説教「仕える者になりなさい」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書10章32~45節

今日の礼拝は受難節第二主日であります。イエス様は、弟子たちをつれて、いよいよエルサレムへと向かって進んで行かれます。それは、十字架の死に向かっての道です。

32節を見ますと、「一行がエレサレムへと上がって行く途中イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き従う者たちは恐れた」。この時イエスは12人の弟子を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。つまりご自分の十字架の死と復活の予告をされたのです。その予告はこれで三度目であります。

第一回目は、マルコ福音書では8章31節にあります。31節「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され三日の後に復活することになっている。と、弟子たちに教え始められた。」

 この時の弟子たちの反応は、ペトロが代表して「イエス様をわきにお連れして、いさめられた。」とあります、するとイエス様はペテロをしかって言われた。「サタン。引き下がれ、あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」この場面でのイエス様と弟子たちとのやりとりが一番正直でリアルなところです。イエス様が突然死ぬと言うことを言い出されていますから、もうびっくりでしょう。また、イエス様の本心が一番あらわにストレートに表されています。「サタンよ、引き下がれ!」と大声でしかっておられる。つまり、これはペテロではなく、もうサタンとの戦いである、と言うことです。

イエス様の十字架の死によって、サタンは勝利を得たようですが、イエス様は三日目によみがえられると言う復活の出来事でサタンを滅ぼしイエス様は勝利されました。

さて、2回目の告知はマルコ福音書9章30節にあります。この時弟子たちの反応はどうか、と言いますと32節にあります「弟子たちは、この言葉がわからなかった。怖くて尋ねることすら出来なかった。」と簡単に記されています。そして、今日の聖書では、イエス様も真剣になって弟子たちに三度目に告げられました。その時イエス様の思いは、第一はサタンとの戦いです。そして、ご自分の十字架に向かわれる戦い。更にどうしても十字架の死を受けねばならない事を充分に知らせることでした。この、どうしようもない弟子たちに、これから後、全世界へ向かって福音宣教を任せていかねばならない。

この、重大な課題を受け継がせていくこと。もう、時間がないのです。神様から与えられた責任が重くのしかかっています。

弟子たちへの福音宣教の命令です、ご自分は十字架の死で終わるのだ。しかし、よみがえる。この復活の意味も、また弟子たちにとうてい理解できない事であqったでしょう。

これらの全部の思いが32節以下で言われていることです。「一行がエレサレムへ上がって行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」とあります。エレサレムに向かって行かれる、その先にはすぐに自分も生涯の終わり死が迫っている。その、凄まじいまでの覚悟の姿に弟子たちは驚き恐れています。そして、イエス様は自分の身に起ころうとしていることを、打ち明けられます。これは重大な宣告です。33節「今、わたしたちはエレサレムへ上がって行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告し異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後にふっかつする。」十字架による処刑の死に至る凄まじいリアルな出来事が起こることが告げられています。このことを聞いても弟子たちが即座に理解できるような内容ではない。なぜ、あの奇跡を起こされる主が十字架の処刑にされるのか、とても、とても理解できることではありませんでした。イザヤ書53章に次のように予言されています。「私たちの聞いたことを、誰が信じえようか・・・・彼は軽蔑され人々に見捨てられ多くの苦しみを負い病を知っている。・・・彼が刺し貫かれたのは、私たちの咎のためであった。」

イエス様は、これからエレサレムで起こることをご自分で知っておられ、かくぜんと、しかも孤独のうちに、その茨の道を進んで行かねばならない。この道は、父なる神の遠大なるご計画であります。逃げようと思えば、いくらでも逃げられる道であろうに、なぜ敢えてエレサレムの苦難の道を行かれるのか。イエス様の、この世に来られた十字架の苦難が神から与えられた使命であったからでしょう。ガリラヤでの数々の奇跡の業、権威ある教え、これらも、すべてが十字架に至る伏線であったのです。イエス様のご生涯はベツレヘムの馬小屋からエジプトへの逃亡に始まって、すべて十字架に向けられて歩まれて行ったのです。マタイ福音書16章34節の、み言葉です。「わたしについて来た者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。自分を捨て!

自分の十字架を背負って従いなさい!と言われます。わたしたちは、なんと自分を捨てきれない、自分にしがみついていることでしょうか。なんとか自分だけは楽な、得をする、ところで過ごせたらいい・・・・。そうした人間の罪にまみれたものを象徴する姿を35節以下であらわしています。

イエス様の悲壮な十字架の苦難お予告された後、弟子のヤコブとヨハネがイエス様に頼むのです。「主よ栄光をお受けになる時、私共の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った、というのです。イエス様の十字架の死をもって、人間のすべての罪を購って、神の救いがなされようとする、この局面にヤコブとヨハネの人間的な欲望の次元の低い願いがだされた、ということです。あの世における出世欲の願い出あります。聖書は人間の罪深さをありのままにあらわします。私共の人間の救いがたい、惨めさがここにあらわれているのです。9章33節でも、イエス様の受難の話しをされた後、弟子たちの間で「誰がいちばん偉いか」という議論をし合っています。わたしたちは自分の生活をすなおに顧みてみると、自分の思いや、自分の欲望、プライドで満ちています。表面上はりっぱな「信仰」という言葉を言いながら、結局は自分の立場や自分の安全を考えています。これはヤコブやヨハネだけでなく、他の弟子たちも同じでしょう。

イエス様は愚かなヤコブとヨハネの願いに対しても答えられています。38節から40節にあります。そうした後で大切な教えを、弟子たち一同に話されました。43節「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。一番上になりたいものはすべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのである。」神の御子は多くの人の身代金として命を献げられたのです。これが、どんなに重い意味を含んでいることでしょうか。誰でも大なり小なり、いろんな自分の十字架を負っています。人には言えない、心の重荷というものを持っているでしょう。その重荷となっているものを、自分を捨て、自分の欲もプライドも捨てて、十字架のイエス様に預けてしまいなさい。そうすると、イエス様の十字架の死と復活が本当の力となり新しい命につながって、神のみ国の命に生かされて行くのであります。

最後にペテロはローマ人への手紙6章3~4節で次のように記しています、それを見ましょう。「それとも、あなた方は知らないのか。キリスト・イエスに結ばれるために、洗礼を受けた私共が皆、またその死に預かるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死に預かる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。」

どうか、望みの神が信仰から来る、あらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。 アーメン 

 

 

四旬節第二主日

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