2024年3月29日(金)19時 聖金曜日 礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネの福音書1916−30

「イエスは何を「成し遂げられた」?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 聖金曜日の今日の箇所は、18章から記録されているイエス様の受難の記録の一部になりますが、「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」で始まり、「イエスは、自ら十字架を背負い」と続き、そして最後は、「成し遂げられた」(30節)、これは新改訳聖書では「完了した」と訳されていますが、その言葉とともに「息を引き取られた」あるいは「霊を引き渡された」と「死」で結ばれる、とても意味深い箇所であります。もちろんこの死は復活へと繋がるのですが、このところは何より私たちキリスト教信仰の核心が伝えられいると言えるでしょう。聖金曜日のこの日、神はこのみ言葉を通して、私たちにその信仰を問いかけているのです。「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そし十字架の死で「何が成し遂げられ、何が完了したのか」をです。今日はそのことを1819章の流れを踏まえながら、共にみ言葉から教えられていきましょう。

2、「十字架の前に義人はいない」

「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」それは、私たち人間の最も深刻な、そして最悪の現実である罪のために他なりません。この今日のところのみならず、18章からは、まさに人間の圧倒的な罪深い姿、現実がまざまざと記されていきます。まず183節では、園で祈っていたイエスと弟子たちのところに、裏切ったユダが「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」とあります。イスカリオテ・ユダはわずかなお金のためにイエスを裏切りユダヤ人指導者たちに引き渡します。彼はイエスと一緒に過ごしてきたのですから、イエスが暴力的革命家でも混乱で社会を転覆しようというお方ではないし、その弟子たちも決して武装蜂起しようなどとも考えていないことはよく分かっていたことでしょう。しかし、彼は前もって宗教指導者たちと計画を立てたのでしょう、そんなイエス一人を捕まえるために、数人の兵士ではありません。わざわざ一隊の兵士たちと、そして武器を持ってやってきているのです。ルカ2252節にはそれを見たイエスの「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。」という言葉もあるのです。

 この行動は、イエスがそれほどまでして逮捕することが必要な犯罪人であることをまさに周りに印象付けています。事実、この後イエスは、極悪人のかけられるローマ最悪の処刑である「十字架」を負わされるよう扇動されていくのです。次に書かれているのは、ユダの裏切りに乗った祭司長やパリサイ派たちや役人などです。彼らは、社会の宗教エリートであり指導者でもありました。幼い時から律法と預言をよく学び、他の誰よりも自分たちはその律法の内容や教えを知っているだけでなく実践もしていると自負している人々でした。しかし皮肉なことに、そんな彼らが、その律法と預言が指し示してきて、その約束の通りこられた救いの御子とその正しい聖書の教えを受け入れられないのです。それどころか自分たちの伝統とプライドを守ることに躍起になりイエスに対して妬みを抱き続けてきました。そして何度もイエスを陥れようとしながら、その敵意と妬みが最高潮に達して、このようにユダと共謀しこのイエスの逮捕へと行動しているのです。その彼らの行動には、信心深さや聖書的な根拠などはもはや見られません。民に神のみ言葉を指し示して、信仰による行いに導き駆り立てるどころか、民をその敵意と妬みに巻き込み、そして偽りと策略によって煽動します。そして、1839節以下では、罪のないイエスよりも明らかな犯罪を犯した強盗のバラバを釈放してほしいとまで叫ばせ、今日の箇所の直前の1915節では彼らは「私たちには、皇帝の他に王はありません」とさえ叫ばせるのです。実に節操のない言動ですが、これが、妬みと憎しみによる自己中心な感情と欲求の実であり、罪の実であり、偽りの実の現実なのです。彼ら宗教指導者たちは、自他共に認める聖書をよく知り行いも立派な人々でした。表向きには社会に尊敬もされる敬虔な人々と見られていたでしょう。しかし、そのような「人の目」に評価され、いかにでも振る舞うことのできる人間の行いの敬虔さというのがこのように、十字架の前、神の言葉の前、神の前にあっては、いかに脆く、愚かなものであるのかが教えられます。

 では次にピラトはどうでしょうか?ピラトは、1838節や194節で、イエスには「私は、あの人には罪を認めません。」とイエスには十字架刑に値する様な罪はないことを何度か認めているのです。さらには、1912節にあるように、イエスを釈放しようとさえ努めます。しかし、彼はローマ社会で実績を残してきて皇帝に託された責任あるローマの総督、高官ではありましたが、王でもなければ神でもありません。彼も一人の罪人にすぎません。彼も何が正しいことかわかっていて、その内なるところではそこには良心も理性も働いたことでしょう。しかし、ユダヤ人の勢いや強い言葉と暴動を恐れ、そしてやはりそこには自分のプライドとメンツという自己中心な感情や欲求が勝り、正しい罪のない、十字架刑に値しない人を十字架刑に引き渡す法的な実行者責任者になるのでした。周りにいるローマ兵も、上司上官に言われるがまま、無実の男を平気で鞭打つだけでなく、残酷なほどにイエスの肉体を苦しめ、辱め、馬鹿にします。そして無実のイエスの肉を十字架に釘打つ刑の執行者となるのですした。

 そして、忘れてはいけません。十字架の出来事の、その周辺の人々として、目を閉ざしてはいけないのは、イエスの弟子たちです。彼らはイエスと一緒にいたから、信仰が与えられていたから、イエスの味方、弟子だからと、罪から自由な、立派な、完全な、聖人君子であったでしょうか?とんでもありません。弟子の一人ユダは、最初に見たように、わずかな金のためにイエスを裏切り売り渡しました。ペテロはイエスの御心ではない、剣で歯向かい、大祭司の僕の耳を切り落としてしまいます。そしてヨハネによる福音書にはありませんが、マルコの福音書1450節には、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

とあるのです。彼らは、この前に、イエスから弟子の誰かが裏切ることをことを予め伝えられたときに「まさか私ではないないでしょう」と皆がいい。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は決して裏切らない」と言い、そんなペテロにイエス様が「あなたは三度私を知らないという」と告げられた時には、マルコ1431節にこうあるのです。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ペテロだけではない、他の弟子たちも皆、自分は決して裏切り者にはならない。決して知らないなどとは言わない。ペテロは「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ2233節)とまで言うのですが、ユダ以外の他の弟子みなも同じ思いと自信があったことでしょう。彼らの意思では、決して嘘ではない意思の表明であったと思われます。しかし、そのような立派な人間の意思や決心も神の前にあって、神の計画の実現の前にあって、十字架の前にあって、いかに無力で脆く、決してその通りに実現しないし、実現できないことが福音書は伝えているでしょう?何よりペテロはその証人ではありませんか?彼は一人、イエス様の審問が行われている大祭司カヤパの庭に入って、イエスを見に行きます。しかし、1815節以下、ペテロは前に豪語した、自分の立派な決意を実践したのではなく、イエスの言っていた通り、三度、イエスを「知らない」と言ったのでした。誰よりも強い意志と立派な敬虔に忠実従おうとする言葉を表してきたペテロですが、彼の意思、決意、自信は何一つなりませんでした。ただただイエスの言葉だけがその通りになったのでした。

 みなさん、今日のところからまず教えられることは、神の前、十字架を前に、ここに罪のない正しい人は誰一人いません。もちろん、「人の前」、ローマ社会、ユダヤ社会では、それなりの地位があり、功績と名声があり、立派な行いと敬虔な振る舞いで、人々からも尊敬される人々は沢山いたでしょう。しかし、この「十字架の前」、イエスが背負われる十字架、そして完了したという、その神の計画の前、み言葉の前にあって、今見てきた通り、正しい人はいませんね。罪のない人は一人もいませんね。もちろん女性達は、墓に至るまでついてはいきました。人の目には、そんな弟子達よりは立派に見えます。しかし、その女性達は聖女であり罪はなかったとは聖書には書かれてはいません。彼女達もやはり罪人でした。神の前に、義人はいないのです。まず何よりも、聖書は、その現実を私たちに突きつけています。

3、「例外はいない:「自分に限ってはそんなことはしない」と言い切れるか?」

 もちろん、人間の理性や善を信じたい、自分はそんなに悪い人間ではないという人々の中には、自分は良い人間だから、意志も強いし罪も犯さないから、自分に限っては、彼らの様にはしないと言いたい人もいるかもしれません。しかし、もし自分が、これまでの自分の地位と行いに誇りとアイデンティティーを置いてそれを支えにそれを守って生きてきたユダヤ人宗教指導者としてその場にいたならどうでしょう?あるいは、日頃その様なユダヤ人たちに指導され、敬意を払うこと、従うこと、倣うことが当たり前の日常で、そのような社会的大多数の価値観の生活する一人であったならどうでしょう?大多数派の価値観や声に動かされず、自分は決して煽動されない、それでも否と言える自信がありますか?あるいは、ピラトのように実績と名声に支えられやっとつかんだ総督の座にありながら、その治める地のユダヤ人が暴動を起こさないようにしなければならない、実績に傷をつけてはならない、そんな立場で群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫び続ける中でも、周りの声が望まない正しい判断をあなたは絶対することできますか?あるいは、上官の命令には絶対のローマ兵の立場であったならどうでしょうか?それでも、総督の決定、上官の命令に逆らってでも自分は鞭打たない、釘を打たないとあなたは断言できますか?そして、ペテロのような決心を持った強い敬虔な言葉を発しながら、自分もイエスと一緒に仲間として十字架にかけられるかもしれない恐怖の中、「あなたは仲間でしょう」と問われた時に、自分はそれでも弟子達のように逃げない、ペテロのように「知らない」と否定しないと言い切れ断言できる人がいるでしょうか?仮に断言できたとしても、実際にその場で、なんの躊躇いもなく、葛藤もなくそれを実行することができる人がいるでしょうか?私はその自信がありません。いや、たとえ、その様な、立場に置き換えるということがフェアではないとしても、しかし聖書は、まさに堕落の初めから、はっきりとその人間の罪の事実を、つまり、人は神のみ心、み言葉を、疑い、反対し、背くものであり、そして間違った道をいくものとなったことをはっきりと私たちに伝えているでしょう。神はノアの洪水の後に「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(821節)と言っています。そして神の怒りを受けてなおも背いていく神の民の性質について、神は、イザヤを通して、こう言っています。イザヤ書5717節(新改訳)

「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。

 そう、聖書が変わることなく何千年もそのようにはっきりと伝えてきた人間の事実、現実が、十字架の前にまざまざと実現しており、はっきりとしているのです。「義人はいない。一人もいない」そのことです。イエスが引き渡される時、イエスが自分で十字架を負う時、そこにはただただ人の罪が取り囲んでいます。人の罪が、救い主として、王としてこられた約束の救い主、御子キリストを拒むのです。そのように私たちの罪こそが、どこまでもキリストを拒み、必要ないとし、そして「十字架につけろ」と叫び、殺すのです。ここで見てきた罪深い一人一人は、、私たち一人一人であり、私たちの姿であり、私たちも御子キリストを拒み十字架につけた一人であり、そこに例外はないのです。もちろん、私自身もその一人であることをまずここから教えられるのです。

4、「福音の核心:何のために?何を成し遂げた?」 

 しかし、「イエス様は何のために十字架に引き渡されたのか?」、「何のために、自ら十字架を背負われたのか?」、そして「何が成し遂げられ、何が完了したのか」その究極の答えもここにあるでしょう。イエス様は、マタイの福音書2653節以下で、ペテロが剣を持って祭司の僕の耳を切り落とした時に53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ2653節)と言っています。しかしその後、こう言っています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言っています。つまり、その取り囲む人間の圧倒的な罪を「天の軍勢を送って」断罪し火で焼き滅ぼすことができるけれども、しかしそれが神の御心、聖書の約束ではなく、その様にするのではなく、まさに「必ずこうなると書かれている聖書の言葉が実現する」ために、つまり、そう、これまでまっすぐと目をむけ弟子達にも伝えてきた十字架にかかって死ぬことのために。つまりその取り囲む彼ら、そして私たちの罪を全てその身に負って、私たちの代わりにその罪を報いを、裁きを、死を受けて、私たちを滅びから、永遠の死から、罪の報いから救うため、罪から贖うことをイエス様はどこまでも見ているし従っているのです。ヨハネ18章でも11節、イエス様はこのように言っています。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と。この逮捕の前に、イエス様は園で祈っていたでしょう。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(2639節)と。その祈りに対する父が与えてくださった答え、その杯は今、まさに表されたからこそ今こそそれを飲むべきではないかとイエス様はペテロに伝えていることがわかります。さらにヨハネ1836節でも36 「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

 とピラトに答えています。まさに神の与える杯、神の御心、それは、地上の国とは違う神の国をイエスは見ていて、この罪に溢れた裁判も断罪も、神の御心、杯として、黙って受けているでしょう。なぜですか?それはご自身がその人類の全ての罪を黙って背負って、十字架にかけられて死ぬためではありませんか。罪人が受けなければならないその十字架という刑罰と死、それは罪人である私たちが受けなければならない十字架であり、刑罰であり死のはずでした。しかしまさに、イエス様はこのように、人間の神への罪、敵意を一身に黙って受けて、十字架に従われることによって、人類の代わりに、つまりそこにいた全ての人々、そして私たち一人一人の代わりに、その罪の報いである、私たちが受けなければならなかった刑罰と死を受けられているのです。しかし、そのイエス様のこの十字架のゆえにこそ、神の御心は実現したことを聖書は伝えていますね?ヨハネはここで、「聖書の言葉が実現するため」(24節)「聖書の言葉が実現した」(28節)「聖書の言葉が実現するため」(36節)と繰り返しています。つまりこの福音書を記したヨハネもまさに、この十字架、この救いには、人の思いは一切ない、これは、神の御心が実現することなのだと繰り返していますが、その御心とは何ですか?それは遥か昔から神が一貫して約束されてことでした。創世記3章の約束もそうですが、イザヤを通しても変わることなく神はその身代わりの死による贖いの御心を伝えています。イザヤ53

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。〜10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 と。みなさん、私たちを罪から贖う十字架の死はその変わることのない神の救いの御心の実現なのです。「完了した」「成し遂げられた」。何がですか?その神の御心がです。剣によってでも、革命や暴力によってでもない、天の軍勢の裁きによってでもない、神の御子が、神ご自身が私たちと同じ肉体を取り人となられ、私たちの代わりに、私たちが受けなければならない罪と滅びという大きな深刻な、そしてどうすることもできない問題、十字架の死を全て代わりに背負われて、死んでくださった。その十字架のゆえに神は変わることなく私たちに罪の赦しを宣言してくださるのです。私たちは神の前に圧倒的な罪の現実に絶望するしかありませんでした。しかし、その罪を認め悔い改めて十字架の前に立ち、その神の御子キリストの贖いは私のためであると信じるものは誰でも、その罪の赦しがそのままその人のものになるとイエス様は約束しています。誰でも悔い改める者に、イエス様は「あなたの罪はこの十字架ゆえにもう赦されています。だから心配しなくて良い。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。その罪の赦しのため、その平安のため、安心のため、安心していくことができるその救いのために、「引き渡され」「自ら十字架を背負い」そして「完了した」「成し遂げられた」なのです。

5、「成し遂げられた:福音はまだ未完成で残りは人が完成させなければならない」ではない」

 そして大事なのは「完了した」「成し遂げられた」のですから、救い、罪の赦しは100%イエス様が果たしたということです。つまり、福音は未完成であり後はクリスチャンの努力で福音を完成させなければならないという教会もある様ですが、そんなことは決してない。福音や救いは、残りの半分は後は私たちが果たしてくださいというものでも決してないということなのです。「完了した」「成し遂げられた」とイエス様が私たちのために宣言してくださっていることは幸いです。福音というのはイエス様が完了し、完成してくださったものを、そのまま受け取るだけのものなのです。そのルター派の教えに対し、「福音の後にやっぱり律法の力や人間の数%の努力や意思の力も必要だ」と教える教会では「物足りない、だからルター派は弱いんだ」と言いますが、決してそんなことはありません。人間には決して実現できないことを成し遂げ「完了した」と宣言してくださったイエス様のその福音が何にもまして、人の思いを超えて遥かに力があることは明らかではありませんか?むしろ人の力ではどんなに立派な良い行いをしても敬虔そうに装えても限界があったでしょう?しかし、イエス様の福音こそ、逃げた弟子たちを命をかけた宣教師に変えました。迫害者でありパリサイ派であったパウロを、180度変えてイエスの福音に生き伝えるものにしたでしょう。それは人間の力や律法ではない、福音によって遣わされた平安な宣教の証しなのです。「未完成」ではなく「完了した」罪の赦しをはっきりと宣言され、その完全な罪の赦しを受けるからこそ、私たちは罪の赦しの確信をもち、救いの確信を持ち、安心していくことができるのです。

6、「結び」

 結びます。私たちが神の前にどこまでも罪人であることを知ることはとても大事な聖書のメッセージです。そんな暗い、人が聞きたくないことはやめて、罪とか悔い改めなど語るのはやめて、もっと明るいポジティブな愛とか成功とか繁栄とか語りましょう。もっと人が集まり人が支持するような万人受けするような教えで教会を沢山の人で満たしましょう。聖書の古い暗い、聞きたくない教えは蓋をしてもいいから、皆が受け入れやすい様に聖書を解釈して、今の社会風な教えと教会を変えましょう。そのように人間に都合のいいように方向転換する教会は少なくありません。事実、それが正義であるかのように讃えられ、罪と悔い改め、十字架の罪の赦しを説教することが時代遅れとか悪であるかのようにさえされます。事実、人の前では、その様な方向転換の教会が見た目は栄え、数的に大きくなるようなことはあるのです。しかし、人中心で神の言葉を再解釈することが堕落の初めであり、変わることなく自己中心、人間中心こそ、神を排除しようとする十字架を取り囲む人々に溢れていた罪の現実ではありませんか?それは現代においても、結局は、理性と感情とマンパワーによる教会へとなって行きますが、平安は無くなってしまします。それは世の与える平安は伝えられますが、イエスが与える平安は絶対に伝えられません。聖書はいつまでも変わらぬ真理と救いと真の平安を伝えています。私たちはどこまでも罪人である。しかしその罪のためにこそ、イエス様は十字架にかかって死なれた。それが御心であった。それが救いの「完了した」であったのだと。私たちが罪人であることがはっきりとわかり認め悔い改めに導かれるからこそ、聖書が伝える真の救い、十字架と復活にある、罪の赦しと新しい命の素晴らしさ、真の神の愛がわかります。それが私たちを平安にし、救いの確信を与えるのです。罪を知らされる、悔い改めに導かれるからこそ、そこに、真の天からのいのちの光、神の前に安心して歩むことができる平安な道が開かれているのがわかるのです。今日もイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひそのまま福音を受け取り、安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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