降誕祭前夜礼拝、説教「人類の希望のクリスマス」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20 節

私たちの父なる神と主イエス・キリトから恵みと平安が 、あなたがたにあるように。  アーメン

1.クリスマスと言えば、 一般には何か希望が叶う素敵な日といイメージ持 たれていると思ます。例えば、子供が欲しかっものをプレゼントにもらったりすると、クリスマは希望が叶う素敵な日いうイメージ定着します。 また、私が子供の頃、テレビ・ドラマか映画だったか忘れ ましが離れ離れになった親子がお互いを一生懸命探し続けて、やと 再会 を果たすのがクリスマの日だったと いうよな 感動ものを見た記憶があります。 クリスマに結びつけた、似たような筋書きの映画やドラマは沢山出ているのではないかと 思います。皆さんも何かそのようなものを見たことがおありではしょか?

どうして、クリスマは希望が叶う素敵な日という意味を持っるのでょうか? それは、世界史上最初のクリスマが今から 2000 年プラス 20 年位 前 に起きた第一回目のクリスマが、 まさに 希望が叶 った日だことに由来しています。それで、クリスマは希望が叶う日という意味を持つよになった のです。それでは、その時叶った希望とは一体何だったのでしょうか?それについては、先ほど読んでいただいた福音書の箇所に ある天使言葉が明らかにしています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大き喜びを告げる。今日ダビ デの町で、あなたがたのめに救い主がお生まれになった。こ方そメシアである」(ルカ 2章 10 -11 節)。

「この方こそ主メシアである」と言うのは、つい先ほどダビデ王ゆかりの町 ベツレヘムで赤ちゃんが生まれた、それがあの待望のメシアである。待望のメシアがやっとこの世に来た、みんな希望叶がやっと叶った。という意味であります。

ここで、いろいろな疑問が起ってきます。「待望のメシア」という時、メシアとは何か?というこがまずありす。それから、このメシアとやらは、あ なたがたのため の救い主と言われますが、「あなたがた」とは誰を指のか?さらに、 このメシアが「救い主」として機能すると言うからには、その者は誰を何の危険から救い出すのか? そうい疑問です。 実を言えば 、「メシア」の意味も、「あなたが」 が指している 者も、「救い」の 意味 内容についても、当時の人たちに は統一見解がありませんでした。それらについて、大きく分けて三つの異 なる見解がありました。それぞれの見解に応じて、希望の内容も三つの異なるものが ありました。これから、そについて見ていきたく思いますが、結論 を 先に申し上げると 、三つの希望うち二つはユダヤ民族が中心 の希望で、これは予想外れ、期待外れに終わりました。三つ目は全人類に関る希望で、こちらの希望が最終的に成就したのでした。

 

2. 三つの希望のうち、最初のものはメシアというものを、ユダヤ民族を他 国支 配から解放 してくれる、ユダヤ民族にとっての解放者 と考える希望です。メシア、ヘブライ語 のマーシァハ משיח は、もともとは 「油を頭に注がれた者」いう意味があり ました。「油を注ぐ」というのは 、神が与え る任務を遂行する者 が世俗から区別されて神聖な目的に仕える就任式の意味 を持ちました 。実際に は、ダビデ王朝の王様が即位する時に油を注れた のでメシア「油を注がれた者」は同王朝の王を意味することが伝統になりました。ところが、紀元前 500 年代初めにダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、 国民は集団捕虜としてバビロンに連行されてしまいました 。世界史の教科書で「バビロン捕囚」 と呼ばれる事件です。紀元 前 500 年代後半に なると 今度は 、ペルシャ帝国がバ ビロン帝国を滅ぼして 古代オリエント世界の覇者にな ります。 この時 、ユダヤ 民族は故国への 帰還が認められて 、エルサレムの町や神殿を復興させました。 しかし、それからも ずっとペルシャ帝 国、それに続くアレクサンダー大王の国に支配され続けました。紀元前 100 年代に 一時、ほぼ 独立を回復しますが、 ほどなくして ローマ帝国の支配下に置かれてしまい、イエス様が誕生する日 を 迎えたのであります。先ほど読んでいただいた福音書の箇所で、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に課税ため登録を命じというのは、まさにユダヤ民族が当時置かれていた状況だっのであります。 このようにバビロン 捕囚 以後、 ダビデ王朝の国は復活しなかったですが、

ユダヤ民族の間では、 将来 ダビデ家系の王 様が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家 を建設する、そして諸国に号令をかけ、世界中の民がひれ伏すように してやってきてエルサレムの神殿に捧げ物を 持ってくる、 というよな希望が 生まれした。どうてそんな 希望が生まれたかと言 うと、旧約聖書の中にそよな将来を意味すると思われ預言があるからです(例としてイザヤ 2章)。先ほど読んでいただイザヤ書 9章の預言も、そうしたダビデ王国復興の預言と理解されたのです。

そう しますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言った天使の言葉 ですが、これは、ユダヤ民族を他国支配から解放するビデ家系のヒーロの到来という希望の成就成 になります。 この場合、メシア「油注がれた者」 とは王様そのもを指し、「救い主」とはユダヤ民族を他民族支配から救うという民族解放を意味し、「あなたたち」とはユダヤ民族を指します。

 しかながら、ユダヤ民族の間で抱れていた希望は、ダビデ王国復興より も、もっとスケールの大きな希望ありました。 これが二つ目の希望です次にそれを見てみましょう。

旧約聖書という書物 は、古代オリエント世界の民族興亡 や国家間関係の記録 という側面もありますが、もっと 歴史の 時間と空間を超えた普遍的な側面 を持 っていること も忘れてはなりません。それは、今 私たちの周りにある 天と地の 誕生 から 始まって、それら が終わりを告げる終末までを視野に含めいるからです。例えば、 イザヤ書の 終わり方の 60 章や 65 章をみると 、かつて天と地 と人間を造られた創造主 の神が今 ある 天と 地にかわる新しい天と地を造ることが預言されています。らにダニエル書 みると、 今の世が終わりを告げる時に 死んだ者 たち の復活が起こり、天地創造の神 に相応しい者は永遠命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異る運命をたどることが預言されています。

 こうした終末的な預言 を念頭に置いて、 ダビデ家系の救い主メシア を考える とどうなる でしょう か? メシアとは終末の時に神のもとから地上送られて、 神に相応しい者たちを集めて、 彼らを 新し く出現す る神の国に迎え入れて君臨 するという 、そういう超越的な 王として理解されるように なります 。つまり、 メシアとは、もはや現世的な王様ではなく文字通り超越的な存在です。 先週 まで二回の主日で読れた福音書は 、洗礼者ヨハネについて伝える内容でした。 ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づた」と公けに宣べ伝えた時、当時の人々 は、ついに 終末の日が 来た、天からメシアが送られる、自分 は神聖な 神の意思  に反して生きいた 、罪を犯してきた ことを素直に認めて赦しをいただこうと、 こぞってヨハネのもとに集まって洗礼を受けたのでした。しかしながら 、ヨハネの洗礼は、まだ 「罪の赦しの救い」を与える洗礼ではありませんした。 「罪の赦しの救い」は、イエス様の十字架の死と死からの復活によってはじめて可能となったのです。

さて、 終末的な預言と結びついた メシア とは誰を何から救う のでしょうか? 天 地が入れ替わるという森羅万象の大変動中で 、神に相応しい者を集めるというのは、 それは、ユダヤ民族の視点を超えたスケールではあります。しかし、やはり神に相応しい者とうのは、ユダヤ民族、正確に言えばユダヤ民族の中でもさらに神の意思に従って生きる者たちなので、こ希望 もユダヤ民 族の観点に立つ希望です。

 

3. 天使の言葉「今日ダビデ町で、あな たがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」は、実ユダヤ民族の利害をはるかに超えた、もっと深い広い壮大なスケールの希望を意味してま。この希望を理解 できるためには 、なぜ神のひとり子 が、わざわざこの世に降って来なけれ ばならかったの、 本来なら天の神の御国で全てに優越した場所いてふん ぞり返っていればもいいものを何を好き好んで、わざわざこ世に降ってこなければならかったのか、 しかも、神 そのものの存在の形を捨てて 限られた存在 にしか過ぎない人間の形をとってこ世に生まれ来なければならなかったのか、 こうしたことが希望を理解する 鍵になります。 もし、メシアも救い主も現世的 な民族解放運動指導者だったら、別に普通の男女結びつきか生まれてくる人間でもよかったでしょう。また、 もしメシアが 、終末の時に神に相応しい者 を守り集める 超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ちゃんから始必 要はな いのであって、 そのま 神聖な 恐るべき姿かたちを とって 天使の軍勢を 従えて 天から 下ってくればよかたのです。

 なぜ神そのものの存在であった 神の ひとり子が人間の形をもって、こ世に 来なければらか ったのでしょうか ?神 は人間を何から救おうとしたの で しょうか?

 神がひとり子を人間の形をもってこの世に送ったのは、まさ救うためでした。一体人間を何から救うといのでしょうか?それは、人間が自分の造り主である神との関係を失ってしまった状態から救うことでした。創世記に記されてい ますが 、神に造られた当初の人間は神との結びつきを持った存在で した。それが、 神の意思に背こうとする罪と不従順が人間入り込んだために。人間は神との結びつきを失い、死ぬ存在なって しまいました。使徒パウロが 「ローマの信徒への手紙」 6章 23 節で 述べているように、罪の報酬は死なのであります。 人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。これに 対して神は、人間が再び自分との結つきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えました。 結びつきが回復できるた めには、 人間から罪を除去しなければなりませきん。人間には それは不 可能でした。それで、神はひとり子を この世に送り、彼を人間の全ての罪を背 負わせて、あたかも彼が全の張本人であるようにして、全ての罪の罰を負わせて死なせたのです。これがゴルガタの丘の十字架の出来事です。神は、このひとり子の身代わりの犠牲の死に免じて、人間の罪を赦す と いう手法をったのです 。

 それでは、人間 の方ではどうしたら 罪を赦されて神との結びつきを 回復できるでしょうか?それは、人間がこれらの 神がなさった全てのことは まさに自分 のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この信仰をみた神はその人の罪を赦して下さるのです。 洗礼を受け たと言っ ても人間はまだ 肉を纏う存在ですから、まだ内には罪を内在させてい ます 。しかし、神はイエス様を救い主と信じる信仰を持つ者には、 彼の犠牲に免じて赦しを与えて下さるのです。しかも、 神は イエス様を十字架の死に引き 渡した時、 罪と死 をも一緒に 滅ぼして両者から 絶対的な力を 消し去 りました。 それで、 イエス様を救い 主と信じる者には罪と死は最終的な力持ってないのであります。

 加えて、 神は一度死んだイエス様を 今度は 復活させて、永遠の命への扉を人 間に開かれました。イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれて歩きはじめます。こうして神との結びつを回復した信仰者は、順境の時も逆境の時もたえず神から守りと良い導きを得れるようになり、万が一こ世から死ぬことになっても、その時はイエス様が御手を引き上げて下さり、永遠に造り主である神のもとに戻ることができ るようになったのでありま す。この ように 、罪と死は信仰者に対して最終的な力を持ってい ないのであります。

こで、イエス様の 身代わりの犠牲の質を考えてみましょう 。神その ものの存在である方が犠牲になったのですから、これ以上神聖ものはないと言えくらい神聖な犠牲の生け贄です。人間を罪と死の支配下から贖う生け贄として、これ以上完璧なものはいと言えるくら完璧な犠牲の生け贄です。 このこと を逆に言えば、神は自分のひとり子を惜しまない 位に私たちを大切に思っているということです。イエス様がの世に送られた以上の贈り物を人間は 持ちえないのであります。この神の贈物を 既に 受け取っている方は、その大切 さを忘れないようにして、いつも神に感謝しましょう。まだ受け取っていない人は、 一日も早く受け取るようにして下さい。今からで遅は ありません。

 

4. 以上から、 本日の 福音書の箇所の天使 の言葉 「今日ダビデの町で、あなたが たのめに救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」の意味が明らかになりました。メシアとは、全ての人間を罪と死の支配下から救い出して神との結びつき を持って生きられるようにしてくれて、 死を超えた永遠の命 を持てる日まで 共に歩んで下さる全人類の救世主であります。「なたがた」と いうのは、もうこの聖書の御言葉を目にし耳にする全て人を指 します 。この ように クリスマというのは 、過去の時代の特定の民族の希望成就なのではでなく、全人類に関わる希望の成就です。旧約聖書をもっと広く深く読んいくと、自らを犠牲にして人間の罪を贖う神の僕にも出わします(イザヤ書 53 章) ルターが、旧約聖書は 救い主 イエス様を見いだす書物である と言っているのは、誠にその通りであります。

最後に 、神そのものの存在が人間の形を持って生まれてきたことが、人間にとってだけでなく、神にとっても有益だったということにも触れておきましょう。イエス様は、本来ならば天の神の御国で優越的な場所でふんぞり返っていても良い方でした。それが、犠牲の贖を実現するめにこ世に降ったのですが、人間の心と体を持つこで喜びや痛み悲しも味わうこととなりました。神が人間の喜びや痛みや悲みを人間が味わうのと全く同じように味わうこと になったのです!だから、神は私ちの悩みや苦しも全てわかって下さる方です。天地を創造 された全知能の方ですから、私ち 以上にのことを痛みも含めてわかっおられるです。そような神は、 全てに優る 信頼を寄せるに相応しい方 であることが、「ヘブライ人への手紙」 4章 15 -16 節に記されていますので、そ箇所を引用し本説教締めと致します。 「この大祭司(イエス様を指す)は、わたしちの弱さに同情で きない方ではなく、罪を犯されかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずって、時宜にかなった助けをいだくために、大胆に恵みの座に近づ こうではありませんか。」

人知 ではと うてい測り知ることのできない神平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエに あって守るように         アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2014年12月24日の聖書日課   ルカ2章1-20 節、イザヤ 9章1- 6節


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