2024年6月9日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝  説教 田口 聖(日本ルーテル同胞教団) 牧師

マルコ320−35節(スオミ教会礼拝説教202469日)

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母です」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 この3章を1節から簡単に振り返りますと、まずイエス様は手のなえた人を癒されました(1−6節)。そしてその後、イエス様と弟子たちは湖の方に退かれるのですが、すでに、イエス様の噂は広まり、大勢の人々がイエスに会うために群衆となって押し寄せてきていました。7節以下でも、岸辺にあまりにも多くの群衆が押し寄せたために、押し潰されないようボートまで用意させたことが書かれていますが、そのように集まってきた人々のためにもイエス様は「多くの病人を癒したり」(10節)「悪霊を厳しく戒めたり」(12節)など不思議なわざを行ったことが書かれています。そして、13節からは12弟子を選ばれることが書かれて、今日のところになります。

2、「イエスのもとに人々は集まるが」

 今日の箇所でも、まず20

20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

20

 と始まっています。「家」というのが、イエス様の家なのか、あるいは、よく滞在していた「シモン・ペテロ」の家なのかははっきり書かれてはいないのですが、そこにも群衆は絶えることなく集まってきました。それは、彼らが食事をする暇もないほどであったのでした。もちろんこの時、まだ十字架と復活の前であり、聖霊が与えられる前ですから、イエスのもとに集まってくる群衆は、全ての人が、バプテスマのヨハネが指し示した「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」の本当の意味を理解し、罪の赦しと真の救いを信じて集まってきていたのではなく、不思議な癒しやしるしを見て評判を聞きつけ、ただ見てみたい、あるいは純粋に直して欲しいという動機で集まっている人々がほとんであったことでしょう。しかし、たとえそのような人々であっても、イエス様は蔑んだり、突き放したりはせずに、「食事をする暇もないほどに」、彼らに対応されていたのでした。

 後に、マタイ1616節にあるとおり、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時に(マタイ16:16)、イエス様はその告白について「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16:17)と教えている通りに、イエス様に対する正しい理解と告白は、弟子でさえもそうであるように、人のわざや力ではなく、どこまでも神からからの賜物であり、み言葉と聖霊によるものです。ですから、イエスに集まってきた群衆のイエス・キリストについての理解も十分ではなかったのと同時に、今日のところで出てくる、本来、私たち人間の一般的な考えでは、イエスの身近にいて最高の理解者であるはずと思うイエスの家族や、あるいは、聖書をよく知っている律法学者でさえも、集まってきていた群衆と同じように、イエスを神の救い主として正しく理解できていなかったことがここで書かれているのです。21節からこう続いています。

3、「身内の人々がイエスの活動をやめさせようとした」

21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 「身内の人たち」とありますが、、おそらく家族だと思われます。彼らは、「イエスのことを聞いて」とあります。何を聞いたのでしょう。それは、彼らの周りの人々が「あの男は気が変になっている」と言っていたのを聞いたのでした。このようにイエスの家族の周り、イエスを見るために集まってきていた人々、そして噂を聞いていた人々が、みな好意的にイエスの前に集まってきていたのではないこともわかります。イエス様は病人を治したり、悪霊を戒めたりしました。しかし、家族にとっても、近所の人々にとっても、彼は大工の家の長男にすぎません。彼らにとっては、そんな大工の息子が、病人を癒したり、悪霊を戒めたり、そして聖書から神の国や救いを説いたりするなんて、ありえないことであり、人々は懐疑的になり疑って当然のことでした。しかも、そんな大工の息子が、12人の弟子まで連れているというのですから、世の中の常識や目にみえる日常の秤や先入観とは違うイエスの姿は「気が変になっている」ように見えて当然であったのでした。おまけに、6節までの手のなえた人を癒した出来事の場面でも、イエスは社会で宗教文化を支配している宗教指導者たちからの評判もすこぶる悪いことも、家族は窺い知ることができたことでしょう。そのように、目の前の普通ではない現実から見て、身内の人々、家族の人々は心配して当然なのです。そこで「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」のでした。イエスの活動を止めさせようとしたのでした。家族の人々も、この時は、全くイエスの神の国の活動を理解していません。彼らにとっては、もう父のヨセフは不在であり、イエスは家の長男であり、家族やその生活を保っていくためには、評判が悪くては困る一家の主的な存在にしか見えていなかったのかもしれません。

 そんな家族の対応に対して、31節以下でイエスの応答が書かれていますが、その前に、22節以下で、宗教指導者たちのイエスへの評価が続いていますのでそちらか見ていきます。

4、「律法学者たちの理屈とそれに対するイエスの答え」

22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 律法学者たちは、律法、つまり、旧約の律法、預言、詩篇など旧約聖書の専門家のことです。彼らは聖書のこと、特に律法のことをよく知っているはずの人で、事実、ファリサイ派同様に、自分たちは律法を十分知っているし守っている、行なっていると自負する人々であり、人々にもそのように求める人々でしたが、彼らはファリサイ派同様に、イエスのことを良く思っていませんでした。彼らと同調するファリサイ派にあってはすでに2章の終わり、彼らは「安息日にイエスの弟子たちが穂を摘んだこと」や同じ安息日にイエスが「手の萎えた人を癒したこと」を批判するのです。それに対してイエスが聖書から適切に反論したことに対してをファリサイ派は反発を強めており、「どのように殺そうか」までも話し合っていました。この律法学者たちは、イエスが悪霊を追い出したのは、それは「ベルゼブル」つまりサタンの力によって追い出したのだと理屈を述べ始めたのでした。しかしそのような理屈に対してイエスは明快に答えます。23−27

23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 イエス様は、サタンの力で、その仲間である悪霊を追い出すなんてことは滑稽だと、律法学者たちの言っていることの矛盾を指摘します。むしろ、24節以下のイエス様の言葉は悪魔のご自身への攻撃の現実を皮肉的に示しているようでもあります。巧妙で狡猾な悪魔はそんな矛盾した愚かなことはするはずもなく、イエスの家族を、人間の目に見え聞こえるような、心配と恐れで煽り、イエスへの悪い評判でイエスの家族を分裂させようとするだけでなく、その分裂で、イエスの働きを妨げさせようとしていることがわかるでしょう。そして、このイエスの「家の内輪揉め」の例えにある通り、サタンは、聖書の専門家という地位も名誉もある強い人々のそのプライドを誘惑し刺激し、彼らを用いて、サタンにとって最大の敵であるイエス・キリストご自身を攻撃して、まさに家を略奪しようとしていることを、暗に示していることがわかるのです。律法学者たちは、おそらく妬みに駆られて、イエスがサタンの力を用いていると批判するのですが、イエスは背後に働く全てを見通しているのです。むしろサタンが、家族や聖書の専門家たちを用いて、彼らの恐れや心配、プライドや名誉を突いて、ご自身の成そうとする神の御心を妨げようとしている、自分を攻撃しているのだと見通していたのでした。

5、「聖霊を冒涜することの罪の重大さ」

 そして、ここでイエス様はさらに続けて重要な言葉を伝ているでしょう。28節以下

28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

A,「聖霊を侮ること」

 ここで、イエス様は律法学者たちが「ベルゼベルの力で」とか「汚れた霊に取り憑かれている」と言うことに対して、厳しい言葉を伝えます。「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは正しく、イエス様のしるしも言葉も、そしてその言葉の通りにこれから成そうとする救いのわざも、それは全て聖霊なる主の働きであることをイエス様は示しています。その御霊の働き、つまり、それは当然、み言葉を通じての聖霊の働きのことを聖書は指しているのですが、そのみ言葉と御霊の働きを侮り、軽んじ、ましてそれがサタンの力だとか、神以外の力だとか、あるいは信じないものは、永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負うのだと、戒めるのです。

B,「信仰と救いは、人ではなく、聖霊とみ言葉のわざ」

 みなさん、このイエスの言葉はとても意味があります。私たちが救われたのは、もちろんイエス・キリストを信じる信仰によってです。その信仰のゆえに義と認められました。しかし、それは私たちの義ではなく、イエス・キリストの義のゆえです。私たちには何も義なることを果たす力も意思も理性さえもありません。私たちは堕落以後、アダムとエバの腐敗を受け継ぐ堕落の子であり、永遠に呪われた死にゆくものでした。しかし、神は第一の聖書日課である創世記315節にあるように、あの堕落の時、既に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(15節)と最初の福音を伝え約束を示していました。そしてその通りに、神はご自身の御子を人として、つまり女の子孫として生まれさせました。そのように神が世に与えてくださった救い主によって、まさにその約束の通り、私たち堕落の子に、その約束の御子キリストというサタンに打ち勝つ道を備えてくださったというのが、聖書が伝える神の一方的な救いの計画であったと私たちは信じるでしょう。そこには人のわざも知恵も努力も何もありません。人間には何も功績も貢献もなかったしできなかったのです。ただただ、神の御子イエス・キリストが私たちが果たせなかった律法の義を十字架の身代わりの死という神が備えた計り知れない方法で果たしてくださった。そして神は、罪の報酬である死からそのイエス様を復活させ、まさにサタンの頭を踏み砕いて罪に勝利してくださった、約束を果たしてくださったことこそ、この十字架のキリストは私たちに証し指し示しているのではありませんか?そのキリストの義こそを神はただそのまま受け入れるように差し出してくださり、私たちはただそのまま信じて受けとるからこそ、神はそれを私たちの救い、義としてくださると言うのが、私たちに与えられている単純な救いであり良い知らせであり福音ではありませんか。そしてさらに素晴らしい事実があるでしょう。そのキリストの救いの成就にも父子聖霊の主の働きがあると同時に、なんと、私たちがそのことを信じる信仰さえも、それは律法でもなければ私たちの力ではなく、聖書はそれは聖霊の賜物であると教えているでしょう(エペソ2章)。

C,「信仰を律法のわざ、人のわざにすることの罪の深刻さ」

 このように、私たちの救いは、その信じる信仰さえも、私たちの理性や行いや功績、貢献ではありませんしありえません。しかし兎角、私たちには救いのために一歩を踏み出すためのわずかな理性の力、意志の力が必要なんだと、ほんのわずかだが人間の力も必要なんだと教える教会もあれば、人間の貢献や条件をある程度、果たして初めて洗礼の救いの祝福に値するんだとか、教える教会もあります。しかし、それは決して福音でも宣教の言葉でもありません。救いも、そして信じる信仰さえも、それは、神の賜物、イエス・キリストが与えてくださる福音であり、聖霊がみ言葉を通して働き、福音を受け入れ信じる信仰さえも与えてくださるからこそ、私たちに今その信仰も救いも現実にあるということを忘れてはいけません。もしそれが聖霊とみ言葉、福音の働きや力ではなく、人間のわざ、貢献だ、自分の努力だ、意志の力、などなど、に変えてしまうことは、どうでしょうか?それは、聖霊の力や働きを無駄にし、み言葉もその力も信じておらず、ある意味、聖霊を冒涜することと同じではありませんか。私たちが100%神の恵みによる救いに、混ぜ物をして、人間にも数パーセント何かが必要だと言うことは、クリスチャンであっても時に受け入れやすい合理的な教えかもしれませんが、それはサタンの最大の落とし穴であり、救いをボケさせ、確信を失わされ、平安を失わせます。それは、まさしく「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」につながる重大なことだと教えられているように気づかされます。大事なのは、どこまでもイエス・キリストの十字架による救い、福音、約束こそ真実であり、神からの賜物、恵みであると、み言葉と聖霊に立ち返ること、そこに救いの確信も平安も絶えることはないのです。

5、「神のみ心を行う人々こそ」

 最後に、イエスの家族のことが再び記されています。31節以下、

31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 これは家族を突き放しているような冷たい言葉に感じられるでしょうか?しかしここでイエス様が伝えたいことを理解しましょう。大事なのは34節と35節です。周りに座っているおそらくイエスのみ言葉を聞いている人々であり、弟子達もいたでしょう。彼らを指して、私の兄弟がいるとイエス様は言われます。そして35

35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 「神の御心を行う人々こそ」とイエス様は言うでしょう。もちろん、イエス様は自分の肉の家族を愛していなかったわけではありません。母マリヤのことを愛する弟子に託されることもヨハネの福音書には書かれているでしょう。そしてイエスの弟たちもやがてイエスを信じるようになり、イエスの弟はエルサレム教会の監督になり、ヤコブはヤコブ書を残しています。イエス様がここで言いたいのは、主の祈りにもあり、ゲッセマネの祈りにもあるように、神の御心が行われることの大切さです。この時の家族は、周りの目に見えるイエスの評判や評価や、イエスのしていることの非日常のみでイエスを判断し、そしてイエスを心配するだけでなく自分たちのことを心配するしかできませんでした。しかしそれによってイエス様の行おうとしている神の御心、まさにみ言葉が聞かれること、を21節「取り押さえようとした」つまり「止めさせよう」とした、結果として「妨げよう」としてしまっているのです。そのように神の御心を妨げるものは、地上では家族であっても、天の神の前にあっては、兄弟でも母でもない、イエス様ははっきりと「神の前」の真理を述べているのです。

 このことは現代の教会にも示唆があるのです。むしろ現代の教会は、肉の目に見え、耳に聞こえる人の評判や評価には、人が集まるかどうか、人に受け入れられるかどうかに関わる重要なことなので敏感かもしれません。それ自体はもちろん悪いことではありませんし時に大切なことです。しかし、それがただ「人集め」が目的となり極端になり優先順位を間違えて、それが最も大事なことであり、教会や宣教の黄金律や王道とされてしまうとそれは行き過ぎになるでしょう。目にみえる耳に聞こえる「人がどう思うか」にあまりにも流されることによって、本来、本当に救う力があり、そして私たちが指し示すべき、神の御心、律法と福音の神の言葉、罪の赦しの十字架と日々新しい復活の福音のみ言葉にこそ、そしてそのみ言葉に聞くことにこそ、日々悔い改めさせ、日々洗礼に与らせ聖化させる真のクリスチャン生活があると言うことが、弱められたり、忘れられたり、傍に置かれたり、全く語られなくなるなら、あるいは、あのマルタとマリヤの姉妹のところでもイエス様は「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われたその「必要な一つだけ」のことは、「み言葉を聞くこと」であったのに、「み言葉に聞くなんて、弱々くし消極的で力がない。活動的ではない」と、「聞くこと」を軽んじ、それよりも律法的な行動に駆り立てのなら、それは私たちが見てどこまでも立つべき、そして伝えるべき「神の前」のこと、真の神の御心を見失ってしまっています。指し示すべきキリストの十字架、真の唯一の救いの道が示されていないのです。まず聞くことこそ神の御心であり、力があることが侮られているのです。それは、たとえ「人の前」では、効果的で評判も良く人も集まり良い数的結果になったり、成功しているように見えることが起こったとしても、しかし、まさに「人の前」のことに過ぎず、イエスがなしてくださったこと、成そうとすることを「取り押さえようとしている」「止めようとしている」、御心を妨げていることと同じことをしていることになるでしょう。それはもはや宣教ではありません。それでは、イエスの兄弟姉妹でも母でもなくなるのです。

6、「神の前にあって、イエスの兄弟姉妹、母である幸い」

パウロは第二の聖書日課で伝えています。

16、だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17、わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18、わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。1、わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」コリント第二4:165:1 

 目に見える評判や数や繁栄は過ぎ去ります。しかし目に見えない永遠なる神の御心、律法と福音のみ言葉、そして十字架と復活の救いは永遠に残るものです。そこに私たちが向かっている永遠の住まいがあります。そのみ言葉の約束が正しく伝えられ聞かれ、聖霊が御心のままに人に働くためにこそ私たちは礼拝に集い、なおもみ言葉に聞き、信仰を日々新たにされるのです。そのように平安のうちに遣わされていくことこそ、私たちは御心を行っており真の兄弟とイエス様は呼んでくだ去るのです。ですから、今私たちは、み言葉に聞くために集まっていますね。そうであるなら、私たちは何よりの神の御心を行っており、イエス様は今日この時私たち一人一人を指して「わたしの兄弟姉妹、母である」と言ってくださっているのです。今日もイエス様は私たちに罪の赦しを宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しと救いを確信して、安心してここから世に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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