2022年5月8日(日)復活節第4主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月8日 復活節第四主日

使徒言行録9章36節-43節

黙示録7章9節-17節

ヨハネ10章22-30節

説教題 「羊飼いが羊を守り導くようにメシアも守り導かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 復活祭の後の福音書の日課は死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事が中心でした。今日の福音書の日課は舞台を再び十字架と復活の前に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事の前は聞く人見る人にとってわかりにくいことが多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらがどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の日課についても私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事を知る者として意味を確認してまいりましょう。

 イエス様は、数多くの奇跡の業と神の権威がある教えでローマ帝国シリア州(マタイ4章24ー25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なるみ神から送られた「神の子」であると、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的人物「人の子」であると公言していました。それに対してユダヤ教社会の宗教指導層は、あれは神の子でも救世主でもない、民衆を惑わす危険な男だと見なしていました。宗教指導者たちが神と人間の関係を取り仕切っていたところに、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦になります。しかし本当は、イエス様の取り仕切りが神の意思そのものだったのです。宗教指導者たちはそれが全くわからず、自分たちの教えや流儀が神の意思たと思い込んでいました。

 それで宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて殺してしまおうと考えるようになっていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にイエス様を見つけて取り囲み尋問を始めます。イエス様が何か間違ったことを言えば、大勢の人が目撃者となる状況です。指導者たちは聞きます。いつまで我々に気をもませるのか、お前がメシアなら、はっきりそう言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言ったのに、君たちが信じようとしないのだ、と。

 ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことをメシアだと指導者たちに公言したことは見当たりません。4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では信奉者に対しても反対者に対しても、自分は父なるみ神から送られた「神の子」とか、救世主的人物である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中にはイエス様がメシアだと信じる人も出ていました(7章31節)。イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言ったというのはどういうことでしょうか?これは当時、メシアという言葉が人々に誤って理解されていたという問題があります。

 メシアとは、もともとは頭に油を注がれて聖別された者を意味しました。神から特別な使命を与えられた者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様を意味するようになりました。ところが、ダビデ王朝の王国は紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにユダの地に帰還を果たしますが、それ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王が現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し諸国に大号令をかけるという期待がずっと抱かれていました。この王がメシアと考えられたのです。

 他方で、バビロン捕囚から帰還した民の中には、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目して、今ある天と地はやがて終わりを告げて新しい天と地に再創造される時が来るとわかった人たちがいました。そのような預言を通してメシアとは創造の秩序が一新される時に現れて、創造主の神の目に適う者を御許に迎え入れてくれる方という、そういう終末的な救世主を意味するということがだんだん明らかになってきます。この意味のメシアはユダヤ民族を解放する王様とは違います。全人類にかかわる救世主です。

 そうすると、イエス様が尋問を受けた時、それまで自分がメシアであるとはっきり言っていなかったのに、どうして既に言ったなどと答えたのかがわかってきます。イエス様は、特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたということがポイントです。もし「私はメシアだ」と言ったら、聞いた人たちの多くは、イエスは自分がメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えたでしょう。そうなれば、宗教指導者たちにとってはしめたものです。この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様自身は、もちろん自分は本当の意味でメシアであるとわかっていました。しかし、聞く側がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使うのは控え、かわりに父なるみ神から送られた「神の子」であるとか、終末の救世主「人の子」であると言い換えていたのです。でも、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、「神の子」、「人の子」と言うのも宗教指導者たち苛立たせました。なぜなら、神を冒涜していると思ったからです。

2.本当のメシア

 ユダヤ教社会の宗教指導層は旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にありました。それなのになぜ彼らはイエス様が「神の子」であること「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?イエス様が数多くの奇跡の業を行っていたことは広く知れ渡っていました。しかも、それを自分の父である神の名によって行っていました。業自体が既に神の子であることを証明しているのに、指導者たちは信じない。イエス様は呆れ返ります(10章25ー26節)。

 指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、イエス様が指導者たちを飛び越えて神と人間の関係を取り仕切ろうとした、そのことが指導層の権威に対する挑戦と受け止められたことがあります。彼らは自分たちのしていることが神の意思だと信じて疑わなかったのです。4つの福音書を見ると、宗教指導層に対する批判が多くあるので彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。ところが歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それなのにどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができなかったのでしょうか?それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思であると固く信じていたからです。このためイエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増します。イエス様は労働を禁じる安息日に病の人を癒す奇跡を行いました。すると、人が助かったことよりも安息日を破ったということに目が行ってしまい、この男は神の意思に逆らう者だ、などと奇跡の偉大さが見えなくなってしまうほどでした。

 宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因としてもう一つ、旧約聖書に書かれている神の約束をユダヤ民族のみに関わると理解していたこともあります。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の関係の歴史が延々と語り伝えられています。それで、ユダヤ民族以外の世界の諸民族はその他大勢に括られてしまうだけに感じられます。しかし、たとえユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものです。

 それは、創世記の出来事から明らかです。神に造られた最初の人間が神に対して不従順となり、神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間はユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主である神に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。罪を言い表す時、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があるくらいです。このような受け継がれる罪があるので、たとえ具体的に行為や言葉や思いに現れなくても人間は皆罪びとであるというのが聖書の立場です。

 この罪のために、人間は神聖な神との結びつきを失ってしまいました。それに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世から別れた後は永遠に自分のもとに戻れるようにしようと決めました。神はそれを人間の歴史の中で実行したのです。どのように実行したでしょうか?

 アブラハムが歴史の舞台に登場しました。モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の地エジプトを脱出して約束のカナンの地に移住しました。この過程でイスラエルの民、ユダヤ民族が出来てきました。神は、この自分が選んだ民とのやり取りを通して、自分はいかなる者で、いかなる意思を持ち、何を考えているかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間の救いについて預言者を通して明らかにしました。これらをまとめたものが旧約聖書です。

 そして、救いを実現する時が来ました。神はひとり子をこの世に送ったのです。ひとり子はダビデ家系のヨセフの婚約者、乙女マリアを通して人間として誕生しイエスの名をつけられました。神がイエス様に課した役割は、人間の罪を全部彼に背負わせて人間の代わりに神罰を受けさせて人間が受けないで済むようにすることでした。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法をとったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。人間はただイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の赦しを自分のものにすることができます。それで人間は神との結びつきを回復出来、結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に復活の体を着せられて造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになったのです。

 神のひとり子がこの世に送られた場所は、まさに神の意思である十戒と御言葉と約束の維持管理を任されていたユダヤ民族の真っただ中でした。イエス様は神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示したのに反対されて処刑される、そういう形で人間を罪から贖う、いわゆる贖罪を自ら行ったのです。さらに神はイエス様を死から復活させ、この世に対して死を超えた永遠の命が本当にあることを示されました。そこに至る道を人間に切り開かれたのです。このように神の約束は、かつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するという約束でした。それは特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだったということが明らかになりました。願わくは、神の約束が特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが多くの人にわかってもらえますように。

3.本当のメシアは良き羊飼い

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について語ります。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10章27ー28節)。永遠の命を与えられ、この世から死んでも決して滅ぶことはない「彼ら」とは誰のことか?それは復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになった者、キリスト信仰者のことです。

 イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の前に彼の教えを耳で直に聞いたということだけではありません。死から復活して天に上げられたイエス様の声を私たちは直に耳で聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼の弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主と信じないで福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史物語にしかすぎません。しかし、信じて読むとそれは自分を造って命と人生を与えてくれた神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻して下さった救い主メシアの言葉になります。彼が私たちに語りかける言葉です。福音書以外の書物も、使徒たちが記した書簡は復活したイエス様が、あなたたち、伝えなさい、と彼らに託した自分の言葉の集大成です。旧約聖書も、ひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらすことになる神がどのような方であるかを明らかにする書物群です。総じて聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついています。聖書を繙くことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができます。

 イエス様はまた、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。個人的に知っているから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことをお祈りして打ち明けることを望んでいます。そうすることで、私たちはイエス様に信頼をおいていることをイエス様にも示し自分自身にも言い聞かせることができます。イエス様や父なるみ神はどうせ全部ご存知だから祈る必要もない、というのは信頼をおくことを怠けることになります。

 死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになると申しました。人生の歩みでは、いつも私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを聞いてくれる主がいつもそばにいるとも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との結びつきはしっかり保たれているだろうかと疑問や不信を抱くことが多くあることも事実です。特に罪に陥った時とか、苦難や逆境に陥った時がそうです。

 罪に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの力が減ることはありません。救いと恵みに力がなくて罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの力と価値は私たちがどんな状況にあるかにかかわらず不変です。それゆえ、罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、罪を罪として認めて神の御前で赦しを祈ることです。そうすると十字架と復活に現れた神の恵みと愛は私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者はいつも立ち返れる地点があります。

 それから、私たちは自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はとても難しいです。一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる詩篇23篇の4節に「たとえ死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われています。主がいつも共にいてくださるような者でも死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主が共にいれば苦難も困難もないとは言っていません。苦難や困難が襲って来ても主は見放さずに共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは私たちの方で捨てない限り、いかなる状況にあっても保たれているのです。

 今日の説教の中で、キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を進むとか歩むとか申しました。一体どこに向かって進むのでしょうか?それについても申しました。復活の日に復活を遂げて神の御許に迎え入れられるところです。このことが今日の黙示録の中でも言われていますので、最後にそれを見ておきましょう。

7章14節「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

 イエス様がゴルゴタの十字架で流した血で私たちは罪から清められる道に置かれてその道を進みます。復活の日、私たちは内も外も完全に白くされているのを自分の目で見ます。イザヤ書1章18節の神の言葉「お前たちの罪が赤くとも、お前たちは雪のように白くされる」がイエス様の十字架の血のおかげで本当になるのです。また詩篇51篇9節のダビデの祈り「私を雪よりも白くして下さい」も本当になるのです。

7章15~17節「玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや飢えることも乾くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中におられる小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」

 ここに、イザヤ書49章10節、詩篇121篇6節、詩篇23篇1、2節、イザヤ書25章8節の御言葉がそのまま実現するのを見ることが出来ます。

 兄弟姉妹の皆さん、このように旧約聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついていると言うのは誠にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

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