説教「見ないで信ずる者になりなさい」木村長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書20章24節~29節

今日の御言葉は、復活後のイエス様とトマスの話です。

24節を見ますとトマスは、12弟子の一人でデイデイモと呼ばれるトマスとあります。12弟子の中で、そう目立ったこともしていないトマスですが、今日の場面で登場します。 よみがえられたイエス様が、弟子たちが集まっているところに現れた。 19節~23節のところでヨハネはそう記しています。 その時トマスだけがいなかった、というのです。 トマスは復活の日、なぜ弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。

ウィリアム・バークレーという聖書学者が、トマスのことについて次のように言っています。 トマスは決して勇気のない人ではなかったが、トマスは生まれつき悲観的な人間であった。トマスがイエス様を愛していたことは、なんの疑いもない。他の弟子たちがしりごみして恐れていたのに、彼だけはエルサレムへ行って、先生と一緒に死のうと考えていた。彼はそれほど先生であるイエス様を愛していた。 そして、トマスが予期していたことが起こった。つまり、イエス様が十字架の処刑によって死なれた。トマスはショックを受けました。 あれ程、おどろくべき奇跡を起こすことのできるイエス様が、死んでしまわれるなんて!。 トマスの傷心ぶりはひどかった。傷心のあまり人々と会う気になれない。トマスはただ一人悲嘆にくれることを願った。 だから、他の弟子たちとは一緒にいなかった、ということでしょう。

そこで、他の弟子たちが「わたしたちは、主を見た」というと、トマスは言った。「あの方の手に釘のあとを見、その指を釘跡に入れてみなければ、又、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 ここでトマスが言っている、「わたしは決して信じない」という言葉が印象的です。このトマスの言葉に対して、この物語の最後にイエス様がトマスに向かって、「見ないで信じる者になりなさい!」と言っておられる。

復活された日、弟子たちの間では、主が墓からよみがえられた、という話で大さわぎでした。そうして、その一週間後、更に弟子たちが集まって、まわりの戸を全部しめている中に、よみがえった姿のイエス様が現れたのでした。 トマスは、マリヤたちが知らせた墓が空であったことも聞いたけれども、確信がもてなかった。他のすべての弟子たちが、「よみがえりの主が現れた。この目で私たちは見た。」ということを話されても、話だけではどうしても、トマスは確信できなかったのです。私たちも恐らくそうでしょう。

こうして、弟子たちの間に「イエス様はよみがえられた」と信じる者たちと、信じられない者が浮き彫りにされます。

ここには、トマスを浮き彫りにして、復活の主が彼に何をなさったのか、著者ヨハネはこのことを記すことによって、「ナザレのイエスは、十字架で死んで、よみがえられた」という復活の信仰が、いかに確かなものであったかを、完全に明らかにしたのであります。弟子たちにとって、愛する主の復活を疑うことなど、不可能なことであったのです。 ただ、トマスだけは弟子たちから離れていたので、復活の主の御姿を見ていないのです。イエス様は、トマスの心を知っておられるのです。 イエス様はトマスのため、もう一度、弟子たちの中に現れるという、特別のことが起こっていきます。

26節で、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

20世紀最大の神学者といわれる、カール・バルトが1937年の復活後主日に、ベルンの聖霊教会で、ここと同じ聖書について説教しています。その一部だけ、バルトは次のように表現しているのです。 使徒として選ばれた、全く特定の人間が集まっている、その人々の真ん中にイエスは入られたのである。更にこの箇所では、二度までも「戸は閉ざされていたが」、イエスはその真ん中に入られた、と記してある。 したがってイエスは、一人の人間が他の人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来られたわけではない。 彼は、神が人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来たのである。 しかしながらイエスは、神の全能、偉大、尊厳において、時間空間を超える、主として、あらゆる被造物の生命とは違った新しい生命と存在において、彼らのところに現れたのである。 私たちはふつう、この箇所を読む時、イエス様のよみがえり体は肉体をもった体ではなく、壁と戸を突き抜けてスーっと現れた、とイメージします。 ところがバルトは、深い意味を含めて、難しい表現であらわしています。

次にイエス様は、彼らの真ん中に立ち「あなた方に平和がるように」と言われた。この一行の言葉を、バルトは次のように説明しています。 「あなた方に平和があるように」という美しい挨拶は、当時のユダヤ人の日常のきまった挨拶の言葉であって、いわばイエス様が弟子たちに、私たちが互いに「今日は」というのと少しも変わらない。このような挨拶をされたのは、この人間の集いの中に、神のからだを持った存在があることのしるし、現実を望まれたのである。 それは、弟子たちの心や頭にある人間の思想ではなく、又彼らの出会った空想、幻想、妄想の存在でもないことを表している。彼らは幻を持ったのでも、幽霊を見たのでもない。一人の人間、彼らのよく知っているナザレのイエス、という人間がはいって来たのである。バルトのするどい、奥深い言葉です。

さて、イエス様はトマスに向かって、大事なことを語っておられます。 トマスがあんなに、実際に、よみがえられたイエス様の体を見ただけでは済まない、自分の指でさわってみなければ信じないと言った、同じトマスの言葉を、イエス様は言われます。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。又、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

21世紀に生きている私たちは、よみがえりの姿のイエス様を見ることはできません。そかし、トマスに言われた「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、私たちにも言われていることでしょう。

イエス様が死からよみがえって、現にあらわれたという神からの啓示は、この世の人々にとっては、ふさわしいものではなかった。 特にユダヤ教の最高幹部の人々にとっては、たしかに十字架の死によって葬ったのに、イエス様が復活したとなれば、もう大変なことである。今日もなお、この戦いはあっているでしょう。 しかし、イエスを信じる者にとっては、主がよみがえって、あらわれたことが、どんなに喜びであったことか。又ふさわしいことであったことか。 これまで、トマスの心は動転していた。信仰へ導かれるか、不信仰に導かれるか、彼の魂はゆり動かされていた。 イエス様はこれらの弟子を、いつまでも疑いと不信仰の中に残しておられなかった。そうして、イエス様の親しみのこもった言葉、又、厳しい処罰の言葉をもって、「信じない者にではなく、信じる者になりなさい」。 トマスは答えて言います。「わたしの主よ、わたしの神よ」。

トマスは今、すべての弟子たちの心の中に、明るい確かな信頼として立っている。今、弟子たちは、よみがえられたイエスにおいて、永遠の命を目のあたりに見て、新しい段階に立っているのです。 新たな、よみがえりの栄光の光りに満たされて、新しい力を与えられて、「私の主よ、私の神よ」と答えているのです。 復活の主イエスは、彼らに言われた「あなたは、私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。 単なるすすめではない。それこそ、力ある言葉であります。 これは、イエス様の御姿を見ることからくる信仰ではなく、私たちがイエス様を見ないのに、イエス様と私たちとを結ぶところの、信仰であります。その信仰は、私たちに復活の主を宣べ伝える、御言葉から来るものです。更にその御言葉は、私たちをイエスのもとに導いてくれる、御霊によって起こされるものであります。

この聖霊の導きによって、私たちは今日教会において、復活の主であるイエス・キリストを礼拝し、祈り、讃美するのであります。そこに、生ける復活のイエス様と出会えるのであります。 どうか望みの神が、信仰からくる、あらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。アーメン。

 復活後第二主日  2014年5月4(日)

説教「神との平和があなたがにあるように」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章19~23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の葬られた墓が空であったという知らせを聞きました。そして、すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。さらに、墓に残ったマリアが復活したイエス様に会ったということも知らされました。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を十字架刑に処することに賛同した者たちで溢れかえっている。うかつに出て行ったら、自分たちにも危害が及んでしまう。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になってしまったのでした。ヨハネ福音書には記述がありませんが、ルカ福音書によれば、この時点でエマオの村から息を切らして二人の弟子が駆け込んできて言いました。自分たちは復活した主に出会った、と。弟子たちの驚きが頂点に達しているちょうどその時、なんとイエス様本人がそこに立っていたのです。迫害を恐れて扉という扉にはしっかり鍵が掛けてあったにもかかわらず(ギリシャ語原文で扉は複数形になっています)。

ルカ24章によると、弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日の福音書の箇所にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有している体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。こうして、復活したイエス様は、この世の我々の肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となったのであります。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の御国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。本来は、復活した時点で天のみ神のもとに引き上げられるべきだったのですが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることとなったのであります。

 

2.弟子たちの前に現れたイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。要するに、弟子たちに「平和」を祈願したのであります。「平和を祈願する」などと言うと、日本の政治家が神社にお参りした後の記者会見で言う言葉みたいですが、本説教では、イエス様が「あるように」と願われた「平和」について、見ていきたいと思います。

ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉ですが、イエス様はほぼ間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉として、これも間違いなく、ヘブライ語のシャーロームשלןמという言葉が考えられます。このシャーロームשלןמという言葉はとても幅広い意味を持ちます。国と国が戦争をしないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、損なわれていない状態とか、健康な状態とかいうように、国のような集団に関わるのみならず、人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。ずばり、神が人間にもたらす救いを意味することもあります(1列王記2章33節、イザヤ54章10節「平和の契約」と訳すことも可)。

ところで、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス様特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?まず、「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、その場合の平和シャロームとは何かを考えてみます。先ほどシャロームは幅広い意味があると申しました。国と国の平和のみならず、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれます。こうしたもの全てが「この世が与えるような仕方で」与えられると言う時、「この世」がこれらのものを与える主体です。つまり、これらの望ましいものは、「この世」から得られるものとなり、別の言い方をすれば、人間が自分の力で獲得するものです。

他方でイエス様は、「わたしの/イエス様の平和」を与えるが、それを「この世が与えるように」は与えないと言われます。つまり、イエス様が与える彼特製の平和シャロームがある。しかも、それを「この世があたえるように」は与えない。つまり、イエス様の平和シャロームは、人間の力によって獲得されるものではない。あくまでも、イエス様が与えるものです。そうなると、イエス様が与える平和シャロームとは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは異なるものなのでしょうか?結論から申し上げますと、イエス様が与える平和シャロームとは、こうした理想的な状態の土台にあるようなもっと根源的な「平和」を指しています。そのような平和があってはじめて、シャロームが普通意味している理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。さらに踏み込んで言えば、そのような平和がなければ、どんなに理想的な状態を獲得していてもたいして意味がないとさえ言えるような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?

イエス様が与える平和を理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。、実はそうだったのであります。そのことは、「コロサイの信徒への手紙」1章21~22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間が、イエス様の死によって神と和解することができ、神の前に神聖なる者として立つことができるようになった、と言うのであります。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?

これらがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいて、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返って考える必要があります。そして、このことを出発点とした時、今度は、その造り主と私たち人間との関係は、また私個人との関係はどうなのか、ということを考えなければなりません。

創世記によれば、人間はもともとは天地創造の神に似せて造られたくらい、神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、神との結びつきが失われてしまいました。その経緯は創世記の3章に記されています。不従順と罪が原因で神との結びつきが失われたのに伴って、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

罪が内部に入り込んでしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。神は御自分の神聖な意思に反するものを、汚れたものとして忌み嫌われ、激しく憎むからです。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまいました。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と人間を見捨てることはしませんでした。神としては、人間を支配している罪の力を無力にして、人間をその呪縛から解放し、人間が再び神との結びつきの中で生きられるようにしようと決めたのです。しかし、どうすれば、そのようなことが出来るのか?そのためには、人間から罪を取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を全部受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すこととしました。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命、復活の命に至る扉を開きました。こうしたことの後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、この神が整えた罪の赦しの救いを全部受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神と和解し、神との結びつきが回復した者となります。そして、神と平和な関係を持って、この世の人生を歩むことになります。この和解と平和は、まさにイエス様の身代わりの犠牲の死によってもたらされたのであります。

神との結びつきが回復した者はまた、永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、今後は神と平和な関係を持ってその道を歩んでいく者となります。歩んでいく過程では、成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあるでしょう。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を自分の救い主と信じる信仰に生きる人は、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれているのであります。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか神と平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者というものは、罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば、神の目から見れば、神との結びつきも平和な関係もしっかり保たれているのです。たとえ人間的な目にはどう見えようとも。そして万が一、この世から死ぬことになっても、その時は、主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げてくれる。そうして永遠に自分の造り主である神のもとにいることができる。キリスト信仰者はまさにこの世から次の世に移行する時、父なるみ神の御許に引き上げられる瞬間に、ああ、本当に順境の時も逆境の時もかわらず神はいつも見守っていて下さっていたんだ、私は本当は沢山の良い導きと助けを頂いていたんだ、全然気がつかなかった、恥ずかしい、主よ、これまでのご高配に心から感謝します、と思うのであります。

 

3.本日の福音書の箇所でイエス様は、弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が生じます。キリスト教では、十字架の出来事で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?また、人がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神との結びつきが回復して神と平和な関係を持つことになると言うんだったら、その人はもう罪が取り除かれてなくなっているはずではないか?それでもなお、赦されるだの赦されないだのと言っているのはどういうことか?以下、こうした疑問について答えを見いだしていきましょう。

天の父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを確立したわけでありますが、人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この罪の赦しはその人に効力を持たないのであります。救いは確立された。しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのにもかかわらず。そこで、もし救いを受け取れば、神がイエス様の十字架上の身代わりの死に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。

次に、イエス様を自分の救い主と信じる信仰に生きる者は罪が除去された者ではないか、だから赦されるだの赦されないだのは関係ないのではないか、という疑問です。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者がもう罪を犯さなくなるということを意味しません。

人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、まだ肉の体を纏っているので罪を内在させています。いつでも、神の意思に反する考えを抱き、言葉を発し、行いを行ってしまう可能性を持っています。その点は、信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、イエス様を自分の救い主と信じている信仰のゆえに、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような人としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いとか言葉とか行いとかによって罪を犯しても、それを認めて、自分は間違っていました罪を犯しましたと正直に認めて、イエス様を自分の救い主と信じていますから、彼の身代わりの死に免じて赦して下さい、と言えば、神は罪に対する怒りや憎しみをその人にぶつけることはせず、すぐ赦して下さるのです。

このように信仰者は、罪を犯さなくなった者ではなく、罪を犯しても、イエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神の怒りや罰が下されることから免れている者であります。イエス様を救い主と信じる信仰は、まさに神との平和を保証するものです。それなので、人が信仰に留まる限りは、罪が本来持っている力、人間を永遠の滅びと死に定める力はその人に対して無力化しているのであります。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というものは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼の時点に戻ることを意味します。罪の告白と赦しの宣言は、礼拝の時にみんなで一緒にする場合もあれば、個人的に牧師先生や信頼できる信仰の兄弟姉妹を相手にすることもあります。いずれにしても、キリスト信仰者にとって洗礼はいつでも立ち返ってまたそこから出発する原点であります。

ここで、洗礼と並ぶもうひとつの聖礼典である聖餐式について一言。聖餐は、私たちがかつて洗礼の時に受け取った、神の確立した罪の赦しの救いを私たちの体の中で強めていく栄養です。また罪がもたらす苦しみを癒す薬です。私たちの目には単なるパンのひとかけら、ぶどう酒にすぎないものが、イエス様を自分の救い主と信じて摂取すると、神はこの人との結びつきは強められたと認めるのです。

最後に、弟子たちに与えられた任務について一言。イエス様の直近の弟子たちは、福音を宣べ伝えなさい、と彼によって世界に送り出された者たちです。この弟子たちは「送り出す」という意味が添えられて、「使徒」と呼ばれます。彼らに罪の赦しの権限が主から委任されました。使徒の後は、使徒の教えをしっかり守る者がこの委任された権限を受け継いでいきました。そしてこれは今日、教会の聖職者へと受け継がれていきました。

イエス様が使徒たちに命じたことで、一つ気になる言葉があります。「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」が それです。使徒や使徒の伝統の上にたつ者が赦さない罪とはどんなものだろうか?一つには、罪を犯したにもかかわらず、自分は犯していないと言い張る人の場合が考えられます。自分は罪を犯していないと言う以上、罪の告白をすることもなく、告白がなければ赦しの宣言も起こりえず、要するに赦しを与えようにも与えられない状態にある者です。赦されない罪のもう一つのタイプは、何か罪を犯した時に、神はその行為はやってはいけないとはっきり禁止していないので、自分は神の意思に反したことにならない、ということが考えられます。これも罪の告白が生まれないケースになり、赦しの宣言を与えようにも与えられない状態です。さらにもう一つのタイプとして、罪を罪と認めても、今度はイエス様の十字架での贖いの業を忘れて、自分の力で神との和解を勝ち取ろうとすることがあります。このような人は、なぜ神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという方法を取ったのかということを理解していません。人間が自分の力で罪を除去できないからでした。

これらとは反対に、イエス様を救い主と信じる信仰をもって、罪の告白をし、罪の赦しの宣言を受ければ、罪は必ず赦されます。赦されないということはありません。大丈夫です。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、罪の告白と赦しの宣言で始まる私たちの礼拝はとても大切だということを心に覚えておきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

復活後第一主日の聖書日課 使徒言行録2章22~32節、第一ペトロ1章3~9節、ヨハネ20章19~23節

 

説教「主イエス・キリストは我らの良き羊飼い 我らに不足はなし」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章22-30節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

復活祭後の第一、第二主日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事についての弟子たちの目撃録でした。復活後第三主日である本日の福音書の箇所は、舞台を再び、十字架と復活の前の出来事に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事が起きる前は、聞く人見る人にとってもわかりにくいことが多くありました。また、それらの意味を理解したつもりで実は間違っていたことも多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらはどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の箇所も、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことを知る者として、解き明かしてまいりましょう。

イエス様は、数々の奇跡の業と神の権威を持つ教えで、ガリラヤ地方とユダ地方、さらにヨルダン川東岸を含むローマ帝国シリア州(マタイ4章24-25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なる神から送られた神の子である、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的存在である「人の子」であると公言していました。これに対して、ユダヤ教社会の宗教指導層は、あの男は神の子でも救世主でもなんでもない、民衆を惑わす危険な存在だと見なしていました。宗教指導層が取り仕切っていた神と人間の関係を、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦以外の何ものでもありません。しかし、本当は、イエス様が取り仕切るやり方が神の意思そのものだったのです。宗教指導層は、自分たちの教えや流儀が神の意思を代弁していると思い込んでいました。

宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて死罪にしようと思っていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にいるイエス様を見つけて取り囲み、群衆の見ているただ中で尋問を始めました。イエス様が何か誤ったことを言えば、大勢の人が証人となる状況です。指導者たちは聞きました。いつまでお前は我々をはぐらかす気か、お前がもしメシアなら(ギリシャ語原文ではヘブライ語のメシアמשיחのギリシャ語訳であるキリストχριστοςが記されています)、我々にそうはっきり言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言っていたのに、君たちが信じようとしないのだ、と。ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことを、メシアであると指導者たちに公言したことは見当たりません。ヨハネ4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では、信奉者に対しても、反対者に対しても、自分は父なる神から送られた神の子であるとか、救世主的存在である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中には、イエス様がメシアであると信じる人も出ましたが(7章31節)。いずれにしても、イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言っていた、というのはどういうことでしょうか?これは、メシアという言葉が当時、神の意図に反して人々に誤って理解されていたという問題があります。

メシアとは、もともとは油を頭に注がれて聖別された者を意味しました。神の特別な使命を果たす者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様と理解されました。ダビデ王朝の王国は、紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにバビロンからユダの地に帰還しますが、民はそれ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間、民の間では、将来ダビデの血筋を引く者が王として現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し、諸国に号令をかけるとの期待がずっと抱かれていました。この王がメシアとして考えられたのです。

その一方で、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民の間で、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目し、今ある天と地はやがて終わりを告げ、新しい天と地にとってかわられる時が来るとわかった人たちがいました。そうした預言を信じる人たちにとって、メシアとは、創造の秩序が一新される時に現れ、創造主である神への信仰をしっかり守った者たちを新しい秩序の世界に迎え入れる、そういう終末的な救世主を指すということがだんだん明らかになってきました。この意味でのメシアは、この世的でユダヤ民族の解放に尽力するダビデ家系の王とは異なり、全人類にかかわる救世主です。そのようなメシアは、旧約聖書ダニエル書に出てくる「人の子」と結びつけて考えられるようにもなりました。

このようにみると、イエス様が尋問を受けた時、なぜずばり自分がメシアであると言わなかったのか、以前はっきり言っていたわけではないのに、どうして、既に言っていたなどと言ったのかがわかってきます。イエス様は、この世的で特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたメシアだったからです。もし、「私はメシアだ」と言えば、聞いた人たちの多くは、イエスが自分はメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えられたでしょう。そうなれば、宗教指導層にとってはしめたもので、この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様は、自分では本当の意味でメシアであるとわかっていましたが、聞く方がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使用するのは控え、かわりに父なる神から送られた神の子であるとか、終末の救世主である「人の子」であると公言していたのであります。しかし、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、これを言うことが、宗教指導者をますます苛立たせました。あの男は神を冒涜している、と。

2.

それでは、ユダヤ教社会の宗教指導層は、なぜイエス様が神の子であること、「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にあったにもかかわらず。イエス様が数々の奇跡の業を行っていることは、広く知れ渡っていました。そうした奇跡の業を自分の父である神の名によって行っている以上、業自体が自分が神の子であることを証しているのだ、それでもお前たちは信じようとはしない、とイエス様は呆れ返ります(10章25-26節)。

指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、自分たちが神の意思だと思ってやっている規則をイエス様が飛び越える仕方で神との関係を取り仕切ろうとしている、これが指導層の権威に対する挑戦と受け止められ、危惧感を抱いたのであります。そうすると、彼らの権力欲が不信仰の原因だったと言えます。確かに4つの福音書の中には、サドカイ派やファリサイ派や律法学者などの宗教指導層が利己主義に陥っていることを批判する箇所が多くあり、ややもすると彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。実は歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それがどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができない不信仰に陥ったのかと言うと、それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思を代弁していると固く信じていたからです。このため、イエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に態度が頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増して、例えば、イエス様が不治の病の人を完治する奇跡を行っても、それが労働を禁じる安息日に行ったという理由で、この男は神の意思に反する者だ、と、奇跡よりも規則違反の方に目が行ってしまう位に本末転倒していたのであります。

ユダヤ教社会の宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因として、旧約聖書に述べられている神の約束というものをユダヤ民族のみに関わると理解していたことが考えられます。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の間の関係の歴史が延々と語り伝えられているので、ユダヤ民族以外の世界の諸民族は、その他多数にしか感じられなくなってしまうかもしれません。しかし、ユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものなのであります。

それは、創世記の出来事から明らかです。神によって造られた最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順となり、罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となりました。人間は、ユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪を言い表すとき、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的な行為には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があります。

罪のために、人間は神聖な神との関係が壊れてしまい、神から引き裂かれた存在となってしまいました。それに対して神は、人間が再び永遠の命を持って自分のもとに戻れるようにと人間救済計画を立てました。アブラハムが歴史の舞台に登場し、モーセがイスラエルの民を率いて奴隷の地エジプトを脱出するようになって、イスラエルの民、ユダヤ民族というものがはっきりしてきます。神は、この自分が選んだユダヤ民族とのやり取りを通して、自分はどんな存在でどんな意思を持ち、どんな考えを持つかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間救済計画についても預言者を通して明らかにしました。そして、計画実現の時が来た時に、独り子であるイエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様に課した役目は、人間が自分で背負っていては永遠に滅びてしまう罪と不従順をかわりに全部背負わせて、人間にかわって滅ぼさせること、そして、この身代わりの犠牲に免じて神が人間を赦すようにすることでありました。人はただ、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神の赦しがその人に効力を持つようになります。このように赦された人は神との関係が再興された者となり、神との結びつきの中で生きられるようになり、この世の人生を終えた後は、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。イエス様が送られた場所は、まさに神の意思を具現化した十戒と神の御言葉と約束を授かっていたユダヤ民族の真っただ中でした。そこで、神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示すことによって反感を買い、それによって殺されるという形で贖罪の死が実現しました。そして、神はイエス様を死から復活させました。まさに、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、神の意思と約束とは、実はかつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するためのものだった、それゆえ特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだった、ということが謎がとけるように明らかになったのであります。願わくは、この神の愛と恵みが、特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが、多くの人にわかってもらえますように。

3.

本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分の羊について語っています。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10章27-28節)。永遠の命を与えられ、死んでも決して滅ぶことがない者とは誰かというと、それは、死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との関係が再興された者、つまりキリスト信仰者を指します。そういうわけで、この言葉は、十字架と復活の出来事の前に述べられたものですが、それらが起きた後で本当のイエス様のことがわかって信じるようになる者を指しています。

イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の出来事の前にイエス様と接触があって彼の教えを直に聞いたということではありません。もちろん、死から復活して天に上げられたイエス様の声を、私たちは直に耳に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼が選んだ弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主であると信じることなく福音書を読めば、それは古代中近東の人間の空想が混ざった一種の歴史的物語にしかすぎなくなります。しかし、信じる者にとっては、自分を造って命を与えてくれた神と自分との結びつきを取り戻して下さった方の言葉です。その意味で、私たち一人一人に語りかける言葉です。さらに福音書以外の書物についても、使徒が記した書簡は、イエス様の十字架の死と死からの復活があったからこそ生まれ出た信仰の書物です。旧約聖書も、来るべき救世主の受難と復活を通して人間の救いが実現することを示す書物群です。総じて聖書は、イエス・キリストに結びついています。聖書を読むことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができるわけです。

イエス様は、また、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っている、と言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言い、14節で、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われます。このように、イエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのであります。個人的に知っているのだから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことを全部、祈りをもって打ち明けることを望んでいらっしゃいます。そうすることで、私たちはイエス様にしっかり信頼をおいていることを、イエス様にも示し、自分自身にも言い聞かせることになります。イエス様や父なる神はどうせ全部ご存知だから、あえて祈る必要もない、というのは、信頼をおくことを怠けることになり、やがては別のもの、自分自身とか全く他のものに信頼をおくようになる危険があります。使徒パウロは、「フィリピの信徒への手紙」4章6節にて次のように勧めています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との関係がしっかり築かれた者として、この世の人生を歩むことになる、と先に申しました。人生の歩みでは、たえず私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを受け止めてくれる主がいつもそばにいて下さるということも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との関係はしっかり保たれているのであろうか、と疑問や不信を抱くことに多く遭遇することも事実です。例えば、神への不従順と罪に陥った時とか、また苦難や逆境に陥った時などがそうです。

罪と不従順に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの価値が減じることはありません。救いと恵みに力がなくて、自分が罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの価値と力は、私たちがどんな状況にあるかにかかわらず、不変です。それゆえ、罪と不従順に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、悔いる心を持って神の御前で赦しを願い求めることです。その時、十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも戻る場所があります。

私たちは、自分自身の罪が原因ではないのに、苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はどう理解したらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような者でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言わず、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは、私たちが自ら捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのであります。また、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちの神との結びつきを一層強めるものです。

パンとぶどう酒を受けて、造り主である神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて、神との関係が再興されたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、関係は再興され、結びつきは強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも知ることもできなくても、神が、これで再興された、強められた、と言えば、そうとしか言えないのであります。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということであります。その神の目で見ることができる事柄は、聖書を通して知ることができるのであります。聖書の言葉は、誠に神の御言葉であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

説教「復活の体」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.十字架に掛けられて苦痛と激痛の中で息を引き取られたイエス様は、三日目に死者の中から復活されました。復活とは何なのでしょうか?それは、単に息を引き取った人が息を吹き返すということなのでしょうか?一度死んだと見なされた人が生き返ると、その時までの状態は仮死状態と見なされます。実用日本語表現辞典によりますと、仮死状態とは「呼吸や心拍の一方または両方が停止し、意識もなく、外見死んだかのように見えるが、自然にまたは適切な処置により蘇生する余地のある状態」とありました。キリスト信仰の復活とは、仮死状態から生き返ることとは全く違います。仮死状態からの生き返りでは、肉体がまだちゃんと残っていることが前提となります。肉体が腐敗してしまったり燃やされて灰になってしまったら、蘇生などもう不可能です。しかし、キリスト信仰の復活とは、蘇生が完全に不可能になった時とか、さらには肉体自体が消滅してしまった後に起きる生き返りなのです。つまり、復活した者は、今この世で持っているのとは全く別の体を持って生きることになるのです。この復活の体について、使徒パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」の中で次のように詩的に表現しています。

「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(15章42~43節)。

今この世で私たちが有しているこの体は朽ちるもの、それゆえ卑しく弱いものであるが、復活すると朽ちない体、輝かしく力強い体を持つことになる、とパウロは教えます。本日の使徒書簡である「コロサイの信徒への手紙」の箇所でパウロが「あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と言っているのは、復活して神の国に迎えられる者は神の栄光を体現するような体を持っているということです。イエス様自身もかつて、復活について教えられました。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と述べています(マルコ12章25節)。

キリスト信仰の復活という信仰の形はとても特殊なもので、なかなか理解されにくいものです。本教会の説教や聖書の学びでも、その都度教えてきたところですが、理解を助ける上で重要な点をいくつかまとめておきますと、まず、復活とは将来のいつの日にか起きる出来事であるということ。復活の日というのは、聖書によれば、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる天変地異の大変動の日であること。今ある天と地がなくなってしまうので、今のこの世の終わりの日でもあるということ。その時、神の国が目に見える形で現れ、創造主である神の意思に適う者がそこに迎え入れられる。その関係で最後の審判というものが起こる。その時点で生きている人たちは復活の体と命に変えられるが、既に死んでいて跡形もなくなっている人たちは復活の体と命を与えられる。大体以上のようなものです。

これらから明らかなことは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず広く共有されている考えですが、人は死んだらすぐ羽が生えて天使のようになって天国に行って、そこから地上にいる私たちを見守っているということはないということであります。キリスト信仰にあっては、人は死んだら、ルターも教えているように、また教会讃美歌366番「愛の泉」の4節と5節でも歌われているように、将来の復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているのであります。眠っているだけだから、お腹が空いたり喉が渇くこともないし見守りもしません。こう言うと、大抵の日本人はギョッとしてしまうでしょう。というのは、亡くなった人の霊とか魂が見守ってくれているから今の自分があると考える人が多いからです。しかし、キリスト信仰では、私たちを見守るのは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主の神しかいないのです。この父と子と聖霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て造られたものにしかすぎず、神は、造り主こそが見守り主であることを忘れるなと言っているのであります。

 
2.以上、復活というキリスト信仰の特殊な信仰の形について駆け足で見てみました。本日の福音書の箇所に戻りましょう。イエス様は死から三日目に復活されましたが、この場合、まだ肉体はちゃんと残っており、復活というよりは、仮死状態からの生き返りではないかという疑いが出るかもしれません。そうなると、イエス様は、神の栄光を体現する朽ちない復活の体を持っていなかったことになります。三日ではまだ日が浅すぎるでしょうか?

イエス様は仮死状態と言うには程遠い位に本当に死んでいました。ヨハネ福音書19章に記されていますが、まず兵隊たちが、イエス様が死んでいるのを確認しました(33節)。さらに、それでも不足と言わんばかりにイエス様のわき腹を槍で貫き刺しました(34節)。このことを書き記したヨハネ自身が、自分は目撃した通りのことを書いている、これはこの通り真実であると強調します(35節)。肉体は腐敗したり灰にされなかったけれども、イエス様の肉体は蘇生の可能性がないくらい完膚なきまで死んでいたのでした。

 それでは復活したイエス様は、私たちがこの世で有する体と異なる体を持っていたのでしょうか?ルカ24章やヨハネ20章を見ると、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それで、その体はもう今私たちが有している体とは全く異なるものです。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象があります。それは、復活したイエス様は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か特別なことがある。死ぬ前のイエス様と何かが違うが、何がどう違うかということについては、自由な空間移動ができるようになったことと、一目ではすぐ確認できないということ以外は、聖書には具体的に記されていません。それなので、ここではこれ以上のことは言えません。いずれにしても、復活後のイエス様の体は死ぬ前の体とは全く異なるものであるということは明らかでしょう。

 

3.復活したイエス様の体がどのようなものであったかについて、本日の福音書の箇所にはもう一つ興味深い出来事が記されています。それは、イエス様がマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われたことです。後ろに立っていた人がイエス様だと分かった時、マリアはイエス様にすがりつきました。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。それに対してイエス様が「すがりつくな」と言ったことになっています。ところが、この「私にすがりつくな」と言っているギリシャ語の元の文μη μου απτουは、「私に触れるな」と訳すことも可能なのです。実際に、ドイツ語のルター訳の聖書を見ると、「私に触れるな!

Rühre mich nicht an!と訳されています。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書も同じです(Rör inte vid mig)。フィンランドのルター派国教会が用いている聖書も「私に触れるな」です(Älä koske minuun)。それでは、私たちの新共同訳が間違っているかと言うと、そうでもなく、英語のNIV訳をみると、Do not hold on to meなので、「私にすがりつくな」です。ドイツ語のルター訳とは別のEinheitsübersetzung訳をみると、Halte mich nicht fest「私にすがりつくな」です。さて、足にしがみついているマリアに対してイエス様は、「私にすがりつくな」と言っているのでしょうか?「私に触れるな」と言っているのでしょうか?

この問題の解決には、イエス様の次の言葉が鍵となります。「まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、マリアに対して、自分にすがりつくな、ないしは、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。父なるみ神のもとに上げられていないことが、どうしてすがりつくこと、ないし触れることの禁止の理由になるのか、わかりにくく感じられますが、次のように考えればよいでしょう。復活したイエス様は、この世の我々が有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。しかし、自分は存在的には天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

神の神聖さを欠いた被造物である人間が神聖さそのものである神と接触するということは危険なことであるということが、聖書には記されています。例えば、出エジプト記2章で、モーセが燃える柴に近づこうとした時、神は、近づくな、お前の立っている所は神聖な土地だから汚い履物は脱いであがれ、と命じます(5節)。イザヤ書6章で、預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目にしてしまい絶望の声をあげます。ああ、この目で神を見てしまった自分は呪われてしまえ!なぜなら、自分は汚れた唇を持つ者であり、汚れた唇を持つ民の中で暮らす者だからだ。そのような汚れた存在である自分が神聖な神を目にしてしまったのだ。その直後に神の御使いが神殿の祭壇から燃え盛る炭火を取って、イザヤの唇に塗りつけます。イザヤは火傷一つ負わず、お前は罪の汚れから清められたと宣言されます。このように神聖さというものはそうでないものを焼き尽くす力を持っているのであります。罪の汚れを持つ人間が不用心にも神聖な神の前に立つならば、焼き尽くされてしまう危険があるのです。十戒をはじめとする掟を直接神から授かったモーセは、近くに来てもよいと神に認められた稀なケースです。しかし、彼が神と対峙したシナイ山の山頂から降りてくると、彼の顔の肌は光を放っていて覆いをかけなければならなかったほどでした(出エジプト34章29~35節)。これなど、神聖な神がどれだけ栄光を放っていたかを示すものでしょう。

神の神聖さというものがこのようなものだとすると、神のもとにいて当然な復活の体というものも、同じ神聖さを備えていると言うことができます。そうなると、イエス様がマリアに言った言葉は「すがりつくな」ではなく、「触れるな」が正しい、ということになります。ここで、ルターの訳やスウェーデンやフィンランドの訳に軍配があがるかと思いきや、実はこれもそう単純ではないのです。他の訳が「触れるな」ではなく、「すがりつくな」と訳しているのには理由があります。ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と命じます(39節)。また、再来週の福音書の箇所であるヨハネ20章27節で、目で見ないと主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスに対して、イエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。そうなると、なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになってしまい、本日の箇所を「触れるな」と訳したら矛盾が生じてしまいます。それで、「すがりつくな」という訳にしたのだと考えられます。しかし、ここは福音書の原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」とイエス様が命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου 現在形の命令)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶が原因の接触禁止ということなのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。もちろん、このことをしっかり踏まえていれば「すがりつくな」と訳してもいいのですが、ただそれでは、うっとうしいからすがりつくな、とか、もういい加減早く歩き出したいから、すがりつきをやめろ、と言っているように受け取られてしまいます。そういうことではないのです。

 
4.復活したイエス様は神聖な復活の体をもって、もうすぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない。罪の汚れを持つがゆえに神聖さを欠いている人間は、イエス様に触れることも許されず、彼が天に上げられてこの地上から去って行くことを見守るしかない。それで全ては終わりなのでしょうか?復活とは、もともと神のもとにいて神聖な存在であったイエス様が、わざわざこの世に人間の体を持ってやって来て、十字架の上で完膚なきまで死んで、復活してまたもとの神聖さを回復して天の父なるみ神のもとに戻る、そういうサイクルの一循環なのでしょうか?復活とは、イエス様がもとに戻ってめでたし、めでたし、というハッピーエンドなのでしょうか?

いいえ、復活はイエス様自身のためのハッピーエンドでは全くありません。復活とは実は、私たち人間がハッピーエンドを持てるために起きた出来事なのです。このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事があったがために復活の出来事も起きた以上、十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかった以上、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。

先週の主日礼拝でも、この間の聖金曜日礼拝の説教でもことさら強調しましたが、十字架に掛けられたイエス様というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに死ぬ存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、このことがまさに自分のために行われたのだと分かって、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いをそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神の罪の赦しがその人に対して効力を発揮し始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復した者となって、この世の人生を歩み始めることとなります。神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むとは具体的にはどういうことか?それに答えを与えるのが、イエス様の死からの復活でありました。

一度死んだイエス様を復活させることで神は、旧約聖書に預言されている復活の命が実在することを、まだ復活の日が来ていない段階で、示したのであります。従って、イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むようになるというのは、復活の命に至る道に置かれて歩むようになったということであります。これが、神はイエス様の復活によって人間に復活の命への扉を開かれた、と言われるゆえんです。こうして神との結びつきの中で生きることとなった者は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得てこの世の人生を歩むようになります。万が一この世から死ぬことになっても、まず復活の日までは、神の知る所にて安らかに眠り、復活の日が来ると、神の御許に引き上げられて、復活の命と体を与えられて、永遠に自分の造り主のもとにいることができるのであります。

以上、イエス様の十字架の死と死からの復活というものは、イエス様自身の体験のために起きたのではなく、私たちが生まれ変わって新しい命を持てるために起きたということが明らかになったと思います。そういうわけで、兄弟姉妹の皆様、私たちのためにイエス様を送られてこのような計り知れないことをして下さった天の父なるみ神は、誉め讃えても誉め讃えし尽くすことはなく、感謝しても感謝し尽くすことはない方であるということを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

復活祭の聖書日課 使徒言行録10章39~43節、コロサイ3章1~4節、ヨハネによる福音書20章1~18節

聖金曜日礼拝 説教「イエス様が十字架で成し遂げたこと」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書19章17-30節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。人間の痛み苦しみに全く無関心な兵隊たちは、処刑された者が息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。イスラエルの解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、かつて付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。

息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と一言を述べます。そして、息を引き取りました。とても象徴的な言葉です。もともとはアラム語で述べられた言葉だったでしょうが、ヨハネ福音書が書かれたギリシャ語では、テテレスタイτετελεσθαι、「完了した」とか「完結した」とか終わりを告げるという意味です。これまでプロセスにあったことが完了、完結したということなので、「成し遂げられた」と訳しても問題ないでしょう。それでは、イエス様が十字架で死ぬということは、何が「成し遂げられた」ことになるのでしょうか?

この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くに立って一部始終を目撃した人です(21章24節)。彼はこの時のイエス様の気持ちを読み取って、こう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。ヨハネは、イエス様がすべてのことが成し遂げられのを知ったのだ、と書きました。ところで、イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇69篇22節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」(他に63篇2節も)。しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の言葉とは、このことだけに限りません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についてもかなり詳しく預言しています。この預言の言葉が紀元前700年代に由来するのか500年代に由来するかについては、聖書の専門家の間で議論がされるところではありますが、いずれにしてもイエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い表していることは否定できないのであります。以下、イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わたのであり、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのであります。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった。

以上から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申し上げますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、以下に見ていきましょう。

人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていた行為をしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいと傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのであります。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。

ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は立てたのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてイエス様に白羽の矢が当たったのでした。

ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからです。

さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのであります。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力も粉砕されてしまったのです。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あと、人間の方ですることと言えば、この救いの実現が、起きた時から2000年たった現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けた者は、この救いを所有する者となります。こうしてその人は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、すぐ御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにいることができるようになります。神がイエス様を用いて整えた救いは、全ての人間にどうぞと提供されていますが、救いはこれを受け取った者に効力を発するのであります。

2.終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。初めにも申しましたように、ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσθαιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はもちろんギリシャ語のではなく、アラム語の言葉でした。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の言行録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのであります。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も効力を持っている、現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(ギリシャ語の現在完了形による)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いの計画がイエス様の十字架の時に完了してそれで全てが終わったと言うだけでなく、ヨハネが何十年後にこれを書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いている、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても、「成し遂げられた状態」が続いている、という意味であります。この翻訳は、真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼の手で造られた人間の誰もが、御自分の完成した救いを受け取ってほしいというものであり、これは2000年前も今も変わらないからであります。神の救いは、現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮そのものなのであります。従って、ゴルガタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、目指すべき目的地であります。また、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取っている者にとっては、それは、絶えず立ち返るべき原点なのであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ4章14節~5章10節、ヨハネによる福音書19章17-30節

説教「キリストは死から復活し、我々の将来の復活の初穂となられた」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 24章36-43節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

この度、日本福音ルーテル教会総会議長・牧師立山忠浩先生より正式に辞令を受けて、本スオミ教会に赴任することになりました吉村博明です。改めてご挨拶申し上げます。宜しくお願い致します。さて、私を派遣しているフィンランドのミッション団体は、「フィンランド・ルター派福音協会Suomen Luterilainen Evankeliumiyhdistys」、略してSLEYと言います。これは、フィンランドのルター派国教会の公認ミッション団体です。SLEYはもともとリバイバル運動として出発しました。リバイバルというと、日本のキリスト教徒たちはどんなイメージを描くでしょうか?フィンランドやスウェーデンのルター派教会に限ってみると、リバイバル運動(フィンランド語ではherätysliike、スウェーデン語ではväckelserörelse、文字通り「目覚め」です)とは、ルターに帰れ、ルターを通して聖書に帰れ、というルター派のキリスト信仰を強調する運動を意味します。国教会の歴史の中で、人々の聖書離れや教会離れが進む時とか、また教会に留まっても伝統的なキリスト信仰から外れる風潮が高まる時は、いつもこのようなリバイバル運動が起こりました。SLEYは1873年に組織として設立され、国内だけでなく国外にも伝道しようと決め、最初の宣教師派遣先として日本を選び、1900年から宣教師を送り始めて現在に至っています。日本福音ルーテル教会内にも、もともとはSLEYが建てたり、また設立に深く関わった教会がいくつもあります。そういうわけで、日本のルター派キリスト教徒の中には、親子代々にわたって、フィンランド人宣教師と交流を続けた方が多くいらっしゃいます。

SLEYが日本に伝道を開始してから100年たった西暦2000年、SLEYが毎年行う全国大会は、文字通り日本伝道100年記念一色に染まりました。その時、一つの大きな催し物として、オーケストラやコーラスを動員した大がかりなミュージカルの公演が行われました。その題は、「日本へ、さあ日本へ(Jaappaniin, oi Jaappaniin)」というもので、明治・大正時代の宣教師たちの福音伝道の奮闘記を描く歴史ミュージカルでした。

そのミュージカルの中でこんな場面がありました。長野県の山村の中にある宣教師館で、女性宣教師を先生として英語の聖書研究会が開かれている。そこには旧制高校風の出で立ちの男の子たちが何人か通っている。ある日、授業が終わった後で、先生が一人の学生に尋ねました。「Mr. Mizoguchi、溝口さん、イエス様とは誰のことですか?Who is Jesus?」尋ねられた学生は、はつらつとした声で「He is a good teacher! 彼は良い先生です」と言って、会釈をするなり素早く玄関から出て行きました。家路につく学生の背を目で追いながら、宣教師は呟きます。最後は絶句するように。「そう、確かにイエス様は良い先生だわ。でも本当は、それだけではないの。イエス様は、本当はもっとすごい方なの(Oikeastaan hän on paljon enemmän)。ああ、このことをどうやったら日本人にわかってもらえるのかしら!」

イエス・キリストを偉大な先生とか卓越した思想家として見なすことは、よくあります。キリスト教徒でなくても、イエス・キリストをこのように評価する人は大勢います。このスオミ教会から少し歩いて行ったところに、哲学堂公園という緑豊かな素敵な公園があります。そこの妙法寺川沿いのところに、世界の著名な哲学者たちの銅像が立っていると聞いたので、見に行ってみました。なるほど、ソクラテスやプラトン、孔子孟子など居並ぶ哲学者の中にイエス・キリストの銅像も立っておりました。イエス・キリストとは、人種民族を超えた普遍的な隣人愛や非暴力主義に基づく倫理道徳を説き、その教えは現代まで人間の思想に影響をもたらしてきた者 ― イエス様をその様に捉えれば、彼もまた一人の卓越した思想家・哲学者に数えられるでしょう。しかし、それは本当のイエス・キリストではないのです。本当のイエス・キリストとは、神の子であり、私たち人間の救い主なのであります。この本当のイエス・キリストを知ることが、人がキリスト信仰者になるかならないかの分水嶺になるのです。

イエス・キリストを神の子、人間の救い主として知ること、これはもう、人間の思想・哲学、理性を超えた、信仰の次元の話になります。まさにこの時にイエス・キリストは、信仰上の崇拝の対象となります。人によっては、イエスの教えが他の思想家・哲学者より優れていると結論して、それに従って生きることをモットーにする人もいます。そのような人はキリスト信奉者にはなれますが、それはキリスト信仰とは別のものです。それでは、イエス・キリストを神の子、人間の救い主として信じるキリスト信仰とは、一体何なのでしょうか?

日本では、偉業を成し遂げた人間は、死んだ後、神社に祀られて、お参りに来る人たちが人生の繁栄や健康を祈願する対象となることがよくあります。そのような崇拝の対象は大抵神様と呼ばれます。イエス様が神の子と呼ばれて崇拝されるのは、これとは全く似ても似つかぬものです。キリスト信仰における神、すなわちイエス様をこの世に送られた父なる神とは、天と地とその中に存在するすべてのもの、なかんずく人間を造られた創造の神です。その独り子であるイエス様は、実はこの世に送られる以前に既に父のもとにいて、天地創造の場面にもいあわせていたことが、ヨハネ福音書1章等に証しされています。日光東照宮に祀られている徳川家康は天下統一の事業は果たしましたが、生前の家康や死んで崇拝の対象となっている家康が天と地と人間を造り、人間に命を与えたなどとは誰も考えつかないでしょう。キリスト教会の礼拝で唱えられる信仰告白の一つに二ケア信条がありますが、その中でも言われるように、主イエスは天と地と人間を造られた父なる神と同質な方なのであります。

イエス様が、神の子ということに加えて、人間の救い主であるということについてもみていきましょう。救い主、救い主とよく言われますが、一体何から救うことなのか?受験シーズンになると、菅原道真を祀る神社は若者でごった返します。きっと誰も、崇拝の対象になっている道真が天と地と人間を造ったとか、人間に命を与えたなどとは、思わないでしょう。それでも、皆、合格祈願の祈りを捧げると、きっと崇拝の対象になっているものが力を及ぼして自分の努力に報いてくれる、と信じているのでしょう。イエス様が人間を救うと言う時、それは人に幸運をもたらし、不運や不幸から守ってくれることが救いということではありません。それでは、イエス様は何から人間を救うのでしょうか?

そのことがわかるためには、神が人間を造られたということ、人間は神から命を授かったということ、つまり人間には造り主がいるということ、これを思い起こさなければなりません。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、ということを考えてみなければなりません。まさにこの創造主と被造物の関係について聖書は明らかにしているのです。

旧約聖書の創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子をこの世に送り、これを用いて計画を実現されました。それは、人間の罪と不従順の罰を全てこのひとり子イエスに負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との関係が修復された者となり、この世の人生において永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にも絶えず神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。人間にこのような恩恵を施して下さった神は他に存在するでしょうか?また、私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、私たちはこれ以上何を求める必要があるでしょうか?

2.

以上、イエス・キリストとは、良い先生とか偉大な思想家・哲学者を超えた、もっとすごい方であること、実に神の子、人間の救い主そのものであることを、ミュージカルの宣教師にかわってお教えしました。そこで、本日の福音書の箇所に目を向けてまいりましょう。本日の箇所は、先週に引き続き、死から復活したイエス様が弟子たちに現れたことを伝える内容です。復活した主の目撃録は、私たちキリスト信仰者にとって、永遠の命、復活の命とはどんなものであるかを知る上で重要なものです。永遠の命、復活の命がどんなものであるかわかると、今度は、それに至る以前の今のこの世での私たちの生き方はいかにあるべきか、ということもわかってきます。

ところで、キリスト信仰者ではないキリスト信奉者にとっては、イエス様が十字架上で死んだ後の復活とか、また生前行っていた奇跡の業などはどうでもいいことでしょう。なぜなら、信奉者にとって、重要なのは思想であり哲学であり、またそれらに基づく倫理道徳だからです。彼らに言わせれば、奇跡や復活などというのは文明の未発達時代の人間の妄想か作り話で、そんなものは人間の理性を混乱させ、倫理と道徳の進歩の妨げになる、ということでしょう。しかし、信仰者にとって、理性や倫理や道徳というものは、人間の知恵ではなく神の知恵と愛に従う時に正しいものになります。それでは、神の知恵と愛とは何か。それは、先に述べましたように、一度断ち切れてしまった人間との関係をもう一度再興すべく人間救済計画を編み出したのが神の知恵であり、それを実行に移したのが神の愛であります。そういうわけで、キリスト信仰者にとって、奇跡や復活は、今のこの世の人生をどう生きるべきかを知りうる上で、なくてはならないものなのであります。

死から復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに、本当に突然彼らの間に立っていたのであります。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていた、とあります。弟子たちが、幽霊だと言って驚き恐れ慌てふためいたのは当然です。しかし、イエス様は、自分は幽霊ではない、と自ら否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが、自分にはちゃんとあることを確認せよ、と命じます。このようにイエス様には、肉体という実体があります。幽霊のように透き通ったような肉体があるのかないのか不確かな存在ではありません。また、食べ物はないか、などと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、イエス様は、復活したとは言っても、私たちと同じ肉体の欲求を持つ存在です。しかし、復活したイエス様は、私たちとは異なり、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されず、移動は全く自由です。

使徒パウロは、「コリントの信徒への第一の手紙」の15章において、体には今のこの世での体と将来の復活の体の二つがあること、そして、それらがどう違っているのかについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(42-43節)。44節にも言われていますが、私たちがこの世で持っている体はこの世的な体であり、復活の時に持つことになる体は霊的な体ということになります。イエス様は、マルコ12章25節において、死者の中から復活する者は天使のようになるのだ、と簡潔に言っています。

さらに、イエス様は十字架刑の時に被った手と足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は、死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示すものです。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから霊的な体へと全く異なるものにはなったけれども、復活後もイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を過去のものとして、今はその延長線上に立って新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は、死ぬ前と同じ人格を持ち、復活後も自我を持ち、そして、体は全く新しい復活の体を持つ、そういう存在になるのであります。

このことは、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なるところです。そこでは、人は死ぬと、成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。その道を歩む者として、僧侶から戒名という新しい名をもらいます。もし、名前というものを、単なる名札のような表面的なものに考えず、それこそ一つの人格に結びつく名称と考えれば、名前の変更は人格そのものの変更になります。名前というものをそのように深く考えると、戒名をつけた時点で、死ぬ前の人と修行の道に歩み出す者の間の人格上の結びつきは、もはやなくなってしまうのではないでしょうか。加えて、修行の途上にある者はどのように自我を有しているのでしょうか。こういう疑問を抱くのは、キリスト信仰の観点に立って生と死を考えるからだと言われてしまうかもしれません。仏教の観点に立てば、特段こだわる必要はないのかもしれません。しかしながら、キリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を持った復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で、復活後も自我を持つ、ということははっきりしています。そのようにして復活した者が自分の造り主、自分に命を与えた神のもとに永遠に戻ることになる。これがキリスト信仰者の死生観であります。

イエス様の復活は、キリスト信仰者の私たちにも関わってきます。なぜなら、私たちも復活する時は、復活のイエス様と同じように、生前と同じ人格を持ち、また自我も持ちつつも、朽ちない、死なない、弱くない、霊的な体を持つことになるからです。使徒パウロが「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(第一コリント15章20節)と述べている通りです。(「初穂」と訳されているギリシャ語の単語のもともとの意味は「第一子」です。「初穂」とはなかなか詩的な訳だと思いました。)しかしながら、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には、大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の中で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を携えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者を神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。たとえ眠りについていた時間が何百年たっていても、眠りについた本人にしてみればほんの一瞬のことにしか意識されない、とルターは教えます。こうして、復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時であり場所であります。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章4節)。

3.

以上からみるに、キリスト信仰者にとって人生は二部構成と言えます。まず、今のこの世の人生、そして復活後に自分の造り主のもとで生きることになる人生。信仰者にとって人生とはこの二つをあわせたもので、今のこの世の人生はその第一部です。イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を通して造り主の神との関係が再興された後は、この世の人生の歩みは第二部の人生に向かっていくものとなります。

こういう、復活だとか永遠の命とか次に来る世とか、そんなことを考えていたら、今の人生を軽んじることになってしまうのではないか、現実逃避になってしまうのではないか、と訝しがる人もいるでしょう。しかし、事実は全く逆です。それは、ルターの教えからも明らかです。ルターは、キリスト信仰者の人生とは、肉に宿る罪と結びつく古い人と洗礼を通して与えられた聖霊に結びつく新しい人、この二つが相克するものである、そして、キリスト信仰者は肉を纏って生きる以上はこの世の人生の段階では完全なキリスト者にはなれず、それは死んで肉が滅んだ後のことである、と教えます。肉に宿る罪を罪としてわかることができるのは、この世の人生をしっかり生きる他ありません。家庭、職場、学校、そのほか他人との関係で生きるあらゆる場所で人間関係に揉まれる時、人は神の御言葉を通して自分が罪深く、神に不従順な存在であることがわかります。堕罪の時起きた神との断絶を引きずった存在であることを思い知らされます。しかし、その同じ神の御言葉は、まさにそのような者のために神が犠牲を払って、私たちに新しい命を与えて下さった、それで神との関係はしっかり保たれているから安心しなさい、と慰め励まして下さっているのであります。そして、聖餐式のパンとぶどう酒を通していただく主の血と肉がその関係を一層強めて下さるのであります。そのようにして、キリスト信仰者は、ルターの言葉を借りるならば、罪に結びつく古い人間を日々死に引き渡し、霊に結びつく新しい人を日々育てていく人生を歩むのであります。

親愛なるスオミ教会の兄弟姉妹の皆様、この多難ではあるかもしれないが、実は限りない祝福に満ちた信仰の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「主は、十字架の死に至るまで、父なるみ神の御旨に従われた」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1-11節/26章1節-27章66節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.今年の四旬節も、もう枝の主日となりました。復活祭の前の主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様がこれから受難を受けることになるエルサレムに入城する際に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」(ホーサンナωσαννα)という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとヘブライ語のホシアンナ(ホーシーアハ ナーהןשיעה נא)という言葉のアラム語訳(ホーサーア ナーהישע נא)です。神に対して「救って下さい」と救いをお願いする意味があります。さらに、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉としても使われていました。従って、群衆は、ろばに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。この奇妙とも言える光景、出来事は一体何なのでしょうか?

 ルカ福音書にある同じ出来事の記述を見ると、イエス様は、まだ誰もまたがっていないろばを持ってくるように命じました(ルカ19章31節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。つまり、神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのであります。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書の預言の成就を意味しました。その9章9~10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

 さらに、ゼカリア書14章やイザヤ書2章をみると、世界の国々の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになって、聖なる都に上ってくるという預言があります。こうした預言を見ると、将来、偉大な王が到来して、その下でユダヤ民族の国家が復興し、支配者民族を打ち破って勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。そのような理解を持っていた人たちは、ろばにまたがってエルサレムに入城するイエス様を目にして、いよいよダビデの王国の復興の日が来た、との思いを強くしたでしょう。しかしながら、この理解はまだ、壮大な旧約聖書の預言のあまりにも一面的すぎる理解でした。イエス様を通して預言が実現していく時、それは、ユダヤ民族という特定の民族を超えた、人類全ての民族にかかわる神の意思が実現したということだったのです。

どういうことかと言うと、大まかには次のようなことです。人間はもともと神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。ところが、それにもかかわらず人間は、神に対して不従順となって内部に罪が入り込んでしまった。これが堕罪の出来事です。その結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまった。しかし、神は、人間との結びつきを回復させようと考えた。回復できれば、人間はこの世で神から絶えず良い導きと助けを得られるようになるのだ。また、この世から死んだ後は永遠に自分のところに戻れるようになるのだ、と。

ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の呪縛を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下しつくす。そして人間は、この身代わりの犠牲を信じる時、文字通りこの身代わりの犠牲に免じて罪を赦された者となる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は編み出したのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?神の考えは大体、次のようなものでした。一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、自分のひとり子しか適役はいないことになる。ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行してもらわなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録もなくなってしまい、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからだ。さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということである。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じるであろう。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのだ。彼にやってもらおう。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験がありますから、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったために、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

歴史の流れというのは、無数の人間同士の無数の関わり合いやぶつかり合いから生まれて進んでいきます。一見すると、そこには、神が全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切って方向付けているようには見えません。全ては、愚かで限りある人間のなせる業の集積に見えます。しかし、神の救いの解決策をみると、一方では、いろんな行為主体が自分の立場や観点に立って自由に行動したり発言したりするのに任せています。しかし、他方では、そうした行為主体の行動や発言があるおかげで、神の救いの解決策がイエス様の十字架という形をとって実現するのです。神の救いの解決策については何も知らない行為主体たちは、自分たちはただ自分の立場や観点に立って自由に行動し発言していると思っている。しかし、全てのことは実は、神の救いの解決策が実現していく舞台設定のようになっていくのです。そうなると、やはり神は全てを手中に収めて全てを見事に取り仕切っているとしか言いようがありません。神の計り知れない御計らいの前で、人間の自由とはなんとちっぽけなものか。神の計り知れない知恵の前で、人間の知恵はなんと取るにならないものか。

 

2.本日は「枝の主日」ということで、マタイ21章のイエス様のエルサレム入城の出来事が主題に定められていますが、ルーテル教会では、この他に「受難主日」という主題も与えております。その福音書の箇所はマタイ26章と27章の2章全部です。これは、最後の晩餐から十字架に至るイエス様の受難の出来事を全て含んでおります。本説教の後半は、この長い箇所を区切りながら、イエス様が十字架につけられるゴルゴタの丘に到着するまでの27章33節までを朗読したく思います。

十字架に架けられた出来事については、聖金曜日礼拝の主題に委ねたく思います。以下の朗読にあたりまして、次の点に御留意下さい。それは、父なるみ神が人間救済計画を実行しようとした時、御子イエス様はそれに全く従順に従ったということです。それは、イエス様自身、神の計画を実現することが人間のためになるとわかっていたからでした。彼も、それくらい私たちのことを思っていたのです。

  • イエス様の受難の前触れ的な出来事(26章1章~16節)

一人の女性がイエス様の頭に高価な香油を注ぎます。女性がこれを行ったのは、イエス様がもうすぐ死んで葬られるので、その準備をするという意思表示でした。この女性の行ったことは大きな意味があります。それは、この時まだ弟子たちを含め誰も、イエス様が受難を受けて無残にも死刑に処せられるなどとは信じていませんでした。彼らにとってイエス様はすぐ実現する神の国の王でなければならなかったからです。しかし、この時既に、この女性のようにイエス様の受難と死を文字通り信じた人がいたのです。イエス様は、将来福音が宣べ伝えらえる時、この出来事も忘れられてはならないと言われました。

  • 最後の晩餐(26章17~35節)

ユダヤ教社会の大事な祭日である過越祭の食事が、イエス様の命令により私たちの聖餐式の出発点となりました。私たちが飲むぶどう酒は、私たちの罪の赦しが実現するために主が流された血なのであります。その血を摂取することで、私たちは洗礼の時に受け取った罪の赦しを一層確かなものにすることができ、絶えず神との結びつきの中で生きていくことができるのです。この血は、文字通り神と私たちの契約の血なのです。

  • ゲツセマネでの祈り(26章31~46節)

神のひとり子として神と同等の方であるイエス様は、この世では人間の体と心を持ち人間の痛みと苦しみがわかるゆえに、これから行おうとする全ての人間の罪の請け負いがどれだけの痛みと苦しみをもたらすかをご存知でした。できることならその杯は飲みたくない。しかし、それでは神の人間救済計画は実現できなくなってしまう。そこで最後にこう祈ります。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」イエス様は、真に十字架の死に至るまで父なるみ神の御旨に従われたのであります。それ位、私たちのことを愛して下さったのであります。

  • 逮捕と最高法院での裁判(26章47~75節)

逮捕に来た者たちに剣で反撃しようとした弟子を戒めた時、イエス様は言います。もしこの出来事が神の人間救済計画の実現と何の関係もないものならば、神に天使の軍勢を送ってもらうことができる。しかし、それをやってしまえば、神の計画は実現しなくなってしまう。神に救援を要請する可能性はあるのに、あえてそれを使わない。それ位、イエス様は、私たちのことを愛して下さり、十字架の死に至るまで父なるみ神の御旨に従われたのです。

・総督ピラトの尋問と十字架刑の決定(27章1~33節)

ローマ帝国支配下のユダヤ教社会では、刑法上の処罰権は総督が握っていました。だからイエス様を死刑にするには総督に引き渡して、罪状を訴えるしかなかったのです。不利な証言を並べ立てられてもイエス様は反論をしません。仮に反論をして、宗教指導者の証言を覆すことができても、それが何の意味があるでしょうか?イエス様は十字架刑に処せられることに決まりました。当時最も残酷でこれ以上の屈辱はないという位の刑罰でした。何しろ、苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間に渡って公衆の面前に晒すのですから。神のひとり子が強盗や山賊同様の刑罰を受けてしまうのです。加えて、死刑の決定後、ローマ帝国軍の兵隊たちの侮辱と暴行が始りました。傷ついた体で処刑地ゴルガタへの道のりは既に体力の限界を超えるものだったでしょう。ヨハネ福音書では、十字架を背負って歩かされたとあります(19章17節)。キレネ人のシモンが背負ったというのは、恐らくイエス様が一人で担ぎきれなくなって手伝わされたものと考えられます。イエス様とシモンと護送の兵隊たちの後を民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れをなしてついて行きます(ルカ23章27節)。兵隊たちの罵声と嘲笑、かつて付き従った人たちの嘆き悲しみの声を聞きながら、イエス様はゴルガタに到着したのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


枝の主日/受難主日の聖書日課 ゼカリア9章9~10節、フィリピ2章6~11節、マタイによる福音書21章1-11節/26章1節-27章66節

説教「ラザロ、起きてきなさい」木村 長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書11章17節~53節

 

今日の御言葉は、「ラザロの復活」の出来事であります。

ラザロは、マルタとマリヤという2人の姉と共にベタニヤ村に住んでいました。イエス様は、この家族と大変親しく、又、愛しておられました。

11章のはじめの方を見ますと、このラザロが病気になって危ない、「イエス様、早く来て助けて下さい」という知らせを、イエス様のもとによせているんです。
そして、ついにこのラザロは死んでしまいました。

今日の聖書の17節になりますと、「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて、既に四日もたっていた」というのであります。
ユダヤでは、人が死にますと、なるべく早く屍を墓に葬る、という習慣です。
墓に葬りまして後、喪にふすという期間が続きます。
この期間の、ユダヤ人の嘆きと悲しみは大変なものです。ラザロの葬りの時も、
大勢の人々が悲しみ、イエス様御自身も、涙を流される程の激しい悲しみを表しておられる。

ユダヤ教の文献によりますと、三日の間、死者の魂は屍の上を漂っていて、元の古巣に戻ろうとしている。
ところが三日たつと、だんだんと屍が腐っていって、様子が変わってくると魂は諦めて、四日目からは魂は去っていく、というのです。
ですからユダヤでは、屍の確認をするのは、死後三日以内でないとダメだ、という決まりであった。

イエス様がマルタとマリヤの所へ来られた時、四日間たっていました。ラザロの霊魂も、あきらめて神様の所へ行ってしまった後です。もう、魂が体に戻りたくとも戻れない、ということです。甦えりは不可能になってしまった。
そういう時にイエス様は来られたのであります。
イエス様がやっと来られた、というのでマルタとマリヤは出迎えに行きます。そしてイエス様との会話があります。
マルタもマリヤも同じように信仰をもってイエス様に言います。21~22節を見ますと、「主よ、もしあなたがここにいて下さったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています。」と言っています。
つまり、イエス様ならどんなことでも叶えられる、ということ。あらゆる事が可能であると、彼女たちは信じています。

次に注目するのは、イエス様が全能だから、イエス様はどんな事でもできるというのではなく、あなたがお願いになれば「神はかなえて下さる」というように、私たち人間の願いを、イエス様は取り次いで下さる方、仲立ちくらいの位置付けにしています。
ですからマルタによると、今ここで、イエス様はまだ何となく、全能の神とまでは行かない、やっぱり人間と同じような、ちょっと取次ぎ方の上手な方くらいのレベルに見積もられているわけであります。

するとイエス様は、はっきりとお答えになります。
「あなたの兄弟は、よみがえるであろう」。それに対して、マルタの信仰があらわされます。24節で「終わりの日のよみがえりの時、よみがえることは存じています。」とマルタは言います。
死人が神様によって甦えらされる、ということは、、旧約聖書の中ではダニエル書12章に、はっきりと教えられている信仰であります。
死人のうち、賢い者、つまり神を畏れる、信仰的な知識をもっている信者であれば、甦ると信じられてきました。主にパリサイ派の人々によって信じられてきました。
この甦えりは、「終わりの日」歴史が終わる時に義人である信仰者が甦らされる。
神を信じない者、神を畏れない悪人どもは、甦るどころか地獄の火に滅ぼされるというふうに、考えられていたのでした。

マルタとマリヤの信仰のクライマックスは、27節で告白しています。
マルタは言った。「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の子であると、信じております」。
ここでナザレのイエス様を「この世に来たるべき方」、「キリスト」、しかも「神の子」と言い表しています。キリスト教が期待している最高の信仰であります。
ここに少なくとも、言葉の上では、論理の上では最高レベルの信仰を彼女たちは告白しています。けれども、実質的な面からもう一度注意深くみますと、イエス様が「あなたの兄弟は、よみがえるであろう」とおっしゃると、それに答えて、「終わりの日」ならば、それはわかります、と答えています。

今、「終わりの日」の事など、関係ないことでしょう。
ともかく、今のわたしの嘆き、私たちの悲しみには、ちっとも助けにはならない、慰めにならない、と言っているのです。

マルタはすばらしい言葉で、「主よ、信じます」と言いながら、そして「どんな事でもかなえられる」とは言いながら、実際にイエス様が墓にまで行って「墓石をとりのぞけ!」と、39節で叫ばれますと、マルタは思わず申します。
「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」と、言います。
言葉の上では、どんな事も可能でしょう。しかし、現実に墓石をあけて、腐りかけた死体を、何とかすることができるかどうかになると、彼女はやっぱり、それはもう無理じゃないか、という反応をあらわしています
つまり、彼女は頭の中で、イエス様を信じています。しかし、現実には信じられない。イエス様が言われる言葉を、すべて信じ切ってなどいないのです。

この問題が私たちの口、私たちの頭、私たちの常識で最高のりっぱな信仰を言いあらわしても、実際の生活、実際の考え方には、くいちがい、すれちがいがあって、やっぱりどこかで誤魔化してしまおうとします。
ヨハネ福音書の1番の問題意識であります。このことのためにヨハネは、福音書を書いたというのであります。
ヨハネ自身が福音書の最後の、20章30節以下で念を押して書いています。
「イエスは、この書に書かれていない、しるしを、ほかにも多く弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなた方が、イエスは神の子キリストである、と信じるためであり、又、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。

イエス様はマルタに対して、このように口で言う言葉と、現実に心に思っている程度、との間にへだたりがある。
イエス様は今、そこに、非常に大きなチャレンジをなさいます。
大変大切な宣言を、なさっているのです。
「わたしは、よみがえりであり命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。又、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
今日、私たち一人ひとりに、イエス様はあなたに宣言なさっています。
あなたはこれを信じるか、と、主の前に問われているのです。
よみがえり、と、命とは、ここにある。それはイエス様がいますことによって現実となる、ということです。

40節のみことばです。マルタが主に言います。「主よ、もう臭くなっています」。
彼女にとっては、これが現実でした。そうしたマルタに向かって、イエスはおっしゃいます。「もし信じるなら、神の栄光を見るでろうと、あなたに言ったではないか」。
立派なことを言い表すことではない。本当に、イエス様こそ甦えりそのもの、と信じて、本当にその人のものになっているかどうか、ここで問われているわけです。

イエス様は、もうすでに5章24節のところで、はっきりと言っておられます。
「よくよく、あなたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、又、さばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなた方に言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今、すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう」。ここで言われている「イエスを信じる者はよみがえる」という、よみがえりは、主イエスの言葉を聞いて信じる者は、その時、その瞬間にです。すでに死から命に移っている、現在の話です。
この命は、肉体の死が滅んでも死なない、ずーっと続いている神の国の永遠の時の中でも続いて、生かされている命であります。永遠の命を受け、裁かれないのです。すでに今、私たち信じる者はみなそうであります。

ヨハネは、すでにイエス様が言われた、よみがえりを解説しています。
5章28節以下です。「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちが、みな神の子の声を聞き、善を行った人々は生命を受けるためによみがえり,悪を行った人々は裁きを受けるために、よみがえってそれぞれ出て来るであろう」。

ここで約束されているのは、墓から出て来る時が、やがて来るであろう、という未来の復活のことです。

このように、イエス様は二つのよみがえりを語っておられる。一つは、信じる者は、現在、死から命に移っているということ。もう一つは、マルタが言いましたように「終わりの日のよみがえり」、遠い未来の復活です。

41節から見ますと、イエス様は墓にまで行かれ、石をとりのけるように叫ばれると、人々は石をとりのけた。すると、イエスは天を仰いで言われた。
「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いて下さることをわたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。こう言って、「ラザロ!、出て来なさい!」と、大声で叫ばれた。ありったけの大声で叫ばれたのです。
すると死んでいた人、ラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
ここをよく見ますと、イエス様は天の父に、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します、と言っておられる。

天の父は、この世のすべてを創造したもう神です。
私たちすべての人間の体も命も造りたもうた主であります。
ヨハネは一貫して、この命を記していきます。ヨハネの福音書の冒頭に、「はじめに言があった...そしてこの言に命があった」と、まず記しています。

初めにあるのは命であり、本来なら、やがてこの命に帰るのであります。
しかし、人間が、この造り主である神に背き、罪を犯した。罪の果ては死であります。
死は、本来あるべきこの命から外れてねじくれてしまった、アブノーマルな状態になってしまった。
よみがえりと命、そのものであられるイエス・キリストによって、その死の状態から終わりに現われる栄光へ、神の命に生きるようにして下さったのであります。「あなたはこれを信じるか」と、イエス様は私たちに言っておられるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心をと思いを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

四旬節第五主日 

説教「安息日の主たるイエス・キリスト」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章13~25節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、イエス様が全盲の人の目を見えるようにした奇跡の後の出来事について述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問します。なぜ、尋問に至ったかと言うと、この癒しの出来事が起きた日が安息日だったために、これを行ったナザレ出身のイエスは安息日の掟を破る、つまり神の意思に反する人物かどうかが問題になったのです。

 安息日とは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。

なぜ、イエス様が安息日に全盲の人の視力を回復したことが問題になったかと言うと、彼が唾と土で何か粘土状のものを作ったことと、それを使って目を治してあげたことの二つが、してはならないと言われている仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の少し前の所で、群衆が元全盲の人に尋ねました。どのようにして目が見えるようになったのか?男の人は答えました。イエスと呼ばれる者が粘土状のものを作って私の目に塗りました。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと命じました。言う通りにそこに行って洗ったら見えるようになりました(11節)。この粘土状のものを作って目に塗るという行為と目を治すという行為が安息日に起きたために、群衆はこの出来事が宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うナザレ出身のイエスは、本当は神由来の者ではないだろうか、それとも十戒を破る以上は神に反する者ではないか、一体どちらか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?

ファリサイ派の間でも見解は割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、と主張します。別の者は、神由来でない罪を持つ人間ならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるであろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読み、その中のいくつかの預言をもとにすると、将来神の霊を注がれた神の僕が到来して、その時に盲目の人の目が見えるようになると理解することができます(42章7節、35章5節、61章1節、これらに加えてマタイ11章4~6節、ルカ7章22~23章も参照)。1 イエス罪びと説に与することが出来ない人たちは、きっと、イザヤの預言が頭をよぎったのでしょう。しかし、見解の一致は得られませんでした。そこで、ファリサイ派の人たちは、元全盲の人の見解を求めました。お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?男の人は答えました。預言者だと思います。メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られた人と考えられていたので、答えはいずれにしても、イエスは神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、という告白をしたことになります。

この出来事で一つ考えなければならないことは、イエス様はなぜ癒しの奇跡を安息日に行ったのかということです。別に日に行えば、まさにイザヤ書の預言の実現だ、と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の目は病気が治ったという奇跡には向けられなくて、安息日を破ったということに向けられてしまった。一体、イエス様はどういうつもりなのか?実は、安息日を選んで癒しの奇跡を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるとうことです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。原語のヘブライ語をそのまま訳すと「あなたは安息日を覚えておきなさい、忘れないようにしなさい、それはその日を神聖なものとするためである」というものです。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福し神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、ファリサイ派をはじめとする当時のユダヤ教社会の考え方だと、仕事をしないということが安息日を神聖なものにする中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするかということに目が行っていると言えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。それは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神の意思を知ることにもなります。

2.まず、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。

 マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだということが仕事をしたと見なされて、弟子たちのリーダーであるイエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(28節)。もう少し、ギリシャ語に近い訳をすると、「安息日は、人間のために出来たものである。人間が安息日のために出来たのではない。だから、人の子は安息日についても主なのである」。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。

 マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちが訴えを起こせる瞬間を待っているのを見てわかったイエス様は、次のように聞きます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができない中を、イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということであります。

 ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは思わず吹き出しそうになりますが、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいというイエス様の様子がうかがえます。

 ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだ、と。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~17節)。ギリシャ語の原文に近い訳だとこうなります。「この女は(アブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ)、安息日にこの束縛から解放されるべきではないか?」つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのであります。

 まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。それでは、安息日にしてはいけない仕事とは何かと言うと、そういう人を束縛や危険からの解放とは無縁な活動、通常の自分の生活のためのお金稼ぎの活動ということになります。そういう活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。

そういうわけで、人は安息日に心と体と魂を自分の造り主に向ける時、造り主である神とは命を束縛するものから解放して下さる方だと覚えなければならない。そして、もし周囲に病気や命の危険に晒されている人がいれば、安息日でも助けてあげることは解放の神の意思に適うことになるというのであります。イエス様がこの地上で活動していた当時、人間の命を縛りつけるものからの解放ということと安息日が結びつくということは、あまり人々の頭にピンと来るものではなかったでしょう。なぜなら、神が与える解放と聞けば、ユダヤ民族なら真っ先に頭に思い浮かぶのは、奴隷の国エジプトからの脱出とか捕囚の国バビロンからの帰還というような民族の歴史的な出来事だからです。ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活をきっかけに、天地創造の神が人間に与える解放とは、そういう一民族の歴史的体験を超えた、全人類にかかわる解放であることが明らかになりました。実は、このこと自体、既に旧約聖書の中に預言されていたのです。しかし、預言は預言でまだ実現していなかったので歴史的な体験になっていません。そのため、解放と聞けば、歴史的に体験された他民族支配からの解放という理解が中心になってしまったのです。しかし、イエス様の十字架と復活が起きたことによって預言が実現し、全人類にかかわる解放というものが歴史的に体験されるに至りました。以下、イエス様の十字架と復活がもたらした全人類にかかわる解放ということを見ていきましょう。

3.イエス様は地上で活動している間、奇跡の業をもって人間を束縛している数多くのもの、病気、悪霊、飢えなどから人間を解放しました。そして、十字架の死と死からの復活をもって今度は、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放しました。どうしてこのような解放が行われなければならなかったのでしょうか?

人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪を「遺伝的に継承する罪」と「行為に現れる罪」の二つを考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、というのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。これが真理です。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になるのです。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると誰も、この子が罪びとだとは考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。

罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を神は復活させることで、今度は人間に永遠の命、復活の命に至る扉を開きました。あと人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのであります。

以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様はご自分の死と復活をもって、人間に死をもたらしていた罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対する完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、イエス様のもたらした勝利に与っているので、何をも恐れる必要はないのであります。天と地と人間を造られた神は、いったんは人間に背を向けられてしまったのですが、今はこの救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。

4.キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することに他なりません。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場であります。礼拝は、教会が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉の説き明しである説教を聞くことで、既に受け取った救いと解放を絶えず心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さったからこそ神を何よりも信頼して祈りを捧げます。そして、聖餐式で神との結びつきを維持・強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目には維持・強化されたものになるのです。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところであります。そして、一週間後また帰って来るところであります。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。以上からも明らかなように、礼拝ではイエス様が中心になっています。これを忘れてはなりません。なぜなら、私たちの救いと解放は彼を通して与えられたからです。それゆえ、イエス様が安息日の主であるというのは誠に真理なのであります。

以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神の整えた罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導く場だからです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝を大切にしていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


1 「イザヤ書を通して読み」ということについて。ここでは、いわゆる第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤの視点はありません。なぜなら、この区分は近代釈義学の中から生まれたもので、イエス様の時代を含む第二神殿期のユダヤ人がこの区分を念頭においてイザヤ書を読んだことはありえないからです。A.ラートの研究が明らかにしているように、当時のユダヤ人たちはイザヤ書を一つのまとまった書物として読んでいました。もちろん、三つの区分は、紀元前8世紀および同6世紀後半から2世紀までのパレスチナの歴史状況を解明するのには有益な区分です。しかし、イエス様の時代のユダヤ教社会の思想的神学的状況の解明には無益どころか有害でさえあります。それの解明には、「第二神殿期という特異な歴史的状況の中で、この本をひとつのまとまった書物として読むと、世界や歴史はどのように見えてくるだろうか」という視点がなければなりません。

 

四旬節第四主日の聖書日課 イザヤ42章14~21節、エフェソ5章8~14節、ヨハネによる福音書9章13~25節 

説教「命の水」木村長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書4章5節~26節

今日の御言葉は、イエス様が、サマリヤの女と出会われた出来事です。

3節から見ますと、イエス様と弟子たち一行はユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた、とあります。ガリラヤへ行くのに、サマリヤ地方を通らねばなりませんでした。シルカというサマリヤの町に来られ、そこにヤコブの井戸がありました。時は正午頃であります。イエス様は旅に疲れて、井戸のそばに休まれたわけです。

私はイスラエルの旅で、四月のはじめでありましたが、このヤコブの井戸の所へ行きました。 日本では、とても想像できない程の暑さです。バスの中ではクーラーを目いっぱいかけて冷房しても暑い、バスから一歩外へ出たら、もう、ひどい暑さです。30~40℃近い、焼けつく砂漠の荒野の中を通って行くわけです。 ましてや、イエス様の時代、歩いて3~4日の旅です。 ともかく、ものすごい暑さの中、のどはカラカラに渇いて、一杯の水が欲しいのです。

7節を見ますと、ちょうどそこへ、サマリやの女が水をくみに、このヤコブの井戸へやって来ました。さっそく、イエス様は「水を飲ませて下さい」と願われたのです。弟子たちは食べ物を求めに町へ行って、イエス様とサマリヤの女との対話が始まります。ごく自然に、「水を飲ませて下さい」というイエス様の願いに対して、サマリヤの女は、その願いを素直に受け取らなかった。

なぜなら、第一には、サマリヤの女は男の人と話をする等ということは、決してしないのです。次に、イエス様がユダヤ人であることは、見てすぐにわかります。ユダヤ人に対して、サマリヤ人とはもう昔から憎しみ合っていました。民族との間に深い溝があったからです。 ですから、サマリヤ女としては、イエス様の願い等とうていできないのです。 それでサマリヤの女は言います。「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」。 ここに、イエス様は一杯の水さえ飲むことを拒まれています。 ユダヤ人とサマリヤ人とは、同じ器に唇をつける事はできない。ユダヤ人から見れば、サマリヤ人は混血の人種で、異邦人扱いですから、異邦人の使うどんな物も、共通に使用するのを律法で禁じていたからです。

この福音書を書いていますヨハネが、ここで、私たちも含めて人々に示そうとしている事は何か、といいますと、イエス様が神の子として、この世に来られた使命を果たそうとされるのが、いかに困難であるかということです。 イエス様はどんな状況、どんな相手にも分け隔てなく、敵をも愛する愛をもって、その道を探し求めて行かれるのですが、至る所でその道は閉ざされ、壁に突き当たるのでありました。 イエス様は、ここで、女の不信に対していささかも退く事なく、かえって、救い主としての御心を、彼女に示していかれるのであります。

10節に、すごい言葉がほとばしり出ています。 「もし、あなたが神の賜物を知っており、又、『水を飲ませて下さい』と言ったのが誰であるか知っていたなら、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えられたであろう」。

ここには二つの大事な言葉を言われています。一つは「神の賜物を知っていたら・・・」、もう一つは「生ける水」のことです。

暑い真昼ののどの渇きをいやす一杯の水が、今、イエス様の口をついて出る水は、渇くことのない「生ける水」の次元へと変わっていきます。 天の神様が、イエス様を遣わされたのが何のためであるのか、神がイエス様にあって、人間に与えるものは何であるのか。 これは神の賜物のことを知っていたら、彼女はイエス様の方へお願いしたであろう、と言っておられるのです。 神の賜物とは、神からの啓示の言葉のことです。それは、神の救いの御旨を、人間に知らせてくれるものです。 イエス様が、彼女に与えるものは、彼女がイエス様に手渡すことのできるものよりも、比較にならぬ程大きなものでしょう。 それは、水ではあるが、生ける水であって、真に人を生かす飲み物である。

私たちは普通、「生ける水」等と言いません。ユダヤでは普通によく使った言葉なのです。 池の水とか、ためてある水、とどまっている水は生ける水とはいいません。そうしたたまり水に対して、山の小川のように、サラサラと流れる水、冷たいおいしい水、又、泉からわき出る新鮮な水を、「生ける水」といいます。 著者のヨハネは、この言葉によって、イエス様の御心の深みを開いて、私たちに示していきます。

イエス様は、真理を見通す明るいまなざしで、渇いている女の心の底まで見通されたのです。彼女は人生の中で今、長いこと待ちこがれた焼きつく渇きをもって、イエス様の前に立っているのです。 イエス様は、彼女のために生ける水と、又救い主の御旨を持っておられた。 それを彼女に与え、その賜物で彼女のやんだ心を健康にすることがおできになるのです。サマリヤの女は、この時まだイエス様の中にユダヤ人を見て、こだわりを持っていたでしょう。 彼女がイエス様を理解し、又、自分自身をも理解するように、又、彼女の満たされない要求、不安、心の渇きがどこから来るのか、どのようにして、いやされるのか、これらの事がわかるために、イエス様は彼女の目を開かれたのでした。何よりもまず、彼女には、イエス様に対する不信感がまだあった、そして、イエス様に言っています。

11~12節を見ますと、「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその『生きた水』を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。 サマリヤの女は、イエス様の持っておられる能力の限界を計ったのです。水を手に入れる等どうして出来るだろうか、と思いめぐらした。いぜんとして彼女はユダヤ人であるイエス様を見ている。この人は自分をサマリヤ人より上に置いている。サマリヤ人が聖なる井戸として、非常に骨折って掘った族長ヤコブを過小評価しているのではないか。

彼女は心の内に言うのです。 サマリヤの女は、自分たちの民族が誇らしげに、聖なる井戸を見てきた。その井戸を少し軽蔑して言っているのではないか。 しかし、この言葉の中には、何かもっと高度なことを言っているようにも感じているのでした。 イエス様は、ここで本格的に御自身の恵みの目的を現わされていかれるのです。

13~14章のみことばです。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者は誰でもまた渇く。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』」。イエス様が与える水からは、いつも新鮮な泉が湧き出て来るものである。そのイエス様からの賜物は、何か一種変わったものではなく、真実に私たちに与えられるもの、私たちを助け、内側から私たちを捕らえて、新たにするものであります。 イエス様が与えられるもの、それは永遠であり、永遠の命の与え主として、今、この女に御自身を現されたのです。 イエス様がそのようになさるのは、イエス様の愛から永遠の命が育つことによって、そうなるのです。 この永遠の命が、その人の中に受け入れられ土台となってしまうなら、それは渇くことのない「生ける水」を飲んだからであります。

15節で女は言った。「主よ、私が渇くことなく、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」。 今や、彼女は、ユダヤ人等という人種や歴史を越えて、イエス様に近づいていくのであります。イエス様は、彼女の心の内側の暗い部分に、彼女のまなざしを向けていかれる。 そこで彼女は、自分自身が真実、貧しく悲惨であり、すべてを無気力にしてしまう魔力が巣くっていることを知らされるのです。

16説を見ますと、イエスは彼女に言われた「行って、あなたの夫を呼んでここに連れて来なさい」。 この言葉で、この女は悲惨なすべてのものが、明るみに出されていくのであります。女は答えて「わたしには夫はいません」と言った。するとイエスは言われた。「夫はいませんとは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。 これまで何人もの夫に、身も魂も栄養も良心も、すべてをささげて尽くして来た。しかし、とどのつまりはすべて砕かれ、今ある夫は、公然と交わりを結ぶ夫ではない。

こうして彼女は、あらゆる努力をしたあげく、孤独で恥に満ち、踏みにじられ、貧しく、愛なしに立っていた。 今、イエス様は、このような悩み、やつれて、渇いた彼女を、生ける水を必要としている姿に見られるのであります。 「5人の夫があったが、今いるのは夫ではない」と、ずばりと言われたイエス様の言葉が、悔い改めに招き、裁きの光りとなって彼女の良心に射し込み、彼女を服従させるものとなっていった。そして彼女は言うのです。「主よ、私はあなたを預言者と見ます」。 こうして彼女の心にかかっている神様を礼拝することで、イエス様との話は移りますが、イエス様は大事なことを示される。

21節のみことばです。 「イエスは彼女に言われた。『御婦人、私のことを信じなさい。あなたが、この山でもなく、また、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時がきている』」。 イエス様がこの婦人に、生ける水を与えよう、と話されたのは、その生ける水を見つけるためにエルサレムに巡礼しなければならない、という意味ではない。 それよりももっと、高度なことが示されているのであります。

23~24節にそれが示される。 真実の礼拝者たちが御霊と真理をもって、御父を礼拝する時が来る。今、その時が来ている。神は霊でありますから、礼拝する者は、御霊と真理をもって礼拝しなければならないのだ、ということ。 天の御父は、このような礼拝者を求めておられるのです。 婦人は、イエス様の言葉が、これまで自分を支えていたすべてを越えているのに、気づいたのでした。

25節になりますと、女はイエスに言った。「私はキリストと呼ばれるメシヤが来る事を知っています。そのお方が来られたら、私たちにすべてのことを宣べ伝えるでしょう」。サマリヤの人たちも、キリストを望み見る希望にあずかっている。この婦人も、その望みを期待していたのでした。 イエスは彼女に言われた。「あなたと話している私がそれである」。 この一言の言葉で、彼女はどんなに驚いたことでしょうか。

イエス様は、まことにサマリヤの女に「生ける水」を与えられました。 このような親しみと、恵みと、ゆるしとをもって彼女に語りかけ、彼女のまちがいを正していかれたお方、これこそ、神の御名によって恵みを与えられる、キリストであります。永遠に支配されるキリストであります。私たちの救い主イエス・キリストであります。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 
四旬節第三主日  2014年3月23(日)