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2026年1月4日(日)10時半 降誕節第二主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネによる福音書1章1〜18節
「恵みと真理に満ちた父の独り子としての栄光」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように
。アーメン。
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
使徒ヨハネは、福音書の初めを、御子キリストが世の始まる前からおられ、天地を創
造をされた神であること。そしてその神が、堕落し闇を彷徨う人類を決して見捨てず、
その闇から救い出すために闇に輝く光である御子イエス・キリストを私たちに与えてく
ださったその三位一体の神による救いの恵みを高らかに宣言します。そして6節以下、
光ではないけれども、その光である救い主を指し示す預言者を約束しその通りに与えて
くださったと伝えます。その預言者が指し示すまことの光の到来について、使徒ヨハネ
は次のようにいいます。
2、「すべての人」
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」9節
と。「すべての人」です。3節では「すべて」は天地創造のことを指しているでしょ
う。ですからこの「全ての人」は、誰一人漏れる事も、例外もない「全ての人」です。
つまり救いも恵みもその対象は神の前にあっては、選びの民イスラエルだけではない。
あるいは、世の人々や社会がそれぞれの価値観や正義で、良い悪い、救われる救われな
いと評価したり判断したりする、そのような人間が作り上げる制限や資格や条件なども
全く関係ない、あるいは、異なる宗教の人々は除外される、でもないのです。実に、マ
タイ2章ではその救い主の知らせは東の占星術の学者に伝えられたことを記しています
。それは東方ペルシャの異教の民です。そのように聖書のまことの真実な神、救いの神
は、星を用い、この当時も異教であったその民にも世の救い主の到来と喜びを伝え、礼
拝に招きました。また、ルカ2章、野で夜番をしていた羊飼い達にも真っ先に救い主の
到来は伝えられました。羊飼いは、最も身分の低い、貧しい、3Kの仕事をする人々で
した。しかしそんな彼らがこの最初のクリスマスの礼拝に招かれています。御遣いは彼
らに「あなたがたのための救い主が生まれた」と言いました。そして御遣いは彼らの前
で喜びを讃美したでしょう。そしてその救い主イエス様は成長し宣教を開始された時、
世が蔑み、退けるような取税人達や罪人達とさえも、いや彼らのところにあえて行き友
となり、ともに食事をし「ここに救いが来た」「医者を必要とするのは病人です。私は
罪人を悔い改めさせるために来た」といって、彼らにまさに救いの光を輝かせたではあ
りませんか。まさに「全ての人」です。誰一人例外はありません。除外されないのです
。つまり、私たち一人一人もです。それは私たちがどんなものであっても、どんなに罪
に打ちひしがれて、自分が神の前にふさわしくないものだと思っても、しかし主はその
ようなあなたのために、わたしたちのために、あなたを、私たちを照らすために、来ら
れた救い主、まことの光、それがイエス・キリストだという約束なのです。

2 /

3、「人によらない」
A.「人は知ることができなかった」
そして10節以下、その「救い」というのは、私たちのわざや力ではできない、あり
えないことなんだと、この福音書の記者、使徒ヨハネは続けています。「この方はもと
から世におられ、世はこの方によって造られた」と、全てのものはこの方から生まれ、
この方がすべて、この世、私たちの初めであったのに、しかしその世界、そのすべての
人は、この方を知らなかったとあるのです。その通り神が遣わした「指し示し、この方
こそ救い主だ」と示す人が遣わされたからこそ民は救い主の到来を知りました。同じよ
うに私たちも、自分からキリストを知って信じたのではありません。まさに私たちもみ
ことばによって示されたから、聖霊によって教えられたからこそ、キリストと出会いそ
の救いを知ったでしょう?私たち人間は誰も、みことば、聖霊、そしてそのみ言葉と聖
霊によって召され遣わされた伝えるもの、そのような神の恵みがなければ「この方をし
らなかった」、知ることができなかったのです。さらに11節、
B、「民は受け入れなかった」
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
と続いています。言葉であるその方は、ご自分のもの、ご自分の所有の所に来られた
のに「ご自分の人々」は受け入れなかったというのです。このところも「民」というの
はイスラエルの人々をさすのだと理解する人もいますが、1節からの文脈をみても、そ
の「民」は、まさに私たち「すべての人」のことでしょう。つまり、私たちは神に命を
与えられた神のものであり、神の所有する人間であるのに、私たちはこの方、救い主を
受け入れなかったのです。これは、人の堕落以来、変わることのない罪の性質を伝えて
います。私たちは堕落の子であり、私たちは自らではこの方を知らない、そればかりか
神そのものを拒むもの、受け入れないものである事実、現実です。まさに最初の人は、
神の言葉よりも、誘惑するものの「目が開かれ賢く、神のようになれる。善悪を自分が
判断して自分が裁判官になれる」そのような声を受けれます。実にその通りに、今も人
は、神の言葉よりも、自分のことば、思い、考え、知識を中心に、それらをすべての判
断の基準にするのが当たり前です。それはキリスト教会の中でさえも、神の言葉に人間
の理性を従わせるのではなく、逆で、神の言葉を人間の堕落した理性や感情や知識に従
わせる。それらに基づいて神の言葉を理解することのほうが正しいという声は少なくあ
りません。旧約聖書の歴史はまさにそのような人間の歴史であり、カイン然り、ノアの
家族以外の人々然り、バベルの塔の人々然りです。そればかりではありません。まさに
神の恵みでエジプトから脱出した救いの民、イスラエルの民さえもそうであったでしょ
う。目の前の困難な現象だけで、神の恵みを忘れてモーセを批判し神へ不平不満を言い
、神への信仰を軽んじてアロンに金の子牛を造らせ、神に背きました。そのように神に
助け出され救われ、神の恵みを知っている人々でさえ、神の言葉の真実さを疑い、神の
恵みを忘れ神を捨てようとする、それが人間の性質であることを聖書は見事に描き出し
ています。「この方はご自分のくににこられたのに、ご自分の民は受け入れなかった
。」ーこれは、旧約聖書を通して証しされている堕落した人間の姿であり同時に今も変
わらない私たち人類の姿なのです。

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C、「誰でも受け入れ救われる。しかしそれは人の力によらない」
しかし、まさにその現実があるからこそ使徒ヨハネは福音を宣言します。12節
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与
えた。」新改訳聖書では「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じ
た人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」
この方を受け入れた人々、イエスの名を信じた人々は、神の子とされる特権が与えら
れる。誰でも、どんな人でも、その名を信じるなら、キリストを受け入れるなら、救わ
れる。神の子とされる。素晴らしい福音の約束です。しかし、13節でもこう続いてい
ます。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもな
く、神によって生まれたのである。」
その信じる事、神の子とされること、救われる事、それは人の肉の力、人の思いや意
欲、熱心、情熱、願望でさえないと、ヨハネは言いきっています。皆さん、どうでしょ
うか?「受け入れる、信じる」ということ。それは、私たちの努力や行いの結果だと思
っていないでしょうか?救われるために、信じるために、恵みに値するものとなるため
に、まず私たちの行動、思いや熱意、あるいは決心が必要なんだ、そう思っていなかっ
たでしょうか?皆さん、それは違います。それは間違いだと使徒ヨハネははっきりと言
っています。まさにヨハネやパウロの時代はギリシャ哲学全盛の時代です。アリストテ
レスなどは、救いのためには、人の最善のわざがまず必要だと教えましたが、そのよう
な人気のある教えやそこから派生した様々な哲学の教えが教会を脅かしていた時代に生
きていた説教者が使徒ヨハネであったのです。そのような哲学の影響はヨハネの後の中
世の時代の教会の神学にさえ及んでいきます。著名な神学者達は、救いのためには、恵
みだけでは不十分で、人の行いや決心や意志が救いのために必要だ、数パーセントでも
人の側のわざが救いのためには必要なんだと教えていきます。使徒ヨハネはいつの時代
にもそのように流行っていく間違った行為義認の救いの教えに対してはっきりと「ノ
ー」というのです。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神
によって生まれたのである。」
と。私たちの信仰も救いも、それは、人の行い、人の側のなんらかの貢献に一切より
ません。人の思いや意志、熱心、決意にさえも一切よりません。人のわざ、肉にわざ、
血のわざではない、ただただ「神による」のだ、これはまったく100%恵みなんだ。ヨ
ハネの非常に明確な福音の説教がここに私たちにも伝えられているのです。
皆さん、私たち自身には、数%も、キリストを受け入れる、信じる力などありません
。私たち自身はどこまでも神を知らない、受け入れない罪人です。その現実を前に、私
たちの血、私たちの肉の意欲、決心、わざに救いに貢献しうる力などあり得ないのです
。しかし、聖書は使徒ヨハネを通して伝えます。私たちは神によって、神の創造の力、
みことば、神の恵みによって、そして御子イエス・キリストによって、私たちは新しく
生まれたのだと。神が、神の方から、キリストを私たちに与え、御言葉を与え、信仰を
与え、洗礼を与え、救いを、聖霊を、新しいいのちを、神が与えて下さった。ただただ
神の恵みにより、恵みの賜物、信仰を与え、私たちを受け入れるもの、信じる者として

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下さった、神の子としてくださった、『神が』そのようにしてくださった、『神が』生
んで下さった、その神の恵みのゆえに、今私たちクリスチャンは存在する。信仰は律法
ではありません。信仰はどこまでも福音なのです。その福音の確かさ、真実さがここに
私たちに、私たちのために今日も宣言されているのです。
4、「恵みと真理とに満ちた父と独り子としての栄光」
そしてそれは実に不思議な方法です。14節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。わたしたちはその栄光を見た。それ
は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
A、「救い主は私たちの間に」
天地万物を創造された「ことば」である方は、なんと「人となって、私たちの間に住
まわれた」とヨハネは見たままを証しします。創造の神である方が人となられた。それ
だけでない、ヨセフとマリヤの記録で見てきたように、戸惑い恐れるものに喜びと平安
を約束される。異教の東の民にも喜びの知らせは告げられ、最も身分の低い羊飼いを最
初の礼拝者として招き、彼らの前で天使の軍勢は賛美をし、救い主のところへと導いた
。さらにその人となられた創造の神である方は、人の間に一緒に生活し、社会が避け嫌
う罪人を裁くのではなく、断罪し滅びを宣言するのでもない、蔑み差別し退けるのでも
ない。むしろ彼らと友になり一緒に食事をし喜びも悲しみも苦しみも共にされます。そ
して、なんとその私たちの罪を全て代わりに背負って十字架にかかって死なれた。そし
て復活された。創造の神である方が人となられ私たちの間に住まわれた出来事。それは
全世界を創造された果てしなく大きなお方が、なんとその全世界の中で塵よりも小さな
反逆の罪深い存在を愛された、その証しなのです。
B、「神の愛とは何か?栄光とは何か」
そしてさらにヨハネはその「栄光」を見たと言っています。その「栄光」とはなんで
すか?みなさん、神の愛も、その栄光も、何よりも、その父の一人子としての栄光、そ
れはまさに十字架にこそはっきりと現されているものに他なりません。なぜならヨハネ
はこう記し私たちに伝えているからです。ヨハネの手紙第一4章9−10節。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるよ
うになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが
神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとし
て、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
私たちは誰も受け入れなかったのに、そのような私たちのために、世の初めにおられ
、天地万物を創造された言葉であるお方が、神であるお方が、神の方から、なんと、そ
んな罪深い、信じない受け入れない、どこまでも自分中心で自分を愛することしかでき
ないようなそんな罪人である私たちのために、私たちのその罪とその咎、私たちが本来
受けなければならなかった罪の報いをすべて代わりに背負って償ってくださった。そし
てその十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言し与えてくだ
さる。それほどの大きな愛はないと聖書は伝えます。いやキリスト教の伝える愛という
のは、まさにキリストが十字架で現された愛であり、この十字架を指してこそ神は愛で
あると聖書ははっきりと伝えているのです。ですから「神は愛」というのは、単なる隣

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人愛や道徳の指針でもなければ、現代流行りの、人間の側で何か都合よく解釈され人間
の都合に当てはめ利用されるような便利な言葉としての「ポップな神の愛」では決して
ないのです。現代のキリスト教会では、現代人は聞きたくない、人が教会に集まらない
からと、なるべく罪や悔い改めなどに触れず、十字架までも傍に置いて、人間の都合の
良い耳に優しく解釈された「神の愛」が「人間的な愛」にミックスされたり歪められた
りして伝えられるというのが教会のトレンドなのかもしれませんし、その方が人は集ま
るかもしれません。しかし、聖書は明らかです。この十字架を抜きに神の愛は語れませ
ん。そしてこのキリストの十字架の死ほど大きな愛はないのです。そしてこの十字架を
指してヨハネは「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であっ
て、恵みと真理とに満ちていた。」と伝えているのです。つまり、よく教会内で私たち
が自分の力で神の栄光を表すことに敬虔さがあるように言われますが、栄光は、私たち
の栄光ではないのです。私たちが努力して達成し実現し獲得する、そんな栄光ではあり
ません。「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とはっき
りあるではありませんか。それを私たちの行いや努力でまず表す栄光、それを神のため
に表し、神に捧げるそんな私たちにかかっている栄光であるなら、それはある意味、こ
の聖書の言葉に反対する偶像礼拝になるでしょう。栄光は私たちが自分の力で達成する
わざではないのです。どこまでも
「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ーイエス様の十字
架と復活にこそ神の栄光が表され、それは恵みとして私たちに与えられるもの、それは
恵みと真理に満ちているとヨハネは証しします。
5、「終わりに」
救いはどこまでも恵み、すべての人々のために来られた救い主がすべての人の前にそ
のまま受け取るように差し出してくださっている、十字架に現された神の栄光を誰でも
そのまま受け取る、それは恵みですから、そのまま受け取る、救いはそれだけでいいの
です。そしてそれはクリスチャンとして生きる信仰生活も変わることなく貫かれている
のです。「救いは初めだけ洗礼の時まで天からの恵みで、洗礼の後の生活や聖化は私た
ちのわざと達成によるのだ」と思っていないでしょうか。そうではありません。この「
ことばは、神は、人となって私たちの間に住まわれ」「神が私たちのところへ、私たち
のために」という原則、栄光と恵みと真はキリストに満ちているということは、クリス
チャン生活においても天に帰るときまで変わらないのです。洗礼を受けたら、それらキ
リストの恵みもまことも私たちから無くなり、あとはあなた方の努力で神の栄光を一生
懸命、達成してくださいとはならないのです。聖書は、クリスチャンに、律法に生きな
さいとは言わず、御霊にあって福音に生きなさいとどこまでも勧めているでしょう。「
信仰」「信じる」とはそのように恵みであり福音なのです。「信仰生活」の「信仰」と
は何でしょうか?それは「信頼」です。信頼とはどういうことでしょうか。それは、ま
さに幼子と親です。幼子が親の愛情にただすがり、頼り、依存し安心する姿です。その
ような子供の信頼は達成するものではないでしょう。親の助けが必要な弱い幼子が、た
だ受け取りただすがるものではありませんか。それが信仰、そして信仰生活だというこ
とです。ですから、12節でもヨハネは、救いは「神の子とされる」ことだとも言って

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いるでしょう。信頼です。それはクリスチャンになってからもずっと真実な神とその約
束、福音への信頼なのです。私たちのところへ来て下さった神様へ、子供が安心して父
親、母親に抱かれるように、神様に抱かれるように信頼することなのです。今日もイエ
ス様はそんな子である私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています
。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様の福音をそのまま受け取り、イエス様
に全てをお任せして、安心してここから世に遣わさされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリス
ト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その3)

1228日のコラムの続き)確かにローマ12章は命令文が多い。しかし、「ローマ」を最初から丹念に中断することなく根気強く読み進めて12章に到達すると、これらの命令は普通の命令とは異なる響きを持つのだ(ギリシャ語原文では12章は動詞の命令形は少なくて大半は分詞の形である、この観点からの考察は別の機会に譲る)。どんな響きかというと、「読者諸君よ、君たちの立ち振る舞い行動様式はこのようなものになるのだ」と気づかせてあげるようなものなのだ。どうしてそんなことが言えるのかというと、読者は12章に到達する前に少なくとも2回、心を揺さぶられて神の御前に跪くような心の状態になっているからだ。

まず3章から8章までパウロは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼によって人は神から義人と認められ死の滅びから救われるという「信仰義認」を説く。そして8章の終わりで、何ものもこの義認と救いを奪い取ることはできない、それ位に神の愛は強いものであることが説得力をもって説かれる。読者はここで心を揺さぶられて感謝のあまり神の御前に跪くことになる。

次は9章から11章まで。パウロはユダヤ人の多くが信仰義認を受け入れず、掟を守ることで義人と認められようとする路線を取り続けている現状を悲しむ。他方で異邦人が信仰義認のキリスト信仰をどんどん受け入れる現状がある。これをパウロは、将来ユダヤ人が信仰義認を受け入れるようになるために今異邦人のキリスト信仰受け入れが起こっているのだ、神はユダヤ人を決して見捨ててはいないのだという恩恵を旧約聖書の預言に見出だす。11章の終わりで読者はパウロと共に人知を超える神の先見にただただ敬服し神の御前に跪くしかなくなる。

このように読者は2回心を揺さぶられて神の御前に跪くという、とことんへりくだった状態で12章に到達する。そこで冒頭の「神の憐れみによってあなたたちに勧めます」を目にすると、もうその通りにするしかない、それ以外に在りようがないという心になるのだ。なぜなら「神の憐れみ」には、3章~8章と9章~11章で言われていたことと8章と11章の終わりで結実しているものが詰まっているからだ。

このようにローマ12章の諸々の命令は、神の御前に跪きへりくだった状態にあるキリスト信仰者が聞いてその通りにするしかない、それ以外に在りようがないというものばかりなのだ。しかし、信仰者がそれらをそのように当たり前のように聞き入れる心を持てるのは、「神の憐れみ」に対する感謝と敬服のゆえだけではない。実は聞き入れる「心」そのものを神から与えられているのだ。(さらに続く)

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新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日 説教 吉村博明 牧師

新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日
スオミ・キリスト教会

民数記6章22~27節
ガラテヤ4章4~7節
ルカ2章15-21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 西暦2026年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーは昨年の11月30日に始まった待降節が新年の幕開けでした。今日は、日常というのか世俗というのか、普通のカレンダーの新年の幕開けです。どちらにしても、新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。
 新年のこの日、日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。そういうわけで新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。
 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後は、今日のルカ福音書2章の聖句にあるように、このひとり子がイエスと名付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日の今日となります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。

2.イエス・キリストの名前の意味

 まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。
 そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう終末論が旧約聖書の預言にはあると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。そういうこの世的でない、超越した王のことです。この世的であれ超越したものであれ、メシア「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
 次に「イエス」の方を見てみましょう。これもギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は「主が救って下さる」という意味があります。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語のイエス・キリスト)になったのでした。

3.律法の下に生まれ、律法の支配下にある者を贖い出す

 さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと言った時、その理由は「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何からの救いかということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。
 そもそも「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の敵からではなく、罪と死という人間一般の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、人間を永遠の滅びに陥れようとすることから救って下さることです。端的に言えば、罪の呪いから救い出すということです。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。またかと思われてしまうかもしれませんが、キリスト教は何も犯罪を犯したわけではないのに「人間は全て罪びとだ」と言います。でも、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものを指します。造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが私たちは皆等しく罪を持っていることを表しているのです。
 イエス様が人間を罪から救い出すというのは、罪の呪いの力を無にして人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって神の国に永遠に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらていた神罰を全て引き受けて私たちの身代わりになって十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子で神と同質の方で神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者のようになったのです。誰かが私たちの身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにされた理由です。本日の使徒書の日課ガラテア4章で言われていことが起こったのです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
 神の定めた律法に服するようにさせたということは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたことにも示されています。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書の伝統を守る民族の只中にその旧約聖書に約束されたメシア救世主として乙女の胎内から生まれてきました。それで割礼という律法の掟に従ったのでした。全ては人間を罪の呪いから救い出すためでした。
 イエス様の十字架の死と死からの復活の後で全てが一変します。イエス様が十字架で果たして下さったことは、現代を生きるこの私のためでもあったとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪いから救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってであると主張したのです。人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。
 このように私たちには、人間を罪の呪いから解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びきを持ててこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。

4.勧めと励まし

 このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれることからくる嬉しさ、喜びです。この礼拝の初めでベートーベンの第九の「歓喜」の歌に触れました。星空の彼方に創造主は必ず住んでおられることが大きな喜びの元にあることを表現している歌であると。創造主が必ずおられることがどうして大きな喜びになるのか、それを詩篇8篇が明らかにしてくれていると申しました。創造主の神が私たち人間を覚えてくれて面倒を見て下さるからですが、神が覚えてくれて面倒を見て下さることはひとり子を私たちに贈って下さったことに一番強く表れているのです。
 私たちはどのくらい神の目に相応しくなっているのでしょうか?それは、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れてもらえるくらいに、つまり、天のみ国に迎え入れてもらえるくらいに相応しいということです。もし神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いもありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いが叶えられず、どうして?神は聞いてくれなかったのか?神は何か私にご不満なのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は見捨ててなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、その道を私と共に歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思う通りに進むから心配するな、私の目は常時お前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。これが神との結びつきを持って生きるということです。この結びつきは聖書を繙く時、聖餐式に与かる時に強まっていきます。
 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちには神との揺るがない結びつきがあるゆえに大元の嬉しさと喜びがあるのですから、それを忘れずに新しく始まった年を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

写真に写っているのは明治23年(1890年)頃の新宿区戸塚町です、現在はこの戸塚町はありませんが今の早稲田中学校のあたりです。ですからこの景色はまさにスオミ教会のある鶴巻町のごく近くです、明治時代はこんな田圃のある所だったのですね。夏目漱石の住んでいたのは早稲田通りの南側の喜久井町でした。正岡子規と一緒に散歩したのが関口町付近ですからこれも教会のすぐ近くです。正岡子規の「墨汁一滴」と言う随筆があり、その中に「稲」と「米」について漱石が東京生まれで田んぼのそばに住んでいたにもかかわらず、稲が実り米になると言う事を知らずにいたことを記したのがありますのでその一節を「・・・余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居いをせねばならぬ。・・・」とユーモラスに記しています。

2026年1月1日(木)10時半 新年礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師

聖書日課 民数記6章22~27節、ガラテヤ4章4~7節、ルカ2章15~21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

讃美歌 49、3、467、51

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは天と地と人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。その上、罪を持つ私たちを救いの業によってあなたの目に適う者になれるようにして下さいました。どうかこの新しい年も、この救いの実現して下さったイエス様を真(まこと)の救い主と信じる信仰を携えて、日々あなたへの感謝を忘れず、あなたの意思に沿うように毎日を送れるように私たちを力づけ見守って下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

牧師の週報コラム

 宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その2)

1214日のコラムの続き)ローマ12章の意味を確認していた時、16節は新共同訳では「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」となっているが、「身分の低い人々」のギリシャ語は、私の使っている辞書では「取るに足らないこと」、つまり人ではなく事柄である(私の辞書はギリシャ語・スウェーデン語、神学を勉強した大学がスウェーデン語系の大学だったため)。「交わりなさい」も「心を注ぎなさい」だ。どっちが正しいのか?前の文の「高ぶらず」を正確に訳すと「大業なことを考えない」となる。つまり事柄を言っている。それで、二つの文は二つの事柄を対比していると考えると、ここの訳は「自分を高くするようなことは考えず、自分を低くするようなことに心を傾けよ」になるのでは、と思った瞬間、賢治の「みんなにでくの坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされず」が響いてきた。

そこでもう一度、9節から意味を意識しながら唱えてみた。愛は見かけではいけない、悪を忌み嫌い、善から離れないようにし、互いに兄弟愛をもって心から愛し、お互いを尊敬をもってたたえ合い、怠けず熱心になり、霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、祈りを絶やさず、聖なる者の欠乏を自分事とし、完璧なもてなしを目指し、迫害する者を祝福して呪わず、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに思いを一つにし、自分を高くするようなことは考えず、低くするようなことに心を注ぎ、自分は賢い者と自分で決めず、誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人の前で良いことのために力を尽くし、少なくとも自分の側からは全ての人と平和な関係を築くようにし、自分では復讐せず、神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませ、悪に凌駕されず、善をもって悪に打ち勝て、という内容だ。

自分をとことん低くして自分ファーストにならずに社会に善が増し加わり悪が廃れるように立ち振る舞い行動するというのは、雨ニモ負ケズの精神と相通じるのではないかと思いきや、すぐ違いにも気がついた。賢治の場合は最後に「そういう者に私はなりたい」と言っている。つまり、「雨ニモ負ケズ」から始まってずっと述べてきた立ち振る舞い行動様式は追い求める理想像なのだ。他方、パウロの場合は「~しなさい」、「~してはならない」と命令形なのだ。ということは、仏教徒は自分で追い求める理想像を描けるが、キリスト教徒は命令されないとわからない動かないという情けない存在なのか?(さらに続く)

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2025年12月24日(水)19時(18時開場) クリスマス・イブ礼拝  説教 吉村博明 牧師

降誕祭前夜礼拝説教 2025年12月24日

スオミ・キリスト教会

ルカ2章1-20節

説教題 「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.はじめに

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

 「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。星の輝く夜空に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。そこに突然、輝く天使が現われて救い主の誕生を告げる。すると、大勢の天使が現れて一斉に神を賛美する。賛美し終えた天使たちは天に帰り、あたりはまた闇に覆われる。羊飼いたちは生まれたばかりの救い主に会いに行こうとベツレヘムに急行する。そして、馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

 これを読んだり聞いたりする人は、闇を光に変える天使の輝きと救い主誕生の告げ知らせ、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

2.聖夜の真相

 でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋や家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、パイヴィの実家が酪農をやっていたので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に輝いていた方、そして全ての人間の救い主になる方は、こういう不潔で不衛生きわまりない惨めな環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

 問題は劣悪な環境だけではありません。クリスマス福音に書いてあることをよく注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に権力を行使する者がいて、人々の人生や運命を牛耳って弄んだことに翻弄されたことだったのです。そのことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

 ヨセフとマリアはなぜイエス様を自分たちが住むナザレの町で出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのでしょうか?それは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。東京から軽井沢までの距離を徒歩で行く旅です。出産間近なマリアはロバに乗ったでしょうが、それでも無茶な旅です。町と町の間は荒野が拡がり、もちろんコンビニなんかありません。場所によっては強盗も出没します。しかし、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったでしょう。皇帝のお触れが出たので大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

 やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはさらなる不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフが宿屋の主人に必死にお願いする姿が目に浮かびます。気の毒に思った主人は、馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろうと言ってくれました。さて、生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷きました。これがイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた聖夜の真相です。

3.究極の権力者が共に歩んで下さる

 しかしながら、聖書をもっと読み込める人はこれよりももっと深い真相に達することが出来きます。どんな真相でしょうか?それは、普通の人の上に権力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に権力を行使する方がおられるという真相です。上の上におられる方が下にいる権力者の運命を手中に収めているという真相です。この究極の権力者とは、まさに天地創造の神、天の父なるみ神のことです。なぜなら、神は既に何百年も前に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て前もって約束していたのです。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、いよいよ約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません、神はその当時存在していたいろんな要素をうまく組み合わせて、約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。神は条件が整ったのを見いだしたのか、それとも自分でそれを整えたのか、どっちにしても、この世の権力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を弄んでやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らをご自身の目的達成の道具か駒にしていたのです。

 人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ権力者に翻弄させられたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。翻弄させられるということは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。それなので、イエス様誕生にまつわる惨めさは、神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の権力者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の権力者たちの上に立つ立場にあったのです。彼らの心の在りようを聖書の御言葉で言い表すとすれば、詩篇23篇4節が相応しいでしょう。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れず、汝、我とともにませばなり。」神とは信じたら人生を順風満帆、商売繁盛、無病息災にしてくれるものだ、と考える人は聖書の神の真実を知ったら信じたいと思わなくなるでしょう。聖書は、神を信じても死の陰の谷を進まなければならないような苦難や困難に遭遇するとはっきり教えます。しかし、それと同時に紙一重でもっと肝心なことも教えます。それは、苦難や困難の谷を究極の権力者である神が私たちの傍にいて一緒に歩んで下さるということです。苦難と困難の中で恐れと不安はある、しかし、自分の命と運命はこの世の権力者ではなく、それを超えた究極の権力者である神の手中にある、救い主を与えて下さった神であれば自分の命と人生が彼の手中にあるのは正しい場所なのだ、そういう恐れと不安を超える安心が紙一重にあるのです。マリアとヨセフはそのような心を持ってベツレヘムに旅立ったのでしょう。

 実は私たちも、マリアとヨセフと同じ心を持つことが出来ます。それは、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで持つことが出来ます。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、それは彼が十字架の死を受けることで私たち人間の罪を全部神に対して償って下さったからです。それに加えて、イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を私たちに切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、人間は神との結びつきを回復しでき、神との結びつきを持ってこの世を歩むことができるようになります。この結びつきは人生の順境の時も逆境の時も変わらずにあり、この世から別れる時にもあり、そして復活の日が来たら目覚めさせられて、神のもとに永遠に迎え入れられるのです。この神との永遠の結びつきのゆえに、キリスト信仰者はクリスマスの時に飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんのイエス様を心の目で見る時、透かして見るように将来の十字架と復活にも思いを馳せるのです。それで信仰者はイエス様の誕生を自分事のように喜び、神に感謝するのです。

4.天使の賛美の意味

 説教の終わりに、大勢の天使たちが歌った賛美を少し見てみます。

「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

この賛美は少し難しいです。原文のギリシャ語を見ると、詩の形で動詞がありません。なので、天には栄光が神にある、と事実を述べているのか、それとも、栄光が神にありますように、と願望を述べているのかはっきりしません。続く言葉も、地には平和が御心に適う人にある、と事実を述べているのか、平和が御心に適う人にありますように、と願望なのかはっきりしません。そして一つ気になるのは、平和とは何かということです。神の御心に適う人、つまり神が贈られた救い主を受け入れた人は戦争に巻き込まれないで済むようになるのか、それとも彼らがそれらに巻き込まれませんようにと願望を述べているのか?

 ここで言う平和とは、戦争がない状態が全てではありません。キリスト信仰で平和と言ったら、一番目に来るのは神と平和な関係にあるということです。神との平和な関係は、イエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったことで確立しました。神と結びつきを持って生きるということが神との平和な関係にあるということです。神との平和な関係にある人が今度は、誰のおかげで神が人生の歩みのお伴になったかわかった以上は、もう誰に対しても高ぶることができなくなり、ただただへりくだった者として他者と平和な関係を築こうとする、そのことが新約聖書の使徒たちの手紙で沢山教えられます。(特にパウロの「ローマの信徒への手紙」12章にはっきり出ています。)

 さて、天使たちの賛美の歌の意味ですが、この言葉だけで考えるのではなく、賛美の前に一人の天使が知らせた「救い主の誕生」と結びつけて見れば意味がわかってきます。イエス様が救い主なのは、神と人間の間に平和をもたらし、人間が神と何があっても揺らぐことのない結びつきを持って人生を歩めるようにして下さり、この世を去る時も結びつきの中で去ることができ、復活の日に神に目覚めさせてもらえる、こうしたことを可能にしたのがイエス様です。それで彼は救い主なのです。そのような救い主が生まれたことと結びつけて天使の賛美をみるとこうなります。

「救い主がお生まれになりました。なので、天の上では栄光が神に一層増し加えられますように。

救い主がお生まれになりました。なので今こそ、地上では御心に適う人たちに平和が与えられますように。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年12月28日(日) 降誕節第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年12月28日(降誕節第一主日)

スオミ・キリスト教会

イザヤ63章7-9節

ヘブライ2章10-18節

マタイ2章13-23節

説教題 「全知全能の神 vs. この世の悪」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の中で難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるのではないでしょうか?その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論が起こるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちがヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。ヘロデは学者たちが戻ってこないので、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナやガザの戦争も東日本大震災をはじめとする自然災害もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この種の問題についてキリスト信仰者はどう考えているか以下に見ていこうと思います。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に適うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまいました。何が起きたのかは創世記の1章から3章まで詳しく記されています。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。これが聖書の人間観です。しかし、これには続きがあります。聖書の人間観の続きについては後で出てきます。いずれにしても、人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたいと考えたことが元々の間違いだったのです。

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志は十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪を持っていることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの現れなのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は罪の呪いのために永遠の死の滅びに定められてしまいました。その呪いから人間を救うために神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って私たちの代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであったと言われています。それを実現するためには、神のひとり子が犠牲になって死ななければならない。神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が罪の呪いのゆえに陥る運命であった死の滅びをイエス様が代わりに受けて下ったことで人間が陥らないですむ状況が生み出されたのです。

それでは人間は罪と死の滅びから解放された後はどうなるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになることです。この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられることです。まさに神との永遠の結びつきを持つ者に解放させられるのです。

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本物の罰受けになって人間の罪を償うことが出来たのです。このような仕方で人間を罪と死に追いやる悪魔の力は無にされたのです。それで、ヘブライ2章17節で言われる通り、イエス様はおよそ神と人間の関係に関する全てのことにおいて人間に対して憐れみ深い誠実な大祭司となられ民の罪を償う方となられたのです。続いて18節で言われます。イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しんだ、それで試練を受けている人たちを助けることが出来るのだと。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。そして、もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させたのです。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったのです。まさに二重の打撃を被ったのです。

神はこのようにして人間に救いを整えて下さいました。今度は人間のほうが、神が整えた死の滅びに至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、その状況に入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整えた救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整えられた状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうすると、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していくだけです。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらえます。そして今度は神の栄光に輝く復活の体を着せてもらえます。

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを進んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

 以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救いに与れるようにと手を差し伸べているという見解になります。これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを整えて下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.勧めと励まし

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えたものを受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命は火を見るよりも明らかでしょう。

 人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判する人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

 最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台としそれを目指す信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

歳時記

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

<少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。 箴言15:16>

初冬の谷戸池の畔に佇むとウオールデン池には到底およびませんがソローの事を思い出します。ソローを知ったのは太田愛人牧師の著作ででした。ヘンリー・デイヴィッド・ソローは19世紀のアメリカ合衆国の作家、思想家、詩人、博物学者として知られていました。マサチューセッツ州コンコードのウオールデン池畔に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送りました。代表作『ウオールデン森の生活』(1854年)は、その記録をまとめたものであります。「物に溢れた文明社会に生きる私たちも、未開の辺境での生活を経験すれば、本当に必要なものとは何かを自分で知る事が出来る」この思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えました。彼の思想は画家アンドリュー・ワイエス、建築家フランクロイド・ライト、牧師マーティン・ルーサー・キング、政治家ジョン・F・ケネディ、その他マハトマ・ガンディー、マルセル・プルースト、宮沢賢治らに影響を与えたと言われています。また最近ではシンプルライフの名でヒッピー文化にも取り入れられました。

牧師の週報コラム(2025年12月21日)

フィンランドからのクリスマスの挨拶

今年もスオミ教会の元牧師、SLEYの現元宣教師などSLEY関係者からクリスマスの挨拶が届きました。今年は皆さん1130日にアドベントが始まってすぐ送られた方が多かったです。以下、SLEY関係者の方々の挨拶をご紹介します。

その前に、最近フィンランドから残念なニュースがありました。一部の心ない人たちの愚かな行為のために日本人に不愉快な思いを抱かせました。しかし、それをもってフィンランド人全員が同じ考えでいるのではないことは、国内で愚行に対する非難が沸き起こり、首相自ら日本はじめアジア諸国に公式に謝罪を表明したことに明らかです。愚行を行った本人たちも謝罪し、それらは日本でよく耳にする「もし誤解を与えたとしたら謝罪する」というようなわかりにくいものでなく率直な謝罪です。赦しを与えて然るべきものです。

今回の件でフィンランドに対するイメージに傷がついてしまったかもしれませんが、スオミ教会が礼拝や様々な集会で集中的に宣べ伝えている2000年の歴史を持つキリストの福音はたかが独立107年目の国の好感度とは全く別次元別世界のものです。ルター派では、たとえ人間の方が信仰で躓いたり罪に陥ったとしても、福音はそんなことに一切左右されず、イエス・キリストの十字架の贖いと復活の希望は微動だにせずその輝きには一かけらの陰りも起きないと考えます。だから堕ちた人間は贖いと希望の光に立ち返ればよいのです。何が起きても立ち返る地点、目指す光を持てるというのは素晴らしいことです。

 

 

以下、SLEY関係者からの挨拶です。

Pentti Marttila SLEYアジア地域コーディネーター(フィンランド語からの訳)

私たちは今、私たちの救い主キリストのご降誕を祝うクリスマスに向けて準備をしています。

クリスマスとイースター(復活祭)は、切り離すことのできない関係にあります。イエス・キリストは十字架の死を通して、私たちに罪の赦し、神との結びつき、そして神との平和をもたらすためにお生まれになりました。イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。

マティアス・グリューネヴァルトの有名な絵画「イーゼンハイム祭壇画」は、この福音のメッセージを深く心に訴える形で描いています。この作品の中で、洗礼者ヨハネは見る人の視線をキリスト、すなわち全世界の罪を贖うお方へと導いています。ヨハネは自分自身について語るのではなく、十字架につけられた救い主、すなわち世の罪を取り除く神の小羊をまっすぐに指し示しているのです。

この祭壇画は、アルザス地方のイーゼンハイム修道院に置かれていました。そこでは重い麦角中毒(エルゴティズム)に苦しむ患者たちの世話をしていました。この病は激しい痛み、皮膚の黒化、組織の壊死を引き起こします。グリューネヴァルトは、イエスの御体をまさに次のような姿で描いています。引き裂かれた傷、苦痛に歪む体、そして息絶えた姿です。

見る者は、キリストの御体の中に自分自身の苦しみを見いだすことができました。神は苦しみから遠く離れておられる方ではありません。むしろ、ご自身がその苦しみの中に入って来られたのです。この絵は、イエスの受難が美化されたものでも、単なる現実離れした霊的なものでもなかったことを教えます。それは現実の苦しみであり、肉体の苦しみであり、極限的な苦しみでした。キリストは、人間存在のすべての苦しみと罪の現実をその身に担われたのです。

洗礼者ヨハネの、誇張され、ほとんど不自然なほど長い指は、この作品の中心的な象徴です。その身振りは力強く宣べ伝えています。「見よ、ここに神の小羊がいる。」ヨハネは絵画の鑑賞者を見ているのではなく、キリストを見つめています。歴史的には、ヨハネは十字架の下にいませんでした。しかし神学的には、彼はそこに属するのです。彼は旧約聖書全体を代表し、キリストを指し示す者なのです。

十字架の足もとにいる小羊(アニュス・デイ)は、ヨハネの言葉(ヨハネ1章29節)を直接的に示しています。小羊の傷はキリストの傷に相当し、その血は杯へと流れています。これは罪の贖いと聖餐を示す象徴です。十字架は、単なる苦しみのしるしではなく、救いをもたらす犠牲なのです。

ヨハネの脇に記された言葉は、彼の召命のすべてを要約しています。

Illum oportet crescere, me autem minui.「あの方は栄え、私は衰えなければならない。」
(ヨハネ3章30節)

私たちの救い主イエス・キリストの祝福に満ちたご降誕を心からお祈りします。

ペンッティ・マルッティラ
Sleyアジア地域コーディネーター

 

Paavo ja Seija Heikkinen 元スオミ教会宣教師(フィンランド語からの訳)

スオミ教会の クリスマス祝会に集う皆さまへ

フィンランドでよく歌われているクリスマスキャロルに「雪が高くずっしり積もって」という歌があります。しかし、今年のクリスマスはそうではありません。少なくともここラハティ周辺では、雪はとても少ないです。1~2週間前には雪がありましたが、今日は様子が違います。ところどころに小さな白い場所があるだけです。しかし、雪があるかどうかは大事なことではありません。大切なのは、私たちの救い主の誕生のお祝いがあるかどうかということです。

今から2025年前、イスラエルの地で唯一無地で比類のない例外的な出来事が起こりました。森羅万象を司るお方の御子、イエス・キリストが人間としてお生まれになったのです。この出来事は唯一無二のものです。

少しの間、主の誕生の場所とその周囲について考えてみましょう。本来どのようであるべきだったのか、そして実際にはどのようであったのか。

まず、日本で皇室に子どもが生まれる場合を考えてみましょう。出産する病院は当然、最高水準のものであり、すべてが完璧に整えられていることでしょう。それは当然なことです。国の元首となられる方の後継者が生まれるのですから。世界中どこでも、支配者の子どもが生まれる時はどこも同じでしょう。

しかし2025年前、森羅万象の造り主であり治め主である神の御子が人間としてお生まれになりました。完全に唯一無地の出来事です。ところが、「生まれたのは誰か」を考えると、その誕生の場所は完全な驚きでした。なんと、馬小屋、動物の休む場所だったのです。天と地の支配者の御子が馬小屋でお生まれになったのです。本来なら、そうであるべきではありませんでした。水晶でできた宮殿であるべきでした。しかし、そうではありませんでした。主は馬小屋で生まれたのです。

誕生の場所に馬小屋が選ばれたことは、私たちに何を伝えているのでしょう?そのメッセージは非常に大きなものです。誰一人、外に追いやられることはないということです。主のもとに行くための敷居は低いのです。タキシードも立派な服装も必要ありません。それは偶然そうなったことではありません。天のエリートが人間としてお生まれになった神の御子は誰をも遠ざけることはありませんでした。成人して伝道の働きを始められてから、彼は学識者とも学識の無い人たちとも話し合いました。ニコデモにも名も知られぬ罪深い女性にも、イエス様は天に至る道を示されました。一緒に十字架に架けられた犯罪者も、長年聖書を学んだ専門家サウロ(後のパウロ)も遠ざけることはしませんでした。主はそのメッセージを次のように要約されたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、彼を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためである。

スオミ教会のクリスマス祝会に集われた皆さまに、心からクリスマスのお祝いを申し上げます。

セイヤ、パーヴォ、イルセ、カイサとラウラ、そしてそれぞれのご家族より

 

Mari-Liisa ja Timo Havukainen SLEY宣教師(フィンランド語からの訳)

スオミ教会のクリスマス祝会にお集まりの皆様へ!

昨年の春、3月から4月にかけて皆様と過ごした時間を心温まる思いで思い出しています。ありがとうございました!

アンナ=マリ・カスキネンとペッカ・シモヨキによる「ホサナと歌いなさい!

という歌をもって皆さんにご挨拶を申し上げたく思います。その第1節には次のような歌詞があります。

「枝や衣服が道に投げ出され、イエスはエルサレムへ向かった。今、私たちの王にホサナと歌いなさい!ホサナと歌いなさい。主は私たちのもとに来られる。」

喜び溢れる救い主の降誕のお祝いの時を過ごされますように!

ティモとマリ=リーサ・ハブカイネン

Päivi ja Martti Poukka SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)

スオミ・キリスト教会の皆様へ

クリスマスおめでとうございます!

「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた。ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、⼒ある神/永遠の⽗、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ書/ 09 章 05 節)

7 ⽉ 4 ⽇には、私たちはみ⾔と同様に「ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた」と神様に感謝して喜びました。

2 番⽬の孫が無事に

⽣まれたからです。12 ⽉の下旬の今は、私たちはのみ⾔の通りに「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた」と皆様と共に賛美します。イエス・キリストの誕⽣のお祝いを迎えているからです。何と不思議なことでしょう。神の⼀⼈⼦であるイエスは⾃分が作られた⺟親によって⼈間の姿をとってお⽣まれになりました。そして私たちのために⾃分の⺠のところへ、この世に来られました。⺟乳を飲む⾚ちゃんなのに、権威が彼の肩にありました。「驚くべき指導者、⼒ある神、永遠の⽗、平和の君」という名前の救い主をご⼀緒にほめたたえましょう!!!

残念なことに、今年は⽇本伝道旅⾏はできませんでした。何度何度も去年の懐かしい旅を思い出しました。そしてその旅⾏についてあちらこちらで報告をしました。しかし、神様のみ⼼だったら、来年の春にまた皆様に会う機会があるでしょう!

新年 2026 年に「わたしたちの⽗である神と主イエス・ キリストからの恵みと平和が、あなたがた にあるように。」(テサロニケ ⼆ 1 章 2 節) Päivi & Martti

 

高木賢 SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)

皆さんと救い主イエス様の生誕を覚えてお祝いできることを感謝します。

イエス様のおかげで、イエス様を通して、私たちは国と民族と空間と時間の境を超えて結び付けられています。

互いに祈り合うこともできています。

個人的にもとりなしの祈りをしていただいていて深く感謝しています。

これからも互いに励まし合い、祈り合い、救い主イエス様を信じて歩んでまいりましょう。

いつかまた実際にお会いできるとよいですね。

 

Tiina ja Mika Latva-Rasku SLEY宣教師、SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)

スオミ・教会の皆様、

私たちの救世主イエス・キリストの誕生を祝うとき、

皆様の心が喜びと感謝で満たされますように。

新年が素晴らしいものでありますように!

ミカ&ティ―ナ

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

(テモテへの手紙一1章15節)

 

Sirkka-Liisa ja Pekka Huhtinen SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)

キリストにあるスオミ・教会の皆様

クリスマスおめでとうございます。スオミ・教会の兄弟姉妹と共にイエス様の海馬桶のそばに集い、天の父なる神様が全世界に示してくださった恵みと愛を感謝します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)  

「馬槽のなかにうぶごえあげ、大工の家にひととなりて、貧しきうれい生くるなやみつぶさになめしこの人を見よ。」(子供の賛美歌より)

Pekka と Sirkka-Liisa Huhtinen, Helsinki, Finland, 2025

 

Sointu ja Veli-Matti Sallinen SLEYスオミ教会宣教師日本語で書かれました