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2026年5月31日(日)10時半 三位一体主日 説教 吉村博明 牧師 主日礼拝

主日礼拝説教 2026年5月31日 三位一体主日 スオミ教会

創世記1章1-2章4a節

第二コリント13章11-13節

マタイ28章16-20節

説教題 「キリスト信仰の神の愛とは三位一体からくる愛である

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、いろんな国の言葉で神の偉大な業について群衆の前で証し始めました。弟子の一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され始めました。先週はそれを記念する日でした。それで、父、御子、聖霊の三者がそろったので今日は三位一体を覚える主日です。

 皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝します。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表しています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない、神の目に相応しい者にしていくということです。

 これら三つの人格と役割は別々であっても、全部一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。それなので、キリスト信仰で普通、神の愛と言っている愛は三位一体から出てくるものです。三位一体から出てくる愛とはどんな愛なのか?今日はこのことについて見ていきます。

 本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる個所です。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。

 三位一体から出てくる愛がわかるために、まず、洗礼が父と子と聖霊の御名によって授けられるというのはどういうことかを見てみます。次にイエス様が世の終わりまでいつも共にいて下さると言っていることについて。彼は聖霊降臨の10日前に天に上げられました。今天の父なるみ神の右におられる方がどうやって地上にいる私たちと共にいられるのか、それについて見ていきます。これらのことを見ていけば、三位一体から来る愛がわかってくると思います。

2.洗礼は三位一体の神に結びつける

 父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるとはどんなことか?先ほど述べたように、キリスト信仰の神は、創造の業を行う父、人間を罪の支配下から贖う御子、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊が一緒の神です。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるというのは、洗礼を通してこの三位一体の神に結びつけられるということです。そして、結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていくことになります。そして、今のこの世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられる者になります。

 神を三位一体の神と信じるキリスト信仰に入れるかどうかのカギは、実に自分のことを「神に創造された者」という自覚が持てるかどうかにあります。どうして自分が神に造られた者であるという自覚が三位一体のキリスト信仰に入れるか否かのカギになるのでしょうか?

 それは、自分が神に造られた者との自覚を持つと、では、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけないという立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。そのことが創世記3章に記されています。人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、その言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わるようになってしまった。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、この世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

 しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげたいと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間に切り開いて下さったのでした。

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。

 ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入れても踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊の出番となります。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれるのです。聖霊はまさに信仰者を弁護し、真理を示してくれるのです。その時、私たちは再び神の大いなる恵みの業にひれ伏して、神の意思に沿うように生きようという心を新たにするのです。イエス様が命じたことを守ることができるようになるのは、実にこうした聖霊の働きがあってのことなのです。

 このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖われることです。加えて、造られて贖われた人間が天の御国に向かう道を進む力と支えを得られるようになることです。私たちを三位一体の神に結びつける洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れるという神の約束の当事者にするものなのです。

3.神の創造は今日でも意味がある

 ここで少し脇道に入ります。先ほど、三位一体の神を信じる信仰に入れるかどうかは「神に創造された者」という自覚があるかどうかがカギになっていると申し上げました。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きず、問いが起きなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわからない。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

 ところが、今日では神の創造を信じることが難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからです。生物は長い時間をかけて単純なものが複雑なものに進化していく、そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は造り主がどう思っているなんて気にしないで自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。自分と神との関係はどうなっているか、うまく行っているのかいないのか、などと考える必要はなくなります。イエス様の十字架と復活の業も必要なくなります。さて、天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

 このことについて私は3年前の三位一体主日の説教で旧約の日課創世記1章から2章の初めまでの個所をもとに説き明かしをしました(2023年6月4日の説教)。そこで、神の創造は、時代遅れの考え方ではない、今日において重要な意味があるということを述べました。どのように述べたかはここでは繰り返しませんが、2点だけ触れておきます。一つは天と地とその他のものを創造されたのが6日間だったことについてでした。それは、創造には6段階あって、それぞれの段階を1日と呼んでいると見れば、天地創造の時間的流れは別に問題はないのではないかということでした(神は時間数にして144時間で全てを創造したかについては、神には不可能なことはないから、その可能性も残しておきますが、1日が今のように24時間の長さになるのは、4段階目に太陽と月が今の配置になる位から始まるのではないか、それ以前は長さは違っているのではないかという見方も可能です。5段階目の創造は明らかに両生類と爬虫類で、「怪物」とは恐竜のことを言っているのではと思われます。6段階目は哺乳類と人類の段階です。)

 もう一つは、天地創造のところだけでなく聖書の他のところも見ると、神の祝福は人間だけではなく動物にも及んでいるということです。例えば、イザヤ書11章を見ると動物も人間と共に神の国にいることが言われています。ところが、聖書はもっと踏み込んで動物の救いについて述べません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架と復活の業が行われました。人間が贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐が必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだとしても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。いずれにしても、聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。そういうわけで、天地創造は救いを人間を超えて生態系にも及ぼしているのだと予感することで十分と思います。それなので、天地創造は時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点を与えます。自分は神に創造されたと自覚したら、神との関係はどうなのか考えることになります。その時、神が贈ってくれた贖い主がおられる、彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きようとするのは自然なことになります。とやかく言われてするということではなくなります。進化論からはどんな倫理的な視点が出てくるでしょうか?弱肉強食のような視点にならないでしょうか?

4.イエス様は世の終わりまでいつも共におられる

 話が脇道に逸れましたが、次に、天に上げられたイエス様はどうやっていつも世の終わりまで私たちと共にいることができるのかを見てみましょう。

 まず、イエス様が天に上げられたのに呼応するように聖霊が降ったことを思い出しましょう。洗礼を通して私たちに与えられる聖霊が、イエス様が私たちと共におられることを真実にするのです。イエス様は十字架の業を果たすことで私たちに罪の赦しという恵みを与えてくださいました。先ほど述べたように、聖霊は私たちがその恵みの中に留まって生きられるようにしてくれるのです。罪の赦しの恵みに留まって生きるというのは、イエス様が共におられるということです。

 さらに、私たちには聖餐式があります。イエス様が天に上げられることを預言した詩篇110篇の中で、神の右に座す者つまりイエス様はメルキセデク級の大祭司であると言われています。ヘブライ人への手紙の中で言われるように、イエス様は自分自身を犠牲の生贄に捧げて全ての人間の罪を償い、人間を罪の呪いから未来永劫に贖って下さった「大祭司中の大祭司」です。聖餐式は、この完全な償いと贖いを実現した大祭司イエス様と交わる場なのです。

 さらに、イエス様が私たちと共におられるというのは、私たちがイエス様を頭とする体の部分であるということがあります。詩篇110篇1節で神が御子に次のように述べているところがあります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」パウロはエフェソ1章20~23節の中でこの個所を引用して、イエス様が再臨するまでの期間はキリスト信仰者にとってどんな期間であるかを教えています。イエス様を死から復活させて御自分の右の座に着かせた神は彼を「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれました。支配、権威、勢力、主権とは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。この世のどんな大国がどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。

 ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」は教派的、組織的な教会ではなく目に見えない世界大の教会で、キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、聖書の御言葉、全体として罪の赦しの恵みを目指す御言葉が響き渡る体です。次に、洗礼を通してその部分になれる体です。そして、体の部分である信仰者は聖餐式を通して罪の赦しの恵みを全身全霊に満たして神との結びつきを、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういうわけで、キリスト信仰者はイエス様を頭とする体の部分としてイエス様と結びついているのです。

5.勧めと励まし

 そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは支配、権威、勢力、主権に対してイエス様のように勝っているかと言うと、そうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実です。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったことは真理なのに、罪の誘惑はやまないという現実です。全てに勝るイエス様に繋がっている筈の信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろう、天の御国なんか入れないようにしてやろうという力が働いているところです。さらに、人間が造り主の神に心を向けられないようにしてやろう、神と結びつきを持てないようにしてやろうという力が働いているところです。これらがイエス様の足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっとこの世で作用し続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、キリストの体は全身が天の御国の中に置かれます。私たちキリスト信仰者は、このことを見通すことできればイエス様が今のこの世の終わりまでいつも共におられることはその通りであるとわかって、この世で何も恐れるものはなくなるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

歳時記

ホタルブクロ 

15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16  風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

桜美林教会の生垣の土手に今年もホタルブクロが咲いていました,薄紫色のホタルブクロに交じって真っ白いホタルブクロを見つけました、初めて見る新顔のホタルブクロです。このまま、此処に根付いてくれるといいなと思っています、此処の土手は季節の草花を咲かせてくれるので楽しみな場所です。 (風吹くや釣鐘動く花の形/正岡子規

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その13
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」
の2月7日の日課から)
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから
。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく)
『事を自分の重荷にとどめるな。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされ
てしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して
神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私
の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上
、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言っ
てこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手く
いきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せて
きます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなた
の助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅
々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねら
れた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられる
かについての心配は神のすることであって、私たちのすることではない。
このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い
主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない
者たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は
、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を手放さず、神は嘘をつかない方だから
御言葉はその通りだと信頼して前に進む。』(以上、ルターの説き明かし、2025年6月8日
の週報に掲載したものを修正)
牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、
ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放
り出す」です。英語、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も
それで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめ。ギ
リシャ語の「与格・メレイ・ペり・属格」は、上記4カ国語は「神は面倒を見る、世話を
焼く、ケアをする」です。日本語訳では上記のルターのような力強い説き明かしはできな
いのではないでしょうか?もったいない話です。

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歳時記

庭の野草

15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

白州の家の小さな庭にも年毎に色々な野草の花が咲きます。去年はアジサイ、一昨年はギボウシ、その前はカワラナデシコ、もっとその前は・・・・・忘れました。今年はなんとヤマオダマキが咲いていました。ヤマオダマキは確か以前にも咲いたことがありました。こうして見ると草花は互いに譲り合って咲く順番を決めているのかもしれませんね、競い合うよりもずうっと良いと思いました。

2026年5月24日(日)10時半 聖霊降臨祭/ペンテコステ 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年5月24日(日)スオミ教会

聖書 使徒言行録2章1~21節

説教題:「聖霊に満たされて」

今日の礼拝はペンテコステを記念する礼拝です。ペンテコステの日、聖霊が爆発的に弟子たちと各地から集まっていた者の上に降ったのであります。

使徒言行録2章1~21節を見ますと、「五旬祭の日が来て一同が一つになって集まっていると突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ彼らが座っていた家中に響いた。」五旬祭の日に集まっていたところに出来事が起こった。五旬祭というのは出エジプト記34章22節に「あなたは七週の祭り、すなわち小麦刈りの初穂の祭りを行わなければならない」とあるところから小麦の収穫感謝祭を毎年行っていたのでした。これはイスラエルの三大祭りの一つで過ぎ越しの祭りが終わってから五十日目に当たっていました。これをギリシャ語の第五十という言葉から「ペンテコステ」というようになったようです。この祭りのために多くの敬虔なユダヤ人たちが各地から毎年エルサレムに上京するのが常であったのです。この日「皆の者」が集まっていた。この皆の者とはルカによれば十二弟子よりも更に広い意味で用いられて、1章15節にあるように百二十人程の人々が一つになっていたとあります。

2~4節を見ますと「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こって彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ/\ に現れ一人/\ の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ”霊”が語らせるまゝに他の国々の言葉で話し出した。」ここにはルカの凄まじい聖霊が降った様子がリアルに描かれて表現されています。よく注意して読みますと激しい風が吹いたわけではありません、炎の舌が現れてはいません。激しい風のような、舌のようなもののようにと表現されています。ともかく、普通にはあり得もしなかった凄まじい出来事が起こっています。五旬祭という多くの人々が一同に集まっているところに一体何が起こったのでしょうか。イエス様の死と復活の後にイエスに従う一同の者たちの上に聖霊が与えられたのであります。聖霊は神の霊であります、またキリストの霊であります。それはキリストを通して神を信ずる者に与えられる神の力として働くのであります。

この聖霊の第一の特徴は一人々自ら神の前に罪びとであると感じさせること。第二には聖霊はイエスが誰であるかを明らかにする。即ちイエスはキリスト、救い主であることを明確に示す。第三には神に従う者を慰め。癒し、弁護し導く、といった働きをするものです。

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パウロはコリント第一の手紙123節で「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えない。」と書いています。さて、4節で聖霊が降ってこの聖霊に満たされるまゝに他の国の言葉で話し出した。それでもう大混乱です。57節を見ますと「さて、エレサムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたがこの物音に大勢の人々が集まってきた。そして誰もが彼らの自分の故郷の言葉が話されているのを聞いてあっけにとられてしまった。」

この光景を目にして群衆は驚き言いました。「見よ!今、話しているこの人たちは皆ガリラヤ人

ではないか。それだのに私たちが各々生まれ故郷の国語を彼らから聞くとは一体どうしたことか。彼らは不思議がった。」ルカは9節から12節のところで地方から来ていた地名を延々と大事な事として書いています。9節「私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、エレネに接するリビア地方に住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいればユダヤ教への改宗者もいるのに彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆、驚き戸惑い「一体これはどういう事なのか」と互いに言った。

此処に大勢の集まった人々をルカは5節で「天下のあらゆる国から帰って来ていた」と表現しています。当時、ローマ帝国に支配されていた天下のあらゆる国々を東の方の小アジアからローマ、ギリシャ、そして西のエジプトに至る国々の名が記されているのです。群衆の多くはエレサムを中心とするパレスチナ地方以外の国々に滞在していた経験なユダヤ人、また他に数多くの異邦人も加わっていたという事です。ペンテコステに聖霊が降った、そこにこのように各国のユダヤ人そして異邦人がいたと言うことはルカは言い換えますと全世界の人々がやがて自分たちの国語でイエスの福音を聞く日が来ることを象徴していたということであります。

初代のイエス様の弟子たちが一同に聖霊を受けた時、彼らは群衆たちの生まれ故郷の国語でキリストの事を語った。どうしてそのような事が出来たかそれはわからない、聖霊の導きによる神の力がドーンと彼らに臨んだからであります。この事は実際おこったのです、ルカは主イエス様の救いの福音がやがて全世界へと伝えられ広がって行く事を特に望んでいたのであります。そのことは聖霊を受けた時,神を信じる者は他国の人にも分かるようにそして私たちの働きとキリストの福音とを力強く説き明かすことが出来るようになるということであります。弟子たちは計り知れない神の力と聖霊を受けて世界中の人を象徴して集まった民に福音をその国の言葉で語ったのですから、いよいよこれから聖霊の導きと語るべき福音の力を受けて全世界へと遣わされて行く事になります。そのため神様は五十日という準備を弟子たちになさいました。その準備は只管祈ることでした。そして、イエス様は甦って生きて何時でも私たちと共に働いて助けて下さるという確信を持つように強い心の準備をなして下さったのです。

ところが、ペンテコステの出来事が何もかもうまく行くとは限らない。中には必ず人間的な邪魔をする者が現れるのです。13節を見ますと「しかし、あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言って嘲る者もいた。」とあります。すると、ペテロは十一人と共に立って声を張り上げ話始めた。「ユダヤの方々、またエレサムに住む全ての人たちに知っていただきたい事があります・・・・。」ペテロの説教の目的はナザレ人イエスはキリストつまり救い主メシアである事を証明することでした。この事の証明のために説教の半分近くを旧約聖書を引用して話しています。まず、ペテロは語ります。神様がイエス様を通してあなた方の中で行われた数々の力ある業と奇跡と記しとによりイエス様は神から遣わされた方であること、更にこのイエス様を律法学者や祭司長たちによって十字架の処刑で殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死から解放し甦らせたこと。イエス様の死と復活の出来事を確証するためペテロは旧約聖書の詩編16編を引用し、またヨエル書も引用してこのことが既にイスラエルの歴史の中で預言されていたこと。その予言通り救い主としてイエスに預言は成就したのである。パウロ自身はその目撃者であること。

更にペテロは25節から角度を変えてユダヤ人の最も尊敬していたダビデ王とを比較して立証してゆきます。ダビデは預言者であってダビデの墓もある。イエスは神から復活させられた救い主メシアであられるのだ。この「キリスト・メシアによる福音」こそがペンテコステの日に起こったキリスト教の誕生となっていったのです。

今日、世界は戦争と経済不安の中に揺れ動いています。その背景にイスラエルのユダヤ教、イランを始めとするイスラム教、ヨーロッパ北欧諸国とアメリカのキリスト教、これらの戦いです。ユダヤ教とイスラム教、その他日本の仏教などがイエス様は預言者にすぎないメシアではないとイエス様を救い主とは信じません。キリスト教会はイエス様こそ十字架に死に甦って生きて働き給う真の救い主という、この福音が決定的に違う、キリスト教会の土台、基本の教えの中心であります。

ペテロは命を懸けて神の真実を証しして叫ぶのであります。36節で叫びます。「だから、イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい、あなた方が十字架につけた、このイエスを神は主、またキリストとしてお立てになったのである。」このイエスはヨエルや他の預言者たちが預言したところの主でありキリストであった。今もなお聖霊の働きがあるということはこのキリストの復活の力の何よりの証拠ということです。ペンテコステの出来事はこの時だけで終わってしまったわけではない。それは今でも続いている。同じ聖霊の力によって、同じ福音の伝達によって多くの人は神の支配のもとに一つの所に集められているのです。この日本の地に於いても長い時間と年月を超えて聖霊は働いて下さり神のみ業がなされているのであります。第二イザヤと言われている預言者がイザヤ書4319節で預言しています。「見よ新しいことを私は行う。今やそれは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私を崇める。荒野に水を、砂漠に大河を流れさせ私の選んだ民に水を飲ませるからだ。私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らなければならない。」そして、更に4423節で預言しています。「恐れるな、私の僕ヤコブよ、私の選んだエシュルンよ、私は乾いた地に水を注ぎあなたの子孫に私の霊を注ぎあなたの末に私の祝福を与える。」4319節で「見よ、新しいことを神がなさる」というのはどういう意味か。この第二イザヤの預言は直接的にはイザヤ時代バビロンに囚われの身であったイスラエルの民を祖国イスラエルに帰すという新しい大きな業を起こすと言っているのです。443節の「あなたの子孫に私の霊を注ぐ。」神は人類の歴史の中で聖霊が新しい大きな業をおこして行かれるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

5月の料理クラブの報告

5月の料理クラブは16日に開催しました。季節はもうフィンランドの夏を思わせる陽気でした。今回のメニューはオーブン料理の「リンドストリョーム・ピヒヴィ」(ひき肉とビーツのハンバーグ)とロホコ・ぺルナ(ブロックポテト)です。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にリンドストリョーム・ピヒヴィを作ります。ハンバーグにビーツを入れる少し珍しい料理です。先ずビーツをすりおろします。それから玉ねぎを炒めて材料を順番にボールに入れてよく混ぜます。「わぁー、赤くなって面白い!」と驚き声が聞こえます。ハンバーグの形を作って鉄板に並べ、即オーブンに入れて焼きます。

次はロホコ・ペルナの番です。新ジャガが美味しい季節です。ジャガイモを洗ってブロック形に切ってしばらく茹でます。半熟になったらお湯を切って鉄板に並べます。その上にサラダ油を塗って塩コショウをかけます。そしてオーブンに入れて焼きます。その時リンドストリョームのハンバーグは少し色が変わっていました。これからどんなものになるのか楽しみです。

オーブンで焼いている間、サラダやテーブルのセッティングを楽しくお話ししながら準備します。そうしているうちにリンドストリョーム・ピヒヴィもロホコ・ペルナも出来上がりました。「お腹が空いたから、早く味わってみたいわ」と皆さん待ち遠しそう。

早速、料理を温かいうちにお皿に盛りつけて頂きます。「美味しい!」との声があちこちから聞こえました。皆でフィンランドの家庭料理を美味しく頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時フィンランドの春の季節の種まきや、聖書のみ言葉の宣べ伝えが心への種まきにたとえられることについてお話を聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて神さまに感謝です。料理クラブは夏の間6月から8月までお休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!

料理クラブの話

今日は久しぶりにフィンランドの家庭料理「リンドストロョーム・ピヒヴィ」と「ロホコ・ペルナ」を作りました。フィンランドではジャガイモの料理を殆ど毎日作るので、ジャガイモはフィンランドの食文化の中でとても重要な食材です。ビーツはフィンランドの食卓には昔から欠かせない野菜で、今でも多くの家庭の菜園で育てられます。

私の実家でも毎年、学校の夏休みになる6月の初めにいつも野菜畑にビーツの種を蒔きました。芽が出るまで3週間くらいかかりましたが、その間畑に出てくる雑草を抜き取らなければなりませんでした。8月になると、ビーツは十分大きくなって、採って茹でて、ビーツのサラダを作って美味しく食べました。ビーツはビタミンA,B,CとE,そしてミネラルも豊富に含まれているからです。ビーツの料理をもっと食べるようになれば、人々の健康にもよい影響があるでしょう。

フィンランド人はどのようなビーツの料理を作るでしょうか?最も一般的なものは、甘酸っぱい酢漬けです。これはビーツを収穫した時期に作るもので、一年中保存できます。また今日のようにハンバーグの中に入れたり、スープやキャセロールやサラダなどに加えたりします。今日作ったリンドストロョーム・ピヒヴィは、季節に関係なく一年中、家庭料理だけではなく、学校の給食にも出されます。

これからフィンランドは新じゃがが美味しい季節になります。6月になると新じゃがが店で販売されるようになります。最初は値段はとても高いですが、大きくなるにつれて価格は下がります。

フィンランドはこの5、6月は畑仕事、土づくり、種まきの季節です。農業している私の弟も実家の畑仕事で忙しい時期です。先日、メールが届いて、「種まきは順調に進んで種きが終えました。こんなに早く終わるのは珍しいので神さまに感謝しています。」と書いてありました。しかしこのような春はいつもではありません。ある年の春は雨が多くて寒さが続いたので、畑仕事や種まきは5月の終わり頃や6月の中頃になってしまったこともありました。このような年は私の父は秋の収穫のことを考えてとても心配していました。

毎年種まきが終わってから芽が出るまでの間には心配もありましたが、同時に楽しみや希望もありました。芽が出てくると、穀物の成長と良い収穫の期待が膨らみわくわくしたものです。芽が出た後も畑には様々な仕事がありましたが、穀物の成長に最も大きな影響を与えるのは天候です。天候は天の神さまの私たち人間に対するよい思いが秘められていると思います。もちろん豊作の年もあれば不作の年もあります。豊作の年は感謝の気持ちで満たされますが、不作の年にはがっかりし残念な思いになります。しかし同時に次の年への希望、今年より良い収穫になることへの期待を持つことができます。

私は農家の働きの経験を通して天の神さまは大いなる方であり、どのような時にも共にいてくださると信頼して大丈夫というお方だという思いが深まりました。聖書も種の成長について教えています。旧約聖書のイザヤ書には次の言葉があります。

「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生き茂らせ種まく人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉もむなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ私が与えた使命を必ず果たす。」
イザヤ章55章10~11節。

種をまき芽が出て成長していく姿を見ると、本当に神さまは大いなる方だと分かります。小さな種が多くの実を結ぶのは神さまの御手の働きによるものです。私たちはその働きを直接目で見ることはできませんが、結果を見ると神さまの働きがあったことが分かります。神さまが種の成長のために雨を降らせて下さるからです。不作の年もあるかもしれませんが、そのような時にも神さまは私たちと共にいてくださり将来への希望を与えて下さいます。神さまは決して見捨てることをしません。

CC0ところで、聖書の種が出てくる教えでは、種はよく天の神さまのみ言葉にたとえられます。種が蒔かれる地や土は私たち人間の心を意味しています。神さまの言葉とは聖書のみ言葉のことです。それで、聖書の言葉‘を読んだり聞いたりすると、心に神さまのみ言葉が蒔かれたことになり、神さまは成長を与えて下さいます。そして神さまと私たちとの結びつきが強くなります。心の成長は、神さまとの結びつきなくして私たちの自分の力や努力で得ることは出来ません。それは種の成長と同じように神さまの働きによるものです。神さまが働いてくださると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに打ち明けて委ねるようになります。神さまとの結びつきが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。

私たちは、これから畑で穀物などの成長を見る時は、これは神さまが与えて下さることなのだと覚えましょう。そして神さまは同じように私たちに信仰と心の成長も与えて下さることも覚えましょう。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その12

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」5月7日の日課から)
『今日立てられているものは全てあなたの決定による。なぜなら、全てのものはあなたに
仕えるものだからだ。』(詩篇119篇91節フィンランド語訳の聖書による)
(注意 日本語訳「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなた
の僕です」は問題です。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは日本
語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書(Holladay)にはその意味はなく
、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です。日本語訳は89節からの流れを踏
まえておらず、90節のエムーナーテカー(あなたの誠実さ)も誤訳しています。訳した人
たちは自分で何を言っているかわからなかったのでは。フィンラン語訳には「なぜなら」
がなく、ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)
『ふつう、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、理
性はこの聖句を前にして顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい
近い存在であるということを理性はわからないからだ。我々はそれを信じられなければな
らない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られな
いと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前で跪かねばならなくなると既に決めていた
のだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在
なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさと喜び
祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。
同じことは我々の死にも当てはまる。我々は、死に臨む時、あたかもそこに永遠に埋没し
てしまうかのように思われるかもしれない。しかし、まばたきした瞬間に今の天と地が終
わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「
ああ、私は永遠に生ける者になっている!」
以上のことを神は聖書の中で我々に数多くの事例をもって示しているではないか。神は低
い者を高くし、高い者を低くされる。全てのことはそうされる方の御言葉通りに進む。そ
れは、我々が神を度外視して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを
最終的には神の御心に委ねるしかないと観念して全面的な信頼を寄せられるようにするた
めなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りになら
ないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』(以上ルターの説き明か
し、2026年5月11日の週報に所収したものを少し修正しました。)

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5月の予定