説教:田中良浩 牧師

 

 3 8月13日(聖霊降臨後第10主日)       於 スオミ教会

聖書日課 イザヤ4468、ローマ82630、マタイ132435

説 教   「神のみ心は実現する」

  • 父なる神とみ子主イエス・キリストからの恵みと平安あれ!

 

序 私たちはこの時期、TVを通しても、新聞によっても、日本の歴史、つまり第二次世界大戦の出来事を顧みる。特に終わり間近に8月6日に広島そして9日には長崎にアメリカによって原爆が投下され、8月15日に無条件降伏という終戦記念日を迎えた。こうした歴史を考慮して日本福音ルーテル教会

は、8月の第一主日を「平和の主日」として守るように勧めている。

他方伝統的には、つまり通常の教会歴によれば、先週の福音書の日課は有名な「種を蒔く人」のたとえである。(そのために「平和の主日」を守り、その

教会暦に従うと、聖霊降臨後第9主日の聖書日課をスキップすることになる。)

 

マタイによる福音者の「種を蒔く人」のたとえ

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

耳のある者は聞きなさい。」

 

物語の内容は全く同じであるが、最後だけがそれぞれ異なっている。

マタイは100倍、60倍、30倍、マルコは正反対に30倍、60倍、100倍、

そしてルカはただ100倍とだけ記されている。

また共観福音書はすべて、「種を蒔く人のたとえ」の説明を記している。

それぞれ改めて読み比べて見ると良いと思う。

 

 ミレーの「種を蒔く人」の有名な絵が、甲府の山梨県立美術館ある。

もう一つの「種を蒔く人」の絵画ボストン美術館にある。

私たちはこの両方の絵を見る機会が与えられたことは、幸いであった。

御覧になった方も多いと思うがどのような印象をお持ちになったであろうか。

 

この種を蒔く人の絵は勿論、聖書の「種を蒔く人のたとえ」(マタイ1319、マルコ419、ルカ848)から取られていることは明らかである。

 

ここに有名は、エピソードがある。

ある日ミレーがパリを散歩をしていると、美術商の店先に掛けてある彼が売った裸体画を、2人の男が眺めているのに出くわした。

「この絵は誰が書いたんだい?

 

「ミレーって男さ」

「ミレー? どんな絵描きだい?

 

「いつも女の裸ばっかり描いていて、それしか能のないやつさ」

二人の男はそう会話して立ち去っていった。それを聞いていた彼は愕然とした。金のために仕方なくとはいえども、裸体画ばかり描いているせいで、世間に低級な好みを狙っている画家であると評価されているのだと悟ったのである。それ以後、彼は一切裸体画は書かない、と心に決めたという。

そして以後もっぱら聖書を背景とした宗教画を書き続けた。

 

今日の説教題を「神のみ心は実現する」。それはどのように実現するのか?

ミレーについて言えば、ミレーが「本来の(あるべき)ミレーになる」ことである。私たち、一人一人についても同じである。つまり、「私が、本来の(あるべき)私になる」ということである。神が実現してくださる!

 

 

 今日の日課を学ぶために、心に留めておきたい重要なことは:

  1.  今日の日課の最後の部分(マタイ133435)である。

「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」という御言葉である。

<隠されていた神の奥義が明らかにされる、神のみ心の実現なのである。>

 

  1. 次に「毒麦のたとえ」は、マタイ福音書にのみある特有な物語である。

最初に書かれた福音書はマルコである。マルコは30倍、60倍、100倍と

宣教について希望的な数字の配列をしている。マタイは逆である。

このことはマタイが既に宣教の迫害、困難さも直面していたのかも知れない。

 

古代社会では農夫が敵である農夫の畑に蒔いたことがあり、ローマの法律では、そのような行為を禁じていたという記録がある。

  1. さらに、今日の福音書の日課を理解するために、それに続く箇所で「毒麦のたとえ」の説明が、記されているので(マタイ13:36~43)それを心に留めたい。後からでも読んで、理解を深めていただきたい。

 

<ここで毒麦とは何か?考えてみたい。>

聖書(ギリシャ語)では、“チツァーニオン” 英語訳は、KJVRSV等は

殆どWeeds(つまり雑草)。Darnel(有毒なイネ科ドク麦属の植物、毒麦)

日本では新共同訳を始め文語訳、口語訳、フランシスコ会訳、改訳、岩波訳いずれも「毒麦」である。

昔から聖書の世界(パレスチナ地方)では、いわゆる「毒麦」と考えられる植物がある。アラビアでは古代からツワーンと呼ばれて、小麦に似た植物で、毒性があり、間違って食べると目まいや、吐き気を催すといわれる。

 

 

私は小学校2年生の後半から高校生の時まで、島根県のほぼ中央にある大田という田舎に育った。いまでは世界遺産の石見銀山がある街である。

父の仕事は農業ではなかったが、農作業の経験がある。

田圃の耕作、田植え、田の草取りと、そこに稗(ヒエ)の存在が現れる。

これがおは百姓さんを悩ませる存在なのである。植えもしない雑草なのに

イネの株のところに一緒に生えてくる。下手に抜くと、イネの株まで一緒に抜いてしまう。小さな鎌で根元から切り取るように教えられた。

 

 

 毒麦を蒔いた敵、悪魔とは?

◎“毒麦”とは、主イエスによると“悪い者の子ら”である、と言う。

聖書によれば、良い、悪いは実にはっきりしている。山上の説教によると

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ717)。

「良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」(19)のである。

 

さらに、主イエスは毒麦を蒔いた敵は、悪魔であると言う。

悪魔「サタン」(原語的には中傷する者)は、何を表し、意味しているのか?

悪魔的な力:人の心と目を真理から背けさせ、神から引き離す力である。

1「人をそそのかす存在」(創世記の蛇)(創世記31以下)として現れる。

「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

2 サタンは「訴える者」(告発者)(ヨブ記1:6以下)という存在である。罪状を数え上げる、罪をあばく告訴人である。

 

3 闇の支配者である。(イザヤ822)それは死の支配者である!

「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」。

 

4 主イエスの言葉によれば敵である。神と対立する敵である。

ご存じの通り主イエスは荒れ野で「悪魔も誘惑(試み)をお受けになった。

私たちの心と目を真理から背けさせ罪と死へ追いやるこの世的な力である。

ヨハネ黙示録では、この「死をもたらす敵

である悪魔が滅ぼされて、神の国、「新天新地」が到来するという約束が記されている。(20:7~10)。

 

 

< 8月7日の朝日新聞の天声人語 >

「歩きスマホ」についての記事があった。

最近の英語でそれを“スマートホンゾンビ”という。ハワイのホノルル市ではこの10月からスマートホンを使いながら横断歩道を渡ると罰金が科せられる(15ドル~35ドル)。 

本来ゾンビとは「呪詛(おまじない)によって生き返った死体」をいう言葉である、と言う。スマートホンゾンビとは、スマートホンによって理性も感情も奪われてしまった人間をいうらしい。現代の悪魔的な実に困った状況である。

 

 

 さて今日学ぶべきことは多くある!

  1. 神の言葉(福音)は蒔き続けられる。そしていずれにしても成長する。

今日の日課でも、繰り返して「ある人が『良い種を畑に蒔いた』」と語られている。神の言葉は、蒔き続けられ、語り続けられなければならない!

使徒パウロは言った、(Ⅱテモテ41~2)

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」と。

 

 

神の言葉を伝える「宣教」は、教会という場はいうまでもなく、教会で建てられた学校(ミッションスクール)、キリスト教社会福祉活動で、また教会立の病院等で行われている。そのような働きの場(り宣教の場)で働いていらっしゃる方もあるでしょう。それは尊いことである。祈りつつ、与えられた務めに励んでいただきたいと思います。

 

私は今でも「救世軍の建てたブース記念病院」で奉仕している。

そのモットーは「心は神に、手は人に」ささげる、である。

私たちの病院(ホスピス)では、終末期を迎えた癌の患者さんとそのご家族が、厳粛に死を迎えようとしている。そこで神の言葉を伝えるのである!

 

  1. けれどもそこに障害や誘惑や試練が起こる。対外的に、体内的に。

今日の聖書に記される「毒麦」である。主イエスの言葉によれば、人々が知らないうちに、「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」のである。神の種は、福音(良い知らせ)の種である。他方、毒麦の種はまさに正反対のもの、それは「悪い知らせの種」である。悪い知らせとは何か?その結果は、罪であり、絶望であり、死である。

 

主イエスは「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と言われた。

ここに「刈り入れの時がくる」ことが明らかにされる。

神の忍耐!私の忍耐である。

 

  1. それは終わりの日であり、収穫の日である。

詩編126:5~6 「 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

 

 

 

  1. 今日の日課には、希望の言葉が添えられている。(133133

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種

よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 

ここには神の国は成長する、という終末的な約束(どんでん返し)がある!

 

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