2021年10月3日(日)午前10時30分から 聖霊降臨後第19主日 主日礼拝

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主日礼拝説教2021年10月3日 聖霊降臨後第19主日

創世記 2章18-24節

ヘブライ 1章1-4節、2章5-12節

マルコ 10章1-16節

説教題 「神の創造の秩序と結婚」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

またファリサイ派の人たちがイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回は旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて追い出してもよいという規定についてです。これもモーセの律法集の中にある規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。また、離縁状についても伴侶が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒をとても厳しく解釈して人々を驚かせているだけではないか。あいつを公衆の面前で立ち往生させてやるのにちょうどいい規定だ、そういう魂胆でした。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対してイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のひとり子として父の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮した上でそうしたのだ、と。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か頑固おやじみたいな感じがしてしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδια「心がかたくなな状態」という意味です。「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どう深刻かと言うと、イザヤ書610節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時に、民の心を一層「かたくなに」するということがありました。それは、神の意思や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心かというと、神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。それでは、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。つまり結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の意思ならば、そういう神の意思に基づいて一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は明らかにします。神に対して心がかたくななため、神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、この相手にはもう飽き飽きした、とか、あっちの方がよさそうだ、という自分の都合で書いていいものではないと言うのです。離縁状はやむを得ないものとして認可されてはいるが、その発動は創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時であるというものです。創造の秩序を損なうことには、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、神の創造の秩序を損なうことになるので離婚はしてはいけないということなのです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れたら、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?

ここで創造主の神がひとり子をこの世に送って私たち人間に何をして下さったかを思い返しましょう。ひとり子は十字架の死を遂げることで、神に意思に反する人間の罪を神に対して償って下さいました。人間は、この身代わりの犠牲の死は自分にためになされたとわかって、だからイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると神から罪を赦された者としてみてもらえるようになります。神からそう見てもらえるということは、神との間に平和な関係が築かれたことになります。この平和な関係は、人間が罪の赦しの中にとどまっていれば揺らぐことがなく、人間は逆境の時も順境の時も変わらぬ神の導きと守りの内に生きていきます。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を与えられて、永遠の神の御許に帰ります。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。

自分はこんな大いなる人生を歩んでいるのだとわかった人は、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、イエス様の十字架を覚えているので赦しを与えることが自分にとっても相手にとっても大事なのだとわかります。自分が受けた大いなる赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。では、自分への言い聞かせはどうやってするのか?それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞くこと(ちょうど今みなさんされているように)、また自分で聖書を繙くことです。

ここで少し脱線しますが、フィンランドでは夫婦関係のセミナーが合宿形式でよく開催されます。女性も各界で男性と対等ないしそれ以上の立場で渡り合う社会で、女性が男性のために我慢するとか一歩も二歩も譲るということがないので夫婦関係は摩擦が顕在化しやすいと思います。それで夫婦関係セミナーということなのですが、週末とか夏休みの期間、自然の中の研修所にて、専門家の講義があったり参加者みんなでゲーム形式でコミュニケーション能力高めたり、お互いが経験や悩みを分かち合ったりします。私は参加したことはないのですが、ただ知的障がい者の親のためのセミナー合宿には2回ほど参加したことがあります。子供は子供のプログラムがあり、親のプログラムには夫婦関係のこともありました。これらの合宿セミナーは教会が主催するものもあれば、それ以外の団体が主催するものもあります。教会が主催するものであれば、もちろん赦しの実践ということが大事なテーマになります。夫婦関係というものは無意識にしきたり任せで保たれるという考え方ではなく、両者が意識して自覚して保っていくという考え方なのではと思います。

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

イエス様は、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉ですが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の言葉はとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、その意味は英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語の姦淫とか姦通は、最近の日本でもよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと思わされます。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序から見てそうなるからです。

男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを出て神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚ということになります。姦淫とは、外部のものが入ってきて一つの肉を引き裂いてしまうこと、せっかく神が結びつけたものを壊してしまうことです。そうすると、離婚の場合は違うのではないか、離婚したらもう結びつきを解消したのだから再婚は姦淫にならないのでは、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、イエス様はそうなるのだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は人間の目では別々になって解消したとしても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則上消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録にそうと記されます。人間が解消できたぞと思ったら、それは自分は神の結びつけの力よりも強いのだということになります。これは神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効には出来ないということの裏返しです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと文句を言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にするものかという気持ちを起こすかもしれません。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいいお方だ、という考えになってしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対して心をかたくなにすることです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様はどうしたでしょうか?他にも心の中で描いただけでも同罪だと言いました。そこまで厳しいことを沢山言って、人々に後ろめたい気持ちを持たせたり不愉快にさせて、自分は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との平和な関係を持てなくなっている状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けられて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。

イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しが注がれます。何も知らないで新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神の罪の赦しの中に留まって生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神の守りと導きの中で生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて神の方を向いて、背を向けないで考えるようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変わっていくでしょう。

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ1912節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならないなどとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる日がやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ2414節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ2444節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。与えられる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは口で言うほど簡単なことではなく失うときは相当な痛みを伴います。しかし、その時こそ、キリスト信仰者は、私たちの信仰は「復活の再会の希望」がある信仰であることを思い起こします。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

 

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