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2026年5月24日(日)10時半 聖霊降臨祭/ペンテコステ 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年5月24日(日)スオミ教会

聖書 使徒言行録2章1~21節

説教題:「聖霊に満たされて」

今日の礼拝はペンテコステを記念する礼拝です。ペンテコステの日、聖霊が爆発的に弟子たちと各地から集まっていた者の上に降ったのであります。

使徒言行録2章1~21節を見ますと、「五旬祭の日が来て一同が一つになって集まっていると突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ彼らが座っていた家中に響いた。」五旬祭の日に集まっていたところに出来事が起こった。五旬祭というのは出エジプト記34章22節に「あなたは七週の祭り、すなわち小麦刈りの初穂の祭りを行わなければならない」とあるところから小麦の収穫感謝祭を毎年行っていたのでした。これはイスラエルの三大祭りの一つで過ぎ越しの祭りが終わってから五十日目に当たっていました。これをギリシャ語の第五十という言葉から「ペンテコステ」というようになったようです。この祭りのために多くの敬虔なユダヤ人たちが各地から毎年エルサレムに上京するのが常であったのです。この日「皆の者」が集まっていた。この皆の者とはルカによれば十二弟子よりも更に広い意味で用いられて、1章15節にあるように百二十人程の人々が一つになっていたとあります。

2~4節を見ますと「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こって彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ/\ に現れ一人/\ の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ”霊”が語らせるまゝに他の国々の言葉で話し出した。」ここにはルカの凄まじい聖霊が降った様子がリアルに描かれて表現されています。よく注意して読みますと激しい風が吹いたわけではありません、炎の舌が現れてはいません。激しい風のような、舌のようなもののようにと表現されています。ともかく、普通にはあり得もしなかった凄まじい出来事が起こっています。五旬祭という多くの人々が一同に集まっているところに一体何が起こったのでしょうか。イエス様の死と復活の後にイエスに従う一同の者たちの上に聖霊が与えられたのであります。聖霊は神の霊であります、またキリストの霊であります。それはキリストを通して神を信ずる者に与えられる神の力として働くのであります。

この聖霊の第一の特徴は一人々自ら神の前に罪びとであると感じさせること。第二には聖霊はイエスが誰であるかを明らかにする。即ちイエスはキリスト、救い主であることを明確に示す。第三には神に従う者を慰め。癒し、弁護し導く、といった働きをするものです。

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パウロはコリント第一の手紙123節で「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えない。」と書いています。さて、4節で聖霊が降ってこの聖霊に満たされるまゝに他の国の言葉で話し出した。それでもう大混乱です。57節を見ますと「さて、エレサムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたがこの物音に大勢の人々が集まってきた。そして誰もが彼らの自分の故郷の言葉が話されているのを聞いてあっけにとられてしまった。」

この光景を目にして群衆は驚き言いました。「見よ!今、話しているこの人たちは皆ガリラヤ人

ではないか。それだのに私たちが各々生まれ故郷の国語を彼らから聞くとは一体どうしたことか。彼らは不思議がった。」ルカは9節から12節のところで地方から来ていた地名を延々と大事な事として書いています。9節「私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、エレネに接するリビア地方に住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいればユダヤ教への改宗者もいるのに彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆、驚き戸惑い「一体これはどういう事なのか」と互いに言った。

此処に大勢の集まった人々をルカは5節で「天下のあらゆる国から帰って来ていた」と表現しています。当時、ローマ帝国に支配されていた天下のあらゆる国々を東の方の小アジアからローマ、ギリシャ、そして西のエジプトに至る国々の名が記されているのです。群衆の多くはエレサムを中心とするパレスチナ地方以外の国々に滞在していた経験なユダヤ人、また他に数多くの異邦人も加わっていたという事です。ペンテコステに聖霊が降った、そこにこのように各国のユダヤ人そして異邦人がいたと言うことはルカは言い換えますと全世界の人々がやがて自分たちの国語でイエスの福音を聞く日が来ることを象徴していたということであります。

初代のイエス様の弟子たちが一同に聖霊を受けた時、彼らは群衆たちの生まれ故郷の国語でキリストの事を語った。どうしてそのような事が出来たかそれはわからない、聖霊の導きによる神の力がドーンと彼らに臨んだからであります。この事は実際おこったのです、ルカは主イエス様の救いの福音がやがて全世界へと伝えられ広がって行く事を特に望んでいたのであります。そのことは聖霊を受けた時,神を信じる者は他国の人にも分かるようにそして私たちの働きとキリストの福音とを力強く説き明かすことが出来るようになるということであります。弟子たちは計り知れない神の力と聖霊を受けて世界中の人を象徴して集まった民に福音をその国の言葉で語ったのですから、いよいよこれから聖霊の導きと語るべき福音の力を受けて全世界へと遣わされて行く事になります。そのため神様は五十日という準備を弟子たちになさいました。その準備は只管祈ることでした。そして、イエス様は甦って生きて何時でも私たちと共に働いて助けて下さるという確信を持つように強い心の準備をなして下さったのです。

ところが、ペンテコステの出来事が何もかもうまく行くとは限らない。中には必ず人間的な邪魔をする者が現れるのです。13節を見ますと「しかし、あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言って嘲る者もいた。」とあります。すると、ペテロは十一人と共に立って声を張り上げ話始めた。「ユダヤの方々、またエレサムに住む全ての人たちに知っていただきたい事があります・・・・。」ペテロの説教の目的はナザレ人イエスはキリストつまり救い主メシアである事を証明することでした。この事の証明のために説教の半分近くを旧約聖書を引用して話しています。まず、ペテロは語ります。神様がイエス様を通してあなた方の中で行われた数々の力ある業と奇跡と記しとによりイエス様は神から遣わされた方であること、更にこのイエス様を律法学者や祭司長たちによって十字架の処刑で殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死から解放し甦らせたこと。イエス様の死と復活の出来事を確証するためペテロは旧約聖書の詩編16編を引用し、またヨエル書も引用してこのことが既にイスラエルの歴史の中で預言されていたこと。その予言通り救い主としてイエスに預言は成就したのである。パウロ自身はその目撃者であること。

更にペテロは25節から角度を変えてユダヤ人の最も尊敬していたダビデ王とを比較して立証してゆきます。ダビデは預言者であってダビデの墓もある。イエスは神から復活させられた救い主メシアであられるのだ。この「キリスト・メシアによる福音」こそがペンテコステの日に起こったキリスト教の誕生となっていったのです。

今日、世界は戦争と経済不安の中に揺れ動いています。その背景にイスラエルのユダヤ教、イランを始めとするイスラム教、ヨーロッパ北欧諸国とアメリカのキリスト教、これらの戦いです。ユダヤ教とイスラム教、その他日本の仏教などがイエス様は預言者にすぎないメシアではないとイエス様を救い主とは信じません。キリスト教会はイエス様こそ十字架に死に甦って生きて働き給う真の救い主という、この福音が決定的に違う、キリスト教会の土台、基本の教えの中心であります。

ペテロは命を懸けて神の真実を証しして叫ぶのであります。36節で叫びます。「だから、イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい、あなた方が十字架につけた、このイエスを神は主、またキリストとしてお立てになったのである。」このイエスはヨエルや他の預言者たちが預言したところの主でありキリストであった。今もなお聖霊の働きがあるということはこのキリストの復活の力の何よりの証拠ということです。ペンテコステの出来事はこの時だけで終わってしまったわけではない。それは今でも続いている。同じ聖霊の力によって、同じ福音の伝達によって多くの人は神の支配のもとに一つの所に集められているのです。この日本の地に於いても長い時間と年月を超えて聖霊は働いて下さり神のみ業がなされているのであります。第二イザヤと言われている預言者がイザヤ書4319節で預言しています。「見よ新しいことを私は行う。今やそれは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私を崇める。荒野に水を、砂漠に大河を流れさせ私の選んだ民に水を飲ませるからだ。私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らなければならない。」そして、更に4423節で預言しています。「恐れるな、私の僕ヤコブよ、私の選んだエシュルンよ、私は乾いた地に水を注ぎあなたの子孫に私の霊を注ぎあなたの末に私の祝福を与える。」4319節で「見よ、新しいことを神がなさる」というのはどういう意味か。この第二イザヤの預言は直接的にはイザヤ時代バビロンに囚われの身であったイスラエルの民を祖国イスラエルに帰すという新しい大きな業を起こすと言っているのです。443節の「あなたの子孫に私の霊を注ぐ。」神は人類の歴史の中で聖霊が新しい大きな業をおこして行かれるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その13
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」
の2月7日の日課から)
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから
。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく)
『事を自分の重荷にとどめるな。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされ
てしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して
神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私
の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上
、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言っ
てこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手く
いきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せて
きます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなた
の助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅
々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねら
れた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられる
かについての心配は神のすることであって、私たちのすることではない。
このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い
主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない
者たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は
、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を手放さず、神は嘘をつかない方だから
御言葉はその通りだと信頼して前に進む。』(以上、ルターの説き明かし、2025年6月8日
の週報に掲載したものを修正)
牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、
ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放
り出す」です。英語、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も
それで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめ。ギ
リシャ語の「与格・メレイ・ペり・属格」は、上記4カ国語は「神は面倒を見る、世話を
焼く、ケアをする」です。日本語訳では上記のルターのような力強い説き明かしはできな
いのではないでしょうか?もったいない話です。

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歳時記

庭の野草

15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

白州の家の小さな庭にも年毎に色々な野草の花が咲きます。去年はアジサイ、一昨年はギボウシ、その前はカワラナデシコ、もっとその前は・・・・・忘れました。今年はなんとヤマオダマキが咲いていました。ヤマオダマキは確か以前にも咲いたことがありました。こうして見ると草花は互いに譲り合って咲く順番を決めているのかもしれませんね、競い合うよりもずうっと良いと思いました。

スオミ教会 手芸クラブのご案内

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5月の手芸クラブは27日(水)10時~13時に開催します。

今回はビーズ刺繡のテクニックを使ってアクセサリーを作ります。ビーズ刺繡とは布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付ける刺繡です。もともと服の飾りに使われた伝統的な手芸のテクニックで、今でも人気があります。このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品を作ることが出来ます。

是非ご一緒にビーズ刺繡をしてみませんか? shugei

参加費: 1000円
材料費: 500円 (ピーズ、糸、針 など)

手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。

お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み

℡ 03-6233-7109
www.suomikyoukai.org

歳時記

偽アカシア(別名:針槐 ハリエンジュ)

〈神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 創世記129

山梨県は四方を山に囲まれています、東に秩父山地、西に南アルプス、南に御坂山地、北に八ヶ岳です。ぐるりの山々から甲府盆地目がけて釜無川、笛吹川、大武川等の川と更に多くの支流を合わせて流れ込み富士川となって太平洋に向かっています。それらの川筋に沿って高さ約20メートル程の針槐の疎林が続きます。初夏になると、それらの木々に一斉に白い英をつけます。香りのよい花は天ぷらにすると上品な味のする一品になります。五月の連休明けに山梨に行ってきました、釜無川の河原に降りて心行くばかりに針槐の花を愛でて来ました。帰りには勿論、英の沢山ついた小枝を手に。

5月の料理クラブの報告

5月の料理クラブは16日に開催しました。季節はもうフィンランドの夏を思わせる陽気でした。今回のメニューはオーブン料理の「リンドストリョーム・ピヒヴィ」(ひき肉とビーツのハンバーグ)とロホコ・ぺルナ(ブロックポテト)です。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にリンドストリョーム・ピヒヴィを作ります。ハンバーグにビーツを入れる少し珍しい料理です。先ずビーツをすりおろします。それから玉ねぎを炒めて材料を順番にボールに入れてよく混ぜます。「わぁー、赤くなって面白い!」と驚き声が聞こえます。ハンバーグの形を作って鉄板に並べ、即オーブンに入れて焼きます。

次はロホコ・ペルナの番です。新ジャガが美味しい季節です。ジャガイモを洗ってブロック形に切ってしばらく茹でます。半熟になったらお湯を切って鉄板に並べます。その上にサラダ油を塗って塩コショウをかけます。そしてオーブンに入れて焼きます。その時リンドストリョームのハンバーグは少し色が変わっていました。これからどんなものになるのか楽しみです。

オーブンで焼いている間、サラダやテーブルのセッティングを楽しくお話ししながら準備します。そうしているうちにリンドストリョーム・ピヒヴィもロホコ・ペルナも出来上がりました。「お腹が空いたから、早く味わってみたいわ」と皆さん待ち遠しそう。

早速、料理を温かいうちにお皿に盛りつけて頂きます。「美味しい!」との声があちこちから聞こえました。皆でフィンランドの家庭料理を美味しく頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時フィンランドの春の季節の種まきや、聖書のみ言葉の宣べ伝えが心への種まきにたとえられることについてお話を聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間6月から8月までお休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!

料理クラブの話

今日は久しぶりにフィンランドの家庭料理「リンドストロョーム・ピヒヴィ」と「ロホコ・ペルナ」を作りました。フィンランドではジャガイモの料理を殆ど毎日作るので、ジャガイモはフィンランドの食文化の中でとても重要な食材です。ビーツはフィンランドの食卓には昔から欠かせない野菜で、今でも多くの家庭の菜園で育てられます。

私の実家でも毎年、学校の夏休みになる6月の初めにいつも野菜畑にビーツの種を蒔きました。芽が出るまで3週間くらいかかりましたが、その間畑に出てくる雑草を抜き取らなければなりませんでした。8月になると、ビーツは十分大きくなって、採って茹でて、ビーツのサラダを作って美味しく食べました。ビーツはビタミンA,B,CとE,そしてミネラルも豊富に含まれているからです。ビーツの料理をもっと食べるようになれば、人々の健康にもよい影響があるでしょう。

フィンランド人はどのようなビーツの料理を作るでしょうか?最も一般的なものは、甘酸っぱい酢漬けです。これはビーツを収穫した時期に作るもので、一年中保存できます。また今日のようにハンバーグの中に入れたり、スープやキャセロールやサラダなどに加えたりします。今日作ったリンドストロョーム・ピヒヴィは、季節に関係なく一年中、家庭料理だけではなく、学校の給食にも出されます。

これからフィンランドは新じゃがが美味しい季節になります。6月になると新じゃがが店で販売されるようになります。最初は値段はとても高いですが、大きくなるにつれて価格は下がります。

フィンランドはこの5、6月は畑仕事、土づくり、種まきの季節です。農業している私の弟も実家の畑仕事で忙しい時期です。先日、メールが届いて、「種まきは順調に進んで種きが終えました。こんなに早く終わるのは珍しいので神さまに感謝しています。」と書いてありました。しかしこのような春はいつもではありません。ある年の春は雨が多くて寒さが続いたので、畑仕事や種まきは5月の終わり頃や6月の中頃になってしまったこともありました。このような年は私の父は秋の収穫のことを考えてとても心配していました。

毎年種まきが終わってから芽が出るまでの間には心配もありましたが、同時に楽しみや希望もありました。芽が出てくると、穀物の成長と良い収穫の期待が膨らみわくわくしたものです。芽が出た後も畑には様々な仕事がありましたが、穀物の成長に最も大きな影響を与えるのは天候です。天候は天の神さまの私たち人間に対するよい思いが秘められていると思います。もちろん豊作の年もあれば不作の年もあります。豊作の年は感謝の気持ちで満たされますが、不作の年にはがっかりし残念な思いになります。しかし同時に次の年への希望、今年より良い収穫になることへの期待を持つことができます。

私は農家の働きの経験を通して天の神さまは大いなる方であり、どのような時にも共にいてくださると信頼して大丈夫というお方だという思いが深まりました。聖書も種の成長について教えています。旧約聖書のイザヤ書には次の言葉があります。

「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生き茂らせ種まく人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉もむなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ私が与えた使命を必ず果たす。」
イザヤ章55章10~11節。

種をまき芽が出て成長していく姿を見ると、本当に神さまは大いなる方だと分かります。小さな種が多くの実を結ぶのは神さまの御手の働きによるものです。私たちはその働きを直接目で見ることはできませんが、結果を見ると神さまの働きがあったことが分かります。神さまが種の成長のために雨を降らせて下さるからです。不作の年もあるかもしれませんが、そのような時にも神さまは私たちと共にいてくださり将来への希望を与えて下さいます。神さまは決して見捨てることをしません。

CC0ところで、聖書の種が出てくる教えでは、種はよく天の神さまのみ言葉にたとえられます。種が蒔かれる地や土は私たち人間の心を意味しています。神さまの言葉とは聖書のみ言葉のことです。それで、聖書の言葉‘を読んだり聞いたりすると、心に神さまのみ言葉が蒔かれたことになり、神さまは成長を与えて下さいます。そして神さまと私たちとの結びつきが強くなります。心の成長は、神さまとの結びつきなくして私たちの自分の力や努力で得ることは出来ません。それは種の成長と同じように神さまの働きによるものです。神さまが働いてくださると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに打ち明けて委ねるようになります。神さまとの結びつきが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。

私たちは、これから畑で穀物などの成長を見る時は、これは神さまが与えて下さることなのだと覚えましょう。そして神さまは同じように私たちに信仰と心の成長も与えて下さることも覚えましょう。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その12

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」5月7日の日課から)
『今日立てられているものは全てあなたの決定による。なぜなら、全てのものはあなたに
仕えるものだからだ。』(詩篇119篇91節フィンランド語訳の聖書による)
(注意 日本語訳「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなた
の僕です」は問題です。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは日本
語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書(Holladay)にはその意味はなく
、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です。日本語訳は89節からの流れを踏
まえておらず、90節のエムーナーテカー(あなたの誠実さ)も誤訳しています。訳した人
たちは自分で何を言っているかわからなかったのでは。フィンラン語訳には「なぜなら」
がなく、ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)
『ふつう、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、理
性はこの聖句を前にして顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい
近い存在であるということを理性はわからないからだ。我々はそれを信じられなければな
らない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られな
いと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前で跪かねばならなくなると既に決めていた
のだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在
なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさと喜び
祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。
同じことは我々の死にも当てはまる。我々は、死に臨む時、あたかもそこに永遠に埋没し
てしまうかのように思われるかもしれない。しかし、まばたきした瞬間に今の天と地が終
わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「
ああ、私は永遠に生ける者になっている!」
以上のことを神は聖書の中で我々に数多くの事例をもって示しているではないか。神は低
い者を高くし、高い者を低くされる。全てのことはそうされる方の御言葉通りに進む。そ
れは、我々が神を度外視して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを
最終的には神の御心に委ねるしかないと観念して全面的な信頼を寄せられるようにするた
めなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りになら
ないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』(以上ルターの説き明か
し、2026年5月11日の週報に所収したものを少し修正しました。)

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歳時記

〈1たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。詩編121:1・2〉

半年ぶりに北斗市白州に行ってきました。山道に続く入口で「俺の木(誰の木か知りませんが、勝手に俺の木と呼んでいます)」が出迎えてくれました。「今年は来るのが遅かったじゃないか」と言って枝を少し揺すって見せました。上から見下ろしていた甲斐駒の団十郎が「ま、折角来たんだからいいじゃないか」と宥めてくれていました。

2026年5月17日(日)10時半 主の昇天主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

今日の聖書のお話
ルカによる福音書24章44〜53節
説教題「み言葉を通して私たちに働かれる主」

2026年5月17日
説教者:田 口  聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように
。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「イエスから弟子たちへ」
イエスは十字架にかけられる前から、弟子たちにご自身の復活をはっきりと約束して
いました。しかし弟子たちは皆そのことを忘れていました。最初に復活のイエスと出会
った女性たちがイエスが復活したという知らせを伝えても弟子たちは信じません。ある
弟子たちは失望のうちにエルサレムを離れてエマオという村に帰ろうとさえします。し
かしそんな彼らのところにイエスの方から現れてくださり彼らの目を開いてくださいま
す。彼らはイエスが復活したと信じてエルサレムに帰り他の弟子たちに伝えます。しか
しその時も弟子たちは信じませんでした。そんな弟子たちに再びイエスの方から現れる
のです。それでも弟子たちは「霊を見ているのだ」と信じません。しかし、そんな信じ
ない弟子たちをイエス様は怒るのでも見捨てるのでもなく、ただ自分の身体を触らせる
のです。それは弟子たちが「信じて、喜び、安心するため」でした。そのようにして弟
子たちは自分からは信じることができないのです。しかしイエスはそんな弟子たちを、
たとえ彼らがどれだけ悟るのに遅いものであっても、そこで裁いたり責めるのではなく
、むしろそんな彼らのためにこそ信じるように「イエスの方から」働いてくださり、イ
エスが信仰を与え、信仰を強め、安心させてくださる、「絶えることのない恵み」を現
されたのでした。
2、「どのようにイエスは働かれるか」
イエスは同じように私たちにもいつでも「イエスの方から」働いてくださるのですが
、今日の福音書からは、ではどのようにしてイエス様は働かれるのかをイエス様は伝え
るのですが、とりわけこれから天に昇られその姿は見えなくなる時、それでもイエス様
はクリスチャンに働かれる、それがどのように働かれるのかを、イエス様は教えようと
するのです。イエスは信じない弟子たちに「イエスの方から」現れ、語りかけ、触れさ
せ、魚まで食べて見せてご自分が生きていることを信じさせるのですが、最後にイエス
はこのような言葉で結ぶのです。44節
「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いて
ある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っ
ておいたことである。」
イエスは、ここで弟子たちを最も大事なことに立ち帰らせます。それはイエスが十字
架で死んで三日目に復活するということは、それは突然、湧いて出てきたような新しい

2 /

教えではなく「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである
」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時に、「その頃にすでに話して
いたことではないか、そして、それは旧約聖書全体において約束されてきたことである
と教えてきたことではないか、そのことが全て成就すると既に解き明かしてきたことで
はないか」とイエスはご自身の約束したみ言葉に立ち返らせるのです。
A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」
このところは何を伝えているでしょうか。一つは、聖書は全てイエス・キリストを指
し示している、イエスを伝え証しているということです。ここでイエスご自身が「わた
しについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてある」と言っています。この時代、聖
書は「モーセの律法、預言書、詩篇」です。つまりそれは私たちがいう「旧約聖書」を
指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきり
と言っているのがわかります。この言葉の通り、旧約聖書の言葉もまた、全てキリスト
を中心としていて、やがてくるキリストを証していたのだということは、それは後の弟
子たちや初代教会の教父たちが考え編み出した教えでは決してないことがわかります。
それはイエスご自身がそうだと証ししていることなのです。ですから私たちは旧約聖書
を読んでいくときに、このことは大事な助けになります。旧約聖書にはただ律法的な言
葉が並んでいるのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラ
エル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・
キリストを指し示しているのです。ですから、旧約聖書もキリストを中心として、しか
も十字架と復活を中心に読んでいくとき、そこに私たちは福音と神の本当のメッセージ
を聞くことができるのです。事実、私たちのマルティン・ルターは新約聖書学者ではな
く、旧約聖書学者でした。彼の旧約聖書の註解や講解を読むと、そこでは明確にキリス
トの説教がされていることに気付かされます。そのように旧約聖書にもキリストの福音
は溢れているのです。
B, 「聖書の神のみことばを通して」
第二に、イエスご自身が絶えず聖書を通してみ言葉を語ってきたという事に立ち返っ
ているという事です。それがイエス様の働きの原点でした。つまり主なる神はそのよう
にみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を人々に与え続けることによって、
弟子たちに働き続けてきたということをイエス様はストレートに証しします。イエスは
そこから決してずれません。それが彼らの前に現れ、直接、触れさせるという具体的な
介入をされたとしても、その「み言葉を通して」の一点は決して変わらずとても大事な
んだということがここから伝わってくるのです。
C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」
それはなぜでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。
「わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあることは、必ず全部成就する
ということでした」44節
と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「み言葉にこそ神の力はある」から
です。そして、み言葉こそその通りになる真実な力であるからに他なりません。旧約聖
書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に
「はじめにことばがあった」とある通りです。そして神は言葉で世界とアダムとエバを

3 /

祝福し、言葉で二人を導きます。そしてアダムとエバの堕落は、神の言葉への疑いと否
定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現
わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハ
ムを「まだ見ぬ地へ」遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ないような言葉も
あります。100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑い
ます。それに対して「主にとって不可能なことはあろうか」というその通りに、主の言
葉こそ成就していくでしょう。アブラハムとサラが疑ったその思いの通りになっていっ
たのではありませんでした。あの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉による
ものでしょう。そしてヤコブはまさに神の約束の言葉を信じて歩んでいき、神の言葉の
通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、神を見ることができま
せんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、言葉はその
通りに成就していきます。彼は最初は自分にはできない他の人を遣わしてくださいとさ
え言っています。しかし、まさに神はモーセを約束の言葉を与え導くでしょう。それは
、ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。
ダビデをはじめとする詩篇の沢山の記者もまさにそのことを沢山、証ししています。そ
れは新約聖書でも全く同じで、まさに福音書で見てきたこともパウロの手紙も、み言葉
はその通りになる、真実な言葉であるということであったのです。そのことで一貫して
いるのです。それと変わることなく、イエスはここでもその大事なことへと弟子たちを
向けさせようとしている。そして、同じように、2026年5月を生きる私たちをもそのみ
言葉こそ真実で力があるということへと向けさせようとしているのです。
3、「「イエスが心を開いて」とある」
事実、神であるイエスは私たちに対しても、「イエスの方から」「神の方から」の恵
みの大原則を決してやめません。今でもイエスは、私たちへ、イエスの方から、絶えず
、働いています。しかしその素晴らしい恵みは、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実
な約束と、その通りになるその力を与え続けてくれており、それによって私たちを力づ
け、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。
そしてみ言葉だけではありません。私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉
とともに私たちに力強く働く、私たちに与えられている聖霊による神の恵みがあります
。こう続いています。
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。「次のよう
に書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の
赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」45−48節
「み言葉が大事だ」ーそう教えれる時に、ある人はこう言うかもしれません。「ああ
そうか。み言葉が大事だから、自分の力と意志の力で頑張って努力してみ言葉をもっと
悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」「〜しなければ行けない」
と。しかしそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言わ
れて、では「自分から自分の力でもっと悟らなければ」と言って自ら悟りに至ってはい
ません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるで

4 /

しょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。
誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかったかもしれません。
しかしそのイエスの十字架と復活にある恵みの真理と意味を知り、それを信じ確信し喜
ぶ「信仰」は彼ら自身からではないのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分
が」となったかもしれません。しかしそれだと実は福音を全く悟っていないこと同じで
す。しかし事実は、み言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開い
たのは、彼ら自身ではなくイエスであったことがここにはっきりと書いてあるでしょう
。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と。
み言葉を通してイエスは働きます。み言葉こそ力です。しかし私たちはそこで律法的
に捉える必要はありません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちを喜びと平安を与
えその歩みを導いてくださるのもイエスなのです。「あなたがたが自らで、信じて、確
信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でし
ょう。矛盾するでしょう。「頑張って、喜ぶ、安心する」というのはできない、成り立
たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。み言葉を持って絶えず私
たちに働き、そしてイエスが心を開いて福音を悟らせてくださり、その福音によって私
たちに喜びと平安が与えられるのです。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法
でもなく神の恵み、賜物であり、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせる、そ
れが賜物として信仰の素晴らしさであり、それはこのところ「イエス様が心を開いて」
ということにも一致するのです。
4、「何を宣教するのか。福音とは何か」
そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示
唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまり
これは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め
」こそ宣教すべきことであり福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は
「罪や悔い改めは現代の人々が聞きたくない暗い言葉、聞きたくない言葉だから語って
くれるな」と、教会から敬遠され語られなくなることはよくあります。その方が人が集
まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確か
に愛は強調されますが、どんな愛なのでしょうか。十字架と罪の赦しのない「神の愛」
などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと福音とは何か、証すべき宣教すべき
は何かを伝えています。罪の赦しを得させる悔い改めだと。十字架の事だと。そしてそ
の罪の赦し、十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです
。そうです。人間の理性や常識では、罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません
。人間の理性や感情では「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いこ
とです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、そ
れが普通かもしれません。ですから人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は
、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいこと、私たちが悟り
得ないことです。しかしだからこそ、ここで罪の赦しを得させる福音が証しされるべき
福音なのだと言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身では
できない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれていること

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がわかるのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、十字架の罪の赦しは
、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与
えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当
の証し、本当の宣教、本当の隣人愛や良き行い、真の奉仕になっていくのではないでし
ょうか。イエスはそのことを伝えてくれています。そのことを保証するように49節の
言葉が続いています。
5、「み言葉と聖霊」
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまで
は、都にとどまっていなさい。」
と。そう、聖霊を与える約束がここにきちんと伴ってるのです。イエスはこの後、天
に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」
は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ主は共にお
られ「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰
に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。主イエスは天に昇られ目に確かに見
えなくなります。しかし「世の終わりまであなた方とともにいる」(マタイ28:20)と
約束されたように、昇天されてもイエス様は弟子たちに対して働いてくださり、それと
全く変わらず、聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださ
り、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通し
て、賜物である信仰に」なのです。ですから説教でみ言葉が語られている時、それは牧
師という罪深い人間を用いて、イエス様ご自身が私たちに語っている素晴らしい時です
。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持
って証するように遣わすためにです。牧師はそのための罪深い道具にすぎません。ルタ
ーは錆びた斧だと言っています。錆びた斧を用いて神は宣教をされるのです。まさに人
に、つまり使徒達自身に力があったのではなく、父子聖霊なる神が働き宣教をなさる。
だから約束のものが与えられるまで「都にとどまっていなさい」なのです。そのように
イエスが私たちに働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦
しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。
それはイエスしか与えることができません。その約束があるからこそ52〜53節にあ
る通り、約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たさ
れ、賛美に溢れて主のなさることを待っていたのです。その信仰、その喜びはどこから
来るのか?賛美はどこから来るのか?パウロはこう言っています。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことば
によるのです。」(ローマ10:17)
と。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心
して行きなさい」と。この週も福音をそのまま受け取り、平安に満たされて、ここから
遣わされていこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリス
ト・イエスにあって守るように         アーメン