吉村博明 先生のフインランド便り

「スオミ教会とその礼拝に繋がる皆様」

私たちがフィンランドに来て早くも2週間以上が経ちました。皆様にはお変わりありませんでしょうか?今そちらはポウッカ先生のもとで元気に礼拝を守られていることと思います。さて、先週6月27日から29日までの三日間に渡って、ラハティ市で開催されたSLEYの全国大会に出席したので、挨拶を兼ねてその様子を簡単にお知らせしたく思います。ラハティ市は、国際的なスキー競技大会がよく開催される、ウィンタースポーツのメッカです。郊外にある3つの大きなスキーのジャンプ場は市のシンボルにもなっています。27日、現住地のトゥルク市を車で出発するや、全行程210キロの半分少しを行ったところで、車が故障してしまいました。至急レッカー車を呼んで修理工場に運んでもらい、さて果てしなく続く森の中の国道に取り残された私たちは、タクシーを待っていました。ちょうど偶然にもSLEYの大会に向かっていた元日本宣教師のリーッタ・ポホヤンパロさんに見つけられて、彼女の車で到着することができました。私たちは、リーッタさんのことを、「神様がボルボを運転する天使を送ってくれた」と言って笑いあいました。

 三日間の大会の参加人数は、まだSLEYからの発表は出ていませんが、例年と変わらなければ2万人前後でしょう。フィンランドの人口は500万ですので、大きな数字と言えます。大会は今年で140回目となります。 大会の行事プログラムの詳細は、私たちが帰国した時にお話しいたしますが、私の役割は、28日土曜日の午前のプログラムで5千人位の聴衆の前で、日本の伝道についての基調報告を行いました。あと、日本のミッション展示資料室の案内役が金曜日と土曜日の2時間ずつ。それから、日本福音ルーテル教会からの招待客の白川事務局長と本郷教会の安井先生に通訳する仕事もあったのですが、私の体調がすぐれないこともあって、それはかわってもらいました。29日日曜日は午後のプログラムで、派遣される宣教師たちの按手式があり、主の聖壇の前で、かつ1万人近い会衆が見守る中で、家族一緒に按手を受けました。これ以上は長くなるので、帰国した時にゆずることとしたく思います。少しでも雰囲気が伝わるように写真を二枚ほど添付します。土曜日の夕礼拝とその聖餐式の列の写真です。

 大会後は、私たちは全国各地の支援教会の訪問を行います。一番北はトゥルク市から600キロほどいったオウライネン、一番南はトゥルクから半径50キロ内の諸教会、あとはトゥルクから300~400キロ北に行ったパイヴィの実家の地方です。今のところ、12の教会の訪問が決まっていて、一つは日曜日に当たってしまったので礼拝説教をすることになっています。今残念なことが起きてしまいました。フィンランドは今、10~15度位の寒い夏で、パイヴィがひどい風邪を引いてしまい、明日予定されていたマルッティラ教会の訪問行事は中止となってしまいました。また新しい日にちを決めなければなりません。パイヴィの健康状態もお祈りにお覚え下さい。

 それでは、日本も天候不順な日が続いている由、皆様もくれぐれもお大事になさってお過ごしください。スオミ教会に繋がる皆様一人一人の上に、天の父なるみ神からの祝福が豊かにあるようにお祈り申し上げます。

 主にあって

 吉村博明

パイヴィ・ポウッカ:「この青い空の下に」

パイヴィ・ポウッカ先生が私たちのために「この青い空の下に」を解説して下さいました。この曲は賛美歌ではありませんがフインランドの人々の愛唱歌のようです。スオミ・キリスト教会でも愛唱歌として、ことあるごとに歌われて来ました。少し長いですけれどどうぞ一読下さい。

この青い空の下に

1.
この青い空の下に
頭上高く広がる青い空と人間が住むこの美しい世界は誰もまねのできない傑作だと思います。冬の後だんだん緑に移り変わる自然、春の花の芳しい香りと喜びを歌う小鳥は皆神様の素晴らしい御業について語っています。

周りの景色を上から、例えば、展望台とか岡の頂上とか飛行機の窓から見ると、世界の美しさはより深く感じられます。もちろん、ロケットから青い地球に感動した人もいますが、それはわずかな宇宙飛行士の特権ですね。この青い空の下に、人類の歴史の中で様々な人間が何億人も生まれました。人々は大勢ですが、天地万物の視点から考えると一人の人はほんの小さな者です。例えば、飛行機が地上から少し上がっていくと、人の姿はもう見えなくなってしまいます。しかし、小さい者なのに、私たちは皆掛け替えのない価値を持っています。あなたも私も聖なる神様の栄光を表すために作られた者です。残念なことですが、私たちはその栄光を少しか輝かすことができません。

お生まれになった彼
しかし、この青い空の下に神様の栄光を完全に表す方もお生まれになりました。それ以前も、それ以後も、その方のような者はこの地上で生きたことがありません。その方はもうこの世界が創造された時からおられました。そして、神様のもとからこの世に来られました。私たちのところに来られた方は神様の御子でした。

希望、新しい命与えて下さった。
なぜ神様の御子は人の世界にいらっしゃったでしょうか。人は、この世に神様から素敵な命をいただきました。けれども、罪のせいで人生はめちゃめちゃになってしまって、人々は苦しんでいました。思い上がった私たちは創造物であることに満足せず、神様のように善悪をわきまえる者になりたかったのです。

自由に我を忘れた私たちは、人々を愛され、人々にとって最も良いことを考えて下さる神様でなく、大きな利益を約束した蛇の誘惑に耳を傾けました。すると、悪魔が心に入り込んで、私たちは不従順な心から禁止された木の実を食べました。そして、その結果はご存知の通りです。私たちはプライドと不信心のために大事なことをなくしてしまいました。心の純潔を失いましたし、神様との関係も切られてしまいました。そして、様々な罪が生活の中に入りました。恥、恐れ、不調和、疑い、責め合う事、病気、苦しみ、そして、最もひどいこととして、死も人生の幸せをそこない始めました。

こんな不幸に陥った私たちのことをご覧になった神様は、希望と新しい命を与えるために御自分の御子を世に派遣されました。

この青い空の下に
その御子、イエス・キリストは、高く青い空の下にお生まれになりました。本当の神で本当の人間であるイエスは喜びと悲しみ、笑い声と泣き声がある世に来られました。神様が私たちをこれほど愛しておられるという素晴らしいことが理解できたら、私たちの驚きは絶えないでしょう。

苦しい人のため。
イエスは苦しい人のために来られました。私たちは自分の経験から、人生は幸せなことばかりではないということがよく分かっています。仕事があることは人の喜びですが、仕事の多さに疲れたり、責任の重さに圧倒されたり、疲労で病気になったりする恐れがあります。足下の地面が実際に崩れたことや、津波で流されてしまったことを経験した人もいます。更に、罪への自責心と怠慢による重荷に悩んで落ち込むこともあるでしょう。

2.この青い空の下に
この青い空の下に様々な人生があります。人は地理的な豊かさの中で、例えば、熱帯雨林や砂漠、山々や森林の中で神様から頂いた命を生かしています。住むために、また世話をするために与えられた地球で、私たちは家を建てたり、子供を育てたり、動物を飼ったり、木を植えたりしますね。

十字架をたてたよ
ある日、この地球にまた一本の木が立ちました。それは種とか苗から育った木ではありませんでした。それは重い罪を犯した人に罰を与えるために人間が作った、拷問と死の十字架でした。私たちは、私たちの元に来られた神の御子も強盗人物としてそこにくぎで打ちつけました。けれども、人の計画の通りになりませんでした。全ては急に覆りしました。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。(イザヤ書/ 53 章 4~5節)

嵐が吹く寒い夜も
私たちは真理と罪についての教えを聞きたくなかったので、イエスを十字架につけて殺そうとしました。けれども、イエスは十字架の死を通して、罪の夜に身震いしている、また人生の嵐で弱くなる私たちの救い主になりました。それを受け止める人は安心できました。
人生での全てのものが倒れても、十字架の出来事は確かです。

支えの十字架で
イエスの十字架は皆を驚かせました。
イエスの死は普通の死ではなかったのです。
十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
(ペトロの手紙一02 章24 節)

十字架は私たちを支えてくれるものになりました。

この青い空の下に
イエス・キリストの十字架のおかげで、この青い空の下に想像もできないことが行われました。人類の歴史で一番大きい出来事でした。

希望の木たてたよ。
死の木は命の木になりました。イエスの十字架は新しい可能性と希望を与えました。人にとって、一番危ない敵、つまり罪と死と悪魔の力に打ち勝ちましたから。
彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ書/ 53 章 5節)

3.
この青い空の下に
頭上高く広がる青空の下で、私たちは命のあるかぎり、毎朝目を覚まして新しい日を迎えます。

今日も種を蒔いて
今年も
春空の下で、私たちは食事を得るために種を蒔きます。神様の御言葉の種を蒔くこともできます。その種を惜しまずに、たっぷり周りに蒔きましょう。それには命と力が
ありますから。

死にはもはや力はない
この世界に住んでいる間、私たちは罪と病気におかされていますが、神様の許し、助けと恵みによって生きていけます。死にはもう力はありません。それは滅ぼされました。

イエスは死に打ち勝ち
イエスは死に打ち勝たれました。この勝利を確かなものにするために、神様はイエスを復活させて下さいました。

この青い空の下に
この青い空の下にいる私たちはもう死を恐れなくていいです。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は
/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書 43 章 1 節)

神様は天国への扉を私たちに開いて下さいましたから、人生の歩みは天の父なる神様の下に行く道です。

聞こえる愛の声
あなた、私と世界の全ての人を愛しておられる神様はこのようにおっしゃいます。

「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから
移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書/54 章~10 節)

明日に向かってひらく希望の花ひらく!!!

Päivi Poukka
15.06.2014

 

6月14日のスオミ教会家庭料理クラブの報告

6/14 スオミ教会家庭料理クラブの報告

sinappi シナッピ フィンランドのマスタードスオミ教会家庭料理クラブはシナッピ(フィンランド風マスタード、「sinappi」)を作りました。

吉村先生ご一家がフィンランドに帰国されているため、 お祈りを教会役員さんにしていただき、料理クラブはスタートです。

最初は、デザートになるリンゴのキ―セリ作りから、omenakiisseli ジュースにとろみを付けて、冷やして食べる今回のキ―セリは、入手しやすい、リンゴとオレンジジュース!煮始めると、鍋からの爽やかで甘い香りが、牧師館に広がり、出来上がったキ―セリは、冷蔵庫で試食タイムまで冷やしておきました。

次はシナッピ作り、カラシパウダーの強い辛みに、苦戦しつつも完成、今回は、先に仕込んでおいたシナッピを試食していただきました。

フィンランドの聖書日課を読んでいただいて試食タイムはスタートです。

今回のメニューは、マッカラ(ソーセージ)に ディルを添えた新じゃがの茹でたもの、そしてキ―セリです。

7/12の料理クラブの試作品「牧師館のパン」も添えて、試食会は始まりました。

花付きのディルの強い香りに、フィンランドの夏の景色を思いだしたり、お料理話ややフィンランド旅行の楽しい計画を聞かせていただいたりして、試食会は終了しました。

参加の皆さま、最期まできれいに後片付けして下さいまして、有難うございました。

次回は7/12 13:00~ 黒ビールを使った、ほんのり甘く香ばしい 「牧師館のパン」を予定しています

5月10日の料理クラブのご報告

「ヴァトルスカ」 

爽やかな風が吹き抜ける土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは
「ヴァトルスカ」を作りました。
最初にお祈りをして、料理クラブはスタートしました。

新じゃが大きな大きな鍋で茹でる新じゃがの香りに、出来上がりが待ち遠しく、
ゆで加減チェックの回数が頻繁になりました、
2人一組で作業は進みます、ジャガイモの生地で茹でた大麦を包み、オーブンで焼き上げ、溶かしたマーガリンを塗って出来上がり!!バトルスカ

春らしく、スナップエンドウを添えたサラダと、残った大麦で、リンゴとピクルスのサラダも完成、吉村先生から「フィンランドの聖書日課」を読んでいただき、試食会は始まりました。

試食会も一段落したころ、
パイヴィ先生からヴァトルスカや
フィンランドの食のお話をしていただきました。

参加の皆さま、後片付けもきれいにしていただいて、
有難うございました。

次回は6月14日を予定しています。 ヴァトルスカ

愛餐会

礼拝後、恒例の愛餐会がリニュウアルされた礼拝堂で行われました。皆んな久しぶりの礼拝堂の雰囲気を懐かしんでいました。

 

記念撮影です、この日が待ち遠しかったです。

   

4月12日の料理クラブの報告

4月12日13:00教会玄関脇のハナミズキが、
ほころび始めた穏やかな心地よい春の土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは「イチゴケーキ」を作りました。

最初にお祈りをして料理クラブはスタートします。

今回もグループに分かれての作業でした、デモンストレーションの後、グループごとに、材料の計量をし、ハンドミキサーでしっかりしたメレンゲを作りと・
・・・、
細かい作業が続きます、
18㎝の丸型に流しいれ、スポンジ生地はオーブンの中へ。

次はデコレーションの準備です、イチゴはスライスをして、クリームはホイップして、香ばしく焼き上がったスポンジも冷めてからスライス、そしてグループごとのデコレーションに力が入ります。

吉村先生から聖書日課を聞かせていただいた後、
完成した力作ぞろいの「イチゴケーキ」は、楽しいおしゃべりと一緒に美味しく頂きました。

パイヴィ先生からは、フィンランドのイチゴの楽しみ方や、
子供の頃のアホマンシッカ(野生のイチゴ)の思い出などを、
楽しく聞かせていただきました。

次回のスオミ教会料理クラブは5/10を予定しています。

3月8日のスオミ教会家庭料理クラブの報告

真冬の気温の中にも、春の日差しを感じられた土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは『プッラ』を作りました。

今回は、プッラの中でも代表選手のシナモンロールを、
カレンツを巻き込んで、可愛く焼き上げました。

最初にお祈りをしてレッスンは始まります、
今回は4グループに分かれて、
材料を計り、生地を捏ね、
発酵を待ち、成型に苦心し、
フロアタイムの頃には、参加の皆さまの熱意でしょうか、
室温だけで発酵がきれいに進み、可愛いプッラが出来上がりました。

聖書の「マタイによる福音書」(6章25節~34節)
を読んでいただき、試食タイムは始まりました。
グループごとに盛り付けられた可愛いプッラ達は、
コーヒーや紅茶と一緒に美味しく頂きました。

参加の皆さま、お疲れさまでした!!!

次回のスオミ教会家庭料理クラブは4月12日13:00~を予定しています。

 

2月8日の料理クラブの報告

8日の料理クラブは、大雪のため残念ながら中止になりました、
次回料理クラブは3月8日になります。

詳細が決まりましたら、スオミ教会HPに掲載します。

スオミ・キリスト教会 通常総会

総会については後日整理してご報告致します。

説教:大柴 譲治(武蔵野教会)牧師

 

本日はスオミ・キリスト教会の総会のために礼拝司式を吉村博明宣教師、説教と聖餐式を当教会の主管牧師の大柴先生にお願い致しました.

 

020214 スオミ教会総会主日 礼拝説教「地の塩、世の光として生きる

 大柴 譲治

イザヤ書58:1-10

1喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。2彼らが日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。 3何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。 4見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。5そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 6わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 7更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 8そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。 9あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 10飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。

 

コリントの信徒への手紙 一 2:1-5

1兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 3そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 

マタイによる福音書 5:13-16

13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

 

<はじめに>

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

<「あなたがたは地の塩、世の光である。」>

 本日はスオミ教会の総会です。本日与えられた福音書の日課は、山上の説教からあの有名な「地の塩、世の光」というみ言葉です。主イエスは「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」と命じておられるのではありません。「あなたがたは地の塩、世の光である」と宣言しておられるのです。このような私たちが「地の塩、世の光」? こう言われると私たちの中には、「滅相もありません! 私たちには荷が重すぎます」と言いたくなるような気持ちが生じます。自分自身のことは自分が一番よく分かっているからです。主ご自身もそのことは私たち以上に分かっていたことでしょう。弟子たちの人間的な弱さや不信仰、裏切りをも分かった上で、主イエスは12人をおそばにおかれたのです。それは自分が呼び集めた弟子たちを「地の塩、世の光」としてこの世で用いるためでした。

 「塩」には防腐剤としての役割があり、「光」には闇を照らす灯台としての役割がありますので、「あなたがたは地の塩、世の光である」という宣言は、私たちキリスト者がこの世界が腐って滅びることのないように防腐剤としての役割、嵐の中で船が難破しないように方向を指し示す灯台として役割が託されて、この世の中に置かれているということを意味していましょう。私たちを通して主は、そして父なる神はこの世界を守ろうとされているのです。

 主イエス・キリストが私たちをそのように見ていてくださる!イエス・キリストが私たち一人ひとりにそのような「役目(務め/使命/ミッション)」をお与えになられたのです。その務めについて思いを馳せるのが本日の総会礼拝の目的です。

 

<イザヤ書58章における「使命」>

 本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書58章にはそれがより具体的に示されています。1-2節にはこうあります。「1喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを、ヤコブの家に、その罪を告げよ。 2彼らが日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として、彼らがわたしの正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望むように

 私たちが神によって求められていることは「黙することなく、角笛のように高らかに声を挙げて、罪を告げること」なのです。「お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない

。そして神が私たちに求める「真の断食」「真の苦行」とは、6-10節に記されているような「あわれみのみ業」を指しています(6-10節)。

 

6わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 7更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 8そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。 9あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら10飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。

 

<「最も小さき者の一人にしてくれたのはわたしにしてくれたこと」>

 このイザヤ書58章の言葉は、私の中ではマタイ25章の主イエスの言葉と重なります。そこで主はこう言われています。

 

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 

 

<「地の塩、世の光」としての役割〜遠藤周作『女の一生』>

 私たちが「地の塩、世の光」として何を託されているかというと、このように困窮の中にある者たちに具体的に「愛のみ業を行うこと」なのです。

 私は遠藤周作の『女の一生』という作品の中の第二部に出てくるエピソードを思い起こします。それはアウシュビッツでのコルベ神父についてのエピソードです。場面は第二次大戦中、アウシュビッツの強制収容所。そこには日本にもいたことのあるコルベ神父が自分のパンを倒れた者に与えてゆく場面が描かれていました。「ここは地獄だ」とつぶやくヘンリックという名の囚人に対してコルベ神父は言います。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではないのだよ。地獄とは愛のない場所なのだ。ここにはまだ愛がある」と言って、ヨロヨロとコルベ神父は倒れた人の所に歩み寄り自分のパンを与えてゆくのです。

 「地獄とは愛のないところ」という思想は17世紀に書かれたジャン・バニヤンの『天路歴程』にもあるように、欧米を一貫して貫いてきたモティーフのようです。それに対して、愛を実践して行くところに闇の中に灯火がともされてゆくのです。「あなたがたは地の塩、世の光である」という言葉の通り、困難な現実の中で必死になって被災者のために働いている方々のことを覚えます。

 

<聖餐への招き>

 本日私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」という主の声と共に差し出されるパンとブドウ酒。この主の食卓こそが、十字架の出来事がすべて私たちのためであったということを表す「神の愛のみ業」なのです。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という神の真実の愛を表す出来事なのです。私たちは主の尊い血潮によって罪を贖われている。実はイエス・キリストこそが私たちを覚醒させ、神に向かって悔い改めさせ、正しい道へと導く、まことの「地の塩、世の光」なのです。私たちが真の「断食」を求められているのに、み子なる神が私たちのために自らを「犠牲

として差し出してくださったのです。ここに愛があります。「地の塩、世の光」としてこの地上に降り立ってくださったキリストによって、私たちは清められている。そしてそのキリストご自身によって「地の塩、世の光」として用いられてゆくのです。この世界が腐ってゆかないように、滅びてゆかないようにと用いられてゆくのです。月曜日から土曜日まで私たちが遣わされている具体的な日々の生活の中で、「地の塩、世の光」として用いられてゆくのです。

 ご一緒に何ができるかを本日の総会を通して考えてまいりたいと思います。お一人おひとりの上に主の祝福がありますように。このスオミ教会を通して神の御心が実現されますように。そして、ただ神にのみ栄光がありますように。アーメン。

 

<おわりの祝福>

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。