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2020年の最初の料理クラブは、あいにく冷たい雪交じりの雨の日の開催でしたが、それでも8名の方が参加されました。
料理クラブは、最初にお祈りをして始めます。
今回はフィンランドの食卓パン「サンピュラ」と田舎風サラダ「マーライス・サラーッティ」を作ります。初めにパンの生地を作り、温かい場所に置いて発酵させます。その間にサラダに入れるポテトをフライパンで焼いて冷ましておきます。
パンの生地はあっという間に大きくふくらみました。生地を丸い形に分けて鉄板に並べます。そこで二回目の発酵をさせます。その間にサラダの材料を刻んで、ボールに材料の段を重ねていきます。レッドオニオンとサーモンを上にのせると、きれいな色のサラダの出来上がりです。オーブンからはパンが焼きあがる香りが部屋中に拡がりました。
試食の時間です。オートミールとライ麦粉が入った焼きたてのパンは香ばしく、いろんなスパイスと酸っぱさのある田舎風サラダによくマッチしました。
参加者の皆さんお疲れ様でした。
次回の料理クラブは2月になります。詳しいことはホームベージをご覧ください。
今日は皆さんと一緒にフィンランドのパン「サンピュラ」を作りましたので、フィンランドのパンについて少しお話ししたく思います。パンはフィンランド人の食卓の中で最も大事な食べ物です。特に私の父くらいの年令の人はパンの大切さをよく知っています。もしパンがなかったら、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な一部です。かつてパンは店で買うものではなくて、いつも家庭で作られました。それで、パンの味もそれぞれの家庭の味になりました。
フィンランドは、パンを作る習慣によって東と西の二つの地方に分かれていました。東の地方では、柔らかくて厚めのパンでしたが、西の地方のパンは薄くて、円形の形の真ん中に穴があいていました。作る回数も違っていて、東の地方では毎週パンを作る曜日がありましたが、西では一年に2,3回しか作りませんでした。ところで、西の地方ではどうしてパンの真ん中に穴を作ったのでしょうか?それは、その穴に棒を通してパンを天井にかけたからでした。棒にかけたパンは涼しい場所に置かれて保存されました。このようにしてパンは長持ちしたのです。そのようなパンはフィンランド語でレイカレイパ、訳すと「穴のパン」と呼ばれます。
現代のフィンランド人の毎日の食事の中でパンはまだ重要な食品の一つです。2018年フィンランド人はパンを一人当たり41キロ食べました。それは毎日一人当たり4個食べることになります。フィンランド人の食事の中のパンの重要性は、例えば毎年「パンの週」という行事があることでもわかります。それは大てい毎年9月にあって、テーマも毎年変わります。去年のテーマは「オートミールを食べよう」でした。その目的は、この行事を通して多くのフィンランド人がオートミールの健康的な影響を知るようになること、そしてオートミールが入っているパンをもっと食べるようになることです。最近オートミールはフィンランドでは健康食品の一つにもなりました。オートミールには、ミネラルやビタミンの他に体に良い繊維や油が入っています。オートミールに入っている繊維は、体の糖分やコレストロールのバランス、そして腸管や心臓にもよい影響があると知られています。最近フィンランドではオートミールが入っている新しい食材が増えて沢山売られるようになりました。
オートミールが入っているパンに少しマイナスなこともあります。例えばオートミールが入っているパンはあまり長く持ちません。それから、他のパンに比べてボロボロにくずれやすいということもあります。それは、オートミールにはねばり強さがないためです。
食事のパンは私たち人間にとって大事なものですが、新約聖書の「マタイによる福音書」にはイエス様がパンについて言われた有名な言葉があります。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言っているところです。イエス様はこの言葉をどんな意味で言われたのでしょうか?イエス様は、私たち人間にとって肉体的な栄養になる食べ物は大事だけれども、それに加えて魂のための霊的な栄養も必要だと教えているのです。パンや他の食べ物は私たちが生きるために重要なものです。これらは毎日食べていると、得られるのが当たり前の感じがしてしまいます。でも、これは本当は神様が良いみ心を示して私たちに与えて下さるものなのです。それで、私たちは食べ物のことで神様に感謝しなければなりません。
さらにイエス様は、パンよりもっと大事なものがあると言われます。それは、食べ物を与えて下さる神様の口から語られる一つ一つの言葉です。神様の口から出る言葉とはどんな言葉で、どこで聞くことができるでしょうか?聖書を読むと神様の言葉に触れることが出来ます。聖書を読むと、神様はどんな方なのか、神様の人間に対する愛がどれだけ大きいかを知ることが出来ます。神様の人間に対する愛は、たとえこの世が終わっても終わらないくらい強い大きな愛であると聖書は教えています。その強い大きな愛についてイエス様は次のように教えました。「神は、その独り子のイエスをお与えになったほどに、この世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章16節にある有名な言葉です。パンが私たちの体に栄養を与えるならば、神様の言葉は私たちの魂に栄養を与えてくれます。だから、人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出る言葉で生きるのです。神様の御言葉を信頼して心で受け取ると、心は毎日力づけられます。
近くの「漱石山房記念館」
早稲田の地に越してきてからまだ日も浅く周辺の土地の事情が分からなかった。早稲田は夏目漱石のゆかりの土地である。手元にある正岡子規の「墨汁一滴」という日記の中に次のような一節があるので紹介したい。「余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士(とじんし)の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。(五月三十日)」・・・・早稲田から関口の方へ歩いたのならば当然教会の所在地である鶴巻町を通ったかも知れないと一人空想に耽っています。
今日は昨年からの続きで、コリント信徒への手紙11章2~16節です。これまでに8章から10章まで、パウロは何について語ってきたかと言いますと、「偶像礼拝」について、異常な程に、しつこく、長々と書いてきました。なぜ、それほど、この問題が重要だったのか、ということです。偶像を拝むうちは、まことの神を拝まない、ということになります。従って、それは、礼拝を正しくしていない、ことになります。それで、パウロは、11章から14章にわたって、「礼拝を中心にした話」を、語っていくことになります。 まず、今日の聖書で、2節から10節までを読みますと、私達の常識では考えられない様なことが書いてあって、全く、おどろかされます。パウロは、いったい、何を言おうとしているのだろうか。
3節を見ますとこうあります。「ここで、あなた方に知って欲しいのは、すべて、男の頭は、キリスト。女の頭は男、そしてキリストの頭は神である。ということです。4節には、男は誰でも、祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、その頭を侮辱することになります。」とあります。 どういうことでしょうかね。そうして、礼拝する時の服装に至るまで、こまかく、パウロは、教会の人々に、教えていることになります。 男と女の頭の上に物をかぶるのかどうかの当時の伝説にもとづいた習慣を 、少し、きびしく教訓として、示しているわけであります。とても、私たちの現代の習慣では、考えられないことであります「あなた方が何かにつけ、私を思い出し、わたしがあなた方に伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。」と、こう言っています。ここで言っている「伝えられた教え」というのは、少し難しく言えば、伝統であります。それは引き渡されたものであります。 教会の礼拝の根拠となっているものは、引き渡され、受けついだものなのであります。それは、今日も、今、御霊の導きによって、行われるものであります。それと同時に、過去の遺産でもあります。例えば、私たちは、ルター派の教会の遺産の流れの中にあります。しかし、それは、ただ歴史上の1つの流れによっているのではなく、そのもとは、主イエス・キリストにあります。
23節では、「わたしは、主から受けた」と言っています。それは、聖餐式のことであります。聖餐は礼拝の中心でもありますし、礼拝そのものが、主から、言伝えに基づいたものである、と言っているのです。そして、パウロは又、こう書いています。礼拝について知っていてもらいたいものは、礼拝者たちの秩序であります。神の前に、すべての人が、神に造られたものであり、又、罪人であります。人間の間に、ちがいというものはなくなってしまい、平等です。そして神の前に立つ者は、等しく、罪人なのであります。或は、神に愛されているということです。しかし、その他の意味では、人はそれぞれ顔、形のちがいをもっています。その人の持って生まれた才能もそれぞれちがいがありその運命もちがっています。それらは神によって、定められた秩序をあらわすものです。
ここにパウロは書いています。「あなた方に知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」ちょっと分かりにくい感じです。特に女のかしらは男であるというのは何でしょう。男女の不平等を言っているのではないかとも考えられます。しかし、ここで、男女が等しいかどうかを言っているのでなくて、神の前に於て、礼拝する人間の秩序を語っているのでありましょう。
7節を見ますと、「女は男の栄光である」と記されていますし、11節では「主にあっては、男なしに女はないし、女なしに男はない」と書いてあります。つまり、ここでは、男女が平等であるかどうかを言っているのではなくて、礼拝に於てどういう秩序が必要であるかが語られている、と言うべきでありましょう。ですから、男と女の問題だけでなく、神と、キリストと、男と女ということについて、語っていることが分るのであります。
礼拝に出る者は、しばしば、自分の好き勝手な気持が支配するものであります。つまり、気分しだいで行動する場合があるものです。日曜日に教会へ行こうか、イヤ、他にやる事や行事がいっぱいある。イヤ、余り行く気もしない。等々あります。しかし礼拝が神に対して行なわれるものであるなら、それは、最も秩序だった、整えられたものであるはずであります。神と人間の関係は言うまでもないことですが、人と人とについても、神の前にあるものにふさわしくなければならないはずであります。
この手紙においては、パウロの時代に、教会に実際にあった事が書かれています。かぶるものを、かぶるのがいいか、髪の毛は切る方がいいのか、長い方がいいのか、ということまで、やはり問題であったのでしょう。現代でもこうした影響を多少なりとも受けている教会もありましょう。大事なことは、その風習を、どうとりいれるかということではなくて、この当時の教会が、このようなことをした理由であり、その背景にある信仰であります。ここに男と女についていくつかの事が記されています。しかし、それらのことの、大切なことは、創世記に記されている、神が人をお造りになった、ということであります。このことは、礼拝そのものの基になることであります。人間は造られたものとして、造り主を礼拝するものであります。それが礼拝の基本であります。それと共に、礼拝の秩序もそこから出て来ると、言えるのであります。
礼拝というのは、人間が神に対して、わたしはあなたに造られました、わたしはあなたに救われました、と告白して、神を賛美することである、と言ってもいいのであります。
ちょっと、ここで、どうしてもわからないのは、「男が女のかしらである、女が男から造られた」というややこしいことが言われている。これは旧約の創世記の記事によっていることです。男が1人でいるのは適当でないと言って、共に生きるものとして女が造られた、従って、男が女から出たのではなく、女が男から出たのである、と8節に言われるのであります。これは明らかに自然の生活とはちがっています。ほんとうは、自然の生活で、男は女から生まれるにちがいないのであります。創世記を書いた人が、そんな事を知らないはずはありません。それは誰でも知っている事だからです。では、しかも、あえて、この事を書いたのは、むしろ、女なしに生きることのできない男の生活を書いた、とも言えるのではないでしょうか。従って、それは、男と女とがどのように生まれるのかということではなくて、むしろ、男を生かすために、神が女を与えられたということではないでしょうか。
かぶるものをかぶる事についても、その背景には、神が人をご自分に似せて造られた、ということがあります。男は神に似せているものであるから、かぶりものの必要はないと考えられるので、男の
特別な優越を語るのではなくて、神の創造の御業から考えたことであります。ですから、女は男の栄光とも言われるわけであります。6節には、「もし、女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったり、そったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。」とあります。ある人は、これは、婦人の髪の魅力が、ある人たちを引きつけて、礼拝の妨げになったためではないかと言っています。しかし、それも1つの説明に過ぎないでありましょう。礼拝においては、神以外のものに心ひかれてはならないはずであります。
又、10節には、9節の、女は男のために造られたという事を受けて、それだから、女はかしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは、「天使のためである」と書いてあります。ここに、権威と言っているのは、守りのことである、と言われています。人の自然的な弱さを守るための守りであるから、ということになります。それが天使のためである、というのは、天使がいつでもいい天使ばかりを考えると分かりにくくなります。天使は、良くない天使もあるのです。ここでは、そういう天使に対して身を守るため、ということでありましょう。
礼拝を正しく守るために、教会員のこまかい服装に至るまで問題としていた、当時の教会が苦労していたということを覚え、現代の私たちも礼拝に対して改めて考えていくべきでありましょう。
<アーメン・ハレルヤ>
暮れから冬休みで里帰りしていたヨハンナさんが明日フインランドへ戻ることになりました。今年は例年になく暖冬だった東京と寒冷の地フインランドとの環境の違いが心配です、しかしこの心配は年寄りだけのものであって若いヨハンナには何でもないことなのかもしれません。食事のあとしばしのお別れを交わしました。
今年最初の聖書研究会です。テーマは昨年に続き「ローマ信徒への手紙」です、先生は私達キリスト教信仰者にとってたいへん重要な箇所である1章から8章までをおさらいということで読み返されました。
きょうの教会ランチはライスカレーでした、いささかか持て余し気味だった正月料理のあとのカレーは懐かしく美味しかったです。食後はクリスマスの飾りつけを片付けました。
礼拝説教 2020年1月1日新年の礼拝
コヘレト3章1-11節、エフェソ4章17-24節、ルカ12章22-34節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
西暦2020年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は、昨年の12月1日に待降節に入った時に始まっています。世俗のカレンダーでは今日がが新しい年の第一日目です。この日は、教会のカレンダーではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記されているように、イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、その名が公けにされた日でもあります。
日本では新年は一年の中で最も大きなお祝いの期間です。以前の説教で、日本の新年の過ごし方とフィンランドのクリスマスの過ごし方に似ているところがあるとお話ししたことがあります。フィンランドでは12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり(後で言うように、最近は開いている店が増えてきました)、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日あって、26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。
この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家か親元のところに帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。それなのでクリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、クリスマス・カードやプレゼントやクリスマス料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家や親元で過ごすというのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は日本と違って特に大きな休みとは考えられていません。学校は大体1月6日の「主の顕現日」くらいまでは休みで、日本の冬休みと同じですが、働く人はクリスマス後の12月27日は仕事で、1月1日は休みですが、2日からまた平常です(もちろん休みを取る人も多いですが)。そういうわけでフィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものです。
ところが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドは先ほども申しましたように、クリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、多くの店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、地元の近くの教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。より多く御利益を得ようと教会をはしごすることはありません。ひとつだけです。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者は減ります。
国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が前もって用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。近年は減ってきていますが、キリスト教が根付いている人にとって、クリスマスとは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから一時離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間です。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数でしょう。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っているのではないかと思います。
日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、そこに自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?お店やデパートなどをみると、1日は休みでも2日から開くのが多く、店によっては1日もやっています。それで日本の正月は日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがします。私が子供の頃は正月三が日と言ったら、どこもお店は閉まっていて繁華街も静かだったのですが。もっとも近年は働き方改革が言われるので変わるかもしれません。しかし、それも「自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離す」ためのお祝いというよりは、健康のため、より良い仕事効率のためということでしょう。もちろん、それも大切なことではあります。
フィンランド、フィンランドと同国が模範みないな偉そうなことを言いましたが、実は5年ほど前に法改正があって店の開店時間が教会の伝統にとらわれずに自由に出来るようになりました。クリスマス期間中でもやる店が増えてきているので、今度はそっちが日本化してしまうのではないかと心配もしています。
2.
救世主の誕生をお祝いするという大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りあるこの世の日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神は私たちに見るための目、聞くための耳だけではなく永遠を思う心も与えて下さったのです。せっかく神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、日常の思い煩いに取り囲まれて、それしか見えなくなってしまいます。
それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、その説明は簡単ではありません。聖書の出だしの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造主の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造した。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは「神の国」という永遠の世界があるところです。今ある天と地が造られてからそれが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界ということになります。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側ないし上側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。
神のひとり子イエス様が父なるみ神のもとからこの世に贈られてきた。それは、永遠の世界におられる神が限られたことだけのこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神に守られて生きられるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。そして私たちがこの世の人生を終えたら永遠の神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られてきたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて今を生きられるように、またこの世の人生を終えたらその神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神から切り離している、染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様はその人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運び上げて、人間にかわって神罰を受けて、神に対して私たちの罪を償って下さいました。そこで人間が、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見てもらえるようになったのです。そうなると人間としては、これからは神の御心に沿うように生きよう、罪に手を染めないように生きようと注意するようになります。もし、悪い思いにとらわれても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、罪の赦しは微動だにせずあるということがわかります。それで心に平安を得、神に感謝し襟を正します。いつの日か神の御前に立たされるとき、純白の衣をしっかり手放さず生きていたことを認めてもらい、永遠の神の御国に迎え入れられます。
先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そのようなものも「定められたもの」と言われると、この世で真面目に生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになってしまうかもしれません。
また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、言葉的にも人生の実際に照らし合わせても難しいところです。これを、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない、そこから出発しなければならない、ということを意味していると理解できるとします。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?
ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの天と地の中だけにとどまります。この世は不正義が蔓延るところですから、真面目に生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、最後の審判で不正義は全て清算されて正義が隅々まで行き渡っている神の国が待っていることになります。それがわかると、目指して向かうべきものが見えてきて、不正義は被っても真面目に生きることに意味がある、不正義には手を染めない、という姿勢になるはずです。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目から見て不幸な状態にいる人たちの立場が逆転するということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。もちろん、この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、それが永続する保証はありません。たとえ逆転を果たせなくても、イエス様を救い主と信じる者たちには最終的には「最後の審判の日」と「復活の日」に逆転が実現します。
3.
イエス様の罪の償いを衣のように纏っているキリスト信仰者ではありますが、それでもその内にはまだ罪が残っています。自分では神の御心に適うように生きようと志しても、それが叶わない、至らない自分にいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分は一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つでしょうか?これだけ助けたら十分と見てもらえるような合否ラインがあるのでしょうか?
本日の福音書の個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これは、ギリシャ語原文を直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした度合いの分を(εφ’ οσον)あなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことは小さかったということです。少なくしたら、しなかったことは多かったということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないとおっしゃっているのです。
キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しの上に立つ限りは、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。それから、助け人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられないことばかりかもしれませんが、それでもその人たちのために神に祈りましょう。たとえ大勢の人を助けてあげられても満足せずに、世界中にはまだまだ大勢いるのだから、その人たちのために祈らなければなりません。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りが自己満足の手段になることはあり得ません。
兄弟姉妹の皆さん、今世界は皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして掲げて、それがSNSを通して拡散されて何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力がある人たち、感情に訴える力のある者たちが我が物顔です。最近よく言われるように、分断とポピュリズムとポスト真実の状況です。まさにこういう時こそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い出しましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はいつか火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなことと別のところにあることもわかります。そのような目と心を持って、今年も時代の荒波の中を進んでいきましょう。イエス様はいつも私たちと一緒におられます。あの嵐の日に弟子たちと一緒に舟に乗っていたようにです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。
初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難したが、王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは、初期のキリスト教徒たちがそう見て、マタイもそれに倣って記したのかもしれません。
二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイあるいは初期のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみました。
三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ただ、明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。そして、同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰をかわりに受けて苦しむ神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたことを覚えていれば、エッサイの若枝ネーツェルはイエス様のことを指すと分かったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6章1ー21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)
ところで、本日の福音書の中で最も難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件と思います。どうしてかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデに報告しないように導きました。神はまた、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのです。
そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は天と地と人間の造り主で全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。
そういうわけで、本説教では、神は悪に対して力はないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。
もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にとどまることができるではないかという見解に対して、次のような指摘をすることが出来ます。
聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいた。そして、それは創造主の神の御心に沿うものだった。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまった。この辺の経緯は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死ぬ者になってしまったのです。
何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。創造主の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。
このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまいました。それで、人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現します。そのことは新約聖書で明らかにされていきます。
どのようにして神と人間の結びつきは回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められている。その呪いをイエス様は全部自分で引き受けて、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれた。神のひとり子の十字架の上での死が人間にとってとてつもなく大きな意味を持っていることは、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる力を持つ悪魔を無力化するためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。そこで、その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下さり、基本的にはもう済んでしまった。それなので、悪魔としてもこれから人間を陥れようとしても、もう陥れることが出来なくなる状況が生まれました。
そういうわけで、イエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節で言われるように、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいてその奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもありません。人間として受けたので本当の罰受けになって、人間の罪を償うことが出来ました(17節)。ヘブライ2章18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら自分自身人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので、彼は試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら、試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、わかるのです。
イエス様の十字架の死が起きたことで、罪の呪いから解放された、悪魔の力が働かない状況が生み出されました。さらに、父なるみ神にとって、ひとり子を陰府の中に留めておくことは認めがたいことでした。それで彼を3日後に復活させました。これにより、死を超えた永遠の命が打ち立てられ、その扉が人間に開かれました。ただし、悪魔は人間を死に陥れる力を失ったとは言え、人間の側で死を超えた行先が決まっていないとまた引きずり込まれる危険があります。しかし、行先も確立しました。それで、悪魔にとっては二重の打撃となりました。
しかしながら、今度は人間のほうが、そうした死に至らない状況、永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて完成した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたらその確立した状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあったのだ」とわかって、イエス様を自分の救い主と受け入れて洗礼を受けることです。洗礼を通してイエス様がして下さった罪の償いを純白な衣のように被せられる。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せられた罪の償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。あとは、この高価な衣をしっかり纏って罪を押しつぶしていきます。この世を去って神の御前に立たされた時、そのしっかり纏っていたことを認めてもらえて、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。
このようにキリスト信仰者は、永遠の命に向かう道に置かれてそこを歩んでいきます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方があるので、苦難や困難もあります。それは詩篇23篇でも言われています。「我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時がある。しかし、イエス様が御言葉を通して、聖餐を通して、祈りを通して私たちと共におられるので災いを恐れる必要はない。イエス様の衣をしっかり纏って進む道は復活と永遠の命に向かっていることに変更はない。
以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、キリスト信仰の観点では本質的ではないということです。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、これが真理です。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなります。神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さったということの方に目が向いて、自分が永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。
終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いがなされる。黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が造り上げたものや与えて下さるものに対して、またそれらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。それなのに、来世で全てが償われると言ってしまったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力を軽視することにならないかと言う人もいるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見守って下さっていることを忘れないようにしましょう。
ところで、キリスト信仰に炎の地獄とか裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「あれっ、キリスト教ってたしか赦しの宗教じゃなかったの?」と言われるかもしれません。その通り、キリスト信仰は先ほどもお話ししましたように、罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことがあります。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと方向転換の悔い改めをすることがあります。方向転換もなしイエス様にひれ伏すこともなしでは赦しはありません。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。
高木先生のご家族を交えて歓談のひと時を過ごしました、ことし最後の交わりに思わぬ方々との再会!神様はビッグなお計らいをしてくださいました。
降誕祭前夜礼拝説教 2019年12月24日
1.今朗読された「ルカによる福音書」の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。国を問わず世界中のキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される個所です。
この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(joulu‐evankeliumi)とも呼ばれます。ちゃんと教会に通う家族だったら、クリスマス・イブの晩にクリスマスの御馳走が並ぶテーブルの席に家族全員がついて、この「クリスマス福音」が朗読されるのをみんなで聞いたものです。朗読の後で待ちに待った御馳走をいただきます。我が家もそうしていますが、近年教会離れが進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?
御馳走の前に聖書の個所を読み聞かせるのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスは誰を称えるお祝いなのかをはっきりさせることになります。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いであり、そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのでしょうか?それは聖書によれば、彼が天地創造の神のひとり子であり、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いということを忘れないために、御馳走の前に聖書を朗読するわけです。そして、イエス様を贈って下さった天地創造の神に感謝して御馳走を頂きます。それなので、神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何か贈り物をする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからなので、それで私たちもハガキを出して「良いクリスマスと新年を迎えて下さいね」と書いて、あなたのこと忘れていませんよと伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、讃美歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。
2.「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで、毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教をする人は毎回新しい発見をします。出来事のあらましは以下の通りです。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、同地方のナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、マリアに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子である、と告げられます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。グーグルマップによると157,1㎞、徒歩で33時間とありましたが、身重のマリアにとっては辛い旅だったと思います。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデの家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。ところが着いてみると、町は旅人でごった返ししていて宿屋は一杯。マリアは月が満ちて今にも子供が生まれそう。そこである宿屋に併設の馬小屋があってそこに案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは、馬の餌の飼い葉桶に寝かせられました。人間の救い主となる方はこのような誕生をされたのでした。
3.以上がイエス様の誕生のあらましです。ルカ福音書2章ではこれに羊飼いの出来事が加わります。ベツレヘム郊外の野原で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。そこに天使が現れて、ベツレヘムで救い主が生まれたことを告げました。羊飼いたちは神の栄光に覆われました。神聖な神の栄光ですから、目も開けられない位に眩しかったでしょう。羊飼いたちが恐怖に慄いたのも無理はありません。天使は「恐れるな」と言って彼らを落ち着かせ、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれだ、と教えます。さらに、その天使に加えて大勢の天使が大軍のように現れて、神を賛美しました。羊飼いたちはあっけにとられてこの光景を見ていたでしょう。
天使が去ってしまうと、辺りはまた暗黒の闇と静寂に包まれました。一時前の光の世界と天使たちの賛美の大合唱がうそのようです。しかし、羊飼いたちの心は光と賛美に満たされていました。周りの闇はもう気にもなりません。先ほどの恐怖心は消え去っていました。光と賛美に心が満たされた羊飼いたちは互いに言い合いました。「さあ、ベツレヘムに行こう!主が知らせて下さったその出来事を見に行かなくては。」そして、彼らはベツレヘムに向かって出発し、そこで馬小屋に宿している親子を見つけました。赤ちゃんは飼い葉桶に寝かせられていました。まさにこの子が天使の告げた救い主となる方でした。
ここで一つ不思議に思うことがあります。それは、羊飼いたちはどうやってイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのかということです。羊飼いというのは、生活の大半を野原で過ごすので都会のことなんか何もわからないでしょう。ベツレヘムは小さな町と思いますが、それでも家々が並び、役所もあり、道路や路地も沢山あると思います。馬やロバが交通手段の時代ですから、馬小屋だって一つや二つではなかったでしょう。羊飼いたちは、町のどこに馬小屋があるかもわからず、真夜中の暗い街を手探りするように探さなければなりません。星や月が輝いていたとしても、街灯やイルミネーションの明るさには比べものになりません。
私が思うに、羊飼いたちがイエス様親子がいる馬小屋を見つけられたのは、探しながら大声を出していたからではないか?「天使のお告げがあった、今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになった、その子は今どこかの馬小屋にいるということだ!」という具合に。羊の群れも野原に残しておけないから、一緒だったでしょう。大変なことになりました。一体何の騒ぎかと驚いた町の住民は家々から出て羊飼いたちに合流して、知っている馬小屋は片っ端から行ってみたのではないか?そして、一つの宿屋に併設する馬小屋がそれだったのです。
どうして町の人たちが合流したと言えるのかというと、17節に、羊飼いたちは天使が話したことを人々に知らせ、聞いた者たちは羊飼いたちの話を不思議に思った、と書いてあるからです。馬小屋に押しかけたのはもう羊飼いたちだけではなかったのです。
4.町のことを知らない羊飼いたちが、町のどこかの馬小屋にいる赤子を見つけようとして街灯もイルミネーションもない暗い街に出かけて行ったというのは、少し無茶な話に聞こえます。しかし、見つからなかったらどうしようという心配や疑いは彼らにはありませんでした。彼らは、まだ目にしていなくとも必ず目にすることになるという希望に燃えていました。
使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」の8章24~25節で次のように教えています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」羊飼いたちの心はこのような希望に満たされていました。赤子のイエス様をまだ目で見てはいなかったけれど、必ず見ることになると信じ、それで無茶さ加減に構わず探しに出かけたのです。
そう言うと次のような疑問が生じるかもしれません。羊飼いたちの場合は、天使の告げ知らせを聞き、神の栄光を目にし、天使たちの賛美の大合唱を聞いた。それくらいのことがあれば、神のひとり子が生まれたと言われても信じて、きっと見つかると信じて、探しに行くことも出来よう。そういう驚くべきことが起きないと、見えない希望を持ち続けるなんて無理な話だ、と。
しかし、聖書が伝えていることは、実は私たちには、羊飼いたちが見聞きしたことよりも、もっと驚くべきことが起きたということです。私たちにです。何が起きたのか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活という出来事です。
神のひとり子が私たち人間の全ての罪を神に対して償う犠牲となって十字架の上で死なれました。それは、私たちが神罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、話はそれで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を今度は復活させて、死を超える永遠の命への扉を私たち人間のために開かれたのです。
イエス様の十字架と復活の業は歴史上起こったことです。イエス様があなたの救い主になると、イエス様を死から復活させられた父なる神がいつどこででも、何が起きようとも、あなたのそばについていて守って下さっていることがわかります。まさに、目には見えないけれども、決して潰えることのない希望を持って生きることになるのです。