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2024年3月3日(日)四旬節第三主日 主日礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師 聖書日課 出エジプト20章1~17節、第一コリント1章18~25節、ヨハネ2章13~22節 説教題 「いつ人は十戒の掟を仕方なくではなく、喜んで守れるようになるか?」 讃美歌 239、321、386、259、273 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはみ子の十字架の死と死からの復活によって、天のみ国の希望をこの世に打ち立てられました。どうか私たちがその希望に満たされて、あなたのみ言葉に聞き従い罪から離れ、この世であなたの愛を現わす生き方ができるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。     アーメン

 

歳時記

トトロ

少し古い写真で恐縮です。去年の夏ごろ宮ケ瀬ダムに行った折に見かけた女の子です。何か一生懸命に見ています。 下の娘もこの子ように幼かった頃玄関脇の茂みの前でこの子ようにしゃがみ込んで懸命に茂みの中を覗き込んでいました。何がいるのか尋ねたら-よんちゃん、小さいの・・–と要領の得ない返事でした。姉に向かって–いたんだよね–と言っていましたが姉もいたよ、と言って矢張り要領の得ない答えでした。イエスが小さい子供を大事にしたのは大人には見えない神の姿が小さい子供には見えていたからかもしれません。

<それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。 マルコ10:14>

手芸クラブの報告

2月の手芸クラブは28日に開催しました。前日は冷たい北風が吹きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

前回に続いて今回もバンド織のキーホルダーを作りました。フィンランド語でNauhaと言います。前回参加された方たちは新しい模様のキーホルダーを作りました。毛糸は既に準備したものを用い、各自それぞれの場所で織始めました。初めて参加された方にはいろいろ細かい準備をして、それから織始めました。

新しい模様のバンド織の毛糸は細かったので、今回はどんな模様になるか皆さん楽しみにしながら織進めていきます。すると、可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。

今回の毛糸は黒色が多かったので少し織りづらかったようでしたが、皆さん一生懸命頑張ったので今回も素敵なバンド織のキーホルダーが出来上がりました。

初めての方もテクニックを早く覚えてNauha はどんどん長くなって、かわいい春らしい色のNauhaが出来上がりました。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて結ぶと可愛いキーホルダーの完成です!

肩をリラックスしてコーヒータイムに入りました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、毛糸のNauhaや天の神さまが私たちに与えて下さる人生のNauha についてお話がありました。

3月の手芸クラブはお休みになります。次回は4月24日に開催予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話2024年2月

今日もきれいなバンド織のキーホルダーが出来ました。皆さんは覚えが早いので、あっという間に出来上がりました。今日はバンド織について少しお話をしたいと思います。

バンド織は地中海の地域で古くから作られた手芸の一つです。イタリアでは1200年代に作られたものが発見されています。バンド織作りは中世期に北欧にも広がってフィンランドのトルゥクでは1400年代に作られたものが発見されています。

バンド織はフィンランド語でPirtanauhaと言います。Pirtanauhaは1800年代から1900年代にかけてとても人気がありました。バンド織で作ったものは貴族の間では使われませんでしたが、農民の人たちはそれを使ったので女性たちがよくバンド織をしました。母親たちは織り方を娘たちに教えたので、このスキルは世代から世代へ伝わっていったのでした。

バンド織はどのようなものに使われていたでしょうか。一番多かったのはベルトでしたが、靴のひも、バッグの持ち手、服の飾りなどに使われました。バンド織は何本も繋げていくと生地にもなりました。

フィンランドでは1900年代から1970年代まではバンド織を作る人はあまり多くいませんでしたが、1970年代からまた人気を集めるようになりました。現在は作る人はそれほど多くはいませんが、フィンランドの伝統的な手芸の一つですので、手芸センターなどでバンド織のコースが時々開催されます。

Nauhaは色んな長さや色んな色のものに作ることが出来ます。フィンランド語のNauhaは、「ひも」という意味です。Nauhaという言葉はいろいろな文脈で使われます。人生を象徴する時、Nauhaということもあります。人生が一本の長いひもにたとえらえるのです。フィンランドの子どもの讃美歌には次のような歌があります。「人生の日々は美しいNauha、一つ一つの思い出は真珠の粒、日々の連なりは真珠をひもに通した飾りのように高価なもの。そのどれもNauhaから外すことはできない。」

この歌は人生の日々の連なりをNauhaに、そこにある一つ一つの思い出を真珠にたとえています。沢山の真珠があるNauhaは素晴らしく見えます。Nauhaの中にある真珠の一つ一つは思い出の一つ一つですが、よく見ると明るい色や暗い色があります。それでもNauhaの全体は素敵なものになります。私たちの人生のNauhaは振り返って見ると、いろんな色の時期があったと分かります。一つ一つの色には意味があります。明るい色は幸せや喜びの時期を表しますが、暗い色は悲しい時、困難な時期です。私たちの人生には両方の時期があると思います。私たちはもちろん幸せを求めますが、ずっと続くとは限りません。自分で選ばないのに悲しい時がきます。

聖書には、人生の中にいろんなことががあっても心配したり恐れる必要はないと教えるところが沢山あります。その中でも旧約聖書の詩篇23篇は有名な箇所です。

この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まって食べられてしまいます。そのため羊飼いは羊を守って導いていきます。羊飼いが羊を守り導くように、神様が私たちを守って導いて下さると詩篇の言葉は伝えています。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時に大きな安心があります。神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?

この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たち一人一人のことをよくご存じで、いつも歩むべき道を示して下さいます。神様は私たちを愛しているので、良い場所に導いて下さいます。良い場所とは、「きれいな青草の原」、「憩いの水のほとり」と詩篇の中で言われます。ただ、そこに至る道はいつも明るい安全な道とは限りません。詩篇では、「死の陰の谷」を通ることもあると言われます。私たちの人生の中には喜ばしいことだけでなく悲しいこともあります。もちろん、私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様は実は悲しい時でも、喜ばしい時と同じくらいに共にいて下さると詩篇で言われているのです。この詩篇の箇所は、このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。

私たちの人生のNauhaにはいろんな色があります。しかし、神さまがいつも一緒にいて下さると信頼できればこれからも真珠をつけていくことができます。このことを忘れずに歩んで行きましょう。

 

牧師の週報コラム

なんで英語じゃないとダメなんですか?

スオミ教会が中野にあった時のこと。キリスト教会の礼拝に初めて参加したという青年がコーヒータイムの時に私に聞いた。 「先生、僕は聖書を原語で読みたいんです。教えて頂けますか?」 立派な志しだと感心し、「それじゃ、ギリシャ語から始めようか。それともヘブライ語?アラム語もあるけどヘブライ語を先にやった方がいいよ。」 すると青年は当惑した表情で「いえ…、英語でです。」 これには私も仰天。聖書は新約はギリシャ語が原語、旧約はヘブライ語(一部アラム語)ですと説明しなければならなかった。青年は二度と教会に姿を現さなかった。

キリスト教はアメリカの宗教…。そういえば、オペラの「蝶々夫人」。米海軍士官との結婚を機に蝶々さんはキリスト教に改宗して一族から勘当。一時帰国の筈の夫はなかなか戻らず。一人残った家政婦のスズキさんが主人の帰国を一生懸命に神仏に祈っていると、そんなものに祈っても意味はないと嘲笑する蝶々さん。「私にはアメリカの神がついている」と。そして悲劇的な結末…。

これも中野時代のこと。ある教団の牧師(アメリカ帰り)がスオミ教会の礼拝で説教をした時、「皆さん、イエス様は皆さんのことを愛して下さっているんですよ!アイ・ラブ・ユーっておっしゃっているんですよ!」と。私は思わずのけぞってしまった。イエス・キリストが「アイ・ラブ・ユー」だって?!彼は何度かスオミで説教したが、よく口から出てきたので、自分の教会の礼拝でも常套文句なのだろう。きっと信徒さんたちもうっとりして聴いているのだろう。そう言えば、日本では多くのキリスト教会の案内や出版物もカタカナ英語がよく目につくと思う。

そういうお前はどうなんだ、フィンランド帰りをちらつかせて、フィンランド語で何か言っているじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、私の場合は、ジーザス・ラブズ・ユーとは違う。説教の準備の終わりの段階でいつも聖書の個所が日本語訳ではどう言われているかを確認する。原語はそう言っていないのでは?この日本語訳いいのかな?ということに時々出くわす。それで、フィンランド語ではスウェーデン語ではドイツ語では、そして英語ではどう言っているか、と自分の訳に応援を求めているだけである。私の経験では(正確に統計を取ったわけではないが)、日本語と英語の訳が一致して、その他3つが別の訳で一致するということがよくあると思う(ただし、英語訳はNIVについてのみ。ドイツ語訳も共同訳とルター訳があるのでさらなる違いもある)。

日本の政治家は日米同盟のことを共通の価値観で結ばれた世界最強の同盟と誇りにするが、聖書の訳や理解でも同じようなことがあるのだろうか。

2024年2月25日(日)四旬節第二主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

         主日礼拝説教2024年2月25日 四旬節第二主日

創世記17章1‐7、15‐16節

ローマ4章13‐25節

マルコ8章31ー38節

説教題 「一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っている有名なイエス様の教えです。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これを読んだ人はたいてい、ああ、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているんだな、と理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値あるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。誰にでもわかる道徳をイエス様は教えているのだと。

 ところがイエス様はこの言葉の前で何と言われていたでしょうか?「わたしの後に従いた者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。

皆さん、しっくりいくでしょうか?「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救う」などと聞くと、大方の人は、ああ、迫害を受けて殉教した人は天国に行けることを言っているんだなと理解するでしょう。そうすると、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というのは、殉教の道を歩めと言っているように聞こえてきます。そうなると一方で、命は地球より重い、それくらい価値あるものなのだ、などと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのはOKというのは矛盾しているのではないでしょうか?

 実はイエス様は矛盾したことは何も言っていないのですが、なぜ矛盾しているように聞こえるのかと言うと、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」、この部分を「命は地球より重い」という一般的な道徳で理解してしまうからです。この部分をよく目を見開いて見ていくと、一般的な道徳とは違うことを言っていることが見えてきます。ここには一般的な道徳ではなく、キリスト信仰の道徳があるのであり、それが見えてくるとイエス様が言っていることは筋の通ったものになります。そういうわけで本日は皆さんを一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へと道案内したく思います。

2.神の人間救済の計画

まず、本日の福音書の日課マルコ8章31~38節ですが、その少し前の27節~30節を見ると、イエス様が弟子たちに、人々は私のことを何者と言っているかと質問をします。どうやら人々はイエス様のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていたようでした。それに対してペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、メシア・救世主と信じていることを明らかにします。

 そこで今日の31節が来ます。イエス様は自分の受難と死からの復活について預言します。それを聞いたペトロは敬愛するイエス様が殺されることなどあってはならないと思って否定します。それに対してイエス様はペトロのことをサタン、悪魔と言って叱責します。お前は「神のこと」を思わず、人間のことを思っている、と。これを読む人はイエス様の強い語調に驚くでしょう。その場にいたペトロや弟子たちに至っては大ショックだったでしょう。しかし、神の人間救済計画を全世界の人たちのために実行すべくこれから十字架の死を受けなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのはまさしく神の計画を邪魔することになります。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないというのは悪魔に加担することと同じになってしまいます。それでイエス様は強く叱責したのです。ペトロが思っていない「神のこと」とは、まさしく神の人間救済計画のことです。

 それでは神の人間救済の計画とはどんな計画か?それがわかるとイエス様が教えていることは一般的な道徳を越えてキリスト信仰の道徳であることがわかってきます。当教会の説教で毎回教えていることですが、復習しましょう。

キリスト教信仰では、人間は誰もが創造主の神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまったという大問題が立ちはだかります。どうして壊れてしまったかと言うと、創世記に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、それを聖書では罪と言いますが、それを持つようになってしまったからです。人間は神聖で永遠の神のもとにいられなくなって死ぬ存在となりました。使徒パウロがローマ6章23節で言うように、死ぬというのはまさに罪の見返りなのです。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできてしまったのです。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても復活の日に目覚めさせて復活の体と永遠の命を付与して造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この計画はどのように実現したか?罪が人間の内に入り込んで神との結びつきが失われてしまったのだから、それを人間から除去しなければならない。しかしそれは、イエス様がマルコ7章で宗教指導者たちとの論争で明らかにしたように人間の力では不可能です。律法という神の意思を表す掟があります。しかし、人間はそれを行いだけでなく心の中でも完全に永続的に守り通すことはできないのです。律法は、人間が不完全で罪があることを示してしまうのです。人間が自分の力では無罪(むつみ)の状態になれないとすれば、どうすればいいのか?なれないと、神聖な神と結びつきを持つことも神のもとに戻ることもできません。

この問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に贈って、彼に人間の罪を全部背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運び上げさせ、そこで人間の身代わりに神罰を受けさせて死なせたのです。つまり、ひとり子イエス様に私たち人間の罪の償いを果たさせたのです。そこで私たち人間がこのことは歴史上、本当に起こった、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになって、この世をその結びつきの中で歩むことができるようになります。

イエス様が果たしたことは罪の償いだけではありません。十字架の死から3日後、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちのために開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになったのです。神との結びつきを持ちながら進んでいくのです。

 ところで、神から罪を赦された者と見てもらえるようになったとは言っても、この世にいる間は私たちは肉の体を纏っているので私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。確かに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた以上は注意深くなって罪を行為や言葉で表に出してしまうことはなくなるかもしれませんが、心の中で持ってしまいます。どんなに注意していても、人間的な弱さのため、また隙をつかれて罪が行為や言葉で出てしまうこともあります。そのような時はどうなるのか?イエス様が果たして下さった罪の償いを台無しにしたことになり神から赦しをキャンセルされてしまうのでしょうか?神との結びつきは失われてしまうでしょうか?

 そうではないのです。もし自分に罪があるとわかったら、すぐそれを神の御前で認めて、イエス様を救い主と信じますから赦して下さいと祈ります。そうすると神は、「お前は心の目をあのゴルゴタの丘の十字架に向けて見よ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられている。わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないようにしなさい。」そうおっしゃって下さいます。そうしてキリスト信仰者は再出発します。

 キリスト信仰者といえども神の意思に反する罪を内に抱えています。それで自然、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことになります。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すというのは、イエス様の十字架の下に行くことです。また自分が受けた洗礼の地点に戻ることです。洗礼の地点に戻って十字架の下に立つというのは、私は罪に与しない、罪を忌み嫌って生きているということの偽りのない表われです。なので、罪を認めることと赦しを受けることを繰り返せば繰り返すほど、内に宿る罪は圧し潰されていきます。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者のこの世の人生というのは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスです。怒りや憎しみ、口を制御することができないとか、えこひいき自分もひいきされることを望むとか、そういう愛のなさが染みついている古い人。これを神から頂く罪の赦しを重石のようにして圧し潰していくプロセスです。

 やがて、このプロセスが終わる日がきます。生きている人も死んでいた人も全ての者が創造主の前に立たされる日です。その時、各自に審判が下されます。その時、「お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと認められれば、それで十分です。そう認められた人は、その時もう自分には圧し潰すものがなくなっていて、自分自身の体が神の栄光を映し出して輝いていることに気づきます。これが復活の体です。ルターが言うように、キリスト信仰者が本当に完全な信仰者になるのはこの世を去って肉の体にかわる復活の体を着せられた時なのです。

3.一般的な道徳からキリスト信仰の道徳へ

以上が神の人間救済の計画とそれがどう実現したかについてです。それでは、イエス様がつき従う者つまり私たちキリスト信仰者に背負いなさいと言っている十字架とは何かに?それについて見ていきましょう。そして、命を救う、失う、と言っていることはどういうことか、それも見ていきましょう。

 まず、キリスト信仰者が背負う十字架について。これは、イエス様が背負った十字架と同じでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって人間の罪を全部引き受けてその神罰を全て受けて人間の救いを実現しました。私たち人間が同じような十字架を背負うことは出来ないし、そもそも救いの十字架は一度打ち立てられて完結したのです。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど、キリスト信仰者の人生は罪を圧し潰していくプロセス、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスだと申しました。

 それで、「自分を捨てる」というのは、まさに古い人を死なせ、新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。つまり捨てるのは肉に結びつく古い人です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まりました。ただこれはプロセスですので、この世を去るまでは捨てることは続きます。「自分を捨てる」と言うと、何だか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえます。また逆に、自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえるかもしれません。一般的な道徳の耳で聞くとそういうふうに聞こえるのです。しかし、そういうことではありません。罪を認めることと赦しを受けることを繰り返すことで古い人が圧し潰されて衰えて代わりに新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てること、これがキリスト信仰の道徳から見た「自分を捨てる」です。

 そういうわけで、私たちが十字架を背負うというのは、洗礼を受けた時に始まる、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いを戦うということになります。戦いの内容は、それぞれが置かれた状況によって異なってきます。人間関係の中で死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てきます。人を妬むことで古い人が強まります。あるいは、キリスト信仰者であると公けにすると立場が悪くなってしまうから黙っていよう、などと言ったら、新しい人が育たなくなります。このように背負う十字架は中身は違っても、新しい人を育て古い人を死なせるという点ではみな同じです。そういうわけで、「十字架を背負う」とか「自分を捨てる」というのは殉教そのものではありません。罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がなくても日常生活のどこにでもあります。

 このように、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入ることだとわかると、続く35節と36節で「命」(後注)を救うとか失うとか言っていることもわかってきます。次にそれを見ていきましょう。

 35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは前の繋がりで見ると、自分の命を救いたいと思う者とは、自分を捨てることもせず自分の十字架を背負うこともせず、従って罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いに入らなかった人のことです。それなので、復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩んでおらず、この世での命が全てになってしまう人です。そのような人にとって新しい世での新しい命などありえないことですから、この世での命にしがみつくしかありません。まさに、「自分の命を救いたいと思う」人です。しかし、この世での命は永遠に続きません。だから、「それを失う」のです。

 次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」先ほど、自分の十字架を背負い自分を捨てるというのは殉教そのものではない、罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いは迫害がないところでも日常生活のどこにでもあると申しました。しかしながら、信仰を捨てるか命を捨てるかのどっちかを選べ、と権力者から迫られたらどうするかという問題は歴史上あちこちでありました。今日でもあります。たとえ罪を圧し潰し古い人を死なせる戦いが殉教で中断させられてしまっても、命落す日まで戦いを続けたことは父なるみ神の「命の書」に記されます。最後の審判で、お前は罪を圧し潰す側に立って生きていたと必ず認められるでしょう。

 そして36~37節です。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」ここの「命を失ったら」の「失う」ですが、前の35節に二回出てくる「命を失う」と原語のギリシャ語の動詞が異なります。35節はアポリュミαπολλυμιという動詞で、それは文字通り「失う」という意味がありますが、36節はツェーミオオーζημιοωという動詞で、その正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため辞書によっては、イエス様のここの言葉を「命を失う」と訳してはいけないと注意するものもある位です。新共同訳ではそう訳してしまっています。ここは「命に傷がついている、ダメージを受けている」という意味です。そうなると、イエス様は「命は地球より重し」という一般的な道徳を教えていないことになります。一体イエス様は何を教えているのでしょうか?

 36~37節の意味はこうです。「人はたとえ全世界を手に入れても、命が傷つきダメージを受けていたら、そんな命は何の役にも立たない。なぜなら、どんなにこの世で永らえようとしてもいつかは時が来るのだし、その時、手に入れたもので命を買い戻そうとしても無駄である」ということになります。ここでの問題は「命に傷がついている、ダメージを受けている」とはどういうことかということです。

 それは、ここで言われている「代価」がカギとなります。人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。それによって人間は復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって歩みだします。このようにイエス様は私たち人間を罪と死の支配下から神のもとに買い戻して下さったのです。神聖な神のひとり子が十字架で流された血を代価として私たち人間を神のもとに買い戻されたのです。買い戻されたというのは難しい言葉で「贖われた」とも言います。「代価」と訳されるギリシャ語の言葉アンタラグマανταλλαγμαは「身代金」の意味を持ちます。人間は罪と死に売り渡されたも同然だったが、神が痛い身代金を払って買い戻して下さった、人間を罪と死の支配から御自分のもとに贖い出して下さったのです。

 それで、傷ついている、ダメージを受けている命というのは、贖われていない、買い戻されていない状態のことです。そのような状態の人が死を間近にして慌てて自分が手に入れた全世界でも、財産でも、名声でも業績でも何でも、代価にして死を免れようとしても、そんなものは神のひとり子の犠牲に比べたら何の力にもならないのです。そういうわけで、ここは、一般的な道徳では命が大事と言っているように見えていたのが、実はイエス様の犠牲、彼が十字架で流した血が大事と暗に言っているのです。それがなぜそんなに大事かというと、言うまでもなく、私たち人間を罪と死の支配から解放して、復活の日に復活を遂げられて死を超えた永遠の命に与ることが出来るようにするからです。これがキリスト信仰の道徳です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2024年2月18日(日)四旬節第一主日 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年2月18日 四旬節第一主日

創世記9章8節-17節
第一ペテロ3章18-22節
マルコ1章9-15節

説教題 神の御言葉と洗礼があれば怖いものはない」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに<

本日の聖書日課は旧約と使徒書がノアの箱舟に関係する箇所でした。福音書はイエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと、荒れ野で40日間、悪魔から誘惑の試練を受けたこと、その後で本格的に活動を開始したことについてです。使徒書と福音書の個所を見ると、おやっ、と思わせることがあります。使徒書、第1ペトロの3章、では、十字架にかけられて死んだイエス様が陰府に下って死者の霊に福音を宣べ伝えたことが言われます。これは理解が難しいところです。これについては6年前の四旬節第一主日の説教で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は4章6節まで見ないと理解は不可能です。ただし今回は、そこまで見なくても大事なことはお話しできることがわかりました。大事なこととは、洗礼には私たちを悪いものから守る力があるということです。このことについて後で見ていきます。

福音書の方の「おやっ」は、イエス様の荒れ野の試練です。マタイ福音書とルカ福音書では詳細に書かれているのに、本日のマルコ福音書ではたったの二節です。どうしてこんな違いが出たのかと言うと、荒れ野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので目撃者がありません。それで、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語ったものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載されて、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。要約とは言っても、マルコの記述にはマタイとルカにないことがあります。それは、「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた」の「野獣と一緒にいたが天使が使えていた」というところです。これは一体何を意味するのか?これをよく見ていくと、神の御言葉には本当に私たちを悪いものから守る力があるということがわかります。

そういうわけで、本日の説教では、この2つの「おやっ」と思わせるところをもとにして、洗礼と神の御言葉には私たちを悪いものから守る力があるということを見ていこうと思います。

2.神の御言葉があれば怖いものはない

まず、最初にイエス様の荒れ野の試練を見てみましょう。「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいた、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在してチンプンカンプンです。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。

そこでマタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。なので、このマタイの順番を守ってマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後で野獣の真っ只中にいたが、天使たちに仕えられていた。

新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」という意味もあります。それでいくと、荒野で野獣の真っ只中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣の真っ只中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)悪魔の誘惑の試練の後、イエス様は荒れ野で野獣の真っ只中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。

そうすると、悪魔から試練を受けていた時のイエス様は天使の仕えがなかったことになります。それは、誘惑を受けていた時、天使の助けはいらないと自分で言っていたことからわかります。ここで、イエス様はどのようにして悪魔の試練を乗り越えたのか振り返ってみます。

皆さんも既にご存じのように、イエス様は聖書にある神の御言葉を武器にして悪魔の誘惑を撃退しました。悪魔が空腹状態のイエス様に、お前が神の子なら地面の石にパンになれと命じてみろ、と言いました。それに対してイエス様は「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から語られる言葉によって生きる」と申命記8章3節の御言葉を盾にしました。次にイエス様を神殿の高い屋根の上に立たせて、お前が神の子なら、ここから飛び降りて天使たちに助けさせてみろと言いました。それに対してイエス様は、神を試してはならないと申命記6章16節の御言葉を盾にしました。神を試してはならないというのは、神よ、俺のためにこれをせよ、あれをせよ、しないと信じてやらないぞ、という態度のことです。もう一つの誘惑は、イエス様に全世界の豪華絢爛を見せて、悪魔にひれ伏したらこれを全部くれてやろうというものでした。それに対してイエス様は、神のみを敬え、神のみに仕えよ、という申命記6章13節の御言葉を盾にしました。それで悪魔は太刀打ちできないと観念して退散したのでした。

このように悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。」そして、イエス様は、見事に悪魔に打ち勝ちました。その後で野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちが来るのを許して仕えさせたのです。

荒れ野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の仕えというのは、ただ単に荒れ野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指していると言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様はまた守りがない状態になってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

それは彼自身が言った通り、聖書の神の預言の言葉が実現するためでした。預言とは、天地創造の神が計画した人間救済の計画を実現することでした。人間には神の意思に反する悪いもの、罪がある。罪はほおっておくと人間を永遠の滅びに陥れてしまう。そこから人間を救い出すという計画でした。この救いを実現するために、神はひとり子をこの世に贈られ、そのひとり子を私たち人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせたのでした。神のひとり子がまさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしそのイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのでした。

このようにイエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたのでした。悪魔の誘惑の試練の時、神の御言葉には悪魔の攻撃を撃退する力があることが明白になりました。私たちキリスト信仰者はそのような力のある言葉を自分のものにしているのです。さらにイエス様が天使の守りを求めないで十字架の受難の道に入られたことで神の人間救済の計画が実現しました。神の預言の御言葉が実現したのです。それで、御言葉は単に将来起こることを待ち望むものでなくなって、本当にその通りの御言葉になりました。来るべき救い主について預言した旧約聖書と救い主が来られて預言が実現したことを伝える新約聖書の両方を持てば、もう怖いものなしです。預言が実現する前の御言葉にも悪魔を撃退する力がありました。預言が実現した後の御言葉の力はいかほどのものか、推して知るべし言わずもがなです。

3.洗礼があれば怖いものはない

私たちを悪いものから守るものとして神の御言葉の他に洗礼があります。それについて使徒書の日課、第一ペトロ3章をじっくり見てみましょう。まず、18節と19節です。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」

 初めにイエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神の目から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、そんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るようにイエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全部自分で引き受けて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを得られる可能性が開かれた。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪の赦しを受けられるようになった。この「イエス様の犠牲のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは神に背を向ける生き方ややめてよう、神を向いて生きる生き方をしよう、罪を憎み、それに与しないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、という心を持ちます。実際にどこまで出来るか足りない部分は多々あるが、その心には偽りはありません。「イエス様のおかげで」がある限り、神は心に偽りがないことを認めて下さる。だから、神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのです。「あなたがたを神のもとへ導く」というのは、まさに神聖な神のみ前に立たされても大丈夫なものにして下さるということです。

18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死んだが、霊の面では生きる者にされたということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の想像を絶する力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではない、神の栄光を現す復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になったということです。

 さらに「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」とあります。これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています(後注)。

 陰府というのは死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。聖書によればキリスト信仰には死者の復活と最後の審判というものがあります。それなので、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは復活の日までの眠りのことを痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時と言っています。とにかく、神のみぞ知る場所としか言いようがないのです。復活の日が来ると復活させられて神の審判を受けます。天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されるのです。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと考えられる人物もいます。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。

 イエス様は十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで宣教した、と言われます。イエス様は陰府で何を宣べ伝えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こったということです。そして、そのおかげで人間を永遠の滅び陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれたということです。眠っている者たちに言っても聞こえないのではないかと思われるかもしれませんが、大事なポイントは次のことです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられたということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。生きている者がこの真理と無関係でいられなくなったように、死んだ者も無関係でいられなくなったのです。

 ペトロは続けて陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が誰であるかを明らかにします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんな関心事があったとわかるのかと言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたからです(そのような書物にエノク書という書物があります)。

 創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような霊のいるところにまで行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が眠っている陰府にも勝利が響き渡り打ち立てられました。罪と死は陰府でさえも力を持てなくなったのです。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。

 そこで、大洪水に巻き込まれずに箱舟に乗り込んだ8人だけが水の中を通って救われたと言われます。21節「この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。」ここで注意が必要です。「水で前もって表された洗礼」とは意味がよくわかりません。ギリシャ語原文ではアンティ・テュポスと言う言葉です。テュポスとは、類型とか型、日本語でもタイプと言います。アンティとは「逆」とか「反対」を意味します。つまり、大洪水の水は人間を滅ぼす神の裁きの水であったが、洗礼の水は逆に人間を神の裁きから救う水であるということです。

 神はノアの時代、大洪水を起こしてこの世の悪を一掃しようとしました。まさに最後の審判に匹敵する裁きでした。しかし、洪水の後で神はもう二度と同じような滅びの洪水を起こさないと約束します。それは、今の天と地がある間はそのような全世界的な裁きはしないということです。しかし、聖書には、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されるということがあります。その終わりと始まりの間に最後の審判が来るのです。この天地の大変動と最後の審判を乗り越えられるために洗礼があるというのです。それで水は、かつては裁きの水だったのが、今度は逆に裁きから救い出す水になったのです。かつての水は全ての陸地を無慈悲に覆いつくす恐ろしい威力を持つ水でした。私たちが受ける洗礼は、水滴を頭にかけるか、または教派によっては全身を水に浸すかのどちらかですが、果たしてその程度の水で天地の大変動と最後の審判を乗り越える力があるのか?しかもペトロは、洗礼は肉の汚れを完全に取り除くことは出来ない、洗礼とは正しい良心を神に願い求めるものでしかないなどと言います。そんな頼りないもので乗り越えられるのでしょうか?

 それが乗り越えられるのです。先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、イエス様の犠牲のおかげで心が新しくなり、それで最後の審判の日に神の御前に立たされても、やましいところがない者として前に進み出ても大丈夫な者なのです。それだから、洗礼とは神の前に立つことができる良心を神に願い求めるものなのです。さらにペトロは洗礼にはイエス・キリストが伴っていると教えます。死から復活し死を超えた永遠の命を持ち、彼に続く者たちにも同じ命を与えられる方、今は再臨の日まで天の父なるみ神の右に座していて、既に霊的なものを全て、天使も権威も勢力も足元に服従させている方が、洗礼を受けることで一緒にいて下さるようになるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、私たちはこのように史上最強の神の御言葉と洗礼を自分のものにしているのです。一体、何を怖れる必要があるでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注 「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

牧師の週報コラム

平穏の時も動揺の時も聖書の御言葉を基として生きる

先日Facebookでフィンランドの知り合いの牧師が「ダニエル書3章16~17節を忘れるな」とだけ記していました。 捕囚の民の若者が、異国の王から金の像を拝め、さもないと炎の炉に投げ込むぞ、と脅された時の若者たちの答えです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

多くのキリスト信仰者は、信仰者として態度を示さなければならなくなった時、自分がこう振る舞うのはキリスト信仰の立場に立っているからだ、とはっきりさせてそう振る舞うべきか、それとも、周りとギクシャクするのは気が進まない、そう振る舞わないのが賢いやり方ではないか、どっちにしようかという場面に立たされます。私の場合、そのような場面に立たされた時はいつもこの聖句が身近にやって来たので賢くならなかったのでした。「そうでなくとも」というのは、神が助けてくれない場合もあると認めています。しかし、そんことは自分が神を信じることと何の関係も影響もないと言っているのです。

私たちの家族に特別支援の子供が生まれた時、最初は本当に情けない位に動揺しました。足元の地盤が砂のように崩れ落ちていく感じでした。しかし、ヨブ記2章10節の御言葉が身近にやって来ました。敬虔な信仰者ヨブにありとあらゆる不幸が襲い掛かり、最後は一人残った妻からも、いつまで無垢を装っているのか、さっさと神を呪って死んだ方がましではないか、とさえ言われてしまいました。ヨブは次のように答えました。「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか。」 以前素通りしていた御言葉でしたが、ヨブ記の終わりにある神とヨブの対話を知る者には全てを打ち砕いて全てを再建する言葉として響いてきたのです。足元に新しい地盤、以前よりも固い地盤が築かれたと思いました。それで、その時「不幸」だと思っていたものが、ただの「大変なもの」に変わっていったのでした。

激しく動揺するような事態に陥った時、聖書のどの御言葉が自分を支えてくれるか。それは、平穏な時に日ごろから聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて吟味することを積み重ねていれば、動揺の時に相応しい御言葉が目の前に飛び込んでくると思います。その時になって慌ててページをめくっても恐らく手遅れではないかと思います。なので、少し怠けていた方はそうならないために聖書を開きましょう。

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは3月9日(土)13時に開催します。

パイナップル・ココナツケーキ

 

料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。

今年もイースターの季節がやってきました!3月の家庭料理クラブは「パイナップル・ココナツケーキ」を作ります。カルダモン風味のしっとりケーキの上にパイナップルをたっぷりのせてイエロー色豊かなイースター・カラーを演出します。フィンランドでは「ココナツのトッピングはケーキの風味を王冠のように高める」と言われるくらいです。本当にその通りであることを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。パイナップル・ココナツケーキ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、
まで。

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最初の家庭料理クラブは2月10日に開催しました。週の初めは東京でも大雪でしたが、週末に向けて暖かくなり雪も融け、春の近づきを感じさせました。

今回作るものは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並ぶラスキアイス・プッラです。今回も申し込まれた方が多く、すぐキャンセル待ちの状態になってしまいした。ラスキアイス・プッラは日本でも最近知名度が高まっているフィンランドの代表的なプッラの一つです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、「コーヒー・ブレッド」用のプッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかいマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地が出来上がりました。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。ここで一休み。あちこちから楽しそうな話し合いの声が聞こえていきました。もう少しすると美味しいラスキアイス・プッラが出来ることが皆さん、楽しみのようです。生地はあっという間に大きく膨らみました。

それからラスキアイス・プッラの形作り。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めたら皆さん、上手になってきれいなプッラが次々と鉄板に並べられていきます。それから二回目の発酵です。今回は小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。

ラスキアイス・プッラの中身を準備しているうちにプッラはあっという間に大きく膨らみました。それをオーブンに入れて焼きます。少し経ってオーブンの中を覗いてみると、皆さん嬉しそうな声で「わぁー、また大きく膨らんでいる!」「形がきれいね!」きれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティングをします。

冷めてきたプッラを半分に切り下半分にラズベリーのジャムをのばしてその上にホイップ・クリームをのせます。その上にプッラの上半分をのせてラスキアイス・プッラの出来上がりです!

出来たてのラスキアイス・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきます。

皆さんと一緒に美味しい満ち足りた雰囲気で歓談の時を過ごしました。同じ時にフィンランドの「ラスキアイネンの日」や受難節の期間に開催される「日常の喧噪から離れる」というイベントについて、それからイエス様が教えられた休息の必要性についてのお話も聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月9日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

フィンランドのラスキアイネンの話2024年2月

今日はフィンランド人が大好きなラスキアイス・プッラを作りました。フィンランドでは新年が終わってしばらくするとラスキアイス・プッラがどのお店や喫茶店でも販売されます。ラスキアイス・プッラの販売期間は大体2か月くらい、ラスキアイネンの日までだけです。ラスキアイネンの日が近づいてくると、もちろん多くの家庭でもラスキアイス・プッラを作ります。ラスキアイス・プッラの種類は中身によって二つあります。今日作ったのはジャムと生クリームが中身ですが、アーモンドペーストと生クリームの中身もあります。今年はどっちの方が美味しいかなぁといつも話題になります。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。それで今年のラスキアイネンの日は来週の火曜日となります。

フィンランド人はラスキアイネンの日をどのように過ごすでしょうか?フィンランドではラスキアイネンの頃から太陽が出る明るい時間が少しづつ長くなって晴れる日も多くなります。sori, CC0それで、雪の中をそりですべって「下る」ことをしたり、美味しいラスキアイス・プッラを味わうことが伝統的な過ごし方です。大人も子供も寒い外でそりで滑って、その後で暖かい部屋でラスキアイスプッラと暖かい飲み物を一緒に楽しみます。多くの町ではいろんなイベントもあり、子供たちを馬や馬のそりに乗せたり、スケートをしたり、スキーの競争もしたりします。もちろん、そこでもラスキアイスプッラと暖かい飲み物はつきものです。

ラスキアイネンの日が過ぎると受難節に入ります。この期間フィンランドの教会では「日常の喧騒から離れる」というイベントがあちこちで行われます。これは自然の中にある教会の宿泊施設で行い、だいたい金曜日の夜から日曜日の夕方まであります。参加者は自然の中で散歩したり、部屋で静かに時間を過ごしたり、一緒にお祈りしたり聖書を読んだり讃美歌を歌ったりします。もちろん一緒に食事をします。そこではスマートフォンやパソコンは使いません。参加者は日常の忙しい騒がしい生活から離れて、日常から距離を置いて自分を静かに見つめて、聖書をもとにいろいろ考えたりするので、体を休めるだけでなく魂にとっても良い休息の時になります。私は参加したことはありませんが、このような、何もあくせくする必要がない時間を持つことは心身ともに良いことだと思うので、いつか参加してみたいです。

Marcílio José Soares, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

聖書にも、イエス様が時々、人々から離れて静かな場所に行って祈る場面が沢山あります。マルコの福音書1章35節には次のように書いてあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエス様は起きて、人里離れたところへ行き、そこで祈っておられた。」イエス様が静かな所に行かれたのは天の神さまにお祈りするためでした。そのために静かな場所が必要でした。その後で別の町や村に行って神さまのことを人々に教えに行かれたので、静かな場所でお祈りするのは心の準備にもなったのです。

イエス様はまた、静かな場所で休むことは自分だけでなく弟子たちにも必要と考えました。ある時弟子たちがイエス様の所に戻って来て、自分たちが町々で人々に教えたことを報告しました。多くの人たちが神さまについて興味を持って信じるようになったので、弟子たちはイエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちが集まってきました。務めは沢山あっても、イエス様は弟子たちと一緒に休んだのです。イエス様は弟子たちに肉体的な休みが必要であることをよく知っておられたのです。私たちも同じように休みが重要です。イエス様がその例を示しています。

私たち人間は肉体的な休みのほかに魂の休みも必要です。魂の休みはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えられました「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節です。イエス様はだれでも自分のもとに来るように招いておられます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様は彼のもとに行く人に休みを与えて下さると言われます。

もし私たちがイエス様のことを、神さまが救い主として贈って下さった方だと信じることが出来れば、心の中に平安を得ることができます。このようにイエス様に繋がっていれば、彼を贈って下さった神さまを信頼することができ、全てのことを自分で抱えないで神様の御手に委ねることが出来ます。そこから心の中に平安が生まれるのです。これが、イエス様が与えて下さる魂の休みです。

イエス様は世界の人々だれにでも「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。私たちにもいつもそう声をかけて下さいます。

魂の休みの場として、教会の日曜礼拝は一番重要な場所です。そこでも私たちは、日常の喧騒から離れて、聖書の御言葉を聞いたり、讃美歌を歌ったりお祈りしたりします。それも、天の神さまのみ前で心を静める時です。そこで神さまとの繋がりが強くなります。それで、礼拝は新しい週の心の準備の時にもなって、一週間を歩む力になります。礼拝も、「日常の喧噪から離れる」イベントなのです。

フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。この受難節を通して私たちは自分の生活や時間の使い方を考えることにもなります。これは大事な準備の期間です。

牧師の週報コラム

聖書とチャットGPT

 ある国のルター派の神学校の授業をオンラインで担当することになり、教える科目の一つが「外典論」。 それで、旧約聖書の古代ギリシャ語訳の書物リストが必要になった。旧約聖書は、ギリシャ語の方がヘブライ語よりも書物数が多い。従って、それを基にするカトリック教会の旧約聖書の書物数は、ヘブライ語を基にするプロテスタント系よりも多いのだ。書物リストを講義用のレジメに入れたいが、パソコンで一つ一つ打ち込むのは面倒。そこで、今世間を騒がしているチャットGPTとやらを使ってみようと思い立った。リストを出してもらって、それをコピー&ペーストしてレジメに貼り付ければ簡単だろうと。早速、「Septuagintの書物リストを出して」と入力。Septuagintは旧約聖書のギリシャ語訳の英語名(レジメは英語なのでチャットも英語)。

 何だか、「鏡よ、鏡よ、鏡さん」みたいだなと思う間もなく、ツラツラツラとリストが出てきた。それをすぐコピペ。しかし、レジメを確認してビックリ。トビ記とかユディット記とか短い物はあるが、マカバイ記のような長編が欠けているのだ。念のために「カトリック教会の旧約聖書の書物リストも」と聞くと、それも同じ。そんな馬鹿な!どうしたものか途方に暮れ、ほんの試し心で「LXXの書物リストを出して」と入力してみた。LXXとはSeptuagintを意味するローマ数字だ。すると、ちゃんと全部出てきたのだ!

 そこで聞かずにはいられなかった。「同じ質問をしたのに、名称を変えたら違う答えになるのはなぜ?」 すると、「混乱させてしまって申し訳ありません。」 なんと謝ってきた。なんでも、異なる伝統には異なる書物リストがあるので、などと言い訳も添えて。質問に正面から答えていない。まるで「犬の頭が西向けば尻尾は東」と言うのと同じくらいに空虚な文句である。「僕は異なる伝統のリストなんか興味はない。今出てきた一番大元にあるリストが欲しいのだ。」 「わかりました。」 「じゃ、カトリック教会のリストをもう一度だして」 「もちろんです!」 これで全部揃って一件落着。「ありがとう」と入力すると、「どういたしまして。また何かお聞きになりたいことがありましたら、是非聞いて下さい。」 少し至らなかったが、なかなか謙虚ではないかと感心した。

 そこで教訓。チャットGPTに聞く時は無知識で聞くのは危険だろう。この答え、大丈夫かな、と思えるくらいの最低限の知識と、少しでもおかしいなと思ったら遠慮せずすぐ食いつく姿勢も重要。裏金問題を新聞記者に質問されて「答えないと言っているのに頭悪いね」と言った国会議員がいたが、そんなレベルの低い世界の話ではないのだ。

 さらに一つ余計なことかもしれないが、付け加えると、何かを聞く時、出てきた答えを吟味する時、答えを何かに用いようとする時、倫理的態度を確立している必要があると思う。「殺すな(=人を傷つけるな)」、「盗むな」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「妬んで欲するな」という態度が確立していないと大変な世の中になるだろう。それはSNSの弊害を見ても明らか。

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