が悪いものから離れられるように助け、その人の罪が公けに広まらないようにし、全てが神の御心に適うようになることがその人にとって最善のものになるというようにしていかなければならない。

もし君が世界で一番敬虔な者だとしても、他の者を断罪する時に君は世界で最悪な者になる。君が神から賜物を与えられたのは、自己満足のために消費するためではない。隣人が君の賜物を必要としていることに気づいたら、それで助けてあげるためなのだ。君の持てる力でその人の弱さを背負ってあげ、君の敬虔さと名誉をもってその人を飾ってあげ、その罪と恥を公けにならないように覆ってあげるのだ。これこそ、まさしく神がキリストを通して君にしてくれたことであり、今もなお毎日してくれているのだ。もしこのように行わず他の者を見下すならば、君はその人の目に塵を見つけて満足し、神のみ前では目に材木を入れている者なのだ。」(以上ルターの説き明かし)

重い罪を犯した女性を石打ちの死刑にしようとした指導者たちに対して主イエス様が言われた言葉 「あたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ヨハネ8章7節

この言葉を聞いて指導者たちが一人また一人と立ち去った後、刑を免れた女性に対して主が言われた言葉 「わたしもあなたを断罪しない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 同11節

(注 ギリシャ語の動詞カタクリノーは「罪に定める」よりも「断罪する」が良いと思います。)

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歳時記

トマト

<5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。6  種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。  詩編126:5・6> 

近くと言っても車で5,6分ほど下った先の畑を覗いたら井手さんが笑顔で迎えてくれました。家内と早速お喋りが始まりました、私はそのまま奥の畑を散策していましたら取り入れを忘れられたのでしょうか、トマトが所在なげにぶら下がっていました。その向こうに井手さんと私たちが住む日向山が雲をまとってのんびり横たわっていました。

2025年10月19日(日)聖霊降臨後第19主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン              2025年10月19日(日)スオミ教会 

聖書:ルカ福音書18章1~8節

説教題:「気を落とさず、絶えず祈れ」

今日の聖書は「寡婦と裁判官」の譬えです。読んだだけで分かり易い譬え話です。イエス様はこの譬え話で何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカは18章1節に、この譬え話の教えを次のようにはっきり書いています。「『イエスは気を落とさずに、絶えず祈らなければならない』この事を教えるために弟子たちに譬えの話をされた。」イエス様は弟子たちに、気を落とさず絶えず祈りなさい、と言っておられるのです。弟子たちはこれから先イエス様がおられなくても福音を宣べ伝えて行かねばならない。この大切な使命を生涯をかけて果たして行くのに多くの困難がある。その苦難と迫害と戦い耐えて行かねばならない。そうした中で「神様に向かって、絶えず祈れ」と教えておられるのです。「絶えず祈る」というこの繰り返し、繰り返し、へこたれず忍耐して続けて訴えて行け、祈れという意味が込められているわけです。そこでイエス様は具体的にもっと詳しくわかるために、此処に「寡婦と裁判官」の話を譬えて語られたのであります。

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2節から見ますと「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官げいた。ところが、その街に一人の寡婦がいて裁判官のところに来ては『相手を裁いて私を守ってください。』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権利を持っています。政治をする為政者もまた権力を持っていて、権力を持つとその力をひけびらかして自分の力でどうにでもなる、という誇りや高慢になります。そして差別や偏見の目を持って不正な事も平気でやってしまいます。この譬えの裁判官もそうとう悪(わる)のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。また、この裁判官は「人を人とも思わない」のです。そこには人間らしい情けや優しい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重といった感覚は全くゼロに等しいのです。しかも、そういう人が権力を持ちこの街を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定を下す役なのです。旧約聖書、申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは裁きを曲げてはなりません、人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし正しい者の事件を曲げるからです。ただ、広義のみを求めなけなればなりません。」以上ですがこれが正しい裁判官、また政治をする人の在り方です。更にパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。「彼は善を行うために立てられた神の僕です。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」これが理想的な裁判官、また政治家のあり方です。しかし、理想であって現実のこの世では権力をわが物にして自分の力を過信して行く、遂に恐ろしい程の人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない高慢な我儘で正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない、自分のために固着するしかない。権力は民衆を忘れ、神を忘れ自己達成を目指す、そしてやがて腐敗を始めます。権力の上には神がおられ、神の支配の下でないと崩壊します。何時の時代でも戦争で多くの命が踏みにじられて悲惨な世の中はあるのです。現在でも世界で独裁者が権力を奮っています。これが現実の私たちの生きてゆる世界です。毎日、建物が破壊され人が傷つき死んでいます。

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さて、譬え話ではその町に寡婦がいて裁判官のもとへ行って「私の訴訟相手を裁いて私を守ってください。」と言っています。この寡婦の姿は無力な私たちの姿のようです。この寡婦は賄賂を使う金もない、全くの無力です。誰かを頼む伝手もない、誰も助けてくれそうもない全くの無力です。それに、いま彼女は訴えられています、被告になっています。寡婦の彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。ただひとつ正義の神様がいます。このお方が必ず正しい事をして下さる。彼女にこの信念があります。パウロはコリントの第二の手紙12章9節でこう書いています。「私は力の弱いところに完全に現れる」。神様は全てをご存じです。神様は決して見捨てられない。しかし、いま彼女の状態は決してあるべき姿ではない。主の祈りで私たちは祈ります。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と。彼女は、ただこの祈りをもって悪い裁判官に立ち向かいます。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きてはゆけないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。如何なる権力にもひるまず訴えてゆく根底には実にその事が自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけででは生命の問題とならないのです。裁判官は長い事彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。この純真な要求は聴き入れられない。いく度も、いく度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もしこの要求が生命の問題にまでなっていなかったら途中で諦めるか自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官は何故聴き入れられようとしないのか。それは「神を畏れず。また人を人とも思わない」からです。正義の感覚など微塵も持ち合わせていないからです。この裁判官がついに聴き入れるのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけで悪魔に対抗する事は出来ません。悪魔は何時ももっと巧みな理論を用意しています。そこに暫く聴き入れない期間があります。大切な期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。私たちの祈りも神様に直ぐに聴き入れられない期間というものがあります、そういう時があるのです。この裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし今その裁判官がその後、自分自身で言いました。「私は神を畏れないし人を人とも思わないがこの寡婦は私を煩らわすので彼女の裁判をしてやろう。そうすればとことんまでやって来て私を苦しめる事が無くなるだろう。」イエス様の譬え話は5節までです。そして、6節で即、言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい」。イエス様は問われます。「彼の言う事を聞きましたか。他でもない。この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをすると言うのです。不正な裁判官のへ理屈などどうでも言いのです。その不思議な事実を聞くのです。此処では極悪の地上の裁判官が正義の神に名添えられているのです。では何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは不正な裁判官がついに正義の裁判を行うという不思議な事実です。裁判官は依然として彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急に寡婦の祈りを聞いてその熱心さに涙を流して悔い改めた」とは書いてありません。しかし、彼は「この寡婦は私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう」と言い始めるのです。煩くて、煩くて俺を煩すから、と言っているのです。不正な裁判官を正義の裁判官に変える事は出来ません。人間の仕事ではありません。しかし驚く事にこの権力の利己主義を通しても神の正義が実現してゆくのです。権力は正義の理論では動きません。しかし、絶えずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し・・ただそれのみによって動かされるのです。小さな奇跡が起きているのです。

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旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々はその苦役の故に彼らの叫びは神に届きました。神は彼らの呻を聞き、アダム、イサク、ヤコブとの契約を覚え神はイスラエルの民を顧みてくださいました。」神が働いて下さったのです。悪い裁判官が世界を動かしているかに見えます。しかし、そうではありません。人間にはその時、その時で事がおこるのです。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・・信仰、不信仰、等々あらゆる物を貫いてただ一つの神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ」。神は夜、昼神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや!神は速やかに審きをして下さる。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を見い出すであろうか。8節で問うておられる。これは信仰の課題です。終末の時、どうなっているか私たちにはわからない。神の遅き、と言うものは遅いのではない。神は速やかに審きをして下さる、と約束しておられるのです。それは又人の速さは速いのではない。神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀最大の神学者、カール・バルトが言っている事です。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時を持ち給う方が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただこの神に基づくのです。たとえ天地が崩れ去るとも崩れる事のない土台の上に立っているのです。ある時は神は私たちから全てを奪われるかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうか、と思えます。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。気づかないうちに、ある時、突如としてです。神は必ず働いて下さる。神はいないかに見えます。正義は聞かれないかに見えます。神は時として沈黙し給うのです。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うです。それは、その民が神に選らばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて神が御旨をなさるのです。神様の側でなさる事であります。私たちに出来る事は絶え間ない祈りであります。

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人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

フィンランド家庭料理クラブの報告

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秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは10月11日に開催しました。小雨がぱらつく一日でしたが、教会の中は爽やかで明るい雰囲気でした。今回はこの季節にフィンランドの家庭でよく作られるリンゴ・ケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にそれぞれの材料を計って準備します。それから、マーガリンと砂糖をハンドミキサーで泡立て、白く泡立ったらシロップや卵などの材料を加えます。そうして出来上がった、ringonokeeki茶色がかった生地をパイ皿に流し込みます。次は、リンゴの準備です。皮をむいてスライスしてから黒砂糖、カルダモンなどのスパイスで味付けをします。そうして味付けしたリンゴを生地の上にたっぷり押しこんでオーブンに入れて焼きます。

今回は教会に新しいオーブンが設置されたばかりだったので、ケーキはちゃんときれいに焼けるのか心配がありました。しかし、ケーキをオーブンに入れてしばらく経つと、台所から美味しいそうな香りが教会中に広がり、それで大丈夫だとわかりました。

ringonokeeki今回の料理クラブはお子さんと一緒にご家族で参加された方もいて、親子で一緒に材料を計ったり生地を混ぜたりして皆さん一生懸命でした。

ケーキがオーブンで焼けている間、子どもの遊ぶ声や参加者の楽しそうな会話が教会中に広がりました。もちろん、シナモンなどスパイスの香りもです。参加の方々も新しいオーブンに興味をもって何度もケーキの焼き具合を覗いては、「きれいに膨らんでいるわ」「美味しそうね」と話されていました。

ケーキが焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのリンゴのケーキの上にバニラアイスをのせてコーヒー紅茶と一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。ringonokeeki今回も楽しい歓談の時を持ちました。歓談の時に、フィンランドのリンゴにまつわる話と新約聖書のマタイによる福音書にあるイエス様の教え、イエス様は重荷を負う人の重荷を軽くする方であることについてお話を聴きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月15日の予定です(注 11月は月の第三土曜日になります)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2025年10月

秋になると、フィンランドの多くの家庭ではよくリンゴ・ケーキが作られ、リンゴやシナモンの香りが家中に広がります。シナモンはリンゴ・ケーキに欠かせない大切なスパイスの一つで、シナモンがなければリンゴ・ケーキの味にならないとさえ言われます。今回のケーキにももちろんシナモンを入れましたが、カルダモンとグローブのスパイスも加えたので少し違う風味に仕上がりました。今回はさらにシロップや黒砂糖も使ったので、ダークで奥深い味のリンゴ・ケーキになりました。

ringo秋のフィンランドはベリーやリンゴの季節です。フィンランド人はリンゴをどのように食べるでのしょうか。収穫の良い秋にはリンゴ・ケーキの他にもいろいろなリンゴのデザート、おかゆ、ジャム、ジュースを作ったり、乾燥したリンゴのスライスを楽しんだりします。もちろんリンゴをそのまま沢山食べる人も多いです。多くの人たちは職場のおやつにリンゴを持って行きます。自分の庭で育てたリンゴを同僚の人たちに分けてあげるのは楽しみの一つです。

リンゴは健康にとてもよい果物です。フィンランドには「毎日リンゴを1個食べれば、医者を遠ざけることができる」ということわざがあります。リンゴはビタミン A、B、C、E、K 、ミネラル、繊維など沢山入っているので健康に良いのです。研究によると、リンゴは心臓病や血管疾患、糖尿病などの予防にも非常に良い効果があるそうです。特に皮には健康の良いフラボノイドが沢山含まれているため、フィンランドでは国内産のリンゴを皮のまま食べるのは普通です。

フィンランドのリンゴは小さくて日本のように見た目は豪華ではありませんが、フィンランド人は自宅の庭にリンゴの木を植えて育てる習慣があり日本とは異なります。リンゴの木は庭の「女王」ように大切にされ丁寧に育てられます。五月の終わり頃になると、木には白い花が一杯咲いて、花の香りが遠くまで広がります。フィンランド人はこの季節が好きで、リンゴの花が咲くのを毎年楽しみにしています。

ringo9月になると家の庭のりんごの木は赤めと緑色の実が実ります。出来具合いは、年によって大きく異なります。今年は去年ほど良くありませんでしたが、収穫の良い年はリンゴの木の枝が折れそうになるくらいに沢山の実がなります。そのような場合は枝が折れないように木のブロックなどで下から枝を支えます。

リンゴの実は沢山実るのは喜ばしいことですが、折れてしまって枝もリンゴも地面に落ちてしまうのではと心配になることがあります。これは私たちが時々感じることと似ているではないでしょうか?

私たちの生活の中には喜ばしいことが沢山ありますが、心配事や悩みもあるかもしれません。例えば、自分や家族の健康のこと、仕事のこと、未来のこと、身近な人の心配なことなどいろいろな重く感じられることがあります。これらは私たちが背負っている重い荷物のようです。これらを降ろそうとしても、自分の力では簡単におろすことは出来ません。このことについて聖書の中でイエス様が次のように教えられた言葉があります。それを紹介したいと思います。

「疲れた者、重荷を負う者は、
誰でも私のところに来なさい。
休ませてあげよう。
私は柔和で謙遜な者だから、
私のくびきを負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。
私のくびきは負いやすく、
私の荷は軽いからです。」
マタイ11書28―30節

イエス様は世界の全ての人々に「私のとことに来なさい」とおっしゃいます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、イエス様にお祈りすることで私たちはイエス様のところに行くことができるのです。先ほど紹介したマタイの箇所でイエス様はご自分のことを「柔和で謙遜な者」と言われました。柔和で謙遜なイエス様はどのような方でしょうか?

イエス様は天と地と人間を造られた神さまの一人子です。神様のもとからこの世に送られて神さまのことを多くの人々に教えました。そして、この世の全ての人たちが神さまのもとに行けるようにと、十字架の業を通して救いの道をわたしたちにiesusama開いて下さいました。このイエス様を救い主と信じてイエス様を深く信頼するようになると、不思議なことに心配ごとは軽く感じられるようになります。心配ごとはすぐにはなくならないかもしれませんが、イエス様が私たちの祈りの声を聞いて、私たちが気づかなかったことを示したりして導いて下さるのです。それが心を軽くするのです。それがイエス様が約束して下さった休みなのです。その時私たちはしなやかで強じんな枝に実っているリンゴの実なのです。折れて地面に落ちる心配は全くありません。私たちもイエス様のもとに行きましょう。

牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」10月9日の日課から

「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」 最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちに述べた言葉から(ヨハネ16章22節)

この主の御言葉を信じられることほど信仰の奥義はないであろう。キリストを救い主に持たない者たちが豊かに安逸に暮らせているのに、救い主に持ってそれを人前で明かす我々は命、名誉、財産を危険に晒してしまうというのは真実である。しかし、将来、我々を待ち迎えてくれるものは何か、心の目と耳をすまして思い起こせば、我々は嬉しさに溢れて「心から喜ぶことになる」。逆に、この世ほど惨めで憐れなものはないともわかる。この世の者たちが我々をどんなに無意味で無価値なものと見下しても、それが一体何であろう。我々が失うものは背中に背負っている荷袋だけだ。それは皮のような表層にしかすぎない。しかし、我々は中核にあるものを持っている。この世で何が起きようともこの世を去る時も持ち続けているものだ。この世で失ったものについては、溢れるほどの補償をしてもらえると知っている。

これとは逆に我々と異なる立場にある者たちは、この世のわずかな時を皮だけ持って生きているようなものだ。彼らには中核がなく、いずれその皮さえも失う。全てが一変する日が来るのだ。今、不足なく人生を謳歌している者たちは、その日には何もなくなる。我々はこのわずかな時を悩み苦しむが、あの者たちは永遠に悩み苦しむことになる。この世にこれ以上ないという位の大きな災難があるとすれば、それは福音を何ものとも思わない盲目さということになろう。その盲目さのゆえにこの世は裁きの下に置かれたのだから。そのようなものをこの世に望んで言いわけがない。私は、この世がこのような恐るべき状態から脱せられるように祈ろうと思う。(訳者注 原文の力強さと迫力が伝わるようにかなり意訳してあります。)

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