お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
ヨハネによる福音書1章1〜18節 「恵みと真理に満ちた父の独り子としての栄光」 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように 。アーメン。 1、「はじめに」 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様 使徒ヨハネは、福音書の初めを、御子キリストが世の始まる前からおられ、天地を創 造をされた神であること。そしてその神が、堕落し闇を彷徨う人類を決して見捨てず、 その闇から救い出すために闇に輝く光である御子イエス・キリストを私たちに与えてく ださったその三位一体の神による救いの恵みを高らかに宣言します。そして6節以下、 光ではないけれども、その光である救い主を指し示す預言者を約束しその通りに与えて くださったと伝えます。その預言者が指し示すまことの光の到来について、使徒ヨハネ は次のようにいいます。 2、「すべての人」 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」9節 と。「すべての人」です。3節では「すべて」は天地創造のことを指しているでしょ う。ですからこの「全ての人」は、誰一人漏れる事も、例外もない「全ての人」です。 つまり救いも恵みもその対象は神の前にあっては、選びの民イスラエルだけではない。 あるいは、世の人々や社会がそれぞれの価値観や正義で、良い悪い、救われる救われな いと評価したり判断したりする、そのような人間が作り上げる制限や資格や条件なども 全く関係ない、あるいは、異なる宗教の人々は除外される、でもないのです。実に、マ タイ2章ではその救い主の知らせは東の占星術の学者に伝えられたことを記しています 。それは東方ペルシャの異教の民です。そのように聖書のまことの真実な神、救いの神 は、星を用い、この当時も異教であったその民にも世の救い主の到来と喜びを伝え、礼 拝に招きました。また、ルカ2章、野で夜番をしていた羊飼い達にも真っ先に救い主の 到来は伝えられました。羊飼いは、最も身分の低い、貧しい、3Kの仕事をする人々で した。しかしそんな彼らがこの最初のクリスマスの礼拝に招かれています。御遣いは彼 らに「あなたがたのための救い主が生まれた」と言いました。そして御遣いは彼らの前 で喜びを讃美したでしょう。そしてその救い主イエス様は成長し宣教を開始された時、 世が蔑み、退けるような取税人達や罪人達とさえも、いや彼らのところにあえて行き友 となり、ともに食事をし「ここに救いが来た」「医者を必要とするのは病人です。私は 罪人を悔い改めさせるために来た」といって、彼らにまさに救いの光を輝かせたではあ りませんか。まさに「全ての人」です。誰一人例外はありません。除外されないのです 。つまり、私たち一人一人もです。それは私たちがどんなものであっても、どんなに罪 に打ちひしがれて、自分が神の前にふさわしくないものだと思っても、しかし主はその ようなあなたのために、わたしたちのために、あなたを、私たちを照らすために、来ら れた救い主、まことの光、それがイエス・キリストだという約束なのです。
2 /
3、「人によらない」 A.「人は知ることができなかった」 そして10節以下、その「救い」というのは、私たちのわざや力ではできない、あり えないことなんだと、この福音書の記者、使徒ヨハネは続けています。「この方はもと から世におられ、世はこの方によって造られた」と、全てのものはこの方から生まれ、 この方がすべて、この世、私たちの初めであったのに、しかしその世界、そのすべての 人は、この方を知らなかったとあるのです。その通り神が遣わした「指し示し、この方 こそ救い主だ」と示す人が遣わされたからこそ民は救い主の到来を知りました。同じよ うに私たちも、自分からキリストを知って信じたのではありません。まさに私たちもみ ことばによって示されたから、聖霊によって教えられたからこそ、キリストと出会いそ の救いを知ったでしょう?私たち人間は誰も、みことば、聖霊、そしてそのみ言葉と聖 霊によって召され遣わされた伝えるもの、そのような神の恵みがなければ「この方をし らなかった」、知ることができなかったのです。さらに11節、 B、「民は受け入れなかった」 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」 と続いています。言葉であるその方は、ご自分のもの、ご自分の所有の所に来られた のに「ご自分の人々」は受け入れなかったというのです。このところも「民」というの はイスラエルの人々をさすのだと理解する人もいますが、1節からの文脈をみても、そ の「民」は、まさに私たち「すべての人」のことでしょう。つまり、私たちは神に命を 与えられた神のものであり、神の所有する人間であるのに、私たちはこの方、救い主を 受け入れなかったのです。これは、人の堕落以来、変わることのない罪の性質を伝えて います。私たちは堕落の子であり、私たちは自らではこの方を知らない、そればかりか 神そのものを拒むもの、受け入れないものである事実、現実です。まさに最初の人は、 神の言葉よりも、誘惑するものの「目が開かれ賢く、神のようになれる。善悪を自分が 判断して自分が裁判官になれる」そのような声を受けれます。実にその通りに、今も人 は、神の言葉よりも、自分のことば、思い、考え、知識を中心に、それらをすべての判 断の基準にするのが当たり前です。それはキリスト教会の中でさえも、神の言葉に人間 の理性を従わせるのではなく、逆で、神の言葉を人間の堕落した理性や感情や知識に従 わせる。それらに基づいて神の言葉を理解することのほうが正しいという声は少なくあ りません。旧約聖書の歴史はまさにそのような人間の歴史であり、カイン然り、ノアの 家族以外の人々然り、バベルの塔の人々然りです。そればかりではありません。まさに 神の恵みでエジプトから脱出した救いの民、イスラエルの民さえもそうであったでしょ う。目の前の困難な現象だけで、神の恵みを忘れてモーセを批判し神へ不平不満を言い 、神への信仰を軽んじてアロンに金の子牛を造らせ、神に背きました。そのように神に 助け出され救われ、神の恵みを知っている人々でさえ、神の言葉の真実さを疑い、神の 恵みを忘れ神を捨てようとする、それが人間の性質であることを聖書は見事に描き出し ています。「この方はご自分のくににこられたのに、ご自分の民は受け入れなかった 。」ーこれは、旧約聖書を通して証しされている堕落した人間の姿であり同時に今も変 わらない私たち人類の姿なのです。
3 /
C、「誰でも受け入れ救われる。しかしそれは人の力によらない」 しかし、まさにその現実があるからこそ使徒ヨハネは福音を宣言します。12節 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与 えた。」新改訳聖書では「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じ た人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」 この方を受け入れた人々、イエスの名を信じた人々は、神の子とされる特権が与えら れる。誰でも、どんな人でも、その名を信じるなら、キリストを受け入れるなら、救わ れる。神の子とされる。素晴らしい福音の約束です。しかし、13節でもこう続いてい ます。 「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもな く、神によって生まれたのである。」 その信じる事、神の子とされること、救われる事、それは人の肉の力、人の思いや意 欲、熱心、情熱、願望でさえないと、ヨハネは言いきっています。皆さん、どうでしょ うか?「受け入れる、信じる」ということ。それは、私たちの努力や行いの結果だと思 っていないでしょうか?救われるために、信じるために、恵みに値するものとなるため に、まず私たちの行動、思いや熱意、あるいは決心が必要なんだ、そう思っていなかっ たでしょうか?皆さん、それは違います。それは間違いだと使徒ヨハネははっきりと言 っています。まさにヨハネやパウロの時代はギリシャ哲学全盛の時代です。アリストテ レスなどは、救いのためには、人の最善のわざがまず必要だと教えましたが、そのよう な人気のある教えやそこから派生した様々な哲学の教えが教会を脅かしていた時代に生 きていた説教者が使徒ヨハネであったのです。そのような哲学の影響はヨハネの後の中 世の時代の教会の神学にさえ及んでいきます。著名な神学者達は、救いのためには、恵 みだけでは不十分で、人の行いや決心や意志が救いのために必要だ、数パーセントでも 人の側のわざが救いのためには必要なんだと教えていきます。使徒ヨハネはいつの時代 にもそのように流行っていく間違った行為義認の救いの教えに対してはっきりと「ノ ー」というのです。 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神 によって生まれたのである。」 と。私たちの信仰も救いも、それは、人の行い、人の側のなんらかの貢献に一切より ません。人の思いや意志、熱心、決意にさえも一切よりません。人のわざ、肉にわざ、 血のわざではない、ただただ「神による」のだ、これはまったく100%恵みなんだ。ヨ ハネの非常に明確な福音の説教がここに私たちにも伝えられているのです。 皆さん、私たち自身には、数%も、キリストを受け入れる、信じる力などありません 。私たち自身はどこまでも神を知らない、受け入れない罪人です。その現実を前に、私 たちの血、私たちの肉の意欲、決心、わざに救いに貢献しうる力などあり得ないのです 。しかし、聖書は使徒ヨハネを通して伝えます。私たちは神によって、神の創造の力、 みことば、神の恵みによって、そして御子イエス・キリストによって、私たちは新しく 生まれたのだと。神が、神の方から、キリストを私たちに与え、御言葉を与え、信仰を 与え、洗礼を与え、救いを、聖霊を、新しいいのちを、神が与えて下さった。ただただ 神の恵みにより、恵みの賜物、信仰を与え、私たちを受け入れるもの、信じる者として
4 /
下さった、神の子としてくださった、『神が』そのようにしてくださった、『神が』生 んで下さった、その神の恵みのゆえに、今私たちクリスチャンは存在する。信仰は律法 ではありません。信仰はどこまでも福音なのです。その福音の確かさ、真実さがここに 私たちに、私たちのために今日も宣言されているのです。 4、「恵みと真理とに満ちた父と独り子としての栄光」 そしてそれは実に不思議な方法です。14節 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。わたしたちはその栄光を見た。それ は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」 A、「救い主は私たちの間に」 天地万物を創造された「ことば」である方は、なんと「人となって、私たちの間に住 まわれた」とヨハネは見たままを証しします。創造の神である方が人となられた。それ だけでない、ヨセフとマリヤの記録で見てきたように、戸惑い恐れるものに喜びと平安 を約束される。異教の東の民にも喜びの知らせは告げられ、最も身分の低い羊飼いを最 初の礼拝者として招き、彼らの前で天使の軍勢は賛美をし、救い主のところへと導いた 。さらにその人となられた創造の神である方は、人の間に一緒に生活し、社会が避け嫌 う罪人を裁くのではなく、断罪し滅びを宣言するのでもない、蔑み差別し退けるのでも ない。むしろ彼らと友になり一緒に食事をし喜びも悲しみも苦しみも共にされます。そ して、なんとその私たちの罪を全て代わりに背負って十字架にかかって死なれた。そし て復活された。創造の神である方が人となられ私たちの間に住まわれた出来事。それは 全世界を創造された果てしなく大きなお方が、なんとその全世界の中で塵よりも小さな 反逆の罪深い存在を愛された、その証しなのです。 B、「神の愛とは何か?栄光とは何か」 そしてさらにヨハネはその「栄光」を見たと言っています。その「栄光」とはなんで すか?みなさん、神の愛も、その栄光も、何よりも、その父の一人子としての栄光、そ れはまさに十字架にこそはっきりと現されているものに他なりません。なぜならヨハネ はこう記し私たちに伝えているからです。ヨハネの手紙第一4章9−10節。 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるよ うになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが 神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとし て、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」 私たちは誰も受け入れなかったのに、そのような私たちのために、世の初めにおられ 、天地万物を創造された言葉であるお方が、神であるお方が、神の方から、なんと、そ んな罪深い、信じない受け入れない、どこまでも自分中心で自分を愛することしかでき ないようなそんな罪人である私たちのために、私たちのその罪とその咎、私たちが本来 受けなければならなかった罪の報いをすべて代わりに背負って償ってくださった。そし てその十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言し与えてくだ さる。それほどの大きな愛はないと聖書は伝えます。いやキリスト教の伝える愛という のは、まさにキリストが十字架で現された愛であり、この十字架を指してこそ神は愛で あると聖書ははっきりと伝えているのです。ですから「神は愛」というのは、単なる隣
5 /
人愛や道徳の指針でもなければ、現代流行りの、人間の側で何か都合よく解釈され人間 の都合に当てはめ利用されるような便利な言葉としての「ポップな神の愛」では決して ないのです。現代のキリスト教会では、現代人は聞きたくない、人が教会に集まらない からと、なるべく罪や悔い改めなどに触れず、十字架までも傍に置いて、人間の都合の 良い耳に優しく解釈された「神の愛」が「人間的な愛」にミックスされたり歪められた りして伝えられるというのが教会のトレンドなのかもしれませんし、その方が人は集ま るかもしれません。しかし、聖書は明らかです。この十字架を抜きに神の愛は語れませ ん。そしてこのキリストの十字架の死ほど大きな愛はないのです。そしてこの十字架を 指してヨハネは「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であっ て、恵みと真理とに満ちていた。」と伝えているのです。つまり、よく教会内で私たち が自分の力で神の栄光を表すことに敬虔さがあるように言われますが、栄光は、私たち の栄光ではないのです。私たちが努力して達成し実現し獲得する、そんな栄光ではあり ません。「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とはっき りあるではありませんか。それを私たちの行いや努力でまず表す栄光、それを神のため に表し、神に捧げるそんな私たちにかかっている栄光であるなら、それはある意味、こ の聖書の言葉に反対する偶像礼拝になるでしょう。栄光は私たちが自分の力で達成する わざではないのです。どこまでも 「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ーイエス様の十字 架と復活にこそ神の栄光が表され、それは恵みとして私たちに与えられるもの、それは 恵みと真理に満ちているとヨハネは証しします。 5、「終わりに」 救いはどこまでも恵み、すべての人々のために来られた救い主がすべての人の前にそ のまま受け取るように差し出してくださっている、十字架に現された神の栄光を誰でも そのまま受け取る、それは恵みですから、そのまま受け取る、救いはそれだけでいいの です。そしてそれはクリスチャンとして生きる信仰生活も変わることなく貫かれている のです。「救いは初めだけ洗礼の時まで天からの恵みで、洗礼の後の生活や聖化は私た ちのわざと達成によるのだ」と思っていないでしょうか。そうではありません。この「 ことばは、神は、人となって私たちの間に住まわれ」「神が私たちのところへ、私たち のために」という原則、栄光と恵みと真はキリストに満ちているということは、クリス チャン生活においても天に帰るときまで変わらないのです。洗礼を受けたら、それらキ リストの恵みもまことも私たちから無くなり、あとはあなた方の努力で神の栄光を一生 懸命、達成してくださいとはならないのです。聖書は、クリスチャンに、律法に生きな さいとは言わず、御霊にあって福音に生きなさいとどこまでも勧めているでしょう。「 信仰」「信じる」とはそのように恵みであり福音なのです。「信仰生活」の「信仰」と は何でしょうか?それは「信頼」です。信頼とはどういうことでしょうか。それは、ま さに幼子と親です。幼子が親の愛情にただすがり、頼り、依存し安心する姿です。その ような子供の信頼は達成するものではないでしょう。親の助けが必要な弱い幼子が、た だ受け取りただすがるものではありませんか。それが信仰、そして信仰生活だというこ とです。ですから、12節でもヨハネは、救いは「神の子とされる」ことだとも言って
6 /
いるでしょう。信頼です。それはクリスチャンになってからもずっと真実な神とその約 束、福音への信頼なのです。私たちのところへ来て下さった神様へ、子供が安心して父 親、母親に抱かれるように、神様に抱かれるように信頼することなのです。今日もイエ ス様はそんな子である私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています 。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様の福音をそのまま受け取り、イエス様 に全てをお任せして、安心してここから世に遣わさされていきましょう。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリス ト・イエスにあって守るように アーメン