2016年元旦礼拝の説教「永遠を思う心」吉村博明 宣教師、コヘレト3章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

西暦2016年の幕が開けました。教会の暦の新年は、既に昨年の11月29日に待降節に入った時に始まっております。世俗の暦では本日が新しい年の第一日目です。この日は、教会の暦ではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記された出来事の日です。イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、「イエス」の名前が公けにされた日です。キリスト教会では、特にクリスマス(降誕祭)とかイースター(復活祭)とかペンテコステ(聖霊降臨祭)のような大きな祝祭日にはなっていません。

新年というのは日本では一般に一年の中で大きなお祝いの日になっています。これと全く対象的なのが、私が20数年間滞在したフィンランドでして、クリスマスの期間が「お祝い」の期間になりますが、新年はと言うと、1月1日だけが休日、あとは12月31日まで仕事場もお店もやっていて、一日休んですぐ1月2日からはまた平常通りでした(ただし学校は「顕現日」のある1月6日位まで休み)。

フィンランドでクリスマスが「お祝い」の期間と言っても、日本のクリスマスの雰囲気とかなり違います。まず、12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日続きます。26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家に帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。クリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、カードやプレゼントやクリスマスの料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家で過ごすと言うのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は特に大きな休みとは考えられていません。先ほど申しましたように1月1日が休日なだけで、学校が6日の「主の顕現日」くらいまでは休みとなる以外はあとは平常通りです。

フィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものですが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドはクリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、みんな地元の教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。歩いて行ける距離になければ、自家用車を使います。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者数は減るようです。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族や肉親と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が既に用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。キリスト教の信仰がまだしっかり根付いている人の観点では、クリスマスというのは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間ということになります。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数かもしれません。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っていると思います。

このようにクリスマスというのは本来、救世主の誕生という自分を超えた大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いのために時間を捧げる時です。日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、何か自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?三が日のお店の開店時間がどんどん増えて行くのを見ると、日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがしますが、どうでしょうか?(フィンランドでは昨年、法改正があって店の開店時間が自由化されました。クリスマスやイースターの期間に開店する店がどれくらい現れるか、いろんな意味で興味深いと思います。)

 

2.

 救世主の誕生をお祝いするというような大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りある日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、心は満たされなくなってしまうと思います。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界ですが、それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのであります。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。今ある天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様がこの世に人間としてお生まれになったというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたことしかないこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神に守られて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのためにこの世に来られたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神と正反対のものにしている、人間に染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様は人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運んで行って、人間にかわって罪の罰を受けて、人間が神の御前でも大丈夫になれるようにして下さいました。「イエス様が私の罪の罰を代わりに受けて下さったので、私は神の御前でも大丈夫な者にして頂きました。イエス様は真に私の救い主です。」そう告白する人は、本当に神の御前で大丈夫な者なのです。

先ほど読んだ「コヘレトの手紙」3章11節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とありました。この「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」という下りですが、この部分は英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので確認できず)。ただ、ヘブライ語の原語を見れば見るほど、私にはどうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠というものを人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。手短に言えば、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。機会があればヘブライ語の専門家に聞いてみたく思うのですが、それでもイエス様という永遠の御子が心に与えられてそれを受け取ることで、神の救いの業を発見することができるようになるというのは否定できないでしょう。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われると、この世で真面目に問題なく生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになります。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの罪にまみれた天と地の中だけにとどまります。真面目に問題なく生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、しなくとも最終的には「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が完結します。

この世は罪が入り込んだ世界ですので、自分では神の御心に適うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が送られた救い主を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、そういう危機の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは「永遠を思う心」を頂いたのですから、その永遠の方との繋がりや対話を絶やしてしまっては、心は満たされなくなってしまいます。どうか今日始まった新しい年が、兄弟姉妹の皆さんにとって、永遠を思う心が良く満たされる年になりますように。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 顕現主日
2016年1月1日の聖書日課 ルカ12章22-34節、コヘレト3章1-11節、エフェソ4章17-24節

説教「僕を安らかに去らせて下さる神」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章25-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、皆さんもよくご存知のシメオンのキリスト賛歌があるところです。皆さんがよくご存知というのは、この賛歌は礼拝の中のヌンク・ディミティスと呼ばれるところ、聖餐式が終わって教会の祈りを捧げる前のところで一緒に唱えられるからです。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも賛美しているところです。「ヌンク・ディミティス」というのは、この賛美の2つ目の文の中にある言葉「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。この2つ目の文の全文は「主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます」ですが、福音書の中では冒頭に来ます。福音書と礼拝式文とで最初の二つの文の順番が入れ替わっているのですが、この福音書では冒頭の文、式文では二番目の文をちょっとラテン語で読んでみます。

Nunc dimittis servum tuum, Domine, secundum verbum tuum  in pace:

なんだかローマ法王みたいな雰囲気になりますが、宗教改革者のルターは、聖書はラテン語を通さず直接原語から訳すことを重視した人です。それで、同じ文を原語のギリシャ語でも読んでみます。

νῦν ἀπολύεις τὸν δοῦλόν σου, δέσποτα, κατὰ τὸ ῥῆμά σου ἐν εἰρήνῃ·

 さて、本日の説教題は「僕を安らかに去らせて下さる神」ですが、教会の外の掲示板用に説教題を拡大プリントした後で、一つのことに気がつきました。「僕を安らかに」と書いてありますが、この「僕」という漢字が「しもべ」ではなく、道行く人たちに「ぼく」と読まれてしまうのではないか。聖書を読む人なら「しもべ」とわかるだろうが、「ボク」と読んでしまった人はどう思うだろうか。「ボクを安らかに去らせて下さる神」だと、なんだかキリスト教というのは人をこの世から静かに退場させる宗教で、この世での活動や生き様をないがしろにするような印象を与えてしまわないだろうか、と心配になりました。それで、漢字の横に「しもべ」と振り仮名を付ければ、安らかに去るのが誰か聖書に登場する人物に特定されて、一般の人には無関係と理解されるのではないだろうかと思ったりしました。

しかし、天と地と人間を造られた神というのは、やはり人間がこの世から去る時は安らかにできるようにするということは否定できないので、問題となっている漢字はむしろ「ぼく」と読まれたほうがいいのではないかとも思われました。神というのはボクも私もあなたも皆、この世を安らかに去らせて下さる方だとわかったら、じゃ出口は整ったので、そこに行くまでの期間をどう生きようか、この期間は神に与えられた時間なので神の御心に適うように生きよう使おう、という心意気になって、それでこの世での活動や生き様をないがしろにすることにはならないのではないか。それで振り仮名は付さないことにしました。

そういうわけで本説教では、イエス様を救い主と信じる者が、シメオンのように、本望だ、もう思い残すことは何もない、という思いでこの世を去ることができるかどうかということも考えてみたく思います。その前に、本日の福音書の箇所にある出来事の中で、聖書をよく読まれる方が一つ疑問に感じることがありますので、それを少し見ていきます。その次に、シメオンのキリスト賛歌を見て、最後にキリスト信仰者の本望について考えてみようと思います。

 

2.

本日の福音書の箇所で疑問に感じられることと言うのは、出来事として赤ちゃんのイエス様がエルサレムの神殿にマリアとヨセフに連れられて来ます。それは、ユダヤ教の律法に従って、出産後の母親の清めの儀式を行うためでした。ところが、マタイ福音書2章によれば、生まれたばかりのイエス様はヨセフとマリアともにヘロデ王の手から逃れるためにエジプトに避難したことになっているのです。マタイによれば、親子三人はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。イエス様誕生後の時間の流れはどうなっていたのでしょうか?

ルカ2章21節をみると、イエス様が誕生後8日目にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。それから22節から24節までをみると、律法によれば、子の割礼後、母親は99日間清めの期間を守らなければならず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4-8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのは、この律法の規定を守るためでした。すると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?約3か月間の清めの期間中は神殿には行けないことになっているので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

しかし、それでも時間的にうまくつじつまがあわないことがあります。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後で、王の死は歴史上は紀元前4年とされています。するとイエス様の誕生は紀元前4年ないし5年になる。しかしながら、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年としては紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に登録があったという記録は見つかっていない。さらに、普通にはない星の輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。もし、紀元前6、7年をイエス様の誕生年とすると、三人のエジプト滞在は3か月より長くなってしまいます。イエス様はシメオンが腕に抱き上げるくらいの大きさで、あまり大きな子供ではない。また、ヘロデ王が死んだ後、息子のアルケラオがユダヤ地方の領主になって、三人はエジプトからイスラエルの地には戻るけれども領主を恐れてナザレのあるガリラヤ地方に向かったとあります(マタイ2章21-23節)。そういうわけで、イエス様の誕生は紀元前7年から4年の間として、エジプトから帰る途中でエルサレムの神殿で清めの儀式を済ませて、ナザレに戻ったとみるのが妥当なのではないかと思われます。

 こういうふうに、イエス様誕生の後の時間の流れは、ジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。しかし、これはやむを得ないことであります。大人の時のイエス様の言行録は、12弟子という目撃者によってつぶさに目撃され記録され伝えられました。それに比べると、大人になる前の出来事は、ヨセフが生前に周囲の者たちに語ったことや、もっと長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心になるので、目撃者に限りがあります。細部に不明な点が出てくるのは止むを得ないのであります。しかし、大きく全体的に見れば、書かれた出来事が互いに矛盾しすぎて無効になるような、そんな大きな対立点はないのであります。

 

3.

イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に立ち寄って、清めの儀式をした時、シメオンという老人が近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が、神の約束されたメシア救世主である、と。ここで、シメオンのキリスト賛歌を見てみましょう。

 シメオンは、「イスラエルの慰め」(παρακλησις του Ισραηλ)を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありませんでした。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」ような者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる。実際そうなりました。自分たちこそが旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正しく把握していると思っていた律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、イエス様から全然そうではないと暴露されて、彼に躓いてしまいます。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様を自分の目で見なければならなくなるマリアは、文字通り「剣で心を刺し貫かれた」ようになります。

 しかしながら、イエス様はただ単に反対され、躓きを与えただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなりました。イエス様の十字架の死は、ただ単に反対者から迫害を受けてそうなったということではありませんでした。神の計画がそういう形をとって実現したということでした。それでは、神の計画とは何かというと、それは、人間の罪がもたらす罰を神が人間に受けさせるのではなく、自分のひとり子のイエス様に全部請け負わせたということ、つまり、イエス様を人間の身代わりの生け贄にしたというのが十字架の真相だったのです。神はなぜそうしたかと言うと、罪の罰は人間が受けるにはあまりにも重すぎたからです。さらに神は三日後にイエス様を死から蘇らせて、人間のために死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さいました。人間は、これらのことが罪と死の支配から救われるために神が起こしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦され、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになったのです。このように、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も多く出たのです。使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者も出た一方で、受け入れずに反対する者も出た。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 シメオンがイエス様を腕に抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナという人生の大半をやもめとして生きてきた老婆がやってきました。神に自分自身を捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきた女性です。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると話し始めたのです。

シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、またこの出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしていることです。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあり、イエス様の誕生はこれらの預言が実現したと理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までの部分は一見すると、イスラエルの民が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還できることを預言しているように見えます。実際にこの帰還は歴史上起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後も、イスラエルの民の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時代のような勢いはありませんでした。ほとんどの期間は異民族の大国に支配され続け、神殿を中心とする神崇拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実はバビロンからの帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。

加えて、イザヤ書56章から後は、今存在する天と地が終わりを告げて新しく創造される天と地に取って代わるという預言が出て来ます。それで40章から55章までの預言も、そういう終末論の観点から理解されるようになります。イザヤ書53章に登場する有名な「主の僕」という者も、バビロン捕囚で苦しみを受けたイスラエルの民を象徴する者ではなくなって、罪と死に支配される人間を神のもとに立ち返らせて神との結びつきを回復してくれる人類全体の救世主として理解されるようになりました。このように旧約聖書の預言を理解していたのはユダヤ民族の一部でしたが、その理解が正しかったことが、イエス様の降誕、十字架の死、死からの復活で明らかになったのです。どうして、ユダヤ民族のみんながこのように理解しなかったかと言うと、それは、現実に異民族に支配されている状況があって、そこからの解放を夢見ていると、メシアはどうしても自民族の解放者として捉えられてしまったのです。

 シメオンの賛美の言葉もよく見ると、ルカ2章31節と32節に、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります。32節は、イザヤ書49章6節の預言「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」、これが実現したことを言っています。「それにもまして」というのは、原語のヘブライ語では、それでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという意味です。神が自分の僕と呼ぶ救世主のなすべきこと、それは、諸国民の光となり、神の救いを全世界にもたらすことだと言うのです。

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味しています。ユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、その救いを受け取る者が真のイスラエルの民なのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が天上のエルサレムと呼ばれるのであります。

 

4.

 シメオンは、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと告げられ、そしてイエス様を目にしました。本望だ、もう何も思い残すことはない、という気持ちに満たされました。いつ死んでも悔いはない、というのであります。私たちは今のところはイエス様を目で見ることはできませんが、神がイエス様を用いて実現した救いを受け取ることはできます。その救いを受け取って、シメオンと同じように、いつ死んでも悔いはないという気持ちになれるでしょうか?

人は誰でも、成し遂げたい実現したい計画や志があると思います。計画とか志とかそこまではっきりしたものでなくても、こうなったらいい、こうなってほしいという希望があると思います。そうしたものが実現した時には、本望だ、もう何も思い残すことはない、という気持ちになるでしょう。しかし、もし実現しなかったら、キリスト信仰者といえども、やはり残念無念となり、場合によっては死んでも死にきれないという気持ちが起きるかもしれません。

それでも、キリスト信仰では復活ということがあるのを忘れてはなりません。もちろん、志半ばで終わってしまったら、悲しいし残念無念であります。しかし、キリスト信仰者の場合はそこで全てが終わってしまうことはない。将来、復活の日、最後の審判の日が来て、全ての事柄が最終的に清算される。神の目から見て、この世で払い過ぎを余儀なくされた者は無限と言えるくらいに払い戻しを受け、逆の立場の者は無限と言えるくらいに埋め合わせをしなければならなくなって神の正義が最終的に実現する。その時、永い眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられる者は、この世で中途半端に終わってしまったことが新しい世で完結する。天の御国の祝宴に招かれて、この世での労苦が労われる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰を持って生きる者にとっては、この世で神の御心に適う生き方をして、つまり神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛して、無駄に終わるということは決してなく必ず報われるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、シメオンは約束されたメシアを目にしていつ死んでも悔いはないという気持ちに満たされました。私たちはと言うと、このメシアが実現してくれた救いそのものを受け取ったのです。私たちには、このはかり知れない神の恵みに対する感謝の気持ちがあるので、神の御心に適うようにこの世を生きようと志向します。それで、今すぐこの世から立ち去ってもいいとは簡単には言えません。しかしながら、御心に適うように生きようとして志半ばで終わるようなことがあっても、復活があるゆえに、永久に残念無念に終わってしまうことはなく、シメオンのように本望だ、もう何も思い残すことはない、ということになるのであります。この世の出口でイエス様を全身全霊で信頼してその御手に自分の全てを委ねて天の御国の入り口に引っ張り上げてもらいます。神は本当にボクを、ワタシを安らかに去らせて下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 降誕後主日
2015年12月27日の聖書日課 エレミア31章10-14節、ヘブライ2章10-18節、ルカ2章25-40節

説教「クリスマスの栄光」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書2章1~20節

 

今宵はクリスマスイブです。2015年のクリスマスイブを皆さんと一緒に礼拝できますことを、大変うれしく思います。今日の、この時に全世界のキリスト教会で救い主として、お生まれになった、主、イエス様の誕生日が祝われています。

神がお創りになった全宇宙の、すべての物、生きとし生きているもの、全人類が神の御子のお誕生をお祝いし喜びに満ちています。神の御子、イエス様は、どのようにして私たちの、この世に生まれてこられたのでしょうか。

新約聖書ルカによる福音書2章1節から7節までを見ますと、ヨセフとマリアがベツレヘムに住民登録するため来ていた、その時マリアに赤ちゃんが生まれたのです。イエス様の誕生です。

6節を見ますと「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とルカは書いています。ベツレヘムの町には住民登録をするため、旅人でいっぱいでした。宿屋は満員でヨセフとマリアも泊まる部屋がなく、やむなく家畜小屋のかたすみで泊まらせてもらったことでしょう。そこへ、マリアは産気づいて、夫のヨセフは、もう、どうしていいか、恐らくパニックになってしまったことでしょう。生まれたばかりのイエス様を布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた、とあります・

人生のスタートのゆりかごは、馬や牛の家畜のえさを入れる飼い葉桶でありました。

考えてみて下さい。神の御子であるイエス様のこの世の誕生が、このようなきびしい、困難な状況から始まりました。

そして、イエス様のこの世での生涯の終わりは、十字架の悲惨な死をもって終わる、などということを誰が想像できたでしょう。私たちの人生の生涯の歩みも右に左に曲折してどのようにたどっていくのかわからないのであります。

さて、このベツレヘムの町から北東へ、エルサレムに向かった道の通りに「羊飼いの野原」がありました。羊飼いたちは、羊の番をしながら夜を過ごしていました。そこへ突然、天から光が照りだして、羊飼いたちのまわりを明るくしたのです。羊も羊飼いたちもびっくりこんです。

皆さん、塑像してください。まわりは真っ暗で、天には星がいっぱい輝いています。

羊飼いたちのまわりは天からの光です。ここに神の栄光があらわれたのです。

皆さん、神の栄光があらわれたのを見たことがあるでしょうか、恐らくないでしょう。羊飼いたちも見たことがない光であります。すると、天使が近づいて言いました。11節を見ますと「今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主、メシアである。」

ここで、天使は「あなた方のために、救い主がお生まれになった。」と告げいています。

あなた方のためです。つまり、羊飼いたちに告げられましたが、このメッセージは私たちのためにも救い主がお生まれになったのですよ、と言っているのです。

この出来事が人々に告げ知らされるのに、まずベツレヘムの郊外の羊飼いたちにクリスマスの知らせを告げたのです。

そして、そこには初めから終わりまで、神の栄光があらわれた中で知らされています。

ここには神の栄光ということが初めから終わりまで出てくるのです。これは、とても大事なことが示されているのです。そうしていると、大勢の天使があらわれ、天の軍勢がいっぱいにあらわれてくるのです。

これは、神話か何かのように考えられるかも知れません。けれども大事なことは、これは徹頭徹尾、天の話だということであります。

注目すべきことは、天からこの話が来た、ということです。ということは「神の栄光があらわれる」ということがクリスマスの中心になっていた、ということであります。

これは、すばらしいことです。全くおどろきであります。そこで、クリスマスは誰のためであるか、と改めて言いますならば、私たちのため、自分のためであるよりも、実は神様のためであった、ということです。おどろきです。

神様がクリスマスを必要とされた、というようなことを私たちは理解しているでしょうか。私たちは神様のことを考えます時、いつも自分の都合から考えますから、従って神様がこれを必要であったか、どうかよくわからないのです。

自分が救われるためなら、クリスマスは必要であるとは思います。或いは救い主が生まれたということはわかるけれども、神様のためにクリスマスが、なぜ必要であったかということは私たちには考えてもみなかったことでしょう。

それは、たとえで言いますと、子供が親は自分のために一生懸命心配してくれている、

それを大変うるさく感じて、親がどうして自分のために心配しなければならないか、という、その必要さを忘れてしまっている。わからないでいる、のとおなじであります。

「俺のことなんか、ほっといてくれ!」と息子は言うかもしれないが、親はほっておれないのだ、というのはわからない。

自分のことをうるさく言う、自分の救いのためならば、もう、そんなにうるさく言わなくともいい。自分は自分で、もうやっていると思っている。だけれども親が、そういうふうに心配するのは、たぶん親のためなのだ、と言ったらおかしいでしょうか。そこに親の愛があるからでしょう。親の持っている愛がどうしても、そうさせるのです。

そして、親はほんとうに親になるために、そのことが必要であった、と言えるかもしれません。

人間の親の場合と、神様とを比較することは、それは難しいことかもしれません。なぜなら人間の親は神様ほど立派ではないからです。しかし、クリスマスという出来事を起こして、その独り子、主イエス・キリストを私どもにお遣わしになり、私たちを救うということは、神様としては放っておけないことであった、ということです。

人間が罪を犯している。それは、そのまま放っておけないことであった、ということです。人間が罪を起こしている。それはそのまま、放っておけ、というのでなく人間の方では罪を犯したことさえ、あまり深刻に考えていない。罪を犯したことの、本当の恐ろしさを知っておられるのは神様です。

神様の方が、どうしても放っておけなくて、従って神様が私たちの罪のため、どうしても救いが必要であったのです。そのためにイエス様は救い主として生まれてこられたのです。

そこで、ルカはクリスマスの話では、初めから終わりまで神に栄光が照り輝き、天使の軍勢があらわれ、ただ、神様の方だけのことが書いてある、と思うほど神様のことが中心になっているのです。このことを忘れてはなりません。

そうすると、私たちのクリスマスの祝い方も、神様のための喜びであります。神様の恵み、神様の栄え、神様の権威、神様の御力というものを、神様を褒め称えるにふさわしく、クリスマスを祝うのでなくてはなりません。

そこで、まず第一に神様の栄光があらわれた、というのです。神様の栄光が照り出て来まして羊飼いたちを照らしたのです。これが単なる光なら、それがどこから照り出して来てもやがて消えるでしょう。ここに照り出されたのは単なる光でなくて、神様の栄光なのです。

神様が天、地、宇宙をつくられ支配されている、そして人間にとって一番大事なことを人間に対しての神様の愛をもたらそうとして、神の御子が来られた。それはクリスマスの夜、神様からのすばらしい、唯一の神様の恵み、神様の権威、が地上に及んで来たということです。そうしたことを含んで神様の栄光が照らし出されたのです。

クリスマスの夜、はじめに羊飼いたちに、神様の栄光は照らし出され、最後には

「いと高き、ところには、神の栄光があるように」という天使の軍勢の賛美でおわっています。

神様の方からの支配の力が及んで来たのですから、それを受けました人間にとりましては、みんなで神様の支配を受け、その神様の支配を褒め称えるようにすることが一番だいじなことでありましょう。クリスマスには、神様が本当に、みんなからあがめられ、みんなが神様を、神様だと褒め称えられるようになること、それで神様の栄光が、この世のすべてに及ぶことなのです。私たちも天の軍勢と共に神様を賛美しましょう。

「いと高きところには、栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」      アーメン・ハレルヤ!


主日礼拝説教 クリスマスイブ
2015年12月24日の聖書日課 ルカ2章1~20節

  

説教「マリアの旅立ち」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章39-45節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今年の待降節も第4主日となりました。クリスマス・イブと一般に呼ばれる降誕祭前夜まであと4日、その翌日が私たちの救い主イエス様の降誕祭となります。降誕祭前夜の礼拝で普通読まれる福音書はルカ2章のイエス様の誕生の出来事についての箇所です。あの有名な、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に住民登録をせよという勅令を出した、という出だしで始まる箇所です。これでイエス様の誕生がいつ、どのような歴史状況の中で起きたかということがわかります。天と地と人間を造られた神が人間の救い主を天の御国から私たち人間のいるこの世に送られたという、そういう現実を超えるような出来事がちゃんと現実の中で起きたということがはっきりします。天の御国という、この世と全く異なる物理的世界におられた方がこの世に送られて人間と一緒に生活できるためには、人間と同じ姿かたちをとらなければならない。それでイエス様は、マリアという人間の女性を母親として赤ちゃんになって誕生したのです。まさに「フィリピの信徒への手紙」2章で次のように言われているとおりです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者とになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 人間が永遠の救いに与れるようにと、これほどまでに御自分を低くされることを厭わなかった神は永遠にほめたたえられますように。

 

2.洗礼者ヨハネと救い主イエス様の役割

  本日の福音書の箇所は、先週に引き続いて、イエス様の母親になるマリアに何が起きたかということについてです。先週の福音書の箇所では、天使ガブリエルがマリアのもとに来て、マリアが聖霊の力で神の子を産む、と告げます。これに対してマリアは最初戸惑いながらも、最後は、告げられた通りになりますように、と言って神が計画していることを受け入れます。

 本日の箇所では、マリアは親戚のエリザベトという女性に会いに行きます。エリザベトは高齢でもう出産は望めない体でしたが、これも天使ガブリエルが夫のザカリアのところに来て、エリザベトは神の力によって男の子を産むことになる、と告げます。ザカリアとエリザベトの間に生まれる子供にも神の計画が託されていました。それは、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(ルカ1章16節)ことでした。その子はヨハネという名をつけられました。大人になったヨハネは「悔い改めの洗礼」を人々に授けました。これはどんな洗礼かというと、当時イスラエルで水を使った清めの儀式が行われていましたが、ヨハネの立場は、そんなもので罪の汚れは消すことは出来ない。罪の汚れを消せない以上、人間は神の裁きから逃れられない。それで、神の裁きを免れるために人間は逆に、罪の汚れを自分の力では消すことが出来ないと観念して認めることから出発しなければならない。そこで、裁きを免れるように神から憐れみを受けられることが大事になる。神から憐れみを受けられるためにはまず、それまで神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようにしなければならない。ヨハネの洗礼は、そういう神への立ち返りをしたという印の洗礼です。しかし、立ち返りをして神の方を向くようになったとは言っても、それだけでは人はまだ神から憐れみを受けていません。

その神の憐れみを受けられるようにしてくれたのがイエス様でした。どのようにしてイエス様は、罪にまみれた人間が神の憐れみを受けられるようにして下さったのでしょうか?イエス様は、本来人間が受けるべき神の罰を人間に代わって全部一人で請け負って十字架の上で死なれました。神のひとり子が人間の罪を全部人間に代わって十字架の上まで背負って運んで下さったのです。人間の罪を償う犠牲の生け贄の中でこれほど神聖なものはありません。この犠牲でもう十分とした神は、この犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命に至る扉を人間に開いて下さいました。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪が赦され、死を超えた永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られながら歩むことができるようになるのです。これが、神が人間のために整えてくれた「罪の赦しの救い」です。

こうして洗礼者ヨハネの洗礼を受けて神への立ち返りを目指すようになった人たちは、今度はイエス様の十字架と復活のおかげで神の憐れみをしっかり受けることができるようになりました。十字架と復活の後は、もうヨハネの洗礼はいりません。そのままイエス様を救い主と信じ、イエス様が命じた洗礼を受ければ、神の憐れみを受けられます。神の憐れみを受けた者が罪の赦しを神に願い出ると、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。

以上述べたことから、洗礼者ヨハネが人間には拭いきれない罪の汚れがあることを人々にしっかり思い起こさせて神に向かって立ち返らせたことがわかってきました。ヨハネは本当に自分の後にやって来るイエス様のために道を整えたということがよくわかります。

 

3.マリアのエリザベト訪問

  本日の福音書の箇所で、マリアの訪問を受けて挨拶されたエリザベトは、胎内の赤ちゃんが小躍りするくらい反応したことを感じます。その瞬間エリザベトは聖霊に満たされて、マリアのことを「私の主の母」と呼びます。「主」というのは、新約旧約聖書双方を通じてたいていの場合、神そのものを指す言葉です。つまりエリザベトは、マリアが生むことになるのは神が人の姿をとった方であると言っているわけで、さすが聖霊に満たされただけあって、これは立派な預言です。

 本日の箇所は一見すると、出産不可能と言われたエリザベトが身ごもって、それをマリアがお祝いに行って、逆にエリザベトから祝われてしまったという、二人の妊婦が互いにおめでとうの気持ちを伝えあっているような微笑ましい出来事に見えます。しかし、よく見ると二人の出会いはあまり普通ではありません。はっきり言って異常です。かたや、不妊で高齢の女性が神の力で子を身ごもって、妊娠6か月目に入っている。他方で、まだ結婚生活に入っていない婚約中の乙女が聖霊の力で身ごもった。婚約中の女性が身ごもったということになると、当然誰がその父親かという問題が起きてきます。先日、最高裁が再婚禁止期間に関する訴訟で判決を下しましたが、あれなどは十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」がしっかり守られていれば起こりえない問題です。ところがマリアの場合は掟を破ってもいないのに、世間の目から見れば破ったと見なされる状況に陥ってしまった。マタイ1章19節で婚約者のヨセフが婚約破棄を考えたと言われていますが、これは当然でしょう。しかし、天使から事の真相を知らされたヨセフは、周囲からどんな目で見られようとも神の計画ならばマリアを妻として受け入れよう、と決心しました。とにかく、そういう普通ありえない出産を迎えることになる二人の母親が会うというのが本日の福音書の箇所の出来事なのです。

 マリアはエリザベトから祝福の言葉をかけられますが(1章42節)、マリアがエリザベトのもとに出向いたのはどうもお祝いの言葉を述べに行くことが第一の目的だったのではないようです。マリアのエリザベト訪問から、マリアの信仰がよくわかりますので、それを見ていきたいと思います。私たちにとっても学ぶことがいろいろあると思います。

 

4.マリアの信仰 - 神に全てを委ねる信頼

 まずルカ1章45節を見てみましょう。エリザベトがマリアに次のように述べます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 「幸い」という言葉ですが、これは時間が経てば過ぎ去ってしまうような、この世的な幸福や幸運ではありません。「幸い」とは、もっと持続的、不変な幸福で、この世を超えて永遠の命に与ることに結びついた幸福です。先ほど、キリスト信仰者は、この世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、と申しましたが、これが「幸い」なことなのであります。たとえ、この世の人生で逆境に陥って貧乏になったり病気になることがあっても、永遠の命に至る道を踏み外さずに歩み続けられるのであれば、その人は「幸い」なのであります。マタイ5章でイエス様自身が言われるように、「幸いな」人は、霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。どれもみな永遠の命に至る道を歩み続ける人を指しています。逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、信仰を持たず永遠の命に至る道を歩まない人は幸いではないのであります。

マリアは婚約中の妊娠という、人の目から見て幸福とは言えない不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画という御心を実現するためならば、とそれを受け入れたのであります。神の人間救済計画とは、人間を永遠の命に至る道に置いてそれを歩めるようにして、人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも「幸いな」人なのであります。

 ルカ1章45節のエリザベトの言葉「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」に戻ります。これは、私たちが用いる新共同訳の文章です。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして、次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、こちらの訳をとっています。英語のNIVはと言えば、それは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じです)。一方では、「神が言ったことが必ず実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。他方では、「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言います。

 つまり、ドイツ・北欧の訳では、マリアがどうして「幸い」かということについて理由がついています。理由は、神が彼女に言ったことは必ず実現するから、それで信じたマリアは幸いだというのです。(この訳は、マタイ5章にあるイエス様の有名な山の上での説教の言い方を思い起こさせます。「悲しんでいる人は幸いである。なぜなら(οτι)彼らは慰められるからだ(4節)」。)「信じたマリアは幸いである。なぜなら(οτι)神の言ったことは実現するからだ」。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現するんだと信じたマリアは幸いだとだけ言います。どちらが正しい訳でしょうか?どちららでも良いように見えますが、ドイツ・北欧の訳の方がマリアの信仰を深く知る上で役に立ちます。

ドイツ・北欧の訳で一つ考えなければならないことは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、ではマリアは一体何を信じたのかということです。英語・日本語の訳では、信じた内容は「神が言ったことが実現する」ということとはっきりしています。それを信じたマリアは幸いということになる。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?ここでエリザベトの夫ザカリアに何が起きたかを振り返ってみると参考になります。ルカ1章5-25節の出来事です。エルサレムの神殿の祭司であったザカリアが神殿の聖所で務めを果たしている時、天使ガブリエルが来て、妻のエリザベトが洗礼者ヨハネを産むことになると告げる。ザカリアは高齢でそんなことは不可能と言う。天使は、お前は伝えた言葉を信じなかったので、それが起きる日までは口がきけない状態になる、と言い、ヨハネの出産の日までその通りになってしまう。

 天使ガブリエルとのやりとりは、マリアの場合はどうだったでしょうか?マリアが神の子を産むことになると天使から告げられて、まだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能か、と聞き返します。これは一見、ザカリアがしたような反論にも聞こえます。しかし、マリアは最後には、「お言葉通り、この身に成りますように」と言って、天使が言ったことを受け入れました。これが、ザカリアとの大きな違いです。これが、マリアが「信じた」ことの内容を理解する鍵になります。マリアが「信じた」のは、起きる事柄の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいですと受け入れたことを指します。これが、マリアが「信じた」ということです。

このように、信仰には、神が起きると言うことを信じる、とか、聖書に起きたと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという意味があります。それに加えて信仰には、マリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の運命を委ねること、つまり神を信頼するということも含まれます。事柄の真実性を信じることと神を信頼するということ、信仰にはこうした二つの要素が含まれています。そういうわけで、「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。英語・日本語の訳では、この神に対する信頼の面が出てこなくなります。

 

5.マリアの信仰 - 神が示した事柄の真実性を信じる

 天使のみ告げの時に明らかになったマリアの信仰には、神に対する信頼があったことが明らかになりました。神が示した事柄の真実性を信じることも、もちろんあります。そのことも見てみましょう。1章39節で、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが出かけた行先は、ザカリアとエリザベトの家があるユダ地方の山間部にある町ということなのですが、どの町かは不明です。ここで、「そのころ」というのは、どのころなのでしょうか?この部分のギリシャ語はわかりそうで、よく見るとわかりにくい形になっています。普通の言い方だったら、マリアは「思い立って出発した」(αναστασα επορεθη)と言うところを、「思い立って」と「出発した」の間に「数日間」(εν ταις ημεραις ταυταις)という語句がついています。見れば見るほど、天使がお告げをした後、マリアは数日間、早く出発しなければ早くしなければ、という状態にあって、その状態が終わるやいなや本当に「急いで」(μετα σπουδης)出発したという感じが伝わってきます。とにかく出発するまで数日間かかったことははっきりしています。そのため、フィンランド語やスウェーデン語の訳では「数日後」とはっきり訳されています。ドイツ語のEinheits‐übersetzung(共同訳?)も「数日後」です。ただし、英語NIVは「その時」、「当時」at that timeで、どちらかと言えば新共同訳と同じです。このように英語と日本語の訳が一致するのをばかり見ると、なんだか聖書の翻訳にも日米同盟があるような感じですが、いずれにしても、マリアが出発するまで何日かかかって早く行かねばという状態があって、出発するともう「急いで」行ったということがはっきりします。

それでは、なぜマリアはしたくてもすぐ出発できなかったのでしょうか?そのことについて聖書は何も書いていないので未熟な憶測は禁物ですが、無理やりな霊的な推測はせずに実際的に考えれば、準備の問題があったと考えられます。ザカリアとエリザベトが住むユダ地方の山間部の町、どの町か不明ですが、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので、少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあったでしょう。若い女性のマリアが一人で旅立ったとは考えにくく、誰かはわかりませんが付き人をつける必要があったでしょう。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、旅行の準備はそれなりに大変だったと思われます。そういうふうに考えれば、早く出発しなければ、早くしなければという状態がわかってきます。そして出発するや否や、のんびりマイペースでではなくて、「急いで」出発したのであります。

 この、早くエリザベトのもとに行かねば、行かねばというマリアの気持ちは、これはルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使から、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印である、と告げられました。羊飼いたちはベツレヘムの郊外にいたので、すぐ現場に急行できました。ルカ2章16節に「急いで行って」とある通りです。羊飼いたちは、まだ見ていないのに、天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じです。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をし、整うや急いで出かけて行ったのです。そしてマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと神に全てを委ねる信頼の両方があったのです。信仰と洗礼の恵みの中に生きる私たちも、その両方を持って旅立つことが出来ますように。

 

6.おわりに

神が示した事柄の真実性を信じることと神に全てを委ねる信頼の両方を持って旅立った人物としてもう一人忘れてはならない人がいます。アブラハムです。ルターが「ヘブライ人への手紙」11章の中で述べられているアブラハムの信仰について解き明かしをしていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです(ヘブライ人への手紙11章8節)」

「アブラハムは、一体どこに到着するのか自分でも知らないまま、神に命じられた通り自分の国を旅立って行った。行き先はどこにあるのか、そこで何が待っているのか、自分は何もわからない。それを知っている神がただ行きなさいと命じられる。まさにここに、信仰の困難かつ大きな戦いと試練がある。

 しかし、その時アブラハムは一体何をしたであろうか?彼がしたことはただ、神が彼に与えた言葉を唯一確かなものとして携えて出発したことである。その言葉とは、「私はお前に祝福を授ける」というものであった。信仰というものは、はっきり見える目を持っているのである。その目は、光が全くない暗闇の中でも見ることができる。信仰とはまさに、何も見えないところで見、何も感じることができないところで感じるのである。

 「ヘブライ人への手紙」のこの御言葉は、まさに私たちのために書かれた。それは、私たちがアブラハムのように神の御言葉に拠って立つことを学ぶためである。この御言葉の中で神は、私たちの身体と命、さらには魂までをも守り抜くと約束して下さっているのである。たとえ、そのように見えなくてもそのように感じられなくとも、そうなのである。だから、全てのことが正反対のようになってしまったと思われても、あなたはただ神が約束されたことを信頼することに努めなさい。アブラハムに対しても神は、約束を実現するのを何年もかけて待たせたのだ。今の時代を生きる私たちに対しても神の助けや導きがなかなか得られないように見える場合でも、あなたは信じることを止めてはならない。なぜなら、神が定めた時をあなたに待たせるのは、あなたの信仰を強めるためという意図があるからなのである。それはアブラハムに対しても起こったことなのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 待降節4主日
2015年12月20日の聖書日課 ミカ5章1-4a節、ヘブライ10章5-10節、ルカ1章39-45節

説教「クリスマスを迎える心」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章25~27節

 

 今日の礼拝は、教会のこよみで、待降節第3主日の礼拝です。

今日の聖書のルカ福音書1章26節から見ていきますと、ここに天使の中でも位の高い、ガブリエルという天使が、神様から遣わされて、ナザレという町で、ごく平凡に、素朴な信仰を持った1人のおとめ、マリアのもとへやって参りました。

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と告げたのです。

普通の生活をしている中に、天使が現れた、というだけでも、驚きです。

そして、突然に「マリアよ、おめでとう。」と言われて、マリアはこの言葉に戸惑いました。

いったい、この挨拶は何の事だろう、と困惑しています。

続いて、天使は告げたのです。「マリア、恐れることはない。あなたは、神から、恵をいただいた。あなたは身ごもって、男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

天使は、大変なことをマリアに告げました。この天使の御告げを聞いたマリアは、どんな心境であったでしょうか。

マリアが身ごもって、男の子を産むというのです。その産まれる子は救い主メシヤ

となる、というのです。

人間の世に救い主が与えられる等というとこは、前もって知っていた人は一人もいないでしょう。

これは、神様が御計画を持ち、神様が実行されていったものだからです。

だから、人間には知るよしもありません。人間は誰も皆、不意打ちで、あわてるばかりでした。

 

こんなことが起こるとは、だれも想像しませんでした。

しかも、おとめマリアから、救い主がお生まれになる等ということは誰が想像したでしょうか。

こうして、神様の御業が起こる、とういうことに、誰も想像できません。

ナザレの町は、その当時、ローマ帝国に征服された属国であります。その片田舎で、人間に対する、神の救いが与えられる、ということは考えられないことでありました。

東方の博士たちは、それに気づいていました。

ユダヤ人の王として、救い主が生まれる、星占いで彼らは知ったというのです。

星は天から地球の全体を見ているものです。

宇宙の壮大なバランスの中で、星々が動いて、輝いていることを星の博士たちは、よく知っているのです。

宇宙の地球の、この世界に、ユダヤ人の王として政界の救い主が生まれようとは、彼らは思ってもみなかったでしょう。特別なことがありそうだとは考えていたでしょう。

 

さて、そのほかに、もう一人、ひそかに心を痛めていた人がありました。ナザレの田舎娘、それがマリアその人です。

彼女は自分の体の異常に気がつきました。どうして、そうなったのか。自分では、全く、分からないことでした。

ただ、その頃、自分の周辺に珍しい事が起こっていました。

それは親族のザカリヤの妻が、もう老年になって、子供がなかったのに、身ごもったということです。

しかも、それがきっかけになって、その夫、ザカリヤは口がきけなくなったのです。不思議なことが起こっていました。

マリアは、その噂を聞いていたでありましょう。

それは、おめでたいことなのに、何かこわいようなことであったと思います。

しかし、それより自分の身に起ころうとしていることが、もっと恐ろしいように思われました。

ザカリヤの妻の場合には、年をとったといっても、夫のある身ですから、まだ、子供ができるということもないではない。

しかし、自分は、まだ婚約中で、その人と一緒に暮らしてはいないのです。それに身ごもったとすれば、それはただ事ではありません。彼女は一人悩んだことでしょう。

その悩みは、どんなに深刻であったでしょう。

天も地も、一度に変わって欲しい。自分もろとも滅び去ってほしい、と思ったかもしれません。

しかし、それでもなお、ここに神様の救いが与えられるとは考えなかったでしょう。

深刻極まるマリアの思いさえ、消し飛んでしまうような、大きな救いが起こるとは、考えることもできなかったでしょう。

マリアは穏やかに毎日を過ごしていましたのに、突然に天使によって告げられたことは、自分の年に、これからどんな事が起こっていくのか、戸惑うマリアに天使は言ってくれたのです。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵を頂いた・・・」

 

マリアが一番に驚いたことは、これは自分には、あり得ないことであるからであります。

34節を見ますと、「どうしてそんなことがあり得ましょうか。私には、まだ夫がありませんのに。」とあります。

その通りです。マリアの言葉は、その通りにちがいありません。

それだけのことでしょうか。

ただの田舎の小娘が、あわて、恐れて、こう言っていつだけでしょうか。それなら、わざわざ聖書に書き残しておく必要もないでしょう。

ごく普通に考えられることだからです。

しかし、ルカはマリアの話だけでなく、ザカリヤの妻の事も一緒に書き記しています。

ここにも、どうして、そんな事があり得るだろうか、ということがあるからです。

事情は違っても、絶対にあり得ない事があったという点では変わりはないのです。

「あり得ないこと」というのは、人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なこと、ということになるのです。

 

人間の力では、どうにもならないこと、それがクリスマスの不思議な出来事です。それがマリアに起ころうとしています。

マリアは、自分を、どうすることもできませんでした。

自分の困難な状況を、解決する力などありません。

自分の恥を隠すすべも、なければ、それを、どう処理していいか、全く分からなかったのです。

マリアは、自分で、全く、無力を感じていたにちがいありません。

 

しかし、このように無力を感じるのは、マリアだけでありましょうか。

マリアのような特別な立場に立たされた人間だけでありましょうか。そうではないでしょう。

私たちも、又、何らかの容易ならぬ問題に直面したりするものです。

外の人から見れば、そうたいした事のないように見えても、本人にとっては、人に言えない事情が深刻な重荷となっているものです。

人間の力では、どうにもならない、と言えば、それは神から離れてしまっている、ということでしょう。

最後には、神に持って行くほかない。

それを神に、おまかせする事ができると、事柄は、全く変わってしまうものであります。

重荷でしかなかったものから、神の恵みを知った、という人は、多くあります。

そこまで至らないと、実は、真の解決が得られない。

すべてを、神にゆだねていく。どの事も、神が人間に、恵を与えて下さる手段であった、という事に気が付く。

それまでは救いはありません。

 

マリアの身に起こったようなことは、私たちには起こらないかも知れません。しかし、「どうしてそんなことが。」と言わねばならないような、説明のつかない恵みは、私たちにも加えられるのです。

ただ、それを恵み、とすることができるか、だけであります。

マリアは、そのことを正しく、受け止めることができました。

マリアは主なる神が、自分に対してなさったことを、そのまま、信頼を持って、受け入れたのです。

 

38節でマリアは「わたしは主の、はしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と言っています。

「はしため」というのは、女奴隷のことです。だから、この言葉は「わたしは、あなたの奴隷でございます。」ということです。

奴隷は、ご主人の言うままになるものであります。その命までもすべて、主人のものにしている者です。

マリアは、自分を、全く、すべて、神の御手にまかせきったのです。

「お言葉どおりに」というのは、いろいろ言われる通りに、ということです。だから1つの言葉ではないのです。

いろいろなお考えがおありになるでしょう。その、どのお言葉にも従います、というとこであります。

マリアが「わたしは、主のはしためです」と言った、つまり主の奴隷です、と言ったのは、少し、言いすぎでしょうか。

 

私たちの場合、少なくとも、そこまでは言う必要はない、と思われるかもしれません。

そこで、そこまで神の思いのままにされては、やり切れない、という気持ちになるのではないでしょうか。

そうなると、神に従う、と言っても、ほどほどにする、神におまかせする、といっても、程度がある。いつでも、少し、自分の言い分を、とっておく、ということになるのであります。しかし、それでは、神にまかせた、ということにはなりません。

そういうことでは、神にまかせた者の祝福を得ることはできないのです。

マリアは、自分を主のはしためです。奴隷です、と言いました。

私たちは、マリアとはちがうと言いたいのでしょうか。

いいえ、私たちこそ、神の奴隷、キリストの奴隷、なのです。

私たちは罪の奴隷となっていたのに、キリストの救いによって、贖われたのです。

贖うとは、買いとる、ということです。キリストに買いとられたのであれば、キリストのもの、となってしまったのです。

 

私たちも、マリアと同じように、「お言葉どおりにして下さい。」と言うほかはありません。

マリアは、だんだん導かれて、何を考えたらいいか、分かるようになった、と思います。

事柄は理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、よくわからない。わからないままに、それを受ける。受け方がわかってきたのです。

 

マリアは、何がわかった、というのでしょう。それは、「主が一緒にいて下さる。」ということです。

「主が、あなたと共におられます。」と、天使は言ってくれました。

私たちに対しても、どんな時にも、慰めの言葉は、「主なる神があなたと、共に、おられます。」ということです。

「神が一緒に、いて下さる。」ことを心の底から信じることができたら、何を恐れる必要がありましょう。

キリストが、この世に来られたのは、神が、私たちと一緒にいて下さる、という、この信仰を与えるためであります。

この事実を確信させるためであります。

 

マリアは戸惑いましたが、主が一緒にいて下さることを告げられ、それを信じるためにどうしたらいいか、マリアは祈り求めたことでしょう。天使は、マリアに、「恵まれた女よ。」と言いました。マリアはもう恵みを受けて、今、恵みの中にいるのです。マリアは、まだ約束を受けているだけでありましたが、しかし、その約束は変わることがありません。

必ず、成就するのです。それを、待つのです。

マリアは、もう、恵みをいっぱい受けている人なのです。

それは37節にありますように、「神には、何もできないことはないからであります。」

マリアは、ただ、御心のままになさって下さいと祈るのみです。

 

 私たちも、マリアのように、いっさいを、神のみこころにゆだねて、新しい心で、クリスマスを迎えていきましょう。

                    アーメン、ハレルヤ!


主日礼拝説教 待降節第3主日
2015年12月13日(日)の聖書日課 ルカ1章25~27節

説教「救い主を待ち望む者の心得」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書3章1-6節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 先週の主日に本年の待降節が始まり、本日はその二回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美を捧げながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節や降誕祭は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2000年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待ち望む心を活性化させる期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるように生きていかねばなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、今のこの世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心をしっかり持ち、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場とか境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるために、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は解決に向けて努力する。こうした世話や改善や解決をしていく際の判断の基準として、キリスト信仰者は、まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、この神への全身全霊の愛に基づいて、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらやっているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な者ではありません。

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。主を待ち望む者が心得るべきものとは、簡単に言えば、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言うことです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに」なるくらいに道を整える。そうすれば「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ことになるのです。このように言うと、一つ疑問が起こります。あれ、この「主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、救い主イエス様の最初の到来を待ち望んでいた人たちに対して言われていたことではなかったか、第二の到来を待つ私たちにも関係するのか、という疑問です。それが実は関係するのです。もちろん、最初の到来を待ち望んでいた人たちには、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。私たちにはそれらは既に起きています。そういう違いはあります。それでも、主を待ち望む者がすべきこととして道の整えはあります。それでは、主の道の整え、その道筋をまっすぐにするというのは、具体的に何をすることなのか?このことについて、以下みていくことといたします。

 

2.主の道の整えよ - 十字架と復活の出来事の前の時代

初めにイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の人たちにとっての「主の道の整え」について見ていきましょう。

その時、洗礼者ヨハネが救い主に先だって登場しました。彼が宣べ伝えたことは、「悔い改めの洗礼」でした。新共同訳では「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ギリシャ語の原文は、もちろん、そのように訳すことができます。しかし、ヨハネの洗礼が罪の赦しを得させた、という理解には留保をつけましょう。なぜなら、神が与えるものとしての罪の赦しは、イエス様が十字架で死なれた時にはじめて実現したからです。それで、ヨハネの洗礼がすでに罪の赦しを与えたような表現は避けた方がよいでしょう。それでは、ヨハネの洗礼はどう理解したらよいでしょうか?

洗礼者ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」とも言われています。「悔い改め」と言うと、何か悪いことや落ち度のあることをして悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に頻繁に出てくる言葉、「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞シューブשובと結びつけて考えられるようになりました。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで神に背を向けて生きていたことを改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、というように意味が限定されていったのです。そういうわけで、「悔い改めの洗礼」とは、「神のもとに立ち返る洗礼」という意味になるのです。

この「神のもとに立ち返る洗礼」は、当時のユダヤ教の考え方からすれば、画期的だったと思われます。当時のユダヤ教にも水を用いた清めの儀式がありました。しかし、同じ水を用いた儀式でも、ヨハネの洗礼は全く次元の異なるものでした。皆様も覚えていらっしゃると思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。ファリサイ派が重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清めがありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。

ところがイエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので、神の意思の実現・体現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。

洗礼者ヨハネが「罪の赦しに導くための、神のもとに立ち返る洗礼」を宣べ伝えた時、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。つまり、神が与えるものとしての「罪の赦し」はまだ実現していません。ヨハネが人々を自分の洗礼に呼びかけたというのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。

このように洗礼者ヨハネは、人間の造った掟や儀式で汚れがなくなると信じること自体から清められよ、そうすることが神の整える救いを全身全霊で受け取ることができるために必要なことだ、と教えるのであります。それができると、あとは神からの救いがスムーズに入ってくる。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのです。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が整えた救いはいらなくなってしまいます。神が整えた救いがやってくることの障害になってしまいます。道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は人間の心をもうすぐ現れるイエス様に向けさせるものでした。単なる清めの儀式にはイエス様との関連は何もありません。

 

3.イエス様の十字架と復活がもたらしたもの

さて、イエス様の十字架と復活の出来事は起きました。それでは、罪の赦しはどのように得ることができるでしょうか?洗礼者ヨハネの時のように、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということはまだ必要なのでしょうか?それは、ヨハネの時は違う仕方ですが、必要なのです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や彼が送られる救い主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。もちろん、神は、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神はそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、私たちは、神の近づきがとても良いものであるとわからなければ、何が障害になっているかとか、それをいかに取り除くことができるかということには興味を持とうとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが素晴らしいことなのか、ということについて考えてみなければなりません。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(6章23節)。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。こうして、人間は、神との最初にあった結びつきを失ってしまいました。

 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。

 神が人間の救いのためにイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間は自分の力で罪と不従順を心身から除去することができない。それが出来ない以上、人間は罪の呪いの力の下に留まるしかない。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせる。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。それだけで終わりませんでした。神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開いたのです。これが、天地創造の神による人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで、その彼を通して、私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復できて、再び永遠の命を持つことができるためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

4.主の道を整えよ - 十字架と復活の出来事の後の時代 - 洗礼への道

それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、全身に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それは、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた全人類の創造主である神の計らいだったのだということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明瞭に私たちの目の前に私たちの救い主として立ち現われてくるのです。

 イエス様が私たちの救い主として立ち現われたというのは、それはもう彼を自分の救い主と信じることです。人間は、イエス様を自分の唯一の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。神は、お前は私がお前に送ったイエスをやっと救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう、と言ってくれるのです。私たち人間はまだ肉を纏っている以上は、罪と不従順を内に宿しています。しかし、神は、それが理由で神との結びつきを認めない、とは言われません。イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、罪の支配力がその人に対して無力になり、罪の呪いが消えたということです。人間は、罪の赦しを得ることで神との結びつきを回復できるのです。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、支配力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ勢力を保っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び人間を罪の支配下に置いて、神との結びつきを失わせようとします。これが悪魔の仕事なのです。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができますが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。私たちに残存する罪や悪魔だけでなく、私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も、私たちには救い主がいることを忘れさせようとします。そのような困難の真っ只中にあっても、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり答えられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38-39節)

 

5.主の道を整えよ - 十字架と復活の出来事の後の時代 - 洗礼の後

以上から、私たちが神と救い主の近づきを受け入れるためには、イエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることであることがわかりました。これがイエス様の十字架と復活の後の時代を生きる私たちにとって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことであります。

 ところが、この道の整え、道筋をまっすぐにすることは、信じて洗礼を受けて終わりません。自分を造ってくれた神が、意にそぐわなかった自分を御子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということがわかって、神への感謝に満たされて、これからは神の御心と意思に沿う生き方をしよう、沿う考え方をしよう、と志すにもかかわらず、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。しかし、忘れてはならないことは、告白に続く罪の赦しの宣言が「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」という確証を与えくれることです。主の道を整えるとは、このように、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。

ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて神の愛から切り離そうとします。そうしたことを相手に苦しい戦いを強いられることが何度も何度も繰り返されます。しかし、神の意思に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が大きな愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、十字架の死と死からの復活を成し遂げられることで、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が、マタイ福音書28章20節で、信じる者たちと毎日、世の終わりまで共にいる、と約束されました。なにをか恐れじです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


主日礼拝説教 待降節第2主日
2015年12月6日の聖書日課  ルカ3章1-6節、マラキ3章1-3節、フィリピ1章11

説教「あなたの王がやってくる」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章28-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて下さり、皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みの上に神が豊かな祝福を与えて下さいますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書の箇所が読まれる際に群衆の歓呼のところまでくると、そこで朗読はいったん止まります。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。先ほどこの礼拝の初めに歌った歌です。フィンランドやスウェーデンでは実に讃美歌集の一番の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。

 

2.ルカの観点

 ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、本日読まれたルカ福音書の中には「ホサナ」の言葉がありませんでした。マルコ11章、マタイ21章、ヨハネ12章に同じ出来事の記述がありますが、それらには群衆の歓呼には「ホサナ」があります。「ホサナ」というのは、アラム語の言葉で、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語と言うのは旧約聖書の言葉で、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になったわけです。この言葉は今見たように、もともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味がありました。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。さて、ルカ以外の福音書では、群衆はこの歓呼の言葉を叫んでいますが、ルカにはありません。どうしてでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

 この問題は4つの福音書がどのようにして出来上がったかというとても大きな問題に関わるので、ここではそれには立ち入らないで、「ホサナ」がルカ福音書にないことをどう考えたらよいかについて述べておくだけにします。ルカ福音書の1章を見ますと、この福音書がどのようにして出来たかが言われています。福音書記者の手元に資料が山ほどある。まずイエス様の出来事の直接の目撃者の証言。次にその証言を聞いてイエス様を救い主と信じた人たちが聞いたことを口伝えに伝えた事柄。さらに、そうした人たちが記録として書き留めた事柄等々です。ルカ福音書は、それらの資料を編集して出来たというのであります。福音書の記者自身もイエス様を救い主と信じる人です。だから、受け取った資料は慎重に扱わなければならない。しかしながら、資料には重複があったり、同じ出来事を扱っても詳細が一致しないものもある。そういう時、優れた編集者は手元の資料を単に無修正でつなぎ合わせることはしません。自分の観点から取捨選択をして一つスムーズにまとまった全体をつくりだそうとします。ルカの観点は言うまでもなく、イエス様は神の子で旧約聖書に約束された全人類の救い主であるという信仰です。これが彼の観点です。その観点から見て、瑣末と思われることは背景に追いやられたり省略されたりしたでしょう。逆に重要と思われることは、表面に出されたり強調されたりしたでしょう。このようなことがあるので、4つの福音書の中で同じ出来事を扱っていても細かい点で違いは出てくるのは当然なことなのです。

ここで忘れてはならないとても大事なことがあります。それは、同じ出来事を扱って細かい点が違っているというのは、実は大元にある出来事の信ぴょう性を高めるということです。十字架の出来事にしろ、復活の出来事にしろ、大元にある出来事がまず直接の目撃者によって目撃される。これが動かせない事実としてある。それが口伝えに伝えられ、書き留められ、まとめられていく。その過程で、大元は核としてそのまま残り続けるが、周りの細かい点で違いが生じてくるというだけにすぎないのです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、福音書に記された事柄、イエス様の教え、業、彼に起きた出来事の全てを、昔の人の空想か作り話などと言って軽々しく扱わないように注意しましょう。イエス様の出来事の直接の目撃者である使徒たちは、権力者側からイエスの名を広めたら命はないぞと脅され警告されたにもかかわらず、広めて行ったのです。自分たちの目で見て耳で聞いた驚くべきことを黙っているわけにはいかなかったのです。それくらい見聞きしたことは驚くべきことだったのです。そういうわけで、福音書の土台にあるものは実は、使徒たちの命を賭した証言集なのです。

大元にあるものは動かせない事実としてあるが、それを4つの福音書が4つの観点から記述している。それゆえ、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるためには4つの福音書全てをしっかりみないといけないのです。ある福音書を読んだら、あとは適当でいいということでは不十分なのです。(注)

ここで、ルカ福音書に「ホサナ」の歓呼の声がないことについてどう考えたらよいかということについてみてみましょう。ルカという福音書と使徒言行録の記者は、イエス様についてイスラエルの民の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それがあるので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界にとっての「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、先ほど申しましたようにイスラエルの民が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉です。それで、ルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する時、イエス様が神から祝福を受けて神の名において到来する王ということが読者に伝われば、それで十分、あえてイスラエルの民族性を出さなくても良いとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったと思いますが、彼らは伝えられた史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

 

3.未完の預言

 いずれにしても、エルサレムに入城したイエス様は、群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちで凱旋したでしょう。ところが、この王は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。本当にこの光景、出来事は一体何なのでしょうか?

加えて、イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるようにと命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

実は、これはパロディーでもなんでもないのです。まことに真面目で神聖なことそのものなのです。昨年の説教の時にも申し上げたのですが、このことについて少し振り返ってみます。

 このイエス様の行為は、旧約聖書の預言書のひとつ、ゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという預言は、イザヤ書11章1-10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。今のこの世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがては今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完全な正義を実現するのがイエス様ということなのです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の目からみた正義や公平について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。これらの預言は確かに成就されたとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、新しい天と地の世界はまだ起きなかったではないか?預言は完全には実現しなかったではないか?実はこれらの預言は、イエス様の再臨の時に実現するものなのです。まだ預言は未完なのです。イエス様が最初に来られた時、一部は実現しましたが、それは預言全体の実現が始ったということで、イエス様の再臨をもって全て完結するというものであります。最初に来られた時、イエス様は無数の奇跡の業を行いましたが、実はこれは害悪も危害もない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味があったのです。

 

4.イエス様は「王」

 ところでイエス様を歓呼で迎えた弟子たちや民衆は、実は神の大事業が全人類の救いに関わるとまでは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様はあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる王でしかありませんでした。旧約聖書の本当の意図することと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでしたが、それはいたしかたのないことでした。というのも、一方でバビロン捕囚後のユダヤ民族が辿った歴史があり、他方で旧約聖書にメシアについての預言があり、そうなると民族解放の願望がメシアに結びつけられてしまうのは容易なことでありました。メシアというのは実は、全人類を罪と死の支配から解放してくれる王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。

イエス様が全人類を罪と死の支配から解放してくれる王という時、それはどのようにして実現したのでしょうか?イエス様は、自分自身神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架にかけられて自分の命を捧げて、人間の罪を人間にかわって償いました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲の生け贄は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死んでくださったイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦される。神から罪の赦しを受けることで人間は、それまで罪のゆえに断ち切れていた神との結びつきを回復する。まさにこれで罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は無力化されたのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになりました。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に戻ることができるようになったのです。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた圧倒的な力を完膚なきまで無力化しました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

そのような計り知れない権威と支配力を持つイエス様が王と呼ばれるのですが、現代ではこの呼び名は大丈夫でしょうか?民主主義が確立する前の歴史の段階では、王は国の実際の支配者でした。王冠をかぶって支配権を象徴する杖をもって王座に座っていました。そして、国の重要事項の決定は取り巻き連中に諮りながらも自分の責任で行い、戦争があれば軍隊の先頭に立って出陣しました。そういう時代であれば、イエス様は王と呼ぶのは、イエス様の権威を理解する上でよかったと思います。

しかしながら、民主主義が確立すると、君主制は廃止されるか、残っても実際の支配権は持たないというのがほとんどです。権力は、国民が選挙で選ぶ大統領に委ねられたり、または選挙で選ばれた国会や国会が選ぶ政府や首相に委ねられたりします。そういうところでは、王は国会の開会を宣言したり、国会が可決した法案に署名して法律の体裁を整えたりするなど、極めて形式的儀礼的な役割しか持っていません。それなら、イエス様を王と呼ばずに首相とか大統領と呼んだ方が実態に即しているでしょうか?

実は即していないのです。イエス様はやはり王と呼ぶのが相応しいのです。どうしてかというと、首相とか大統領は国民が選挙で選ぶものです。国民の多数の支持がなければ、選出されません。イエス様がメシア救世主というのは、彼が神のひとり子だからそうなのであり、選挙で選ばれたからではありません。イエス様がメシアでいられるために国民の多数の支持など必要ないのです。国民の多数が嫌いになろうが背を向けようが、イエス様が神のひとり子でメシアであるということには何の影響もないのです。

民主主義が確立する前の時代では民衆は王に「お仕えする」ということがありました。私たちが国会や政府や首相に「仕える」ということはありません。私たちがそれらの決めたことに従うのは、それらにお仕えするからではなく、それらは国民のためにいろいろなことを決めなさいと国民から選ばれたという建前があるからです。もちろん、そうした権力機関の決めたことが、果たして国民のためになっているのかどうか怪しいと多くの人が疑問視するようになると、この建前は機能が難しくなります。いずれにしても、この民主主義の時代に国民が「お仕えする」ような権威を設けることは難しいのではないかと思われます。それなのに、イエス様をいつまでも「王」と呼ぶのはどうしてなのでしょうか?

よく考えてみると、「お仕え」したのは私たちではなく、イエス様の方であったことに気づかされます。私たちを罪と死の支配から贖い出すために御自分の命を犠牲にされたのです。人間が受ける「お仕え」でこれ以上のものはあるでしょうか?大統領や首相や人間の王様のだれも、人間を罪と死の支配から贖い出すことなど出来ません。また、国民の福利厚生のために自分の命を犠牲にするということもまずありえないでしょう。とにかく私たちは、それくらいの「お仕え」をイエス様にしていただいたことがわかれば、私たちが王であるイエス様に対して行う「お仕え」というのも、怠けるのも恥ずかしいくらい取るに足らないものであることがわかるでしょう。私たちの「お仕え」は何かと言うと、イエス様によって罪と死の支配から贖い出された者としてしっかり生きることです。具体的にどういうことかと言うと、もし罪の考えを抱くようなことがあれば、それが行為や口に出てしまって罪の支配下に戻らないようにしなければなりません。その時はすぐ神に罪の赦しを乞います。すると神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さいます。その赦しが本当であることを確信させるために、神は私たちの心の目をいつもゴルゴタの十字架の上で死なれたイエス様に向けさせます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様によって罪と死の支配から贖われた者ですので、そのような者としてしっかり歩んでまいりましょう。私たちのイエス様に対する「お仕え」は、以上のような自分自身の生き方に関することだけではありません。それと併せて、出来るだけ多くの人が罪と死の支配からの贖いを持てるように祈ったり働きかけたりすることもあります。そのことも忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(注)そうすると、トマス福音書とかユダ福音書とか、聖書には収められていない福音書はどうするのか、という疑問が起きてきます。福音の全体像がわかるためにこれらの書物には意味はないのか?答えは、意味なしです。というのは、こういう「福音書」の名がつく書物は、使徒たちの教えや伝えたことと相いれない、つまり使徒的な伝統から外れているのです。それで聖書には載せられなかったのです。それでは、何の書物を聖書に載せることができて何を載せないとする基準にある使徒的な伝統とは何か?それは、簡単に言えば、新約聖書の使徒書の部分が使徒的な伝統を表しています。何の書物を聖書に載せることができて何を載せないというのは、別の言い方をすれば、聖霊のコントロールが働いていたということですが、使徒書を書いた人たちは本当に聖霊の力を受けて書いたとしか言いようがないのです。

そういうわけで私は、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるために聖書は次のような順序で読むのがいいのではないかと、最近強く考えるようになってきました。まず使徒書を通して使徒的伝統の基本を学ぶ。次に旧約聖書に行って、なぜ人間は神からの救いが必要なのか、そのために神は何を計画されたかを学ぶ。その次に4つの福音書と使徒言行録が来て、神の計画が実際どのように実現されたかを学ぶ。そんな順序です。最後はもちろん、黙示録です。ただし、これは、旧約新約両方の書物で、終末の出来事やイエス様の再臨について述べているものを復習しながら読むのがいいと思います。


主日礼拝説教 待降節第1主日
2015年11月22日の聖書日課 エレミア33章14-16節、第2テサロニケ3章6-13節、ルカ19章28-40節

説教「神の裁きにも耐えうる潔白な良心」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書13章24-31節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人となってこの世に来たクリスマスの出来事に向けられます。2000年以上前の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様に思いを馳せます。

さて、待降節は次主日にゆずるとして、教会の一年の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わりを告げる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る時に起きることです。私たちが礼拝の中で唱える信仰告白の使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判です。その時はまた、今ある天と地さえもが崩れ去って全く新しい天と地が創造されるという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、創造主である神の御心に適うとされた者が復活の体を着せられて、永遠の神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時生きている人と一緒に審判を受けるのであります。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」ということであります。

その裁きの日がいつであるかは、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が言われるように、これは天の父なるみ神以外には誰にも知らされていません(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(33-37節)。

このように教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会ではこの日、最後の審判に今一度心を向けて、いま自分は永遠の命に至る道をしっかり歩んでいるかどうか、自分の信仰生活を振り返る意味があります。もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日です。この課題は、ことの性質上とても重々しく恐ろしいことですらあります。そのため、自省することを避けてさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人の方が多いのかもしれません。しかし、忘れてはならないことは、最後の審判は恐ろしいことではありますが、イエス・キリストの福音というものは、裁きの恐れを乗り越える勇気と力を与えてくれるということです。そのような勇気と力が与えられた時の喜びと安心はひとしおです。まさに福音の力がわかるためにこそ、最後の審判に目を向けるべきだと思います。そういうわけで本説教では、最後の審判の恐れを乗り越えられる福音の力を明らかにすることを目標にしたく思います。

その前にひとつ脇道になるかもしれませんが、今次パリで起きた痛ましいテロ事件の中で「裁き」とか「復活の希望」について少し考えさせることがあったので先にそれについて触れておきたく思います。それは、この事件で愛する妻を失った夫がテロリストに対してフェイスブックに書き送った文章です。アントワーヌ・レリスという方の「君たちが私の憎悪を得ることはない」という題の文章で、投稿されてすぐ20万人もの人に読まれて感動を与えたということです。新聞にも報道されたのでご存知のかたもいらっしゃると思います。

文章の要旨は大体以下のことです。テロリストの目的は、テロを被った人たちが絶望に陥って生きる希望を失うか、または深い憎悪に陥って復讐を生きる目的にしてしまうことにある。しかし、自分はそのような憎悪に陥るつもりはないし、残された息子とこれまでと同じようにこれからも生きて行くので希望も失っていない。そういうわけで、テロリストの目的は失敗したのだ。もちろん、深い悲しみに突き落とされたという点ではテロリストの勝利は認めるが、それも実はちっぽけな勝利で長続きしないのだ。

このように悲しみのどん底にあっても絶望に終わらず憎悪の連鎖にも陥らない。もし、そうなったらテロリストの思うつぼですが、そうならないで憎悪から全く自由な愛と希望を持ち続けられるというのは、一体どうして可能なのでしょうか?私の推測ですが、この悲劇がきっかけとなってレリス氏の心に「復活の再会の希望」というキリスト信仰で最も大事なことが輝き出したからではないかと思います。氏がどのような信仰の持ち主かは知りようがありませんが、文章の中に次のような「復活の再会の希望」をうかがわせる下りがあります。「妻はいつも私たちとともにあり、私たちは自由な魂たちのパラダイスで再びあいまみえるのだ。君たちが入れることのないパラダイスで」というところです。人生を今あるこの世の人生と次の新しい世の人生の二つを合わせたものと見なすことができれば、テロリストの勝利は実に「ちっぽけで」「長続き」しないものになるのです。

ここで、テロリストがパラダイス楽園すなわち天国に入れないと言われていることについて、ここには言うまでもなく、神の裁きがあります。そうすると、憎悪から自由な愛などと言っても、やっぱり復讐心があるのではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここで使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」12章で教えていることを思い起こせば、なんの矛盾もありません。

パウロはそこで、復讐は神のすることである、全ては神の裁きに任せよ、と教えます(19節)。さらに、キリスト信仰者は全ての人に対して少なくとも自分の方からは平和な関係を結びなさい(18節)、つまり、自分の方からは悪や憎悪を振りかざしてはいけないということです。ただ悪を成す者に遭遇した場合は、もしその者が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませよ、そのような態度で臨みなさい、そうすることで敵の頭に燃える炭火を積み重ねることになる、と教えました(20節)。ここに憎悪と絶望の連鎖から自由になれる知恵があります。それは、神が最後の審判を司る方であるとわかっているから受け入れられるのであり、また復活の再会が待っているという希望があるから受け入れられる知恵なのです。もちろん、犯された犯罪は法律に従って処罰されなければならないということは、パウロもうち立てられた権威には従うべきと言っている以上(ローマ13章)、しなければなりません。しかし、犯罪者の処罰刑罰は憎悪と復讐心とは別物でなければならないということなのです。

 少し脇道によりましたが、ここで本筋に戻ります。神の裁きは恐ろしいものではあるが、イエス・キリストの福音にはその恐れを乗り越えられる力があることを、本日の福音書の箇所をもとに見ていきます。

2.本日の福音書の箇所は、マルコ福音書13章全部にわたるイエス様の預言の一部です。マルコ13章はキリストの黙示録とも呼ばれます。預言の内容はとても複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にイスラエルの地で起きる出来事の預言と、もっと遠い将来に全人類にかかわる出来事の預言の二つが複雑に入り交ざっているからです。それらを解きほぐすように読まなければなりません。13章のはじめでイエス様が、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来る、と預言されます(1-2節)。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった4人の弟子が、いつそれが起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と聞きます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。ところが預言は語られるうちに、神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

マルコ13章のイエス様の黙示録についての詳しい分析は別の機会に譲り、ここでは概要だけにします。エルサレムの神殿の破壊の前兆として、偽キリスト、戦争、地震、迫害が起きると預言されます。西暦70年に起きた神殿破壊の前にはこれらのことは起こりました。14節で「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」と言われます。「憎むべき破壊者」とはダニエル書の11章や12章の預言に出てくるものですが、ここでは詳しいことは抜きにして、そんなことが

西暦70年の前に起こったかどうか。一つの可能性はイエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラが神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちの必死の努力で撤回されたという事件がありました。これがもとでローマ帝国とユダヤ人の間の対立が深まって、ついには西暦70年のエルサレム破壊に至ってしまう導火線になったことがあります。

 ところが、マルコ3章19節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こると述べられるあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていません。明らかなことは、主がその災いの期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定した、と言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、イエス様を救い主と信じる信仰に固く立って救われる者を指します。このあたりの預言は、もう過去に実現したことではなく、私たちから見てまだ将来起こることです。そうすると、「憎むべき破壊者が立ってはいけない所に立つ」というのも、エルサレム神殿の破壊の前兆だけではなく、我々から見て将来そのように描写できる何かが起きることも意味します。今はそれが何かは具体的にはわかりません。そうなると、「憎むべき破壊者」の前にある偽キリスト、戦争、地震、迫害というのも、過去に起きたものだけでなく、将来起きるものも入ってきます。

さて、天地創造以来一度もなかったと言えるくらいの大災難がきた後で今度は、天と地が文字通りひっくりかえるようなことが起きます。そのことについての預言が本日の福音書の箇所になります。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる(24-25節)」。まさにその時にイエス様の再臨が起こり、最後の審判が行われ、選ばれた者たちは集められて神の国に迎え入れられるのであります。

太陽をはじめとする天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言と軌を一にしています。イザヤ書65章17節や66章22節では、神が今の天と地にかわって新しい天と地を創造されることが預言されています。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に述べられています。

以上を要約しますと、エルサレムの神殿の破壊は歴史上実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える大災難や天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊から1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽りの救世主・預言者は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありました。もちろん現代においても世界の地域によっては迫害は起こっています。そのようなことが多く起きたり重なって起きたりする時はいつも、いよいよこの世の終わりか、イエス様の再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということも歴史上たびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様の預言の終わりの部分が起きるのは、まだ先のことなのです。こうしたことは本当に起こるのでしょうか?1900年以上たったので、もう時効と言えるでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつか起こるというのは否定できません。以前にも申し上げたことですが、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして燃え尽きると言われています。膨張などしたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。もちろん太陽がちょっとでも異変を始めた段階で地球は重大な影響を被るでしょうから、それは50億年よりもっと前に起こるでしょう。いずれにしても、旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということはありうるのです。さらに太陽の異変を待たなくても、大きな隕石とか彗星などが地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となるでしょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、冷戦が終わって20年以上たちましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのです。

 以上、イエス様の預言の前半部分にある戦争とか地震とか迫害は既に起きたものもあるし、残念ながら今も起きています。こうした災難がこれからも起き続けるかどうかについて、地震のような天災は仕方ないにしても、人為的なものはこれまでの歴史や人間性を考えると、なかなかなくならないのではないかと思われてしまいます。何が理想の状態か、とか、それを目指す力と妨げる力がこれからもせめぎ合っていくのでしょう。しかしながら、起こる災難がこうしたものだけではまだこの世の終わりとは言えないのです。イエス様の預言の後半部分にある大災難と天地の大変動が起きるようになって、イエス様がいよいよ再臨するというのであります。そして、その時生きている人も、その時既に死んでいたがその時起こされる人たちと一緒に裁きを受けることになる。その時裁きを司るのが、再臨の主イエス様なのです。

3. 人間は皆神の裁きを受けるのであれば、それに対してキリスト信仰者はどんな心構えでいなければならないかについてルターが教えていますので、それをここでみてみます。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ21章34-36節)。」

これについてのルターの教えは以下の通りです。

「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、そうしたことがあなた方の心を支配してしまって、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならないのだ。』

 我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくないことである。我々は人生の片方、つまり左手ではこの世の人生を生きるべきである。反対に右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて誰にも表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。ただただこの世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように思っていることだろう。キリスト信仰者たちよ、あなたたちがもしキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はないのだ。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間なのである。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出される時、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実なものとして明るみに出されるからだ。」

 「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、ということです。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。殺人や姦淫を犯していたりすれば、ちゃんと神の前で赦しを乞うて悔い改めていたかどうかが問われます。しかしながら、行為に出さなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけでも、神の目に適う者になれないとイエス様は教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、一体誰が神の前で、自分は清いです、などと言えるでしょうか?

 神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に罪をもつようになったので、そうはなれないのです。そこで神は人間が神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられることで、全ての人間にかわって人間の罪の償いをして、人間を罪と死の支配から贖い出したのです。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価として人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。それくらい私たちの命は価値あるものとみて下さったのです。

このあとは人間が、イエス様の十字架と復活というものは、まさに罪を持つ自分がその呪いから解放されるためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神からの罪の赦しがその通りに起きるのです。神から罪の赦しを受けるというのはどういうことかと言うと、神があなたのことをさも罪はないかのように、もう神の目に適う清い者として扱って下さるということです。これで裁きは大丈夫なのです!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにとイエス様は自らの命を投げ捨ててまで私たちの罪を請け負って下さった。それで私たちが「天の父なるみ神よ、イエス様こそ私の救い主です。だから私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、私のひとり子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは赦された者として相応しい生き方をしなさい」と言って下さるのです。

私たちは神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け入れるだけで神の目に適う者にされたのです!それで裁きの前に立っても「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。私は罪の支配下から贖われた者です。イエス様以外に主はいません」と告白すれば大丈夫なのです。実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限りは私たちの良心は神の前で潔癖でいられるのです。何も恐れる必要はないのです。イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主である、それでこの恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきた、ということは何者も否定できない真実なので、やましいところは何もありません。まさに潔癖な良心です。

そこで問題になるのは、神の手によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、実際には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまう。罪が内に留まる以上は、行為に出さなくても心の中に現れてきてしまう。その場合はどうしたらよいのか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを乞います。これが神への立ち返りです。神は約束されたようにイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうしてまた神の示される道を踏み外すことなく歩み続けることが出来ます。こうしたことは死ぬまで何度何度も繰り返されます。なんだかめんどうくさくなって疲れてしまいそうですが、神への立ち返りが一人で行うことが大変に感じられれば、礼拝で信仰を同じくする兄弟姉妹たちと共に行うことができます。聖餐式では、パンとぶどう酒の形ですが、罪の赦しの恵みを霊的な栄養として摂取することができます。だから教会に繋がっている限りは疲れることなどありません。こうすることでキリスト信仰者の良心はあらゆるゆさぶりに耐えて潔白さを保ち、何の恐れも不安もなく最後の審判に臨むことができるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちをこの滅びゆく天と地を超えて運んで行ってくれるものは、イエス・キリストの福音以外にはありえません。それですので、私たちの命はこの福音にしっかり守られていることをかた時も忘れないようにしましょう。そして、福音を聞いて潔白な良心を持てる人が一人でも増えるように祈り働いてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後最終主日 2015年11月22日の聖書日課  ダニエル7章9-10節、ヘブライ13章20-21節、マルコによる福音書13章24-31節

吉村博明 宣教師の市谷教会での説教です。「新しい礼拝のかたち」、マルコによる福音書12章41-44節

主日礼拝説教2015年11月15日 市ヶ谷教会

下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿がありましたが、これは紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されました。これが第一神殿と呼ばれるものです。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚からエルサレムに帰還して、神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。最初これは、ソロモン王の神殿に比べてみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後エルサレムには「聖書の神」の神殿は存在していないことは周知のとおりです。

イエス様の時代の神殿はどんな建物かと言うと、まず敷地は横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分の罪と民の罪を神の前で償うために生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。

本日の福音書の箇所の出来事は、この神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。正確には、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったことになります。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、わりと容易に識別できたのでしょう。

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さて、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この二枚の銅貨は1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコがローマ帝国市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。しかし、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリです。では、1デナリはいくらかと言うと、それは当時の労働者の1日の賃金でした。今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値しかありません。イエス様は、これがそのやもめの全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対的にみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいのお金ですから、やもめにとってはとても大きな価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。また、やもめの献身は金持ちよりも尊いものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをもっと掘り下げてみたいと思います。

 

2.

本日の箇所が教える大切なこととして、まず最初にあげられるのは、神の目は、御自分が造られた人間一人一人の上にしっかり注がれる、特に人の目には取るに足らないとみなされる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れました。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもありません。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神様はあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたことでしょう。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られていい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本に住む私たちにも身近なものです。そんな時、64分の1デナリしか入れなかったやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去られたかもしれません。

ところが、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、まさになけなしの金であったことを見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実性はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。

天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命と人生を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見てみます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。

このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知って下さり、絶えず目を注いでいて下さる、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、それは、神に忘れられたとか、見捨てられたとか、そういうことでは全くないのです。そのような状況を、まさに神に支えられて一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい危険な状況を通らねばならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることです。私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いの神が同じように方向修正をしてくれます。不意にトントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということなのです。それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。

 

3.

以上、神の目は御自分が造られた人間一人一人の上に絶えず注がれており、特に人の目には取るに足らないと見なされる者にこそ注がれるということについて申し上げました。本日の福音書の箇所が教えるもう一つの大切なことをみていきましょう。それは、何が正しい礼拝の形かについて考えさせるということです。礼拝とは普通、教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の宗教的儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕えて捧げものをすることです。神に仕えて捧げものをすることは、宗教的儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰においては、生きること自体が神に仕えて捧げものをするようになって礼拝的になっていくことを忘れてはなりません。

本日の箇所は、やもめの献身の真実さを示すことで、一種の美談として理解されるかもしれません。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが皆さんは気になりませんか?本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。使徒言行録2章をみると、聖霊降臨の出来事の後に教会が誕生して、そこで信徒たちが自分たちの財産や持ち物を売って、おのおの必要に応じて分けあったことが記されています。どうか、このやもめも信者の共同体の中で無事を得られたように願わずにはいられません。

そういうわけで、本日の箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないかと思います。本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて読むと明らかになります。まず、本日の出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めをみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っている、と神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが戦利品のように略奪の対象になっていることがあげられています。

イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったと考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その後で本日の箇所の出来事がきます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にするのです。本日の箇所の次をみると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の場所はもう存在に値しないということであります。そして、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年程の後でローマ帝国の大軍によって破壊されてしまいます。

ところでイエス様は、やもめの捧げ物が金持ちの捧げ物よりも大きな価値があるとは認めますが、それでやもめが神の国に入れるとかそこまでは言っていません。イエス様としては、100%神に捧げることは重要であるが、ただ、それが自分の持ちものから捧げ物をして神から見返りに何か恩恵を受けようとする、そんな捧げ方には反対なのです。そんな仕方で100%捧げても、それは神殿の礼拝の論理で動いていることにかわりありません。神に捧げることは重要であるが、見返りの恩恵のために捧げるのではない捧げ、しかも、捧げるからには100%捧げてしまうことが当たり前になるような捧げ、そのような前例のない神への捧げを可能にするためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、ある意味でそのような新しい捧げを先取りするものでした。イエス様はそれを神殿の礼拝の枠を打ち破って正しい方向に導いていくことを行ったのです。それでは、それはどのようにしてなされたのでしょうか?

答えの鍵は、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24-28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちの基本路線が記されています。どんなことかと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて最も神聖な至聖所に入って行って自分の罪と民の罪の双方を神の前で償う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げた、ということです。神のひとり子の神聖な生け贄ですので、でもう1回限りで十分です。これでも足りないとばかり、また何か生け贄を捧げるようなことをすれば、それは、神のひとり子の犠牲では足りなかったと言うのと同じになって、それこそ神を冒涜することになります。

そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、神からの罪の赦しがその人に効力を持ち始めるのです。こうして神から罪の赦しを受けられた人間は、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得られて、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神の御許の引き上げられて、自分の造り主のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。これがまさに「罪の赦しの救い」であります。

このようなとてつもない救いを受けた私たちの礼拝のかたちはいかなるものになるのでしょうか?もう神から見返りの恩恵を得るために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来た恩恵を受け取りなさいと言われて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備してそれを行ってしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神とはなんと恵み深い方なのでしょうか!

こうして恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、これからどうすればよいのでしょうか?何も神に捧げることはしなくてもよいのでしょうか?この疑問に対する答えは、「ローマの信徒への手紙」12章の最初の部分にあります。使徒パウロは次のように教えます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(1-2節)」。

「なすべき礼拝」というのは、原語のギリシャ語(λογικος)では「理性的」とも「霊的」とも訳される言葉です。理性的な礼拝、霊的な礼拝とはとてもわかりにくいので、新共同訳では「なすべき礼拝」とうまくかわしたのではないかと思います。ルターのドイツ語訳やフィンランド語訳の聖書では「理性的な礼拝」、英語NIVでは本文には「霊的な礼拝」とあって、脚注に「理性的な礼拝でもよい」などとあります。スウェーデン語訳の聖書では「霊的な礼拝」です。次のように考えれば意味はわかります。まず、何が「理性的、霊的でない礼拝」かを考えます。言うまでもなく、それはエルサレムの神殿で行われていたような、人間が何か生け贄とか何かを捧げて罪を償ったり神から見返りとして恩恵を頂くという礼拝です。

ここで使徒パウロが教えることは次のことです。イエス様の十字架と復活の後はもうそういう礼拝の時代は過ぎ去ったのである。キリスト信仰者は、イエス様の十字架と復活を土台にして神から「罪の赦しの救い」の恩恵を受け取ったのである。だから、もう、恩恵を受け取る前の単なる肉だけの存在ではないのである。聖霊を注がれて新しい霊性を備えた存在なのである。神の恩恵が頭のてっぺんからつま先まで満たされているので、その人の体や心や魂は本当はもう神に喜ばれる聖なる生け贄になっているのだ。だから、本当は神の思いに反するこの世の思いに従わないのは当たり前のことになるのだ。イエス様の十字架と復活のゆえに心が一新して変えられた者として、何が神の御心か、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるのが当然になるのだ。パウロはこうしたことを読者に思い起こさせているのです。

こうなると、神の恩恵を受け取った人というのは、今生きているのは自分なのか神の意思なのかわからなくなります。使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」と言っている通りになります。しかしながら、現実の世界を生きていく時、いろんな課題に直面し人間関係に揉まれていくうちに、こうした霊的に研ぎ澄まされた心が濁ってきたり萎えてしまうことはしょっちゅうあります。まさにそこに信仰の戦い、霊的な戦いがあります。それゆえ、キリスト信仰者は絶えずイエス様の十字架のもとに立ち返って、あそこで自分は神から計り知れない恩恵を与えられたのだと思い起こさなければなりません。まさにそのために主日の礼拝が重要です。主日の礼拝は、十字架のもとに立ち返ることができる大事な時です。今まさにしているように神の御言葉を聞いてキリスト信仰者としての自分の立ち位置を確認します。また、恵み深き神を歌声をもって賛美し、神の助けと導きに信頼して祈りを捧げます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通して神から霊的な糧を受けます。その糧を受ける時、私たちは聖卓の前で神のみ前に全く無に等しい者として受けます。実に聖餐式では私たちは神に自分を100%捧げているのです。それこそ本日の福音書の箇所のやもめのように100%自分を神に捧げているのです。しかも、主の十字架と復活の後の時代に相応しい仕方で、です。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは既に神から罪の赦しの恵みを頂いているのですから、この世の思いに振り回されず、神の思いにしっかり立ち、自分を神に喜ばれる生け贄として捧げてまいりましょう。そして、十字架のもとに立ち返ることができる主日の礼拝を大切にしてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第25主日
2015年11月15日の聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章41-44節

説教「愛する力はどこから湧くか?」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書12章28-34節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所の直前ですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました(マルコ12章18-27節)。その一部始終をみていたある律法学者が、この方こそ神の御言葉を正しく理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者はユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を神の掟すなわち律法に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中に収められているモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書のように文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれですが、ファリサイ派というグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。

これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養義務を免れるというような言い伝えの掟があって、イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判します(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても切実な問いです。

2.

 イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてある、ということです。

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもって崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、というように、神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人に属するものを欲して手段を講じて自分のものにしてはならない、隣人の妻など隣人の大切なものを欲して手段を講じて自分のものにしてはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになる、というのであります。話は少し脱線しますが、フィンランドは現在国民の75%がルター派の国教会に属しています。その中で中学2年を終えた子供たちの90%近くが堅信礼を受けます。堅信礼に先だって10日間から2週間くらいの合宿性の研修を受けますが、聖書の箇所や教義についていろいろ暗誦しなければならないことがあります。十戒とイエス様の2つの掟も暗誦箇所の一つです。

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神への愛や隣人愛がなければ、神からみて何の意味も持たない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から死んだ後、復活の日に目覚めさせられて新しい復活の体を着せられて創造主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への愛、二番目に重要なのは隣人愛である、それらを具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。この点は、先ほど触れたフィンランドの中学2年生もかわりません。教会で厳かに堅信礼を受けて、その後で親戚一同を集めて盛大にパーティを催しても、覚えたことが単なる知識に留まって、それも時間と共に忘れられてしまって、神の国からどんどん遠ざかってしまう人たちも大勢います。

それでは、どのようにすればイエス様が教えるような神への愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?

 3.

 イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいた熱烈相愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外にそれが委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまったが、神はこれをなんとしてでも回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来私たちが受けるべき罪の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになり、こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩み、万が一この世から死んでもその時は神の御許に引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。

このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

4.

 次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛のかたちは、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神はいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神は多数のうちの一つだ、という態度をもって行った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくても一般的な当たり前の倫理になります。イエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

イエス様は隣人愛をあげた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えました(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、「隣人」の一部の者が危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べられました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に至る道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、神は無原則な気前の良さを持っているという意味では全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の奴隷状態から救い出すために死なれたのは、全ての人間に対してなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、この「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害が終わるために迫害者をやっつけて下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。

こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これを失わないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように働きかけたり祈ったりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。

5.

 最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものは守って自分は大丈夫と思わせるためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永遠に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。

ここで次にことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分と言わなければなりません。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを認めて赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫だから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に至る同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第24主日
2015年11月8日の聖書日課 申命記6章1-9節、ヘブライ7章24-28節、マルコ12章28-34節