お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
全知全能の父なるみ神よ。
主イエス様は、世の終わりまでいつも私たちと共におられ、再臨の日には私たちを目覚めさせて御国に迎え入れて下さると約束されました。この世と次の来たるべき世の双方でイエス様が共にいて下さることが私たちにとって大きな幸いであることがわかるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
次回はフィンランドのクリスマス・オーナメントの一つ、「オルキ・タハティ(藁の星)」を作ります。フィンランドでは藁で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。これらの天然の藁で作るオーナメントは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。今回は星に挑戦します。どんな形の星にするかは各自ご自由にお決め下さい。
オルキ・タハティ(藁の星)を是非ご一緒に作ってみましょう!
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持参するもの:パールピン20本
参加費: 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1763933659iamg@1763933659arumi1763933659hsoy.1763933659iviap1763933659
℡ 03-6233-7109
スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org
欅 ケヤキ Kejaki
<天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1>
今年は秋の訪れが遅かったですね、もしかしたら秋はもう来ないかと訝っていましたが矢張りコヘレトの言葉通りに神は約束を違えませんでした。公園の片隅の欅の大木にも秋が来ました、普段は樹下の八木重吉の歌碑に気を取られていましたが公園の原っぱに出てみたらいつの間にか欅が秋色に染まっていました。この季節になるとどうしても一度は訪れたい重吉の歌碑です。
素朴な琴 八木重吉 この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐へかね 琴はしづかに鳴りいだすだろう
11月のスオミ教会・家庭料理クラブは15日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのメニュー、フィンランド的なパン「オートミール・セサミ・サンピュラ」とキノコのスープです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。材料を計って順番にボールに入れていきます。オートミールと小麦粉を加え生地をよく捏ねてしっとりした生地が出来上がります。それを暖かい所において一回目の発酵をさせます。その間にキノコのスープの準備を始めます。玉ねぎとマッシュルームのみじん切りを終えると、生地はあっという間に大きく膨らんでいました。早速パン作りに入ります。大きな生地をテーブルの上で丸めてから、それを16個に分けて一個一個をきれいな丸形のサンピュラにしていきます。それを全部鉄板の上に並べて第二の発酵をさせます。
発酵させている間にキノコのスープの続きをします。みじん切りにしたキノコと玉ねぎを鍋に入れてしばらく炒めてから他の材料を順番に加えて煮込みます。最後にクリームチーズを加えると柔らかい味のスープが出来上がります。
サンピュラの二回目の発酵も早くすみ、一つ一つの上に卵を塗って白セサミと黒セサミをその上にたっぷりかけてオーブンに入れます。しばらくするとパンの焼き香りが台所から教会中にどんどん拡がって参加者の皆さんは何回もオーブンを覗きに行きました。「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。
テーブルのセッテングをしてみんな着席します。焼きたてのオートミール・セサミ・サンピュラにマーガリンを塗って、キノコのスープと一緒に味わいます。「やっぱりパンは焼きたてが最高ね!」「スープも美味しいわ」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。その時にフィンランドのキノコやパンの話と聖書のイエス様が語られた「からし種」と「パン種」のたとえ話の教えについて話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月13日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは十月末に冬時間に入ります。それから日がだんだん短くなり気温は氷点下に下がる日が多くなります。この時期になると、フィンランド人は家で過ごす時間が増え、温かい料理、オーブン料理、スープ、などを作るようになります。もちろんパンやケーキなども焼きます。今日皆さんと一緒に作ったキノコのスープとオートミール・セサミサン・ピュラはこの季節にピッタリです。
フィンランドではキノコはベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。キノコ狩りの期間は年によって変わりますが、普通は7月の終わり頃から11月までです。この間フィンランド人の友達から「漏斗の形のキノコがまだ採れる」と聞きました。漏斗の形のキノコとはどんなキノコでしょうか。それはアンズタケと似ていてマイルドな味わいですが、色は茶色です。キノコは普通は寒さに弱いですが、このキノコは氷点下に下がってもまだ採ることが出来ます。フィンランドではキノコ狩りの期間は長いので、秋はキノコ狩りの「黄金期」とも呼ばれています。
森で採ったばかりのキノコは秋の食卓に相応しい食材です。新鮮なキノコをフライパンで炒めたりスープやソースに入れたりして美味しくいただけます。沢山採る場合は冷凍したり、乾燥させたり、塩付けにしたりして保存します。
スオミ教会の料理クラブではフィンランド的なサンピュラを何度も作ったことがあります。フィンランドではサンピュラの種類は多くあり、生地の材料を少し変えるだけで、新しい名前のサンピュラが出来ます。今日のサンピュラの特徴は生地に使ったオートミールと表面にかけたセサミです。オートミールとセサミを加えることでパンの栄養価が高まります。パンはミネラル、ビタミン、繊維が含まれる健康的なパンです。フィンランドではこのようなパンを食べることが奨励されています。
今日はセサミをパンの上にかけたり、イーストでパン生地を発酵させたりしたので、今日の聖書のお話はイエス様が「からし種」と「パン種」についてのたとえ話が相応しいと思いました。このお話は新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれています。
ある時、「イエス様は神の国は何に例えられるか」について教えました。そこで二つの例え話をされました。先ず、イエス様は「神の国はからし種のようなものです」とおっしゃいました。
からし種とはどんな種でしょうか。それは非常に小さくてどんな植物の種よりも小さいものです。しかし、それを蒔くと茎はどんどん伸びて畑の中で最も大きな植物に成長します。それは木のように枝を拡げて空の鳥たちが巣を枝に作るくらいになります。
イエス様のもう一つのたとえ話は次のようなものです。このお話も「神の国は何に例えられるか」について語られたものです。イエス様は「神の国はパン種のようなものです。」とおっしゃいました。ある女の人がパンを作る時に3サトンの小麦粉にパン種を混ぜると、生地全体は大変良く膨らみました。1サトンは12リットルなので36リットルです。当時パンを作る時にはイーストはまだなかったので、いつも少しだけの生地を残しておいてそれを次に作るパンのパン種に使って発酵させたのです。たとえ話の女の人が作ったパン生地は36リットルもあるとても大きなものでした。しかしわずかなパン種をそんな量の小麦粉に混ぜただけでパン生地全体が大きく膨らんだのです。
この二つのたとえ話の意味はどのようなことでしょうか。たとえに出てくるからし種とパン種はとるに足らないものに小さなものに見えますが、それぞれに強い力が秘められています。イエス様はからし種とパン種を何に例えられたのでしょうか。それは天と地と人間を造られた天の神さまのみ言葉を意味します。つまり聖書のみ言葉のことです。聖書のみ言葉は見た目ではただ普通の言葉にすぎませんが、その中には大きな力が含まれています。それはどんな力でしょうか。それは天の神さまが私たちの造り主であるという信仰を生み出す力です。そして、天と地と人間を造られた神さまが私たちを救うために独り子イエス様をこの世に送られたことを知らせ、この出来事は自分の為に起こったということを信じて受け取れるようにする力です。聖書のみ言葉を通して神様に対する信仰が生まれるのです。
神さまのみ言葉を全世界の人たちに述べ伝えたら多くの人たちは信仰を持つようになります。イエス様はこのことをからし種が成長して大きな木になること、そしてパン種が小麦全体に広がって大きなパン生地に膨らむことで表されました。神様のみ言葉は全世界の多くの人々に向けられて信仰を生み出てきました。そうした生まれた信仰はこの世を生きる力になり、またこの世を超えて次の世まで導く力ともなります。
私たちも聖書のみ言葉を読んだり聞いたりしてしましょう。そこから神様への感謝の心が生まれます。
「聖書は神の言葉」について
昨年から礼拝の式文をフィンランドのルター派国教会のものに合わせる改訂を進めてきました。最後の変更箇所として、聖書朗読のところで旧約聖書と使徒書の朗読の後に「これは神の御言葉です」と言って、会衆が「神に感謝します」と応じる、福音書では「これは聖なる福音です」と言って、「キリストに感謝します」と応じるようにすることを先週の全体会でお知らせしました。
その後で信徒の間から、「聖書は神の言葉」と言うと、聞く人によっては米国の所謂キリスト教原理主義を思い起こさせるのでは、彼らも同じように言うからだという心配の声があがりました。世界のキリスト教界を二分するような諸問題でSLEYは伝統的な立場を取ることが多いため、それを好ましく思わない人たちから原理主義的などと批判されます。しかし、宗教改革で言う「聖書中心主義」と米国の福音派のそれには大きな違いがあります。いつか、ルター派にとっての「聖書は神の言葉」について勉強会を開こうと思います。(ちなみに、「これは神の言葉です」はフィンランドのルター派国教会の礼拝でも唱えられます。近年伝統からどんどん離れて行く傾向にある同教会を原理主義と言う人はいないでしょう。)
それで、肝心の式文の改訂はどうするか。取りあえず勉強会までは朗読者の判断に委ねます。「聖書は神の言葉」で問題ない人は唱え、心配な方は以前通りの「これで日課を終わります」。そうなると今度は、「神の言葉」と唱えられて聞く側が不安を感じたらどうするのかという反対が出るでしょう。その場合は次のようにお考え下さい。今あなたが聞いたのは神の言葉である、これからそれを説き明かして、神が今の状況にあるあなたに何を伝え何を与えようとしているかを知らせる説教が始まるのだ、それは高尚な世間話でも知的好奇心をくすぐる話でも道徳訓話でも感動ものでもない、あなたの魂を精錬する話だ、心して聴きなさい、というシグナルを与えるものとお考え下さい。会衆がそういう態度で臨めば臨むほど、説教者も一層真剣に説教を準備するようになること請け合いです。その意味でも「終わります」と言って終わってしまうよりお互いの信仰の成長に資します。
ここで説教者にとって一つ大きなチャレンジになるのが、旧約聖書の日課も使徒書の日課も「神の御言葉」と言ったら、本当は説教ではそれらも取り上げなければなりません。福音書の日課の説き明かしをそれらの御言葉に助けられて行うということです。言い訳がましくなりますが、聖書日課の編纂者はもっと気が利く組み合わせをしてほしいと言いたくなることが多いです。でも、それが取り上げない理由になってはいけなません。まだまだ研鑽が必要だと自覚しています。
桂の木 Katsura no ki
<19 わたしは荒野に香柏、アカシヤ、ミルトスおよびオリブの木を植え、さばくに、いとすぎ 、すずかけ、からまつをともに置く。 20 人々はこれを見て、主のみ手がこれをなし、イスラエルの聖者がこれを創造されたことを知り、かつ、よく考えて共に悟る。 イザヤ書41:19・20>
最近、街路樹などでよく見かける桂の木です、時々行く公園にも桂の大木があります。秋になるとモミジ葉楓と並んでいち早く黄葉を楽しませてくれます。桂の木を見る度に「徒然草」の好きな104段を思い出します「・・・桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ:「近くを牛車で通過するときなどには、あの女の屋敷にあった桂の大きい木が見えなくなるまで、今でも見送ることだ ・・・」ここに書かれている物語は藤原定家と式子内親王と思しき二人の仲を兼好は巧みに一場の物語にしました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年11月16日(日)スオミ教会礼拝
聖書:ルカ福音書21章5~19節
説教題:「終末にはどんな事が起こるか」
今日の聖書はルカ福音書21章5~19節です。21章と言うとルカの福音書ではもう終わりに近い方です。イエス様はご自分のこの世での活動も終わりに近づいて来ていること、つまり十字架の死が近づいて来た事を深刻に感じられています。これまで共に生活して来た弟子とも別れなければならない。この弟子たちが神様からの使命を全うして行くのに幾多の苦難があるだろう、それらに耐えて行けるように弟子たちへの訓練と警告を告げられてゆきます。ルカ福音書19章47節を見ますとイエス様の地上での活動の総仕上げの計画を含めて「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の最大のシンボルである神殿で弟子たちを教えておられます。ユダヤ教の司祭長や律法学者たちが総力を上げて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見ていたのでした。ユダヤの人々なら誰もが同じように見たでしょう。そこへイエス様が来られて言われました。6節の言葉です。「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」イエス様はこの頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いた弟子たちは吃驚したでしょう。とても考えられない事です。そこで更に7節には「彼らはイエスに尋ねた。先生、ではその事は何時起こるのですか。また、その事が起こる時にはどんな印があるのですか」と問うています。イエス様に訪ねた彼らと言うのは、実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」の四人が密かに尋ねたと記しています。イエス様は最も信頼している四人の弟子にだけ預言されています。この事はそれだけ慎重に秘密裡に考えての事でしょう。何故かとと言いますとエルサレムの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司たち、律法学者たちでした。ルカは19章の終わりのところで「祭司長たち律法学者の指導者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で公に、いまイエス様がやがてこの神殿は悉く破壊されてしまうなどと預言されるともう大変な事になります。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに明かされたわけです。特にルカ19章の終わりの45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を激しく追い出してしまわれた」とあります。この事件以来、彼らは益々イエスを殺そうと息まいています。そうとう頭に来ていますから危険の最中にあるわけです。このような危険状況の中で弟子たちはこれから大切な福音の担い手となって世界に向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくために訓練と警告を告げておられるのであります。更に弟子たちが想像もしていなかった終末が来ると、その直前には大変な苦難と迫害が来る事も預言されているのです。
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<考えてみますと>イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機状況は現在の私たちの世界の危機状況でもあると言えるでしょう。世界の彼方此方で戦争が絶えない、イエス様の時代と違って今日では科学文明が進み核兵器の危機です。イエス様の神殿崩壊の預言はとても考えられない事が事実歴史の中で起きてしまいました。紀元70年ローマ帝国に因ってエルサレム神殿は悉く破壊されました。ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトゥスによる記録にもあります。弟子たちはイエス様の預言と実際に滅亡してゆく過程の全てを見て苦しみを味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前に問うた時、イエス様は10節以下にあるように具体的に起こる事柄を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震が起こり飢饉や疫病が起こり恐ろしい天体現象があらわれる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には人々はあなた方に手をかけ迫害し会堂や牢に引き渡す。そして私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また私の名のためにあなた方は全ての人に憎まれる。」とあります。ここに言われる事の全てはイエスの名を信じる神の子とされた者が受ける苦難であり迫害です。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きてゆくかを示されています。「イエスの名を名乗る偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。王の前に出されたらそれは証をする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と知恵は与えられるから大胆に語れ、臆することなく勇気を持って語れ」と言われる。26節には「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされ恐怖に落ちてしまう。その時人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間の如何なる力も科学の力も機械の力もなすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうする事も出来ない、毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加、地球全体の規模で大異変が現実に起きている。そういう中で人間の力は無力です。これらは全能の神の怒り罰が下されているのでしょうか。紀元70年エルサレム滅亡は地上に住む国々の民に対し終わりの日の警告でありましょう。人類の大いなる艱難の日でもあります。「しかし、エルサレム滅亡をもって直ちに世の終わりが来るのではない」と主は言われる。エルサレム滅亡によってユダヤ民族が神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音は弟子たちによって広く世界へと、異邦人へと向かって行くのであります。エルサレム滅亡はこの意味に於いて大きな時代の一大転換期となった。人類の歴史の重要な一段落であります。マタイ福音書24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として全世界へ宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」更にマタイ福音書25章31~46節にみられるように右と左に分けられ「世の終わりが来てキリストの再臨による大いなる審判が行われる、そうして全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神のみこころのままに全てはなって行くのであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」11月4日の日課から
これぞ、ルターの神学の神髄、「イエス様と人間の幸いなる交換取引」なり!
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテア3章13節)
「キリストは私たちのために呪いとなった」 ― この言葉以上に甘美な教えがあろうか?我々は感謝の心を持ってこの言葉を自分のものにしよう。「キリストが私たちのために呪いとなった」とは、別の言い方をすれば、キリストは神の怒りの主犯となった、それ位の罪びとになったということであり、世界中の罪をご自分の肩に負わせ、「これら全て人間が犯した罪は実は私が犯したのです」と言わしめたということである。
キリストは、律法の規定に即してみて本当に呪いとなったのである。しかし、それは彼自身が原因なのではなく、私たちのためにそうなったのだ。もし彼が私の罪、君の罪そして世界中の罪を自分のものとして引き受けることなどしなかったならば、律法は彼を裁く権限を全く持ち合わせなかったのだ。なぜなら、律法は罪びとを裁くものだからだ。しかし、キリストは我々の幸いとなるように交換取引を行ったのだ。彼は我々の罪にまみれた人格を自分のものとして引き受け、ご自分の罪のない勝利に満ちた人格を我々に贈り物として与えて下さったのだ。この贈り物を纏ってもらったので、我々は律法の呪いから解放されたのである。
キリストは望めばそうする必要はなかったにもかかわらず、あえて自分から進んで我々のために呪いとなられた。「私は、神としての人格、人間としての人格の双方の点で、神の祝福以外の何ものでもなく、救いのために何かが欠けているという者でもない。しかし、私はこのような自分を空にして(フィリピ2章7節)、君たちが纏っている、自然な人間の状態をこの身に纏おう、君たちを永遠の死の滅びから救い出すために。」これが彼の本心だったのだ。
このようにして全世界の罪を背負った時、キリストは捕らわれ、苦しみを受け、十字架につけられて死なれ、我々のために呪いとなったのである。しかし、見よ、彼は三日後に復活され、今永遠に生きて治められている。彼には罪も死もなく、我々と同じ自然な人間の状態もない。あるのは完全な義、真の命、永遠の祝福である。(以上ルターの説き明かし)
この完全な義、真の命、永遠の祝福は、キリストを救い主と信じ洗礼を受けて彼と結びつく者みんなに与えられているのです!アーメン!
10月の手芸クラブは29日に開催しました。少し肌寒い午前でしたが、午後からは太陽が輝く秋晴れの天候に変わりました。
今回は前回に続いてクロステージのテクニックを使って刺繡をしました。参加者の中には前回の続きをお家で刺繡されて完成品を持って来られた方もいらっしゃいました。きれいな模様の素敵に出来上がった作品をみんなで見て、きれいな色合いですね、模様もよく引き立ちますね、と感心。今回は刺繡する方の他に編み物を編まれる方のご参加もありました。きれいで暖かそうなストールを背丈近くまで編まれ、もう少しで完成です。別の方は、以前手芸クラブで使ったテクニックでストールを編みました。編み物は初めてということでしたが、早くストール編みに慣れました。毛糸の色の組み合わせで模様がはっきり見えてきて、可愛いストールのスタートでした。きっと柔らかくて暖かいストールになるでしょう。
今回は作品はいろいろでしたが、皆さん、楽しくおしゃべりしながら刺繡をしたり、編み物を編んだりして時はあっという間に過ぎてしまいました。目と手を休めてコーヒータイムに入ります。
みんなでテーブルのセッティングをして、フィンランド風ドーナツをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、フィンランドの新聞記事にも載ったエリナという女性の刺繡と、イエス様が十字架の上で言われた「成し遂げられた」という言葉についてのお話でした。
次回の手芸クラブは12月3日の予定です。(注 11月の手芸クラブは12月に変更されました)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
今年の夏私はトゥルク地方の新聞を読んで刺繡に関係する面白い記事を見つけました。今日はその記事を紹介したいと思います。記事に登場するのは、トゥルクの近くに住んでいるエリナという女性です。エリナさんは十年前に刺繡に興味を持ち、それから熱中するようになって様々な作品を作るようになりました。そして、今年の夏の終わり頃に刺繡展を開きました。刺繡展のタイトルは「カササギのつま先やその他のステッチ」でした。カササギというのはカラス科に属する鳥で、羽は黒く胸と腹は白い色でフィンランド語でハラッカと言います。フィンランドでは「カササギのつま先」という表現はいろんなスタイルの手書きを表す時に使われます。刺繡展のタイトルはエリナさんの刺繡の手さばきを披露するという意味でした。
エリナさんはカラフルな刺繡の作品が好きで色の組み合わせに興味を持って刺繡をします。様々な素材の布に刺繡をして、この十年間でバック、写真、ぬいぐるみなどに刺繡をしてきました。コロナの時には熊のぬいぐるみに当時の出来事や思いを刺繡して「コロナの熊」という作品を作りました。また別の時には様々な言葉を日記の代わりに刺繡して残しました。60歳になった時に「人生をもって進んで行こう」という言葉をクロスステッチの壁飾りに刺繡しました。その意味は、これから体はだんだん衰えていくけれど、そのような体で進んで行こうという意味です。刺繡は完成まで時々時間がかかるので、まだ仕上がってない作品が沢山あります。しかし、それはまた続きをして、いつか完成させたいとエリナさんは考えています。
私はこの記事を読んで少しホッとした気もちになりました。エリナさんも作品を完成させるまで時間がかかり、途中まで作ったままのものが沢山あるそうです。私にも途中まで作った刺繡や編み物などが家に沢山あります。皆さんはいかがでしょうか。いつも全部を最後まで完成させていますか。刺繡や他の手芸を趣味にしている人にとって未完成のまま残っている作品は結構あるのではないでしょうか。これは私たちの日常生活にもよくあることではないでしょうか。仕事を一生懸命をしてもいつも完璧に終わることが出来るとは限りません。全ての仕事は最後まで完璧に仕上げられる人はいるでしょうか。
聖書はそのような方について教えています。その方は神さまの独り子であるイエス様です。イエス様はこの世におられた時、多くの人々に天と地を作られた神さまのことを正しく教えて神さまから与えられた役目を最後まで果たされました。その役目とは、イエス様が十字架にかけられて
そこで命を捧げられたことです。十字架の上でイエス様は最後に「成し遂げられた」と言って息をひきとりました。イエス様は天と地と人間を造られた神さまから与えられた働きを完成されたので、「成し遂げられた」と言われたのです。それは私たち一人一人そして全世界の人々のための働きでした。イエス様の十字架の業によって私たちは神さまの御前に立つのに相応しい者とされるのです。神様の御前で相応しくなれるために私たちはいろいろする必要はありません。ただ、このイエス様の十字架の出来事は自分の為に起こったということを信じてイエス様を救い主として受け取ることで十分です。イエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」とは私たちにも向けられています。
クロスステッチの刺繡はいつも私にイエス様の十字架を思い出させてくれます。十字架は教会を意味し、人々をイエス様のもとに導く印です。何年か前の夏私たち家族はある町の教会を訪問しました。その頃はまだナビゲーターがなく、町中教会を探しましたが、なかなか見つかりません。別の方向に向かおうとした時娘のヨハンナが突然「十字架が見える!」と大きな声で言いました。その方向に車で走って無事に教会に着き礼拝に間に合いました。その教会の礼拝で聖書を通して天の神さまやイエス様について教えを聞くことが出来ました。スオミ教会にも礼拝堂とこの集会室に十字架が掛けられています。スオミ教会の十字架も訪れる人々を聖書のみ言葉を通してイエス様のもとへ導いているのです。
みなさん、クロスステッチの刺繡をするときも、イエス様の十字架やイエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」を覚えていきましょう。