説教「人の心を純化する神の愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書15章11-32節

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所にある放蕩息子の話は、キリスト教会の内外を問わず聖書を読む人なら恐らく誰でも知っている有名なイエス様のたとえ話です。こういう、みんなが知っている話が繰り返し説教の課題聖句になると説教者は少し苦労します。もうみんなが知っている話だから、何か新しい変わったことを言わなければつまらなくなってしまうだろう、それでは、その新しい変わったこととはなにか?私自身、3年前に別の教会の礼拝でこの箇所について説教しましたが、運よくイエス様の十字架と復活について述べることができました。さて今回、どうなるか?意外にも3年前に気がつかなかったことがひとつ見つかりまして、それが、イエス様の十字架と復活を述べるのにもっと相応しいとわかったのです。驚きでした。

聖書は、まことに不思議な書物です。時間がたって読み返して以前とは違った角度から読むことになっても、必ずイエス様の十字架と復活、そしてそこに現れた父なるみ神の愛と恵みということに行き着くからです。本日も放蕩息子の話を通して、私たちがどれだけ神に愛されているかを明らかにしてまいりましょう。

 

2.放蕩息子のたとえのあらすじ

 放蕩息子の話の内容は、ご存知の方は多いと思いますが、とりあえずあらすじを見てみましょう

 あるところに多くの使用人を雇えるくらい金持ちの人がいて、彼には息子が二人いた。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって、遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求である。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかなのだが、なぜか父親は息子の言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話だと考えると、父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けだとわかり、この父親は父親として適格かどうかとか、そういう話はする必要はありません。

さて、息子は得た金で渡航準備をして遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。このイエス様のたとえを聞いていた人たちは、恐らく、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、この男は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかである。

さて、まもなくして息子は金を使い果たす。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲う。困った息子は、その地で贅沢三昧していて時に知遇を得たであろう金持ちに取り入って、なんとか豚の群れの飼育の仕事にありつける。しかし、飢饉の最中なので安給料では食べ物はろくに食べられないし、人々も自分の食糧の確保で忙しいから、彼にかまってなどいられない。しまいには、豚のえさまでが喉から手が出るほどほしくなる始末。

 まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて、彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めな状況に陥ってしまったのだろう。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父親に謝って、召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにした。

 やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に向こうからやってくる息子に気がつく。息子は、飢えと過酷な肉体労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親が召使いに命じて息子に上等な服を着せ、靴も履かせることから、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは、息子にとって全く予想外のことでした。きっと、白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情をもって受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに、息子の身なりを元通りにして、肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。息子は召使いにならず、息子としての地位を保持することが許されました。

 そこに、長男が畑仕事から帰ってくる。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、家を出ていた次男さんが無事に帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家になど入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけをちゃんと守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに父親と天のみ神の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。

この不公平感は、もっともに聞こえます。それでも父親は、盛大なお祝いをしなければならない理由として次のことを言います。「お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(32節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「お前の弟は死んでいたのに、生きだした/生き始めた。失われていたのに、見出された」です。以上が放蕩息子のあらすじです。

 

3.

 「死んでいたのに、生き始めた」というのは、本当に死んでしまった者が死から蘇った、という意味ではありません。生きていても意味がない生き方をしていた者が、生きていて意味がある生き方をし始めた、ということです。そのように言うと、黒澤明の映画「生きる」を思い起こさせます。もう60年以上前に作られた古い白黒映画です。映画の主人公は、ただ機械のように仕事をする役所の課長で、ナレーションでも「この男は生きているが実は死んでいるのである」などと言われます。その主人公が、癌を告知されて余命いくばくもないとわかって、救いを求めてもがきます。最後に見つけたことは、遊び場のない子供たちに公園を作ってあげようと決心して、そこに残された人生を生きる意味を見いだします。それから人が変わったように働き出し、いろいろな困難に遭遇してもそれらを乗り越えて最後には公園を完成させる。主人公は死ぬ直前、雪の降る夜、完成した公園のブランコに一人揺られ、「命短し恋せよ乙女」という、自分が若い時に流行していた歌を口ずさみます。

 映画の中では、公園を作ることが主人公に生きる意味を与えました。それでは、イエス様の教えの中では、生きる意味を持って生きるとはどんな生き方でしょうか?この問いの答えは、「見失われていたのに、見出された」という言葉が鍵です。「見失われていた」というのは、天と地と人間を造られて人間一人一人に命と人生を与えた神に対して背を向けて、神から見失われた状態でいた、ということです。それが神の方に向き直って神のもとに立ち返る生き方をし始めると、自分の造り主である神に見出されたことになります。すなわち、「神から見失われた」状態が「生きる意味を持たない、死んだ」状態であり、「神に見出された」状態が「生きる意味を持って生きる」ことになります。

 たとえの父親は戻って来た息子を見てとても喜び、周りからみるに不公平に感じられるくらいの大きなお祝いをします。実はここでイエス様は、神から見失われて死んだ状態にいた者が神に見出されて意味を持って生きるようになると何が起きるかについて、つまり、神も祝宴を開きたいと思うくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこのたとえを聞く人にわからせようとしたのです。そのために、たとえの父親の喜びようを詳しく話したのでした。

 それでは、イエス様はどうしてこのような、見失われた者が見出されると神の喜びはとても大きいということをわからせようとするのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。実は放蕩息子の話は、そのすぐ前でイエス様が語る二つのたとえの続きでして、連続する三つのたとえのクライマックスになっています。

イエス様が三つのたとえを続けて話したのには理由がありました。初めに、イエス様が当時のユダヤ教社会で罪びとの最たる者と目されていた取税人たちと食事の席を共にしたということがスキャンダルになりました。当時、食事を共にするということは、家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今注目の的となっているこのナザレのイエスという教師は何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者たちは批判を浴びせるのであります。これに対してイエス様は、自分のやっていることの正さを明らかにするために、三つのたとえを話されたのです。

 最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。羊を見つけると彼は肩に担いで大喜びで帰って、友人たちを呼んで一緒に祝います。二つ目のたとえは、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。それを見つけ出した女性は、大喜びで友人たちを呼んで一緒に祝います。二つとも締めくくりの言葉は同じで、こういう見失ったものを見つけた時の喜びというのは、まさに罪びとが神のもとに立ち返る生き方をするようになった時に天国で持たれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返る人生を歩むようになった人たちなのです。

 それなら、ファリサイ派はなぜ文句をつけるのか?それは、イエス様と一緒に食事をする罪びとたちが本当に神のもとに立ち返る生き方をしているかどうか、まだ信じられないのです。加えて、ファリサイ派からすれば、罪の赦しが間違いなく神から与えられたものと言えるためには、宗教上の規定に従っていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、という頑なさだったのです。放蕩息子のたとえの後半で弟を受け入れられない兄が登場しますが、これはたとえを聞いているファリサイ派の人たちに、君たちはこのレベルなのだ、とわかりやすく教えているのです。

いずれにしても、イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした罪びとは神のもとに立ち返る道を歩み始めるようになった人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度見失われてしまったが再び見出されたものです。見失われたというのは、人間が自分を造られた神に背を向けて生きてしまうということです。見出されたというのは、再び神の方を向いて神のもとに立ち返る道を歩むようになったということです。イエス様は、自分と一緒に食事の席に着く罪びとたちが神のもとに立ち返る生き方を始めたとして、彼らの内面の変化は真実であると言うのです。天国では、このような内面の変化が起きることが神の御心に適っており、天使たちにもお祝いされるのだ、と教えるのです。

 ところが、最初の二つのたとえで注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり、物であるということです。それで、悔い改め、つまり神のもとに立ち返るということを教える題材としては適当ではありません。羊や銀貨の内面の変化など辿ることは不可能です。そこで、三つ目のたとえである放蕩息子の話がでてくるのです。そこでは最初の二つのたとえと同じように、見失われたものが見出された時の天の喜びはとても大きいということも述べられますが、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、そのことについて人間の内面の変化が辿られます。

 

4.

 そこで、神のもとに立ち返るようになるという内面の変化ですが、放蕩息子の場合はいつそのような変化が起こったでしょうか?17節を見ると、「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状況にいた時のことです。18節では息子の気持ちはもっと詳しく記されて、イエス様は彼に次のセリフを言わせます。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。

 ところでこの内面の変化は純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので、家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。これが何よりも大事なことである、なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、こういう論理でしょう。

結局、パン欲しさのための謝罪と言われても仕方がなく、息子の反省はこの段階ではそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには、自分の非を認めてしっかり謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということは否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は、食いつなぐための手段のように見えます。

 ところが、どうでしょう。父親に心からの出迎えを受けた息子は何と言ったでしょうか?「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15章21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪を言う必要がありました。そのために謝罪は、「雇い人の一人にしてもらって、パンを腹一杯食べる」という目的のための手段に見えてしまうのです。ところが、息子が実際に述べた言葉の中には、「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。つまり、本当の目的が消えてなくなったのです。それに伴って、謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が本当の目的になったのです。

 どうしてそんな変化が起こったのでしょうか?息子が帰国すると決めてから、故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何が起こったのかをみてみましょう。遠くに息子を見てとった父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15章20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら、父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に全く想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれている、愛してくれている、帰って来るのをずっと待ってくれていたのだ、忘れないでいてくれていたのだ。それなのに自分はそんな父親を単なる財産の提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、それを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父親に受け入れてもらうに値しない者なのに、父親は思ってくれている、愛してくれている.......。

 そんな思いでいる時に口から出る謝罪の言葉は、何か別の目的に仕えるという手段の言葉ではなくなって、本当の謝罪になるでしょう。それで、「雇い人の一人にして下さい」は削除されたのです。最初に謝罪の言葉を考えた時にまとわりついていた余計なものが一気にそぎ落とされて、純粋な謝罪になりました。父親の愛が謝罪を純化したのです。

加えて、「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉も、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という結びつきの中で言う言葉でした。それが、「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけ言うのは、本当に自分を恥じる言葉になりました。ところが、父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて、大きな祝宴を開きました。つまり父親は、「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は、愛する子としての資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。

 

5.

 「私はあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と思っていたところ、父親からお前は紛れもなく私の息子だと態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。ここで、実はみなさん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神との間にも起きているのです。そのことに気づくようにしましょう。どういうことか、次に見てみます。

 私たち人間は、罪のために自分の造り主である神との結びつきが失われてしまいました。罪を持つために神との結びつきが回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり、悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの憐れな状態から助けようとして、それでひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、罪のゆえに人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせて、ゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。神は、ひとり子イエス様の身代わりの犠牲の死に免じて、人間を赦すという方法を取ることにしたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る扉を私たち人間のために開かれました。こうして人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、今度は神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さり、私たちを自分の子として見てくれるのです。こうして、神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きることが出来るようになり、順境の時も逆境の時もいつも神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神は御手を持って御許に引き上げて下さり、こうして自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。

 このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとして、イエス様をこの世に送って、十字架と復活の業を成し遂げられたのです。イエス様を救い主と信じる者は、もう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいけません。ただ、そうは言っても、神の子として認められたにもかかわらず、罪が頭をもたげて自分を支配しようとして、神の子の資格に相応しくない思いや行いや言葉を言わせたり行わせたり思わせたりしようとします。その時は、父なるみ神に向かって「私の罪を主イエス様の犠牲に免じて赦して下さい」と言いましょう。その時、神は必ず「お前の罪は既にあそこで罰を完全に受けているので、本当はお前を支配する力はもうない。だから恐れたり心配する必要はないのだ」と言って、私たちの心の目をゴルガタの十字架に向けさせます。その時私たちは、これからは神の子として父なるみ神に、またイエス様に恥じない生き方をしなければ、と心を新たにすることができるのです。

兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは、イエス様の十字架のおかげで何度でも何度でも心は純化されて、神の子と呼ばれる資格を持ち続けることができるのです。このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 四旬節第四主日
2016年3月6日の聖書日課 イザヤ12章1-6節、第一コリント5章1-8節、ルカ15章11-32節

説教「キリスト信仰者の覚悟と本懐」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書13章1-9節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. はじめに

 本日の説教題は「キリスト信仰者の覚悟と本懐」です。「覚悟」という言葉の意味は、誰でもわかると思います。一応辞書で確認しますと、「危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること」とありました。「決死の覚悟」とか「危険は覚悟の上だ」とか「覚悟はできている」という用例がありました。ところが「覚悟」には、こういう「対応の心構え」とは逆に、「あきらめる」とか「観念する」の意味もありまして、その場合は「もうだめだ、と覚悟する」などと言います。本説教で言う「覚悟」は、「あきらめ」ではなく、「来るべき試練に対応すべく心構えをする」の意味です。

「本懐」はあまり聞きなれない言葉かもしれません。辞書に載っている意味は、「もとから抱いている願い」、「本来の希望」、「本意」、「本望」などとあり、それで「本懐を遂げる」という用例がありました。「本望を遂げる」と同じでしょう。それならば、どうして「本望」を使わずに「本懐」を選んだかと言いますと、30年程前に出た城山三郎のノンフィクション小説に「男子の本懐」というのがあり、テレビドラマにもなりましたが、主人公の浜口雄幸という1930年代初めの総理大臣がこの言葉を使っていて、それが「覚悟」という言葉とうまくペアを組むと思ったからです。

どういうことか、簡単に説明しますと、当時の日本は天皇主権の大日本帝国憲法のもとで国が統治されていました。それでも、議会は選挙権が拡大して男性の普通選挙が実現して、議会の多数を占めた政党が政府を形成するという議会制民主主義が根付き始めていました。そのような時に首相になった浜口は軍縮を実行します。当時の内閣は今の防衛大臣と違って海軍大臣と陸軍大臣がいて軍の発言力はとても大きかったのですが、浜口は今で言えばそれこそ立憲主義の原則にたって事を進めていきます。しかし当然のことながら軍は反発、浜口のやっていることは軍を議会や政府の意思に従わせるものだ、それは天皇の主権を侵すものだ、と主張しだす。それはまさに立憲主義に関して当時の憲法の限界点を露呈する出来事でした。浜口首相は右翼の青年に銃撃されて重傷を負い、それがもとで命を落としてしまいます。そんなことが戦前の日本にあったのです。

浜口首相が「本懐」という言葉を使ったのは、私のつたない記憶ですが、首相に就任した時に、「自分は決死の覚悟で職務を行うので、道半ばで倒れるようなことがあっても、それは男子の本懐である」という趣旨のことを言っていました。また、銃撃された時も「男子の本懐だ」と言っていたと記憶します。要するに、何か私利私欲を超えた大きなものを目指してそれに向かって進んで行くが、たとえ道半ばで命を落とすことになっても、それは残念無念ではなく、目指す方向を向いて落とせるのであれば何も不足はない、本望である、本懐である、そのように理解してよいと思います。

以上のように「本懐」とは、「何か大きな目指すものをいつも向いて歩んでいるので、人生何があっても不足はないと思える心意気」と理解できることがわかりました。最初に「覚悟」とは、「来るべき試練に対応すべく心構えをすること」であると申しました。実は、本日の福音書の箇所、特に13章の1節から5節までの箇所は何度も何度も読んでいきますと、まさにそのような「覚悟」と「本懐」を与えてくれる御言葉であることがわかってきました。本日は、そのことを皆様にお伝えしたく思います。

 

2.二つのタイプの災難苦難とイエス様の主眼

 ある人たちがイエス様にある出来事について報告しに来ました。それは、ローマ帝国ユダヤ地域総督ピラトが「ガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜた」という事件でした。ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事の時に生け贄を捧げに来た人たちがいて、総督ピラトが何らかの理由で彼らを捕えて殺害させ、その血を彼らが捧げようとした生け贄にかけたか、または生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な出来事です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対するとてつもない冒涜でもあります。(注1)

 この報告を受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池という場所がありますが、もし塔がその近辺にあったものであれば、エルサレムの町の南部で起きた出来事ということになりましょう。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。

ところで、ピラトの事件は人間の残虐行為の犠牲と言うことが出来ます。シロアムの塔の場合は、人間の行為によるものというより、不慮の事故による犠牲と言えます。もちろん手抜き工事による事故なら人災と言うこともできますが、ここではそんな込み入ったことには立ち入らず、一方は人間の意図的な残虐行為による犠牲、他方はそうではない不慮の事故による犠牲ということにしましょう。そうすると、本日の福音書の箇所で言われる苦難災難は、人間がこの世で被る苦難災難の二つの大きな範疇を網羅していると言うことが出来ます。

 さて、イエス様にピラトの事件を報告しに来た人たちは、何が目的で報告しに来たのでしょうか?彼らには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。それが何であるかは直接的には記されていませんが、報告を聞いたイエス様の言葉から、彼らの関心事は明らかです。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇しやすくなるのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪深さの度合いが低ければ、災難に遭遇しにくくなる、ということなのですか?」さらに言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは、「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪が苦難災難を罰としてもたらすという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのであります。

 因果応報の観点の確認を求められたイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキ(ουχι)は通常の否定辞ウー(ου)よりも強い否定の意味を持ちます。イエス様は何を否定して「決してそうではない」と言っているのか?二つのことが考えられます。一つは、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定したことです。もう一つは、災難に遭遇したガリラヤ人も遭遇しなかったその他のガリラヤ人もみな罪深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。その場合、両者ともに同じくらい罪びとであると言っているので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性はあり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、二つ目の意味をとっても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。いずれにしても、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものであることは明らかです。

イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、シロアムの塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も、3節と同じように二つ考えられます。一つ目は、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定すること。二つ目は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということ。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、二つ目の意味でみても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。そういうわけで、「決してそうではない(ουχι)」は3節同様、因果応報の観点を否定するものです。(注2)

 

3.「滅び」はこの世で遭遇する苦難災難ではない

 「決してそうではない」と言うイエス様は因果応報の観点を否定していることが明らかになりました。ところが、どうでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、と言われます。これは、もし悔い改めず罪の中にとどまるのならば、お前たちも同じような人為的な暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ、お前たちには世で苦難がある、と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。

それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?

 それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、「永遠の命を得る」と反対の事を意味しています。「永遠の命を得る」とはどんなことかと言うと、それは、この世から死ぬ時、自分の全てを自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日が来たら朽ちない復活の体を着せてもらって創造主である神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、永遠の命を得られない「滅び」とは、この世から死ぬ時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の後に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、一様に罪びとである全ガリラヤ人または全エルサレム住民と同様、神から罪の赦しを受けていない者として、死んだら永遠の命を得られなくなってしまう。」

 このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の後に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないということが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得るのであれば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、愛する弟子たちに、お前たちにはこの世で苦難がある、とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世では永遠の命に至る道を歩むということ、そして、たとえ歩みの途上で苦難災難にあって命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能なのでしょうか?

 

4.神のもとへの立ち返り

 その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔したり恥じたりして相手の人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト教信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天と地と人間を造った神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたということが出てくるからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で、「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。

それでは、この「神のもとへの立ち返り」とは、一体どのようなことなのでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生では永遠の命に至る道を歩めて、この世から死んだ後は神にキャッチしてもらえて永遠の命を得られて神のもとに戻ることができるようになるのか?このことについて見る必要があります。

十字架と復活の出来事が起きる前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく内面的にまで完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しません。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部そのひとり子に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。

以上のような次第で、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、永遠の命を保証する真の「神のもとへの立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、また聖餐式で霊的な栄養を摂取しながら、「神のもとに立ち返る」道を歩むこと、それであります。

 

5.キリスト信仰者の覚悟と本懐

 以上からイエス様が教えていることは、本当の「滅び」とは今のこの世の後に来る新しい世に関係した滅びであること、それゆえ、人間がこの世で遭遇する苦難災難というものは、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、ということが明らかになりました。キリスト信仰者はここに覚悟と本懐を見いだすことができると思います。

このことを少し具体的な例にあてはめてみようと思います。もし絶体絶命の時が来たとき、例えば、重い病気でついに最期の時が近づいたとか、また目の前に津波とか雪崩が押し寄せて来たとか、まさにそういう時、キリスト信仰者なら、イエス様の教えに基づいて、瞬間的にでも次のように思い起こすのが適当ではないかと思います。「ああ、私を造られた神が私に与えて下さったこの世での人生の長さはここまでだったのだな。神よ、私をここまで導いて下さってありがとうございました。至らないことだらけでしたが、イエス様の神聖な衣を頭から被せられた者として生きてまいりました。中身は汚れがまだたくさん残っていますが、イエス様という衣を自分から脱ぎ捨てることもせず、引きちぎることもせず、必死にこれしかないというくらいに、すがりつくように纏ってまいりました。あなたに認めてもらうために私が自信をもって示せるのはこの衣しかありません。今、私の全てをあなたの御手に委ねます。どうかイエス様のゆえに私を受け止めて下さい。主の御名は永遠にほめたたえられますように。アーメン。」そのような人は、ルターの言葉を借りれば、「瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、(…)天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられる」のです。

最期の時が果たしてこのように思い起こしたり、祈ったりする猶予を与えてくれるかどうか実際には厳しいのではないかと思います。そうであればこそ、常日頃から、そのような思いが自分の内にしっかり根付くようにする、それが信仰生活というものではないでしょうか?そうすれば、キリスト信仰者はいつも覚悟がある状態にいて、もしもの時は本懐だ、と言うことができるのです。

ところで、いよいよ最期の時に、父なるみ神よ、私をキャッチして下さい、と言って全身全霊を委ねたつもりが、神の御手と思って掴んだものが、実は高い木の枝か何かを掴んでいて助かってしまったとか、そういう予想外のことが起きることもあります。その時は、「ああ、神は何らかの理由で私のこの世での人生の長さを延ばして下さったのだな」と理解して、神に素直に感謝して、再び「神のもとへの立ち返り」の道を歩み始めることになります。ただし、その場合、なぜ神は自分を生きながらえさせて下さったのか、このことをちゃんと考えなければなりません。このように奇跡的に助かった自分がただ自分だけのために生きてよいとそれで神は助けてくれたのだと思うのはちょっと問題でしょう。まだ救い主を知らずにいて、神のもとへの立ち返りの道を歩んでいない人たちに救い主イエス様のことを知らせ、その道を歩めるようにしよう、そうしてその人たちもキリスト信仰者の覚悟と本懐を持てるようにしよう、そういう役割が与えられたのだと自覚すべきではないかと思います。もちろん、奇跡的に助かったというような経験がない信仰者でも、キリスト信仰者の覚悟と本懐が持てれば、同じ役割の自覚は生まれるはずです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 (注1)この事件については、ヨセフスの歴史書やローマ帝国の歴代誌等にも記載がなく、記述はこのルカ福音書のものだけです。しかし、総督ピラトはユダヤ人に対して強圧的かつ残虐な統治を行ったことで知られるので、もし反乱の疑いを持たれれば、このような事件は容易に起きたでしょう。ところで、ピラトが残虐だったというのは、ヨハネ福音書に記されたイエス様の裁判の様子からは想像できないかもしれません。ただ、在任期(A.D.26-36)の終わり頃のピラトはローマ帝国における政治的地位が弱まっていた頃で、ユダヤ人の要求など聞くものかという思いと、言う通りにナザレ人を処刑しないと皇帝に直訴されるかもしれない、という心配の板挟みにあったとも言われています。

 (注2)「罪びと、罪深い者、罪にある者、罪を犯す者」を意味する単語について、2節のガリラヤ人のところではαμαρτωλοςが用いられ、4節のエルサレム住民のところではοφειλετηςが使われていることに注目しましょう。οφειλετηςには、「負債のある者」という意味があります。負債のある者がどうして罪びとの意味になるかというと、神に対する不従順や罪というものは、人間が神に対して負っている負債のようなものと言う考え方が聖書にあるからです。人間は、最初の人間が神に対して不従順に陥り罪を犯したために、死する存在となってしまった。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。不従順と罪を赦されて神に義と認められて永遠の命を持てるために、人間は、負っている負債を支払わなければならない。このことは詩篇49篇8-9節に端的に述べられています。「神に対して、人は兄弟を贖いえない。神に対して身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」

ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死の意味だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血があらゆる財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。マルコ10章45節でイエス様は、自分は多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである、と言いますが、まさにその通りだったのです。

私たち人間は、神がこのようにひとり子を用いて整えられた救いがまさにこの自分のためになされたとわかり、それでイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この整えられた救いを受け取り所有することが出来ます。洗礼を受けることで、私たちはまだ罪と不従順を持っているにもかかわらず、イエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられることになります(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。

ご参考までに、罪が神に対する人間の負債ということを表す言葉は、またマタイ6章12節にある「主の祈り」のところにも使われています(οφειλετης)。


主日礼拝説教 四旬節第三主日
2016年2月28日の聖書日課 出エジプト3章1-15節、第一コリント10章1-13節、ルカ13章1-9節

説教「汝の信仰なんぢを救へり」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章31-43節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教題に「汝の信仰なんぢを救へり」という昔の文語訳を用いましたが、これには理由があります。私たちが使っている新共同訳では、このイエス様の言葉は「あなたの信仰があなたを救った」となっています。「救った」というのは過去形ですが、少し詳しく見ると、過去の意味だけでなく、完了や存続の意味も持つことができます。例えば、「先週、あなたの信仰があなたを救った」と言えば、先週そんなことが起きたと過去の事実を述べるだけで、今週はどうかは何も言っていません。ところが、「あなたの信仰があなたを救った。だから安心しなさい」と言ったらどうなるでしょう。救ったことが起きたのは過去だが、その状態が現在も続いているので、心配いらない安心しなさい、という意味になり、「救った」ことが現在も効力を持って存続している、それくらい「救った」ことはしっかり完了している、という具合に完了・存続の意味を持ちます。このように同じ「救った」と言っても、文脈によって意味が異なります。

ところで、文語訳聖書の「救へり」は意味が限定されていて、これは完了・存続の意味です。過去の意味は持ちません。もし過去の意味を出そうとすれば、「救ひけり」、「救ひき」になるでしょう。どうしてこんな高校の古文の授業のようなことを言い出すのかと言うと、実は問題となっているイエス様の言葉は、ルカ福音書の書かれた原語のギリシャ語を見ると、過去の意味ではなく完了・存続の意味で言っているからです(σεσωκεν 現在完了形)。それで、その意味をはっきり表している文語訳の「救へり」が原語の意味と一致するので、そちらを説教題に選んだという次第です。それでは、「救った」が過去ではなくて完了・存続の意味を持つと、このイエス様の言葉はどんな意味を持つのか?このことは後でみていきます。

 本日の福音書の箇所ですが、大きく分けてイエス様の二つの教えからなっています。最初の教えは、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味について教えるものです。預言の意味について、この後すぐに見てまいります。

もう一つの教えは、イエス様がこれから癒すことになる盲目の人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことに関係します。先ほど、「救った」には過去ではなくて完了・存続の意味があると申したところです。この箇所を読む人は大抵、おやっと思わされます。というのは、イエス様は、男の人の目を見えるようにする前に「お前の信仰がお前を救った」と言ったからです。男の人の目が治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われます。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?

一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康回復をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それがもうさも実現したかのように考えて、「救った」などという言い方を先回りして用いたのではないか、などと考えることもできます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。何のことか今のところはわかりませんが、後ほどわかるようになりますので、頑張って聞いていて下さい。

 

2.シンボル的な預言が具体的な出来事に

 まず初めに、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味についてのイエス様の教えです。31節でイエス様は、これから行こうとしているエルサレムにて、預言者を通して記されたこと全てが人の子に実現する、と言います。実現することとしては、次のことを挙げます。まず人の子が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人の手に引き渡され、侮辱され、辱めを受け、唾を吐きかけられ、そして鞭うちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。

翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを確認できるからであります。しかし、弟子たちにしてみれば、まだ十字架と復活が起きていない段階ですから、確認する術がありません。

それならば、弟子たちには旧約聖書に記されている預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っている人ならば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、という具合に理解できるのではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純なことではなかったのです。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに、人の子が異教徒の手に引き渡される、と書いてあったか?また、どこに、人の子が侮辱され、鞭うちの刑を受け、殺される、と書いてあったか?そして、どこに人の子が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような形で実現すると言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。

しかし、実はこれらの出来事は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、シンボル的な言い方で預言されていることが、人間の歴史の特定の時代の舞台と状況のなかで具体的な形で実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方で預言されていることがどう具体的に実現するか前もって既にわかっているので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方は、まだ具体的な形をとって実現することは見聞きも体験もしていません。それでイエス様が言われたことが、シンボル的な言い方で預言されていることとどう関係するのか、まだわかりません。

それでは、預言されていることと、実現したことの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた人格を持つものです。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて、神の御国が現れます。その時、神から王権と権威を授けられて、御国の統治者・君臨者となるのが「人の子」です。こうして、「人の子」はイエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の御国の統治者・君臨者として理解されていました。加えて、「人の子」は、神から王権と権威を授けられる前に、迫害を受けるものとも理解されていました(ダニエル7章25節参照、マタイ16章14節も)。

さらに「人の子」とは別に、神に近い者として「神の僕」という者がイザヤ書53章に登場します。人間が受けるべき神罰を変わりに引き受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言う時、それは、ダニエル7章で言われる「人の子」が受ける迫害、イザヤ53章で言われる「神の僕」が受ける犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で、異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、と明らかにするのであります。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、引き渡し、鞭うち云々と言われても、あれっ、聖書のどこに書かれていたっけ?となってしまうのであります。

次に、三日後に死から復活する、ということについて。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1-10節、ダニエル書12章2-3節に預言されています。そこで、復活が死んでから三日目に起こるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節とヨナ2章1節が鍵になります。特に、ヨナは、大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事について述べているので、これは未来を言い表す預言には見えません。しかし、ユダヤ人にとって、この箇所は、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言であると言っています(38-41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になるのであります。

しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろいろな書物に散らばっています。そのため、これらはこういう具体的な形で、繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、といくら言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解できないのであります。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全ては繋がり、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、すなわち文字通り預言の実現になるのです。弟子たちは、事後的に全てのことを理解できたのです。

ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、ああ、旧約聖書のあれこれの預言は、神のひとり子イエス様が異教徒に引き渡され、侮辱と辱めを受け、唾を吐きかけられ、鞭うちの刑を受けて殺され、そして三日後に復活するという形で実現したのだ、それで旧約聖書の預言の一つ一つが実際起きた出来事の各部分にしっかり結びついているのだ、という具合に、起きた出来事と預言との結びつきを確認できたということです。しかし、結びつきの確認だけにとどまりません。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのか、それがわかったのであります。実はそちらの方が大事なことでした。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味するのでしょうか?

それは、天地創造の神の人間救済計画の実現を意味しました。どうして人間は神に救われなければならなくなったかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまったからでした。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子イエス様をこの世に送り、これを用いて救済計画を実行しました。それでは神は、どのようにしてイエス様を用いて人間救済計画を実行したのでしょうか?それは、人間の罪がもたらす神罰を全てひとり子イエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりに死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復して、この世の人生において永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 

3.信仰があなたを救われた状態にしている

 以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したこと、そして預言の実現は天の父なるみ神による人間救済計画の実行であったことを明らかにしました。

次に見ていくイエス様の教えは、「あなたの信仰があなたを救った」という不思議な言葉です。初めに申しましたように、この言葉は、盲目の人の目が見えるようになった段階で言った方がすっきりするのではないかという疑問が起きます。ところが、イエス様は同じ言葉をある時には、本日の箇所のように癒しの奇跡を起こす前に言っていますが、ある時は奇跡の後に言い、またある時は奇跡と無関係に言われました。この不可解な言葉について見ていきましょう。

この言葉は日本語では「あなたの信仰があなたを救った」と過去の出来事にも完了や存続の意味にも介される表現になっていますが、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく、現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、最初で触れた4つのケース全て同じです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、完了している、存続しているという意味です。従って日本語訳で「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、この箇所は、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。

さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか、と。まだ盲目の状態にあったのに、どうして救われていたと言えるのか?

その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということであります。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間とその造り主である神との結びつきが回復されて、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むこと。そして、この世から死んだ後は、神のもとに永遠に戻れること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで出来るのであります。こうすることで、人間は、神が自分で整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができて、それを自分のものとすることができるのであります。盲目の男の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのであります。癒しを受けていなくても、救われていたのであります。その後で癒しを受けたのは、付け足しのようなものでした。

これと同じことが、マタイ9章で、12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは、付け足しのようなものでした。

以上、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても、人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり人間の造り主である神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は、同じくらいに神のもとに永遠にもどれるのです。

逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この男の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、イエス様を救い主と信じ告白する者が救われるのです。

ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので、健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、その女性は、イエス様を救い主と信じた日から現時点まで、そしてこれからも信じ続ける限り、救われた状態にいるということです。

このように人間が救われているかいないかは、健康であるかないか、人生が成功だらけか失敗だらけか、ということは関係なく、イエス様を救い主と信じるかどうかによるのです。そういう訳で、キリスト信仰者というのは、仮に不治の病にかかっても、何か事業や計画に失敗しても、イエス様を救い主と信じる限り、神との結びつきはしっかり保たれているんだ、ひとり子をこんな自分のために送って下さった神の愛は境遇の上がり下がりにかかわらず同じくらいこの自分に注がれているんだ、と確信する者です。そして、その確信が生きる命そのものになっている者だと言うことができます。使徒パウロがまさにそのような者であることは、「ローマの信徒への手紙」8章38-39節にある彼の言葉からも明らかです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 最後に兄弟姉妹の皆さん、通らなければならない逆境があまりにも大きすぎて、回復した神との結びつきに確信が持てなくなってしまう危険に晒された兄弟姉妹たちがいることを忘れないようにしましょう。私たちは、彼らのために時間を割いてしっかりお祈りして、私たちの祈りを通しても、彼らを父なるみ神の御手にお委ねしてまいりしょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 四旬節第二主日
2016年2月21日の聖書日課 エレミア26章7-19節、フィリピ3章17節-4章1節、ルカ18章31-43節

説教「悪魔からの誘惑」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書4章1~13節

今日のテーマは「イエス様が悪魔から誘惑を受けられた」ということです。

4章1節を見ますと、「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。そして、荒野の中を〝霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。」とあります。

イエス様は、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた。

3章21~22節を見ますと、洗礼を受けて、川から上がられると天が開けて聖霊が鳩のように、目に見える姿でイエスの上に降って来た。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえた。」とあります。奇跡とも言える天からの声があった。

「イエス様、あなたは、神が愛される神の子である。」という宣言がなされた。

イエス様は聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。

ところが悪魔が黙っていなかった。

神の栄光がイエス様に下って、恵みに満ちた後、これに対して悪魔がイエス様を試練にあわせるのです。

 
 ヨルダン川での、聖霊に満ちた祝福と、力を与えられた。それに対して、悪魔が戦いをいどんでくるのです。

この事を私たちは、心に充分にとめていなければならないと思います。

イエス様を救い主と信じる信仰者に人生の中でいろんな試練がある、ということです。

神様の恵みを受けた対照として、いろんな形で悪魔が誘惑をもって、試練をかけてくるのであります。

さて、次にイエス様は、荒れ野の中を霊によって引き回された。とルカは記しています。

 イエス様は、荒れ野の中を引き回された、というのです。

マルコ福音書は1章12節で、「『霊』が、イエスを送り出した」と告げています。本当は、もっと激しい言い方が含まれている。

口語訳聖書の方では「追いやった」と訳しています。

ルカは、「霊によって引き回された」という表現です。どういうことでしょうか。

このことは、「イエス様がどうしても荒野へ追いやられ、サタンの誘惑を受けなければならなかった」ということを、強く言おうとしていることです。

  実は、その事が父なる神様のお決めになった必然であった、ということです。

サタンが、イエス様を荒野へと引き回したことを、父なる神さまが許されているのです。想像もつかない、以外な思いです。

ヨルダン川での洗礼の後、天がさけて、そこへ聖霊があらわれ、天からの父なる神の声を、イエス様に聞けるように導いたあの聖霊が、今度は、父なる神のみ旨によって、イエス様を荒野へと追いやった。

ここに不思議な、聖霊の働きを見るような気がします。

父なる神は、御子イエス様を、この世に送り出されるにあたって、御子を力強く訓練されて、この世に送り出されている。

これから先の、イエス様の宣教の道は、並々ならぬものがある。何事もない平穏な道ではない。

究極的には、この肉にある御子イエス様は、十字架の死という、苦難のきわみにあわねばならない遠大な、神の定めがあったのです。

  イエス様の、地上を歩まれる道は、そもそも初めから明るい輝きに満ちたものではありませんでした。

ベツレヘムでの誕生の時から、貧しく、きびしい環境の只中に、この世に生を受けられ、いよいよ宣教の道へと出発される。最初に、荒野へと向かわれたのです。荒野は、まさに水も草木もない、岩と砂漠のきびしい環境です。

いわば、それは無の世界、死の世界、神に敵対するもろもろの勢力が集まったところ、という意味が含まれているでしょう。

  イエス様は、そういう荒野へと送り出され、サタンの誘惑を受けられたのです。先ず40日間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

私たちでしたら、2~3日でも何も食べないなら空腹です。それが40日間です。これは命の極限に追い詰められた、ということです。

もし、このままでいくなら、イエス様は飢えて死ぬほかないであろう。そうなっては全てがおしまいになってしまう。

そういう極限状況の只中で悪魔の言葉があったのです。

本当に、イエス様は神の子なのかという点に集中して、誘惑が襲いかかるのであります。「神の子なら、この石にパンになうように命じたらどうだ」。

空腹の絶頂に、周囲にごろごろしている石を、パンに変えてみよ!。

そして、自分のいのちを救え、と言い寄ったのです。

これに対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある、とお答えになった。

これは、旧約聖書「申命記」8章3節の言葉をもって、返されたというのです。

人が生きる、ということは、どんなことかとなのか、という真に大きな重い真理の課題が含まれている。

「人は、この世に生まれてきて、どのように生きるのか」というテーマです。

  「申命記」8章で示された言葉というのは、神はイスラエルの民をエジプトから脱出させ、40年の間、荒れ野を進み行くこの民に、試練を与えられた。

この民を真に生かすために、あらゆる必要を備えて下さった。

人はパンだけで生きず「人はパンだけで生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるのだ」。このことを、あなたに知らせるためである。

人は、パンという単なる物質によってだけで生きるのではない。人はいのちの主なる神の意志によって生かされるのである、ということです。

今の時代、私たちへの警告でもあります。

  私は、有名な放送作家で演出家の、<倉本 聰>という人が、先日テレビで「100年先への人へのメッセージ」という番組で、心打つような大切なことを言っていました。一言でいいますと「戦後の日本は経済のことばかりで70年やって来た」。

イエス様は、いのちをかけて、神の御心に従うことを貫かれていった、と言っていいでしょう。

  イエス様は、石ころをパンに変える力を持つ方でありました。しかし、それにも関わらず,神の御心に全てを委ね、従って生きるという道を貫徹されたのであります。

フィリピの信徒への手紙2章6~8節に、パウロは次のように書いています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

イエス様の言葉は、父なる神に対する深い愛と信頼に基づくものでありました。

そこで今度は、悪魔は、まさにこのイエス様の、主への信頼をさか手に用いて、次の誘惑の言葉をかけてくるのでした。

5~6節「悪魔は、イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、そして言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もし、わたしを拝むなら、みんな、あなたのものにいなる』」。

これは、また、神の子であるイエス様の使命の核心に迫る試みでありました。

なぜなら、神の支配を地上に確立して、全人類を救いに導くことこそ、神の子としての命ぜられていることでしたから。

又、一人ひとりの魂を悔い改めに導き、信じる群れを新しい民として、神のみ前に献げることでありました。

 悪魔はそのことを、うまく用いていきます。

 この目的を達成するためには、この世の助けも必要ではないか、悪魔は誘惑します。イエスよ、あなたの聖なる使命のために、私がよい協力者になろう。

私には、この全世界を支配する権威と栄華すら与える事ができるのだ、と言う。

  今日、この世には、悪の力がはびこり、人々を混乱させ、飢えに苦しむ人々があり、戦争によって生き場がなく、難民の人々が死線をさまよっています。

この世は、罪と死の支配にゆだねられているように見えるが、しかし、その聖なる支配は厳然として、神の御手に確立しているのです。

ある程度までは、悪魔の手にゆだねられているにしても、神様は決して、すべてを悪魔に渡さているのではない。そして、最後に悪魔は滅びるのです。

ヨハネ黙示録20章10節には、終わりの日に悪魔もまた、火と硫黄の燃える池に投げ込まれるであろう、とあります。

イエス様は、悪魔のこの誘惑に対して、申命記6章13節の御言葉をもって答えられた。「あなたの神である主を拝み、ただ主イエスに仕えよ」。

 さて最後に、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。あなたの足が石に打ち当たる前に、天使たちの手であなたを支えるであろう」。

悪魔はイエス様をエルサレムの神殿へと連れて行ったのです。ここは宗教上の最も聖なる場所です。

そういう場で、父なる神とその御子との密接な結びつきである、愛と信頼を試そうとしたのです。

もし、本当に神の子なら、神は天使を送り、神殿の屋根から飛び下りても、天使の手であなたを支えるであろう。

 実はこの背景には、旧約聖書「詩篇91篇」があるのです。

 この詩人が神様への信頼をたたえています。

彼の求めに対して、神への応答が歌われ、ここに神と詩人との間の深い愛と信頼が結ばれている、そういう詩篇です。詩篇91篇14~15節を見ますと、「いと高き全能者こそわが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と、神に対する無条件の信頼を告白しています。

それに対する神の応答です。「彼は、わたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえ、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶ時、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みの時、共にいて彼を救い、彼に栄光を与えよう」。

 悪魔は、この詩篇91篇のことを知っているでしょう。

この詩篇の作者のように、神の深い信頼があるなら、ひとつ試してはどうかと誘うのです。

イエス様は悪魔に対して、きっぱり反対された。

「主なるあなたの神を、試してはならない」という言葉があるのだ、と言われるのでありました。

イエス様は、以上の三つの悪魔の言葉をしりぞけられました。

イエス様の生涯は、律法学者、ローマ帝国、そして悪魔との戦いの連続であった、ということであります。

悪魔の誘惑にあわれたイエス様のメッセージから、私たちは何を考えられるでしょうか。

最後に、ペテロ第一の手紙4章12~14節の御言葉を聞いて終わります。

「愛する人たち、あなた方を試みるために身にふりかかるような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。・・・神の霊があなた方の上にとどまって下さるからです」  アーメン ハレルヤ


主日礼拝説教 四旬節第一主日
2016年2月14日の聖書日課 ルカ4章1~13節

    

説教「主イエスは最後まで共にいて下さる」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書9章28-36節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてです。同じ出来事はマタイ17章、マルコ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本主日は変容主日とも呼ばれます。

三つの福音書に同じ出来事が記されていますが、よく読んでみると記述がそれぞれ若干異なっていることに気づかされます。しかしながら、さらに読み込んでいくと、そうした違いは本質的なものではなく、むしろ、お互いを補い合っていて、三つをちゃんと読むと同じ出来事の全体像がよりよくわかってくることに気づかされます。全体像がわかるための違いであると言ってよいと思います。具体的に申しますと、マルコとマタイでは、ルカに比べてイエス様の輝いた姿が詳しく述べられている反面、出来事全体の記述はそれほど詳しくありません。出来事全体の記述は、ルカの方がマルコ、マタイに比べて詳しいです。

 本日の箇所に出てくる「山」について、マタイやマルコの記述では「高い」山と形容されています。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同じ地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えられます。

 このヘルモン山について、以前の説教で2700メートル位と申し上げたのですが、2814メートルの誤りでした。この場を借りて訂正いたします。どうして間違えたかと言うと、言い訳になってしまいますが、その時見た地図には9230フィートと記されていて、私は1メートル=3,4フィートと間違えて記憶していて、それで計算してしまいました。1メートルは3,28フィートでした。それで計算し直したら、2814メートルとなりました。実際、メートルで高さを記した地図を見つけ、それも2814メートルでした。2700メートルなら日本の白山と同じくらいだなどと申したのですが、これも訂正しなければなりません。2814メートルでしたら、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ標高です。ただ、インターネットの写真を見てみると、ヘルモン山はなだらかで急峻な感じはありませんでした。頂上は現在のレバノンとシリアの国境上にありますが、山域はイスラエルまで及んでおり、冬はスキー場も開設されてスキー客で賑わう様子もネットで見ることができました。

 山もこれくらいの高さになると、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の福音書の箇所の記述を注意して読むと(33-34節)、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を3つ立てましょう、と言ったすきに頭上を覆ってしまうのですから。高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。どっちだったかはもはや判断できませんが、この件は判断しないままにしても、本日の箇所の解き明しには何の支障もありません。

 
2.

 本日の福音書の箇所の出来事は幻想的かつ劇的ということができま(「幻想的」と申しましたが、「幻想」とは申しませんので御注意下さい)。山の上で一体何が起こったのか、ルカの記述を中心にマタイやマルコの記述にも注意しながら見ていきましょう。

イエス様は祈るために山に登られました。イエス様が祈る場所に山の上を選んだことは他にもあります。ルカ6章によれば、山の上で一人一晩祈り明かした後で12弟子を選んだことが記されています(12節)。マタイ14章とマルコ6章によれば、5千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たすという奇跡を行った後でイエス様は一人で山の上で夜明けまで祈られました(それぞれ23節、46節)。その後で、ガリラヤ湖上で逆風に煽られて舟をこげなくなった弟子たちを助けに行ったのです。この二つの山は、ガリラヤ湖近辺にあるので、ヘルモン山のような高い山でなく丘陵と言ってよいでしょう。イエス様が一人で何を祈られたかは、記録がないし、そもそも同行者がいなかったのでわかりません。

それでも、十字架にかけられる前日にオリーブ山のゲツセマネでしたお祈りの内容は知られています(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章)。もうすぐ、全ての人間の罪を償う犠牲の生け贄になる、そうすることで人間が神の怒りや罰を受けないで済むようにする、そうして人間が神との結びつきを取り戻せて、死を超えた永遠の命を持てるようになる、そういうことを実現するために神のもとからこの世に送られてきたのだが、これから受ける苦しみに果たして耐えられるかどうか不安に苛まれてしまった。避けられれば避けたい、しかし行わなければならない、そういう苦悩をイエス様は父なるみ神に包み隠さず打ち明けます。そして最後は、「あなたの御心がなりますように」と祈って覚悟が与えられ、立ち上がって十字架の道に進んで行きます。

イエス様が他の祈りの場所で何を父なるみ神にお祈りしたのかは不明ですが、少なくとも、神がイエス様に持っていた計画を明らかにするように、そしてそれを行う力を与えてくれるようにということはあったでしょう。

本日の出来事ではペトロ、ヨハネ、ヤコブの三弟子の同行者がいましたが、イエス様のお祈りの内容は伝えられていません。32節をみると、三人は「ひどく眠かった」とのことで、これは2800メートル級の山をロープウェイやケーブルカーを使わずに麓から登れば疲労困憊になるのは当然でしょう。ああ、イエス様は何かを祈っておられるな、と眠い目には映っているが、何を祈っているのかはもう聞き取れない。ところが、祈っている最中のイエス様の様相が急に変わった。「顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた」(29節)、そして、その輝きは「栄光に輝く」(32節)ものだった。

それだけではありません。気がついてみると、どこから現れたのか、二人の人物がいて、一緒に話しをし始めたではないか?その二人もイエス様と同じように「栄光に包まれ」ています(31節)。三人の弟子は、体は重く疲れたままですが、興奮が入り込んで次第に眠気が引いて行きます。話声も耳に入ってきました。聞いていると、この二人はかつての偉大な預言者モーセとエリアだということがわかってくる。ところで、このモーセとエリアは一体何なのだ?ルカ24章を見ると、死んだ人間が目の前に現れると幽霊とか亡霊と理解されるのは、彼の地でもあったようです。ルカ24章では、復活したイエス様が鍵を閉めてあった家の中に突然入って来たのを見て弟子たちがパニックに陥りました。しかしながら、山の上で三人の弟子たちはそうなりませんでした。恐らく、目の前に現れたモーセとエリアは父なるみ神の力によって再臨をした者という理解があったからだと思います。当時、特に律法学者の間で、エリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10-11節、マルコ9章11-12節)。加えて、ペトロがモーセとエリアのためにも「仮小屋」を建てます、と言ったのも、神の力によって再臨したという理解があったことを示しています。「仮小屋」というのは、ギリシャ語のスケーネー(σκηνη)ですが、正確な訳は、神に礼拝を捧げる場所の「幕屋」を意味します。ペトロはイエス様に加えてモーセとエリアのためにも礼拝を捧げる場所を建てると言ったわけです。幽霊や亡霊にそのようなものを建てる言われはありません。

さて、モーセとエリアが近々エルサレムでイエス様が行なわなければならないことを知らせると、二人はイエス様のもとを「離れ」出しました。文章では「二人がイエスから離れようとしたとき」と書いてありますが、歩いて立ち去ろうとしたのか、空に上げられるように去ろうとしたのか、姿が消えるようにしてなのか、ギリシャ語の言い方からでは全くわかりません(εν τω διαχωριζεσθαι)。どんな仕方であれ、とにかく、二人の大預言者とイエス様の間に距離が開きはじめた。それが見て取れた。まさにその隙をとらえて、ペトロがイエス様の方を向いて、イエス様とモーセとエリア三人のために礼拝を捧げる幕屋を三つ建てます、と言ったのです。三人の話しが終わって、そのうち二人と一人の間の距離が開き出したその時です。

この、ペトロが幕屋の提案を述べている、ほんの10-20秒程の間に突然雲が現れました。雲は、ペトロたちの側からみて、あっと言う間にモーセとエリアとイエス様の頭上に覆いかぶさりました。34節を見ると「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った(εν τω εισελθειν αυτους)、つまり雲の中に乗り込んでしまったのです。弟子たちが恐怖を抱いたのは、得体の知れない雲が現れたということより、雲がイエス様から離れつつあったモーセとエリアだけでなく、イエス様をも取り込んでしまったことによるのです。

まさにその時です。その雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という、父なるみ神の声が響き渡りました。この声が響き渡った後で、弟子たちが顔を上げると、目に入って来たものは、そこに一人立つイエス様だけでした。あの、様相が変わる前のいつものイエス様がそこにおられました。もうモーセもエリアも雲もなくなっていました。全てもとに戻っていました。本当にあっという間の出来事でした。全てもとに戻ったとは言っても、この出来事があったがゆえに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声は、今目の前におられる方を指すことがはっきりしました。また、ペトロにとっては、モーセやエリアに礼拝を捧げる必要などないこともはっきりしました。

 
3.

 以上、山の上で起きた出来事を書かれたものに基づいてできるだけ忠実に再現してみました。幻想的でかつ劇的な出来事ですが、天の父なるみ神の意思や計画がはっきり伝わってくる出来事だと思います。神の意思や計画というのは、イエス様に対してだけでなく私たち人間に対して両方のものです。以下、そのことについて見てみましょう。

 まず、イエス様の変容について見てみましょう。ルカ福音書では、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、実は、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ福音書9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪や不従順の汚れに全く染まっていない神聖な神の子としての本質をあらわにしたのです。

 「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証されています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。イエス様は、もともとからして罪を持たない神の神聖さを持つ方なので、何の問題なしにそのまますんなり天の神の御国に入れた筈です。モーセとエリアの場合は、御国に入れるようになるために神によって変えてもらわなければなりませんでした。31節でモーセとエリアは神の「栄光に包まれて現れ」(οφθεντες εν δοξη)と言われていますが、これは、彼らが神から栄光を輝かせてもらって、それを受けて光っているということです。イエス様の場合は32節で言われるように、彼自身が「栄光に輝く」、つまり神と同じように自ら輝かせることができる栄光(την δοξαν αυτου)を持っているということです。本当にイエス様はお迎えの「雲」に乗って、そのまま天の御国に帰ればよかった。それなのに、私は行かなくてもいい、と言わんばかり、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められたのです。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すこととなって、神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と切り離された状態で生きることとなり、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間がこの汚れを除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能なことです。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす律法というものがあるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たしていくものというより、人間が神の意志からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものなのです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21-22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27-28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪の汚れから洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで成し遂げました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪の汚れを忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまうことも辞さない方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が背負うべき罪の罰を全部彼に負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は言わば、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この尊い犠牲のおかげで、人間が罪の罰や罪の支配状態から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありません。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのです。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、それを大事に携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになれる。そして、いざ、この世を去る時が来たら、神に自分の全てを委ねることができて、神の方でしっかり受け取ってもらえるようになれる。まさにそのためにイエス様は、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

ところで、復活されたイエス様は天に上げられました。今は天の父なるみ神の右に座しています。そして、今のこの世が終わりを告げて、新しい天と地が創造される時に再臨すると約束されました。マタイ福音書の終わりで、復活の主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章19節)と言われますが、今天の父なるみ神の右に座している方がどうやって、私たちと共にいて下さるのでしょうか?

それが本当に共にいて下さるのです!洗礼を受けて「罪の赦しの救い」の贈り物を受け取った者は皆、自分からそれを捨てない限り、その贈り物を大事に携えて生きる限り、イエス様を自分の救い主として確実に持っています。小さな子供の場合は、両親の信仰告白に支えられてイエス様を持っています。大人になって自分で信仰告白をするようになれば、両親から独立して救い主イエス様を持ちます。イエス様を救い主として持てるのは、聖霊が働いているおかげです。

さて、両親に支えられていても、また独立していても、信仰に留まる者が聖書の御言葉を読んだり聞いたりすると、それはただイエス様が救い主であることを絶えず思い起こさせる神の声、イエス様の声そのものです。さらに両親から独立して聖餐式のパンとぶどう酒を受けると、それは受ける人にとってイエス様が救い主であることを御言葉と一緒に強めてくれます。

さらにイエス様は、私たちの祈りを、声に出る祈りも、声にならないため息も、全て聞き遂げて父なるみ神に取り次いで下さって、全てのことを神の御心に適うように祝福されたものに変えて下さいます。まことにイエス様は、この世の終わりまで、そして私たち一人一人の人生の終りまで、いつも共にいて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしっかり歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン


主日礼拝説教 変容主日
2016年2月7日の聖書日課 申命記34章1-12節、第二コリント4章1-6節、ルカ9章28-36節

説教「罪の自覚」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書5章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまう。なぜペトロはこの時、自分は罪びとであると罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが、そう告白するに至った原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον […….] επι των ιχθυων […..])。それでは、ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?本説教では、まずそのことを見ていきたいと思います。

イエス様はガリラヤ湖の岸辺で群衆に教えを宣べています。教えの内容については触れられていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったと推察できます。つまり、神の国がイエス様と一体となって到来したこと、神の国の一員として迎え入れられるために人間は罪の赦しを受けなければならないが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、また人間は神の御心を正しく知って悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、これらのことが考えられます。

 岸辺には大勢の群衆が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、イエス様は岸辺に漁師の舟が二そう止まっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様は、ペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で再びペトロに、もう少し沖合まで漕いで、魚を捕るべく網を投げるよう命じます。

 ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかった、と応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それでも何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、それでも、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。この時ペトロはイエス様のことを、上に立つ者、指導的立場にある者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςと呼んでいます。新共同訳では「先生」となっていますが、「先生」を意味する言葉はディダスカロスδιδασκαλοςという言葉が別にあります。ペトロにしてみれば、漁をやめて網を洗っていたのに突然人の舟に乗り込んできて漕ぎなさいと命じたり、教え終えると今度はもっと沖に出て網を入れなさいとか、いろいろ命令ばかりする人だな、やたらと指導者ぶる人だな、という思いが言葉遣いに見て取れます。少し皮肉った言い方で、「お偉いさん」という意味だったのかも知れません。そうは言っても、イエス様は既にガリラヤ全土で権威ある教えと奇跡の業によって名声を博している方です。言われたことを断ることもできません。

無理に決まっているじゃないか、という思いで網を入れたところ、大変なことが起きました。網も破れんばかりの夥しい量の魚がかかりました。もう一隻の舟が応援にかけつけるも、このままでは二隻とも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。文字通り想定外の出来事が目の前に起こり、恐れを抱いたペトロは叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」その時ペトロは、イエス様のことを先ほどの少し皮肉の混じった「お偉いさん」と呼ばず、今度は一挙に神を言い表す言葉キュリオスκυριος「主」と呼びます。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。最初のぶつくさ言うような感じから、一挙に背中がピンと張って目が覚めて真剣そのものに激変した感じです。

それでは、ペトロは何に恐れを抱いたのでしょうか?そして、どうしてその恐れから神に罪の告白をするようになったのでしょうか?ペトロが恐れたのは舟が沈んで自分が溺れてしまうことではありませんでした。ペトロが金槌でなかったことは、ヨハネ21章から明らかです。ペトロが復活したイエス様に真っ先に会おうとして上着を着けたまま水に飛び込んで岸まで泳ぐ場面がありました。ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。

神を間近に見ることが人間に罪の自覚と呼び覚まして、大きな恐れを抱かせることは、イザヤ書6章によく描かれています。ユダ王国が国王から国民までこぞって神の意思に反する道を歩んでいた頃でした。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。その時、イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の間に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まことに罪の自覚の悲痛な叫びです。ここでは、神聖な神と汚れに満ちた人間との間の絶望的な隔たりが一挙に示されます。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力が満ちています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、炭火がイザヤを霊的に清めたことを意味します。いずれにしても、人間が真の神を間近に見る場合、その神聖さと全く逆の自分の汚れを思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、神を間近に見てしまった時に強い恐れが生じるのは当然なのです。

 
2.

 私たちにも、神を間近に見たり感じたりして罪の自覚が生まれるということが起きるでしょうか?私は、人間が死に直面してこの世から去るのを目前に控えた時というのは案外、神を間近に感じて罪の自覚が生まれる時ではないかと考えるものです。どうしてそのように考えるのかと言うと、以前読んだことのあるスウェーデンの小説にそのような出来事があったからです。スウェーデンという国は、日本ではノーベル賞や大規模な家具チェーン店の国として知られていますが、国民の60%強がルター派教会に属している国です。国民の半数以上と言うと多く聞こえますが、実は数十年くらい前はほとんど100%近かったのです。それ位、国民の教会離れが近年進んでいるということです。

さて、問題となっている小説ですが、それは「グルンドゥステーネンGrundstenen」という題名で、日本語にしたら「岩盤」という意味でしょうか。作者は、1960年代から70年代にかけてスウェーデンのルター派教会のイェーテボリ監督区の監督を務めたB.イェールツという神学博士です。もう既に亡くなった人です。神学者の書いた小説ですが、第二次大戦後のスウェーデン文学界の代表作の一つと言われています。

話しを先に進める前に少しだけ小説の内容を紹介しますと、オーデショーという架空の村が舞台で、1809年から1939年までの130年に渡る村の歴史に、形を変えつつも、いつも繰り返し起きる出来事が主題になっています。それは、村の教会に赴任した牧師と村の人たちがいかにルター派の信仰を守る戦いをしたかということです。

130年の歴史は三つの時代に分かれていて、第一部は、ナポレオン戦争の時代にスウェーデンがロシアとの戦争に敗れてフィンランドを失うという時代背景のもと、牧師たちも当代の知識人と同じく啓蒙主義の影響を強く受けていて、信仰よりも理性を重んじる風潮の中での話です。第二部は1870年代で、村からも多くの人たちがアメリカに移民するという社会変動の時代。その頃、キリスト教のいろんな宗派がこの村にも入って来て、多くの村人たちがルター派に魅力を感じなくなって離れてしまい、そうした宗派に流れて行ってしまうという状況の中での話です。第三部は1930年代に国民の教会離れ聖書離れが進み、個人の生き方も神など引き合いに出さず個人が自由に決めればよいという風潮が強まり、それが性のモラルにも現れてくる。やがて第二次大戦が始り、隣国フィンランドがソ連に攻撃されると中立国のスウェーデンから8000人もの義勇兵が出征する。第三部に登場する問題人物もその一人として前線に赴き、彼の戦死の報を牧師が受け取ったところでこの年代記のような小説は終わります。

それぞれの三つの時代の中で教会が直面した三つの挑戦、理性の偏重、教派や宗教の百花繚乱、個人の自由追求やそこから起こる性モラルの乱れといったものは、実は今の時代にも全部当てはまるのではないでしょうか?

一つ余計なことを付け加えると、作者のイェールツという人はスウェーデンのルター派教会の聖書離れに警鐘を鳴らし続けた人で、彼のキリスト信仰に関する多くの著作はフィンランド語にも訳されて、スウェーデンとフィンランド両国のルター派のリバイバル運動に大きな影響を与えました。両国の牧師の中には、この小説を読んで牧師を志したという人もいるほどです。

さて、話を本筋に戻します。死に直面した人間がこの世を去るのを目前にする時というのは、神を間近に感じて罪の自覚が生まれる時ではないかということについてです。グルンドゥステーネンの第一部に次のような出来事があります。村のヨハンネスという老人が重病で、もう死期が近づいているという時に、意識ははっきりしているが半狂乱のようになってしまう。彼は毎週教会の礼拝に通う敬虔な人と思われていたのだが、突然自分はとんでもない罪びとだった、自分が神に受け入れられないのは確実だ、と言い始めて、周りの人たちのどんな慰め言葉も受けつけない状態になってしまった。そこにウプサラ大学神学部を出たての新米牧師が送られてきた。牧師が老人に、神は良い方だから何も心配いらない安心しなさい、といくら言っても、話が全然かみ合わない。老人は、そう、神は良い方だというのは全くその通りである、神は本当に自分に良いものを与え続けて下さった、それなのに自分はそれに応えるように生きてこなかった、心の中で隣人を罵ったり嘲ったりした、困っている人がいた時に助けてあげなかった、その人のために祈ってあげなかった、自分は神の期待を裏切ることばかりしてきた。良いことをしなければならないとわかっていたのにしなかったのは、神がその力を与えて下さらなかったということで、その時既に神に見放されていたのだ、等々。

ヨハンネス老人が苦にしている罪とは、盗んだとか殺したとか姦淫したとか、そういう行為に出る重大なものではなく、心の中のレベルの問題でした。しかし、そのようなものでも、神は裁きの根拠にする。そこで牧師が、「あなたは私が会った人の誰よりも正直な人です。だから、あなたは他の誰よりも確実に天国に行けると牧師の私がはっきり言います」と言う。新米牧師は、老人を本当に励ますつもりでこの言葉を言ったのですが、効果は全く逆でした。老人は、「罪を裁く時、裁く者は他の人の罪と見比べて裁きを決めるものではない」と冷たく答えます。神は人間の行いを全部命の書に記録するのであり、今自分の書が開かれようとしている。そこに記されている罪について、神に申し開きなどできるわけがない。牧師はもう何も言えなくなって途方に暮れてしまいます。

ヨハンネス老人の苦悩は、これからこの世から退場する時、退場した瞬間父なるみ神にしっかりキャッチしてもらえるかどうか、もう確信が持てなくなってしまったことにあると言えます。どうして確信が持てなくなってしまったかというと、キャッチしてくれる方はどんな方なのか、聖書に基づいて罪を裁く方である、ということが、かつてないほどはっきりしてしまった。神はキャッチしてくれないと言うならば、自分のどんな罪が原因なのか?心の中の罪は行いの罪より重くはないと言って、それでキャッチしてもらえると安心して良いのか?新米牧師の論理はそういうことになるのですが、牧師の言うことは本当に神の御心を間違いなく代弁しているのか?神の御心と関係のない人間の都合で言っているのではないか?いずれにしても、神にキャッチしてもらえるかどうか、その心配や疑いが一切なくなる一番よい方法は、行為にせよ心の中にせよ、罪を一切犯さないことなのであるが、それは不可能だった。

このようにして、この世から旅立つ時、いよいよ自分を受け止めて下さる方が目の前に現れるという時が近づいて、さて本当に受け止めてもらえるのかどうか、不安が起きて確証が得られなくなってしまう原因に罪の自覚があると言えます。ヨハンネス老人は果たして救われるのでしょうか?

 

3.

 牧師が途方に暮れているところに、カトリーナという年老いた女性が到着します。幼馴染で若いころ同じ村に住んでいて一緒に聖書を学ぶこともしたという人で、別の村に引っ越した後はそこでかなり古い世代に属する牧師の下で聖書を学んだという人でした。以下はカトリーナとヨハンネスのやりとりの抜粋です。

ヨハンネスがまた、自分は罪人だ、偉大な罪びとだ、と言うと、

カトリーナ「その通り。あなたは偉大な罪びとよ。しかし、イエス様はそれを遥かに上回って偉大な救い主なのよ。」

ヨハンネス「イエス様が偉大な救い主なのは、ある特定の人に対してだけなのさ。イエス様が救ってくれるがままに任せられる人に対してなのさ。俺の心は不純で悪に満ちてしまっている。」

カトリーナ「健康な人に医者は要らないのよ。要るのは病気の人なのよ。イエス様が来たのも、聖者を招くためではないわ。罪びとを招くためよ。」

ヨハンネス「改心しなければならないということなんだろう、カトリーナ。でも、俺にはその改心が不足しているんだ。」

カトリーナ「あなたに不足しているのは改心ではないわ。信仰よ!あなたは改心の道を何十年も歩んできたのよ!」

ヨハンネス「何十年その道を歩んできたのに、目的地に到達できなかったんだ!」

カトリーナ「ヨハンネス、私の質問に答えて。あなたは自分の気持ちとしては心を汚れのないものにしたいの?」

ヨハンネス「もちろんだとも。清くしたいんだ。この気持は神様も知っていると思う。」

カトリーナ「それなら、あなたの改心は真実だわ。あなたの改心には何も問題はないわ。問題は、あなたは信仰を見失ってしまったことよ。」

ヨハンネス「それじゃ、俺は何を信じなければならないんだ、カトリーナ?」

カトリーナ「あなたが信じなければならないのは、この神の御言葉よ。『自分の業に依り頼むことはせず、神から離れてしまった者を神の目に相応しい者に変えて下さる方を信じる者、この信仰を神は御自分の目に相応しいものとみて下さる。』今日の日までヨハンネス、あなたは自分の業を気にしすぎて、自分の心の中を一生懸命に見て来たのね。その結果、心の中には罪と貧しさしかないことがわかってしまったの。でも、それは神様があなたの目を聖霊の目薬ではっきり見えるようにしたから、真実が見えるようになったということなのよ。ヨハンネス、あなたの心の中に罪はあるの?」

ヨハンネス「もちろんだよ。たくさんあるよ。ありすぎるくらいあるよ。」

カトリーナ「これで、もうわかるでしょ。神様はあなたを見放していないということが。聖霊を持っている者だけが、自分の罪を見ることができるのよ。」

ヨハンネス「それじゃ、カトリーナ、俺の心が汚れていると言うのは、神様のなせる業だと言うのか?」

カトリーナ「あなたの心が汚れているというのは、神様の業ではないわ。それは、罪のなせる業でしょ。あなたが自分の心の汚れを見ることができるといこと、これが神様のなせる業よ。」

ヨハンネス「でも、どうして汚れのない心を得ることはできないんだ?」

カトリーナ「それは、あなたがイエス様を愛することができるようになるためなのよ。」

ヨハンネス「お前の言っている意味がわからないよ、カトリーナ。」

カトリーナ「はっきり言うわ、ヨハンネス。もしあなたが汚れのない心を持てて、そのおかげで天国行きの切符を獲得できたとすると、救い主は何のために私たちに送られたの?もし律法の掟を守ることで一人でも人間が救われるなら、イエス様は十字架で死ぬ必要はなかったんじゃないの?だけど、律法は満たして救われるためにあるのではなくて、神様の裁きと憎しみをはっきりさせるためにあるの。神様はこの神聖な掟をもって全ての人が救いに関して神様に何も偉そうなことが言えないようにしたのよ。この世全てが、恥辱に打ちのめされて呆然と立ち尽くすために。(ヨハンネスに促されて、カトリーナは続ける。)

この御言葉を覚えている?ヨハンネス、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊よ。』」

ヨハンネス「カトリーナ、あの方は本当に俺の汚れた心の中に住む罪をも取り除いて下さるのか?」

カトリーナ「その通りよ。イエス様は、あなたの身代わりになって十字架の上で死なれて、それで全ての罪を償って下さったのよ。」

ヨハンネス「でも、まだ俺の中に罪が残っているじゃないか?」

カトリーナ「そう残っているわ。使徒パウロの中に罪が残っていたのと同じくらいに残っているわ。パウロが何と言っていたか覚えていないの?『私は、自分という肉の存在の中に善いものが何もないということを知っている。善いことをしなければという意思はある。しかし、それを実現する力がないのだ。』」

ヨハンネス「俺のことを言っているみたいだ。」

カトリーナ「私たちのことを言っているんだし、他の全ての人のことも言っているんだわ。御言葉にもあるわ。『彼の受けた傷を通して、私たちは癒された。』イエス様は、私たちとこの世の罪の償いをして下さったのよ。」

ヨハンネス「カトリーナ、その通りだと思うよ。俺はこのことを信じるよ。もう一つ相応しい御言葉があったら、聞かせてくれないか。」

(カトリーナは聖書を取り出して、それを開いて読む。)

カトリーナ 「『全ての者が罪を犯した。そして神の栄光を失ってしまった。しかし、その全ての者が、神の恵みによりイエス・キリストの贖いの業を通して、神の目に相応しい者とされることを贈り物として得たのである。』」

ヨハンネス「アーメン。カトリーナ、このことを信じるよ。」

カトリーナ「今ここで、神様の業がなされたんだわ。さあ、あなたは牧師先生に聖餐式をお願いしなさい。」

 そして病床にて聖餐式がもたれました。ヨハンネスにとってこの地上での最後の聖餐式となりました。ところで、私たちの礼拝と聖餐式ですが、まず礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。続く説教の部では神の御言葉を通して、神がいかに罪びとを御自分のもとに受けとめたく思って、それでイエス様をこの世に送って、救いの業を成し遂げて下さったことを明確にします。このように、聖餐式の前にも神の業が私たちにしっかり働くようにします。そして、聖餐式それ自体が、私たちの信仰を強めて育ててくれて、私たちがこの世を去る時、父なるみ神が私たちを間違いなくキャッチしてくれることを疑う必要がなくなるようにしてくれます。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、このように礼拝、特に聖餐式が私たちの救いにとって本当に大事なものであることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 顕現節第四主日
2016年1月24日の聖書日課 ルカ5章1-11節、エレミア1章9-12節、第一コリント12章12-26節

説教「肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書4章16-32節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の福音書の箇所ルカ3章では、イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと、そしてその時神からの聖霊が彼に降って特別な力が備えられたことをみました。特別な力とは、神の人間救済計画を実現する力です。神の人間救済計画とは、罪の奴隷になって死の力に支配されている人間を救い出すことです。そのためにイエス様は自分自身を犠牲の生け贄にして、罪の奴隷になっている人間を神のもとに買い戻す。そういう、人間を罪と死の力から解放する計画です。イエス様は、洗礼のすぐ後で、ユダの荒野で40日間悪魔から誘惑の試練を受けますが、全て旧約聖書にある神の御言葉を盾としてはねのけました。これは、聖書の神の御言葉には悪魔を退かせる力があること、そして御言葉が真理であると信じる者には悪魔は手の出しようがないということを示す出来事でした。

この荒野の試練の後に、本日の福音書の箇所が来ます。イエス様は、ユダ地方からガリラヤ地方に移りました。ガリラヤ各地のユダヤ教の教会堂、シナゴーグを回って、神の国が近づいたということ、それに人間の救いがまもなく実現するという福音を人々に伝え始めます。そして神の国が架空のものではない、実在するものであることを示すために数多くの奇跡の業を行いました。それでイエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりました。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。

 イエス様のナザレ訪問の目的は、生まれ育った故郷に帰ってのんびり休暇を過ごすことではありませんでした。これまでガリラヤ地方で行ってきたのと同じく宣教をするためでした。しかし、顔見知りが多くいる故郷の町では、他の町々と勝手が違いました。どう勝手が違ったか、なぜそのようなことになったのか、ということが本日の福音書の箇所の主題になります。

イエス様は、これまでそうしてきたように、まず町のシナゴーグに入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。私たちの用いる新共同訳では何気なく「いつものとおり」とありますが、原語のギリシャ語の意味はもう少し深くて「彼にとって習慣だった」ということです。イエス様が宣教活動を始める前にも安息日にはきちんと欠かさず礼拝に通っていたことが窺われます。

 ところで、当時のシナゴーグの礼拝ですが、少し背景について説明いたします。ヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読した後で、それをアラム語で解き明かしする説教が行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、イスラエルの民はもともとヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚でイスラエルの民は異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、イスラエルの民はその言語がだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 さて、捕囚の身となったイスラエルの民でしたが、紀元前6世紀の終り頃にバビロン帝国を倒して中近東の覇者となったペルシャ帝国の王の計らいでエルサレム帰還が認められます。帰還した民は廃墟となったエルサレムの町と神殿の復興事業にとりかかります。当時の民の苦難と信仰の戦いの出来事については、エズラ記とネヘミア記に記されています。ネヘミア記8章を繙くと、指導者が民に向かってモーセの律法を朗読する箇所があります。そこに、朗読者が「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読しアラム語に翻訳して解説したということであります。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖な最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代のシナゴーグの礼拝の時にも続いていたのです。

 さて、本日の聖句に戻りまして、シナゴーグの会堂長は、その日の神の御言葉の朗読と解き明しをする人を誰にするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は参会者で一杯です。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは、私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。イエス様は立って、イザヤ書61章の最初の部分をヘブライ語で朗読しました。その箇所の内容は、神に油注がれた者、つまりメシアが神の霊を受けて捕らわれ人に解放を告げ知らせるというものです。メシアはまた、心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に目が見えるようになるという喜びの知らせを伝える。さらに神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容です。

朗読した後、イエス様は巻物を係の者に返して、席につきます。席というのは説教者の座る所ですので、会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後でイエス様は解き明しをしていくのですが、それについてはルカ福音書では何も記されていません。22節をみると、参会者みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、イエス様が解き明しを続けたのは間違いありません。解き明しの内容はほぼ間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めをして、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したとイエス様が冒頭で宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのであります。

 

2.

 ところが、ここで状況が一変する出来事が起きます。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。これでは、この後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという、急転回がどうして起きたのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文をもう少し忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の解き明しを聞いていた聴衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。(μαρτυρεω「証する」という動詞は、与格の目的語を伴うと、肯定的にも否定的にもその者について証する意味があります。)聴衆は、イエス様の口からでる恵み深い言葉に驚いている。しかしその同じ聴衆が、「あれはヨセフの子の大工のイエスではないか」とも言っている。つまり、神の恵みの言葉を価値あるものとわかって、イエス様が誰の子とかそんなこと全く関係ないという雰囲気が生まれた。しかし、同時に「あれはヨセフの子」ということに目が行ってしまい、せっかく価値があると思っていた教えが色あせてしまう。この方は神の人間救済計画を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、故郷のみんなはそれを知っている、ということで遮ってしまったのです。聴衆にとって、神の御言葉を語るイエス様は肉眼に映る像をはるかに超えた存在に映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない心の目、信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

信仰の目とはどういう目かというと、神は人間を罪と死の奴隷状態から救い出してあげようという意思を持った方である、という真理を見ることが出来る目です。また神は人間の救いを実現するために自分のひとり子をこの世に送られたという真理も見ることが出来る目です。こうした真理は、限りある肉眼の目では見えません。肉眼では、目の前にいる男は単なるヨセフの息子の大工にしか見えません。信仰の目を通して見るイエス様は、まさに天と地と人間を造られた神が提示するイエス像であります。それは、人間が限りある知識を駆使して、ああだ、こうだと言って造り上げたイエス像ではなく、神の力に助けられて知ることのできるイエス像です。

イエス様は、聴衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまっていることに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、ナザレの人たちが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということであります。加えてナザレの人たちはイエス様に向かって、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、そう言いたくて仕方がないと見破ります。

しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことはしませんでした(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の記述とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのサレプタのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンのらい病を完治した出来事です。サレプタのやもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異教徒の民でした。預言者エリアとエリシャの時代、イスラエルの民の北王国は神の道に背く道を歩んでいました。神は、御自分の預言者を自分の民のもとには送らず、異教徒に属する者に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じであると言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥ったイスラエル北王国と同じ立場にある、というのです。

これを聞いた聴衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き、難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの日までは神はイエス様が滅びるようなことは一切認めなかったのであります。

 

3.

 ところで、なぜイエス様はナザレの人たちが自分に対して攻撃的になるようなことを言ったのでしょうか?どうして、肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導かなかったのでしょうか?先ほども触れましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりすることを出発点として信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから神を畏れるようになった、というだけで終わってしまう危険があります。

本当の信仰とは、たとえ肉眼で見なくとも、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理と信じられることです。ちょうどイエス様が不信心のトマスに対して「見ないのに信じる人は幸いである」と言われた通りです(ヨハネ20章29節)。奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るというのは、結局のところ、肉眼に頼る信仰で、必ずしも信仰の目を持ってする信仰にはならないのです。奇跡の目撃や体験がなくなると信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているわけですが、残念なことに彼らの反応は、メシア救世主を殺害するという、それ自体、自暴自棄そのものと言える行為に走ったのでした。なぜなら、イエス様を殺害して十字架と復活の出来事を起こさせないようにするというのは、自分たちを救うためにある神の計画を妨害することですから。

ナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、なぜ信仰の目をもってする信仰の道を目指すことを考えなかったのでしょうか?この大きな原因は、彼らが自分たちは罪の奴隷状態に陥っていることを認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らがエリヤとエリシャの時代のイスラエル北王国と同じ罪深い状態にあると明確に指摘しました。しかし、ナザレの人たちは、謙虚に立ち止まって自分たちの生き方を神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。全く正反対に、自分たちは、かつて神の罰として滅亡した王国と同列視されるような罪は何も犯していない、といきり立ってしまったのです。

以上から明らかなように、信仰の目が持てて、その目でイエス様を見ることができるためには、自分が神への不従順と神の意思に反する罪を持っていることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるかもしれません。しかし、人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したために死ぬ存在となってしまいました。それで、人間が死ぬということ自体が人間の罪性、不従順性を示しているのです。

人間を造られた神は、人間がこの世から死んだ後、造り主である自分の許に永遠に戻れるようにするために、ひとり子イエス様をこの世に送ったのです。さらに、人間がこの世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩めるようにするために、またその道を歩む際には順境にあろうが逆境にあろうが絶えず守られて歩めるようにするために、イエス様を送ったのです。それで、人間の罪と不従順がもたらす罰を全てイエス様に身代わりに受けさせました。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが実は自分のためになされたとわかって、イエス様こそが救い主と信じて洗礼を受ければ、その瞬間に、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。神の意思と計画が真理であるとわかるために、奇跡や超自然的な力を見る必要は全くないのです。

 しかしながら、イエス様を救い主と信じるようになって信仰の目を持てるようになったとは言っても、私たちは肉を纏って生きる以上、肉眼の目に頼ってしまう危険がいつもあります。どうして私たちは、そのような中途半端な状態に置かれなければならないのでしょうか?どうして、一度与えられた信仰の目が全てにならないのでしょうか?ルターは、信仰とは育たなければならないものと教えています。そうすると、今の中途半端な状態というのは、まさに信仰を成長させなければならないものにしていることがわかります。このことについて、ルターの教えをひとつ引用して本説教の締めとしたく思います。この教えは、第二コリント5章7節の聖句「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」の解き明しです。

「福音の光に照らし出された人は、聖書の御言葉を噛みしめながらキリストとしっかり結ばれていく。たとえ自分自身、まだ罪が残っている、まだ罪の中にいると思っていても、その人は日に日に罪と地獄の外側へと移されていくのである。

しかし、そこには戦いがあることを忘れてはならない。感じること見えることが聖霊や信仰に戦いを挑んでくる。同じように聖霊と信仰も感じること見えることに戦いを挑む。信仰というものは性質上、理性が把握しようとすることに対しては介入しない。理性がしたいようにほおっておく。信仰はただ、人の目を閉じさせて、生きる時も死ぬ時も神の御言葉だけに依り頼むようにさせるのである。翻って、感じること見えることは、理性や五感で把握できること以上に進むことができない。このように、感じること見えることは信仰に対峙するものであり、信仰は感じること見えることに対峙するのである。この戦いで、信仰が成長すればするほど、感じること見えることは廃れていくのであり、逆もまたしかりである。

罪や驕り高ぶり、憎む心、独り占めしようとする心、その他全ての忌まわしいものが、キリスト信仰者である我々の内にまだぶら下がっているのは、それらが我々を逆に鍛えさせてくれるからなのである。御言葉に依り頼みながらそれらに戦いを挑んで鍛えられていくと、我々の信仰は一日一日と前に進み、最後には頭のてっぺんから足のつま先まで完全なキリスト信仰者になれて、キリストに完全に覆われて、天の御国の真の祝宴の席につけるのである。我々は、海の荒波を思い浮かべるが良い。波は次から次へと岩壁に押し寄せ、それはあたかも力ずくで岩壁を砕こうとしているかのようである。しかし、砕かれるのは波自身であり、砕かれては消え去ることを繰り返すだけである。罪の攻撃もこれと同じである。罪は、我々を打ち砕いて絶望に追い込もうと、それこそ覆いかぶさるように襲いかかってくる。しかし、力が足りず退散しなければならないのは罪なのである。なぜなら、罪は最後の日に音もなく消え去るよう既に定められているからなのだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 顕現節第三主日
2016年1月17日の聖書日課 ルカ4章16-32節、エレミア1章4-8節、1コリント12章1-11節

説教「神の子イエスの洗礼」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書3章15~22節

 ルカは医者であり、歴史家でもありましたから、神の子として、福音宣教されたイエス様について、かなりこまかく歴史的事実をおりこんで記しています。

 ルカ3章1節から見ますと、「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ピラトが、ユダヤの総督ヘロデがガリラヤの領主であった。」

あと、こまかく歴史上の人物を記し、大祭司の名まで上げています。

神の言葉が、荒れ野でザカリヤの子ヨハネに降った。

そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

これが、バプテスマのヨハネの登場です。

預言者勲矢の予言の言葉も、しっかり宣言しています。

そこで群衆は、洗礼を授けてもらおうとして、ぞくぞくとヨハネのもとへやって来ました。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と叫んだのです。あと詳細にわたって、ヨハネが悔い改めをせまっています。8節以下をみますとわかります。

 さて、本日の聖書が15節からであります。

民衆は、メシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら、彼がメシアではないかと皆、心の中で考えていた。

そこでヨハネは言った。「私はメシアではない。」とはっきり言いました。「わたしより、はるかに優れた方が来られる。」イエス様をメシアとして示していきます。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」

イエス様の前に、バプテスマのヨハネは、奴隷にも値しない。

あとに来られる方は聖霊と火で、あなたたちに洗礼をお授けになる。

 主イエス様が、いかに高い存在か、比べようもないお方である。人間という存在をはるかに超えた神の人、神であられる、ということ。

しかし、誰も知るよしもない。ヨハネにはわかっていたことでしょう。

イエス様は、罪の赦しという大目的がある、けれども、徹底した審きもなさることを、きびしく、くわしく述べています。

 

 ところで、ここに1つの出来事が起こる。ルカは21~22節に簡潔に記していますが、マタイの方が少し詳しいので、見てみましょう。

マタイ3章13節~15節「イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。」

ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。

「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所へ来られたのですか。」

しかしイエスはお答えになった。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

民衆に混じって、イエス様が洗礼を受けに来られたのですから、バプテスマのヨハネは、もうびっくりこんです。

イエス様の」履物のひもを解く値打ちもない、ヨハネのところへ、洗礼を授けてほしいと言われる。ヨハネは、どんなにか、戸惑った事でしょう。私こそ、あなたから、洗礼を受けるべきです。と、驚きと恐れをもって、言っています。

なぜイエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けようとされたのでしょうか。

イエス様は罪びとの民衆と仲間になって下さっているのです。

 

 イエス様とヨハネのちがいは何か、といいますと、主イエス様は、福音の御業を始めるのに、まず洗礼をお受けになることろから始まっている、ということです。

主御自身が、まず、聖霊の御力に満たされるのです。

そうして、そこで何が起こったか。

天が開け、聖霊が、鳩のように見える姿で、イエスの上に降って来た。

天が開けたのです。何ということでしょう。だれも、この光景を見たこともない。すごいことであります。

天が開け、地上に神の声があったのです。

他の訳では、洗礼を受けられて、水の中から上がると、すぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降ってくるのを、御覧になった。とあります。

まさに、天が裂けて、霊が降って来たのです。

ただ、ただ驚きの光景であります。聖霊が鳩のような姿となって現れた、ということも不思議な現象です。

 

 預言者イザヤは、63章19節で次のように言っています。

「どうか、天を裂いて、降って下さい。御前に、山々が揺れ動くように。」預言者の叫びです。

イスラエルの歴史は、まことに暗い、黒雲に閉ざされていました。

天が見えない。神が見えない。神の御業も見えないのです。

だから、神よ、どうか今、その天を開いてここに来て下さい。

山々が揺れ動く程の御業を行って下さい。」という祈りが、預言者の叫びです。

そして、今や、その時が来て、天が裂かれた。神御自身の霊が、いきいきと働き始めるのです。

そうして、天からの声を聞かれました。「あなたは、私の愛する子、わたしの心に適う者。」

 

ここには、旧約聖書の言葉の三つが語られています。

第1は、創世記22章、2、12、16節です。

神はアブラハムに、イサクのことを、「あなたの子」「あなたの1人子」と何度も語られました。

イエス様が聞いた「あなたは、わたしの愛する子」という言葉に、この愛する子を献げた、アブラハムに対する言葉が重なって、聞こえてくるのです。アブラハムは、年老いて授かった、愛するイサクを、モリヤの山につれていきますと、その愛する子を、犠牲の献げ物として、燃えるたきぎの上に献げよ、との神の言葉に従って、わが子をナイフで手がけようとします。神様は、このアブラハムの心を、どのように受けとめていかれたか。愛するわが子を犠牲として、イエス様を十字架の死に献げる決意を神様は今、されたのです。

 

 第2には、詩篇第2編にある7~8節の言葉です。

主に定められたところに従って、わたしは述べよう。

「主は、わたしに告げられた。お前はわたしの子、今日、お前の嗣業とし地の果てまで、お前の領土とする。」

これは王に即位された時の詩篇と言われます。

強く、激しい歌です。

メシア待望の心が生まれてきた時に、この詩篇は救い主を歌う歌だというように理解された。

そうするとイエス様は、洗礼を受けられ、天からの声で、父なる神から王として、その位に定められたのです。

 

 第3には、イザヤ書42章の1節の予言です。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。私が選び、喜び、迎える者を。」

神の救いを実現するために、僕としての道を、徹底して歩み、罪びとの1人に数えられて、死に至るしもべを歌いあげる言葉のすべてが、この背景にあるのです。

王として立てられた主は、まさしく、そこで僕としての職務を受けられたのです。

 

 これらの三つの言葉が、重なり合って、今、洗礼を受けられたイエス様の耳に聞こえました。

まとめて言いかえますと、神に身を捧げる者、神から王として君臨することを許された者、そして、罪びとを滅ぼすことなく、罪から解き放って生かすため、自らも僕となって人々に仕える、という使命を与えられた者、こうした三様の働きを命ぜられた、神の子へのメッセージです。

 

 マルコは、イエス様の地上の最後の時の十字架の上で叫ばれたことを記しています。

マルコ15章33節以下です。「わが神、わが神、なぜ、私をお見すてになったのですか。」

まさに暗黒の中で、イエス様は死なれた。そして、37節には、こうあるのです。

「イエスは、大声を出して、息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が、上から下まで、真っ二つに裂けた。」

イエス様が、地上の生涯で神の子としての働きを始められた、あのヨルダン川での洗礼を受けて川から上られた時、天が裂けた。

そして、十字架の死をとげられた瞬間、神殿の幕は裂けたのです。

 

 神が地上に来て下さっただけではない。もう神殿も、いらなくなった。

どこででも、いつでも、誰もが神様にお会いする道が開けたのです。

そうして、あの十字架の上で死なれたイエス様に向かって、百人隊長が、こう叫びます。

「ほんとうに、この人は、神の子だった」と。

 この言葉は、まさに、洗礼をお受けになったイエス様が、天からのお声を聞いた。

その言葉のとおり、神の子だった。と、異邦人の隊長が告白しているのです。

 

 神の子、イエス様は洗礼を受けられる中で、聖霊を受けて天からの声を聞き。神の力を受け、神の子は王としての使命をはたしていかれたのです。

 今も、私たちのうちに、神の子イエス様がいつも働いて下さっているのです。

 アーメン、ハレルヤ!


主日礼拝説教
2016年1月10日の聖書日課 ルカ3章15~22節

説教「歴史的事実と信仰ということについて」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. はじめに

 本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実にあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが学者たちの異国訪問の理由であるとか、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか。こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてくると思います。

 本日の箇所に限らず、聖書には、奇跡や超自然的な現象が数多く登場します。イエス様についてみても、おとめからの誕生、難病や不治の病を次々に完治したこと、自然の猛威を静めたこと、その他もろもろの奇跡の業、そして死からの復活等々、枚挙にいとまがありません。聖書を読む人たちのなかには、そのような記述は古代人の創作だと決めてかかる人もいます。そういう人にとって、聖書は信仰の書、永遠不滅な神の言葉などでなく、古代オリエント世界の人々の考え方や文化を知るための一つの文化遺産にしかすぎません。他方では、奇跡や超自然的な現象を真に受けることはしないが、イエス・キリストは「信奉」してもいいという人たちもいます。イエスは当時のユダヤ教社会でとても革新的なことを教え、その教えの多くは現代にも通じるものがある、そしてその通じるものに注目し(逆に言えば通じないものは排除して)現代社会の諸問題の解決に役立てていこうと。つまり、イエス・キリストを何か一つの主義とか思想を打ち立てた思想家ないしイデオローグと見なすということです。また、彼がもとでキリスト教が生まれたのだから、仏陀やモハメッドのように一つの宗教の教祖とみなす人もいます。教祖であれば、仏陀やモハメッドが人間だったのと同じように、イエスも彼ら同様一人の卓越した人間だったとみられていきます。こうなると、イエス様を三位一体の神の一をなす神の子であると信じる信仰となじまなくなります。それで、イエス様が「信仰」の対象というより、「信奉」の対象になるのであります。

 さて、本説教では第一の教えとして、本日の福音書の箇所はおとぎ話と決めつけるには歴史的信ぴょう性が高い記述であるということを述べていきたいと思います。歴史を100パーセント復元してみせることは不可能です。しかし、本日の箇所は100パーセントとはいかなくとも、少なくとも80パーセント位は歴史的事実と言っていいのではないか、それくらい信ぴょう性が高いということを見ていきたく思います。それでは、聖書に書いてある出来事が仮に80パーセントくらいは真実とみなせるなら、それなら信じてもいい、ということになるのか?それとも、いや、やはり100パーセント確実でないと信じられない、ということになるのか?そういう疑問に対して、聖書に書いてある出来事が100パーセント真実であると確かめることは信仰の出発点にはならない、ということを本説教第二の教えとして述べていこうと思います。信仰の出発点は100パーセントの信ぴょう性を確立することとは別のところにあるのです。それではその出発点は何か、そうしたこと考えていこうと思います。

 

2. マタイ2章1-12節の歴史的信ぴょう性について

 最初に、本日の福音書の箇所に出てくる不思議な星の歴史的信ぴょう性についてみてみましょう。これからお話しすることは、皆さんも既に聞かれたことがあるかもしれません。イエス様が誕生した頃の天体の動きについては、似たような説がいろいろあるようです。以下に申し上げることは、私がフィンランドで読んだり聞いたりしたことに基づくバージョンであるということをお含みおき下さい。

近代の天文学者として有名なケプラーは1600年代に太陽系の惑星の動きをことごとく解明しますが、彼は紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いのシッパリという古代の天文学の中心地から当時の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。さて、イエス様の正確な誕生年について諸説がありますが、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13-23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年としてひとつ有力候補になります。そこで決め手となるのは、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録がない。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上してきます。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて見てみましょう。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、前に述べたように、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学が非常に発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されておりました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。つまり、星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。従って、もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れであると考えられたのです。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、土曜日はユダヤ民族が安息日として神を称えた日と連想できるので、この星はユダヤ民族に関係すると理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上から、木星と土星の魚座のなかでの異常接近を目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみましょう。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からもうかがえます。バビロン捕囚が終わってイスラエル帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残ったユダヤ人も多くいたことは、旧約聖書のエステル記からも明らかです。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あそこの家は安息日を守っているが、かつてのダビデ王を超える王メシアがでて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じ待望しているぞ」という具合に。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた人たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループがベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはしなかったでしょうから、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王と王の取り巻き連中の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて驚天動地に陥ったことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。日本語訳では「不安を抱いた」とありますが、ギリシャ語原文の正確な意味は「驚愕した」です。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に至ったのであります。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もあります。2つのことが大きな問題としてあります。まず第一の問題点は、昨年12月20日の説教でイエス様親子がどのくらいエジプトに避難していたかということを考えました。もしマリアの出産後3か月間の清めの期間だったとすれば、イエス様の誕生は紀元前4、5年になってしまいます。紀元前7年とするとイエス様がエルサレムの神殿に連れて行かれるのが2,3歳くらいになってしまい、少し大きすぎてしまいます。その時にも申し上げたのですが、イエス様誕生の後の時間の流れはジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。

もう一つの問題点は、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これなど本日の箇所で一番SFじみていて、まともに信じられないところです。人によっては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。ただし、本説教では、確認できることだけをもとにして記述の信ぴょう性をみていこうという方針なので、彗星説は可能性はあるけれどもちょっと脇においておきましょう。先に述べたように、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年は一回限りでなく、しつこく何回も繰り返されました。エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だったという可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事をいいあらわす時、立場をいれかえるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。ここでは、ただ確認できることだけに基づいて福音書の記述をみてみようということであります。

確認できることというのは、とても限られています。現在の時点で入手可能な資料や天文学や科学の成果をもって、確認できないことに出会った時は、すぐ「ありえない、存在しない」と決めつけてしまうのではなく、それは、現在の知識の水準を超えたことで肯定も否定もできないものだと、一時保留の態度がよいのではないかと思います。とにかく、神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

 

3. 信仰の出発点について

 以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象からみても歴史的背景からみても、確認できる事柄をもってしても、空想の産物として片づけられない真実性がある、主観が混じっているかもしれないが実際に起きたことについての忠実な記録であると言っても大丈夫なことが明らかになってきました。それでは、これであなたは聖書に書いてあることが本当であるとわかって、イエス様を救い主と信じますかと聞くと、なかなかそうはならないのではないかと思います。仮に本日の箇所はOKだとしても、他の奇跡や超自然的な出来事の真実性はどう確認できるのか、と問い始めるでしょう。そういう人たちは、タイムマシンにでも乗って聖書に書かれてある出来事が全て記述のとおりに起きたことを見て確認できない限りは信じないと言っているようなものです。ところが、私たちはイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。タイムマシンはいらないのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいる。彼らはイエス様の教えを間近に聞き、時には質疑応答をしたりして、しっかり記憶にとどめる。またイエスに起きた全ての出来事の至近の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してイエス様こそが旧約聖書の預言の成就、神の子、救い主であると信じるに至る。そして今度は彼らの命を惜しまないような証言を聞いて、イエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになる。そのうちに信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれを土台にイエス様を見たことのない人たちが信じるようになる。それが世代ごと時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのであります。私たちはこの途切れることのないチェーンのひとつの結び目なのであります。

では、どうして先代が残した記録、証言、教えの集大成である聖書に触れることで、会ったことも見たこともない者を神の子、救い主として信じるようになったのか?それは、遥か2000年前にかの国で起きたあの出来事は、実は現代を生きる私にかかわっていたのだ、この私のために神がイエス様を用いて成し遂げた業なのだ、と気づいて、そう信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき、信じることができたのでしょうか?マタイ16章13-20節の箇所で、ペトロがイエス様をメシア、神の子と告白した出来事がありますが、そこにヒントがあります。それを見てみましょう。

ペトロの告白に対してイエス様は、お前に私の正体を現したのは「血と肉(σαρς και αιμα)の塊にすぎない人間ではなく、わたしの天の父だ」(ギリシャ語原文に忠実な訳です)と述べられます。「血と肉が明らかにしたのでない」という意味は、ペトロ自身を含め、人間が単なる血と肉の生身にとどまる限り、誰もイエス様の正体はわからないということであります。神が人間に力を働かせないとわからないのであります。神の力が働かなければ、どんなに知識や学識を蓄えても、優秀な頭脳をもっていても、それは単なる血と肉の能力にしかすぎず、イエス様の正体はわからないのであります。逆に言えば、知識や学識がなくても、神の力が働けば、イエス様の正体はわかるのであります。こうしたことがわかるために次のような事例を考えてみましょう。

 高校か大学に世界の諸宗教という授業を設けて、今日はキリスト教をみてみましょうと言って、パワーポイントでも使ってボードに「キリスト教の信仰」という題を映し出し、それに続いて次のような記述を学生たちに見せたとします。

「最初の人間アダムとエヴァが陥った神への不従順と罪がもとで、人間は死する存在になってしまった。人間は代々死んできたように、不従順と罪を代々受け継ぎ、それらがもたらす裁きと呪いの下に置かれてしまった。神は、人間が永遠の命を持てて再び創造主のもとに戻ることが出来るようにと、ひとり子イエスをこの世に送り、本来人間が受けるべき不従順と罪の裁きと呪いを全てイエスに肩代わりさせて十字架の上で死なせた。これによって人間を不従順と罪の奴隷状態から解放した。その解放の代価は、まさに神の子の血であった。しかし、それだけに終わらず、神はイエスを死から復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命への扉を人間に開いた。このようにして、天と地と人間を創造した神は、ひとり子イエスを用いて人間救済を全部自分で実現した。」

これを学生に写させて、来週テストしますと言えば、いい点取りたい者はみな、キリスト信仰者でなくても覚えてきて答案を書きます。キリスト教徒はこういうふうに考えているんだな、と頭で理解します。つまり、この場合、「キリスト教の信仰」というものは、知識にしかすぎません。

ところが、ああ、あの2000年前の今のパレスチナの地で起きた出来事は、実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった瞬間、全てが一変します。その時、イエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けて、神が実現した救いを所有する者となります。この救いの所有者は、既にこの世において神の国の立派な一員として迎えられ、永遠の命の命に至る道を歩み始めます。そして、この世の終わりの日にその新しい命を持って生き始めることになります。もちろん、この世にいてまだ肉をまとっている以上、私たちの内には不従順と罪が宿っている。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる以上、神の側では、イエス様の犠牲に免じてそれらを不問にして下さる。神が実現した救いをしっかり受け取った者として私たちを見て下さる。私たちの側では、このような深い愛と恵みをもって自分を扱って下さる神を賛美し絶えず感謝しようという心が生まれ、その神のみ心に適うように生きるのが当然になっていく。つまり、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛する如く愛することが当然という心が育っていく。

このように、2000年前の出来事が今を生きる自分のためになされたと分かった時、人は新しく創造されます。肉に宿る古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていく、そういうものに新しく創造されるのであります。2000年前の出来事について、またキリスト教そのものについて、どれだけたくさんの事柄を知っていても、この「自分のためになされた」ということがなければ、それは単なる知識にとどまります。知識だけでは、イエス様を神の子、救い主と信じる信仰は生まれません。

それでは、「自分のためになされた」ということはどのようにして起きるのでしょうか?それは、先ほどのペトロとイエス様のやりとりからも明らかなように、神の力が働かないとそうならないのであります。神が聖霊を送って人間に作用しないとそうならないのであります。聖霊は、まず私たちがどれくらい神聖な神のみ心から離れてしまった罪深いものかを思い知らせて下さる。その瞬間にすかさず、神はひとり子イエス様を送られたくらいにこの自分を愛して下さることを思い知らせてくれるのです。

 

4. おわりに

神がイエス様を用いて実現した救いは全ての人間に提供されています。それでは、神がどうぞと言って提供してくれている救いを、人間の全てが受け取らないのはどうしてなのでしょうか?人間にその受取りを妨げるものがあれば、私たち信仰者は、その妨げるものを取り除くよう導き助ける役目があります。まだ救いを受け取っていない人たちと接する時、どのようにしたらそれを取り除くようにしてあげられるかを考えなければなりません。もちろん私たちの働きがなくても、聖霊が直接働かれる場合もあるでしょう。しかし、聖霊は信仰者が働くことも望んでいます。それで、隣人との接し方について、神に知恵と力を祈り求めなければなりません。天の父なるみ神は、聖書の御言葉を通して必要な知恵と力を与えて下さいます。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、何事につけ聖書を繙くことと祈り求めることを怠らないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 


主日礼拝説教 顕現主日
2016年1月3日の聖書日課 マタイ2章1-12節、イザヤ60章1-6節、エフェソ3章1-12節

2016年元旦礼拝の説教「永遠を思う心」吉村博明 宣教師、コヘレト3章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

西暦2016年の幕が開けました。教会の暦の新年は、既に昨年の11月29日に待降節に入った時に始まっております。世俗の暦では本日が新しい年の第一日目です。この日は、教会の暦ではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記された出来事の日です。イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、「イエス」の名前が公けにされた日です。キリスト教会では、特にクリスマス(降誕祭)とかイースター(復活祭)とかペンテコステ(聖霊降臨祭)のような大きな祝祭日にはなっていません。

新年というのは日本では一般に一年の中で大きなお祝いの日になっています。これと全く対象的なのが、私が20数年間滞在したフィンランドでして、クリスマスの期間が「お祝い」の期間になりますが、新年はと言うと、1月1日だけが休日、あとは12月31日まで仕事場もお店もやっていて、一日休んですぐ1月2日からはまた平常通りでした(ただし学校は「顕現日」のある1月6日位まで休み)。

フィンランドでクリスマスが「お祝い」の期間と言っても、日本のクリスマスの雰囲気とかなり違います。まず、12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日続きます。26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家に帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。クリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、カードやプレゼントやクリスマスの料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家で過ごすと言うのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は特に大きな休みとは考えられていません。先ほど申しましたように1月1日が休日なだけで、学校が6日の「主の顕現日」くらいまでは休みとなる以外はあとは平常通りです。

フィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものですが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドはクリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、みんな地元の教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。歩いて行ける距離になければ、自家用車を使います。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者数は減るようです。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族や肉親と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が既に用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。キリスト教の信仰がまだしっかり根付いている人の観点では、クリスマスというのは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間ということになります。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数かもしれません。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っていると思います。

このようにクリスマスというのは本来、救世主の誕生という自分を超えた大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いのために時間を捧げる時です。日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、何か自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?三が日のお店の開店時間がどんどん増えて行くのを見ると、日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがしますが、どうでしょうか?(フィンランドでは昨年、法改正があって店の開店時間が自由化されました。クリスマスやイースターの期間に開店する店がどれくらい現れるか、いろんな意味で興味深いと思います。)

 

2.

 救世主の誕生をお祝いするというような大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りある日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、心は満たされなくなってしまうと思います。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界ですが、それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのであります。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。今ある天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様がこの世に人間としてお生まれになったというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたことしかないこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神に守られて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのためにこの世に来られたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神と正反対のものにしている、人間に染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様は人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運んで行って、人間にかわって罪の罰を受けて、人間が神の御前でも大丈夫になれるようにして下さいました。「イエス様が私の罪の罰を代わりに受けて下さったので、私は神の御前でも大丈夫な者にして頂きました。イエス様は真に私の救い主です。」そう告白する人は、本当に神の御前で大丈夫な者なのです。

先ほど読んだ「コヘレトの手紙」3章11節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とありました。この「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」という下りですが、この部分は英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので確認できず)。ただ、ヘブライ語の原語を見れば見るほど、私にはどうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠というものを人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。手短に言えば、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。機会があればヘブライ語の専門家に聞いてみたく思うのですが、それでもイエス様という永遠の御子が心に与えられてそれを受け取ることで、神の救いの業を発見することができるようになるというのは否定できないでしょう。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われると、この世で真面目に問題なく生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになります。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの罪にまみれた天と地の中だけにとどまります。真面目に問題なく生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、しなくとも最終的には「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が完結します。

この世は罪が入り込んだ世界ですので、自分では神の御心に適うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が送られた救い主を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、そういう危機の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは「永遠を思う心」を頂いたのですから、その永遠の方との繋がりや対話を絶やしてしまっては、心は満たされなくなってしまいます。どうか今日始まった新しい年が、兄弟姉妹の皆さんにとって、永遠を思う心が良く満たされる年になりますように。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 顕現主日
2016年1月1日の聖書日課 ルカ12章22-34節、コヘレト3章1-11節、エフェソ4章17-24節