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ルカによる福音書9章51−62節
律法ではなく福音による「従う」恵みと幸い。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
1、「はじめに」
今日のところ、特に57節以下を注目して見ていきますが、難しい箇所のように思えます。「イエスに従うことは良いことなのに、なぜイエスはそれを受け入れないのだろうか。なぜ従うのにこんな厳しいことを言うのだろうか。これでは誰も従うことなどできないではないか」等思うかもしれません。あるいはこれまでこの箇所から「私たちが従うには、これぐらいのことをしなければいけないんだ。従うということはこれぐらい責任と重荷があることなんだ。」というような律法の説教や勧めを聞いたこともあるかもしれませんし、そのように読む方もいることでしょう。けれどもこのところが伝えていることもまた律法ではなく福音と恵みに他なりません。そして主なる神イエス・キリストにあって、「従う」ということは本当はどのようなことなのかを教えられるのです。
2、「自から「従います」ー自信」
今日のところには、54節のヨハネとヤコブも含めて様々な「服従」「従う」が書かれていますが、57節からの三人に注目して見ましょう。まず一人目、57節。
「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」(57節)
私たちからすれば、この人の言葉は非常に献身的な声に聞こえます。しかしイエスは答えます。
「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 」(58節)
事実、イエスの宣教の旅には定まった自分の家がありませんでした。イエスや一行に場所を提供し、食事などをもてなしてくれる人々のところに滞在しながらの宣教の旅でした。ですから、もし「おいでになる所、どこにでも」と言う時には、まさにそのような旅になることを意味しています。彼に対するイエス様の答えは何か厳しい返答のように聞こえます。しかしここにはどのようなメッセージがあるでしょうか?弟子たちとイエス様との宣教は、確かに、そのような枕するところが定まっていない歩みではあるのです。しかし、その旅はこれまでも日々、その旅の必要は満たされて来て、神は必要な物を備え与えて下さってきた歩みでした。つまり、イエス様の言葉の背景には、人の目には十分ではなく貧しそうで枕するところもないような歩みに見えたとしてもです、そのように、イエスご自身の歩みも、そしてイエスと一緒の旅も、「天にあって」、神の前にあって、つまり、常に必要を満たしてくださる神への信仰にあっては、いつでも豊かで確かで不安のない恵みがある歩みであることをも示唆しているでしょう。つまり信仰の歩みは「天の神の恵みとその確かさへの信頼が、イエスとの旅の大事な持ち物である」ことを伝え用途してくれているのです。このイエスのことばを聞いて、この人はどう理解し答えたのかは書かれていません。
3、「「ついてきなさい」という天のプレゼント」
二人目はどうでしょう。
「そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
59節
今度の人は、イエスが「わたしに従いなさい」と言っています。しかしその人は、まず父を葬らせてくださいと言うのでした。この人は拒んでいるわけではありません。父を葬ったらついて行くという意味でしょう。それに対しイエスは言うのです。
「 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
60節
A, 「召しゆえに従う恵み」
これもまた何か非常に厳しい言葉です。お父さんを葬ってからついて行くのは別に良いことのように私たちは思うのです。しかし鍵は、後半の「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」にあります。そして「イエスが」「ついてきなさい」と招いていることも重要な鍵です。思い出すことができますが、イエスの弟子達は、自分から「従います。ついて行かせてください」といって従っている弟子達ではありません。皆、イエスの方から、彼らに声をかけました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師で、湖の畔で、漁を終えて、網を洗っているところにイエスがやってきました(ルカ5:1〜11)。そこでイエスは、イエスの方からまずしるしを与えて自分が神であることを示しました。前の晩に魚が一匹もとれなかったのに、イエスは舟を出させて網を下ろすようにいいます。ペテロ達は誰も取れるとは思っていませんでしたが、その通りにした時に、舟が沈みそうな程の魚が取れたという出来事がありました。その後で、イエスが彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言って召した、そして彼らがそれに従ったのが、弟子達とイエスの歩みの始めでした。取税人レビはどうであったでしょうか(ルカ5:27〜32)。レビの所にも、イエスの方からやってきて、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と声をかけて招いているでしょう。ヨハネの福音書にあるナタナエルもそうですし、他の弟子達一人一人もそうであったでしょう。「イエスが」「ついてきなさい」と招いて彼らは従っているのです。このように「従う
というのは、まず「イエスの召し、ことばがあってこそ
なのです。
B, 「自信、自信過剰ではなく」
しかし、今日の箇所のまず最初の人と、そして61節の三人目は、自分から「従います」と言っています。しかしこの「従う」の言葉は「自信」や「自信過剰」という意味がともなっています。しかしイエスに「従う」というのはそのように私たちの「自信」が伴う行動なのでしょうか?イエスにあってはそれはノーでした。むしろ「従う」ということは、私たちの側からの何か、自信によって従うということでは決してないと言えるでしょう。私たちに自信があるから、自分には従うことが出来る。あるいは、そのように自身の根拠となるような従える何かを自分は持っている。そのような何かが自分にあるから従える。従えてる。ということでもないでしょう。むしろイエスは彼らの敬虔そうな「従います」という言葉には「彼らの「自信」」を見ていたことでしょう。その表向きの言葉や自信は人の前では立派なことかもしれません。しかしそれは神の前では違います。神の前での「従う」とはそういうことではないのです。イエスに「従う」ということ、それはどこまでもイエスが「ついてきなさい」と召してくださる招き・召命と、そこにある約束が伴ったものです。イエスがみ言葉を与えて彼らを「ついてきなさい」「従いなさい」と招いた時には、彼らには何もなくこれから何が起こるかさえわからなくとも「あなたは人間を取る猟師になる」という「神の約束」が伴っていたでしょう。創世記12章でアブラハムへの「いきなさい」「従いなさい」の言葉があった時にも、神様のあなたの子孫を祝福するという約束が伴っていたでしょう。モーセもそうですね。彼は自分は従いたくない、他の人を行かせてくださいと言ったでしょう。しかし、そんなモーセに「わたしがする」という神の約束がありました。つまり神の前の「従う」は「私たちの自信」や、私たちの持っている何かによるのでは決してないのです。事実、既についてきている弟子達は何か優れていたわけではありません。いや皆、彼らは不完全な罪人です。9章ではそのような姿が何度も出てきます。まさにこの前の所、49節以下でも54節以下でも、ヨハネやヤコブのまさに弟子としての特別意識、傲慢さ、まさに自信過剰さえ見えるのです。今日のところにある三人とは変わらない一人一人でもあります。しかし彼らが弟子であり、彼らがついてきているのは、彼らに何か才能があり敬虔であるから云々ということは一才関係ない、いや彼らにはそのようなものはありません。どこまでも罪人の彼らでしたが、まさに、イエスが「ついてきなさい」と招いたその召しとイエスが全てのことをなすという約束があるから彼らは従ってきているでしょう。イエスのことばが、そして約束があるからです。これは私たちの「従う」もそうなのです。自分たちの何かではない。自分の自信でもない。私たちも罪深い一人一人、しかしそのような私たちをイエスが「わたしについてきなさい」とみことばを持って招いてくださった。み言葉を与えて下さったからこそ、私たちは今、従っているのです。
C, 「神の所有として使わされる召しの恵み」
そして、そこに約束も溢れているでしょう。そのように「召され」従うことは、それは主ご自身が全てをなすということ、そして、神が私たちを神の所有としてくださり救ってくださる約束を伴っておりキリストの責任と恵みと計画、そしてキリストの力と実行のうち、つまり天からの恵みのうちに歩むことを意味しています。そうであるなら二番目の人への言葉は、決して意地悪ではなく、天の恵みにある歩みへの招きの言葉とも言えます。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と。この「神の国を言い広めなさい」というのは、まさに天からの使命であり約束でもあります。もちろん父を葬ることも大事なことですが、しかしそれは地上の営みです。イエスは「その地上のことは地上の営みに任せなさい。それ以上に、わたしが、あなたを招いているのだから、あなたにはそれ以上の私の計画があり、天からの恵みの使命がある、それを与えよう」とイエスは彼を遣わそうとしているのです。イエスが、従うように召し、招くということは、実にこのようなことです。恵みであり約束なのです。地上の物事、地上の限られた枠や限界や営みに納まること以上の計り知れない天の恵みに招かれて、天の使命が与えられている。そのようにイエスが「ついてきなさい」と言って召してくださっている、そしてその召しゆえに従うものとされていることの、はかり知れない程、大きな素晴らしさがあるのです。つまり地上にあっては非常に大事で崇高な営みである「葬る」ということさえも小さくなる位、それよりもはるかに大きなプレゼント、恵みこそを、私たちは天からイエスから受けている、頂いているということなのです。それは「わたしに従いなさい」そして「天の恵みを、キリストの与える平安を、自由を、神の国を広めなさい」と、みことばによる召しと、その従うという約束と恵みのうちに歩んでいることなのです。「従う」ということは、決して私たちから出たものではない。私たちの自信や決心でもないのです。
4、「従うとは、自分の決心でもない」
三番目の人は、最初の人と同様、自分から「従います」と言いました。しかし加えて「まず家族にいとまごいに行かせてください。」ともいいました。これも私たちの目から見ると「別にかまわないのでは」と、思うのですが。しかしイエスは、
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない
62節
と言います。彼は「鋤を手にかけた」、つまり、彼には「従います」という「決心」はありました。しかしそれはやはり「彼の決心」であったのです。人間の決心、それは決して完全ではありません。むしろ誰でも決心しても後ろを見てしまうものではないでしょうか。むしろ彼は私たちから見ればそんなに後ろを向いてはいません。家族に別れを言うだけのことです。本当に私たちから見れば素晴らしい「彼の」決心です。しかし、イエスはそのような彼自身から出た「人間の決心」が神の国にふさわしいとは言わないのです。つまり従うということは、私たちの決心にかかっているのではないのです。私たちの決心は不完全です。私たちは決心しても「うしろを見てしまう」のです。
5、「神の国のふさわしさとは?」
A, 「私たちの自信や決心はもろい」
今日のところは何を伝えているでしょう。それは、もし従うということが、私たちから出たことにかかっているなら、つまり、もし私たちの自信や決心で、キリストに従うということが求められているのであるなら、それでは誰も「神の国にふさわしくない」のです。そうでしょう。弟子達の「決心」はどうでしょうか。まず弟子達の「従う」というのは、先程も述べました、イエスが、弟子達のそのような不完全さ、罪深さを全てご存知で、全て受け入れられて「わたしについてきなさい」とイエスが召してくださった恵みでしょう。そしてついて行きました。まさに恵みによって彼らは弟子とされたのです。しかしそれを忘れ始めたのでしょうか。イエスが有名になり、その弟子であることの特権意識という「彼らの自信」は何を生みましたか。49節以下、ヨハネとヤコブは、自分たちの弟子ではないものが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを勝手に、当然のように、自分にその責任と権利があるかのようにやめさせました。さらに54節以下、イエスを受け入れないサマリヤの町に対して、天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょうとも言いました。そして「彼らの決心」はどうでしょう。十字架の出来事の前に、彼らはイエス様が誰かがご自身を裏切ると告げられた時に、他の誰が裏切っても自分は最後までついて行く、死にまでも従うと、彼らは言い、まさに「自信」を持って「決心」するでしょう。しかしその彼らの決心は、その通りに「従う
ことができたでしょうか?彼らはみな逃げたでしょう。ペテロの「決して知らないなど言わない」という「決心と自信」も、まさに脆くも崩れ去ったではありませんか。私たちは、自らでは、イエスに従うことに、まったく無力です。私たちは皆、自分の意志や力で決心しても、後ろを見るものです。決心の通りにできない、無力なものです。私たちは自らでは、そのままでは皆、神の国にふさわしくないもの。自分たちでは「従います」と従えないものなのです。
B, 「イエス・キリストこそ全てー「従う」それは律法ではなく福音・恵み」
しかし福音書はまさに私たちに、イエス・キリストの恵みを指し示しているでしょう。イエス・キリストこそ全てである。救いである。恵みであると。弟子達は立派ではない、十字架のときまでもそれ以後も罪深かったけれども、そのような弟子達をご存知の上で「わたしについてきなさい」と言って招いてくださった。そしてそのイエスとの一緒の歩みにおいては、まさに定まった家も食事をする場所もなかったけれども、神がイエスを通しイエスのことばをとおして、全てを満たし乏しいことはなかったでしょう。イエスにあって彼らはいつでも緑の牧場に、憩いの水の畔に導かれたように、全てを満たされた歩みとなるでしょう。そして実にその究極は、その罪深い弟子達、拒む人々、イエスを罵り唾をかけ鞭打ち十字架につけるその全ての人々、いやこの何千年の人類の歴史の中で生きてきた全ての人々、つまり私たちのためにも、イエスはその全ての罪、私たちが神の前で負うべきであったその十字架を代わりに負って死なれるでしょう。私たちはその罪のゆえにまさに神の国に、神の前にふさわしくないものでした。しかしイエスはその十字架によって、私たちに罪の赦しという人間にとって神の前で一番なくてはならない必要なものを、そして神の国を一方的に与えて下さったではありませんか。ふさわしくない私たちに、イエスはこの十字架と復活で、私たちに罪の赦しを与え、それによって神の国に、神の前にふさわしいものとしてくださったでしょう。ただイエス・キリストのゆえにです。「従う」ということ、「神の国のふさわしさ」、それは律法では決してないどこまでも神からの恵み、福音なのです。イエスが「ついてきなさい」と召してくださったからこそ、私たちは今がある。イエスがただ与えて下さったものをそのまま受けるからこそ、私たちは救われている。誰でも救いはその人のものになります。私たちの自信、決心ではありません。今日も、イエスがみことばによりここで宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ信じて喜んで安心してこのイエスが与えて下さる福音を受けようではありませんか。そしてぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。