説教「隣人愛の試練とこの世の挑戦」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書13章31-35節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、十字架にかけられる前日、弟子たちに新しい掟を与えると言って、「互いに愛し合いなさい」と命じました。キリスト教で「愛」とか「愛する」と言えば、すぐイエス様の教え「神を全身全霊で愛せよ。隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が頭に思い浮かぶと思います。イエス様は十戒の掟を、神に対する愛と隣人に対する愛の二つの愛の掟に要約したのです。皆様もご存知のように、十戒の掟は一見すると「~するな、~するな」と、人を禁止条項で縛りつけるように見えます。ところがイエス様は、最初の三つの掟は神に対する愛、残りの七つは隣人に対する愛、そういう神と隣人に対する愛を実践するものであると教えるのです。本日の箇所でイエス様が「互いに愛し合いなさい」と言っているのは、神に対する愛ではなくて隣人愛に関わります。

隣人愛はキリスト教の専売特許のように言われますが、そもそも、どんな愛のことを言うのでしょうか?困難や苦難に陥った人を助けることを意味するのでしょうか?阪神淡路大震災や東日本大震災の時には、大勢の人が被災地に赴いて支援活動に参加しました。今次の熊本地震では地震活動が活発に続いたため当初はボランティア募集は見合わせていたようですが、先週から募集が始まったとニュースで聞きました。きっとまた大勢の人たちが被災地に向かうでしょう。こうしたボランティアの中には、キリスト教徒もいることは言うまでもないのですが、総数でみたら、きっとキリスト教徒でない方の方が圧倒的に多いでしょう。つまり、困難や苦難に陥っている人を助けるというのは、別にキリスト教徒でなくてもできるのであります。こんなことは、支援活動に参加した仏教徒や無宗教の人たちからみたら当たり前すぎて、言うこと自体がキリスト教徒の傲慢ととらえられてしまうかもしれません。

しかしながら、キリスト信仰者が困難や苦難に陥った人を助ける場合、外見はキリスト教以外の人たちの活動と変わりがないようでも、実は隣人愛の土台にあるものが決定的に違っています。それは、イエス様が「神を全身全霊で愛せよ」と教えたように、神に対する愛とセットになっているということです。マルコ12章で律法学者から「一番重要な」(πρωτη)掟は何か、と聞かれて、イエス様は「一番重要な」(πρωτη)ものは、と言って次のように答えました。「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(30節)」。つまり、神に対する愛とは、この天地創造の神を唯一の主として、その御言葉に聞き従い、全身全霊で愛せよ、ということです。

「一番重要な」掟を聞かれたのに、イエス様は続けて、「二番目に重要な」(δευτερα)掟についても述べます。それが、「隣人を自分のように愛しなさい(31節)」という隣人愛でした。

イエス様は、この二つの愛の掟をもって、「この二つにまさる掟はほかにない(31節)」と言われますが、この二つの最も重要な掟の中でも一番目と二番目の序列があることは今見てきたように明らかです。先に神に対する愛があって、次に隣人愛がきます。隣人愛はしなければならない愛であるが、それは神に対する愛が先にあってすべきもの、神に対する愛を土台としてすべきものであり、もし神に対する愛と切り離して行ったり、それに反するように行ったりしたら、それはイエス様の教える隣人愛ではなくなるのです。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛は神に対する愛と不可分な関係にあります。それで、ひょっとしたら、キリスト教以外の隣人愛で行えることがキリスト信仰では神に対する愛のゆえに行えないことがあるかもしれません。また逆に、キリスト教以外の隣人愛で行えないことが行えるということもあるかもしれません。そうしたことを具体的に一つ一つ明らかにすることは本日の説教の目的ではありませんが、キリスト信仰にとって隣人愛は何かを考える材料の一つになるかと思います。

 

2.

 初めに見ましたように、本日の箇所の「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしていた時に述べられました。最後の晩餐の時です。これから人間の救いのために自分の命を捧げようとする方が「しなさい」と命じる掟です。とても重みがある掟だと思います。

ところで、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去った後で、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われました。裏切る者がこれから目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことでしょうか?

それは、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定した、ということです。それでは、どうして死ぬことが栄光を受けることになるのか?しかも、それで、神も栄光を受けることになるのか?

イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。どんな意味かというと、最初の人間アダムとエヴァの時以来、全ての人間が先祖代々受け継いできてしまった神への不従順と罪というものがあって、イエス様はこの罪の支配状態から人間を解放するために犠牲になったということです。ここで、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われるかもしれません。特に生まればかり赤ちゃんなどは無垢そのもので、どうして罪を持っているなどと言えるのか納得いかないと言われてしまうかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の事件の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間は罪の力の下に服しているということなのです。使徒パウロが、死とは罪が支払う報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。

この人間が受け継いでしまった罪をそのままにしておけば、人間はいつまでたっても自分の造り主である神との関係が断ちきれたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻ることはできません。神としては、人間がこの世の人生を自分との結びつきの中で生きられ、この世から死んだ後は造り主である自分のもとに永遠に戻ることができよう望まれたのです。それで、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方をとったのです。少し法律的な言葉を交えて言うと、本当は神に対して有罪なのは人間の方でしたが、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実の方に負わせて、有罪の者が背負わないですむようにしたのです。有罪の者は、気がついたら無罪となっていたのです。

そのようにして、人間の罪の支配からの解放は、神のひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという形で実現しました。そこで人間は、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業だったのだということがわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いた者として生きることになります。こうして信仰者は、神との結びつきが再興されて永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいきます。そのような人に対しては、罪はもはや人を死の永遠の滅びに追いやる力を失っています。そもそもイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る扉が開かれました。死は支配者の地位から引きずり降ろされたのです。

 

3.

 以上から、神のひとり子であるイエス様が死ぬことになるというのは、神の人間救済計画が実現することであり、それゆえイエス様が栄光を受けることになり、それはまた計画者であり実行者である神が栄光を受けることになるということが明らになりました。私たち人間は、こうしたこと全てを神の意思に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、罪を赦された者として罪の支配から脱せられる。そして神との結びつきをもって永遠の命に至る道を歩めるようになる。その道ではいろんなことが起きるが、神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時もいつもかわらぬ導きと力添えを頂ける。もし万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主の許に戻ることができる。

これだけの途轍もないことを父なるみ神とみ子イエス様が自分のために成し遂げて下さったのだとわかった人は、大きな感謝の気持ちで一杯になり、これからは神の御心に沿う生き方をしようと志向します。神に対する愛はここから生まれます。掟を守ることも自由な気持ちで行えます。反対に、神が自分にどれだけ大きなことをしてくれたかもわからず、感謝の気持ちもなくて掟を守ろうとすると単なる束縛になってしまいます。

このように、神が過去にどれだけ大きなことを成し遂げて下さったかをわかると感謝と自由な気持ちが生まれます。加えて、神は将来何をしてくれるのかということも知っておくと心に平安が得られます。本日の黙示録21章の箇所で、死者の復活が起きる日、今の天と地にとってかわって新しい天と地が創造される日、神が御許に集められた者をどうするかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しいみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

目から「全ての涙」(παν δακρυον)をぬぐわれるというのは、この世の人生の段階で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできましょう。それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、また正義は努力しても実現に至らないこともあります。いろんなことがこの世の段階で残ってしまい、それを背負い続けたり、未解決のままこの世を去らねばならないことが多いと思います。ところでキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると、神の正義の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されると信じられます。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。そういう時が来ると知っているので、キリスト信仰者はこの世で、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、または信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の随所に「命の書」という最後の審判の時に開かれる、全ての人間に関する神の記録書が登場しますが、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたかについて全てご存知で、何も見落としてはいないのです。誰も自分のことをわかってくれない、と嘆き悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っています。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人本人以上よりもその人のことを知っています。

復活の日、天の御国で全てのことが清算されて報われることの他に、天の御国は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5-9節、マタイ22章1-14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が労われるということです。

以上のように、キリスト信仰者というのは、過去に父なるみ神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現してくれたということを知っているだけでなく、将来自分が死から復活する時にこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれるとも知っているので、神に大きな感謝、心に深い平安を持つことが出来、それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

 

4.

 このような神に対する愛と一体にある隣人愛とはどんな愛でしょうか?ここで、イエス様が互いに愛し合いなさいと命じた時、「私があなたがたを愛したように」と言っていることが重要です。イエス様がわたしたちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う。確かにイエス様も、不治の病の人たちを完治したり、食べる物がなくて困った群衆の腹を満たしたりして困難や苦難に陥った人々を助けました。

しかしながら、イエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると、それは、人間とその造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、その障害となっていた罪の力を私たちから除去すべく罪から来る神罰を全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰にあって隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いを準備したということがその出発点であり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールなのであります。そういうわけで、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、この出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になります。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛は、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人の場合と、まだ信じていなくて受け取っていない人の場合とでは現れ方が異なって来ると思います。既に受け取った人の場合だと、隣人愛はその人が受け取った救いにしっかり留まれるようにすることが大事になり、まだ受け取っていない人の場合は受け取れるようにすることが大事になるからです。

 本日の箇所ではイエス様は互いに愛し合いなさい、と弟子たちに言っているので、信仰者同士の隣人愛が問題になっています。キリスト信仰者といえども、罪に陥ったり、また罪と関係はないのに苦難や困難に陥ってしまうことがあります。そのような時、神との結びつきを疑うことが起きてきます。この世にはそうした疑いを引き起こす力が満ち溢れています。見回しただけで気が重くなることだらけです。神の目から見れば、信仰者はどんな状況にあっても結びつきはちゃんと保たれているのに、それを信じられなくなって自分から結びつきから離れてしまうことも起きます。そのような時、どうしたら、その人が疑いに打ち勝って、再び神との結びつきを信じて命の道を歩んで行けるようになれるために、キリスト信仰者の隣人はそのような兄弟姉妹たちのためによく祈り、考えて行動しなければなりません。

 ところでルターも言うように、キリスト信仰者とは、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者です。つまり、皆が皆、多かれ少なかれ霊的な支援を必要としています。そこをわきまえていないと、完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのために使徒パウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です(27節)。このことについてルターは次のように教えています。

「この御言葉は、我々が信仰の兄弟姉妹に対する愛を実践するように、また、言い争いや不和が教会内に生まれるのを阻止するように勧めるものである。もし、誰かが信仰の兄弟姉妹から不愉快な思いをさせられた時、それがその人にとって重荷とならないためにも、これは大切な教えである。まず、我々がわきまえていなければならないことは、信仰の兄弟姉妹とは言っても、実際には我々の間には、弱さや道を誤ることは頻繁にあり、避けられないということである。そのことに立腹しても仕方のないことである。誰だって、誤って舌を噛んでしまった時とか、目にひっかき傷を造ってしまった時とか、転んで足にけがをしてしまった時、痛んでいる舌や目や足にいちいち腹を立てることはないだろう。それと同じことである。

 次のように考えてみるとよい。一つの体全体を君自身とすると、兄弟姉妹であり隣人でもあるその人はその一部分である。体が部分から成っていることには何もなしえない。さて、その人が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。またそれを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたというのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って、自分の体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうであろう。その時はもう手遅れで、どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

 もしキリスト信仰者が、神はイエス様を通して自分にどれだけ大きなことをして下さったかをちゃんとわかっていれば、隣人がもたらした不愉快なことなど、本当に唾を吐きかけていいような取るに足らないものになるのです。

 

5.

 最後に、隣人愛の対象がキリスト信仰者でない場合をみてみます。相手の方は、まだ神の整えた救いを受け取っていないので、その人が受け取ることができるようにしていくのが隣人愛となります。しかし、これはたやすいことではありません。もし相手の人がキリスト信仰に興味関心を持っているなら、信仰者としては、心から教えたり証ししたりすることができます。しかし、相手の人に興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それはまず不可能です。それでも、信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。祈りの内容としては「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるようにして下さい」という具合に一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近なことにして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 復活後第四主日
2016年4月24日 聖書日課 使徒言行録13章44-52節、黙示録21章1-5節、ヨハネ13章31-35節


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