説教:木村長政 名誉牧師

 

9回コリント信徒への手紙Ⅰ 21016節                2017820日(日)

 

今日はコリント信徒への手紙Ⅰ 21016節です。実はこの10節の前に〔なぜならば〕という言葉があるのです。それで9節の終わり、ことを更に詳しく深めていくのに〔なぜならば〕と言っていくわけです。パウロは9節のところにイザヤの言葉を持ってきて揺るがない証明となっているのです。まだ誰も見たことも聞いたこともない、神の深いご配慮が私たちのために準備されていた。そのことを神が御霊によって知らせてくださったのです。神の御霊こそは全てのものを極め神の深みまでも訪ね知ることがおできであります。では、その神の深みというのは何でしょうか、それは神が人間を救ってくださるという恵みです。その深い恵みを御霊はあらわしてくださるのです、信じさせてくださるのであります。神の思いは神の御霊でなければ分からないのです。私たちが陥りやすいことですが自分の事はほんとうは誰にもわかってもらえないと思っています。心のそこにあるほんとうの自分の苦しみや悩みは人に話してもわかってはもらえるものではない。だから神様にもわかってはいただけないと思ってしまいます。11節の中ほどでパウロは書いています〔それと同じように神の思いも神の御霊以外のは知るものはない〕。人間は神のことを知りたくて長い歴史の中で努力してきました。しかしその結果分かったことは神のことは神の御霊のよるほかはないということです。

 

マタイ福音書1128節のところでイエス様は言われました。「子を知る者は父のほかになく、父を知る者は子と子が選んだ者の外誰も知りません」。簡単に言い換えますと、父なる神を知る者は御子なるイエス・キリストである。そして、その御子が救うために選んだ信者たちであります。御子である神が知っておられることを人に伝えるお方が聖霊である、と言ったら良いでしょう。パウロはとても重要なことであるので繰り返し語るのであります。「私たちが受けたのは、この世の霊ではない神からの霊である」。神のことは神の霊だけである。その神の霊を私たちは受けたのである。ということです。<何というすごいことでしょう>自分たちにはその霊をお与えくださった。だから自分たちは神を知ることができるようになったとうのであります。しかし、そのようにして与えられた神の霊によって神を知るとは書いてありません。「神を知るのは神の霊だけである。その霊によって神から賜った〔恵み〕を悟るためである」と書いてあるのです。12節を見ますと〔私たちは世の霊ではなく神からの霊を受けました。それで私たちは神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。〕とあります。神がどういう方であるか、ということは神が恵み深いということを知ることであります。

 

ガラテヤ書49節には「今では神を知っているのに否、むしろ神に知られているのに」とあります。神を知るというのは「神の知られている」ことを知ることなのです。神の恵みを知るということになります。人は神を知るのに自分の立場からしか知ろうとしません。だから知ることができないのです。神がどんなに自分を知っていてくださるか、ということに気がついた時はじめて神を知ることができるのです。神の恵みが分からなければ神を知ることは到底できないのです。神の御霊はその恵みを悟らせてくださるのです。では、その恵みは何でしょうか。このことがまた分かり難いのであります。なぜなら、ここでも私たちは自分の都合の良いようにしか神の恵みを考えようとはしないからです。自分の健康のこと、それから矢張りお金のこと、富というもの、幸せな生活、こうしたことしか神の恵みを思わないからであります。それなら神の恵みは何でしょう、パウロがこの手紙の2章の始めからそのことを力説しています、それは十字架の福音であります。神の恵みはあらゆる方向に与えられているのでしょう。それらの全ての恵みのもとになっているのが十字架の恵みであります。この十字架の恵みを信じることができれば全てのことが働いて益となるのです。それなら御霊の賜物はどのようにして伝えられるのでしょうか。

 

パウロは13節で次のように言います「そして、私たちがこれについて語るのも人の知識に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。つまり霊的なものによって霊的なものを説明するのです。」ここで言っている霊的なものが教える言葉というのはどういうものでしょうか。ある神学者はこう言います「それは空しい飾りではなく、むしろ調和と単純を現す、かたちによって規正された言葉である」分かりやすく言いますと、飾りたてないで調和の取れたものでしょう。信仰による謙遜と確信に満ちたものということでしょう。神のことは神の御霊によるしかありません。神の御霊によらなければ神のことはあらわせないのです。ところで、生まれながらの人は御霊を受けていないので神の御霊の賜物を与えられてもそれを受け入れようとしない。信仰の難しさはここに理由があるのではないでしょうか。信仰のことは、まず人間の方で全力を尽くしても神を知ることは難しい。どうして難しいかといいますと人間は神を求めているように見えて、実は神の御霊の賜物は受け入れようとしないものを持っているからであります、受け入れようとしない。というのです。神を知ることは難しい、その理由は神にあるのだと考える。神というものが余りにも高く尊くあるため人間には近づき難いのである、と思うでしょう。或いは神のことは余りに神秘的で謎めいている、理解できないからだと言うかもしれない。しかし事実はそうではなくて、たとえ神がご自分をあらわし、お示しになったとしても人間にはそれを受けつけようとしないものがある、というのです。それはどういうことでしょう。それには神の御霊の賜物とはどういうものか、ということを知らねばならないと思います。御霊の賜物というのは神から賜った「恵み」というものと同じものであります。それならば十字架の福音ということになります。

 

パウロが2章の前半で強く主張しましたように十字架は滅びる者には愚かなものである、と言われた。十字架の救いを与えられながら人はそれは愚かなものであると思い、それゆえに受け入れようとしないのであります。十字架がなぜ愚かに見えるのでしょうか、十字架はまず人間を誰にでも罪人であると言います、人間の誇りを傷つけます。親しい友達にも、家族にも、尊敬されている人、先生も先輩も偉いと威張っている市会議員も、国家議員も誰でも人間には罪がある、罪人である。こう真っ向から言われたら「なんで罪人などと言われなければならないの」とまず傷つきますね。十字架は「人間には自分を救う力などない。と言います、なお十字架は言うのであります。神の御霊に服従して謙遜な人間へと変えられない限り、その人はよろこんで神の福音を受け入れようとはしないのであります。人間は救われなければならないのです。しかしそれが分かってもなお自分の力で何とかなると思っているのであります。だから御霊によってはじめて示される十字架の救いは愚かしく見えるのであります。神の御示しを愚かと思うのであります。それから更に申しますと信仰に関すること、福音の救いという恵みというのか、御霊といういわば聖霊によって判断する世界ですから人間にそれを理解することができない。そこでどうしても御霊に導かれることなくしては「神の恵み」も賜物も全く空しくなってしまうのであります。こうして見ると神の霊に導かれた者だけが神についての全てのことを判断することができるということがわかります。しかも彼自身は誰からも判断され裁かれることもないのであります。なぜなら神の御霊の賜物によって生きる者を判断し,裁くことのできるお方は主イエス・キリストだけであるからです。神の御霊を受けた者はキリスト者だからであります。

 

こうして見るとパウロは2章の終わりに1314節を思い出さざるを得ない、それでイザヤ書4016節にしっかりと書くのであります。〔だれが主の思いを知り、主を教えるのか〕。神のことは神の御霊によらねば知ることができないとパウロは教えてきました。それならば主の心を知っている者は神の御霊を受けている者であるはずでありましょう。次に<だれが主なる神を教えることができるのでありましょうか>と言っています。ここを少し厳密に訳しますと「だれが主の心を知ったであろうか、だれが主に忠告することができるのか」ということになります。それは何を言おうとしているのでしょうか、それは私たち人間がいかに主なる神から遠くいるか、主なる神を知ることができない者であるか、ということでしょう。ましてや神に忠告しようなどと考える者はいないのであります。しかし私たちのなかに愚かにも神のなさることに注文をつけ身勝手な願いをして、まるで神に忠告しているようなことをするのであります。私たちは今やキリストの思いを持っているのであります。キリストの思いを持っていることは神の心を持っているのと同じであります。キリストと同じになった、ということではありません。ただキリストの御心を知る手がかりを持っているということであります。私たちはこの恵みを大切に持って生かして用いるようにしてもらいたいと思います。<人知では測り知ることのできない神の平安があなた方にありますように。 アーメン。>

 

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