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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所は、読み通していくと、さほど難しいことはなく、理解できる気がします。まず、人々がイエス様のことを過去の預言者がよみがえって出てきた者と考えていることが明らかになりました。それに対して、ペテロはイエス様のことをメシアと信じていることが明らかになりました。その後で、イエス様は御自分が受難のうちに死ぬも三日目によみがえると預言します。これにショックを受けたペトロがそれを否定するとイエス様は激しく叱責しました。その後で、イエス様は、自分につき従う者は各自それぞれの十字架を背負わなければならない、とか、何が命を救うことになり何が失うことになるかについて教えます。そして、人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか?自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか?という有名な言葉が続きます。読む人は誰でも、イエス様は命のかけがえのなさ、大切さを教えているのだと理解するでしょう。
しかし、本当に理解したのかな、わかったつもりはいやだな、と二、三度読み直してみると、一度目には気づかなかったようなことが出てきます。例えば、ペトロがイエス様のことを「メシア」と信じていると言った時、そのメシアとは何だったか?確か、救い主、救世主という意味だと聞いたことがあるな。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならない、と弟子たちに命じたのか?また、イエス様が受難の死と死からの復活を預言した時、ペトロがそれを否定して、イエス様は激しく叱責する。ペテロのことをサタン、つまり悪魔呼ばわりさえする。ペテロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?さらに、イエス様がつき従う者に背負いなさいと言った十字架とは何なのか?何か人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのだろうか?それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、一体どういうことか?どうせ失われるのだから、自分の命を救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うとはどういうことか?一度失った命が救えるというのは、一体どういうことなのか?
このように、聖書は一度読んでわかったような気がしても、何度か読み返すと、実はわからないことだらけだった、というようなことがいつも出てきます。しかし、不理解点を発見できることで、私たちは、自分の造り主である神の御心・御意思を明らかにしていこうとする出発点に立つことができます。どうか、本説教を通しても、それが明らかになりますように。
2.
まず初めに、ペトロがイエス様のことを「メシア」と言った、そのメシアについて少し解説します。これはヘブライ語の言葉(משיחマーシーァハ)で「油注がれた者」の意味です。具体的には、イスラエルの初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は、神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照)。ユダ王国が滅びると、今度は、将来ユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨するダビデ家系の王が現れるという期待が強まります。イエス様の時代に近づくと、メシアとは、ダビデ家系でユダヤ民族解放を主任務とはしつつも、この世の終わりに現れて、神の救いを全世界に及ぼす救世主という理解も持たれるようになります。
このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(χριστοςクリストス)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語になおして付けたということであります。
さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡を成し遂げており、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。従って、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。メシアということについて、自分がメシアであるということについて人に話すな、ということだったのです。どういうことかと言うと、先ほどもみましたように、メシアの意味として、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解したら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られました。それなのに一つの民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。加えて、支配者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には常に神経をとがらせていました。王国復興者としてのメシアの噂が広がれば、反乱鎮圧のための軍隊出動という事態になったでしょう。そうなれば、エルサレムに赴いて受難と復活を遂行するというイエス様の行動計画に支障をきたすことになったでしょう。
ところで、ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと考えられます。それで、イエス様が迫害されて無残にも殺される、という預言を聞いた時、王国復興の期待を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならない、と否定してしまったのだと言えます。
3.
それにしても、預言を否定したペテロを「サタン、悪魔」呼ばわりして叱責するとは、いくらなんでも言い過ぎではないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死をくぐり抜けて死からの復活を実現しなければならない、そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画の実現を邪魔することになる。神の計画の実現を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、神の計画を認めないというのは、悪魔に加担することになってしまいます。ここで、この神の計画とは何かということについて少しおさらいをしましょう。
キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。
さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の期待を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から下る天使の軍勢の支援を受けてローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち滅ぼして、永遠に存続するダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていたことでしょう。ところが、「迫害されて殺されるも、三日目に復活する」という預言を聞かされて、最初、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てが起きた後で、あれは特定民族を超えて全世界に及ぶ神の人間救済計画の実現だったのだ、とわかるようになったのであります。
4.
それでは、イエス様が、「つき従う者」つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か。そして、命を救う、失う、と言っていることは何か。それらについてみてまいりましょう。
まず、私たちがそれぞれ背負うべき十字架とは何か?自分を捨てるとはどういうことなのか?これについては、先週の礼拝説教でも取り上げました。イエス様を救い主と信じ、神との結びつきの中で生きられるようになったキリスト信仰者というものは、そのような結びつきを可能にして下さった神と御子に絶えず感謝の念を抱く者です。その感謝のゆえに、神の御心・御意思に従って生きるのは当然という心を持っています。神の御心・意思とは十戒に凝縮されていますが、イエス様はそれをさらに凝縮して二つの掟の形で提示しました。一つは、「神を全身全霊全力をもって愛せよ」という神への愛、もう一つは、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛です。先週の説教でも強調したところですが、隣人愛は、神への愛から独立してあるのではなく、それを土台としてあります。それゆえ、キリスト信仰者の隣人愛というものは、隣人が同じ信仰者である場合には、隣人がしっかり信仰にとどまって神との結びつきの中で生きられるように助けることが底流にあります。隣人が信仰者でない場合も、その人がいつの日にか、イエス様を救い主と信じて、その人の造り主でもある神との結びつきの中で生きることが出来るよう導いていくことが底流としてあります。このような神への愛と隣人愛の実践は、実社会・実生活の中ではいろいろな困難をもたらします。しかし、それにもかかわらず、神の御心・御意思である以上はやるしかない。これが、十字架を背負うことであり、自分を捨てることである、と申し上げた次第です。
ところが、こうは言っても、私たちは、神を果たして全身全霊全力で愛していると言えるかどうか、隣人を自分を愛するが如く愛していると言えるかどうか、という局面に多く出くわします。失敗ばかりで、神の御心・御意思に従って生きるなど、もう不可能だ、と思わされることが多く出てきます。
この問題について、ルターがキリスト信仰者というものをどう捉えているか、それを見るのが有益です。ルターによれば、キリスト信仰者とは、神の霊に結びつく新しい人を自己の内に植えつけられた者ということになります。そこで、キリスト信仰者の人生とは、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことだ、とルターは教えます。古い人を死なせるというのは、言葉はどぎついですが、これはなにも物騒なことではありません。ルターによれば、まず、自分の肉の内に古い人があることを素直に認め、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえず導くことを心から悲しみ忌み嫌うこと。そして、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる。そのようにして神から赦しを不断に受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々力を失っていくのであります。聖餐式でパンとぶどう酒を頂く毎に、このプロセスは強まっていきます。
「自分を捨てる」とは、一般に思われがちですが、なにか自分で自分を律せられる無私無欲の立派な人間を目指していくということではありません。それは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、という歩みを始めることです。このプロセスは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。
最後になりましたが、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう。35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという言葉です。生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力の核のようなものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。36節で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)のギリシャ語は違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。それで、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあります。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?
34節の「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、感謝に満たされて神の御心・御意志に従って生きるということでありました。これにあわせて、神との結びつきの中で、内なる新しい人を日々育て、古い人を日々死なせ、神のもとに永遠に戻る道を歩むことであるとも申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を「救う」とか「失う」とか言っているのは、実は、造り主である神のもとに戻る道を「歩んでいるか」「歩んでいないか」ということであることが明らかになってきます。これに沿って、以下に、35節以下を整理してみます。
35節はこうなります。「自分を捨てようともせず十字架を背負おうともせずして、永遠の命を得ようとしても、それは得られない。なぜなら、それは造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいないからだ。しかし、自分を捨てて十字架を背負う者は、信仰の迫害にあって命を失おうとも、永遠の命を得る。なぜなら、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいたからだ。命を失った瞬間に父なる神は御手をもってその人をみもとに引き上げて下さる。」
36節はこうなります。「たとえ全世界を手中に収めても、命に関して欠けていることがあれば、何の役に立とうか?造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいない者は、全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは死の瞬間に永遠の命を買い取ることはできないのだ。」
そして、37節に続きます。「人間は、今の命が終わった後の命を買い取ろうにも、何を代価として支払うことができようか?全世界も財産も代価としては不足すぎるのだ。」詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。しかし、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界や財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たちは今、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでおりますが、この道の歩みにおいて、どんなことが起きても、私たちの命は、とてつもなく尊い犠牲を払ってもらって造り主である神のもとに買い戻された命であるということを忘れないでいきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
本日の福音書の箇所は難しいところです。私たちの理解を困難にするものとして、二つの大きな問題があります。まず一つは、父親、母親、娘、息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと、イエス様の弟子になれない、とイエス様が教えていることです。十戒の第四の掟は「父母を敬え」です。イエス様は、自分をこの世に送られた父なる神が命じることに反することを教えようとしているのでしょうか?またイエス様自身、「自分を愛するが如く隣人を愛せよ」と教えているのに、親兄弟娘息子を憎まないと弟子にはなれない、とはどういうことなのか?イエス様は、矛盾することを教えているのでしょうか?
もう一つの問題は、塔を建てる者と戦争に臨む王のたとえです。塔というのは、マルコ12章やイザヤ5章に出てくるように、大きなブドウ園を造る者が見張りの塔を建てるというように、ブドウ園にはつきものでした。せっかくブドウ園を造っても、見張りの塔が建てられなかったら、実ったブドウは容易く盗まれてしまいます。マルコ12章とイザヤ5章をみると、ブドウ園を造る時、見張りの塔の建設は順番として最後にくるものだったようです。さて、ブドウ園経営者は前もって、お金が足りるかどうかしっかり計算して、もし足りないとわかったら、誰かから借りるとか、ブドウ園を縮小するとか、何か策を講じなければなりません。それをしないで、自分には十分資金もある、大きなブドウ園も出来た、さあ仕上げは見張りの塔だ、といざ塔の基を築いた段階で、お金が足りなくなって建設が中断してしまったら、周囲の者から「建て始めておきながら、最後まで終わらせることができなかった」と笑い者になってしまいます。
もう一つのたとえは、戦争に臨む王です。二つの王国の間の利害が衝突し、それに決着をつけるために戦争状態に突入する。それぞれの王が兵を引き連れて戦場に臨む。その時、一方の王が、この戦いは自分にとって有利が不利か計算を始める。自分には1万の兵がいるが、相手は2万いることがわかる。これは勝ち目がないと判断し、まだお互いの軍勢が遠く離れている段階で、相手方に使いを送って、講和を求める。恐らく講和の条件は、先に和平を乞うた者にとって不利になるかもしれませんが、それでも、戦いに敗れて国が滅亡することは回避できます。
このように二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。何か事をする場合には、まず、達成しようとしたり獲得しようとするものと、それにかかる費用や犠牲を冷静によく比較して、自分の持っているもので達成可能かどうかよく検討すべきだ、もし費用や犠牲が莫大になる、とか自分の持っているものでは達成不可能だとわかれば、即やめなさい、と。物事にあっては、常に慎重に冷静に判断することが大事だ。向う見ずなこと、無謀なことはしてはいけない。これは、真に理に適った、常識に適った教えであります。
ところが、33節を見ると、イエス様は、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われる。冷静なブドウ園経営者や国王は、笑い者にならないように、また国が失われないように合理的かつ理性的に行動したのであります。しかし、イエス様は、突然、捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言うのであります。それこそ、一度、基を築いたら、資金のことはかまわず建設を続行せよ、と。また、一度、出陣したら、兵力の差は気にせず、そのまま進軍を続けよ、それが弟子としての本道である、と教えているのであります。そうなると、前の二つのたとえが語っている冷静な判断、合理的・理性的行動と矛盾してしまいます。
以上、親兄弟娘息子を憎まないと弟子にはなれない、とか、一見、向う見ずなこと無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とか、イエス様は一体何を言いたいのでしょうか?本日の箇所は、こうした難しさを持ってはおりますが、実は、聖書の他の箇所を思い出しながら、よく読んでみると、次第にわかってくるところです。多少、ギリシャ語やヘブライ語の知識を持つ信仰者の手助けもあるといいのですが、要は、イエス様を救い主と信じる信仰をもって読むかどうかが決め手となります。(ギリシャ語やヘブライ語の知識を持っていても信仰がなければ、意味のある理解には役立たないということです。)以下、本日の箇所の解き明しに入ってまいりましょう。
まず、親兄弟娘息子を憎まないと弟子にはなれないという教えについて。「憎む」という言葉は、ギリシャ語のμισεωミセオーという動詞をそのまま辞書的に訳したものです。しかし、これは旧約聖書の「憎む」שנאサーネーアという動詞の使い方を念頭においてみると、必ずしも「憎む」と訳さなくてもいい言葉です。どういうことかと言うと、創世記29章にラバンがヤコブに初め長女のレアを、次に次女のラケルを妻に与えた出来事があります。ヤコブはレアを「疎んじた」(31節)。この「疎んじた」は、ヘブライ語の「憎む」という動詞でこれを辞書的に訳すると「レアはヤコブに憎まれた」(שנואה)となります。しかし、ヤコブは実際にはレアを憎んだのではなく、レアよりもラケルをより愛した、それで、レアにそっぽを向いた、ということです。申命記21章15節をみると、男に二人の妻があった場合で、彼が一方の妻を愛し、他方を「疎んじて」いた場合、遺産相続はどうなるか、という規定があります。「疎んじられた」妻が第一子を産んだ場合、財産配分では、たとえ「疎んじた」とは言え、その子供に第一子の地位を認めなければならない、より愛した妻の子を優先させてはならない、という規定です。この「疎んじた」も、ヘブライ語の動詞「憎む」が使われています(שנואה)。つまり、その正確な意味は、「他方よりも少なく愛された」という意味です。
以上、旧約聖書のヘブライ語の「憎む」という動詞が幅広い意味を持っていることが明らかになりました。これを念頭において、本日の箇所でイエス様が口にする「憎む」という動詞を考えてみると、意味がよくわかります。つまり、親兄弟娘息子を「憎む」のではなく、「これらの者に比べて神の方をより多く愛する」ということであります。親兄弟娘息子を愛するのは当然だが、それよりも神に対する愛が大きくなければ、弟子になれない、ということであります。
これで、ああ、肉親を憎まなくてよかったんだ、と安心するやいなや、すぐ次の壁にぶつかります。神の方を多く愛して、肉親を少なく愛するとは、どういうことなのか?やはり、肉親を軽んじることになるのではないだろうか?もちろん、神が全ての上に立つ以上、神に対する愛を多くして、肉親に対する愛を少なくするというのは論理としてわかるが、それでも肉親に対する愛を何かに比べて少なくしてもよい、というのはどうも腑に落ちない。イエス様自身は、「自分を愛するが如く隣人を愛する」ことは神の最重要な掟である(マルコ12章31節等)、と教えているではないか?
イエス様は十戒を二つの掟の形に集約して、これこそ最重要な掟である、と教えました(マルコ12章28-34節)。この二つの最重要な掟の筆頭にくるのは、こうでした。「私たちの神である主は、唯一の主である。あなたは、あなたの神を全身全霊全力をもって愛せよ。」そして、その次に来るのが、「あなたは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ」です。つまり、隣人愛は最も重要な掟ではありますが、実はこれに先立つものとして、唯一の神を全身全霊全力をもって愛せよ、という掟があるのであります。つまり、隣人愛の掟というものは、神への愛の掟から独立してあるのではなく、実は、神への愛の掟に基づいてあるのであります。
ルターは、神への愛と肉親に対する愛の関係について大体次のように教えています。「肉親を愛し仕えるのは神の意思として当然である、しかし、肉親が、私たちに対して神の意思に反することを要求して、私たちの説得や懇願にもかかわらず、態度を変えず、また、ひどい場合には、神を唯一の主と信じる私たちの信仰、御子イエス様を唯一の救い主と信じる私たちの信仰を止めさせようとする場合には、肉親に何を言われようが、何をされようが、信仰に踏みとどまって、第一の掟を守らなければならない。」
もし、肉親が、信仰を捨てないともう肉親として認めないぞ、と強硬な態度を取る時もあるでしょう。また、肉親を愛していると言うんだったら、そんな信仰を捨てて戻ってきておくれ、と泣き脅しになる可能性もあります。つまり、私たちがキリスト信仰に踏みとどまることが、あたかも肉親を愛していない証拠のように言うことです。しかし、それは筋違いです。なぜなら、たとえ肉親が私たちの信仰を認めなかったり、信仰のゆえに私たちを悪く言ったとしても、私たちとしては、もしその人たちが困難な状態に陥れば、すぐ助けの手を差し出す用意があるからです。そういうわけで、私たちの側では、隣人愛の掟は神への愛の掟としっかり結びついて維持されているのです。こうしてみると、イエス様の弟子とは、とやかく言われて悪く言われて、なおかつ、まさにそのような人たちのために祈ったり、必要とあれば助けてあげなければならない、なんだかずいぶんお人好しで馬鹿をみるような人生だな、と思われてしまうかもしれません。しかし、それが本日の箇所でも言われている、各自が背負う十字架(27節)なのであります。
少し個人的なことになりますが、昔、フィンランドで大学の神学部の学生を先生にして聖書を学んでいたことがあります。ある時、十戒の第四の掟「父母を敬え」と神への愛との関係について、彼に尋ねたことがあります。もし、神への愛と「父母を敬え」が対立関係に陥ったらどうすればよいのか?その場合は、父母を敬わなくてよいのか?彼の答えはこうでした。もし両親が、君の信仰に反対することになった場合、君のなすべきことは、まず信仰に踏みとどまることである。両親に対しては、自分の信仰について落ち着いて、かつ一層の尊敬の態度をもって、話して聞かせてあげることだ。見解の相違はあっても、両親に対して尊敬の態度を示すことはできるし、また示さなければならない。そのようにして、神を全身全霊で愛し、父母を敬うのだ。ひょっとすれば、両親が君の信仰を認めるという寛容を勝ち得ることができるかもしれない。さらにひょっとすれば、両親が君をきっかけとしてキリスト信仰に入っていく可能性もあるのだ、と。
このことからもわかるように、キリスト信仰者にとって隣人愛とは、愛の対象となっている人たちを、イエス様を救い主と信じる信仰に導く志向性が血液の中に流れていることである、と言えます。そこが、他の宗教や無宗教の人たちが行っている様々な弱者救援活動や支援活動と決定的に違うところです。
ここで、今言いました「イエス様を救い主と信じる信仰」ということについて、短くおさらいをします。それは、とりもなおさず、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えられた全ての造り主の神を信じることであります。その造り主の神と造られた人間の関係は、創世記の堕罪の出来事に示されているように人間に内在する神への不従順と罪のために崩れてしまいました。ところが、神はそれを回復しようとして、独り子イエス様をこの世に送られました。そして、神聖な神と人間を分け隔てていた罪と不従順の汚れを全て、ゴルガタの十字架でイエス様に覆い被せ、あたかも彼が全ての罪の張本人であるかのようにしてその罰を全て彼に受けさせて死なせました。このようにして神は、人間のためのイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。しかし、それだけでなく、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命、復活の命への扉を人間のために開かれました。人間は、このイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いが自分に対して効力を発することとなって、それからは、自分の造り主である神との結びつきの中で生きられるようになりました。神との結びつきの中で生きられるとは、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得られて生きることであります。仮に、不運にもこの世から死ぬことになっても、その瞬間神は御手を伸ばして、私たちを御許に引き上げて下さるのです。以上が、イエス様を救い主として信じる信仰を持つことであり、この信仰を持つ者には、これらのことが全て起きるのであります。このような信仰をもって生きる者からすれば、先ほど申しました、神への愛と隣人愛を二つ背負っていく十字架の重さなどいかほどのものでありましょうか?
神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、全人類のために行われたものですが、このことを知って、イエス様を自分の救い主と信じて、この救いを実際に所有している人たちは、まだ全人類のなかの一部です。一度所有した筈が、手放してしまったような人たちも大勢います。どうか、私たちの隣人愛が至らないものであっても、救いの所有者が増えていくのに少しでも役立つものとなりますように。
次に、塔を建てる前に予算をしっかり計算する人と、負けが明らかな戦をする前に講和を求める王のたとえで、冷静な判断や合理的な行動を勧めているようにみえつつも、「自分の持ちものを捨てなければ弟子にはなれない」と述べて、逆のことを教えているようにみえることについて、見ていきましょう。
実は、イエス様の教えには矛盾はありません。イエス様は、まさに、弟子になるということは、見積もりを立てずに塔を建てるようなものだ、また圧倒的多勢の軍勢に立ち向かっていくようなものだ、と教えているのであります。それでは、何のためにこの二つのたとえを引き合いに出したのでしょうか?
本日の箇所の流れをよく目を見開いて見ていきましょう。まず、親兄弟娘息子を「憎まないと」弟子にはなれない、という教えが来ます。これは先ほど申しましたように、肉親に対する愛よりも神への愛を優先させて、それを土台に隣人愛を行っていく、ということであります。神への全身全霊全力の愛と、それに基づいて、自分を愛するが如く隣人を愛する、父母を敬う。これは重い十字架を背負うことになる、と申しました。しかし、神がせっかく全ての人間のために用意した救いがまだ一部の人にしか受け取られていない現状では、既に受け取った私たちとしては、背負って当然なものであります。なぜなら、受取人が増えるのが神の意思であるからであります。
さて、イエス様がこのように教えた後で、二つのたとえが来ます。その意味はこうです。弟子の生き方とは、なるほど負荷がかかるものである。ところで、お前たちは、塔の建設者が普通するように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう。また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じである。これが、今のお前たちの生き方なのだ、こう指摘するのです。そして、問題の33節で言っていることは、こうです。このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は、私の弟子にはなれないのだ。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということなのです。日本語訳で「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない」と言っているのは、ギリシャ語に忠実に訳すると、「あなた方の中で、このように(ουτως)自分の持ち物を一切捨てない者は、だれも私の弟子ではありえない」です。つまり、塔建設者や王のように自分の持ち物を一切捨てない者は、ということです。
28節と31節で、塔建設者や王が計算する時に、日本語訳で、「まず腰をすえて」と書いてあります。これでは、なんだか、計算することが正しい立派な行いであるような印象を受けます。しかし、ギリシャ語の原文は、両方とも、「まず座って」πρωτον καθισαςです。つまり、何か実行しようと思ったが、ちょっと待てよ、うまくいくかな、と心配して、要は「立ち止まって」計算を始めた、ということです。一度決めたら後ろを振り返らずに前に進まないと弟子にはなれないのであります。ルカ9章62節で、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と教えています。また、士師記7章を見ると、ギデオンが最初3万3千人の兵を率いて、敵に向かっていくところがあります。その時、神は、「これでギデオンが勝ったら、イスラエルは神に対して驕りがおきて、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と見越して、ギデオンに命じてどんどん兵士を減らさせ、最後は300人だけで行かせ、勝利を得させました。このように神は、普通の計算からでははじき出せないような結果を用意される方なのです。
そうなると、次のような疑問が浮かびます。キリスト信仰者とは、なんと無謀、向う見ずな者なのか、と。こんなことでは、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう。計算は前もってしっかり立てて、物ごとに望むべきではないか、と。ここで注意しなければならないのは、イエス様の教えていることは、あくまで、イエス様の弟子として生きるということ、イエス様を救い主と信じて生きること、つまり信仰に関係することについて言っているということです。何か事業を起こす時とか、家を建てる時とか、そこで見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではありません。そうではなく、キリスト信仰者として、神を全身全霊全力をもって愛し、かつそれに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛する、ということについて言っているのです。その時に、キリスト信仰者は、自分の合理的・理性的な判断に頼るのではなく、神から与えられる力と助けと良い導きにのみ頼らなければならないということなのです。人間的な打算や見積もりが先に来れば、これこれの場合に神を全身全霊で愛すると、また隣人愛を行うと、かれこれの損失を被る、とか、誰々から笑い者になったり、中傷されたり、背を向けられたりする、という計算結果が出てきます。これで、神への愛や隣人愛に躊躇の心が生まれれば、結局、全知全能の神への信頼ということがなくなって、その神をさしおいて、被造物にすぎない人間の限られた理性や判断力に信頼するということになってしまいます。神への愛も隣人愛もそして信仰そのものも、人間の限られた能力の管理下に置かれることになります。
しかしながら、こと信仰に関する限り、私たちは、私たちの造り主である神、イエス・キリストを通して罪の奴隷支配から私たちを贖って下った神、そして永遠の命・復活の命に至る道に置いて下さった神、この神から助けと良い導きは絶えず与えられているのだと信頼して、この道を歩まなければなりません。しかし、これは、言うほどたやすいことではありません。私たちには、理性や計算能力があり、また自己保存欲があるからです。しかし、神は、死を超えた永遠の命、復活の命に至る道に私たちを置いて下さり、私たちは今その道を歩んでいるのです。この道の途上には、理性や計算能力ではじき出される結果よりも、はるかに大きなものが待っています。神はもっと大きな結果を用意しておられます。どうか、そのことを忘れずに、信仰の人生を共に歩んでまいりましょう。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
イエス様が子供をとても大事に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されているし、また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供を連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人なので(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)、イエス様が大人も子供も分け隔てなく接するというのは、当時としてはとても革新的なことにみられたでしょう。本日の福音書の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰をみて襟を正しなさいと言います。子供の信仰とはどういうものか?大人の信仰は何か道を踏み外してしまうかのようですが、どうして子供の信仰が手本となるのか、そういったことを後ほど考えてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてみましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。
本日の福音書の箇所で、まず弟子たちがイエス様に質問します。「天の国で一番大いなる者は誰か?」と。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉を使います。この「神の国」、「天の国」については、以前の説教でもお教えしたところですが、ここでざっとおさらいしてみましょう。
神の国は、イエス様が宣教活動を始めた時にイエス様と共に来ておりました。神の国が病気とか自然の猛威とか悪霊の力を超えた神の力に満ち満ちている領域であることは、イエス様が行った無数の奇跡の業で明らかにされました。ところが、多くの人たちが不治の病を癒され、悪霊を追い出してもらい、自然の猛威から助けられたといっても、人々はまだ神の国の中には入れませんでした。なぜなら、人間は最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間の造り主である神への不従順と罪を代々受け継いでおり、神聖な神と全く対極的な存在になってしまったからです。神への不従順と罪がある限り、人間は神聖な神の国には入れず、不従順と罪からくる裁きのもとに服しているだけです。ところが慈愛深い神は、この状況を打開して人間が神の国に入れるようにするために、独り子イエス様をこの世に送り、人間が本来受けるべき不従順と罪の裁きを全て彼に負わせて、十字架の死に引き渡しました。それだけで終わりませんでした。今度は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったのです。
このようにして、私たちの造り主である神は人間救済の計画をたてて、それを独り子イエス様を用いて全部自分で成し遂げてしまったのです。人間の側ですることと言えば、こうしたことが全て自分のために行われたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼をうけることで、それによって人間は神が実現した救いを所有する者となり、神の国の立派な一員として迎え入れられることとなったのです。
私たちは今、目には見えない形で神の国に結び付けられていますが、今ある天と地が終わって新しい天と地に取って代られる日、つまり今の世の終わりの日には、神の国そのものもその一員であることも目に見える形で明らかになります。「ヘブライ人への手紙」12章26節から28節に預言されているように、この世の終わりの日には、全てのものは滅び去り、消え去って、神の国だけが残ります。その時、再臨される主は、既に死んでいる者たちを復活させ、その時点で生きている者たちとあわせて、最後の審判にかけます。主は、この世で起きたあらゆる不正義とあらねばならなかった正義のバランスシートを完全に清算して、御自身の意に適う者たちを神の国に集めて、自らそこに君臨します。黙示録21章4節に預言されているように、この永遠の神の国のなかで全知全能の神は、私たちがこの世の人生の期間に流さなければならなかった涙を全て拭い取って下さいます。このようにして神は、もう死もなければ悲しみも嘆きも苦しみもない世界で私たちを最終的に癒し労って下さるのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、その信仰としっかり結びついて生きる者は皆、約束された永遠の命、復活の命に至る道を歩んでいるのであります。
神の国とは以上述べたようなものでありますが、実は、イエス様の十字架と復活が起きる前には、こうしたことは当時の人々にはまだはっきり理解されていませんでした。多くの人たちにとって、神の国とは、イスラエルを外国支配から解放して生まれてくる民族自決国家のようなイメージが抱かれていました。
それであればこそ、「神の国で誰が一番大いなる者か」という弟子たちの質問に対するイエス様の答えは、なおさら弟子たちの想像を超えたものでした。まず、子供を一人呼んで、弟子たちのただ中に立たせます。そして弟子たちに言われます。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」と。イエス様は、神の国で誰が一番大いなる者かという質問に対して、すぐ誰それであると答えず、誰が神の国に入れるかということを述べます。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそもそこに誰が入れるかということに注意を喚起するのであります。「心を入れ替える」というのは、原語のギリシャ語では、「立ち返る」という意味の動詞(στραφητε)です。つまり、今の自分は自分の造り主である神のもとからも、神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らなければ、と気づくことです。子供のようになるというのは、先ほど申し上げたように、神が自分で全部成し遂げた救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ただただ受け取るだけ、です。文句もケチもつけず(もちろんつけようがないものですが)、また、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお代の必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけ。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎えられることができます。(本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の前になされたためで、それらのことが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりします。)
神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として神の実現された救いを受け取る、こうして人間は神の国に入ることができる。そこで、イエス様は、その神の国の中で一番大いなる者は誰かということについて答えます。それは、「自分を低くして、この子供のようになる人」です。これは、神の国に入れる条件「神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として神の実現された救いを受け取る」と同じ内容です。自分を低くするとは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めても、いくら修行を積んでも、死を超えた復活の命、永遠の命には入れない、神の方で道を整えてくれなければならない、と全て認めること。つまり、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。
5節でイエス様は「私の名にかけて、このような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われます。この「受け入れる」というのは、よくありがちな理解ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。それではどんな意味かと言うと、6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいの子供かは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意して考えると、「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者の救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として扱う、受け入れる、という意味です。さらに付け加えれば、6節から9節の「つまずき」の問題が示しているように、信仰を持った子供を信仰から外れる道に陥らせることは一切しない、子供が信仰にとどまり信仰の中で成長していくように育てていく、これが「受け入れる」の意味です。
10節で、イエス様は、「守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と言っています。当時もし、子供は親の守りの天使のもとに置かれていると考えられていたとしたら、これなども過激な思想だったでしょう。なにしろ、親にも子にもそれぞれ独立して守りの天使が別々についていると言っているのですから。
さて、6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でσκανδαλονスカンダロンといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でもカタカナ語になっている英語借用語スキャンダルがもとになっている言葉です。
「つまずかせるもの」はどう私たちをつまずかせるのか。先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いを所有する者となって、この世にありながら既に神の国の一員として、約束された復活の命、永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、肉に宿る古い人を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、こうした歩みと育てを妨げたり止めさせようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これこれをすれば素敵な人生をおくれるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を束縛して何になるんだい?」という具合に。キリスト信仰者からみれば、イエス様が十字架の犠牲の死をもって私たちを罪の奴隷支配から解放したということが最大の自由であって、「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われる「五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよい」というのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神の意思に背いて得たものならば、呪われたものでしかないのです。
12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話ですが、もし信仰を持った子供が信仰を外れる道に陥ってしまった場合、父なる神は見つけるまで探し出す決意でいるということです。迷い出たものが、見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。どうか、洗礼を受けて救いの所有者となったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、子供大人を問わず、神によって見つけられますように。
さて、大人の信仰と子供の信仰について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。
生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることには意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば大きく議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考え、それを実践する教派もあります。
ここで、神が実現された人間救済は人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がないと意味がないとか、何々をしなければ施さない、受けないと言う場合、贈り物に条件が課せられることになります。また、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、ある種の人工物化する危険があります。
もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会を形成しているフィンランドでも多くみられるのですが、幼児洗礼が形式的な通過儀礼になって、親は教会にも行かない、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神様やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気付かずに育ってしまう。そのままで堅信式の年齢を迎えると、堅信式教育でよほどの導きに遭遇しないと、それも同じような形式的な通過儀礼に終わってしまう。そうなってしまった若者は、その後の人生において、次のように考えるようになっていく。「聖書に書かれている神の意志というものは時代遅れでいちいち聞き従っていたら、自分の自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と。そういう世俗化、無信仰の人が多く出てきます。実際フィンランドでは、1990年代からこうした傾向が強まり、人口500万の国で、毎年少ない時で2-3万人、多い年で6-7万人の人が国教会を脱退していきます。多くの若者にとっては堅信式が生まれて初めて親から独立して聖餐式を受ける機会になるのですが、それが人生最後の聖餐式になる可能性も大いにあるのです。
このような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はもはや、そのような人たちにとって意味がありません。正確を期して言えば、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて、神に背を向けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が神に向き直って信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味をかみしめて生きることになるので、再洗礼の必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかるようになって、それを携えて生きるようになるために、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。
ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、人生の歩みの途上でという人が多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がないかという問題がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんと同じような受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力と理解力と積み重ねた修行を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前あのゴルガタの丘で起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の有する能力、業績、名声、霊性その他そういったものは全て贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気づくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたことは、まさに、救いを贈り物として受け取り、そうしたものとして携えて生きていけるために必要なことなのです。
最後に、幼児洗礼の一つの問題として考えられる子供の信教の自由の制限ということについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供には成長してから自分で決めてもらうべきだとして洗礼を授けないことがあると聞いたことがあります。親は、もし自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想・哲学・イデオロギーを客観的に眺めらえる知識を築いて、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何か選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではないでしょうか。子供をキリスト信仰を持つ者として育てれば、将来子供は他の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に生じてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。
1.
これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム訪問を決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知っていて向かうのであります。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためには背負わなければならない十字架でした。まさにそのために、イエス様は、父なる神からこの世に送られたのですから。
さて、ガリラヤ地方からエルサレムのあるユダヤ地方に行こうとすると、その間にサマリア地方があります。サマリア地方と言えば、そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。古くは、サマリア地方は、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天と地と人間を造られた神そしてイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神への信仰から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアル信仰に染まっていきます。この辺の事情は、神の預言者エリアの孤独な戦いとともに列王記上の中に記されています。真の神から離れた北王国は、紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。そして、主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が移住させられます。そうして、サマリア地方は宗教的だけでなく民族的な純粋さを失いました。サマリア人たちは、イスラエルの宗教的な伝統としては、モーセ五書を大切にはしましたが、預言書は無視し、また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし、接触を避けていました。そうしたユダヤ人のサマリア人に対する態度は、福音書の中の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたから、と記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、イエス様に、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対して、イエス様は、そのようなことは言ったり考えたりするものではない、とたしなめ、その村のことはそのままにして、別の場所を経由して行きました。
このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の箇所では、イエス様に付き従うこととはどういうことかについての教えが続きます。三人の男の人が登場します。そのうち二人は付き従いを自ら志願します。別の一人はイエス様の方が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合においても、イエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しい教えを述べます。特に、イエス様自身が付き従いなさいと声をかけた人に対しては、その人がまず死んだ父親を埋葬してからついて来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように祖先の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになるでしょう。このイエス様の教えについては、本説教の後の方で見てまいることにします。
いずれにしても、本日の福音書の箇所に出てくる二つの出来事、つまりサマリア地方での出来事とイエス様に付き従うことについての教えの二つは、一見して関連がないように見えます。しかし、実はこれらは、深く結びついているのです。この二つの出来事が結びついているということがわかると、本日の福音書の箇所がよくわかります。それでは、それらはどう関連し合っているのかというと、この二つの出来事は双方とも、神の国の一員になるということはどんなことか、ということを明らかにします。神の国の一員になるということはどんなことか?この問いに対する答えを求めつつ、本日の箇所の解き明しを進めてまいりたいと思います。
最初に、「神の国」について見てまいりしょう。神の国とは、福音書の中でイエス様がよく口にする言葉です。それは、一体どんな国で、どこにあるのでしょうか?誰がその一員になるのでしょうか?また、神の国とは、これもキリスト教でよく言われる天国と同じことなのでしょうか?それでは、天国とはそもそもなんなのでしょうか?
神の国というものがわかるためには、まず神が準備し実行した人間救済計画なる計画と、そこで果たしたイエス様の役割を知らなければなりません。
天と地を創造した神が人間をも造り、これに命と人生を与えました。ところが最初の人間アダムとエヴァは、この自分たちを造ってくれた神に対して不従順に陥り罪を犯し、それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。そうして、人間は造り主である神聖な神と切り離されて生きなければならなくなってしまいました。その結果、この世の人生では造り主の神から守りも導きも得られず、この世から死んだ後は、造り主のもとにも戻れず、永遠の滅びに陥ってしまうだけとなってしまいました。これに対して、神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしよう、この世から死んでも自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、と、まさにそのためにひとり子をこの世に送られました。そして、この神のひとり子イエス様に、神聖な神と人間を切り離している原因である人間の罪を全部彼におわせて、罪からくる罰を全てイエス様に課して、人間にかわって彼を十字架の上で断罪し、人間に対しては、イエス様の身代わりの死に免じて赦すことにしたのです。それで、人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を得ることができ、しかも、自分の罪の汚れをイエス様に引き取ってもらうかわりに、イエス様の神聖さと神の義を頭から被せられるに至ったのです。さらに、神は一度死に引き渡したイエス様を今度は死から蘇らせて、死の力を無力にし、永遠の命、復活の命の扉を人間に開かれました。こうして、イエス様を救い主と信じる者は、神との結びつきが回復した者として、永遠の命に至る道の上に置かれ、この世の人生の歩みでは絶えず神から守りと良い導きを得られるようになりました。たとえこの世から死ぬことになっても、その時は神が御手をもってその人を御許に引き上げて下さり、永遠に造り主のもとにいられるようにして下さるのであります。
そういうわけで、神の国とは、イエス様を救い主と信じ、神との結びつきのなかで生きられるようになった者たちを構成員とする共同体であります。国とはいいながら、特定の国土も国境もなく国会も政府もありません。私たちの目で見ることのできない神が力を及ばせる領域で、そこでは人間を死と永遠の滅ぶに陥れる罪が、イエス様のおかげで、そうする力を失っている領域であります。死が絶対的な力を失っている領域です。神の国は、私たちの目には見えない国ですが、ただ、聖書の御言葉に基づいてイエス様を救い主と信じ、神との結びつきをもって生きている人たちは世界の各地にいます。お互いを知っている場合もありますが、大半はお互い顔も名前も知らず会ったこともどこにいるのかも知らないのがほとんどでしょう。しかしながら、神の方では全員を把握しています。世界のあそこに、聖書の御言葉をもとにして我がひとり子イエスを唯一の救い主と信じるに至って、創造主との結びつきを回復してこの世を生きている者があそこにいる、と把握しているのであります。私たちの目には見えませんが、神の目には見えているのであります。
私たちの目には見えない神の国ですが、これが実は将来目に見える形で現れてきます。イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に取って代わる日が来ると預言されています。「ヘブライ人への手紙」の12章には、今ある天と地が全ての被造物と共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに堅個に残り、立ち現われてくるものがある、それが神の国であると預言されています。黙示録によれば、そこでは、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。また、この神の国は、盛大な結婚式の披露宴にもたとえられます(19章7-9節)。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われるのであります。今の世で受けた不当な扱いで、不運にも今の世で補償も謝罪もなされず済んでしまったものは、すべて最終的に償われるところであります。それだから、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に生きる者にとっては、この世で流す涙、味わう苦痛、背負う重荷で報われないものは何もなく、無意味、無駄に終わるものは何もないのであります。この世で不正義が見過ごされてしまったなら、それは不正義を行った者たちにとってとてつもない不都合になるのです。なぜなら、彼らは、人の前ではうまくやり過ごすことができていても、最後の審判の日には万軍の主である神の御前で無駄な申し開きをしなければならなくなるからです。
以上のように、神の国とは、罪の赦しの救いが力を発揮し、それゆえ死の力が寄りつけない領域です。その国の構成員は神との結びつきをもってこの世を生き、復活が起きる日には復活の体を得て永遠に神との結びつきに生きることになる者です。加えて、神の国は、神の正義が少なくとも潜在的に実現している国で、最後の審判の日には顕在的に実現することになります。それで、神の国の構成員はいくら遅くても最後の審判の日に原告席につくことになります。このように「神の国」というのは、今のこの世と次の世の二つの世にまたがる事象と言うことができます。「天国」と言うと、あの世的な意味が強くなるので、それは神の国の次の世の段階をさすものと言うことができます。
本日の福音書の箇所に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。
このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した12弟子の二人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?
それはイエス様が優しい心の持ち主で憐れみに満ちた方だから、という答えではまだ核心を捉えられていません。どういうことかと言うと、イエス様は、父なる御神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して永遠の命を持って生きられるようにしたい、そのようにして神の国の一員に迎え入れたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか悔い改めて神の国の一員になれるよう、猶予期間を与えているということなのであります。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、悔い改めの可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも悔い改めをしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのであります。もし、この世の人生の段階で悔い改めがなければ、それはもう手遅れで、あとは最後の審判の日に神から、お前はこうだったと監査済みの収支報告を言い渡されるだけです。もし、悔い改めて、イエス様を救い主と信じる信仰に入っていたならば、そのような収支報告は言い渡されなくて済んだのに。
それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて悔い改めたでしょうか?それが悔い改めたのです。使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域の一つがサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを受け入れなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が神の国の一員として迎えられるということが全てに優先される、ということがありました。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されました。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。
次に、イエス様への付き従いというものも、神の国の一員として迎え入れられることに関係するということを見てみましょう。
三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃらない。イエス様への付き従いもそれで終わってしまうのか?実は、イエス様の発言は、昇天以後も視野に入っていたのです。つまり、神の国の一員として迎え入れられた後は、今度は他の人をその一員として迎え入れられるように働きをしなければならないのであります。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることが神の御心だからです。そうすると、この働きも、イエス様と共にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものであります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのであります。
このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死者を死者のところにほおっておけという、死体遺棄のことではありません。葬らせよと言っている「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、新しい復活の命も体も持てずに永遠の滅びに陥ってしまうだけの人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。つまり、神の国に迎え入れられていない人を指します。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、神の国を言い広めることだ、とイエス様は命じます。つまり、人々が神の国の一員に迎え入れられるように働きなさい、ということなのです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」を生きる者にしなさい、ということなのです。
こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことが明らかになります。葬儀をするにしても、人々を神の国の一員となるようにしなさい、ということなのです。一般にキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいると思います。故人にゆかりのある人たちが集まって、亡くなった人の死を悲しみ、遺族の悲しみを共に悲しんで分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。キリスト教では、死はこの世の命から永遠の命に移行する通過点となります。実際に復活が起きるのは、最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる日ですが、それまでは、死んだ者は、造り主である神のみぞ知る場所に安置されます。ルターの言葉を借りれば、そこで健やかな眠りについて、復活の時を待ちます。さらにルターによれば、この世に残された私たちからすれば待ち時間は長いものになりそうですが、死んだ本人にとっては一瞬の出来事にしか過ぎない、この世の命が終わり目を閉じた瞬間、瞬きした瞬間にもう復活の出来事が始まっているというのです。これを読んだとき私は、それは、あたかも全身麻酔で手術を受けた人が、麻酔が効き始めたなと思った瞬間、手術はもう終わっていた、ということを連想しました。そしてキリスト教の死生観に強く出てくることとして、復活後の再会ということがあります。復活の体と命を持った者同士が合いまみえるということであります。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが、神の国の一員であることを再確認し合い、また参列者がキリスト信仰者でない場合は、神の国がどのようなものであるかを伝える宣教的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。
ここで特に日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教ではなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、神の国の一員でない人たちに、自分がまさにその一員であることを証し、さらにその人たちを時間がかかってもなんらかの形で一員に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。しかし、それは具体的にどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題の提起をすることにとどめておくことにします。
さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないことは、イエス様は家族を見捨てろ、と言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん神の国の一員になるように働きかける対象になります。その意味で、家族のもとには戻れるのであります。この三番目の男の人のところで問題となっているのは、家族に対して、この神の国の一員になる働きかけをしようとしないで家族のもとに戻ると、神の国の一員でない生き方に戻ってしまう、家族の絆というのはそれ位強力なものであるということです。これをどうしたら、家族の方が神の国の一員になる方向で絆を保たせられるか、これもとても重い課題です。家族の人たちが、イエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる心の準備があるとか、そういう理想的な事例はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないでしょうか?それなら、まず祈りから始めるべきです。私たちの愛する人たちが私たち同様に神の国の一員に迎えられるように、そして私たちが彼らとの絆を理由に神の国の一員になったことを諦めるような追い詰められが起こらないように、父なる御神に思いを打ち明け、助けと良い導きをお願いしていきましょう。
愛とは何か、という問いは、答えるのが簡単なようで適当な言葉を探そうとすると実は難しかったり、また逆に難しそうでいて実は簡単に言葉が見つかったりして、何かつかみどころのないもののようです。身近に感じられそうで、気が付くと遠いものだったりし、また逆に遠いもののように思っていたが実は身近にあることに気づいたりします。
今の世の中では、愛という言葉を聞くと、はやり歌やテレビ番組・映画や雑誌・小説その他諸々のマスメディアが与えるイメージからくるのでしょう、「愛」と聞くと多くの人たちは男女の恋愛に関係するものと考えるのではないかと思います。以前日本に宣教師として来ていたあるフィンランド人の牧師先生が言っていたのですが、日曜学校の中学生クラスで教えていた時、その日の出席者はみな女の子だけだったそうですが、先生が聖書の御言葉に基づいて「みなさん、お互いに愛し合いましょう!」と力をこめて言ったところ、生徒たちはお互い顔を見合わせて、クスクス笑うのをこらえる様子がみてとれたということです。「愛」と聞いて、生徒たちが抱くイメージと牧師先生のイメージにギャップがあったのは明らかです。
それでは、牧師先生が「愛し合いましょう」と言って教えようとした「愛」とは何だったのでしょう?その日の日曜学校で先生が愛のどんな内容について教えたのかはわからないのですが、キリスト教で愛について次のことが公式のように言われます。それは、天と地と人間を造り、かつひとり子をこの世に送られた父なる御神を全身全霊で愛する、そして隣人を自分を愛するが如く愛するということです。父なる御神に対する愛と隣人に対する愛ということですが、これだけでは、まだ抽象的すぎるように思う人もいるでしょう。確かに愛する対象が異性に限られず、父なる御神や隣人になるので、愛が恋愛よりももっと広い意味を持ちます。しかしながら、これだけでは、まだわからないことも多く残ります。例えば、父なる御神を全身全霊で愛する時の愛とは、また隣人を自分を愛するが如く愛する時の愛とは、具体的に何をすることなのか、どんな考えや感情を持つことなのか、言葉だけではまだわかりません。
別にキリスト信仰を持ち出さなくても、人間だったら自然な親子関係を通して愛がわかると言う人もいるでしょう。また、同じ目的を持つ人が連帯して協力し合い、時には共通の目的のため、また同志のために自分を犠牲にすることを厭わないという同志愛もあるでしょう。(ただし、同志愛において、共通の目的がどんなものか、それを共有しない人たちにどんな態度をとるか、しっかり見極める必要があります。グループ内で通用する愛が、グループの外との関係で愛の名に値するとは限らないからです。)
恋愛、親子愛、同志愛、これらは人間の自然な本性に由来する愛と言うならば、キリスト信仰では、人間の外部に由来する愛が中心になってくると言うことができます。外部と言っても、私たちの周囲に見えたり触れることができる具体的な事象ではありません。そうではなくて、全ての見えるものと見えないものを造られた父なる御神に由来する愛です。
この神由来の愛について、「ヨハネの第一の手紙」の4章は次のように教えています。おそらく、先ほど述べたフィンランド人の牧師先生が日曜学校で教えようとした箇所ではないかと思われます。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(7-11節)。
ここでは、神が私たち人間を愛したことが出発点にあって、それを受けて私たちも愛することができるようになる、という神由来の愛が強く示されています。そう言うと、キリスト教は恋愛や親子愛や同士愛のような人間由来の愛は愛ではないと言うのか、と疑う向きも出てくるかもしれません。そうではありません。そうではなくて、恋愛も親子愛も同士愛もその土台に神由来の愛を敷いて、それらを神由来の愛で方向付けていくということであります。キリスト信仰者には、キリスト信仰者の恋愛があり親子愛があり同士愛がある、ということなのであります。
ここまでくると、いよいよ、それではその神由来の愛とは何か、ということになります。今引用したヨハネ第一の中では、罪の償いということが神由来の愛と深く結びついていることが言われています。罪の償いが神由来の愛の中心にあって、それを受け取った私たちが愛することができるようになる、というヨハネの教えは、実は本日の福音書の箇所に具体例として現れています。少し前置きが長くなりましたが、以下にそれを見ていきましょう。
イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれていますが、これは一体どういうことでしょうか?ファリサイ派とは、当時のユダヤ教社会の中の一つの大きな信仰運動で、聖職者がリーダーシップをとるというよりは、信徒が中心の運動でした。旧約聖書モーセ五書の中に書かれた律法の他に、「父祖からの伝統」(マルコ7章5節)と呼ばれる口承伝承の教えをとても大切にしました。それは、主に汚れからの清めに関する規定から成るものですが、要は神聖な神に対して我々人間は罪に汚れた存在だから、それで清めということにこだわったということであります。これに対して、イエス様が、いくら清めの儀式的行為を積んでも人間から罪の汚れをなくすことはできないと批判する論争が、マルコ福音書7章にあります。
イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。罪の汚れからの清めということを真剣に考えれば考えるほど、清めの儀式だけでいいのだろうかと疑問を持つ向きがでても不思議はなかったでしょう。ひとつ付け加えれば、使徒パウロは、キリスト信仰に入る前は筋金入りのファリサイ派でした。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスとやらを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたのでしょう。
そういうわけで、この会食はイエス様を主賓とするものではなく、大勢を招待した一人の客としてイエス様も招待されたようです。44-46節で、イエス様は、到着時にシモンは歓迎の接吻もせず、イエス様に足を洗う水も用意しなかった、と指摘していますが、そのようにイエス様に特別な敬意を表することはなかったようです。また39節で、シモンは内心呟きますが、この仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。
以上のような背景の中で、本日の箇所の出来事が起こりました。神由来の愛をわかるために、出来事の流れを一つ一つ注意して見ていく必要があります。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。これで、家の主人が多少あしらっていたイエス様を自分なりに精一杯主賓の地位にしてあげました。
イエス様は、シモンの心の呟きを見て取りました。預言者でなかったとイエス様をあしらったシモンは、見抜かれたことに気づきません。おめでたい人というのはこのことでしょう。そこで、イエス様は、この女性の行為が何を意味するのかをシモンに教えるために、一つのたとえを話します。500デナリオンの借金を抱えた人と50デナリオンの借金を抱えた人が、二人とも返済に困ってしまった。しかし、貸主は、二人とも帳消しにしてやった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、どちらが、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいとより強く思うのはどちらだろうか、ということです。1デナリオンは、当時の肉体労働者の一日の賃金です。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。
そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したとか、または娼婦そのものであっただろうとか、いずれにしても十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということであります。
イエス様は、この女性の献身的な行為というものは、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えるのであります。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのであります。
ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦さて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということであります。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を既に行っていた、ということです。「罪を赦す」というのは、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまったにもかかわらず、その人がそれが神の怒りを買うものであることを認めて、これからはしません、だから怒りを取り下げて下さい、と悔い改めることを、神が受け入れるということであります。そして、悔い改めを神が受け入れるというのは、神がその罪を不問にする、事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、そして、もうそうしないと言った新しい生き方をあなたはすぐ始めなさい、私はそれを支援するから、ということであります。
これとは逆に、女性の悔い改めを信ぜず、彼女の犯した罪をいつまでも問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのないかたくなな態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを信ぜず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。しかし、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。なぜ、女性が献身的な行為をするのかをシモンに説明した後で、イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神の御子イエス様と父なる御神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神にしかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判とも言える言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」
以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったこと。そして、新しい人生を、周囲の赦しのない辛い荒波の中ではあるが、父なる御神と御子の支援と応援を受けて始めることができるようになったこと。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れたことを見てきました。実は、この女性に起きたことと同じことが私たちにも起きたのです。どういうことかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまい、この世の人生では神との関係が途切れたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れず滅びるしかなくなってしまいました。それを父なる御神はなんとかしようと独り子をこの世に送り、神と人間を分け隔てていた原因である罪を全て彼に負わせて、罪から来る罰を全てイエス様に受けさせて、十字架の上で死なせました。人は、この神の独り子の身代わりの死が自分のためになされたとわかってイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いを自分のものとして受け取ることができます。こうして人は自分の造り主である神との関係が回復します。
さらに、父なる御神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死の絶対的な力を無力にして、永遠の命、復活の命の扉を人間に開かれました。こうして、イエス様を救い主と信じる者は、造り主である神との関係が回復した者として、永遠の命に至る道に置かれてこの世の人生の歩みを歩み始めることとなります。神との結びつきが回復したのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、たとえこの世から死ぬことがあっても、神はすぐ手を取ってみもとに引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻れるようにして下さいます。私たち一人一人を造り、命と人生を与えて下さった方が、このような計り知れない恵みの業を私たちのために成し遂げて下さったのです。私たちの心も体も魂も、本日の福音書の箇所の女性のように、深い恩恵と感謝の念に満たされないでいられましょうか?どうか、神由来の愛がこんこんと尽きることのない泉の水となって、私たちが思う思い、発する言葉、行う行いの全ての隅々にしみわたっていきますように。もちろん、肉を纏って生きる私たちにはまだ罪が宿っているので、いつでも恩恵と感謝の念が弱まり、神の思いよりも自分の思いを先に立てようとすることが起きます。それでも、悔い改めと罪の赦しと再出発の可能性は絶えず開かれています。本日の箇所でイエス様は、一度宣言された罪の赦しは、その後も変更はなくそれは現在も効力を有している、と宣せられました。これは、イエス様を救い主と信じる私たちにもそのままあてはまります。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに勇気を持って歩んでまいりましょう。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン
本日の福音書の箇所は、イエス様がナインという名の町で一度死んだ若者を生き返らせたという出来事についてです。ナインの町はガリラヤ地方にありますが、ユダヤ地方との境界線に近い所にありますので、そこでそのような奇跡を行えば、結果として17節に記されているように、イエス様のうわさはユダヤ地方全域にも広がることになります。イエス様が死者を生き返らせる奇跡は、他には、ガリラヤ地方のカペルナウムという町で、ユダヤ教会堂の会堂長ヤイロの娘を生き返らせたこと(ルカ8章40-56節、マタイ9章18-26節、マルコ5章21-43節)があります。さらに、エルサレムの近くにあるベタニアという町で、マルタ、マリア二姉妹の兄弟ラザロを、息を引き取ってから4日後に生き返らせました(ヨハネ11章1-44節)。
ナインでの奇跡の出来事の事の次第を追っていきますと、まず、イエス様が弟子たちや他に付き従う大勢の人たちと一緒に町の門の近くまで来ます。門があるということは、町は城壁かそこまではいかなくても壁で囲まれたれっきとした町、都市だったのでしょう(ギリシャ語原文でもポリスπολιςと言っています)。ちょうどその時、町の中から門を通って外の墓地に向かう葬列が出てきました。亡くなったのは若者で、それは母親にとっては一人息子、さらに、その母親は未亡人であったと記されています。町の人たちが大勢葬列に加わって歩いて行きます。未亡人の一人息子が死んだということであれば、婦人は最愛の肉親を失ったと同時に自分を養ってくれる人も失ったということになります。この婦人の受けた打撃は相当なものだったでしょう。かなりの悲嘆にくれていたでしょう。この光景を目にしたイエス様は、次のような反応をして、葬列の婦人に向かって声をかけます。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)。きっと婦人は、歩きながら本当にひどく泣いていたのでしょう。イエス様は葬列に近寄っていき、棺に手を触れます。棺を担ぐ人も、葬列自体も立ち止まりました。そこで誰も思いもよらないことが起こります。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14-15節)。母親は、一度死んで失った息子を生きて取り戻すことができたのでした。
この出来事が示すように、イエス様は「起きなさい」という言葉をかけるだけで、死んだ若者を生き返らせました。先週の主日の福音書の箇所(ルカ7章1-10節)に登場したローマ帝国軍の百人歩兵部隊の隊長は、イエス様のかける言葉には死の力を上回る力があると信じていました。イエス様の言葉の力をそのように信じるというのは、イエス様のことを、言葉をかけるだけで万物を創造していった神と同等に置くということでした。さらに、イエス様の言葉には死の力を上回る力があるというのは、その言葉に人間を罪の支配力から解放する力がある、ということでもあります。どういうことかと言うと、先週の説教でも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪に陥ったために、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙」6章23節で、死とは罪の報酬である、と言っている通りです。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできたのであります。死ぬということが、人間が罪の支配力に服しているということの現れなのであります。百人隊長が示した信仰、つまり、イエス様の言葉には死の力を上回る力があると信じるのは、死をもたらす罪の力を上回るということであり、イエス様こそ人間を罪の支配力の下から解放する方だと信じる信仰であります。神の民であるユダヤ民族に属さない者がそのような信仰を示したため、イエス様が驚かれたのも無理はない、というのが前回の箇所でした。
本日の箇所では、イエス様は文字通り、言葉をかけることで死人を生き返らせます。そうすることで、自分の言葉には人間を死と罪の呪縛から解放する力があることを如実に示しました。ただし、この奇跡を目撃した人々の反応はどうだったかと言うと、16節に記されているように、イエス様を神の子ではなく、預言者の再来と考えたようです。そのような理解がされたのには背景がありました。例えば、先ほど読んでいただいた列王記上17章17-24節には預言者エリヤが死人を生き返らせた奇跡が語られていました。また、列王記下4章32-37節では、預言者エリシャによる同様な奇跡が語られています。それゆえ、イエス様の奇跡の業を目撃したナインの人たちが、この方は旧約の預言者の再来だと思ったのは無理もありません。死者を生き返らせる奇跡を見ても、イエス様が神の子で全世界の全人類を罪と死の支配力から解放する救い主である、ということはまだわからなかったのであります。それがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事を待たなければならなかったのであります。
百人隊長の時は、隊長が家来を死に至る病から救ってほしいとお願いし、イエス様はそれを聞き入れる形で奇跡を行いました。ナインの町の出来事では、誰もイエス様にお願いをしていません。イエス様は、お願いされる前にさっさと奇跡を行ったと言えます。お願いされなくてもイエス様が奇跡を行うに至るきっかけが、本日の箇所の中で言われています。それは、「母親を見て、憐れに思った」ということです。目の前に悲劇の現実があることを御自分の目で確認され、それに対して憐れに思われた。憐れに思う、というのは、ギリシャ語のσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイという動詞ですが、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、他人の不幸や悲しみに心を傾ける、同情する、という意味です。イエス様が嘆き悲しむ母親を見て、本当に可哀そうに思った、それがイエス様をして奇跡の業を行わせしめたということであります。私たちも、苦難や困難に陥った人を助ける時は、そうした人たちの苦しみや悲しみに自分たちの心を傾けることから始まります。可哀そうに思う、気の毒に思う、憐れむ、こうした心の有り様が他者を助ける出発点になります。その点については、イエス様も全く同じでした。私たちが救い主と信じる神のひとり子は、私たちが苦難や困難に陥った時に、御自分の心を本当に私たちの苦しみや悲しみに傾けて下さる方なのであります。私たちが苦難や困難に陥るというのは、イエス様に見放されたということではありません。実はその時、イエス様の心は騒ぎ、ナインの町の未亡人を可哀そうに思ったと同じように、私たちをも可哀そうに思っているのです。
私たちが遭遇する苦難や困難というものは、もし天の父なる御神から助けと良い導きが得られるとひたすら信じて取り組んでいけば、本当に神から助けと良い導きが与えられて乗り越えていくことができるものと、私は信じます。もちろん、苦難や困難の真っただ中にいる時とか、またそれが長引いて出口の明かりがなかなか見えない時などは、神の御子イエス様も父なる御神自身も私たちのことなど全然気に留めていないのではないか、と疑うことが起きてきます。さらに、もしイエス様や神が心を傾けてくれていると言うのなら、なぜ苦難や困難がなくならないのだ、きっと神やイエス様には助ける力がないのだ、ただ可哀そうに思うだけで手をこまねいているだけだ、という非難も出てきたりします。しかし、それは誤った見解です。イエス様は、間違いなく苦難困難にある者を心に留め、かつその人を助ける力がある方です。以下そのことをみていきながら、私たちの信仰を今一度確認してまいりましょう。
イエス様が「他者の苦しみや悲しみに心を傾ける」、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、同情する、ということを意味する先ほど申しましたギリシャ語の言葉σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは、奇跡を行う場面でよく使われます。例えば、マタイ14章で、イエス様を追ってきた大勢の群衆を「見て深く憐れみ」(14節)、彼らの中にいた病人たちを癒されました。15章では、三日三晩飲まず食わずにいた4000人の群衆のことを、イエス様が「かわいそうだ」と言って(32節)、手元にあった7つのパンと少量の魚で全員を満腹にする奇跡を行いました。20章では、イエス様はエリコの町で二人の盲人から、目が見えるようにして下さい、と執拗に嘆願されます。その時、「深く憐れ」んだ(34節)イエス様は二人の目を見えるようにします。さらに、同じギリシャ語の言葉は使ってはいないのですが、イエス様がとても深く憐れんだ、可哀そうに思った、ということが、ヨハネ11章で死んだラザロを生き返らせる奇跡の前に起こります。ラザロの姉妹マリアと彼女と一緒にいた者たちがさめざめと泣くのを目のあたりにして、イエス様は、気が動転し、本当に動転してしまいました(33節、ενεβριμησατο τω πνευματι και εταραξεν εαυτον)。(新共同訳では「心に憤りを覚えて、興奮した」とありますが、何に憤ったのかわからないし、すぐ後でイエス様も一緒に泣いてしまうので(35節)、ここはやはりイエス様が本当に可哀そうに思ったのだと考えた方がいいと思います。)
他の奇跡の場面では、苦難困難に陥っている人たちを前にしたイエス様の心の動きは詳しくは記されていませんが、以上の例からだけでも、イエス様はそうした人たちに対して、いつも深い憐れみの心、可哀そうに思う心を持って、それに突き動かされて奇跡の業を行っていたことは否定できないと思います。私たちの主は、まことに私たちのことを心に留められる方で、私たちの苦しみや悲しみをさも自分自身の苦しみ・悲しみのように受け止めて下さる方なのです。
それでは、なぜイエス様は、私たちが苦難や困難に遭遇することを回避できるようにしてくれないのか。遭遇してしまった時は、どうして少しでも早くそれから抜け出られるようにして下さらないのか。イエス様には助ける力はないのか。このことを考える時に、ひとつ注意しなければならないことがあります。それは、もし、イエス様の任務が、苦難や困難に陥った人たちを深く憐れんで奇跡を用いて助けてあげることだとすれば、なぜ彼はそれを途中でやめてしまったのか、ということです。イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方とそれらの周辺地域で実に多くの人々を奇跡の業をもって助けました。不治の病を治し、飢えを満たし、無数の悪霊を追い出しました。ところが突然、彼はこうした巡回救援活動を止めて、行けば死が待っていると自分でもわかっているエルサレムを目指して歩み始めるのです。イエス様が十字架に架けられたのが大体西暦30年頃とすると、年齢的に30少しいった位です。まだまだ働き盛りです。もっともっとあちこちを回って、救援活動を続けられた筈です。それこそ、弟子たちと地中海地域のあちこちを訪れて、各地で病人を癒し、飢えを満たし、悪霊を追い払っていた方が、はやばやとエルサレムで死刑になってしまうよりは、人類のためになったのではないでしょうか?ところがそうではないのです。ゴルガタの十字架に架けられることの方が、人類のためになったのです。そっちを実行するために、イエス様はエルサレムに向かう道を歩み出したのです。それは、病気や飢えや他のあらゆる苦しみが癒したり助けたりするのに値しない、ということではありません。そうではなくて、そうした苦しみ全ての根底にある苦しみから人間を救い出すということが、イエス様の任務としてあったのです。イエス様のおかげでその根底的な苦しみから癒された人は、今度はイエス様を救い主と信じる信仰を持って生きることとなり、それからはたとえ苦難や困難に遭遇することになっても、自分にはイエス様がたえず目を注がれて心を傾けられているのだとわかっているので、心配と不安はほどほどにとどめることができる。そして、今歩んでいる道は必ず出口に通じていると確信を持って暗闇の中を進んでいける。期待に反して暗闇が深ければ深いほど、また長ければ長いほど、逆にそれだけ一層イエス様からの目の注がれと心の傾けられも強まって長期にわたっていく、とますますわかる。それなので、心配と不安はたえずほどほどにとどまる。そのような生き方を全ての人が持てるようにと神は望んでおられるのです。
根底的な苦しみからの癒しとはどういうことかと言うと、人間が長く失っていた造り主である神との結びつきをイエス様が回復して下さったということです。人間は、堕罪以来、自分の造り主である神との関係が断ちきれた状態にありました。従って、この世の人生の段階では、神との結びつきをもって生きることができず、この世から死んだ後も、神との関係は断ち切れたままで、造り主である神のもとに戻ることができず、永遠に滅びの状態に陥ってしまうのであります。しかし、神の方では、人間をそういう状態に陥らせないようにしようと思われました。つまり、人間が神との関係を回復できて、この世の人生の段階では、神との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう。たえず神から守りと導きを得られるようにしてあげよう。仮にこの世から死ぬことになっても、その時はすぐ人間の手を取って自分のもとに引き上げて、人間の造り主である自分のもとに永遠に戻ることができるようにしてあげよう。しかしながら、神聖な神と罪を受け継ぐ人間の断ち切れた関係を回復させるためには、神から人間を切り離す原因となった罪の支配力から人間を解放しなければなりません。しかし、人間の肉から罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで、神がやったことは、神のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て負わせて身代わりとして死なせ、その身代わりに免じて人間を赦すことにする、ということでした。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死の力を無力にして、人間に永遠の命、復活の命への扉を開きました。そうして、人間は、イエス様が自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのであります。神がイエス様を用いて用意された救い、「罪の赦しの救い」が信仰者に対して効力を持ち始めるのであります。
このように、エルサレムに向かう道を歩み出したイエス様は、人間を助けることを途中でやめたのではなかったのでした。そうではなくて、本当に人間を助けるために十字架の道を選んだのでした。もちろん、病気や飢えや悪霊から人間を助けることも大事です。しかし、イエス様は、そうした直に出会う一人一人の人に対する助けを超えて、御自分が直接出会う可能性のない遠くの国々の人々それに遠い未来の人々を全部一まとめにして助けることを考えました。病気や飢えや悪霊という個々の人間の苦しみの根底にある人類全体に共通の苦しみ、つまり造り主である神との関係が断ちきれたという状態から助けることを、イエス様は目指した。
ナインの町での出来事をはじめ、イエス様が奇跡を行う直前にいつも起きた「憐れむ、可哀そうに思う等々」を意味するギリシャ語の単語σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは、マタイ9章36-38節で少し違った使われ方をします。そこを読んでみますと、イエス様は、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』。」ここでは、イエス様は、「深く憐れまれた」後で奇跡は行わず、弟子たちに、神の収穫と働き手について話をします。
イエス様が深く憐れまれた群衆は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いました。飼い主のいない羊とは、救い主を持たず神との関係が断ちきれたままでこの世の人生を歩まなければならない者で、神から守りも導きも得られない人のことを意味します。それが「弱り果て、打ちひしがれていた」というのは、まさに造り主である神との関係が断ちきれたままでこの世の人生を歩む者の状態を表しています(ギリシャ語原文を忠実に訳すと、「打ちひしがれて、打ち捨てられていた」の方がいいでしょう)。イエス様がこのように深く憐れまれた群衆はただ病人だけからなる集団ではなく、健康な人も多く含まれていたでしょう。つまり、健康な人もそうでない人も、神との関係が断ちきれた同じ状態にあり、それで皆「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」というのであります。まさにそうした者たちを、イエス様は「深く憐れまれた」のであります。
ここで、イエス様が神の収穫と働き手のことを話すのは、十字架と復活の後に「罪の赦しの救い」が実現したあかつきには、全ての人がこの救いを与えられる対象となる、それが収穫ということであります。全ての人が対象ですから、収穫は多すぎるほど多いということになります。しかし、働き手があまりにも少ない。働き手とは、この実現した救いをまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るように働く人、つまり福音を宣べ伝える人を意味します。牧師や宣教師の仕事のように考えられますが、基本的には既に救いを受け取った人たち皆に関わる仕事です。そういうわけで、キリスト信仰者が苦難・困難にある人を助ける時は、もちろん苦難・困難がもたらす苦しみに心を傾けることは大事です。イエス様もそうなさいました。しかし、それと同時に、イエス様は、人が神との関係が断ち切れた状態にあることからくる苦しみにも心を傾けました。イエス・キリストを救い主と信じる兄弟姉妹の皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
1.本日の福音書の箇所に記されている出来事と同じ出来事が、マタイ福音書の8章にもあります(5~13節)。二つの記述を読み比べてみると、いろいろ違いがあるのに気づかされます。ここでは細かくは立ち入りませんが、マタイの記述では、百人隊長は直にイエス様に会いに行きます。家来が重病なので助けてほしいと願い出るも、家の中に入ってもらうのは畏れ多いので、外から癒しの言葉をかけて下さい、それで十分です、とお願いする。本日のルカの記述では、隊長の敬虔さがもっと強調されて、イエス様に会うこと自体が畏れ多く、それで使いを出して、同じお願いを言ってもらう。さらにマタイの方では、隊長の信仰の深さに驚いたイエス様が、同胞のユダヤ人たちに向かって、異教徒でさえこんな信仰を持っているのにお前たちは恥ずかしくないのか、しっかしりないとお前たちは異教徒たちに先を越されて神の国に入れないぞ、と叱咤します(8章11~12節)。ところが、この同じ言葉はルカの記述には欠落しています。さらに驚くことに、この言葉は違う場面に出てくるのです。それはルカ13章で、そこでは誰が救われるかという議論のなかでイエス様がこの言葉を述べます。
こうして見てみると、同じ出来事の記述にどうしてこんな違いがあるのだろう、と不思議に思われるかもしれません。もっとも私が見るところ、信仰をもって聖書を読む人たちの多くは、このことをさほど問題に感じていないのではないかと思います。別に記述が異なっていても、それは同じ出来事を異なる角度から扱っているようなもので、全部一緒にみれば全体像がもっとわかる、というような態度で読んでいるのではないかと思います。実はそれでいいのです。それが信仰ある健全な聖書の読み方です。ところが、人によっては、この違いがさも大事であるかのようにこだわって、マタイは歴史的事実に即しているが、ルカは自分の観点でいろいろ書き直した、とか、逆に、着色したのはマタイで、事実に即しているのはルカだ、とか、果ては、いや、二人ともそれぞれ自分の観点で書いているだけで、歴史的事実はもっと別物だった、などと主張する人たちもいます。そこで、この問題をどう考えたらよいか、少し考えてみましょう。信仰をもって健全な読み方をしている人には無用なことかとは思いますが。
イエス様の言行録である福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つが聖書に収められています。福音書はみな、イエス様の直の目撃者である使徒たちの証言録が基盤にあります。ただし、目撃者の証言録がすぐ福音書にまとまったのではなく、証言はまず口伝えされ、やがて手書きされたものもあわせて伝承され、それらが集められて最終的に今ある本の形にまとめられました。福音書はそのようにしてできました。イエス様の一連の出来事から、大体一世代ないし二世代を隔てているので、伝承されていくうちに、もとの証言も、長すぎれば要約されたり、短すぎれば補足されたりするということがでてきます。それで、同じ出来事を扱っていても描写や記述にぶれがでてくることになります。ただ、ヨハネ福音書は、十二弟子のひとりであるヨハネが自分で書いたと言っているので(ヨハネ21章24節)、つまり目撃者がじかに書いていると言っているので、信ぴょう性が高い可能性があります。しかし、これもイエス・キリストの出来事の時から、何十年もたって書かれているので、ヨハネが嵐のような人生を送っているうちに、胸にとどめた記憶も、年月とともに強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということもでてきます。それで結果的に、他の3つの福音書の基盤にある証言録の伝承と同じような変化が起こります。
このように、目撃者の証言録が伝承されるうちに膨らんだり縮んだり、記述される出来事の文脈がかわってきたりするのは、目撃者や伝承した人たちや福音書を最終的に書き上げた人たちの記憶とかものの見方が影響しているためです。しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、記憶やものの見方に相違があると言っても、これらの目撃者、伝承者、福音書記者はすべて皆、同じ信仰を持っていた人たちであるということです。つまり、イエス・キリストが死から復活した神の子であり、人間を罪と死の呪縛から解放する救い主であると信じた人たちであるということです。加えて、パウロを含む使徒たちの教えをしっかり守った人たちであるということです。そういうわけで、関係者はみな、使徒の信仰と教えという土台の上に立っています。このように大元のところのものは同じなのですから、記憶やものの見方に多少の相違があっても、それは大元のものを覆すほどのものでは全くなく、許容範囲にとどまるものです。このことを言葉をかえて言うと、伝承の過程において聖霊のコントロールがしっかり働いていたということです。実は、当時は、聖霊のコントロールから外れるような、使徒的でない伝承、教え、見解も多く流布しておりました(例えばトマス福音書とかユダ福音書とか)。しかし、そうしたものは一切、聖書のなかに入ることはできませんでした。なぜなら、それらは、使徒の信仰と教えという大元の土台に立っていなかったからであります。聖書は、まさに聖霊の働きの結晶です。聖書をあなどってはいけません。
2.以上、同じ出来事について異なる記述があっても、それは出来事を異なる角度から扱っているようなもので、全部一緒にみれば全体像がもっとわかる、という態度で聖書を読むことが、信仰ある健全な読み方であるであるということを確認しました。前置きが長くなってしまいました。本日の福音書の箇所の解き明しに入っていきましょう。
まず、少し歴史的背景から。百人隊長とはローマ帝国軍の文字通り100人の歩兵から構成される部隊の上官です。当時イスラエルの領域はローマ帝国の占領下にありましたから、各地には帝国軍の部隊が配置されていました。それでは、占領者側の軍隊の士官が、ユダヤ教の会堂を建ててあげるほどに被占領側の民族をこよなく愛していた、というのはどういうことなのでしょうか?まず、考えられることは、この隊長は、ローマやイタリア半島のような帝国の中心部の出身者ではなかっただろうということです。ローマ帝国は軍隊に占領地域からも士官や兵隊をリクルートしていました。アラム語を母語とするガリラヤ地方のユダヤ人と意思疎通できるのであれば、シリア州のどこかの出身ではないかと推測がつきます。つまり、百人隊長自身、ローマ帝国に占領された過去のある地域の出身ということです。
もう一つ考えられることは、イスラエルの領域は占領されていたとは言っても、当時ユダヤ民族はローマ帝国上層部に一目おかれていたということがあります。紀元前63年に将軍ポンペイウス率いるローマ軍がエルサレムを占領した時、兵隊が神殿になだれこみました。しかし、そこで礼拝を執り行っていた祭司たちはひるむことなく、周りで同僚が次々と剣に倒れようとも、残った者は何事もなかったかのように自分の職務を続けます。自分が倒れても、生き残っている同僚が続けていきます。これを目撃した将軍は、こんな民族は今まで見たことがない、と恐れを抱いたと伝えられています。ローマ帝国に占領されても、ユダヤ王ヘロデの巧妙な立ち回りで、半独立のような王制が維持されました。さらに、エルサレムの神殿を中心とするユダヤ教の信仰も公認され、ローマ帝国のあちこちにユダヤ教の会堂が建てられました。ローマ帝国のなかで、ユダヤ教やそれに続くキリスト教が広まっていった要因の一つとして、これらのいわゆる一神教が夫婦や家族の絆とか子供の命を大切にする価値観を掲げていたことがあげられています。それは、性的に無秩序になりがちな地中海世界の人々の目に新鮮に映ったことは十分に考えられます。
いずれにしても、天と地と人間を造った創造の神を信じて、いずれ神がこの世を裁いて新しい世を創り出すも、その前にメシアを送って新しい世の民を準備する、というようなユダヤ教の信仰については、ローマ帝国内では情報が流れていたと考えられます。本日の福音書の箇所に出てくる百人隊長、間違いなく帝国周辺の非占領地域出身だったでしょう、その彼も、赴任先でそうした信仰に触れた一人だったでしょう。まだ割礼を受けて改宗するまでには至らなくても、既に天地創造の神を畏れる心を持っていたと言うことができます。
3.この百人隊長が、イエス様をして「イスラエルにもこのような大きな信仰はまだ見たことがなかった」と言わしめる信仰を示しました。それはどんな信仰だったのでしょうか?
百人隊長は、イエス様が死期迫っている家来を癒すことができると信じていました。しかし、よく見ると、これは単にイエス様が癒しの奇跡を行う超能力者というような理解をはるかに超えたものであることがわかります。まず、イエス様と距離を置きます。自ら話に出向かず、人を遣わせます。マタイでは、百人隊長は一応対面しますが、それでも家の中には入らないで下さい、と言う。これは、当時ユダヤ人が神に選ばれた神聖な民として神聖でない汚れた異教徒との接触を避けていたという背景があります。百人隊長は、ユダヤ人たちに会堂を建てるくらいの接触は認められていたが、それでもイエス様に対しては、自分は会堂くらい寄付する者だ、とひけらかすことなく、逆に自分の立場を深くわきまえたかのように、イエス様と距離を置こうとする。それくらいイエス様を神聖な者として扱っています。それくらい自分は神聖なものからかけ離れた存在であるということを認めているのです。
次に、もうすぐ死ぬ状態にある家来が回復するために、直接そこに行って何か具体的な癒しの行為をする必要は全くなく、離れたところからイエス様が口に出す言葉で十分です、と言います。7節は字句通り訳すと、「言葉をもっておっしゃって下さい。そうすれば、私の家来は癒されます」です。言葉で十分と言うのです。ここで、百人隊長は、イエス様の言葉にどんな力があるかと信じていることを示すために、自分の経験を話します。それは、隊長自身、上官の命令に有無を言わずに服従する者であり、また彼の下す命令には兵隊や家来たちは、これも有無を言わずに服従する、ということです。つまり、この有無を言わずに服従するということが、イエス様が病気、特に今あるように死に至る病に対して発する言葉にも起きる、これらの病気は有無を言わずにイエス様の言葉に服従する、ということです。しかも、ここで焦点になっているのは、人間同士の地位の違いからくる服従関係ではなく、人間が自分の力でどうすることもできない死というものを服従させるということです。問題は、とてつもなく大きなものです。
創世記の初めにあるように最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。まさに、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」6章23節で、死とは罪の報酬である、と言っている通りです。こうして人間は、代々死んできたことに示されるように、代々罪を受け継いできました。人によっては、キリスト教はすぐ罪、罪と強調するが、自分は何も大それた悪いことはしていない、と言う人がいるかもしれません。しかし、イエス様は、たとえ人殺しをしていなくても、人を心で憎んだだけで、それは十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」を破ったことになる、たとえ不倫を犯さなくても、異性をみだらな目で見ただけで、それは第六の掟「汝姦淫するなかれ」を破ったことになる、と教えます。つまり、神の意思を守るというのは、行為に現れるか否かにとどまらず、心の有り様も入る、というのであります。こうなれば、誰も神の意思を完全に守れる人などいなくなります。だから、人間は誰もが罪を背負っているのです。犯罪のような行為に現れる罪を犯した人も、行為に現さなかった人も、神聖な神の目の前では誰もが罪びとなのです。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪を言い表すのに、行為に現れる罪(tekosynti、gäningssynd)、遺伝的に継承される罪(perisynti、arvsynd)と使い分けする言葉があります。行為に現れる罪は全て、継承された罪が土台にあります。行為に現れる罪は犯していなくても、その人に継承された罪がないとは言えないのです。誰でも、生まれたばかりの無垢そのものの赤ちゃんが罪びとだなどとは思えないでしょう。しかし、赤ちゃんが行為に現れる罪は犯していなくても、大人同様に死の力の下にあるということは、継承された罪を背負っているということなのです。
百人隊長は、イエス様の発する言葉には、死の力を上回る力があると信じていました。死の力を上回る力というのは、罪の力を上回る力ということです。さらに、言葉で十分です、と言うのも、隊長が、イエス様のことを天地創造の神と同じ地位にある方であると理解していたことを示しています。なぜなら、神は天地創造の時、言葉を発しながら万物を創造していったからです。そういうわけで、百人隊長は、イエス様が天地創造の神と同等の地位にあり、人間を死と罪の呪縛から解放する力を持った方である、と信じていたのであります。普通は、イエス様が神の子で救い主であると人々にはっきりわかるようになるのは、十字架と復活の出来事が起きた後でした。それが、まだそれらが起きる前に、百人隊長はイエス様のことをそのように捉えていたのですから、イエス様が「自分はイスラエルでもこんな大きな信仰は見たことはない」と驚かれたのは当然でしょう。
4. 以上、神の言葉には、万物を創造する力があるということ、そして、神のひとり子であるイエス様の言葉には、人間を堕罪で生まれた罪と死の力から解放する力があるということを見てまいりました。こうした力を持つ言葉は、実は、今を生きる私たちにもかけられています。人によっては、それは、ちょっと飛躍がありすぎではないか、と思われるかもしれません。なぜなら、私たちには、そういう言葉をかけてくれるイエス様が身近にいないからです。そこで、牧師や宣教師はいつも、神の御言葉やイエス様の御言葉は聖書に書いてある、と言って、言葉をかける本人は身近にいなくても、かけられる言葉は身近にある、と強調します。しかし、そう言われても、たいていの人は、聖書にある言葉を読んでも病気が治るわけではないし、書かれて印刷された文字には力がなくて、やはり肉声でないとだめだ、と思いがちです。しかし、聖書に記された神の言葉や主イエス様の言葉、さらに神やイエス様について言われている言葉全てには、人間を罪と死の呪縛から解放する力があります。もし私たちに今何か闘病している病気があるとしても、その病気の癒しを超える大きな癒しを与える力を持っています。その大きな癒しとは、たとえ今闘病している病気が治っても治らなくても、それに関係なく持つことのできる癒しであります。
どういうことかと言うと、イエス様は、十字架にかかって死んだとき、私たち人間に替わって人間の不従順と罪から来る罰を全て引き受けて下さりました。十字架に罪の赦しがある、と言われる所以です。罪の赦しがあるということは、神の意思を完全に満たせない人間が、イエス様のおかげで神に受け入れられる道が開かれたということです。その後は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神による受け入れが信じる人に対して効力を持つのであります。さらに、神はイエス様を死から復活させて、死の絶対的な力を無力にしました。こうして、神は、永遠の命、復活の命の扉を人間に開かれました。このようにして、キリスト信仰者は、自分の造り主である神との関係が回復し、同時に、永遠の命、復活の命に導く道の上に置かれることとなりました。それからは、その道の上を歩んでいくことになります。堕罪の時に断ち切れていた神との関係が回復したのですから、これからは順境の時も逆境の時も、ずっと神の導きと守りを与えられて歩むことになります。もし、この世から死ななければならなくなっても、その時は、すぐ神が手をさしだしてみもとに引き上げて下さいます。そして、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのです。
確かに私たちは今、当時の人たちと違って、イエス様の肉声を聞くことはできません。しかし、私たちには、神の御言葉の集大成である聖書があります。当時の人たちは、まだ福音書も使徒書もありませんでした。イエス様は何者か、ということは、誰もが手探りの状態でした。百人隊長のように、あの方は神と同等の地位にあり、その言葉には死と罪の力を上回る力がある、と信じられた人は稀の方でした。多くの人たちは、奇跡を行える預言者の再来だとか、イスラエルをローマ帝国の支配から解放する王様だとか、本質からずれた見方をしていました。百人隊長とて、まだ十字架と復活の出来事の前のことですので、理解はおぼろげなものだったでしょう。もちろん、理解は正しい方向を向いていましたが。信仰の土台となる的を得た、真の正しいイエス理解というものは、十字架と復活の後にでてきます。旧約聖書のあの預言は、実にイエス様に起きたあのことを指していたんだ!という具合に。そういうことが次々と判明されていって、使徒書や福音書が生まれてきたのです。これに加えて、ひとり子をこの世に送ることになる天地創造の神の計画や意思を全て前もって知らせている旧約聖書がありました。それらが一つになって、聖書が私たちに与えられました。歴史上起きた出来事をもとに判明されていったことの集大成が手元にありますので、私たちは、当時の人たちのように手探りする必要はありません。イエス様を救い主として信じる信仰は、聖書を健全な読み方で読み、また聖書の正しい解き明しを聞くことによって生まれます。そういう読み方や聞き方をする時に、聖霊が働きます。そのようにして生まれた信仰をもってこの世を生きる時、私たちは、罪と死の呪縛から解放された者として生きる者となり、また罪と死の支配力を無力にした方がいつも共にいて下さるのであります。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに日々を歩んでまいりましょう。
5千人以上の人たちの空腹をわずかな食糧で一度に満たしたことに限らず、イエス様が行い、またイエス様にまつわる奇跡は、無数の不治の病の癒し、悪霊の追い出し、自然の猛威を鎮めたこと、そして処女からの誕生や死からの復活など、枚挙にいとまがありません。本説教では、まず、イエス様の奇跡の業の信ぴょう性について考えてみます。その次に、奇跡が私たちの信仰にどんな意味があるのかを明らかにしながら、天地創造の神の私たちに対する愛と恵みについて学びを深めていきたいと思います。
これらの奇跡は全て福音書に収録されていますが、それらは全て目撃者の証言が土台となっています。ただし、目撃者の証言録がすぐ福音書にまとまったのではなく、証言はまず口伝えされ、やがて手書きされたものもあわせて伝承され、それらが集められて最終的に福音書という本の形にまとめられました。イエス様の一連の出来事から、大体一世代ないし二世代を隔てているので、伝承されていくうちに、もとの証言も、長すぎれば要約されたり、短すぎれば補足されたりするということがでてきます。それで、同じ出来事を扱っていても描写や記述にぶれがでてくることになります。ヨハネ福音書は、十二弟子のひとりであるヨハネが自分で書いたと言っているので(ヨハネ21章24節)、つまり目撃者がじかに書いていると言っているので、信ぴょう性が高い可能性があります。しかし、これもイエス・キリストの出来事の時から、何十年もたって書かれているので、ヨハネが嵐のような人生を送っているうちに、胸にとどめた記憶も、年月とともに強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということもでてきます。それで結果的に、他の3つの福音書の土台にある証言の伝承と同じようなことが起こります。
福音書の土台にある目撃者の証言が伝承されるうちに膨らんだり縮んだり、記述される出来事の文脈がかわってきたりするのは、目撃者、伝承者そして福音書を最終的に書き上げた人たちの記憶やものの見方が影響しているためですが、ここで忘れてはならないことがあります。それは、記憶やものの見方に相違があると言っても、これらの目撃者、伝承者、福音書記者はすべて皆、イエス・キリストが死から復活した神の子であると信じた人たちで、パウロを含む使徒たちの教えをしっかり守った人たちであるということです。大元のところのものは同じなのですから、記憶やものの見方に相違があっても、それは大元のものを覆すほどのものでは全くなく、許容範囲にとどまるものです。その意味で、伝承の過程において聖霊のコントロールがしっかり働いていたと言うことができます。ただし当時は、聖霊のコントロールから外れる伝承、教え、見解も多く流布しておりました。皆様も耳にしたことがあるかもしれませんが、トマス福音書とかユダ福音書とかがそうした伝承、教えでした。しかし、そうしたものは一切、聖書のなかに入ることはできませんでした。聖霊の働きの結晶である聖書をあなどってはいけません。こうしたことを念頭に置いて、5千人の空腹を一度に満たした奇跡について見てみましょう。
この出来事は、マルコ福音書とルカ福音書では、12弟子たちが宣教旅行から帰ってきて、弟子たちを休ませようとイエス様が群衆から離れたガリラヤ湖の対岸へ連れて行ったが、群衆はそれでもついてきてしまう。仕方なく教えや癒しを続けているうちに夜が更けて、食べ物に困る事態になり、奇跡に及んだという流れです。歴史的な背景として、ヘロデ・アンティパス王が洗礼者ヨハネを殺害した後の出来事として記述されています。マタイ福音書では、12弟子たちが宣教旅行から帰還した旨が一切述べられず、弟子たちはいつの間にかまたイエス様と行動を共にしています。それでも、この5千人の奇跡の出来事は、ヘロデ・アンティパス王のヨハネ殺害後に起きたという歴史的背景については、マルコとルカと同じで、イエス様は弟子たちとガリラヤ湖の対岸に移動するも、群衆がついてきてしまい、その後はマルコとルカと同じような流れになります。ヨハネ福音書では、歴史的背景は触れられず、ただガリラヤ湖の対岸に移動したイエス様と12弟子たちを群衆が追っていくということから始まります。ヨハネ福音書では触れられていないとは言っても、出来事の前後に洗礼者ヨハネはもはや登場せず、背景にヨハネが姿を消すような事態があったことは明らかです。12弟子たちが宣教旅行から帰還した直後かどうかは見解が分かれるかもしれませんが、それでも、洗礼者ヨハネが歴史の舞台から姿を消した後で、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖の対岸に移動するや群衆が後を追ってきたという点では、4つの福音書は全て一致しています。奇跡自体の詳細についてみると、確かに、ある福音書では触れられているが他では触れられていないというものがいろいろあります。それでも、まず、(1)弟子たちがイエス様に、もう遅いし皆空腹だから群衆を帰らせて下さいとお願いする、(2)イエス様は、今ここにどれくらい食べ物があるかと聞かれる、そこには5切れのパンと2匹の魚しかない、(4)イエス様は群衆を座らせ、天を仰いで感謝し、(5)弟子たちを通してパンと魚を分配すると皆がおなか一杯になり、(6)あまりが出るくらいだった、(7)群衆は成人男子だけで5千人いた、という点では4つの福音書とも一致しています。このように5千人の奇跡の話は、とりあえず細かい相違点に目をつぶっても、一致する部分がこれだけでてくるという、目撃者の証言が伝承過程を経ても原形をとどめた好例と言うことができます。これで、奇跡の信ぴょう性についての議論は、とりあえず一段落したことにしましょう。
それでは、話を一歩進めて、イエス様が無数の奇跡を行われたことは、私たちの信仰にとってどんな意味があるのか、ということについて考えてみましょう。
イエス様が数々の奇跡を行われたということにはどんな意味があるかというと、それは、神の国がイエス様と一体となって到来したことを示す役割がありました。どういうことか見てまいりましょう。
まず、洗礼者ヨハネが登場し、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べて、神の裁きの日とメシアの到来の日が近づいたことを人々に知らせ、それに備えよと訴えます。そのヨハネが投獄された後、ガリラヤに乗り出したイエス様も、全く同じ言葉「悔い改めよ。神の国が近づいた」を公にして活動を始めます。ただし同じ言葉を使ったと言っても、イエス様の場合は、神の国が彼自身と一体になって既に来ている、という点でヨハネの場合と大きく異なっていました。ヨハネが「神の国が近づいた」と言うとき、それは「まだ来ていない」ことを意味しましたが、イエス様の場合は「もう来ている」ことを意味していました。
神の国がイエス様と一体となって来たというのは、彼の行った数々の奇跡に示されています。マタイ福音書11章で、投獄中のヨハネが弟子をイエス様のもとに送って、彼が預言に約束されたメシアであるかどうか確認させます。ヨハネに伝えなさいとイエス様が言った言葉は、「私は現に目の見えない者が見えるようにし、耳の聞こえない者が聞こえるようにし、歩けないものを歩けるようにし、らい病を患った人たちを完治し、死んだ者を生き返らせ、貧しい者に良い知らせを宣べ伝えている」というものでした。この言葉はイザヤ書の35章と61章の初めが凝縮されていますが、これらは救いの日つまり神の国の到来を預言する言葉です。また、マルコ福音書3章では、イエス様が悪霊を退治した時、反対者たちから「あいつは悪霊の仲間だからそんなことができるのさ」と中傷を受けます。それに対してイエス様は、「悪霊が悪霊を退治したら彼らの国は内紛でとっくに自滅しているではないか」と反論し、自分が神の国と一体になっているからこそ悪魔が逃げていくのだと証します。このようにイエス様の数々の奇跡の業は、病や悪霊の力を超えた力が存在し、そういう大きな力が働く領域があることをはっきり示すもので、神の国が彼と共に到来したことの印だったのであります。
ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありません。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神の国に入ることはできません。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。本来私たち人間が受けるべき不従順と罪の裁きを、イエス様が全部引き受けて十字架で死なれ、ご自身の血を代価として支払って、私たちを罪の奴隷状態から解放して下さった。同時に死から復活されたことで、死を超えた永遠の命に至る扉も開いて下さった。このことが、まさにこの私のために行われたのだとわかって、イエスを主と信じて洗礼を受けて、そうして神がイエス様を用いて完成された救いを所有する者となった時、私たちは神から義なるものと見なされる存在となり、神聖な神の国の立派な一員として迎えられることとなったわけであります。
ところが、洗礼を受けて、完成された救いの所有者となって、神の国の一員に迎えられたと言っても、病や飢えや渇きや自然の猛威は、私たちにとってまだ現実です。キリスト教徒も、そうでない人たちと同じように病や飢えや渇きや自然の猛威に晒されます。もちろん、時としてそうしたものから奇跡的に助かった人の信仰の証を聞くこともありますが。神の国の一員に迎えられているのなら、どうしてかつてイエス様が来た時のような力ある国ではないのか、という疑問が起きましょう。
それは、まだこの世が終わっておらず、神の国の一員である私たちは実はまだそうしたこの世にも生きていることによります。この世が終わる時、全てのものは滅び去り、神の国だけが永遠に残ります。イエス様が再臨され、信仰をしっかり守って生きた者たちに復活の命を与え、神の国に集められます。そこは、全ての涙が拭われ、死も悩みも嘆きも苦しみも存在しないところです(黙示録21章4節)。まさに病や悪霊や自然の猛威を超えた力が働く領域です。そもそもそういう邪悪なものが全て消滅してしまったからです。
ここで「信仰をしっかり守って生きた人たちが永遠の命を与えられて神の国に集められる」と聞くと、たいていのキリスト教徒は自分には無理だと思ってしまいます。なぜなら、肉をまとってこの世を生きる以上は、自分の内に罪と神への不従順がまだ宿っていることを認めざるを得ないからです。しかしながら、「信仰をしっかり守って生きる」と言うのは、罪と不従順がなくなった状態を意味するのではないのです。そんなことは、まだ不可能です。洗礼を通して神がイエス様を用いて実現した救いの所有者になる、ということは一体何なのか?それは、罪と不従順をまだ持っているにもかかわらず、それらがもたらす裁きが赦されて、神からさもそれらがないかのように見てもらえるようになったことを意味します。その時、このようなことを成し遂げて下さった神を賛美し感謝しようという心が生まれ、「全身全霊をもって神を愛せよ」と「自分を愛するが如く隣人も愛せよ」という神の意志に聞き従うのは当然だという心が育っていきます。実に洗礼によって、私たちは、肉に宿る古い人間を日々死に渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在へと新しく創造されたのであります。この一大プロセスの終着点に復活があり、その時、古いものは全て消滅し、私たちは完全なキリスト教徒となって、永遠の命を生き始めます。そういうわけですから、洗礼を通して力強い神の国の一員に迎えられた筈なのに不運にも死が間近に迫る事態となってしまったとしても、本当は慌てふためく必要はないのです。瞬きした瞬間、私たちは完全なキリスト教徒になって永遠の命を生きています。その時、死は私たちに何の力もありません。実は、死は、私たちが洗礼を受けた時に、もう私たちを支配する力を失っているのです。
5.
以上、イエス様が奇跡の業を通して、神の国の到来とその力を示されたことと、そして洗礼が私たちをそうした神の国の一員に迎える力をもつものであることが明らかになりました。理性をもち、目で見えるものにより頼もうとする私たちに、こうしたことを信じるのは、簡単なことではありません。私たちは、それらのことを目で見ることができず、信じる手がかりは、聖書に書かれたことしかないからです。イエス様の時代の人たちは、奇跡を目のあたりにしたので、信じるもなにも、見たことをそのまま受け入れるほかありませんでした。あえて言うならば、奇跡を「信じる」必要がなかったのです。私たちの場合は、目撃者の証言が唯一の手がかりです。「信じる」とは、目に見えないからこそ、成り立つものと言うことができます。要は、天地を創造し、私たちも創造し、ひとり子をこの世に送られた神は自分で言った言葉と約束をちゃんと守り通せるお方であると、信じることができるかどうか、ということです。ここまで言われれば、信じて当たり前という気持ちになります。
ルターは、信じることと実感することは相反するものであり、相反するこれらのものの戦いがあることで信仰が強められると教えています。
「福音から真理の光を受けた人は、聖書の御言葉に支えられて心をキリストに傾注するようになる。その人は、自分の内に罪と神への不従順があることを感じ、まだその中に浸かっていると思い知りながらも、実は次第に地獄と罪の支配が及ばないところへと導かれるのである。
この時、その人の内に戦いが始まる。実感することこそ全てだとする実感中心主義は、聖霊と信仰に対して戦いを挑み、聖霊と信仰は実感中心主義に戦いを挑む。信仰は、その性質上、理性が実感を追い求めるのをほっておく。信仰は、生きる時も死ぬ時も、ただ聖書の御言葉のみにより頼み、目に見えるものにより頼もうとしない。実感中心主義では、理性と五感が把握できる以上には到達できない。このように、実感中心主義は信仰に対立し、信仰は実感中心主義に対立する。この戦いの中で、信仰が成長すればするほど、実感中心主義はしぼんでいく。逆もまたしかりである。
罪、驕り、貪欲、憎しみなどが私たちの内に宿っているが、それは、私たちを信仰に踏みとどまらせて鍛えるためであり、そうすることで信仰は日々前進し、私たちは最終的に頭からつま先までキリスト教徒となって、完全にキリストの守りに覆われ、復活の日の大祝宴の席につけるようになる。海の波を見たまえ。あたかも岩壁を力で破壊しようとするかのごとく、次から次へと押し寄せるが、岩壁にあたると壊れてしまい消えてしまう。同じように罪や神への不従順も、私たちの頭上に襲いかかって、私たちを絶望に追いやろうとするが、それらも退却を余儀なくされ、最後には消滅するのである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の異なる人を比較します。一人は、イエス様の教えを聞いて、それを実行する人。もう一人は、教えは聞くが、実行しない人です。この二人がどう比較されるかというと、最初の、イエス様の教えを聞いて実行する人は、堅個な地盤を選んでそこにしっかりした基を築いて、その上に家を建てた人。教えを聞いても実行しない人は、地盤を選ばずただの地面に基も築かずに家を建てた人。そして洪水が押し寄せてきたとき、堅個な地盤の基の上に建てられた家は、揺るぎもせず洪水に押し流されることもなく、しっかりとどまったが、ただの地面に基もなく建てられた家は、見るも無残に倒壊してしまった。イエス様の教えを聞いて実行する人は、このしっかり残った家を建てた人で、教えを聞いても実行しない人は、倒壊してしまった家を建てた人と同じである、と言うのであります。
ここでイエス様が言われることは、ルター派のキリスト信仰者である私たちをドキリとさせます。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、基のない家を建てる人と同じように家ともども悲惨な運命を迎えてしまう。つまり救いに与れない、復活の命・永遠の命に入れないということであります。
ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前はふさわしい者だ」みなされる、「よし」とみなされる、つまり信仰によって義と認められるという信仰義認が強調されます。人間は、律法に命じられたことを守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって神に「よし」と認められるというのであります。そうすると、本日の箇所で、イエス様は、ご自分の教えを実行することの重要性を説くのでありますが、それは、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味するのでしょうか。まず、この問題を考えてみましょう。
確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに実行や実現を迫る命令が多くあります。ただし、ルターによれば、こうしたイエス様の命令は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に入って救われた状態になった時に関係してくるというものです。つまり、これらの命令は、まだ救われていない人がこれから救われることを目的として行うものではない、ということです。
どういうことかもう少し詳しくみてみます。本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様は、「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(6章38節)と述べます。つまり、キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりしてしまうということです。他人に情けなく振る舞えば、神もその情けない人に対して同じように情けなく振る舞ってしまうということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。
『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、我々が神よりも隣人に仕えることの方が大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分に関わることならば、我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人に関わることとなると、そうではない。もし我々が隣人に対して悪く立ち振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て却下すると言われるのだ。
実は、この「量る、量りかえされる」というのは、我々が信仰に入った後に起こることで、信仰に入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを思い出すがよい。神は、君のことを君の業績や能力にもとづいて受け入れたのではなかった。神は、御自分の一方的な恵みによって君を受け入れて下さったのだ。そして、信仰に入った君に対して、神は今、次のように言う。「私がお前にしたように、お前も他の人たちにせよ。もししないのならば、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも及ぶ。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。
信仰に入った後の「量ること、量りかえされること」は、このようにして起きる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを却下されるのである。そのようにして我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』
実に厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、こういうことです。つまり、私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れない善いことを私たちにして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、ということであります。つまり、キリスト信仰者にとって、善い行いとは、神に救われたことの結果として自然に生じてくる果実のようなものでなければならないということです。神から救いを勝ち取るための努力や修行では全くないのです。
そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに簡単に善行が生じてくるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、一度立ち止まって吟味する必要があります。
何が人間の救いか、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、ということについて、聖書は明確に知らせています。救いということがわかるために、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。人間なんか、神の大いなる意志や計画とは無縁に、いろんな化学物質の偶然の合成からできてきて勝手に進化して今ある姿かたちになったのだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があるのか、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしていきます。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。
創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅ぶしかない人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画を立てて、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順からくる罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、死の持っていた絶大な力を無力にして、永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。 詩篇49編8-9節に次のように言われています。 「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金をはらうことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。 このように、人間がいくら金銀財宝を積み上げても、造り主である神との関係を立て直して、永遠の命を得ることはできません。ところが、この払いきれない身代金を払って、人間を罪と死の奴隷状態から贖い出して下さった方がいました。それが、イエス様だったのです。イエス様は、十字架に架けられる前から、自分は「多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)のだと、御自分に課せられた任務を明らかにしていました。イエス様が私たちを買い戻すために支払った代金とは、十字架の上で血みどろになって流した血、神聖な神の御子の血がそれだったのです。それが、私たち一人一人の価格だったのです。
こうして、人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に通じる道に置かれます。神との結びつきができたのでありますから、順境の時にも逆境の時にも絶えず神の守りと導きを受けられます。たとえ、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?神の私たちに対する愛の深さがわかれば、喜びと感謝のあまり、他人が自分に対してどんな負債があろうが、また自分に気に食わないことを言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。そして、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。
以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に命じられる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いの所有者であることを忘れるな」という注意喚起が伴っていることが明らかになりました。このことを念頭に入れて、本日の福音書の箇所のイエス様の教えを見てみましょう。
まず、37-38節。裁いてはいけない、有罪としてはいけない、とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をさせたいままにさせろ、ということでは全くありません。天地創造の神は、罪や不正義や神への不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、汚れた罪を目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪であると、神の意思に反するものであると、罪を犯した人に対して態度を明確にしなければなりません。もし罪が他人に危害や損害をもたらす度合いのものであれば、それは社会の法制度が定めている仕方で処罰や償いを実行していかなければなりません(もちろん、その処罰や償いが理に適っているかどうかは、たえず考えていかなければならない問題ですが、ここでは立ち入りません)。
しかしながら、ここで注意しなければならないことは、罪や不従順を断罪せずにはいられない神聖な神の目的は、実は人間が罪と抱きかかえに滅んでしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。キリスト信仰者が罪に対して明確な態度をとる時に、罪を犯した人に対して、「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと断罪してはならないということです。神の関係が断ちきれたままで関係修復の見込みがないかどうか、それは神が将来最終的に決めることであります。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と信じるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、この目的を阻止することになります。神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、そのような人こそ逆に神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分自身としては、罪を犯した者がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということであります。もちろん、罪を犯した人が異常な位に心が凝固していれば、働きかけは逆効果になる危険があります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務であります。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。社会的な償いが大きくなる犯罪であればあるほど、この「どんな大きな罪も赦される」はなかなか信じられません。しかし、神の目から見て神との関係が修復されたことは揺るがないのであります。
39-40節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」を及ぼすのを妨げる者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。
ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了した者となって教師のようになる、と言われます。動詞の未来形(εσται)が使われ、将来こうなると約束がなされます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの一連の教えを述べているのは、まだ十字架と復活の出来事の前のことです。まだ、神の御子の神聖で尊い血を身代金とする「罪の赦しの救い」は、まだ実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せ、などと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在でしかありません。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分はとてつもない価格をもって神のもとに買い戻されたのだとわかって、この救いを受け取る者がでる。そして、その者が今度はまさにイエス様の真の弟子として、他の人たちもその救いを受け取ることができるようにすることが任務となる。まさに、洗礼と信仰という必要な課程を修了して、救いを拡げていく者として、教師イエスが開始した仕事を受け継ぐ、その意味で教師のようになるのです。この教えを述べられた当時、イエス様は、今はまだ不可能であるが、将来そうなる、と約束しているのです。その約束は実現されたのでした。
こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。41-42節に出てくる、他人の目にある屑のような小さいゴミに気づいて、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに断罪して「罪の赦しの救い」を拡げていくことを妨害する盲目の信仰者のことです。43-45節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者を指します。そして、最後に46-49節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取ってそれを拡げていく者であり、教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取ったにもかかわらず、断罪者となってしまい赦しを拡げることを妨害してしまう者のことです。一方は、嵐や洪水が来ても倒れない家を建てる人と比較され、他方は倒壊してしまう家を建てる人と同じになってしまいます。
先に、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いの所有者であることを忘れるな」という注意喚起が伴っている、と申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを賜ったことが自覚できているならば、そのような計り知れない善いことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申し上げました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心にも愛が点火される、ということであります。
そうは言っても、現実はなかなかそう甘くはない。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生は、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、聖書の神の御言葉と聖餐にしっかり繋がり、罪と死と地獄に対して完全勝利を収めたイエス様に結びついている限り、イエス様は私たちを必ず勝利に導いて下さいます。
最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。イエス様は、残念ながら、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の基の上に建てられた家も、基がないままに建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら基の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との関係が回復して、日々守りと導きを受けていると言っても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係が回復された者、そしてそこから生じる喜びと感謝から自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、こういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地及び人間を造り、私たちに人生を与えて下さった神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格の三つです。これらが同時に一つであるというのが私たちの神であります。
三つが一体を成しているということは、本日の福音書の箇所にもよく出ています。まず、イエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを背負いきれない、耐えられない(ギリシャ語動詞βασταζωは「理解する」より、こっちのほうがよい)、と(12節)。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないものとは、もちろん、神から送られた独り子がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということ。そして、そのような仕方でしか、人間を神から切り離している原因すなわち罪の呪いを取り除くことが出来ないということ。このようなことは、十字架と復活が本当に起きる前の段階では、聞くに耐えられないことであります。なぜなら、このナザレ出身のイエスこそ、ユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる英雄であるとの期待がもたれていたからであります。
しかしながら、十字架と復活そして昇天の後で、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかるようになります。まさに、神の御子の十字架上の死は人間を罪の呪いから贖い出すための身代わりの死であったのだと、そして、主の死からの復活によって永遠の命が確立し、罪と死は人間に対する支配力を失ったのだと、こうした真理がわかるようになったのであります。これは聖霊が働いたためですが、まさに、イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということです。この箇所のギリシャ語の原文は、「あなたがたが真理全体にしっかりとどまれるように聖霊は教え導く」と訳すこともできます。神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて生きるようになっても、今のこの世には罪の力がまだ働いていて、神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとします。そうなると、それまで当然と思われていた神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することは、嫌気がさすものになっていきます。信仰者は、この変わり様を悲しみ、なんとかまた当然のこととなるようにと苦しい戦いを始めます。この時、真理全体にとどまれるよう私たちを応援してくれるのが聖霊なのす。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちが信仰の戦いをする時には、私たちは一人ぼっちではなく、聖霊が共におられることを忘れないようにしましょう。
13節から15節にかけてイエス様は、聖霊が私たちを教え導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを、イエス様についての真理を、私たちに告げるのだ、と教えます。そして、父なる御神のものは同時に御子のものでもある、と言われているように(15節)、イエス様がこう言いなさいと言ったことは、それは父なる御神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということなのであります。つまり、父と子と聖霊は同じ真理を持って作用するという意味で、三位一体なのであります。
キリスト教は、現在、カトリック、プロテスタント、正教などにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白は、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。
三位一体は、初期のキリスト教徒が新しく作り出した考えと見なされることがあります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つとして持つ神ということは、既に旧約聖書のなかに垣間見ることが出来ます。箴言8章22-31節には、神の知恵がいかに人格を持った存在であり、知恵(「彼」と呼ばれる)は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っている時にその場に居合わせていた、ということが述べられています。イエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王の知恵は神由来の知恵として知られていたので、それより優れた知恵と言えば、神の知恵そのものということになります。箴言のなかに登場する、天地創造の時に父なる御神とともに居合わせた知恵について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス・キリストを指すとすぐわかりました。それで、御子は天地創造の時にすでに父なる御神と一緒にいたということを言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロッサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、天地創造の時、神は言葉を発しながら万物を作り上げていったことから、御子が創造に積極的にかかわったことを明確にしようと、それでイエス様のことを神の言葉そのものであると言うようになりました(ヨハネ1章)。
ところで、天地創造の時に居合わせたのは神の知恵や言葉である御子だけではありません。創世記1章2節には、神の霊も居合わせたことが明らかに述べられています。創世記1章26節に興味深いことが書いてあります。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。天地創造を行った神は、その時に人格を持った同席者を有していたということであります。
次に、私たちの神はなぜ三つの人格を同時にもった一人の神でおられるのか、ということについて考えてみます。神が三位一体であるということは、神の私たちに対する愛と大いに関係があります。私たちに愛と恵みを注ぐために、神は三位一体でなければならない、三位一体でなければ愛と恵みは注げない、と言っても過言ではないくらい、神は三位一体な存在なのであります。以下に、そのことを見てまいりましょう。
私たちがまず、思い起こさなければならないことは、神と人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知り行えるようになってしまう。そして死する存在になってしまいます。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのであります。人によっては、悪い行いを外に出さない真面目な人もいるし、悪いこともするが良い行いが上回っているという素敵な人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間を罪の存在とみなすと、神は全く正反対の立場の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という全くかけ離れた二極の存在です。
ここで、「神聖」という言葉について。日本語ではよく「聖」という言葉を使います。「聖なる万軍の主」とか言うように。それは少し弱くありませんか?明治憲法に「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、「神聖」と言った方が、「聖」より迫力があって、本質に迫れる言葉だと思います。
神の神聖さとは、罪の存在である人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは神を肉眼で見てしまう。その時の反応は次のようなものでした。「私は呪われよ、私は滅びてしまう。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪の存在が神聖を目にした時の反応であります。罪の汚れをもつ存在が神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのでありますから、預言者でもない私たちにはなおさらのことです。自分の罪と自分の属する民の罪を告白したイザヤに対して、天使の一種であるセラフィムは、燃え盛る炭火をその唇に押し当てます。それがイザヤを罪から清めました。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪からの清めをせずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。
神を直接見ることのない私たちにとって、神聖の危険はわかりにくいかもしれません。聖礼典と呼ばれる洗礼や聖餐は、神聖な礼典です。でも、洗礼式や聖餐式において、誰も目や体を焼き尽くすような光や熱に遭遇しません。しかし、それらの礼典の持つ影響力は、莫大なものであることを忘れてはなりません。
洗礼によって、私たちは、イエス・キリストの義という白い衣を頭から被せられます。義というのは、神の神聖な意志が成就されている状態です。イエス・キリストは神の御子なので、その義を持っています。不従順と罪にまみれた私たちは、義が持てないので、それを外から与えてもらい、義にしてもらわねばなりません。本来私たちが受けるべき不従順と罪の裁きをイエス様がかわりに引き受けて下さって、私たちにはご自身の白い衣を被せて下さった、このことをわかって、それでイエス様は私の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神は私たちに白い衣がまとわれていると認めて下さいます。私たちが衣の内側にまだ罪の汚れを持っているのにかかわらず、私たちがまとっているその白い衣を見て私たちを神に相応しい者と見て下さいます。洗礼には、このようなとてつもない影響力があります。
聖餐も同様です。この世の人生を歩むとき、私たちの内に残る不従順や罪が、私たちのまとっている義の衣のことを忘れさせようとします。まとう以前の古い命に戻るように誘い出します。そこで聖餐にて主の血と肉を受けることで、私たちは、義の衣を被されていることをはっきり思い起こすことができます。そして、その衣をまとわされた者としてふさわしく生きる力と栄養を受け取ることになります。パウロは、こうした聖餐がいかに神聖なものであるかを教えました。彼は、コリントの信徒たちに次のように注意しました。聖餐を受ける前に、まず、自分自身をよく吟味しなさい。不従順と罪の汚れのために義の衣をまとって生きることに疲れました、それで、主から力と栄養をいただきたいのです、と希求しなさい。そのように希求する者として聖餐に与りなさい。しかし、自己吟味もせず、聖餐が霊的な力と栄養を与える重大なものであることをわからずに受けるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになり、ひいては、その人に対して裁きを呼び起こすことになる。実際、コリントの教会にて、聖餐を誤った仕方で受けた者が、病気になったり命を落とした例があると、パウロは指摘しています(第一コリント11章26-32節)。
以上のように、神の神聖さに対して、私たち人間は、怖れをもってよく注意しなければなりません。しかし、今の世が新しい世にとってかわる日、すなわち復活が起きて私たちが永遠の命に入る日には、全てが一変します。そこで、私たちは神聖な神を顔と顔を合わせるように目にすることが出来るのです(第一コリント13章12節)。その時、私たちは、神の神聖さに燃やし尽くされません。なぜなら私たちが神聖な者に変えられたからです。
このように、神聖な神は、復活の日に私たちを神聖なご自身のもとに迎え入れて下さいます。私たち人間との間にある果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちが信じて洗礼を受けた時にその手と手が結ばれ、その後は神は、私たちから手を離すことがない限り私たちを天の御国に導いて下さいます。このような神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。このことをルターの使徒信条の説明を通してみてみましょう。今日は、説教の後で、この使徒信条によって信仰告白をいたします。
使徒信条の第一部は、神が父としての人格をもつことと、その創造の役割について信仰告白するところです。ルターは、これを次のように説明します。 「私は、神が私と全ての生き物を造られたこと、私に肉体と魂と目と耳その他の全ての器官と理性と五感をお与えになったことを信じます。また神は、これらのものが動くようにして下さり、さらに衣服、靴、食べ物、飲み物、家屋、配偶者、子供、畑、家畜その他の所有物を与えて下さり、また毎日十分に栄養その他生きるための必要物をお贈り下さり、さらに、あらゆる危険から守って下さり、あらゆる悪から守り救い出して下さると信じます。これらのこと全てを、神は、私が何かを行った褒美として与えて下さるのではなく、ただ神ならではの思いやりと憐れみから一方的にして下さったと信じます。私は、こうしたこと全てのために、神に感謝し賛美を捧げ、神に仕え、従順でなければなりません。以上のことは、まことにその通りです。」
使徒信条の第二部は、神が御子としての人格をもつことと、それが私たちを罪の呪いから贖う役割を持つということについての信仰告白です。ルターは、次のように説明します。 「私は、永遠という状態のなかで父から生まれた真の神である方、また同時に乙女マリアから生まれた真の人間でもある方、イエス・キリストを私の主であると信じます。その主が、私を滅びと裁きから贖い出して下さったこと、そして私を全ての罪から、また死や悪魔の力から神の御許へと買い戻して下さったこと、しかも、私を買い戻す際に金銀その他の財宝を代償金にせず、ご自身の神聖で高価な血をもって、その買い戻し金とされました。そして、何の罪もないのに、苦しみ死ぬことによって私を買い戻して下さったことを信じます。この買戻しは、私が彼自身のものとなり、彼の御国の忠実な一員となるためになされました。また、私が永遠の義のなかにとどまれ、良心の潔癖さを保証され、まさに至福に与る者として彼に仕えることができるようになるためになされたのだと信じます。私が永遠の義と良心の潔癖さと至福の中で主に仕えるということは、主が死から復活し永遠に生きて治められていることと表裏一体の関係にあります。以上のことは、まことにその通りです。」
使徒信条の第三部は、神が聖霊としての人格をもつことと、それが私たちを絶えず神聖化する役割をもつことについての信仰告白です。ルターは、これを次のように説明します。 「私は、私が自分の頭脳と能力によってはイエス・キリストを私の主と信じることもできず、彼のもとにいくこともできないと信じます。そうではなく、聖霊が福音を通して私を招き、賜物を通して私に理解を与え、正しい信仰にあって私を神聖なものとし、守って下さったのでした。聖霊は、私に対して行ったように、地上の全てのキリスト信仰者を招き、集め、理解を与え、神聖なものとし、イエス・キリストにあって唯一の正しい信仰のなかで守ってくださいます。このキリスト信仰者の共同体において、主は、私にも他の全ての信仰者にも、毎日、全ての罪を十分に赦し、最後の日に私と全ての死んだ人をよみがえらせ、キリストに繋がる私と他の全ての信仰者に永遠の命を与えて下さると信じます。これらのことは、まことにその通りです。」
以上、神は創造と贖いと神聖化の三つの役割をもって活動することが明らかになりました。まず、神は創造の主として、私たちを造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度は、独り子を使って私たち人間のために罪と死と悪魔を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは、罪の赦しの救いの中に生きることとなりましたが、人生の日々の歩みのなかで、信じることが弱まったり、罪の赦しの中に生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けるようになりました。
これらのことを成し遂げて下さった神への感謝が、私たちの生きる土台となりますように。また、その感謝から、神を全身全霊で愛する心、隣人を自分を愛するが如く愛する心が生まれますように。その時、隣人も三位一体の神の愛を受け取ることが出来るよう、私たちを用いて下さるように。