新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日 説教 吉村博明 牧師

新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日
スオミ・キリスト教会

民数記6章22~27節
ガラテヤ4章4~7節
ルカ2章15-21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 西暦2026年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーは昨年の11月30日に始まった待降節が新年の幕開けでした。今日は、日常というのか世俗というのか、普通のカレンダーの新年の幕開けです。どちらにしても、新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。
 新年のこの日、日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。そういうわけで新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。
 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後は、今日のルカ福音書2章の聖句にあるように、このひとり子がイエスと名付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日の今日となります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。

2.イエス・キリストの名前の意味

 まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。
 そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう終末論が旧約聖書の預言にはあると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。そういうこの世的でない、超越した王のことです。この世的であれ超越したものであれ、メシア「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
 次に「イエス」の方を見てみましょう。これもギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は「主が救って下さる」という意味があります。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語のイエス・キリスト)になったのでした。

3.律法の下に生まれ、律法の支配下にある者を贖い出す

 さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと言った時、その理由は「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何からの救いかということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。
 そもそも「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の敵からではなく、罪と死という人間一般の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、人間を永遠の滅びに陥れようとすることから救って下さることです。端的に言えば、罪の呪いから救い出すということです。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。またかと思われてしまうかもしれませんが、キリスト教は何も犯罪を犯したわけではないのに「人間は全て罪びとだ」と言います。でも、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものを指します。造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが私たちは皆等しく罪を持っていることを表しているのです。
 イエス様が人間を罪から救い出すというのは、罪の呪いの力を無にして人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって神の国に永遠に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらていた神罰を全て引き受けて私たちの身代わりになって十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子で神と同質の方で神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者のようになったのです。誰かが私たちの身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにされた理由です。本日の使徒書の日課ガラテア4章で言われていことが起こったのです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
 神の定めた律法に服するようにさせたということは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたことにも示されています。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書の伝統を守る民族の只中にその旧約聖書に約束されたメシア救世主として乙女の胎内から生まれてきました。それで割礼という律法の掟に従ったのでした。全ては人間を罪の呪いから救い出すためでした。
 イエス様の十字架の死と死からの復活の後で全てが一変します。イエス様が十字架で果たして下さったことは、現代を生きるこの私のためでもあったとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪いから救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってであると主張したのです。人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。
 このように私たちには、人間を罪の呪いから解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びきを持ててこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。

4.勧めと励まし

 このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれることからくる嬉しさ、喜びです。この礼拝の初めでベートーベンの第九の「歓喜」の歌に触れました。星空の彼方に創造主は必ず住んでおられることが大きな喜びの元にあることを表現している歌であると。創造主が必ずおられることがどうして大きな喜びになるのか、それを詩篇8篇が明らかにしてくれていると申しました。創造主の神が私たち人間を覚えてくれて面倒を見て下さるからですが、神が覚えてくれて面倒を見て下さることはひとり子を私たちに贈って下さったことに一番強く表れているのです。
 私たちはどのくらい神の目に相応しくなっているのでしょうか?それは、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れてもらえるくらいに、つまり、天のみ国に迎え入れてもらえるくらいに相応しいということです。もし神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いもありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いが叶えられず、どうして?神は聞いてくれなかったのか?神は何か私にご不満なのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は見捨ててなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、その道を私と共に歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思う通りに進むから心配するな、私の目は常時お前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。これが神との結びつきを持って生きるということです。この結びつきは聖書を繙く時、聖餐式に与かる時に強まっていきます。
 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちには神との揺るがない結びつきがあるゆえに大元の嬉しさと喜びがあるのですから、それを忘れずに新しく始まった年を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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