説教「聖霊は試練を希望に転化する」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書4章5-42節、ローマ5章1-11節

主日礼拝説教 2020年3月15日 四旬節第三主日

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「生きた水」と「別の者の労苦」は何をたとえて言っているのか?

本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られた話の一つではないかと思います。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の内で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の内に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪う、美しい描写ではないかと思います。

本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、その労苦を分かち合うなどと言います。もし、このたとえを家ではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦というものにたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょう?美しい描写にうっとりして、それではそれは何を指していますか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいことです。たとえにはそういうことがよくあります。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すかみてみましょう。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。

2.父とみ子の労苦を受け取る者は実を豊かに実らせる麦のようである

まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。そこの住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して、交流を避けていたのです。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。

イエス様一行は、サマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みに井戸までやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど忘れてしまいました。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が理解していた意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉はいろんな意味が込められていたからです。その辺の事情は本説教では深入りしません。(ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは注目に値します。)

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注意します。そこのところのイエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

実は、イエス様が目を上げて見よと言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。そこで井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということです。これは、将来起こるべきことを先取りしているのです。何かと言うと、使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出るということです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記載された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。

イエス様は、自分にとって食べ物とは神の意思を行い、神の御業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子である自分が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらに死から復活させられることで死も死をもたらす罪も滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことを指しています。自分にとってその使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように大事なことだと言うのです。

それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっています。これは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いを成し遂げたことを指しています。父とみ子の労苦です。それについて弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを迫害にも屈せず命がけで証言し、記録に残し伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。

3.聖霊を注がれた者は内に泉が湧き出でて水は永遠の命を目指して流れゆく

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ここで、ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時、たいてい特別な意味が込められていることに注意します。それは、「生きる」とか「命」は今の世にあるものだけでなく、今の次に来る世の「生きる」や「命」もあって、今のものが次に来るものに繋がっているという「命」であり「生きる」です。それで、「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えた次の世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」ということになります。

この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池になったりしますが、それは泉とは言えません。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。何か命の理念を感じさせます。でも、これは具体的にはどういうことでしょうか? イエス様の与える水が飲んだ人の内にこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

この問いの答えのカギがヨハネ7章37~39節にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。

ここで言われている”霊”とは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることを示されました。それが神の栄光を受けるということです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられるという出来事があり、それ続いて聖霊がこの世に降るという聖霊降臨の出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。サマリアの女性に言ったことと同じことを言っています。イエス様が与える水とは、十字架と復活の出来事の後この世に下って来る聖霊を意味するのです。

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が沸き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうことが起こります。心の奥底まで、神の意思に完全に沿えることが出来ない自分に気づかされます。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんか捨てて生きることだなどと言ってしまったら、神のひとり子の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

ここで大事なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりした瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けることです。まさにここで、洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来ます。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところに向けさせてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。そのことをお前は信じてわが子イエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうとします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持つことができ、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得られてこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、復活の日に永遠に神のもとに戻ることができるのです。

4.聖霊は試練を希望に転化する

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神との間に一種の戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立つことができるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。神との平和な関係をお恵みとして頂いていれば、私たちに降りかかる試練さえも誇りに思うことができるとさえ言います(3節)。どうしてそんなことが言えるのかというと、神との平和な関係に一度入った以上は、試練は忍耐をもたらすことになり、忍耐は動揺しない自分をもたらすことになり、動揺しないことは希望をもたらすことになるからだ、と言います(3~4節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化されてしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊が私たちの心に神の愛を注いでくれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛はかわらずしっかりあると示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は同じように神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるということをもっと自覚しましょう。人によっては、強められる希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、などと言う人がいるかもしれません。しかし、希望がこの世に関するものだけだなんて、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望を持てて、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

試練よ、来るなら来てみろ、

私は、主イエスを救い主と信じる信仰により、神から義なる者とされて神との間に平和を得ている。

だから、お前が来ても、復活の希望を強めることにしかならないのだ。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


後注1Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ52節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5111節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。

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