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2026年8月16日10時半 聖霊降臨後第十二主日

司式 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

説教  同 上

聖書日課  イザヤ56章1、6~8節 ローマ11章1~2a、29~32 マタイ15章21−28節       

説教題 「主の手から溢れる憐れみを受ける幸い」

讃美歌 84 159 299 262 316

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。
どうか、閉じてしまった私たちの心を開いて、聖霊の導きに従うことができるよう
にして下さい。イエス様が真(まこと)の救い主であることを絶えず思い起こさせ、
あなたから頂いた賜物を隣人のため、教会の成長のために用いることが出来るように
して下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエ
ス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

歳時記

臭木(kusagi)

〈43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。ルカ6:43,44

散歩道の途中の藪の手前に白い小さな花をいっぱいつけた木があります。時々立ち止まって観察しています、近寄って花の香りを嗅いだら香水の香りによく似た香りでジャスミンの香りでした。調べてみたら「臭木(くさぎ)」と言う木でした。藪の所に最初に侵入する先駆植物です、この木も藪の先端に生えていました。花が終わると丸い小さな黒い実をつけます、根元の赤いガクと黒い実のコントラストは鳥たちの格好の餌のシグナルとなって多くの鳥たちがやって来ます。秋の林を歩くとこの実によく似たゴンズイと言う木を見かけます。樹木も子孫を残すために色々な工夫を凝らしていますね。ところで、木の名前の「臭木」は枝や葉を傷つけると強い不快な臭気を発することからつけられたようです。

 

8月の予定

歳時記

ホルトの木

〈わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。ヤコブの手紙3:12〉

近くの商店街の入り口に何の木か分からずに見過ごしていた木があります、近くに多くのクスノキがあるのでそれの仲間と思っていたのかも知れません。過日、朝の散歩でその木に不思議な花が咲いているのを見つけました。長年見ていましたが花を見たのはこれが初めてでした、家内も余程珍しかったのか一輪採ってきました。調べてみたら”ホルトの木”でした。ホルトとは江戸時代にポルトガルの事をホルトと呼んでいました。平賀源内がこの木をポルトガルのオリーブの木と間違えて名付けたようです。確かに実はオリーブの実に似ていますが全く別種で日本の在来種の木です。何時も何気なく見過ごしていた木が源内先生のミスリードの木だったとは、つゆ知らずでこれも灯台下暗しでした。

2026年8月9日 聖霊降臨後第十一主日 説教田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月9日 礼拝説教

マタイによる福音書14章22−33節

「主イエスの恵みのうちに遣わされる幸い」

 

田口 聖

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

 

1、「遣わされるとは?律法か?」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書では、イエス様は弟子たちだけで彼らを船に乗せ遣わします。それは弟子たちにとって弱さと恐れを覚えた派遣でもありました。今日の第二に聖書朗読ローマ10章15節でパウロは、「良い知らせ、福音を伝えるもの」、つまり、説教者、牧師、宣教師の「その足はなんと美しいことか」とイザヤ書52章7節の言葉を正しく解釈して引用して伝えています。またそれはただ説教者だけではなく、使徒の働きの1章、天に昇られる前にイエス様が「あなた方は地の果てまでわたしの証人」となりますと言われたように、キリストの証人として救われ、召命を与えられたクリスチャン一人一人のことでもあります。クリスチャンは皆、キリストを証しするために遣わされている一人一人であり、キリストを証しするクリスチャン一人一人の「その足もなんと美しいことか」とパウロは示してくれています。

 私たちは牧師であってもそうでなくても、皆、イエス様によって召され、イエス様によって世に遣わされています。私であれば牧師、説教者として、そして全てのクリスチャンはキリストの証し人としてです。

 しかし皆さん。その「派遣」、遣わされれるということ。それは律法でしょうか?どうでしょう?「あなた方は遣わされています」という時、皆さん、どう感じますか?何かを自分たちだけで達成しなけれなならないと、重荷だと感じるでしょうか?何もできないと感じるでしょうか?あるいは、私には無理だと感じるでしょうか?

 今日の福音書。最初、イエス様は弟子たちだけで船に乗せ行かせています。弟子たちだけで遣わしました。しかしここを見ていくときに、イエス様は決して弟子たちを一人にしないということ、そしてその派遣は決して律法ではない。むしろ彼らはいつでもイエス様に思われ、祈られ、そしてイエス様が共にいて、イエス様が彼らを助け、導き、そして、イエス様がその航海、歩み、働きをなしてくださる。遣わされる、ということは、決して律法ではない、そのように「遣わされる」とは、どこまでもイエス様の恵みのうちにある福音なんだということを教えてくれているのです。22節、こう始まっています。

 

2、「弟子たちだけ、強いて」

 「22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 」

 イエス様は弟子たちだけで船に乗せ向こう岸へと行かせます。しかも「強いて」です。そこに偶然ではないイエス様の意図が思わされるのですが、それは、一人、山に登り祈るためでした。イエス様はしばしばこのように山に登り一人で祈ってきました。それは、ご自身が人となられたその目的である、ご自分がかけられる十字架への備えであったことでしょう。しかしそれだけではありません。そのイエス様の十字架と復活は、全ての人々の贖いとなるためであり、救いの約束の実現のためでした。そしてその救いは、やがて遣わされる使徒達の信仰告白の上に建てられる教会で、福音の説教と洗礼と聖餐を通して全ての人々へ与えられるものです。ですから、イエス様の祈りはまさに教会と宣教のための備えでもあったでしょう。二週先にマタイ16章で見て行きますが、イエス様はすでに罪の赦しの宣教が使徒達の信仰告白の上に立つ教会から始まることを約束しています。そして、ヨハネ17章のイエス様が十字架にかけられる直前の祈りからもわかるように、まさに、イエス様が一人で祈る時の祈りは、使徒たちのため、教会のため、そして全ての弟子たち、キリストの証人であるクリスチャン一人一人のために祈ってくださっていたことを窺い知ることができるのです。

 ですから、この場面、強いて船に乗せ弟子たちだけで遣わしているようには見えます。確かに目に見える現象的にはそうでしょう。しかし、イエス様は弟子たちのために祈るために一人で山に登ったのですから、決して弟子たちのことを見捨てたのではない、忘れたのでもない、軽んじているのでもないのです。ひと時、見えなくなっても、イエス様の思いと祈りの中に弟子たちはしっかりとあるのだということを忘れてはいけません。

 

3、「イエス様の目的」

 そして、この弟子だけで遣わすことには、さらなる意味があるでしょう。24節こう続いています。

24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」

 弟子たちは逆風、ヨハネの福音書の6章を見ると「強風」ともありますが、その風ゆえの波、大きな波に悩まされていました。行きあぐねていたのです。しかも夜です。周りは真っ暗で強い風と大きな波です。進むのは非常に困難であったでしょう。もう岸から離れているので戻ることも簡単ではないことでしょう。そして、弟子たちの中には漁師もいました。船の漕ぎ方は知っているとはいえ、自然の恐ろしさも漁師だからこそよく知っていたでしょう。風と波で、漁師でさえも進むことができない。皆、怖かったのではないでしょうか?漁師ゆえの経験や理屈を頭から振り絞っても、まさに「悩まされ」るしかない状況がわかるのです。

 ここにイエス様が彼らだけで行かせたのは祈るためだけではないことを窺い知ることができます。この後の出来事からもわかりますが、イエス様は彼らが弟子たちだけでこの波と風が強い状況でも向こう岸まで渡ることを達成しなさい、成し遂げなさいと、送り出し遣わしているのではないでしょう。イエス様はむしろ船に長けた漁師たちでも悩むほどの風と波を知っていたことでしょう。そしてこの今日の出来事でのイエス様の目的は何ですか?それは、33節にこうあります。

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

とあります。そう、まさにイエス様はこの日、この時、弟子たちだけで何かイエス様の命令を成し遂げることを望んでいるのではないでしょう。イエス様の目的は、弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」とイエス様を崇めること、イエス様をこそ信じ、信頼し、求めるように、そのイエスこそキリストであるという信仰をますます強めることです。ですから、わかるのです。弟子たちだけで行かせたのは、まさに彼らだけではできない、イエス様なしには、イエス様の御心や計画を前に、どこまでも不完全であり、時に悩み、時に恐れ、時に壁にぶつかる、そして時に無力さを覚える。時に不信仰になる、その現実、神の前での自分たちの罪深い現実と何もできないことを知るようにさせることにあるのではありませんか?その弱さや不完全さを知るからこそ私たちは「イエス様、憐んでください、助けてください」と求めるでしょう。それが「本当に、あなたは神の子です」という告白へとつながります。自分の罪深さを知ることなく、「イエス様、罪深い私を憐んでください、罪を赦してくてください」とはなりません。そのこと無くして、十字架の本当の意味も、十字架に現された神の愛もわかりません。しかし自分の罪深さを知るからこそ十字架の救いはわかり「本当に、あなたは神の子です」になるのです。そう、そのための導きなのです。

 

4、「イエスは安心させるために」

 ですから、イエス様は決して弟子たちを忘れてはいません。そのように風と波に何もできない弟子たちのところにイエス様は不思議なしるしを現しながら、来られるのです。

 25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」

 イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られたのは、まさにご自身こそ真の神であり救い主であることを示すための一つのしるしですね。しかし、暗闇の中に突然現れたイエス様に、彼らは亡霊だと思い、恐怖と叫び声を上げたのでした。「悩み」というのが軽いものではない、追い詰められた心の様が現れているような反応です。しかし幸いです。イエス様は決して悩ませ、恐れさせようとして弟子たちのところにやってきたのではないでしょう。そして、そんな弟子たちに「あなた方は自分たちで何もできないではないか、役割を果たせないではないか、向こう岸へ渡りきれなかったではないか」と言わないのです。もし弟子たちだけで行かせたことが、彼らが彼らだけで達成しなければいけない律法として行かせたのであるなら、イエス様は「ダメじゃないか、達成できないじゃないか」と叱り責めることでしょう。しかしどうでしょうか。イエス様を見てください、イエス様の声を聞いてください。27節

27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様は弟子たちに会った時、「向こう岸まで渡りきらないからダメだ、役目を達成できないからダメだ」とは言わない。恐れていることも「恐れていてダメじゃないか」とも言わないですね。はっきりと書いています。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 感謝ではありませんか。ここにイエス様の彼らへのメッセージがあります。弟子たちだけは無力です。遣わされても自分たちでは達成できません。色々なことに悩まされます。恐れます。弟子たちは不完全で罪深い一人一人です。それは使徒の時代も決して変わりません。しかし、そんな弟子たち、使徒達を派遣した方の遣わされた一人一人への変わらない言葉がここにあります。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 イエス様はなぜ世にこられましたか。安心させるためです。ヨハネ3章17節にある通り、私たちの罪を責めるためではありません。裁くためではありません。私たちに律法で重荷を負わせ何かを達成させるためでもありません。罪を赦すため。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と安心を与え、その平安のうちに「行きなさい」と遣わすためです。それはエリヤの時代も変わりません。エリヤも遣わされました。しかしエリヤでさえも弱さで打ちひしがれました。そして列王記上19章10節、14節と2度も

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 と繰り返し叫ぶほどです。しかし主はそんなエリヤをさらに鞭打って果たせとは言わないでしょう。「エリヤ、あなたではない。わたしがする」と、主ご自身が全て計画し果たすと約束を与え遣わすでしょう。そしてその通りに主はなされるのです。パウロも「良い知らせを伝えるものの足は美しい」と確かに言います。しかし、パウロはその前後、伝えるため証しするために派遣はしても、口に信仰告白を与え救いを与えるのは神の言葉だ、キリストの言葉に聞く事だと、み言葉の力、神の力、神がなすものだととパウロは言っているではありませんか。その「良い知らせを伝えるものの足は」、神のなす神の宣教(missio Dei)のために神が召し神が用いているだけであり、成すのは神だと言っているのです。派遣は決して律法ではない、宣教も決して律法ではない、派遣も福音、恵みであり、宣教も福音なのです。

 

5、「ペテロが成すのではない、主と主の言葉がなす」

 この後のペテロのエピソードは象徴的です。28節から

28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 ペテロの28節の言葉は見ようによっては敬虔な言葉に見えます。熱心な言葉でもあります。イエス様がいれば自分でもできるだろう。信仰的にも見えます。しかし、半分は、自分がなそう、自分にもできるという意志もそこにはあるでしょう。なぜなら、イエス様の「きなさい」という言葉がペテロをも事実、湖の上を歩かせるのですが、まさに周りの強い風、沈みかけたという現実に、イエス様の言葉への信頼ではなく自分でできるかどうかと意思や感情が心を支配するでしょう。それによって沈みかけるのです。そう湖の上を歩くのは、彼の熱心さや彼から出る敬虔さ、意思の強さや情熱ではないのです。彼自身の力ではありません。それをなさせるのはイエス様の言葉でした。しかし、まさに自分の何かに頼ることへの不安と恐れの中で、自分の意思や熱心さや情熱や行いの無力さ不完全さを知るからこそ、ペテロから「主よ、助けてください」の言葉が出てくるのです。そう、イエス様が望んでいるのは、「私は湖の上を渡りきりました。あなたのように歩きました。」という自信ではないのです。イエス様による派遣に必要なのは、自信ではないのです。神の前に弱さ、無力さ、罪深さ、恐れる自分、不完全な自分、何もできない自分を、むしろ認めることです。砕かれた心で悔い改めることです。それこそ神は喜ばれるとも聖書にはあるでしょう。その心で「主よ助けてください」「主よ憐んでください」と叫び、主イエス様にすがり頼り求める信仰です。そのような「主よ助けてください」「主よ憐んでください」こそ何よりも敬虔な言葉、叫び、信仰の告白だとも言えるでしょう。そしてイエス様はその恵みによってご自身の真の目的である信仰と賛美にこそ彼らを導かれているではありませんか。33節

「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」

 

6、「結び:派遣」

 今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を語り目にみえる福音を与え、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様が私たち一人一人に差し出してくださっている福音をそのまま受け取り、平安のうちに遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

歳時記

鉈の思い出

〈わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手わざを思います。 詩編143:5

先週の話の中に鉈が出てきましたがあの鉈にも苦い思い出があります。鶏の首を切り落として変な勇気が出たのか一年坊主の私はやたらに鉈を使うことを覚え振り回していました。或る日、何を切ろうとしていたのか覚えていませんが何かを押えて鉈を振り下ろした先に左手の親指がありました。小学一坊主の親指はあっけなく切られましたが幸い鉈の刃はなまくらだったので切断には至らずに皮一枚でつながっていました。母は血の滴る指を手拭いで縛り学校に駆けつけました。幸い校医がいて見てくれましたが指が小さすぎて縫うこともかなわずに広い部屋(講堂?)に腹ばいにさせられて母と医者に押さえつけられて親指に注射(麻酔?)を打たれて何やらやっていましたが痛くて思い切り泣きわめきました。漸く治療が終わり消毒して包帯でぐるぐる巻きにしておしまいでした。八十五歳になった今でも両手の親指を並べて見ると左の親指の先端に小さな突起が見えます。この小さな突起は小学一年坊主の時の私の親指の名残です、小さな指をしていたなと今でも時々眺めています。

 

2026年8月2日(日)10時半 聖霊降臨後第十主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年8月2日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書14章13~21節

説教題:「五千人に食べ物を与える奇跡」 

今日の聖書はマタイ福音書1413節から21節までであります。聖書の有名な箇所です。イエス様が五千人以上もの大勢の群衆をたった五つのパンと二匹の魚で空腹を満たされた、と言う奇跡の出来事であります。常識ではどんなマジックを使っても出来ない事!全く考えられない驚くべき奇跡を大群衆の一人々が我が身に感じたのですから彼らの間で非常に強力な印象で語り継がれていったでしょう。ですから、四つの福音書全部にこの出来事を記しているわけです。今日のマタイ福音書の方は比較的短く簡潔に記されていますがマルコの方が順序良く詳しく記しています。マルコ福音書6章6節以下には「伝道に派遣された弟子たちが帰ってきてイエス様に自分たちが行った事、教えた事を残らず報告した。」と記されています。それに対してイエス様は彼らを労って「さあ、あなた方だけで人里離れた所へ行って暫く休むがよい」と言われた。マタイ福音書の方では「イエスは舟に乗ってそこを去り一人人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はその事を聞き方々の町から歩いて彼を追った。イエスは舟から上がり大勢の群衆を見て深く憐れみその中の病人を癒された。」とあります。マルコの方は「舟から上がったイエスが大勢の群衆を見て飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみいろいろと教え始められた。」とあります。此処には救いを渇望する人間の側の実感が伝わってきます。旧約聖書から言われてきた神とイスラエルの関係を羊飼いと羊に譬えて言われてきたように群衆のイエス様に期待し慕い求めて集まっている現状を示しています。当時のユダヤ教の律法主義から見れば彼らは神の国に入る資格のない人々であったでしょう。週末が近づくと聞かされ、なす術もなくただイエス様の語る福音に心惹かれて、またイエス様の病人を癒される業に驚きイエス様が語られる一言/\ に聞き入っている大群衆です。イエス様の熱の入った神の国の救いの教えに時は過ぎて夕方に差し掛かってきたのです、そこで弟子たちがイエスのそばに来て言った。「此処は人里離れた所でもう時間も経ちました。群衆を解散させてください。そうすれば自分で村へ食べ物を買いにゆくでしょう。」この弟子たちの群衆を心配する言葉はもっともな言葉です。極めて世俗的な空腹を心配してゆく場面へとなります。群衆の神の国へと導かれる霊の世界の魂の救いという壮大な深い真理の世界の人間が根本的に救われなければならない、目に見えない望み、心が乾いて求めてゆく。そうした群衆の求めに今イエス様は立っておられるのです。時も忘れて疲れも忘れて福音を教えられておられるのです。それに対して、もう日も暮れかかってきた。人間の肉的な求めを心配する弟子たちです。この弟子たちにイエスは言われる。16節で「行かせることはない。あなた方が食べる物を与えなさい。」!! 何というイエス様の言葉でしょうか、目の前の五千人以上の大群衆に食べる物をどうして与えることが出来ましょうか。マルコの方では「私たちが二百デナリオンものパンを買ってきて皆に食べさせるのですか。」と言っています。此処で言う一デナリオンのお金は労働者の一日分の賃金だと言われていますから二百デナリオンは相当の大金です。この弟子たちの言い分を誰も責めるわけに行かないのは当然でしょう。しかし、イエス様は弟子たちが食べ物を与えるべきだとされたのです。マルコ福音書の方で見たように、伝道から帰ってきた弟子たちに報告を聞いたイエス様は疲れを労って休養を取るようにとまで言って下さったのに「大群衆に食べ物をあなた方で与えなさい」と言うたいへん理不尽な要求ではないでしょうか。弟子たちの反発、不満の言葉で返しています。しかし、イエス様には弟子たちがその事を到底できない事もご承知の上で言っておられたのでしょう。弟子たちが周辺の村や里も何処へ出かけたからと言ってこれだけの大群衆の飢えや渇きを癒す糧が入手できる可能性はゼロであります。肉眼に見える必要な事ばかりでなく目に見えない心の糧、人々が心から待ちわびて望んでいる飢えや渇きを癒してくれる魂の救いに至っても弟子たちにはお手上げです、何一つ出来ない。イエス様はこの次元に救いの問題をもう一度立ち帰らせて弟子たちに問い掛けておらるのです。弟子たちが伝道に出掛けて行って病を癒したりイエス様の教えを語ったり懸命にやって来た事より、もっと本当は神の民であるはずの人々の、この心の底からの救い、飢え渇きが弟子たちの休息をとる以上に緊急なことではないかと主イエスは弟子たちに教えようとされている、訓練を与えて行かれる。どんな立派な伝道報告を弟子たちにがしたとしても今、目の前に救いを必要として村々からイエス様に走り寄って来ている群衆、時も忘れてイエス様の口から語られる救いと教えの言葉を食い入るように聞いている。肉体の空腹も心配だけれどももっともっと心の癒し、魂の救いの重要さに心の目を向けようとして行かれる。「あなた方があなた方の手で食物をやりなさい。」このことは教会に対して「あなた方の手で彼らに食べ物を与えなさい。」どのようにして?「与える食べ物、霊の糧は神様が与えて下さる。」のです。「神の国から見てあなた方には何がありますか?僅かばかりの取るに足りない物でしかない。」弟子たちは言いました。「此処にはパンが五つと魚が二匹しかありません」。

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今の時代の中で私たちが教会へと召されている、その私たちにある物は何ですか?イエス様は言われています。僅かばかりのパンと魚をイエス様のもとに持って来なさい。イエス様を目いっぱい信じて差し出しなさい。主イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱えられると何とイエス様の手から五つのパンと二匹の魚が次々と弟子たちに渡され五千人以上の群衆は満腹して残りのくずを集めると十二のかごいっぱいになった。何という驚くべき奇跡の業がイエス様の手から繰り広げられていったのであります。どうして?理屈ではない事実!。五千人の人々は十分に食べて満腹したのであります。とても/\考えられない事、人間の思いを遥かに超えた神の御業がイエス様の手によってもたらされたのです。問題は単なる見える食べ物だけの事ではない。目に見えない食べ物、人間が真実に生きてゆくのに必要な糧であると言う事です。群衆の真の飢え渇きとはなんであったでしょうか。彼らの罪の故に律法学者や祭司長たちが人を判断する尺度では神の国には入れないと言う現実にありました。そこには救いはないと言う事です。誰がどうやって罪人たちを救ってくれるのか。そういう人があればその方こそメシアであるに違いない。そうした中へ五千人以上もの群衆をまずは彼らの腹を満たすと言う神の業を現わされたイエス様。弟子たちの手で与えなさい、と言われても自分たちの力で何一つ出来ない。群衆の飢え渇きを癒す事など考えられない事であったのです。イエス様がなさった天を仰いで賛美の祈りを唱えパンを裂いて弟子たちに配られた。と言うこの「パンを裂き配る」と言った事が初代教会の中で古くからの定式化されてきた聖餐式の用語を想起させます。そうしてみると此処で語られているのは生前のイエス様のなさった癒しが何時でも罪の赦し、救いの「印(しるし)」であったように、此処でも五千人以上の人々に食べ物を供えられたと言う奇跡は主イエス様が十字架の上で人々の罪を贖うために死なれた事、その主イエス様の贖いによって罪人である私どもが救いを与えられ、また主の復活によって新しい生命を与えられる事の「印(しるし)」として語られるのではないか。従ってこの日ガリラヤの湖畔でイエス様がパンを裂き弟子たちが分配し人々が満ち足りたと言う光景は他ならぬ神の国の祝宴を先取りしたものと言えましょう。律法によっては神の支配に入る事が出来ず、飢え、渇き救いを求めて彷徨っていた人々が今やイエス様が十字架上に裂かれた体、流された血によってその罪は贖われ赦され、神の国の食卓に連なり満たされ喜びに溢れる日が主イエス様によって備えられたのであります。神の支配はイエス様の奇跡によって地上に始められたのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

歳時記

続・小綬鶏

〈わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 マタイ6:11

先週、小綬鶏について述べましたが太田愛人先生は二羽の小綬鶏をいとも簡単に絞めたようです。流石に長野の辺境の地で長い間自給自足の生活をされていただけあって鶏の絞め方も熟知されていたのですね。実は私も鶏を絞めた事があります。疎開先で小学一年生の時でした。卵を産まなくなった鶏を母は病み上がりの妹のために栄養をつけたかったのでしょうか。東京育ちの母にはどうしたらいいのか分かりかねていたので僕がやると勇んで件の鶏を膝に押さえ込んで首を思い切りねじってみました、そのうちに鶏がぐったりしてきたので脇の鉈を振り上げて首を目掛けて降り下ろしましたが鶏は首を元通りにするとけたたましい叫び声をあげながら逃げて行きました。母と妹たちも一緒になって追いかけてやっと捕まえて私の手に返しました。今度は初めから鉈で首を叩き切りましたが妹たちは「トトコ可哀そう/\」と言っていましたが料理が出来て食べ始めると盛んに「美味しいね/\」とにこにこしながら食べていました。後で大人から教えられたのは鶏を絞める時は捻った後に少し首を引っ張ると良いと教わりましたが生憎その後がありませんでした。

 

7月の予定