説教「預言する女たち」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章46ー55節、サムエル上2章1-10節

主日礼拝説教 2019年12月22日待降節第4主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに福音

  本日の旧約の日課と福音書の日課は、二人の女性が神を賛美する祈りをしているところです。旧約のサムエル記上の女性はハンナ。彼女が賛美の祈りをしたのは紀元前1,000年代、今から3,000年以上も前のことです。新約の女性はマリア。彼女がこの賛美の祈りをしたのは今から2,000年前のことです。二人とも子供の誕生に関係して神を賛美しています。

ハンナが産んだのはサムエルです。後にユダヤ民族の指導者になりますが、「士師」という地位の指導者です。「士師」とは何かと言うと、ユダヤ民族がモーセやヨシュアに率いられてエジプトから民族大移動を果たしてカナンの地に定住を始めた頃でした。その時、宗教面と政治面の両方の指導者を兼ねる指導者が現れました。それが「士師」です。旧約聖書には創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる書物があって、それに続いて「ヨシュア記」が来ます。モーセ五書の二番目の「出エジプト記」から「ヨシュア記」までがエジプトからカナンの地への民族大移動の記録です。その次に「士師記」が来ます。その後の短い「ルツ記」を挟んで「サムエル記」へと続きます。サムエルの時代にユダヤ民族は王制に移行します。そういうわけで、士師というのは、ユダヤ民族がカナンに到着してから王制に移行するまでの間の期間、宗教と政治の両面での指導者でした。

ところが、ユダヤ人たちは周りの民族のような王制を求め、サムエルもこれを受け入れます。サムエルは、神の指示に従ってサウルに王の印として頭に油をかけることをします。これでサウルは民族の王に就任しました。こうして宗教面の指導者と政治面の指導者が分かれることとなりました。ところで、ヘブライ語で「油を注がれた者」のことをマーシーァハמשיחと言いますが、これは日本語で言うメシアです。本日の日課のハンナの祈りの最後に「油注がれた者」が出てきますが、これはそのマーシーァハ/メシアです。「メシア」は新約聖書では「救世主」の意味を持ちますが、旧約聖書では、もともとはユダヤ民族の王の位につく人を指しました。サムエルはサウルの在任中の時に、神からの指示に基づきダビデに油を注ぎました。このため、サウルは王としての正統性を失いました。どうしてそんなことになったかと言うと、サウルが神の意思に沿わないことをするようになったからです。このように、王と言えども、全知全能の神の意思に従わなければならず、それから外れれば、もう王として認められなくなるということです。サムエルは神の代理人の機能を果たしたと言えます。

次にマリアを見てみましょう。マリアは誰を産んだか?これはもう、言うまでもなくイエス様です。イエス様は「メシア」と呼ばれますが、これはユダヤ民族の王という意味ではなく、人類全体の「救世主」の意味です。ただし、当時の人々は最初、イエス様が民族の王国を再興してくれる王様になると期待したので、その意味で彼のことをマーシーァハ/メシアと思っていました。他方で「メシア」という言葉には当時、民族自決を実現する王様という理解の他に、もっとこの世離れした理解の仕方も出てきていたのです。そして、そっちの理解が前面に現れて理解の仕方が逆転する事件が起きました。

何が起こったのでしょうか?まず、イエス様は支配者側にとって危険な分子として十字架刑に処せられてしまいました。人々は期待外れだったと失望しました。ところが、死んだはずのイエス様が天地創造の神の力で復活させられて、人々の前に現れたのです。体を持ってはいましたが、それは普通の肉体の体とは別のものでした。朽ちない復活の体でした。このようにしてイエス様は、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間に開かれて、私たちをその命に導いて下さる救世主ということが明らかになったのです。そうなると、彼が十字架で死ななければならなかったのも、人間が持ってしまっている罪を神に対して償う犠牲だったことがわかりました。このことが旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたからです。神はイエス様がそのまま死の陰府の世界に留まることをお認めにならず、復活させました。それは彼が愛するひとり子だったからです。

それならば、なぜ神は愛するひとり子をこの世に贈って十字架の死に引き渡さなければならなかったのか?それは、人間の罪を罪として断罪して罪が償われて赦された状況を作り出し、そこに人間を導き入れるためでした。そこに入れることで人間は罪と死の従属状態から脱せられるのです。そして人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け入れると、その状況に入れるのです。罪が罪として断罪されるためには神罰を100%受けて立つ者が必要でした。神の姿かたちでそれを受けても痛くもかゆくもなんともないので、100%受けたことになりません。人間の姿かたちを取ることが求めらたのです。人間の姿かたちは人間の母親から生まれてこないと持てません。マリアがその母親の役目を果たすべく選ばれました。そして、聖書に記されているように、マリアは神の霊、聖霊の力で妊娠しました。

以上、福音を宣べ伝えたので、説教はこれで終わりにしても良いのですが、ただ、本日の日課の個所の解き明かしはまだしていません。それで、まだ説教は続きます。

ハンナもマリアも、生まれてくる子供は、一方はメシア(王様)に正統性を与える立場になる者(サムエル)、他方はメシア(救世主)そのものになる者(イエス様)というようにメシアに関係しました。そうかと思うと、二人の境遇はとても異なっています。ハンナは不妊の女性でした。夫エルカナにはもう一人の妻ペニナがいて、ハンナは子供が得られないことでペニナから意地悪を受け続け、それがつらく、神に子供を嘆願します。神はハンナの祈りを聞き、それでサムエルを産むことになります。ここで一つ気になるのは、エルカナには妻が二人いたということです。ということは、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めているのかという疑問が当然起きます。このことは後で見ていきます。

マリアの方はと言えば、まだヨセフと婚約中の身なのに聖霊の力が働いて処女のまま妊娠しました。このように、二人の境遇は異っていますが、二人とも神の力が働いて、一方は不妊が治って子供を産み、もう一方は処女なのに妊娠して産むということが起こりました。神の力が働いた二人は神を賛美したわけです。彼女たちの賛美の祈りは、天地創造の神そしてイエス様の父である神がどんな方であるか、また人間に対して何を考え、何をされようとしているかを明らかにしています。まるで預言です。預言という言葉を聞くと、普通は未来の出来事を言い当てることを意味すると考えるでしょう。もちろん、それも含まれますが、聖書で言う「預言」はもっと意味が広く、神の考えや計画を預言者を通して人間に伝えることです。その意味でハンナとマリアの賛美の祈りは、神の考えや計画についても言っているので、預言と言ってもよいものです。

 

2.一夫一婦制が神の意思

 ハンナとマリアの賛美の祈りを見る前に、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めていたのかどうかについて見てみます。妻を複数持っていた例は、ヤコブがあります。アブラハムには側女がいました。ダビデとその子ソロモンも複数妻がいましたが、ソロモンに至っては複数なんて生易しいものではなく王妃が700人、側室が300人ですから、正気の沙汰ではありません。結論から言うと、創造主の神の意思は一夫一婦制です。それは、創世記の天地創造のところで最初の人間が神に造られた時、次のように言われていることによります。「こういうわけで、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。はっきり一夫一婦制の観点を打ち出しています。最初の人間アダムとエヴァも一夫一婦でした。申命記17章17節にも「王は大勢の妻をめとって、心を惑わしてはならない」と言われています。アダムとエヴァの後の子孫を創世記4章の系図に従ってたどっていくと、7代目のレメクが妻を二人持っていたことが記されています。でも、その後は特に複数妻のことは何も記されていません。どうやら、一夫多妻は例外的な出来事のようです。

それでも、聖書に載るというのは容認されているようにみえます。一夫多妻制は「姦淫するな」という十戒の第6の掟から見て問題ないのでしょうか?ダビデがウリアの妻を自分のものにしたという出来事がありました。これは神の意思に反することとして、預言者ナタンの口を通して神の罰を宣せられました。ダビデは既に複数の妻を持っていました。ナタンが非難したのは、他人の妻を計略を用いて自分のものにしたことでした。そうすると、十戒の第6の掟は他人の妻に手を出してはいけないということであって、他人の妻でなかったら妻を複数持ってもOKという考え方だったのかもしれません。しかしながら、神の基本的な立場は先ほども申しましたように一夫一婦制です。

ところで聖書は、複数の妻を持つことでどんな問題が起こるかも隠さずに伝えています。子供に恵まれなかったサラは、先に夫アブラハムに子供を産んだ側女のハガルに我慢できなくなって、これを追放し悲惨な目に遭わせます。ラケルは夫ヤコブの寵愛を得ていたにもかかわらず、子供に恵まれなかったためにもう一人の妻レアを妬みます。ダビデは前述したように、複数妻を持っていたにもかかわらず、それでも物足りないと言わんばかりに人妻に手を出してしまいました。ソロモンに至っては、大勢の正室と側室の中に異なる神を崇拝する者がいたため、聖書の神から離れていくようになりました。アダムから7代目のレマクもどんな人間かというと、損害を受けたら賠償は常識を超える大きさを要求するような神経の持ち主でした。そんな人間なら妻を複数持ちたいと思っても不思議ではないかもしれません。本日の日課の個所のハンナの夫エルカナも子だくさんの妻ペニナがいて、彼女はハンナをいじめ抜きます。ユダヤ教社会では子だくさんは神の祝福の現れと見なされたので、子供に恵まれないハンナにとってペニナのいじめは屈辱的なものだったでしょう。

ユダヤ教社会の一夫多妻は、紀元前6世紀の終わりに民族がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した頃には姿を消したと言われます。かつての王国はもう復興しなかったので、それでダビデやソロモンのような妻を何人も持てるような権力者が出なかったということでしょう。それから、バビロン捕囚の事件はユダヤ民族が神の意思に逆らうような生き方をしたことにそもそもの原因があるという考えが強まりました。それで、神の意思に忠実になろうとする姿勢が強まったと考えられます。イエス様も創世記の言葉をそのまま受け継いで次のように述べています。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体でる」(マルコ10章6~9節、マタイ19章1~4節)。

ここで、ひと言付け加えますと、聖書では神の民に属する者の不都合なことも結構書いてあります。妻を多く持った者にはよからぬことがあったということも包み隠さず述べています。ダビデのような神の目に留まった者についてもそうです。決して理想像だけで塗り固めることはありません。その意味で聖書はリアリスティックな書物と言えます。

 

3.ハンナの預言

  さて、ハンナの賛美の祈りから、神がどのような方で、私たちに何を計画しておられるのかを見てみましょう。

ハンナの祈りが神に聞き入れられて、待望の子供が生まれました。ところが、待望の子供だったのに、乳離れした段階でハンナは子供を祭司のエリに養子に出します。つまり、それだけ子供というのは神から授かったものなので親と言えども自分の所有物のようにしてはいけない、場合によっては与えて下さった方にお返ししなければならない、そういう考えが強く表れたケースと言えます。

3節から5節を見ると、神は高ぶるものを低くされ、低く抑えられている者を高く上げるという思想が現れています。イエス様の教えにもよく出てきます(マタイ23章12節、ルカ14章11節、18章14節)。

6節から8節を見ると、一見、神は低くされている者を高くされるという思想の続きかと思いきや、よく読んでみると、今の世が終わりを告げて新しい天と地に取って代わる日、復活の日、最後の審判のことを言っていることが見えてきます。「主は命を絶ち、また命を与え」というのは、ヘブライ語原文を少し詳しく訳すと「主は私たちを死のもとに連れて行くが、命に戻して下さる」です。そして「我々を陰府に下すが、また引き上げて下さる」。これはまさに死者の復活です。

7節と8節「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」は、これもヘブライ語原文を少し解説的に訳すと「主は取り上げられるが、豊かに富ませてくれる、高ぶった者をヘリ下させる」です。「弱い者を塵の芥の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる」というのも、弱い者と訳されるヘブライ語の単語דלは意味が広く、無力な者、取るに足らない者、虐げられた者、弾圧された者等も含みます。「塵の芥」と訳されている単語עפרも「滅びゆくものの領域、過ぎ去るものの領域」の意味を持つと辞書に出ています。それでここは、「虐げられた者をこの滅びる世から立ち上がらせて、貧しい者を灰溜めの中から引き上げて下さる。それは、我々が高貴な方々と共に暮らすようになるためである。神は受け継ぐものとして栄光の座を与えて下さる」。どうです、復活のことを言っているように聞こえてくるでしょう。無力な者、弾圧された者が奪われたり失ったものを補って余りあるくらいに報われるというのは、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が完全に実現する「神の国」も見えてきます。8節の終わりに、「大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた」とあります。これは、まさに主なる神はこのように天地を創造する力を持つ方である。そうであれば、最後の審判も完全な正義も実現できるということです。

ハンナの賛美をこのように終末論的に捉えることに難色を示す向きもあるかもしれません。ハンナがここで低くされた者が高くされると言っているのは、不妊で虐げられた自分が子供を授かって逆転勝利したことを示唆しているにすぎないと言われるかもしれません。でも、辞書に出ている意味の範囲内で可能な捉え方です。もちろん、ハンナが終末論を意識して語ったかどうかはわかりません。しかし、逆転勝利して神に賛美するハンナの口を通して、神は終末論的な逆転勝利を語らせたということが見えてくると思います。

10節は「主は地の果てまで裁きを及ぼし」と訳されていますが、ヘブライ語の言葉דיןは「正義をもたらす」の意味があります。それで、「地の果てまで正義を実現する」と訳せます。これまで見てきた終末論とかみ合います。ここで「王」と「油注がれた者」-メシア―が登場しますが、それは誰のことでしょうか?サムエルが油を注いで王として就任させたサウルとダビデのことでしょうか?今まで見てきたこと、預言が最後の審判、復活、正義が完全実現する「神の国」のことを言っていることを考えると、これはイエス様のことを言っているとみるべきでしょう。イエス様が登場するよりも1,000年前にハンナの口を通してイエス様のことがこのように預言されていたのです!

 

4.マリアの預言

 次にマリアの賛美の祈りを見てみましょう。マリアは、天使から聖霊の力でイエスという男の子を産むことになると告げられていました。疑うマリアに対して天使は、年老いて不妊状態だった親類のエリザベトが神の力で妊娠した、神には不可能なことはない、と述べていました。マリアは、エリザベトに会いに出かけました。マリアの訪問を受けたエリザベトは、マリアが挨拶した時にお腹の赤ちゃんが反応したことに驚きます。マリアは、エリザベトの妊娠を見て、天使の言ったことは本当で、自分について言われたこともその通りになると確信しました。そして、この賛美の祈りをしたのです。

そこで、創造主の神がどんな方であるかが述べられます。48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さった」と言いますが、ここのギリシャ語の単語ταπεινωσιςの意味は社会的身分の高い低いというよりは、「ヘリ下り」とか「自分を高くしないこと、自分を低くすること」という特性ないし姿勢、態度のことです。「はしため」も「召し使い」のことですが、主人に仕える者です。ここは、「召し使いのように神の命じられること、言われることに聞き従ってお仕えする私は、自分を高くすることなど出来きない、ヘリ下った者です。あなたは、そのヘリ下った様に目を留めて下さった。」つまり、天地創造の神は、高ぶった人間には目を留めず、ヘリ下って自分を低くする者に目を留める方ということです。ハンナの賛美にも、またイエス様の教えにもあるように、真に神は、自分を高くする者を低くし、低くする者を高くする方なのです。52節で「身分の低い者を高く上げ」というのも同じです。ヘリ下った者、自分を低くする者を神は高く上げて下さる。

54節で「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」というのは、神が受け入れるのはユダヤ民族で他の民族は受け入れないような印象を受けてしまいます。もちろん、救い主がユダヤ民族の中に生まれてきたという意味で同民族が憐れみを受けたということはできます。しかし、その後何が起きたかというと、ユダヤ民族はイエス様を救い主と受け入れる人たちと拒否する人たちに分かれてしまいました。それでは、イスラエルは全体としては憐れみを受けられなかったのか、というと、そういうことではなかったのです。本日の使徒書のローマ2章でパウロが教えていることを思い出しましょう。割礼を受けて見かけ上のユダヤ人である者が本当のユダヤ人であるとは限らない。なぜなら、割礼を受けても律法の掟を守らなければ意味がない。逆に割礼を受けていなくても律法の掟を守ったら、そっちの方がユダヤ人である。その者は心に割礼が施されている者であり、そうなったのは洗礼を通して聖霊を与えられたからである。

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアからイエス様が生まれ、そのイエス様が十字架と復活の業をもって、人間が割礼を経ないでも神の子となれる道を開きました。マリアが新しいユダヤ人が誕生することを可能にしたのです。マリアの言う「僕イスラエル」とは新しいユダヤ人から成るものです。マリアは本当に預言しているのです!

イエス様が成し遂げた罪の償いを純白な衣のように纏うキリスト信仰者は、自分をその被せられた衣に合わせようと、それにそぐわない罪に対して敏感になり、神の御心に沿うように生きようと心がけます。敏感であるがゆえに、まだまだ自分には罪があることを気づかされます。しかし、十字架は打ち立てられたので、そこに罪の償いと赦しがあることは打ち消すことはできません。キリスト信仰者は、その打ち消すことのできないものを重石のようにして罪を押しつぶしていきます。

兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは律法の掟の文字を注視して神の御心に沿うように生きる者ではなく、ゴルゴタの十字架に目を向けることで神の御心に沿うように生きる者です。まさに、聖霊を受けて心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアが賛歌で言っている僕イスラエルの一員なのです!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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