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2025年1月12日(日)顕現後第一主日(主の洗礼の主日)主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書3章15−17節、21−22節

「ヨハネが「私より優れた方が来られる」と指し示すお方」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所は、3章の部分部分だけピックアップされており、バプテスマのヨハネのこと、そしてイエスの洗礼のことが書かれていますが、私は3章全体を通して今日の箇所にあるイエス・キリストの恵みを見ていきたいと思います。まず文脈を見てみますと2章では、ルカは、イエスの誕生と成長を通して、イエスは真の人であり、同時に真の神であるということを証ししてきました。そして、この3章でルカは、もちろんバプテスマのヨハネのことを書いていますが、そのヨハネはイエスを指し示すために約束された預言者であるのですから、中心はどこまでもイエス・キリストです。そしてその世にお生まれ手になった救い主イエスが、架空の人物だとか、イエスの話しが弟子たちの作り話だということでは決してなくて、イエスは確かに、人類の歴史の中に来られ、生まれ、生きられた真の神、真の救い主であるということを伝えることから始めるのです。

2、「歴史に確かに存在されたイエス:歴史の事実に基づいて」

 このルカの福音書は、「1章の喜びに始まり、終わりの24章も喜びで結ばれる」とよく言われるように、イエスの憐れみと恵みを伝えていて、慰めと喜びを与えてくれる福音の記録です。しかしそれは決してただ感情的に訴えるような伝え方ではありません。医者でもあった彼は証拠だててイエスの出来事が真実である事を説明しようと気をつけていることがわかります。このところでは、まず、彼は1〜2節で「皇帝ティベリウスの治世の第15年」と、その時代にイエスを指し示す預言者ヨハネが荒野に下ったと、きちんと歴史の事実をあげて伝えていることを見ることができます。ここでは、皇帝の名前だけでなく、パレスチナ地方の各地域の国主の名前も出て来るのですが、これは当時の、政治状況の歴史的な背景であり事実です。ローマ皇帝ティベリウス、そしてローマから任命されるユダヤの総督は、ポンティオ・ピラト。等々。正確に伝えようとしています。そして政治の面だけではありません。宗教面については、当時は、アンナスとカイアファが大祭司であったことも歴史的に説明するのです。ルカはこのように、この福音書に書かれているこの出来事、更に、ここでは旧約の預言の通り、神のことばが、荒野でザカリヤの子、バプテスマのヨハネに下ったという出来事ですが、それは、決して、作り話や物語、空想ではなくて、歴史のこの時に確かに起こったという事を、ルカは伝えているのです。一般的にも、このような歴史の事実から説明するということは、正しく情報を伝える時には大事なことで、それがどんな時に、どんな状況で、誰の時代、そこで何が起こったのかを示すことで、出来事が真実であることを私たちも確かに認めやすくなるでしょう。ルカはまさにそのことをしています。ある意味、1〜2節は預言者ヨハネの出来事と関係ないような支配者の羅列のように見えるのですが、ルカがそれを非常に詳しく書くのは、キリストの福音の記録が確かに歴史的な事実である事を証しするためなのです。

3、「それは救いの歴史の初めから連なる」

 それは3章の後半部分でも同じです。そこには、イエス様の系図が書かれています。皆さんがよく知っているのはマタイの1章が系図に始まっているのを知っているかもしれません。違う点は、マタイはアダムからイエスへと始まって説明していきますが、ルカはその逆で、イエスからアダムへと遡っているのが特徴です。一見、この系図はつまらなくて、意味がないかのように思うのですが、系図は大変、意味のあることです。それは先ず第一に、先程とおなじです。イエスは架空の人物ではなくて、イエスが確かにヨセフの家に、ヨセフの子として存在していたという事実です。歴史の事実であったということです。そしてもちろん、このイエスの系図はそれだけでなく、イエスが、確かに、神が約束されたダビデの子であり、アブラハムの子孫であるということまでを証明するものとして書かれているのです。旧約聖書の創世記では皆さん、神様からアブラハムに与えられた、「アブラハムの子孫によって世は祝福される」という契約を知っていると思います。まさにそのアブラハムの子孫として御子イエス・キリストは存在されているということ、そしてさらにはダビデの家にメシヤ、救い主、キリストが生まれるとも預言されていましたが、いずれの系図もその約束の通りであることを証明するための記録として書かれているのです。つまり、このイエスに成就した歴史の線を遡ると、神様が「女の子孫がサタンを砕く」と告げた、あの人類への罪からの救いの約束が確かにあり、イエスはその成就であり、イエスにおいて救いの歴史の線が確かに一本につながっていることの明確な証しなのです。

 このように、イエス・キリスト、そして聖書の福音書の記録。そこに書かれている一つ一つ、奇跡の一つ一つも、そして何より、十字架も復活も、それら全ては、決して、有名な神学者がいうような迷信、作り話、神話ではない、確かに人類の歴史、約2000年前のある所に確かに存在し、起こったことなのだと、今日のところは私たちに語りかけています。私たちの救い主、この聖書から聞くイエスのことばも奇跡も、そして罪からの救い、罪の赦しも、それらは決して空想話、作り話ではありません。イエスが、歴史に、人と人との間に、確かに存在している救い主であるということは、私達にとっては、とても意味があることでしょう。もしイエスが存在しないお方なら、あるいは、もしイエスが単なる良い話、良い物語の世界の架空のヒーローに過ぎず、私たちがそのような架空の物語の、良い話を聞いているだけなら、図書館の朗読会と何ら代わりがありません。もちろん、そこから学ぶことは多いでしょう。しかしそれは「神の前」にあっての「私たちの救い」ということ、あるいは、「神との関係」ということについて、あるいは、「神の前」でのことにおいては、全く何の意味ももちません。神がこの私たちの間に、歴史に、確かにイエス様を送ってくださった。イエス様は確かに人として救い主として事実、存在された。しかもそれは、遥か昔の神様の「救い」の約束からつながる事実としてこの人類の歴史に成就したということ。イエスのこの十字架は確かにこの歴史に立っていた。そこでイエスは死なれた。そしてイエス様はその三日目に確かによみがえって存在していた。さらには確かに、歴史のある時に、幻でも空想でも嘘でもなく、確かに弟子達のまえで天にあげられた。その時、イエスは確かに、いつまでもあなたがたとともにいると言われた。そして確かにこの私たちに歴史の事実として聖霊を与えて下さった。そのように全てが事実として示されるからこそ、その神が確かに、世に、私たちに働いてくださった、いや今も働いておられる、ここに書かれている救いの歴史の事実の線の上にこそ、私たちは、今確かに存在している。そのことに希望と平安を得て、今私たちは確かに、神様の前にある。救いが確かに今私たちにあると、確信を持って言うことができるはずです。その救い主は今も生きて歴史に、私たちの間に確かに存在しているからこそ、私たちは今日もこのように、これはその神のことばであると、生ける神のことばを信仰をもって聞いているし、そう信じるからこそ、この礼拝もみことばも喜びであり力であるとわかるはずです。逆に、これがまことの存在する救いの記録であり、これは今も生きる神のことばであると、思わないならば、このことばには意味等見いだせないのは当然ですし、礼拝も説教にも意味がない、力がないとなるのも当然なのです。みことば以外の他の物事に、重きがおかれていくでしょう。聖書は私たちに伝えています。書かれているすべてが事実であり、その約束は今も事実であると。このイエスも、その救いも、みことばも、聖霊も、そして神の恵みもすべて、真実であると。それこそを信じ、祈り、求めなさいと。これがこの3章から示される第一の福音であると教えられます。

4、「バプテスマのヨハネが指し示すお方」

A,「バプテスマのヨハネ:救い主、神、光ではない」

 3章の第二の恵みですが、ルカは今度は、イエス様がまことの神であり救い主であることを伝えるために、この時、非常にすぐれた預言者であり、人々から尊敬され、「キリストでは?」とまで言われた、バプテスマのヨハネの出来事を事実としてとりあげるのです。バプテスマのヨハネは、神が旧約聖書の預言で約束した、イエスの前に来ると約束された預言者でした。4節以下を見ますと、旧約聖書のイザヤ書の言葉が引用されて、この神様の約束の言葉の通りに、それが成就したと伝えています。この預言にある通りに、ヨハネは荒野で人々に、悔い改めを叫び、救い主の到来を教え示すのです。まさに主の道が救い主によって開かれる。その預言者はその道であるイエス様をまっすぐと指差し、指し示すというのが約束の預言でした。6節を見ますと、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

とあるように、ヨハネが示す先に人々はイエス・キリストを見るのです。確かにこのバプテスマのヨハネはすぐれた神の預言者であり、ここでは10節では「群衆」、12節では「徴税人たち」、そして14節では「兵士も」、彼らは皆、ヨハネを「先生」と呼んでいて「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と皆この先生に救いを聞いているのです。そして15節では皆、「もしかすると、この方がキリストではないか」と思った程なのです。 そのように彼は尊敬されたすぐれた先生であったのです。

 しかし聖書が私たちに伝える大事なことは、彼は神、救い主ではなかったということです。すぐれた立派な人ではあったでしょう。しかし、地上に生まれ、朽ちるものから生まれたものは、どんなにすぐれた人、どんなに優れた先生であっても、決して神、救い主とはなり得ないのです。人は、その肉の性質として確かに「見えない神に

ではなく、優れた並外れた人間を神のように、あるいは王のように求めたり崇め立てようとするものです。サムエルの時代、イスラエルには彼らのために常に神がおり神の言葉があり、裁き司であるサムエルを通して神のことばがあって正しく導いていました。しかし、イスラエルの人々は、他の周りの国々と比べて、周りの人々と同じように、人間の王様をもとめて、自分たちもその人間の王様によって戦争に勝ち、パンが満たされ、国の繁栄を見たいと求めたのでした。それに対して神が警告しても、それでも彼らは王様を求めました。そのように目の前の人間中心の欲求のままに彼らは背が高くハンサムな好青年、立派でたくましいサウルを選んで、彼が王様として立てられましたが、しかしその王は、やがて民のパンを満たすどころか、パンを奪うものになりました。彼は神の言葉を軽んじ退けました。そのイスラエルの王様の子孫たちは、ダビデ以外は、皆、神を捨て、偶像礼拝に走り、結局は、民が自由に偶像礼拝するような国を造りました。そのダビデでさえも、神でも聖人でもなく、罪深い王であり不完全であったことが沢山書かれています。その結果、黄金のイスラエルは滅んでいったのです。地の塵から生まれ、そして堕落し罪人となった人間は、それが、いかに、どんなに優れて立派でカリスマのある先生であったとしても、たとえ約束の預言者であったとしても、どこまでも人であり一人の罪人です。神ではありません。決して救い主にはなれません。

B,「ヨハネは証しする:真の光、救い主は天から」

 聖書は何といっているでしょうか?救いは神から、救い主は天から来る。天から与えられる。聖書ははっきりと伝えているでしょう。使徒ヨハネはその福音書で、どのように私たちに伝えているでしょう。ヨハネによる福音書1章6節からですが、

「6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:6〜9節)

 「彼は光ではなかった」とあります。そしてその光は、そのお方、救い主は、天から来られることを示しています。さらにヨハネの福音書3章27〜30節ではバプテスマのヨハネ自身がこうイエスを指し示しているでしょう。

「27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」」(ヨハネ3:27〜30)

 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」、「私はメシアではない。」、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」ヨハネ自身がそう伝えるのです。ルカの福音書でも一致しています。3章16節

「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

 ヨハネは自分でも言うように、救い主ではありませんでした。彼自身授けている洗礼さえも、人を救う洗礼ではありませんでした。彼は立派な先生でした。彼の語る言葉は立派な「律法の」ことばでした。模範的な聖い生活もしていたでしょう。しかしそのバプテスマのヨハネ自身も、彼の言葉も、彼の洗礼も決して人を救いません。たとえ彼のアドバイスするその通りに完全に行いができたとしても、それが人を救うのでは決してありません。いや、救うことは出来ないのです。律法は人の不完全さ、神の前にあってどこまでも罪人であることを示すだけであり、決して人を救わないのと同じです。私たちの救いは、バプテスマのヨハネが、そのように道を備え、指し示す、福音、天から来られた神の御子「イエス・キリスト」のみである。その天の御子があたえる、聖霊と火のみことばによる洗礼によってこそ、あなたがたは救われるんだ。バプテスマのヨハネ自身がそのようにイエスを教え、イエスを指し示し、ルカはそのことを私たちに書き記しているのです。

5、「この方を見よ:神からの約束の成就:ヨハネはその方を指し示す」

 さらには、22節では、イエスが洗礼を受けたとき、天からイエスに呼ぶ声がしたことが書かれているでしょう。「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と。まさに、天からです。そしてヨハネはこのことを証してイエスを指し示しました。ヨハネ1章29節以下ですが、

「29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。〜「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」」(ヨハネ1:29〜34)

 バプテスマのヨハネが指し示す先、そして使徒ヨハネも、そしてルカもこの3章で、ヨハネのその指し示す指を用いて、私たちに指し示しているでしょう。すぐれた先生であるヨハネがキリストではない。私たちが捜し求め、信じるのは、地から生まれ出た王や優れた先生ではない。王も優れた先生も人であり神の前にどこまでも罪人であり、人は誰も自分自身でさえも誰も救うことは出来ない。彼らは救い主ではない。このバプテスマのヨハネであっても。彼は「自分はますます衰えなければならない」とまで断言しています。では、救いはどこにいるのか。救い主はだれか。それは、このイエス・キリストこそ、まことの救い主であると、彼は指し示し、ルカもそのことを示すのです。その方は確かに歴史に存在し、その十字架は確かに立っていた。その方は確かに復活されて、今もこの歴史に、私たちの間に生きておられる。だから、このイエス・キリストの救いも、みことばも、聖霊も、まさに真実であり、力があり、それが私たちに事実として与えられている。存在している事実なのだと。だからこの預言者が、聖書が指し示すお方を見よ。と。これが今日も、神が私たちにみ言葉を通して伝えるの福音のことばに他なりません。使徒たちは世界の人々にはっきりと言いました。

「12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)

6、「あなたはどこに救いとその確信を見るか?」

 私たちは何に救いを見るでしょうか?求めるでしょうか?何に救いの確信をおくでしょうか?自分の行いですか?自分の立派さですか?すぐれた先生ですか?王様ですか?バプテスマのヨハネですか?すぐれた先生のわざ、人間のことばや理性に救いの力があるのですか?確信があるのですか?道があるのですか?そうではないでしょう。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示しました。使徒たちも、そして歩き出したばかりの教会も、この「イエス・キリスト以外には、誰によっても救いはありません。私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていない」と、イエス・キリストを指し示しました。私たちは神ではない。イエス・キリストにこそ、あなたがたの救いがあると。ですから答えは簡単です。この方、イエス・キリストを見ましょう。その救いの約束、その成就でありキリスト自身が成し遂げたこの十字架と復活を見ましょう。人の何か、自分の何かではなく、イエス・キリストにあって確信をもちましょう。イエス・キリストのみことばと聖餐を受け続けましょう。その約束のうちに今日もイエス様は私たちに宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひイエス・キリストに祈り、イエス・キリストにどこまでも期待し、信頼して歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム

これぞ、キリスト信仰の死生観

イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことは、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)やラザロ(ヨハネ11章)等々の事例があります。 ヤイロの娘とラザロの蘇らせの時、イエス様は死んだ者を「眠っているにすぎない」と言って生き返らせました。ただし、彼らには、将来の復活の日に起こる復活が起こったのではありません。なぜなら、二人ともその後で寿命が来てまた「眠り」についたのであり、今、本当の復活を待っているからです。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったのでしょうか?それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはないということを前もって具体的に人々にわからせるためでした。

以下は、マタイ9章24節のイエス様の言葉「娘は死んではいない。眠っているだけだ」についてのルターの説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月8日の日課から)。これぞキリスト信仰の死生観の真髄!

「我々は、自分の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストと固く結びついている者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の約束の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

主の約束の言葉「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。」ヨハネ傳福音書11章25節

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歳時記

 <神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 コヘレト311

柳田国男の「雪国の春」という本の中の一説に「神はなお大昔の契約のままに、定まった時をもってお降りなされることを疑わず、すなわち冬籠りする門の戸を押し開いて、欣然としてまぼろしの春を待ったのである。 」というくだりがあります。柳田はクリスチャンではありませんでした、が神のみ業を知っていたのでしょうか。雪の殆ど降らない暖国で作られた新しい暦は雪国の人々からみれば何と不適切な暦だったかと思います。確かに暦上の季節と実際の季節との乖離がとても気になることがあります。

牧師の週報コラム

ルターの御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)

新年の新聞の特集に、20世紀に出現した大衆社会は国を戦争に引き込むような「勢い」を生み出してしまうことを識者たちが論じていました(朝日㋀㏢)。 「大衆」の特徴の一つに「自己懐疑の欠如」をあげる識者も。ひょっとしたらSNSはそれを助長するのではないかなどと心配になりました。そこで以下のルターの説き明かしを見れば、キリスト信仰とはいかに自己懐疑の信仰であるか、しかし、徹底した自己懐疑でありながら自己否定には向かわず自己形成に向かう信仰であるかがわかります。

「私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。」(詩篇118篇21節 フィンランドの聖書の訳から)

「神はまず初めに御言葉をもって私たちの全ての行いを裁き、私たちが持っていると思い込んでいる神聖さと知恵と力を無にされる。これほど大きな恵みがあるだろうか!神がこのようにされるのは、私たちが自身の罪性からくる罰を見ることができるためであり、また私たちの良心が震えるためであり、そして神の前に無力となった私たちがあらゆる不安と心配に晒されるためなのである。神はこのように私たちを徹底的にヘリ下させ、自分の業や知識に対する私たちの驕りと盲目な信頼を一回また一回ともみ消される。そして、それらが完全にもみ消される時が来る。私たちのこの世の人生が終わる時だ。このプロセスを忍耐強く歩み続けられる者は、神は自分にとって最善なことをされているとわかっている。それで神に感謝し賛美を捧げ、預言者イザヤと共に次のように口ずさむ。『主よ、あなたに感謝します。なぜなら、あなたはかつて私に怒りを示されましたが、今はそれを収め、私を慰めて力づけて下さったからです。』(イザヤ12章1節 フィンランド語の聖書から)

そう、怒りを転じた神は今度は私たちを慰め助けを与えて下さるのだ。それは、私たちの内にある霊と新しい人が滅びゆく肉と古い人に代わって成長するためである。このプロセスにおいて神は私たちにますます大きな豊かな賜物を与え、私たちが彼の御前でまた彼の中にあって勇気を持って立つことが出来、喜びをかみしめることができるようにと助けて下さるのだ。このように古きを脱ぎ捨て新しきを身にまとう者は次のように歌うであろう。『私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。』

このように神は私たちをヘリ下させる時、高く上げて下さるのあり、私たちを罪びとにする時、神の義を持つ者にして下さるのであり、私たちが打ち負かされるようにする時、勝利を与えて下さるのであり、私たちが泣くようにする時、喜ぶようにして下さるのであり、私たちを死に直面させる時、生ける者として下さるのである。」

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歳時記

繊月・二日月

<昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。詩編121:6>

大晦日が新月で元旦が初月、2日は二日月・繊月です、藤原定家も「初月糸ヨリモ繊(ホソ)ク、山ヲ去ルコト纔(ワズカ)ニ五尺」と明月記の中で述べています。実際に繊月を見るのは難しく大抵三日目の三日月を代用しています。理由はとにかく細いのです、タイミングも日没後僅かな時間にしか見る事が出来ません。定家の時代は現代と違って人工の灯りも無く夜空の観察には十分な環境だったのでしょう。

(振り放《さ》けて三日月見れば 一目見し人の眉《まよ》引き思ほゆるかな 大伴家持  万葉集 巻6-0994 雑歌 訳:振り向いて三日月を見ると一目見たあの人の眉のさまが思い出されます。)

「新年明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願い致します。」

2025年1月5日 主の顕現の主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年1月5日 主の顕現の主日 スオミ教会

イザヤ60章1-6節

エフェソ3章1-12節

マタイ2章1-12節

説教題「造り主である神との関係に照らし合わせて自分自身を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 いつもこの個所について説教する時に申し上げることですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。

 ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、そんな程度ではまだまだという人が大半ではないでしょうか?イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせて見るということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。何度繰り返してもいいことなので本説教でも述べます。新しい視点を入れて述べます。

 ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは次のようなものではないかということを述べておきます。自分自身を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しことをせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証に向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そういうわけで、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分自身を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。

2.東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性について

まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。

思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

 1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座の中で異常接近したことを突き止めました。他方では、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があり、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘されています。その中には紀元前7年の星の動きを予測したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するというのは普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13ー23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ民族やその信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ

などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ民族の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の日課にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くして王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。ただ、一つ難しいことは、東方の学者たちがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これについては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や星々さえも創造された(創世記1章16節)方ですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

3.イエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵

東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性を見た後は、いよいよイエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵について見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからは彼こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならないと脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は今の時代を生きる自分のためにも神が成し遂げて下さったのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?

イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうがみんな神の意思に反するので全て罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟があります。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは、少なくともキリスト信仰では、実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、少なくともキリスト信仰では、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当のことなのです。

このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言える人はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになります。

まさにその時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き受けて私たちのかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主です、と信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり保たれているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。

本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節でパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。

4.勧めと励まし

最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには聖書の御言葉が星の役割を果たしています。救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって心の状態が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと変わりなさい(後注)。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。信仰によって心の状態が一新させられたら、後はどのように変わっていくか、その具体的内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。

学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主のイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世の声に倣わないということが暗示されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注(ギリシャ語がわかる人に)ローマ12章2節は新共同訳では「自分を変えていただき」と訳されています。これはμεταμορφουσθεを受動態に考えて「(神によって)あなた方は変えられなさい」と訳したものです。4年前の説教で私も受動態で訳しました。フィンランドの神学部の授業ではここはmedium(日本語で何と言う?中動態?)で考えるべきと言われていましたが、私は律法的になるような気がして少し抵抗がありました。ところが、その後考えがかわり、今回はmediumで訳しました。パウロは読み手に対して強い調子で「あなたたちは自分自身で変わりなさい」と言っているということです。律法的にならないかという心配ですが、τη ανακαινωσει του νοοςがあるので律法的にならないことがわかりました。「心の状態を新しくしてもらったことをもって(dativus modi)/新しくしてもらったので(dativus causae)」あなたがたは変わりなさい、ということです。νουςは新共同訳では「心」と訳されています。英語ではmindと訳されています。「心」だとκαρδιαと一緒くたになってしまうので「心の状態」としました。キリスト信仰者はνουςが新しくされているので、肉には罪があっても救われているということがローマ7章の終わりで言われています。それで12章2節は、キリスト信仰者であるあなたたちはνουςが新しくされているので変わるのは当然なんですよ、というような、命令よりも注意喚起になるのではないかと思いました。それを基点にして12章の中にある行動リスト(大半は分詞形、一部は命令形)を見ると、νουςが新しくされたキリスト信仰者にとってはどれも当然のものなのだという注意喚起の続きになるのではないかと思いました。イエス様を救い主と信じる信仰によって救われた結果として、リストの諸行為は当然のものとして現れてくるのだ、忘れるな、ということです。救われるためにこれらをしなければならないという救いの条件ではないということです。救いの条件にしてしまうのが律法的ということです。

聖餐式

2025年1月1日(水)新年 午前10時半 礼拝 説教 吉村博明 牧師

礼拝説教 2025年1月1日新年礼拝 スオミ教会

コヘレト3章1-11節

黙示録21章1~6a節

マタイ25章31~46節

説教題 「永遠を思う心を持っていれば大丈夫」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

西暦2025年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は昨年の12月1日の待降節に入った時から始まりましたが、世俗のカレンダーでは今日が新しい年の始まりです。新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことは大事です。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと諦めて向かって行くのと、いや、これからは今までと違うものになるのだと前向きに向かって行くのでは試練に対する向き合い方、試練の中にあっての進み方も違ってきます。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に中身を与えるものになりますように。

2.私たちの試練に対する神の手腕

以前の説教でもお話ししたことがありますが、何年か前、私の家族で長期間病気などがあったりして、もう日本でのミッションの仕事は続けられなくなるのではないかという試練がありました。本当にもがくような思いで、多くの人の祈りに支えられながら、やっと暗いトンネルの中に光が見えてきてそれに向かって歩みだした時、あるキリスト信仰者から次のような言葉を頂きました。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、そして、わかった時点に立って後ろを振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい地点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。

 なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方だと信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するというのは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福と導きをお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを願う相手はこの方以外にはない、という具合に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。

 それでは全身全霊で神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう言うまでもなく、その神がかけがえのないひとり子を私たちに贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父なるみ神を私たちはその子として信頼するのです。だから、試練があってもそこで立ちすくんだり埋没したり堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)神が準備して下さっている次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。

 そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(注 ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

 イエス様を救い主にしていない人たちから見たら、こういうのは根拠のない楽観論にしかすぎないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的な真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、神が万事を益にしてくれると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。全てが見事に埋め合わさった全体像を後で見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。

3.コヘレトの永遠を思う心について

このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中の時は父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を造られた神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。

 永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、説明は簡単ではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には創造主の神と神の霊、そして箴言で言われる、天地創造の場に居合わせた神の「知恵」なる者しか存在しませんでした。神が天地を創造して時間の流れが始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。新しい天と地のもとで唯一の国として「神の国」が永遠に存続すると言うのです。そういうわけで、今の天と地は造られてから終わりを告げる日までは時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

 神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の中におられる方が、限りあるこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えた後も復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。そのような今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる神との結びつきを持てるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった原因、つまり神の意思に反しようとする罪をどうにかしなければならない。それで神のひとり子のイエス様は人間の罪を全部引き受けて十字架の上で人間にかわって神罰を受けて、私たち人間のために罪の償いを神に対して果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持って生きられるようになったのです。

 神はそのような永遠に属するひとり子を信仰を通して私たちの心に与えて下さいました。まさにコヘレト3章11節で言うように、神は永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで見極められないという心を」という訳になるのではないだろうか?そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」となるのではないだろうか。ただ、英語(NIV)やフィンランド語やスウェーデン語の聖書も新共同訳と同じように訳しているので、あまり大きな声で主張するのはばかれます。それでも、イエス様という永遠に属する御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと密かに思っています。

 もちろん日々の試練の中では神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味で、心に永遠を与えられても発見できないというのはやはりその通りです。そうなるとペシミズムになってしまうのか?しかし、先ほど述べたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中にある時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっていることでは神のなさる業を発見できているのです。この視点に立ってコヘレトを見ればペシミズムに留まらないで、それを超えるものが見えてくるのではないでしょうか。

 コレヘト3章の初め「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のところで、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、もちろん自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。これをどう考えたらよいでしょうか?

 そこで、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りを見てみます。ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。つまり、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかなくなります。そこから出発しなければならなくなります。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?これが一番大切なことです。

 ここで「永遠」の出番となります。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのこととしたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、目指す先には神の意思、神の正義、神の義があることが見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目で見て不幸な状態にある人たちの立場が逆転する可能性について繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるでしょう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口にしか過ぎない完璧な逆転が待っているのです。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。

4.勧めと励まし

イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神と結びつきを持って生きられるようになったとは言っても、それでも内側にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。自分では神の意思に沿うように生きようと志しても、それが叶わない、至らないことにいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分はもう一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つのだろうか?と。

 この個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これはギリシャ語原文が厄介な個所です。直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした分をεφ’ οσονあなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くのことをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことが少しあるということです。少なくしたら、しなかったことが多くあるということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、みんな自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないと言うのです。

 キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しに留まって生きる限り、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。助ける人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられなくても神に祈ることはできます。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りがカモフラージュや自己満足に陥ることはありません。

 兄弟姉妹の皆さん、今世界を見渡すと、皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして、それをSNSを通して拡散するので何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力のある人たち、感情に訴える力のある人たちが我が物顔です。こういう時だからこそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い起こしましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はやがて火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなこととは別のところにあることもわかります。それなので、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られそれをいつか新しいものに変えられる方と結びついていることを今一度思い起こしましょう。その方は私たちの試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっています。なので、日々聖書を繙き御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

牧師の週報コラム 

ルターの御言葉の説き明かしから(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」12月27日)

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1章23節)

「神の威厳の中には一体、どんな御心があってあなたに向けられているのか考えてみなさい。神は、惨めな状態や苦難の中にいるあなたに同情し、本当に憐れむ気持ちからあなたに、罪の状態にあるあなたに、何も条件をつけずに御自分のひとり子を贈られ、おとめの胸元に置かれたのだ。神はあなたに言われる。『見なさい、これは私の愛する子、あなたのために生まれ、あなたに与えられた子である。この子は、あなたを罪から救い、あなたを守り、助け、そしてあなたの幸いとなる。』

あなたに対して神はこのような御心をお持ちなのだ。考えてもみなさい、あなたでも誰でもいい、仮に自分のひとり子を全ての相続権と一緒に誰かに贈り物として与えたとする。そのような贈り物を与えた相手に危害を加えるようなことがありうるだろうか?私たちのために生まれ、私たちに与えられた御子を通して、私たちに神的な恵みを現わし、私たちの罪を赦し、私たちを愛することこそが神の御心なのだ。しかしながら、注意しなければならないのは、ひとり子はそれを受け取る者たちだけに、ひとり子から励ましと喜びを得ることを望む者たちだけに与えられるということである。そして、神の善性から来るこの大いなる贈り物を受け取った私たちは次のことを確信し、それを公けに言い表す。- 神はひとり子を受け取った者たちに対してもう怒りを持たず裁くこともしないということを。」

イエス様の誕生は本当に私たちにとって幸いであり神からの恵みなのです!

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2024年12月29日(日)降誕節第一主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2024年12月29日 降誕節第一主日 スオミ教会

サムエル上2章18-20、26節

コロサイ3章12-17節

ルカ2章41-52節

説教題 「イエス・キリストは聖書と礼拝を通して私たちのそばにおられる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が12歳の時の出来事についてです。両親と一緒にエルサレムの過越祭に参加した後で行方不明になってしまった、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという出来事です。神殿でイエス様は神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。よく見ると、この出来事は私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。母マリアとイエス様のやり取りの中にその大事なことがわかるカギがあります。今日はそれについて見てみましょう。

2.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長

今日の個所はよく目を見開いて読むと、成人するまでのイエス様の生涯のことがいろいろわかってきます。マルコ福音書とヨハネ福音書のイエス様の記録は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。翻って、マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まりまり、双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。例えば、ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後のことは今日のルカ2章の箇所で12歳の時の出来事が記されているだけです。あとは洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年頃のことなので、この12歳の時の出来事は幼少期と大人期の間の長い空白期の中の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでもイエス様のことがいろいろわかってきます。

 まず、マリアとヨセフが毎年過越祭に参加していたことに注目します。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、どうしてエルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?それは、旅行が一家族で行うものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味があります。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、きっとまた誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたかがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端が窺えるのです。

 そして12歳の時に今までになかったことが起こりました。イエス様は両親と一緒に帰途につかず神殿に残りました。両親は行方不明になった子供を必死に探し回り、やっと見つかったと思ったら、なんと神殿で律法学者と議論しているではありませんか!マリアとヨセフの驚きようと言ったらなかったでしょう。この出来事について後ほど詳しく見てみます。

 この出来事の後のイエス様の様子はどうなったでしょうか?51節を見ると、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」とあります。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけない、いい子で生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。

 洗礼者ヨハネ登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に抱く愛顧も増していった」です。そういうわけで、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年に育ったのでしょう。その彼がやがて、人間と神の関係の障害となっている問題、罪と死の問題を解決するために自らを犠牲に供する道を進むことになるのです。

3.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない

以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。

 マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。マリアとヨセフは1日分の帰り路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。加えてエルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を行方不明の一人の子供を捜し出すというのは絶望的な感じがしてしまいます。その時の二人の必死の思いはいかほどだったか想像に難くありません。運よくイエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶどころではありませんでした。見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。なんだこれは、と両親が唖然として様子が目に浮かびます。

 そこでマリアの問いに対するイエス様の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言ってはいないのです。「どうして捜したのか」と言うと、あなたたちは捜す必要はなかったのにどうして捜したのですか?と聞いていることになります。イエス様はそんなことは聞いていません。じゃ、何を聞いたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」少しわかりにくいですが、意味はこうです。あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」がそれです。「父の家」とは父なるみ神の家、つまりエルサレムの神殿のことです。ところが、ここも説明が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。もちろん、神殿はそうした事柄の一つですが、神殿の他にも「父に属する事柄、父に関する事柄」はあります。それでは、他にどんなことがあるのかということをこれから見て行きます。「私は、父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」。イエス様がいなければならない「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か?

 エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としてはまだ12歳です。ということは、言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でもお祈りし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの日、律法学者の話を耳にした時、以前だったら抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時は何が問題になっているかがわかるようになっていたのです。

 それでは、12歳のイエス様は律法学者の教えに対してどんなわかりかたをしたのでしょうか? 12歳のイエス様の言語能力と語彙力は、確かに30歳や40歳の学者よりも限られているかもしれません。しかし、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年頃になったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言って教えていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。なぜなら、神は彼の父だからです。イエス様はこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思については被造物である人間なんかよりもよくわかっていました。それで律法学者の公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。12歳のイエス様の言葉は学者が使う言葉とは違うけれど、神のことを全てわかっているので質問も答えも本質をつくものだったでしょう。人々が驚いたのも当然です。

 ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなかったのです。そうではなくて、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力がありました。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるでしょうか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」神のひとり子と人間の知識人の差は既に歴然としていたのです。

4.勧めと励まし

ここでイエス様を捜す、見出すということについて、私たちの場合はイエス様を捜す、見出すというのはどういうことか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時とか、私たちに苦難や困難が降りかかる時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。キリスト信仰者は神に祈る時、必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」祈ります、ということです。他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主です、ということを父に知らせます。なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の神罰を代わりに受けて下さったからです。そのようにして私と神との間を取り持って下さったからです。そして死から復活されたことで私のために死を滅ぼして復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さったからです。今その道を共に歩んで下さっているからです。イエス様は、世の終わりまで一緒にいると約束されました。

 ところが、このように祈っても苦難や困難が終わらないと、イエス様は一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?行方不明になってしまったのか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰は、イエス様がそばにいたら苦難や困難は皆無という見方をしません。逆に苦難や困難があるのはそばにいない証拠だという見方もしません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。祈り願い求めているのにその通りにならないのはなぜかという質問をたてて答えを求めようとすると、日本の場合はすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰は、もちろん苦難困難は早く終わるにこしたことはないが、仮に早く終わらなくてもトンネルの出口を目指してイエス様が一緒に歩いて下さるという信仰です。

 それでは、苦難や困難の中でも、暗いトンネルの中でも、イエス様が一緒に歩いて下さることがどうしてわかるのか?それについては、彼が母マリアに言った言葉を思い出しましょう。「私は神に関わる事柄の中にいなければならない。」神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。まず、聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。行方不明なんかではありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちはこの暗闇のような世の中でひとりぼっちで立ちすくんでしまうこともないし、正しい方角もわからずにやみくもに進むということもないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン          

 

聖餐式
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。