説教「祈る者に正義あり」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 18章1-8節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、イエス様のたとえの教えです。初めの節で言われているように、この「やもめと裁判官」のたとえは、弟子たちに語られています。イエス様がこのたとえを話された目的は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。この教えは、弟子たちだけに向けられたのではありません。イエス様の弟子たちは主の十字架と復活の出来事の後に福音の使徒となって自分たちが見聞きしたことを公に証言し、同時に信仰について教えていきますが、それらを信じてキリスト信仰者となった人全て、すなわち私たちにもこのたとえの教えは向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調するのでしょうか?それは、弟子たちや私たちが、この世の人生の歩みの中で厳しい現実に遭遇していくうちに、次第に気を落として祈ることを絶やしてしまう危険があると知っていたからです。このことをイエス様が心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に地上に再臨される日、果たしてこの地上には、気を落とさずに絶えず祈り続ける信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな既に気を落として祈りを絶やしてしまった後だろうか、ということです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならない、ということであります。一体どんな厳しい現実があるのか、それを後で見ていきましょう。その前に、イエス様のたとえをじっくりと見て、祈りは無駄に終わることはない、という教えを体得していきましょう。

2.

イエス様のたとえの教えには、自然現象を題材にしたものや人間ドラマを題材にしたものなどいろいろな種類があります。人間ドラマのたとえについて、それらが本当に起きたことに基づいているのか、それともイエス様の全くの創作なのかを考えるのは興味深いテーマであります。しかし、それは学者によっていろいろ見解が別れる問題でもあります。ここではこれ以上、立ち入りませんが、この「やもめと裁判官」のたとえに関しては、私は個人的に、実際に起きた出来事に基づいて、イエス様が教えの目的に沿うように多少アレンジしたものではないか、と思っています。

まず、登場人物をみてみましょう。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。しかし、この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキアαδικιαという単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、例えば私腹を肥やすようなことをして今なら懲戒免職されてしかるべきというイメージが起きるでしょう。この裁判官が実はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物であると描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表しています(4節)。つまり、「不正な」と言うより、人を人とも思わないから、無慈悲、無情な人物と言えるし、神を畏れないから、神の意思や御心に従わない傲慢な人物とも言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で、神の意思に従わない」裁判官ということです。

この裁判官についてもう一歩踏み込んでみます。2節に裁判官のいる場所を「ある町」と言っていますが、町というのは、ギリシャ語でポリスπολιςなので、正確には都市です。もし「ある都市」と言わず、ギリシャ語で定冠詞を付して「その都市」と言ったならば(さしずめ英語ならthe city、ドイツ語ならdie Stadtのようになれば)、これは決まった都市、つまりエルサレムを指します。もし裁判官のいる場所がエルサレムなら、ユダヤ人の自治の機関である最高法院を思い浮かべることができます。あの、イエス様を裁判にかけてローマ帝国の総督ピラトに引き渡すことを決めた機関です。ところが、たとえで言われている都市は定冠詞がついていないのでエルサレムではない。そうなると、どこか別の都市になります。そういう所での裁判所と言ったら、おそらくローマ帝国の裁判所にならざるを得ないのではないか。そうなると、たとえに登場する裁判官はユダヤ人ではなく、異教徒になる。異教徒の裁判官であれば、イスラエルの神など畏れなくて当たり前だろうし、ローマ帝国は占領国ですので、被占領国民のユダヤ人に対しては人を人とも思わない態度だったこともうなずけます。以上は、わずかな手掛かりに基づいた裁判官の出自についての推測です。これが事実そのものだと主張するつもりはありませんが、案外あたっているのではないかという気もしております(そうなると今度は、やもめはローマ帝国の裁判所で訴訟できるのなら、ローマの市民権を持っているのか、それとも持っていなくて直訴しているのか、という問題に発展していきます。)

次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中では、未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないということが神の意思であると言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。当時は遺族年金とか男女雇用機会均等などという制度も考えもない時代の社会でしたから、夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成年の息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったでしょう(例えばマルコ12章40節を参照)。

裁判官と同じ都市に住む未亡人が、何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」。そこで、「神をも畏れず、人を人とも思わない」裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」υπωπιαζωという意味の単語です。相手が裁判官、もしそれが占領国の官憲だとしたら、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら、大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということであります。裁判官が「彼女のために裁判してやろう」というのは、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)ということです。これから裁判を始めるということではなく、もう彼女に有利な判決を下すことに決めたということです。

ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。神の意思に従わないような裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)ということです。

この「~ですら~するならば、神はなおさらそうするではないか」という論法は、神の愛と見守りのあることを忘れるなとイエス様が教える時に使います。例えば、ルカ11章で、魚が欲しいと言う子供に蛇を与える父親がいるだろうか?卵が欲しいと言う子供に蝮を与える父親がいるだろうか?人間は悪い存在でありながら、子供には良いものを与えることを知っていれば、神はなおさら、求める者に対して天から聖霊を与えて下さるのは当然ではないか、と(11-13節)。マタイ6章では、神は明日にも枯れる野の草花を美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、と(28-30節)。本日の箇所も同じで、神の意思に従わない裁判官ですら、正義の実現に動いたのだ。まして神そのものであれば、昼も夜も助けを求めて叫び祈り続けている選ばれた者たちに対して、正義を実現しないなどとはありえないではないか。神の意思に従わない裁判官は、「しばらくの間」(4節)取り合おうとしなかったが、神は「速やかに」(8節)不正を廃して正義を実現するのだ。もし、神をそのような方だと信じられないならば、それは神をあの裁判官以下にみなすことになってしまうのだ。それくらい、神が絶えず祈り求める者に正義を速やかに実現するのは当然のことなのだ、と言うのであります。

ここでひとつ注意したい言葉があります。それは、「選ばれた者」です。誰のことを指すのでしょうか?イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者、キリスト信仰者を指します。どうしてキリスト信仰者が神に選ばれた者になるのかというと、まず信仰者になる者は、自分は造られた存在だとわかり、造られた以上は、造り主を持つ存在だとわかる。つまり、自分は化学物質の結合や反応の連鎖から偶然に発生して出来た化学的合成物ではなく、明確な意思と考えを持った創造主がいて自分を造ったということがわかる。ところが、造られた自分と造った方との関係があるべき状態ではなかったこともわかる。最初の人間が創造主に対して不従順と罪に陥って以来、人間は死ぬ存在となり、神聖な神から遠ざかった存在になってしまった。この世の人生の歩みで創造主との関係は断ち切れたままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻ることもない。ところが、創造主である神は人間のためにこの事態を打開しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送られ、人間の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて十字架の上で死なせ、このひとり子の犠牲の死に免じて人間を赦すことにした。さらに、イエス様を死から復活させることで人間に永遠の命、復活の命への扉を開かれた。このあと人間がすることと言えば、これらのことが全て自分のために起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えて下さった救いを受け取ることが出来る。こうして人間は、神との関係が回復した者としてこの世の人生を歩む者となり、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと良い導きを得ることができるようになり、万が一この世から死んだ後も、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このように、イエス様を唯一の救い主と信じることで神の完成された救いを受け取った者、同時に自分の造り主のもとに永遠に戻れる道を歩むようになった者、これが、「選ばれた者」なのであります。

イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を「選ばれた者」と言うと、この信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか、という疑問が起きます。今の時点で、信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と呼ぶのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくても、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、その時、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかった」ということになるからです。このように、私たち人間の目からでは全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で、「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできないのです。大切なことは、事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているのですから、それを受け取る人が一人でも増えるように働くということです。

ところで、このイエス様を救い主と信じる信仰に生きる「選ばれた人」がまさにそうである所以が、本日の福音書の箇所で述べられています。それは、「昼も夜も叫ぶがごとく神に祈る」ということであります。キリスト信仰者にとって、祈りを捧げたり、求めることを打ち明けたり、助けを叫び求める相手と言えば、それはイエス様をこの世に送られた神以外にはいない、イエス様を用いて救いを実現した神以外にはいないということです。もし、信仰に生きる人がそれをしなくなってしまったら、それは、その人が神以外に祈りを捧げたり助けを求めたりする相手を見つけたか、または神などに祈り求めなくても自分で全て解決できると言って自分を神と同一視するようになったかのいずれかです。その時は、「選ばれた人」はもはやそうではなくなります。そういうわけで、「選ばれた人」とか「選ばれなかった人」というのは、本当に現時点で言えることではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰を持って最後まで生き抜くか、あるいはどんなに遅くても死ぬ間際までに、イエス様を自分の唯一の救い主として受け入れられるか、それが「選ばれた人」の決め手になると言うことが出来ます。

3.

それでは、キリスト信仰者が厳しい現実に遭遇して気を落として祈ることを絶やしてしまう危険があると言う場合、どんな厳しい現実に遭遇するのかということをみてまいりましょう。

それはとりもなおさず、信仰者が苦難や困難に陥り、事態の打開や問題の解決を神に祈っても、なかなか改善がみられない、そういう祈りに望み通りの答えが与えられない時がそうでしょう。そんな時、いろいろな疑念が頭に浮かんできます。神はなぜこのような状態をほっておかれるのか。私の信仰に何か落ち度があって、それで罰として何もしてくれないのか。それとも、神は万能と言われるが、実はそうではなかったのか。こうした疑いを持てば、神をいたずらにおそれてしまうか、または神に見切りをつけてしまうかのいずれかで、どっちにしても神に背を向けて生きることになってしまいます。かつて、神に背を向けて生きていた私たちが神との結びつきの中で生きられるようにしようと、神はせっかくイエス様を送って救いを完成させて下さったのに、私たちの方で、試練にあったからと言って、いただいた神との結びつきを信じられなくなって、再び神に背を向けてしまうというのは情けないことです。ルターは、そういう時こそ、私たちは一層神にしがみつかなければならないと教えています。まさに、本日の福音書の箇所の未亡人のように、また昼も夜も叫ぶようにして祈る信仰者のように。そのような者に対して神は速やかに正義を実現される、そうイエス様は約束しているのです。

祈りを絶やさないという本日の課題を学ぶ上で、詩篇のはじめの部分はとても参考になります。そこでは、正義の問題が多くでてきます。ダビデが、敵対者に包囲され、窮地に陥る。敵対者は神を畏れない者たちなのに、全てがうまくいき繁栄している。しかし、神を信じる自分の状態は悲惨そのものである。これほど正義からかけ離れた状況はない。しかし、神は「正しい裁判者」(שופט צדיק、7篇12節、9篇5節)なので、必ずこの状況を逆転させて、正義が実現するようにして下さる、そういう確信がずっと貫かれています。(本日の福音書の箇所に登場する「不正な/神の御心に従わない裁判官」(ο κριτης της αδικιας)ですが、「正しい裁判者」(שופט צדיק)である神と対比されたものであることは明らかです。)

今の私たちの問題にとって一番参考になるのは、詩篇の10篇、13篇、22篇と思われます。この三つは、詩の流れが共通していて、初めは、正義が実現されない状況について、「神よ、なぜ傍観しているのですか」という苛立ちさえ感じられる嘆きが述べられます(10篇1-11節、13篇2-3節、22篇2-3節)。その後で、「神よ、どうか事態を打開して下さい」と、おそらくこれまでにも何度もしてきたであろう嘆願に戻ります(10篇12-15節、13篇4-5節、22篇20-22節)。そして最後は、「神こそが事態を打開し、正義を実現される方である」という確たる信頼が告白されます(10篇16-18節、13篇6節、22篇25-27節)。私たちも、祈りがなかなか答えられない状況にいる時は、このように苛立ちさえ含まれるような素直な嘆きの祈りがあってもよいのです。ただし、そこからどう嘆願に戻り、さらに信頼の告白に導いていけるか、そこが大きな課題になると思います。

そこで、三週間前のルカ17章の「ラザロと金持ち」のたとえについて説教をした時に教えたことを思い出してみましょう。もし正義の実現が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならない。それでもし解決に至れば神に感謝だが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さる。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握している。そして、神の意思に忠実であろうとしたために失ってしまったものについては、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さる。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、またどんなに目標達成に遠くても、無意味だったというものは何ひとつない。

神は全てのことを一部始終細部にわたるまで正確に記録しています。だから、事の当事者であるキリスト信仰者は、神から絶えず目を注がれているのであります。問題が起きて、最初の祈りがなされた瞬間からそうなのであります。私たちの知りえない理由から、ある場合には早く解決を与えられる場合があるかと思えば、他方では、時間がかかる場合がある。場合によっては来世に持ち越されることもある。しかし、いずれにしても、最初の祈りがなされた瞬間に問題の解決は神の保証付きとなったのであります。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、いつ目に見える形で解決が与えられるのかは神がよいように決めて下さると信頼して、私たちとしては、問題がこれだけ神の関心事になっているのだということを忘れないようにしましょう。だから、気落ちする必要はありません。私たちに背を向けない神に背を向けないためにも、祈りを絶やさないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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