説教「雪よりも白く」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章2-9節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. 本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わり、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。この日に定められた福音書の日課の中に、イエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事があるため、「姿が変わった」、「変容した」ということで、変容主日とも呼ばれます。イエス様が「変容した」というのは、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので、「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと、新約聖書のギリシャ語では受動態の形を取る時、「誰によって」がつかないと、大抵の場合は天の父なるみ神を指します。神を名指しすることは畏れ多いので、あえて言わないのであります。そういうわけで、イエス様は父なるみ神によって変容させられた、のであります。

それでは、イエス様はどう変容させられたかというと、姿が変わって身に着けている衣服が非常に白く輝いたということが言われています。このように衣服の変化については述べられていますが、他の部分はどうだったかは定かではありません。マタイ福音書の同じ出来事を扱ったところを見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めた、とあります。またルカ福音書をみると((9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書では記されているのは衣服だけですが、最初に「姿が変わり」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので、衣服以外の姿に関する部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、そっちの方を特筆したのでしょう。

「姿がかわる」「変容する」というギリシャ語の言葉メタモルフォオーμεταμορφοωについて見ますと、もちろん外面的な部分の目に見える変化を意味する言葉ですが、その変化には目に見えない内面的な変化が伴っていることも含んでいます。つまり、内面と外面、目に見えない部分と見える部分が連動した総体的な変化です。例えば、「ローマの信徒への手紙」12章2節で使徒パウロは、キリスト信仰者に次のように勧めます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」この「変えていただき」というのは、ギリシャ語原文でメタモルフォオーμεταμορφοωの語が使われています。つまり、「変容させていただきなさい」ということで、これは内面と外面双方にかかわる変化です。本日の使徒書の日課、第二コリント3章18節も同じです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」この「造りかえられていく」というのが、やはりギリシャ語原文でメタモルフォオーμεταμορφοωの語が使われています。顔の覆いというのは、15節で神の御言葉を理解できなくさせる心の覆いであると言われています。16節でイエス様がその覆いを取り去ってくれることが言われ、そうして人は神の御言葉が正しくわかるようになって、神の栄光を映し出すようになっていくということが言われます。

天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えられた神の御心を船の錨のように自分の心の中に下ろすこと。そうして世の中の流れに流されないで、神の御心に沿う自分の人生を生きること。そのようなキリスト信仰者は、この世の人生の段階で神の栄光を少しずつ映し出し始めます。周囲の人はそれに気づく人もいれば、気づかない人もいる。しかし、父なるみ神は確かにその変化を見届けているのです。そして最終的には、死者の復活が起きるこの世の終わりの日に、信仰者は完全に神の栄光を現わす者となり、まさに高い山で変容したイエス様と同じような姿になっているのであります。

そういうわけで本説教では、私たち自身が日々それに向かって変容させられて最終的に完全に同じにされるという、このイエス様の変容の姿を中心に解き明かしをしていこうと思います。

その前に一つ余計な補足をしますが、本日の福音書の箇所に出てくる「高い山」についてです。この山は実際に存在する山として特定できるでしょうか?それは、できます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから本日の箇所までは地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北にそびえる標高2700メートル程のヘルモン山と考えられます。(キリスト教の古い伝承ではガリラヤ地方のターボル山というのもあるそうですが、これは丘陵地帯の中の600メートル位の標高ですから、「高い山」には当たらないでしょう。)それで、ヘルモン山ということにしますと、この山の頂上は森林限界を超えたところにあり、夏でも雪田を残しているそうです。これを聞くと、登山を趣味にしている人なら、日本アルプスの景色を思い浮かべるでしょう。孤高と言うことであれば、同じ標高を持つ白山のイメージになるかもしれません。こういう高い山の常として、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の箇所で、神の声が轟いたのは山頂が雲に覆われた時でした(9章7節)。高い山の山頂が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではなく普通に起こることです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲でそれを神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する現象だったということも考えられます。どっちだったかはもはや判断できなません。この件は、別に判断しないままにしても、本説教の解き明しには何の支障もありません。

 

2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の来ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして、服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?このことは、続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人たちです。今で言えば、漂白するということでしょう。当時どんな漂白剤があったのか、それとも水で洗っては日光に晒す、の繰り返しだったのかは、ちょっと調べがつかなかったのですが、いずれにしても古代世界においても、衣服・布を純白にする専門家がいたということであります。ここで重要なのは、「この世のどんなさらし職人」も白くできないくらいに白く輝いたということであります。イエス様が放った白い輝きは、この世的でない白さ、天上の白さだったということになります。まさにここで、イエス様は、罪や神への不従順の汚れに全く染まっていない神のひとり子としての神聖な本性をあらわしたのであります。

 罪や不従順の汚れに全く染まっていないイエス様は、どのような純白さを持っているかを示されました。そのことによって、逆に私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在かが明らかにされます。神の目から見て、人間の真の姿というのは、最初の人間の堕罪の事件以来、神への不従順と罪を代々遺伝的に受け継いでしまう存在でした。それが、人間の本性なのです。もちろん、世界には悪い人だけでなく、良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が不従順に陥って罪を犯したことが原因で人間は死する存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々罪と不従順の汚れを受け継いできたのです。

人間が、この汚れから洗い清められ、神に義と認められて、最終的に永遠の命を得て神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、まさに神の神聖な意思を100%満たすことができなければなりません。しかし、それは人間には不可能なことです。神の神聖な意思を表しているものとして律法という掟があります。しかし、それは、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしているように、人間が神に義と認めてもらおうと満たしていくものではありません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡、それが律法なのです。詩篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げていますが、これからも明らかなように人間の罪と不従順の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 人間が自分の力で罪と不従順の汚れを洗い清めることは不可能ですが、神がかわりにそれをしてあげることは可能です。神は、罪と不従順を受け継ぐ人間を「赦す」ことで、人間が洗い清められた者になれるようにしました。それでは、赦すことで、どうやって人間を洗い清められた者に変えることが可能なのでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はまず、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が背負うべき罪と不従順の罰を全て彼に請け負わせて、十字架の上で死なせました。イエス様が身代わりの犠牲になったことで、人間を罪と不従順の罰から免れさせたのであります。つまり、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。それに加えて、神は一度死なれたイエス様を三日目に蘇らせて、死を超えた永遠の命への扉を人間のために開いて下さいました。私たちは、これらのことが自分のためになされたのだとわかってイエス様こそが救い主と信じて洗礼を受けると、「キリストを被せられて着せられた」者(ガラテア3章27節)となって、永遠の命に至る道を歩み始めるのであります。こうして人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようになったのであります。

もちろん、キリスト信仰者とは言っても、キリストを頭から被せられただけですので、内側にはまだ罪と不従順に結びついた「古い人」が残存しています。しかし神は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つ者に被さっているイエス様の白い衣を見て、その人に植えつけられた「新しい人」を見て下さるのです。この時、私たちは、自分のひとり子を犠牲にしてまで、このような取り計らいをして下さった神に対して感謝の気持ちで満たされ、神の御心に沿って生きるのが当然という心意気になっていくのです。神を全身全霊で愛そう、また隣人を自分を愛するが如く愛そう、という心が当然というふうになっていくのです。

ここで一言注意しておくと、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」は、本当は全人類にどうぞ提供されています。しかし、この救いが自分に向けられたものであることがわからず、そのためイエス様を救い主とも信じず、洗礼を受けないでいると、提供された救いは提供されている状態にとどまるだけです。受け取られた状態にはありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた場合にのみ、提供された救いは受け取られることになり、イエス様の白い衣を着せられることになります。

 

3.以上から、イエス様が変容した時、それは、彼が罪や不従順の汚れに全く染まっていない神のひとり子としての神聖な本性をあらわしたということが明らかになりました。それにあわせて、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様の純白な本性を頭から被せられるということもわかりました。そこから私たちの変容が始まり、それは復活の日に完結します。洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」を日々育て、肉に宿る「古い人」を日々死に引き渡す内面の戦いを戦うことが変容を遂げていくことです。

それでは、この世の人生で「新しい人」はどのように育てていくのか?それは、他でもなく父なるみ神の御言葉を日々心に留めること、他でもなく父なるみ神に祈りを捧げ、他でもなく父なるみ神に感謝を捧げることです。もし、み神から遠ざかってしまったことに気づいたなら、すぐ立ち返ること。もし、遠ざかりの原因に神の意思に反することがあれば、罪を犯したことを認めて、すぐイエス様の犠牲に免じて赦してもらうことが大事です。そして、聖餐式で霊的な栄養を頂くことも忘れてはなりません。これらのことをするのは「新しい人」を育てることですが、同時に「古い人」を死に引き渡すことにもなります。「古い人」は、最終的に私たちがこの世を去る時に肉と一緒に消滅します。

 以上、イエス様の変容の純白の意味をはっきりさせましたが、ここで少し本日の箇所でわかりにくいところを見てみます。なぜイエス様は山に行く時、12弟子のうちから3弟子だけを選んだのか?出現したモーセとエリアは一体どんな存在なのか?二人がイエス様と話をした時、何を話していたのか?ペトロが建てると言った仮小屋とは何か?そして、なぜイエス様は三人の弟子たちが目撃したことを彼の復活が起きる前に人前で話してはならないと命じたのか?ということです。これらは確実な答えを導き出すのは困難ですが、イエス様の変容の純白の意味に比べたら大きな問題ではありません。駆け足で見ていきます。

 まず、モーセとエリアの出現について。モーセは神から直接十戒を授かってそれを人間に受け渡した神の人、エリアは預言者の代表格です。遥か昔の時代に活躍した二人が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?人が死んだらどうなるかということについて、聖書が明らかにしていることをおさらいしますと、人はこの世から死んだら、神の国とか天国とか呼ばれる所に迎え入れられるかどうかの決定を待つ。その決定がなされるのは、この世の終末の日であり、終末の日とは今ある天と地が新しい天と地にとってかわる日であり、また死者の復活が起きる日です。その日に決定がなされます。そうなると、復活の日までは天国にはまだ父なる神と御子と天使の軍勢以外いないということになって、ルターが教えるように、この世を去った人は復活の日が来るまでは神のみが知る場所にいて安らかに眠るだけということになります。

ところが、エリアは、本日の旧約の日課に記されているように、生きたまま神のもとに引き上げられました(列王下2章11節)。モーセについては、死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、人は誰もモーセが葬られた場所を知らないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(申命記34章6節)。このようにモーセとエリアの場合、この世から別れを告げる時に神の御手が働いて通常の別れ方をしていない、ひょっとしたら安らかに眠る段階を超えて終末の日、復活の日を待たずして神の国、天国に迎え入れられた可能性さえ考えられます。まさにその二人が同じ神の計らいによって高い山に出現させられたのであります。幽霊などという代物ではありません。そもそも幽霊というものも、亡くなった人はとりあえず神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋ですので、出てくることがあるというのは、これは神の計らいによるものではない全く別物ですので、一切関わりを持たないようにすべきです。

次にペトロが建てると言った仮小屋について。「仮小屋」というのは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言います。スケーネーは、「ヘブライ人への手紙」8章9章に出てきますが、神に礼拝を捧げる場所である「幕屋」を意味します。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことであります。しかしながら、ペトロの提案は問題がありました。なぜなら、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かに、モーセは律法を直接神から人間に受け渡した神の人、エリアは預言者の代表格です。しかし、イエス様自身は神の子であり、律法の実現を体現された方、預言者たちが預言したことの成就そのものであります。まさに律法や預言の実現・成就そのものであり、それらを受け渡した人、宣べ伝えた人とは同等には扱えない存在です。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天の一声に一蹴されてしまいます。「これは私の愛する子。彼に聞き従え。」まさに、「ここにいるのは神の子である。律法の受け渡し人、預言の宣べ伝え人と一緒にするな」ということであります。

 次に、山の上で見たことを自分の復活が起きるまでは言いふらすなというイエス様のかん口令について。イエス様の十字架と復活の出来事が起こる前は、人々は彼のことを預言者とか王という意味でのメシアと見なしていました。しかし、受難を通過して神の人間救済計画を実現する意味でのメシアだとは誰一人として考えていませんでした。そのような時勢に、山の上で見たことを言い広めたら、ナザレのイエスはモーセ、エリアと並ぶ偉大な預言者だ、という噂が広まったでしょう。十字架の死と死からの復活の出来事が現実に起きない限り、イエス様がメシアであることの本当の意味はわかりません。イエス様としては、十字架と復活の出来事の前に余計な誤解や憶測を増やすことは避け、ただ黙々と神の人間救済計画の実現の道を進むことに集中したのであります。

 なぜ3人の弟子を選んだのか、ということについては、会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時(マルコ5章37節)やゲツセマネでの祈りの時(14章33節)でも同じ3人を選んでいるので、これらを一緒にして考える機会がある時に述べてみたいと思います。モーセとエリアはイエス様に何を話していたのか、ということについては、推測の度合いが高くなるので、ここではやめておきます。 

先にも申しましたように、これらのことは、イエス様の変容の純白の意味に比べたら大きな問題ではありません。

最後に、洗礼を通してイエス様の純白の衣を着せられた人間はどのように生きていくことになるか、ということについて、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたいと思います。この教えは、詩篇51篇9節で、ダビデ王が神に対して、自分を雪より白くして下さい、と嘆願したことについての解き明しです。

「どのようにして人間は、雪よりも白くなることができるであろうか?これに対する答えは以下の通りである。まず、人間の中には霊と肉があるが、聖パウロの言葉を借りれば、人間には肉と霊の汚染状態が残り続ける。肉が汚染された状態とは、悪い欲望、殺意、盗み、憎悪、嫉妬、その他これらに類するものがあることである。霊が汚染された状態とは、神の罪の赦しの恵みを疑うこと、信仰が弱いこと、神に対して文句を言うこと、絶え間ない苛立ち、そして神の意思を知ろうともしないし理解しようともしないことがあることである。

 もし君がキリスト信仰者というものを正しく判定しようとするなら、信仰者をその本性において見極めようとしてはならない。なぜなら、本性において見極めようとする時、君はキリスト信仰者の中に清さが全くないということに気づかされるからだ。そうではなくて、聖霊によって新しく誕生させられた者としてキリスト信仰者はどんな性質を持っているかを観察しなければならない。この霊的な新しい誕生は、人間が自分で実現することはできない。それを実現できるのは、ただ神のみである。

この霊的に新しく誕生する時に人間は雪よりも白くなり、汚れを伴った最初の肉体的な誕生はもはやその人に害を及ぼす力を持たない。もちろん、人に罪と不従順の汚れは残り続けるが、父なるみ神が目に止められるものはそれらではなく、洗礼の時に被せられた純白の服、霊的に新しく誕生した人の信仰、そして神の愛するひとり子が十字架で流した清く神聖な血である。ひとり子の清く神聖な血というものは、純白な服と同じように、霊的に新しく誕生する人に着せられる装飾品のようなものである。このように、キリスト信仰者というのは、本性において見るとまだ汚れが残っている者であるが、洗礼と聖霊がもたらす霊的な新しい誕生を通して、またイエス様を救い主と信じる信仰においてキリストを身に纏っているので、雪よりも白いのである。」、

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

主日礼拝説教 2015年2月15日 変容主日の聖書日課 マルコ9章2-9節、列王記下2章1節-1節a、第二コリント3章12-18節

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