説教「神の国の一員であるということ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書20章17-28節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は読み通すと、一見わかったような気がしますが、実は難しいことがいろいろあります。それらを一つ一つみていくことで、天の父なるみ神の私たち一人一人に対する御心を明らかにしてまいりましょう。

まず、イエス様が自分の受ける受難と恥辱に満ちた死について、そして死からの復活について予告します。その時、弟子のヤコブとヨハネとその母親がイエス様の前に進み出て、母親が嘆願します。神の国が来たら息子たちを王様イエス様の左大臣、右大臣にして下さい、と。ここで起きる疑問は、なぜイエス様が死と復活を予告したタイミングに、母親はこの嘆願をしたのかということです。それは彼女が、イエス様の死と復活が神の国の到来に関係すると直感したからなのですが、どうしてメシア救世主の死と復活が神の国の到来と関係するのか?この疑問からみてみましょう。

イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、自分たちの民族の将来について次のような期待が抱かれていました。それは、かつてのダビデ王のような王が登場して、この王が油を注がれて聖別された者、つまりメシアとして、自分たちを支配・抑圧しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに諸国に大号令をかけてこれらを従わせ、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させるという期待です。そのような期待がでてきたのは、旧約聖書にそのようなことを預言するとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ士族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。またイザヤ書11章に、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王がでて外国勢力を追い出して王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が持たれたとしても不思議はありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場しますが、これは機会があれば占領者であるローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者になると思ったのでしょう。しかし、彼らにとって、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまったのは、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。

このような、ダビデ家系の王が現れてイスラエルに民族自決国家を実現するという考えは、王様にしても王国にしても今存在する現世に実現するものです。ところが実は、当時のユダヤ教社会には、メシアについても王国についてももっと違った考え方がありました。まず、今存在するこの世はいつか終わりを告げる。その時、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる。その際、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こる。かつてこの世で生きていた時に天地創造の神を信じてその意思に忠実であった者たちは神の国に迎え入れられる。この一連の大変動の時に、指導者的な役割を果たすのがメシアである。彼は、神の国という新しい世に最終的な平和を打ち立てる。大体そういう考え方です。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。終末論的なメシアと神の国の考え方と言ってよいと思います。余談ですが、このような考え方を示す書物が、紀元前2、3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました。1

どうしてこのような考え方があったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章17節、60章19~20節にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章1~3節、こうした今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考え方に従うと、現世的な王の下で現世的な民族自決国家を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は来るべき世の出来事を意味するものだというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考え方からすれば、現世的なメシアや王国復興の考え方は、旧約聖書の預言をまだまだ取り込めていないということになるでしょう。

こうしてみるとヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の予告を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考え方を持っていたことを窺わせます。しかし、彼女のメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。到来する神の国は死者の復活に関係があると理解していながらも、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分の息子を右大臣左大臣に取り立てて下さい、と嘆願したのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのであります。それがどういう国かと言うと、本日の箇所の最後でイエス様が言われます。「人の子は仕えられるために来たのではない。仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである。これと同じように、お前たちの間でも、大いなる者になりたいと思う者は、お前たちの中で仕える者となりなさい。」2 つまり、神の国の秩序は、誰かが誰かの上に立って支配するというものでなく、お互いが仕え合っているという関係にある。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、王に従う者はみなそれに倣わなければならない、というのであります。

ヤコブとヨハネの母親が示したような終末論的な神の国の到来の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考え方よりも旧約の預言を網羅しているようにみえました。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。イザヤ書53章には、メシアが人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、恐らく有名ではなかったのかもしれません。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど、不可解だからです。しかし、十字架と復活の後は、不可解でもなんでもなくなりました。イエス様は、十字架と復活の前に全てをご存知だったのです。まさに彼こそが、旧約聖書の預言の全体を把握して正確な神の国の考えを持っていたのです。もちろん、これは、彼が神の御子であるため神の意思を全てわかっていたからなのですが、彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思そのものを実現することもやってのけたのです。

 

2.本日の福音書の箇所の次に進みましょう。イエス様は、母親の嘆願を受け付けませんでした。イエス様の呆れ返った様子が母と息子の三人とイエス様のやり取りから窺われます。「お前たちは何を欲しているか自分でわかっていない」。嘆願した本人からすれば、右大臣と左大臣にしてくれと頼んでいるのだからわかっているつもりなのですが、イエス様からすれば、この嘆願は神の国のなんたるやを知らない、的外れなものだということになるのです。神の国とは支配する者とされる者が二分している国ではなく、構成員がお互いに仕え合う関係にある国であるということは先ほど申し上げました。

「私が飲む杯を飲むことができるか」というのは、イエス様が受けることになる受難をお前たちも味わうことができるかという意味です。二人の若者は「できます」と答えます。立派な覚悟ですが、おそらく大臣になれるなら、たとえ火の中水の中という意気込みだったのでしょう。ここでイエス様は、そう、確かにお前たちは私の杯を飲むことになる、と預言します。これで二人の運命は決せられてしまいました。というのは、ヤコブは使徒言行録12章2節に記されているように、ヘロデ・アグリッパ1世によって殺害されてしまうからです。兄弟のヨハネについては不明ですが、おそらく安逸な人生ではなかったでしょう。

このようにイエス様の預言は二人の若者の運命を確定してしまったので、それは少し残酷なものに思えます。しかし、ここで注意しなければならないのは、この預言は二人の若者を何か不幸に定めたということではないのです。キリスト信仰者に対する迫害は、イエス・キリストの名とその福音を宣べ伝える時に起こりました。ヤコブはその宣べ伝えが命を伴う危険があると知っていたでしょう。また、かつて主に「お前は私の杯を飲むことになる」と言われていたことを覚えていたでしょう。もはや主は地上にはおられず、主の御名と福音を宣べ伝えれば、大臣になれるどころか、命を危険にさらすことにさえなる。ヤコブはそれを知っている。それなのに宣べ伝えをやめなかった。どうしてでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の国がどんな国であるか本当にわかり、それまで大臣などと言っていたことが全く意味を失ったからでした。イエス様の十字架の死と死からの復活から本当に大切なものが自分に与えられたとわかり、それを出来るだけ多くの人に伝えたい、同じ大切なものを他の人たちにも受け取ってもらいたい、そういう思いで生きるようになったためでした。その大切なものがあまりにも大きくて、目の前にある脅しや恐怖が小さくみえてしまうほどだったのです。イエス様が二人の若者に「お前たちは私の杯を飲むことになる」と言ったのは、実に「お前たちはそれくらい大きな大切なものを受けることになるので、受難の杯を飲むことが出来るのだ」と言っているのであります。3

それでは、イエス様の死と復活から与えられた大切なものがなんであるかについて見てみましょう。それは、人間が自分を造られた神との結びつきを回復できたということ、そしてその結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるようになり、順境の時も逆境の時も自分の造り主である神から守りと良い導きを得られて歩めるようになったということ。万が一この世から死ぬことになっても、その時は造り主である神が手をとって御許に引き寄せてくれ、永遠に造り主である神のもとにいられるようになったこと、であります。どうして、そのような造り主との結びつきが失われていたかと言うと、創世記の初めにありますように、最初は良いものとして造られた人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったからでした。そこで人間は死ぬ存在となり、神との結びつきは失われてしまいました。ところが、神はこの不幸な状態をなんとか変えようとして、それでひとり子をこの世に送り、人間の罪から来る罰を全て彼に背負わせて人間の身代わりとして十字架の上で死なせて、この彼の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。人間は、このひとり子イエス様をまさに自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができるのであります。これが、イエス様の死と復活から与えられた大切なものであります。

ところで、ヤコブとヨハネに起きたのと同じことがペテロにも起きました。ヨハネ21章18~19節で復活された主はペトロが将来どのような最後を遂げるかを預言します。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」これを言われたペテロ本人は、この主の言葉を生涯覚えていたでしょう。しかし、彼は全く怯むことなくイエス・キリストの名と福音を宣べ伝えていったのです。彼も、イエス様の十字架の死と死からの復活から大切なものを与えられたとわかった一人でした。この大切なものについて、私たちは、まだ知らない人に対しては明らかにし、既に知っている人に対しては忘れてしまわないように支え合ってまいりましょう。

 

3.神の国というのは、天の国、天国とも言い換えられます。天国と言うと誤解が生じると思います。一般には、天国と聞くとなにか、人が死んだ後で羽が生えたようになって空高く飛んで行って、何か安住の場所があって、「天国から私たちを見守ってくれている」などとよく言います。時々、仏教関係の人でもそのような言い方をする人がいて驚かされます。どうして、極楽浄土と言わないのだろうか、しかもまだ三十三回忌も済んでいないのに、と。しかし、この点はキリスト教徒も同じです。あれ、まだ主の再臨もなく復活も起きていないのに、もう天国にいるのか、と思ってしまいます。4

聖書が明らかにしている天国、神の国とは、今ある天と地が過ぎ去って新しい天と地にとってかわられるという、今のこの世が終わる時に目に見える形で現れるものです(ヘブライ12章26~29節)。その時、イエス様が再臨し、死んだ者が復活させられ、その時点で生きている者と併せて、神を信じその意思に忠実であった者が迎え入れられるところです。誰が迎え入れられて迎え入れないかという時に、最後の審判というものが起こるのです。迎え入れられた者は、自分を造られた造り主である神の御許に永遠にとどまることになります。そこは、悲しみも嘆きも労苦もなく死もないところです(黙示録21章4節)。神の国が結婚式の盛大な祝宴にたとえられるのは(同19章7~9節)、今の世での信仰の戦いの労苦が何十何百倍にもなって労われるということであり、神が全ての涙を拭い去るというのは(同21章4節)、今の世で被ってしまった不正や不正義が最終的に完璧に清算され晴らされるということです。

 そうなると、人は死んだ後は復活の日まではどこで何をしているのか、という疑問がおこります。このことについては、私は説教の場でルターの教えに基づいて教えたことがあります(2013年11月17日市ヶ谷教会)。ごく簡単に言うと、人は死んだ後は復活の日までは、神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、ということです。たとえ、この世の時間の尺度から見て500年眠っていることになっても、眠りに入った本人にしてみれば、ほんの一瞬にしかすぎないということです。瞬きした瞬間に、あれ、いつの間に寝ていたんだろう、としか思えない間隔で、目を開けた瞬間もう復活の壮大なドラマが始まっているというものです。

 しかしながら、神の国の一員になれるのは、主の再臨の日、復活の日まで待たねばならないということではありません。イエス様を自分の救い主と信じてこの世の人生を歩むようになった段階で、その人は神の国の一員となっています。復活の日にそれが見える形になるのです。今は見えませんが、天の父なるみ神の目には見えています。たとえ、人生の歩みの中で出てくる困難、苦難のために、神は自分のことを忘れてしまったのか、背を向けられてしまったのかと疑うことがあっても、イエス様を救い主と信じ、そのイエス様を自分のために送って下さった自分の造り主である神を信頼して歩む限り、その人が神の国の一員であることになんの揺らぎもありません。そのような時でも、否、そのような時こそ、神はしっかり見守っていて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 今この世にあって私たちは見えない形で神の国の一員であるのですが、その一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられました。洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、誰も完全な人にはなれません。それで、仕え合うということが大事なのです。今この世で見えない形で神の国の一員である私たちが仕え合うということについて、ルターが次のように教えていますので。それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「キリスト信仰者にとって、この世の人生は、信仰と愛と十字架の人生である。しかしながら、この三つのものは、この世の人生の間に完全なものになることは決してない。これらのものが完全になっているのは、キリストにしかない。キリストは、我々が目指して進んでいくために、我々の目の前に備え付けられた太陽である。我々の中には、弱い者もいれば強い者もいる。弱い者は苦しみを受けることがほとんどない。なぜなら、神はその者が耐えられないことを知っているからである。強い者は苦しみを多く受ける。なぜなら、神は、その者が耐えられると知っているからである。

 我々は全てキリストを目指し、キリストに倣う者でなければならない。この世の人生とは言わば、信仰がひとつの段階から次の段階へ、愛もひとつの段階から次の段階へ、忍耐も十字架もひとつの段階から次の段階へと絶えず進んでいく旅路のようなものである。人生において、出来上がった義は存在しない。あるのは、義に「なっていく」ということである。我々はまだ目的地に到達していないのである。まだ旅路の途上なのである。ある者は先にいて、別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが、ただ我々が歩む意思を捨てずに進んでいれば、神は満足したもう。そして、主が自ら決められた日に再臨される時、彼は我々の信仰と愛のまだ欠けているところを一気に満たし、瞬く間に我々をこの世から永遠の命、復活の命に移しかえて下さる。

 ところで、この世の人生を歩んでいる間は、我々はいつも、お互いの重荷を背負い合っていかなければならない。ちょうど、キリストが我々の重荷を背負って下さったように。我々の誰一人として完全な者はいない以上、なおさら背負い合う必要があるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


1 例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩篇があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます。

2 マタイ20章26、27節のギリシャ語の表現「お前たちの間ではεν υμιν」「お前たちの仕える者υμων διακονος」「お前たちの僕υμων δουλος」に注意すること。

3 ギリシャ語の「飲むことになる」という未来形πιεσθεは、「飲むことが出来る」という可能の意味も持ちます。

4 まだ復活が起きていないのに、神の御許に引き上げられた者として、創世記5章に登場するエノクと列王記上下に登場するエリアが挙げられます。モーセは「死んだ」ことになっていますが(出エジプト記34章5節)、葬ったのは神自身なため(同6節)、誰もモーセの死については確かなことが言えない状況があります。マルコ9章などでイエス様の姿が変わった時に現れたのがエリアとモーセだったというのは、それに何か関係しているのではと思われます。

四旬節第二主日の聖書日課 創世記12章1-8節、ローマ4章1-12節、マタイによる福音書20章17-28節 

説教「神の御言葉のみが悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章1-11節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.古いキリスト教会の伝統として紀元後300年頃には、復活祭の前に主日を除いて40日間断食することが行われるようになっていました。その40日間を日本語で四旬節と呼びます。本年は、4月20日が復活祭に定められているので、主日を除いた40日間はこの間の水曜日3月5日に始まり、教会歴ではこれを「灰の水曜日」と呼びますが、本主日はこの40日の期間の最初の主日にあたります。どうして40日間の断食かというと、本日の福音書の箇所でイエス様が荒野で40日間何も食べなかったという出来事が背景にあります。そもそも、イエス様の生涯というものは、人間の救いのために受けられた十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して、こうした主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのであります。

四旬節は、英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉Lenctenに由来するそうですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国ですから、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりません。「断食」と言っても、名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、救いを確実なものにするとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。

 

2.イエス様の荒野での試練について、本日の福音書であるマタイの他に、ルカ、マルコ福音書にも同じ出来事の記述があります。三つを比べて読んでみると記述がそれぞれ異なっていることに気づかされます。マルコ福音書ではたった二節ですが、ルカとマタイ福音書はもっと詳細にわたっています。荒野の試練の時は、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語って聞かせたものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載され、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。

それでは、イエス様は悪魔からどんな誘惑を受けたか、そして、それらをどのようにして撃退したのか、そのことを本日の福音書の箇所であるマタイ4章を中心にして見てみましょう。

2節「そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」これは、40日間空腹を感じなかったが、41日目に急にお腹が空きはじめたということではありません。40日間次第に空腹が増しつつもまだ耐えられていたが、41日目にはそれがついに耐えられない位のものになったというふうに理解すべきでしょう。まさにこの時に悪魔が三つの大きな誘惑をしかけてきました。

三つの誘惑のうち、最初の二つのものは共通していて、悪魔は「お前が神の子なら、何々してみろ」という言葉で誘惑を始めます。ところで、最初の誘惑「お前が神の子なら、この石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、二つ目の「お前が神の子なら、このエルサレムの神殿の上からまっさかさまに切り落ちるキルドン谷に身を投げて天使に助けさせてみろ」というのは、一見それほど「誘惑」には見えません。もし、イエス様がパンを石に変えて空腹の難を逃れたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらえれば、それはそれでイエス様が神の子であることを悪魔に示すチャンスになります。しかし、イエス様は、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選びました。どうしてでしょうか?それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力と存在を見せつけることができたでしょうが、その瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意志の下に服することになるからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。一見神の子であることを見せてくれ、と言いつつ、実は自分の言う通りにするように仕向けていくという、巧妙な罠だったのです。イエス様は、あえて空腹と恐怖の方を選びました。

最後の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というあからさまの誘惑です。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、私たち人間の救いにとって特に重要な意味を持ちます。なぜなら、イエス様は、この荒野の試練の直前、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、かつ神の子であるとの認証を神から受けたのです(マタイ3章13-17節)。もし、その神の子が悪魔にひれ伏していたならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはならなかったのであります。それゆえ、たとえ万物が悪魔の下に服する事態が生じようとも、それを超える神が厳然とおられるのであります。私たちは、どのような状況に置かれても、そのような神に結びついていることを忘れないようにしましょう。

 

3.次に、イエス様はいかにしてこれらの悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は旧約聖書の神の御言葉を武器に用います。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく、経験に裏付けられた真実の言葉なのであります。悪魔が空腹の満たしのような人間の最も根本的な必要に訴えて人間を自分の言いなりにしようとする時、この申命記の言葉を突きつけることで悪魔に次のように反論することになります。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全ては神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の御言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」

次に二つ目の誘惑、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令します。悪魔は今度は巧妙にも聖書の御言葉を用います。それは詩編91篇11~12節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから、飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなったとき、指導者モーセに不平を言い始め、神にすぐ水を出すよう要求した出来事です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満と至急の解決要求をぶつけました。何度も神の奇跡的な救いの業を自分たちの目で見てきているのに、困難の度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう神とは見なさない、エジプトに帰ってやる、と言わんばかりで、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すことばかりを繰り返しました。申命記の中で、もうすぐシナイ半島の荒野から約束のカナンの地に移動するという時、神は40年の出来事を振り返って、そのように「神を試してはならない」と命じるのです。

それでは、人は苦難や困難に遭遇したらどうすればよいのでしょうか?神に助けを求める時、それが神を試すことにならない求め方とはどのようなものでしょうか?それはもう、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、その与えられた解決を最上の解決として受け取りなさい、それくらい神を信頼しなさい、ということにつきます。悪魔に対して申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への絶大な信頼を示すものです。実を言うと、このイエス様の神への絶大な信頼こそは、悪魔が誘惑用に使用した詩篇91篇の全体の趣旨だったのです。91篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2~3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は詩篇91篇全体に貫かれている神への深い信頼という主旋律から切り離して、同篇の真ん中辺だけをちょこっと取り出してイエス様にぶつけたわけです。しかし、そんな文脈から切り離した引用など、何の重みも意味もありません。このようなやり口は悪魔だけに限りません。キリスト信仰をあらぬ方向に持っていこうとする輩もみな、聖書の御言葉を全体から切り離してひけらかすのに長けていますので、皆さん、御言葉を広くかつ深く学ぶことを絶やさないようにしましょう。

三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の奴隷になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神を天と地と人間の造り主として、人間に命と人生を与えた創造主として仰ぐことです。そして、目の前で神の力が働くのを目の当たりにする時も、また目に見えて働いてはいないように見える時も、神は変わることなく全てに優る力を持つお方だ、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と神を敬うことです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば、神は恐怖の的以外の何ものでもありません。そこから逃避しなければならない存在です。しかし、神としっかり結ばれている者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れを抱かせるものから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神との結びつきの中に生きる者にとって神は恐怖の的でも逃避の相手でもなく、安心の源、とどまる場所なのであります。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持・拡大できたとしても、神と敵対していれば、死んだ後は自分の造り主のもとに戻ることは出来きず、滅びと災いの世界に投げ込まれてしまいます。そこには権力も富も持っていくことはできません。全ての人はみな丸裸でこの世から次の世に移行するのです。しかし神との結びつきの中に生きる者は、死んだ後は永遠に造り主である神のもとに戻ることができます。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源自体にいることができるのであります。このように神を畏れるということは、神と結びついたまま今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということなのです。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか?そんなもののために神との結びつきを捨ててみろ、などとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか?

 

4.以上のように、イエス様は聖書の神の御言葉を武器にして、悪魔の誘惑を無力にしました。私たちは、そのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受け、イエス様に結びつけられているので、イエス様の勝利に私たちも結びついているのです。イエス様のもとにとどまる限り、私たちも、悪魔の誘惑を無力にする力に与っているのであります。しかしながら、私たちが洗礼によって神の義を頭から被せられたと言っても、悪魔は、私たちの内部に肉に結びつく古い人が残存していることを知っています。それで、私たちへの攻撃の手を緩めません。悪魔はなぜ私たちを攻撃するのでしょうか?

最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となり、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生まれてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにするために人間救済計画を立て、ひとり子をこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。人間の罪と不従順の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて、人間の罪と不従順を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を私たちのために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることができます。そして、この世の人生において、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと良い導きを受けられ、万が一この世から死んでも、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

このように神は、御自身と人間の間の壊れた関係を修復するために御自分のひとり子さえも惜しみませんでした。しかし、悪魔にはそれが我慢ならないのです。せっかく堕罪の時に壊すのに成功した関係を修復するなんてとんでもない。なんとしてでも壊れたままにしてやりたい、と思うのです。しかし悪魔にとって、神は無敵な存在なので手の出しようがない。それで弱い存在である人間を苦しめてやろうというのです。このこと自体、悪魔が神に負けている存在であることを示すものですが、攻撃を受ける私たちとしてはどうすればよいのか?それは、本説教においてみてきましたように、イエス様が武器に用いた神の御言葉を思い出し、そこで教えられていることをしっかり心に留め、守っていくことです。つまり、私たちの必要を満たして下さる一番の大元は天の父なるみ神であることを忘れず、自分を造ってくれた以上、神は最後まで自分の名誉にかけて守って下さると信頼し、神の力を疑ったりせず、神を試すようなことはしないようにしましょう。そして、神との結びつきの中にいる限り、今歩んでいる人生の道は今の世と次の世にまたがっていることをいつも覚えていましょう。

このように聖書の神の御言葉には悪魔の誘惑を無力にし、その攻撃を撃退する力があります。イエス様が取り上げた御言葉は旧約聖書からですが、私たちの場合、新約聖書もあるので、私たちの最強の武器庫は一挙に拡大したわけです。ルターも、聖書の御言葉が悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器であると述べていますので、それを引用して本説教の締めとしたいと思います。

 

「試練や誘惑など信仰を弱めようとするものに遭遇したら、どんな手段をもってそれらに対抗していったらよいのか?そういう時には、神の御心に反する考えを、全力を絞ってかなぐりすてることである。神の御心に反すると考えとは、神は私の罪を赦そうとなさらないのだろう、とか、神が私をこの困難から助け出さないのは、神が私に反感を抱いているからなのだろう、私を愛していないからなのだろう、終わりそうもないこの苦難がその証拠だ、罪の赦しの救いは私には関係なかったのだ、などという考えである。こうした考えをかなぐり捨てることが出来るためには、一生懸命に聖書の神の御言葉に耳を傾けかつ読み進めていかなければならない。ところが、もし君が神の御言葉に目をつむり、人間的な手助けや力に拠り頼んで自分を守ろうとするなら、君は悪魔という強力な霊を相手に無謀な戦いに丸裸で臨むことになろう。それゆえ、神の御心に反する考えをかなぐり捨てよ。そして、悪魔と議論しないように注意せよ。なぜなら、悪魔は場合によっては、純白の天使を装ったり、キリストの麗しい人格を身に纏って現れるかもしれないからだ。

神聖な聖書に何が書いてあるのか知っている悪魔は、キリストや信仰に反対するために、時としてキリストの美しい言葉を自ら用いるようなこともする。このように悪魔に泣き所を突かれた時、君は直ちに悪魔の攻撃に対して自分でどう対処したらよいかなどと考えを巡らすことを止めて、悪魔に次のように言うべきである。『私は、父なる神がお与えになり、私の罪のために死ぬ苦しみをお受けになったあの方以外にはキリストなる者は知らない。彼は私に怒りを抱いておらず、私に対して憐れみ深く恵み深いということを、私は知っている。もしそうでなければ、彼は私の身代わりとなって私のために死ぬ苦しみをお受けになることは決してなさらなかったであろう。』

もし、このような言い返しをもって悪魔に対抗することを怠ったり、また聖書を一生懸命読むことをしないならば、我々が敗者となって絶望に追い込まれるのは火を見るより明らかである。我々は、聖書の神の御言葉で自らを強化しない限り、悪魔の思い通りにさせてしまうことになってしまう。そうなれば、我々のか細い信仰の光はすぐかき消されてしまうであろう。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

四旬節第一主日の聖書日課 創世記2章15-17節、3章1-7節、ローマ3章21-31節、マタイによる福音書4章1-11節

説教「輝く御顔のイエス」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書17章1節~9節

 

今日の礼拝は、変容主日礼拝であります。

2月になってから、山上の説教の話が続いていました。

今日の聖書は、突然マタイ17章に飛びまして、主イエス様の御顔が全く変わってしまわれた、出来事であります。

1~2節を見ますと、「六日の後、イエスはペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。」

まずイエス様は、弟子たちの中でもペトロとヤコブとヨハネの、3名だけをつれて、高い山へと登られた。その高い山というのは、どこの山であったか。多分3000メートルのヘルモン山の、中腹での出来事であったろうと、いわれます。 ここで何が起こっているか、ということですが、ここには以前に「弟子たちはイエスの栄光を見るであろう」と約束された、その約束が確かなものとして証しされた、実証された、そういう出来事です。 もっと言いますと、宇宙的な深い見方から申しますと、ここで、天の世界との交わりが啓示された、ということ。 人間の目で見ることのできないような、驚くべき光景が展開されます。 天空の雷雲から一瞬、ピカピカピカと、稲妻の光が輝く、といった程度のものではありません。 外部からの別の光が必要ないほど、地上の自然のあらゆる光りをしのぐような、まばゆい光りの中に、主イエスは立たれた。しかも弟子たちは目の前で空高く、その御姿をあおぎ見たのであります。

今日、私たちの知っている、どんなものよりも高く上げられた、全く新しい形であらわされたのです。 次元のちがう只中に、弟子たちはその光景を見せられているのであります。

マタイ13章43節に約束されている、「彼らは、父の御国で太陽のように輝くであろう」という、その言葉どおりのことが、イエス様の上に起こったのであります。イエス様のこの変貌は、単にイエス様の人格が新しくなった、といったことに、とどまらない。 更に、ここにおいて、旧約聖書の時代にまで、時代がさかのぼって、神に仕えた預言者との、交わりが現れたのであります。

3節を見ますと、「見よ、モーセとエリヤが彼に現れて、イエスと語り合った。」 昔の預言者たちは、今、沈黙して現れたのではなく、主イエス様と生きた交わりを空中の中でもって、イエス様と語り合っているのです。

この光景を弟子たちは、どのように見たのでしょうか。弟子たちの時代よりも何百年よりもはるか、2000年以上も昔のシナイ山で、十戒をいただいたモーセがあらわれている、イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセ、旧約聖書の律法の代表者、と言ってもいいモーセであります。 又、イスラエルの民がメシヤ待望の中で、大預言者とあおいだエリヤも現れている。天の世界が、この世の弟子たちの目の前で、空中高く、交わりが展開されている。そこでは何が語られていたでありましょうか。 それは人間の、どんな知識や知恵でも考えられない光景であります。

考えてみますと、イスラエルの民は、エジプトの奴隷のような苦しみの中から救ってくれたモーセを、崇拝してきました。又、イスラエルの民は、預言者中の大預言者エリヤに、終末に再びあらわれるという、救いの約束を待望してきました。ところが、イエス様に対してイスラエルの民は、崇拝することもしない、待望もしない、イエス様を拒み、ついに十字架につけてしまった。その光景を見ようともしなかった。

それなのに、今、弟子たちが見ているのは、モーセとエリヤが、イエス様の前に語り、自分たちの主とあおいで、ひざまづいているのです。 モーセとエリヤは、イスラエルの民の期待からすれば、天国の基礎をつくるのに、あずかるべき代表者でありました、

旧約聖書のいちばん最後、マキラ書3章23節を見ますと、「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マキラの約束のゆえに、イスラエルの民がエリヤを待望したのです。 又、申命記18章15節を見ますと「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」とありまして、主はモーセを立てられたのでした。 そうして、この偉大な信仰に生きた2人は、その最後が秘儀に満ちています。

モーセはひとり山の上で、神のみそば近くに死んだ。 それで人々は、しばしば「神はモーセを天に取り去った。」と言った。 又エリヤはどうであったかといいますと、嵐の中に御使いによって、火の車に乗って天空高く引き上げられた。この2人の人生最後の姿は、なんという神秘に満ちたものではありませんか。 神秘に満ちて天に引き取られた2人、モーセとエリヤが空中で今、イエス様と出合っている、というのであります。

3人の弟子は喜びに満たされました。 ペテロは、イエス様がこのような光景に出会うことができたことを、どんなに感謝したでしょう。ペテロは何とか、この喜びを行動で示そうと思ったのでしょう。そして、熱心にイエス様の奉仕を、申し出たのでありました。

4節を見ますと「ペテロはイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ここで小屋を建てましょう、とペテロが言っています。 小屋というのは太陽の暑さや、夜露から守るための小屋でしょう。 ペテロはとっさに、この瞬間、この光景を、このままずっとありたいと願って、小屋を建てましょう、と言ってしまった。 せめて、今しばらくの間、すばらしい光景のままであってほしい、と願ってのことでしょう。

ペテロが語っているうちに、見よ!、そこに、光り輝く雲が彼らをおおった。 すると見よ!、雲から声があった。 「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」 弟子たちは、これを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。

光り輝く雲が、イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を、おおいかくしてしまった。「光り輝く雲」はかつて、モーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の、神のしるしでありました。(出エジプト記13章21節) 更に、神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声でありました。

イエス様がヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も、「これはわたしの、み心にかなう、愛する子である」という御声が、天からあった(マタイによる福音書3章17節)。 イエス様は、これから御自分の人生の方向を、十字架へと向けられる決心をされて、再び天からの御声を受けられた。 このことは、イエス様の心の内に、天の神の御心と一つにされた精霊が、ここに啓示されている。神の栄光がイエス様の体に、はっきりと現わされた。

空中での「イエスの変貌」の、この御姿は、まさに十字架の死からよみがえられた御姿を、あらかじめ、3人の弟子たちに示されている出来事であります。 弟子たちは、神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖におそわれたのであります。イエス様が弟子たちに「立ち上がりなさい。恐れるな」と、立ち上がらせて下さるまで、顔を地面に伏してかくした。 今やイエス様は再び、僕の姿をとって弟子たちと共におられた。

こうして彼らは、いかに高く、イエス様が彼らの上にそびえ立っているか、ということを、心に深くふかく刻んで、経験したのでした。 主なるイエス様にとっては、神が近くにいますことは、平和の喜びであります。 そして弟子たちは、深い動揺なしには、それに耐えられなかったでしょう。

イエス様と弟子たちは、この山上での変貌という出来事を目撃して、いかに身近に神の栄光があるか、ということを経験したのであります。 天の神との確信をもって、いよいよ、主はエルサレムの十字架への道へと向かっていかれることになります。 この時まだ、弟子たちには、そのことのすべてを理解していたわけではありません。モーセとエリヤの中に立たされたイエス様、ゴルゴタの丘では2人の犯罪人の間に立って、罪のすべてを負って十字架の死をとげられる。そこには栄光のイエス様の姿は何一つないのであります。しかし、私たちは、よみがえられた栄光の中にあるイエス様を、しっかりと心に信じて、栄光の主といつも共にありたいものであります。 アーメン・ハレルヤ。

 

 変容主日  2014年3月2(日)

説教「まず神の国と神の義を求めよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書6章24~34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.先々週、先週に引き続き、本日の福音書の箇所もイエス様の「山上の説教」のところです。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章にかけて続く長い説教です。この説教が終わった時、聞いていた群衆は驚嘆したと書いてあります(28節)。なぜなら、天地創造の神の意思についてイエス様が教えた時、それは律法学者のように教えたのではなく、まさに神から権威を授かった者として教えたことが誰の目にも明らかだったからであります(29節)。本日も、そのような天の父なるみ神の権威に満ちたイエス様の教えに耳を傾けてまいりましょう。

 本日の福音書の箇所は、山上の説教のほぼ真ん中にある6章の終わりの部分です。この6章というのは、人間が自分中心の考え方や生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持てるようになるための教えが沢山あります。本日の副申書の箇所はその教えのそうまとめのようなところです。本日の箇所をよりよくわかるために、6章全体を足早にみてみましょう。

はじめに、1節から6節にかけて、慈善をするときとお祈りするときは、他人に見られないようにしなさいと教えます。少し飛んで16~18節では、断食するときにも他人に見られないようにしなさいと教えます。これらは、神の御心に適う行いであるが、もしそれらを他人に褒められたり、感心されたり、評価されるために行うのならば、それらはもはや神に栄光を帰するものではなくなって、人間が自分に栄光を帰する手段になってしまう。そういう人は他人に見てもらった段階で行いの報いを既に得ているわけであります。天にいます父なるみ神だけに見てもらえれば後は誰にも知られなくてもいいという人は、善い行いの報いを神からいただけるのです。

慈善とお祈りについて教えたところでイエス様は、お祈りの仕方についても教えます(7~13節)。これも人間が自分を中心にして行うお祈りでなく、神を中心にして行うものです。「神様、あれをして下さい、かなえて下さい、与えて下さい、そのためにあれをしますから、これをしますから」と長々とおねだりしたり、いろんな条件をつけたりするお祈りは、神を信じる者にふさわしくないと言う。そういうお祈りは、神に拠り頼んでいるように見えても、実は自分を中心にしている。そもそも天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた造り主である神は、祈る人が真に必要としているものを既にご存じである。だから、祈るのなら神を中心に据える祈りをしなさい、ということでイエス様は「主の祈り」を教えるのです。本日の礼拝でも後ほど、この祈りを一緒にいたしましょう。

祈りについて教えた後で、今度は、赦すことについての教えがあります(14~15節)。これは「主の祈り」の中にある一つの課題を少し詳しく教えるものです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じる人は、まさに信じることで罪と不従順を神から赦されて、神との結びつきを回復した者となれた。そうして、この世の人生では神から守りと良い導きを絶えず順境の時も逆境の時も得られるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主である神のもとにいることができるようになる。あなたが、このようなとてつもない大きな恩恵を神から受けているとわかったならば、他人があなたにした過失をも赦してあげることができなければならない、という教えです。これも、自分中心の考え方から離れて神中心の考え方を持って生きなさいという教えです

これらの教えの後で、19節から21節までの「地上に積む富、天に積む富」の教えがきます。人間が自分を中心にして積み重ねたものは、名声にせよ、金銭的なものにせよ、永遠に保たれることはない、遅かれ早かれ朽ち果ててしまうものだ。しかし、神を中心に据えて考えたり行ったりして積み重ねたものは、たとえ名声を博さなくても、金銭的にたいしたものでなくても、朽ちることなく、永遠の輝きを持つものである、と教えます。

それ続く22・23節に、「目は体のともし火」というたとえの教えが来ます。これはちょっとわかりにくいたとえかもしれません。「目が澄んでいる、濁っている」と言うと、何か視力の良し悪しを言っているように聞こえます。ギリシャ語のハプルースαπλουςという語が下地にありますが、「単純な、素直な」という意味があります。この意味をあてはめるとたとえがわかりにくくなるので、通常は目が「澄んでいる」とか目が「健康である」と訳されます。しかし、6章のはじめから続いている教え、「人間の自己中心の考え方、生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持ちなさい」という教えからみると、「単純、素直」の意味でも問題ありません。つまり、「目が素直」というのは、目が単純かつ素直に神に向いているということで、神を中心に据えた考えがあり、生き方をしているということであります。それに反して、「目が濁っている、目が悪い」というのは、自己中心の考え、生き方をしているということであります。このたとえで大事なことは、目が単純かつ素直に神に向いているとき、その人の体全体が輝くということです。つまり、たとえ、病気を患っていても、貧しい境遇にあっても、神を中心に据えて考え生きる人は、その存在そのものが輝くということであります。これとは逆に、目が神に向いていず、自分にしか向いていなければ、どんなに健康でも、裕福な境遇にいても、その人の存在は暗闇同然ということなのであります。

以上、マタイ福音書の6章1節から23節まで、神を中心に据えた考え方や生き方についての教えが沢山つまっていることを見てきました。これらの後で、本日の箇所である24節から34節までが来るのです。先ほども申しましたように、それは、神中心の考え方や生き方の教えの総仕上げです。まず、24節に神と富の双方に仕えることはできないという教えがきます。その次の25節から32節までのところで、生活の必要物に心を奪われるなという教えが続きます。そして33・34節で、「まず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば、天の父なるみ神は生活に必要なものも与えて下さる。明日や将来どうなるかは、その時になって神がどんな道を示して下さるのかがわかるから、今の時点では明日将来のことを思い悩む必要はない。今の時点では、この今の時点にある務めを一生懸命果たしなさい」という教えで終わりとなります。「神の国と神の義を求めれば、必要なものは全て与えられる」というのは、ちょっと信じがたいことです。誰もが必要なものを手に入れるためにあくせくしているのに、それが、神の国と神の義を求めれば、神から与えられるというのです。一体どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?以下、そのことを見てみましょう。

 

2.まず、24節で、イエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけであります。イエス様は、人間の神ないし富に対する関係も同じだと教えるわけであります。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのであります。

 もちろん、人間が富の奴隷にではなく、主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、例えば君が衣服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに衣服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに、治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」

 しかし、もし財産や所有することが人を束縛してその虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないのであります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは、神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えるのです。そして、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。「だから、言っておく」というのは、ギリシャ語では「それゆえ(δια τουτο)、お前たちに言っておく」、つまり、「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。それゆえ、お前たちは、神に仕える者である以上は、何を食べようか云々と思い悩んではならない」ということなのです。食べる物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、ということなのであります。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。

 ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納められている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。

 それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのであります。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスで「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」となります。1つまり、ここは、「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。

 

3.イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出した等々の業にあらわれています。つまり、神の国とは、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた空間ないし領域です。今は私たちの目には見えませんが、将来今の世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、「ヘブライ人への手紙」12章26・28節に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、人々に前もって神の国というものを少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まりました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならない。神の意思を100%実現できる者でなければならない。つまり、神の義を体現していなければならないのです。そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。

神は、この惨めな人間が神の国の中に入れるようにしました。どのようにしてかというと、まずひとり子のイエス様をこの世に送られた。そして、神への不従順と罪の汚れにまみれた人間が本来受けるべき裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪と不従順は赦すことにしたのであります。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えられた罪の赦しの救いを受け取ることができるようになったのです。こうして、私たちはまだ罪の汚れを残しているにもかかわらず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しを得て神の国に入ることが可能となったのです。神は、私たちの汚点には目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さをみられるのです。このような仕方で、私たちは神の義を体現することができるようになったのです。こうして、私たちは今、イエス様を救い主と信じる信仰によって、今は目に見えない神の国の中にすでに迎え入れられ、神からの守りと良い導きを得ながらこの世の人生を歩み進んでいます。そして、今の世が終わる日には、神の国の一員であることが目に見える形で現れます。

以上から、「神の国と神の義を求める」というのは、実に、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、その信仰にしっかり留まることであることが明らかになりました。「山上の説教」を最初に聞いた人たちは、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかわからず、途方にくれたでしょう。しかし、イエス様の十字架と復活の後は、何を意味するかがはっきりわかるようになったのであります。イエス様は、言うならば、御自分の死と復活を行うことを通して、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかを明らかにしたのであります。

私たち人間が神の義を得られて、神の国に迎え入れられるようにしようと、神がイエス様を犠牲にしてまで実現して下さった救い、私たちがこの救いを思い起こし、神から受けている恵みのあまりにも大きいことを思い知った時、それまで自分を押し潰すかのように圧倒していた心配事や思い悩みは急にしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。また、無関心を決め込むことでもありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。ただ、自分が神からどれだけの恵みを受けているかがわかった時に初めて、心配事は自分を圧倒する力を失い、冷静に向き合って取り組めるものに変わるのです。その時、神こそが本当に全身全霊をもって信頼するに値する方だとわかり、心配事を全て打ち明けて委ね、神からの解決と助けを安心して忍耐して待つことができるのです。逆に、救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処するのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、それに向き合わなければなりません。それだからこそ、出来るだけ多くの人が、イエス・キリストの救いの福音を聞くことができるように、そして、その救いを受け入れることができるようにと願ってやみません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

1 動詞が現在形であることに注意

 


主日礼拝説教 顕現節第八主日
2014年2月23日の聖書日課  イザヤ書49章13-18節、第一コリント4章1~13節、マタイ6章24~34節


説教「『汝の敵を愛せよ』とは、一体どんな愛なのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、 マタイによる福音書5章38~48節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.先週の主日に続いて、今週もイエス様の山上の説教が続きます。先週申し上げましたように、イエス様はこの説教で十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解について教えます。十戒や律法を正しく理解するとは、それらを与えられた方の意思を正しく理解すること、つまり天と地と人間を造られて私たちに命と人生を与えられた父なるみ神の意思を正しく理解することです。イエス様は、人々が十戒も律法も神の意思も正しく理解していないことを知っていました。それで、教える際にはいつも、「かつて次のような掟が与えられて、それについてこう言われてきたが、私は次のように言う」と前置きを述べて、正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父であるみ神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

イエス様はそのようなことを教えてはいません。それでは何を教えようとしているのか?以下、それを明らかにしてまいりましょう。

「目には目を、歯には歯を」という掟は、出エジプト記21章22~25節やレビ記24章17~20節に出てきますが、申命記19章16~21節にはどうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰になった時、一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、その嘘つきが嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ状態を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力として始まったこの掟は、反対の結果をもたらしてきました。それは、損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。そうなると、収拾がつかなくなることが沢山でてきます。例えば、子供が取っ組み合い掴み合いのケンカを始めたとします。間に入って止めた大人が、何が原因なのかと聞くと、A君は、B君がぶったから仕返ししたと言います。B君になぜぶったのと聞くと、A君が気にさわることを言ったからと言う。それにそんなに強くぶってないのにA君は強くぶち返したと付け加えます。それに対してA君は、強くぶち返したのはB君の方だ、だから自分も強く仕返しした、というふうになっていきます。子供のケンカでなくても、仕返しをする時はたいてい受けたダメージ以上のダメージを与えようとするのが常でしょう。受けた以下のものでは仕返しをしたという気がしないからです。

そういうわけで、イエス様の教え「悪人には手向かうな」というのは、実は、「悪を成す者に対して仕返しや報復はするな、悪を成す者と同じ手は使うな」という意味なのであります。悪の好き放題にさせろとか、悪をのさばらせていい、ということではないのです。右の頬を打つ者に対して殴り返すな、ということであります。ギリシャ語では正確には「右の頬を平手で打つ」ですが、これは当時の人たちにとって、公けの場で侮辱することを意味しました。それで、侮辱されても侮辱し返すなという意味になります。また、誰かが法律に訴えて所有物を悪賢く合法的にかすめ取ろうとしても、同じ手口を使って相手から取り上げるな、ということであります。しかし、疑問が生じます。なるほど、悪人には手向かうなというのは、悪人に対して報復するなということを意味するのか、でも、悪に好き放題させるのに変わりはないのではないか、悪をのさばらせることになってしまうのではないか、と。

ここでイエス様の教えをもう少し詳しく見てみましょう。イエス様は、右の頬を打たれたら打ち返してはいけないとは言いますが、打たれたままでいなさいとも言いません。相手に左の頬をさし出しなさいと言います。また、悪賢く合法的に所有物を取られてしまったら、同じ手口で相手から取り去ってはいけないと言いますが、そのまま取られて泣き寝入りしなさいとも言っていません。下着に対する上着ですから、取られたもの以上のものを相手に取らせなさいと言います。ギリシャ語のニュアンスでは「取らせなさい」というより、相手に「放り出してしまいなさい」がいいと思います。41節の「1ミリオンではなく2ミリオン行く」という話は少しわかりにくいですが、当時の人たちがこれを聞いて思い浮かべるのは、ローマ帝国の兵隊が現地の人を強制的に道案内させたり荷役をさせたりすることです。つまり、占領者が無理矢理1ミリオン(約1、5キロメートル)の距離の荷役労働を課したら、それを屈辱と思わずに命令者について歩き、歩き終わってもそのままもう1ミリオン追加で歩いてしまいなさい、ということです。

こうなると、悪を成す者が最初に目論んだことを上回るものをその者につき返すということになります。突き返された者はどう思うでしょうか?右の頬を打って相手を侮辱することを目論んだ者が、左の頬を突き出されたら、どう思うか?折角こいつを、名誉を傷つけられた悔しさに打ちひしがせてやろうと思ったのに、こいつときたら左頬を出してきやがった。一体何なんだこれは?こいつは自分の名誉にこだわっていないのか?それじゃ、侮辱した甲斐がないじゃないか。また、他人の所有物を悪賢く取り上げた者が、もっと値段のはるものを目の前に放り出されたら、どう思うか?わざわざ手間をかけてかすめ取らなくとも、持って行きたかったらどうぞ持って行って下さい、と突き出されてしまった。一体何なんだこれは?また、1ミリオン荷役労働に服させて占領者の優越感に浸っていたら、こちらは何も言わないのに突然さらにもう1ミリオン歩き出されてしまった。何なんだこれは?このように、最初の目論みを上回るものを突き返されると、最初の目論みが何だかちゃちなものに見えてしまいます。これは、悪を成す者の面目を失わせることになります。

42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。これは、これまで教えてきた「悪を成す者に仕返しや報復をしてはならない、悪を成す者と同じ手を使ってはならない」ということと結びつきがないようにみえます。しかし、結びついています。この「求める者には与えなさい」という掟は、申命記15章7節がもとになっています。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」つまり、あなたに求める者、借りようとする者は貧しい者である、だからあなたは貸し与えなさい、ということですが、あなたを侮辱しようとする者、所有物を取り上げようとする者、強制しようとする者、これらの者も基本的には貧しい者である。だから、侮辱される者、取り上げられる者、強制される者は貧しくない者なのだから、貧しい者に対しては貸し与える態度で臨まなければならないということなのであります。

そういうわけで、侮辱する者、取り上げる者、強制する者に対して仕返しや報復をしない、同じ手を使わないでいる時、侮辱される者、取り上げられる者、強制される者はする者に対して一段高い立場に立つことになります。一見すると侮辱した方が高く、侮辱された方が低く見えますが、本当は侮辱する方が貧しく、される方は貧しくないので、こちらが高いのであります。力関係の高い低いは、道徳的には逆転するということであります。

イエス様が教えることは、道徳的に崇高なものを目指す人にとって受け入れられますが、たいていの人は尻込みするでしょう。崇高な道徳は素晴らしいと思うが、自分は名誉や所有物を犠牲にしてまでそれを実現させる器ではない。誰か立派な人がやってくれればいいと思うのではないでしょうか?しかし、イエス様は、立派かどうかに関係なく、こうしなければならないと教えられる。それはちょっと無理ですよ、イエス様、と思われる方はイエス様の次の教えを見ていくといいと思います。

 

2.43節と44節。あなたたちは、汝の隣人を愛せよ、汝の敵を憎めよ、と教えられてきたが、私はあなたたちに命じる。あなたたちは敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい。「汝の隣人を愛せよ」という掟はレビ記17章18節にありますが、「汝の敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見られません。掟にないことが、どうして教えられてきたのでしょうか?レビ記で言う愛すべき隣人とはイスラエルの民に属する同胞を指しています。それで、同胞愛としての隣人愛の裏返しとして、敵は憎んでもよいという考え方がユダヤ民族の苦難の歴史と相まって生まれてきたと考えられます。隣人を愛せよという掟は裏を返せば敵を憎めよということだから、これも掟であるというふうになってしまったのでしょう。しかし、イエス様は命じます。敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、と。ここでも、イエス様は私たちに崇高な道徳の実践者になれ、と命じておられるのでしょうか?45節を見るとイエス様の意図がわかってきます。

45節。敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、おまえたちが天の父なるみ神の子となるためである。なぜならば、神は悪人にも善人にもご自分の太陽を昇らせ、神を畏れる者にも神に背を向ける者にも雨を降らせるからである。こう聞くと、なるほど、神は悪人にも、神に背を向ける者にも気前よくしてくれるのか。悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪に留まっていたっていいわけだ、そういう理解がされる危険があります。しかし、イエス様は、悪はしたい放題でいいとか、のさばっていてよいとは教えていません。実は全く逆のことが言われているのです。

どういうことかと言うと、神が悪人にも、神に背を向ける者にも太陽を昇らせ、雨を降らせるというのは、これらの者が神の用意した救いに与れるようにするという意図があるのです。神が用意した救いとは何かと言うと、以下のことです。人間は自分の造り主である神との結びつきがこの世でも次の世でも失われてしまっている、それを神は人間が自分との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことができるようにし、この世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れることができるようにした、これが救いです。どのようにしてこの救いができたかと言うと、人間と神との結びつきが切れた原因は人間に罪と不従順が入り込んで、人間が死ぬ存在になったからですが、神は独り子のイエス様をこの世に送って、人間の罪からくる罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神はこの御子の身代わりの死に免じて人間を赦すことにした。人間はこのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いを受け取ることができ、神との結びつきが回復した者となれる。そうして人間はこの世の人生の歩みでは、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも永遠に自分の造り主のもとにもどれるようになったのであります。

神は、イエス様を用いて実現された救いを善人だけでなく悪人も受け取るように意図しました。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人や神に背を向ける者はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、それは神の意図に対する大きな裏切り行為です。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されるでしょう。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいという意思なのですから、既に結びつきを回復した者はこの神の意思に従って、その実現のために悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、天の父なるみ神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい、という自分のための祈りではありません。父なるみ神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された罪の赦しの救いを受け取ることができるようにして下さい、と悪人や敵のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそれを祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということであります。

先ほど、悪を成す者に仕返しや報復をしてはいけない、悪を成す者と同じ手は使ってはならない、敵を愛さなければならない、というイエス様の教えは崇高な道徳の実践ではないかという疑問を投げかけました。キリスト信仰にあっては、これらのことは崇高な道徳の実践ではありません。それでは何かと言うと、それはただ、父なるみ神の意思に従って生きることそのものであります。ひとり子を犠牲にするのも厭わない位に私たちのことを思ってくれた父なるみ神の意思、日々私たちに良い導きと助けを与えてくれ、たとえこの世から死ぬことになってもすぐ御許に引き寄せてくれる父なるみ神の意思に従って生きることそのものであります。もし、神が用意した救いもなく、イエス様もなくて、これらの教えを実践しようとすれば、それこそ人間の崇高な道徳の実践となり、立派な英雄的な人しか行えなくなります。崇高な道徳の実践とは、人間がこうだと決めた意志の実践です。だから意志の強い人しかできません。しかし、神の意思に従って生きるキリスト信仰者は、自分の意思にかえて神の意思を前面に押し出そうとする者です。もちろん自分の意思と神の意思が衝突することもありますが、それでも神の意思を立てようとする。そういう内的な戦いをする者です。神の意思を立てようとする者にとって、イエス様の教えは当たり前のことなのであります。

 

3.イエス様が山上の説教を行った時、それはまだ彼の十字架の死と死からの復活が起きる前のことでした。まだ、神が罪の赦しの救いを実現する前でした。そのため、説教を聞いた群衆は、悪を成す者に報復をしてはいけないとか、敵を愛せよとか聞いた時、崇高な道徳の実践にしか聞こえなかったでしょう。先週の箇所のイエス様の教え「悪さをされても腹を立てるな」「姦淫の目をもって異性を見るな」、これらも同様だったでしょう。しかし、十字架と復活によって状況が一変したのです。神がイエス様を用いて実現した救いを受け取ることで、これらの教えは、全ての信仰者の心を掴み方向づけるようになったのです。

十字架と復活の出来事の後で、この「悪を成す者に報復をするな」、「敵を愛せよ」というイエス様の教えを、神の意思に従う者の立場から、使徒パウロが大きく取り上げました。「ローマの信徒への手紙」12章17~21節で彼は次のように教えます。

「だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

「せめてあなたがたは」というのは、他の者がキリスト信仰者との平和共存に反対しようとも、信仰者はそれを受けて立つことはせず、一方的になっても平和共存路線を貫きなさいということです。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、不正義の報いと償いは神に任せて、信仰者は以下のことに専念しなさいと言います。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」

善をもって悪に報いてやった敵の頭に燃える炭火を積むとは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が悔い改めない限り、ただただ最後の審判で自分が受ける裁きを自ら確定していくことを意味します。

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に対抗するのに悪をもってすると、悪に頼ったことになり、悪に負けたのである。悪に本当に勝つには善をもって悪に立ち向かうしかないのである。その時、敵は悔い改めるかもしれないし、改めない場合は、あとは神がその者を完全に裁くことになる。どっちにしても、善をもってする場合、悪は打ち負かされる運命にあるのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


主日礼拝説教 2014年2月16日(顕現節第六主日)
聖書日課  レビ記19章17~18節、第1コリント3章10~23節、マタイによる福音書5章38~48節


説教「創造主の視点」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章21-37節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所は、マタイ福音書の5章から7章にかけてある「山上の説教」の一部です。ここでイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法についての正しい理解を群衆に教えます。律法を正しく理解するとは、とりもなおさず、律法を人間に与えた方の意思を正しく理解すること、つまり、天と地と人間を造られ私たちに命と人生を与えられた父なるみ神の意思を正しく理解することです。イエス様は律法や神の意思が正しく理解されていないことを知っていました。それで、山上の説教でイエス様は何度も繰り返してこう言います。「あなたがたも聞いているとおり.....と命じられている。しかし、わたしは言っておく。.....

今まで律法についてこう言われてきたが、本当は次のように理解されねばならない、と教えるのであります。このようにして、山上の説教で、創造主である神の意思が明確にされるのであります。それができたのは、イエス様が父なるみ神のひとり子で、神の視点を持てたからでした。以下、イエス様が明らかにした神の意思をひとつひとつ見ていきましょう。

まず、21~26節。ここでは十戒の第五戒「汝、殺すなかれ」が取り上げられます。「人を殺した者は裁きを受ける」という時の「裁き」とはこの世の司法制度で殺人罪が問われることだけでなく、神からも第五戒を破った者として裁かれることを意味します。人を殺してはならないというのが創造主の意志である。しかし、イエス様は言います。人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く1

者はみな裁きを受けるのだ、と。人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く」ことが具体的な行為に現れると、人を殺してしまうということがあるが2、それだけではない、悪口を言ったり罵ったり中傷したりすることもある3。悪口罵り中傷を言う者も、殺人同様の裁きにかけられて然るべきものなのだ。なぜなら、それらはみな、人に対して「腹を立てる、怒る、憎しみを抱く」ことなのだから。

このようにイエス様は、「汝、殺すなかれ」という神の掟の本当の意味は、「汝、腹を立てるなかれ、怒るなかれ、憎しみを抱くなかれ」であると教えるのであります。神が「殺してはならない」と命じているのは、殺すという外面的な行為のもとになっている内面的な動機を持ってはならないということなのです。悪口罵り中傷は、たとえ殺人のような直接人に手を下してしまう行為と同じレヴェルで扱えないようには見えても、同じ動機から生じてくる以上は同じ裁きを受けて然るべきだというのであります。ここで、悪口罵り中傷が果たして殺人行為と同レヴェルで扱えないかどうかについて。最近のネット上での誹謗や中傷が原因で多くの人が傷ついたり、ひどい場合は自殺に追い込まれたりするニュースに接すると、もはや同レヴェルで扱えないなどとのんきなことは言っていられないところに来てしまったのではないかと思います。イエス様の教えは誇張でも拡大解釈でもなく、神の視点をただ素直に明確にしたものと言えるでしょう。

ところで、人に対して腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたりすることはしても、殺人はもちろんのこと、罵りや中傷のような外面的な行為に出ることもせず、もっぱら、腹を立てる、怒る、憎しみを抱くという内面的な気持ちの動きが中心な場合もあるでしょう。その場合でも、神の視点からすれば、やはり外面的な行為と同じ罪になり、同じ裁きを受けて然るべきものになるのでしょうか?先のイエス様の教えからすると、そうだと言わざるを得ません。そうすると、他人からひどいことをされて、腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたら、それも罪になってしまうのか?実は、これも創造主である神の視点では罪となってしまうのです。そうなると、一体誰が罪を犯さないでいられるのでしょうか?

ここで、今みている問題の最も難しい点について一言触れておきます。それは、他人が犯した悪い行為があまりにも甚だしく、こちらが受けた損害や傷がとても大きい場合はどうなるのか?そういう場合は、相手に腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱くのは当然ではないか、それを罪だと言うのは倒錯していないか、という疑問です。そのような損害や傷を受けた人は、怒りと悲しみ両方がごっちゃになった状態に置かれていると思われます。「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロは、悪に悪で報いてはならない、自分で復讐してはならない、悪を行った者は神の怒りに任せなさいと教えます(17~21節)。また、イザヤ書57章15節では神について次のように言われています。神とは、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」方である、と。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰にあっては、私たちを造られた創造主の神は、怒りをお任せしてよい方であり、また、悲しみをひとつ残らず吐露してよい方であるということを忘れないようにしましょう。

さて、外面的な行為に出さず、内面的な気持ちのレヴェルで神の意思に反するだけでも罪とみなされてしまうのであれば、一体人間の誰が神の目から見て相応しい者なのでしょうか?そんな人は存在しないのではないでしょうか?この疑問を覚えておきながら、先に進んでまいりましょう。

23節から26節までは不和の相手と和解する必要が述べられています。この箇所をよりよく理解するために、上で見てきた「たとえ他人から悪さをされても、腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いてはならない」という神の意思を念頭に置きます。

イエス様は次のように教えます。エルサレムの神殿に供え物を捧げるためにお参りに出かけ、祭壇につく直前に、自分に敵対する者がいることを思い出して、その者に対してムカッとくるものが出てきたとする。その場合、すぐ供え物を置いて、敵対者のところに行って、仲直りをせよ、その後で祭壇に供え物を捧げよ、と。「仲直り」とは、具体的に何をどのようにするかについては言われていません。ギリシャ語の原文で「兄弟に対して和解をせよδιαλλαγηθι τω αδελφω σου」と言っているのですが、これは、和解を実現させよ、とも言えるし、また、実現するかはわからないが、少なくともこちらからは和解の努力をしなさい、とも言えます。どちらを取っても、要は、自分は怒りと憎しみの絡み合いから離脱して、ムカッとした状態でなく、スカッとした状態で供え物を捧げるということです。ここでイエス様は、怒りや憎しみを抱いている者は神の意思に反する罪で汚れているので、供え物の捧げには相応しくないと教えるのであります。いくら外面的に敬虔な宗教行為を行っても、内面的な汚れのゆえに、神聖な神からみて厭わしいものになってしまうのです。

25節では、不和が訴訟に発展してしまった事例について述べられます。「途中で早く和解しなさい」というのは、ギリシャ語原文では「友好的な態度でいなさいισθι ευνοων」ということです。つまり、少なくともこちらからは敵対的な態度は捨てなさい、怒り憎しみは捨てて友好的な態度を示しなさい、ということです。もし、こちらも負けずとばかり怒りを持ち続けて相手との憎しみの絡み合いの中に身を任せていると、これは、神の意思に反した状態に甘んじることになってしまう。そうなると、訴訟の解決も神の祝福を受けられなくなり、惨めな結果になってしまうと警告するのであります。

 27節から32節までは、十戒の第6戒「汝、姦淫するなかれ」についてです。男女の性的な結びつきは、創造主の神が二人を一つに結びつける結婚という枠の中でなされなければならないという掟です。ところがイエス様は教えます。結婚の枠を超えて性的な結びつきを行ってしまう行動には出なくとも、異性をそのような意図を持って眺めたら、それは「心の中で」結婚枠を超えた結びつきをしたことになる、すなわち姦淫したことになると教えるのであります。先ほどの「汝、殺すなかれ」と同じように外面的な行動と内面的な心の有り様が同じレヴェルで扱われます。そもそもなぜ神はこのような掟を定めたかと言うと、性が無秩序化していくことから人間を守ろうとしたからです。それにしても、外面的な行為には至らなくとも、内面的な心の有り様まで神の意思に沿うことが出来るのかと言うと、これも不可能としか言いようがないでしょう。誰もできないなら、神は少し甘くしてくれるかと言うと、してくれません。もし右目が異性を姦淫の意図をもって眺めたら、そんな神の意思に反する罪の汚れた目は取り除いてしまいなさい。そうしないと、一部分の汚れのために体全体が炎の地獄に落とされてしまうことになる。しかし、体の一部分を捨てるなどとは、不可能です。心の有り様まで問われたら、人間には取り除かないで済む部分はなくなってしまいます。ここで、先ほどと同じ疑問が起こります。一体誰が神の意思に沿える者になれるのであろうか?こうなると、人間とは、存在自体が神の意思に反するもの、神に敵対するものではないか?つまり、自分の造り主から見捨てられた存在ではないか?これらの問題にいかなる解決が見出されるかということについては後に譲るとして、先に進みましょう。

離縁状の問題は、その欺瞞性についてイエス様が暴き出します。離縁状を出して正式に離婚すると、夫婦はもう結婚関係にないから、新しい相手と関係を持っても、結婚の枠を破ったことにならない、つまり、姦淫したことにはならない、これが離縁状の制度の趣旨です。しかし、一度神の御前で結びつけられた男女は、神の視点ではずっと結びついたものになっている。そうなると、人間の視点で結びつきはないと言って新しい関係を持ったら、神の視点では姦淫になってしまうのであります。これなども、現代の多くの人たちには受け入れ難い教えでしょう。しかし、イエス様はこれが神の意思であるとただ突き放すように教えるのです。

33節から37節にかけての「誓い」に関する掟について。これは、十戒には含まれていないように見えますが、そもそも誓いというものは神の名前に結びつけて立てられるものなので、第二の掟「神の名をみだりに唱えるな」と結びついています。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」でいう「偽りの誓い」とは、神に対して誓った誓いが果たせない時、誓いが偽りになってしまうということです。つまり、偽りの誓いを立てるなというのは、逆に言えば、誓いを立てるなら果たせるような誓いを立てよということになります。そうなると、人間は果たせそうな誓いを立ててそれを果たすことで神の意思に沿うことができるのだ、という思い上がりを生み出す危険があります。それで、イエス様は、「然り、然り」「否、否」とだけ言いなさいと命じられるのです。つまり、「汝、腹を立てるな、怒るな、憎しみを抱くな」と言われたら、余計な条件を付けずに、「然り、然り」とだけ言う。「汝、心の中で姦淫を犯すな」と言われたら、これも「然り、然り」と言う。それ以上のことを言うのは、神の意思を水で薄めることになる。だから、果たせるような誓いは立てるな、果たせるような誓いをして神に認めてもらったとか、神のお近づきになったなどと思い上がるなと言うのです。神の純然たる意思の前で、自分はいかに神の意思に反する存在であるか思い知っていなさいということなのであります。

 

2.以上、本日の箇所のイエス様の教えをみてきました。とても厳しい教えだということが明らかになりました。一般によく抱かれるイエス様のイメージと随分異なるようで驚かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか?イエス様と言えば、規則主義、戒律主義に縛られたユダヤ教を批判して、規則や戒律に囚われない愛や恵みを唱えた寛大な方というイメージがよく持たれるからです。ここで見てきたイエス様は、なんだかユダヤ教よりもずっと規則主義、戒律主義に見えます。

ここで、イエス様の教えをちゃんと理解できるために、以下のことをよく注意する必要があります。仮に、ユダヤ教の掟の中に、犯してしまった罪の赦しを神から得るために羊を50匹生け贄に捧げよ、という掟があったとします。イエス様の教えが厳しいというのは、50匹では足りないから500匹にしなさいという厳しさではありません。そうではなくて、人を実際に殺すことをしなくとも、人に腹を立てたり、怒ったり、憎しみを抱いたら同じ裁きが適用されるという厳しさです。姦淫を実際に行わなくとも、心の中に思い描いただけで、罪の汚れに染まっているという厳しさです。羊を500匹捧げようが、1000匹捧げようが、心に汚れがあればそれらは全く意味がないという厳しさです。本日の箇所の直前で(17~20節)イエス様は、自分がこの世に来たのは律法を無効にするためではなく、律法が要求することを満たすためであると言われます4。イエス様にとって律法とは神の意思でありますから、無効にすべきものではないのです。それが要求することは人間の心や内面に至るまで満たされなければなりません。

それにしても、イエス様はどうやって律法が要求することを人間の内面に至るまで満たすことができるのでしょうか?先にも申しましたように、人間は誰も内面や心の中まで十戒の規定を守ることはできません。たとえ、外面的な行為として罪を犯さなくとも、内面的には神の意思に背く性向があり、罪の汚れを明らかに有しているのです。しかし、律法は内面に至るまで満たせないと、神に相応しいと認められる存在にはなれません。そうしないと、人間はいつまでも、自分を造ってくれた神から切り離され、神に敵対した状態に留まってしまうのです。神から呪われた存在に留まってしまうのです。

この敵対状態に終止符を打ち、人間が再び造り主の神と結びつきを持って生きられるようにするために、そうして、神から祝福を受けられるようにするために、イエス様はゴルガタの丘の上で十字架に架けられました。そこで、本来は人間が被るべき神の怒りと裁きを一身に引き受けて、私たちの身代わりとして死なれたのでした。神はイエス様のこの犠牲の死に免じて人間を赦すことにしました。人間は、このイエス様の身代わりの死は自分のためになされたのだとわかって洗礼を受けると、この赦しの救いを神から受け取ることができます。私たちの内面にはまだ罪と不従順の汚れが残っているにもかかわらず、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、神は私たちを祝福して下さるのです。

 

3.最後に、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入って神から罪の赦しの救いを受け取ったとは言っても、それで私たちが完全に罪の汚れのないものになったわけではありません。私たちの内面や心には罪の汚れは厳然と残っています。私たちが救われたと言うのは、私たちから罪の汚れが全て消え去って神に相応しい存在になったということではありません。私たちの内面や心には罪の汚れが残存しているにもかかわらず、神は、イエス様を救い主と信じる私たちの信仰のゆえに、私たちをあたかも汚れがないかの如く、神に相応しい者として扱って下さるということなのであります。

残存する罪の汚れには戦いを挑んでいくしかありません。ルターは、キリスト信仰者の人生は、永遠の死の判決を受けた古い内なるアダムを日々死なせていくことだと教えています。古いアダムを死なせる方法はいろいろあります。まず自分に与えられた実際の生活をしっかり生きていくこと。そこで直面する人間関係やさまざまな課題を通して、神の意思は一体何だろうかと祈りをもって聖書の御言葉に聞くこと。もし神の意思に沿わない自分を見いだしたならば、神に対して罪を告白し、牧師を通して神からの赦しを再確認してもらうこと。これは毎週礼拝で行っているし、礼拝の外でも行えます。また、聖餐式で主の血と肉に与ることで神との結びつきを一層強めていくことも、内なる古いアダムに打撃を与えます。このように戦いの道具は全て神が準備して下さいました。道具を全て手にしていることに加え、主ご自身が一緒にいて戦って下さいます。何も恐れたり心配する必要はないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

1 οργιζομενος、現在時制であることに注意

 

2  φονευση、アオリスト時制であることに注意

 

3  ειπη、アオリスト時制であることに注意

 

4  17節、πληρωσαιは「完成する」よりも「満たす」がよいでしょう

 

主日礼拝説教 2014年2月9日(顕現節第六主日)の聖書日課 申命記30章15-20節、第1コリント2章6-13節、マタイによる福音書5章21-37節

説教「イエス様につき従うということについて」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章18-25節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が通りかかる。そして湖に投げ網漁をしていた二人の漁師、ペトロとアンドレに「私に従って来なさい。お前たちを人間をつかまえる漁師にしよう」と言う。すると二人はすぐ網を捨ててイエス様に従って行く。こんなに簡単について行くのだから、きっと二人はイエス様に何かただならぬものがあると気づいたのでしょう。それにしてもこんなにあっさりと生業を放り出していくとは。ガリラヤ湖と言えば、そこで採れる魚は美味で肉付きが良いことがローマ帝国内にも知れ渡っていて、それは需要度の高い産物でした。そこで漁師をするペトロとアンドレは決して金持ちではなかったでしょうが、少なくとも貧乏ではなかったはずです。マルコ福音書10章28節(マタイ19章27節、ルカ18章28節)で、ペトロはイエス様に「私たちは全てを捨ててあなたに従って来ました」と言います。つまり、「捨てるもの」がある身分だったわけです。

 ところが、イエス様につき従った人が捨てたのは生業だけではありません。ペトロとアンドレを弟子にしたすぐ後で、今度はやはり漁師のヤコブとヨハネに出くわします。彼らは、舟の中で父親のゼベダイと一緒に網の手入れをしている。イエス様が呼びかけると、ヤコブとヨハネも同じようにすぐつき従います。ただし今度は生業だけではなく、父親もそのまま残して立ち去ってしまいました。同じ出来事が記されているマルコ1章20節によれば、ヤコブとヨハネが残して立ち去ったのは、父親の他に雇い人たちもいました。ゼベダイ家は漁業の企業家だったのでしょう。

 福音書を繙くと、家族を捨てることについてのイエス様の教えがいくつかあります。イエス様のため、福音のため、神の国のために親兄弟を捨てたものは必ず報いを受けるとか(マタイ19章29節、マルコ10章29~30節、ルカ18章29~30節)、イエス様より両親を愛する者は弟子としてふさわしくないとか(マタイ10章37~38節、ルカ14章25~27節では「憎まないなら 弟子でありえない)。こうなると、イエス様は十戒の第四の戒め「父母を敬え」に反していることを教えているのでしょうか?

 この問題に対するルターの答えは以下のように明快です。

「主イエスの教えは、親を捨てたり見下したりする理由にはならない。神の戒めの通り、親は敬わなければならない。しかし、親や公権力、ましてや教会自体が神への従順を禁じようとするならば、そのような親、公権力、教会に従順であるのは呪われたものになる。そもそも、私たちにお金や食べ物や親を与えて下さったのは父なるみ神なのだから、もしこれらの与えられたものが私の救いを妨げるのなら、これらのものは父なるみ神のためには失われてしかるべきものなのだ。ただし、そのような状況に陥っていない場合は、神に従順でいて、かつ、親や家庭や財産を持つことができるのであり、それは、神からみても何の問題もない。」

昔フィンランドで聖書を学び始めた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第四の戒めはどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。

 

2.ところで、本日の福音書の箇所の二漁師ヤコブとヨハネの場合は、父ゼベダイと何か信仰上の対立があってそれが高じて父親放棄になったとか全くわかりません。二人の息子の行動様式は何か神がかっているというか、あまりにも唐突すぎます。この状況をどう理解したらよいでしょうか?「ヤコブとヨハネはきっと恵まれた境遇に飽き足らず、何か真実なものを求める心があって、そこでイエス様に出会った云々」などとドラマ仕立てをすることは、ここではしません。ここでは、聖書に書かれてあることから何がわかるか、ということを中心にしていきたいと思います。

まず、聖書からみえてくるのは、イエス様が弟子たちを招いた時というのは、これは、今まさに神の人間救済計画が実現されだした、その実現までもう時間的余裕がないという緊迫した状況だったということです。弟子たちは、言わば、有無を言わせないくらい切迫したムードの中で急きょ動員されたということです。有無を言わせないような切迫したムードとはどういうことかと言うと、イエス様の人生でエピソードに満ちた大人の時代は意外と短かったということです。そのことをみてみましょう。

まず、洗礼者ヨハネが登場し、神の裁きの日と救世主の到来を預言し始め、信じて集まってきた人々にヨルダン川で洗礼を施す。まさにその時にイエス様が洗礼を受けにやって来て、受洗後すぐに聖霊を受ける。その直後にユダヤの荒野にて悪魔から試練を受けるも、これに打ち勝つ。これらをイエス様の大人時代の第一章としましょう。ヨルダン川での洗礼とユダヤの荒野での試練です。次に、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれるや、イエス様は大胆にもガリラヤに戻って人々に教え始め、奇跡の業をなす。このガリラヤ地方とその周辺での活動の時期を第二章としましょう。それから、ガリラヤを出発して群衆の先頭にたってエルサレムに向かう。この時にも人々を教え、奇跡の業をなす。これを第三章としましょう。そして、エルサレム入城、そこでのユダヤ教社会の指導層との激しい対立、投獄、拷問、裁判、十字架そして復活。これを第四章としましょう。

 こういうふうにイエス様の大人時代は4つの章に分けられますが、実は、彼の受洗から十字架・復活までの期間は、本当は「時代」というにはあまりにも短い、駆け足のような時間なのです。短く見積もる研究者は、だいたい1年ぐらいだろうとみています。他方で、ヨハネ福音書をみると、イエス様がガリラヤ地方とエルサレムを何度か行ったり来たりしています。他の三つの福音書では一回だけですが、ヨハネ福音書に基づくと、受洗から十字架・復活まで大体3年くらいとなります。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半部分を占める大人時代の出来事は、実に生涯の最後の期間、1年から長くても3年位の期間に集中しているのであります。

 イエス様がこの地上での生涯の最後の期間に行ったことというのは、創造主である神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済とは、端的に言えば、人間が神の国に迎え入れられるようにするということです。まず、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。神の裁きというものがある、しかし、人間を厳しい裁きから大丈夫にしてくれる救い主がやってくる、だから、それに備えなさい、と訴えました。そして、それに続くイエス様も、同じ言葉「悔い改めよ。神の国が近づいた」と公けに宣べて活動を開始しました。ただし、イエス様の場合は、神の国が彼自身と一体となって既に来ている、という点でヨハネの場合と異なりました。ヨハネが「神の国が近づいた」と言うとき、それは「まだ来ていない」のですが、イエスの場合は「もう来ている」ことを意味しました。このことは、先週の主日の説教でもお話ししました。少しだけおさらいをしてみましょう。

神の国がイエス様と一体となって来たというのは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、それを目のあたりにした人々は、いつか今の世が終わりを告げる時に到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだ、と体でわかったのであります。ところで、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在になってしまったからです。罪と不従順の汚れが消えない限り、神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。

人間が受けるべく定められた罪の罰を全てイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すという解決策を創造主である神は採ったのです。あの、2000年前の昔の彼の地で神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさに現代を生きる自分のためにも行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いを所有する者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者と神から見なされて、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。このように、創造主である神がイエス様を用いて実現した救いをしっかり所有する者は、この世の人生の段階で、既に神の国の立派な一員として迎え入れられているのであります。

さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に入れるようにと、創造主である神の意思に忠実に従って、十字架と復活の業を成し遂げられて、人間救済計画を実現されました。つまり、この地上での生涯の最後の1

3年ほどの短い期間にこんなにも大きなことを成し遂げられたのです。「悔い改めよ。神の国が近づいた」という言葉ではじめ、最後に人間がその神の国に入れるようにする道を整えられたのです。この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを集められました。弟子たちの使命とは、イエス様と共にいてその教えと業をつぶさに見聞きすること、そしてイエス様から受けた教えと授かった力をもって宣教をすることでした(マルコ3章13~15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、その集大成として聖書の新約の部分ができあがったのであります。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じる信仰を得るはずがなく、従って彼が門を開いた神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救済が国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする上で重要な役割を担ったのであります。

 イエスが使徒と呼ばれる12弟子を選んで呼び出したのは、そのような重要な役割を担わせる意味がありました。この弟子の呼び出しは、まさに人類の歴史の大転換点である十字架と復活の出来事を目前にした時に行われたのでした。これが、イエス様の呼び出しに有無を言わせない切迫したムードがあると言ったことの意味です。徴税人マタイなどは座っているところをイエス様に声かけられて有無も言わずに立ち上がって従って行きました(マタイ9章9節、マルコ2章14節とルカ5章27―28節では徴税人レビ)。何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気があります。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様の後に従い始めた弟子たちの親子関係とか彼らの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7章1~10節、マタイ8章5~13節)。ところが、呼び出されて自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しい。ある人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死んだも同然の者たちに死者を葬らせればよい」と答えます(ルカ9章59~60節、マタイ8章21~22節)。創世記の堕罪の出来事以来、創造主である神が心に決めていた人間救済計画がまさに実現しようという時、人間が神の国に入れるようになれるという時を直前に控え、救済実現の目撃者、証言者となってその福音を宣べ伝える者になりなさい、と召し出されたら、その通りにするしかないというのが父なるみ神と御子イエス様の意志であったと言うことができます。

 

3.それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし創造主である神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されなければならないのでしょうか?それが私たちにとってのイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?

ここで注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。救済実現の直接の目撃者、証言者になって、その福音を宣べ伝えて聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちは洗礼を通してイエス様の弟子になりますが、それはまず、実現済みの救いを受け取る者になるということ、加えて、受け取ったものを今度は聖書に拠ってしっかり守り、できるだけ多くの人がこの救いに与れるような働きをする者になるということです。これが、私たちがイエス様の弟子になる、彼につき従うということです。そのため、救済実現に際していろんな役割をもたされた弟子たちとは状況と立場が少々異なっています。その意味で、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しはそう簡単にはないのではないかと私は考えます。

しかしながら、そうは言っても、親とか家族とか財産とかは、信仰を理由に捨て去る必要がなくなったかと言えば、必ずしもそうではなく、初めにルターの教えを引用しましたように、もしそうしたものが信仰を捨てるようにと働いて絶対に止めないという時には、捨てなければならないということであります。もちろん、そうでない限りは、親や家族を世話し仕えるということは、神の掟であります。

もし、親とか家族とか財産とか、とにかく自分の持っているものと信仰が対立関係に陥った場合、本来捨てるべきものが信仰にとってかわられてしまわないようにするにはどうすればいいか。これについて、ルターは、それらのものを心のどこかで捨てていなさい、と教えます。

「ヤコブとヨハネの話を聞いて君は、財産とか家とか妻とか子供とかいうものは捨てなければならないのか、という思いにとらわれるかもしれない。しかしそうではない。心のどこかで、家と土地、妻、子供を捨てているということなのだ。たとえ君が彼らとともに生計をたて、神の定めに従って彼らのために働き彼らを世話している時でも、心のどこかでは捨てていなければならない、ということなのだ。『もし必要とあれば、父なるみ神のために全ての安逸を犠牲にしてそれらを捨てなければならないことがあるのだ』、そう心に留めていれば、君はもう心のどこかでそれらのものを捨てていることになるのだ。要は、君の心が捕らわれ人にならないように注意することだ。君の心からは、ひとりじめする欲や、あらゆるものにしがみついたり頼り切ったりする心、安逸のみ追い求める心が取り除かれていなければならない。そのようにできれば、人は財産があっても、心の中でそれを捨てることができるのである。万が一、実際に捨てることをしなければならない時がきたら、その時は、私に命と人生を与えた造り主の神がそう決めたのだから、と言って、神の御名において捨てなさい。ただしその時は、無理をして自分は喜んで妻や子供や財産を失ってやるのだと考える必要は全くない。そうではなくて、ああ、本当は神がお許しになるのであれば、もっと自分の手元において世話をし、そうすることで神にお仕えしたかったのだ、と考えて、捨てることを受け入れなさい。

自分の心の状態をよく注意しておくことが肝要である。自分が何を有しているかいないか、多く有しているかいないか、そういうことに心を向けてはならない。今自分のもののように見える全てのものを、時が来れば失われてしまうものとして、手元に置いておきなさい。そうすることで、我々は神の国にしっかりとどまれるのである。」

 とても厳しい教えです。心のどこかで捨てていなさい、というのは愛がなさすぎると言われてしまうかもしれません。でも果たして愛がないでしょうか?ルターが言わんとしていることは、親や子供や伴侶は、まさに世話し仕えるために創造主である神から私たちに与えられているということです。与えられるという以上、神は取り去る可能性も持っています。いつ取り去られるかはわからない、いつ捨てなければならないかわからない、だからこそ、与えられている期間は一生懸命に世話し仕えるということであります。天地創造の神が与えたものである以上、ないがしろにすることは許されない。持てる力と知恵を尽くして世話し仕えることで、与えられたものについて神に対して責任を果たさなければならない。

 

4.そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰にあっては、愛さえも、神中心になっていくということを心に留めておく必要があります。これは、大切な人との別れが死別という形をとる時にも、あてはまります。その時、キリスト信仰者の目と心は、死者の霊とか魂というものを超えて、その大切な人を与えて下さった創造主である神そのものに向けられます。昨年の説教の場で教えたことですが、キリスト信仰にあっては、この世の人生を終えた方は今、復活の日までは神のみが知るところで安置され、安らかに眠っているのであります。その方のことはもはや創造主である神にお任せしているので、死者の霊や魂を慰めるとか鎮める必要性を見いださないのであります。キリスト信仰者は、その大切な方を与えて下さった神に感謝し、そしてその方と素晴らしい日々を過ごせたことを神に感謝し、もし御心でしたら、その方と復活の日に再会できますように、と心静かに創造主である神に祈りを捧げるのであります。その大切な方が生きていた時には、隣人愛をもって一生懸命に尽くし、亡くなられた後は、創造主である神にこのように祈り続けるのです。キリスト信仰者が亡くなった方をないがしろにしたという批判は当たらないのであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

顕現節第四主日の聖書日課 イザヤ43章10-13節 、第1コリント1章26-31節、マタイによる福音書4章18-25節

説教「悔い改めよ。神の国は近づいた」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章12~17節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事でした。その後でイエス様は、荒野で40日間に渡って悪魔から試練を受け、それに打ち克ちます。そのことが先週と今週の福音書の箇所の間にあります(4章1~11節)。そして、本日の箇所は、イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。

荒野での試練の後でイエス様は、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたと聞きました。理由は、ヨハネがアンティパスの不倫問題に口をはさんだためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14章1~12節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤに乗り込んだのであります(新共同訳の「ガリラヤに退かれた」は正確な訳ではないでしょう)。ただ、育ち故郷であるナザレの町は活動拠点とはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちが公けに活動を開始したイエス様を拒否したためでした。この辺の事情は、ルカ4章16~30節に記されています。

カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が開始されました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。

時は、紀元前700年代、ダビデの王国が南北に分裂してお互いに反目しあって既に200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、攻撃は絶対成功しない、それが神の御心である、だから心配するな、と宣べ伝えます。実際、イスラエル北王国とその同盟国は、東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダに対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。イザヤ書8章23節に、こう記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

ゼブルンの地、ナフタリの地というのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には、イスラエル北王国にあたります。それで、同王国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ということを指しています。しかし、ここから先が将来起こることの預言になります。まず、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。つまり、異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く9章1節からの預言に記されています。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。しかし、イザヤの預言はここで終わらず、まだ続きます。9章5~6節を見ると、次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。

イエス様の十字架と復活の出来事を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ、人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である、とわかりました。そして、そう言えば、イエス様の公けの活動は確かガリレア地方で始まったんだな、と思い当たった時、ああ、あれは全てイザヤ書8章23節から9章6節までの預言の成就だったのだとわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ではありますが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのであります。

本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りであります。このように、人間救済計画がどのように実現されるかということを前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な神は永遠に畏れられ、ほめたたえられますように。

 

2.さて、前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。

まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が拡大したのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があります。それに対応するギリシャ語はなんだ、ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情があります。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていたのを、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるということになります。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは、「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)

それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生で自分の造り主である神との結びつきのなかで生きることができるか、そして、この世から死んだ後は、どうしたら永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになるか?このことについて見る必要があります。

人間と神との結びつきの問題に関して、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5戒を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6戒を破ったことになる、と教えます。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになってしまうのであります。しかし、十戒をそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と宗教指導者との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神との結びつきや永遠の命の保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。

人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。ひとり子をこの世に送り、人間を覆い尽くしている罪の呪いを全部そのひとり子に覆い被せて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものでした。人間は誰でも、ひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策というものはまさに自分のために行われたのだとわかって、イエス様こそが自分の救い主であると信じ、洗礼を受けることで、この救いを手に受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪を内在させたまま、イエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。

以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも、自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様という神聖な純白な衣を頭から被せられること。内在する罪と不従順は必ずや、それを脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪と不従順はきっと純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「私にはイエス様以外に拠り頼む方はいません!」と言って、罪を認め、聖餐を受けること。そうすれば、神は、イエス様以外に主はいないという心の叫びを本物とみて、私たちのことを純白な衣を着たままで見て下さり、聖餐を受けた私たちがイエス様としっかり結びついていることを確認して下さるのです。この時、罪と不従順は、これでは付け入るすきがない、とおそれいって退却せざるを得ないのであります。このようにして、キリスト信仰者というものは、肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人を日々育てていくのであります。もちろん父なるみ神は、私たちに罪が内在していることを知っておられます。しかし、私たちがこの内面の戦い、霊的な戦いをイエス様に拠り頼んで戦っている時、神の目には私たちはただイエス様の純白な衣を着た者として映るのです。本当にイエス様は「神のもとへの立ち返り」の手がかりなのであり、それ以外に手がかりはないのであります。

イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々には、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれるものであったでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に十字架と復活をもって全てを明らかにしたのでした。

 

3.次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書で言われている「神の国」と同じものを意味します。マタイは、「神」という言葉を畏れおおくて避ける傾向があり、それで「天の国」と言っているのであります。

 実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を使っていました(マタイ3章2節)。ただし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動をした時、彼の場合はヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様も聖書からご存知のように、イエス様は、数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたり、無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たということを示したのです。マルコ3章で、イエス様が悪霊を退治した時、反対者たちから「あいつは悪霊の仲間だからそんなことができるのさ」と中傷を受けます。それに対してイエス様は、「悪霊が悪霊を退治したら彼らの国は内紛でとっくに自滅しているではないか」と反論します。つまり、自分が神の国と一体になっているからこそ悪魔が逃げていくのだということであります。このように、イエス様の奇跡の業は、神の国が彼と共に到来したことの印、神の国が実在することの印なのであります。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、実は今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。先ほどの神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦い人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国にて涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っている者なのであります。

 ところで、神の国はまだ今の世の終わりなどとは関係なく、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。かつて神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いの所有者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのであります。

 

4.さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時とは、神の国もその時に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は、私たちと今、無関係にあるというのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのであります。「我らの国籍は天にあり」(文誤訳フィリピ3章20節)というのは、まことにその通りであります。キリスト信仰者は、二重国籍者であります。一つはこの地上にある国の一員です。その国籍は、死んでしまえば失われてしまい、また他国へ移住したりすれば意味を失います。しかし、もう一つの天の国籍は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍であります。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのであります。この永住権の「永」は文字通り永遠です。キリスト信仰者にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないものである、ということを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年1月19日 顕現節第三主日の聖書日課 アモス3:1~8、第一コリント1:10~17、マタイによる福音書4:12~17

説教「イエス様の洗礼 - 神の救いの計画の始動」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章13-17節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.日本では新年になると大勢の人たちが神社やお寺にお参りをして、それぞれに祀られている神や仏に祈りと賽銭を捧げたり、またお祓いのような清めの儀式を受けたりします。これは、毎年テレビや新聞などで報道されるので、私たちにとって見慣れた風景であります。キリスト信仰者にあっては、このような時こそ、自分たちが信じる神とはどんな方であったかを、聖書に拠りつつ、振り返り思い返すことは大切なことです。

先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書の日課、イザヤ書42章に次のように記されていました。「神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる」(5節)。このように、聖書が明らかにする神は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主であります。キリスト教会の礼拝で唱えられる二ケア信条には、「天と地、すべての見えるものと見えないものの造り主」と言われます。「見えないもの」とは、魂とか霊的な存在、霊的な力といったものも含み、こうしたものも全て被造物ということになります(コロサイ1章16節)。天使たちでさえも、被造物なのであります(ヘブライ1章5、13章)。被造物の範疇に入らないものは、造り主自身とそのひとり子、そして造り主の霊の三つのみ、つまり父と御子と聖霊の三つだけなのであります。他のものは全て皆、神に造られた被造物なのであります。

さて、造られた私たちと造り主の間の関係が損なわれて、私たちの状態が悪くなったがために、造り主は関係を回復して状態をよくしようと決めました。それでひとり子をこの世に送られました。このひとり子イエス様が成すべきことを成し遂げた後、造り主は彼を御許に引き戻し、今度は御自分の霊、聖霊を私たちに送られました。キリスト信仰者とは、イエス様が成し遂げたことを、それは自分のために成し遂げられたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けた者です。洗礼を通して聖霊が授けられ、造り主である神との関係が回復した者としてこの世の人生を歩み始めることになった者です。そして、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、神が御許に救い上げて下さって、永遠に自分の造り主のもとに帰ることができる者です。このような神をキリスト信仰者は信じているのであります。

 さて、本日の福音書の箇所に入りましょう。少し驚かされる出来事です。イエス様が洗礼者ヨハネのもとに来て洗礼志願をするとは、一体どういうことでしょうか?洗礼とは、ルターが小教理問答書の中で次のように教えています。「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。イエス様と言えば、聖霊の影響力によって受胎し、人間の肉体を持ちながらも、罪の汚れもしみもない神の御子です。その彼が、どうして洗礼を必要としたのか。ましてや、ヨハネの洗礼は、罪の告白と神のもとに立ち返る決心をして、イエス様をお迎えする準備をするという意味を持っていました。そんな洗礼を神の御子であるイエス様が受ける必要はなかったのであります。イエス様を目の前にしたヨハネが、「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べて、とまどった様子はよく理解できます。

なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?この問いに対する答えを見つけることを通して、本日も神の私たちに対する愛と恵みについて学びを深めてまいりたいと思います。

 

2.その前に、洗礼者ヨハネの洗礼と、私たちが受けるキリスト教の聖礼典としての洗礼はどう違うのかということを少しみていきたいと思います。

ヨハネの洗礼は、救世主の到来と神の裁きの日に備えて人々を準備させるという意味がありました。どのように準備させるのかというと、先ほど申しましたように、罪の告白と神のもとに立ち返る決心をして、そのあとはイエス様をお迎えできるようにするということです。

 私たちが受けるキリスト教の聖礼典としての洗礼はどうかと言うと、ヨハネの洗礼と共通する部分もありますが、それでも決定的に違う点がいくつかあります。まず、ヨハネの洗礼は、これからイエス様をお迎えする準備をするという意味がありました。それに対して、聖礼典の洗礼は、神がイエス様を用いて実現した救いをそのまま受洗者に譲渡してしまう意味があります。つまり、洗礼を受けた者は、完成済みの救いの所有者になるのです。

もう一つの違いは、聖礼典の洗礼は、誰の名において授けられるかということがはっきりしています。マタイ28章19節で、死から復活されたイエス様は、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を施しなさい」と命じます。「名によって」ということですが、名前とは人格そのものを表すものと考えられていましたので、「父と子と聖霊のみ名によって」というのは、「父と子と聖霊そのものに結びつくように」という意味を持ちます。そういうわけで、洗礼を授かった人は三位一体の神に結び付けられるわけであります。そして言うまでもないことですが、ヨハネの洗礼と違って、聖礼典の洗礼は復活の主ご自身が行うように命じたものであります。

ヨハネの洗礼とのさらなる違いは、キリスト教の洗礼では神の霊、聖霊が与えられるということがあります。使徒言行録19章に興味深い出来事があります。使徒パウロはエフェソで何人かのキリスト教徒に出会います。そこで「聖霊を受けましたか」と聞くと、彼らは「聖霊なんて聞いたことはない」と答える。さらに「どんな洗礼を受けたのですか」と聞くと、なんと「洗礼者ヨハネの洗礼」という答えが返ってくる。そこでパウロは「ヨハネは神のもとへの立ち返りの洗礼を授けたが、それは彼の後に来る方を信じるようにするためであった。その方こそイエスである」と教える。そして彼らにイエス様の名を結びつけた洗礼を授けると、聖霊が彼らに下り、その影響で彼らは習ったことのない国の言葉で神を賛美し始めたり、預言をし始めたりしたのであります。

 ところで、洗礼を通して「聖霊が与えられる」とか、「霊を受ける」などと聞くと、なにか超心理現象の世界に入ったような、オカルトじみていると言う人がいるかもしれません。しかし、そういうことではありません。聖書でどう教えているかみてみましょう。使徒パウロは、聖霊を受けた人は造り主の神を「アッバ」と呼ぶようになると教えています(ローマ8章15節、ガラテア4章6節)。「アッバ」というのは、当時のパレスチナで話されていたアラム語の「父親」を意味する言葉の呼びかけの形です。日本語なら、「おとうさん」とか「父さん」、子どもだったら「パパ」ということになるでしょう。いずれにしても私たちが、お祈りをする時、また思わず助けを求める声を上げる時に、私たちの造り主である神をそのように呼ぶと、それはもう私たちが聖霊を持っていることのあらわれなのであります。これに加えて、父なる神は私たち人間を罪の呪いから贖い出すためにイエス様を犠牲の生け贄としてこの世に送ったのだと信じる信仰、それゆえにイエス様こそ救い主であると信じる信仰、この信仰を持っていることも、聖霊を受けていることのあらわれなのであります(第1コリント12章3節)。聖霊を受けていない人にとっては、2000年前の彼の地で起きた出来事は、歴史や宗教学の本にある知識にしかすぎなくなります。聖霊を受けることで、あの遠い昔の遠い国の出来事は実は今を生きる自分にかかわっている、この自分のために起きたのだ、とわかるのであります。

 

3.さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ、なぜイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか見てまいりましょう。

 この問いに対する答えは、実は、本日の福音書の箇所の中にあります。ただ、新共同訳の訳仕方に不備があるために、答えが見えにくくなっています。どこかというと、15節でイエス様が躊躇するヨハネに対して、次のように言っているところです。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

つまり、イエス様がヨハネから洗礼を受けることは正しいことだからというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのはあまりにも当たり前すぎて、それがどうイエス様の受洗と関係するのかわかりません。

 この箇所をギリシャ語の原文に忠実に訳すと次のようになります。「今は言う通りにしなさい。このようにして、義を全て満たすことは我々にふさわしいのだから。ふさわしいこととは、「正しいことをすべて行う」ことではなく、「義を全て満たすこと」πληρωσαι πασαν δικαιοσυνηνであります。この訳が、私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の言葉の聖書を繙いてみてもわかります。例えば、英語訳の聖書NIVを見てみますと、「全ての義を満たすこと」to fulfill all righteousnessと言っています。ドイツ語のルター訳(1912年版)も同じですalle Gerechtigkeit zu erfüllen。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書の訳は1999年版で「義にかかわる全てを満たすこと」uppfylla allt som hör till rättfärdigheten(1917年版は端的に「全ての義を満たすこと」uppfylla allt rättfärdighet)、フィンランドのルター派国教会の聖書の訳は1992年版で「神の義なる意思を満たすこと」täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon(1933年版はこれも端的に「全ての義を満たすこと」täyttää kaikki vanhurkaus)です。そういうわけで、この箇所は、「正しいことをすべて行う」ではなくて、原文に忠実な「義を全て満たす」でいこうと思います。

 そこで、問題となるのが「義を全て満たす」とは何を意味するのか、ということです。まず、「義」δικαιοσυνηという言葉ですが、これは、ルター派がよく強調する信仰義認、信仰によって神から義と認められる、その「義」です。「義」とは、つまるところ、神の意思が完全に実現されている状態を指します。神の意思が完全に実現されている状態とは、端的に言えば、十戒が完全に実現されている状態です。十戒とは、「私以外に神をもってはならない」という掟で始まりますが、最初の三つはこうした神と人間の関係に関する神の意思です。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」など、人間同士の関係に関する神の意思です。神自身が、十戒を完全に実現した状態の方である、十戒を体現した方なのであります。それで、神そのものが義の状態にある、義なる存在であると言ってよいでしょう。

この神の義というものを人間の側から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にある。理由は、人間には罪と神への不従順が宿っているからであります。人間が義を失った状態でいると、どうなるかと言うと、神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになり、この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまう。人間が神の義を得られて、神との結びつきの中で生きられるためにはどうしたらよいかということで、十戒や律法の掟をしっかり実行しようと言って、義の追及が行われたのですが、イエス様はそれは不可能だと教えたわけであります(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、律法の掟というものは、自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのであります(ローマ7章)。

この袋小路を打開するために神が行ったことは、ゴルガタの十字架の上でイエス様に全ての人間の罪の罰を受けさせて、この犠牲に免じて人間を赦すことにするというものでした。人間は、イエス様を救い主と信じて、神がイエス様を通して与える赦しを受け入れる時、まさにこの時、人間は神から義なる者と見なされるのであります。この時、人間の方では、自分は神の前では罪の汚れに満ちた塵に等しい存在だと認めていることになります。この空っぽの状態をイエス様で埋め合わせることで、人間は神から「お前は義なる者だ」と見なされるのであります。そうして神との結びつきを回復した者として歩み始めるのであります。

 さて、イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとに来たのは、「義を全て満たす」ためでした。「義を全て満たす」というのは、神がイエス様を用いて人間を義なる者にしようとする計画を実現することでした。イエス様が洗礼を受けた時、神の霊、聖霊がイエス様に降りました。さらに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。これらの出来事は、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書42章1~7節の預言が成就したことを示しています。天からの声と聖霊の降りは、1節の内容そのものです。さらに、神は、この預言された方をして、イスラエルの民以外の「諸国民の光」にする、そして、「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」者にする、そう御自分の計画を明らかにしています。そういうわけで、イエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、実にイザヤ書のこの箇所の預言を実現させる手段だったのであり、神の人間救済計画を始動させるきっかけだったのであります。

ところで、イエス様の受洗について、本来洗礼など必要としない神の子が受けたというのは人間との連帯を示すためだ、という見解もありますが、これは皮相的な見方です。イエス様の受洗は、まことに神の人間救済計画を始動させる機会として行われたのであります。もしイエス様の受洗がなければ、神は何か別のことをもって、イザヤ書の預言を実現する機会としたでしょうが、歴史上起きたことはイエス様の受洗であって、それ以外の出来事ではなかったのです。神は、ヨハネの洗礼をもって預言成就の機会にしようと決めていたのであります。だから、イエス様は、ヨハネから洗礼を受けることが必要である、それこそが義を全て満たすことである、と主張したのです。そういうわけで、イエス様の受洗と、ヨハネが他の人たちに施した受洗とを同列に扱ってはなりません。ヨハネから洗礼を受けた人で、誰も聖霊の降りを受けた人はいません。天からの声を聞いた人はいません。そのようにして、イザヤ書の預言の実現をみた人はいません。これらは、イエス様の洗礼の時に起きたのです。イエス様の洗礼があって預言が成就し、それをもって神の救いの計画が始動したのであります。

 

4.最後に、イエス様が命じている聖礼典の洗礼を通して、聖霊が与えられるとはどういうことかについて一言述べておきたく思います。先にも触れましたが、私たちが造り主の神を父の呼び名で呼べたり、神が2000年前に遠い異国の地で行ったことは実は今を生きる私のために向けられていたとわかったりするのは、聖霊の力が働いていることの現れです。こうしたことに加えて、使徒パウロは、聖霊を受けた人は、聖霊の結ぶ実というものも持つようになると教えています。「ガラテアの信徒への手紙」5章22~23節に聖霊の結ぶ実が列挙されています。それによると、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自己抑制です。(「ガラテアの信徒の手紙」5章には、聖霊と反対に肉が結ぶ実も列挙されています。それらが何であるかは、各自該当箇所をご確認下さい。)

こうなると、キリスト信仰者の中には、自分はこのような徳が欠けているので、聖霊がないんじゃないか、と心配になる人が出てくるかもしれません。よくキリスト信仰者でない方が信仰者を泣かせるセリフとして、「クリスチャンになったのに全然いい人になっていないじゃない」というものがあります。ベストセラーになった「置かれた場所で咲きなさい」の著者の渡辺和子さんは、学生時代にシスターから、今の自分が嫌なら洗礼を受けなさい、洗礼を受けると新しい人になれる、と勧められて、母親の大反対を押し切って洗礼を受けました。その後、母親からは、洗礼を受けてもまともな人間に変わっていないではないか、それでもあなたはクリスチャンなのか、と言われて胸を痛め続けたそうです。ここで注意すべきことは、聖霊の実というものは、洗礼によって聖霊を受けたからといって、すぐさま自然に、自動的に出てくるものではないということです。これらのものは、私たちが、洗礼によって植えつけられた、聖霊に結びつく内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死に引き渡すという、内的な戦いを真摯に戦うことで芽生えてくるものです。ルターも強調するところですが、この内的な戦いを続けることが、キリスト信仰者の生きる道なのです。本説教で明らかにしたように、私たちは神からとてつもない恵みをいただいている。そのとてつもなさを思い知る時、古い人はただ押し潰されていく。しかし、古い人は機会を捉えてすぐ頭をもたげてくる。そういうことの繰り返しの連続なのであります。しかし、この戦いは一人さびしく行うものではないということを信仰者は知っています。なぜなら、とてつもない恵みを与えて下さった神はいつも、御言葉を通して、聖餐式を通して、祈りを通して、そばにいらっしゃると知っているからです。他の人からの厳しいセリフは、内面の戦いを活性化させるために大切です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、そのようなセリフをかけてくれる人がいたら、神に感謝しましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年1月12日(主の洗礼日) 
聖書日課   イザヤ42:1-7、使徒言行録10:34-38、マタイ3:13-17


説教「輝く星に導かれて」木村 長政 名誉牧師、マタイによる福音書2章1節~12節

皆様、新年おめでとうございます。 今年が良い年でありますように、祈ってまいりましょう。

今日の聖書は、マタイ福音書2章1~12節です。 マタイは2章で、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」とあり、まず、イエス様がお生まれになったのは、ベツレヘムであったことを、マタイは記しています。 ベツレヘムの名をあげていますのは、旧約聖書ミカ書5章1節で預言されていた神様の約束があったからでした。 そして次に、特に注目するのは、「ヘロデ王の世に、お生まれになった」ということ。ヘロデ王と関係する事柄であったから、どうしても記しておかねばならなかったのでしょう。

それは、このヘロデ王の時代にイスラエルの民が置かれている、深い悩みを思い起こさせるためでありました。 つまり、救い主イエス様がお生まれになられたこの特別の時に、すでに、イスラエルの民は一人の王を持っていました。 イスラエルの民は、ローマ帝国の支配の下に、王の権利を持った者が民を苦しめ、民を滅びに導いていた。 そうした民の只中へ、御霊によって生まれた方が、新たな、全く、特別な支配をなさる方として登場された。 しかし新たな王は、現実の苦しみの中にある民と共に、受難と戦いの道を歩まれる、という運命を背負って登場されたのでした。 ヘロデ王は、新たに生まれた王、神の御子を自分の身を守るために、殺してしまおうと心に決める事までなっていくのですが、そのようなきっかけは、思いもかけない、東方からの博士たちによって、もたらさていくのです。

さて、そこで2節には「見よ、このころ、東方から博士たちがエルサレムにやって来て」こう言ったのです。 「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにいらっしゃいますか。私たちは東の方で、このお方の星を見て、拝みにやって来ました。」 この事を聞いたヘロデ王は、驚いたでしょう。 この俺が王でいるのに、新たに王が生まれたとは、いったいどうしたことか。 ヘロデ王は大変動揺した、とマタイは記します。 そして、王と共にエルサレム全体が動揺した。ユダ民族全体をゆるがすような出来事と、なっていったからです。

イスラエルが、異邦人に、キリスト誕生の福音を説教するのではない。 異邦人である、東方の博士たちが、神様に導かれ用いられて、エルサレムにこの福音を告げたのでありました。 この東方からの博士たちでありますが、彼らは、人間の運勢を星によって読みとろうとする、占星術師といわれる学者でありました。 日本語の訳では「博士」と訳していますが、原語のギリシャ語では「マゴス」と言われ、ペルシャで占星術や夢判断を行って、研究をすすめていた祭司や学者たちでありました。 彼らは、神の御霊に照らされて預言をする、預言者ではありません。 占星術の学者たちが、東の方からエルサレムに来た、と言っていますから、エルサレムのはるか東の方です。恐らくペルシャ帝国か、或はバビロンからでしょう。

当時、アジアのあちこちに、ユダヤ人の群れは広がっていましたから、星の専門家である彼らが、ただ、不思議な星があらわれた、というだけで巡礼の旅にかりたてられたのではないでしょう。 ユダヤ人の神についても、広く知られていたでしょうし、ユダヤの民にいつか救いをもたらすメシヤがあらわれる、という希望についても、聞いていたでありましょう。 神様は、異邦人であった星の学者たちの、内なる霊に働きかけられて、彼らは矢も楯もじっとしていられなくて、心が内に燃えて、今は全財産を処分してでも、彼らにとって最も高価な献げ物を、救い主として生まれられたメシヤに献げたい、という思いにいっぱいに満たされて旅の支度をし、そして長い道のりを何日もかけて、星に励まされ導かれて、新しく生まれたユダヤの王にお会いしに行くのでありました。

ヘロデ王の邪悪な支配によって、民を苦しめれば苦しめる程、民衆の中には沸々と、天からの王、救い主を待ちこがれる思いは起こっていったでしょう。 ヘロデ王は、自分の他に新たな王があらわれ、生まれてくる等とは思ってもいないことです。神様は、神の子の誕生を天使を遣わして、あの純真で素朴な貧しい羊飼いたちに知らせておられます。そして次に、遠い東の国の博士たちに働きかけて、彼らの行動を起こしていかれる。 何という、神の秘められた御計画でありましょう。 ふつうの考え方では、思いもつかない博士たちの旅は、神の約束に動かされて、奇跡といってもいい程の出来事であったでしょう。

彼らはイスラエルの王の宮殿にまいります。そこでヘロデ王に会います。 2節を見ますと、彼らは王に言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で、その方の星を見たので、拝みに来たのです。」王はこれをきいて驚き、内心おそれを持った。 4節をみますと「そこで王は、大祭司と民の律法学者とを皆集めて、キリストはどこに生まれたのかを尋ねた。律法学者たちは旧約聖書、ミカによって言われた『ユダの地ベツレヘムに大いなる指導者があらわれる』という予言のことばを見つける」。 東方の博士たちは、ベツレヘムに向かって再び星に導かれていくのです。

9節を見ますと、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼な子のいる場所の上に止まった。」と、マタイは記しています。マタイの表現です。 博士たちにとっては、輝く星こそがすべてでありましたから、ベツレヘムまで星が先立って進み、幼な子キリストの誕生されたその上に止まった。 学者たちはその星を見て、喜びにあふれたのです。 これとは対照的に、ユダヤの律法学者たちもヘロデ王も、すぐに救い主として生まれたもうた、幼な子の誕生をよろこんで拝みに行こうとはしない。 むしろ王は、神の支配に戦いをいどんで行くのでした。 ヘロデ王は、彼の生涯のすべてを、権力欲のためにどんな事でもする王であります。彼の王となるまでに築いてきた地位と権力が、幼な子の誕生によってすべて、ゆさぶられたのです。

東方の博士たちの喜びようは、大変なものでした。 博士たちは、暗い洞窟をくりぬいた家畜小屋の飼い葉おけに寝かされている幼な子を拝しました。 ろうそくのほのあかりに照らされている、この幼な子は、イスラエルの偉大な、輝かしい星となって下さる方です。イスラエルの希望の星となる方にひれ伏して、礼拝したのです。そうして彼らが携えた宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬等の贈り物をささげたと、マタイは記しています。 そして博士たちが、母マリヤと幼な子のあまりにも貧しいその現実に、つまずかないように、又、星が彼らに与えたものより、もっと偉大なものをそこに見ることが出来るように、この神のしるしは、博士たちを支えたのでありました。 博士たちが遠い道のりをものともせず、メシヤに会いたい。礼拝したいという熱い崇拝の念と、彼らが持てる宝のすべてを今、母マリヤは貧しい姿の中で受け止めたのであります。 そして、母マリヤは信仰深く生きるための力を与えられていったのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。     

アーメン。

顕現主日  2014年1月5(日)