説教「アダムのせいで人間が失ったものをイエス様が命を賭して取り戻したのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイにようる福音書4章1-11節

 

主日礼拝説教 2020年3月1日 四旬節第一主日、マタイ4章1-11節、創世記2章15-17節、3章1-7節、ローマ5章12-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ユダヤの荒野で人類は非常事態の瀬戸際にあった

歴史上、人類が危機の状況に陥った時はいつだったかと聞かれたら、世界規模の戦争や疫病などが思い浮かぶと思います。今次の新型コロナウイルスも各国への感染拡大を見ると、それが世界経済に及ぼす影響などもあわせ考えると、世界全体に関わる危機だと感じさせます。

しかしながら、全ての人類が地球上の隅々まで本当に非常事態の瀬戸際に立たされたことがあったということが聖書からわかります。それはいつのことか?正確に年月日を特定するのは難しいですが、それでも西暦20年代の後半、出来事の場所は今のイスラエルの地のエルサレムの町からそう遠くない、ヨルダン川から死海にかけての荒野でした。それは、ローマ帝国の皇帝がティベリウスだった時代で、帝国から派遣された総督ピラトがユダヤ地域を統治していた頃でした。そこで何が起きたかと言うと、本日の福音書の個所にある、イエス様がユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けたということです。それがどうして地球上の人類全てに関わる非常事態だったのか?それについて見ていきましょう。

マタイ福音書の記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態にいた後で悪魔から三つの誘惑を受けます。最初の二つは、「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、このエルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

イエス様は神のひとり子だから本当に空腹や恐怖を感じるのか?そう思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間の心と体を持っています。だから、人間と同じ空腹や恐怖も感じることができたのです。

それで感じてしまった空腹や恐怖から逃れるために、すぐに神の子の力を発揮して石をパンに変えたり天使に来てもらったりすることは出来たはずです。しかし、もしそうしていれば、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまいます。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになろうとも。

三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、もし俺にひれ伏したら、これらを全部お前にやろうというものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことが、先の二つに増して、人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。まさにその時、神から聖霊を受けて、これは神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10~11節)。それで、もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。

人類は実に際どいところにいました。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。この世についてみると、現実には悪魔に振り回されることが一杯あるけれども、それでも悪魔の上に立つ方がちゃんとついていて下さっているのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。

2.アダムのせいで人間は大切なものを失った

さて、イエス様が誘惑を撃退したおかげで、神は全ての上に立つ地位を保つことができました。本当に良かったです。しかし、これでめでたし、めでたしで終わったわけではありません。神は自分の地位が安泰だったからそれで満足して終わりにはしませんでした。実はここからが始まりなのです。何が始まるのか?神が悪魔の上に立つ方である以上は、神が造られたこの世も悪魔の上に立つはずなのに、現実はこの世は悪魔に振り回されている。しかし、もしこの世が神に結びついていれば悪魔の上に立てるのだ。私たち人間も悪魔の上に立てるようにと神は動きだしたのです。どのように動き出したのでしょうか?

それがわかるために、まず、この世はどのようにして悪魔に振り回されるようになってしまったのか?それについてみてみます。本日の使徒書の日課ローマ5章でそのことについて端的に言われています。神に造られた最初の人間を通してこの世に罪が入り込み、罪を通してこの世に死も入り込んだと言うのです。罪と死が一体となって最初の人間を通してこの世に入り込んで、それが全ての人間に及ぶようになってしまったのです。どうしてそんなことが起こったのか?そのことが、本日の旧約の日課、創世記3章によく記されています。

神に造られた最初の人間は、エデンの園で耕してそれをよく守るためにそこに配置されました。そこで取れる実はどれも食べて良いが、ただ善と悪がわかるようになる木というのがあって、その実は食べてはいけない、それを食べたら死ぬことになると神は言いました。しかし、アダムとエヴァはその実を食べてしまったので、人間は最初の人間から死ぬ存在になってしまいました。こういう話を読むと大抵の人は、「神の言うことに背くとろくなことが起きない

という教訓を教える寓話と思うでしょう。ところが、これは教訓話などという代物なんかではなく、文字通り人間存在についての真理を表しているのです。どういうことか見ていきましょう。

ヘビがエヴァをそそのかしました。ヘビは悪魔で、エデンの園ではヘビの形で登場します。それが悪魔であったことは黙示録ではっきり言われます(12章9節、20章2節)。ヘビは人間にその実を食べさせようと目論見ます。なぜかと言うと、人間を神から切り離された状態にすることが悪魔が目指すところだからです。ヘビの話の持って行き方はとても巧妙です。もし「食べなよ、その実を」なんて直接に言ったら、「いいえ、食べません」と言われてしまうのがオチです。話はそこで終わったでしょう。ところが、ヘビは話が続くようにして、その流れの中で主導権を握ることを目指しました。それで、まず「本当に神は、全部の木から採って食べてはいけないと言ったのかい?」などと聞いたのです。いけないのは全部の木ではないと知っていてわざとそう聞いたのです。そう聞かれたら誰だって「いいえ、全部の木じゃないんです」と答えるのが人情です。案の定エヴァはそう答えて、全部じゃなかったらどれがいけないのかを教えます。園の真ん中にある木がダメと言って、その理由も教えます。食べたら死んでしまうから。ヘビは「しめた」と思ったでしょう。「死にはしないよ」。ヘブライ語で「死ぬ」という動詞が2回異なる形で使われ強調感があります(後注)。「死んでしまうだって?そんなことないって!」という感じでしょうか。

次に「なぜなら」と理由を意味する接続詞(כי)が来ます。そこでヘビは死なない理由をどう説明しているでしょうか?「神は知っているんだ、それを食べたら君たちの目が開かれて、神のようになって善と悪がわかる者になるってことを」。つまり、神は自分と対等な者が現れたら嫌だ、それで食べてはいけない、食べたら死んでしまうなどと脅したのだ。要するに、神は自分が人間に対して優越的な立場を持ち続けられるようにウソをついた、というのです。

ここで「食べたら目が開かれる」というのは、アダムとエヴァは禁断の実を食べる前は盲目だったのかと思われるかもしれません。特に、食べた後で二人は自分たちが全裸であることを見たとあるので、盲目だったと思われるかもしれません。実はそうではなく、異なる目があるのです。ヘビがエヴァに食べても死なない根拠を言った時、エヴァは問題の木を見ているのです。それが食べるのに良い木であることを見、目を眩ませるような魅惑的な木であることも見、さらに、お前を賢いものにしてあげるよと訴えかけているように見える木であることも見ているのです。つまり、エヴァは見えているのです。

それでは、食べた後で「目が開かれる」とあえて言うのはどういうことか?それは、この世の見え方が変わるということです。どういう風に変わるのか?それは、善と悪がわかるようにこの世が見えるのです。それじゃ、食べる前は善と悪はわからなかったのか?善と悪がわかるというのは神と同じになることだとヘビが言いました。それは真理です。神は善と悪がわかり、悪を憎みそれを裁いて焼き尽くそうとします。しかし、人間の場合は善と悪がわかっても、神のように悪を裁いて焼き尽くす立場にはなり得ません。なぜなら、人間は神に造られた被造物で神は造り主の創造主なので、どうあがいても神と同じ立場にはなれないのです。人間が善と悪がわかるようになるというのは、善もわかるが悪もわかるようになって、それをやってしまうようになるということです。それで、神から裁きを受けて焼き尽くされるようになるのです。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。アダムとエヴァはそこを見間違えました。「神のようになれて、善と悪が分かる者になれる」と言われて、本当に神のようになれると思ってしまったのです。しかし、自分たちが被造物であることを忘れてしまって悲劇が起こってしまったのです。

このように善と悪がわかるようになるというのは、一方では悪を裁く地位にあること、他方では悪を行って裁かれる地位に置かれてしまうことを意味したのです。この違いが生じるのは、一方が造り主で、他方が造られた者だったからです。それなのに、「神のようになれる」と言われて、自分が被造物であることを忘れられるようなことを言われて、違いの問題に気づかないまま食べてしまったのです。そして、その結果は起きるべくして起きてしまいました。人間は善だけでなく悪もわかり行えるようになって、神の裁きを受けて焼き尽くされる存在となりました。

そうすると、問題の実を食べる前は善と悪がわからなかったから、善もしなかったのかというとそうではありません。神聖な神のもとにいられたのだから、悪はなかったのでしょう。それが悪も持てるようになって、それまで善一色だったのが相対化されてしまったのです。実を食べた後で目が見えるようになったということも、かつて善一色の時に持っていた見方を失って、悪も入り込んで善が相対化されたようになって世の中が見えるようになったということです。ちょうど今私たちが見ているようにです。食べる前の時に世の中がどう見えたかは推し量りようもありません。

これらが、この堕罪の出来事が単なる寓話ではなく人間存在についての真理を表しているということです。それでも何か教訓をくみ取ろうとするのであれば、それは「神の言うことに背くとロクなことはない」ではなく、「人間が神と同じようになろうとするとロクなことはない」ということになるでしょう。人間は神へと進化するホモ・デウスなんか目指さず、神に造られた者と素直に認めて造り主の前にヘリ下っているのが間違いがないのです。

このようにして最初の人間はヘビにまんまと騙されて食べてはいけない実を食べてしまいました。その結果、善と悪はわかるようにはなっても、神がわかるのとは全く違う結果をもたらしてしまいました。神のようになれると言われてやったことが、皮肉なことに神から切り離される結果になってしまいました。人間は神から裁きを受ける存在、死ぬ存在になってしまい、神聖な神のもとにいることが出来なくなってしまいました。神と人間の間の結びつきは失われ、その間に深い断絶が生じました。そのことをパウロはローマ5章で、一人の人間アダムを通して罪がこの世に入り込み、罪を通して死がこの世に入り込んだと言うのです。罪とは何か犯罪を言うのではなく、それも含みますが、もっと広く、人間が神の意思に反しようとすること、外面的な行為だけでなく内面的な心の動きも全て含みます。そして、全ての人間が死んできたことから明らかなように、全ての人間は罪を持ってしまっているのです。

3.イエス様が命を賭して取り戻してくれたもの

しかし、これで全てが終わったわけではありませんでした。パウロはローマ5章で、最初の人間アダムの大失態がその後の全ての人間の運命を決してしまったと述べていますが、その後で今度はその運命を逆転する方が来られたと言います。アダムの神に対する背きが全ての人を死する存在にしてしまった。アダムの背きを全ての人が受け継いでしまった。それを、イエス・キリストという神からの贈り物が全ての人の背きを無罪にして死を超える永遠の命を受け継げるようにして下さった。アダムの失態を何百倍にも逆転させるようなことを神はして下さった。そのようにして神は人間に対する愛と憐れみと恵みを示された。そういうことをパウロは言います。

具体的にはどういうことかと言うと、神はひとり子のイエス様をこの世に贈られて、そのイエス様に人間の罪を全部背負わせて、ゴルゴタの十字架の上にまで運ばせました。そこで人間に代わって神罰を受けさせて死なせました。神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。それで、人間はこのことが自分のためになされたとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼がした罪の償いが自分にとっての償いになり、それで神から罪を赦された者として見られるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきが回復します。アダムの失態で人間が失ったものを、イエス様の犠牲の業で人間は取り戻してもらったのです。

さらには、一度死なれたイエス様が神の力で復活させられて、復活の体と永遠の命を持つ方として立ち現れました。ここに死を超えた命があることがはっきり示されました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、神から罪を赦されて神との結びつきを持ってこの世を生き始めます。そして、その生きる道には方向性が与えられています。復活の体と永遠の命が待つ神の国です。信仰者は、その道に置かれて歩み出すのです。

イエス様が悪魔の誘惑を撃退した時、神は悪魔の上に立つ方であることが保たれました。神に造られたこの世はどうかと言えば、現実は悪魔に振り回されているが、悪魔の上に立つ神に結びついていれば悪魔の上に立てることが明らかになりました。あとは、神との結びつきを失っている人間がそれを取り戻すようにするだけです。そのためにイエス様がこの世に贈られ、十字架にかけられ死から復活させられたのでした。四旬節第一主日の今日、私たちはイエス様の十字架と復活の業それに荒野での勝利どれもが本当に私たちのためになされたことを覚え神に感謝しましょう。

4.聖書の御言葉は悪魔の誘惑を撃退する武器

終わりに、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したか見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させたのです。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記8章3節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇91篇11ー12節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を撃退します。それは、こういう箇所でした。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。

実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記の6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるのです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを最上の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。

三つ目の誘惑は「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」でした。これに対してイエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。

このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。これらのことは私たちにも当てはまります。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!

と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤った道に導こうとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の荒野での試練からわかるように、それは、御言葉を文脈から切り離して使ってもっともらしく聞こえるようにするという手口です。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。それと、毎週礼拝で御言葉の解き明かしに耳を傾けることも大事であることは言うまでもありません。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればもう怖いものなしです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注 ヘブライ語分かる人にです)infinite absoluteの מות とfiniteの תמתוןです。

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