説教「神との新しい契約とわたしたちの信仰のかたち」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 17章11-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北に位置するガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはイスラエルの民に属する人たちが住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。

さて、そのような地方の近くを通過していると、前方の村の前で10人のらい病患者が待ち構えるようにしてイエス様一行を待っています。まだお互いの距離が離れている段階で、彼らは大声で、「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と叫びます。つまり、病気を治して下さい、と祈願したということです。イエス様が不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行っているという噂は、ローマ帝国シリア州中に広まっていましたから、イエス様は各地でこのような祈願や嘆願を聞き、癒しの奇跡を行っていました。

ところで、「らい病」というのは、皆様もご存知のとても重い皮膚病です。ギリシャ語のレプロスλεπροςという言葉ですが、先ほど聖書朗読奉仕者に読んでいただいた日本語訳聖書では「らい病を患っている人」と訳されています。ただ、本日の箇所ととても深い関係がある旧約聖書レビ記の13章14章とみると、「重い皮膚病」という言葉が使われています。英語の聖書(NIV)も「皮膚病」(skin desease)という言葉です。これは、ヘブライ語のネガア ツァーラアトנגע צרעתという言葉がもとにあるのですが、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語の聖書では、「皮膚病」と一般化しないで、日本語の「らい病」に相当する言葉で訳されています(spitaali, spetälsk, Aussätzige)。さて、これはどうしたものか。私、20年以上、北欧に住んでいたので、日本でどういう言葉を使っていいのかという問題にかなり疎くなっております。日本や英語圏では「らい病」という言葉は避けるのか。でも、レビ記では「皮膚病」と言っていても、本日の箇所では日米とも「らい病」leprosyと言っているではないか。(話はきっと、どんな辞書を使って訳しているかということもかかわっているのでしょう。)いずれにしても、早く本題に入れるために、日本語の聖書に使われている言葉だったら使ってもよいということにして、話を進めていくことにします。

10人のらい病患者がイエス様に癒しの奇跡をお願いする。イエス様は、その場で癒すことはせず、ただ、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せてきなさい、とだけ言う。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。その時は、祭司が診て診断を下さなければならない。イエス様は、モーセの律法にある既定に従っただけでした。10人の男たちは、すぐ希望が叶えられなかったことに不平不満は言わず、ただちにエルサレムに向かいました。

ルターは、この男たちの信仰を評価して、次のように言っています。「イエス様の指示に従ったこの10人の心の内は次のようなものである。『主よ、わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら、私たちは祭司たちのところに行きます。たとえあなたが今この場で、癒すか癒さないかを明らかにして下さらなくても、あなたが癒す力のある方だと信じる私たちの信仰はかわりません。あなたに寄り頼む私たちの心に変更はありません。仮にあなたが私たちを癒すお気持ちがなくても、それはあなたが私たちにもっと良いものを与えて下さるからなのだと信じます。私たちはただ喜んでそれを待ち望むことができます。それゆえ、私たちが、あなたを良いお方であると信じる信仰を捨てるなどということはありえません。』」こう述べた後、ルターは次のように結びます。「これこそが、真に信仰の中で成長するということである」と。

このような信仰をもって、10人の男たちは出かけて行きました。すると、出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまったのです。みんなは歓喜の極みだったでしょう。9人は、そのままエルサレムの祭司たちの所へ向かい続けました。レビ記の14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。10人の男たちのエルサレム訪問の目的は、こうした奇跡が起きたために、発病診断から治癒診断にかわってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが、1人だけ、この律法に規定された治癒診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方に住むサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に送った神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、イエス様は、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、イエス様のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかになります。ここで、イエス様とモーセ律法の関係を考えなければならなくなります。モーセ律法は、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神から授かったものです。イエス様は、まさにこの神のひとり子で、神と同質の方です。イエス様が律法を超えるようなことを言えば、もう律法には意味はないのか?この関係をきちんと整理することは、私たちのキリスト信仰を正しく方向づけるために大切です。後で、このことをみてまいりましょう。

それから、イエス様は最後に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。額面どおりに受け取れば、イエス様を救い主と信じたので病気が癒されたのだ、と理解されます。しかし、そうなると、キリスト信仰者でも病気が治らない人たちも現実にいる、その場合、その人たちの信仰が足りないものだったからだと言えるのか。そういうふうに、祈願嘆願したことが実現するか否かということが、信仰が優れているとか劣っているとかの判断材料となってしまいます。イエス様は、そのようなことを教えているのでしょうか?いいえ、そうではありません。このことも後でみてまいりましょう。

2.

まず、イエス様とモーセ律法の関係についてみていきます。話はとても大きなものなので、本説教では本日の箇所との関係でみていきます。先ほども触れましたレビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行う旨の規定があります。14章3節をみると、祭司が治ったと診断をした場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりません。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は、「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。

ここで注意すべきことは、生け贄を捧げるこの「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願嘆願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったのだったら、もう何も儀式はいらないじゃないか、と思われるかもしれません。実は、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまっていません。それは、人間が罪と神への不従順のために神との関係が断ちきれた状態にあることが、目に見える形で現われたものだと考えられていたのです。それゆえ、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要となりました。

ここでひとつ付け加えますと、全ての人間は、たとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、罪と神への不従順をみんなが背負っています。つまり、目に見える形はなくても、罪の状態は誰もが持っているものなのです。それが、「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、それはかかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある特定の人たちがそれを背負うことになってしまった、ということです。全ての人間が罪の状態にあるというのは、最初の人間が罪と不従順に陥って以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロが、罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)、と教えているように、人間が死ぬということが、人間が罪と神への不従順を持っていることの表れなのです。

さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないで戻ってきてイエス様と神を賛美したことを評価しました。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?

それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何も犠牲も生け贄も要らなくなる、という歴史的大転換を先取りしているからです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰によって神との和解を得ることができるようになるということです。どういうことかと言うと、モーセ律法には、今見たように、「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためのする「清めの儀式」がありますが、もちろん、それだけではなく、人間を罪の支配力から贖って神との和解をもたらすために、様々な儀式とそこで用いられる生け贄の規定が数多くあります。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の贖いの儀式を大々的に行う日でした(レビ記16章、23章27-32節)。

しかしながら、こうした儀式や生け贄はたえず繰り返して行わなければならないものでした。そこから明らかなことは、それらは人間を罪から完全に解放できず、神との和解も一過性のものでしかすぎなかったということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1-4節)。同じ10章の11節では次のように述べられています。「すべての祭司は、毎日礼拝を捧げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して捧げます。」

ところが、神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、ただ神との結びつきの中で生きていけるようにしようと考え、それでひとり子イエス様をこの世に送られました。神は、イエス様に全人類の全ての罪と不従順の罰を全部負わせて十字架の上で死なせ、この身代わりの死に免じて、至らぬ人間を赦すことにしたのです。それだけではなく、神は一度死んだイエス様を死から復活させることで、永遠の命、復活の命への扉を人間のために開かれたのです。こうして人間の救いが完成しました。救われるために人間のすることは、あとは、こうしたことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この完成した救いを受け取って自分のものとすることができるのです。こうしてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、神との結びつきが回復してその結びつきのなかで生きることができるようになり、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得ることができるようになったのであります。万が一、この世から死ななければならなくなっても、その時、神は御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に人間の造り主である神のもとに戻ることができるのであります。以上のことを「ヘブライ人への手紙」10章14節は次のように言い表しています。「キリストは唯一の捧げものによって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」

イエス様が御自身を唯一の捧げものとして捧げて、人間を罪と死の支配から解放し、神との真の和解をもたらしたのならば、もうモーセ律法はいらないのでしょうか?イエス様は実は、律法は廃止されるとは言っておりません。全く逆のことを言っています。マタイ5章のイエス様の教えを見てみましょう。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(17-18節)。イエス様が律法を完成した。これは、まことにその通りです。律法の規定が目的としつつも、もたらすことができなかったこと、つまり罪と死の支配からの解放それに神との永続可能な和解をイエス様はもたらしたからです。それでは、イエス様の十字架と復活の後、律法はなんのために存続しなければならないのか?それは、次のことを明らかにする役割を持っているからです。どんなことかと言うと、イエス様の贖いの業の外側にいる人間は、罪と死の支配に服する存在であり、自分自身の造り主である神との結びつきが失われたままである、という堕罪以来の状態に留まっているということです。そこで、イエス様なしで救いを得ようとすれば、これは、諸々の儀式や供え物や修行に頼るしかなくなってしまうのであります。しかし、それらは、先ほど見たように、天と地と人間を造られた神と永続的な和解はもたらさないのであります。この意味で、律法は、人間に自分の置かれた状態を気づかせて、イエス様のもとに行く以外には本当に救いの道はないと気づかせる役目も持っているのです。

3.

最後になりましたが、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救ったのだ」を見てまいりましょう。この言葉は、イエス様を信じたから病気が治ったという意味に聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。イエス様はそんなことを意味しているのでしょうか?そうではないということがわかるために、イエス様が別の箇所で同じ言葉を述べているところをみてみましょう。

本日の箇所では、イエス様はこの言葉を人の病気が治った後に述べますが、マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節をみると、イエス様は同じ言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べます。マタイ9章では、12年間出血状態が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい(θαρσειは「元気になりなさい」という訳よりも「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう)。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この言葉をかけられて女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願する。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われる。その直後に男の人は目が見えるようになります。

病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と理解できます。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことなのでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意すると、これはギリシャ語の現在完了の形です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語と少し違っていて、「ある過去の時点で始まった状態が今現在までずっとある」という意味です。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、今イエス様の真ん前に立っているこの時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあるけれども、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになった人たちだったのです。このことは、キリスト信仰にとってとても大事なポイントです。つまり、キリスト信仰では「救い」というのは、人間の目に見える境遇が良好な状態であるということと同義ではありません。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような救いに対する付け足しのようなものだったのです。

そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の「救い」が無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような確固とした救いは、イエス様が贖いの業を成し遂げて全ての人に提供されました。そしてそれは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで自分のものとして受け取ることができるのです。

本日の箇所のらい病の男の人も同じです。10人の男の人たちは、先ほど見たルターが言うように、癒してくれるのかくれないのかはっきり言ってくれなくとも、イエス様を強く信頼して言う通りにしました。イエス様は、彼らの信仰がわかりました。しかし、時はまだイエス様の十字架と復活が起きる前のことでした。そのため、9人が旧約、つまり神との旧い契約の様式に則って行動したのは無理もないことでした。これに対して、賛美と感謝を捧げるために一人イエス様のところに戻って来たサマリア人は、十字架と復活の時に確立される新しい契約の行動様式を示しました。それは、自分を身代わりの犠牲にして救いを実現して下さったイエス様と、彼をこの世に送って下さった父なる御神をただ賛美し感謝を捧げるということです。そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは、どんな境遇に置かれても、このいただいた確固たる救いのゆえに、賛美と感謝を絶やさずに捧げる方がいらっしゃるということを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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