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全知全能の父なるみ神よ。
この日、主イエス様の復活を喜び祝う私たちの心をどうかあなたの愛と恵みで満たし、空(むな)しい思いを蹴散らして下さい。罪と死の支配から解放されて復活の希望に生きる私たちを世の光、地の塩にして下さい。隣人にも復活の主を伝えることが出来るように知恵と力と勇気をお与え下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン
ヴェロニカ
枝の主日の礼拝後、ポウッカ牧師夫妻制作監修された「ヴィア・ド・ロローサ」を鑑賞しましたパイヴィ先生のナレーションとマルッティ牧師の讃美歌の歌唱とフルートが盛り上げていました。スオミ教会でも過去に何度かこの ヴィア・ド・ロローサ を寸劇で行いました、ヴィア・ド・ロローサ 、苦難の道には十字架を背負ったイエスがゴルゴダの丘に至るまで、14のステージがあります。その中の第6ステージでイエスの額の汗をぬぐう聖女ヴェロニカの物語が出て来ます。春になると足もとの叢の中に小さな青い花を見つけます、「オオイヌノフグリ」と言うまことに嬉しくない名を付けられていますが西洋ではヴェロニカと呼ばれています。今年も春一番に咲いていました、何時の間にか咲いていつの間にか消えてゆくこの可憐な小さな花を我が家ではヴェロニカと呼んでいます。
主日礼拝説教 2026年4月3日 聖金曜日 イザヤ52章13節~53章12節 ヘブライ10章16~25節 ヨハネ18章1節~19章42節
説教題「君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあ るように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法 の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打 ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すとい うものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊た ちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十 字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担い で歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始っ たのでした。 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない 清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処 刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています 。彼らはこともあろうにイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め 、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。 近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどはイ エス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、な んだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に 付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。 このようにイエス様の十字架の出来事は残酷であり悲劇なことでした。しか し、この出来事には少なくとも二つの大きなことが伴ってありました。私たち は残酷と悲劇に目を奪われて、それを見失ってはいけません。確かに残酷と悲 劇はありますが、それを透かすようにして大きなことを心の目で見ることが出
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来なければなりません。まさにそれが、この出来事が起こることをお許しにな った神の御心だからです。
2.二つの大きなこと ― 神の計画の実現
二つの大きなことの最初のものは、十字架の出来事は神がずっと前から計画 していたことの実現であったということです。神が計画したこととは、先ほど 朗読したイザヤ書の個所が明らかにしています。イエス様の時代の何百年も前 に書かれた預言です。 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれ たのは、わたしたちの咎のため」とありました(53章5節)。「私たちの背き 」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持っ てしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は、人を傷 つけたり欺くようなことをしてはいけない、口にしてもいけない、心に思って もいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうして しまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とて も潔白ではいられないのです。そのためか、そんな都合悪いことを言う神など 胡散臭いと、神は近年ますます遠ざけられていきます。 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いな りの奴隷状態から解放してあげようと手立てを考えました。それで、本当なら 人間が受けるべき罪の罰を全部愛するひとり子に身代わりに受けさせて、人間 が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。イエス様の十字架の残 酷さと悲劇を通して、この神のひとり子が受けた罰の重みに思いを馳せること が出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。馳せることが出来な ければ心は変わらず奴隷のままです。 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から 罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪のゆえに神との結びつ
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きを失った状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きて いたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるように なるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさ せたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様が息絶え る直前に「成し遂げられた」と言ったのはこのことだったのです。 あとは人間の方が、成し遂げられたことは自分のためだったのだ、だからイ エス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たし てくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたも のと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病 んでしまった人間の癒しは赦しから始まります。こうして人間は、神のひとり 子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷 によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。
3.二つの大きなこと ― 勇気、本物の心、希望の証しの備わり
もう一つの大きなことは、十字架の出来事が神の計画の実現だったとわかっ てイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちには新しいものが備わる ようになるということです。先ほど朗読したヘブライ10章19~23節に3つの新 しいものが言われています。一つは、神聖な神の御前に進み出ても大丈夫とい う勇気(παρρησια)、二つ目は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つことで 私たちの心が偽物でない本物の心になること(αληθινη καρδια)、三つ目は、今 の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望 を人前で告白できること(ομολογια της ελπιδος)。短く言えば、勇気、本物の 心、希望の告白です。これらが私たちに備わるのです。新共同訳はギリシャ語 原文を崩すようにして訳してしまったのでこの3つははっきり見えてきません が、原文でははっきり見えるので、以下この3つについてお教えします。
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イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとこれらのものが備わるのは、イエ ス様の十字架の業が神殿の礼拝を無意味にしたからです。かつてエルサレムの 神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れません でした。何しろ神のみ前に立つという神聖中の神聖な場所だったからです。し かし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。まず、民の罪を動物の生贄 を捧げることで償う儀式をして、それから自分に生贄の血を振りかけて自分の 罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今や、 神のひとり子が十字架の上で血を流され、私たちは洗礼を受けることで罪を赦 された者にしてもらえるようになりました。まさに、イエス様の犠牲の血で罪 の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神 殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかって いました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけら れて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂け落ちました。かつて大 祭司は動物の血をかけられて垂れ幕を通って神のみ前に進み出ることが許され ていました。今や、イエス様の血で罪の汚れを落とされた者は彼の犠牲の体を 通過するようにして神の御前に進み出ることができるのです。 十字架の業のゆえにイエス様は真の大祭司中の大祭司であることが明らかに なりました。人間の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、 それでも大祭司自身が儀式で自分を清めなければならない位のレベルの低い仲 介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方 です。その彼が自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち 立てたのです。これぞ正真正銘の大祭司、完璧な仲介者です。 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神 から罰を受けてしまう、神に見捨てられてしまうという恐れから解放されてい ます。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落と されています。なので、神を前にしても、イエス様のおかげで私のことをやま しいところがないと見て下さる、潔白と見て下さるとわかるので、恐れはあり
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ません。これが私たちが持つべき本物の心であり、それはイエス様を救い主と 信じる信仰をもって洗礼を受ければ持つことができるのです。その心があれば 、この世を前にしても堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に 堂々と立つことができるのです。 キリスト信仰者は罪の赦しの恵みに与かることで、今の世と次に到来する世 の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望があります。神は計画 されたことを預言者を通して知らしめ、最後にはイエス様を通してそれを実現 されました。このように神は約束に忠実な方です。それをわかっていれば、希 望についての私たちの証しは確固としたものになるはずです。 このようにキリスト信仰者には勇気、本物の心、希望の揺るがない証しが備 わっているのだから、あとはお互いにお互いのことを配慮し合って、愛と善い 行いに励めばよいのです。24節で言われる通りです。 そこで一つ忘れてはならないことがあります。それは、キリスト信仰者にと って礼拝を守ることは大事ということです。なぜなら、イエス様が大祭司であ ること、そのおかげで私たちには勇気と本物の心と希望の揺るがない証しが備 わっていること、これらを確認し確信できるのは礼拝をおいて他にはないから です。これが25節の教えです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いと をキリスト・イエスにあって守るように アーメン
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その6
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ1月8日の日課から)
スオミ教会の説教や聖研でも何度も取り上げてきました、キリスト信仰の死生観です!
『娘は死んではいない。眠っているだけだ』(マタイ9章24節のイエス様の言葉)
『キリスト信仰者は死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるようにそれを恐れてはならない。キリストと固く結びついている信仰者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪から、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
キリスト信仰者にとって死が一時の睡眠である以上、我々はそのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められた者として栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。
我々は喜んで、そして安心して我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命を全て委ねよう。主は御自分が約束した言葉に忠実な方なのだ。我々キリスト信仰者は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間は主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っているではないか。この世から死ぬ時も全く同じである。』(以上、ルターの説き明かし)
ルターのこの説き明かしを教えた時、信徒の方々からいくつか疑問点があがりました。それを少し見ていきます。
まず、死んだ人は復活の日まで眠っていて、その日が来て初めて神の国すなわち天国に迎え入れられるんだったら、死んだ人のことを「天に召された」と言うのは時期尚早ではないかという疑問。ルターの説き明かしをもう一度みましょう。神に全てを委ねてこの世を去る時、目を閉じて再び開けた瞬間、もう壮大なドラマが始まっているのです。この世の時間では何百年が経過しても、キリストに結びついて去る者には「瞬きした一瞬」のことなのです。私はこれは全身麻酔の手術を受けた時の感覚に近いのではないかと思っています。医者に全てを任せて目を閉じ再び開けた瞬間、全ては終わっていた。神は人間よりも偉大な医者なのです。なので、「天に召された」と聞いたら、ああ、この世を去った人の観点で言っているのだな、「眠りについている」と聞いたら、この世にいる我々の観点で言っているのだな、と思えばよいのです。(まだ2つの疑問があります。次週に続く。)
3月の手芸クラブは桜が咲き始めた26日に開催しました。この日の朝は少し肌寒く雨模様でしたが、これから暖かくなれば桜はすぐに満開になるでしょう。
今回の手芸クラブのテーマはモチーフ編みです。初めにモデルを見て自分の作りたい作品を選びます。モチーフ編みのガイドブックを持参された方はいろいろな色合いや作り方を見て作りたいものを選びました。モチーフ編みは鎖編みと中網の繰り返しだけなので、参加者の皆さんはマイペースで編んでいきました。すると作品の形やモチーフ編みの彩りがだんだん見えてきました。各自自分の編み物に集中してから一休みをして他の方たちのものを見ました。みなさん、「可愛い」、「きれいな色合い」などとコメントしあいます。今回は春休みに入った高校生の方がお母さんと一緒に参加されて、一生懸命に楽しそうにモチーフ編みを編みました。覚えが早くて作品はもうほとんど完成しました。
今回はモチーフ編みの編み方を練習された方やコースターに挑戦された方がいらっしゃいました。スクエアが増えると、どんな作品になるでしょうか?完成品が楽しみです!
編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れることに。フィンランドのコーヒーブレッド「Pulla」を味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。そこでモチーフ編みについてや、美しい春の季節も神さまの創造の業であるという創造のお話を聞きました。
次回の手芸クラブは4月22日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日の手芸クラブのテーマは、かぎ針編みのモチーフ編みでした。モチーフ編みはかぎ針編みの定番で、昔から人気があります。基本の形は四角ですが、三角などの形のものも編まれます。編み方は鎖編みと中網の繰り返しなので、初心者にもピッタリです。しかし、かぎ針編みに慣れている人たちもモチーフ編みをワクワク楽しみながら編みます。彩で美しいレースのような表面になるのが、おそらく人気の理由なのでしょう。
これからは様々な花が咲き始め新緑が芽吹いて、自然は色彩豊かな美しい季節を迎えます。この彩のモチーフ編みはこの季節にピッタリの手芸だと思います。
桜はそろそろ満開です。冬の間枯れて死んだように見えた木から突然沢山の美しい花が咲くのを見ると、いつも神様の素晴らしい創造の業を思い出します。枯れて死んだような枝が花と新緑に変わると、神様が新しい命を与えて下さることがよく分かります。イザヤ書の43章19節には次のように書いてあります。 「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。」
日本では4月は学校や会社などで新しいスタートの期間です。学校や職場でさまざまな期待があると思います。子どもたちが新しい学年でどのように成長するかを見るのは親にとって楽しみの一つでしょう。新しい職場で自分の持っている専門的な知識や力をうまく生かせそうとチャレンジの気持ちを持つでしょう。私たちは新しいことに興味を持って取り組む時、チャレンジする気持ちを持ちますが、新しいことに対する不安、他の生徒たちと仲良くできるか、勉強についていけるか、うまく仕事が出来るかなど心配もあると思います。
私たちには娘と息子がいます。二人とも大人ですが、子どもたちが学校に通ったころには私たちも子どもたちの将来などいろいろ心配しました。しかし、心配しても、その段階で何も解決はできませんでした。もちろん、親としてしなければならないことはしましたが、その結果どうなるかは神様に委ねるしかありませんでした。それで、子どもたちの将来について、思い悩むことはしないようにしようと思いました。
新約聖書のマタイ福音書には思い悩むなと教えるイエス様の言葉があります。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」神様は私たちをどんな時でも守って導いてくださいます。神様の守りと導きは私たちの感じることと関係なく、いつもあります。神さまは、私たちの物事がうまく行っている時に導いて下さるということではありません。私たちの生活の中に困難がある時にも私たちが気づかない仕方で確かに導いてくださいます。
毎年春になると花が咲くのは神様がして下さることです。同じように神様は私たちのことも覚えて見守って、咲くことができるように必要なものを与えて下さいます。神様は、困難のない生活を与えるとは約束していません。しかし神様は私たちにどんなことがあっても全てご存じで、私たちと共に歩んで下さいます。この世界はいつも変化ばかりですが、神様の私たち一人一人に対する愛や良いご計画は変わりません。神様は私たちを担い、背負い、救って下さいます。独り子イエス様をこの世に送って下さったことに、神様の私たちに対する変わらない愛が示されています。このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちに満たされて歩むことができます。
私たちも神さまの愛を忘れないように今年の桜を楽しんで眺めましょう。
花いちもんめ
<人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。出エジプト記 21:16 >
散歩の途中で道の真ん中に椿の花が転がっていました、その花を見ていたら遠い昔に妹や女の子たちが手をつなぎながら二組に分かれて”はないちもんめ”を歌いながら前後に行ったり来たりしながら遊んでいました。わらべ歌には難解な歌詞が多いですね、”かごめかごめ”も確かに難解な意味が込められています。”はないちもんめ”には江戸時代の飢餓の際の悲惨な口減らしや人さらい、人身売買など意味が込められている怖いわらべ歌でした。私の子供の頃は人さらいと言う言葉がまだ生きていました、実際にあったか否かは知りませんが。
「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」