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ルター、アイデンティティー、キリスト信仰
米国の著名な政治学者F.フクヤマは著作“Identity”の中で、近代のアイデンティティーの概念の成立にとってルターがいかに重要な役割を果たしかについて論じている。ただし、ルターのアイデンティティーの理解は純粋に神学的なものだったという点で現代の人々の間で普通に用いられているアイデンティティーの理解とは異なるということにも注意を喚起して次のように述べる。
「しかし、マルティン・ルターは現代のアイデンティティー理解とは遠く離れた地点に立っている。確かに彼は「内なる自己の自由」に祝杯をあげた。しかし、この「自己」には一つの次元しかなかった。すなわち信仰という次元だ。それで、この「自己」は神の恩寵を受け取る自己なのである。従ってルターのアイデンティティー理解には二者択一しかない。人は聖書の神を選ぶ自由を持っているかいないかだ。それゆえ、彼から見れば、人はヒンズー教徒や仏教徒になることを選ぶという自由はないのであり、また人の真のアイデンティティーは性的少数者としてクローゼットから出てくることがそうだと主張することでもないのだ。」(paperback版28~29ページ、少し吉村の意訳)
フクヤマの論じ方から、ルターにとって、この内なる、そして本物の自己とは神との関係の中でのみ成り立つものであることがわかる。しかしながら、当時の教会は聖書の神の言葉に基づかない慣行や教えが沢山あり、それが内なる本物の自己の阻害要因となってしまった。それで内なる本物の自己の実現のために教会は改革されねばならないという構図になる。政治学者から見た宗教改革の構図だ。
それでは、アイデンティティーの概念がルターのような一元的なものではなくなって、現代のように多元化したのはどういう経緯でか?フクヤマはフランスの啓蒙主義哲学者J.J.ルソーの役割を強調する。ルソーはアイデンティティーからルターの神学的な枠を取っ払ったのだ。それで、内なる本物の自己は聖書の神と無関係になってなんでもありになった。ヒンズー教徒でも仏教徒でも性的少数者でも。
このように内なる本物の自己は多元化しても、そのような自己の実現を阻害する要因が制度としてまた伝統として社会に存在すれば、そのような制度や伝統は自己の実現にとって邪魔者でしかないので改革されるか打破されねばならない。まさにルターにとって当時の教会がそうであったように。しかし、ここで注意すべきことがある。ルター的なアイデンティティーの理解では内なる本物の自己の中心には神があった。それに対して、ルソー的な内なる本物の自己にはそれがなくなった。では何があるのか?内なる本物の自己には「自分」があることになったのだ。つまり、「自分」が神に代わって内なる本物の自己を規定するようになったのだ。果たして「自分」は内なる本物の自己を規定することが出来るくらいに確かなものなのか?翻ってキリスト信仰者は、内なる本物の自己は神のひとり子の十字架上の贖罪と死からの復活という神の取り計らいによって規定されていることで良しとするのだ。