牧師の週報コラム

「聖書の御言葉を自由に使う」とは?

先週の礼拝の初めに詩篇98篇を朗読した時、前半は神の成し遂げた驚くべき救いと恵みの業を賛美する内容、その業はイスラエルの民の枠を超えて諸国民にも知らされるような業であったこと、そして同篇の終わりは神が諸国民を裁く日が来ることについて述べていることをお話ししました。この神が成し遂げた世界に知らしめるような驚くべき業とそれに続く裁きとは何を意味するのか?ダビデの時代なら、驚くべき業はかつての出エジプトの出来事、裁きはエジプトに対する罰という具合に過去に起こったことと理解されたでしょう。バビロン捕囚後に祖国に帰還した民だったら、帰還と神殿の再建が神の驚くべき業と理解されたでしょう。しかし、諸国民に対する罰とは?バビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされたことか?しかし、イスラエルの民はその後もペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国に支配され続け、詩篇98篇は過去の出来事と結びつけるのが難しくなるのではないか。

しかし、神の救いと恵みの業が起こったことが将来の裁きと関連するという出来事が起こったのです。イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がそれです。この関連を使徒パウロはアテネのアレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人や哲学者を前にして述べたのです!(使徒言行録173132節)。

パウロのアテネでの証しの土台に詩篇98篇が本当にあるのか?これを証明しようとしたら、ギリシャ語ヘブライ語の文章の分析からはじめて、第二神殿期のユダヤ文書の中に詩篇98篇に関わる思考を見つけ出して体系化してパウロの証しとの関連性を論証しなければなりません。こうすれば釈義学(歴史的聖書学)の論文が一つ出来上がります。しかし、発表すればしたで批判や反論が必ず出てきます。学術的な営みとはこういうものです。このようにして学問は発展するのです。

そうすると、あらゆる批判や反論に耐えうるようなものができない限り、パウロの証しの土台に詩篇98篇があるなどと言ってはいけないのか?この手の問題について昔、フィンランドの友人の牧師と話し合ったことがあります。O.コスケンニエミという、父親はSLEYの元会長、祖父は大正時代に池袋、諏訪、飯田で教会設立に携わったSLEYの元宣教師。彼曰く、ルター派の教義に反せず、それを深めるものであれば御言葉は自由に用いていいのだ。考えてみれば、どこの教派もそれぞれの仕方で同じことをしているのでしょう。ただし、一つ忘れてはならないことがあります。パウロにしても他の使徒にしても皆、旧約聖書が血と肉と化していた人たちです。彼らが旧約聖書を理解しようとした時、イエス様の教えと出来事が理解に新しい地平を開いたということです。そしてそれはイエス様自身が前もって始めていたのです。

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