5月10日(日)復活節第4主日 聖句と教え「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章1~14

 

2020年5月10日 復活後第四主日「聖句と教え」

使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節

説教題 「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べた言葉です。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど無数の奇跡の業を行って、誰が見ても天地創造の神が彼と共にいることがわかりました。また、創造主の神の意思について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者層やエリートたちの反感を買っているのに、彼がいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは現代を生きる私たちにも大事なものです。以下にそれについてみていきましょう。

2.

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して復活の体を持つイエス様がいるのに相応しい場所、すなわち天のみ神のもとに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。それは、聖書の観点では今のこの世が終わって新たに創造される天と地のもとで新しい世が始まる時のことです。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。

これら全てのことの初めにイエス様の死からの復活があるのですが、復活があるということはイエス様が死んだということが前提にあります。これらの出来事が一体何なのかは、神のひとり子であるイエス様がどうして死ななければならなかったのかがわかるとわかります。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死なれたことで人間と神の間を引き裂こうとする力が消えました。人間と神の間を引き裂くものを「罪」と言います。その罪の力が十字架の出来事で消えたのです。どうしてかと言うと、罪のために本当だったら人間が神から受ける神罰を彼が代わりに引き受けて下さったのです。それで今度は人間の方が、イエス様は本当に身代わりになって死なれたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す」と言って、その人の罪を赦します。そのようにして創世記の堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復します。もちろん人間はキリスト信仰者になっても、まだ肉をまとって生き続けますから、罪は内に残っています。力を失ったくせに隙を狙っては弱いところを突いてきます。そのような時、キリスト信仰者は次のように自分に言い聞かせます。今の自分は神のひとり子の犠牲の上に成り立っている、神はひとり子を犠牲に供するくらいにこの自分を大事なものと見て下さった、だからそれに相応しい生き方をしよう、神の犠牲を汚すようなことはしないのだ、と。そのように神に立ち返る人に対して神はイエス様の犠牲に免じて罪の赦しをお恵みのようにいつも与えて下さいます。その人は神との結びつきを持てて生きていけるのです。

十字架の出来事に加えて、神はイエス様を死から復活させられました。これによって、死を超える永遠の命に至る道が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて日々罪の赦しの恵みの中に留まる者は復活の日の永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られて進んでいきます。この恵みに留まる限り、罪も死も悪魔もその人を邪魔することはできません。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪と死の支配から解放して下さり、永遠の命に至る道に置いて歩ませて下さる父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

イエス様はまた戻って来ると言われた後で、「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだと言われます(4節)。それに対してトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわかりません。もっともなことです。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神がおられるところ、すなわち天と地と人間を造られ人間一人一人に命と人生を与えられた創造主の神がおられるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the lifeder Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中の一つということでなくなり、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道になります。

こういうことを言うと、宗教の業界では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。ところで最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。天国でも極楽浄土でもなんでもいいが、この世から死んだあと何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に神のひとり子の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと考えます。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。諸宗教が目指す至福は果たしてみんな同じものでしょうか?キリスト教の至福について今回は立ち入りませんが、次の4点は覚えておくべきでしょう。第一に、今の世が終わって新しい世が来るという終末論があること、第二に、「復活の体」という新しい世に対応する有り様があること、第三に、最後の審判というのがあり、この世での正義の問題にしっかり目が向けられていること、第四は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きると、この世の段階で至福との繋がりが出来ているということ、以上です。

イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは次のような意味です。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪である。罪は人間が神の意思に反するように持っていこうとする。そこで神はひとり子の犠牲によってその力を無にした。こうした人間の罪ある状態と神の人間に対する愛と憐み、この二つが否定できない真理になっています。この神の憐れみと愛を実行に移したイエス様は真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に始まる次の世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さいます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。十字架と復活の出来事の後、弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であったとわかります。さらに、イエス様は父の人間に対する愛と憐みを実行に移すために自分を犠牲にするのを厭わなかったこともわかりました。それくらい御子は父に従順だった、彼が教え行ったことは全て父が教え行ったことであった、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではなかったのだ、ということもわかったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげる可能性を開いた。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにした。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。この弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働かれ、人間が罪に囚われた状態にあることと、そこから解放する神の愛と憐れみについて人々が気づけるように導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、その働きに支えられて弟子たちが伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまうとわかります。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために「始まりますように」という願い祈りも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげようと約束された以上は、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

4.

以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるのでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信があります。それに加えて、自分がこの道を歩めるために、また他の人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束された、これもキリスト信仰者にとって励ましと慰めになります。心を騒がせる必要はなくなります。

先ほど申しましたように、ヨハネ14章7~11節では父と御子が一緒の存在であることが強調されていました。宗教改革のルターは、そのことがわかると私たちの心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるということを教えています。次のような教えです。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、御自身の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた務めを果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、務めを果たした御子を経由してその務めを与えた父へと高められる。こうして君の心は父なるみ神への信頼で溢れ、神が本当に君の愛すべき父になる。

父なるみ神をこのように知ることができたら、君は全てのことは神の御心のままに起こってよいと、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は神の住む場所になって全てのことを静かに受け入れられる、へりくだった心に変わる。まさに、主イエスが自分を愛する者のところに父と一緒に行き、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は神の栄光、力そして知恵を知りうる域に達しなければならない。そこに達した時、我々は神が我々に関する全てのことを決定するのを受け入れられるようになるし、また、全てのことは神の業であるということもわかる。そうなれば、我々はもう何も恐れるものはなくなる。寒さ、空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものを恐れなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄の力の総和よりも勝っているとわかっているからである。このようにして我々の内に、この世の全てのことに立ち向かう勇気が育っていく。我々には神がついておられるので、その栄光と力と知恵に与ることが出来る。それなので、あとは何をも恐れずに自分たちに課せられた務めをしっかり果たしていくだけなのである。

以上がルターの教えでした。キリスト信仰者にはそれぞれ神から与えられた務めがあります。仕事がある人はそれが務めであり、ない人はそれを探し求めることが務めであり、家族や他に世話をしたり助けたりする人があれば、世話をしたり助けるのが務めであり、病気の人は健康になることが務めです。人によっては複数の務めを同時に担う人もいます。いずれにしても務めは置かれた立場や状況や時によって変わります。しかし、違いや変化はあっても務めの果たし方にはいつも共通点があります。それは、神の意思に従って正しく果たすということです。「神の意思に従って正しく」務めを果たすというのは、大きく言えば、神を全身全霊で愛しながら果たし、隣人を自分を愛するが如く愛しながら果たすということです。細かいことは十戒を見るとわかります。務めを果たす時は、例えば人を傷つけたりしないで果たす、嘘をついたり偽証したり改ざんしたりしないで果たす、不倫などしないで果たすということです。キリスト信仰でこういう神の意思に従うということにこだわるのは、神がこわいからそうするのではありません。そうではなくて、神が大きな代償を払ってまでこの自分を大事に受け入れて下さったので、そうするのが当然というにすぎないのです。

神よ、我を統べたまえ。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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