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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.ペトロの弁明
皆様お気づきのように、日本のルター派のキリスト教会のカレンダーでは、復活祭から聖霊降臨祭までの2ヶ月弱の期間、主日礼拝で朗読される聖書の日課に旧約聖書がありません。通常ですと、第一の朗読に旧約聖書、第二の朗読に新約聖書の使徒書簡、第三の朗読に新約聖書の福音書の三つが読まれます。ところが復活祭から聖霊降臨祭までは第一の朗読は旧約聖書ではなく、かわりに新約聖書の使徒言行録です。ちなみにフィンランドのルター派教会では第一の朗読は旧約聖書のままです。どうしてそういう違いがあるのかはわかりませんが、スオミ教会の聖書日課は日本のカレンダーに従っていますので、使徒言行録の日課も解き明しの対象にしていきます。
使徒言行録は、復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降り、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が躍動感一杯に描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。本日の日課の箇所は、聖霊が降った出来事からまだ間もない頃、ペトロとヨハネがエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕えられて尋問を受けた出来事です。なぜ、捕えられたかと言うと、3章に出来事の発端があります。ペトロが、エルサレムの神殿で奇跡の業を行います。足の不自由な物乞いに向かってイエス様の名前を口にした途端にその人の足が治ってしまったのです。驚いている群衆を前にペトロは、イエス・キリストという名前自体にこのような奇跡を起こす力がある、その名前を持つ方を素直に受け入れれば名前に備わっている力がこのように発揮される、ということを述べます。加えて、国の指導者たちはイエス様を十字架刑で殺してしまったが、父なるみ神は彼を死から復活させられた、自分たちはその復活されたイエス様の目撃者であると証言します。
このように言われると、イエス様の十字架刑というのは、執行した時こそ指導者たちは自分たちの権威を脅かす危険人物を抹殺できたと思っていたのが、イエス様の復活によって覆されてしまったことがわかります。しかも、神は初めからイエス様の受難を見越していて彼を死から復活させるおつもりだった、ということであれば、指導者たちが自分たちの意志と力でやったと思っていたことは全て、神の計画を実現するために駒のように動かされていたに過ぎなかったということもわかります。そうなると、群衆としても、神に逆らうことなど不可能だ、何をやっても全部お見通しで神の良いように持って行かれてしまう、逆らえれば逆らうほど袋のネズミになってしまうと観念せざるを得ません。ペトロの説教の後で、男性だけでも5,000人がイエス様を信じるようになったと記されています(4章4節)。
しかしながら、群衆がイエス様を信じるようになったのは、神に逆らうことは愚かなことと観念したからだけではありません。ペトロは、群衆に対する説教を次のような勧告で締めくくります。3章の25ー26節です。「お前たちは神が先祖と契約を結ぶ時、かつてアブラハムに言われたことが出発点にあることを覚えているか?神はアブラハムに『お前の子孫を通して、地上の全ての民族は神から祝福を受けることになる』と言われたのだ。それゆえ、神がイエス様を死から復活させられたのは、まずイスラエルの民に属するお前たちのためであった。今のままではお前たちは、イエス様を十字架刑に処してしまった側についてしまうことになる。それでは、イエス様がこの世に送られたことはお前たちにとって呪いになってしまう。しかし、お前たちが悪を断ち切るならば、イエス様が送られたことは祝福になる。この祝福はお前たちから始まって全世界の民族に及ぶことになる。
大体このようなことをペトロは述べました。群衆は、神のひとり子を十字架にかけるという、まさに神に対する反逆行為が祝福に転換して、かつそれがアブラハムに約束された全世界の祝福になるとわかったのです。全知全能の神に逆らうことは出来ないという観念と過ちを祝福に転換できるというチャンス。こうなったら、常に神がついていて復活させられたイエス様を神のひとり子であると信じないわけにはいかないでしょう。
イエス様の十字架は、一見すると、自分の権威を守りたい指導者たちの神に対する反逆行為と見ることができますが、実はそれよりももっと大きい、本質的な意味があります。それは、神と人間の関係が崩れてしまった原因である罪の問題、それを解決したことです。それが、イエス様の十字架の本質的な意味です。神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を次のように解決しました。まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせたのです。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じれば、その瞬間に罪の償いがその人に起こって、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになったのです。その人には、自分の命はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれます、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるのであり、順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを受けていると信じることができ、また、万が一この世から死ぬことになっても、その時こそ神は御手をもって御許に引き上げて下さると安心することができます。今の世にあっても次の世にあっても神との結びつきは変わりません。これがアブラハムの子孫であるイエス様を通して全世界の民に与えられる祝福だったのです。
以上のようにイエス様の十字架とは、人間が神の祝福を受けるための神の側での犠牲行為であり、それが起こることは既に旧約聖書の中で預言されていました。ただ、具体的にいつ何年に、どんな形で起こるかは記されていませんでした。それが約2,000年前の具体的な歴史状況の中で起こりました。ユダヤ民族がローマ帝国の占領下に置かれていた時、民族の指導者たちが占領者に気づかいながら伝統と権威を保持できているという状況の中で起こったのです。そういう状況だったから、神のひとり子の犠牲は、ローマ帝国の厳罰である十字架刑という形をとって実現したのです。
本日の使徒言行録の箇所で、指導者たちはペトロとヨハネを尋問します。自分らが処刑に委ねてしまったイエスが実は神のひとり子、旧約聖書に預言された救世主であったなどと広められてはたまりません。自分たちこそが旧約聖書の伝統の権威ある守り手だと思っているのに、そんなことを言われたら権威はガタ落ちです。ここからもわかるように、指導者たちは旧約聖書がユダヤ民族を超えて全人類に意味を持つことを把握できていませんでした。尋問されたペトロは全く怯みません。彼は真理を述べます。それは大体次のような内容でした。「足の不自由な人が癒されたのは、その人がイエス・キリストの名前を聞いて、その名前が冠せられた人物をそのまま受け入れたことによる。ただし、癒しそのものは名前自体にそうする力があるためで、受け入れたことでその力が現れたにすぎない。このようにイエス・キリストの名前にははかりしれない力が秘められているが、力の中で最大のものは何と言っても、罪の償いと赦しを確立した力である。そしてそれを受け入れる者に対していつも神と共にいられる永遠の命を与える力である。」
それでペトロは弁明の締めくくりで、イエス様をおいて他に救いはない、人間を救うことが出来る名前はイエス様の名前以外にこの世には与えられていない、と結んだのです(4章12節)。
ここの大事なポイントは、イエス様の名前は神の前で人間の罪を赦し永遠の命を与える力、つまり人間を救う力を持つということです。ただ、そう言っただけでは、救いは目で見たり手で触ったり出来ないので口先だけのものにしか聞こえないでしょう。それで、イエス様の名前には本当に力があるということを具体的に示すために、足の不自由な人を群衆の前で癒したのです。
弁明の中でペトロはまた、イエス様の十字架と復活の意味を明らかにするために、旧約聖書詩篇118篇22節の預言「家を建てる者が捨てた石が隅の親石になった」を引用します。その意味は次のことです。「ユダヤ教社会の指導者たちは、『これをすれば、あれを守れば、神の目に相応しいものとされる』と言って、人間の業に基づく救いのシステムを構築してきた。そこに、そのシステムは間違っていると主張するイエス様が登場したが、指導者たちは石を捨てるように彼を排除してしまった。しかし、イエス様は死から復活させられて、神の目に相応しくなれるのはこの自分を救い主と信じることによってである、そういう救いのシステムを作り上げてしまった。
つまり、イエス様があたかも新しい建物の土台になったわけです。
2.目撃者の勇気 真実に生きる勇気
本日の日課のペトロとヨハネの尋問は、キリスト信仰者が権力側から受ける尋問の最初のものでした。使徒言行録のこの後は、尋問のみならずイエスの名を宣べ伝えてはならないという警告・脅しそれに迫害ということもどんどん増えていきます。それもキリスト教が地中海世界に広がるにつれて、ユダヤ教社会の権力者だけではなく、ユダヤ教と関係のないローマ帝国の権力者にまで拡大します。他方でイエス様を救い主と信じる人たちも、ユダヤ民族から他の民族へと広がって行きます。そうした進展と拡大が使徒言行録によく記されています。
ペトロを初めとする使徒たちが、度重なる尋問や迫害にもかかわらず、怯まずにイエス様のことを宣べ伝え続けた理由として、本日の箇所でも言われますが、「聖霊に満たされた」(4章8節)ことが挙げられます。もちろん、イエス様の出来事を自分の目で目撃したということも、彼らに勇気を与えたでしょう。目で見た以上は、そんなことはなかったと言うことはできないからです。しかしながら、聖霊は、イエス様の十字架と復活の出来事の真の意味を信仰者に明らかにします。一見、権威に楯突いた者の処刑にしか見えなかった出来事が、実は神の人間救済計画の実現だったとわかるのは、聖霊が働いたからです。まず出来事を目撃することで、それが弟子たちにとって動かせない事実になる。それに加えて出来事の真の意味を聖霊から知らされる。こうなると、イエスの名を宣べ伝えるなと言われても、それは無理な話です。自分たちが目で見た出来事には、天地創造の神が全ての人間に与えたがっている大事なものがあるとわかっているからです。
自分がこの目で目撃したことには大きな意味がある、とわかる。そうなると、それを見ていないとは言えなくなります。そんなことは見なかったことにしろ、起こらなかったことにしろ、言う通りにしないとどうなっても知らないぞと圧力をかけられて、その通りにしたら嘘をつくことになります。なんだかある国の国会論戦での関係者の発言内容が頭に浮かびますが、たとえ名誉と地位を失うことになっても、身を危険に晒すことになっても、目撃したことが持っている大事な意味のゆえに見たことは見たと言う、これは真実に生きることです。そしてそれは勇気のいることです。その勇気が使徒たちにはありました。ただし、イエス様の復活の前はありませんでした。イエス様が十字架にかけられた時、皆逃げてしまったのですから。しかし、復活された主に再び会えたことと聖霊の力を受けたことで十字架の意味がわかりました。わかった以上は、真実を曲げることは出来ません。
さて、私たちはどうでしょうか?私たちは十字架の意味はわかりますが、出来事を目撃していません。弟子たちと立場が異なります。しかし、出来事の大事な意味がわかった目撃者たちの目撃録が聖書に収められているのです。彼らは記録の専門家ではありませんから、記述は荒っぽいかもしれません。しかし、私たちは聖書を読み聞くことで目撃者たちと同じ視点、観点を持つことが出来るのです。ということは、目撃者と同じ真実に生きる勇気を持てるのです。これが本当かどうか、試しに本日の福音書の箇所ヨハネ21章をよく目を見開いてみてみましょう。
3.復活したイエス様とガリラヤ湖で出会う
本日の福音書の日課はヨハネ21章の出来事、復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。そこで弟子たちは夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いてきて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。
そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはまだわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。どんなやり取りがあったのかを見てみましょう。
イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きますが、ギリシャ語原文で「子たちよ」というのは、実は複数の大人の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。そういうわけで、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。
このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の仲間であると知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。
まさにこの時、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事がペトロの脳裏に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には舟が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと同じことが今また起きたのだ。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」この結論を先に口にしたのは、この福音書の記者であるヨハネでした。ペトロは、ヨハネが「主だ!」と言うのを聞くや否や、復活の主に相まみえるべく湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペトロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れています。
ペトロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペトロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。
こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で自分自身、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と言われる通りです。
このように、ヨハネ21章の出来事の記述は、福音書記者ヨハネ自身の目撃したことに基づく生き生きした記述であることがわかります。この記述はイエス様の復活が実際にあったという証言にとどまらず、キリスト信仰者にとって多くのことを示唆するものです。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹の只中で、イエス様が助言して、それに従うと、予想を超えることが起きました。そしてイエス様に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。イエス様が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さいました。
この出来事からもキリスト信仰者は、イエス様は自分を信じる者を決して見捨てないということを知ることが出来ます。残念ながらこの世では信仰者といえども、苦難や困難から逃れることはできません。というのは、この世は本質的に、造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。しかし、私たちが苦難や困難に遭遇しても、イエス様はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、まさにその時に現れました。そしてアドヴァイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。これらのことがわかれば、目撃者でない私たちも目撃者たちと同じように真実に生きる勇気を持つことができます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
この写真を見て下さい.これはエルサレムでとった写真です.墓です.
聖書を読むとイエスは葬られたということが分かります。その時、とくにイエスの母、弟子達と他の親しい人々はとても悲しかったと思います.愛されたイエス様は死んで、葬られ増した.希望が消えて、大悲しみでした.とくにその時の母マリアの気持ちを考える、と言葉が足りないと思います。
私たち人間の生活にはいろいろな悲しみがあります。たとえば仕事を失うこと、病気になること、また思い描いていた計画がすっかり変わることもあるかもしれません。未来を予言するのは難しいです。その中で、一番深い悲しみは、親しい人を失うことではないでしょうか。人生の望みがなくなる場合もあると思います。 希望と人生の喜びが消えてしまいます。
マリアは最愛の人を失った、そう考えていたでしょう。『最も愛するイエスがなくなった』のです。喜びと望みを失ったことでしょう。
聖書を開きましょう。
今日の聖書の箇所には、マリアの悲しみ、そして、奇跡と希望について書かれています。
初めに、悲しみについて少しお話したいと思います。今日の箇所を読みましょう。
1.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
イエスは葬られました。信仰告白には「死んで葬られ」と表現されています。イエスと親しかった一人の女性の将来についての計画は「大きな質問」に変わったことでしょう。いったい何をするべきなのでしょうか。
次に聖書には奇跡について書いてあります。
弟子たちは走りました。
3.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
弟子たちは驚きました。墓が空っぽだったからです。
7. イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8. それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
弟子たちは奇跡を見て、信じました。神様は何でも出来るということを表す奇跡でした。
最後は、希望です。
私たち人間はイエスの教えを少しずつしか理解できません。マリアもその一人でした。
9.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10.それから、この弟子たちは家に帰って行った。
マリアは泣いていました。慰めの神様はこのこともご存知でした。
11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアには、何が起こったのか、まだ完全に理解できませんでしたので、更にもう一つの言葉が必要だったのです。
16.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
イエスが現れて、マリアは何が起こったのかがやっと理解できて、喜びました。悲しみが消え去りました。主を見たからです。希望と喜びが与えられました。失った希望が戻ったと思います。
私たちも主にお会いする希望を持っています。
それが、キリスト者の希望です。
時代の混乱の最中にあって、キリストの教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。
「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。
解放というのは、何でしょうか。
罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。
このイエスの御業によって、私達は死と悪魔の力から解放されました。ですから、この生活のなかに色々な苦しみや悲しみがあっても、永遠の命の希望があります。空っぽな墓は希望のしるしです。
*****
祈りましょう
天の父なる神様。マリアは悲しみましたが、イエスに出会って、喜びました。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってください ました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。
私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあ なたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
礼拝の締め括りにフインランド賛美歌15番を演奏してくださいました。
今年の2月16日から24日まで、イスラエルに旅行しました。とても面白かったです。色々な聖書の場所を見ましたし、良い歴史についての話を聞きましたし、美しい景 色を見ながらバスにも乗りました。そして、ナザレに行った時、生きているろばを見ました。もちろんたくさん写真をとりました、そして、このろばの親のの親 の親の事を考え始めました。今でもある地域では、ろばは色々な農家の仕事をやっています。体が強い動物だからです。昔もそうでした。でも、ある昔の 子ろばは、とても大切な仕事をするために選ばれました。それは、イエスのための仕事でした。
今日の聖書の箇所を読みましょう。
初めに
1.一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2. 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
このみことばは神様のご計画を表しています。神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を世の救い主としてお送りになりました。四福音書はその救い主の生涯と御業とのよい音信を伝えています。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。
聖書の箇所に戻りましょう。
4.二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
子ろばはイエスに大切な仕事をもらいました。それは、ろばの力で、イエスを運ぶ仕事です。
次に
8.多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
9.そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
多分人々は.預言者の言葉を思い出しました。ゼカリヤ書/ 09章09節娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
イエスと子ろばの事は、昔から預言されていたことです。
イエスとろばは、やっとエルサレムに到着しました。
11。こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
イエスは、神様のご計画に従って、神殿の境内を見た後、また旅をつづけました。神様の計画による仕事がまだまだ残っていたからです。
子ろばは、イエスに大切な仕事を頂きました。私達人間もそうです。
マタイによる福音書/ 28章18節
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20。あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
こ れは、弟子達が聞いた言葉でしたが、私達にとっても大切な御言葉です。イエスは、私達の仕事も必要として下さいます。その仕事は、子ろばにとっては足と力 でした。私達にも、色々な賜物(タレント)があります。それは、神様に頂いた賜物(タレント)です。そして、それは福音のために使うべきものです。
このような教えが書いてあります。
「奉仕への贖い」
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、 すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きる のではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(第二コリント5:14-15)。
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)。
「信仰は、活発で、勤勉な、力強いものですので、絶えず善い業をしないでいることは不可能です」(マルティン・ルター)。
キリスト者の人生には、目的がありますし、希望もあります。それは、イエスの十字架による永遠の命の希望です。
この希望について、このような教えが書いてあります。
キリスト者の希望
時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。
私達も、子ろばのように、希望を持って、イエスと共に教会のために働きましょう。
天の父なる神様。子ろばは、あなたの御子イエスと共に働きました。これは、あなたの計画の通りだったのです。あなたは、人間を救う計画を作ってくださいまし た。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力は理解できませんが、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいま す。ですから、全部の約束も守ってくださいます。
聖書を読んで、イエスが復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜 びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいまし た。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。
今日もあなたの教えを聞けるように導いてください。私た ちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてく ださい。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。子ろばは、足と力をもって働きました。私たちがあな たの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、 私たち一人一人に教えてください。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出
来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン
前回4章5節までを見てきましたので今回は6節からです。6〜7節で1区切りであります。8〜9節からは又、奇妙な展開になっているようです。
まず、6〜7節を読んで一言でまとめて言いますとここで、パウロが言おうとしていることは、他の人を見下げて、高ぶることがないように、ということであります。
教会の中であっても、信仰生活の中であっても、人は. 案外. 他愛ないもので、小さい自分であるにもかかわらず、人からさげすまされたら、耐えられないものです。そして、何か1人前の人間のように、思わずにはいられないのであります。ふだんは、特に威張るわけではないけれど、何かいったん事があれば、そのことが出てくるのです。
毎日の生活で、いちいち他の人と比べているわけではありませんが、無意識にも自分を大きく見せようとしてしまう心があるものです。自分を他の人と比べて生きているのです。一寸の虫にも5分の魂という言葉があります。小さな、小さな存在と見えても、その中に秘めた魂がある。
私たちは、自分の値打ちを主張しながら生きていきたいと、しているのです。
抽象的な言い方になりましたが、パウロにとっては、具体的な事として、コリントの教会の中で、派閥争いで、混乱しているのです。
わたしはパウロにつく、とか、わたしはアポロにつく、と、自己主張のうず巻いている事情が、その背景にあったのであります。それで6節を見ますと「兄弟たち、あなた方のためを思い私自身と、アポロとに当てはめて、このように述べてきました。誰でも1人の人を持ち上げ、他の人をないがしろにし、高ぶる事がないように。と言っているのであります。
私たちも、考えてみると自分で気がつかないところで、他の人をないがしろにしたり、いつしか高ぶったりしてしまっているのではないでしょうか。
信仰者の生活においても、最も重要なことは自分を誇らないことです。
パウロはきびしく問いかけてきました。「いったい、あなたを偉くしているのは、誰なのか」と。
ここで「偉くしている」という字はふくれ上がっているという意味だそうです。
得意になって、自分が偉いもののように思ってふくれ上がっている、と、いうのでしょう。自分を誇らない、ということは、自分でふくれ上がらない。ということになります。
人々は一様に謙遜ということを言います。ふくれ上がらないことです。
パウロはこのことを自分とアポロに当てはめて、言うのです。教会の中での生活はどうであろうか。
自分では威張ってはいないかも知れない。しかし、パウロだけが偉い人なんだ、とか、いや、アポロの方が優れている。とか言い合って、党派的な争いになっている。それは結局、自分を偉く見せようと、することになるのではないか。あの人と自分だけが特別に親しい、と言いたいのであります。
教会の中の生活で、信仰者は、何を基準にして自分を生かし、人を、はかろうとするのでしょう。それはいうまでもなく、神でありましょう、神の国に、どう映るか、という事であります。 それなら誰も自分を優れている者だとすることはできません。神の前にはどんな」ごまかしも、できません。神はある人を高くし。ある人を低くされる、ことは、あり得ないことだからです。
よく神の前にすべての者が平等である、と言いますが、それはお互いの間にちがいがない、ということではなくて、すべての人には、各々に差があるものです。それを、神様だけは、同じように、とり扱われることが、おできになる。それを知って、私たち信仰者もその事を知らねばなりません。それを知る時、まことに謙遜になることができるのではないでしょうか。
もう1つ大切な事は、人が自慢するものは何か、ということです。
自分には、こういうものがある、こうゆうものを持っている、それをどこから得たか、ということです。
持っているものを誇る、としたら、それは、どこから得たか、という問題になります。そのことをパウロは7節で、するどく述べています。「あなたを他の者たちよりも、優れたものにしたのは、誰ですか。いったい、あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、いただいたのなら、なぜ、いただかなかったような顔をして、高ぶるのですか」。ここのところは何げないことのようですが、大切なところです。別の口語訳で言いますと、「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。みんなもらったものでしょう。ということです。もし、もらっているなら、なぜ、もらっていない、かのように誇るのか」となります。これは、もう、パウロの怒りですね。
人間は自分を知ること、ほど下手なことはありません。自分が本当は何であるのか。
自分は愚かな者でしかない、と知ろうとはしないのです。 この問題を徹頭徹尾、見つめたのが、旧約聖書の有名なヨブ記であります。誰でもよく知っている物語です。
神に愛され、大きな家族と多くの財産を持っていたヨブです。ところがー朝にしてヨブは、次々と一切を失うことになってしまいました。自分、自身、1人になってしまいます。それでも、自分自身の身の上に病がおそいかかり、苦しみに会います。
そうして、ついに、ヨブは、自分の信仰からの叫びで言いました。「わたしは、裸で母の胎を出た、また、裸でかしこに帰ろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。と言うのです。(ヨブ記1章20節)この最後の「主が与え、主が取られたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。
人々は、このヨブの言葉に感動します。私もいつも感動します。なかなか言えるものではありません。しかし、ここに1つ見落としていることがあるんです。それは、ヨブがそのような境地に達したのは、いつのことかということです。話は実に簡単に書かれています。ヨブが一切のものを失った時、すぐにも、この言葉が、口をついて、出てきたかのような気がして読みます。しかし、もし、そうなら、ヨブ記の大半を占めるヨブとその友人たちとの論争はなかったはずです。
実はヨブがその信仰に立ち返るために、どれだけの手順が必要であった、か、です。
ヨブは確かに優れた人物であったことでしょう。しかし、自分の家族、自分の財産を一挙に失って、呆然とする、ことはなかったでしょうか。ふつうなら、もう、気が狂うような、いかり、悲しみ、失望感におち入ります。神様は何故このようなことをなさるのか。ヨブは苦しんだでありましょう。そして、ヨブは祈ったことでしょう。ヨブはもう絶望したでしょう。そうして遂に、「自分は裸で、生まれてきた。そして、又、裸で帰るのだ。ということを心底から言いあらわすことができた。のであります。
私たちは、今、いろんなものを持っています。自分の持っているものは、どこからきたか、と問うて、そう、あっさりと、自分のものは何1つない、自分は裸できたのだから裸で帰ろうと言えるでしょうか。
本当は私たちの生命も体も心も、まことに、くすしき業で創られたもの、であって、自分のものである、等と、とても言えない。
しかし頭で考えて、どうも、そうしか、言いようがないと思う。このことを、腹の底から、そう感じてそのように生活しているか、と言うと全く違う。頭では自分は何もないのだ、裸同然でしかない、とうは思っても、やはり、自分のものだし。自分がつけ加えてきたものであるはずだ。と思うのです。
教会の中の兄弟姉妹 であるといっても、自分のものをあげられるか、神様は互いに愛し合いなさい。と言われているのに、神のみ前に立って全身全霊をもって、それを言い表す等、とてもできるものではありません。
自分という、この体と心の主人は、やはり、自分のものだと、思っているのではないでしょうか。
そうであれば、ここに、パウロが7節で書いているように、「もし、もらっているなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのか」という言葉は、まことに痛烈な言葉です。
すべての人間に悔い改めを迫るものがあります。決して単純な話ではありません。それなら、どうすればいいのか、ということです。
私たちのもっているものが、みな、受けたものであって、ほんとうに自分のものと言えるものは、何もないのです。少し考えれば誰も分かることです。
しかし、ほんとうに、そうだ、とは、なかなか思えないものです。何故でしょう。そこには、私たちの罪の問題があるからです。私たちの罪は自分のことしか考えることができない。神のことに向いていないのであります。それを罪と言っています。自分中心にしか、ものを見ることが、できなくなってしまった。この自分が問題なのです。
それを解決しなければ、分かり切ったことであっても実際には嘘の生活をすることになるのです。
そこで、パウロが書きました、この手紙の6章20節でこの問題に対して。解答を与えているのです。
それを見てみましょう。「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。だから自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。ということであります。Lこれは、キリストによって救われた者のことを言っています。あなた方は罪人であったが、キリストという代価を払って買いとられたようなものである、丁度、この当時、多かった奴隷のように、1人の主人から他の主人に買いとられたようなものである。
罪という主人から、キリストという主人に買い取られたのである。従って、今は、神のものになっているのである。あなたの持っているものも、誇りも、あなた自身も、神のものである。自分のものではない。
神の創造の事実を信じることができない者が、今や、キリストの救いによって、キリストのものとせられた。この事実が信じられるようになるのです。そうするともはや、自分勝手に自分の生活、自分の持ち物を用いることは許されないのであります。
あなたは、キリストのものとせられたのだ。だから自分で威張ってみたり、それによって争いをすることはできない、はずであります。
この現実を正しく見ることができるようになって、あなたの生活は大回転をすることになるのであります。
最後に、洗礼を受けてクリスチャンになった者は。もはやキリストの十字架と復活によって買い取られ、すべてが、神のものと、せられたものでありますから、あなたはもはや何もない、持ちものも、体も心もあなたの時間も、いっさいは神のものであります。ですからこの神に礼拝すべきであります。
6章20節をもう1度見て終わります。
「あなた方は、代価を払って、買い取られたのだ。だから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい。」
アーメン、ハレルヤ!
本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、不正や偽りを結びつけて神の名を唱えたり、神の名を引き合いに出して誓ったりしてはいけない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける時とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。
第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけない、ということです。そして、第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を欲してはならない、つまり、他人のものなのに自分のものにしたいと思ってはならない、ということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。
十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。そうすると、十戒はモーセを通してイスラエルの民に与えられたとは言っても、本当は人間全体に与えられたと言ってよいのではないか?しかし、そう言えるのはあくまで第4から第10までの掟だけで、神と人間の関係を律する最初の3つの掟は、やはりユダヤ教や十戒を継承したキリスト教に関係するものではないか?そうすると、やはり特定の集団に与えられた規範ということにならないか?ここで、もう少し詳しくそれぞれの掟を見ていくことで、このことを考えてみたく思います。
まず、人間同士の関係を律する7つの掟を見てみます。第4の掟は「父母を敬え」です。「敬え」とは具体的には、自分を生み育ててくれた親に感謝の気持ちを忘れず、自分が大人になって親が高齢者になったら、よい晩年を過ごせるように支えてあげることが考えられます。親が体調不良になった場合は、誰もが医者や看護師や介護士になれないので、専門家の力を借りながら、肉親として出来ることで支えてあげる、ということになるでしょう。
ところで、親が子供の利害や尊厳を侵害する場合はどうすべきでしょうか?そういう時でも敬わなければならないでしょうか?大事なことは、十戒というのは、ある掟を犠牲にして別の掟を実現するということはなく、全ての掟が実現されるように守られねばならないということです。それで、DVのような深刻な場合は、第5の掟「殺すな」がそういう「親を敬え」を偽りの「敬い」であると明らかにしてくれます。別の例では、子供がキリスト信仰者になって、親からやめろと言われた時はどうしたらよいか、ということがあります。「はい、やめます」というのが親を敬うことになるのか?そうではないと思います。意見を異にする親に対しては敬意をもってまさに敬う態度で自分の立場を説明するということに尽きると思います。親に対して、何も知らない愚か者め、と高ぶってはいけないし、逆に親に何か悪いことをしているというような罪悪感に囚われる必要もありません。ここは、ダニエルがバビロン帝国の王ネブカドネツァルから異教の神の像を拝め、さもないと火の中に投げ込むぞ、と脅された時にどういう対応をしたかを思い出すと良いでしょう。新共同訳の訳によく表れているように、ダニエルは王に対して敬意を払う口調で自分の立場を述べて、終わりに「拝むことはしません」と言ってのけます(ダニエル書3章16-18節)。日本語には敬語があるので、王に対して敬意を払う感じがよく出ています。
ところで、第4の掟をよく見ると、父母を敬うことが何をもたらすかについても書いてあることに気づきます。「そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(注 ヘブライ語の接続句למעןは結果の意味も目的の意味も両方持ちます。新共同訳では結果の意味に訳しているので「敬えば、長生きできる」です。スウェーデン語訳の聖書も同じ訳です。ところが、英語訳NIVとフィンランド語訳の聖書は「長生きできるために父母を敬え」と目的で訳しています。)「主が与えられる土地に長く生きることができる」と言うのは、一見すると、神がイスラエルの民にカナンの地を与えるという約束を思い起こさせ、その地での長生きを言っているのだと思わせます。ところが、ここで「土地」と言っているヘブライ語の単語אדמהですが、これは、ふつう神がカナンの地を与えると言う時の単語ארצと違います。それは、畑地というような何か生業を営む土地一般です。加えて、「長く生きる」という動詞ארכוןも詳しく見ると「人生を長くすることができる」、つまり、不幸や災難に見舞われて人生を短く終わらせることがない、という意味です。ただ単に時間的に長く生きるということではなく、今はやりの言葉で言えば、クオリティー・オブ・ライフを持って生きられるということです。そういうわけで、「主が与えられる土地で長く生きることができる」というのは、神が人間を誕生させて生活させてくれる場所で、平和で幸せな日々を送れるようになるという意味です。
そうすると、第5の掟以下も同じことが言えます。殺すな、不倫するな、盗むな、他人を貶めるようなことは言うな、他人のものに欲望を抱くな、ということは皆、守ることで平和で幸せな日々を末永く送れるようになると言うのです。「神があなたに与える土地」も、生活の場所を神が人間に与えてくれると考えれば、これはもうイスラエルの民を越えて、全ての人間に当てはまります。
そういうわけで、十戒の人間同士の関係を既定する7つの掟は、全ての人間に向けられ、全ての人間が平和で幸せな人生を送れるために、天地創造の神が与えた掟であるとわかります。ところが、初めにも申しましたように、十戒の最初の部分、第1から第3の掟は神と人間の関係を既定する掟です。まず、十戒の出だしの部分で神は自分のことを、民を奴隷の国エジプトから導き出した神である、と言います。これの意味することは、神というのは意志を持ち、計画を立てて、それを歴史の中で実行に移すという、まさに生きている神であるということです。金銀銅や木材石材で作られた像にはそのような力も命もない、という意味です。まさにそこから第1の掟、天地創造の神以外の神を拝んではいけないというのが出て来るのです。これなどは、他の宗教や無神論の人から見たら、これはユダヤ教やキリスト教に関係するもので、自分たちには関係ない、と言うでしょう。
せっかく第4から第10までの掟は本当に全ての人間にとって大事な規範なのに、第1から第3までをくっつけてしまったら、結局はユダヤ教やキリスト教という特定の集団のための道徳的規範になってしまうのではないか?十戒が普遍的な規範になるためには、むしろ第1から3までを切り離して、残りの7つでやっていくのがいいということになるでしょうか?
イエス様はそのようには教えませんでした(マルコ12章28-31節等)。イエス様は、神と人間の関係を律する3つの掟について、その趣旨は全身全霊をもって神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はその趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は、隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟も、その趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。そのことがあるのでルターは、第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではなく、助けを必要とするものを助けなければならないことも含まれると教えたのです。また、第6の掟についても、隣人の夫婦関係がしっかり保たれるように支援してあげることも含まれると教えました。イエス様はさらに、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどう結びつくかも教えています。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。
さて、十戒はユダヤ教とそこから生まれたキリスト教にだけ関係する規範でしょうか?それとも全ての人間に与えられた規範でしょうか?これからそのことを見ていきますが、結論を先に言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の前と後で十戒の性質が異なるということです。十字架と復活の前は、十戒とそれに付随するその他の掟はユダヤ教社会の存続という目的のためにある、と言ってもよいものでした。ところが、十字架と復活の後は、十戒ははっきりと全ての人間に与えられる規範になったのです。以下にこのことを見ていきます。
十戒が、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、全ての人間に与えられる規範になったということについて、それを理解する手掛かりとして、本日の福音書の箇所のイエス様の言葉が役立つと思います。それは、イエス様が自分のことを神殿である、と言っているところです。
本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には羊や牛が売買用に用意されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。
このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。あわせて、罪のゆえに壊れた神と人間の関係の修復、また罪の赦しを与えることができるのはまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復してくれたり赦してくれたりして当然というような、傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。
イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうして激怒したかと言うと、本来ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞εγειρωが使われています。神殿というのは本当ならば、人間が罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?
復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となって神との結びつきを失ってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、また、この世から死んでも、その時は永遠の命を持つ者にして永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげよう、と決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は、不従順と罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子イエス様に負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。
イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24-28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。
イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪された時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が自分の造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきをもって生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子イエス様が流した血でした。
そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを自分のものにした者ということになります。ただ、そうは言っても、罪や神への不従順に陥る危険にはいつも遭遇します。それでは、キリスト信仰者が罪に陥ってしまったらどうなるのか?イエス様の身代わりの償いは台無しになってしまうのか?その人は罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?いいえ、そうではありません。もしその人がすぐ我に返って父なるみ神に、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈れば、神は、本当にイエス様の身代わりの犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいイエス様の犠牲は完全なものなのです。こうして、その人はまた永遠の命に向かう道に戻ることができ、歩み続けることができます。このように罪に陥ることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、十字架の死を遂げて復活したイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを完全に実現し、神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。
ここで十戒に戻ります。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。彼の有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は、人間に内面の潔白性を要求しているのです。もし、全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のようなものなのです。
神聖な神がこのような完全さを要求するものであれば、それに対して人間はどうするでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を下されてしまうと恐れて神から逃げるか、または人間の本性を理解できない神の方がどうかしていると反発するか、のいずれかでしょう。しかし、いずれをとっても、神に背を向けて生きることになってしまいます。
ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は、神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。それは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金のようにして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのおかげです。信仰者自身はまだ罪あり汚れありの状態ですが、罪なき汚れなきイエス様を白い衣のように頭から被せられて、それを肌身離さずしっかり掴まっているので、神の御前に立たされても大丈夫なのです。
ただ、そのように見てもらっている信仰者からすれば、自分の内に残っている罪はなんともバツが悪いものです。神聖な神は罪の汚れを憎み、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、イエス様のおかげで自分は大丈夫でいられるというのですから。しかし、まさにここが大事な点なのです。以前だったら自分は罪があるから神に相応しくないという自覚だったのが、今は、イエス様のおかげで神に相応しいものにかえてもらった、それで、罪の方こそ自分に相応しくないのだ、という自覚に変わりました。その時、十戒が完全に守られている状態が自分にあることに気づきます。これは実に奇妙なことです。自分は守り切れていないのに、神のひとり子イエス様と結びついていれば守り切れる者として見なされる。そうなると、あとはもう自分をその見なされている状態に合わせて行くしかありません。それはどのようにして起こるでしょうか?
まず、十戒に照らして自分には罪があることに気づかされます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを受けます。それで再び神の方に向き直って永遠の命に至る道を歩み始めます。自分には罪が残存しているのにイエス様のおかげで神に受け入れられている、それで罪の方こそ自分に相応しくない、という自覚が戻ります。しかし、また守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで、罪の告白をし、赦しを受ける。そして、神に受け入れられていることを確認する。こうしたことが、この世を去る時までずっと繰り返されます。ルターが教えているように、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って、罪を宿す肉が朽ち果てる時ということになります。この繰り返しが、十戒を守り切れている状態に自分を合わせて行くということです。毎日毎日一生かけて合わせて行きます。イエス様にしっかり繋がっていれば、難しいことはなにもありません。
そういうわけで十戒は、イエス様の十字架と復活の後は、まさにイエス様と抱き合わせになって、ワンセットになって全ての人間にどうぞと提供されているのです。これを受け取らない手はありません!
今日の御言葉は4章からであります。パウロはここで 自分が使徒として伝道しているその使命をまず語っています。1~5章を見ますと、 「人は私たちを、キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」と書いています。 パウロは伝道していく上で、伝道者自身の身分を明らかにすることが大切であることをよく知っていました。ですから自分の信仰を証するたびおりにふれこのことをはっきり示していきました。 伝道者は普通の信仰者と全く同じ立場にありながら神の言を取り次ぎ、神についての業を示し、神の奥義を管理している者であると言っているのです。 神に仕える者です、と言うのです。厳密に言えば、これは神より低い者です。という字です。パウロは神に仕えて、神の仕事をする人間であるにちがいありませんが、何より、神よりは低い者と言う事が言いたかったのであります。 詩篇8篇5節に有名な言葉があります。 「人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神より低く造り、なお栄光と威光を冠としていただかせました。」とあります。 人が神より低く造られているということは信仰生活において重要なことです。 パウロは、まずそれを言って、つづいて、自分たちが神の奥義の管理者であると言います。 管理者というのは、家の中のことを取り仕切る者ということであります。 パウロはよく、奥義という字を用います。奥義といっても信仰に何か秘伝のようなものがあるわけではありません。奥義は福音以外にはありません。神が人間を救うために御子をおつかわしになったということ程の奥義はないのであります。 伝道者の仕事は一つしかありません。それは福音を伝えることであります。パウロは言います。自分には誇るべきものは何一つありません。ただ、誇るべきことは福音だけであると。それも自分のものではありません。神のものです。自分のもののように扱うことはできないことであります。 福音を伝えることはそう簡単なことではありません。福音を信じさせねばならないからです。信じる人間の方にはいろいろその人によって事情が違います。 それに応じて、伝えなければならないのであります。有能な管理人が家の中を取り仕切るように福音による生活をするように導き、福音を生かすように取り仕切る。これは困難な問題であります。 彼は、何も特殊な人間ではない、ただこの任務を与えられているのであります。しかも今自分が伝道してきたコリントの教会の中には争い合っているのです。1章12~13節にみてきましたように、「わたしはパウロにつく、いやわたしはケファにつく。わたしはキリストにつく」といって派閥争いで混乱しているのです。 そういう背景を背負ってパウロは管理者として取り仕切らねばならない。 管理者にとって最も必要なものは何でしょうか。それは忠実なことであります。 イエス様は」主に仕えて忠実であった僕をほめられました。信仰生活は単純な生活ではありません。神に仕える生活であります。神の御喜びになるようにするのが信仰者の生活であります。従って善でありながらかつ忠実な生活をすべての信仰者に求められているはずであります。 信仰者にとって」大切なことは神に対してどうであるかということでしょう。それなら、神に対して忠実であるかどうか、誰が定めるのでしょう。自分が正しいかどうか外から見たのでは分かりません。 誰が、定める権威を持っているのでしょうか。パウロはここで、まことにきびしいことを言っています。3節です。 「わたしにとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。しかし、ここでパウロが言っていることはそんな生易しいことではなかったのであります。 パウロはここで「ただ神がさばく」とは言っておりません。自分が自分を省みて何らやましい事がないとしてもそれで義とされるわけではない、と言っているのです。これが大切なことです。大事なのは「義とされる」ということであります。 義とされるといっても、信仰に入ることについて事情を知らない人はただ神を信じることである、とか 神に従う生活である・・・といった程度にしか考えないでしょう。しかし、信仰生活を知っている人はそうではない。信仰を持つということは神によって救われることであることを知っております。しかも救われるというのは、 「神によって義とされる」或いは、「信仰によって義とされる」ことであると分かっているはずです。 パウロがここで言っているのは「義とされる」というのは信仰生活に入る始めのことだけでなく、いつでも、毎日の生活の中で義とされている。私たちの力となってくれている。望みなのです。 人の目も世間の目も何も恐れることはない。そんなものが、わたしを義として救ってはくれないからです。自分を罪から救い、まことの平安を与えてくれることはできない。裁く力もない。世間の人は自分たちと同じ罪人です。世間の人が、いろんな事を言ったり、批評しても、どうせ同じ罪人で50歩100歩大したことはないのです。自ら、清くない者が他の人を裁いても意味のないことです。それより、自ら全く清くかつ人を清くする力を持っている方こそまことに裁くことのできる方であります。 そこでパウロは最後の所で言います。「私を裁く方は主である」と。 主イエス・キリストのみ自ら、清くあるだけでなくその十字架によって他の人を清くすることができる義とすることができるお方であるのです。 そうすると自分を裁くということについて全く態度が変わってくるのではないでしょうか。裁く主はただ主イエス・キリストだけである。そこでパウロは又言うのです。 「だから主が来られるまでは何事についても先走りをしてさばいてはいけない」と言うのです。 ここで言う「先走りをするな」というのは、あわてるな というのではなくて、主の来られるのを待つということです。 裁きは主に委ね、主が来られるまで待つということなのです。 その本当の意味は自分が定めてしまわないで主がお定めになるのを待つということではないでしょうか。やさしく言えば、まことのさばきというのは自分で自分を決めつけることではなくて全く神にお任せすることであります。 このことは実はどんな良心的なことよりももっときびしいことであると言えまし ょう。 真実のすべてを御存じの神にゆだねることです。同時にこの神は自分を救って下さる神様でもありますから、心安らぐことであるとも言えます。 パウロは続いて5節後半の部分で言っています。 「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し人の心の企てを明らかにされます。その時、各々は神からおほめにあずかります。」 これは驚くべきことであります。神の裁きにおいては隠されていることも皆明るみに出されるということです。良心の目に見えないことでも神の目にはあきらかであるのです。 しかしここではそれだけでなく、ほまれもあたえられるであろうと言っています。 神のさばきがある。私たちは恐ろしい事しか考えません。しかし、ほんとうに調べるのであればそこにほまれが与えられても不思議ではないでしょう、というのです。 神にすべてをゆだねるのであります。救って下さる神に一切をゆだねるようにすることであります。それなら裁きはこわいことではなくて平安であると言ってもいいのではないでしょうか。 私たちの一生は考えようによってはまことに短くひとときのようです。大切な自分に与えられた生活を主に委ねきって信仰生活を全うすることはすばらしいことであります。 アーメン、ハレルヤ!
今日の福音書の日課はマルコ1章12~13節、イエス様が荒野で悪魔から試練を受けてそれに打ち勝った出来事についてです。マルコ福音書ではたったの2節の記述ですが、マタイ福音書とルカ福音書では詳細に記されています。この出来事については、3年前の四旬節第一主日の礼拝説教で詳しく解き明しました。今回読み返してみて、特に変更することもないので、今日は使徒書の日課をもとに説教をしていこうと思います。(イエス様の荒野の試練について興味ある方は説教「悪魔の攻撃、イエス様の勝利、天使の見守り」(2015年2月22日)をご覧ください。)
本日の使徒書の日課に定められているのは第一ペトロの3章18節から22節までですが、実は4章6節までひとまとまりになっています。それで先ほど併せて読んで頂きました。どのようにひとまとまりかと言うと、3章18節と19節はキリスト信仰者の間で唱えられていた決まり文句を引用したものと考えられています。20節以下でペトロは、引用した文句をもとに教えを述べています。それでは、18節と19節が決まり文句だとどうしてわかるのか、と言うと、聖書の研究者たちがギリシャ語の原文を再構成した時にそう見なしたからです。ギリシャ語のテキストでは、この2節は段落を下げて書かれています。
第一ペトロ3章18節から4章6節には、聖書を読む者を驚かせることが書いてあります。イエス様が十字架で死なれてから復活するまでの二晩三日の間、死者のいるところに行って、そこで福音を宣べ伝えたということです。3章19節「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。4章6節ではもっとはっきりと、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
死んだ者たちが「神との関係で霊において生きるようになるため」に彼らにも福音が告げ知らされた、と言う。それは、生前イエス様の十字架と復活のことを聞かなかった人でも死んだ後で告げ知らされるので神と関係を持って生きられるようになる、ということなのか?それでは、この世でクリスチャンでなくてもみんなあの世でクリスチャンになれて天国に行けるということなのか?ペトロはもちろん、そんなことは言っていないのですが、それではどうしてそう聞こえるような書き方をするのか?一体ここはどんな意味なのか?これから、それを見ていこうと思います。
第一ペトロは語学的にも内容的にも難しい文書です。大学の神学部で勉強していた時、使徒書簡の原文講読を受講したのですが、パウロ以外の書簡の担当は歴史言語学の専門家でした。そのような方でも、ペトロとヤコブは大変だぞ、覚悟して受けなさい、と言っていたのを思い出します。(個人的には第二コリントが使徒書簡で一番大変だったと記憶しています。もちろん、ペトロとヤコブも難しかったですが。)そういうわけで、今回の説教で十分な解き明しが出来ないかもしれません。疑問や課題が残るかもしれませんが、とにかく最善を尽くしてまいりたいと思います。
まず、ペトロが引用した、キリスト信仰者の間で流布していた決まり文句です。3章18節と19節です。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
ペトロはどうしてこの文句を引用したのかと言うと、直前の3章17節まで、キリスト信仰者の倫理的な課題について述べていました。その課題が現実の壁にぶつかった時の励ましの言葉として引用したのです。倫理的な課題とは何か、と言うと、キリスト信仰者たる者は常に善を追い求めよ、悪が襲ってきても、それと同じ手口を使うな、あくまで善に留まるべし、とペトロは勧めます。キリスト信仰者は損することを覚悟で善に留まる、変な奴らだと思われるかもしれない。それで、お前たちは一体何に希望を置いているのだ、と聞かれるかもしれない。その時は、穏やかに敬意を持って、やましさのない良心を持って説明しなさい。そうすれば、キリスト信仰者の生き方を罵った者たちは恥じ入ることになるだろう。いずれにしても、善を行って苦しむことが神の御心なら、その方が悪を行って苦しむより良いことなのだ。苦しみが伴うからといって、善をすることを恐れてはならない。ここでペトロは「なぜなら、イエス様がまさにそうだったのだから」とたたみかけて、決まり文句を引用するのです。新共同訳では「なぜなら」はありませんが、ギリシャ語原文にはあります。
決まり文句の最初の18節では、イエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、こんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るために、イエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全て自分に覆い被せて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神の罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、神から罪の赦しを受けられる道が人間に開かれた。イエス様を救い主と信じて受け入れれば、罪の赦しを受けられるようになった。罪の赦しを受けた人間は神聖な神の前に出されても、イエス様のおかげで、私にはやましいところはありません、と言えるようになった。この「イエス様のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは生き方を改めよう、罪を忌み嫌い、神の意思に沿うように生きよう、という心が芽生える。それは、たとえ善を行うことに苦しみが伴おうとも、神の御心ならば、そうしよう、という心である。このように、イエス様を救い主と信じて受け入れると、結果として心の入れ替わりが伴う。イエス様の十字架の死の重みを知れば知るほど、心の入れ替わりも一層揺るがないものとなり、古い生き方はもうあきらめて追いかけて来なくなります。
18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死なれたが、霊の面では生きる者にされた、ということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではなく復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になった、ということです。イエス様の死と復活が何をもたらしたかと言うと、イエス様が人間の罪を全部引き受けて罰を受けたので、罪にはもう人間を罰に定める力はなくなりました。罪は、人間を永遠の死に陥れる力を失ったのです。もちろん、罪は人間に残るのですが、イエス様を救い主と信じて受け入れていれば、干からびた虫けらのようになっていて、人間を永遠の死に追いやる力はない。しかも、イエス様が死から復活されたおかげで、永遠の命への扉が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて受け入れた人間は、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むようになります。死から復活されたイエス様と繋がっていれば、神聖な神の前に出されても大丈夫でいられます。18節の「神のもとへ導く」と言うのは、「神の前に出されても大丈夫な者に変えて神のもとへ連れて行く」ということです。
決まり文句の後半である19節を見てみます。「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています。(「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。)
陰府というのは、死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。キリスト信仰は聖書に基づけば、死者の復活と最後の審判というものがあります。それで、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは、痛みや苦しみから解放された、復活の日までの心地よい眠りの時と言っています。いずれにしても、神のみぞ知る場所としてしか言いようがありません。復活の日が来ると復活させられて、神の審判を受けて、天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されます。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと理解できる人物もいます(エノク、エリア、モーセも?)。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。
イエス様は、十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで「宣教しました」。「宣教した」と言いますが、イエス様は陰府で何を教えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こった、ということ。そして、そのおかげで人間を永遠の死に陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれた、ということです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられた、ということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。
ペトロは、決まり文句の引用を終えると、陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が何者かを解き明かします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの箱舟の時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんなことが関心事としてあったとわかるのか、と言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたのです。(エノク書という書物にあったと思います。大学の神学部時代に「黙示主義思想」の講座があって、そこでエノク書をはじめ、死海文書などを読みました。ただ10年以上も前の話なので、もうはっきり覚えていません。本も手元にないので、記憶に頼るだけですが、ここでは詳しく立ち入る必要はないと思います。)
創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。「神の子」らが人間の娘たちと交わって子供を産み、そのような人間がどんどん増えていくことが言われています。この「神の子」というのは実は、天使の中でも悪い方の天使、つまり悪魔の側につく天使と理解されていきます。とにかく、この世は一気に悪が蔓延してしまった。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。どんな悪が蔓延したかは創世記6章には具体的には述べられていません。ただ、後のアブラハムの時代にソドムとゴモラの二つの町が悪のゆえに天から火を浴びせられて滅んだのを思えば、少なくとも同じような悪がもっと広範囲に行われていたのでしょう。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような、既にこの世にいない悪のところにまでイエス様は行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が復活の日を待っている陰府にも、勝利が響き渡り打ち立てられました。悪はもう、陰府でさえも力を持てなくなりました。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。
陰府にもイエス様の勝利が響き渡って打ち立てられ、悪が力を発揮できなくなったとすれば、それでは、大洪水で滅んだ者たち以外の霊、つまり普通の死者たちはどうなるのか、そのことが4章の6節で出て来ます。それについては後で見て行きます。
「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。洗礼は、肉に汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」この世に悪が蔓延した時にあっても、それに追従せずに神の意思に沿うように生きたノアとその身内の者が生き残りました。「水の中を通って救われた」と言うのは、悪に巻き込まれることから救われた、しっかり神の意思に留まった、ということです。ノアたちを巻き込もうとした悪は大洪水で滅ぼされた。それで水がノアたちを救った、ということになります。
これと同じようなことが、洗礼でも起きます。洗礼を受けることで、人間は死と罪の力を無力にした復活の主イエス様に結びつけられます。このように洗礼の水は、人間を永遠の滅びに陥れる悪から救い出します。21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めること」と言われますが、その通り、洗礼を受けても人間には罪は残ります。もちろん、それは力のない、干からびたものですが、それでも汚れは残ります。そこで大事になってくるのは、毎日、罪の赦しの中に留まって、心の入れ替わりが揺るがないようにすることです。そうしないと干からびたものが命を吹き返してしまうからです。罪の赦しの中に留まって心の入れ替わりをしっかり保つことが出来たら、いつの日か神の前に出されても、イエス様のおかげでやましいことはありません、と言うことが出来ます。「神に正しい良心を願い求めること」というのは、正確に言うと、洗礼というものは、そういう潔白な良心を全身全霊で希求するように人間を変えるものということです。
以上、洗礼を受けることで人間はイエス様に結びつけられて、悪から守られ、神の前で潔白な良心を持った者になれる、ということがわかった段階で、ペトロは4章1節で悪に怯んではならない、苦しみをもたらしても善をすべき、という倫理的課題に戻ります。イエス様も苦しみを受けたのだから、我々も同じ心構えでなければならない、と言います。ただし、イエス様と同じようにしなければならないと言っても、それは、憧れの人とか尊敬する人が辿った道を自分も辿ることでその人に近づける、自分もその人のようになれる、ということとは違います。既にみたように、イエス様はこの地上にも、また陰府にも死と罪に対する勝利を響き渡らせ打ち立てられた。しかも、悪い力は全てイエス様に服従するだけで、彼に対しては何の力も及ぼせない。キリスト信仰者はこれだけ完璧に守られている環境の中にいる。そうなると、善をすることが苦しみをもたらすとしても、その苦しみはどこかでイエス様の力で牛耳られていて本当に自分を支配する力はないとわかります。それがわかれば、その苦しみを受けて立つことはさほど大変なことでなくなります。そういうことだと思います。逆に、もし苦しみを受けて立たないのなら、せっかくイエス様が犠牲を払ってもたらしてくれた完璧な環境を放棄してしまうことになります。とにかく、中傷や迫害に対しては、そういう心構えで臨みなさいということが4章4節まで言われます。
5節に入って今度は、それでは中傷や迫害をする者たちはどうなるのか、ということが言われます。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」その者たちは最後の審判の日に、神に対して、自分たちの行ったことや生き方について会計報告をしなければならない。ここはプラスでした、ここはマイナスでした、と。しかし、人間の髪の毛一本まで数えておられる神は全てをご存知です。虚偽の報告はすぐばれてしまいます。神の前で何も隠し事はできません。
次の6節が要注意箇所です。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」なんだかわかりそうでわからない文章です。こうなるともう、ギリシャ語の原文を見た方が分かりやすいです。
出だしにあるギリシャ語のある語句(εις το)をどう訳すかによって違いが出て来ます。英語訳NIVとスウェーデン語訳とフィンランド語訳は、「そのために/それゆえに、死んだ者にも福音が告げ知らされた」となっています。それでは、なんのために/なにゆえに、死んだ者にも福音が告げ知らされたのか?それは、前の5節に言われていた、神は生きている者だけでなく死んだ者をも審判にかける、それゆえ死んだ者にも福音が告げ知らされたのです。イエス様のことや福音を告げ知らされなかった人がこの世を去って最後の審判の日を向迎える時、神から「お前はわが子イエスが命と引き換えにもたらした罪の赦しを受け取らなかった。だから天の御国には入れない」などと判決を受けるのは理不尽です。聞いてもいないのに、そんなこと言われても困ります、としか言いようがありません。それで、審判にかける以上は、みんな同じ立場、福音が告げ知らされたという立場に置かれなければならないのです。
6節を続けて見ていきます。新共同訳は、「彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」と言っています。この訳はどうでしょうか?死んだ者に福音が告げ知らされたのは、永遠の命に与って生きられるためであったと、告げ知らせたら、それでもう救われると受け取られかねない書き方です。しかし、原文は、死んだ者に福音が告げ知らされたのは、二つの目的のためだとはっきり言っています。一つは、この世で肉体を持つ人間と同じように審判を受けるためという目的、もう一つは、神と同じように霊的な者として生きるためという目的の二つです。このように、審判を受けるという目的と永遠に生きるという目的の二つがはっきりあります。新共同訳は、永遠に生きるという目的だけです。審判を受けるという目的はメルトダウンしてしまっています。そんな訳では、死んだ者は皆救われるような理解がされてしまうでしょう。それを狙ったのでしょうか?
このように、死んだ者への福音の告げ知らせには、審判を受けることと永遠に生きることの二つの目的があった。実はこれは、生きている者に福音を告げ知らせる場合と全く同じことです。告げ知らせる仕方は異なっていても、生きている者にも死んだ者にも同じ福音が告げ知らされ、それぞれの世界で勝利が響き渡り打ち立てられました。それは、生きている者も死んだ者も同じように審判を受けるためであり、審判の結果次第で永遠の命に与れるためだったのです。永遠の命に与るということに関して、死んだ者が生きている者に比べて優遇を受けるということではありません。福音の告げ知らせについても、審判についても、判決についても全て、死んだ者は生きている者と同じ立場にあるということです。
ここで問題になるのは、眠っている人がどうやって、イエス様を救い主として受け入れる、受け入れない、の態度決定ができるかということです。福音を告げ知らせたということは、告げ知らせる側が相手に態度決定を期待するからそうするわけです。態度決定は生じないとわかっていれば、告げ知らせなどしないでしょう。しかし、眠っている者は、どうやって態度決定が出来るのでしょうか?ここはもう、神の判断に任せるしかありません。生きている者がする態度決定に相当する何かを神は見抜かれるのでしょう。しかし、それは人間の理解を超えることなので私たちは何も言えません。神に任せるしかありません。神は最後の審判の日に全ての人の全てについて記された書物を開き、福音と一人一人の関係がどのようなものであったかを判断します。私たちはその書物を見ることは出来ません。
以上、ペトロが教えていることは、死者にも福音が告げ知らされたのは、死者も生きている者と同じ立場に置かれて審判を受け、判決次第で永遠の命に与れるようにするためである、ということが明らかになりました。死者に福音を告げ知らせたので、もう全ての人が永遠の命に与れるのだ、と教えているのではありません。ここで最後に、ペトロの教えから、キリスト信仰者が死者のためにどんな祈りをするかを見てみたいと思います。
あるキリスト信仰者が最愛の人に先立たれたとします。その愛する人はキリスト信仰者ではありませんでした。もし、ペトロの教えが、死者にも福音が告げ知らされてキリスト信仰者でなかった人も皆救われる、というものであれば、この人は慰められるでしょう。しかし、ペトロの教えはそうではありませんでした。死者にも福音は告げ知らされるが、その先は判決次第ということです。それでは落ち着きません。しかし、たとえ愛する人がキリスト信仰者でなくとも、その人と復活の日の再会を神に願い祈ることは許されると思います。先に申し上げたように、信仰者でなかった死者は、福音が響き渡って打ち立てられたところに行くのであり、神はそこで何かを見抜かれるからです。それがなければ福音の告げ知らせなどしなかった筈です。信仰者は、復活の日の再会の希望に生きたいと思うのなら、それこそイエス様としっかり繋がり、罪の赦しの中に留まって生きていかなければなりません。イエス様から離れれば、再会の希望は廃れていくでしょう。
愛する人が別の宗教に属していて、葬儀もその宗教のもので執り行われたのに、果たして、その人との復活の日の再会をキリスト教式に天地創造の神に願い祈ることなど許されるだろうか、などと思われるかもしれません。それぞれの宗教は、この世の人生を終えたらどういう経路を辿って永遠の至福に到達し、愛する人たちとどのように再会できるか、ということについてそれぞれのシステムがあります。キリスト教では、復活があり、最後の審判があり、天の御国の永遠の命があります。復活の前には眠りの時があります。キリスト信仰者だったら、このシステムでいくしかありません。他の宗教はきっと、こら、こっちで見送った者を勝手に横取りするな、と怒るかもしれません。しかし、キリスト教では、福音を告げ知らされずにこの世を去っても、取りあえずは告げ知らせがあるところに行って眠る、と言っているので、他宗教の人もそこに行くのです。勝手に横取りしたのではありません。亡くなった方がそこにやって来るのです。キリスト教はこういうシステムですので、キリスト信仰者が死者のためにする祈りは、復活の日の再会の希望が中心になると言えます。亡くなった方が身近な方、愛してやまない方であればあるほど、その希望は強く具体的なものになります。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも復活の日の再会の希望に生きるために、イエス様にしっかり繋がり、罪の赦しの恵みの中に留まってまいりましょう。既に先立たれてしまった方は、もう神にお任せするしかありませんが、この人と復活の日に再会したいと思う方がいらっしゃれば、その人のために祈り、可能な限り福音を伝えてまいりましょう。
今日の礼拝は教会の暦で「主の変容主日」となっています。
イエス様の姿が、3人の弟子たちの前で、真白い衣をまとった姿に変貌された奇跡の出来事であります。
この出来事があってイエス様はご生涯のうち最も厳しい十字架の苦難へと進んでいかれます。その重要な決意を弟子たちに現された大切な出来事であります。イエス様の公生涯の大きな転換点であります。
1年に一度だけ必ず語られる御言葉ですから、今日の礼拝ではどうしても聞いていかなければならない大切な聖書だと思います。ですからマルコの他にマタイもルカもしっかりと聖書に書いているわけです。
福音書記者マルコはわりと短く簡単に書くのですが、この出来事についてはかなり詳しく記しています。
ルカ福音書の方では9章28〜36節で同じくらい詳しく記しています。
マルコ9章をみますと「6日の後イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた。」とあります。この高い山はおそらくヘルモン山でしょう。イエス様は弟子たちの中から3人だけを選んで高い山に登られた。そして、この3人だけにはしっかりと見せておかねばならない重要な事柄であったからでしょう。
ところで8章31節以下にイエス様は弟子たちにご自分の十字架の死と復活することも予告されています。31節「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
これは聞いた弟子たちはどうだったでしょうか。あのイエス様の心に触れる話に感動し多くの病人をたちどころに治されました。
そんなイエス様が多くの苦しみを受け殺されるのだと言う。とんでもない。そんなことがあってなるものかと弟子たちは思ったでしょう。
しかも、殺されて死んだのち、3日後に復活すると言われた。これもまたとんでもないありえない事でしょう。驚きと同時に彼らには理解できないことであったでしょう。34節以下でとても大事なお話を群衆と弟子たちに語られています。「私の後に従いたい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものはそれを失うが、私のため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか。」ここで福音のため命を捨てて、永遠の命を得る深い真理を語られている。理解できない重要な話であります。そこでイエス様は彼らが話を聞いただけでなく、6日の後に新たなすごい光景を見せるということをされるのであります。信頼する3人の弟子だけを連れて高い山に登られたのであります。
ルカ福音書の方では、祈るために、イエス様は人里離れたところに退かれた。そうしてまた山に登って父なる神との時を持たれた。祈りの中で天の父と語られた。ご自分の十字架の死の苦難と復活という神様のご計画に従って行こうと重大な決意を改めてなさっていった。
その決意をご自分の姿が変わるという驚くべき栄光の姿を3人の弟子に見せておられるのです。2節から4節を見ますと「イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、服は真白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほど白くなった。エリアがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。「イエス様の御姿が変わる」という「変わる」の言葉はマタイ 17章2節の方でも用いられています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」と記しています。
これ以外にはローマの信徒への手紙12章と第2コリントの手紙等用いられていますが、この2箇所では、パウロは聖霊の働きとの関係で用いていて、ここでの「変わる」は例えば第2コリント11章13節には「装う」と訳されています。外面で見た姿を装うことです。ところで、イエス様の御姿が変わったこの場合は単に「服が真っ白に輝いた」という表面的なことだけでなくイエス様の内面も含んで、全人格的な変貌であります。本質の変化なのです。まさに神の子である主の御姿に変わったのであります。それで7節に雲が現れて彼らを覆い雲の中から声がしたのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。天の父なる神の声です。これはわたしの愛する子である。神の子である主の御姿を目に見える形で弟子たちに示されたのであります。
するとそこにエリアとモーセが現れて、主イエス様と語り合っていたのであります。エリアもモーセも歴史の中で特別な存在でありました。預言者といわれたエリアは死を経験することなく天に上げられた人であります。旧約聖書列王記下2章11節に書いてあります。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出した偉大な人と言えるでしょう。シナイ山で十戒を授かったその時は、人が恐れて近づけない程の神の栄光を受けて顔が輝いたと言われた。
旧約聖書出エジプト記34章30節に書いてあります。エリアとモーセが現れたことは大変な驚きでした。それでペテロはこの光景を見て思わず何がなんだかわからず言ったのです。「先生、私達がここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。1つはあなたのために、1つはモーセのために、もう一つはエリアのためです。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とあります。
ペテロは神に対する恐れと聖なる喜びにひたって思わず「小屋を造りましょう」と言っています。主の栄光がそこにとどまってほしいと願ったのではないでしょうか。
天の空中で旧約聖書を代表するエリアとモーセが現れて主イエス様と3人で語り合っている、この栄光の瞬間と光景を3人の弟子たちがどんなに驚きつつ恐れて見ていることでしょうか。これはもうこれまでに見たこともない考えられないシーンの中に彼らが、今、特別な空間にいるということです。3人の弟子達から見ればこの世の常識からは考えられない光景であり、奇跡の出来事が展開されているのです。この世の持っている時間と、人間のこの世での目と耳と肌で感じている常識ではとてつもない次元の違う世界が展開し示されているのです。真白の衣をまとい太陽の光のように輝く顔へと変身されている、空中での主イエス様の姿はこれは終末の時、よみがえられた神の子の栄光の姿であります。終末の次元の中ですべてが新しくされた神の国での栄光の座におられるよみがえりの神の御子主イエス様の栄光の御姿が、今、前もってあらかじめ時間空間を超えて先取りして今、モーセとエリアを伴ってあらわれておられる。終末の神の時間の支配の次元の中で復活された主がそのまま空中で現れておられるのです。ですから弟子たちの目にはとても考えられない夢のような光景、驚きの奇跡が空中で展開されているのです。その時雲が現れ彼らを覆い雲の中から声があった。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。天からの声は「主が誰であるか」ということを示していました。これから神の子であるイエス様が最後の生涯をどんな方として進んでいかれるかということです。これに聞けそして従え、です。テモテの第一の手紙1章15節には「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られた」という言葉は真実でありそのまま受け入れるに値します。」とあります。イエス様は神の子であり、このように、罪人を救うために来られた。神の子は人間の罪を身代りに受けて十字架の死をとげる。そしてそういう覚悟をエリアとモーセと確認された。こうして山上での主の変貌の出来事はこれからの十字架の苦難の道へのスタートとなったのであります。来週の礼拝から受難節になっていきます。私たちは今日の御言葉のイエス様が変貌された奇跡を覚えて、たとえ苦難の中にあってもその先に栄光の主イエスキリストとともにあるという信仰を持って希望に生きたいと思います。アーメン、ハレルヤ!
本日の説教は、先ほど読んで頂いた第一コリント9章16節か23節までの解き明しに努めてまいりたいと思います。この箇所は、「福音を告げ知らせる」、「福音を伝える」、「福音のために」、「福音と共に」と福音という言葉が何度も出て来る福音尽くしの箇所です。本説教ではまず、福音がそれを聞いて受け入れる人に深い大きな喜びを与えることを見ていきます。次に、そのような福音が私たちに周りの人とどう接すべきかについて指針を示していることを、本日のパウロの教えから見ていきたいと思います。周りの人との関係で福音が示す指針を倫理的な課題と言っておきます。周りの人との関係で自由と責任ということが関わってくるからです。しかも、責任の果たし方として「仕える」ということが出て来ます。ただし、自由とか責任とか「仕える」と言っても、広い意味のものでなく、あくまでキリスト信仰の観点で見たものということをご了承下さい。
この第一コリント9章でパウロは、福音を宣べ伝えるというのは自分にとって何なのか、について述べています。彼にとって福音を宣べ伝えるというのは、したいからする、というような自分の意思で行っていることではなくて、まるでロボットが命令されて行っているようなものであることが読み取れます。実は、そのように宣べ伝えることで福音の本質に迫ることができるのです。それについては後ほど見ていきます。
ここで、パウロが宣べ伝えなければならない福音とは一体何か、ということを見ておきましょう。これは以前の説教でお教えしたことですが、今ここで復習しておきます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言い、もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのものを言います。それで、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのかと言うと、大体以下のようなものになります。
天地創造の神のひとり子であるイエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった。そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった。神に受け入れてもらえた者として人間は神から守りと導きを得てこの世を生きられるようになった。たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。大ざっぱですが、以上が「福音」の内容です。
福音というものは、深く知れば知るほど、また自分の人生、境遇、課題をよく見つめながら知れば知るほど、福音は大きい深い喜びを与えてくれることがわかってきます。これが福音のもたらす喜びです。実は、この喜びがあることをちゃんとわかっていないと、パウロが強制されたかのように福音の宣べ伝えを行っていることがどんなことか見えなくなります。この喜びを抜きにして、パウロが自分の意思でなくて命令されたロボットのように宣べ伝えをしているなどと言うと、なんだか宗教団体の勧誘じみてきます。何人勧誘しないと、教祖とか何とかの霊かに認められない、序列が上がらない、ひどい場合は罰せられてしまう、だから一生懸命勧誘しなければならない。そこに喜びがあるとすれば、それは目標を達成して教祖や霊に認められたり序列が上がったりした時です。パウロがしなければならないと言って宣べ伝える福音がもたらす喜びは、これは福音自体がもたらす喜びです。何か権威ある者に目をかけられた時に味わえる喜びなど全然意味を持たなくなるくらいの深い大きい真の喜びです。
福音の喜びを、具体的にこういう喜びです、と言って示すことは難しいです。先にも言ったように、自分の人生、境遇、課題を見つめながら、福音を知れば知るほど、福音の喜びを持てるようになるので、人それぞれという面があります。みんなに共通してこういう喜びだというのは難しいですが、ここでひとつ例を挙げてみようと思います。うまく福音の喜びを言い表せるかどうか自信ありませんが、やってみます。マタイ18章でイエス様は、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の命の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命に与る方がよい」(8節)と教えています。この聖句をもとに二人の説教者AとBがそれぞれ次のような説教をしたとします。
説教者A「ある所に有名なピアニストがいて、交通事故で片手を失ってしまった。一時は失意のどん底に落ちて、死ぬことさえ考えたが、周りの人たちの励ましや心遣いに支えられて元気を取り戻し、片手でも弾けるだろうかと試したところ、両手の時と異なるニュアンスや曲の解釈が表わせる、そんな弾き方が出来ることを発見した。懸命な練習の結果、以前より観客の賞賛を勝ち得るピアニストとして復活した。まさに片手でも命に与るということが起こったのである。」これは、聞く人に感動と希望を与える説教でしょう。
説教者Bは次のような説教をしました。「イエス様はここで、人間の本質は天地創造の神の前ではどんなものであるかをはっきり述べられる。神聖な神の前では誰も「私は潔癖で」とは言えない。言える者は、自分自身を神と同じくらい神聖であると言うのに等しいからだ。神の前に出されて大丈夫と言えるためには、自分の罪に染まった部分を切り取るしかない。しかし、そんなことは不可能である。ところが、この教えを述べた本人が、自分を十字架の上で犠牲にして、人間がどこも切り取らないでそのままの姿で神の前に出られるようにして下さったのだ。手に罪の汚れがあっても、イエス様はその上に自分の神聖さをあてがって下さり、汚れが持っている力、人間に神の罰が降りかかるようにする罪の力を消して下さった。人間はイエス様を衣のように纏っている限り、神から何の罰も責めも受けないですむようになり、両腕で抱えられるように神に受け入れてもらえるようになった。」
さて、どっちが福音の喜びをもたらす説教でしょうか?答えはBです。Aは確かに、聞く人を励まし力づけるものですが、別にキリスト教の説教でなくても話せます。ピアニストがクリスチャンの場合、神様の導きがあったとか、神様にお祈りをしてこうなったと言えば、話はキリスト教的になります。しかし、別の宗教であれば、導きを与えた者やお祈りの対象に聖書の神以外のものを当てはめればいいのだし、無神論者ならば、霊的なことは何も持ち出さずに、ピアニストの不屈の魂や周囲の人たちの支えだけを強調すればよいわけです。
説教Bは、現実の困難の中にあって、それに関係した具体的な励ましや力づけを必要としている人が見たら、ちょっとかけ離れているものに聞こえるかもしれません。しかし、キリスト信仰者は、具体的な励まし、力づけはこのかけ離れているものと一緒じゃないと、物足りなさを感じるのです。パウロは、あちこちのキリスト信仰者に書き送った手紙の中で「喜んでいなさい!」とよく命じました。信仰者だって、悲しいことがあれば、もちろん悲しみますが、悲しみに全身全霊が覆い尽くされて身動きできなくなるような時、息が出来なくなるような時、そんな時でも、福音を受け取った者の内には、覆い尽くされない難攻不落の砦がしっかりとある。そこで深く深呼吸でき、両手両足を思いきり延ばすことが出来る。この失われることのない砦が福音の喜びです。
以上、パウロが宣べ伝える福音は、深くて大きい、そして失われることのない喜び、福音の喜びをもたらすことがわかりました。そうすると、第一コリント9章でパウロが、自分は福音の宣べ伝えを自分の意思ではなく強いられて行っていると言っているのを聞くと、喜びを分け与えるようなな宣べ伝えは感じられません。福音のもたらす喜びの素晴らしさをわかっているパウロが、どうしてここではそんな風に感じられないかというと、それはパウロがここで取り上げている問題のためです。その問題とは、福音の宣べ伝えに対して自分は報酬を求めない、と言っているところです。
第一コリント9章の中で、福音を宣べ伝える使徒たちには権利と呼ばれるものがあることが言われています。それは宣べ伝えた人が宣べ伝えられた人たちから衣食住の提供を受けることでした。この権利は、かつてイエス様が12人の弟子たちや72人の弟子たちを伝道に送った時に認めたことに由来します(例としてマタイ10章10節、ルカ10章7節)。パウロは、他の使徒がこの権利を用いることはよしとしても、自分は用いないことにしている、と言います。なぜでしょうか?
17節で「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」と言っています。少しわかりにくいので、ギリシャ語原文を注意しながらみていきます。「ゆだねられている務め」とは「管理を委ねられている」、「福音の管理を神に委ねられている」ということです。福音の管理とは、福音が神の望む形でしっかり保たれて、かつそのような形の福音が多くの人に受け取られるように宣べ伝えることです。神の望む形の福音とは、人間が神の前に出された時に大丈夫でいられるのは罪の赦しを受けているからですが、罪の赦しがイエス様の十字架の上での犠牲のおかげで与えられている、それ以外のものでは与えられない、これが神の望む形の福音です。もし罪の赦しが、人間が業を行って神に認められようとしたら、それはイエス様の十字架の犠牲を無にすることになってしまいます。父なるみ神としては、せっかくひとり子を送ってやったのに、台無しにするのか、ということになるのです。
このような人間の業や力が入り込む余地のない、まさに純粋な福音の管理を、パウロは委ねられてしまったのです。罪の赦しの救いというものは、全部神がひとり子イエス様を用いて実現してしまったので、人間としてはただただ受け取ることに徹しないと罪の赦しはその人に起こらないのです。受け取る以外には何もする必要はないので、人間にとってはタダの救いということになります。パウロは18節で次のように言います。「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」「福音を宣べ伝える私の報酬は何か?」と聞いて、答えが「無報酬で伝えることです」というのは、かみ合っていません。この部分を説明っぽく直訳すると、こうなります。「福音を告げ知らせる時、それを聞く人にとって費用のかからないものとして提供する(αδαπανον θησω το ευαγγελιον)、これが自分にとっての報酬である。その結果、福音に関しては自分は衣食住の提供を受ける権利を用いないのである。」
福音を聞く人にとって費用がかからない、無償のものとして福音を宣べ伝えるということなので、聞く人はパウロに衣食住の提供はしなくてもよいということなのです。これは、罪の赦しの救いは人間にとってタダであるという純粋な福音と見事に重なります。パウロにとって、福音が純粋な形で提供されること以上の報酬はないのです。
パウロは、衣食住の提供を受ける他の使徒たちが間違っているとか、彼らの宣べ伝える福音が純粋でないとかは言っていません。あくまで自分が神から受けた召命はそういうものである、福音が純粋な形で人々に提供されることに心を砕かなければならない、他の使徒は他のやり方があろう、という態度です。パウロの視点も大事ですが、教会の成長ということも考えなければなりません。伝道者がみんなパウロのように教会の人たちから何も支援を受けずに全部自腹を切って活動したら、教会の人たちはずっとお客さんのままで教会は育たない危険があると思います。もちろん、純粋な福音が宣べ伝えられて、教会員に福音の喜びが生まれれば、伝道者を支えるのが当たり前という気持ちになります。また、こんなに素晴らしい福音をどうして独り占めしていいのだろうか、、周りの人にも伝えなければ、そういう機運になります。そういう機運にない教会は、それは伝道者が純粋な福音を伝えきれず、福音の喜びを生み出せていないのか、または集まる人たちの耳と心が塞がれていて、純粋でない福音で良しとしていたり、福音以外のところから喜びを求めているかのどちらかです。両方あるかもしれません。いずれにしても、悪いのはどちらだ、という視点ではなくて、今一度福音とは何か、福音がもたらす喜びとは何か、自分はそれを持てているか、伝えているか、伝道者と教会員がお互いに自問する必要があると思います。
パウロが福音を純粋な形、救いは完全に神の業という形で提供しようとして、福音はタダ、それで管理者の自分は誰からも何も受け取らない、という態度を貫きました。ここで、誰からも何も受けないという時、誰とも受ける与えるの関係を持たず、利害関係のない、全く自由な立場を得ます。19節に言われている通りです。ところが、自由だから、自分は何でも好き勝手にやっていくということにならず、「自由な者ですが」と言ったすぐ後で「すべての人の奴隷になりました」と言います。ギリシャ語の動詞は「奴隷」でも「仕える者」でもいいのですが、自分は自由で誰からも拘束を受けないぞ、と言った途端に、自分は全ての人にお仕えする者です、と言うのです。一体どういうことでしょうか?
これは、純粋な福音を人々に伝え、人が福音の喜びを持てるようにする、そのために自分を捧げる、ということです。天の父なるみ神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現して、それを全ての人に受け取ってほしいと望んでおられる。そこで、福音の管理を委ねられたパウロとしては、神の意思を実行するために自分を捧げなければならなくなったということです。このようにパウロにあっては、福音を純粋な形で提供しようとすることが自分を誰にも束縛されない自由なものにしました。それと同時に、純粋な福音が求めていること、多くの人に受け取ってもらいたいという神の意思があるために、受け取ってもらう活動をすることになりました。自由に責任が伴ったのです。しかも、その受け取ってもらうための活動は、強引な頭から押し付けるようなものではありませんでした。「仕える」と言っていますが、その中身は、宣べ伝える相手のもとに行き、その人の状況や立場をよく理解して、福音の受け取りの障害になっているものを取り除いてあげる、というものでした。宣べ伝える相手にとことん寄り添う姿勢です。その具体例として20節からユダヤ人云々が出て来るのです。それを少し見てみましょう。
20節「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」「得るため」というのは、ギリシャ語で「勝ち取る」という意味の動詞ですが、福音を受け取って福音の喜びを持てる者にするという意味です。同じ節ですが、ユダヤ人の次に「律法に支配されている人」が来ます。直訳すれば「律法の下に服している人」つまりユダヤ人です。最初の「ユダヤ人」と次の「律法の下に服している人」は同じグループの繰り返しなので、一緒に合わせて見ることにします。
「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」人間の救いに関するパウロの立場は、人間が神の前に出されて大丈夫とされるのは、守りきれない律法の掟を守ろうとすることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって大丈夫とされるのだ、というものです。それで、律法の下に服していない、と言うのです。ところがユダヤ人は、守りきれない律法の掟を守ろうとして神の前に大丈夫となろうとしている。それで律法の下に服してしまっている。そこでパウロは、ユダヤ人に対しては、神の前で大丈夫とされるのはイエス様を救い主と信じる信仰で十分なのだ、と呼びかけることに専念するのです。
21節「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」「律法を持たない人」というのは、ユダヤ人以外の人全部を指します。いわゆる異邦人です。日本人もアメリカ人もヨーロッパ人もアフリカ人もみんなこのカテゴリーです(もちろんユダヤ教に改宗していない人です)。パウロは「律法を持たない人のようになる」と言う時、但し書きとして「私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と言っています。これはわかりにくいですが、こういうことです。自分は律法を持っているが、それはユダヤ人が持っている持ち方ではない。イエス様を救い主と信じる信仰によって神の前に出されても大丈夫とされ、神に対してただただ感謝するだけである。感謝の気持ちから神の意思に沿うように生きるのが当たり前という心になった。神の意思は十戒の掟の中にあるが、それは救われるために守らなければならないものではない。イエス様のおかげで既に救われたので、神への感謝の気持ちが神の意思に沿うように生きようと心を持って行くのである。このようにしてパウロは、異邦人に対しては、イエス様を救い主と信じることで律法を持つことが出来るのだ、ただし、律法の持ち方はユダヤ人の場合と逆転するが、と言っているのです。ユダヤ人と違う律法の持ち方を「キリストの律法」と呼んでいるのです(ギリシャ語のεννομος Χριστουは「キリストのおかげで律法が内在化したこと」ということか?)。
22節「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」「弱い人」というのは、先週の説教で取り上げましたが、異なる宗教の神殿に供えられた肉を食べることや神殿の宴で一緒に食事することを良しとしないキリスト信仰者を指します。コリントの教会にはそれとは反対に、そんなもの食べても痛くもかゆくもないという自信満々な信徒がいて、それに倣えない信徒をパウロは「弱い」と呼び、今後は彼らが躓かないために、自分もそのような肉は食べないことにすると宣言したことは先週見た通りです。彼らには間違いはなく、知識を持った信仰者たちの自信満々な振る舞いで良心が傷つけられるのを見過ごせなかったのです。
以上の具体例の後にパウロはまとめて言います。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」相手がどんな立場の人であれ、その人のもとに行き、寄り添い、その人の内にある、福音の受け取りを妨げている要因、つまり神の前に出されて大丈夫になれるのにそれを妨げている要因を把握し、それを取り除いたり、乗り越えて行けるように手助けする、それがパウロの伝道だったのです。私たちもキリスト信仰者として、福音がもたらす喜びの中で、自由、責任、仕えるということをもっと意識していくべきではないかと思います。
本日の聖書の日課の中で、特に使徒書の第一コリント8章と福音書のマルコ1章の箇所は頭の痛い箇所です。なぜかというと、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは真面目に取り上げるべきものではないと思う方が多いと思われるからです。じゃ、聖書に書かれていることは何なのか?作り話か、ということになるのですが、聖書の信ぴょう性は譲らない、という立場で見ていきますと、イエス様は悪霊追い出しをやった。これは聖書にある通りです。加えて、イエス様が弟子たちに悪霊追い出しの権限を与えて、弟子たちがそれを行ったことも聖書に記されている。そうすると、悪霊追い出しというのは、聖書に記録される位に明らかな事例ではあるが、関係するのはイエス様と弟子たちだけで、彼らの後の時代にはないと考えることが出来ます。
他方で、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、イエス様は今生きておられ天の父なるみ神の右に座して、全てのものを治められている。それなので、かつての弟子に対するのと同じように、自分が良かれと思う者に悪霊追い出しの権限を与える可能性も否定できない。そうなると、自分がその権限を受けている、という人が必ず出て来る。また、キリスト教でなくても、自分は何々神、何々霊からそういう力を与えられた、という人は沢山いると思います。もし、そういう人が現れて、社会の中に共鳴する下地があれば、たちまち多くの人を惹きつけることになると思います。しかし、悪霊追い出しをする人が言うことは本当にその通りなのか、その通りかそうでないか、どうやって判別できるのか、判別できないと、コントロールできなくなってしまい収拾がつかなくなるのではないか?悪霊追い出しのテーマは、そういうやっかいな問題を伴っています。それで頭が重くなるのです。
しかし、本日の説教用に定められた聖句なので避けるわけにはいきません。本説教では、聖書の信ぴょう性は譲らず、かつコントロールが利かなくなるということはないように解き明しをしていこうと思います。
もう一つ頭が重くなるのは、使徒書の日課である第一コリントの8章です。キリスト教徒が偶像に備えられた肉を食べてもいいのかどうか、という問題です。コリントというのは、現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが書いた手紙の部分が本日の日課になっています。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派です。ギリシャ神話の伝統が根強い地域で、神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを神殿の祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。従って、食事に肉料理が出たら、この肉は宗教的儀式を経たものだ、ということは誰でも知っています。さあ、キリスト教徒は違う宗教に供えられて儀式的に扱われた食べ物を食してもよいのでしょうか?似たような問題は、キリスト教が少数派のところではどこでも生じてきます。私たちの住む日本ではどういうことが起こるでしょうか?
同じ第一コリント8章で使徒パウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の創造主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場に立つ人は、またキリスト教の独りよがりが始まった、と嫌な顔をするかもしれません。風変わりな奴だ、くらいで見てもらえれば何のこともないのですが、白い目で見られることもあり、それでこの箇所も頭の重くなるところです。でも、定められた箇所ですので、父なるみ神から知恵を祈り求めながら、解き明しに努めていくしかありません。
そういうわけで、本日の説教では悪霊とか偶像について話をします。説教題も初めは「悪霊と偶像」を考えたのですが、道行く人が掲示板を見てどんな顔をするかを考えたら、ちょっと刺激が強すぎはしないかと思い、それで前に掲げたものにしました。
最初のテーマとして、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについての使徒パウロの考えを見ます。第一コリント8章です。ここでまず、偶像とはそもそも何かということを考えてみましょう。4節に「世の中に偶像の神などはない」と言っています。でも、世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロもギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っています。どうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?
これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる。神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר~)。立てた誓いが確実に行われることを言うために、神が確実に生きていることを引き合いに出して確実さを高めるのです。神が確実に生きておられることの証明として「~をした」と言う時の「~」とは、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は、神が力を働かせて起こった、まさに神が生きていることの証しだというのです。
これに対して、聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎず、歴史的事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、と指摘されます(例として詩篇115篇4-8節)。つまり、生きている神から見たら、偶像は死んでいるのです。そうすると偶像は沢山あるのに、パウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。
ところが、何々神の像は、見えないことはない、聞こえないことはない、ちゃんと見ておられる、聞いておられる、と言う人もいるでしょう。自分の能力を超えたものをその像が秘めていると思って、像に畏敬の念を覚えるのです。自分の能力を超えたものを像が秘めていると思えれば、像は見えている、聞こえている、ということになります。しかし、像は自分の何を見て聞いているのか、それを教えてくれません。人はどうやってそれを知ることが出来るでしょうか?潜在意識にインプットすれば、夢に出て来るかもしれません。
聖書の神がこの私をどう思っているかは、まず聖書に記された神の意思を知って、その意思に自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また、神は私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を、私たちの思った仕方でなく、御自分が良かれと思う仕方で、かつ良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように、人が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それは、いつも神の視点で起こります。もちろん人間は自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が神の視点を自分の視点にすることが出来るように絶えず教育する方と言ってよいと思います。本当に聖書の神は、聖書が完成した後もずっと同じように生きておられ、私たちに力を働かせて下さっているのです。
第一コリント8章に戻ります。パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それぞれみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在すると認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書には出だしから万物の創造主が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。
前置きが長くなりましたが、本日の最初のテーマに戻ります。キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのか、という第一コリント8章の問題です。この箇所は、一見するとロジックが分かりにくいと思います。というのは、使徒パウロは、強い信仰者は食べる、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。私が一番最初にこれを読んだ時、もう30年以上も前のことですが、これは逆ではないか、と思いました。というのは、異教の神に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ、と頑張るのが強い信仰者、逆に食べたら聖書の神を裏切ってしまうのではないか、かと言って周囲に合わせないと仲間外れにされてしまう、と結局おどおどと食べてしまうのは、弱い信仰者ではないかと思ったからです。ところが、30年前私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学生は、ここはそうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そう信じる者は、偶像に供えられた肉なんかなんとも思わずに食べられる、けれど、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうことを恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので、弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを自分も受け取って、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などとびっくりしたものでした。
ところが、この説明には私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろう、という気持ちになれませんでした。結局、自分は弱い信仰者止まりか、でも、弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後も、この箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれと言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか。パウロは、偶像や異教の神々をものともしない信仰を強いとは見なしても、それがいいこととか、目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人を「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図はないことは、テキストをよく見ればわかります。
8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言われます。ここで言う「知識」は学問的な知識ではなく、神はどういう方であるか、その神の意思はなんであるかを知ることです。そういう知識を持つことは人を高ぶらせる。ここで言う「愛」は神に対する愛と隣人に対する愛の両方を含みます。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者は各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合い高め合って一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。神に対する愛と隣人に対する愛が、そのような成長をもたらします。意外なことですが、神はどういう方か、どんな意思を持たれているか、それを知っている者は高ぶる、というのは、お互いを支え合いかばい合う成長には向かって行けない、ということを暗に言っているのです。
さらに2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、そのひとは、知らねばならないことをまだ知らない」、つまり、知識があるという人もその知識は不十分なのだ、と言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が、異教の神に捧げられた肉を食べます。なぜかというと、彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは天地創造の神から見れば単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言うのです。
ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかを知っている。自分は天地創造の神の前に立たされて、私は何もやましいところはなく潔癖です、と言えるかどうかまだ自信がない。だからこそイエス様に助けてもらわなければならないのだが、神殿の儀式を経由した肉を食べて、神の前でやましいところはありません、と果たして言い切れるのか?あの知識を持つ信仰者はそうした肉を平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事をしている、なんだか食べても問題ないようだ。しかし、このような場合は、食べた後で必ず悔恨が生じるものです。パウロは10節で「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」と言っていますが、「良心は強められて」はギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞οικοδομεωです。つまり「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、パウロは痛烈に皮肉っているのです。
パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べない、理由は「弱い信仰者」がその信仰にとどまれるようにするためです。実は、食べないのが正しいというのは、エルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、さらに二人の同行者が加えられて、先方の教会に対する指示が託されました。まさにその一つが、偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。
それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙からうかがわれます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けないな、神は万物の創造者と本気で思っているのか?そう思えれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者よ、君たちは知識はあるが、それは造り上げていない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大切なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。
次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする相手の悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」ακαθαρτον πνευμαと言われるものと、ずばり悪霊と訳されるδαιμονιονの二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く取り上げられるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の中で悪霊が言及されている箇所をざっと見渡すと、悪霊は、何か具体的な病気または病的な状態、異常な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、単発で行う時もあれば、いろんな病気を癒す奇跡を行う時に行うことも多いです。いずれにしても、追い出しをすると、病気が治るのと同じように、悪霊がもたらしていた病的な状態、異常な状態もなくなってみんな普通の健康な人になります。ただ、病気の癒しの時と違い、悪霊が口を聞いてくる時がよくあります。本日の箇所がそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、またその力もわかっていて、恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。
こうして見ると、人間が抱えてしまう病気や病的な状態には二つのタイプ、純粋に病気のメカニズムだけで起こる、病気内部の要因によるものと、病気内部を超えた要因として悪霊がもたらすものの二つがあることになります。病気内部の要因で起きるものは、医学の力で解決にあたりますが、病気外部の要因で起きるものにはイエス様の力が必要になるということです。病気内部の要因で起きる病気をすぐ悪霊によるものと考えて、医学以外のものに頼ろうとすると混乱が生じるでしょう。
それでは、病気内部の要因で起きる病気と外部の要因で起きる病気は、どうやって区別できるでしょうか?イエス様の時代の人たちは、この人は悪霊にやられていますと言ってイエス様のところに連れて行ったので、よく区別ができたようです。ただし、医学が発達していない時代ですので、治癒不能な病気はみんな悪霊のせいにして連れて行ったことも多かったと思います。そう勘違いしたままで癒されたら、悪霊が追い出されたと思われたでしょう。本当は病気内部の要因が取り除かれたのに。しかし、本日の箇所のように、口を聞いてくるものがあれば、これは病気外部の要因となります。さて、これは病気内部の要因に拠る病気、あれは外部の要因つまり悪霊に拠る病気、などと私には区別の仕方はわかりません、わからないままで、そういう二つの病気に対してどう対処したらよいかということを聖書に基づいて見ていこうと思います。
その前に一つ注意する必要のあることがあります。それは、これまで話してきた悪霊というのは、悪魔とは別のものということです。悪魔とは、ギリシャ語で書かれた新約聖書ではサタナーσαταναとか、ディアボロスδιαβολοςと言われます。サタナーとは、サタンのことです。ディアボロスというのは、引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書では悪魔はサーターンשטןです。サーターンは、非難する者、告発する者という意味があります。つまり、「神様、この人間は罪深い者で神罰に値しますぜ」と神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエス様を荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので、神の計画をそのまま実行に移すことが出来、最後の十字架と復活の業を通して、神と人間の結びつきを回復する道を開いたのです。悪魔の企みは失敗したのです。
それでは、悪魔と悪霊とは何が違うのか?どんな関係にあるのかを見てみましょう。マルコ3章、マタイ12章、ルカ11章に次のような出来事があります。悪霊追い出しを行うイエス様を人々が中傷しました。あのナザレのイエスが悪霊を追い出すことが出来るのは彼が悪霊の頭ベルゼブルに憑りつかれているからだ、などと言ったのです。ベルゼブルというのは、カナンの地方の異教の神々の一つです。中傷した人たちは、悪霊の頭にその名前を付けたのです。これに対してイエス様は、サタンがサタンを追い出したら、サタンの国は内乱状態になって自滅してしまうだろう、しかしサタンは今もこれからも存在し続けるのだから、内乱などない、自分が悪霊を追い出す力は天地創造の神からのものである、と言って、彼らの中傷が的外れであることを指摘します。ここでイエス様は、悪霊の頭をベルゼブルと言わずサタン・悪魔と言っています。つまり、サタン・悪魔とは悪霊の頭で、悪霊はサタン・悪魔の手下ということになります。悪魔が、人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとする時、悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。
こうして悪魔と悪霊の役割がわかった今こそ、イエス様が成し遂げたことを思い出す絶好の機会となります。悪魔と悪霊は、人間にこれを思い出してほしくないのです。イエス様がゴルゴタの十字架にかかって死なれたのは、それは人間の持っている罪を全部あたかも自分の罪のようにして請け負って、その罰を神から受けるためでした。本当は罪などない神聖な神のひとり子だったにもかかわらず。それだけにイエス様の犠牲というのは、私たち人間のための神聖な犠牲だったのです。しかし、それだけではありませんでした。天地創造の神は一度死なれたイエス様を死から復活させられて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。こうして、神と人間の結びつきが回復する土台が出来ました。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれを信じ、またそれを成し遂げたイエス様を自分の救い主として受け入れると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しがその人にその通りになって、罪を赦された者として神の前に立たされても大丈夫になり、神との結びつきの中で生きられるようになりました。そして、この世の人生を神から守りと導きを受けて歩めるようになり、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に御許に戻ることができるようになったのです。
まさに十字架と復活の出来事のおかげで、悪魔の企みは破たんし、その力は無になりました。イエス様を救い主と信じる者については、悪魔の企みは本当に破綻し、その力は無になっているのです。そうなると、悪魔よりもランクが低い悪霊どもは、イエス様を信じる者に対してはもっと影響力を持てないと言ってよいでしょう。もちろん、イエス様を信じる者にも病気はあり、苦難はあります。でも、病気は病気内部の要因に拠るものとして、苦難は苦難内部の要因に拠るものとして対処して行くのが混乱が無くてよいと思います。もし万が一、外部の要因に拠るものと明らかになったとしても、忘れてはいけないことがあります。それは絶えず父なるみ神に祈ることです。マルコ9章で、弟子たちが悪霊に取りつかれた子供を助けようとして追い出せなかった出来事があります。結局イエス様が追い出しますが、弟子たちに対して、悪霊追い出しの時に祈りが重要であることを強調します。
そうなると、悪霊追い出しは、むしろイエス様を救い主と信じる人には関係ないもので、信じない人に関係してくるものということになってきます。イエス様や弟子たちの悪霊追い出しもよく見ると、みんな追い出された後にイエス様を信じます。つまり助けられた人たちは、助けられる前はまだ信じていなかった人たちということになります。それでは、イエス様を信じる人は絶対大丈夫と言い切れるのかと聞かれると、100%言い切れる自信はないのですが、そこは、例外はあるかもしれないが、基本はこういうことだということにしたく思います。例外の時、つまり病気外部の要因による病気の時は、先ほども申しましたように祈ることに鍵があることを忘れないようにしましょう。このことは実は、病気内部の要因の時も同じです。その時も祈りは大事です。先にも申しましたように、神は人間が祈り求めたことに答えを与える時、いつも御自分の視点でお与えになります。それなので、例外の時だろうが、通常の時だろうが、神は人間が神の視点を持てるように教育するのは変わりないから、いずれにしても祈りは必須です。
以上、頭の重いテーマでしたが、いろいろ整理できたのではないかと思います。どうでしょうか?詰めの足りないところや、不足のところがいろいろあったと思いますが、それらは後日に譲りたく思います。