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説教「神の宮として輝く」木村長政 名誉牧師 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教「神の宮として輝く」木村長政 名誉牧師

 

12回コリント信徒への手紙 31017節               20171112日(日)

 

今回のみ言葉で中心となる大切な言葉は最後にあります17節です。17節〔あなた方は神の神殿なのです〕と言うことです。9節でもパウロは強調しました。〔私たちは神のために力を合わせて働く者でありあなた方は神の畑、神の建物なのです。〕この最後のあなた方は神の建物なのです、と同じことを記しています。信仰者は教会を互いに建て合うほかありません。そして決して易しいことではありません。それでパウロは10節で言うのです。教会を建てる中心人物になっているところの自分について「神が賜った恵みによって熟練した建築師のように土台を据えた」と。この仕事は人間の知恵や努力だけではどうにもならない。神から賜った「恵み」によって、と言う事が大切であります。教会は人間のためにあるものですが、神の教会であります。それなら神の恵みを受けて神の力によらねば出来ないことであります。神の力により神の御心にかなうようにするわけであります。それは神の恵みによる他ないでありましょう。その上、パウロは「熟練した建築師として」と言っています。家を建てるのですから熟練した建築師が必要なことは言うまでもありません。まして、神の家を建てると言うことになると、よほどの熟練が必要であります。信仰の熟練であります。いろいろな困難にあうことは当然であります。その時に何よりも信仰的にどうしたら良いのか。それを知っているのは神の恵みによって熟練者になった人でなければならない。神のお気に入るように神のみ業に役立つようにするには熟練が必要でしょう。ところが、ここに注目すべきことが書いてあります。それはパウロが土台を据えた、と言っていることであります。そして「その土台の上に」他の人が「家を建てるのである」と言うのであります。つまりパウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、とい思っていたらしいのであります。つまり、パウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、と思っていたらしいのであります。土台は言うまでもなく建物では一番大事なものであるに違いありません。しかし、パウロが特にこのように土台にこだわるのは何か特別な意味があるにちがいありません。それで11節に書いています〔イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません。〕この土台以外には誰も土台を据えることはできない、その土台はイエス・キリストであると言っているのです。パウロが自分は神の恵みによる熟練を持っていた、と言っていますが、その熟練はまさにイエス・キリストを土台に据える、その熟練さであるということです。ここにこの建物の秘密があり力があるわけです。

 

それならば、キリストが土台であるというのはどういうことでしょうか。これは実際の建築の話ではありませんから、つまり例えて言っている訳です。土台というのも信仰上のことであります。教会がイエス・キリストに対する信仰の告白を持っているということです。イエス・キリストに対する信仰の告白というのはイエス・キリストと言い表す信仰告白といっても良いでしょう。イエスが神の子キリストである、と信仰をもって告白することは何でもないようでいて決してそうではないのであります。教会の信仰告白の歴史を見ますといつでも問題はあのナザレ人イエスを神のお遣わしになった救い主キリストと信じているかどうか、ということです。多くの人々が「イエス」という人物を偉い人だと考えたり或いは「たぐい稀な人間離れの人類の教師だ」と見る人々、学者など神を信じていない人でもそれくらいは考えているのであります。しかし、そのキリストによって救われるということになれば話は別であります。それは人間的に言えば大変難しいことであります。しかし、そう信じなければ救われたということにならないでありましょう。もし救われたというのでなければキリスト教はただの人生の教えと言うことになってしまう。その信仰が「土台」になっているというのはどういうことでしょう。土台ですからその上にあるものをすべて支える力を持っているものである、ということです。それならばイエス・キリストを土台に持つ教会はあらゆる事においてイエス・キリストを表すものでなければならない。それはイエス・キリストがその教会の支配者になるということであります。教会の中の一切のことを運営するのにイエス・キリストがご主人になっていてくださるようにするのであります。それはキリストを頭と仰ぐというようなことでなくて自分がキリストに救われたのだから何事もキリストのみ心のままにしようとということであります。次にパウロが12節以下で書いていることはどういうことでしょう。12

〔この土台の上に誰かが金、銀、宝石,木、草、わらで家を建てる場合各々の仕事は明るみに出されます。〕と書いてあります。するとパウロ自身は土台を据えるだけであったのでしょうか。「既に据えられている土台以外のものを据えることは誰でもできない」と言っているのですからパウロはこの土台を据えるだけで他の人はその土台の上に建てるだけである。ということになります何れにせよもう土台は据えられた。これからはその上に建てるだけである。それは多くの人に任せるほかはないと思ったのでしょう。人々はどのようにして教会を作るのでしょうか。ここに書いてあるようにある者は金を用い、ある者は銀を用い、他の人々はそれぞれ宝石や木や草や、わら等で建てるというのです。勿論これは実際の家の建て方のことではなくて各々がその信仰によって建てることを言ったのでしょう。信仰には強弱があります、また長い信仰生活の人も短い信仰生活の人もあったでしょう或いはお金持ちのように見えるが実際には草か、わらしか提供できなかったかもしれません。その反対に思いがけない人が思いも及ばないような献げ物をすることもありましょう。金を献げたか、銀を献げたか、草であったか判断することはできません。神がご覧になってどう判断されるか神のみがご存知であります。そして神がきびしくお裁きになることであります。

 

そのことを13節以下に詳しく記しています。〔各々の仕事は明るみに出されています。かの日に火と共にあらわれ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味するからであります。〕ある学者はここで火と言っているのは聖霊の判断のことであろうと言います。ここで言っていることが具体的に何を言うのか良く分かりません。ともかく神の御心にかなわない業は滅び去り御心にかなったものだけが残るというのでしょう。1617節ではいかにも突然のことのように「我々は救われる」と言って急に「あなた方は神の宮である」と言っています。信仰を持っている者は神のものとされるということです。「神のもの」というのは神に仕え神のお喜びになるようにすることであります。ここではそれが「神の宮になる」ということであるのです。神のものであるからには神に喜ばれるものということですから、それなら神が一番お喜びになることは何でしょうか。詩篇19編に次のようにあります。〔もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。〕神がおつくりになった天地は神の栄光をあらわしている。それなら神のものである私たちも何より神の栄光を表し神を讃えるものでなければなりません。それが神のものの特徴であるはずであります。神のものは神の宮と言っても

良いのであります。神の宮ではどこを眺めても神の栄光をあらわし御手の業を示しているはずでしょう。わたしたち信仰者はどんな仕事をしていてもその仕事と生活を通して神を崇めること、それを神はお望みになっているのであります。神の宮というのは言うまでもなく神殿ということです、神殿での仕事は決まっています。それは神に会うということです、私たちが神の宮であると言うのはいつでも神に会うことのできるような生活が与えられたということであります。信仰を持っている者は祈ることを知っています、いつどんな時でも祈ることが出来ますし神様にお目にかかることができる、これこそ大きな恵みであります。最大のことは礼拝が出来ることであります、神の神殿であるのですから神を拝むことができるということです。

 

しかし自分たちがはたして神の宮といえるのでしょうか、何の力もなく知恵もなく自分たちのどこにそのような資格があるのでしょうか、と惑ったりします。それでこう書いてあります。〔神の御霊が自分の内に宿っているのをしらないのか。〕〔知らないのか〕と言っているのですからそれはまるで私たちの弱い心を見通しているように思われます。あなた方は神の宮であることに気づいていないであろう。しかし神の御霊がすでにあなた方の内に宿っているではないか、というのです。神の御霊はキリストを信じてくださいました、救いも確信させてくださいました。こうして信仰のすべてが神の御霊によって与えられているのであります。こうして信仰生活をしていることが私たちが神の宮であることが示されている、ということになるのではないでしょうか。私たちはもっと自分が神の宮であることを意識して良いのであります。そして一層熱心に神を拝み神に仕えなけらばならないのではないでしょうか。          アーメン・ハレルヤ!

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
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    フィンランド語クラス
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    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ7章11~17),礼拝後交わり。
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