説教「誇るものは主を誇れ」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙1章26~31節

第6回

コリントの信徒への手紙1章26~31節

「誇るものは主を誇れ」       

 今日の聖書は1章26節からです。26節を見ますと「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを思い起こして見なさい」とあります。いきなり、ここから読んでも何のことだか分かりづらいと思います。実はこの「兄弟たちよ」とある前に「なぜならば」という字があるのです。ですから前回のところから見ていかないと内容が分からない。前回の20節からのところをまとめてみますと、十字架の言は内容のない空しいものではない。十字架の言は救われる者にとっては神の力です。とこうなります。なぜ神の力となるか、というと罪ある私たちです、その罪ゆえに何もできない者であるのに十字架の救いはそれを生き返らせる力があるからです。 そこで自分が救われたことを考えるとそのことが良く分かります。こうして人間の救いについてより詳しく見ていくことになります。「自分が召された、そのことを考えてごらんなさい」と言うのであります。この手紙はコリントの教会の人々に宛てて書いてありますからコリント教会の仲間たちを眺めて見て特にこれといった取り立てて偉い人もいない、知恵のある者も多くはない、権力ある者も多くなく身分ある者も多くはない、その中には奴隷も居れば町の普通の人々も少なくないのであります。多くないと言うのですから少しはいた、ということでしょう。実はそれは数のことではなくて特別に尊敬されるような人はなかったということでしょう。少しはいたかもしれない、しかしここで語ろうとする神の御業のことを思うと取るに足りない者である。

まことに 貧しい者に過ぎないと言うのであります。なぜかと言えばそれは神の召しであったからです。神のお招きであった。私たちが召された時のこと、どういう身分であったから召されたのでしょうか。私たちが救われたのは神様のお招きによることでありました。私たちが希望したことではない、私たちの力によったことでもない。神様の方から救ってくださったのであります。召しを受けるための条件は何もなかったのです。これは召しと言いますが実は救いであったからであります。この救いは完全な救いでありますから私たちには救われる資格は必要がなかったのであります。救いのためにはこの世における資格は全くいらなかったのであります。ですから今振り返ってみて自分たちの中にはお金持ちも賢い者も権力のある者も身分のある者も少なかったことに気がつく、実はそういう必要もなかったこれが召しであります救いであります。このような救いを神がお与えになったそこには神様のお考えがあったということです。それは「知者を辱めるためにこの世の愚かな者を選び強い者を辱めるためにこの世の弱いものを選び有力な者を無力にするために。この世で身分の低い者、軽んじられている者すなわち無きに等しき者をあえて選ばれたのである」これが神様のお考えでありました。

聖書に言われなくても神というものはそういうことをなさるお方である、ということは特に神を信じない者でも考えることでしょう。なぜなら賢い者とか力ある者は何となく傲慢な人間になって行く。神はそういう者たち、放ってはおかれない、辱めるのは当然であると思われるからです。神はそのようにしてこの世の奢り高ぶる者らを押さえられるのではないか、と考えられているからです。大方の人がそう思うでしょう。ところでここに言われていることはそういうことではありません。ここに「多くは無い」とありますように賢い者や力ある者も救われたはずであります。ただ賢い者が自分の知恵を誇っている限りでは救われることはないのであります。また力ある者が自分の力を頼みとしている限り誰も救われないのであります。誰でも自分の罪を知りその罪から救われるためには自分が全く愚かな者であり無力であることを悟らなければ救われることはないのであります。

21節を見ますと神がお選びになったとあります。「選ぶ」よいうのは自分の考えで神が決められることです。多くのものからこれこそ自分の目的にかなうとして選ぶわけです。ではその神の見業のまことの目的はこの世を良くするということではなくて全ての人間が神の前に誇ることがないようになるためである、ということであります。賢い者はどうかすると神の前においてさえも自分の賢さを誇ろうとする、力ある者も同じです。しかし十字架の救いを知るとそうではなくなる、というのです。いや神の前では誇らないようになるということであります。

30節を見ますといきなり「その神によって」というのです。ここで文章は順序が違っています。「神の前で」と29節で言ったのですからその神によってというのです。その神によってあなた方は今キリストの中にあるのです、といいうことであります。他の訳ではキリストの交わりにお召しになったのであるとなっています。

あなた方はこの世の意味で賢いとか力があるというのでなくて、今はキリストの中に召されたのである。話は一転してキリストによる救いの問題になっていることです。今は賢いのでもなく力があるのでもなくキリストにあるのである、ということになります。私たちは自分の賢さや力を誇るのでなくキリストにあることを誇るのであります。それによって私たち人間としての値打ちを定めてくれるのであります。このようにして十字架の言によって生きることはキリストによって生きることであります。なぜならキリストこそは私たちの知恵となり義となり聖となり購いとなってくださったからであります。キリストが知恵となってくださったということはどういう意味でありましょうか。それはキリストが私たちに完全な知恵を与えてくださったということです。それなら完全な知恵というのは何でしょう、完全な知恵というのは神を知ることのできる知恵であります。それはキリストによって知ることができる。そして神はご自分をキリストの中に現しになったからであります。

コロサイ書2章3節には次のようにあります。「キリストのうちには知恵と知識との宝がいっさい隠されている。」私たちは罪に汚された者であります。私たちには神の前に立つことができるような義しさがありません。ただキリストが罪のために十字架にかかってくださったことによって私たちは神の前に義なるものと認められ救いに入れられるのであります。きりすとによって義とされた私たちはなお罪があるにもかわらず聖なる者として扱われるようになりました。聖なる者ということは神に属する者ということであります。普通の意味から言えば私たちは清い者ではありませんが神が受け入れてくださったという意味で清い者とされたと言っていいのであります。神の国の民とせられた、とも言いえます又教会のものとせられたと言ってもいいでありましょう。このように神を知り義とせられ神のものとなったということは購いを受けたことであります。キリストによって罪から購われたことであります。つまりキリストが私たちの購いになってくださったということであります。こうしてキリストは私たちにとって知恵となり義となり聖となり購いとなってくださった。人々が自分の賢さや力を誇るときに私たちはキリストを誇るのであります。パウロが本当に言いたかったことはこのことでありました。

 

パウロが1章26節で書いていることは旧約聖書エレミヤ書9章23~24節からとった言葉であります。簡単に言えば神が主であることを知れということであります。神様がどういう方であるかを先ず知ること、あらゆることから神を知れば知るほどその深さ、奥深い無限の神秘に触れて行くことになります。今日の中心の方向はキリストを知りキリストを誇ることであります。神の前に自分の立場を主張したい者はキリストを誇りとする者でなけれなならない。なぜならキリストの救いによって始めて神のみ前に立つことができるからであります。このキリストにあって自分にも立場ができるのであります。パウロはガラテヤ書6章14節でこう言っています、「わたし自身にとっては私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものは断じてあってはならない」主を誇るというのはパウロにとっては主の十字架を誇ることでありました。しかもそれ以外のものは断じて誇ってはならない、と厳しく宣言しているのであります。     アーメン

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