説教「命を買い戻せる代価(マルコ8章37節)とは?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書 8章27-38節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、読み通していくと、さほど難しいことはなく、理解できる気がします。まず、人々がイエス様のことを過去の預言者がよみがえって出てきた者と考えていることが明らかになりました。それに対して、ペテロはイエス様のことをメシアと信じていることが明らかになりました。その後で、イエス様は御自分が受難のうちに死ぬも三日目によみがえると預言します。これにショックを受けたペトロがそれを否定するとイエス様は激しく叱責しました。その後で、イエス様は、自分につき従う者は各自それぞれの十字架を背負わなければならない、とか、何が命を救うことになり何が失うことになるかについて教えます。そして、人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか?自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか?という有名な言葉が続きます。読む人は誰でも、イエス様は命のかけがえのなさ、大切さを教えているのだと理解するでしょう。

しかし、本当に理解したのかな、わかったつもりはいやだな、と二、三度読み直してみると、一度目には気づかなかったようなことが出てきます。例えば、ペトロがイエス様のことを「メシア」と信じていると言った時、そのメシアとは何だったか?確か、救い主、救世主という意味だと聞いたことがあるな。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならない、と弟子たちに命じたのか?また、イエス様が受難の死と死からの復活を預言した時、ペトロがそれを否定して、イエス様は激しく叱責する。ペテロのことをサタン、つまり悪魔呼ばわりさえする。ペテロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?さらに、イエス様がつき従う者に背負いなさいと言った十字架とは何なのか?何か人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのだろうか?それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、一体どういうことか?どうせ失われるのだから、自分の命を救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うとはどういうことか?一度失った命が救えるというのは、一体どういうことなのか?

このように、聖書は一度読んでわかったような気がしても、何度か読み返すと、実はわからないことだらけだった、というようなことがいつも出てきます。しかし、不理解点を発見できることで、私たちは、自分の造り主である神の御心・御意思を明らかにしていこうとする出発点に立つことができます。どうか、本説教を通しても、それが明らかになりますように。

2.

まず初めに、ペトロがイエス様のことを「メシア」と言った、そのメシアについて少し解説します。これはヘブライ語の言葉(משיחマーシーァハ)で「油注がれた者」の意味です。具体的には、イスラエルの初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は、神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照)。ユダ王国が滅びると、今度は、将来ユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨するダビデ家系の王が現れるという期待が強まります。イエス様の時代に近づくと、メシアとは、ダビデ家系でユダヤ民族解放を主任務とはしつつも、この世の終わりに現れて、神の救いを全世界に及ぼす救世主という理解も持たれるようになります。

このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(χριστοςクリストス)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語になおして付けたということであります。

さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡を成し遂げており、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。従って、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。メシアということについて、自分がメシアであるということについて人に話すな、ということだったのです。どういうことかと言うと、先ほどもみましたように、メシアの意味として、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解したら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られました。それなのに一つの民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。加えて、支配者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には常に神経をとがらせていました。王国復興者としてのメシアの噂が広がれば、反乱鎮圧のための軍隊出動という事態になったでしょう。そうなれば、エルサレムに赴いて受難と復活を遂行するというイエス様の行動計画に支障をきたすことになったでしょう。

ところで、ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと考えられます。それで、イエス様が迫害されて無残にも殺される、という預言を聞いた時、王国復興の期待を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならない、と否定してしまったのだと言えます。

3.

それにしても、預言を否定したペテロを「サタン、悪魔」呼ばわりして叱責するとは、いくらなんでも言い過ぎではないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死をくぐり抜けて死からの復活を実現しなければならない、そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画の実現を邪魔することになる。神の計画の実現を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、神の計画を認めないというのは、悪魔に加担することになってしまいます。ここで、この神の計画とは何かということについて少しおさらいをしましょう。

キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。

さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の期待を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から下る天使の軍勢の支援を受けてローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち滅ぼして、永遠に存続するダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていたことでしょう。ところが、「迫害されて殺されるも、三日目に復活する」という預言を聞かされて、最初、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てが起きた後で、あれは特定民族を超えて全世界に及ぶ神の人間救済計画の実現だったのだ、とわかるようになったのであります。

4.

それでは、イエス様が、「つき従う者」つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か。そして、命を救う、失う、と言っていることは何か。それらについてみてまいりましょう。

まず、私たちがそれぞれ背負うべき十字架とは何か?自分を捨てるとはどういうことなのか?これについては、先週の礼拝説教でも取り上げました。イエス様を救い主と信じ、神との結びつきの中で生きられるようになったキリスト信仰者というものは、そのような結びつきを可能にして下さった神と御子に絶えず感謝の念を抱く者です。その感謝のゆえに、神の御心・御意思に従って生きるのは当然という心を持っています。神の御心・意思とは十戒に凝縮されていますが、イエス様はそれをさらに凝縮して二つの掟の形で提示しました。一つは、「神を全身全霊全力をもって愛せよ」という神への愛、もう一つは、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛です。先週の説教でも強調したところですが、隣人愛は、神への愛から独立してあるのではなく、それを土台としてあります。それゆえ、キリスト信仰者の隣人愛というものは、隣人が同じ信仰者である場合には、隣人がしっかり信仰にとどまって神との結びつきの中で生きられるように助けることが底流にあります。隣人が信仰者でない場合も、その人がいつの日にか、イエス様を救い主と信じて、その人の造り主でもある神との結びつきの中で生きることが出来るよう導いていくことが底流としてあります。このような神への愛と隣人愛の実践は、実社会・実生活の中ではいろいろな困難をもたらします。しかし、それにもかかわらず、神の御心・御意思である以上はやるしかない。これが、十字架を背負うことであり、自分を捨てることである、と申し上げた次第です。

ところが、こうは言っても、私たちは、神を果たして全身全霊全力で愛していると言えるかどうか、隣人を自分を愛するが如く愛していると言えるかどうか、という局面に多く出くわします。失敗ばかりで、神の御心・御意思に従って生きるなど、もう不可能だ、と思わされることが多く出てきます。

この問題について、ルターがキリスト信仰者というものをどう捉えているか、それを見るのが有益です。ルターによれば、キリスト信仰者とは、神の霊に結びつく新しい人を自己の内に植えつけられた者ということになります。そこで、キリスト信仰者の人生とは、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことだ、とルターは教えます。古い人を死なせるというのは、言葉はどぎついですが、これはなにも物騒なことではありません。ルターによれば、まず、自分の肉の内に古い人があることを素直に認め、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえず導くことを心から悲しみ忌み嫌うこと。そして、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる。そのようにして神から赦しを不断に受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々力を失っていくのであります。聖餐式でパンとぶどう酒を頂く毎に、このプロセスは強まっていきます。

「自分を捨てる」とは、一般に思われがちですが、なにか自分で自分を律せられる無私無欲の立派な人間を目指していくということではありません。それは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、という歩みを始めることです。このプロセスは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。

最後になりましたが、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう。35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという言葉です。生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力の核のようなものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。36節で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)のギリシャ語は違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。それで、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあります。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

34節の「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、感謝に満たされて神の御心・御意志に従って生きるということでありました。これにあわせて、神との結びつきの中で、内なる新しい人を日々育て、古い人を日々死なせ、神のもとに永遠に戻る道を歩むことであるとも申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を「救う」とか「失う」とか言っているのは、実は、造り主である神のもとに戻る道を「歩んでいるか」「歩んでいないか」ということであることが明らかになってきます。これに沿って、以下に、35節以下を整理してみます。

35節はこうなります。「自分を捨てようともせず十字架を背負おうともせずして、永遠の命を得ようとしても、それは得られない。なぜなら、それは造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいないからだ。しかし、自分を捨てて十字架を背負う者は、信仰の迫害にあって命を失おうとも、永遠の命を得る。なぜなら、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいたからだ。命を失った瞬間に父なる神は御手をもってその人をみもとに引き上げて下さる。」

36節はこうなります。「たとえ全世界を手中に収めても、命に関して欠けていることがあれば、何の役に立とうか?造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいない者は、全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは死の瞬間に永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

そして、37節に続きます。「人間は、今の命が終わった後の命を買い取ろうにも、何を代価として支払うことができようか?全世界も財産も代価としては不足すぎるのだ。」詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。しかし、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界や財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たちは今、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでおりますが、この道の歩みにおいて、どんなことが起きても、私たちの命は、とてつもなく尊い犠牲を払ってもらって造り主である神のもとに買い戻された命であるということを忘れないでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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