説教「創造主の視点」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章21-37節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所は、マタイ福音書の5章から7章にかけてある「山上の説教」の一部です。ここでイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法についての正しい理解を群衆に教えます。律法を正しく理解するとは、とりもなおさず、律法を人間に与えた方の意思を正しく理解すること、つまり、天と地と人間を造られ私たちに命と人生を与えられた父なるみ神の意思を正しく理解することです。イエス様は律法や神の意思が正しく理解されていないことを知っていました。それで、山上の説教でイエス様は何度も繰り返してこう言います。「あなたがたも聞いているとおり.....と命じられている。しかし、わたしは言っておく。.....

今まで律法についてこう言われてきたが、本当は次のように理解されねばならない、と教えるのであります。このようにして、山上の説教で、創造主である神の意思が明確にされるのであります。それができたのは、イエス様が父なるみ神のひとり子で、神の視点を持てたからでした。以下、イエス様が明らかにした神の意思をひとつひとつ見ていきましょう。

まず、21~26節。ここでは十戒の第五戒「汝、殺すなかれ」が取り上げられます。「人を殺した者は裁きを受ける」という時の「裁き」とはこの世の司法制度で殺人罪が問われることだけでなく、神からも第五戒を破った者として裁かれることを意味します。人を殺してはならないというのが創造主の意志である。しかし、イエス様は言います。人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く1

者はみな裁きを受けるのだ、と。人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く」ことが具体的な行為に現れると、人を殺してしまうということがあるが2、それだけではない、悪口を言ったり罵ったり中傷したりすることもある3。悪口罵り中傷を言う者も、殺人同様の裁きにかけられて然るべきものなのだ。なぜなら、それらはみな、人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く」ことなのだから。

このようにイエス様は、「汝、殺すなかれ」という神の掟の本当の意味は、「汝、腹を立てるなかれ、怒るなかれ、憎しみを抱くなかれ」であると教えるのであります。神が「殺してはならない」と命じているのは、殺すという外面的な行為のもとになっている内面的な動機を持ってはならないということなのです。悪口罵り中傷は、たとえ殺人のような直接人に手を下してしまう行為と同じレヴェルで扱えないようには見えても、同じ動機から生じてくる以上は同じ裁きを受けて然るべきだというのであります。ここで、悪口罵り中傷が果たして殺人行為と同レヴェルで扱えないかどうかについて。最近のネット上での誹謗や中傷が原因で多くの人が傷ついたり、ひどい場合は自殺に追い込まれたりするニュースに接すると、もはや同レヴェルで扱えないなどとのんきなことは言っていられないところに来てしまったのではないかと思います。イエス様の教えは誇張でも拡大解釈でもなく、神の視点をただ素直に明確にしたものと言えるでしょう。

ところで、人に対して腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたりすることはしても、殺人はもちろんのこと、罵りや中傷のような外面的な行為に出ることもせず、もっぱら、腹を立てる、怒る、憎しみを抱くという内面的な気持ちの動きが中心な場合もあるでしょう。その場合でも、神の視点からすれば、やはり外面的な行為と同じ罪になり、同じ裁きを受けて然るべきものになるのでしょうか?先のイエス様の教えからすると、そうだと言わざるを得ません。そうすると、他人からひどいことをされて、腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたら、それも罪になってしまうのか?実は、これも創造主である神の視点では罪となってしまうのです。そうなると、一体誰が罪を犯さないでいられるのでしょうか?

ここで、今みている問題の最も難しい点について一言触れておきます。それは、他人が犯した悪い行為があまりにも甚だしく、こちらが受けた損害や傷がとても大きい場合はどうなるのか?そういう場合は、相手に腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱くのは当然ではないか、それを罪だと言うのは倒錯していないか、という疑問です。そのような損害や傷を受けた人は、怒りと悲しみ両方がごっちゃになった状態に置かれていると思われます。「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロは、悪に悪で報いてはならない、自分で復讐してはならない、悪を行った者は神の怒りに任せなさいと教えます(17~21節)。また、イザヤ書57章15節では神について次のように言われています。神とは、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」方である、と。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰にあっては、私たちを造られた創造主の神は、怒りをお任せしてよい方であり、また、悲しみをひとつ残らず吐露してよい方であるということを忘れないようにしましょう。

さて、外面的な行為に出さず、内面的な気持ちのレヴェルで神の意思に反するだけでも罪とみなされてしまうのであれば、一体人間の誰が神の目から見て相応しい者なのでしょうか?そんな人は存在しないのではないでしょうか?この疑問を覚えておきながら、先に進んでまいりましょう。

23節から26節までは不和の相手と和解する必要が述べられています。この箇所をよりよく理解するために、上で見てきた「たとえ他人から悪さをされても、腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いてはならない」という神の意思を念頭に置きます。

イエス様は次のように教えます。エルサレムの神殿に供え物を捧げるためにお参りに出かけ、祭壇につく直前に、自分に敵対する者がいることを思い出して、その者に対してムカッとくるものが出てきたとする。その場合、すぐ供え物を置いて、敵対者のところに行って、仲直りをせよ、その後で祭壇に供え物を捧げよ、と。「仲直り」とは、具体的に何をどのようにするかについては言われていません。ギリシャ語の原文で「兄弟に対して和解をせよδιαλλαγηθι τω αδελφω σου」と言っているのですが、これは、和解を実現させよ、とも言えるし、また、実現するかはわからないが、少なくともこちらからは和解の努力をしなさい、とも言えます。どちらを取っても、要は、自分は怒りと憎しみの絡み合いから離脱して、ムカッとした状態でなく、スカッとした状態で供え物を捧げるということです。ここでイエス様は、怒りや憎しみを抱いている者は神の意思に反する罪で汚れているので、供え物の捧げには相応しくないと教えるのであります。いくら外面的に敬虔な宗教行為を行っても、内面的な汚れのゆえに、神聖な神からみて厭わしいものになってしまうのです。

25節では、不和が訴訟に発展してしまった事例について述べられます。「途中で早く和解しなさい」というのは、ギリシャ語原文では「友好的な態度でいなさいισθι ευνοων」ということです。つまり、少なくともこちらからは敵対的な態度は捨てなさい、怒り憎しみは捨てて友好的な態度を示しなさい、ということです。もし、こちらも負けずとばかり怒りを持ち続けて相手との憎しみの絡み合いの中に身を任せていると、これは、神の意思に反した状態に甘んじることになってしまう。そうなると、訴訟の解決も神の祝福を受けられなくなり、惨めな結果になってしまうと警告するのであります。

 27節から32節までは、十戒の第6戒「汝、姦淫するなかれ」についてです。男女の性的な結びつきは、創造主の神が二人を一つに結びつける結婚という枠の中でなされなければならないという掟です。ところがイエス様は教えます。結婚の枠を超えて性的な結びつきを行ってしまう行動には出なくとも、異性をそのような意図を持って眺めたら、それは「心の中で」結婚枠を超えた結びつきをしたことになる、すなわち姦淫したことになると教えるのであります。先ほどの「汝、殺すなかれ」と同じように外面的な行動と内面的な心の有り様が同じレヴェルで扱われます。そもそもなぜ神はこのような掟を定めたかと言うと、性が無秩序化していくことから人間を守ろうとしたからです。それにしても、外面的な行為には至らなくとも、内面的な心の有り様まで神の意思に沿うことが出来るのかと言うと、これも不可能としか言いようがないでしょう。誰もできないなら、神は少し甘くしてくれるかと言うと、してくれません。もし右目が異性を姦淫の意図をもって眺めたら、そんな神の意思に反する罪の汚れた目は取り除いてしまいなさい。そうしないと、一部分の汚れのために体全体が炎の地獄に落とされてしまうことになる。しかし、体の一部分を捨てるなどとは、不可能です。心の有り様まで問われたら、人間には取り除かないで済む部分はなくなってしまいます。ここで、先ほどと同じ疑問が起こります。一体誰が神の意思に沿える者になれるのであろうか?こうなると、人間とは、存在自体が神の意思に反するもの、神に敵対するものではないか?つまり、自分の造り主から見捨てられた存在ではないか?これらの問題にいかなる解決が見出されるかということについては後に譲るとして、先に進みましょう。

離縁状の問題は、その欺瞞性についてイエス様が暴き出します。離縁状を出して正式に離婚すると、夫婦はもう結婚関係にないから、新しい相手と関係を持っても、結婚の枠を破ったことにならない、つまり、姦淫したことにはならない、これが離縁状の制度の趣旨です。しかし、一度神の御前で結びつけられた男女は、神の視点ではずっと結びついたものになっている。そうなると、人間の視点で結びつきはないと言って新しい関係を持ったら、神の視点では姦淫になってしまうのであります。これなども、現代の多くの人たちには受け入れ難い教えでしょう。しかし、イエス様はこれが神の意思であるとただ突き放すように教えるのです。

33節から37節にかけての「誓い」に関する掟について。これは、十戒には含まれていないように見えますが、そもそも誓いというものは神の名前に結びつけて立てられるものなので、第二の掟「神の名をみだりに唱えるな」と結びついています。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」でいう「偽りの誓い」とは、神に対して誓った誓いが果たせない時、誓いが偽りになってしまうということです。つまり、偽りの誓いを立てるなというのは、逆に言えば、誓いを立てるなら果たせるような誓いを立てよということになります。そうなると、人間は果たせそうな誓いを立ててそれを果たすことで神の意思に沿うことができるのだ、という思い上がりを生み出す危険があります。それで、イエス様は、「然り、然り」「否、否」とだけ言いなさいと命じられるのです。つまり、「汝、腹を立てるな、怒るな、憎しみを抱くな」と言われたら、余計な条件を付けずに、「然り、然り」とだけ言う。「汝、心の中で姦淫を犯すな」と言われたら、これも「然り、然り」と言う。それ以上のことを言うのは、神の意思を水で薄めることになる。だから、果たせるような誓いは立てるな、果たせるような誓いをして神に認めてもらったとか、神のお近づきになったなどと思い上がるなと言うのです。神の純然たる意思の前で、自分はいかに神の意思に反する存在であるか思い知っていなさいということなのであります。

 

2.以上、本日の箇所のイエス様の教えをみてきました。とても厳しい教えだということが明らかになりました。一般によく抱かれるイエス様のイメージと随分異なるようで驚かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?イエス様と言えば、規則主義、戒律主義に縛られたユダヤ教を批判して、規則や戒律に囚われない愛や恵みを唱えた寛大な方というイメージがよく持たれるからです。ここで見てきたイエス様は、なんだかユダヤ教よりもずっと規則主義、戒律主義に見えます。

ここで、イエス様の教えをちゃんと理解できるために、以下のことをよく注意する必要があります。仮に、ユダヤ教の掟の中に、犯してしまった罪の赦しを神から得るために羊を50匹生け贄に捧げよ、という掟があったとします。イエス様の教えが厳しいというのは、50匹では足りないから500匹にしなさいという厳しさではありません。そうではなくて、人を実際に殺すことをしなくとも、人に腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたら同じ裁きが適用されるという厳しさです。姦淫を実際に行わなくとも、心の中に思い描いただけで、罪の汚れに染まっているという厳しさです。羊を500匹捧げようが、1000匹捧げようが、心に汚れがあればそれらは全く意味がないという厳しさです。本日の箇所の直前で(17~20節)イエス様は、自分がこの世に来たのは律法を無効にするためではなく、律法が要求することを満たすためであると言われます4。イエス様にとって律法とは神の意思でありますから、無効にすべきものではないのです。それが要求することは人間の心や内面に至るまで満たされなければなりません。

それにしても、イエス様はどうやって律法が要求することを人間の内面に至るまで満たすことができるのでしょうか?先にも申しましたように、人間は誰も内面や心の中まで十戒の規定を守ることはできません。たとえ、外面的な行為として罪を犯さなくとも、内面的には神の意思に背く性向があり、罪の汚れを明らかに有しているのです。しかし、律法は内面に至るまで満たせないと、神に相応しいと認められる存在にはなれません。そうしないと、人間はいつまでも、自分を造ってくれた神から切り離され、神に敵対した状態に留まってしまうのです。神から呪われた存在に留まってしまうのです。

この敵対状態に終止符を打ち、人間が再び造り主の神と結びつきを持って生きられるようにするために、そうして、神から祝福を受けられるようにするために、イエス様はゴルガタの丘の上で十字架に架けられました。そこで、本来は人間が被るべき神の怒りと裁きを一身に引き受けて、私たちの身代わりとして死なれたのでした。神はイエス様のこの犠牲の死に免じて人間を赦すことにしました。人間は、このイエス様の身代わりの死は自分のためになされたのだとわかって洗礼を受けると、この赦しの救いを神から受け取ることができます。私たちの内面にはまだ罪と不従順の汚れが残っているにもかかわらず、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、神は私たちを祝福して下さるのです。

 

3.最後に、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入って神から罪の赦しの救いを受け取ったとは言っても、それで私たちが完全に罪の汚れのないものになったわけではありません。私たちの内面や心には罪の汚れは厳然と残っています。私たちが救われたと言うのは、私たちから罪の汚れが全て消え去って神に相応しい存在になったということではありません。私たちの内面や心には罪の汚れが残存しているにもかかわらず、神は、イエス様を救い主と信じる私たちの信仰のゆえに、私たちをあたかも汚れがないかの如く、神に相応しい者として扱って下さるということなのであります。

残存する罪の汚れには戦いを挑んでいくしかありません。ルターは、キリスト信仰者の人生は、永遠の死の判決を受けた古い内なるアダムを日々死なせていくことだと教えています。古いアダムを死なせる方法はいろいろあります。まず自分に与えられた実際の生活をしっかり生きていくこと。そこで直面する人間関係やさまざまな課題を通して、神の意思は一体何だろうかと祈りをもって聖書の御言葉に聞くこと。もし神の意思に沿わない自分を見いだしたならば、神に対して罪を告白し、牧師を通して神からの赦しを再確認してもらうこと。これは毎週礼拝で行っているし、礼拝の外でも行えます。また、聖餐式で主の血と肉に与ることで神との結びつきを一層強めていくことも、内なる古いアダムに打撃を与えます。このように戦いの道具は全て神が準備して下さいました。道具を全て手にしていることに加え、主ご自身が一緒にいて戦って下さいます。何も恐れたり心配する必要はないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

1 οργιζομενος、現在時制であることに注意

 

2  φονευση、アオリスト時制であることに注意

 

3  ειπη、アオリスト時制であることに注意

 

4  17節、πληρωσαιは「完成する」よりも「満たす」がよいでしょう

 

主日礼拝説教 2014年2月9日(顕現節第六主日)の聖書日課 申命記30章15-20節、第1コリント2章6-13節、マタイによる福音書5章21-37節

説教「イエス様につき従うということについて」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章18-25節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が通りかかる。そして湖に投げ網漁をしていた二人の漁師、ペトロとアンドレに「私に従って来なさい。お前たちを人間をつかまえる漁師にしよう」と言う。すると二人はすぐ網を捨ててイエス様に従って行く。こんなに簡単について行くのだから、きっと二人はイエス様に何かただならぬものがあると気づいたのでしょう。それにしてもこんなにあっさりと生業を放り出していくとは。ガリラヤ湖と言えば、そこで採れる魚は美味で肉付きが良いことがローマ帝国内にも知れ渡っていて、それは需要度の高い産物でした。そこで漁師をするペトロとアンドレは決して金持ちではなかったでしょうが、少なくとも貧乏ではなかったはずです。マルコ福音書10章28節(マタイ19章27節、ルカ18章28節)で、ペトロはイエス様に「私たちは全てを捨ててあなたに従って来ました」と言います。つまり、「捨てるもの」がある身分だったわけです。

 ところが、イエス様につき従った人が捨てたのは生業だけではありません。ペトロとアンドレを弟子にしたすぐ後で、今度はやはり漁師のヤコブとヨハネに出くわします。彼らは、舟の中で父親のゼベダイと一緒に網の手入れをしている。イエス様が呼びかけると、ヤコブとヨハネも同じようにすぐつき従います。ただし今度は生業だけではなく、父親もそのまま残して立ち去ってしまいました。同じ出来事が記されているマルコ1章20節によれば、ヤコブとヨハネが残して立ち去ったのは、父親の他に雇い人たちもいました。ゼベダイ家は漁業の企業家だったのでしょう。

 福音書を繙くと、家族を捨てることについてのイエス様の教えがいくつかあります。イエス様のため、福音のため、神の国のために親兄弟を捨てたものは必ず報いを受けるとか(マタイ19章29節、マルコ10章29~30節、ルカ18章29~30節)、イエス様より両親を愛する者は弟子としてふさわしくないとか(マタイ10章37~38節、ルカ14章25~27節では「憎まないなら 弟子でありえない)。こうなると、イエス様は十戒の第四の戒め「父母を敬え」に反していることを教えているのでしょうか?

 この問題に対するルターの答えは以下のように明快です。

「主イエスの教えは、親を捨てたり見下したりする理由にはならない。神の戒めの通り、親は敬わなければならない。しかし、親や公権力、ましてや教会自体が神への従順を禁じようとするならば、そのような親、公権力、教会に従順であるのは呪われたものになる。そもそも、私たちにお金や食べ物や親を与えて下さったのは父なるみ神なのだから、もしこれらの与えられたものが私の救いを妨げるのなら、これらのものは父なるみ神のためには失われてしかるべきものなのだ。ただし、そのような状況に陥っていない場合は、神に従順でいて、かつ、親や家庭や財産を持つことができるのであり、それは、神からみても何の問題もない。」

昔フィンランドで聖書を学び始めた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第四の戒めはどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。

 

2.ところで、本日の福音書の箇所の二漁師ヤコブとヨハネの場合は、父ゼベダイと何か信仰上の対立があってそれが高じて父親放棄になったとか全くわかりません。二人の息子の行動様式は何か神がかっているというか、あまりにも唐突すぎます。この状況をどう理解したらよいでしょうか?「ヤコブとヨハネはきっと恵まれた境遇に飽き足らず、何か真実なものを求める心があって、そこでイエス様に出会った云々」などとドラマ仕立てをすることは、ここではしません。ここでは、聖書に書かれてあることから何がわかるか、ということを中心にしていきたいと思います。

まず、聖書からみえてくるのは、イエス様が弟子たちを招いた時というのは、これは、今まさに神の人間救済計画が実現されだした、その実現までもう時間的余裕がないという緊迫した状況だったということです。弟子たちは、言わば、有無を言わせないくらい切迫したムードの中で急きょ動員されたということです。有無を言わせないような切迫したムードとはどういうことかと言うと、イエス様の人生でエピソードに満ちた大人の時代は意外と短かったということです。そのことをみてみましょう。

まず、洗礼者ヨハネが登場し、神の裁きの日と救世主の到来を預言し始め、信じて集まってきた人々にヨルダン川で洗礼を施す。まさにその時にイエス様が洗礼を受けにやって来て、受洗後すぐに聖霊を受ける。その直後にユダヤの荒野にて悪魔から試練を受けるも、これに打ち勝つ。これらをイエス様の大人時代の第一章としましょう。ヨルダン川での洗礼とユダヤの荒野での試練です。次に、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれるや、イエス様は大胆にもガリラヤに戻って人々に教え始め、奇跡の業をなす。このガリラヤ地方とその周辺での活動の時期を第二章としましょう。それから、ガリラヤを出発して群衆の先頭にたってエルサレムに向かう。この時にも人々を教え、奇跡の業をなす。これを第三章としましょう。そして、エルサレム入城、そこでのユダヤ教社会の指導層との激しい対立、投獄、拷問、裁判、十字架そして復活。これを第四章としましょう。

 こういうふうにイエス様の大人時代は4つの章に分けられますが、実は、彼の受洗から十字架・復活までの期間は、本当は「時代」というにはあまりにも短い、駆け足のような時間なのです。短く見積もる研究者は、だいたい1年ぐらいだろうとみています。他方で、ヨハネ福音書をみると、イエス様がガリラヤ地方とエルサレムを何度か行ったり来たりしています。他の三つの福音書では一回だけですが、ヨハネ福音書に基づくと、受洗から十字架・復活まで大体3年くらいとなります。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半部分を占める大人時代の出来事は、実に生涯の最後の期間、1年から長くても3年位の期間に集中しているのであります。

 イエス様がこの地上での生涯の最後の期間に行ったことというのは、創造主である神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済とは、端的に言えば、人間が神の国に迎え入れられるようにするということです。まず、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。神の裁きというものがある、しかし、人間を厳しい裁きから大丈夫にしてくれる救い主がやってくる、だから、それに備えなさい、と訴えました。そして、それに続くイエス様も、同じ言葉「悔い改めよ。神の国が近づいた」と公けに宣べて活動を開始しました。ただし、イエス様の場合は、神の国が彼自身と一体となって既に来ている、という点でヨハネの場合と異なりました。ヨハネが「神の国が近づいた」と言うとき、それは「まだ来ていない」のですが、イエスの場合は「もう来ている」ことを意味しました。このことは、先週の主日の説教でもお話ししました。少しだけおさらいをしてみましょう。

神の国がイエス様と一体となって来たというのは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、それを目のあたりにした人々は、いつか今の世が終わりを告げる時に到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだ、と体でわかったのであります。ところで、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在になってしまったからです。罪と不従順の汚れが消えない限り、神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。

人間が受けるべく定められた罪の罰を全てイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すという解決策を創造主である神は採ったのです。あの、2000年前の昔の彼の地で神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさに現代を生きる自分のためにも行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いを所有する者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者と神から見なされて、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。このように、創造主である神がイエス様を用いて実現した救いをしっかり所有する者は、この世の人生の段階で、既に神の国の立派な一員として迎え入れられているのであります。

さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に入れるようにと、創造主である神の意思に忠実に従って、十字架と復活の業を成し遂げられて、人間救済計画を実現されました。つまり、この地上での生涯の最後の1

3年ほどの短い期間にこんなにも大きなことを成し遂げられたのです。「悔い改めよ。神の国が近づいた」という言葉ではじめ、最後に人間がその神の国に入れるようにする道を整えられたのです。この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを集められました。弟子たちの使命とは、イエス様と共にいてその教えと業をつぶさに見聞きすること、そしてイエス様から受けた教えと授かった力をもって宣教をすることでした(マルコ3章13~15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、その集大成として聖書の新約の部分ができあがったのであります。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じる信仰を得るはずがなく、従って彼が門を開いた神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救済が国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする上で重要な役割を担ったのであります。

 イエスが使徒と呼ばれる12弟子を選んで呼び出したのは、そのような重要な役割を担わせる意味がありました。この弟子の呼び出しは、まさに人類の歴史の大転換点である十字架と復活の出来事を目前にした時に行われたのでした。これが、イエス様の呼び出しに有無を言わせない切迫したムードがあると言ったことの意味です。徴税人マタイなどは座っているところをイエス様に声かけられて有無も言わずに立ち上がって従って行きました(マタイ9章9節、マルコ2章14節とルカ5章27―28節では徴税人レビ)。何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気があります。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様の後に従い始めた弟子たちの親子関係とか彼らの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7章1~10節、マタイ8章5~13節)。ところが、呼び出されて自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しい。ある人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死んだも同然の者たちに死者を葬らせればよい」と答えます(ルカ9章59~60節、マタイ8章21~22節)。創世記の堕罪の出来事以来、創造主である神が心に決めていた人間救済計画がまさに実現しようという時、人間が神の国に入れるようになれるという時を直前に控え、救済実現の目撃者、証言者となってその福音を宣べ伝える者になりなさい、と召し出されたら、その通りにするしかないというのが父なるみ神と御子イエス様の意志であったと言うことができます。

 

3.それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし創造主である神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されなければならないのでしょうか?それが私たちにとってのイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?

ここで注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。救済実現の直接の目撃者、証言者になって、その福音を宣べ伝えて聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちは洗礼を通してイエス様の弟子になりますが、それはまず、実現済みの救いを受け取る者になるということ、加えて、受け取ったものを今度は聖書に拠ってしっかり守り、できるだけ多くの人がこの救いに与れるような働きをする者になるということです。これが、私たちがイエス様の弟子になる、彼につき従うということです。そのため、救済実現に際していろんな役割をもたされた弟子たちとは状況と立場が少々異なっています。その意味で、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しはそう簡単にはないのではないかと私は考えます。

しかしながら、そうは言っても、親とか家族とか財産とかは、信仰を理由に捨て去る必要がなくなったかと言えば、必ずしもそうではなく、初めにルターの教えを引用しましたように、もしそうしたものが信仰を捨てるようにと働いて絶対に止めないという時には、捨てなければならないということであります。もちろん、そうでない限りは、親や家族を世話し仕えるということは、神の掟であります。

もし、親とか家族とか財産とか、とにかく自分の持っているものと信仰が対立関係に陥った場合、本来捨てるべきものが信仰にとってかわられてしまわないようにするにはどうすればいいか。これについて、ルターは、それらのものを心のどこかで捨てていなさい、と教えます。

「ヤコブとヨハネの話を聞いて君は、財産とか家とか妻とか子供とかいうものは捨てなければならないのか、という思いにとらわれるかもしれない。しかしそうではない。心のどこかで、家と土地、妻、子供を捨てているということなのだ。たとえ君が彼らとともに生計をたて、神の定めに従って彼らのために働き彼らを世話している時でも、心のどこかでは捨てていなければならない、ということなのだ。『もし必要とあれば、父なるみ神のために全ての安逸を犠牲にしてそれらを捨てなければならないことがあるのだ』、そう心に留めていれば、君はもう心のどこかでそれらのものを捨てていることになるのだ。要は、君の心が捕らわれ人にならないように注意することだ。君の心からは、ひとりじめする欲や、あらゆるものにしがみついたり頼り切ったりする心、安逸のみ追い求める心が取り除かれていなければならない。そのようにできれば、人は財産があっても、心の中でそれを捨てることができるのである。万が一、実際に捨てることをしなければならない時がきたら、その時は、私に命と人生を与えた造り主の神がそう決めたのだから、と言って、神の御名において捨てなさい。ただしその時は、無理をして自分は喜んで妻や子供や財産を失ってやるのだと考える必要は全くない。そうではなくて、ああ、本当は神がお許しになるのであれば、もっと自分の手元において世話をし、そうすることで神にお仕えしたかったのだ、と考えて、捨てることを受け入れなさい。

自分の心の状態をよく注意しておくことが肝要である。自分が何を有しているかいないか、多く有しているかいないか、そういうことに心を向けてはならない。今自分のもののように見える全てのものを、時が来れば失われてしまうものとして、手元に置いておきなさい。そうすることで、我々は神の国にしっかりとどまれるのである。」

 とても厳しい教えです。心のどこかで捨てていなさい、というのは愛がなさすぎると言われてしまうかもしれません。でも果たして愛がないでしょうか?ルターが言わんとしていることは、親や子供や伴侶は、まさに世話し仕えるために創造主である神から私たちに与えられているということです。与えられるという以上、神は取り去る可能性も持っています。いつ取り去られるかはわからない、いつ捨てなければならないかわからない、だからこそ、与えられている期間は一生懸命に世話し仕えるということであります。天地創造の神が与えたものである以上、ないがしろにすることは許されない。持てる力と知恵を尽くして世話し仕えることで、与えられたものについて神に対して責任を果たさなければならない。

 

4.そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰にあっては、愛さえも、神中心になっていくということを心に留めておく必要があります。これは、大切な人との別れが死別という形をとる時にも、あてはまります。その時、キリスト信仰者の目と心は、死者の霊とか魂というものを超えて、その大切な人を与えて下さった創造主である神そのものに向けられます。昨年の説教の場で教えたことですが、キリスト信仰にあっては、この世の人生を終えた方は今、復活の日までは神のみが知るところで安置され、安らかに眠っているのであります。その方のことはもはや創造主である神にお任せしているので、死者の霊や魂を慰めるとか鎮める必要性を見いださないのであります。キリスト信仰者は、その大切な方を与えて下さった神に感謝し、そしてその方と素晴らしい日々を過ごせたことを神に感謝し、もし御心でしたら、その方と復活の日に再会できますように、と心静かに創造主である神に祈りを捧げるのであります。その大切な方が生きていた時には、隣人愛をもって一生懸命に尽くし、亡くなられた後は、創造主である神にこのように祈り続けるのです。キリスト信仰者が亡くなった方をないがしろにしたという批判は当たらないのであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

顕現節第四主日の聖書日課 イザヤ43章10-13節 、第1コリント1章26-31節、マタイによる福音書4章18-25節

説教「悔い改めよ。神の国は近づいた」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章12~17節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事でした。その後でイエス様は、荒野で40日間に渡って悪魔から試練を受け、それに打ち克ちます。そのことが先週と今週の福音書の箇所の間にあります(4章1~11節)。そして、本日の箇所は、イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。

荒野での試練の後でイエス様は、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたと聞きました。理由は、ヨハネがアンティパスの不倫問題に口をはさんだためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14章1~12節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤに乗り込んだのであります(新共同訳の「ガリラヤに退かれた」は正確な訳ではないでしょう)。ただ、育ち故郷であるナザレの町は活動拠点とはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちが公けに活動を開始したイエス様を拒否したためでした。この辺の事情は、ルカ4章16~30節に記されています。

カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が開始されました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。

時は、紀元前700年代、ダビデの王国が南北に分裂してお互いに反目しあって既に200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、攻撃は絶対成功しない、それが神の御心である、だから心配するな、と宣べ伝えます。実際、イスラエル北王国とその同盟国は、東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダに対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。イザヤ書8章23節に、こう記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

ゼブルンの地、ナフタリの地というのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には、イスラエル北王国にあたります。それで、同王国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ということを指しています。しかし、ここから先が将来起こることの預言になります。まず、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。つまり、異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く9章1節からの預言に記されています。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。しかし、イザヤの預言はここで終わらず、まだ続きます。9章5~6節を見ると、次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。

イエス様の十字架と復活の出来事を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ、人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である、とわかりました。そして、そう言えば、イエス様の公けの活動は確かガリレア地方で始まったんだな、と思い当たった時、ああ、あれは全てイザヤ書8章23節から9章6節までの預言の成就だったのだとわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ではありますが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのであります。

本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りであります。このように、人間救済計画がどのように実現されるかということを前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な神は永遠に畏れられ、ほめたたえられますように。

 

2.さて、前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。

まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が拡大したのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があります。それに対応するギリシャ語はなんだ、ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情があります。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていたのを、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるということになります。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは、「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)

それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生で自分の造り主である神との結びつきのなかで生きることができるか、そして、この世から死んだ後は、どうしたら永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになるか?このことについて見る必要があります。

人間と神との結びつきの問題に関して、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5戒を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6戒を破ったことになる、と教えます。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになってしまうのであります。しかし、十戒をそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と宗教指導者との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神との結びつきや永遠の命の保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。

人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。ひとり子をこの世に送り、人間を覆い尽くしている罪の呪いを全部そのひとり子に覆い被せて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものでした。人間は誰でも、ひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策というものはまさに自分のために行われたのだとわかって、イエス様こそが自分の救い主であると信じ、洗礼を受けることで、この救いを手に受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪を内在させたまま、イエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。

以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも、自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様という神聖な純白な衣を頭から被せられること。内在する罪と不従順は必ずや、それを脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪と不従順はきっと純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「私にはイエス様以外に拠り頼む方はいません!」と言って、罪を認め、聖餐を受けること。そうすれば、神は、イエス様以外に主はいないという心の叫びを本物とみて、私たちのことを純白な衣を着たままで見て下さり、聖餐を受けた私たちがイエス様としっかり結びついていることを確認して下さるのです。この時、罪と不従順は、これでは付け入るすきがない、とおそれいって退却せざるを得ないのであります。このようにして、キリスト信仰者というものは、肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人を日々育てていくのであります。もちろん父なるみ神は、私たちに罪が内在していることを知っておられます。しかし、私たちがこの内面の戦い、霊的な戦いをイエス様に拠り頼んで戦っている時、神の目には私たちはただイエス様の純白な衣を着た者として映るのです。本当にイエス様は「神のもとへの立ち返り」の手がかりなのであり、それ以外に手がかりはないのであります。

イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々には、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれるものであったでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に十字架と復活をもって全てを明らかにしたのでした。

 

3.次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書で言われている「神の国」と同じものを意味します。マタイは、「神」という言葉を畏れおおくて避ける傾向があり、それで「天の国」と言っているのであります。

 実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を使っていました(マタイ3章2節)。ただし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動をした時、彼の場合はヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様も聖書からご存知のように、イエス様は、数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたり、無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たということを示したのです。マルコ3章で、イエス様が悪霊を退治した時、反対者たちから「あいつは悪霊の仲間だからそんなことができるのさ」と中傷を受けます。それに対してイエス様は、「悪霊が悪霊を退治したら彼らの国は内紛でとっくに自滅しているではないか」と反論します。つまり、自分が神の国と一体になっているからこそ悪魔が逃げていくのだということであります。このように、イエス様の奇跡の業は、神の国が彼と共に到来したことの印、神の国が実在することの印なのであります。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、実は今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。先ほどの神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦い人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国にて涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っている者なのであります。

 ところで、神の国はまだ今の世の終わりなどとは関係なく、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。かつて神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いの所有者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのであります。

 

4.さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時とは、神の国もその時に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は、私たちと今、無関係にあるというのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのであります。「我らの国籍は天にあり」(文誤訳フィリピ3章20節)というのは、まことにその通りであります。キリスト信仰者は、二重国籍者であります。一つはこの地上にある国の一員です。その国籍は、死んでしまえば失われてしまい、また他国へ移住したりすれば意味を失います。しかし、もう一つの天の国籍は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍であります。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのであります。この永住権の「永」は文字通り永遠です。キリスト信仰者にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないものである、ということを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年1月19日 顕現節第三主日の聖書日課 アモス3:1~8、第一コリント1:10~17、マタイによる福音書4:12~17

説教「イエス様の洗礼 - 神の救いの計画の始動」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章13-17節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.日本では新年になると大勢の人たちが神社やお寺にお参りをして、それぞれに祀られている神や仏に祈りと賽銭を捧げたり、またお祓いのような清めの儀式を受けたりします。これは、毎年テレビや新聞などで報道されるので、私たちにとって見慣れた風景であります。キリスト信仰者にあっては、このような時こそ、自分たちが信じる神とはどんな方であったかを、聖書に拠りつつ、振り返り思い返すことは大切なことです。

先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書の日課、イザヤ書42章に次のように記されていました。「神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる」(5節)。このように、聖書が明らかにする神は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主であります。キリスト教会の礼拝で唱えられる二ケア信条には、「天と地、すべての見えるものと見えないものの造り主」と言われます。「見えないもの」とは、魂とか霊的な存在、霊的な力といったものも含み、こうしたものも全て被造物ということになります(コロサイ1章16節)。天使たちでさえも、被造物なのであります(ヘブライ1章5、13章)。被造物の範疇に入らないものは、造り主自身とそのひとり子、そして造り主の霊の三つのみ、つまり父と御子と聖霊の三つだけなのであります。他のものは全て皆、神に造られた被造物なのであります。

さて、造られた私たちと造り主の間の関係が損なわれて、私たちの状態が悪くなったがために、造り主は関係を回復して状態をよくしようと決めました。それでひとり子をこの世に送られました。このひとり子イエス様が成すべきことを成し遂げた後、造り主は彼を御許に引き戻し、今度は御自分の霊、聖霊を私たちに送られました。キリスト信仰者とは、イエス様が成し遂げたことを、それは自分のために成し遂げられたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けた者です。洗礼を通して聖霊が授けられ、造り主である神との関係が回復した者としてこの世の人生を歩み始めることになった者です。そして、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、神が御許に救い上げて下さって、永遠に自分の造り主のもとに帰ることができる者です。このような神をキリスト信仰者は信じているのであります。

 さて、本日の福音書の箇所に入りましょう。少し驚かされる出来事です。イエス様が洗礼者ヨハネのもとに来て洗礼志願をするとは、一体どういうことでしょうか?洗礼とは、ルターが小教理問答書の中で次のように教えています。「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。イエス様と言えば、聖霊の影響力によって受胎し、人間の肉体を持ちながらも、罪の汚れもしみもない神の御子です。その彼が、どうして洗礼を必要としたのか。ましてや、ヨハネの洗礼は、罪の告白と神のもとに立ち返る決心をして、イエス様をお迎えする準備をするという意味を持っていました。そんな洗礼を神の御子であるイエス様が受ける必要はなかったのであります。イエス様を目の前にしたヨハネが、「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べて、とまどった様子はよく理解できます。

なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?この問いに対する答えを見つけることを通して、本日も神の私たちに対する愛と恵みについて学びを深めてまいりたいと思います。

 

2.その前に、洗礼者ヨハネの洗礼と、私たちが受けるキリスト教の聖礼典としての洗礼はどう違うのかということを少しみていきたいと思います。

ヨハネの洗礼は、救世主の到来と神の裁きの日に備えて人々を準備させるという意味がありました。どのように準備させるのかというと、先ほど申しましたように、罪の告白と神のもとに立ち返る決心をして、そのあとはイエス様をお迎えできるようにするということです。

 私たちが受けるキリスト教の聖礼典としての洗礼はどうかと言うと、ヨハネの洗礼と共通する部分もありますが、それでも決定的に違う点がいくつかあります。まず、ヨハネの洗礼は、これからイエス様をお迎えする準備をするという意味がありました。それに対して、聖礼典の洗礼は、神がイエス様を用いて実現した救いをそのまま受洗者に譲渡してしまう意味があります。つまり、洗礼を受けた者は、完成済みの救いの所有者になるのです。

もう一つの違いは、聖礼典の洗礼は、誰の名において授けられるかということがはっきりしています。マタイ28章19節で、死から復活されたイエス様は、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を施しなさい」と命じます。「名によって」ということですが、名前とは人格そのものを表すものと考えられていましたので、「父と子と聖霊のみ名によって」というのは、「父と子と聖霊そのものに結びつくように」という意味を持ちます。そういうわけで、洗礼を授かった人は三位一体の神に結び付けられるわけであります。そして言うまでもないことですが、ヨハネの洗礼と違って、聖礼典の洗礼は復活の主ご自身が行うように命じたものであります。

ヨハネの洗礼とのさらなる違いは、キリスト教の洗礼では神の霊、聖霊が与えられるということがあります。使徒言行録19章に興味深い出来事があります。使徒パウロはエフェソで何人かのキリスト教徒に出会います。そこで「聖霊を受けましたか」と聞くと、彼らは「聖霊なんて聞いたことはない」と答える。さらに「どんな洗礼を受けたのですか」と聞くと、なんと「洗礼者ヨハネの洗礼」という答えが返ってくる。そこでパウロは「ヨハネは神のもとへの立ち返りの洗礼を授けたが、それは彼の後に来る方を信じるようにするためであった。その方こそイエスである」と教える。そして彼らにイエス様の名を結びつけた洗礼を授けると、聖霊が彼らに下り、その影響で彼らは習ったことのない国の言葉で神を賛美し始めたり、預言をし始めたりしたのであります。

 ところで、洗礼を通して「聖霊が与えられる」とか、「霊を受ける」などと聞くと、なにか超心理現象の世界に入ったような、オカルトじみていると言う人がいるかもしれません。しかし、そういうことではありません。聖書でどう教えているかみてみましょう。使徒パウロは、聖霊を受けた人は造り主の神を「アッバ」と呼ぶようになると教えています(ローマ8章15節、ガラテア4章6節)。「アッバ」というのは、当時のパレスチナで話されていたアラム語の「父親」を意味する言葉の呼びかけの形です。日本語なら、「おとうさん」とか「父さん」、子どもだったら「パパ」ということになるでしょう。いずれにしても私たちが、お祈りをする時、また思わず助けを求める声を上げる時に、私たちの造り主である神をそのように呼ぶと、それはもう私たちが聖霊を持っていることのあらわれなのであります。これに加えて、父なる神は私たち人間を罪の呪いから贖い出すためにイエス様を犠牲の生け贄としてこの世に送ったのだと信じる信仰、それゆえにイエス様こそ救い主であると信じる信仰、この信仰を持っていることも、聖霊を受けていることのあらわれなのであります(第1コリント12章3節)。聖霊を受けていない人にとっては、2000年前の彼の地で起きた出来事は、歴史や宗教学の本にある知識にしかすぎなくなります。聖霊を受けることで、あの遠い昔の遠い国の出来事は実は今を生きる自分にかかわっている、この自分のために起きたのだ、とわかるのであります。

 

3.さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ、なぜイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか見てまいりましょう。

 この問いに対する答えは、実は、本日の福音書の箇所の中にあります。ただ、新共同訳の訳仕方に不備があるために、答えが見えにくくなっています。どこかというと、15節でイエス様が躊躇するヨハネに対して、次のように言っているところです。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

つまり、イエス様がヨハネから洗礼を受けることは正しいことだからというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのはあまりにも当たり前すぎて、それがどうイエス様の受洗と関係するのかわかりません。

 この箇所をギリシャ語の原文に忠実に訳すと次のようになります。「今は言う通りにしなさい。このようにして、義を全て満たすことは我々にふさわしいのだから。ふさわしいこととは、「正しいことをすべて行う」ことではなく、「義を全て満たすこと」πληρωσαι πασαν δικαιοσυνηνであります。この訳が、私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の言葉の聖書を繙いてみてもわかります。例えば、英語訳の聖書NIVを見てみますと、「全ての義を満たすこと」to fulfill all righteousnessと言っています。ドイツ語のルター訳(1912年版)も同じですalle Gerechtigkeit zu erfüllen。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書の訳は1999年版で「義にかかわる全てを満たすこと」uppfylla allt som hör till rättfärdigheten(1917年版は端的に「全ての義を満たすこと」uppfylla allt rättfärdighet)、フィンランドのルター派国教会の聖書の訳は1992年版で「神の義なる意思を満たすこと」täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon(1933年版はこれも端的に「全ての義を満たすこと」täyttää kaikki vanhurkaus)です。そういうわけで、この箇所は、「正しいことをすべて行う」ではなくて、原文に忠実な「義を全て満たす」でいこうと思います。

 そこで、問題となるのが「義を全て満たす」とは何を意味するのか、ということです。まず、「義」δικαιοσυνηという言葉ですが、これは、ルター派がよく強調する信仰義認、信仰によって神から義と認められる、その「義」です。「義」とは、つまるところ、神の意思が完全に実現されている状態を指します。神の意思が完全に実現されている状態とは、端的に言えば、十戒が完全に実現されている状態です。十戒とは、「私以外に神をもってはならない」という掟で始まりますが、最初の三つはこうした神と人間の関係に関する神の意思です。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」など、人間同士の関係に関する神の意思です。神自身が、十戒を完全に実現した状態の方である、十戒を体現した方なのであります。それで、神そのものが義の状態にある、義なる存在であると言ってよいでしょう。

この神の義というものを人間の側から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にある。理由は、人間には罪と神への不従順が宿っているからであります。人間が義を失った状態でいると、どうなるかと言うと、神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになり、この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまう。人間が神の義を得られて、神との結びつきの中で生きられるためにはどうしたらよいかということで、十戒や律法の掟をしっかり実行しようと言って、義の追及が行われたのですが、イエス様はそれは不可能だと教えたわけであります(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、律法の掟というものは、自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのであります(ローマ7章)。

この袋小路を打開するために神が行ったことは、ゴルガタの十字架の上でイエス様に全ての人間の罪の罰を受けさせて、この犠牲に免じて人間を赦すことにするというものでした。人間は、イエス様を救い主と信じて、神がイエス様を通して与える赦しを受け入れる時、まさにこの時、人間は神から義なる者と見なされるのであります。この時、人間の方では、自分は神の前では罪の汚れに満ちた塵に等しい存在だと認めていることになります。この空っぽの状態をイエス様で埋め合わせることで、人間は神から「お前は義なる者だ」と見なされるのであります。そうして神との結びつきを回復した者として歩み始めるのであります。

 さて、イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとに来たのは、「義を全て満たす」ためでした。「義を全て満たす」というのは、神がイエス様を用いて人間を義なる者にしようとする計画を実現することでした。イエス様が洗礼を受けた時、神の霊、聖霊がイエス様に降りました。さらに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。これらの出来事は、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書42章1~7節の預言が成就したことを示しています。天からの声と聖霊の降りは、1節の内容そのものです。さらに、神は、この預言された方をして、イスラエルの民以外の「諸国民の光」にする、そして、「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」者にする、そう御自分の計画を明らかにしています。そういうわけで、イエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、実にイザヤ書のこの箇所の預言を実現させる手段だったのであり、神の人間救済計画を始動させるきっかけだったのであります。

ところで、イエス様の受洗について、本来洗礼など必要としない神の子が受けたというのは人間との連帯を示すためだ、という見解もありますが、これは皮相的な見方です。イエス様の受洗は、まことに神の人間救済計画を始動させる機会として行われたのであります。もしイエス様の受洗がなければ、神は何か別のことをもって、イザヤ書の預言を実現する機会としたでしょうが、歴史上起きたことはイエス様の受洗であって、それ以外の出来事ではなかったのです。神は、ヨハネの洗礼をもって預言成就の機会にしようと決めていたのであります。だから、イエス様は、ヨハネから洗礼を受けることが必要である、それこそが義を全て満たすことである、と主張したのです。そういうわけで、イエス様の受洗と、ヨハネが他の人たちに施した受洗とを同列に扱ってはなりません。ヨハネから洗礼を受けた人で、誰も聖霊の降りを受けた人はいません。天からの声を聞いた人はいません。そのようにして、イザヤ書の預言の実現をみた人はいません。これらは、イエス様の洗礼の時に起きたのです。イエス様の洗礼があって預言が成就し、それをもって神の救いの計画が始動したのであります。

 

4.最後に、イエス様が命じている聖礼典の洗礼を通して、聖霊が与えられるとはどういうことかについて一言述べておきたく思います。先にも触れましたが、私たちが造り主の神を父の呼び名で呼べたり、神が2000年前に遠い異国の地で行ったことは実は今を生きる私のために向けられていたとわかったりするのは、聖霊の力が働いていることの現れです。こうしたことに加えて、使徒パウロは、聖霊を受けた人は、聖霊の結ぶ実というものも持つようになると教えています。「ガラテアの信徒への手紙」5章22~23節に聖霊の結ぶ実が列挙されています。それによると、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自己抑制です。(「ガラテアの信徒の手紙」5章には、聖霊と反対に肉が結ぶ実も列挙されています。それらが何であるかは、各自該当箇所をご確認下さい。)

こうなると、キリスト信仰者の中には、自分はこのような徳が欠けているので、聖霊がないんじゃないか、と心配になる人が出てくるかもしれません。よくキリスト信仰者でない方が信仰者を泣かせるセリフとして、「クリスチャンになったのに全然いい人になっていないじゃない」というものがあります。ベストセラーになった「置かれた場所で咲きなさい」の著者の渡辺和子さんは、学生時代にシスターから、今の自分が嫌なら洗礼を受けなさい、洗礼を受けると新しい人になれる、と勧められて、母親の大反対を押し切って洗礼を受けました。その後、母親からは、洗礼を受けてもまともな人間に変わっていないではないか、それでもあなたはクリスチャンなのか、と言われて胸を痛め続けたそうです。ここで注意すべきことは、聖霊の実というものは、洗礼によって聖霊を受けたからといって、すぐさま自然に、自動的に出てくるものではないということです。これらのものは、私たちが、洗礼によって植えつけられた、聖霊に結びつく内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死に引き渡すという、内的な戦いを真摯に戦うことで芽生えてくるものです。ルターも強調するところですが、この内的な戦いを続けることが、キリスト信仰者の生きる道なのです。本説教で明らかにしたように、私たちは神からとてつもない恵みをいただいている。そのとてつもなさを思い知る時、古い人はただ押し潰されていく。しかし、古い人は機会を捉えてすぐ頭をもたげてくる。そういうことの繰り返しの連続なのであります。しかし、この戦いは一人さびしく行うものではないということを信仰者は知っています。なぜなら、とてつもない恵みを与えて下さった神はいつも、御言葉を通して、聖餐式を通して、祈りを通して、そばにいらっしゃると知っているからです。他の人からの厳しいセリフは、内面の戦いを活性化させるために大切です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、そのようなセリフをかけてくれる人がいたら、神に感謝しましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年1月12日(主の洗礼日) 
聖書日課   イザヤ42:1-7、使徒言行録10:34-38、マタイ3:13-17


説教「輝く星に導かれて」木村 長政 名誉牧師、マタイによる福音書2章1節~12節

皆様、新年おめでとうございます。 今年が良い年でありますように、祈ってまいりましょう。

今日の聖書は、マタイ福音書2章1~12節です。 マタイは2章で、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」とあり、まず、イエス様がお生まれになったのは、ベツレヘムであったことを、マタイは記しています。 ベツレヘムの名をあげていますのは、旧約聖書ミカ書5章1節で預言されていた神様の約束があったからでした。 そして次に、特に注目するのは、「ヘロデ王の世に、お生まれになった」ということ。ヘロデ王と関係する事柄であったから、どうしても記しておかねばならなかったのでしょう。

それは、このヘロデ王の時代にイスラエルの民が置かれている、深い悩みを思い起こさせるためでありました。 つまり、救い主イエス様がお生まれになられたこの特別の時に、すでに、イスラエルの民は一人の王を持っていました。 イスラエルの民は、ローマ帝国の支配の下に、王の権利を持った者が民を苦しめ、民を滅びに導いていた。 そうした民の只中へ、御霊によって生まれた方が、新たな、全く、特別な支配をなさる方として登場された。 しかし新たな王は、現実の苦しみの中にある民と共に、受難と戦いの道を歩まれる、という運命を背負って登場されたのでした。 ヘロデ王は、新たに生まれた王、神の御子を自分の身を守るために、殺してしまおうと心に決める事までなっていくのですが、そのようなきっかけは、思いもかけない、東方からの博士たちによって、もたらさていくのです。

さて、そこで2節には「見よ、このころ、東方から博士たちがエルサレムにやって来て」こう言ったのです。 「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにいらっしゃいますか。私たちは東の方で、このお方の星を見て、拝みにやって来ました。」 この事を聞いたヘロデ王は、驚いたでしょう。 この俺が王でいるのに、新たに王が生まれたとは、いったいどうしたことか。 ヘロデ王は大変動揺した、とマタイは記します。 そして、王と共にエルサレム全体が動揺した。ユダ民族全体をゆるがすような出来事と、なっていったからです。

イスラエルが、異邦人に、キリスト誕生の福音を説教するのではない。 異邦人である、東方の博士たちが、神様に導かれ用いられて、エルサレムにこの福音を告げたのでありました。 この東方からの博士たちでありますが、彼らは、人間の運勢を星によって読みとろうとする、占星術師といわれる学者でありました。 日本語の訳では「博士」と訳していますが、原語のギリシャ語では「マゴス」と言われ、ペルシャで占星術や夢判断を行って、研究をすすめていた祭司や学者たちでありました。 彼らは、神の御霊に照らされて預言をする、預言者ではありません。 占星術の学者たちが、東の方からエルサレムに来た、と言っていますから、エルサレムのはるか東の方です。恐らくペルシャ帝国か、或はバビロンからでしょう。

当時、アジアのあちこちに、ユダヤ人の群れは広がっていましたから、星の専門家である彼らが、ただ、不思議な星があらわれた、というだけで巡礼の旅にかりたてられたのではないでしょう。 ユダヤ人の神についても、広く知られていたでしょうし、ユダヤの民にいつか救いをもたらすメシヤがあらわれる、という希望についても、聞いていたでありましょう。 神様は、異邦人であった星の学者たちの、内なる霊に働きかけられて、彼らは矢も楯もじっとしていられなくて、心が内に燃えて、今は全財産を処分してでも、彼らにとって最も高価な献げ物を、救い主として生まれられたメシヤに献げたい、という思いにいっぱいに満たされて旅の支度をし、そして長い道のりを何日もかけて、星に励まされ導かれて、新しく生まれたユダヤの王にお会いしに行くのでありました。

ヘロデ王の邪悪な支配によって、民を苦しめれば苦しめる程、民衆の中には沸々と、天からの王、救い主を待ちこがれる思いは起こっていったでしょう。 ヘロデ王は、自分の他に新たな王があらわれ、生まれてくる等とは思ってもいないことです。神様は、神の子の誕生を天使を遣わして、あの純真で素朴な貧しい羊飼いたちに知らせておられます。そして次に、遠い東の国の博士たちに働きかけて、彼らの行動を起こしていかれる。 何という、神の秘められた御計画でありましょう。 ふつうの考え方では、思いもつかない博士たちの旅は、神の約束に動かされて、奇跡といってもいい程の出来事であったでしょう。

彼らはイスラエルの王の宮殿にまいります。そこでヘロデ王に会います。 2節を見ますと、彼らは王に言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で、その方の星を見たので、拝みに来たのです。」王はこれをきいて驚き、内心おそれを持った。 4節をみますと「そこで王は、大祭司と民の律法学者とを皆集めて、キリストはどこに生まれたのかを尋ねた。律法学者たちは旧約聖書、ミカによって言われた『ユダの地ベツレヘムに大いなる指導者があらわれる』という予言のことばを見つける」。 東方の博士たちは、ベツレヘムに向かって再び星に導かれていくのです。

9節を見ますと、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼な子のいる場所の上に止まった。」と、マタイは記しています。マタイの表現です。 博士たちにとっては、輝く星こそがすべてでありましたから、ベツレヘムまで星が先立って進み、幼な子キリストの誕生されたその上に止まった。 学者たちはその星を見て、喜びにあふれたのです。 これとは対照的に、ユダヤの律法学者たちもヘロデ王も、すぐに救い主として生まれたもうた、幼な子の誕生をよろこんで拝みに行こうとはしない。 むしろ王は、神の支配に戦いをいどんで行くのでした。 ヘロデ王は、彼の生涯のすべてを、権力欲のためにどんな事でもする王であります。彼の王となるまでに築いてきた地位と権力が、幼な子の誕生によってすべて、ゆさぶられたのです。

東方の博士たちの喜びようは、大変なものでした。 博士たちは、暗い洞窟をくりぬいた家畜小屋の飼い葉おけに寝かされている幼な子を拝しました。 ろうそくのほのあかりに照らされている、この幼な子は、イスラエルの偉大な、輝かしい星となって下さる方です。イスラエルの希望の星となる方にひれ伏して、礼拝したのです。そうして彼らが携えた宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬等の贈り物をささげたと、マタイは記しています。 そして博士たちが、母マリヤと幼な子のあまりにも貧しいその現実に、つまずかないように、又、星が彼らに与えたものより、もっと偉大なものをそこに見ることが出来るように、この神のしるしは、博士たちを支えたのでありました。 博士たちが遠い道のりをものともせず、メシヤに会いたい。礼拝したいという熱い崇拝の念と、彼らが持てる宝のすべてを今、母マリヤは貧しい姿の中で受け止めたのであります。 そして、母マリヤは信仰深く生きるための力を与えられていったのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。     

アーメン。

顕現主日  2014年1月5(日) 

説教「イエス・キリストは預言の終着点、新しい命の出発点」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章13-23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。そもそも、マタイ福音書の初めの部分というのは、預言の成就が多く記されていて、待降節第2主日に読まれた1章にはイザヤ7章のインマヌエル預言の成就がありました。来週の顕現主日に読まれる2章の初めには、マラキ5章のメシア到来の預言の成就があり、3章にはイザヤ40章の「荒野の叫び声」預言の成就など、旧約聖書の預言成就でひっきりなしです。

旧約聖書は難しい書物です。例えば、預言者の言葉を理解しようとする時、それが預言者の口から出た当時、どんな意図で述べられたのか、また当時の人々にどう理解されたのか、そういう歴史的理解をしようとすると、いろんな解釈や学説が出てきます。ところが、旧約聖書の神は実にイエス様をこの世に送られた同じ神であるということをしっかり踏まえて読めば、旧約聖書というのは、神がどんな方であるかを豊かに教えてくれる書物になります。それによれば、神とは御自分の意志を人間にはっきりお示しになられた方で、その意思にちゃんと聞き従うよう人間に求められる方である、それに反抗する者には容赦ない態度で臨む方であり、また、聞き従おうとするも外見上の見せかけはすぐ見抜ぬかれて忌み嫌われる方である、しかし、神の前で自分の非力さを認め悲しむ者には最大の憐れみをかけられる方である。そのような神が旧約聖書から浮かび上がってきます。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神がどんな方であるかは、これからも説教等を通して学びを深めていきます。本説教では、まず、本日の福音書の箇所に出てくる3つの預言がどうイエス様にかかわっているのかを見ていきます。それから、これらの預言の成就が2000年後を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかをみて、神の私たちに対する愛と恵みについて理解を深めていこうと思います。

2.

まず、マタイ2章15節にある「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言書の言葉について。これは、ホセア書11章1節にある神の言葉です。赤子のイエス様の命を狙ったヘロデ王が死んでヨセフの家族は避難先のエジプトから帰還できるようになった。それで、この預言の言葉はそのまま当てはまるように見えます。しかし、もっと深い意味があることにも注意する必要があります。ホセアはイエス様が生まれる700年以上も前にイスラエル北王国で活躍した預言者ですが、問題の11章1節の言葉は、文字通りに読むと遥か昔に起きたイスラエルの民の出エジプトの出来事を指しています。つまり、神はイスラエルの民を一括して「わたしの子」と呼び、それを奴隷の国エジプトから連れ出したということです。しかしながら、その民は約束の地に入った後は神を忘れ、神の意志に背くことを繰り返して滅びの道に進んでしまう。実際に、イスラエル北王国は紀元前722年に滅んでしまいました。ところが神は、民を見捨てることはできないと言い、諸国に散り散りになった民を再び一つにして復興させ、そして民自身は神の意志に従って歩むようになると言います。

一度滅んだ民の復興は、ホセアの時代には実現しませんでした。そのため、この「エジプトから呼び出す」という神の言葉は将来に起こる出来事を意味する、と理解されるようになります。そうなると、エジプトから子を連れ出すということは、過去の出エジプトの出来事を指す必要はなくなり、イスラエルの民の復興に先立つ出来事を指すようになります。さて、ホセアの700年後、イエス様を救世主と信じた人たちは、彼の十字架の死と復活こそ、神の民イスラエルを全く新しい仕方で復興させる神の業であったと理解しました。その人たちが、誕生間もないイエス様がエジプトに避難していたことがあると聞いて、あのホセアの言葉はこのことを指していたのだと理解したのであります。神の民の復興に先立つ神のひとり子のエジプトからの召還。まさにホセアの預言の成就なのであります。

次に、マタイ2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」について。これは、エレミア31章15節の引用ですが、この言葉とベツレヘムの幼児虐殺との結びつきははっきりしません。母親たちの嘆き声がするラマというのは、ベツレヘムよりずっと北に離れたところにあり、ベツレヘムではありません。ラケルというのはずっと昔の創世記にでてくるヤコブの妻で、ヨセフとベニヤミンの母です。彼女は難産がもとでベツレヘムで死にますが、子供を失って泣くということはありませんでした。ではエレミア書のこの言葉は何を指し、ベツレヘムで起きた虐殺とどう結びつくのか?エレミア書の言葉は字面通りには預言者エレミアの時代、つまりイエス様の誕生より約600年前に起きたユダ南王国のバビロン捕囚を指しています。ラマからベツレヘムに至る全地域で多くの人が戦火に倒れる。ラケルはイスラエルの民全体の母として描かれるシンボルでしたから、イスラエルの民の嘆き悲しみはラケルの嘆き悲しみであると象徴的に表現しているのであります。

ところでエレミア書31章をもっと広く前後を通して読むと、実は問題の言葉の前後にはイスラエルを復興させるという神の決意が述べられています。神に背を向けた罰として嘆きと悲しみと荒廃に満ちてしまったイスラエル。それを新しい契約をもって復興させ(31-34節)、「疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(24節)、と神自身が誓います。つまり、イスラエルの荒廃と嘆きの悲劇は新しい契約と復興にとってかわられるという預言なのであります。そういうわけで、600年後に、イエス様の十字架の死と復活こそが新しい神の民イスラエルを復興しようとする神の業であったと理解した人たちは、ベツレヘムの幼児虐殺を復興にとってかわられる前段階の出来事と理解したのであります。まさに、幼児虐殺の悲劇を預言の成就と理解したのです。

3つ目の預言「彼はナザレの人と呼ばれる」について。旧約聖書にはこれと同じ預言の言葉は見当たらないので、どの預言書を指すのか定かでありません。ただ、明らかなことはナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には民が本来受けるべき神の裁きを自らかわりに引き受けて苦しみを受ける神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたと聞いて、すぐ同じイザヤ書のエッサイの若枝(נצר)の預言を思い出さずにはいられなかったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係も考えることが可能ですが、これらは預言の言葉ではないので、本説教では立ち入りません。)

以上みてきたように、旧約聖書の預言の言葉は、語られた当時の時代を超えて生き続け、イエス様をもって最終的に成就したことが明らかになりました。その意味で、イエス様は預言の終着点なのであります。ところで、イエス様の時代の後にもベツレヘムないしイスラエルの地で虐殺は繰り返されたし、イエス様の後にもナザレ出身の人は沢山いたでしょう。エジプトに避難してイスラエルの地に戻ったような人たちもいたでしょう。しかし、旧約聖書の預言はもはや、そういった人たちにはあてはめることはできません。なぜなら、それらの場合、神の民イスラエルを復興させるという神の計画や業と無関係だからです。イエス様のエジプトからの召還、ベツレヘムの幼児虐殺、「ナザレの人」という呼び名はみな、預言書が表している神の計画や業と結びついています。旧約聖書の預言の成就は、イエス・キリストの前にも後にも存在しないのです。

3.

それでは今度は、イエス・キリストをもって旧約聖書の預言が2000年前に成就したということが、今を生きる私たちにどうかかわっているのか、を見てまいりましょう。この問いに答える取っ掛かりとして、本日の福音書の中で最も難しい箇所に的を絞ってみていきたいと思います。難しい箇所というのは、ベツレヘムの幼児虐殺です。なぜこれが難しいかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理ではないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神は御子をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデのところに戻って報告しないように導きました。また、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこなかったのをみて、さては赤子を守るためだったなと悟ったヘロデが、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでしたが、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのであります。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとはどういうことか、神は天地人間の造り主、全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか、大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか、と反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起きるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるではないか等々の反論がでてくるでしょう。

ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいたということです。そして、それは創造の神の御心に沿うものであったということです。ところが、神の意図に反して人間はこの至福を失うこととなってしまった。この辺の事情は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という蛇の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は取ってはならないと禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死する者になってしまったのです。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。天地創造の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまった。それでは、人間から不従順をつきつけられた神は人間をどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか。いいえ、そうではありません。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と復活をもって成就し、そのことが新約聖書で明らかにされます。どんなことかというと、人間は皆、罪の呪いとしての死に定められている存在であるが、イエス様はその呪いを自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれた。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、神が私たちに何か償いを求めずに、神の方から一方的に、御自分のひとり子の尊い血を代償として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したことを指します。しかし、それだけでは終わらなかった。神は今度は、イエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たちのために開かれたのです。このようにして、神はイエス様を用いて、人間の救済を全部整えてしまったのです。救済は神の方で完成させてしまったのであります。

しかしながら、イエスが十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものとしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら自分のものにできるのか。そのためには、まず、「2000年前に神がイエス様を用いて行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、イエス様を自分の救い主と信じることです。そして洗礼を受けることでイエス様の神聖な白い衣を着せられ、天と地と人間の造り主である神の霊を受けることです。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことです。私たちは肉をまとってこの世に生まれ、死ぬときにこの肉は滅び腐敗していきます。しかし、洗礼を受けた時点で、肉の上に霊をまとって生きることが始まり、たとえ死んで肉が滅んでも、霊の命は死を超えてそのまま永遠の命につながっている。このように、洗礼とは、私たちをイエス様のもたらした救いの所有者にすることであり、永遠の命につながる新しい命の出発点ということになります。

以上から明らかなように、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、事の本質から目を背ける見方です。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現させた、そして人間一人一人が完成済み救済の所有者になるように手を差し伸べている、これが真理であります。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなり、神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さった、ということの方に目が向くようになります。

4.

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いが行われる。黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海です(黙示録20章15節)。キリスト信仰を守る人たちを殺害したり、またキリストを阻止しようとして殺人を犯したヘロデ王のような者は間違いなくこちらの部類でしょう。

人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われると言ってしまったら、この世での解決努力を軽視していると見られてしまうかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのであります。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったというものは何ひとつないのです。

ところで、キリスト教信仰に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはなりません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、神に背を向けて生きていたことを間違いと認め、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと悔い改めること。そして、私にかわって神に対して償いをしてくれたイエス様にひれ伏す。そうすれば、神から罪の赦しが得られるということであります。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、たとえ世間が赦せないと言っても、神は赦し、受け入れて下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「天上の喜びの歌」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20節、イザヤ書9章1-6節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.

本日12月24日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と一般に言われる日です。「降誕祭」すなわち「クリスマス」は明日の12月25日なので、イエス様は12月24日から25日の夜にかけて誕生したということが、キリスト教会の伝統として受け継がれてきました。

実は、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため、100パーセント正確に歴史学的に確定はできません。しかし、それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほど朗読されたルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデ王という王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の統治下に置かれる属国でありました。ローマ帝国は、大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのであります。ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものについてはありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6-7年という数字が有望になるのであります。

イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が12月25日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと以前の西暦100年代には1月6日が顕現日に定められて、今日に至っています。顕現日というのは、当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日、それにイエス様の誕生も祝う日でありました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の出来事の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭に採用されたのが、なぜ1月6日でなくて12月25日になったのかは明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

2.

ところで、降誕祭、クリスマスというのは、一見すると過去の出来事を記念する日のように見えます。しかし、キリスト信仰にあっては、そこには未来に結びつく意味もあります。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、降誕祭という日は、主の第一回目の降臨を思い起こして、イエス様という神の人間に対する大いなる贈り物に感謝しながら、実は未来の再臨にも心を向ける日なのであります。救い主の誕生記念にあやかって、今年もおいしいものをたくさん食べた、贈り物もたくさんもらった、めでたし、めでたし、と満足で終わってしまうのではなく、毎年、再臨の日は一歩一歩近づいていくのだから、私たちは身も心もそれに備えるようにしようと心を正す日でもあるのです。

イエス様の再臨の日とは、聖書に従えば、この世の終わりの日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様は、そのような再臨の日がいつであるかは、父なる神以外には誰にも知らされていない、と言われました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことであると教えられました。「目を覚ましている」とは、私たちが日々の人生をしっかり生き、各自が持つ課題とか、世話をしなければならない人とか、そういったものは神が私たちに与えたものだから、しっかり取り組んだり、世話したりする。そのように日々の人生をしっかり生き、同時に心のある部分は将来の主の再臨にも向けられていて、身も心もしっかり再臨に備えるようにする。これが、「目を覚ましている」ということです。イエス様の再臨が起きるのは、私たちが死んだ後になるかもしれません。経験から見て、その可能性が大きいように思われます。しかし、その場合でも、再臨の日が来れば、すでに死んだ者も復活させられるのですから、それで、この世の人生でしっかり生きること、しっかり「目を覚ましていること」は無意味でも無駄でもなんでもないのであります。

イエス様は、御自分が再臨する日について、神の栄光に包まれて、天使の軍勢を従えて、この世に到来すると約束されました。天使の軍勢とは、先ほど朗読されたルカ伝2章に登場した天使の軍勢を指します。この天使たちは声に出して「天には栄光、神に」と謳いました。まさにこの栄光に包まれて、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨されるのであります。イエス様の第一回目の降臨には、再臨の基本的な準備は既に出来ているのであります。

3.

ところが、イエス様の第一回目の降臨は、再臨の時のような壮大かつ威厳と畏怖に満ちたものではありませんでした。全く正反対に、惨めで貧しく憐れなものでした。神の栄光と天使の軍勢を伴ってしかるべき方が、家畜小屋で出産され、家畜の餌を入れる桶に寝かせられるのであります。家畜小屋がどういうところか、皆さんは想像がつくでしょうか?私は、妻の実家が酪農業を営んでいるので、休暇でそこに行くと子供と一緒に牛を見に行きます。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。10分位いるだけで、臭いは服にしみつき、後で周りの人にも、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。

神のひとり子であり人間の救い主である方が、なぜこのような形で地上に誕生しなければならなかったのでしょうか?ここで、神が人間として誕生したということに目を向けてみましょう。聖書に従えば、神とは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える造り主です。この造り主とそのひとり子、そして神の霊である聖霊の三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物であります。この造られたものには、私たちの目に見えるものも、また目に見えない霊的なものも全て含まれます。天使たちも被造物なのであります。

人間に命と人生を与える造り主が、なぜ、自ら被造物の姿となって誕生しなければならなかったのか?もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っているだけの存在です。しかし、それでは神と人間の間を支配していた敵対関係を終わらせることはできません。神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようとしました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらった。これがゴルガタの十字架の出来事です。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせることで、復活が実在することも示されました。これらのことを全て実現するためには、被造物の力はあまりにも無力でした。本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の性関係から生まれてくる全くの被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに作用して受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は、神としての性質は保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、まさに神自身が、人間との間に和解をもたらすために、自ら人間に歩み寄って自らを犠牲にしたということなのであります。

4.

それでは、神の御子イエス様が人間として生まれる時、なぜ家畜小屋での出産というような惨めな形をとらなければならなかったのか?聖書を読んでいくと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、限りある私たち人間に影響力を及ぼす時、人間界にある諸条件の中でそうしようとする傾向が強いと言えます。人間界の諸条件の枠をつき破るように影響力を及ぼそうとすると、奇跡が起きるのであります。人間界の諸条件の中で影響力を及ぼすというのはどういうことかと言いますと、イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域にて、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために妊娠していた。その時、彼らユダヤ人を支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。以上をもって、救い主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という旧約聖書の預言が成就されたのであります。

出産場所が家畜小屋だったということも、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、天使は羊飼いたちに、生まれたばかりの救い主は飼い葉桶にいる、それが赤子が救い主であることの印であると知らせました。このヒントのおかげで、羊飼いたちは、家畜小屋を探せばよい、とわかったのであります。もし、救い主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤子は見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

こうなると、家畜小屋での出産というのは、神が最初から仕組んだことのようにさえ見えます。最初から仕組んだとは言えなくとも、まず、ヨセフとマリアの動向をしばらく状況の荒波に委ねて、その結果、家畜小屋になってしまった。そこで神は、このことを天使を通して羊飼いたちに告げさせて、羊飼いたちにイエス様を探し当てさせた。そして、町の人たちやヨセフとマリアに、天使が言ったことを伝えさせた。人々は天使など見ていませんから、反応はただ驚くだけで、半信半疑だったでしょう。ところがマリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのであります。羊飼いたちがやってきたことで、ヨセフとマリアは、家畜小屋においやられてしまったという不運は実は不運でもなんでもなかった、惨めな出産と夜明かしだったけれども、神は絶えず目を注いでいて下さっている、ということがはっきりしたのであります。

このように、神は、仮に私たちの人生の歩みをすっかり状況の荒波の中に委ねてしまって、何も助けてくれない、状況の改善のために何もしてくれないように見えても、実は私たちの手綱をしっかり握っていて離すことはないのであります。必ず、神の意思に沿うようなことが後で起きるのであります。

5.

 最後に、羊飼いたちの心の有り様の変化を見ていきたいと思います。天使が目の前に現れた時、羊飼いたちは大きな恐怖に襲われました。この天使の後に、今度は大勢の天使たちからなる天の軍勢が現れました。一人の天使の出現でさえ恐怖だったのに、天使の大軍勢はそうならなかったのであります。どうしてでしょうか?ひとつには、天使が生まれたばかりの救世主について教え、かつそれを見つけに行くように促したことがあります。羊飼いたちの目は、目前の光輝く天使から、生まれたばかりでまだ見たことのない赤子へと方向転換したのであります。

それから、天使の大軍勢が神への賛美として口にした文句も一役買っています。これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成る文句です。動詞が全くないので、正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使の大軍勢はアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。

この天使の大軍勢の文句は、2つの部分からなります。最初の部分は、神の栄光について。次の部分は平和についてです。私たちの日本語訳の聖書「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神に属するものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは、「天上の栄光は、神のものである」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、まさに「神の御心に適う人」であります。「平和」は、普通、戦争がないとか、社会が平穏であるとか、そういう外的な平和を思い浮かべます。しかし、ここでは、先ほども述べましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現します。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちが、この平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」なのであります。この平和は、たとえ外的な平和が失われた時でも、また人生の歩みの中で困難や苦難に遭遇しても、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和であります。そういうわけで、天使の軍勢の賛美の詩は、次のようになります。「天上の栄光は神のもの。地上では平和は神の御心に適う人たちに。」

天使の大軍勢は、この賛美の詩をどのように唱えたのでしょうか?詩を朗読するように訥々と唱えたのでしょうか?それとも大規模なコーラスのように歌い上げたのでしょうか?確認の術はありません。少なくとも、人間ではない者たちの大軍勢であったにもかかわらず、羊飼いたちの恐れを吹き飛ばすものであったことは否定できません。ところで、日本では年末になるとベートーベンの第九が各地で響き渡ります。第九は、どんなに気持ちが沈んでいても、それを吹き飛ばして気持ちを喜びに満たす力がある曲だということは、誰しもが認めるでしょう。地上の一天才が生み出した音楽がそのような力があるならば、天上の創造主が天使の大軍勢に唱えさせた賛美の詩は、それを幾重にも上回る力があると言ってよいでしょう。皆様も、第九を聴いて深い感動と喜びに満たされたら、それは神が与えて下さる喜びのさわりの部分のようなものなのだと言い聞かせてみて、神の喜びのとてつもなさを予感してみて下さい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「イエス様の名前の意味」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 1章18-23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の日課は、ヘブライ語に由来する二つの言葉が重要な主題になっています。一つの言葉は、「イエス」。これは、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛが日本語に訳された形です。この「ィエースース」Ἰησοῦϛですが、これのもとになっている言葉はヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעです。この「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉ですが、これは「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。つまり、イエス様の名前は、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。それで天使はヨセフに、将来「自分の民を罪から救うことになる」(詩篇130篇8節)この子に、「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעでיהושעユと付けなさいと言ったわけで、この「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעは、やがてキリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛに置き換えられて、それが、後世「イエス」とか「ジーザス」とか「ィエーズス」とか「ィエースス」とかいろんな国の言い方に訳されて現在に至っているというのであります。

 もう一つのヘブライ語に由来する言葉は、「インマヌエル」。これはもともとヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוが発音をほとんどかえずにギリシャ文字に置き換えられて、「エンマヌエール」Εμμανουηλと記されています。この言葉は、本日の福音書の箇所にも説明されているように、「インマーヌー」私たちと共におられるのはעמנו、「エール」神であるאל、という意味です。つまり、「神が私たちと共におられる」ということです。この「おとめから生まれる子供の名がインマヌエル(神が私たちと共におられる)と呼ばれる」というのは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書7章14節にあるように、預言者イザヤを通して言われた神の言葉です。

 さて、ここで一つの疑問にぶつかります。将来「民を罪から救う」この子に「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることは、ぴったりであるとわかります。本日の福音書の箇所は、その名前をつけることが、「おとめから生まれる子供の名前がインマヌエルになる」という預言の成就になると言っています(マタイ1章22節)。どうして、「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることが、その預言の成就になるのでしょうか?イエス様の名前はずっと「イエス・キリスト」であって、「インマヌエル」という名前はつかなかったのではないでしょうか?この疑問は、「主が民を罪から救って下さる」ということと、「神がわたしたちと共におられる」ということの二つの事柄が深く結びついている、二つのことは同じことを意味しているとわかれば問題ではなくなります。そういうわけで、本説教では、この二つの事柄、「主が民を罪から救って下さる」ということと「神がわたしたちと共におられる」ということがどのように結びついているかをみながら、私たちに対する神の愛、神の恵みについて学んでいきたいと思います。

2.

 まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史的状況の中で言われた言葉かというと、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣国のアラム王国と同盟して、兄弟国であるはずのユダ王国を攻撃しようと計画した。この同盟締結の知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約聖書の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから落ち着きなさいとアハズ王に伝えよ、と命じます。それから神はまだおびえているアハズ王に、信じられないならしるしをみせてやるからそれを求めてみよ、とさえ言います。王は、畏れ多くもそんな神を試すようなことはできないと躊躇します。そこで神は、お前たちの信頼不足には疲れ果てた、仕方がないから私の言うことが本当であるというしるしをこちらからみせてやる、ということで、「みよ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉がでたのであります。その言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされ、二王国の計画は実現しないと述べます。それらのことは、古代オリエントの歴史にも記されている通り、その通りになりました。

 さて、このおとめから生まれるインヌマエルという子供は誰をさすのでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子供ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王というのは、歴代の王たちが神に背を向けて生きていた生き方を改め、神のもとに立ち返る生き方を始め、それで神の預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王として知られていたことによります。さらに、アッシリア帝国が大軍を引き連れて、今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になったとき、ヒゼキヤ王は神にのみ依り頼む姿勢を貫きました。そしてアッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18万5千の兵を失って総退却となる(列王記下19章35-36節、イザヤ書37章36-37節)というようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれたことがあります。それで、このインヌマエルはヒズキヤ王をさすのだと。

 ところが、それではヒズキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。そこで、イザヤ書7章14節のイザヤの預言の中にある「おとめ」という言葉、へブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהをみてみましょう。この言葉は実は、「おとめ」の意味も「若い女性」の意味も両方ある言葉なのです。それで、ヒズキヤ王は、父のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのであります。

そうなると今度は、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」と、キリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?

実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インヌマエル預言」はヒズキヤ王で完結することはなかったのであります。神の民を苦境から救い出すインヌマエルはこれから出てくるのだ、ヒズキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだという見解が出てくるのであります。というのは、ヒズキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国にバビロン王国からの使者が来ます。バビロンとは、約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を捕囚として連行して行った国です。ヒゼキヤ王は、使者たちに、ユダ王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいますが、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。さらに、ヒズキヤ王の次に即位したマナセ王は、完全に神に背を向ける生き方を始め、神の意志に背く宗教政策をとってしまいますが、それは、列王記下24章3-4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまったのであります。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのであります。イザヤ書も終わりのほうになると、神がご自分の民を最終的かつ完全に救う日は、新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と記されていますが、このように救いの日と歴史や自然の大変動が一緒に起こると理解されるようになりっていきます。そういう流れの中で、救いの担い手が普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。こういう時に、先ほど二つの意味があると申しましたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味も、「若い女性」から「おとめ」に理解されるようになったのであります。こうした理解の変化が起きたことを端的に示すのが、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהが、はっきり「おとめ」だけを意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたのであります。本日の福音書の日課にあるイザヤ書の引用ですが、それは、ギリシャ語訳の旧約聖書をそのまま用いており、それは当然のことなのであります。

以上に加えて、おとめから子供が生まれる時、聖霊の力によって宿るということについてみてみますと、神の霊というものは、預言者に託宣を伝えるだけが仕事ではありません。創世記1章2節やエゼキエル書39章9節等からも明らかなように、無から命を創り出すという働きもあるのであります。それで、おとめから子供が生まれるという通常起こりえないことが、天地創造の神の業としてありえることなのだと理解されたのであります。

以上、インヌマエル預言の歴史的変遷を大ざっぱにみてまいりました。旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という広大な観点を併せもって理解する必要があることが明らかになったと思います。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」に置き換えたものもあります。そういう訳者は、おとめから生まれるなどとは歴史的事実になりえない、と主張します。)

3.

 さて、本日の説教の中心課題であります二つの事柄、「神が私たちと共におられる」ということと、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということが、どのように結びついているか、ということをみてまいりましょう。

 まず、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということについて。これは、詩篇130篇8節にある預言の言葉であります。ユダヤ教の伝統的な考え方では、「神が民を救う」というのは、神がイスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解がよくされます。ここでは、何から救われるということについて、相手が外敵や侵略者ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、「罪がもたらす神の怒りや神の裁きから救って下さる」ということです。神の怒り、神の裁きというものは、それを受けるならば、人間はこの世の人生の段階では自分の造り主であるはずの神との関係が断ちきれたままの状態になってしまい、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れなくなってしまう、ということです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことがきっかけで、罪が世界に入り込み、人間は死する存在になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。全てを創造された神に背を向けて生きようとする性向がそれであります。もちろん、世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。

それでは、神は、預言の言葉のように、どのようにして人間を罪から救い出すのでしょうか?それを知るために、神が私たちのために御自分のひとり子イエスを通して行ったことをみる必要があります。人間は一人ひとり罪と不従順のために神との結びつき断ちきれていて、この世から死んだ後も永遠に神のもとに戻れないようになってしまった。イエス様は、こうした人間に張り付いている罪の呪いを全て自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架の上で、私たちが死ぬべき死を受けられた。そこで神は、イエス様が私たちのかわりに全てを償ったと見なして、イエス様の身代わりの死に免じて、私たち人間の罪を赦すという道を採られたのであります。

別の言い方をすると、私たちが身にまとっている罪という汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちに被せてくれたということであります。神はその汚れた衣を着たイエス様を死に引き渡し、白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、このように法律で言う恩赦の意味合いが強くあります。実際、北欧のルター派教会では、「恵み」を言い表す言葉は「恩赦」を言い表す言葉の類義語であります(スウェーデン語のnåd-benåda、フィンランド語のarmo-armahtaa)。さらに、御自分の一人子の尊い血、命を代価として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したと言ってもいいと思います。私たちの新しい命はそれ位に高価なものなのです!それだけではありません。神は、今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救済を全部整えてしまったのであります。救済は神の方で完成させてしまったのであります。

 このように神がイエス様を通して行われたことは、最初の人間のときに損なわれてしまった神と人間との結びつきをもとにもどすことそのものでありました。しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものにしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくとどまるだけです。ではどうしたら救済を自分のものにできるのか?そのためには、各自まず、「あの、2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、それを信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けることで、イエス様の白い衣を頭から着せられ(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では着せられるのは霊に結びつく新しい人)、天地創造の神の霊を受けられることになります。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことだということになります(エフェソ1章13-14節)。

 それでは、信じて洗礼を受け、神の完成された救済を所有するようになったら、それで終わりかというと、必ずしもそうならない。ルターがよく強調することですが、キリスト信仰者の人生とは、洗礼を通して私たちに植えつけられた内なる新しい人を日々育て、前々から存在する内なる古い人を日々死に引き渡す長いプロセスだということがあります。イエス様の白い衣を上からかぶせられたといっても、この世に生きている間、私たちはまだ肉をまとっています。私たちの内なる新しい人は、神に従順です。神を全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であり、喜びであると考えます。しかし、内なる古い人はそんなことは当然でもないし、喜びは別のところにあると教えます。このような神への不従順は、実に私たちキリスト信仰者も共有している、ということは誰しも認めざるを得ないでしょう。そういうわけで、洗礼で始まる新しい人生のプロセスは、実に、聖霊に結びつく新しい人と肉に結びつく古い人との間の内的な戦いのプロセスということになります。ルターによれば、私たちが死ぬときに、古い人間も肉とともに滅び、私たちは完全に復活の命をもつことになります。その意味で、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになった者にとっては、死は完全な終わりではなく、現世の命と永遠の命をあわせた長い命の中にある一つの通過点のようなものになります。

4.

最後に、キリスト信仰者のこの世の人生のプロセスでは、今神の右に座すイエス様は、私たちの目に見えない形で絶えずともにおられるということに注意を喚起したく思います。2000年前のユダの地でイエス様の教えを聞き、癒しを受け、十字架と復活の出来事を目撃した人たちと違って、私たちにはイエス様が身近にはおられません。しかし、聖書を通してイエス様や神の考えや意思を2000年前の人たちと同じように知ることができます。イエス様の声は聞こえませんが、聖書を読めば読むほど、聖書に聞けば聞くほど、イエス様の弟子たちと同じくらいに私たちはイエス様のそばにいることになります。

それから、聖書の言葉は力に満ちた神の言葉ですから、ルター派の教理問答書が教えるように、この言葉を語りかけることで洗礼式の水はただの水でなくなり、聖餐式のぶどう酒とパンはただのぶどう酒とパンでなくなって、それらはイエス様がその場に臨在することを保証するものにかわります。そうした水をかけられることでイエス様の義という白い衣をきせられ、そうしたパンとぶどう酒を口にすることで、イエス様の義を栄養として体内に摂取します。私たちが内なる古い人の傲慢さに疲れ、悲しむとき、聖餐式で摂取したものは、目に見えない形で栄養を発揮します。私たちの内に宿る罪と不従順は私たちを神から引き離す力を既に失っており、罪と不従順が力を揮ったように見えても、それは見かけ倒しで実際は何の実力も効力もないということを確かなものにする、それが聖餐のパンとぶどう酒です。内なる戦いを戦っていない人、自分はもう完全に新しい人になったと思いこんでいる人には、聖餐は意味がありません。そのような人は、自分はキリストはいらないと言っているのと同じです。内なる戦いを真摯に戦っている人にこそ主はともにおられるのです。このように、私たちを罪から救って下さる主「ユホーシュアッ」יהושעは、私たちと共におられる「インマーヌーエル」אל עמנו のです。
「ユホーシュアッ」יהושע、「インマーヌーエル」אל עמנו!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「造り主のもとに立ち返る者が結ぶ“良い実”とは?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章1-12節

聖書日課 マタイによる福音書3章1-12節、イザヤ書11章1-10節、ローマの信徒への手紙15章4-13節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世の終わりにあたる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なる神以外には知らされていないのであります。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものであるとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは取り組むために神が与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。

さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

2.

 本日の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝え始めます。大勢の人々が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この洗礼者ヨハネの登場がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤ地域の総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、そしてアンナスとカイアファとがエルサレムの神殿の大祭司であった時でありました。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、ティベリウスは西暦14年の9月に即位したので、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事だったということになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われているものと同義です。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えています。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章に記されていますが、この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまう終わりの日に、唯一揺り動かされずに残る国であります。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地を取り除いて新しい天と地にとって替えるということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で出現することが記されています。 

 そんな国が2000年前に「近づいた」と言われたのは、一体どういうことか?神の国というものが、今ある天と地がなくなってこの世の終わる時に出現するのであれば、今ある天と地は当時も今も変わっていないではないか?新しい天と地はまだ創造されていないではないか?2000年前に「神の国」が近づいたというのは、イエス様が不治の病の人々を完治したとか、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたとか、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたとか、悪霊に憑りつかれた人を救ったとか、そういう無数の奇跡の業に関係があります。黙示録21章4節に言われていますが、将来出現することになる神の国とは、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところであります。2000年前のイエス様の存在と活動は、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で、人々に味あわせる、人々にその存在を体験させる、そういう意味がありました。そういうわけで、神の国が本格的に出現するのは、あくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって変わられる日なのであります。

それでは、今私たちは「神の国」と無関係なのかというと、そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の国と既に結び付けられているのであります。もし、イエス様の再臨が私たちが生きている時代に起きれば、私たちはそのままそこに迎え入れられるのであり、また、再臨の前に死んでいたのであれば、私たちは主の再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられるということであります。

 洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが来て神の国が本格的に出現すると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのであります。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に数多く出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになるのです。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現なさる方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.

さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知らないので、彼のスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来る、今ある天と地が預言の言った通りに新しい天と地に取って替われる日がすぐ来る、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは、斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際しては罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びついたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています(マルコ7章4節)。つまり、これらの清めの儀式も洗礼の一種なのであります。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒をはじめとする律法と呼ばれる様々な掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思の実現・体現には程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのであります。

 人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができます。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を衣のように着せられるのであります(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものです。神が人間に与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神のもとへの立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これに対して、人間が神の国に迎え入れられることを確実にするような完璧な罪の赦しが必要です。それが、前述したイエス様の身代わりの死がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言します。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させていますが、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限り、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されているのであります。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことがあっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このようなはかりしれない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではなかったけれども、ヨハネが人々に自分の洗礼を呼びかけたというのは、ファリサイ派が唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのであります。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が実現する救いはいらなくなってしまう。それでは、道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。

4.

以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事をもって、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得ることができました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に内在し罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことであります。これが、ヨハネが結びなさいと言った「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」であります。「悔い改め」とは本説教では「神のもとに立ち返ること」でありますから、「神のもとへの立ち返りにふさわしい実」であります。

もう少し具体的に言うと、あるキリスト信仰者が、一生懸命の努力とお祈りをもって何か事業に成功して、お金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。この人が、この成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することとに沿うように用いようとすること、これが「良い実」であります。ある信仰者は、別に事業も起こさず、お金持ちにも有名にもならない、とします。もしその人に伴侶がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが満ち溢れるような家庭を築いて行こうとすること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうとすること。これが「良い実」であります。また、不運にも病の床について、事業も起こせず、家庭も通常通りに築いていけない場合、このような境遇にあっても、大勢の方の気遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さると感謝すること。そして、自分も、自分自身のことに加えて、出来るだけ多くの人たちのためにお祈りをすること。これが「良い実」であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「この世を去る時も、この世が去る時も、キリスト信仰者はひるまない」神学博士 吉村博明 宣教師、 ルカによる福音書 21章5-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神の御子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス・キリストが再び、今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来ること、そして、私たちも使徒信条や二ケア信条に基づいて信仰告白するように、この再臨の主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に、私たちは、主の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスの時から遠ざかっていきますが、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつであるかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なる神以外には誰にも知らされていないので、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日がいつなのかは誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(34-38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分は復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、各自、自分の信仰生活を振り返る日であり、もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日であります。そういうわけで、本説教でも、そのような自省の心を持って、本日の福音書の箇所の解き明かしを行っていきたいと思います。

2.

本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の一部です。預言の内容は少し複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にユダヤの地を中心として起きる出来事と、もっと遠い将来に人類全体に起こる出来事の二つの預言が入り交ざっているからです。

預言をはじめからみていきますと、まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言がとても気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、人々は戦争をはじめ何か心を不安に陥れるような出来事を多く耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう不安の時代になると偽救世主に従いやすいということです。そういうわけで、偽救世主は、不安の時代になると、8節にあるように、この世の終わりの時が近づいたなどと不安を煽るのですが、イエス様は、こうした不安の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で述べます。こうした出来事は終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐ終わりの時になるのではない。この世の終わりでない以上は、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と私たちに命じるのであります。

その不安の時代に起こることについて、イエス様は具体的に述べます。民族と民族、王国と王国つまり国家と国家がお互いに衝突し合う。つまり戦争です。それから、世界各地に起きる大地震、飢饉、疫病。さらに、天体に現れる恐ろしい現象や大きな徴候、これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか。こうしたことが起きてくると、人々は不安に陥り、それらの災難や心の不安から逃れられようとして偽救世主に頼ろうとする。しかし、イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、これらに続いてすぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、おびえる必要はない。イエス・キリストに結びついた者であれば、この世の終わりが来ても、それは今の世から次の世の神の国へ移行する時にすぎず、その時まで、そしてその時にも、主が手をしっかり取って守って下さるから心配する必要はない、ということであります。

以上は、この世の終わりが来る前に必ず起こる不安と災難の時代でした。ところが、12節で、順番が逆戻りして、今度は不安と災難の時代の前に起こることについて話されます。キリスト信仰者に対する迫害がそれです。キリスト信仰に反対する権力者によって信仰者が連行されて、権力者に対して申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、これは実は信仰を証する絶好の機会だと捉えること、自分はこう弁明しようと前もってあれこれ考えずに、主が誰も反論できないような言葉と知恵を与えて下さるから、その通りに話せばよいということです。迫害の中で最も痛々しいのは、権力者からくるものならともかく、親兄弟、親族、友人からも裏切られて、それがもとで命を落とすこともあるということです。イエス様の名前のせいで、それほどまでに憎まれてしまうということです。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛の一本たりとも失われることはない。つまり、全ての人から見捨てられ見放されても、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の目の中にしっかりおさまっている、神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはない。お前たちに起こることは全て漏れることなく詳細に記録されている、ということであります。それがわかれば試練の中でも忍耐できるのだ。そのように忍耐できれば、お前たちは試練を生き抜く力を持てるのだ(19節εν τη υπομονη υμων κτησασθε τας ψυχας υμων)。

迫害の次にエルサレムの滅亡が預言されます。これは20節から24節までで、本日の福音書の箇所から外れますが、本日の箇所の初めで人々は、エルサレムの神殿の破壊はいつあるのか、その前兆は何かと聞きました。イエス様の答えは、不安と災難の時代が来るが、その前に迫害の時代があり、その後でエルサレムの破壊が来ると言いました。エルサレムの町が破壊されるということは、その中にある神殿も破壊されるということなので、町の破壊の預言をもって人々の質問に一応答えたことになります。先ほど申しましたように、エルサレムの町と神殿の破壊は西暦70年に起こりました。

しかしながら、イエス様の預言は、エルサレムの破壊のところで終わりませんでした。先ほどの不安と災難の時代の預言のところで、これらのことが最初に起こらなければならないが、それをもってすぐこの世の終わりが来るのではない、と言われました。イエス様の主眼は、この世の終わりにあるのです。イエス様は、不安と災難と迫害の時代がエルサレムの破壊の前にも起こるけれども、その後にも起こって、そこから世の終わりが始まっていくのだと教えているのです。そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海が「どよめき荒れ狂う」異常事態になり、諸国民はなすすべもなく悩み苦しみ、世界に何が起きるのか死ぬほど不安になる。文字通り天体が揺り動かされる。まさにそのような時、主が再臨するのであります。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動というのは、実は、今あるものが新しいものにとってかわるということであります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に述べられています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

ルカ21章28節で、イエス様は、天変地異、天体の大変動の時に再臨される時こそ、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、先ほども述べましたが、イエス・キリストに結びついた者にとって、この世の終わり時とは、今の世から次の世の神の国へ移行する時にすぎないからです。

3.

さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天変地異、天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありましたが、現代においても世界の地域によっては迫害が続いているところはちゃんとあります。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。まず、皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。また、50億年待たなくても、もっと以前に、例えば大きな隕石とか彗星などが現れて地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となりましょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象による大災難に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。近年よく言われる温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、1990年代に東西冷戦が終わって後は以前ほど大きく取り上げられなくなりましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのであります。そして、一度事故を起こすと収拾がつかなくなって人体や環境を深刻に損なう原子力発電所が果たしていつも無事故でいられるかどうか。多くの人たちは福島の悲劇でもう十分だと思い、別の人たちはまだまだやれる大丈夫だと思っている現実があります。

この世の終わりということに関して、私が中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになりました。それによると、人類は1999年、つまり14年前に滅亡するということでした。ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者で、予言したことが的中するということで注目を集め、宮廷にも出入りしていたという人で、彼の書いた詩の形の予言が、その後の世界史の大事件を見事に言い当てていると言われてきました。もちろん、1999年人類滅亡説は当たらなかったのですが、当時私は本を買って読みました。読んで戦慄を覚えた後、何ともいいようのない無力感に襲われました。ちょうど読んだ時期が高校受験を控えた中学三年だったので折が悪く、どうせ滅亡してしまうのなら、何を一生懸命やっても意味がないのではないか、などと思ったのでした。それでも、結局は一生懸命に戻っていったのですが、それは、やはり世の中のシステムというか歯車は頑丈にできていて、いくらベストセラーが個々人の心に動揺をもたらしても、それはびくともせず、自分も含めて大人も学生も皆、そのシステムや歯車に乗ることで日常の生活を続けることができたのではないかと思います。しかし、そのようなシステムや歯車があらゆる衝撃に耐えうる完璧なものであるという保証はありません。イエス様の預言は、そこを突くものであると言うことができます。

そうなると、キリスト信仰というものは、あらゆるシステムや歯車を粉砕してしまうような、人類や地球の存亡にかかわる危機を視野においているので、信仰者を無力感に陥れるものなのでしょうか?キリスト信仰とは、全くそうならないものである、と私が感じたのは、まだキリスト教徒になる前の大学生の頃、宗教改革のルターが言ったという言葉を聞いた時でした。これはルター本人が言ったかどうか議論があるようですが、仮にルター本人の言葉でなくても、ルターの信仰を見事に言い表していると言われています。ルターはある人に「明日、世界が滅亡するとわかったら、どうしますか?」と聞かれ、次のように答えたということです。「それでも、私は今日リンゴの木を植えて育て始める」と。これを聞いた私は、ひょっとしたら自分の生きている時代にこの世の終わりが来るという可能性から目をそらさずに生きているにもかかわらず、無力感に陥らないで自分の置かれた境遇にしっかりとどまり、そこでの課題に取り組むことができるというのは、なんと素晴らしいことかと感動したのを今でも覚えています。キリスト信仰の何が人をしてそのような心意気にしていくのだろうか、と興味も持ちました。今、一人のキリスト教徒として、そのことについて述べてみたいと思います。

近年、日本では、エンディングノートという言葉がよく聞かれます。高齢者の方が、自分が死亡した場合とか判断能力を失う病気にかかった場合に備えて、家族の人たちにどうしてほしいかと希望を書き留めるものです。実際に書いた方の感想などを新聞で見ますと、書いた後は一日一日を自覚的に生きるようになったというようなものを見受けました。ノートを書き留めること自体、近々自分には人生の終わりが来ると自分で認めることになりますから、自分で認めることができれば、残された時間も同じように自分でかじ取りする時間となり、それが残り少ないとわかれば、もうそれは貴重なものと自覚され、無駄にはできない、大切に使おうということになるのではないかと思います。

キリスト信仰にも、少し似たようなところがあると思います。この世には、はじまりがあったように終わりがある、その終わりは自分の生きている時代かその後かいつかはわからないがいつかは来る、その意味で今生きている時間は貴重な、無駄にはできない大切な時間になるということになります。しかし、キリスト信仰の心意気が、エンディングノートの効果と違う点は、ノートの場合は、残された時間を自覚的に生きるという時に、死んだ後のことは特に視野に入れないのではないかと思います。キリスト信仰では、それが生きている時にもう視野に入っているのであります。なぜそうなるかと言うと、キリスト信仰では、まず自分には造り主がいるということが大前提にあるからです。その造り主との関係は最初の人間の罪と不従順で壊れてしまい、人間は神のもとで永遠に暮らすことができなくなってしまいました。しかし、神はそれを再興しようとして、独り子イエス様をこの世に送られ、彼に十字架の上で人間の罪と不従順の罰を全て受けさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超える永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神との結びつきが回復し、この世の人生において復活の命、永遠の命に至る道を歩み始め、この世から死んだ後は、永遠に造り主のもとに戻れるようになりました。このように、キリスト信仰では、自分が死んだ後で自分はどこに行くかがはっきりしていて、信仰者になることでそれがその人に確定されるのです。そうなると、この世の人生というものは、この世を生きなさいと命と人生を与えて下さった造り主である神の御心を知ろう、そしてそれに沿うように生きていこうというものになっていきます。この世の人生の終わりの時を定められたからと言って、無力感に陥ったり投げやりになったりするなどというのは思いもよらないことです。自分に与えられたこの世の人生の期間がどれくらいの長さかはわからないが、長短は問題ではない。与えられた期間を、神に対して自覚的に生きる、永遠の命に心を向けて自覚的に生きる、ということであります。このことは、先に来るのがこの世の終わりであろうが、自分の人生の終わりであろうが、同じなのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン